近代日本文学史メジャーのマイナー

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analog純文

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2024.12.01
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『苦役列車』西村賢太(新潮文庫)

 えー、困った事やねー、と思いながら書き始めました。
 それは、まー、何についても同じでしょうが、小説についても(作家についても、と言ってもいいかもしれません)、やはり相性、好き嫌いというものがあるということですね。

 そんなことは当たり前ではないか、どうしようもないことだと、わたくしも一応は知っているつもりで、この拙ブログにおいても、どうにも個人感情によるネガティブ意見しか書けそうもないと思ったときは、その小説は取り上げないでいました。

 今回、好みでないと思いつつ、冒頭の小説を取り上げてみます。
 なぜかというと、自分でよくわからないところがあるからであります。そのことについて少し考えたいというのが、主旨でありますが、勢い感情的なネガティブ意見になってしまったなら、非常に申し訳なく思っております、が……。

 というわけで、冒頭の小説を読みました。この作家の小説は初めて読むんですね。
 そもそも初めて読むと、ちょっといろんなところで誤解を生みそうな書き方を、そもそもこの作家はしていそうだと、読んでいて気が付きましたし、ネットでちょっと調べてみても、やはり同種の感想がありました。

 まー、小説とは何をどう書いてもいい文章表現なので、そんな戦略(作品がすべて連作的な関係を持つという戦略)の作家がいてもそれは良い悪いの話ではありません。(大江健三郎の作品なんかずばりそうですものね。)

 そんな部分もあるんだろうなとは思いつつ読んだのですが、私がどうにもいやだったのは、その文体(文体、というのでしょうかね、やはり)というか、書き方でありました。
 はっきりきわめて個人的感情のレベルのことを書けば、とにかく文章がいや、読みにくいのではなくて、こんな文章は読んでいたくない、というものでありました。(客観性に欠け説得力のない書き方になってしまってすみません。)

 何といいますか、私としては、しばしば出てくる陳腐な慣用表現や、文脈の中にとても座りの悪い用語(特に漢字熟語)などが、気になって気になって、とにかく嫌だったです。

 で、あまりに「嫌さ」が感じられるものだから、なぜ私はこんなに嫌なんだろうかと思ったんですね。すると、ここにはなかなか興味深いものがあるんじゃないかと感じ、ネガティブ感想になるかなと思いながら書いてみました。

 まず、主人公は中卒学歴の19歳の男性なんですね。時代は昭和の終わり頃ですか。
 これらは筆者の実際と重なっています。と、いうか、この筆者は自分の小説は私小説であると宣言し、一種それを売りにしているようであります。

 だから、中卒学歴の19歳の書いた文章なのだから、というところでわざとそんな稚拙な書き方をしているのかとは、当然考えられるのですが、そのあたりをじっと考えますと、わたくしとしては、なかなか興味深いテーマが浮かんできました。

 まず、文章力などとてもありそうもない主人公を描いた作品は、わざと下手に書くのか、という問題であります。

 その前に、「人称」の問題がありますが、それは後述します。本小説についていえば、人称の問題は、なかなか興味深い用いられ方がされていますから。

 具体的に例を挙げてみますね。
 例えば芥川龍之介「藪の中」。この小説は何人かの登場人物の弁明(語り)から成り立っていますが、その中の一人殺人者である盗賊の語りは、きわめて理路整然と描かれています。つまり、現実ではあり得ないだろうかということでも、文章表現という場合においては、その形こそがリアリティだと、我々は読んでいることがわかります。(中卒学歴の19才だから下手くそに書けばいいとはいえない。)

 例えば絵画でいうならば、色彩的センスのない人物を描くときでも(まー、そんな人物を描く絵画があるとしてですが)、画家は、しっかりとした色彩でその人物を描くべきなのではないか、ということですね。

 少し話は飛ぶかもしれませんが、逆の照明を当てて考えてみて、こんな例示が浮かびました。『徒然草』第85段に、有名なこんな文章があります。

 狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。

 いかがでしょう。
 少し例示がずれているような気もしますが、拙いふりをして拙く書いた文章は拙い、……んでしょうかね。

 さて、上記に「人称」について少し触れました。
 二つ目の私の疑問は、本作の人称についてであります。

 本作は「私小説」を自任しつつ、実は、三人称で書かれています。
 主人公の名前は「北町寛太」で、「寛太」「彼」で一貫した完全な三人称小説です。(ただし、ある種の三人称小説にしばしば見受けられますが、三人称でありながら、神の視点を持つ語り手がいるのではなく、主人公の視点に近い心理説明などがなされます。)

 私小説でも別に三人称でも構わないと思います。
 ただ、三人称ということは、中卒学歴19歳の主人公とはやはり異なった視点の語り手(これは作者と完全に重なるというわけではありません)がいるわけで、この「人物」の書く文章まで稚拙にする必要が、あるのでしょうか。(どうしても稚拙にしたければなぜ一人称で書かないのでしょう。)

 ……と、ここまで書きましたが、私は一方で、実は作者はそんなことは皆お見通しで、その上にやはりこの形で本作を書いたのだという気もしています。その根拠は何か。

 まず一つ目は、現代という時代に私小説を書くという戦略であります。
 現代において、一般的にはすでに私小説なぞ息の根が止まっているという感じがまず前提にあって、にもかかわらず何人かの作家は私小説を書いています。そしてそんな作家の作品は、ことごとく、かなり技巧を凝らした私小説であると私は思っているからであります。

 そして最後に二つ目です。
 それは、いくつかの不明の要素があっても、本作の主人公の、生殺し・生き腐れのようなカタストロフィーを書くため、見つめ続けるためには、やはりこの描き方こそがベスト!……と考えるものなんですが……。
 だとすれば、本作はなかなかの問題作、力作でありましょう。
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Last updated  2024.12.01 14:09:17
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analog純文 @ Re[1]:父親という苦悩(06/04)  七詩さん、コメントありがとうございま…
七詩 @ Re:父親という苦悩(06/04) 親子二代の小説家父子というのは思いつき…
analog純文 @ Re:方丈記にあまり触れない方丈記(03/03)  おや、今猿人さん、ご無沙汰しています…
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