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『女のいない男たち』村上春樹(文芸春秋) 何と言いますか、とても便利な世の中になってきまして……と、いきなり何のことだとお思いになられた貴兄、まー、いつものことながら、どうもごめんなさい。 何のことを書きだしたかといいますと、映画視聴についてなんですね。 一年ほど前から、日常生活にかなり時間的ゆとりができたもので、いくつか新しいことを始めようと思ったその中の一つに(新しいことを始めるといっても、なに、全くたいそうなことなどではありません。4つほど新しいことを始めようと思ったのですが、例えばそのうちの一つは、毎週一回女房とランチを食べに行こうなどという、……あ、これはけっこうたいそうな事かな……)、積極的に映画を見ようというのがありまして、それを実践していたら起こった感情であります。 それなりの都会の大きな映画館ではやりのものを見る、少し場末っぽい単館映画館ではやりとは言いづらいだろうという感想をまず持つものを見る、居住地域の公民館などで文化行事と銘打って実施される名作ものを見る、我が家は有線テレビなのでその膨大な今まではほぼ全く見たことのないチャンネルで放映されているものを見る、BS公共放送でも見る、アマゾン・プライムで見る、などと、まだこれ以外にもあれこれ見る方法があるのは一応知っていますが、きりがないので、これ以上の視聴機会追及はしていません。 で、視聴機会の数ということでいえば、とても便利な世の中になったなー、と、冒頭のつぶやきが出た次第であります。 で、冒頭の小説のタイトルから、ではこれかとお思いの貴兄、大当たりであります。 さらに、今時分になってなぜ、とお思いの貴兄、申し訳ありません、重ねてその通りです。初めて上映されて4年ほど経った先日私は、冒頭の小説が原作となっている濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』をアマゾンプライムで見ました。 で、とってもよかったんですね、いまさらながら。 この映画は、カンヌ国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞していますが、私もこの映画の3時間にならんとする長いストーリーに、とっても感心しました。なんて上手に作ってあるんだ、と。 そして、最近積極的に映画を見ようとしているとはいえ、そもそもは小説が好きなわたくしでありまして、そこで原作読書に至る、と、こういうわけです。 村上春樹原作短編集は、わたくし再読でありまして、最初に読んだ時の報告も拙ブログに書いてあります。読み返しましたが、やはり覚えているぼんやりした記憶通り、申し訳ないながらあまり褒めてない感じなんですね。 しかし先に、映画と原作小説との比較に関して書いてみます。 本短編集には6つのお話が収録されていますが、ざっくり私がわかった映画原作となっているお話はそのうちの2つ(「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」の2作)が中心です。(いえ本当は、「シェエラザード」のストーリーは中心とはいえず、劇中劇ならぬ、劇中の人物が話す物語としてのみです。) そして、今回読んでいて、おやと発見したのは、別の短編「木野」から一つのフレーズだけが映画に引用されていました。そして、このフレーズは、とりあえず映画理解としてはかなりキーになるフレーズで、映画ではほぼ最終盤に主人公が言う、原作ではこう書かれているフレーズです。(原文にはこの引用部全体に傍点がついてます。) おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、 さて、本短編集には、この筆者には珍しい「まえがき」が付いています。(筆者も「そういうものをできるだけ書かないように心がけてきたのだが」と書いています。) そこに、本短編集全体のテーマが自作解説されています。少し引用します。 しかし本書の場合はより即物的に、文字通り「女のいない男たち」なのだ。いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち。 また、こんな風にも書かれています。 短編小説をまとめて書くときはいつもそうだが、僕にとってもっとも大きな喜びは、いろんな手法、いろんな文体、いろんなシチュエーションを短期間に次々に試していけることにある。ひとつのモチーフを様々な角度から立体的に眺め、追求し、検証し、いろんな人物を、いろんな人称をつかって書くことができる。そういう意味では、この本は音楽でいえば「コンセプト・アルバム」に対応するものになるかもしれない。 いかがでしょうか。上手に説明してありますねー。 しかし実は私は、少し困ってしまったのですが、上記の3つの引用部を合わせると、本短編集の内容はすべて理解できてしまったじゃないかと、思ってしまったんですね。 いえ、それはお前の浅薄な理解力での話である、というツッコミも持ちつつ、なんといいますか、いつも村上作品読後に漂う深い静寂のような広がりが、勝手ながら、色あせてしまうような……。 さて、再び映画に戻ります。 上記に触れましたが、本映画は3時間近くもの長さがあり、大きな設定的なものと主な登場人物の数名は原作に負っていますが、思うにストーリーや場面の7、8割は映画作成者の創造です。それもかなり巧妙に複雑に展開していく。 私は、映画視聴後そして原作本読了後、日常的なあれこれをしながら(ご飯を食べるとか庭仕事をするとかプールで泳ぐとかですね)ぼんやり以下のようなことを考えました。 本映画は、原作小説をまず素材として採用し、そこに実に巧妙複雑に物語を付け加えた。独立作品としてそれぞれの物語を見れば、おそらく映画のほうが面白いだろう。ただ、登場人物の心の闇の深さを描くということでいえば(それは一般的な映画と文学の比較としても同様であろうが)、原作小説のほうに、より深くそしてより暗いものがあるように感じる。……。 しかし、こういう関係って、ひょっとしたら、理想的な原作小説と映画化作品との関係じゃないかしら。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.05.18
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『御社のチャラ男』絲山秋子(講談社) 本書を読み始めて4章めくらいまで行った時、ふとこんなことを思いました。 ……で、チャラ男は、誰なんだろう? そして続けて私が思いついたことは、実に陳腐ながらこんなことでした。 結局チャラ男とは、作者だ。 ……うーん、フローベルの昔から、真理として言われ続けていることですからねー。 そんなんそういう言い方をするんやったらそうに決まってるやん、と、まあ、関西弁なら一人ツッコミをするところであります。 それに、チャラ男とは作者であるとしたところで、作品がより深く理解できそうでもありませんし…。 というところで、また気持ちを入れ替えて私は読書を続けました。 さて、本小説はこの単行本の帯にもその言葉のある「会社員小説」であります。 一時期、芥川賞受賞作なんかでも「会社員小説」ってはやったように思う(今でもそうなんでしょうか)のですが、女性作家に多かったような気がします。 それは、私としては、人間不在の現代の労働環境の中で、何より女性が第一にその矛盾の塊をひっかぶり、そして、まず声を挙げたからではないかと愚考するのですが、あわせて、かなり鋭い感性を駆使して描いた作品が多かったようにも覚えています。 ただ、私としては、繊細さや鋭さを持つ感性で描かれた「会社員小説」では、なかなか構造的な社会の矛盾に対する切込みが、やや乏しくなってはいないかとも、ちらりと愚考しました。 実は本書も、そんな女性作家会社員小説を長編小説として集めたものではないのかと、さらに読み進めていきながら、私は思ったんですね。章ごとに語り手を変えて、主人公「チャラ男」を背景から描いていく、その章ごとの文体の変化はやはり小説家としての筆者の力技であり、文学的力量であると感心もしました。 しかし感性的文章を数集めて構造的社会を広く描けるものであろうかという気も、やはり少ししました。 なにより、読んでいて、何か、引っかかるんですね。 この少しのイライラ感はなんだろうか、と。 私が、現在の第一線の企業現場について、ほぼ何の知識もないのももちろんそのせいではありましょうが、はっと気が付いたのは、登場人物全員が分析をするからじゃないかということでした。 これはある意味、多くの一人称小説に言えることでありましょうが、結局のところ、一人称小説の描写や文体とは分析にほかなりません。 その分析を、「生き馬の目を抜く」ような企業の第一線で活動する登場人物が行えば、そこに描かれるものは、言ってみればこざかしい批評家の講演会みたいになってしまいかねません。分析という名の悪意か無関心。これが読んでいて、私などには少しツライ。 後半さらに物語は、一人称が様々な自分語りの様相を強め、背景から描いていた主人公の姿を拡散させながら進んで行きます。 そして、カタストロフィが来ます。 私は決して出来のよくないカタストロフィとは思いませんでしたが、同時に感じたのは、現代小説において話を終わらせるということは難しいものだなあということでした。 それは、いわゆる古き良き時代の大団円が、もうすでに賞味期限切れに近くなっているからでしょうか。小説家も大変だなあ、などと思い、そしてちらりと、あれっと感じました。何かがつながった感じがしました。 それはまず、最終盤の一つ手前のエピソードに出てきたセリフでした。 その章の語り手は、そのセリフを「パワーワード」と描き、かなりエポックメイキングな言葉として説明しています。展開としては、そう読むことは十分可能なのですが、読んだ私は、ピンときませんでした。 それは、(この言葉に至るディティールは、すみません、省略しますが)「それはどうした」というセリフです。そして、語り手によってこんな分析がなされています。 「それがどうした」はすべてをぶちこわす言葉だった。パンクだった。理不尽なクレームにも、無理な要求にも上下関係にも、ルールやマナーの押しつけにも有効だった。 しかし最終盤を読んで、小説家も大変だなあと気軽に思った私があれっと思ったこの言葉の理解は、文脈としては無理やりの誤読でした。 つまり、「それがどうした」なんて言葉は、それを書いた者にも突き付けられないはずはない、という。 私は単なる小説の一読者ですが、小説家とは、「それがどうした」という剣先に、絶えずのど元を突かれようとしている方々ではないのか。「それがどうした」はむしろ、本書の各章各章で語られた一人称会社員小説に対してつぶやかれたものではないのか、と。 作者がぶちこわそうとしたのは、この小説そのものではなかったのか、と。 ……と、思ったとき、私は、もうここまで行くと妄想だとも感じながら、もう一つつながったと思いました。 それは、フローベル。 やはり「チャラ男」は作者であるのじゃないか、と。 つまり、この小説は「メタ小説」、小説とは何かを描く小説、ではないか、と。 いえ、無理は承知ながら。……。 (ただ、そう思って読むと、最終盤の「こども食堂」の話は、また何か深い味わいのあるたたずまいを見せるように私は感じたのでありました。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.05.05
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