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『一人称単数』村上春樹(文芸春秋) とりあえず買おうか買うまいかと迷っていたら、友人がお貸ししましょうと貸してくれた本であります。 でもちょうどその時、私は別の小説を読んでいましたので、勇んで本書を読み始めるのはもう少し後でと思っていたものの、ある夜、暇に任せて何となく、本書を手に取って、パラパラとめくって、まー、一つだけと思って、一つの短編小説を読み始めました。 「ウィズ・ザ・ビートルズ」という作品です。 するすると読み終わりまして、何と言いますか、とっても感心してしまいました。 読んだのが夜だったせいもないではないでしょうが、かなり驚きました。 なんて上手な短編小説なんだろう、と。 村上春樹は、極めて律義に超長編小説、長編小説、そして短編小説集を順に廻しながら発表していくという、考えてみたらこんな律義な小説家って今まで日本にいたでしょうかね。 多作というのとも違いますよね。いうならば、小説家という言葉の枠組みから想定しがたい几帳面さ、とでもいうのでありましょうか。(三島由紀夫もかなり几帳面な方だったと伺いますが、ある意味こんなルーティーンな仕事ぶりではなかったですね。) きっとそれは才能の質なのでしょうが、ちょうどベートーヴェンが、ピアノソナタ、弦楽四重奏、そして交響曲と、奇麗に廻しながら発表したのと似ていますね。 でも、この度出版された短編集を読む前に、私は、村上春樹はいったいいつまで短編小説を書き続けるつもりなのかな、と少し思っていました。 再び三島由紀夫ですが、彼も晩年まで(早い晩年でしたが)、割と律義に短編小説を書き続けた作家でしたが、確か新潮文庫の短編集の自作解説の中に、この形式にはもう飽きているみたいなことを書いていましたね。 また村上春樹も、自分の主戦場は長編小説にあると何かに書いていました。 上記に私は、ベートーヴェンの名前をちらりと出しましたが、どなたの音楽評論に書かれてあったのかわからないのが申し訳ないながら、ベートーヴェンは、この3つのジャンルの音楽について、自分の中で明確に役割分担をしていたとありました。 まずピアノソナタで新しい音楽の地平に挑戦し、交響曲でそれを総合的な芸術作品に作り上げ、そして弦楽四重奏で、その芸術の神髄を「反歌」のように余韻を含ませて完成させた、と。確かそんな文脈だったように思います。 さてこの度、私は本書を読みまして、8つの短編小説が収録されている中で、3つの作品に大いに感心しました。 この3つは、たぶんどなたが読んでも同じだと思いますが、この3作です。 「ウィズ・ザ・ビートルズ」「謝肉祭」「品川猿の告白」 出来の良さから言えば、1・3・2(上記の順)かなとも思います。(つまり私は、偶然本短編集のもっともすぐれた作品から読み始めたわけですね。)でも「3」とした「謝肉祭」という三題噺めいた短編にも、とても捨てがたい魅力があります。 今私は「三題噺」と書きましたが、「謝肉祭」は、「醜女」「シューマン」「詐欺事件」の三題だと思います。 しかしこの三つのまじりあいが、実に渾然一体として素晴らしい。(それに加えて、本作には、村上春樹の短編小説の作り方がほのかに見えるようにも思え、とても興味深い作品です。) まず、「彼女」をなぜ類い稀な「醜女」にしなくてはいけないのか、次に、「シューマン」についての明らかに一線を越えたようなスノッブさを筆者はなぜ描いたのか、そして、終盤の突然の詐欺事件。 しかしこの3つの書き込みは、どれを取ってもこの形しか考えられないような説得力を持っています。 どれか一つでも、このトーンの密度を下げてしまうと、話に求心力がなくなってしまうような、他に置き換えられない完成度があるように思いました。 他の2作も同じですが、確かにこんなレベルの高い短編小説が書けてしまうのなら、どれだけベテランになろうが、また自分の主戦場は別のところにあろうが、書きたいという意欲はふつふつと湧いてくるだろうなと思います。(実際、村上春樹の文学作品の中で、最も評価されるべきなのは実は短編小説だ、という説もどこかで読んだような気がします。) さて、そんな素晴らしい作品を3点も含んだ短編集を読みました。 しかし私は、読みながらそんなややこしいことばかりを考えていたわけではありません。 何を隠そうわたくしも、たいがい村上作品は半世紀くらいにわたって読み続けてきました。多分個人の作家としては、わたくしが一番たくさん読んでいる作家だと思います。 そんな「慣れ親しんだ」村上作品について、この度わたくしは、「新発見」をしたという話を、……えー、すみません、後半に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.01.24
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『動物記』高橋源一郎(河出書房新社) わたくしの読書の「メンター」のような方に、「最近何読んでますか」と訊ねた時に出て来た書籍がこれです。私は「『銀河鉄道の彼方に』は読みましたか」と訊ねました。近々私が読もうと思っていた本です。 すると「あれは長いから。こっちは短いでしょ。」と、軽くかわされました。 実は、私としては、どうもよくわからない宮沢賢治の評価について、「メンター」的指導を受けたいと思っていたんですね。 しかし、うまくいかず、その代わり私は図書館に行って、本書を借りてきました。 そして、フェイヴァレットな高橋源一郎の小説に改めていろいろ考えました。 九つの短編が収録されています。 タイトルにあるように、みんな動物が絡んできます。 でも、基本的には「ごった煮」のような感じです。なんと言いますか、まとまりらしいものが、ないように感じます。 特に、最初の二作を読んだ時は、少しガッカリ感がありました。 私として注目すべき点がないわけではなかったものの、仮にも高橋源一郎の才能からなる小説としては、あまりに安易、不誠実、もう少し書けるでしょうに、という印象でした。 以前、私は哄笑する純文学小説が読みたいと、本ブログでも述べていました。今でもその思いは変わっていません。 そんな意味で言えば、「哄笑」は少し置くとしても、大いに笑いを伴った純文学小説に、ひょっとしたらこの二作の小説はなっているのかなと、思ったんですね。 でも、そもそもこの筆者の持つ「軽み」は、絶えず「笑い」とほぼ同一地平上にあり、多分本短編集で最も「笑い」の要素の少ない最終話『動物記』の中にも、あるといえば充分あります。 いえ私は、冒頭の二作が、それをかなり中心テーマにしたものかなと思ったのですが、それにしては、うーん、少し物足りない……。 でも、読み進めていくうちに分かってきました。 いわば最初の二作は、準備運動のようなもので、後の作品になっていくほど筆者の本来のテーマがぐんぐん色濃く表れ始めました。それは何かといえば、例えば本書にはこんな表現があります。『文章教室2』の一節。 ……なんてことをいいだすんだ、ここは文章教室であって、生物学教室じゃないんだけど……でも、文章に関係のないことはなにひとつないんです。 以前にも書きましたが、私が高橋源一郎の作品を好きなのは、このあたりの思いを真正面から(もちろん変化球ですが)綴ってくれるからですね。 昔、萩原朔太郎の文章で読みましたが、文学などを仕事にしたおかげで私には趣味というものがなくなった、何もかもが仕事になってしまったとありました。 考えれば、文学者というのも因果な職業ですね。 (同じく私が好きな文芸評論家の関川夏央も、文学について真剣に綴ってくれる作家だとは思いますが、関川氏の場合はここらへんが少し斜に構えている感じで、いえまぁ、それは、それでもいいんですけれど。) と、いう風にこの短編集のテーマは、どんどん文学そのものを説くものになっていきます。そして、どんなところにたどり着いたかというと、最終話『動物記』のクライマックスの部分が、本のオビの後表紙のところに抜き出されています。 私の希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生きものが現れることだ。 これは小説家らしい主人公が、自分の臨終の時の願いを書いているんですね。 家族は傍にいてくれなくていい、その代わりにいて欲しいもの、ということで書かれています。そしてなぜ「なにか獣のような生きもの」なのかというと、獣たちは、何を考えているかわからないものだからです。 筆者をそのまま重ねるわけではありませんが、言葉にこだわり、文章にこだわり、そして文学にこだわった主人公は、最期に、結局私は何もわかっていないのじゃないかと思い、しかし、その時にも何を考えているかわからない獣が傍にいてくれることを願います。 これを、業のように文学に憑かれた人生だと考えると、この終末は、やはり心動かされずにはいられないものであります。 そんなお話でした。冒頭に我が「メンター」が「短いから」といった本書ですが、さすがに高橋源ちゃんの小説であります。 私は、とても楽しくとてもうれしくそしてしっとりと、読み終えることができました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.01.10
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