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『幼年時代・あにいもうと』室生犀星(新潮文庫) ふーむ、と思って次々考えていったら、これはなかなかのメンバーの名が挙がったなと自分で驚きました。 何の話かと言いますと、「幼少年期、母親からの愛情を充分に受けられなかったと思われる作家達」であります。僕がざっと考えただけでもこれくらいの名で指折ることができました。 夏目漱石・芥川龍之介・志賀直哉・川端康成・太宰治・三島由紀夫 どうですか、このメンバーは。 数が多いと言うよりも、その「質」です。日本近代文学史上の各主義・流派の第一人者ばかり、まさに「文豪」の集まりではないですか。 漱石は、産まれてすぐに里子に。その後一時は実家に戻るものの、すぐまた里子に出されました。芥川は、母親の精神の病のために、母親の実家に引き取られます。「芥川」という名は、母親の実家の名字ですね。 志賀直哉と三島由紀夫は、お婆ちゃんにほとんど育てられたような幼年時代。 川端康成は、二歳で父、三歳で母、更に祖母、姉、祖父と失い続け、人生のかなり早い時期に天涯孤独になりました。 太宰も、旧家の兄弟の多い末っ子でほとんど親から相手にされず、子守りの「たけ」に育てられたことは名作『津軽』で有名な話。 そこに、今回取り上げました室生犀星ですが、この方も又複雑な幼年時代を送っております。 詳しく述べていると大変なのでやめますが、上記の「文豪」メンバーの幼年期に輪をかけて、とにかくほとんど実母に育てられることのなかった方です。 犀星の有名な詩である『小景異情』ですが、「その二」はこんなのですね。 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや この表現は、黎明期の近代日本の国民にとって、故郷や人生に対する「公約数」的な感慨であったのかも知れませんが、犀星の場合はさらにこう続いていきます。 ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや 情景としては、一度「ふるさと」に戻ったものの、戻るべきではなかった、もう二度と戻るまいと思い、今から都会に向かうその寸前、という少しややこしげな状態です。 「ふるさと」そのものより、「ふるさと」に戻ってしまった事に対する強い後悔です。 これはかなり、屈折した歌いぶりですね。この屈折した重層性には、何かニヒリスティクな「孤独感」と「怨念」のようなものを感じます。「ふるさと」の地で、戻ってきたものの何か強烈な「不如意」があったのでしょうね。 さて今回取り上げた犀星の作品集(七つの短編小説が入っています)ですが、総題となっている二作が、他に比べて遙かに良かったと思いました。 『あにいもうと』は、終盤の、何というか「言葉の惜しみ方」がとても良いと思いました。 こんな話しは、ともすれば書き込みすぎて俗に流れるものですが、兄と妹の修羅場の後を、父親の赤銅色の肉体と労働の姿にすっと振り替えるあたり、とても「拡がり」の感じられる終わり方だと思いました。 そして『幼年時代』であります。 モデルとしての「犀川」畔の自然を背景に、養子に行った後、父は死に母は行方不明になった少年が生活をひどく荒ませながらも、義姉への愛情や、河で拾ってきた地蔵への信仰心などを育んでいく様子が、しっとりと描かれ、とても心打たれます。 しかしその静謐な描写の中に通奏低音のように流れている色調は、やはり「母の愛への強い飢餓感」でありましょう。 そしてふたたび、冒頭に挙げました「文豪」の件であります。 やはり、当人としては不幸な母を巡る「トラブル」が、「文豪」を生み出す土壌の一つとなっていると僕は思うのですが、それは安易な関連付けでありましょうか。 いかがでしょう。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.30
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『にごりえ・たけくらべ』樋口一葉(新潮文庫) 上記作品読書報告の後半です。 有名な、『たけくらべ』ですが、この度、再読いたしまして、私が読み違えていた、というか、記憶違いをしていたことに気がつきました。 変な記憶違いですが、私は、雨の日に美登利は、信如の切れた下駄の鼻緒をすげ替えてやったと勘違いしていたんですね。 実際の記述は、違っていました。こうなっているんですね。 まず、雨の中を姉から頼まれた用事で、信如が美登利のいる大黒屋の前を通り過ぎようとした時、下駄の鼻緒が切れるんですね。それを美登利が見つけます。こんな感じ。 あれ誰か鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣っても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍かしきやうに、馳せ出でて縁先の洋傘さすより早く、庭石の上を伝ふて急ぎ足に来たりぬ。 ところが、それが信如だと分かると美登利は門の格子戸の側で立ち止まってじっと様子を見ます。一方信如も、ふと美登利の視線を感じて振り返るんだけれども、二人は喧嘩をしているもので、信如も又顔を背けます。 友仙ちりめんの切れ端を持って、鼻緒のすげ替えがうまくいかない信如を見ながら、じれったがる美登利ですが、家の中から母親に何度も呼ばれ、困ってしまいます。ここはこんな感じ。 はい今行きますと大きく言ひて、その声信如に聞えしを恥かしく、胸はわくわくと上気して、どうでも明けられぬ門の際にさりとも見過しがたき難儀をさまざまの思案尽して、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、ゑゑ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涙の恨み顔、何を憎んでそのやうに無情そぶりは見せらるる、言ひたい事は此方にあるを、余りな人とこみ上るほどに思ひに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足ゑゑ何ぞいの未練くさい、思はく恥かしと身をかへして、かたかたと飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ淋しう見かえれば紅入り友仙の雨にぬれて紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散ぼひたる、そぞろに床しき思ひは有れども、手に取りあぐる事をもせず空しう眺めて憂き思ひあり。 今、こうして一葉の文章を打ってみると、やはり名文ですねー。凄いものです。 ともあれ、この後は、信如の友人・長吉が現れて助けてくれて、信如はこの場を去ります。この場面の最後の描写。 信如は田町の姉のもとへ、長吉は我家の方へと行別れるに思ひの止まる紅入友仙は可憐しき姿を空しく格子門の外にと止めぬ。 私の読んだ新潮文庫版には、三つの小説が収録されています。 『にごりえ』(明治28年9月「文芸倶楽部」) 『十三夜』(明治28年12月「文芸倶楽部」) 『たけくらべ』(明治28年1月~明治29年1月「文学界」・ 明治29年4月「文芸倶楽部」補正再録) この順に読んだのですが、全二作は、文体は擬古文めいてはいますが、極めて写実的です。とても読みやすい。 そして、『たけくらべ』に入りますと、少し時間が遡ったように、前二作に比べると、江戸の浮世草子のような情緒的、艶やかではあるが、少し読みにくい感じがします。でも、上記の原文からも伺えるように、やはり描写は非常にきっちりしている事が分かります。 いわば、リアリズムをしっかり押さえた上で、情緒的な、文章の美しさ・膨らみを含んでいる文章になっていると思いました。 なぜ、そうなったのかは、上記の雑誌初出時期を確認すると、分かるような気がします。 まず最初に『たけくらべ』の一稿が書かれ始め、並行しながら写実的な二作が書かれました。その後、一度完成した『たけくらべ』の補正をしたという順番ですね。 いわば、一稿目の『たけくらべ』の江戸情緒を、他の二作を書く事で学んだ写実で煮しめて完成稿ができた、と。そういう感じですね。 明治29年春の『たけくらべ』の再録で、一葉の文名は一気に絶頂に達します。 なんせ、文壇の重鎮、森鴎外が褒め、幸田露伴も褒める。他の並み居る評論家も、右へ倣えの激賞でありました。 しかしその時すでに、一葉の命は残り十ヶ月を切っていました。 明治29年11月23日、数え年二十五歳で一葉はひっそりと亡くなります。病因は、一葉の父と兄も倒した肺結核でした。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.28
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『にごりえ・たけくらべ』樋口一葉(新潮文庫) わたくし話ですみませんが(と言っても、このブログ総てがわたくし話ではあるんですが)、かつて、僕はこんな俳句を作りました。 なつならば許しなされよ漱石忌 僕としては、わりと気に入った俳句なんですがねー、誰も褒めてくださいませんでした。 簡単に「自句自解」しておきますと、確か2004年の秋だったと思うんですが、お札の肖像画が変わりましたね。 それまでは、 1000円→夏目漱石・5000円→新渡戸稲造・10000円→福沢諭吉 と。これが、このように変わりました。 1000円→野口英世・5000円→樋口一葉・10000円→変更無し で、現在に至る、と。 僕は漱石の大ファンなんで、大いに「腹が立った」ですね。 (しかし、確か、漱石がお札になると決まったときにも、僕は、何で漱石がお札の顔やねん、と腹を立てたような気がするようなしないような……。) とにかく、漱石肖像画が「お払い箱」になるときに、まー実際の話としては、ちょっと寂しかったんですね。で、そんな気持ちを持ちつつふと隣を見ると(「隣」って何かな)、一葉が新たにルーキーとして抜擢されているではありませんか。 そこで考えました。 まー、この交代ならしかたがないか、と。許してあげようか、と。 (更に我が希望を申し述べるなら、漱石の後釜が一葉ならもっと良かったんですが。) というのが「自句自解」なんですが、よろしいでしょうか。 ついでに、言わずもがなのことですが、一葉の本名は、「なつ」「奈津」「夏子」、このあたりの表記を、本人はしていたようですね。 ところで、お札の肖像画になぜ樋口一葉が選ばれたんでしょうか。 僕はここに、ヒジョーに「政治的」なニオイを、密かに感じますんですけどね。 お札の肖像画を考えるとき、政府はね、きっと、時代的なこともあるし、とりあえず女性を一名入れようと考えたんだと思います。 今まで女性の肖像画は、確か昔に、「昭憲皇太后」があったと聞きますが、もちろん私は知りません。2000円札は紫式部だったですが、どういうルールなのか知らないんですが、あれは肖像画の扱いではないそうですね。 どうせ誰かを選ばねばならないなら、女性からの人気取りにもなるし、特に女性肖像画だからと言って、費用が割り増しになるわけでもなかろう、と。 ところが、いざ具体的な人選の段階で、はたと困るわけです。 相応しい女性が、いない、と。 いえ、僕が女性差別的発言をしているわけではありません。 個人の資質としては、充分に相応しい女性は、星の数ほどにもいらっしゃったでしょうが、かつての日本の国家機構が、構造的に「致命的に」女性差別的であったため、少なくとも万人が納得できるような著名な女性が、見つからなかったと言うことでしょう。 これはとりあえず文化畑からかな、という方針も、早い時期に出ただろうと思います。でも文化畑と言っても、実際は「文学系」しかないでしょう。 文学系を外すとすれば、次はもう、「美空ひばり」しかいないと思いますよ。 でも美空ひばりはいくら何でも、長い日本歴史の中では、リアル・タイムすぎるでしょう。 (あと50年くらい経ったらその可能性は大いにあると、僕は考えるんですが。) で、更に具体的な人選。 文学系で、紫式部というカードはもう切ってしまったとすれば次は……。 僕は、第一候補として挙がったのは、本当は「晶子」じゃなかったかと思います。 与謝野晶子 だって樋口一葉より遙かに「メジャー」じゃないですか。 しかしねー、晶子はねー、『君死に給ふことなかれ』なんて「けしからん反戦詩」を書いてますしねー。ちょっと前の選挙の時に、野党の女性党首が晶子を同志のごとくに祭り上げていたしなー。 そういえば、「毀誉褒貶」喧しい平塚雷鳥の「青鞜社」の運動にも一枚かんでいたようだしなー。わし、嫌いなのよねー、あのふぇみにずなんちゃらかんちゃら、っちゅうの。 もっとこのー、「政治色」のない女流はいないのかね、君ー。 あるいは、自○党よりの女流は、ああーん? なんて話しになったときに、極貧の中、わずか二十五歳で夭折、「政治的発言」などする術も時間もなかった我らが一葉が、「人身御供」のように選ばれたのではなかったか、と。 ……と、まぁここまでが僕の妄想なんですがね。 えーっと、冒頭の作品に見事に一字たりとも触れていませんなー。ははは。 では、次回に。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.26
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『重き流れの中に』椎名麟三(新潮文庫) 上記小説報告の後編であります。前回まで述べていましたことは、こういう事です。 椎名麟三=「スルナ・ビンボー」 以上。 って、これで「以上」は無いだろうとも思いますが、おおむね前回に書いていたことはこんなものです。(おーい、じゃあ残りはムダな文章かーい。) いえ、ただ一つ大切なことを忘れていました。 それは、今回読んだ小説が、とてもとても面白かったと言うことでした。 ではもう少し丁寧に見ていこうと思います。 上記の小説集の中には三作の小説が入っていまして、順番に書きますと、 「深夜の酒宴」(昭和22年2月) 「重き流れの中に」(昭和22年6月) 「深尾正治の手記」(昭和23年1月) となりますが、この発表された順番は、そのまま椎名麟三が戦後文壇に「センセーショナル」に認められた順番でもあります。 実際こうして順に読んでいくと、一作ごとに、まるで倍々ゲームのように、作品の出来が良くなり、ぐんぐん面白くなっていくのが分かります。 僕も最初の小説を読んでいたときは、これはいかにも戦後の暗いお話し。 主人公に極端なニヒリズムと無気力感が見られ、然しこれがどこから来てるのかは充分描かれておらず(ただし、こんな展開というのは「純文学」にはしばしば見られるものであります)、かつて「僕」が刑務所に入っていたという記述がちらほらと見えるだけの、「転向小説」の様なものでありました。 (少しだけ補足しておきますと、椎名麟三は、戦前、共産党活動により実際に刑務所に入れられ、獄中で、思想的葛藤から「転向」しています。) 出来の悪い小説とは思いませんが、まー、いかにも「戦後派」の「暗く貧しく誠実に」を地でいったような小説でした。 ところが、二作目、内容的には前作に直接繋がっていながら、俄然見通しがよくなり、構造的になっています。 なるほど、ドストエフスキー的なやや神経症な笑いが全編中からこみ上げてきています。 そして三作目、僕は今まで、「手記」なんて小説からあまり面白いものに当たったことがなかったので、少し用心しながら読み始めたのですが、ぐんぐん引き込まれていきました。 イデオロギー的なものが完全に背面に消え、登場人物が動き出しています。 壊れかけた貧乏下宿に、何をなすともなく暮らしている(かつては共産主義活動をしていた)「僕」と、同じ下宿人の山崎・池田・小山・宮原美代など、それぞれ強烈に個性的な人物が、見事に書き分けられています。 次の引用部は、肺病のため死期が迫っている宮原美代の二畳半の部屋に、「僕」が行き、枕元で語るセリフです。 「死んでから極楽へね」と僕はますます酔ったように云った。「いや、池田さんがね。池田さんを御存知でしょう。池田さんがあなたのことをとても心配していて、いろいろ骨を折っているんです。だが僕たちは貧乏人でしょう。何も出来ないんです。でも墓地はきまりましたよ。この先に寺町というところがあるでしょう。ええと、何という寺か名前を忘れましたが……そこへ頼んだというんです。まあ、金がないんで、近くにゴミ捨場があったりして余りいいところじゃありませんが、それでいいでしょう?」 すると美代は何かひどく仕方なさそうな笑いをうかべたのだった。 うーん、ドストエフスキー的会話ですねー。 こんな、神経症的なユーモアと、突き放したような人物描写が見事に展開していきます。 僕は、この作品の登場は、日本文学にサルトル的小説を現出させたといわれる大江健三郎の『死者の奢り』くらいに、文学史上エポックメーキングな出来事じゃなかったかと思いました。 然しこの後、この作家はどうなったのでしょうか。 ノーベル賞を受賞した大江健三郎や、ノーベル賞受賞は逸したものの、世界文学レベルの小説を書き続けた安部公房のようには、おそらく、進まなかったのではないでしょうか。 ふーむ。とりあえず、椎名麟三の他作品を読んでから、また考えてみたいと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.23
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『重き流れの中に』椎名麟三(新潮文庫) 椎名麟三といえば、一つ思い出すエピソードがあるんですが、確か、……えっと、ありました。ごそごそと本棚を探したら見つかりました。これです。 『ユリイカ』1976年3月号 えらいもんですねー。もう、30年以上も前ですか。 実はこの号は安部公房の特集をしているんですが(やはりそんな頃でしたでしょうか、安部公房にかなりはまり込みまして、目に付いた関係書籍を集めたことがありました)、その中の、岡本太郎が書いた短い目のエッセイに書いてありました。 第二次世界大戦後の、文学史的に言いますと「第一次、第二次戦後派作家」連中になるんでしょうが、文学の一派だけでなく、広く新しい芸術を作っていこうという若者達が集まって、まー、あーでもないこーでもないと語りつつ、酔っぱらうんですね。 たぶんこういうのって、時代を超えてあるものですよねー。きっと今でも。 とにかくそんな或る夜の、(酔っぱらいの)集まりで、岡本太郎が、そこにいる連中の名前を片っ端からもじって、あだ名を付けました。いわく、 花田清輝--ハナハダ・キドッテル 埴谷雄高--ナニヲ・イウタカ 野間宏---ノロマ・ヒドシ 安部公房--アベ・コベ そして、椎名麟三--スルナ・ビンボー みんな大爆笑になったとありますが、うーん、岡本太郎氏、なかなかのユーモア・センスと、反射神経じゃないですか。いかにもそんな「感じ」でありますねー。 もうお亡くなりになって久しい岡本氏ですが、ご存命中、何でしたか、ウィスキーのコマーシャルに出演して、「あほみたい」なことをおっしゃっていた方と同一人物とは、とても思えないような言語感覚であります。 わたくし、感心いたしました。 (出典は上記本中の、岡本太郎「アヴァンギャルド黎明期」) さて、今回の報告小説の筆者、椎名麟三でありますが、この文章を読んだからだけではないでしょうが、僕にとって椎名氏のイメージは、終戦後の全国民が貧しい時代に、やたらと貧しく暗くそして誠実な作品を書いた作家、という固定的なものができておりました。 それともう一つ、何故か、ドストエフスキー。 これはきっと又、何か別の本を読んでの知識でしょうね。実際椎名麟三はドストエフスキーから強く影響を受け、そして、日本文学にドストエフスキー的作品を持ち込んだ「鼻祖」のような側面もありますから。 ともあれ、「当たらずとはいえ遠からず」の先入観でしたが、ひとつ、とっても大切なことを知らなかったことに、今回、初めて椎名麟三を読んでわかりました。 とっても大切なこと、それは、(少なくとも今回読んだ小説について言えば)とってもとっても面白い小説をお書きになる方だということであります。 上記のように、終戦直後の何にもないくらーい時代の小説ですよ。 少し前に、野間宏の短編を読みましたが、やはりそんなくらーい時代の社会風俗の小説でした。 それに輪をかけるように、「スルナ・ビンボー」なんですから。 ちょっと考えただけで、「暗い・重い・おもんない」の三段跳びだと思うじゃありませんか。 ところが、これが違ったんですねー。 いえ、全く違っていたわけではありません。「暗い・重い」は合ってます。違っていたのはその次。つまり、こんな感じでした。 「暗い・重い・面白い」 実は、僕は今少し亢奮しています。 とっても面白い小説に出会ったからです。とにかくまず面白い、と掛け値無しに言える小説、それが今回の椎名麟三の冒頭の小説、もう少し厳密に言えば、短編が三つ入っている小説集の、その三つ目、であったわけですが、詳しくは次回に。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.21
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『無憂華夫人』菊池寛(文春文庫) この本の解説を評論家の猪瀬直樹が書いていますが、そこにこんな事が書かれてありました。 『真珠夫人』の人気が沸騰してから菊池寛は「小説家たらんとする青年に与う」という短いエッセイで「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」とか「小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである」と述べた。さらに「本当の小説家になるのに、一番困る人は、二十二、三歳で、相当にうまい短編が書ける人だ」とつづけるが、誰を指しているか明々白々であろう。 なるほどねー。 「友」と書いて「ライバル」と、「敵」と書いて「しんゆう」と読ませるわけですね。 芥川龍之介が自殺した時の、代表弔辞を読んだ菊池寛の文章は、まさに名品でありますけれども。 さて、上記の小説の報告ですが、ちょっと迷うというか、困っているんですね。 何故かと言いますと、そもそもは、本ブログで取り上げようかなという気持ちもあって読み出したんですけれどね。 でも読み出す前にちょっと「不安」はあったんですよ。文春文庫ですし。 いえ、文春文庫を差別しているわけではありません。 文芸春秋社は芥川賞・直木賞という文壇最大の賞を主催していますし、何と言っても、菊池寛はその創業者であります。 でもね、今まで本ブログで報告しました作品の傾向を読んでいただきますと、これは、差別するとかじゃなくて、なるほど、少し違うかな、とおわかりいただけると思います。 本ブログで取り上げている小説は、(別に調査していませんが)新潮文庫と岩波文庫がおそらく圧倒的多数でありましょう。 (そもそも菊池寛が立ち上げた文芸春秋社というのは、岩波知識人文化に対抗して創設されたと聞きます。) さてその菊池寛の上記小説ですが、大阪毎日・東京日日新聞に連載された『真珠夫人』が大ヒットしまして、第二、第三の『真珠夫人』を書いてくれと言う依頼が引きも切らず来る中、それらの一作品として『講談倶楽部』に連載されたものであります。 そもそも「大衆小説」なんですよね。 内容は、簡単に言いますと、明治の華族版ロミオとジュリエットのお話、ってところですかね。ただ、このお話にはモデルがあります。 モデルとなった女性は、九条武子という人です。 ウィキペディアで調べたら、えらいモンですねー、載っていました。(というか、この方はかなりの著名人ですね。) 西本願寺のお寺さんの娘で、「大正三美人」の一人だそうです。のちに京都女子大を作りました。 なるほどそんな人ですか。写真まで載っていました。こんな人です。(って、写真を載せようと思ったのですが、やっぱりやんぺ。私は往生際の悪い人間であります。) 写真を見ました。なるほど、美人ですね。まー、そんな人がモデルの、ロミ・ジュリ話です。途中まではわりと面白かったんですがね。しかし、いくら何でも、終わり方がひどすぎると思います。 今ではたぶんそんなでもないと思うんですが(最近漫画週刊誌を全く読んでいませんので、よく知らないんですが)、少し以前の、週刊誌の連載漫画の終わり方と全く一緒です。 人気低迷のせいですかね。全くストーリー的な事は関係なく、いきなり終了です。 連載していた雑誌が『講談倶楽部』ですから、仕方がないのかも知れませんが、作者はどんなつもりでしょうね。人気低迷なればやむなし、でそれで終わりですかね。 (ただ、この小説の連載中止理由は、たぶん「人気低迷」以外のものでありそうですが。) しかし、中途半端に放り出された読者のフラストレーションは、いったい誰が責任を取ってくれるんですかね。 マスコミの未成熟な時代、というより、読者に対する視点なんて、あまり誰も考えなかった時代なんでしょうかね。 結局、独立した作品としては纏まっていない小説であります。 だから私は、本ブログに取り上げるかどうか迷っていたんですが、でも、もう書いちゃいました。 こういう表現技法は、小説で時々見られるレトリックですね。 小説の名人・丸谷才一は、この技法をさらに進めて、「見せ消ち」なんてテクニック(そもそもの出典は『古今集』の「墨消歌」でしょう)を使った小説を書いていましたね。 今回はそういうわけで、報告の小説に習って、「尻切れトンボ」ということで。 そう、ちょうどこんな感じの終わり方でした。はい。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.19
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『田園の憂鬱』佐藤春夫(新潮文庫) 佐藤春夫は、近代文学史上の大物の一人ですよね。 私の持っている『筑摩現代日本文学大系』でもまるまる一冊があてがわれていますし、韻文・散文共に極めて高い評価がありそうです。 一時期、門弟が三千人いたと(まー、「白髪三千丈」ですなー)、そんな事の書いてある文章を読んだような気がします。 ちょうど、「文壇の大御所」と呼ばれ、芥川龍之介が「我が英雄(ヒーロー)」と呼び、大衆小説で大ヒットをとばして文芸春秋社を立ち上げた菊池寛と、時代的にも双璧ですかね。 ただ、そんな佐藤春夫の代表作はと考えると、はて。 例えば詩で、圧倒的に人口に膾炙された作品なら、詩集『殉情詩集』(近代文語定型詩集の絶品です)発行後、時をおかず発表された「秋刀魚の歌」ですかね。 「あはれ秋風よ情あらば伝へてよ」という書き出しは、私でも知っているくらいですが、この一編が、佐藤の私生活のスキャンダルと重ね合わされ、広く巷間の子女の涙を絞らせました。 ただ、今読めばこの詩は、その内容において、あまりに筆者自身の私生活上の事件に寄り掛かりすぎているような気がしますね。 例の谷崎潤一郎との確執、「細君譲渡事件」ですね。 実は、私事ですが、遙かな昔大学を卒業するとき、文学部の卒業論文として取り上げたのが谷崎潤一郎でありまして、扱った作品が『蓼食ふ虫』という作品で、ちょうどこの「細君譲渡事件」あたりの出来事がモデルとなった小説であります。 それで、この事件については少しだけ知識があるんですが、それはともあれ、この「秋刀魚の歌」は、今となっては、やはりモデルとなった事件に少し寄り掛かりすぎているように思います。 さて一方、散文の方の代表作はと考えると、うーん、やはり、この『田園の憂鬱』となるのですかね。 私の持っている高校国語日本文学史の教科書にも『都会の憂鬱』とセットで、名前が書かれてあります。 しかしねー、この作品は、新潮文庫でわずか110ページほどですよ。 いえ別に、110ページでも、いいんですがね。芥川の『羅生門』なんか10ページほどですし。上述の谷崎の代表作『春琴抄』だって70ページほどですものね。 ただ、芥川にしても谷崎にしても今挙げた作品と同程度の作品が、他にもいっぱい(谷崎は中長編いくつか)あるんですよね。 ところが、佐藤春夫はこれ以外には、ちょっと挙がらない、んじゃなかろうか、と。 かつて、秦恒平の文芸評論でしたか(卒論作成時に読んだんだと記憶するんですが、ということは、遙か昔)、その中に、正確な言い回しはもう忘れてしまいましたが、佐藤春夫自身が晩年、自分は、自分の持っていた文学的才能を、「ばら銭」にして使い果たしてしまったと、功成り名を遂げた後に、述べたとありました。 (ちょっと補足しておきますと、この発言は、盟友・谷崎潤一郎との比較という文脈の中で述べられたそうです。うーん、谷崎との比較、ではねー。) さてそんな佐藤春夫の代表作『田園の憂鬱』ですが、一読後の感想はたぶんこれしかないと思います。 第一に圧倒的な筆力、第二に完成された筆力、三四がなくて、五に筆力。 どこを取り上げても絶品なんですが、例えばこんな部分。田園の中を流れる「幅六尺ほどの渠」の描写であります。 或る時には、水はゆったりと流れ淀んだ。それは旅人が自分が来た方をふりかえって佇むのに似ていた。そんな時には土耳古玉のような夏の午前の空を、土耳古玉色に--或は側面から透して見た玻璃板の色に、映しているのであった。快活な蜻蛉は流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身軽く滑走し、時時その尾を水にひたして卵を其処に産みつけていた。その蜻蛉は微風に乗って、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで一行を追うように従うていたが、何かの拍子についと空ざまに高く舞い上った。 ここはわりとさわやかな描写の箇所ですね。作品の前半部です。 私は、漱石の『草枕』を青年版にしたような瑞々しさを感じました。こんな箇所を読んでいると、門弟が三千人いたというのも、(感覚的には)肯けそうな気がしますね。 ところが、こういった描写が、真ん中あたりから倦怠感と共に、「憂鬱」=メランコリーへと繋がっていくんですね。 そして後半、前半部にあった瑞々しい描写は、感受性の過剰から徐々に濃厚へ、さらには狂気へと姿を変えていきます。 それはなかば必然的のようにも思えますが(そういった狂気の描き方は他の作家にも多く見られそうです)、私としては、重苦しくて、少し面白くなかったです。 結局「憂鬱」を描いた作品でありますから、これでいいのかなとも思いますが、110ページの小説からさらに広がる部分をと考えますと、作品の構造的なところにやや弱さを持つのかなと、(不遜ながら)思いました。 いえ、それが別に、「代表作」が他に挙がらない理由であると、言い切っているわけではありませんが。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.16
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『遺書』吉本隆明(角川春樹事務所) 最初に「閑話」から。(といっても、そもそも本ブログそのものが「閑話」みたいなものの上に、今回はそれに輪を掛けたような、全文「閑話」なんですがー。) 本ブログに文芸評論をもっと取り上げようかなー、とふと考えまして、なんだかぼそぼそと幾つか報告致しました。 それなりに文芸評論も幾つか読んでいるものですから(この際「質」はあえて問わないとして、でありますが)、おおっ、一気にフィールドが広くなって、すっかり風通しが良くなったじゃないか、と思いました。 で、なんとなくこんな本を読んで、何となく取り上げようと思ったのですが、キーを打ち出すぎりぎりになってハタと思いました。 しかし、これは、ありか、と。 仮にも吉本隆明と言えば、一時期は日本を代表するような文芸評論家でありましたし、今でも、その「余韻」は充分残っているように思います。 僕も何冊か読みました。とても印象に残っている本もあります。 (えーっと、どんな本でしたっけねー。『高村光太郎』とか、『西行』とか、ですかね。あと、読んだけれど、さっぱり分からなかったというのも少なからずあります。) そんな優れた文学者ではありますが、でもこの本は、功成り名を遂げた「ご隠居さんの世間話」みたいなものじゃないのか、と。 例えば遠藤周作は、日本のキリスト教作家として、極めて優れた小説を数多く残しています。本ブログでも、かつて『深い河』を取り上げましたが、まだまだ報告したい名作、問題作がたくさんあります。 しかしー、そんな遠藤周作ではありますが、彼の「狐狸庵シリーズ」の軽いユーモア・エッセイを取り上げるというのは、本ブログの趣旨外ではないのか、と。 (いわゆる「軽い」文章を蔑ろにしているのではありません。要するに「店の品揃え」についての「店主=僕の好み」であります。) というわけで、うーん、気にはなりつつも、でも、ごそごそと、打ち始めました。……。 「死ねば死にきり、自然は水際立っている」 うーん、詩人の言葉というのは、たったこれだけでも凄いですねー。 まさに「水際立って」いますよねー。 高村光太郎の詩の一節だそうです。この本の中に取り上げられていました。 タイトルが『遺書』ですから、こんな感じの文芸テイスト・エピソードが、連なっているわけですね。 始めの方にこんな事も書いてあって、これ、とっても面白かったです。 「臨死体験」についてなんですが。 臨死体験には、宗教や死の習俗の違いにかかわらず万国共通のところが一カ所あります。それは、自分が病気で死にそうになった時に、回りで医者や看護師や近親が騒いでいるのを、眼が自分の身体から離脱して、中空から見下ろしているという体験です。 こういうの、訊いたことありますよね。これ、なぜだと思います。 吉本隆明が養老孟司に訊いたそうです。養老の解釈を読んで、僕も、なーるほどと思いました。科学者というのは、偉いものですね。 (どんな説明をしたと思いますか。答は、最後に!) 上記に、吉本隆明の本を何冊か読んだと書きましたが、さらによく考えてみれば、僕はやはりそんなには読んでないんじゃなかろうか、と。 吉本隆明はどうも難しそうだと云うことで、易しそうな本を数冊読んだだけですね。 でも、もっと考えてみると、同時代人の埴谷雄高はもっと読んでいません。 (今考えたら、この人の本はまとまったものとしては、おそらく僕は一冊も読んでいないということがわかりました。) で、それで、なぜ埴谷はゼロで、吉本はそれでも数冊読んでいるのかと考えると、僕の考えのどこかに、吉本は埴谷に比べると、少しはより難しくなく、そのぶん取っつきやすいのではないかという思いがあったせいですね。 さて今回取り上げた本は、内容的には口実筆記の易しいエッセイではありました。(全然文芸評論じゃないじゃないか!) しかし、読んでみて、上記の僕の様々な思いはやはり正しかったなと思う一方、この人、ひょっとしたら、もひとつなんと違うやろか(失礼!)、あるいはボケだしてるんと違うやろか(あー、書いてしまった!)、とも思ってしまったのでありました。 本書は、幾つかの章に分かれていて、「死」とか「国家」とか「文学」とか「教育」とかについて語りおろしているのですが、後半の「わが回想」という半生を振り返ったところが圧倒的に面白いです。 近現代日本の社会史が、作者自身の行動と思想の変遷・実践などとともに振り返られています。(例えばここに、上記の埴谷雄高との論争について触れてあります。)で、ここがもっともおもしろいんですけれど、でも少しじっくり考えながら読んでいると、当たり前ながら、やはり僕の感覚とは完全には重ならないんですね、これが。 こんな時、若くて未熟だった頃の僕は、自分自身について反省することが多かった(ああ、やっぱり僕はあほやねんなぁ、書いてあることがよーわからんなどと。)のですが、最近は年喰って、やたら厚かましくなったせいか、筆者を攻撃することが多くなりました。 「こいつがおかしい!」 「こんなこと考えてるこいつが堕落しとんや!」と。 これはこれで、困ったもののような、これでいいような、でありますなー。 でも、本当のところ、この本は、簡明でわかりやすく、とても面白かったです。(吉本隆明の晩年の語りおろしには、実際こういった「長屋のご隠居」的エッセイが多いようですね。) さて最後に、上記の臨死体験についてです。養老孟司はこんな解釈をしています。 その正体は耳である。 最終的にあらゆる意識が拡散して瀕死になっても、耳だけは聞こえるということがある。さらに、耳が聞こえると、実際には目が見えていなくても感覚的には見えていると考えられることがあり、これがこの体験の根本になっているのではないか。 どうです、科学者、科学的思考って、やはりすごいですね。 (えっ? そんな答ならとっくに分かってたって?) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.14
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『大阪の宿』水上滝太郎(岩波文庫) この筆者の名前は以前より知っていました。 少し前に元西武・セゾングループ社長の辻井喬の小説を読みましたが、そもそも辻井喬に興味を持ったのは、辻井氏がこの水上滝太郎と同タイプの作家だからです。 つまり、文学者であると同時に、第一級の経済人である方々であります。 現代では、小説を書きつつ、それ以外の仕事もなさっているという方は結構いらっしゃるようですが、その別の仕事の多くはやはり、一種の芸術や芸能といった関係であるように思います。 例えば、今一番に浮かんだのは、僕がわりと好きな現代作家の町田康氏。この方はロックシンガーですね。 尾辻克彦氏は、画家の赤瀬川原平氏ですね。この方の小説も僕は好きです。 その他にも様々いらっしゃいそうですが、「二足の草鞋」とはいうものの、どちらもやはりクリエィティブな方面の御職業ですね。 そのマルチな才能には、とてもうらやましさを感じますが、今回の読書報告の水上滝太郎とは、ちょっと感じが違います。 小説家で経済人。 これは僕の感覚では、小説家で別の芸術・芸能人という以上に、すごくすごくかっこいいですね。 水上滝太郎の最後の肩書きは、明治生命保険株式会社専務取締役であります。(ついでに、水上氏は、この役職での勤務中に脳溢血の発作で亡くなっています。) さてそのかっこいい先入観を持ちつつ、実は初めてこの筆者の小説を読みました。 明治の終わり頃に処女作を書き、主な活躍の中心が大正時代であった筆者の本は、現在では残念ながら、個人全集や文学全集以外では、「売れ筋外し」の岩波文庫に、この一冊があるだけであります。 作者自身がモデルであろうと思われる東京の会社員「三田」は、大阪支社勤務となり最初は下宿生活をしていましたが、下宿主人と喧嘩をして飛び出し、以降、旅館「酔月」の月極の長期滞在客となります。 そんな少し「ぼやぼや」した感じで話が始まります。 少し「ダル」目のお話は、その後進んでいってもなかなか目鼻立ちがはっきりせず、これといった事件も起きず、これは一体何なのかと思いながら読んでいましたら、昔こんな感じの小説を読んだことのあることに気が付きました。 谷崎潤一郎『細雪』 もちろん華やかさにおいては比べものになりませんが(かたや蒔岡シスターズ、こちらは場末の旅館の女中達)、主人公と、宿屋の女主人、三人の女中、うわばみ芸者、その他近隣の幾人かの若い女性達との交流が、大阪の猥雑な街を背景に描かれていくという構成は、やはり間違いなく『細雪』に重なると思われます。 各章の冒頭には、そんな猥雑な大阪の四季がさりげなく描かれます。こんな感じです。 お花見の計画も、懐中の乏しさにずるずるに延びて居るうちに、花は遠慮なく散つてしまつた。水の流も深くなつて、またたくひまに貸端艇が、中之島附近から土佐堀へかけ、又道頓堀のどぶ泥のやうな水面にも、無数に浮ぶ時節となつた。三田が酔月へ来てから、早くも一年になつたのである。 やはりこの小説は、一種の「年中絵巻」小説であると思われますが、こういった小説には、どんな意味あいがあるのだろうかと考えますに、うん、そうだと浮かんだのが、以前に読んだ、保坂和志の一連の小説であります。 保坂和志の小説も、極端に事件の起こらない小説でありますが、僕はこのタイプの小説を「お知り合いになる小説」と考えています。(あるいは「ご近所付き合い小説」。詳細は本ブログの保坂和志の項をご覧下さい。) しかし、だとすれば、このゆったりとしかしややぼんやりと進んでいく小説にも、これはこれでファンは付くと思われます。 いえ、実際、この話も連続テレビドラマのように、癖になる面白さが感じられました。 就中最終回、大団円の章は、東京へ転勤になる三田が大阪駅を離れていくシーンで終わりますが、読後感すっきり、まるで日本晴れの富士山のようで、とても、よかったです。 これが、最後の一文。 うす汚く曇つた空の下に、無秩序に無反省に無道徳に活動し発展しつつある大阪よ、さらばさらばといふ様に、煙突から煤煙を吐き出しながら、東へ東へと急走した。 どうです、呵々大笑せざるを得ないではありませんか。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.12
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『群棲』黒井千次(講談社文芸文庫) 筆者の「後書き」に、少し面白い話が書かれています。 三十代後半の男性読者から、本書の刊行後、面白かったけれどどうにも気が滅入ってしかたがなかったという感想を貰った筆者は、言われる事は分かるつもりだが、しかし僕らは実際にあんな風にして暮らしているのではないのかな、という意見を述べたと書いてあります。 なんか、少し変ですね、この読者と筆者の意見交換。 噛み合っていそうで噛み合っていませんよね。 これはきっと、読者から貰った意見に対して、実は返す言葉の無かった筆者が、知らない振りをしてわざとピントの少しはずれた答え方をしたんじゃないでしょうかね。 実は、この微妙に噛み合わない変な感覚が、この「連作小説」の主たるテイストになっています。 実際、この連作集の読後感は、「気が滅入る」が最も端的に表していると思います。 で、そしてそれは、今度は筆者の言うとおり、そのまま私たちの日常生活(ただし、現代日本からはやや時代がずれる、つまり発表当時の昭和末期の、バブル景気に向かって駆け上っていた頃の日本人の日常生活)であるとも実感できます。 都市郊外の新興住宅地。一本の極短い袋小路を真ん中に挟んで「向こう二軒片隣」の四軒の家の暮らしを、文庫本三十ページほどの話、十二話で、まとめた連作小説集です。 この「向こう二軒片隣」の暮らしを、連作に描くという筆者の発想は、なかなか独創的だと思います。例えば二つの短編小説に別々の家庭の話を描いていきながら、登場人物が出会うところは、そのパラレルな短編自体が、それぞれの視点ですっと交差するわけですね。 なかなか面白そうでしょ。 しかし、実は極めて「気が滅入る」話なんです。でも同時に、我々自身を的確に描いた極めて「文学性の高い」話でもあるんです。 この「気が滅入る」「文学性の高い」ものの正体は、「不安」ですね。 「存在の不安」と行ってしまうほどには哲学的ではありませんが、「生活の不満」と矮小化してしまうと言い切れないものがいくつか残ってしまう、といった類の「不安」です。 どんどん水かさは増えつつも、決壊の危険を孕んだ状態で留まっている嵐の中の河川のように、たとえ大洪水になったとしても、凶暴さあるいは狂気の中に呑み込まれてしまう方が、いっそすっきりするんじゃないかと思ってしまうような状態で、作品は静かに進行していきます。 この日常生活の故知らぬ不安、あるいは日常的人間関係(典型的なのが夫婦関係)の皮膚感覚のような不安が、近代日本文学に正面から描かれ始めるのは、さて、「第三の新人」あたりからでしょうか。 経済基盤と都市生活のそれなりの成立があって、とりあえず大きな社会不安はない時代、ってことになるとその辺からかなと思います。 「第三の新人」の頃は、それでも各作家が独自の分野の問題意識を描いていたように思うんですが、日常生活にひっそりと忍び寄る得体の知れない不安が、さらに「内向の世代」へ受け継がれていき、特にこの『群棲』は、完璧にそれだけに絞り込まれています。 (僕は読んでいませんが、筆者の小説には一方で社会性の強い作品もあると聞きます。) ただ、十二話中の終盤の三編ほどは、少し、趣が変わります。 「手紙が来た家」「芝の庭」「壁下の夕暮れ」などの作品がそうですが、ここに描かれているのは、もうすでに「気が滅入る」状態が越えられようとしている世界です。 洪水後の世界、それは精神的な病状であったり(例えば老人性の「認知症」)、すでに人間関係として成立していない夫婦関係であったりします。 不思議なもので、ここまで突き抜けられてしまうと、我々読者は、どこか変にスッキリとした感覚を受けつつも、文学性は急激に失われてしまうような気がします。 しかし最終話「訪問者」では、再び気味の悪い思わせぶりな「生殺し」の不安が戻ってきます。そしてそのことに読者(少なくとも僕)は、また変に「安心」したりもします。 うーん、かなり、「ヘン」。なんか、不思議なものですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.09
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『上海』横光利一(岩波文庫) この筆者の文学史上の位置づけというのは、一体どんなものなんでしょうねー。 変な言い方ですが、この筆者にとっての『上海』という小説の位置が、近代日本文学史上の横光利一の位置に、かなり相似形に重なっているような、……いえ、別に確固とした文学理念も考察もないままに、ホンの思いつきで書いているに過ぎないんですが。 たとえばこの作品の文章は、やはりとても過激な文章だと思いますよ。こんなの。 そのとき、ふと彼は通りすがりの、女が女に見えぬ茶館へ上っていった。 広い堂内は交換局のように騒いでいた。その蒸しつく空気の中で、笑婦の群れが、赤く割られた石榴のように詰っていた。彼はテーブルの間を黙々として歩いてみた。押し襲せて来た女が、彼の肩からぶら下がった。彼は群らがる女の胴と耳輪を、ぶら下った女の肩で押し割りながら進んでいった。彼の首の上で、腕時計が絡み合った。擦り合う胴と胴との間で、南瓜の皿が動いていた。 こんな文章とか、またこれは、群衆の蠢く工場内でいきなりピストルが発砲されるシーン。 そのとき、河に向かった南の廊下が、真っ赤になった。高重は振り返った。その途端、窓硝子が連続して穴を開けた。 特に二つ目の文章は、日本文学史の教科書によく引用されている『頭ならびに腹』のこの有名な文とそっくりですよね。 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。 でもこういった文体は、一体どこに行く事を目指しているんでしょうね。 どこかに広い出口があるんでしょうか。 いえ、もちろんそれは分かりませんよね。 例えば、大江健三郎のデビュー当時、その翻訳のような文体に対して、谷崎潤一郎はかなり強い拒否感を表しましたが、大江の文章はその後、現代日本語のスタンダートに近い位置を占めていますものね。 横光のこの過激な文章についても、先に思わぬ広いフィールドが待っていたかも知れません。 ただ、早く亡くなった事と、本来の円熟期が第二次世界大戦の真ん中に重なった事のせいで、その不運さは誰もが認めるところではありますが、かつては「小説の神様」とまで言われた彼は、充分な文学的成熟を迎えることなく終わってしまいました。 (この「小説の神様」という表現は、多分に揶揄が混じっているとも聞きますが。) 僚友川端康成が、戦後日本人として初めてのノーベル文学賞を受賞した事と、皮肉な好対照を成しています。 さて、この『上海』の印象ですが、まず上記に触れた、新感覚派的表現の集大成のような、「過激」な、そして絢爛豪華なイメージの迸りが随所に見られます。 それは面白いといえばとても面白いと思います。しかしこれは、読み進めていくうちに、どうもうまく反応できなくなっていくような気がします。 たぶんそれは、一つには「慣れ」と、もう一つは、言葉の軽重感覚が混乱されるようになってくるせいではないかと思います。(だからかどうかはわからないんですが、僕はかなりこの文体は読みにくいと感じました。) しかし、それ以上に強く感じた事は、第二次世界大戦勃発寸前の、あらゆる人間的価値と猥雑を坩堝に流し込んだような「無国籍都市・上海」を、才気溢れるスピードとイメージで描いたこの作品が、結局行き着く先を持てないでいるということでした。 これって、一言で言えば「不毛」ということなんでしょうか。 そこまで言うつもりは、まるでありません。 ただそんな、指に刺さった小さな棘のような痛痒感覚と共に、ひょっとしたら、近代日本文学史上に横光利一の位置があると、……いえ、やはりこれは、ほとんど僕の根拠なき妄想のような考えなのかなとも思いますが。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.07
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『朱を奪うもの』円地文子(新潮文庫) 冒頭、いきなりの名文であります。 その前にちょっと、新潮文庫裏表紙にある作品紹介文を引用してみます。 自分の歯をすべて抜き去った宗像滋子は、過去に片方の乳を失い、さらに癌のため子宮を失った思い出とが重なり合い、もう二度と戻ってこない女体への悲痛におそわれる-- 抜歯後の上唇の痺れを感じながら、台の上の銀色の盆の中の抜き取られたばかりの歯を見て滋子は思います。 もう抜けるだろう、抜けるだろうと、つい今朝まで舌の先で癖のように動かしつづけていたのに、今ぬきとって見るとこの根はこんなに深く肉に食入って、二センチ近くも埋っていたのである。滋子はその歯の肌をそっと触ってみて眼に触れる部分の滑らかな硬さと肉にくい込んでいた茶色の細い部分のざらざら粗い手当りにこの歯の自分の底から生え出、育ち、生き耐えて来た長い年月を思った。ものを噛む力の失われたこの歯を滋子は荷厄介にして早く抜けろ抜けろといじり散らして来たが、歯の肉に食い込んだ生命は思いの外に根深いのであった。摩滅した一本の歯に滋子はやるせない悔と愛着を感じた。自分の肉体と離れてしまった歯は、もうどんなに足擦りしても自分のものにはならない。自分の生命の一部の死んだのを正しくわが眼で見ているのである。歯はそのまま自分の骨に見えた。 うーん、強烈な文ですねー。 構造的でどっしりと分厚くて、丁寧で細かいところまで書き込まれている、見事な文であります。 この後滋子は、上述の紹介文で触れた、自らの乳房と子宮の切除に思い及び、とうとう最後は、「宮刑」を受けた『史記』の司馬遷にまで連想が至ります。 「裂帛の気合い」とは、こんな文章のことを言うんですかねー。 この部分はまだ冒頭直後の個所であり、この先一体どこまで連れて行かれるのだろうかと、少しはらはらしながら僕は読み進めました。 しかし話はその後、形としては回想に入っていき、描かれるのは滋子の幼年期の最初の記憶になります。 この小説は、女性の『ヴィタ・セクスアリス』なんですかね。 とりあえずこの本にあるのは、第一章の、性に目覚める前の官能性の予感から始まって、第五章、結婚初夜を迎えた翌朝の記述で終わっています。 特に、上記の強烈な文章に続く第一章は、いまだ性の予感状態の記述でありながら、極めてきらびやかに濃厚に描かれています。 その章題が、全体のタイトルの『朱を奪うもの』となっていることもむべなるかなという気がします。 第一章の末尾は、こうなっています。 紫の朱を奪うように滋子の生命はその黎明期から人工の光線に染められていた。 これもなかなか派手な一文ですねー。 しかし第一章は、冒頭の「気合い」の文章と合わせ、きっちりと「首尾一貫」した展開になっています。 さらに僕は、わくわくしながら読み進めました。 ところが、この先が、なんというか、このー、ちょっと、弱いんですね。 冒頭からの官能性が展開の前面から押しやられ、主人公を取り囲む暗い時代の、煩わしい人間関係を追いかける筋になっていきます。 うーん、この僕のまとめ方は、やや「不当」ですかねー。そんな気もします。 でも例えば、同じような、幼少からの自らの性的嗜好に気づく谷崎潤一郎の小説は、その後もその独特な性的嗜好を、実に絢爛豪華に展開していますからねー。 いえ、谷崎と比べるのは、間違っているのかも知れませんね。 ただ、ちょっと、第二章以降の展開に不満を感じたものですから。 しかし、この作品は、本当は三部作なんですね。僕の読んだここまでは、まだ第一部にしか過ぎないわけです。 そうだろうなーとは思います。このままでは、あの天に昇った火柱のような勢いの冒頭の表現は、降りてくる先がありませんもの。 この後、第二部第三部と読んでいくべきなんでしょうね。 例えば、三島由紀夫の『豊饒の海』の第一巻『春の雪』について、最終巻の『天人五衰』のラストを読んだ後に振り返れば、なるほど趣が大いに異なってくるように。 うーん、そうなのかー。 では、頑張ってみますか。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.05
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『鱧の皮』上司小剣(岩波文庫) 素朴な疑問があるんですがね、前々からうっすらとは思っていたんですが、何のことかといいますと、一出版社の経営戦略についてのことなんですがね。 もう少し具体的に言います。私の疑問は以下のものです。 (疑問)岩波文庫の出版基準は、一体如何なるものなのか。ということなんですがね。 この作者、ご存じでしたか。名前、迷わず読めましたか。 私は実はこの文庫本を手に入れる以前から、こんな名前の作家がいることは知っていたんです。エヘン。 いや、別に自慢するようなことではなくて、以前から何度か拙ブログに取り上げている『筑摩現代日本文学大系』中の、四人で一冊の巻に、この名前があったんですね。 とても特徴的な名前だから目に付いたという、ただそれだけのことですがー。 この名前、何と読むんですかね。「じょうし・こけん」? 上司の沽券? ふざけた筆名だなーと思いましたね。二葉亭四迷と双璧ですね。 そして次に、どんな小説を書く人なのだろうか、と。 ところが私の得意の高校国語日本文学史教科書を見ても、載っていません。 で、最初の疑問に戻るわけですね。 とてもじゃないけれど、ポピュラリティーのある作家とは思えないわけです。 もっとも、以前にも少し触れましたが、「岩波文庫」というのは見事に売れ筋の本をはずして出版していますからねー。 いえ、一般論としてのポリシーは、何となく分かります。 いわゆる「歴史的評価」の確立した古典的な作品のみを文庫にしているんですね。 岩波文庫の「最近作家」の定義は、おそらく「第二次戦後派」あたりの作家じゃないですかね。 「第三の新人」、大江・開高、この辺の作家ですら文庫化されていないと思います。 (文庫じゃない本は、もちろん出版されていますけれどもね。例えば大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』とか。) で、上司小剣ですが、この方は正宗白鳥の五つ年上だと言うことですから、堂々と明治・大正の人です。 もう少しはっきり言います。 この作家の作品をこの度初めて読みましたが、内容的には、確かに「岩波文庫」に収録されるに相応しい作品であると、私も思いました。とっても面白かったです。 でも、でもなぜ、今となってはほとんど「無名」の上司小剣(忘れていましたが、この名前の読みは「かみつかさ・しょうけん」です)なのか。 「歴史的評価」についても、高校の日本文学史の教科書にも載っていないような作家ですよー。 うーん、あまたいる過去の小説家の中で、何故この作家が岩波文庫に選ばれたのか。 どなたか、私の冒頭の疑問にお答えいただける方はいらっしゃいませんかねー。 この場を借りまして謹んで広くお答えを戴きたいと、えー、よろしくお願いいたしますー。 ただ、現段階で私が考えられる、ちょっと「不安な」考えを一つ書いてみますね。 それは、実はこのレベルの作品が、日本文学史上にさほどないのではないか、という「不安」な推論であります。 ひょっとしたら、そうなんでしょうか。 いくら「貧弱」な日本文学史とはいえ、そして、この短編集の出来は決して悪くないとはいえ、この辺のレベルの作品なら、山のように、とは言い過ぎでも、他にも多くの作家を見つけることができると思うのですが、いかがでしょう。「日本文学史の謎」ですねー。 しかしそれはそうとして、繰り返しますが、この作品集はなかなか良くできています。 六つの短編が入っていますが、その中では、僕は、『鱧の皮』『兵隊の宿』などの出来がとても良いと思いました。 どこが優れているか、二点取り上げてみますね。 一つめは、まず全編に渉って、関西弁描写の見事なことでしょう。 六つのお話し総てが、関西弁のセリフを伴う小説ですが、独特の関西弁のニュアンスをとても見事にすくい取っています。例えば、こんな部分。 「こなひだ、お駒の面皰指で絞つてやつたら、白いシンがぷつッと出たで。……面皰絞るん面白い。」 まだ面皰のことを言つて、自分は父の口元を見詰めつゝ、如何にも大きく見事な父の面皰を絞りたさうにした。父は顔を背向けて、「えへん、えへん。」と無理に空咳をした。 (『父の婚禮』) 二つめは、物語の運びのうまさです。就中、小説の終え方が非常にうまいと思いました。 集中屈指の短編『鱧の皮』を始め、総ての作品について、小説の終わりに一工夫が見えます。これは、おそらくこの筆者の嗜好なんでしょうね。 少々やり過ぎと感じるものもないわけではありませんが、この工夫は間違いなく作品をきっちりと引き締めていると思いました。 というわけで、なかなか得難い名短編集でありました。 しかし、関西人作家の小説からは、西鶴のDNAなんでしょうか、どうしてこう第一級の「市井物」小説が産まれるんでしょうかね。 伝統というものは、なんかこのー、妙に不思議なものですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.01.02
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