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『爆心』青来有一(文春文庫) この筆者については、わたくしかなり前に一つだけ短編小説を読んだことがありました。 その時の漠然とした印象が、この文庫本を見つけた時にふっと思い出されまして、実は一瞬ひるんだんですね。 その短編小説の読後感が、あまりよくなかったからです。 恐いものですね。 読者って、そんなたった一作しか読んでいない短編小説の読後感だけで、好みや、さらには購入するかどうかまで決めてしまうんですね。(他人事のように書いてすみません。これはいろんな偏見に満ちた、私だけのケースかもしれません。) その時のあまりよくない印象というのは、(もうかなり忘れてしまっているんですけれど、)なんか冷たい……、なんか冷たくて暗くて愛想のない印象だった……、かしらん。 ともあれ、そんな良くない先入観を少し抱きつつ、(いくら偏見にまみれた私でも、本当に本気で、短編小説たった一作だけで作家の評価は定め切りませんので)この連作集を読み始めました。 6つの話が入っています。裏表紙の「宣伝文」に「原爆」の語があって、筆者の紹介文に「長崎出身」とありましたので、漠然としたテーマ理解はできました。(ついでに言いますと、本作は谷崎潤一郎賞と伊藤整文学賞の2つを受賞しているとのことでした。) 6つの短編小説には、順に漢字1文字だけのタイトルがついています。並べますとこうなります。 釘・石・虫・蜜・貝・鳥 ……暗いですねー。もー、読み始める前から、いかにも暗い。 でも、まぁ、わたくしは、ぼそぼそと読み始めました。 「釘」。 案の定、暗いです。なんか、真っ暗です。でもハッとするイメージがありました。 暗い部屋の三方の壁板全面に、びっしり、1センチほど頭を残して打ち付けられた釘のシーンであります。 ここは、なかなかドキッとするところです。 さらに「釘」は、本短編集の中で最もページの少ないせいもあってか、この印象的なシーンについてはその後多く語られることなく、まとまったお話としては、やや焦点がぼけたかなとは感じつつ、でも、これがこの後続の話のプロローグだとして読むと、なかなか手練れた書きぶりが想像されました。 そして私はさらにひとつづつ読み続けるのですが、5つ目の「貝」を読んで、少しびっくりしました。そして、これはとっても上手なお話だなあと感心しました。 その余韻で、私は先に巻末の解説を読んだんですね。すると、こんな印象的な言葉が書かれてありました。 「ポスト原爆文学」 ……なるほどねぇ。 原爆が投下されて既に60年(本連作は2005年から6年にかけて『文学界』に連載されたもの)、「ポスト原爆文学」は出てきてもよい、いえ、出てくるべきですよねー。 しかし、それって、かなり難しそうですよねー。(特に60年の歳月というのは、中途半端に難しそうです。) 例えば「貝」の一作手前の「蜜」というお話は、長崎原爆の平和祈念式典の開始時間に合わせて、人妻が若い男と、不倫の肉欲に満ちた行為を行おうという話です。 ストーリーそのものは、その挑発性にやや引っ張られて俗に流れた感じはしますが、「ポスト原爆文学」というテーマを一方に置くと、筆者にとってはかなりの「実験作」だったように思えます。 しかしそんな中で、私は、上記に記しましたが、「貝」が頭一つ飛びぬけてうまく書かれていると感じました。 その主な理由は2つ。 一つ目は、「原爆」の出し方がとてもうまいことです。 展開の中でなかなか「原爆」は姿を見せず、そして出てきて以降は、非常に説得力のある要素となってお話をぐいぐいと進めていきます。まさに「ポスト原爆文学」の面目躍如というところであります。 そして、もう一つの理由は、このお話には、ユーモアの下地が施されてあること。 「沙耶香」という亡くなった少女の生前の姿が、少なくないほっとするユーモラスな空間を生んでいます。 「原爆文学」に、ユーモア要素を盛り込むことの難しさ。 でも、小説が長く生き延びるためには、ユーモラスであることは必携でしょう。 例えば2作目の「石」でも、主人公の設定から、そんな気の抜ける空間はもっと生まれてよかったはずだと思いますが、「石」では、その少し前で留まっているように思います。 ただ、ひょっとしたら、それは筆者が、本連作の全体構成をがちっと考え上げて、クレッシェンドのように徐々に出していこうとした(まだ2作目では、控えた)のかもしれませんが。 と、そんな印象を持った短編集でした。 ひょっとしたら、私にとって、「連作」という形式の威力を、改めて感じることのできた一冊だったかもしれません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.01.22
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『白土三平論』四方田犬彦(作品社) 実はわたくし、新書版の全21冊の第一部『カムイ伝』を多分持っています。 多分というのは、現物を長く見ていないからで、多分押し入れの奥にあるだろうと思っているからであります。 私が白土漫画に初めて触れたのは、これも多分ですが、月刊漫画雑誌『少年』の「サスケ」じゃなかったかなと推理します。 だってあの頃は「アトム」と「鉄人」の2大連載漫画を誇る『少年』は、漫画大好き少年たちにとっては憧れの雑誌でしたから。(「憧れ」と書いたように、我が家にはそんな漫画雑誌を月刊とはいえ定期購読する経済的余裕はなく、『少年』は、様々な友人から月遅れ年遅れで見せてもらうのが基本でした。) その次は、と思い出すと、少し変わった思い出があります。 中学生の時、社会科担当の女の先生が、『忍者武芸長』を全巻私に貸してくれたことであります。 どんな「文脈」でそんなことになったのか、今となっては記憶がありません。 今ぼんやり思い出すと、そういえばちょっと「斜」に構えたような(これが正確な表現かどうかわかりませんが)先生だったような気がします。 そんな経験ののち私は、今考えれば、「多分」読みたくって仕方がなかったとも思えませんが、中学校高学年時に、『カムイ伝』を出るたびに一冊ずつ買っていったのでした。 そしてさらに大人になり、それを捨てるわけにもいかず「多分」押し入れの奥に眠らせたままでいます。 実は本書を読みながら、何度か押し入れの『カムイ伝』を取り出そうかなと思ったんですね。 でも、本書に描かれている『カムイ伝』のあらすじを読んだだけでも、あらすじ自体が膨大で、かつ予想通り重く暗く、陰鬱そのもののストーリーでありました。 もはや馬齢を重ね、いろいろなものに事なかれ主義になった私には、手に取るさえ怯まずにはいられませんでした。 ところで、別のブログに少し書いたのですが、先日来私は白土氏の忍者漫画をまとめて読みました。そして、私なりの結論を出したのが、白土忍者漫画は『忍法秘話』シリーズが最も面白いということでありました。(『忍者武芸長』をどう考えるかは少しペンディング、『カムイ伝』は忍者漫画から外して考えます。) さて、ここから冒頭の『白土三平論』の読書報告になりますが、そんなわけで、以下に、『忍法秘話』シリーズの作品分析に絞って、ざっくり報告したいと思います。(なんせ、長い長い長編評論ですから。) まず筆者は、前書きで、白土三平はほとんど誰からも論じられなかったと述べています。本当かなという気は少しするのですが、そうだとすると、本書における作品分析がどの程度優れたものであるのか、比較検討ができません。 ただ私としては、私にとってなかなか説得力ある作品の魅力分析だなと思うところを取り上げてみたいと思います。 実は本書には「60年代前半の短編」という章立てがあって、『忍法秘話』シリーズの分析は主にここに描かれています。 その中で私が一番なるほどと思ったのは、まとめるとこの二つの指摘です。 「階級的懐疑」・「生物主義的想像力」 なるほど、この二つの指摘は確かに白土短編忍者漫画の魅力の本質かなーと思いますね。 まず「階級的懐疑」が、作品に人間的洞察の深さを与えたことは間違いありません。 『カムイ伝』の象徴的人物「カムイ」を改めて挙げるまでもなく、漫画の読みごたえを格段に深めるこの視点は、白土忍者漫画群に、全くのオリジナルな「抜け忍」というジャンルを確立までしました。 二つ目の「生物主義的想像力」とは、忍術の技の独創的な発想並びに成り立ちのことですね。 それは極限的な鍛錬によって発揮される肉体能力の描写に止まらず、その先に「想像力的」に手に入れることのできる「肉体改造」(例えば何時間も水中に潜れる肉体とか)、さらには自然界のルール(例えば食物連鎖とか、寄生虫とか)を人為的に誘導する巧みな「忍術」として描かれるもので、特に後者の二つは、作品展開に驚くべきどんでん返しをもたらせます。 ……と、この長い評論のほんの一部だけを、わたくしなりに報告いたしました。 筆者四方田氏の評論は、私にとってはほとんど初めて読むものでしたが(確か村上春樹について書いた文章を読んだことがあるくらいです)、なんといいますか、わりとクセのない評論だなと感じました。(もっとも、漫画評論が筆者のテーマの中でどのような位置づけにあるのかはまるで存じませんが……。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2022.01.09
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