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コロナ騒動ですっかり忘れていたけど、今日はローザ・ルクセンブルクの命日だった。ウイキさんからの紹介では1871年3月5日、ポーランドのザモシチで生まれ、1919年1月15日、白テロルに倒れる。全然関係ないけど、先日、大阪府長がコロナ陽性者の数が増えたことを「ガラスの天井を突き破った」と、とんでもない自分の無知をバラしてしまったけど、アメリカ大統領になれなかったヒラリー・クリントンにもあったガラスの天井。戦争に反対し自由と豊かな暮らしをすべての人々に与えるために果敢に闘い、捕えられ殺されたローザにも、ガラスの天井はあったのだろうと思われてならない。本人は全然自覚してなかったかもしれないけど。コロナ籠もりの日々、久しぶりにローザの獄中からの手紙を読んでみる事にする!
2021.01.15
1919年1月15日、ローザ・ルクセンブルクは、当時のドイツ政府の要人の雇った暗殺団の手で斃れました。 今日は、ローザの好きだったというワインを供えて、ローザ忌です。ローザの生きた1900年頃って、すごく昔に思えたけど、自分が年を重ねると、そんなに昔でもない感じがしてきました。世界史は不得意で、何がいつ起きたか、よく分からない。 ローザの生まれた1871年は、日本では廃藩置県が行われた年=これはすごい昔に思えます。 パリではパリコミューン ドイツではドイツ帝国が成立。これらもすごい昔に思える。1890年には第1回メーデー1900年に列強が清国に出兵1901年は明治34年(そんなに昔に思えない)1904年 日露戦争 そんな頃に、生きた人だったのね。 ローザの戦争への考えを、ウイキさんよりコピペします。=1912年にはSPD代表としてパリをはじめとするヨーロッパの社会党大会などへ出席。フランスの社会主義者ジャン・ジョレスとともに、もしも戦争が起こったときにはヨーロッパの労働者諸政党はゼネストに突入するであろうことを確約した。 1914年にバルカン半島の政治的緊張が頂点に達して戦争の避けられないことが誰の目にも明らかになってきたとき、ローザはフランクフルトほか各地でデモを組織し、良心的兵役拒否や命令への不服従を訴えかける。 この件により「法と秩序への不服従を煽動」したとされ懲役1年の有罪判決を受ける。拘留は即座には執行されなかったので、同年7月ブリュッセルでの国際反戦会議には参加することができた。しかしこの会議を通して、各国の労働者党においてナショナリズムが階級意識(en:Class consciousness)よりも濃厚になっていることを認めざるをえず落胆する。1913年には、古典派経済学の分析を通じて、資本蓄積が国際負債や帝国主義を生むとを論じた主著『資本蓄積論』を出版する。1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発。8月3日にはドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告した。 翌日、議会は戦時公債を発行し戦争に融資することを満場一致で可決。「城内平和」の名の下に戦争中はストライキを控えると約束して政府と休戦する。 またローザと同じく非戦を唱えていたジャン・ジョレスが暗殺され求心力を失ったフランスやオーストリアの社会主義者たちもこれに同調、こうして第二インターナショナルの命脈は尽きた。 これを聞いたローザは大きな衝撃を受けた。1899年以来彼女が戦い続けてきた修正主義が勝利を収め、戦争が始まったのである。= 雪崩を打って人々が戦争へ突き進む中で、ローザは戦争反対の声を上げ続ける。 1915年、フランクフルトで兵士虐待に対する抗議演説を行い、その罪を問われて1年間の禁固刑に処せられる。 その後、1916年から1918年まで、2年4カ月、たらいまわしの保護監禁がつづく。 第1次世界大戦はドイツの敗北となり、ローザは出獄。 しかし、戦後政府の要人となっていたかつての同志に雇われた暗殺団の手に斃れる。49歳だった。 何とも激しい時代。 そのころよりも世界は進歩して平和になっているでしょうか。 共謀罪というものが、平和憲法を持つ日本の、国会で決められてしまいそうです。
2017.01.15
NHK「100分de名著」レヴィ=ストロースの「野生の思考」を中沢新一先生の説明で聞きました。レヴィ=ストロースも、野生の思考も知らなかったのですが、1960年代、世界中で読まれた民俗学を起点とする哲学の本?らしい。博識の伊集院さんも知らなかったとのことですが、彼は世代的に知る機会がなかったのかも。 フランスの民俗学者・人類学者のレヴィ=ストロースは、1908年~2009年に生きた人。 1908年、ユダヤ人の両親が滞在していたベルギーで生まれ、生後2カ月でパリに戻ります。パリ大学時代は、何を専門にしてよいかわからなかったというが、とりあえず哲学の教師となり、1935年、恩師からブラジルのサンパウロ大学に社会学の教授の仕事を紹介してもらいます。 そこで彼は休暇のたびに先住民の村に行き、インディオたちと、かねてから興味のあった民俗学的交流をもちます。 1939年、フランスに帰国し、召集され、ドイツ・フランス国境の塹壕に送られます。そこで彼は、目の前のタンポポの花を見て、自然界の秩序と、人の思考が作り上げる秩序に連続性があるのではないかと気づきます。 それが「構造主義」というものを着想した最初でした。 1940年、フランスはドイツに降伏し、パリは占領されます。ユダヤ人であった彼は、辛くもマルセイユから密航船で、両親が脱出していたアメリカに亡命したのでした。 彼は、文明人も、未開の人たちも、タンポポや野生動物たちも、同じ秩序で構成されていると考えました。どちらが優れているとか劣っているとかいうことはないのです。 文明人たちの「歴史」に従い発展してきた、とする考えは、いつかは行き詰まると予想しました。 中沢先生によれば『「野生の思考」が戦いを挑んだのは、19世紀のヨーロッパで確立され、その後人類全体に大きな影響力をふるってきた「歴史」と「進歩」の思想です。彼は近現代をつくりあげてきたこれらの思想に反旗を翻し、「歴史」に対して「構造」という考え方を打ち出しました。』 とのこと。それは今の世界をかさぶたのように覆ってしまっているらしい。 思うに、手塚治の火の鳥みたいな生命体に、私たち人間も、動物も植物も、生かされている、そのことに気づかずに不遜な行いを続けている「先進国」の人類は、やがて大いなる閉塞の上に滅亡するしかない・・・という予測となるのでしょうか。 私たちは、命をいただいた、地球の上の一種族として、謙虚に生きることが必要・・・という感じがします。 まだ1回目なので、これからどうなるのか分かりません。 ちゃんと理解できてないかもしれないけど、中沢新一先生のお話は、やさしく分かりやすい感じがしました♪
2016.12.10
イギリスのEU離脱の国民投票の結果、とても残念です!戦争が終わって間がなくて孤児があふれ人々は疲弊しているのに、またもや戦争のうわさが流れる・・・そんな中で世界中の動物たちがバカな人間(ひとにぎりなんだけど)に代わって平和な地球を模索する・・・ケストナーの「動物会議」に描かれたことの実現がEUだと思っているのに。 しかしEUの歴史では、イギリスは他の主要国に遅れて参加してきたらしい。自国に有利になる主張が取り入れられる幅が少なかった・・・? 先日、オスカーワイルドの「理想の結婚」の映画を見ました。ケイトブランシェット主演の1999年の英国作品。時代はローザルクセンブルクの生きた頃。運河利権をめぐる政治の腐敗がテーマ、というストーリーは別にして、大陸の文化や経済の進歩を横目で見ながら、イギリスは田舎であり遅れている(独自の考えをする)・・・という感じで描かれているように思えました。今でも大陸と英国とは微妙に違うのかもね。 動物会議は、自分たちが愛する人間たちの平和の話し合いが進まないのを危惧した南アフリカの象さんが、世界中の動物たちに連絡し、会議を開きます。 人間の子どもの未来のためです。 集まった動物たちは「たいていの人間はぼくたちの考えているよりずっとふんべつがあって、いい人なんだと思う。せんじつめると書類と軍部がいけないんだ」 と思います。 そして軍服をくいちぎる虫の群れが世界中の制服をみんな食ってしまいます。 けれども人間たちの平和の会議は進まず、動物たちは世界中の子どもを隠し、動物会議の結果を人間の代表に承諾させます。それは・・・1・国境のくい、国境の見張りは、すべてとりのぞく。国境はもはや存在しない。2・軍隊、銃砲、爆弾はすべてなくす。戦争はもはやおこなわれない。3・秩序をたもつために必要な警察は弓と矢で武装する。警察はとくに、科学と技術がもっぱら平和に使えるように、監視する。殺人科学はもはや研究されない。4・役所と役人と書類だんすの数は、どうしても必要な最小限度にへらされる。役所は、人間のためにあるのであって、その逆ではない。5・今後、いちばんよい待遇を受ける役人は、教育者とする。子どもを本当の人間に教育する任務は、いちばん高い、いちばん思い任務である・・・・ 世界中の人間たちは、この条約に人間の代表がサインをしたというニュースを聞いて、大喜びしたのです! バスや鉄道でどこまでも行けるEU!いつまでも・・・・。
2016.06.25
小鳥たちのさえずりの聞こえる快晴です! ローザ・ルクセンブルクの「獄中からの手紙」。岩波文庫の秋元寿恵夫訳を読んでいます。 カールの妻、ソフイーに宛てた、1916年から1918年10月18日までのもの。 ローザは経済学の分野から第1次世界大戦の非を説き、ドイツの人々の犠牲を警告し、戦争が始まってからもその警告をやめなかったために、ベルリン、ウロンけ、ブレスラウと、たらいまわしの「保護観察処分」にされた。 解放されたのは1918年11月10日。翌1919年1月15日、カールとローザは、今は政府の要人となったかつての同志に養われていた暗殺者グループによって倒されたのでした。 1917年11月中旬のブレスラウからのソーニャへの手紙には= われわれがいまその中で身をもがいているこの道徳上の汚辱にみちた泥沼、われわれがいまその中で生活しつつあるこの大きな癲狂院は、全部ひとまとめにし て、一気に明日といわず今日のうちに、魔法の杖か何かで反対物にどんでん返しに変えてしまうように、すばらしい偉大なものに形を変えてしまえたらと、わた しはつくづくそう思います。 そして、この戦争がまだまだ2,3年もつづくようならば、これはぜひともひっくり返してしまわなければならぬものです。(中略) 追伸 あるべつのひとつの事実を想いだしましたが、それはあなたにもお知らせしたい事柄です。というのは、そのことでわたしはとても詩的な感動を覚えたからなのです。 最近、わたしは渡り鳥に関するある科学的な著書で、これまで比較的多くの謎に包まれていた現象が説明されている箇所を読みました。 それによるとふだんは敵同士として食ったり食われたりしているさまざまな種類の鳥たちが、海を越えて南の方へ長途の旅をつづけるときには、どんなふうにして和気あいあいとお互いに行動を共にしているかがよく観察されているのです。 冬になると、鳥の大群がエジプトの方へ飛んでいきます。かれらは大空高く雲のように群がり、空はために暗くなるほどです。その一群れの中には、ハゲタカや ワシやタカや、フクロウなどという猛禽類に交じって、何千という鳴禽類、たとえばヒバリだとかキクイタダキだとか、ナイチンゲールなどが飛んでいるです が、いつもならこれらをつけねらっているはずの猛禽類の間にあって、かれらは何の不安も感じないのです。 旅の途中では、まるで暗暗裡のうちにお互いの間に休戦条約が締結されているのではないかと思われるほどです。 そして、どの鳥もへとへとに疲れ果て、ナイル河の岸辺に降り立ちます。それから銘々、鳥の種類に応じて同属あい寄り、住みつくというわけです。(後略)☆ローザがソフィーに書いたこの話に、政治の世界を思ってみました。第一次世界大戦でドイツは破れ、皇帝は退位し貴族による専制政治は終わりました。 しかし、歴史の大きな暴風の前に、まとまれなかった平和主義者たち。ドイツは再び第2次世界大戦に突入していくのですね。自らもひどく傷つき、周辺の国々にも大きな罪を犯して。 大きな海を渡るときの、この鳥たちの知恵に学ぶべきことを、ローザは言っていたのかもしれない。 今の日本、どうでしょうか?再びの大きな過ちを犯そうとする政府に対して、さまざまな種類の鳥たちが、まとまってナイルの岸辺にたどり着かないといけないのでは? 民主党さん、野党第一党の誇りにかけて、平和を愛する人たちをまとめ、安倍政権の暴風からこの国を救う気概を持ってください。
2016.01.16
今日、1月15日はローザルクセンブルクが友人のカールとともに、白テロルに倒れた日です。 カールの妻でありローザの幼馴染のソーニャにあてた「獄中からの手紙」は、戦争に反対して囚われの身となったローザの、1916年から1918年10月18日までのものです。 花や草木、小鳥たち、獄の窓から見上げた季節ごとの空など、豊かなローザの心が浮かび上がってきます。 てなわけで、ある日の心惹かれた手紙を転記してみたんだけど、PCちゃんに肘をついた途端にどこかを押したらしく、消えてしまいました。余力があったらのちほど。
2016.01.15
バラの夢香ちゃんが豪華に咲きました。暖冬。思うに、バラはこのくらいの寒さが適しているかも。虫や病原菌も活発じゃないし。 先日、テレビで芥川賞の羽田氏が小説を書くきっかけは椎名誠の本を読んだことだった、と語っていたので、そういえば我が家でも椎名誠の新刊が出るのを待って買っていた(出版界にとって)夢のような時期があったなあと思い、久しぶりに椎名誠の棚を見てみました。 そうしたら、ちゃんと読んでなかった「素敵な活字中毒者」=椎名誠編、というのがあって、井上ひさし、鶴見俊輔、紀田順一郎なんかとともに、野坂昭如さんなんかのも紹介されていて懐かし~!しかし、文庫の字の小ささよ! 今日の東京新聞夕刊の「刻む記憶」に、ベトナム北部のディエンビエンフーという盆地で、1954年5月、ベトナム人民軍がフランス軍を破り80年以上のフランス支配から独立したとき、戦場で新聞を発行した人に取材した記事が載っていました。 85歳のファン・フー・バンさん。 1953年11月、フランス兵が真っ白な落下傘で次々に降りてきた。大砲もぶら下がっていた。フランス軍は本格的な兵力を投入しようとしていた。 当時20歳のファンさんは、クアンドイ・ニャンザン紙の特派員としてディエンビエンフーへ。この日から150日間 、バンさんは最前線で戦闘のすべてを見届けて記事にした。 「輪転機を部品に分けて担ぎ上げ、紙やインキは女性が背負って運んだ。刷り上った新聞は自転車と徒歩で前線の兵隊たちに配った。 兵士向けの新聞だったが、手から手に住民に渡り、むさぼるように読まれた。兵士が一番楽しみにしていたのは食料の配給、次が新聞だった。 都市部はフランスの制圧下にあり、人民軍は山間部の”解放区”6省を拠点としていた。山や密林に数百キロの道、陣地を結ぶ地下壕を掘りめぐらし、人力で山頂まで担ぎ上げた大砲や砲弾などの物資は、数万トンにも上るといわれる。 自転車2万台を調達、両脇に200キロの食料や薬を積み、解放区から100キロ、200キロの道を運んだ。多くの女性が従事し、解放区に戻る時は、1台の自転車に2人の負傷兵や遺体を搬送したそうです。 91年に一線を退いたバンさんは今、かつての戦場を訪ね、亡くなった兵士の霊を弔い、少数民族の子どもたちに文房具や医薬品を届けてるそうです。 この取材をした記者さんのメモに、ベトナムの人は活字が大好き。市場で客待ちの女性が新聞を広げ、公園の木陰では本を開く。至る所で人々は活字を読んでいる、そうです。 1990年代はじめ、停電がよくあった頃、夜間に停電すると、老若男女が路上に持ち出した小さな灯りで新聞や本を熱心に読む光景があったそうです。ほかのアジアの国では見られないそうです。 ベトナム全国で政府の発行許可を得ている新聞は800紙にのぼるそう。 素敵な活字文化の国なんですね。 フランスからアメリカから祖国を取り戻したベトナム。そういえばベトナム戦争のころの絵本「かあさんはおるす」に、たたかうお母さんの姿が描かれていましたね。『アメリカのかいらいをうちやぶる』ために。だから子どもたちもさびしさをがまんして留守をまもっていました。あれ?「ベトナムのダーちゃん」と混ざってしまったかな?♪ 今の日本にもアメリカの傀儡がいるけど・・・。
2015.12.17
小花のミントが元気です。 岩波書店の「図書」11月号に、物理学者の小沼通二先生の『戦没者を偲ぶー「フランダースの野に」百周年』という文がありました。 第一次世界大戦でドイツ軍との戦いに従軍したカナダのジョン・マクレーという人の詩「フランダースの野に」は、百年前の1915年12月8日に、英国の週刊誌『パンチ』に小さく発表されたそうです。 小沼先生がこの詩にめぐりあったのは、ベルギー西部のイーベルで3年に一度開かれる「ネコ祭り」に夫人とともに行ったとき、 イーベルはイペリットガスの名の由来になったように、ドイツ軍が史上初めての毒ガス兵器を使用した場所なのだそうです。 ホテルの衝立に手書きの詩が書かれていた”In Flanders Fields”という詩。=フランダースの野に。 全体で15行の詩は平易だったが、10行目の ”take up ”をどう訳すか小沼先生は迷った。 「敵との争いを引き受けてくれ」「敵との争いを再開してくれ」という訳に違和感があった。ネットでの和訳も好戦的なものが多かったという。 探していくうちに、オクスフォード英語辞典に、現代では使われなくなったがシェークスピアの「お気に召すまま」などに「(けんかや口論を)友好的におさめる」というように使われているのが分かったそうです。 ジョン・マクレーは毒ガスの後遺症などで終戦を待つことなくドーバー海峡の見えるフランスの軍事病院で45歳で亡くなったそうです。 小沼氏の訳「フランダースの野に」 ジョン・マクレーフランダースの野にポピーが揺らぐ十字架の間に、何列も何列も、ここがぼくたちの場所 空には今でも元気な声で飛ぶひばりかすかに聞こえる地上の砲声の中で ぼくたちは死んだ 数日前には生きていて、夜明けを感じ、輝く夕焼けを見た愛して、愛された、それなのに今では フランダースの野に横たわる 敵との争いを終わりにしよう弱ってきた手でぼくたちはトーチを投げる受け止めて高くかかげてくれないか死んだぼくたちとの約束を守れないならぼくたちは眠れない、ポピーの花が フランダースの野に咲き誇っても ☆ 以上が小沼先生の訳でした。ジョン・マクレーの最後の言葉は、この詩の13,14行目だったそうです。彼はこの詩によって米国や英連邦諸国で戦死者を偲ぶ シンボルになっているそうです。多くの国が戦争で傷ついて、やっぱり戦争は二度と起こしてはいけないと、思っている・・・・はず。日本も世界も過去に学ぶ 謙虚さを大切にしたいものです。
2015.10.30
テレビ朝日で韓国歴史ドラマ「善徳女王」が始まったので、前にも見たけど、また楽しみに見ています。 半島の三国時代、新羅のチヌン 大帝の美しい側室「美室=ミシル」は、花郎として大帝を守っていますが、大帝は死期をさとり、「自分が死んだら新羅に災いをもたらすミシルを殺せ」と遺言 して亡くなります。大帝を毒薬で殺そうとしていたミシルを、大帝の孫の王子=のちの善徳女王の父は隠れて見ています。 大帝の遺言を守らずにその甥を王にしてその后になったミシルは男の子を生みます=のちのイケメンピダム=が、遺言がバレてしまい、王を殺して生まれたばかりの子を捨てます。 ミシルは神の言葉を司どり、すべての権威を手に入れていますが、唯一手にできない「聖骨=両親ともが聖骨から生まれた存在」を求めて、聖骨である王子の王妃の座を狙います。(20歳以上年上) が、すでに王子には妃(のちの善徳女王の母)がおり、ミシルに命を狙われたりします。 妃は双子の女の子を出産しますが、古い書物に双子が生まれると以後聖骨男子が絶える、という言い伝えがあり、それを知ったミシルは王妃の失脚を画策、王はあとから生まれた姫を侍女に渡して鶏林から逃がします。 遠くのシルクロードの宿場で育ったトンマン=のちの善徳女王は、勇気のある賢い女の子に育ち、やがて自分の出自を求めて鶏林に戻ってきます。 追っ手から逃れるため、侍女=育ての母から男の子としてふるまうようしつけられたトンマンは、花郎キム・ユシンの部下となります。花郎といえば、「日出処の天子」で、淡水に遭遇したうまやどが「花郎のものか」と詰問するシーンがありましたっけ。 ユシンは滅亡した伽耶の王族の出身でした。 ミシルが力の拠り所としたのは、若き日の恋人、サダハムからもらった暦でした。これによって日食や月食、気候の変化を知り、天をも司る超能力者と思われていたのです。 お話は佳境に入り、ミシルの仕掛けを見破ったトンマンは、暦の解析をする大師に「格物=科学を王室の権威のための政治に利用しない。自分は天文台を作り、 暦を民に公開する。今まで王室のものとされていた暦を誰でも利用して農業ができるようにする」と約束し、12の礎石、365の石からなる東洋初の天文台の設計図ができたところ。 ミシルは「民はおろかであり、強い為政者を求めている」といい、トンマンは「民が自分で考え幸福を追求すべきだ」と論争中。 ところで、キム・ユシンさまはこれからトンマンのために新羅統一の戦いをしていくのですが、トンマンの姉がミシルの魔の手から隠して守った子、春秋王子が、唐から帰ってきます。 ユシンさまと春秋=チュンチュが百済を滅ぼして新羅統一を成し遂げるのが史実らしい。 春秋は日本書紀によれば、孝徳天皇の大化三年(647年)に、オウムと孔雀をお土産に日本に来ているそうです。姿良き、知的なイケメンと書かれているらしい♪ ユシンさまの妹は春秋=29代武烈王の后となり、その王子は30代文武王になるらしい。 史実では、都の貴族ではなく周辺の豪族たちを味方につけて統一を成し遂げたらしくて、ドラマでも周辺の人たちを守っていく姿が描かれます。 白村江の戦いで、日本は唐・新羅連合軍に大敗したらしい。 韓国歴史ドラマで思うのは、主人公たちの権力闘争が「民のための政治」を追い求めるため、という設定がほとんど、ということ。日本の大河ドラマなんかは、権力闘争のやりとりばっかりのような気がする。天・地・人が珍しかったくらいね。 ドラマでは、まだ春秋が出てこないけど、高貴な大物!って感じで素敵です。ミシルに捨てられたピダムの屈折さも素敵!
2015.06.13
今日は、千葉県立美術館に平山郁夫展を見に行きました。22日で終わりらしいので、人がいっぱいでした。 県立美術館は「新装開店」なのですが、見た感じ、前と同じでした。 平山郁夫展のテーマは「仏教伝来の軌跡、そして平和の祈り」です。この前読んだ渡辺一枝さんの「かすりのもんぺでトレビアン」の旅。一枝さんの夫の椎名誠がはじめに平山郁夫の楼蘭の旅に同行し、次に一枝さんも同行なさったのでしたっけ。○まずは、「仏教伝来とシルクロード」 釈迦の誕生の地からの多くの風景、建物、人々、インド、西アジア、中央アジアです。バーミアンの大仏も。破壊された大仏の痕を修復せずに「負の遺産」として後世に残す、と平山さんが発言して残したらしい。 ○次に 「悠久の大地~中国、韓国 敦煌、楼蘭、雲岡、南京の三蔵法師を祀った寺、蘇州、新羅の頃の韓国の寺など。○次に日本のお寺。薬師寺、比叡山、浄瑠璃時、法隆寺、法起寺の三重塔○次に大唐西域画 これは、薬師寺の<大唐西域画>の絵を50号にして描いたもの。 「明けゆく長安大雁塔」~鳥たちに励まされここから出発した三蔵は高昌城の城主から仏典をいただいたら帰りに必ず寄ると言って旅を続けたが、帰りに寄ると城は唐?に攻め滅ぼされ廃墟になっていたという「高昌故城」やっとついた「西方浄土須弥山」アフガニスタン「バーミアン石窟」インド「デカン高原のゆうべ」インド「ナーランダの月」三蔵のあとを歩く人は薬師寺の高田好胤さんだって聞いたことがあります。50号の絵にはその人影はないけど。○平和の祈り サラエボの戦跡の子どもたちを描く。平山さんは「自分は、どんな環境、状況にあっても平和の絵筆を取る」ことを、この子どもたちに出会って再確認したらしい。 ○心の風景を求めて ここでは、トルファンやパルミラ、イランのベルセポリスの遺跡、カッパドキア、シルクロードのキャラバン、などが展示されていました。中で面白かったのは、「平成の洛中洛外図」2双。京都御所とそれを取り囲む町が描かれているのですが、新しい建物は皆、モノトーンなのです。平山さんの古都への思いを感じました。
2015.03.20
草餅です!生協さんから来た山形県田川郡庄内町のよもぎ餅。お餅を食べるともたれるのですが、よもぎ餅はもたれないので大好きです。小豆もコトコト煮てみました。 さて、暴力の応酬の中東。極東の小国日本のトップは何を考えたのか、進んで泥沼の迷路に踏み込んで行きそうです。これを止めるにはどうしたらよいのでしょうか。一人ひとりが自分は関係ないと見過ごさずに、この事実を知らなければならないんじゃないかとは思うけど。もう遅い? 今日の東京新聞「本音のコラム」は、法政大学の竹田茂夫先生。題は「狂気と悪の政治的利用法」です。本文をいただきます。=米ソ冷戦たけなわの一九五〇年代、米国の防衛知識人に「狂人理論」が広まった。国際交渉では、何をしだすか分からない、常軌を逸した輩だというように相手側に思わせるのが得策だという考えだ。ヒトラーが軍事的に劣勢でも戦争を辞さない構えで英仏に迫り、チェコの一部を割譲させたミュンヘン会議の例がよく挙げられる。 この理論を仕入れたキッシンジャーの進言で、七十年代にニクソン政権は、北ベトナムを脅しつけるために中立国カンボジアに無差別じゅうたん爆撃(第二次大戦の投下爆弾総量を上回る)を行ったといわれる。(D・エルズバーグ『秘密』)意図せざる結果が怨念を抱いた農民らのポルポト派への終結だった。 9・11以降、ブッシュ政権は敵対勢力を極悪人とか悪の枢軸などと呼んで中東へ侵攻したが、十年余を経てアフガン・タリバンは復活し国土と人心を掌握しつつある。 他方、イラク戦争の死と荒廃から生まれた「イスラム国」は悪のレッテルを逆手にとり、自爆テロ・斬首・公開処刑など、人の生死を繰って狂気と恐怖を振りまく。かつてのネオコンの「衝撃と畏怖」作戦の裏返しだ。 憎悪と暴力が渦巻くのが中東の現実だ。国際政治の舞台に登場したいという一政権の思惑で日本人は際限のないテロや戦争の世界に迷い込むのか。=☆世界の、人間の歴史から学んでいかないと、日本はとんでもない方向にいってしまいそう。
2015.02.05
今日は、ローザ・ルクセンブルクが白テロルに倒れた日です。伊藤成彦先生の「ローザ・ルクセンブルクの世界」(社会評論社)を読みました。 1871年3月5日、ポーランドの首都ワルシャワに近い町で生まれたローザは、1887年頃、ワルシャワ女子2高の頃にプロレタリアートの活動に参加して頭角を現します。1889年逮捕の危険を逃れてスイスに亡命し、チューリッヒ大学哲学科に入学。1897年に「ポーランドの産業的発展」という論文でチューリッヒ大学の博士号を受けます。 1899年、グスタフ・リューベックとの結婚によりドイツ国籍を取得、ベルリンに移住し、ドイツ社会民主党に参加します。 そこでの中心人物だったベルンシュタイン(穏健派)を批判したローザは、「血のローザ」と中傷され恐れられましたが、あらゆる差別を解消する世界を目指して論文を発表しつづけます。 ローザが目指した民主主義や社会主義は、単なる制度ではなく、人々をあらゆる差別から解放する自由、平等な制度でした。それは、帝国主義の非人間性を根本から否定するヒューマンな社会主義でなければならなかったのです。 そして民族の問題についても、民族の問題を国家にして解決しようとすれば、必ずそこに民族差別が生まれる、という主張もしました。 ローザが当時憂えた世界の状況は、まだ改善されていないのです。彼女はヨーロッパを巻き込みつつあったドイツの戦争に反対して投獄されました。 ローザの「獄中からの手紙」を訳した秋元寿恵夫さんは、そのあとがきで『戦争がないとき、漠然と戦争に反対するのは誰にでもできる。だが、すでに戦争が始まってしまってからでもなお、自らの見解にあやまりはないと信じつづけられる者の数は大分減ってくる。しかし、少しはある。けれども、この意見を公然と表明し、できることならその戦争をやめさせようと働きかけるものに至っては、もはや稀有の存在に属する。 ローザ・ルクセンブルクという人こそは、まさしくそのひとりなのであった。』☆ローザは、自分の経済学での理論から、第1次大戦を避けるように警告し、1ヶ月の禁固、戦争開始後1915年2月、フランクフルトで兵士虐待の抗議演説を行い、2月から1年間、ベルリンの女囚監獄に収監され、その後2年4ヶ月、保護監禁をされる。第1次世界大戦はドイツの敗北で終わり、ローザは出獄。 しかし、翌年の1919年1月15日、政府に雇われた暗殺者の手によって倒されます。49年の生涯でした。 変わっていく時代の中で、未来を見据えて発言していったローザでした。
2015.01.15
今日は、1919年に、ローザ・ルクセンブルクが白テロルに倒れた日です。ローザ・ルクセンブルクは1871年にポーランドで生まれ、1897年、チューリッヒ大学で博士号を取得したあと、ドイツ国籍をもっていた知人の息子と形式上の結婚をしてベルリンに移住します。ドイツ社会民主党に参加するためでした。1年もたたないうちに左派の論客として台頭したローザは、右派からの反論にも動ぜず、こんなことを書きます。『日和見主義というのは、たいてい、水の動きの淀んだところで急速に繁茂し、水の流れの速いところではひとりでにしぼんでしまう沼地植物のようなものです。』ベルリンでローザは、30年以上戦争のなかったヨーロッパだったけれど、世界各地で起きている地域的戦争の連鎖の中で、世界戦争を引きおこす帝国主義の台頭を感じ告発していきます。『戦争を引き起こさないためには「帝国主義」を止めなければならない』しかしこの考えは多くの敵を作っていきます。外からも内部からも。今の原発問題に当てはまるような記述が彼女の「資本蓄積論」に書かれています。『資本主義は、植民地諸国にたいしては、もっとも重要な生産手段を暴力的に取得することが資本主義にとっての死活問題だという結論を下す。そこで邪魔になるのは、現地の人たちの地域的結びつきである。資本の行動の手始めは資本が拡大するときにぶつかる、現地の人たちの非資本的結びつきを破壊し絶滅させることにある。破壊しつくしてもはや必要なくなっても、その行為は続けられる。植民地を拡大することとは、現地人の社会的、経済的関係への、資本の執拗な攻撃を伴い、また現地人の生産手段と労働力の暴力的な搾取に他ならない。』 ローザは「資本の略奪が世界戦争を招く」と見て、人々の意識改革のためにハイネの「奴隷船」を挙げます。それは、ドーナツを求めて集まってきた大衆が、政治的意識を高めた大衆になっていく・・・というものらしい。全然よく分からない当時のヨーロッパの政治情勢で、ローザの評価もいろいろあります。兵士たちに反戦を訴え、囚われの身となったローザが書いた「獄中からの手紙」は、1925年にすでに日本で翻訳されているそうです。そうそう、治安維持法で捕らえられ、長野刑務所で1945年夏!に獄死した戸坂潤は、ローザの名前をもじって「薔薇亭華城」という俳号で刑務所内で句会を開いていたそうです。
2014.01.15
苺屋さんが引き売りに来る季節になりました。 朝の摘みたて!今年の苺は、甘くて味が濃いですね。ハウスなんだろうけど、好天が影響してるのかな? さて、昨日の東京新聞の書評欄に、辺見庸さんが、新訳の「ドクトル・ジヴァゴ」を紹介していました。こんな書き出し=すぐれた物語は「永遠の貌」をおたず、読まれる時によって、面貌がおどろくほど変幻する。 1950年代に発表されたパステルナーク著『ドクトル・ジヴァゴ』を70年代に邦訳で読み、このたびは工藤正廣氏の新訳を繰って目をみはった。 時代的制約を感じさせず、いま現在そしてこれからめぐりくるだろう新たな歴史の怒涛と、ひとがまっとうな「個」でありつづけることの困難を、かつてよりくっきりと黙示しているからだ。 第1次大戦からロシア革命前後の奔流を、医師で詩人のジヴァゴがどう生きて、なにに苦しみ、だれを愛し、いかに死んだか。 せんじ詰めればそれを追った、こよなく詩的なこの大長編が、東西冷戦下、「ジヴァゴ事件」として語り継がれる大騒ぎになった。 作品はロシア革命の暗部を隠さなかったために発禁となり、イタリアで刊行され、著者は58年、ノーベル文学賞に決定するも、ソ連作家同盟がかれを除名、ソ連当局も国外追放を示唆したため、パステルナークは受賞辞退に追いこまれる。 ロシア革命礼賛者の多かったこの日本でも「反共作品」視したむきが少なくなく、偏見が消えたのは冷戦構造崩壊後であろう。 言いかえれば、『ドクトル・ジヴァゴ』は、新たな超弩級の激動が予感されるいまこそ、くもりない目で読まれるべきである。 詩と散文のつづれ織りであるこの作品は、詩人にしてロシア文学者の工藤氏による四十年におよぶ労苦をへて、いまふたたびの命をふきこまれた。「良心が汚れていない者は誰もいなかった」「彼(ジヴァゴ)は緩慢に狂っていった」 の文にわたしは今昔を忘れ、緩慢に狂ったのはジヴァゴか時代かと自問する。 目を洗われるようなロシアの風景描写がひとの運命の移ろいにかさなり、いくども眩いた。 ただし、本が高価にすぎる。廉価版が望まれる。=☆という、辺見庸さんでした。 昔、本を夢中で読みましたし、ハリウッド(多分)の映画も見ました。音楽は「ラーラのテーマ」ね♪ 特に体制批判とは思わなかったけど、当時のソ連にとっては西側諸国に教えたくなかったのでしょうね。 本は未知谷さんという出版社で、8400円もするのです。 各地の図書館でリクエストしたら如何でしょうか? 未知谷さんの新刊紹介HPより引用します。=《これで神から遺言された義務を果たし得たのです》このパステルナークの言葉が納得できる一冊1905年鉄道スト、1917年二月革命に始まる労働者蜂起、ボリシェヴィキ政権、スターリン独裁、大粛清――激動のロシア革命期を知識人として奇蹟的に生き抜き、ロシア大地と人々各々の生活を描き切った、何度でも読みたくなる傑作スペクタクル! すすみ行き、すすみ行き、《永遠の記憶》を歌い、やがて停止すると、人の足も、棺を挽く馬も、立つ風も、最後の時の聖歌を惰性でまだ歌いつづけているようだった。 通りすがりの人たちは道をあけ、花輪の数をかぞえ、十字を切った。物見好きなものたちは列に割り込んでたずねた。《どなたのおとむらいでしょうか?》《ジヴァゴです》――と返事が返された。――《道理で。それならわかります》――《いいえ、彼ではなく、奥さまです》――(本書冒頭より)☆あれ~奥様ってラーラのことだっけ? 最初の婚約者のお嬢様と再会したんだっけ?
2013.05.06
公園のこぶしの花が冷たい雨にぬれています。それにしても今年の花はどの種類も皆大きくて立派。まさかまさか、アレの影響じゃあないでしょうね! さて、先日ご紹介した「ロンゲラップ島支援代表団報告集」の追加です。 今年の1月に、原水爆禁止日本協議会から派遣された9人の報告です。 そこには、ビキニ水爆実験から59年たっても、苦しみから解放されない島の人たちに触れた貴重な報告が詰まっていました。 郡山で医療従事している人は『健康チェック、健康相談の手伝いをさせてもらい、好ましい健康状態でない人が多かった。健康管理をするはずのアメリカエネルギー省(DOE)から診断されていないケースが多くあり、大きな問題だと感じた。 たくさんの人が相談にやってくるのを見て何とかしたいと感じ「医療生協の出番」という言葉が頭をよぎった。』 熊本のお医者さんは『ロンゲラップで被曝した1次被爆者86人のうち58人がすでに死亡し、今回生存者28人のうち11人を診察した。 11人のうち7人が甲状腺がんで手術を受けていた。あと2名が甲状腺機能低下症で薬を飲んでいる。放射性ヨウ素などによる内部・外部被曝の影響が大きかったことを物語っている。 一旦避難したロンゲラップの人たちがアメリカの安全宣言によって帰島した1957年から、癌や白血病、流産、死産、子供の先天障害の多発で、安全性に疑問を抱いて再離島した1985年までの間に、残留放射線に被曝した2次被爆者にも甲状腺がん、甲状腺機能低下、乳がんなどがあらわれている。』 茨城の原水協の方は『アメリカ政府は600エーカーの島の面積の37エーカーのみ表土を30センチ削って除染し、移住者のために住居を49棟建てて、現在は作業員の宿舎になっている。 アメリカは被災から3年後、安全宣言を出して島民を帰島させ、島民にAFCコードをつけ、放射線障害の治療もせず、監視と診察を続け、モルモット扱いにした。 島民は外部被曝と食物摂取に伴う内部被曝にさらされ、28年後に離島を決める。 核兵器の開発は生身の人間をモルモットとして、冷徹に放射線の影響を調べて記録していたことは非人道の最たるものとして許されない。 今、福島で低線量被曝について甲状腺障害だけが問題であるかのように注目させられ、あたかも大した影響がないように描くことにより、東電と日本政府の責任を免罪することを許しているのではないか。』 長崎の原水協の方『代表団は、多くの被曝者たちの健康調査に積極的に取り組んだ。島民がひっきりなしに訪れ、昼食抜きの長時間に及ぶこともあった。 被曝者本人はもちろん、2世、3世までもが「自分の病気は放射能によるものではないか」と不安に思っていることが強く感じられた。20年近いロンゲラップでの生活が、いかに辛いものだったのか・・・。 人々は「島が元どおりに除染されないと、戻りたくても戻れない」という心境。「1度目はだましたほうが悪い。2度目はだまされた方が悪い」と、人々は自分たちをいましめ、2度目のアメリカの安全宣言に疑問を持っている。 自治体の側は「帰島問題は個人の判断にまかせる」としたものの、「除染後のロンゲラップは、福島の定住基準よりも低レベル」と言っている。 日本の安全基準が国際基準になりかねない危険を思い知らされた。 広島も、長崎も、ビキニも、福島も、放射能ゼロが安全基準であって、これ以下なら大丈夫という基準を作ってはならないものだということを、あらためて思った。』 ☆もっといろいろなレポートがありますが、長くなるのでこの辺で。 島の人たちのことば。「1度目はだました方が悪い。2度目はだまされた方が悪い。」 日本の皆さん、耳が痛いはず。
2013.03.25
お内裏様です。平安貴族の皆さんもこんなかっこうしていたんでしょうか? 藤原定家くんは、もっとせかせか動き回っていた働きもののイメージあるけど。 夕刊紙でフランス、ル・モンド紙の「チェルノブイリ」の石棺の崩落を伝えています。 なぜか日本のマスコミは取り上げないが、、、の但し書きつき。 テレビの夕刊紙紹介で知りました。 作業員は避難をしているとも。 中には使用済み核燃料が今も発熱しているので、爆発したら一大事です。 チェルノブイリは「にがよもぎ」と言うそうで、ヨハネの黙示録に出てきます。 今回の大きな隕石も不気味!ヨハネの黙示録8章 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると(地の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった) 第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると(海の三分の一は血となり、海の中の造られた生き物の三分の一は死んだ) 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきてた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。 この星の名は「苦よもぎ」と言い。水の三分の一が、「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなり、夜も同じようになった。 また、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。☆隕石の落下は、黙示録そのもの。 日本でも、藤原定家の「明月記」に、隕石の記述が。 さだいへ君の名月記は治承4年2月の開始です。 以仁王の乱の年。『九月一五日、甲子、夜ニ入リ、名月蒼然』 天中ニ光ル物アリ。其ノ勢、鞠ノ程カ。其ノ色燃火ノ如シ。 忽然トシテ躍ルガ如ク、羊猿ヨリ丑寅ニ赴クニ似タリ。 須ユニシテ破裂シ、炉火ヲ打チ破ルガ如シ。 空中ニ散ジ了ンヌ。 若シクハ是大流星カ。驚奇ス。』 那智の大地震、大流星、大小星相闘、日照り、など大変な年を、19歳の定いへくんは目撃したんですね。 前述の石棺の崩落の記事の紹介で、テレビのコメンテーターは「チェルノは1基ですが、福島第1は、4基なんですよ。帰る方向に進める動きがあるけれど、まだ廃炉の見通しもたっていない。 何年か、何十年かたってどうなるかということも考えて、安易に事を進めるべきではない」 と語っていました。 本当にそう思います。 国は、事実を隠さず、正しく怖がる手段を与えてほしいです。 放射能とのたたかいは、長い戦いだもの。
2013.02.19
今日はローザ忌です! 1919年にローザが「時の政府」の手のものに殺された日なので、ローザの写真に花とワインを手向けることにしました。 ローザは、第1次世界大戦の前に、研究した経済学の理論から、このままでは戦争が起き、国民が犠牲になると警告しました。 そのことで1年の禁固刑にされます。 戦争が始まった1915年2月、フランクフルトで兵士の虐待に対する抗議の演説を行います。 その罪で逮捕され、翌年の2月までの1年間をベルリンの監獄に収容され、その後さらにベルリン、ウロンケ、ブレスラウとたらいまわしされて1918年11月までの2年4ヶ月収容されました。 合計4年以上。 ドイツの敗戦で第1次世界大戦は終わり、出獄したローザ。 しかし、今は政府の要人となっていたかつての同志の手引きにより、カール・リープクネヒトとともに1919年1月15日、暗殺されます。 「獄中からの手紙」は、獄中生活を差し入れなどで支えてくれた、カールの妻、ゾフイーへの手紙です。 芸術や文学や自然や友だちや小鳥を愛した快活なローザの姿が伝わってきます。 死の1年前、ブレスラウの監獄からの1月14日の手紙より=ここはきょうは零度でした。だというのに、大気には肌触りも柔らかい、みずみずしい春の息吹が漂っています。 そして空には高く、ミルクのように白い厚ぼったい雲と雲の間から、真っ青な空がちらちら顔をのぞかせています。 スズメは無性に楽しげにさえずっており、なんだか3月の終わり頃なのではないかと思い込んでしまうほどです。 わたしは、もう春が来たのだと有頂天です。 春こそは、生きている限り、もうこれで十分だという気にはどうしてもなれず、むしろそれどころか、年ごとにいよいよその真価が高められ、ますます好きになれるという唯一の季節です。= 伊藤成彦氏の「ローザ・ルクセンブルクの世界」には、12歳のローザ、両親、兄の写真。 ドイツ軍国主義の好戦性と侵略性について演説するローザ、ベルリンの自宅で着物を着て日本髪ふうに結ったローザの写真も。 また、17冊もの押し花ノートの写真も。 これは獄中で差し入れされたものを押し花にしたものだそうで、送ってくれた人の名前と日付、そしてその学名までが記されているそうです。 ついったーで、なぜかローザの恋愛論みたいなのがすごく出回っていて、おやおやと思うけど、今日書いたのを見て、おやおやこれでは闘争的なローザの本髄が欠けてるじゃないかと思う人もいそう。 でも、その面は有名なので、ま、いいや♪
2013.01.15
中原淳一先生の「啄木かるた」です。 おしゃれな女の子のイラスト絵札! 啄木の歌はなかなか厳しい。*その後に我を捨てし友も あの頃はともに書(ふみ)読み ともに遊びき*何処やらむ かすかに蟲のなくごとき こころ細さを今日もおぼゆる*ゆえもなく海が見たくて海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に*いつとなく我にあゆみ寄り手を握り またいつとなく去り行く人々*糸きれし凧のごとくに若き日の 心かろくもとびさりしかな 明日1月15日は、ローザ・ルクセンブルクの忌日です。 1919年1月15日、反戦と革命の活動の中で死ぬことを予感していたローザは、反革命軍(政府軍)の兵士によって逮捕され、すぐに殺されてしまったのです。 ローザといえば、治安維持法で拘留され獄死した戸坂潤のことが思われます。 国家との悲壮な闘いの中でも、当の潤はいたって快活で、留置場内で「俳句会」をもち、革命家ローザ・ルクセンブルクの名をもじって「薔薇亭華城」という雅号で句作したとか。 戸坂の京大大学院での様子を当時新入生だった後輩は『「あそこに四天王子がいる」と友人がささやいた。そこには木村素衛、高坂正顕、西田啓治、戸坂潤の四人が心理学教室の前の庭園で談笑しているのを、自分たちは、ほのかな羨望とぼんやりとした敬仰の気分でながめていた。」 この四人の中で、戸坂だけがやがて西田門下を離れ、唯物論の立場で京都学派に対して鋭い批判を展開することに。』 1930年以降は、唯物論研究と国家権力との闘争の日々。 1938年、2月29日未明に検挙され、裁判と刑務所生活が続く、残された子ども達に潤の母は「お父さんは立派な学者で、それがわからぬ警察が連れていったのだから、おまえたちは決してはずかしがることはない」と言い聞かせたといいます。 戦争がないとき漠然と「戦争に反対する」ことは割と容易だ。 戦争が始まってからも、自分は戦争に反対だと思う人も少しはいる。 けれど、この意見を公然と表明し、戦争をやめさせようと働きかける人は、ほとんどいない。 ローザも戸坂潤もその数少ない一人だった。 ローザは激しく、戸坂潤はおだやかに。 1914年8月、第1次世界大戦が勃発反戦演説をしたローザは起訴されます。 そして4年3ヶ大戦中、3年4ヶ月を獄中で送りました。 2013年の極東の日本に私たちはいるわけですが、昨今の政治の動きに見える、この漠然とした不安は・・・・何なんでしょうね。
2013.01.14
ベルサイユのばらかるたです!き=貴族のやつらをしばり首 *母のアントワネットと離されたルイ・シャルルは、兵士たちの中で、いつしか革命歌を歌うように。フランス国歌は革命歌なんですね。へ=平民どもは裏口へ *三部会開かれる。議員構成は 第一身分、僧侶308名 第二身分、貴族285名 第三身分の平民は、人口比の96%を占めるにもかかわらず、代表議員はわずか621名で、平等な会議とはいえなかった、とかるたの説明に。 国民の声が反映できない、今の日本の国会を見るようです! では、脱原発・自然エネルギー218人詩集より「性と理性」 根津光代1ミリメートルも違わずコゴミやタラの芽は成長し春は宝の山1ミリグラムも違わずキノコは生え樫の木はドングリを落とす実りの秋誰一人去年のものと区別できない誰一人その変化に気づけない(中略)何も変わらず花は咲き小川に小魚が泳ぐ蝶が楽しげに飛ぶトンボもセミも何も気づかない彼らの一生は短いその一生に事は起こらずいつもの様に世代を繋ぐ何もかも元どおりなのに決してそうではない恐ろしさ線量計だけがそれを教える盲人の白杖のような線量計それだけが唯一拠り所人間にそれは察知できない人間にそれは制御できない人間がそれを持つべきではなかった人間は地球を作れなかったが地球を破壊するものを作った人間は作ったものを使いたがるそれは人間の性かもしれないがかろうじて人間は理性を持っているその理性に私たちは全てを・・・・・懸ける。☆根津さんの生き物たちへのコメントに「それでも世代を繋いでゆく彼ら、それでも決して世代を絶やそうとはしない彼ら、私たち人間は何よりも彼らに謝罪しなくてはならない。」 と、ありました。 みんなが、そう思うべきです!
2013.01.10
今日7月14日は、フランスの革命記念日です。 では、池田理代子先生監修のベルサイユのばらカルタにて、当時を偲んでみましょう。あ=アンドレ青いレモンい=イケメンぞろいの近衛隊う=生まれながらの女王様き=貴族のやつらをしばり首く=首飾りの代金払ってねこ=国王のご趣味は錠前作りせ=正義の弁護士ロベスピエールつ=ついに陥落バスティーユね=熱血指導のオスカル隊長ふ=武器をとれ市民諸君よ=夜逃げだ夜逃げだヴァレンヌだれ=歴史に残る名演説わ=わたしの屍をこえていけ!は=バスティーユ微笑みながら衛兵登場な=泣かせますアンドレ行くぞ!用意はいいかさ=三部会新しい時代の幕明けでは、フランス国歌を!1番祖国の子どもたちよ、栄光の日がやってきた!我らに向かって、暴君の血塗られた軍旗がかかげられた血塗られた軍旗がかかげられたどう猛な兵士たちが、野原でうごめいているのが聞こえるか?子どもや妻たちの首をかっ切るために、やつらは我々の元へやってきているのだ!武器をとれ、市民たちよ自らの軍を組織せよ前進しよう、前進しよう!我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために! すごいですね! ひるがえって考えれば、長いものに巻かれろ、式の我が祖国。 不都合な真実は、無いものとして目を逸らし、目をつぶる習性。 このままでは元気良く前に進めやしません。
2012.07.14
今日は、ローザ・ルクセンブルクの命日なので、薔薇の花を買ってローザの好きなワインを供えました。 第一次世界大戦を起こしてはいけないと運動し、戦争が始まってしまってからも、兵士たちを守るために抗議の演説をし続けたローザ。 3年半ほどの間、その発言を押さえるために「保護監禁」として刑務所をたらいまわしされたローザは、差し入れの花束を美しい押し花にしていたそうです。 刑務所からのローザの手紙。「ハクサンチドリにはなかなか典雅なおもむきがあるけれど、いかにも奇抜で不自然なその姿には何かしら、一種のすれっからしの、頽廃した気分があるように感じられてなりません。 これを見ると、わたしはいつも、ロココ時代のあのあでやかに身を飾り立てた侯爵夫人を思い出さずにはいられないのです。 一般に頽廃したものや、倒錯したものをみると、何によらずすぐ反発を感じてしまうわたしの生まれつきの性質から、こうしたものを見ると内心はなはだおだやかでなく、ある種の反発を感じてしまうのです。 わたしには、たとえばタンポポのようなあっさりしたものの方がどんなにうれしいか分かりません。 タンポポは、太陽の光をたっぷりとその色合いのうちに貯え、陽の光りに向かえば生き生きと感謝のこころを籠めてその花びらを開き、ちょっとでも日陰になろうものなら、すぐさましょげてつぼまってしまう所など、私とそっくりそのままです。」 こんな率直なローザは、1919年1月15日、白テロルの犠牲となったのです。 さて、今日の夜10時からのNHKEテレで「日本人は何を考えてきたのか2」「自由民権東北で始まる」という番組があり、菅原文太が被災地を訪問するそうです。 菅原文太といえば、今、CSの時代劇CHで放映中の「獅子の時代」で、さまざまな明治政府の政治の歪みを体験した上で、「自由自治元年」の旗を立てた秩父困民党に参加していきます。 秩父は農地が少ないために、農民たちは養蚕に取り組んでいたのですが、大きな赤字の穴埋めをしようとした、松方正義の増税策のために消費が冷え込み「松方デフレ」となり、秩父の農民たちは一家離散し、高利貸しの追求におびえている所です。今の野田内閣が彷彿としてきます。 今日のEテレでは、そんな菅原文太さんが、「明治政府と民権派が福島で衝突!真相は」と追求していきます。 ぜひご覧ください。
2012.01.15
今日は田舎に行きました。写真はたんぽぽの帰り花です。 大した事ないのですが、老人を茂原の病院へ連れていって、待合室でよそのおじいさん2人の会話。「インフルエンザの予防注射やったか?」「まだだ。流行るのは春先だから、今やるより年末になってやったほうが、ワクチンの効き目が強いっぺ」 黙って聞いていたけど、なるほど~!これは医学的に正しいのでしょうか?高齢者は、12月までが補助金が出るらしい。ちなみに、私は今までインフルエンザのワクチンを取り入れたことはありません。 さて、東京新聞夕刊の大波小波さんの「間者」さんが、米国の週刊誌「ニューヨーカー」の記事の紹介をしていました。 80年代のNHKスペシャルの原発導入の内容と同じだけど、全文をご紹介します。『日本の原子力関係予算が、各国中でも突出していると、政策仕分けで槍玉に挙がった。 原発事故半年を機に特集した米週刊誌「ニューヨーカー」(10月17日号)の「福島からの手紙 放射性降下物」を読むと、その大盤振る舞いに合点がいく。 日本人の核アレルギーを取り除くため、米政府が日本に原発推進をたき付けていたというのである。 東西冷戦の激化の1950年代、アイゼンハワー大統領は、核への反発から日本が米国離れするのではと思い悩んだ。 広島、長崎の悲劇に加えて、54年3月、マグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験による死の灰を浴び、反米世論が盛り上がったときである。 大統領は国家安全保障会議で「日本からは鼻持ちならない戦争屋と見られている」とぐちった。 国務長官代理は「日本人は核兵器に病的に敏感だ。原発をつくらせて原子力時代に誘い込むのがベストの対応です」と応じたと、秘密メモを基に報じている。 これを受けて、大統領は国連総会で原子力の平和利用を宣言。 日本に対し、政界は中曽根康弘、民間は読売新聞社主・正力松太郎に狙いを定め、CIAも加わって原発の技術、資金援助を進めたという。 国際政治の世界は油断も隙もない。」☆という、大波小波さんでした。 その結果が今回の福島の事故につながっていると思うと、、、、。 こういう記事が出て、米国人が福島に責任を感じてくれるといいけど。 来年1月に公開のクリントイーストウッド監督の映画は、長い事FBIの長官に君臨したなんとかさん(名前が出ない、、)の厭らしさを、レオさまがやるそうです。 彼は、多くの政治家や著名人の裏情報を集め、ケネディやキング牧師の暗殺にも関わったらしいけど、イーストウッド監督は、確証あること以外は描かないので、見ている人はもっと踏み込んでほしいとイライラするらしい。 でも、本当のテーマは、彼が自分がホモであることを恥じて、マイノリティをを弾圧するすさまじさ、にあるのだと、小島慶子キラキラで、町山ともひろさんが言ってました。 こういう映画が作れるアメリカ人って、すごいです。
2011.11.25
すっかり忘れていましたが、AIで担当したのが、最初はリビアで次がラオス、その次がパキスタンでした。 時は、世界の警察官を標榜して気に入らない国には爆弾の雨を降らせたブッシュの時代。 私たちが担当したのは、周辺諸国がアメリカのポチだったのに対して、アメリカのいうことをきかない国の人でした。それでその国の反政府運動をしている人への応援する私たちって、ブッシュの手先になるってことにならない?という戸惑いもありました。 もちろん、アメリカや親米の国の反政府運動の人たちを担当しているグループもいるのですが、数としては反米の国が多かったと思います。 民主主義への考え方が違うのかも知れません。 今回、リビアがどうなるのか分かりませんが、カダフィ政権が崩壊したあと、その国土が西側諸国に食い荒らされるなんてことにならないといいのですが。心配です。
2011.02.24
MLで、自国民への無差別爆撃を行っているリビアへの意思表示の方法が回ってきましたので、ご紹介します。『国連安全保障理事会各国代表の皆様リビアにおける暴力を停止させなければなりません。私はリビアに対して、a) 市民に対する爆撃を止めさせるための飛行禁止区域の設定b) カダフィとその家族、最高司令部が持つ資産の凍結c) 体制に対する目標を定めた制裁d) 弾圧に関与した軍当局者に対する国際的訴追の開始を定めた決議を採択するよう求めます。(メール送信方法)Name 名前E-mail メールアドレスCountry 国名Post Code 郵便番号の各欄に入力して赤いSendをクリックしてください。(以下、Avaazからのメールの訳)友人の皆さん民主主義を求めて抗議する何百もの人たちが、リビアでカダフィの軍により虐殺されている。国連は現在、緊急会合を開いており、体制側資産の凍結、飛行禁止区域の設定、国際法廷による裁判を決定する可能性がある。流血の事態を終わらせるため国連に働きかけよう。リビア軍は民主主義を求めて抗議する者たちに対して、マシンガンや戦闘機を使っている。何百もの人たちが殺されており、直ちに国際的な行動を起こさなければ、リビアは血の海へと突き進むだろう。国連安全保障理事会は現在、リビアについて緊急会合を開いている。私たちが理事会に圧力をかけ、リビアに対して飛行禁止区域の設定、カダフィと配下の将官らが持つ資産の凍結、体制に対する目標を定めた制裁、弾圧に関与した軍当局者すべてに対する国際的な訴追で合意してもらえば、空爆を止めさせ、カダフィの命令系統を破壊することができるだろう。少しの時間も無駄にできない。リビアの人々は自身の政府によって虐殺されているのだ。クリックして国連安保理の各国代表らにメッセージを送り、暴力を停止させよう。このメールをみんなと共有しよう。大量のメッセージでもって国連に行動を促そう。メッセージ送信はこちらから:http://www.avaaz.org/en/libya_stop_the_crackdown_1/?vlカダフィ大佐は42年間にわたって議会も憲法も持たずに強権支配を続けてきた。彼はアフリカと中東において最長の独裁を敷いている。外国の記者はリビア入りを許されず、政府はインターネットと携帯電話ネットワークを遮断して、残虐な暴力を隠蔽しようとしている。しかし、体制変革と基本的権利を求めて抗議する者たちは、何百人もが虐殺されたにもかかわらず、何千もの人々が依然として街頭に繰り出ていると語っている。国連人権高等弁務官のナヴィ・ピレーは、政府による攻撃が「人道に対する罪に当たる可能性がある」と指摘した。リビアの複数の外交官、数人の最高指令官は残虐行為に愕然として、すでに体制から身を引いている。国連がカダフィとその一派に対する圧力を一気に高め、資産を没収し、訴追で警告することができれば、残虐行為を命じている者たちが考えを改め、虐殺を止めるかもしれない。現在の国連安全保障理事会議長国はブラジルで、この政府は人権について精力的に取り組んでおり、Avaazはキャンペーンを行う上で高く評価している。国連安保理を動かすために残されている時間は長くない。安保理メンバーの受信トレイを世界中からのメッセージで溢れかえらせよう!このメールを友人、家族に転送しよう。http://www.avaaz.org/en/libya_stop_the_crackdown_1/?vlリビアの人々は自由、健康、教育、まともな賃金を求め、凶弾に倒れている。これらは私たちすべてが共有している基本的ニーズだ。今日という日、世界共同体として、世界の隅々から声を上げ、驚愕すべき虐殺を糾弾し、共に立ち上がり、この流血の事態を終わらせ、変革を求めるリビア人たちの正当な叫び声を支援しよう。希望と決意を持ってAlice、Ricken、Pascal、Graziela、RewanほかAvaazチーム一Dear friends,Hundreds of democracy protesters are being massacred by Qaddafi's military in Libya. The UN is in emergency meetings right now and could freeze the regime's assets, impose a no-fly zone, and threaten trials in international courts. Tell the UN to act now to stop the bloodshed:Send a message now!Libya's armed forces are using machine guns and fighter jets against pro-democracy protesters -- hundreds have been killed and, without immediate international action, it could spiral into a national bloodbath.The United Nations Security Council is holding emergency sessions on Libya now. If we can pressure them to agree to a no-fly zone over Libya, an asset freeze on Qaddafi and his generals, targeted sanctions against the regime, and international prosecution of any military officials involved in the crackdown -- this could stop airforce bombings and split Qaddafi's command structure.We have no time to lose -- the people of Libya are being slaughtered by their own government. Click to send a message directly to all the UN Security Council delegations to stop the violence, and share this with everyone -- let's spur the UN to action with a flood of messages:☆以下略します。 メッセージ送信はこちらから、を開いて国名をみましたら世界に沢山の国があるのにびっくりしました。 初めてアムネスティに関わった時の対象が、リビアのMr.Issawiさんでした。ドイツやオランダの彼を担当しているグループと連絡を取りつつ、政府によって拉致された彼の消息を知るべく、カダフィ氏、収監されているであろう刑務所の所長さん、法務大臣みたいな人に毎月手紙を書きました。 気を引こうと日本ふうの絵はがき、切手を用意して署名もわざと漢字で書きましたが、、なしのつぶて。 「刑務所長さんの奥さんのコレクションになってるかもね」と自嘲しつつ出しました。 5年くらい経った頃、アメリカの衛星で見たら刑務所の場所から刑務所が消えていた、、、というので真偽を確かめるべく手紙を書いたこともありました。 海外から手紙が行く事によって、その人の存在を知っている人が世界中にいる、ので、政府も闇に葬ることができないだろう、という希望的観測に基づいた行動です。 リビアの民主化が成功することを期待してます。そして、民主化を求めて闇に葬られた人たちのことを明らかにしてほしいと思います。 私の所からは入れないので、「メッセージ送信はこちらから」のアドレスで出て来る「太田」さんの所から入ってね。世界中の人の動きが見えます。
2011.02.24
今週の善徳女王は、80年に及ぶ迫害を受けて来た60万人の伽?の人々を救うため、伽?出身の金?信(キムユシン)を王にして、新羅を伽?の国にしようという計画でした。 ユシンを信じるトンマンですが、ユシンを国賊と言わねばならない状況に追いつめられます。 歴史学者には伽?についての二つの謎があるそうです。一つは、三世紀終わり頃から北方文化を持つ墓がそれ以前の墓を破壊しながら出現すること。 二つ目は、五世紀前半に金海地方から支配者集団が突然いなくなる、ということ。 善徳女王のこれからのあらすじを見ると、トンマンは伽?の人々の戸籍を全て燃やさせ、次の次の世代にはもう自分たちが伽?の人間だと知る人はいなくなるだろう、と言うみたいです。 新羅に同化させる方向をとったみたいですが(ドラマだけど)、そうすると伽?の人たちの文化や歴史はどうなるのかな? これからドラマは百済との戦いで三韓統一のスタートです。 ミシルとの戦いではあんなに聡明だったトンマンが、王になったらちょっと政策に迷っています。
2010.11.18
タオのプーさんを読みました。全編これ禅問答みたい。そういえば、古今の先生が、「タオイズムは日本人に深くしみ込んでいるが、はっきりとは見えない。はっきりと残しているのは、禅寺くらいでしょう」とおっしゃっていました。 タオイズムってどんなもの?と思っていちばんわかり易い説明はこんなふうに書かれていました。=3人の男が酢桶を囲んで立っている。それぞれ指を酢に浸して味見をしたばかりだ。 3人は中国の導師、孔子、仏陀、そしてタオイズムの老子。ひとりは酸っぱそうな顔をし、もう一人は苦い顔をし、最後の一人はほほえんでいる。 孔子にとって人生は酸っぱいものだった。現在は過去と足並みを揃えていないし、地上の人間のまつりごとは宇宙のまつりごとである<天の道>と調和がとれていないと思っていた。 仏陀にとってこの世の生活は苦しみを招く執着や欲望に満ちあふれた苦々しいものだった。この世は罠をしかけ、妄想を生み出し、あらゆる生き物を苦しめる際限のない輪廻であるとみなされた。 老子にとって、地はその本質において天を映し出しており、同じ法則によって営まれている。<人間の法則によってではない> 宇宙の法則によってつくりだされ、支配されている自然のバランスに人間が介入すればするほど、その調和は遠のき問題は大きくなる。 世の「塵芥」に背を向けるより「塵芥とひとつになれ」と老子は説いた。この生き方がおのずから幸福をもたらす、明るい落ち着きこそ、タオイズムの基本である。「でも、それがお酢となんの関係があるの?」とプーが聞いた。「それは説明したと思ったよ」と、ぼくはいった。=☆私にとっても初めてのタオイズムが、ちょっと分かる気がしました。 ところで、善徳女王ではいよいよミシルが王になろうとします。王を閉じ込め、唐の使節と会います。 唐の使節は新羅に友愛の証しとして大量の黄金、一番金のとれる鉱山の1年の算出量より多くの黄金を求めます。その代わりに何を新羅にくれるかと聞くと「友愛を与えましょう」と唐の使節は答えます。 そこでミシルは怒り、使節とは話しにならない、皇帝を寄越せば「さしで話もしよう」と言い、怒った唐の使節の口から出た言葉を「宣戦布告と取りました。そういうときは。使節の首をはねてそれとともに返事をするということだ」と言い切り、唐の使節は平伏します。 韓国でこのドラマの悪役ミシルが超人気だってこと分かりますね~。大国唐に対抗できる力量! 史実では、トンマン王女が唐の援護を受け、善徳女王となり、金?信、春秋王が朝鮮半島の三国統一を手がけるのです。 日本や韓国の歴史学者が伽?についての不思議としていたことが、このドラマでひとつ分かりました。それは、繁栄の伽?の主だった豪族たちが、ある時期以降こつ然と姿を消したということです。 新羅に吸収されたキムユシン(金?信)ら伽?の豪族たちは新羅の中央に入って三国統一をなしとげること、それこそが伽?の人々の生きる道だ!と叫んでいるのです。 地続きではなかった辺境日本は、有り難いことに騎馬に蹴散らされずに済みましたが、、、、これからどうなることやら、と韓国歴史ドラマを見て思うのです。
2010.10.10
もうひとつのノーベル賞といわれる賞に、日本の研究者の「粘菌」の地図が選ばれたそうです。それは、日本地図の各都市に粘菌を置き、粘菌がどこに伸びて行くか見守ったというもの。そうしたら、粘菌は自然に人間の作った道路や線路にほぼ同じように伸びて行ったという研究結果です。 テレビで地図を映していましたが、すごいですよ。内房線、外房線、総武本線もきっちり同じ場所を走っているのです。 これを実験した先生方は、「粘菌は単細胞といわれているが、単細胞でもすごいんだ!」と興奮気味でした。粘菌を愛した南方熊楠先生もさぞや喜んでおいでのことでしょう。久しぶりに水木しげるの南方熊楠伝「猫楠」でも読んでみましょうか。 さて、先日のテレビ、「一週間de資本論」の、的場昭弘先生の本「マルクスだったらこう考える」を読みました。 序章は「マルクス、21世紀の東京に現る」で、とっても身近なマルクスです。 もっと興味本位なのは、マルクスの私生活。 マルクスの伝記では、今まで彼の貧困や質素な生活などが強調されてきていたけど、本当は、収入以上に支出をして中産階級的な暮らしをしていたための「お金がない」状態だったらしい。 妻は貴族の出で、結婚する時に「ねえや」も連れて来て、そののちマルクスはねえやとの間に男の子をもうけたりするのです。そしてその子のめんどうやマルクス家の生活費は、親友エンゲルスが援助してくれました。 的場先生は、彼の生活からは貧しさへの共感を推し量ることなどはできない、といいます。本文を引用すれば「むしろそうだからこそ、マルクスは現代の問題に耐えうる能力をもちえたのだと思われるのです。 それはなぜか。マルクスは経済的な豊かさを求めようとしてあくせく研究したわけではないからです。貧困が『資本論』を生み出したわけではありません。 マルクスは中産階級としての生活を維持することによって、近代社会の陥穽に深い洞察を行いえたのです。 マルクスの思想が、イギリスやドイツといった地域を越えて世界的なパースペクティブをもっているのは、貧困をごく身近な問題にしていないからだともいえます。 イギリスの貧しい労働者でさえ、アフリカの労働者を搾取しているのだということを認識するには、貧困を問題にしているだけでは何も見えてこないのです。」☆的場先生は、中学生の頃にマルクスを知り「マルクス界における卓球の愛ちゃん」のような存在だったんですって。 多分、大人だったらさまざまな先生方から袋叩きにあっていたかも。 それにしてもマルクスひとすじ、良い人生ですね。
2010.10.07
ショパンの生誕200年ということで、いろいろな催しが行われているようです。今日は、ショパンのレクチャーコンサートを聴きに行きました。 レクチャーされたのは、主にショパン国際コンクールについて。 第1回は1927年1月、その後、5年おきに開催されてきました。 長く中断したのは、1937年ののち、ポーランドがナチスドイツによって占領され、壊滅的打撃を受けたのちの戦後 1949年の開催までの12年間です。 1949年には、会場が破壊されてしまっていたため、博物館での開催だったそうです。以前見た映画「戦場のピアニスト」も、ショパンコンクールの下敷きなどがあったのかも。 1989年の優勝者は、ベトナムのダン・タイ・ソン。 防空壕に逃げこむ日々だったのを、ソ連に留学、才能を花開かせたのだそうです。 日本に演奏旅行に来た時の朝日歌壇に*ダン・タイ・ソンのポロネーズ激し (なんとかの)雷雨の中にそを聴きに行く というような歌が載っていた記憶があります。 この時から、ショパン演奏の評価が、古典派か革新派かの論争があったのだそうです。 次の11回1985年は、あのブーニン! 14回の2000年は、中国人のユンディ・リさん。 この年は入賞者の半数がアジア系の人になったんですって。 ショパンは、1810年、ロシア、プロシア、オーストリアの、第3次3国分割支配の、ポーランド国家が消滅していたときに生まれ、1849年、パリにて死去しました。 この短い生涯のうちにたくさんの名曲を残しました。 ポロネーズは、行進の踊りの曲で、憲法記念日などにも必ず演奏されるそうです。何度も何度も分割支配された悲劇の民族が守って来た誇りなんでしょうね。 素敵なドレスの先生が、いろいろなショパンの曲を弾いてくださいました。すご~く上手でした。でも、生のコンサートは、不慣れなもので、CDを聴くほうが落ち着くかな???
2010.09.04
韓国歴史ドラマ「善徳女王」がBSフジで37話目です。 伽?出身のユシンは、ファランの長を決めるピジェに勝ち抜くのですが、美室一派から伽?の難民に自分の領地を与え、反新羅勢力とも関係がある事を責められ、反新羅勢力のふくや会のトップの命を差し出すように言われます。 悩むユシンは、自分が美室のしもべになる事を申し出、美室は自分の姪?と結婚することで、ユシンの人物と才能を自分のものにします。 婚礼の準備が進むなか、ユシンを失った悲しみに打ちひしがれるトンマン。 一方、師匠ムンノが、(はじめはピダムのために)三国統一をかけて各地を歩いて作った資料を、ユシンにこの国の未来のために託すという言葉を聞き、悲しみと嫉妬に怒り狂うピダム(美室が捨てた子)は、その本を奪おうと師匠に襲いかかります。 もみ合っているうちに、商人の刺客の放った毒矢に当たったムンノ。 その死の間際に、やっと師匠とピダムは邂合できるのです。師匠の最後の言葉は、「ファランになって、ユシンとともにトンマンを助けるよう」でした。 悲しみの中で、ユシンが守った伽?人の村を訪ね、豊かな田園風景に、その意義を悟るトンマン王女。 ピダムは、奪われた師匠の本を探し、仇をうつために商人の元へ。 その商人が本を売った相手は、春秋(チュンチュ)でした。 ☆トンマンの姉の子である春秋は、おばかなふりをして、何でも理解できている優れた若者です。史実では、彼は日本にも滞在したことがあり、ユシンとともに、新羅の三国統一を成し遂げるのです。 韓国のこの頃の歴史を知りたいと思うのですが、南北に分かれてしまっているため、なかなか良い資料がありません。 南北の雪解けムードの頃に、考古学者さんたちの交流もあり、相当研究も進んだようですが。 さて、昨日の碓田のぼる先生の中に、姜尚中さまの本について書かれていましたので、いただいてご紹介。=姜尚中「心の軌跡」= プロローグとエピローグをもつ八章からなるこの自伝は、朝鮮戦争の時に生まれた著者が、「悲壮な決意」で、青年期までの日本名「永野鉄男」を「姜尚中」に変えてゆく心内のたたかいをつぶさに語っている。それとともに、政治学者としての広い視野の中で、「在日」の問題を深く心の軌跡として迫っている。「ゴーリキーの『どん底』のような光景」の日常の中で、在日韓国、朝鮮人の集落は、「いつも圧力釜のように煮えたぎっていた」。 その原風景の中で、「在日」の作法で生きた、父や母や「おじさん」たちの「やさしく温もりのある不遇の人々」へよせた、著者の愛惜の思いが、本書には基調奏音として流れる。 梁石日の『夏の花』に、姜尚中は「解説」を書いているが、「幾重にも重なり合った現実政治の奥深い闇が浮き彫りにされている」という作品評は、そのままテレビに登場してくる自画像かと思わせてくる。 著者は最終章で、この数十年におよぶ歴史の成熟を語りながら、「見果てぬ夢だった」「南北統一」が、政治的スケジュールになりつつあると述べている。 「漢江の川縁で愛をささやく、ありふれた恋人たちの姿」を、ピョンヤンの大同江のほとりでも見たいと語るとき、著者はここでは詩人になっている。=☆という姜尚中さまの紹介でした。 同じ歴史、同じ言葉を持つ、同じ民族の悲劇。 野心を持ってかかわった日本は、ずっとアメリカさんの顔色をうかがってばかりでした。統一の悲願の叶う日が、少しでも早くくるように、独自に動ける日本になりたいものです。
2010.07.16
なぜか風雨が強い昨今で、ツルバラもいよいよ見納めになってしまったので、曇り空を幸いと剪定をしていたら、隣家のセレブが摘んだラズベリーの実をくれました。 ついでに、新種のアジサイ「カメレオン」というのも、挿し木にしたら?と切ってくれました。変な名前の由来は分かりませんが、すごくきれいな淡いピンクです。 変な読めない名前が増えた昨今の相撲界も野球とばくやかけごとに「恋子の夫の三郎」みたいな人も参加して大変です。神話の時代はともかくも、どうせ興行師がセッティングする見せ物なのに。 狭い村社会では、みんながやっているのを拒めないでしょうし、寄って来る人たちもアブナい系? よくないことなので、とばくは一掃すべきでしょうが、相撲を国技だ神事だと言って現実と乖離したことを押し付けている横綱審議会みたいな人たちも、何か変。 どうせなら、ただの見せ物として何でもありで生き残るか、本当の神事として人には見せないで格式を守るとか、したらどうでしょうか?(まじめに読まれると困りますが。ただの雑言です) ところで、韓国歴史ドラマ「善徳女王」に、今週、いよいよ三国統一を果たす「金春秋(キムチュンチュ)」が登場しました。善徳女王トンマンの双子の姉の子どもです。 花郎のトップを決めるピジェの日に、春秋が都を目指してやってきます。先にその身柄はミシル(美室)たちに押さえられているように見え、トンマンの両親の王様も王妃も気が気ではありません。ミシルは余裕。 それが、到着の日になってもなかなか着きません。 彼は馬に乗れないし、輿に乗ると酔ってしまうと言って休んでばかり。 ミシル陣営では春秋は馬にも乗れない弱虫だとあきれます。 しかし、春秋は早朝宿を出て一人ピジェの会場に姿を現すのです。なかなかの好青年。 史実では、春秋は、大化の改新後の日本や唐に人質のようになって滞在し、のちに唐と手を結んで百済と高句麗を滅ぼして三国の統一をするのです。 ネットで調べてみましたら、この金春秋の政権を取るパターンは、日本書紀に日本の天皇の名をあてはめてそっくり書かれてあるのだそうです。 トンマン(善徳女王)の在位期間が、皇極天皇と全く同じで、次がトンマンの従妹が王になり、これは、大化の改新ののち、中大兄皇子が、皇極天皇を立て、斉明、次に本人が天智天皇になったのとかぶるんだそうです。 日本書紀は、この新羅の歴史をそっくりいただいてあるらしいのだそうです。 何がほんとで何が尊いのかわかりません。 ともあれ、善徳女王は、生真面目が軍服を着ているようなユシンさまと、シャイで孤独な高貴な捨て子のピダムが、トンマンをすごく好きだという点で、すごくいいのです。 そうそう、史実では、ユシンさまの妹が金春秋の妃となるのだそうです。
2010.06.19
今日のアジサイです。 今日は雨で気温も20度くらいらしいです。毎週来るイチゴ屋さんが、今年は寒い日が多くてイチゴやメロンが半月くらい遅れていると話していました。季節に合わせ、出来たものを食べるしかないですね。 さて、善徳女王のヒロイントンマンは、双子が生まれると王室が滅びるという予言のために、生まれてすぐに砂漠の国へ追いやられ育ちますが、ミシルの放った追っ手を逃れて、新羅へやってきます。 自分が誰かを知る為に、男の姿になって花郎の養成施設に入り、そこで伽?人のキムユシンの配下になって成長します。 長じて、トンマンが王女と分かったとき、伽?の人々は、ユシンがトンマンと結婚して新羅の王となり、虐げられた伽?人を救ってくれるよう期待します。 しかし、ユシンさまは、自分が王となれば、王室に混乱が起き、伽?人への弾圧も強まるだろう、多くの伽?人がむだに命を奪われる事のないように伽?人を守るため、自分は自分を捨てて(ほんとはトンマンが好き!)一生を王室の臣下として新羅に捧げるのだ!と固く決意します。 この3国の歴史は、関係する各国で微妙に違っています。そのあたりを、蓮池薫さんの「韓国歴史ドラマの舞台と今」より。 高句麗が国の主な部分を占めている北朝鮮は「百済と新羅は,高句麗より遅く建国されただけでなく、政治、軍事、文化、経済などのあらゆる面で立ち遅れており、当然高句麗に従うべき国だったと描写。 新羅が唐と手を結んで百済や高句麗を滅ぼしたことについては、 新羅の統治者たちは領土を広げようとする野望を実現するために、唐の侵略勢力を引き入れる罪悪的な行為を敢行した。 645年、新羅の金春秋は唐を訪ね、とうてい許すことのできない「秘密協約」を結んだ。その内容は新羅と唐が連合して高句麗、百済を滅亡させたあと、大同江(平壌のある場所)の北側は唐が管轄し、その南は新羅が所有するというものだった。 北の歴史教科書では高句麗を統一を主導した強大国,新羅は背信の国、百済は高句麗のルーツを持つ国として、明白に色分け。 それほどまでに強大だった高句麗がどうして滅亡したかという点では 「階級制」を強調する立場から、高句麗の支配層の内部紛争を原因として挙げている。 韓国では、長い間三国時代の中心国家を新羅とし、新羅による三国統一を政治的な意味をこめて強調してきた。そのことで、朝鮮半島の南半分に位置した韓国政府の正統性と、南北統一における韓国の主導的地位を内外に印象づけようとした。 1992年まで、韓国の歴史学者が高句麗の遺跡にアクセスする可能性もなかった。 90年代後半、韓国に北朝鮮との融和政策を進める政府が誕生して、高句麗の再評価が進み、新羅の三国統一を評価するだけだった見解が大きく変化した。批判すべき点として1/新羅による三国統一の過程は、侵略者と結託して同族国家を滅亡させ、かつての高句麗の広大な領域を放棄したという、悲劇的な側面を有している。2/朝鮮半島北部と中国東北部地域を失ってしまったことにより、新羅による三国統一の意義がなくなった。 一方、従来通りの歴史的意義も述べられている。 新羅の三国統一により朝鮮半島に平和が訪れ、人々が戦争の苦しみから開放された点、三国の間に存在した異質な点がなくなり、そこに住む人たちが同族意識を持ち、一つの民族が形成されていく重要な契機になった点など。 最近の韓国の歴史書では、高句麗と随、唐との戦争で活躍した武将の名が、北朝鮮の歴史書ではないかと思うほど大きく扱っているものがある。 歴史的に高句麗ほど民族的自負心を高めてくれる国はなかったという考え方が、韓国にも広がりつつあるのだ。☆という、蓮池薫さんの分析でした。中国という大国がそばにひかえていて、島国の日本とは違うドラマチックな歴史が、朝鮮半島にはあるのですね。 さて、トンマンは自分が王になる資格として、民に「夢」を与えられる王になろうとしています。それは広い国土で豊かに暮らせる希望。トンマンのことですから、ゆめゆめ侵略や搾取などはせず、善政を布いてくれると信じています!
2010.06.14
昨日、紙芝居を図書館で借りたのですが、その時にちょっと見た「吉備真備」の伝記も借りて来ました。なぜかというと、パラパラと見た中に、善徳女王のユシン郎のことが書いてあったのです。 善徳女王は吉備真備と同時代の人だったんですね。 その伝記は明治41年生まれの宮田俊彦という学者さんが書いたもので、今ならこういう書き方はしないであろう、と思える新羅を見下した感じがそこここに書かれています。当時の朝鮮半島の国々の様子について。=任那の日本府を滅ぼしたものは結局百済ではなくして新羅であった。(欽明天皇23年、562年)。次第に新羅は我が国を蔑視するようになる。我が国はしかし、大陸から輸入した「中国」意識を持して新羅を「蕃国」として待遇した。 大化の改新の3年、新羅は金春秋(トンマンの姉の息子?)を人質として遣わした。 半島に対して改新政府の採ったのは、明瞭な強硬外交政策であった。 白雉3年、当時の新羅は大宗武烈王(金春秋)の在位中であった。春秋は我が国,及び唐に質となって共に礼遇された人であり、謀臣にはキムユシンがあった。 吉備真備の太宰府在任中の重大な仕事は、征新羅計画である。 斉明天皇6年(660年)百済が陥落し、助けを求められて「征新羅軍」が起こされた。 日本、百済、高句麗と唐、新羅の連合軍は半島において戦闘を続け、白村江の大敗によって、わが百済救援、新羅討伐は失敗に帰し、百済に続いて高句麗も滅亡し、半島は新羅の統一時代となる。 天智天皇の半島放棄はかくして行われたのである。 (そののち) 天武、聖武と時代が変わり、恵美押勝が新羅征伐を計画するも、本人の失脚によって雲散霧消となる。= ☆吉備真備は、まだまだ長生きをして大仏建立をするのですが。 この先生の新羅の論は、のちの学者さんによって修正されているかと思えますが、善徳女王の舞台が日本のこの時代だったと思うと、興味津々です。 今、善徳女王は、吹き替え版が木金土のBSフジ、遅れてノーカット字幕版がCSフジテレビ2で日曜日の午後9時から放映中です。 先週の吹き替え版では、私の好きなミシル(美室)と、赤ん坊の頃に捨てたミシルの息子ピダムの再会がありました。二人とも残酷な人間だと思われているのです。ピダムが「人を殺すと申し訳なくてつい笑ってしまうのだ」と言うとミシルが「そういう時は、口の端をちょっと上げて笑えばいいのよ」と答えます。 未だに名乗りは上げない残酷母子ですが、2人とも魅力的でしびれます! でも、前はミシルがきれいだな~と思って見ていましたが、王女の装いをしたトンマンと並ぶと、トンマンの方がきれいです。 トンマンの若さ、両親とも王室の血、夢、そんなこんなで、ミシルはちょっと押され気味です。
2010.06.13
キンランとみかんです。 今年は、公園のキンランが沢山咲いたのですが、球根というよりもタネで増えたのかも、と皆さんが言っています。花も大きくて来年はもっと増えるといいなあ。写真の奥の方に写っているのは、もらってきた時に、犬の図鑑で犬種を調べたら「コリア犬」に一番似ていたみかんです。 昨日からCSのlalaテレビで、太王四神記が始まりました。NHKで放映していた時は、1回目のCGっぽいのにいまいちついていけなくて、4、5回目で断念。しかし、先日蓮池薫さんの「私が見た韓国歴史ドラマの舞台と今」という本を読み、今回はじっくり見てみたいと思っています。 事前の紹介番組では、制作の人たちは、ヨン様をタムドク王にするにあたって、強い権力者ではなく、慈しみの心を持った、それでいて人々を引きつけるカリスマ的要素を期待したのだとか。 戦いの場面でも「死ぬな。全員生きて帰ってくるのだ」という台詞が何度もあるそうです。 蓮池さんの本によれば「広開土王碑」は集安の東郊外にある。ガラス張りの建物のなかに高さ6、3メートル、重さ37トンの大きな石碑が建てられている。 高句麗20代の長寿王が、父である広開土王の業績等を後世に残すために、414年に建てられたものだ。(日本では「好太王の碑」として有名)★この碑文の改ざん説というものがあるそうです。 1880年代の日本で、「大和政権が4世紀の後半に朝鮮半島に出兵して百済や新羅を征服し、日本任那府を通して伽?地方を2世紀の間支配した」という「事実」がほしかったので、という話。 習いましたね~意味は分からないままに丸暗記。好太王の碑、任那の日本府。 この石碑の東北2キロのところに「将軍塚」というものあり、これが広開土王、すなわちタムドクの墓であるらしいとのことです。 蓮池さんの韓国歴史ドラマ鑑賞法には、登場人物たちの心理変化を読み取る、というのがあり、主人公のみならず、悪役の心理も憶測しながら見るのだと言います。言葉が分かるのって、強みですよね。 でも、善徳女王にしても太王四神記にしても、吹き替えよりも字幕の方がよく内容が理解できるのは、言葉がわからなくても俳優さんの迫力でしょうか。 =チュシンの星が輝く日、タムドクと同時にこの世に生まれたが故に、王位継承者の座をめぐり宿敵のライバルとならざるを得なかったヨン・ホゲ。彼は自分の持つ運命に翻弄されながら、両親の権力欲に操られた、憐憫を誘う男だった。もとはといえば心やさしい純粋な子どもなのに、あれほどまでに残酷で凶暴な人間に変わってしまうのだ。悪役ではあっても、ホゲはタムドクをただ引き立たせるためだけの悪役ではない。一つの運命を背負った人間として、復讐心だけを糧に戦い、生きて行く。= そうそう、この本には、知っている人が出て来ました。善徳女王のユシン郎。本文では=韓国では、高句麗や百済を滅ぼし、3国の統一を成し遂げた新羅の武将、キム・ユシンも忘れてはならない民族的ヒーローだ。古朝鮮時代からの長い歴史で、初めて朝鮮民族を一つの国家に統合したその歴史的意味が認められたのだ。= ほんとにそういう人だったのですね! 今、善徳女王はBSフジで27話までみましたが、今まで愚直な真面目人間で迷う事ばっかりだったユシンさまが、トンマン(のちの善徳女王)への愛をあきらめ、臣下としてトンマンを女王にしていく決意をしていよいよ行動に移す所です。日曜日の夜9時から、CSフジテレビ2で(10話くらい遅れて)字幕版を放映していて、こちらはじっくりたんのうできます。 朝鮮でも、両親ともが王族の子ども,親の片方が臣下の家の子ども、などで格付けが違っていたみたい。日本の源氏物語の頃と似ていますね。
2010.05.06
蓮池薫さんの書き下ろし体験エッセイ「私が見た、韓国歴史ドラマの舞台と今」を読みました。想像以上の読みやすさと内容の濃さに、びっくりです! お母さんが韓国ドラマを見ながら「韓国ではどうして酒を飲むとき横を向くんだい」「女が座るときは、どうして片膝を立てるんだい」 と聞いて来るので、わかりやすくはしょって説明するんだそうです。そういうおだやかな日を送っていらっしゃることに、何だかほっとします。 今、韓国ドラマをきっかけに韓国に興味を持つ人が増えているのは、同じ姿かたちをして、箸を使って白い米を食べ、初めから全部の料理をお膳に乗せて食べる食文化なのに、どうして箸の素材や置き方が違い、茶碗の持ち方が違うのか、同じ漢字圏、仏教圏に属し、同じ影響を受けながら違う道を歩んで来たという、「似て非なる」所に由来するのでは、と。 そして、「朱蒙」と、「大王四神記」を見ての考察が書かれています。 朝鮮建国神話についての、北と南の解釈の違いなども並び書かれています。 高句麗建国の父、朱蒙は、北でも南でも、漢の大軍から古朝鮮を取り戻した英雄とされているそうです。 それから400年後に、大王四神記のタムドクの時代になります。 本文では「タムドクが王位に就いたころ高句麗は,西の中国にはもちろん、はるかに立ち後れていたと考えられていた百済にさえ、攻撃を受ける状況だった。当然、高句麗の有力貴族たちの間では、王家に対する不満が渦巻き,国はバラバラになる寸前だった。そんななか18歳で王位についた広開土王(タムドク)が、自ら兵を率いて、南や北に遠征し、勝利を重ねた。」 高句麗の文化や生活様式は今も南北朝鮮に深い影響を与えており、 衣服=パジ、チマ、チョゴリ、髪型、化粧 食=粥、ごはん、餅、クッパ、キムチ、プルコギ、シルトク、アメ、マッコリ、テンジャン 住=韓屋、オンドル *2004年,ソウルで発見された高句麗遺跡には、オンドルに使われた平たい石もあった。ここは、高句麗と新羅(シルラ)が漢江を間にして戦った戦跡地だが、これらの石は兵営の部屋が原始的なオンドルになっていたことを示すものと考えられている」そうです。 スポーツ=撃毬(ポロ) 大王四神記では、タムドクとホゲの初めての対決の場となる。 シルム(韓国相撲)、、、朱蒙に出て来る 「韓国、北朝鮮の人々にとって、高句麗は、ただの古代国家の一つではない。 朝鮮半島はその長い歴史のなか、周辺の強大国による支配や干渉、ときには侵略を受けながら悲劇の時代を繰り返してきた。 ところが、高句麗は、中国の侵略を数多く受けながらも、これらを全て退けた。おそらく、高句麗以降、本来の国土を保全するということが、朝鮮民族にとって悲願中の悲願だったに違いない。」 韓国の高句麗ブームは、こんな歴史があるかららしいです。 ドラマの読みも深いです。 「チュシンの星が輝く日、タムドクと同時にこの世に生まれたが故に、王位継承者の座をめぐり、宿命のライバルとならざるを得なかった、ヨン、ホゲ。 悪役ではあっても、ホゲはタムドクをただ引き立たせるだけの悪役ではない。一つの運命を背負った人間として復讐心だけを糧に、戦い、生きていく。 朱蒙のテソも同じだ。 たとえ悪役でもその傷を知ってやるところに、奥深いドラマ鑑賞の楽しさがある。」 読み終わって、すっかり韓国歴史通になった気分です!もう一度、じっくり見てみたくなりました。太王四神記。 また、拉致されて1年9ヶ月ぶりに再開した時のことなど、さりげなく明るく書かれています。
2010.03.18
オリンピックたけなわである。冬季オリンピックはちょっとクールで割と好きです。今日の東京新聞に、スポーツライターの藤島大さんの「非日常の幸せ」というコラムがありました。なかなかクールで素敵な文章です。 いただいてご紹介。 長くなるので、多分ご本人が気に入っていると思われる書き出しの方は略させていただきます。=(前略) 誤解をおそれずに述べるなら、冬季五輪の種目とは、総じて少しばかり奇妙だ。 氷や雪の上で,見たこともないような用具を装着したり、それに乗ったりしながら、見たこともない動作を繰り返す。たとえばフィギュアスケートでは、氷をつかむはずのスケートの刃をなぜか手でつかんだりする。 リュージュ男子2人乗り、オーストリア陸軍に所属の兄弟がそりにあおむけに重なる。時に死をも隣人とする競技の頂点をきわめたのに、正直、こっけいに感じる。 カーリングのブラシをせわしなく動かす様子も慣れるまでは変だ。スピードスケートのショートトラックはどうしても「トラックがショート過ぎる」と思えてしまう。 そして、よく考えると,スポーツはどれもそうなのだ。野球の捕手のヒザの角度、ラグビーのスクラム、陸上のハンマー投げのスピン、それらは非日常の風景であり、だから楽しい。 冬季五輪に有名無名のアスリートは絶対に幸福である。思う存分、極め付きの非日常を表現できる。こっけいな構えに魂と技術を込めれば、やがて感動は訪れる。 女子フィギュアスケートの会場「パシフィックコロシアム」の立つ公園に日本庭園がある。第2次大戦中、日系人収容施設のあった史実を伝えようと造られた。8000人の日系の老若男女が、この場所の家畜小屋に監禁されていた。 以前、ラグビーのカナダ代表日系選手の経歴を調べる過程で、受難の歴史を知っていた。カナダの市民権を有していても財産を没収され、沿岸部から内陸部への移住を強いられる。悪事を働いたわけではない。ただ生活していただけだ。つまり、当時の日系人は「日常」を罪とされた。 公園内にあった小屋は日系人を一時的に集合させる施設だった。 ほど近い距離の「コロシアム」では、いま氷上の舞が繰り広げられている。美しくて残酷。 ただし、その残酷は「非日常」にとどまるのだ。」=☆という、藤島大さんの文でした。以前「暮らしの手帖」で「強制収容所の少女」という文章を読みました。ちょっと前の日本人の歴史です。 藤島さんの「当時の日系人は「日常」を罪とされた」重い言葉です。いっぱいスタッフを送り込んでいるだろうテレビでもこの日本庭園の由来を取り上げてくれるといいんだけど。
2010.02.25
1910年頃に撮影された着物でご機嫌のローザです。 この頃ローザは何をしていたのか。 この頃のヨーロッパは、1871年の普仏戦争以来、40年間戦争がなかったために、「永遠の平和的発展」もう永久に戦争は起きないだろうという考えが浸透していました。 そういう「平和ボケ」的な考えに、ローザはひとつの論文を書きます。 ローザは日清戦争以後の15年間の戦争をひとつひとつ分析し、「この15年間、戦争のない年はほとんどなかった」と指摘、「ヨーロッパの対立がヨーロッパだけでなく世界全体で行われているのに、ヨーロッパで起きたことしか目に映らないもの」は、「かえってそのために「ヨーロッパでは戦争がなかった」ということに気がつかないのだ」。と指摘。 そしてローザは、戦争はなぜ起きるかという事に対して、自分の仲間たちが資本主義の発展のための必然的帰結とは見ないで、「単におろかな政策」としか見ていないことに警鐘を鳴らしています。 激動の時代にあって、ローザはこんなことも言っています。「日和見主義というのはたいてい、水の動きのよどんだところで急速に繁茂し、水の流れの早い所ではひとりでにしぼんでしまう沼地植物のようなものです。」 しっかりしなさいと背中を押されるようなローザの生き様ですが、髪を結い、極東日本の着物に扇を持っているローザもまた、ローザの一つの姿ですね。
2010.01.29
昔、暗記しました!「小村寿太郎とウイッテ」。司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも、当然両者が出て来て火花を散らす?か、はたまた開戦へ向けて「合意?」と見るのはうがちすぎ?(書いてる自分でも何を言っているのかわかりません) 昨日の東京新聞にこんな記事がありました。「坂の上の雲」司馬史観に異論」「ロシア同盟案」日本が黙殺」 という見出しで、リード文は「日露戦争一ヶ月前、ロシア側の主戦派の一人と考えられていた政治家が、戦争を回避しようと日露同盟案を準備しているとの情報を得ながら、日本政府が黙殺していたことを示す新資料を、和田春樹東大名誉教授が7日までに発見した。 日露戦争についてはこれまで、作家司馬遼太郎氏が小説「坂の上の雲」で論じた「追いつめられた日本の防衛戦」とする見方も根強く、日露戦争前史を見直す貴重な発見と言えそうだ。」 とのこと。 和田名誉教授はロシア国立歴史文書館で、主戦派政治家ベゾブラーゾフの署名がある1904年1月10日付けの同盟案文書を発見。同盟案は「ロシアが遼東半島を越えて、朝鮮半島、中国深部に拡大することはまったく不必要であるばかりか、ロシアを弱化させるだけだろう」と分析、「ロシアと日本はそれぞれ満州、朝鮮の天然資源を開発する」などを提案。 このベゾブラーゾフの日露同盟案は、1日に外務省に打電され、12日に駐露公使が外務省に詳細に報告。 当時の小村寿太郎外相は、日露同盟案の情報を得ながら、8日、桂太郎首相や陸海軍両大臣の協議で開戦の方針を固め,12日の御前会議を経て、2月にはロシアに宣戦布告。 司馬氏は「坂の上の雲」で、「ロシアの態度には、弁護すべきところはまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた」と、開戦前のロシアを批判し、「(窮鼠)の日本は猫を噛むしか手がなかった」と分析している。 とのことです。生前、「坂の上の雲」のドラマ、映画、お芝居化を許さなかったという司馬氏の躊躇は、このあたりにあったのではないでしょうか? ロシア史の横手慎二慶大教授は「これまでベゾブラーゾフと対立したウイッテの回想録に頼って日露戦争が語られてきた。対立する一方の視点だけで評価するのは不十分。 同盟案全文を発見、研究するのは非常に重要で、歴史家がすべき仕事だ。研究全体を読んでいないので、この日露同盟案にどの程度の意味があるのか、判断は留保したい。だが、歴史が再構成され、大きな構図で日露戦争を見られるようになれば素晴らしい。」 とのことです。
2009.12.08
先週の週間金曜日の佐藤優の歴史人物対談は、ローザでした。大変な時代を模索して生きたのだなあ!と思いました。 記事は佐藤優さんが質問する形式です。Q/昨年6月、ロシア、グルジア戦争が勃発しました。自国の利益が最大になるように行動する帝国主義の時代が再来しています。あなたは帝国主義についてどう考えますか?A/(ローザ) 私は,資本主義というシステムは自立することができないと考えています。どこか「外部」から富を収奪することができないと、資本主義の発展はとまってしまいます。したがって、国内で資本が発展の可能性を使い尽くすと、外国から収奪することを考えます。 (中略) グルジアの背後には米国が控えているので、これは,ロシアと米国の間の帝国主義的利害対立から生まれたものと見ています。Q/戦争の危機が近づいているとき、わたしたちはどのように行動すればよいのでしょうか?ムッソリーニのように、戦争を積極的に利用しようという動きさえ起こります。A/このようなファシストの動きを封じ込めることが何よりも重要です。私は資本主義が引き起こすどのような戦争にも反対します。それは、戦争は最終的には資本家を利することになるからです。Q/帝国主義国家は,天然資源などを獲得するために、他国を侵略します。かつてのような植民地はなくなったにせよ、経済的な支配は続いています。1日1ドル以下で暮らす「絶対貧困」に陥っている人々が世界中にいます。 つまり、先進国の労働者は,貧しい外国の労働者から収奪していることになるのでしょうか?A/資本主義は常に「外部」を必要とします。ひとたび国内に単一の均等な市場が成立しても、利潤を生み出すために国内に「差異」をつくりだし、「外部」にします。いわゆる国内植民地です。 この「外部」をつくりだす機能によって、資本主義体制では、貧困問題が深刻になる傾向があります。☆めざめた市民たち、しかし、、、 労働組合によって賃上げ闘争が可能になり、また、社会主義正当に代表を送り出すことができるので、先進資本主義国の労働者は,階級としての意識を眠らせてしまいました。ローザはこれを回復しようとしましたが。Q/あなたと、リープクネヒトは、テロで殺されました。あなたたちが生きていれば、ドイツの歴史を変えることができたでしょうか?A/私はドイツの歴史を変えることはできなかったと思います。それは、私が暴力に肯定的評価を付与したからです。 ☆なるほどね~、バラやすみれや百合の花が好きだったローザって、こういう人だったんですね。写真の本の写真はローザです。 他国に攻め入って略奪するだけでなく、国内にも「外部」を作ってというのが、目に見える現代になってしまいましたね。 佐藤優さんって、けっこうまじめな人だったんだな~と、思いました。ローザの評論、読み込んでますね。
2009.06.29
先日、帰国しなかったタイの留学生たちに振り袖を着せました。着付けの先生にボランティアで来てもらったのですが、学生さんたちは大喜び、そして帰国して帰って来た学生たちにも同じのを着せて写真を撮りました。実は、私は特に外国人に着物を着せるのって乗り気ではないんですが、娘のフロンフロンの成人式の振り袖も提出して着てもらいました。 無邪気に喜んで写真に納まっているのを見れば、日本の思い出の1ページになることでしょう、とは思うのですが。 私のちょっとした違和感(そう大それたものではないんですが)にもどこか通じるかもしれない騒動が、中国で起きていると、今朝の新聞に書いてありました。 中国湖北省の武漢大学の桜並木で、和服姿で写真撮影をしていた中国人母娘が、見とがめた学生から「出ていけ」と非難される騒ぎが、21日、あったそうです。 母娘は「桜の前で和服で撮影したかっただけ」と話し、学生は「和服は美しいが日本の服装。良い気持ちはしない」と述べたそうです。これが報道されるや、中国の大手サイト「捜狐」には1万件以上の書き込みが23日までに寄せられ「学生を激励したい。日本に侵略された歴史を忘れるな」や「和服に何の罪がある。寛容性の無い民族に未来はない」という賛否交錯した書き込みで燃えているそうです。 侃々諤々、喧々囂々。すごいでしょうね~、旗幟鮮明が不得意な日本人の私は、どっちの論も認めてしまうな~。 外国との歴史でもうひとつ面白い記事は、東京新聞NIE(教育に新聞を)の英語の質問コーナーで[go Dutch]の語源について。Q、「割り勘にする」をgo Dutch(オランダ式でいく)と言うそうですが、どうしてそういう言い回しになったのですか?A,この表現はイギリスとオランダが軍事、商業、貿易において覇権を競っていた17世紀に端を発します。ライバル同士ですからお互いに悪口を言い合っていました。そうした歴史が嫌がらせ表現として英語の中にいまも残っているというわけです。 男性が女性をデートに誘い、女性に自分の分を払わせたら、その女性はDutch treat(オランダ式のもてなしーケチなもてなしー割り勘のもてなし)を受けたということになり、そこから割り勘にするが[go Dutch](オランダ式にやる)になりました。 このほかにもDutch courage(酒の勢いを借りたから元気)Dutch auction(せり下げ競争)get in Dutch(やっかいなことになる)など、オランダ人をさげすんだ言い方がたくさんあります。」☆とのことです。世界の歴史はいろいろ尾を引いているんですね。こういう表現はオランダ人差別につながるので、ちゃんとした人は使わないらしいです。 世界はひとつ。
2009.03.24
新自由主義で、あらゆるものが行き詰まった米国で、新しい大統領が決まりました。オバマ氏のもとで、その大統領を支えるのもそうそうたるメンバーのようだし、新しいアメリカを作ってくれそうな期待。それはどんなアメリカ?これから世界はどうなって行くのでしょうか? その分析を、堤未果ちゃんが今日の東京新聞、本音のコラムに書いています。これは、いつの日か私たち日本人の心、気構えにもあてはまってほしいことです。 題は「真のチェンジ」です。本文は「かつて南アフリカに希望をもたらしたのは、黒人初の大統領マンデラではなく、彼の国が変わるためのチャンスだった。 人種の壁を超えたオバマ勝利の裏で、今もうひとつの変革が生まれている。 アフガン帰還兵は語る。「多くの国民はこれで泥沼の戦争が終わると思っているが、今後はもっと多くの若者が戦場に送られる。地獄を体験した僕らが、選挙で下火になった反戦運動に再び火をつけなければ」 NY在住記者は、今回第三党で史上最多票を得たラルフネーダー候補でさえ、2大政党が運営する「大統領討論委員会」により討論から締め出されたことを指摘する。「企業利益に傾く2大政党を牽制し、奴隷制廃止や失業保険などを推進してきた第3党の声が排除されている事を皆知らない。変わらねばならないのはジャーナリズムだ」 パレスチナ系米国人医師は、イスラエル元軍事顧問でタカ派のエマニュエル氏が主席補佐官に指名された時、警報が鳴ったという。「対話外交を掲げても、イスラエル擁護という既存路線では中東で流れる血は止まらない。国民は引き続き声を届け続ける責任がある」 オバマは勝利演説で告げた。米国は変化の入り口に立ったと。だがその扉を開けるのは自分たちだという有権者の意識改革がうねりと化した時、スローガンは現実になり、真のチェンジが訪れる。」☆という堤未果ちゃんのコラムでした。進むべき未来が見えたようで、すっきりしました。 当たり前のようだったアメリカの2大政党性。ネーダーさんに投票した人々の存在や彼らの思いなんか誰も教えてくれなかったです。アメリカのそして日本のジャーナリズムに期待したいものです。有権者の意識改革とともに。この2つは[あざなえる]縄のごとき存在でしょう。
2008.11.09
今日は友達のうさぎAとみつこさんが遊びに来ました。 お祝いのお返しに、素敵な山帰来の模様の銘々皿を持ってきてくれました。それから、今年も紅玉を使った手作りのアップルタルトを焼いてきてくれました。とっても美味しかったです! その後、私はずっとさぼっていたマジックの講座に行きました。今日はロープとコップの手品を教わりました。時の経つのは早いもので、もう、来年2月のおさらい会の相談もありました。 写真はお気に入りの木の枝を抱えて満足げなみかんです。昨日、うさぎAが、夏に行ったギリシャ旅行のことを文章にしたものを見せてくれたのですが、アテネの犬のことを書いてあって、心を打たれました。彼女には内緒でご紹介します。 うさぎAとみつこさんは高校が同じなのですが、世界史の先生がユニークで楽しい授業をしてくれた方だったようです。2人とも世界史が大好きみたいです。そのこともあって、念願のギリシャ旅行。同じホテルに8泊して,遺跡やエーゲ海の小島をめぐる旅だったそうです。 アクロポリスへ登る坂道の、オリーブの木陰で首輪をつけた茶色の大型犬がぴくりともしないで横たわっているのを見たそうです。 そこからパルテノン神殿へ至る階段のところにも大きな犬が寝ていて、観光客は犬を避けながら登っていくのだそうです。 そして本文によれば「それから8日間、アテネに滞在する間、毎日さまざまな場所で放し飼いの犬をみかけた。遺跡の列柱の元や土産物屋の軒下、広場の芝生の上にも、特に国会議事堂のシンクダマ広場にはいつも数頭の数頭の犬の姿があった。」 それから彼女は、犬の首輪に疑問を持って観察しました。「犬たちを見ていて気になることがあった。付いている首輪が赤か青のナイロン製で、同じ型だったことだ。アテネのペットショップで2種類の首輪しか売っていないとは思えない。それともう一つ、首輪にはプラスチック製の楕円形のプレートが2枚か3枚付けられていることだ。」 それからアテネ市内の公園の小川とそこから続く池で、水を飲み池で泳ぐ犬とのふれあいなども書かれています。 そして「明日は日本に帰るという日の夕方、シンクダマ広場を通りかかると、政治集会の準備が進んでいた。演台が組まれ、テレビの中継車も停まっている。「ストップ,カルテル」と書かれた横断幕や、卵やパンや野菜の絵が描かれた看板があり、物価高に関しての、企業や政府に対する抗議集会らしかった。 ギリシア人は政治集会が好きだということを、どこかで読んだことがある。面白そうなので、広場をぶらついて始まるのを待つことにした。」 その広場で出会った大学生に、カタコトの英語で犬の首輪のことを聞いてみたのだそうです。 すると、犬たちは捨てられた野良犬で、アテネ市が首輪をつけて餌を与えていること、首輪につけられたプレートは、接種してある予防注射の種類を表示している。とその青年はちょっと困った身内の話でもするように話してくれたそうです。 アテネ市の犬のあつかいに、ほのぼのとしたものを感じたうさぎAでした。「日が暮れるにつれて広場にはぞくぞくと人が集まってきた。老人から小さな子どもまでいる。大統領らしき人物の似顔絵に×印をつけたプラカードが目立つ。広場を横切っている大通りを車両通行止めにして、いよいよ集会が始まった。何人かが入れ替わりに壇上で演説をした。」 群衆の中に自然に犬たちも混じって歩き回っていたそうです。そして、犬たちが何かこだわりを持っているように思えるエピソードのあと、「演説が終わってデモ行進が始まると、プラカードを掲げた人々の先頭に立って犬たちが歩き出したのだ。犬たちは胸を張っているようにさえ見えた。さすがアテネだと思った。アテネは紀元前にすでに民主主義政治を行っていた都市国家だ。デモ行進の先頭を行く犬たちは、立派なアテネ市民に見えた。」 アテネの犬を見てみたいものです。文章の読ませどころ見せどころはカットしてあります。
2008.10.25
北京オリンピックがいよいよおしまい。北島康介選手の金メダルも、もう随分前に思えます。朝8時くらいからの決勝なんて??とはいっても、それは放映権の大スポンサー、米国の人たちが見る時間に合わせたんだそうですね。選手の体調よりも資本の方を向いているわけです。 先日東京新聞に、辺見庸さんの特別寄稿が載りました。上下の2回。「たんば色の覚書」を書かれた時は、あの世に行ってしまいそう(失礼!)で心配しましたが、今回、北京の鳥の巣に行かれたそうです。命のパワー溢れる文章で、辺見庸さんは、完全復活なさったようで、嬉しいです。 題は「東風は西風を圧倒したか」です。短くしてご紹介します。「北京五輪メーンスタジアムを視界いっぱいに入れたら立ちくらみがした。奇観と人いきれに気おされたこともある。いや、それよりも”鳥の巣”と呼がれる超現代的な構造物がつかのま、巨大な虫かさなぎに見えたからである。 ある日、目をさますと、自分が虫になっていたというカフカの小説「変身」を連想し、社会主義を自称する大国の”メタモルフォーゼ”が人びとにとって果たしてほんとうの幸せにつながるのか、変身はいったいどこまでつづくのかー思いをはせざるをえなかった。 久方ぶりの北京の、いうならばみもふたもない様変わりに、私はおどろきあわて、そしてふるえおののいた。」(中略)(芥川が訪れた森の都北京。その年は中国共産党が毛沢東らわずか57人の党員によって結成された歴史的な年。当時毛沢東はこの国を「一窮二白」と自嘲した、壮大なゼロの国だった。)「北京五輪のすさまじいばかりの民族主義的高揚は、そうした負の記憶の延長線上で、おとしめられた過去への遺恨か反動のように噴き出している。」(中略) 「(中央政府への不信と不満がふくらむいっぽうを考えれば)中華振興は、あまりといえば傲岸ではないのか。逆にいえば、中国が骨がらみ資本主義化して独自のアイデンティティや誇りをなくしつつあるからこそ、カンフル剤のように注入せざるをえないのが、大いなる中華意識なのかもしれない。 大中華意識の高まりは、思えばかつての東風優位という自負とかさなる。」(中略) 「資本の水路が各所でひらかれ、ついに「地金」を出したもの。それは「乏しきを憂えず、均しからざるを憂う」といった、中国古来からの価値観とおよそ反対の、あくことなき物質的欲望である。 北京に漂う索漠とした空虚感。そう、東風はいま西風を圧倒している。だが、東風は新しい人間的価値観ではない。「東風の資本」が「西風の資本」を圧倒しているにすぎない。 中国は資本に負けたのだ。」◇◇◇○○「眼をつぶると、まぶたに人の海原がうかぶ。50万をゆうにこす人びとが天安門広場を埋めつくし、渦まき、あふれた群衆が長安街でもうねる。 人びとは肖像写真をかかげ、地鳴りのような歓喜の声をあげる。大地が揺れた。空もどよめいた。遠雷とまがう音が、まだ耳の底にある。」(中略)「プラカードの写真は時代とともに変わった。毛沢東、華国鋒、?小平。無量無辺の人びとが、ときどきの指導者に歓声をあげた。」(中略)「ただぼうぜんとするほかない。きょうのこの日、この風景を見るために、この国は無量無辺のエネルギーを蕩尽し、民衆をいくたびも絶叫させ、無量無辺の犠牲者を作らなければならなかったのか。「走資派」と書かれたステッカーを首にぶらさげて市中をひきまわされ、公開処刑された幾多の人々。あれはなんだったのだろう。(中略) 「生まれてはじめて魯迅の「知」に触れて胴ぶるいしたときのわが身におさめきれない興奮が、”鳥の巣”の大歓声で、突然によみがえった。「狂人日記」を読んだときのことだった。」(中略)(生き延びるために人が人を食らう社会)「魯迅の眼の深さは食人的関係性にしばられた民衆を単に忌むべき”他者”とはせずに自己のなかにも民草のやりきれなさを見ていたことだ。」 「五輪を開催した北京に、私はいわくいいがたい違和感をおぼえ、そのわけを探りあぐねていた。いま、やっとわけがわかった気がする。これはある種の自己嫌悪なのだ、資本という食人的関係性から逃れられない「われわれ」への。 東西の資本は西側を圧倒しつつある。 だが、資本の運動にはもともと西も東もありはしない。いまは魯迅にならい、こう祈ろう。「人間を食ったことのないこどもは、まだいるかしら?せめてこどもを、、、。」(狂人日記)☆難しいけど、辺見庸さんの元気なお写真を見れて良かったで~す!
2008.08.24
今日は私の田舎に行きました。写真は野菜直売所で買って来たワラビと真竹のタケノコです。上の小さい赤い実はグミです。田舎の老人を病院に検診に連れて行ったらそこに勤務しているAIの友達のAさんに会いました。 「私だよ~」と混雑の中で手を振ると、気がついて「今日は6月4日で、朝からハイテンションだ」というので、虫歯予防で忙しいかと思ったら「天安門事件の日でしょうが!」と言われてしまいました!朝から中国の民主化運動に思いを馳せていたとのこと。 そうでした。1989年6月4日、民主化を求めて天安門広場に集まった学生たちが弾圧された日だったんですよね。
2008.06.04
今日はこの冬になくなった、民医連のお医者さんのS先生のお別れ会に行きました。S先生は戦後中国から帰っていらして、診療所の医師となり、千葉県の平和運動、民主運動、赤ひげみたいな医療活動を、推進して来られた方です。 本人の希望で告別式は家族でなさったとのことですが、お別れを言いたい人があまりにも多く、今日のお別れ会となったそうです。 会場の人たちの思い出話の中に、被爆者の方達が検診を受けられるように、1970年に集団検診を実施、はじめの年は9人の方が検診を受け、数年後には200人を超える方が検診を受けるようになり、被爆者の方が、診察室で、それぞれの市町村での待遇の度合いを話し合う交流も生まれて、被爆者の会ができたことなど、がありました。 頑固一徹だったけどすごく立派な方だったな~と、つくづく亡くなられたのが惜しいと思いました。けれど、各診療所の先生や、原水禁運動の人たちが「先生の遺志を継いでがんばります」という力強いコメントをなさっていたので、運動は引き継がれていくのだと、心強い限りでした。 原水禁の方からは、「今年の原水禁世界大会には、初めて国連からの代表が参加します」という報告もありました。議員の方からは「政治が、国民の意思によって変えられる時代になった」というお話もありました。 最後に出席者全員で献花、の代わりに、折り鶴を捧げました。写真はその折り鶴です。この鶴は、夏の原水禁大会に持って行くそうです。 とても暖かい、気の利いた献花だったと思いました。 夜は、BSイレブンの高野悦子劇場で、2000年のチェコ映画「この素晴らしき世界」を見ました。ナチスの映画って怖いので好きではないのですが、笑って泣かせる人情映画です。 1943年、ナチス支配下のチェコで、子どものいないヨゼフとマリエの夫妻は、ちょっと倦怠期です。 ヨゼフの友人、(もとは会社の部下)ホルストは、ヒットラーそっくりの容貌のイヤな奴ですが、マリエのことが好きで、毎日のようにやってきます。「一人の若いドイツ人の生命は、スラブ人の10倍、ユダヤ人の100倍も貴い」などという言葉が交わされ、ユダヤ人狩りも行われる中で、ヨゼフはユダヤの青年ダヴィットをかくまいます。 ナチスに協力しながらも、最後の子どもまでが脱走兵としてドイツ軍に殺された近所の男を、ヨゼフの家に住まわせてほしいとホルストに頼まれたマリエは「自分は妊娠しているからダメ」と断ります。 そして泣き笑いのいろいろがあって、赤ん坊が生まれるのです。戦争が終わり、瓦礫の山をかたづける人々の間を、乳母車を押しながら歩くヨゼフの目に、ナチスに捕えられ消えてしまった家族や、撃ち殺された犬などのまぼろしが浮かんでは消えるのです。 この夫妻にかかわる、ホルストってすごくイヤな奴なんですが、いい奴でもあります。まさに戦争は普通の人を狂気に駆り立てるものなんでしょうね。 今日のお別れ会のS先生は、中国での戦争を経験して来られた軍医さんだったそうです。二度と戦争を起こさないために、平和を守るために一生を捧げられた方でした。
2008.04.26
CSで、1994年のアメリカ映画「ノストラダムス」を見ました。1999年に人類滅亡の危機を予言したノストラダムスの大予言。あっという間にこの年は過ぎてしまいましたが、チェルノブイリが、彼の予言の「にがよもぎ」という言葉だったというあてはまるものがいろいろで、ちょっと怖かったですね。 1970年代には五島勉という人がこの本を著し、大ベストセラーになり、東宝で映画にもなったそうです。見てみたいですね。 このアメリカ映画は、教会のおちこぼれ、というかその狂気の閉鎖性に適合できなかったノストラダムスが、故郷に帰りペストで全滅しかかった村を兄とともに救い、兄嫁とともに香水も作り、王妃の寵愛をうけながらも、フランス王室の不幸や人類の恐ろしい未来が見えてしまう、というお話でした。 ヒットラーの名前もカギ十字も見えていましたが、サダムフセインも悪や不安要因として演説姿を取り入れていました。 ここにブッシュの映像も入っていたら、ノストラダムスってすごい!と思いますが、1994年には、まだ狂気の大王の予想はつかなかったようです。さて「もやい」の続きです。今回は「「独りじゃない」が支え」というテーマで。「一人の路上生活者が通行人に向かって叫んだ言葉が、もやいの理事長、稲葉剛の耳から離れない。「おかげさまで人が死にました。皆さんの税金で行われる強制撤去で仲間が凍死しました。本当にみなさんのおかげです。」 14年前の冬、新宿地下通路の「段ボール村」で、住人の毛布や段ボールがつぎつぎはぎ取られた。(中略) 見てみぬふりを決め込む冷たい社会と、無力な自分。路上生活者の叫びが胸をえぐった。 だが、行政を敵にした激しい闘争に変化がおきる。「路上生活から抜け出すことを考えず、ただ、排除の論理とたたかうだけでは、何も解決しないのではないか。」 路上生活をしていた60代の男性、ヨシさんとの出会いが、稲葉の決意を一層固くした。(中略)(ヨシさんの死に急ぐような生き方に、稲葉が禁句にしていた言葉を言ってしまった。「生きていればいいこともある」) しまったと思った瞬間、彼は烈火のごとく怒り、まくしたてた。「おれにどんないいことがある。老人ホームで独りで死ぬのがぜいぜいじゃないか」うろたえ、頭が真っ白になった。高ぶった感情のまま、自分も口走った。「僕が嫌なんだよ。ヨシさんが死ぬのが嫌なんだ!」 翌週の福祉事務所。病院へ行く手続きをするヨシさんがいた。稲葉は悟った。 野宿から抜け出せた後の暮らしが見通せなければ、人はそこから抜け出す意欲さえ持てない。 そして、人の心を動かす基本はまず「あなた」と「わたし」というつながりにあることを。 稲葉たちは路上から脱出した人たちに呼びかけ、数人で「新宿、くぬぎの会」をつくった。 食事やとりとめのない会話から、互いの素顔を知り「支援者と路上生活者」ではない、人と人とのつながりが、そこから生まれた。「もやい」のひな形の誕生だった。」☆96年1月に「動く歩道』設置のために、排除される事件がありました。 次は、路上からアパートに映って、かえって孤独に悩む人たちの集まる場所作りです。 2003年夏「もやい」で訪問看護のボランティアを始めた宇鉄昭子(38歳)は、孤独に悩み「しゃべる人がいねえから、野宿のほうがましだったな」。そんな言葉に胸が痛んだ。 「自立支援が孤立支援になってしまう」 04年春「一軒家が借りられそうだ」という話に真っ先に飛びついたのは宇鉄だった。「お菓子を出してコーヒーが飲めたら、アパートで孤独な人も来られるじゃない」 喫茶店経営の経験がある、元路上生活者らに一緒にやろうよ、と呼びかけ、おじさんばかり7、8人が集まった。「自分が路上生活の頃なら、いくらだったら食べに来るかな」。ランチは350円、飲み物は100円に決めた。 大工経験のある、元路上生活者たちが、1階の床をフローリングに改装。「みんなの居場所をつくるんだ」そんな意欲が満ちていた。(中略) 開店した「サロン,ド、カフェ、こもれび」で、ママと呼ばれる宇鉄は言う。「ここに来ると、関係をつくりたがっている自分を発見するんです」 素の自分になれる心地よい場所。それが必要なのが、路上生活の人たちだけではなかったことに、宇鉄も気づいている。◇□□ 人間は一人では生きられない。そんな当たり前のことが忘れられつつある。都会の片隅に生まれた「カフェ」から、結いの価値を見つめ直したい。」☆という記者さんのコメントもありました。命と尊厳の危機にあった路上の暮らしから、絆を築くみんなの居場所ができあがったのです。(涙)
2008.04.09
昨日は田舎にお墓参りに行きました。桜のつぼみも膨らんでいました。 お墓での会話。「なんで墓石に水をかけるんだろ~ね~」「昔、幻灯で見たじゃん!木蓮尊者という人が、地獄に落ちた母親の姿を見てってさ」「あれはお盆の話じゃないの」「なんでお墓で線香あげるんだろ~ね~」「?」 ご先祖の皆さま、すいません! そののち、ちょっと足を伸ばしてダム湖そばの農作物直売所で(ここには、絶対不自然なアウトレットモールもあります。軽井沢じゃないんだからさ~)春の恵みを購入です!写真真ん中の白い長いのは雪ウルイという物です。オオバギボウシの軟白みたいなものらしいです。岩山のチベットの人には無縁のみずみずしさです。それぞれの土地にそれぞれの仏さまがいるんですね。 藤原新也さんの「西蔵(チベット)放浪」を出して再読しました。この藤原氏は、はじめワイルド派かと思いましたが、そののちシティ派になったようです。でも、若い彼の、好奇心溢れるチベット見聞録です。 彼の見たチベットは「極端に違った性格を持つ2つの土地模様が、不思議なかたちで同居している。」「この地の風景が奇異に見えるのは、その9割の瓦礫風景と、1割の村落風景の同居の仕方にある。その生きものを宿すいくばくの潤いもない周囲の、極端に白茶けた不毛地と、極端に隔絶して、ほとんどこつ然と豊かな緑地帯が、あたかも大洋のなかの孤島のように立ち現れるからである。およそ、そのような緑の地帯は、鋭く切り立った禿げ山の、幾重にも重なり合う谷間の斜面に、小さな扇を逆さにしたような形で寄生している。そして、緑の点景は、不毛瓦礫の平地と禿げ山の間に、時おり、思い出したように人の目にふれる。」 そのはずれに「嗚呼山」という山があるという。名前のなかったその山は、ある年の夏から「嗚呼山」という名がついた。 それは、「大きな荷を担ぎ、牛や山羊や犬や馬を連れた、旅に疲れうらぶれ果てた不遇な殉教者のような一団が、口々に「嗚呼、嗚呼」と抑えられた深い感動を胸に、その小さな血の色の岩山に呼びかけながら近づいて行ったとき、はじめてその岩山は、5千万年の無名に終止符をうったのである。」 「ひとびとの姿は荒れ果てていた。200人以上はいると見られるその群衆は、2、3人から7、8人の小グループになって長い列をなして緩慢に移動していた。」「生き神さまが自国から逃亡を余儀なくされた時、人々はそのあとを追ったのであった。」 インドの亡命チベット人社会では、3月10日を「チベット蜂起記念日」と定めているそうです。1959年3月10日、中国軍に拉致されそうになったダライラマ14世を守るために、大群衆がラサの宮殿を取り囲み、銃弾に倒れた。毎年、人々はその日、チベットの国旗「雪山獅子旗」を掲げて、遺恨を呼び覚ますといいます。昨日の東京新聞には89年3月にチベットに戒厳令が敷かれた時の事が書かれていました。「ラサのジョンカン寺で、僧侶が雪山獅子旗を掲げたとし、当局が寺を捜索し僧侶ら20人を連行。民衆が釈放を求めてデモを行い、緊張が高まった。 この時、中国政府は僧侶や市民に変装した約300人の特務工作員をデモ隊に紛れ込ませた。特務員への命令は、デモを煽動し、食料品店と貿易会社を襲撃し、デモ隊が商品を略奪するよう仕向けること。「暴徒」と化したデモ隊を武力鎮圧する口実が生まれた。 当時人口12万人のラサに、1万5千人の治安部隊を投入し、銃口を向けた。ある民家では、一家9人が皆殺しにされ、遺体は無数の銃弾で蜂の巣のようなった。 3人の子どもは宿題をしていたようで、鉛筆を握ったまま息絶えていた。(中略) 今回の事件もなぞが多い。 中国メディアは、群衆が銀行や商店を襲う映像を繰り返し流し、デモ隊の「暴徒」ぶりを強調。「市民の耳を切り落とし、生きたまま焼き殺した」と、残虐性をあおり、武力行使の正当性を強調している。 だが、亡命政府側は「89年と同様に当局が暴動をあおる特務工作を行った」と主張する。」☆こういう記事が載っていました。チベットの人たちの安心な日々を願わずにはいられません。
2008.03.23
今日1月15日は、1919年にローザルクセンブルクが惨殺された日です!人々と集まって楽しいお茶会というわけにもいかず、私はこの日を薔薇祭となづけてローザルクセンブルクを偲ぶことにしました。 ローザの喜びそうな大輪の薔薇とそれを囲むように早咲きの桜をいけて、たっぷりの赤ワインをそなえました。 亡くなる2年前の手紙、これもカール(ともに殺された)の妻ゾフイーに宛てた手紙に、カラマーゾフの兄弟のことが書いてあるので少しご紹介します。「ソニューシャ、(ゾフイーのこと)、あなたは、わたしがこんなに長い間監禁されていることに対してたいへん腹をたてていらっしゃる。「人間が他の人間の運命を左右してしまうなんて、どうしてそんなことになってしまったのでしょう?それはなぜなんでしょう?」ごめんなさいね、わたしはこれを読んだ時、声を出して笑わずにはいられませんでした。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中にホフラコーワ夫人というのが出てきますが、この人がしょっちゅうこれとそっくり同じ質問をするのが例で、そういう場合、大抵は社交界に集まったひとたちを途方にくれたまなざしで次々に見渡すのです。 わたしの可愛い小鳥さん、人類の全文化史は、物質的諸条件のうちに深い根を張っている「人間による他の人間に対する支配」を基盤として成り立っているのですよ。これを変革するには、さらに、いまひとつの、苦悩に満ちた発展を遂げなければなりません。」☆ローザも読んだカラキョウ!訳者の秋元寿恵夫さんは、ローザについてこう書いています。「戦争がないとき、漠然と戦争に反対するのは誰にでもできる。また、ある種の戦争を予想し、それについての反対として明確な見解をもつ事は、必ずしも至難ではない。だが、すでに戦争が始まってしまってからでもなお、自らの見解に誤りがないと信じ続けるものの数はだいぶ減ってくる。しかし、少しは、ある。 けれども、この意見を公然と表明し、できることならその戦争をやめさせようと働きかけるものに至っては、もはや希有の存在に属するのである。 ローザルクセンブルクというひとこそは、正しくそのひとりなのであった。」と。 さて、今日ローザに語りかけるとすれば、「黄色い本」のみっこちゃんの真似をして。「ローザ、あなたにきょう捧げた花は、極東の春の野山を彩るものです。かつては同胞愛(ユマニテ)の象徴とされた哀しい過去もありましたが。」「ローザ、極東は苦戦しております。今日の新聞には、都心の新宿御苑でPAC3という迎撃ミサイルの発射地点の調査が行われた、と書いてあります。これは何故でしょう?軍事国家への道をまた進むための看板にするためでしょうか?こうして人々は戦争が日常の日々に慣らされていくのでしょうか?」 ローザは笑って答えるでしょうね。「憲法も選挙権もあるあなたがたが、何をいっているの?」と。
2008.01.15
ローザ、ルクセンブルクの、獄中からの手紙(秋元寿恵夫訳)を久しぶりに読みました。実は宿題がたまっていて、16日までにアムネスティのグループニュース新年号を作らなくてはいけないし、17日には短歌の会で、「今まで読み合わせをした歌人たち、20人ほどの中から、好きな歌人を選んで小論文を書いてきなさい」と、年末に先生から言われ、誰にしようかなと思いつつめでたく年も明けて、昨日「北原白秋にしよう」と思ったのですが、まだ「はくしゅう」どころか「はくし」の状態。なおかつ、今回の歌会は、仕事の方の新年会が入っているので、欠席。宿題できなくて欠席かい?と言われないためにも、絶対提出しなくては!と、気はあせるばかり。 逃げたい気持ちが手にとらせたローザの手紙。(なんとまあ、まわりくどい話)1918年、1月14日、カールの妻ゾフイーに宛てて 「少なくとも来年は、私自身が花を持って誕生日にあなたをお尋ねできるでしょう。その時はまた植物園や野原をご一緒に散歩することもできるでしょう。 ここは、今日は零度でした。だというのに、大気には肌触りも柔らかい、水水しい春の息吹が漂っています。そして空には高く、ミルクのように白い厚ぼったい雲と雲の間から、真っ蒼な空がちらちらと顔をのぞかせています。 私は、もう春が来たのだと有頂天です。(中略) まだ冬の雪に覆われている北半球の私たちの国でも、1月がはじまると、まるで魔法の杖にでもかかったかのように、植物界や動物界が目を覚ますのです。花のつぼみはすでにほころびかけ、動物の多くはもう子孫をつくる営みにとりかかります。」 獄中をたらいまわしされている人とは思えない、快活で饒舌なローザの手紙は、手紙文学としても一級だと言われています。 話は違いますが、今朝のTBSラジオ、安住紳一郎の日曜天国で、2つの商品の話題がありました。ひとつは安住くんが北海道に帰省した折り、5歳の姪に頼まれた、売り切れのおもちゃ、どうもそれはセーラームーンの次世代の5人の女の子が変身するキャラクターもので、そのおもちゃにビーズを入れると、つながって出て来る優れもの、クリスマス商戦ですでに売り切れで、北海道にないなら東京にはあるだろうと頼まれて、その子にいいところを見せたくて安請け合いして、必死で探しているけど、売り切れでない。というものです。 昔、秘密のあっこちゃんのコンパクト、大流行でしたね。普通のを買い与えられた5歳の姪が、「これじゃない!」と言って泣いて投げ捨てたのを目撃しました。 もう一つの商品は、学研が売り出した地球儀に、なんと台湾がなくなっているという話。台湾は台湾島となっていて、中国の領土になっているそうです。 そして、タッチペンでさわると、その国の説明が音声で出るとのことですが、台湾をタッチすると、「貨幣は人民元」(台湾は台湾元)とかいう中国の情報が出るんだそうです。 これは、制作を中国の会社に任せたために、そうなったのだと、学研は説明、15日に販売店から商品を引き上げ、購入された希望者には買い戻す措置を講じるそうです。 そうそう、北方4島はロシア領になっているそうです。(これは右翼でなくても怒ると、北海道出身の安住さんは言っていました) ちなみに、安住さんの番組スタッフが、学研の赤ペン先生に問い合わせたところ、この地球儀のような答えだと赤ペン先生は、×をつけるそうです。どうしたんでしょうね、学研。利益と売れる事以外何も考えてないのがバレバレですね。 台湾の選挙では、親中国派が議会の3分の2を制したとか。先読み?しかし台湾の人たちはこれを知ったら怒るでしょうね。 第3者なので、この地球儀、見てみたい気がします。
2008.01.13
昨日の東京新聞「筆洗」は、魯迅と藤野先生のことでした。書き出しはこうです。『中国の文豪、魯迅には「藤野先生」と題した作品がある。23歳のときに留学した東北大学医学部での、7歳年上の教授、藤野厳九郎との出会いを自伝的に綴った。』『魯迅は文学の道を歩むために1年半ほどで学校を去る。その際、藤野は自分の写真の裏に「惜別」と書いて渡した。二人はそのまま音信不通となるが、魯迅は自宅の机の前に写真を飾っていたという。いつまでも藤野を師と思っていたのである。』(略)『2人の惜別から100年を超える年月が流れている。この間、日本と中国の間には戦争の時代もあったが、国交正常化から35年を迎えた。両国の絆が深まるために、多くの出会いがあることを2人は願っているだろう。』 という文でした。略した中には、漢学を学んだ藤野先生の中国への先賢を尊敬する思いと、魯迅の人類は分け隔てなく互いに思いやることが必要という考えが二人を結びつけたとも書かれていました。 魯迅は藤野先生を慕って「藤野先生」を書きましたが、井上ひさしはそのお返しに、「シャンハイムーン」で、「魯迅先生」を慕う日本人たちの群像を書きました。初めのページにはこう書かれています。『9年間にわたって上海の地下に潜り、一管の筆を武器に文筆活動を行っていた魯迅は、蒋介石の国民党政府の軍警による弾圧が強まるたびに、さらに深く地に潜った。魯迅日記によれば、その避難行は前後4回、1930、31、32、34年に及ぶ。』と。 シャンハイムーンの魯迅先生は、とことんトホホの人に描かれていますが、その彼を敬愛し慕う日本人たちの姿によって、魯迅先生がいかに素晴らしい人であるかを浮かび上がらせているというすてきなお話です。時代に流されながらも、決して流されない人の誠みたいなものがあふれていて。 本棚の奥に「本朝食鑑」という本をみつけました。亡き父親の蔵書です。食べ物に関するもので、全4巻です。その内容は、李時珍の「本草綱目」というものに習っていて、中国ではこうだが、という紹介の仕方になっています。「華和異同」というような綱目もあります。 なんでこんな本を買ったのかな~と思いましたが、漢詩を理解する上で、あると便利なものだったのかも。また、1979年の発行なので日中国交正常化のあとで、中国ブームだったのかも知れません。 父が漢詩を読む参考に買ったのかなあ、というのは、中に「紅豆」というものがあったからです。「紅豆南国に生ず」って、漢文の時間に習いました。 では一つ「塩」の項では『凡そ中華の塩は、品種がはなはだ多い。海塩、井塩、池塩、鹸塩、崖塩、生塩の類がある。我が国では、ただ、海塩だけを用い、諸浦の焼塩は尽きることがない。』
2007.10.01
近くのマンションのノウゼンカズラ(凌霄花)です。暑さに負けず元気です。中学生の頃、芥川龍之介の「偸盗」という作品の中にこの花の形容をみつけてから、田舎の家の庭にあったこの花を、特別なものとして好きになりました。 花が似ていて、最近はサラダでも食べる「凌霄花蓮」は、花言葉が「愛国心」なんだそうです。明日は選挙ですね。国を愛することはその構成員である国民の幸福を願うこと。 平和で自由でゆたかで文化的な暮らしのために、愛国心をいっぱいこめて意思表示をしましょう。 1918年秋、監禁されていたブレスラウの獄中で、ローザ・ルクセンブルクはこう書いています。「普通選挙、無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎えちじみ、偽りの生活になり、そこには官僚制だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう」「ただ、何の拘束もない、沸き立つような生活だけが、創造的な力を持ち、あらゆる誤りを自ら正すことができる」 と。 100年前と比べて、時代は明らかに進歩しています。歴史の歯車は決して過去へは戻らないと言われてきました。 それを引き戻したい人たちがいる。 その人たちは、まず教育基本法を変えることに着手し、素早く変えてしまいました。多分、賛成した議員達がその中身も理解しないままに。 昨日の週刊金曜日に俳優の高橋和也さん(日本の青空で鈴木安蔵役をした「男闘呼組」の人)が、小学生の子どもさん(彼は6人の子持ちのりちぎもん!)の書き取りに「愛国心」とか「日本陸軍」とかの出題があってびっくりした。 と話していらっしゃいました。 歴史を元に戻したい人たちは、過去の亡霊の祖父たちにおどらされているんでしょうか? 不気味です。 高橋和也さんはこうも言っています。「国民と政治家・官僚の考えが完全に乖離していて、とても同じ世界に生きているとは思えない。もっと「民意」を政治に反映させなければならないと思います。」と。 民意を反映させる一番の近道は、やっぱり選挙!!
2007.07.27
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