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読レポ第2030カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「ディープ・インタラクティヴ・リスニング」(1/2) ここで、事の本質を伝えるために、「自分の深いところ」と一致して、と表記してきたのは、ロジャース自身の言葉で言うと、私たちの内側深いところで流れる「内臓感覚的体験」との「一致し」である。カウンセラーが、みずからの「意識」を自分の内側深いところで流れている「内臓感覚的体験」に振り向け、そのこと「一致」しながら、クライアントの話に虚心に耳を傾けていく姿勢のことである。そして(第8章で詳論するように)私たちの内側深いところで流れているこの「内臓感覚的体験」のことを、ジェンドリンは、experiencing エクセリペリエング(一般に「体験過程」と訳せれいる)と呼んだのである。 ロジャーズの言う「一致」とは、より実践的に言うならば、カウンセラーが自分の内側の深いところで流れているexperiencing に意識を向けながら、そこから、クライアントの話を虚心に聴いていく姿勢のことである。フォーカシングを学んだことがある方にわかりやすくいうならば、カウンセラーがみずからの内側で深くフォーカシングしながら、そこから虚心にクライアントの話を聴いていく姿勢のことである、と言っていいだろう。 カウンセラーがみずから内側深いところとしっかりつながりながら(一致しながら)、そこを基盤として、クライアントの話を深く聴いていく。単に気持ちがわかる、というのではない。クライアントの存在のエセックス、生きざまのエセックスにまで届くような「深い、エセックスレベルでの共感」がここで可能になる。 筆者が、この「深い、ほんものの傾聴」を体得するためのトレーニング方法としておこなってきたのが、「インタラクティブ・フォーカシング&リスニング」の方法である。「深い、ほんもの傾聴」の習得法(トレーニング法)については、前著『はじめてのカウンセリング入門(下)ほんものの傾聴を学ぶ』(諸富 2010b)にくわしく書いたので、そちらをお読み頂きたい。と著者は述べています。 「ディープ・インタラクティヴ・リスニング」とは「深く聴くことでの相互に作用する対話での」であることで、傾聴には、欠かせない。今までも言っているように、カウンセラーが、みずからの「意識」を自分の内側深いところで流れている「内臓感覚的体験」に振り向け、そのこと「一致」しながら、クライアントの話に虚心に耳を傾けていく姿勢のことであることである。 私流に言えば、クライアントの話に虚心に耳を傾けて、自分のこころのベクトルをひたすらクライアントに向けることだとおもう。そのさいに、カウンセラーは自分というものを失なわないことです。自分の感覚・意識を失わないことだと思います。 失ってしまうと、ただのオウム返しやクライアントの深い悩みに絡みこまれしうと思います。
2024.03.31
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読レポ第2029カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「一致」は、「深い共感」の基盤である カウンセラーが内側の深いところと「一致」しながら話を聴いていくことは、その共感に「深さ」を与えることにつながる。 たとえば、こんなことがある。カウンセラーとして自分の内側の深いところと「一致」し、そこにつながりながら、内側の深いところで虚心に聴いていると、相手のこころの世界の深さにこちらもググググーッと吸い寄せられるように深く入っていくことがある。その世界にしばらく浸っている。そんな感じになる。そして、そうした感じでいながら、面接の記録を書いていると、なぜか毎回、ふと同じイメージが浮かんでくることがある。そしてときに、それを伝えてることが、意味のないことではないのではないか、と思えてくることもある。 そんな時、面接で次のように伝えてみるのである。 「こんなこと、あなたに伝えて意味があることかどうか、わかりませんが……面接が終わってあなたのことを思い浮かべていると、なぜか最近、ふと、毎回、同じイメージが浮かんでくるんです……それは……こんな感じです。 真っ暗な闇のなかを一人、ぼつんと歩いていると……そこに1匹の蛍がすっと現れて……そこにいる誰にもおそらく気づかれないような仕方で、とても静かに、すっと現れて……あたりを一瞬、ほのかに、けれど、とても明るく照らしてくる……ほんの一瞬のことです……そして、それが終わったら、その蛍は……何か自分の役割はもう終わった、という感じで、また、誰にも気づかれないような仕方で、スッと消えていく……そんなイメージなんです……」 こんなふうに、カウンセラーがクライアントの話のエッセンスを、あたかもクライアント自身になったかのようにして虚心に聴いているうちに、自分の内側の深いところからおのずとふと浮かんできたものを伝えてみることは、クライアントにとっても意味があることではないか。そう思えたならば、そこで出てきたものを、ふとつぶやくように言葉にして伝えてみる……。そのようにして伝えた言葉やイメージや動作などが、ほかの仕方ではとてもえきなかったような仕方で、クライアントのこころの深いところに伝わっていくことが少なからずある。 そこで起きているのは、「このカウンセラーとこのクライアントと……この二人でなければ不可能であったと思えるような深いところでの響き合い」である。 こんな傾聴が、私の言う「深い、ほんものの傾聴」である。それは、「カウンセラーとクライアントとの、内側の世界が一つに溶け合い響き合う傾聴」「クライアントが、単に話の内容や気持だけではなく、自分という存在のエッセンスをわかってもらえた、感じ取ってもらえた、と思える傾聴」である。「ある意味ではこのカウンセラーは、自分よりも自分の体験していることの本質をより深く理解している」と思える瞬間が訪れる―この時、クライアントのこころの内側で、それまで閉ざされていた何かが、開き始める。そして、「私にはやはり、このカウンセラーでないといけない。こんなに深く私の気持だけでなく、私という人間のエッセンス、生き様のエッセンスをわかってくれている人はいない」と気づいて、それまでになかった「深いつながり」(デイブ・メァーズの言う”relational depth”)が生まれるのである。 大切なのは、カウンセラーが十分に「間」をとって内側に深くていねいに触れながらゆっくりゆっくり進めていくことである。それにより、クライアント、カウンセラー双方の体験が深まり、「ディープ・インタラクティブ・リスニング」となっていくのである。と著者は述べています。 「一致」は、「深い共感」の基盤であるとは、「カウンセラーとクライアントとの、内側の世界が一つに溶け合い響き合い、クライアントが、単に話の内容や気持だけではなく、自分という存在のエッセンスをわかってもらえた、感じ取ってもらえた」、と思える傾聴であることだと、私もクライアントへひたすら、心のベクトルを向けてクライアントとカウンセラー双方が溶け合うことで、クライアントの安心感が育っていき、カウンセラーは、深く理解していると思える瞬間がが訪れれると私も言葉は違いうが同じことを言っていると私は思う。 この時、クライアントのこころの内側で、それまで閉ざされていた何かが、開き始めて自分の中の自分と対話が徐々に始まっていき、自分との「一致」が訪れていくと思う。
2024.03.30
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読レポ第2028カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 カウンターの「一致」がクライアントの「一致」を生み出す カウンターが「一致」して、クライアントの話を聴く上で何が一番重要か。 それは、「脱日常的な、より深い意識のモード」への「意識モードの転換」である。「相手の内側の深いところに入っていくことができるこころの構え」をつくる。このような「脱日常的な深い意識のモード」「脱日常的な深いこころの構え」をつくり、そうした「意識のモード」「こころの構え」でクライアントの話を聴いていくこと。この「意識のモード」添加」をおこなった面接に臨むことによって、カウンセラーは、「自分の深いところ」意識を向け、「自分の深いところ」としっかりつながり、そのこと「一致」して、そこから、そこを立脚点として、クライアントの話を聴いていくことができる。クライアントの話を聴いていく時の、カウンセラーの中での、意識の置きどころが違ってくるのである。これがもたらす違いは大きい。 カウンターが自分の内側の深いところとしっかりつながり、そこと「一致」して、そこから、そこに意識を置いて話を聴いていく。すると、より深く、話を聴いていくことができる。この姿は、かなりダイレクトにクライアントに影響を与えずにいない。 そうした「深い意識モード」「こころ構え」がセットされたカウンセリング・ルームの中で、クライアントもはじめて安心して自分の内側の深いところに入っていき、内側の深いところに触れながら、自分のことを語ることができるからだ。カウンセラー自身も安心して自分の内側の深いところに入っていき、内側の深いところに触れながら、クライアントに話を内側の深いところで聴くことができている。内側の深いところに触れながら、そこから言葉を発することができる。するとクライアントもおのずと、内側の深いところに触れながら自分のことを語りることができるようになっていく。クライアントのありようは、カウンセラーのありようを反映したものになっていくからだ。 こうして、カウンセラーもクライアントもともども、「内側の深いところに触れながら語ったり聴いたりできている深い意識モードのカウンセリング」が実現されていく。ここに、カウンセラーが「一致」して聴くことの、ほんとの意味がある。 ロジャーズが1961年来日した折に、ある初学者が「受容」と「共感」と「一致」の3つの中でどれが一番重要なのか、とロジャーズにたずねた。質問者の予想に反してロジャーズは、「3つの中で最も重要なもの。それは間違いなく、「一致」と即答したという。 カウンセラーが自分の深いところと「一致」した傾聴とは、具体的にはどのようなものか。カウンセラーがクライアントの話に虚心に耳を傾けながらも、同時に、自分自身の内側に深く、ていねいにふれながら、クライアントとともに進んでいく。クライアントのほうも安心して、少しずつ、自分の内側深くに張っていくことができるようになっていく。カウンセラーがみずからの深くと「一致」すながらカウンセリングをしていくことで、クライアントも安心してみずからの内側深くに意識を向けるようになっていく。みずからの内側深くに触れ、そこに「一致」していく。カウンセラーの自分の内側深くとの「一致」が、クライアントの自分の内側深くとの「一致」を生み出していくのである。と著者は述べています。 カウンセラーらは、カウンセリングで傾聴するためには、自分自身の深い内側に触れながら、虚心に耳を傾けながらクライアントの深く内側に触れることです。カウンセラーらが自分の内側に触れている姿勢が、クライアントの安心感を生み、クライアント自身から次第に語っていく。カウンセリングでは、この項でもクライアントの安心感を重視している。 人は、安心感があってからこそ、語れるようになるのだと私は、思います。 カウンセリングでは、「安心感」が重要なのです。
2024.03.29
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読レポ第2028カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 一致3/3 カウンセリングをしている時に、カウンセラーがひたすら自分を消してクライアントの気持ちに耳を傾けながらも、同時に、自分の内側の深いところにも意識を向けていること。そこで起きていることに気づいていること。必要であれば気づきをカウンセリングに生かしていくことができること。これが「一致」である。 ブライアン・ソーンが授業中におこなっていた「一致」の定義も紹介しよう。「一致」とは、セラピストがクライアントに深い「受容」と「共感的理解」をおこなっているときに、同時に自分自身に対してもつねに深い「受容」と「共感的理解」をおこなていることである。つまり、「一致」とは、セラピストの「自分自身に対する深い受容と共感である」。 ほんもののカウンセラーは、自分自身を無条件に受容し、自分の内側から出てくるどんなものもただそのまま認める。また、自分自身のこころの声に常に共感的に耳を傾けている。これが「一致」であり、そうしながら同時に虚心にクライアントの話を聴き、クライアントを無条件に共感的に理解していく。それがロジャーズ派のカウンセリングである。ブライアンはそんなふうに説明していた。シンプルで、とてもわかりやすい定義だと思う。 と著者は述べています。 ここでも、「一致」とは、セラピストがクライアントに深い「受容」と「共感的理解」をおこなっているときに、同時に自分自身に対してもつねに深い「受容」と「共感的理解」をおこなていることで。つまり、カウンセラーは、虚心なくクライアントの話を聴き、自分自身無条件に受容し、自分の内側から出てくるどんなものもただそのまま認めることであると私も思います。 自分の中に自分の価値観や考えが湧いてきたら、自分の横にそっと起き、クライアントへ心のベクトルをたゆまなく向けることだと思う。カウンセラーは、自分自身の価値観や考えもしっかりありのままに受容することです。
2024.03.28
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読レポ第2027カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 一致2/3 また「必要十分条件」の論文の4年後に書かれ、「オン・ピカミング・ア・パーソン」第18章に収録されたある論文(Rogers,1961c)では、こう説明されている。 一致とは、体験していることと意識していることが正確に合致していることを示すために用いられる用語である。さらにそれを、体験と意識及びコミュニケーションが合致している、という意味に広げていいかもしれない。おそらくその最もシンプルな例は、幼児にみることができるだろう。幼児が生理的かつ内臓感覚的なレベルで空腹を体験する時には、その意識は体験に合致しており、さらにそのコミュニケーションも体験と一致している。その子は空腹で満たされていない。そのことはどのレベルにおいても真実である。この子はこの瞬間、空腹であるという現実の中に統合され、統一されている。この子がおなかいっぱいで満たされている時も、この子は内臓感覚的なレベルでも意識的なレベルでも、またコミュニケーションのレベルでも、同様に統一された一致の状態にある。ほとんどの人が幼児に反応する一つの理由は、おそらく幼児が純粋で統合されており一致しているからである。 「一致」の説明をすると、なんだか難しい、高級なことのように受け取られる方が少なくない。しかし、幼児でもおもなっているとわかれば、そんな難しいことではないとわかるだろう。「一致」とは、「リアルであるころ(bejng real ビイジグ ウェール=本物である)」(Rogers & Russell,2002)と、さらっと説明されることもある。 「一致」とは、何と何の一致か。「意識」と、私たちの内側で進行している「内臓感覚的体験」との「一致」である。 内側で進行している「内臓感覚的体験」に意識が向けられており、それに気づいている。そして必要であれば、それを伝えることもできる。コミュニケーションすることもできる。これが、「一致」である。と著者は述べています。 確かに「一致」とは、幼児で考えると、幼児が生理的かつ内臓感覚的なレベルで空腹を体験する時にその意識は体験に合致しており、さらにそのコミュニケーションも体験と一致している、例を想像すれば、「一致」が理解しやすい。 人の「一致」とは、「意識」と、私たちの内側で進行している「内臓感覚的体験」との「一致」であり、内側で進行している「内臓感覚的体験」に意識が向けられており、それに気づいていて、クライアントが気づいていたときは、時には伝えることも必要だと私は思う
2024.03.27
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読レポ第2026カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 一致1/3 ロジャーズは言う。 第三の条件はセラピストはこの関係において、一致して(congruent てぃぐりにんぐ)おり、純粋(genuine じぇにえん)であり、統合されている(integarted インタィリーン)人間でなければならないということである。その関係の中で彼は、自由にかつ深く自分自身であり、現実に内側で体験していることが自分自身の気づきとして正確に表現されていなければならないことである。それは、意識的であれ無意識的であれ、仮面を被ることの正反対である。 だからといってセラピストは、その生活の全局面において同じ程度の統合性や全体性を示すような模範である必要はない(それは不可能なことである)。セラピストは、この瞬間においてありのままの自分であれば、それで十分なのである。 これに続く説明では、セラピストの中に「自分はこのクライアントを怖がっている」「私の注意は今、自分自身のことでいっぱいになっていて精神的な余裕がなく、クライアントに耳を傾けることはできない」といった感情がわいて来た時に、こうした感情を自分の意識に否定しないで、自由にその感情のままでいることができるとができるということだ、と述べられている。と著者は述べています。 確かにセラピストは、自由にかつ深く自分自身であり、現実にクライアントの内側で体験していることで自分自身の気づきたことを正確に表現されていなければならないですが、その表現がクライアントとピッタリに一致しているか、クライアントに訊き修正しながら、クライアントが一致するように寄り添って支援するのだと思う。 ただし、セラピストの中に「自分はこのクライアントを怖がっている」「私の注意は今、自分自身のことでいっぱいになっていて精神的な余裕がなく、クライアントに耳を傾けることはできない」といった感情がわいて来た時に、こうした感情を自分の意識に否定しないで、肯定的に受容して、自由にその感情のままでいることができるとができることも大事です。 セラピスト自身が、自分の感情を肯定的に受容できなければ、クライアントに対して受容・一致ができなくなる要因になる。
2024.03.26
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読レポ第2025カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 共感的理解5/5 筆者は、2005年刊行の『ロジャーズ主要著作作業集』全3巻の訳者の一人である。いまであれば、違った役をすると思う主要なタームがいくつかある。一つが、reflection(レクレション=反射)であり、もう一つが、このempathic understanding(エンパック アンダスタディグ=共感的理解)である。 ロジャーズの言うempathy(エンパティー=共感)の深さが十分に理解されない原因の一つは、この言葉を「共感」と訳してしまったことに一因があるかもしれない。日常用語での「共感」は、「いや、ほんとう、わかります」「私も同じように感じます」といったことであり、これをは「同感」とそう違いない。 ロジャーズの言うempathyは、自分をいったん捨てて、相手の内側の世界に完全に張り込み、そこに立脚点をシフトさせて、相手自身にいったん完全になりきり、そこから世界や寺院性を眺め直してみるような、かなりダイナミックな行為である。これは「共感」という言葉のニュアンスとはかなり違い。かつて(『ロジャーズ全集』などで用いられていた)「感情移入的理解」というものとも、異なる。自分をいったん捨て去って、相手の内側の世界に完全に張り込む、というニュアンスが伝わらない。今であれば、ロジャーズのempathic understandingを「自己投入的理解」とか「自己没入的理解」などと訳すかもしれない。少なくとも「共感」などという、わかったつもりになりやすい平易すぎる言葉で訳すよりは、まだことらのほうがいいだろう。と著者は述べています。 確かに日常用語での「共感」は、「いや、ほんとう、わかります」「私も同じように感じます」といったことであり、これを「同感」と捉えるひとは、私も沢山、勘違いする人がいると思います。 さらに、私も良く使っている「受容」も、「いや、ほんとう、わかります」「私も同じように感じます」といったことであり、これを「同感」と捉えるひとも沢山いると思います。 著者のようように「自己投入的理解」とか「自己没入的理解」などと訳すにも良いが、「投入的」とか、「没入的」となると馴染みがなく理解が私はできないので、私は、自分の価値観や考え、信じている「ベキ」のコアビリーフを自分の横に起き、私は、「相手に自分の心ベクトルをたゆまぬ向け続ける」と自分なりには捉えています。
2024.03.25
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読レポ第2024カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 共感的理解4/5 共感的理解においては、クライアントとセラピストの協働作業のなかで、より正確でぴったりした理解に徐々に徐々に近づいていく、という意味合いを強く持たせたかったのだと思う。その箇所を紹介する。 共感的と表現できるようであるようで、他者とともにいることは、いくつかの側面がある。共感的であるとは、他者の私的な知覚的世界に入り込み、完全にくつろいでいることを意味している。共感的であるとは、この瞬間瞬間、他者の内側に流れる感じられた意味を感じ取ることである。それが、恐れであれ、怒りであれ、やさしさであれ、困惑であれ、何であれ、その他者が体験しつつあることを感じ取ろうとするのである。 共感的であるとは、一時的にこの他者の人生を生きることである。評価を下すことをせずにその人の人生の中を繊細に動き回ることである。他者がほとんど気づいていない意味を感じ取ること、しかしその人の気づきにまったくのぼっていない感じは明るみ出さないことを意味する。なぜならそれはあまりに脅威でありうるからである。 共感的であることは、自分の感じ取ったことの正しさについて、この他者とともにつねに検証すること、他者から受け取った反応につねに導かれていくことを意味する。共感的であるとは、他者の内側の experiencing(経験) の流れに含まれる、可能な意味を指ししめすことである。それによって、その他者自身が、 experiencing ということの便利で有益な参照体に意識の焦点を当てるように助け、その意味を十分に体験すること、そして前進していくことができるようになるようにするのである。 共感的に生きるとは、しばらくの間自分の視点や価値観を脇に置いて、偏見を持たずに他者の世界に張り込むことを意味している(Rogers,1975)。(訳出において、小林(2004)を参照した)と著者は述べています。 共感的であるとは、クライアントの恐れや、怒りや、やさしさ、困惑、などを、共に体験して、クライアントが上手く表現できないことをカウンセラーが鏡になって支援することのようである。それと、カウンセラーは、価値観を脇に置いて、偏見を持たずに評価を下すことをせずにクライアントに確認しながら鏡に徹していくことです。 私も長年、話し合いのファシリテーターをしていたが、自分の価値観を脇に置いて、偏見を持たずに参加者の発言を促していた。私もファシリテーターの経験で解ってきたのです。 カウンセラーもファシリティターも言葉が違っても、参加者(クライアント)に対して共感的な表現のサポートの役割は同じように感じます。 自分の価値観を脇に置いて、偏見を持たずに参加者(クライアント)の発言を促すことである。
2024.03.24
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読レポ第2023カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 共感的理解3/5 では、共感的理解とは、具体的にはどうすることなのか。クライアントの言わんとしていることの意味(エッセンス)を、クライアントのこころの「内側」に立って、クライアント自身になりきったかのうような姿勢で、パッとつかんで、的確に伝え返していく。その理解が正しいかどうかをクライアント自身に確かめてもらい、微妙なニュアンスに至るまでぴったりくる表現を探していく。クライアントからしてみれば、カウンセラーは、自分の言わんとしていることの意味(エッセンス)のみをつかんで(余計なところは捨象して)映し出してくれる「優れものの鏡」である。「自分がほんとうに言いたいことのエッセンスを自分以上にわかってくれて、表現してくれる存在」である。 違う言い方をしてみよう。共感的理解とは、クライアントの私的な世界を、その微妙なニュアンスに至るまで、あたかもその人自身になりきったかのような姿勢で感じ取り、そこで感じ捕ったことをていねいに相手に「伝え返していく」(リフレクション)ことである。ここで重要なのは、「あたかも」という性質を見失わないようにすることである。これを見失ってしまうと、クライアントとの間に必要な心理的距離を失い、相手を受け止められなくなってしまう。 実践的には、クライアントがまさに言わんとしているその「感じ」の「エッセンス」を、「あなたのおっしゃていることは……ということでしょうか」と、クライアントの感じているまさにその次元に踏みとどまりながら、ていねいに、ていねいに、クライアント自身の側に身を置きつつ、「確かめつつ、確かめつつ、暗闇の中をともに歩んでいくような姿勢」のことである。 このような共感的理解では、クライアントに、こちらはこのように理解していますがそれでよろしいでしょうか、それはあなたの感じている意味合いとニュアンスが異なっていたら微修正してもらいながら、よりぴったりしっくる理解に少しずつ接近していく。そのな営みである。 ロジャーズも1970年代半ば、ロジャーズが70歳を超えた頃、「現実点の定義」とした上で、「現在、私は満足できる共感の定義を試みたいと思います。今でもそれを「共感という状態」(state)と定義しません。それはプロセス(process)であって状態ではないと思うからです」(Rogers,1975)と述べている。と著者は述べています。 確かに共感的理解には、カウンセラーが「自分(クライアント)がほんとうに言いたいことのエッセンスを自分以上にわかってくれて、表現してくれる存在」であることの姿勢が大事で、クライアントの表現したことを、丁寧に確かめて、微調整・修正していきクライアントの「優れた鏡」になることが共感的理解になっていく。カウンセラーは、自分の感情や考えなどを横に置くことで、クライアントへの共感的理解に近づくと私は思います。
2024.03.23
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読レポ第2022カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 共感的理解2/5 精神分析では、クライアントの現在の「心の内側の動き」を、「外側での出来事(生育史、過去の出来事、幼少期からの両親との関係のパターン等)」から理解する。認知行動療法では、クライアントの思考や行動(外側の動き)を数値化されたデータをもとに「外側から」理解する。これに対して、クライアント中心療法では、クライアントの語ったことや、絵などで表現されていることを「そのまま」その内側から理解するのである。クライアントの言葉の意味などについて、あれこれ邪推せず、解釈せずに、「そのまま」受け止める。「真に受ける」のである。 相手が言っていることを、そのまま「相手自身の内側の視点」に立って、その「内側」を、その「内側から」、相手になりきったかのような姿勢で理解しようとするのである。 「インターナル・フレーム・オブ・レファランス」とは、その人が自分の内側に持っている、ものの見方、感じ方、考え方、価値観などの枠組み(フレーム)のことである。人がそれを通して世界を見て人生を生きている「内側のフレーム」のことである。 ロジャーズのカウンセリングでは、カウンセラーは、自分を消す。自分を消して、クライアントの内側の世界に自分を投げ入れる(自己投入)。クライアントの内側の視点に立ってクライアント自身になりきったかのうようにして、クライアントが生きている内的な世界を共に体験する。クライアントを本人の内側から理解していく。「もし私がこのクライアントで、このクライアントと同じ価値観、感じ方、考え方をしているとしたならば……」と仮定して。そのクライアントの心の内側をありありと想像し、その人自身になりきったかのような姿勢で、クライアントの心の世界をその内側から理解しようとしていく。そしてそこで得た理解を「このように理解しているのですが、それでよろしいでしょうか」と、クライアント自身に確認し吟味し修正してもらうような姿勢で聴いていくのである。と著者は述べています。 確かにクライアント中心療法では、クライアントの語ったことや、絵などで表現されていることを「そのまま」その内側から理解するのであり、クライアントの言葉の意味などについて、あれこれ邪推せず、解釈せずに、「そのまま」受け止めるて、カウンセラー側は、自分のものの見方、感じ方、考え方、価値観などの枠組み(フレーム)を手放して、クライアントに心のベクトルをたゆまなく耳を傾けることだと、私も思う。 前回も言ったように、耳を傾けるときにクライアントの怒り、恐れ、混乱に巻き込まれないようにしなければならない。カウンセラーなどは、自分をしっかりと持つことも重要です。クライアントにひたすら付きそうことで、クライアントの怒り、恐れ、混乱をのりこえるように安心感を与えてサポートすることです。
2024.03.22
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読レポ第2021カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 共感的理解1/5 次に、第5条件、「共感的理解」について説明しよう。第5条は、「セラピストは、自分がクライアントの内側のフレームに立って(internal frame of reference)、クライアントを内側の視点から、共感的に理解していることを体験している。またクライアントにこの自分の体験を伝えようとしている」というものである。 「必要十分条件」論文においてロジャーズはこう言う。 「第5条件は、クライアントの気づきについて、そして自分自身の体験について、正確で共感的な理解を体験していることである。クライアントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じ取り、しかも『あたかも……のごとく』という性質(”as if quality)を決して失わない‐これが共感なのであって、これこそセラピィの本質的なものであると思われる。クライアントの怒り、恐れ、混乱に巻き込まれいないということが、私たちが述べようとしている条件なのである。 クライアントの世界がこのようにセラピストにはっきり映り、セラピストがクライアントの世界の中を自由に歩き回るとき、セラピストはクライアントに、はっきり映っている点について、自分が理解していることを伝えることができるばかりでなく、クライアントはほとんど気づいていない体験の意味を言葉にして述べてることもできるである」 それは、次のような項目に該当するものであるという。 「セラピストは、患者の感情をよく理解することができる」 「セラピストは、患者の述べている意味について決して疑いを持たない」 「セラピストの言葉は、患者の気分やその述べている内容にぴったり適合している」 「セラピストの声の調子は、患者の感情を理解する完璧な力を持っていることを示している」 クライアント中心療法のクライアント理解の方法は、「内側からの理解」である。 クライアントの内側に入り、クライアント自身になっているかのようなつもりで、クライアントが語っていることをその内側の視点から理解する。 このように、クライアント中心療法における「クライアント理解」の特徴は、クライアントの「内側の動き」を、その内側に立って、「内側から」理解する点にある。と著者は述べています。 「共感的理解」について、「セラピストは、自分がクライアントの内側のフレームに立ってクライアントを内側の視点から、共感的に理解していることを体験」であると言っています。そのさいにセラピストは、クライアントの怒り、恐れ、混乱に巻き込まれないようにしなければならないが、人間は、そのクライアントの怒り、恐れ、混乱についつい反応しがちになります。自分の価値観や考え、感情などで反応しがちですが、そのようなモノが湧いたときは、私は、そのような価値観や考え、感情などを自分の横に置くようにしています。完全ではありませんが。そのような自分の価値観や考え、感情などを手放すことです。 クライアントに自分の心のベクトルをたゆまなく向け続けることだと私は、思っています。それが、クライアントに対してやがて「共感的理解」へと結びつくと私は思っています。
2024.03.21
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読レポ第2020カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 無条件の積極的2/2 きわめて重要な点なので、別の説明もしてみましょう。 「受容」とは、カウンセラーの価値観や好みによって取捨選択せず、クライアントのどの側面にも、偏りなく積極的かつ肯定的な関心を向けることである。実践的には、クライアントが自分のこころの中に「空間」をつくり、その「空間」の中を、あたかもクライアントに自由に漂ってもらうことができているような、そんな心理的態度のことだと考えてもいいだろう。 大切なのは、「無条件の」ということの重要な意味の一つは、「選ばない」こと、カウンセラーの価値観によって「この部分は大切。この部分はそうでもない」などと取捨選択せず、クライアントから表現されたこころの全体性の「どの部分も」大切にしていく姿勢にある、ということである。相手の「全体性」を大切にする、といった曖昧な理解にとどまらないことが重要である。 私自身は「無条件の積極的関心」とは、先述のように、それがクライアントの側から発されたものであれ、カウンセラーの側から発されたもであれ、あるいは、カウンセリング空間に漂っいる「空間」「雰囲気」のような、そのどちらとも言えないもの(どちらでもあるようなもの)であれ、「カウンセリングの場に存在しているものであれば、どんなものでも、ていねいに意識を向けていく態度」のことである、と考えている。面接過程で生じてきた「すべてのもの」に、ただ等しく、無条件に意識を向けていく。そこで立ち現れ浮上してくるすべてのものに開かれた態度を保持するのである。 面接空間に立ち現れてくるすべての現象をただ、そのまま受け止める。ロジャーズ派の「受容」というには、突きつめれば、このようなレベルの受容、すべての現象をただそのまま受け止めるという「徹底された受容」になるのではないか。フロイトの言う「平等に漂う注意」に近いかもしれない。それは、セラピィの場に存在しているもの、漂っているすべてのものに等しく意識を向けていく姿勢である。 ロジャーズ派の立場(パーソンセンタードの立場)で最も熱心にカウンセラー養成に取り組んできた人物の一人、デイプ・メァーンズは、ロジャーズの言う「無条件の積極的関心」の「無条件」性の本質は「無選択」性、つまり、カウンセラー側の判断で取捨選択せず、クライアントから表現されているすべてのことに等しく意識を向けていく姿勢のこととして理解したほうが、臨床的に(あるいは臨床家養成の上で)より有効であると言っている(クライアントを一人の人間として丸ごろ受容する、といった抽象的な理解では、あまり役に立たないということだ)(Mearns1994)。と著者は述べています。 確かにカウンセリング時には、 カウンセラーの価値観や好みによって取捨選択せず、クライアントのどの側面にも、偏りなく積極的かつ肯定的な関心を向けて受容することです。 私は、肯定的に受容すること以前から言っていたが、それは、クライアントへの安心感でしたが、肯定的に受容することで自分自身の中で湧いてくる、自分の価値観や思いを無にすることにもつなががっています。つまり、肯定的に受容することで自分のこころのベクトルをクライアントへひたすら向けることができます。 そのような肯定的な関心ができないと、自分の価値観と違うと、ついついクライアントへのアドバイスや指示、否定、賞賛、評価などをやってしまいがちになります。 自分の価値観は、以前のクライアントの鏡になることに歪んだ鏡になります。つまり、クライアントの鏡ではなく、カウンセラーの「他人鏡」になってしまいます。そうなると、自分を映した鏡ではないので、カウンセラーに気遣うようになって、本人が言いたいことが表現できなくなっていきます。 そのためにも、クライアントのどの側面にも、偏りなく積極的かつ肯定的な関心を向けて受容することと、私も思います。そうすると、クライアントへは、自分の中の自分と対話ができるように徐々になっていくと思います。
2024.03.20
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読レポ第2019カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 無条件の積極的1/2 次に、第4条件、「無条件の積極的関心」について説明しよう。これは一般に「受容」と呼ばれているものである。「必要十分条件」論文におけるロジャーズの説明は以下のとおりである。 セラピストがクライアントの体験しているあらゆる側面を、そのクライアントの一部として温かく受容しているという体験をしているならば、その受容している程度においてその人は、無条件の積極的関心を体験しているのである。(中略)それは「あなたはこんな時にはよいがこんな時には悪い」というように、選択的に評価する態度とは正反対のものである。その人の「よい」、肯定的な、成熟した、信頼できる、社会的な感情の表現に対すると同じくらいいに、クライアントの「悪い」、苦痛に満ちた、恐れている、防衛的な、異常な感情の表現を受容するという感じを含むものである。 それはまた、次のような項目に該当するものだということである。 「クライアントがどんなことを言っても嫌いな気持にはなりません」 「クライアントについても、その話すことについても、肯定したり否定したりする気持はおこりません。ただ受容するだけです」 「私はクライアントに対して、ただ温かい気持を持っています。その人の可能性についても、その人の弱点や問題についても温かい気持を抱えています」 「クライアントが話すことについて、判断をくだそうという気はありません」 「受容」についてまず説明すべきは、多くの初学者が「受容」と「同感」「賛同」「賞賛」とを混同してしまっている、という点であろう。クライアント中心療法では、「同感」もしないし「賛同」もしない。「ほめ」もしないし、「叱り」もしない。 クライアントに対して「そうですよね」などと「同意」もしないし「同感」もしない。「そうですよね」という言葉は。クライアント中心療法では、基本的にはつかわない。ときに初回面接では、まず使わない。なぜか。「そうですよね」と言われ「同感」されたクライアントは、カウンセラーに「同感」されそうなことしか、言えなくなるからである。また、「そうですよね」と「同感」されることで、クライアントは 、無自覚のうちに、「日常会話に流されること」を強要されてしまう。せっかく自分を見つめに来たのに、貴重な機会を台無しにされてしまう。 なぜ、ほめないのか。カウンセラーがほめてしまうとクライアントは、カウンセラーにほめられそうなことしか、言えなくなってしまうからである。つまり、「無条件に、そのまま受け止められた体験」を出来なくなってしまうのである。 「そうですよね」と同感されたり、「いいですね」とほめられたりすることで、クライアントは、カウンセラーに同感されたりほめられたりしそうなことしか、話せなくなってしまう。これは「評価」であり、「条件付きの受容」になってしまう。 「私なんか、ダメです」と言っているクライアントに、「そんなことないよ。あなたは、今のままで、そのままでいいんですよ」というにも、受容とは、異なる。これは単なる賞賛(価値の評価)であり、「私なんか、ダメだ」というクライアントの気持も「拒絶」である。 「そんなことないですよ。あなたは、今のままで、そのままでいいですよ」とカウンセラーに言われることで、「私なんかダメだ」と思っているクライアントとは、「やっぱり、こんな今のままでいいと思えない私は、ダメ人間なんだ」と、さらに自己否定に追いやられてしまう。カウンセラーの「そんなことないよ。あなたは、今のままで、そのままでいいんですよ」という言葉によって、クライアントは、落ち込むばかりの自分をカウンセラーに否定され拒絶されたという気持になって、さらなる自己否定の悪循環においやられてしまう。 では、「受容」とは何か。カウンセラーには、クライアントの言わんとしていることをいい悪いで評価せず、ただそのまま、受け止めていく。たとえば、「もう私なんかダメだ」というクライアントに対して、「そんなことないですよ」と励ましたり、「もっとこんなふうに考えてみては」とアドバイスしたり、といったことはしない。「なるほど……どうしても、自分のなかに、私なんてダメだ、という気持がある。そんな気持がつねに、自分のなかにあると思っておられる……」と、ただ「そのまま」受け止めていく。クライアントの話の「内容」ではなく、「感情(気持)」でもなく、そこで「言わんとされていること」をつかんで、可能な限り短い言葉で、しかも、(カウンセラーが勝手に評価・判断して)どの部分が重要でどの部分は不要だと決めつけることはせず(無選択の姿勢)、クライアントの言わんとしていることのどの部分も、一つ一つていねいに受け止めいく(無選択の尊重)。 カウンセラー自分の言わんとしていることのどの部分も、ただそのまま受け止めてもらったクライアントは、自分自身でも、自分の言わんとしていることの部分をも、ただそのまま受け止めていくようになる。「あぁ、私のなかには○○なところもあるし、○○なところもあって、それで○○なんだなぁ」といったように。 「カウンセラーがクライアントの言わんとしていることを、ただそのままに(無選択、無条件に)受容していく」(カウンセラーによるクライアントの「無選択・無条件の受容」)→「クライアントは自分自身の内側のどの部分をも、自分の意味ある大切な一部として、ただそのままに(無選択・無選択に)受容していく」(クライアントによるクライアント自身の「無選択・無条件の自己受容」)。このようにつながっていくのである。 ロジャーズも言うように、クライアントは、カウンセラーがクライアント(自分)に対してとるのと同じ態度(無選択・無条件の受容)を自分自身に対してもとるようになるのである(無選択・無条件の自己受容)。と著者は述べています。 ロジャーズは、この項で「無条件の積極的関心」について具体的に言葉で述べている。この項で私は、今までの中では「無条件の積極的関心」で無かった、部分に気が付いた。同感や、同情や、「賛同」や。「ほめ」たり、「叱り」たりしたことはないが、 「あなたは、今のままで、そのままでいいですよ」と言うたぐいのことを言ったことがある。これは単なる賞賛(価値の評価)であり、「私なんか、ダメだ」というクライアントの気持も「拒絶」なんて、私は思っていなかった。クライアントが安心感を持てるように私は、言ったことが、上記のような気持にクライアントの中に「拒絶」の気持が芽生える可能性があるとは、まったく気づかなかった。 ロジャーズの言うように、クライアントの話の「内容」ではなく、「感情(気持)」でもなく、そこで「言わんとされていること」をつかんで、可能な限り短い言葉で、しかも、(カウンセラーが勝手に評価・判断して)どの部分が重要でどの部分は不要だと決めつけることはせず(無選択の姿勢)、クライアントの言わんとしていることのどの部分も、一つ一つていねいに受け止めいく(無選択の尊重)な意識を持たなけれないない事をこの項で学んだ。 上記のようになるには「意識」しての量稽古であると思う。この項は、私に「無条件の積極的関心」を見直す機会になった。
2024.03.19
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読レポ第2018カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「心理的な接触」をつくる2/2 そうしたモチベーションにない患者を前にして、たとえば、 セラピストが「あなたと私の間には、150センチくらいの距離がありますね。(中略)そしてその間には、白い、大きな机が、ありますね」 このように、あたかも実況中継をするかのようにしてその場面を描写し、映し出すことで患者と心理的につながろうとするのである。「場面の映し出す(situational reflection:「状況反射」などと訳されている)」技法である。 ほかにも「表情のリフレクション(例:ニコニコされていますね)」「動作のリフレクション(例「手が挙がっていますね」)」「逐語リフレクション(例:一般には理解できない言葉でも、クライアントには意味がありそうな言葉を繰り返す)」「反複リフレクション(効果があったリフレクションを繰り返す。例「さっき『床』って言ったら、こちらを見てくれましたね」)」などのさまざまな技法がある。その場で起きていることを「実況中継」するようにしてするようにして、クライアントの意識との接触を図っていく。 通常のカウンセリングでは「前提条件」となるこの第1の条件「心理的接触」が、重篤な患者とのセラピィにおいては、中心作業となる。 第2の条件は「クライアントが不一致の状態になり傷つきやすく不安定な状態にあることが必要だと特定されている」。援助を必要とするクライアントがいなければ、そもそも、カウセリングや心理療法は始まらない。 第3の条件「セラピストの一致」については、第4条件「受容」・第5条件「共感」の説明の後で解説したほうがわかりやすい。第4条件に先に進もう。と著者は述べています。 さまざまな、機械的なオウム返しでないリフレクションがあるようです。非言語の表情や動作や、逐語やオウム返しにみえるかもしてない反復などのリフレクションがあり、あたかも実況中継のようになるようです。 私は、リフレクションは、クライアントに寄り添いながら、クライアントに自分の心のベクトルを向けて感じた事をクライアントに反射するように務めることだと思っています。クライアントへの反射が違っていても、クライアントからの反応で修正すればいいのだと思う。完全な反射などできる人はいないのですから。間違っていたら修正すればいいのだとおもう。クライアントになりよりも安心するために「私は、側にいるよ」とクライアントが安心感を感じるためにも、リフレクションは大事だと思います。
2024.03.18
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読レポ第2017カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法読レポ第2017カール・ロジャーズ 六つの「必要十分条件」のそれぞれについて、説明を加えよう。まず、第1条件「心理的な接触」についてである。 ロジャーズは言う。 「第1の条件は最低限の関係、すなわち心理的な接触が存在しなければならないことを特定するものである。ある意味深い肯定的なパーソナリティ変化は、関係の中でなければ起こらない、という仮説を私は立てている。このことはもちろん仮説であって、その仮説は否定されるかもしれない」 筆者はスクールカウンセラーを長年やっているが、中には、まったく来談意欲がないのに、教師から言われて来談する生徒もたまにいる.今はほとんどいないが、日本のスクールカウンセラー制度が始まった1990年代には少なからずいた。「おもえ、諸富先生に話をしてもらってこい」と言われて来ました、というのである。この場合、生徒にカウンセリングを受ける意欲はまったくない。私の間の「心理的接触」もない。「もう帰っていいですか」と、すぐに言い始める。ここにいる意味はない、というわけである。たしかにそうである。 このような場合、しかし、、こちらから「心理的接触」を試みることで、雰囲気が変わることがある。私:「どうしてここにきたの?」生徒:「山田先生が行けって言ったから」私:「そうか……山田先生は、いつもそんな強引な感じなの?」生徒:「そうなんです。やってられないですよ、まったく」私:「そうか、やってられないか」生徒:「そうですよ。聴いてくれますか? この前も、山田先生は、ぼくたちに無理やり、こんなこと言い始めて……」 こんなふうにして、カウンセリングが始まることが少なくなかった。 本書で紹介した「沈黙の青年」のケースにおけるロジャーズのかかわりも、「心理的接触」をつくろうと試みたものである。重い精神病水準の患者は、みずからカウンセリングを受けて自分をみつめてたい、という意欲などない。こちらからかかわりかけて、「心理的接触」を試みなければはじまらない。ここに着眼して開発されたのが、ゲリーブラゥティの「プリセラビィ」である。と著者は述べています。 たしかに、「心的な接触」がなければ、カウンセリングには入ることはできない。カウンセリングが必要な人は、みずからカウンセリングを受けよとする意欲や意識はないのほとんどであるから、「心理的接触」をこちから試さないとカウンセリングにつながらないことが多いが、こちらからの押し売りではなく、雑談でもいいので「心理的接触」のカギを探ることだと私は思う。時には沈黙もあってもいい。まずは、クライアントが安心して話せる環境が重要であると私は思う。 でも、まずはカウセリングが必要とする人の「心理的接触」のきっかけが課題ですが。
2024.03.17
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読レポ第2016カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「必要十分条件」説への「ただし書き」 ある意味では、上記の「態度条件」の内容以上に重要なのが、これら「6つの条件」の直後に述べられている次の5つの「ただし書き」である。①これらの条件は、ある種のクライアントには用いられるけど、他のタイプのクライアントには別の条件が必要であるとは述べられていない。②これらの6つの条件は、クライアント中心療法の本質的条件であるけれど、他のタイプの心理療法には別な条件が必要であるとは述べられていない。③心理療法は特殊な種類の人間関係であって、日常生活で起こる他のすべての人間関係と違った種類のものであるとは述べられていない。④セラピストには、特殊な専門的知識―心理学的、精神医学的、医学的、または宗教的な―が求められる、とも述べられていない。⑤セラピストがクライアントについて、正確な心理診断をおこなうことが心理療法には必要である、とも述べていない。 ロジャーズの提言が、いかに大胆なものであったか、驚かれる人も少なくないであろう。一般的には、たとえば不安障害のクライアントには、精神病水準のクライアントに対するのとは異なるアプローチが必要だと考えられている。病態水準が違えば、とるべきアプローチも違ってくる。これが、常識的かつ一般的な考えであろう。 クライアントがどの病態水準にあるか(不安障害圏にあって、考えても仕方がないことにこだわり、くよくよと考えてしまっているのか。精神病水準にあって、その人のこころの成り立ちの基底の部分がなにか不調をきたしているのか。発達の偏りがあって、コミュニケーションがうまくいかないタイプのクライアントなのか)を見極めていくことは、もちろん重要である。しかし、その反面、どの病態水準のクライアントであれ、カウンセラーとしてやるべきことは共通しているものがあるのも、たしかである。ロジャーズは、この側面に着目した。 ロジャーズは、どんな問題を持ついかなるタイプのクライアントに対しても、この条件を満たすことが重要だという。また、先の「条件」は心理療法の学派の違いを超えて当てはまるし、さらにそれは、心理療法のみならず、親子関係、友人関係、夫婦関係、恋人関係など、さまざま日常の人間関係にもあてはまるというのである。 さらにロジャーズによれば、クライアントに変化をもたらすのは、あくまで「関係の質」そのものであって、そのためには特殊な専門知識は必ずしも有用ではないし、時には逆に妨げにさえなってしまう、と言う。 また、クライアントをあまりに正確かつ客観的に診断しようとしすぎることは、かえってクライアントを防衛的にしてしまうとも言う。 この最後の点などは、しばしば「診断無用論」として誤解されている点であるが、ロジャーズにあっても、「関係の質」を壊さない仕方でクライアントの病態を的確に見立てることは、当然必要よと考えられている。 いずれにせよ、この「必要十分条件」説は、いかなる問題を持ったすべてのクライアントにも通じるものと同時に、学派の相違を超えてあらゆる心理療法、さらには、日常生活におけるあらゆる人間関係にも当てはまる普遍的理論であると考えられている。この大胆さにこそ、ロジャーズの「態度条件」説の真骨頂があると言っていいだろう。と著者は述べています。 確かにカウンセリングや心理療法は、親子関係、友人関係、夫婦関係、恋人関係など、さまざま日常の人間関係の改善にも使えます。 ここでも言っているように「関係の質」を壊さないようにカウンセリング的なことが人間関係の改善に使うことができます。そのためには、聴き手と話し手の役割を意識することだと思います。 聴き手は、話し手の話を肯定的に受け取って聴くことで、話し手との関係がますます良くなります。自分が話し手になったら、このように肯定的に受け取って聴いてくれると、嬉しいくなりますからね。聴いてくれる相手には、良い関係の気持が芽生えますから。
2024.03.16
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読レポ第2015カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「治療的人格変化の十分条件」(1957年) 「治療的人格変化の十分条件」は、1956年にアメリカ心理学会から第1回特別科学貢献賞(Award for Distinguished Scientifc Contributions)を授与され、研究者として絶頂期にあったロジャーズが満を持して発表した論文である。 それにしても、「治療的人格変化の必要十分な条件」とは、いかにも大胆不適なタイトルである。これさえあれば他には、何もいらない、というのである。 ロジャーズは基本的には温厚な人柄であるが、時として、このようなドキリするほどの大胆さを、そのセラピィにおいても、研究においても、私生活においても垣間見る。しかも自分の流儀は何があっても変えない頑固さを持ち合わせていた。繊細であるが、大胆で、屈強であった。 さてこの論文「治療的人格変化の必要十分条件」であるが、その後に30年わたってしばしば自分の理論を変えていったロジャーズであるがこの「必要十分条件」論には本質的な変更は変えられていない。 この論文の最も肝心な箇所は以下のとおりである。 建設的な方向にパーソナリティの変化が生じるのは、次のような条件(状態)が存在しており。かつ、それが然るべき間、存在し続けていることである。①二人の人が心理的に接触している。②一方の人(クライアント)は、不一致の状態、すなわち傷つきやすい不安な状態にいる。③もう一方の人(セラピスト)は、この関係の中で一致している(あるいは統合されている)。④セラピストは、自分が無条件の積極的関心をクライアントに対して持っていることを体験している。⑤セラピストは、自分がクライアントの内側のフレームに立って、クライアントをその内側の視点から、共感的理解していることを体験している。またクライアントにこの体験を伝えようとしている。⑥クライアントには、セラピストが共感的理解と無条件の積極的関心を体験していることが、必要最低限は伝わっている。これ以外の条件は、必要ない。もしこれら6つの条件が存在していて、またそれらが然るべき間存在し続けるなら、それだけで十分である。その結果、建設的な方向でのパーソナリティ変化が生じるであろう。 引用は以上である。このうち①はいわゆるカウンセリングの前提条件で、②⑥はクライアント側の条件である。③④⑤がそれぞれ「一致」「受容」「共感的理解」にあたる。と著者は述べています。 ロジャーズは、「治療的人格変化の必要十分条件」を6つの条件で示している。私は特に④の「セラピストは、自分が無条件の積極的関心をクライアントに対して持っていることを体験している。」つまり、クライアントに対して、自分の感情や考え、思いなど手放し、ひたすらクライアントへ積極的関心を持つことであると言っているのであろう。これは、カウンセリングでは、クライアントが安心感を感じるためには、私は欠かせないとおもう。100%でなくてもいいので、人は、自分の感情や考え、思いが他者の話を聴いているうちに、ついつい湧いてくるので、それを自分の横に置いて、クライアントへ関心をひたすら注ぐ意識を持つことだと思う。
2024.03.15
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読レポ第2014カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 中年期の危機から、面接スタイルが変わる 「自分を消して、相手の鏡になる」ことに徹していた40代のロジャーズ。その面接スタイルを大きく変えるきっかけになったのは、第3章でも紹介した40代後半の「中年期の危機」体験であった。50歳に廃業寸前まで追い込まれたあの体験をきっかけに、ロジャーズは、「もっと自分を出そう」と思い始めた。自分の教え子にカウンセリングを受けるなどして、危機を切り抜けた50歳手前のロジャースは、「次第に、自分の価値ある人間、自分を好きな人間だと思えるところまで回復していったのです。以前に比べて、人に愛を注いだり、愛を受けたりするのをあまり恐れなくなりました。クライアントとのセラピィも、その時から一貫して自由になり、自然になってきました」(Rogrs,1967b) これが、この後のロジャーズの仕事の方向を大きく変えていく。「自分を消して、相手の鏡になることに徹する」ことをよしとしていた40代のロジャーズの禁欲主義的職人気質から抜け出し、もっと自分をオープンにしよう、と変わっていく。それが、理論的には「一致」の強調、実践的には60代以降のエンカウンター・グループの実施へと展開していく。 筆者が最も惹かれ、本書で焦点を当てている50代のロジャーズは、まさにこの変化の途上にあるロジャーズである。私たちが映像で目にすることのできるDVD『ミス・マンとの面接』のロジャーズは、1953年頃と言われているので、51歳あたり。まさに自分を解き放ち始めた、そんな時期の面接である。面接そのものはまだ崩れが見えず、40代頃と変わらない美しく整った面接スタイルを見せてくれている。しかし後に収録された解説のところでは、少し自由への渇望が顔を見せている。 彼女は自分がちょうどいま経験している恐怖と孤独の中を、一緒に歩いてくれる人がいてくれたという願いに気づき(中略)私が彼女と一緒にこうした感情の中を歩いていることを経験したのですが(中略)それをもっと一般的な用語で表現してみると(中略)そのセラピーで、その個人が経験することは(中略)愛されているという経験だと言ってもよいと思います。彼女はその瞬間、まぎれもなくそれを経験していたのです。それは、ある種の、所有欲の愛です。(カール・ロジャーズ 畠瀬稔・監修『ロジャーズのカウンセリング(個人セラピー)の実際』コスモス・ライブラリー) 「ある種の、所有欲のない愛」という表現でセラピィの本質を語ったのである。 中年期の危機を経て、より自由になったロジャーズは「一致」を強調し始める。それにより「受容」「共感」「一致」と「三条件」がすべて出揃うことになる。1956年、54歳の時に学内紀要に掲載され、1957年学会誌において公刊された、ロジャーズの生涯で最も著名な論文「治療的人格変化の必要十分条件」は、こうして書かれることになる。と著者は述べています。 ロジャーズは、中年期の危機か新たなカウンセリングでの面接スタイルに出合えた。ピンチはチャンスという事があるが、ロジャーズは、廃業寸前になりそうなくらい、たぶん苦しみながらも、「一致」というスタイルに出合えたのである。この「一致」の出会いで、クライアントが抱く恐怖や孤独が、クライアントがカウンセラー等が側にいると感じて、その恐怖や孤独をクライアントが勇気をもって乗り越えていくことにますます貢献していったのでしょう。 この中年期の危機をロジャーズがのりこえた事で「受容」「共感」「一致」と「三条件」がすべて出揃うことになったのです。その後のカウンセリングの基礎をロジャーズは築いたのでしょう。ピンチはチャンスという事でしょう。ピンチをどのように捉えるかです。
2024.03.14
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読レポ第2013カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 リフレッシュン(伝え返し/映し出し)2/2 ロジャーズ84歳の時に収録された口伝『カール・ロジャーズ‐静かな革命』(Rogers & Russell,2002)では、リフレクッシュンについて、それは「クライアントにとっては、自分を映す鏡を持っているような体験と言えるでしょう」「自分の映す正確な鏡を手にいれて、はじめに話していたときよりも、自分をはっきり見つめることができるようになるのです。」「鏡に映し出された自分自身を見つめることが出来るのです。これが、セラピィというものが、非常に役に立つところです」と言い、リフレクッシュンの持つ大きな価値をしっかりと再肯定している。 このロジャーズの指摘は、きわめて重要である。今でも「リフレクッシュン」は、カウンセリングの最も重要な技法である。しかしその本質はあまり理解されていない。 「リフレクッシュン」とは、「私は、あなたがお話しされていることのエッセンスを、あなたの内側に入って、あなたになったつもりで内側から感じてみて、あぁこんなことかなぁと、受け止めたり理解したりしているんですけど、それでよろしいでしょうか。それがしっくりぴったりくるか、あなたの内側で響かせて、確かめてください。もしずれていたり、足りなかったりしたら、教えてほしいんです……」といった姿勢でなされた応答のことである。 大切なことは、クライアントがカウンセラーの言葉を自分の内側で響かせて吟味し、修正したり微調整したりできることである。そうしたことをカウンセラーの機嫌などを気にせずにおこなうことができる雰囲気が、カウンセリングの中にあるかどうかである。「ぴたっと当たる」応答をすることではない。 リフレクッシュンをした時にクライアントから返ってくる「……というよりも……」というのは、悪い反応ではない。むしろ、微修正しながら「きちんとわかってもらいながら、一緒に進んでいきたい」という積極的な姿勢の表れとして歓迎すべきである。ロジャーズは言う。 私のセラピィのもう一つのおおきな特徴は、クライアントのリードに喜んでついていく点です。私は応答には質問がたくさん含まれています。「あなたの内側は今、こんなふうですか」。この時クライアントが「いいえ」と言ってくれるのは、とてもいいことなのです。私はクレバーな人間でありたいと思っていないので、取り下げます。私はクライアントと共にいたいのです(I want to be with the chient)。(Rogers & Russell,2002) 「リフレクション」は従来、「感情の反射」「反射」などと訳されてきた。しかしこれでは、反射神経、という言葉に連想されるように、間髪を容れず、素早く相手の言葉を繰り返す、といった作業を連想してしまう。その誤解を防ぐために、2005年の『ロジャーズ主要著作集』の翻訳の時点から、筆者は、「リフレクション」を「伝え返し」と訳してきた。しかし今となってみれば、これも「リフレクション」の本質をまだ今ひとつとらえきれていない。「伝え返し」では、言語的な作業の印象が強すぎるからである。今であれば「リフレクション」とそのままカタカナ表記にするか、「映し出し」と訳し直すかもしれない。 カウンセリングの実際においては、クライアントの言葉を虚心に聞きながら、ああいうことであろうか、こういうことであろうか、とクライアントの言わんとしていることのエッセンスをありあありと推測し想像しながら、つかもう、感じ取ろうとする。さまざまな言葉だけでなく、イメージなど思い浮かびながら、しっくりくるものが見つかた時に、「こういうことでしょうか」と返していく、それは「クライアントによって言わんとされていることのエッセンスを、クライアント自身以上に鮮明に、その場に映し出しいこうとする作業」である。それゆえ、「リフレクション」の内実は「映し出し」というのが、最も適切ではないかと現時点では考えている。と著者は述べています。 ロジャーズのカウンセリングの言っている「リフレクッシュン」は、オウム返しのように「感情の反射」とか「反射」をしているように囚われているのを、巷の書籍からも、私も感じます。この「感情の反射」は、とかくここで言われているように、間髪を容れず、素早く相手の言葉を繰り返す、といった作業を連想してしまいます。 ロジャーズは、クライアントがカウンセラーの言葉を自分の内側で響かせて吟味し、修正したり微調整したりできることである。そうしたことをカウンセラーの機嫌などを気にせずにおこなうことができる雰囲気が、カウンセリングの中にあるかどうかである。「ぴたっと当たる」という応答をすることではない、と言っているが、日本人は、どうしても他者に対して異なる意見や考えを言ってしまってはとの、他者へ気遣いがあるので、その気遣いをしないで「言いたいことが言える」ような環境にする、安心して言える環境をつくる事がカウンセラー等の役割の一番目であろうと思います。 また、その後は、クライアントの伴走者として側いてあげて、クライアントの内側の鏡であげたり、私流に言うとクライアント自身が自分の中の自分と対話できるように支援することだと思う。クライアント自身の自己治癒力を引き出してあげることが、カウンセラー等の役割のように感じます。 それには、私もロジャーズのここで言っているように「リフレクッシュン」がクライアント自身の治癒力を引き出す一つであると思う。
2024.03.13
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読レポ第2012カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 リフレッシュン(伝え返し/映し出し)1/2 「自分を消して、相手の鏡になる」ことに徹していた40代のロジャーズ。日本で「ノンディレ」などと呼ばれた「非指示技法」の中心が「レフレション(reflection)」である。 「リフレッシュン」は、しばしば、「相手の言葉を繰り返すだけ」「オウム返し」などと揶揄されて、評判がよろしくない。しかし私は本格的な「リフレッシュン」」こそ、カウンセリングの最強の技法である、と今でも思っている。 さまざま中傷を受けて、技法に関する言及を50代以降は一切しなくなったり、カウンセラーの「態度」にのみ言及するようになったロジャーズ。それは表面的な模倣と誤解にほとほと嫌気がさしたゆえのことであった。にもかかわらず、何十年もの間、この技法はやはり形式的な技法として誤解されたまま使われ続けている。そのことに業を煮やしたのであろうか。死の前年になって、ロジャーズははじめて、ほぼ40年ぶりに「リフレクション」に言及している。 セラピストとしての私の見解を言えば、私は「「感情リフレクト」しようとはしてはしていません。クライアントの内的世界に ついての私の理解が正しかどうかを確かめようとしているのです。クライアントがそれを今体験しているとおりに私がそれを見ているか、確かめるようとしているのです。私の応答には、次のような無言の問いが含まれています。「あなたの中でそれはこんなふうになっていますか」「私は、あなたが今体験してる個人的な意味の色合いとか肌合いとか味わいを、ちゃんとキャチできていますか」「もしそうできていなかったら、私は自分の知覚をあなたのそれに一致さていたのです」。一方、ライアントの側から見れば、私たちはクライアントが現在体験しつつあることの鏡を提供しているのです。その鏡に映し出せれ、別な人の目を通して見れる感情や個人的意味は、よりシャープになっていくようです。だから私は「感情リフレクション」ではなく、「こちらの理解をクライアントに確かめてもらう(Testing Understandings)」とか「こちらの受け取りをクライアントにチェックしてもらう(Checking Perceptions)」という言葉を使うことを提案します。こういった言葉のほうが、より正確であると思えるからです。 セラピストのトレーニングにも有益です。「リフレクト」しようとするのに比べると、相手の内的世界について自分の理解や受け取りを確かめようとすることのほうが、応答した質問したりする質問したりする際の健全な動機となるように思います。(Rogers,1986c) このようにロジャーズは死の前年、一般に「感情リフレクション」と呼ばれ、ただの言葉の繰り返し、オウム返しとして誤解されたまま流布している技法の内実は、クライアントの体験世界の「鏡」になることであり、その「鏡」に映し出された相手の内的世界についてのこちらの理解や受け取りをクライアントに確かめてもらうこちにある、と言っているのである。と著者は述べています。 ロジャーズは、カウンセリングでは、「相手の言葉を繰り返すだけ」「オウム返し」などと揶揄されことに対しての誤解を解消するために、ロジャーズは、クライアントがそれを今体験しているとおりに私がそれを見ているか、確かめるようとしているのだけで、オウム返しとは全然違う。クライアントに自分が「鏡」となっているかチェックしてもらうためです。クライアントの体験世界の「鏡」になることであり、その「鏡」に映し出された相手の内的世界についてのこちらの理解や受け取りをクライアントに確かめいるだけであると、言っている。 私もただのオウム返しではなく、クライアントの中にある世界を自分自身で理解してもらうために、「鏡」として本格的な「リフレッシュン(意味や使い方、類語をわかりやすく解説)」だと思う。だから、クライアントの発言した言葉とは違うことをクライアントに問いかけることもあるのは、ロジャーズが言っている本物の「クライアント中心療法」であると思います。
2024.03.12
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読レポ第2011号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「クライアント中心」という言葉の真の意味 ロジャーズは言う。「クライアント中心(クライアントセンタード)という言葉は、しばしば誤解されてきました。多くの人は、クライアントセンタードという言葉を、クライアントに豊かな関心を向けているといった程度の意味で使っているのです。私たちは、もっと深い意味でこの言葉を使っていますした」(Rogers,2002) これは「クライアント中心」についての典型的な誤解である。クライアント中心療法の本質をまったくわかっていない。 筆者の周囲でも、ある温かみのある認知行動療法家をさして、「あの人は認知行動だけど、クライアントセンタードだから」などという言葉を耳にしたことがある。つまり、温かみがある、とか、雰囲気が受容的な感じである、とか、その程度のことをさして「あの人はクライアントセンタードだから」と言っていたのである。悪気なく言ったのであろうし、その認知行動療法のセラピストがダメなセラピストだ、というわけでもない。ただ、「クライアントセンタード」の本質が多くの臨床心理士、公認心理師にその程度にしか理解されていないことを思い知った次第である。 では、「クライアントセンタード」とは、何か。「クライアント中心療法」における「クライアント中心」とは、どのような意味か、ロジャーズは言う。 私たちは、もっと深い意味でこの言葉を使っていました。クライアントセンタードとは、クライアントの内側の内的なフレーム・オブ・レファランスを中心とする、という意味、もしくは、クライアントの内的な世界を中心とする、という意味で言っていたのです。どんな用語も、そのアプローチを完璧に定義することはできません。絶対にとり違えると思います。(Rogers & Russell,,2002) 「クライアント中心療法」における「クライアント中心」とは、「クライアントの内的な世界」「クライアントの内側の世界」を中心にする、という意味である。 セラピストは自分を消して、クライアントの内側の世界に完全に没入する。自分を消して、クライアントの内側、クライアントのフレーム(ものの見かた、感じ方、考え方の枠組み)の内側に入り込んで、そこを立ち位置として、内側からその人の住んでいるこころの世界を見る。感じる。味わう。ありありと想像して、その人そのものに、なりきる。こうした徹底度において、「クライアント中心療法」における「クライアント中心」という言葉は使われているのであり、そうでなければ一つの学派を名乗る資格はないだろう。 「クライアント中心」ということが先述した程度の意味(あの人は温かくて、受容的だ、ちいった程度の意味)では受け取られているのであるのであれば、それはすべてのセラピィの共通要素として解消された、などと思われても仕方ない。温かく受容的な人なんて、一般人にもゴロゴロいて、何の特別なトレーニングをしなくても、身につくものだからだ。今の日本で私たちが感じている、この学派の「誤解されている感」を40年のロジャーズもほぼ同じように感じていたのである。と著者は述べています。 確かに学派などの定義は、完全には定義は難しくて、著者のいうように誤解は出てくると思うし、受け取った人によっては、ズレがあると思う。基本的なコンセプトは伝わるだろうが、ズレはあると思うし。人それぞれに個性での、ズレはあると感じます。 直接あって学んでも、本で学んでも、ズレはあるものです。それは、人それぞれ経験や環境に違いがあるので、受け皿でズレは生じるものである。人それぞれ今は多様な時代があるからだと思う。それを肯定的に認識することもセラピストなどとしては大事な認識として持ってないといけないと思う。 ロジャーズの「クライアント中心主義」でのクライアントの内側の世界に完全に没入して、自分を消して、クライアントの内側、クライアントのフレーム(ものの見かた、感じ方、考え方の枠組み)の内側に入り込んで、そこを立ち位置として、内側からその人の住んでいるこころの世界を見る考えかたは、ロジャーズのクライアント中心主義のコンセプトしては、温かくて、受容的だという事と違いの認識が必要と思う。 上記が自分に出来ているかは、わからないが認識しなくてはならないと思う。そのためにも、クライアントのフレーム(ものの見かた、感じ方、考え方の枠組み)の内側に入り込んで、そこを立ち位置として、内側からその人の住んでいるこころの世界を見る考えの量稽古を積みかさねをしていかないとならないな。そのためにも自分のものの見方、感じ方、考え方を手放すまたは、湧いてきたものの見方、感じ方、考え方を横に置く習慣の量稽古かな。人は、他者の話を聴いていると、ついつい自分のものの見方、感じ方、考え方が湧いてくるものですから。
2024.03.11
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読レポ第2010号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 相手の内面世界に深く入っても、いつでも自分に戻ってくることができるとういう確信 自分を消して、相手の内面世界に、深く、深く入っていく。このスタイルの面接をおこなうことに、多くの人は恐れを抱く。「自分がおかしくなるのではないか。戻ってくることができなくなるのではないか」 そんな恐れを抱くのである。 これは、きわめて正常な反応である。しかしここで恐れを感じていると、まだ相手の内面世界に深く入っていくことができない。相手の内面世界に完全に没入したとしても、いつでも「自分」に戻ってこられる力を養っておく必要がある。 ロジャーズは言う。「私は自分が誰であるのかを知っている。その感覚があるから、私は目の前にいる他者の世界に自分を入り込ませていくことができるのだ。それが、どんなに恐怖を感じるような、狂ったような、奇妙な世界であったとしても。なぜなら、私は、どれほど相手の内面世界に深く没入していったとしても、いつでも、自分の世界に戻ってくることができる。自分自身に戻ってくることができる。そんな確信があるからである。自分自身についてこういう確信が持てないと、相手の世界に搦め捕られてしまって、自分が誰であるか、わからなくなってしまう。これはとても苦痛に満ちた状態である」(Rogers & Russell)。そして、そんな確信を得て、安心して相手の内側世界に深く入っていくことができる時、私は「クライアントの人生」という「一本のほんとうの映画」を観させていただいているような気持になることがある。「いい面接をできている時」に共通する実感である。と著者は述べています。 確かに相手の内側の世界へと没入していくと、自分が誰なのかという恐れを抱いて本来の自分に戻れないという怖さも抱くだろう。 私は、そのような恐れや怖さを減少するためには孤独力を磨くことだと思う。孤独と聞くとマイナスな意味に捕られがちですが、、それは、孤立と一緒に捕られているからだと思います。孤独力は、自分軸を持つには欠かせないのである。自分軸は、自分らしく生きるためのものです。自分勝手とは違います。 自分らしく生きるには、「自分は、このように生きたい」を持つことで、行動するためには、孤独力を磨くことです。他者に振り回されないようにするためにも、孤独力を磨くことで自分を失うことは、なくなります。自分軸での自分らしさでいきることができます。 自分らしさでなけでは、私はロジャーズのようなカウンセラー等は勤まらないようなきがします。自分を失わないためにも孤独力を磨くことです。
2024.03.10
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読レポ第2009号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「カウンセラーが消えた体験」、「二人でいるけど一人でいるような体験」3/3 また『ロジャーズ全集』第18巻収録の対談でも次のように言う。 ハーバート・ブライアンと名付けられたクライアントが、人間が変化するのは、わかりやすく言うと”ひとりぽつんといるとき”である、人間と人間の接触があったり、現実の状態のなかでは、人間は変化しない、と言いだすのですよ。カウンセラーはこの意見に反対で、”人間関係において人間は変化し成長してゆく”という。このところがわたくしのキイ・ポイントになるので注釈をたくさんつけたんですけど、わたくしは確かにクライアントに軍配をあげているんですよ。人間はひとりでぽつんといるときに飛躍したり成長したりしてゆく。その飛躍や成長を確かめてゆくのが人間のつながり、具体的の世界、であるけど、その現実の世界、現実の人間関係において成長が起きるのではない、と思うんです。……これをカウンセリングにもってくると、ロジャーズのテクニックが意味を持ちうるのは、クライアントがひとりぽつんと置かれた状態にになることにある。(友田ら1968) 「自分を消して鏡になる」スタイルの面接に徹していた40代のロジャーズに影響を受けた友田は、それを忠実に実践していった。その中で、ロジャーズのクライアントがと同じように、友田のクライアントも「カウンセラーが消える体験」「二人でいるけど一人でいるような、一人でいるけど二人でいるような」そんな体験をした。そしてその体験をもとに、ロジャーズの著作を深読みした友田は、その体験の視点から、ロジャーズの出世作、『カウンセリングと心理療法』に訳者でありながら詳細な注を付してロジャーズに徹底的に反論し自説を唱えている。これはある意味、友田がロジャーズ以上に40代ロジャーズの「自分を消すスタイル」を忠実に実践しえたがゆえに起こったことであろう。 いずれにせよ、これは、「カウンセリングは自分を消す。相手の鏡となることに徹する」、すると、クライアントの側に「二人でいるような、一人でいるような」「一人でいるような、二人でいるような」体験が生じて、その後に治癒や変化が生じる、という、この時期のロジャーズの面接スタイルの本質をよく表している。それはまだ、とりも直さず、カウンセリングという特殊な関係そのものの本質をよく物語ってもいるのである。カウンセリングをおこなっていて、「今日は、ほんとによく聴けているなぁ」と感じる時、いずれ、次のような体験が訪れる。カウンセラーとクライアントが溶け合って「一つ」になっていくような瞬間が訪れるのである。カウンセラーとクライアントが「一人でいるようでいて、でも二人で、二人でいるようでいて、でも一人で……」と感じられる「一人でいるような、二人でいるような体験」が訪れる。そしてそんな雰囲気がさらに濃厚になっていくと、終いには、クライアンは「自分さあえ、いない」「ここには、誰もいない」とさえ感じられるようになってくる。こうした体験に置いては両者の意識が変性してくる。その時、「相手を理解しよう」などという意図的な姿勢は消える。ただボーッとしながら、お互いに深いところに意識がとどまっている。そんな雰囲気になっていく。と著者は述べています。 確かに、人間はひとりでぽつんといるときに飛躍したり成長したりしてゆくが、その飛躍や成長を確かめてゆくのが人間のつながりだと私も思います。つながりあってこそ、自分の飛躍したり、成長していることを実感できると思います。 そのための”ひとりぽつんといるとき”の環境をつくるために、ロジャーズの面接は、「非指示」で自分を消して鏡になるスタイルの面接に徹底したのだとのでしょう。”ひとりぽつんといるとき”が、自己変容につながることをロジャーズは見つけたのでしょう。 ”ひとりぽつんといるとき”にこそ、内的動機が生まれて自己変容へと導くのであろう。内的動機は、外的動機に比べて、主体的になりほんとうの自己変容へとつながるのでしょう。私は、そう思う。
2024.03.09
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読レポ第2008号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「カウンセラーが消えた体験」、「二人でいるけど一人でいるような体験」2/3 『カウンセリングと心理療法』(Rogers,1842)の「ハーバート・ブライアンの事例」の部分の初の邦訳である『ロジャーズ全集第9巻 カウンセリングの技術』の中で編集者の友田は詳細な注釈を付して、クライアントのプラアン(仮名)が吐いた「真空(vacum)」という言葉の意味を論じている。 面接の6回目でクライアントのブライアンは、「成長は環境の中では起こったことがな」く、それは「何かしらひとりぼっちの黙想のようなもの」だと言う。「宗教的な神秘主義者は長い間ひとりで黙想する」が、そこに「何かしら力を強化するようなことがあるに違いない」と言う。また7回目の面接でも、人間の決心そのものは真空で可能だけど、その決心は外的状況で養われる必要がある、とういう趣旨の発言をおこなっている。。これに対して、「そんなふうに成長が起こるとは思えない」カウンセラー(明記されてはいないがおそらくロジャーズであると思われる)はこれに否定的に応答している。またその論評の箇所でロジャーズも、このクライアントの成長について、彼は「真空中で自分を治す」という「ごまかし」に気づき、真空中においてでなく、実際に生きている状況において問題を解決するようになったのだと説明している。 これに対して訳本の編集者の友田は、成長は「真空」ないし「ひとり」の状態で起こるというプライアンの発言を支持し、これは「まことに重大な意味を持って洞察的な表現もしくは提言であり」、「人間の真相」はそうでしかりえないと言う。そればかりか、「真空」においてこそ飛躍的な成長や人格変化は起きる、というプライアンの考えについて、「カウンセリングもしくはサイコセラピィに関して、さらに一般的言って”人間の成長”に関して、まことに絶大な洞察を含んでいる」と指摘している。と著者は述べています。 ここでは、ロジャーズの本を翻訳編集した友田氏が、ロジャーズの考えに対して、クライアントのプラアン(仮名)が吐いた「真空(vacum)」という言葉の意味で論じているが、ロジャーズも友田氏もい言葉違うが、クライアントの成長には、カウンセリングが有効な一つであり、サイコセラピィ(心理療法)に関しては、ロジャーズは非指示からすると、友田氏の指示や誘導が伴うサイコセラピィ(心理療法)は、相容れないものがあると思う。 深く、深く心が傷つき病的な人ならサイコセラピィ(心理療法)は、有効かもしれないが、治療的な行為になるかもしれないグレーゾーンで、かなり医療的知識をもって、医療と連携が必要な気がします。 友田氏がロジャーズのカウンセリングの「非指示」の考えとは、相容れないのは、そこにあるのではないかとおもう。私は、ロジャーズのカウンセリングの「非指示」が、クライアントの成長には役立つと思います。友田氏のクライアントの成長への思いも解りますがね。
2024.03.08
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読レポ第2007号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「カウンセラーが消えた体験」、「二人でいるけど一人でいるような体験」1/3 ロジャーズのこうした考えは、カウンセリングというものの本質をよく突いている。エット夫人が言うように、それは、クライアントにおいて、「私たちの」関係(他者との二人の関係)としてでなく、「私の」関係(私一人の自己関係)として体験されるのである。 『クライアント中心療法』(1951年)に登場するキャム夫人とクライアントも同様の発言をおこなっている。「カウンセラーと自分との関係において、二人の自己は二人のまま存在しながらどこか一人となっている」「私たちは私である(We are Me)」「一人の人間としての彼(カウンセラー)に対してではなくて、彼を通して私自身にはっきりさせたいという、ある一つの欲求に気づくのでした」 キャム夫人の言う「二人の自己は二人のまま存在しながらどこか一人となっている」「私たちは私である」という言葉は、カウンセリングを映し出す鏡となる。そのための道具となることに徹する。ここに職人の美学がある。だからこそクライアントには、「二人は二人でありながら、どこか一人である」「私たちは、私である」と感じられるのである。 このことは、「自分を消すスタイル」に徹したいる40代のロジャーズに影響を受けた日本人、友田不二男らにも、大きな影響を与えている。クライアントが面接中に体験する「飛躍」について論じた論文(友田 1974)では、友田の面接におけるクライアントの次の言葉が引き合いにだされている。 「おっかしいなあ。私が話していると、いつの間にか先生が消えていなくなっちゃう」「ああいるんだなあ、と思って話してるとまた、先生がいなくなっちゃう」 友田によれば、カウンセリング自身を面接の中でしばしば「クライアントが、カウンセラーはもちろんのこと、クライアント自身をもまったく意識しないような状態にまでなる」。そして「人格変化」と呼ばれるような「飛躍」的現象は、おおむねこのような状態において、つまり外から見れば「二人の人が話し合っている場面」のようでありながら「体験のレベル」ではそこには「一人の人間しかいない」と思える、そういった状態において起きると言うのである。そして、後に現実の関係に戻った後、クライアントはそこで、「ひとり」ないし「真空」の状態において体験した自らの「飛躍」や「成長」の意味を徐々に確認し体認していくのだと言う。と著者は述べています。 ここでもロジャーズの言っている、「二人の自己は二人のまま存在しながらどこか一人となっている」「私たちは私である」という言葉で、カウンセリングを映し出す鏡になっていることを、日本人の友田氏も体現していることが解る。 このロジャーズの「クライアント中心療法」は、日本人でも通用していることがわかる。友田氏は、ロジャーズのカウンセリングでクライアント中心療法から、クライアント自らが「飛躍」や「成長」の意味を徐々に確認し体認していくと表現している。 私もそのようなモノにここ1年〜2年の間に出会っています。ロジャーズの「クライアント中心療法」での傾聴がいかに、クライアントの自己変容をもたらしているかを私も信じています。 そのロジャーズの「クライアント中心療法」では、前にも書いたが、クライアントの安心感を育てることがまずは、重要です。それは、クライアントが自分の中の自分と対話するためには、安心感がないと自分と対話ができないからです。安心感が育っていき、自分と対話が徐々に出来てきて自己変容へと進んでいくのです。私はそう思います。 それは、話し合いのファシリテティターを14年間の過程でも参加者の安心感が出来て来ると参加者は、発言での対話が盛んになっていくからです。まずは、カウンセリングでは、クライアントの安心感を育てることです。
2024.03.07
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読レポ第2006号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「インパーソナリティ」―自分を消し、クライアントを映し出す「鏡」なる 30代後半から40代後半の「リフレクティブ心理療法」の時代のロジャーズの面接は、整っていて、美しい。セラピストとして、自分を消し、クライアントを映し出す「鏡」となることに徹している。ある仕事のために自分を消し去っている人間の美しさ、潔さが立ち現れている。 『クライアント中心療法』(Rogers,1951)の中で紹介されているエット夫人のケースもそうしたケース(面接事例)の一つである。この時期のロジャーズは名称を「クライアント中心療法」に変え、理論は「技法モデル」から「態度モデル」へと変わっていた。実践的には、ますます自分を消し、クライアントを映し出す「鏡」となることに徹している。職人的な美しさが光っていた時代である。 カウンセラーの理想像についてロジャーズは次のように語っている。 「あなたの役に立つために、私は自分を排除するでしょう。普通のやりとりをおこなっている時の自分を排除するのです。そしてできる限り、完全にあなたの知覚の世界に入っていきます。私は、あなたにとって、もう一人の自分になっていくんです」。自分を排して、相手の「もう一人の自分」になること。そこに、ロジャーズはカウンセラーの理想像を見ていた。 そしてこのような、自分を消すカウンセラーとしてのあり方をするためにロジャーズは「インパーソナリティ」(impersonality)(強引に訳するなら「無人格」ないし「非人称性」)という言葉を使っている。面白いことに、この「インパーソナリティ」という言葉は、もともとはエット夫人と呼ばれる若い女性クライアントの面接の中で発したものである。クライアントの言葉の中に、ロジャーズは、自分の面接スタイルの本質を見出したのである。 12回目の面接記録から該当箇所を紹介する。「エット夫人」:(中略)つまり先生は―そう、ほとんど無人格なんです。(中略)これまでに誰とこんな関係は持ったことがなかったので、そのことを時々考えていたんです。「ロジャーズ」:たしかに、たいていの関係とはまったく違ったものですよね。「エット夫人」:えぇ、そうですね―でも、私の関係―私の関係、とは言えませんね。なぜって、たしかに先生は私に何も与えてくださらないですから。だから私たちの関係、とは言えませんけど―先生との私の関係は、とても魅力的です。私がそれを楽しめるのは、とても純粋なものだからです。ええと、インパーソナルで、性的ではなくて、すべてが穏やかで、先生はまるで、救命ブイのような存在ですね。ビューティフル! そう叫びたくなる。ロジャーズのコメントによれば、エット夫人は、セラピィ終了後、驚くほど何度も「インパーソナル(無人格)」という言葉を使って治療関係の特質を言い表そうとしたという。エット夫人は、ふだんの人間関係においては、自分のことを話していくと、次第に相手に恐れを感じるようになる傾向があった。けれど、ロジャーズのカウンセリングにおいては、そのような感情はまったく起こらない。ロジャーズとのカウンセリング関係のこの特殊性を言い表そうとして、エット夫人は「インパーソナル」という言葉を使ったのである。 ロジャーズもエット夫人の用いたこの「インパーソナル」という言葉は、自分のカウンセリングの本質を言い当てていると思ったのだろう。コメントの中でロジャーズは、ここでエット夫人は、「カウンセリングという一人の人間(person)が―自分自身の欲求を持ち、評価したり反応したりする一人の人間としてのカウンセリングが―消えている。というユニークな体験」を言い表したのだと指摘している。この時、ロジャーズは、クライアントのこころの内側に入り込み、それを正確に映しだす「鏡」となることに徹している。クライアントになりきっている。一人の人間としてのカウンセリングは排除され、「死に体」となっているのである(森岡 1991) もう一つ注目すべきは、エット夫人がロジャーズとの関係について、「先生との私の関係」とは言えても、「私たちの関係」と言うことはできない、と言っている点である。ロジャーズもこの点にコメントを加えて、カウンセリング関係がこのクライアントにおいて「きわめてユニークな意味において一方通行的な事柄」として経験されていることを示していると言っている。そしてしれは、「この関係全体がクライアントの自己によて構成されていて、一方カウンセラーのほうは『クライアントのもう一人の自分』になるというセラピィの目的のために脱人格化(depersonalize)されているから」こそ起こることなのだ、と言うのである。 ロジャーズが、カウンセラーとクライアントの関係は、ある意味で「一方通行的な関係」である、と言っていることに意外な感じを持たれた方もいると思う。一般的には、カウンセリングは「相互関係である」とされているからである。 筆者がここで夢想するには、もし、ロジャーズとマルティン・ブーバーとの対談が、ロジャーズが55歳になり、より自己一致を重んじるようになっていた1957年にではなく、この「自分を消すスタイル」の面接をおこなっていた時期、つまり。40代にあった1940年代におこなわれていたら、どうなっていただろう、ということである。 1957年のブーバーとの対談でロジャーズは「カウンセリングやセラピィの最中に『我と汝の出合い』が可能になる瞬間があるんです」と繰り返し訴える。カウンセラーとクライアントが一人の人間と一人の人間という対等な関係において「実存的出合い」を体験する瞬間がある、と訴えるのである。それに対してブーバーは終始、カウンセラーとクライアントという役割がある以上、両者は対等ではありえない、と治療構造の存在を指摘し続ける。治療構造、現代カウンセリングの面接の「枠」設定の必要を明確に論じるのはロジャーズその人自身(『カウンセリングと心理療法』)である。ブーバーにそのようなことをいわれる筋合いはなく、不毛なすれ違いにおわったこの対談であったが、もしこの対談が10年から15年ほど早くおこなわれていたら、どうだろう。ロジャーズはすんなり、ブーバーの言い分を認めたのではないか。 「自分を消し、クライアントの鏡になることに徹する」スタイルのカウンセリングにおいて、カウンセラーはクライアントの意識から消える。そしてその瞬間にクライアントは自分自身と出会う。カウンセリングとは本来、このような仕方でクライアントの自分自身と出合いの瞬間をもたらす、特殊な逆説的関係なのである。と著者は述べています。 ロジャーズは、クライアントのエット夫人に出合いで、自分を消し、クライアントを映し出す「鏡」となることに徹しているカウンセリングのスタイルを続けることで、「インパーソナリティ」(impersonality)(強引に訳するなら「無人格」ないし「非人称性」)であることに、気づかされたのです。そのエット夫人に出会ったことでロジャーズは、 「自分を消し、クライアントの鏡になることに徹する」スタイルのカウンセリングにますます徹していて、クライアントの意識から消えて、その瞬間にクライアントは自分自身と出会うこと意識できたのである。 ロジャーズは、このことからもカウンセラーとクライアントが一人の人間と一人の人間という対等な関係あることであると言い続けていた。私も同じ考えです。 カウンセラーは、心理的な知識や経験はあるが対等な関係だと思う。クライアントは、カウンセラーに持っていない知識や経験はあるから対等な関係で向き合うことがカウンセリングでは必要な態度な姿勢が必要だと思います。 そういう態度の姿勢がクライアントの心の安心感をつくると思います。カウンセリングでは、一番は、クライアントの安心感をつくることです。それなしには、クライアントの自己変容は起こらないと思っています。
2024.03.06
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読レポ第2005号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 第1ステージ、第2ステージのロジャーズ―「リフレクティブ心理療法」 第1ステージの非指示療法時代は、「技法中心モデル」の時代(1940年代)、第2ステージのクライアント中心時代は「態度中心モデル」の時代、と一般的はは区分されうる。「リフレクション」をはじめとした「非指示技法」を形式的に模倣されたことに嫌気がさしたロジャーズは、「態度中心モデル」へと転換したのである。 しかしこれは、理論上の転換であって、ロジャーズのカウンセリングの実際からすると、この二つの時代は、区別する必要はないように思われる。1930年代後半から1940年代後半までのロジャーズ(30代後半から40代後半)のカウンセリングの実際は、一言で言えば、「リフレクティブ心理療法」と言っていいスタイルを一貫してとっていたからである。この時代のロジャーズジから、二つの面接を取り上げてみよう。 ハーバート・ブライアンのケース 世界最初の逐語記録と言われるハーバート・プライアンの事例の初回面接から一部紹介する。39歳頃のロジャーズが大学院生の心理実習の授業の資料として、自分の面接を録音し、逐語記録化したのである。「ロジャーズ」:もっとくわしくお話していただけませんか。なぜ、どんなふうに、ほんとにもう死んでしまったほうがいいと思うほど、追いつめてしまうのか。「ブライアン」:えぇ、その感覚をもっと正確に言葉にできるかどうかわかりませんが、それは、とても強烈な痛々しい重さで、まるで斧が腹部全体を押しているというか、押しつれているような感じなんです。だいたいどの場所かもわかるんですけど、それが急激にぼくを圧迫してくるような感じなんです。そしてそれは、ぼくのダイナミックなエネルギーの源のところまで下りてくるので、どんな分野でどんな努力をしても、いつもそこでブロックされてしまうんです。「ロジャーズ」:何につけても力を根こそぎ奪われてしまうんですね。「ブライアン」:えぇ、そうなんです。そして身体でも同じことが起きるんです。歩いていて、その悪い感じが襲ってきた時、ぼくは背中をまげて、お腹が痛い時のような感じで歩くんです。ぼくは実際腹痛をよく起こすんですが、この時は心理的にそんな感じになってしまうんです。「ロジャーズ」:そうですか。そしてそのために、あなたは何というか、半分くらいの人間になってしまう。半分くらいの力しか出せなくなってしまう。「ブライアン」:そうなんです。それはちょうど自分の中に文字通り、斧を持っているような感じです。ぼくのエネルギーの核になるところに斧があるような感じ。そのためにぼくのエネルギーは、痛々しいばかりにブロックされ、抑え込まれているんです。それは、ぼくの深いところに突き刺さっている。けれど、だからこそ逆に、そこから解き放たれると、深いエネルギーの流れを感じることができるわけなんですが。「ロジャーズ」:いい感じの時は、ほんとうにいい感じなわけですね。「ブライアン」:えぇ、そうなんです。とってもダイナミックです。頭の回転も早くなるし、すべてが調子よくいきます。やることなすこと、うまくいくっていうか。「ロジャーズ」:そしてあなたは、どうすればそういうダイナミックな自己を持っている時間を増やすことができるか、それを考えている。「ブライアン」:はい、そうなんです。いつもそうなふうでいたんです。でも、なぜだかわからないんですが、そんなふうではいられないです。すべて心理的なことだっていうことはわかっているから、それを突き止めたいんですけど。これが、いわゆる「非指示療法」時代。30代後半のロジャーズのカウンセリングの実際である。どの応答もクライアントが語っていることを「リフレクト」する(映し出す)応答である。けれど、「単に相手の言葉を繰り返すだけ」でもなければ、「オウム返し」でもない。 「ぼくは背中を曲げて、お腹が痛い時のような感じで歩くんです。ぼくは実際腹痛をよく起こすんですが、この時心理的にそんな感じになってしまうのです」というクライアントに「そうですか。あなたは何というか、半分くらいの人間になってしまう。半分くらいの力しか出せなくなってしまう」と返している。「クライアントが言わんとしていることのエッセンス」をとらえて、短く的確にリフレクトしている。さすがである。と著者は述べています。 この項を読むとロジャーズが、巷に言われていている傾聴での「単に相手の言葉を繰り返すだけ」でもなければ、「オウム返し」でもないことがわかります。 クライアント中心療法が見えてきます。カウンセラーは、クライアントの話に深く、深く、耳を傾けて、自分の価値観や考えを手放して、クライアントの話にひたすら焦点をあてて、クライアントに肯定的受容して安心感をつくったり、クライアントの話から、クライアントが言葉化がなかなかできない事を言葉化の表現化したり、クライアントが自分の中の自分と対話できるよに問をかけて、クライアントが自身が自己変容を促しているように私は見えます。 そのロジャーズの「非指示」は徹底しています。私たちは、ついつい人の話を聴いているうちに指示的なアドバイスをしてしまいがちです。外的指示(外的動機)よりも、内的な指示(内的動機)がほんとの自己変容をうみだします。もちろん、外的な指示(外的動機)から自分の中に内的(内的動機)なモノが生まれて自己変容することもありますが。クライアントの状態しだいですが、内的指示(内的動機)のほうが自己変容を起こしやすいです。それは、内的指示(内的動機)は主体性があるからです。他者から言われるから、外的指示(外的動機)は、自ら自己変容をうみません。だから、クライアントが主体的になるためにロジャーズは「非指示」を徹底していたのだと思います。
2024.03.05
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読レポ第2004号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 ロジャーズのカウンセリングの5つのステージ ロジャーズのカウンセリングは、主に次の5つのステージを経て、発展・生成していったと考えられている。①非指示(non directive)療法のステージ主として1940年代、ロジャーズ30代後半から40代後半②クライアント中心療法のステージ主として1940年代後半から1953年頃 ロジャーズ40代半ばから50代前半③クライアントの変化の瞬間とそれに続くプロセスに焦点を当てたステージ主として1953年頃から1963年頃 ロジャーズ50代前半から60代前半④パーソンセンタード・アプローチのステージ主として1963年から1970年代 ロジャーズ60代から70代半ば頃⑤直観や変性意識を重視したステージ主として1970年代後半から晩年 ロジャーズ70代後半から80代半ば 本書は、特に第2章と第8章を中心に、上記の③のステージのロジャーズ、つまり最も魅力的なステージにあった50代のロジャーズに焦点を当てクローズアップした。 それぞれのステージのロジャーズには、それぞれの魅力がある。その時代のロジャーズのカウンセリングの姿勢には、先程述べたロジャーズ流のカウンセリングの異なる側面が、色濃く発揮されている。 興味深いのは、一般に、人間の成長・発達やその理論の発展には、後の時代のものが前の時代のそれを包摂しながら超えていく、という特質が見れるものであるであろうが、ロジャースの場合には、そのような側面も一方ではありながら、必ずしもそうとは言えない面もあるところである。 セラピストとして研究者として、いつの時代のロジャーズがピークであったか、見解は分かれるであろう。筆者は、第3ステージのロジャーズ、50代のロジャーズだと考える。だからこそ、本書もそのステージのロジャーズの理論や実践に焦点を当てたのである。しかし他のステージのロジャーズにも代えがたい魅力がある。 異なるステージのロジャーズは、先に述べた「ロジャーズ派カウンセリングの本質」の異なる側面をそれぞれ極限化したような面接をおこなっている。以下では、各ステージにおけるロジャーズのカウンセリングの魅力をクローズアップして紹介したい。と著者は述べています。 私も著者の「③クライアントの変化の瞬間とそれに続くプロセス」のステージをこの本書を読んでいるうちに①の「非指示」での深く深くクライアントに耳を傾けての傾聴での自らのクライアントが自己変容が起きていく話がとても心が動いた。 ついつい私たち人間は他者の話を聴くうちに自分の価値観や考えが湧き上げり、自分と異なっていると指示したくなりがちだが、「非指示」で傾聴していくうちにクライアントが徐々に自己変容していることをロジャーズが観察して発見したことには、私も最近ある場でその瞬間を見たました。ロジャーズがカウンセリングの父と言われるのは、この「非指示」とクライアントに対する深い、深い「傾聴」からの自己変容であると私は思います。 人は、外的な動機よりも、自分の中の自分と対話したことでの内的な動機が自己変容を起こすことをロジャーズが見つけたのである。
2024.03.04
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読レポ第2003号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 ロジャーズ流の「傾聴」と他学派の「一般的な傾聴」の違い 2/2 ロジャーズのアプローチは、厳しい専門的な訓練を必要とする方法である。諸学派の「前提」に解消されていいものではないし、ましてや、少し練習すれば誰でもできるものではない。「ただ聴くだけ」の方法ではない。実際、私の見るところ、臨床心理士、公認心理士など、多くの心理学の専門家がいるが、ロジャーズ流の「ほんものの、深い傾聴」」が多少なりともできている人は、1割もいないだろう。 では、認知行動療法などの他流派に前提として取り入れらている傾聴と、ロジャーズ流の傾聴はどこが違うのか。「ロジャーズ流のカウンセリングのアイデンティティ、他の流派のカウンセリングや心理療法の前提として解消されえない本質的なものは、どこにあるのか。それを明確にしなくてはならない」。これは、言わばロジャーズ派カウンセリングの学派としての存在理由をかけた問いである。 筆者は、自分自身のカウンセリングの体験、とりわけ、「よく聴けている」と思えるさまざまな体験を思い起こし、それに現象学的な省察を加えた。本質直観。自由変更といった作業をみずからの体験に対しておこない現象学的分析をして、そこから、ロジャーズ流の傾聴の「本質」と言えるものをつかみ出そうと試みたのである。その結果抽出されたものが、次の4つの要素であった。 ①セラピストが「より深い意識モード」にみずからの意識モードを変容させた上で傾聴をおこなっていること。それにより、クライアントもカウンセラーも、「内側の深いところに触れながら、語ったり、聴いたりできる意識モードの傾聴」が可能になる。「相手の話を聴くだけ」と揶揄されるような、浅い、表面的な傾聴(日常モードでの傾聴)や、認知行動療法その他の他学派でおこなわれている類の傾聴と、ロジャーズ流の深い傾聴との決定的な違いがここにある。「深い傾聴」は、セラピスト、カウンセラー自身の「意識の変性(脱日常モードへの意識の変性)」においてはじめて可能になるのである。このような「深い意識モードでの傾聴」ができていないならば、そのカウンセラーは、ロジャーズ流のカウンセリングをおこなえているとは、言えない。②カウンセリング空間に漂っているすべてのもの―カウンセラー自身の「身体感覚」「ふとしょうじてきたイメージ」「突然見えてきたイメージ」や聞こえてきた「音」、突然わいてきた「直観や衝動」なぜかふとしたくなった「動作」、理由もなく生じてきた「違和感」や「空気や雰囲気、違和感」、などーこうした「すべてのもの」に、ただ等しく、無条件に意識を向け、そこで立ち現れ浮上してくるすべてのものに開かれた態度を保持していること。(クライアントという人間だけでなく)こうした「すべての現象へ無条件の尊重」、すべての現象を等しく尊重し大切にする態度が保持されていること(無条件の尊重)。現象学的な指向性のカウンセラー、セラピストは、一見、あまり意味がないように思える現象や出来事からこそ、セラピィの大きな展開が生まれることを知っている。③セラピストやカウンセラーの「プレゼンス」、ただそこに、こころを込めて「いる」ことに全力を注ぐ、こうしたセラピストの姿勢、「クライアントと深くつながっている感覚」こそ、セラピィの命綱である。それは決して、諸技法の前提などとして解消されるものではない。④セラピスト、カウンセラーが自分を消して(無人格・インパーソナリティ)、クライアントの内側の世界に自分を投げ入れ(自己投入)そこに、融合して、あたかもクライアント自身に「なりきっている」かのような姿勢で、クライアントの話を聴けていること(「自己投入的理解」ないし「自己没入的理解」)。 この4点がロジャーズ流の「深い傾聴」とそれ以外の「普通の傾聴」との決定的な違いである。真正のロジャーズ流のカウンセラー、セラピストによって、「ほんとの深い傾聴」が体現される時、これがその本質的側面として立ち現れるのである。問題の解決や症状の除去を志向する諸流派において、そこが直結する一部の現象だけを意味のあるものとしてピックアップする聴き方とは大きな違いがある。と著者は述べています。 私も「深い傾聴」は、セラピスト、カウンセラー自身等の「意識の変性(脱日常モードへの意識の変性)」においてはじめて可能になると私も思う。自分の意識を「無」にすることが大切だとおもう。だが、クライアントの話を聴くうちに自分の中に自分の価値観や考えが湧いてくるので、その湧いた価値観や考えを自分の横に置いて、クライアントにフォーカスしていて脱日常モードに務めています。 また、私がネイチャーセラピストと名乗っているのは、自然の中のあらゆるモノとクライアントから感じることを捉えるようにして、クライアントの環境の場をつくり自己変容を促すように働きかけているのが得意だからです。ネイチャーセラピストと言っても街の公園でもできますし、窓辺から見る樹木や人や車が行きかう景色のカフェの環境がクライアントの自己変容にとって良ければ、セッションして自己変容を促しています。 著者が言っているようにクライアントが自己変容するためには、セラピスト、カウンセラー自身等の「意識の変性(脱日常モードへの意識の変性)」することが大切だと私も思います。
2024.03.03
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読レポ第2002号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 ロジャーズ流の「傾聴」と他学派の「一般的な傾聴」の違い ½ しばしば、こう言われることがある。もはや傾聴は、カウンセリングや心理療法の多くの学派に取り入れられた。それは、カウンセリングの基本技能であり、ロジャーズの傾聴はすでにどの学派のセラピストもやっていることである。ロジャーズの言う受容や共感、一致などは、すべての学派のカウンセリングに共通の基盤となった。それは、ロジャーズ派に独自のものでも、固有のものでもない。そもそも、ただ聴くだけ、傾聴するだけなのであれば、素人でも少し練習すれば誰でもできる。特段の専門的トレーニングを必要とするものではない。 このような言説がなされるたびに、ロジャーズ派の心理療法家やカウンセラーはいかんともしがたい違和感を覚えてきたのではないだろうか。その傾聴と、ロジャーズの傾聴とは違う。一緒にされては困る、とロジャース自身も、自分の提案した傾聴がこのように軽く受け止められてしまったことに強い違和感や怒り、苛立ちを覚えていたようである。 一番誤解されやすいのは、共感的傾聴というものが濃密なものである、ということ、共感的理解の濃密性(the INtenciy of empathic understanding)がまったく理解されていない、という点です。どうも傾聴は受身的なことだと思われているようです。まったく理解されてない。ひどく誤解されていると思います。無条件の積極的関心も誤解されています。クライアントを大切に思う(care)ということ、クライアントを尊重する(prize)ということは、クライアントの行為を何でも、それでいいですよ、と承認する(approve)こととは違います。クライアントのエッセンスをほんとに心を込めて大切する(a realcaring for the essence the client)ということを意味しています。これは、厳しいトレーニングによって磨かれてはじめて可能になるアプローチなのです。私はこのことを十分に強調していたとは言えなかったと思います。そのために、こうした浅かな誤解を見逃してしまったのだと思います。私は自分に厳しい人間なので、他の人もそうなのだと自然と考えたのです。しかし、そうではありませんでした。パーソンセンタード・アプローチが理解されにくい点の一つは、それが多くの点で非常に厳しい鍛錬を必要とする方法である、ということです。(Rogers & Russell,2002) いかがだろう、自分が提案した傾聴が浅はかに誤解されていることに、強い怒りと深い後悔の念を抱いていることが、伝わってこないだろうか。と著者は述べています。 確かにロジャーズの傾聴では、クライアントを大切に思うということ、クライアントを尊重するということは、クライアントの行為を何でも、それでいいですよ、と承認するように誤解すされがちです。ロジャーズの傾聴はクライアントの思い気持ちをしっかり、受容的に受け取ることだと私は思うが。この受容的に受け取ることを承認と誤解されやすいんだと思う。承認と受容的に受け取るは違うと思います。受容的に受け取るとは、私は「あなたの思い、気持をしっかり受け取った」という意味だと思う。クライアントに同意したものではないと私は思います。 ロジャーズの傾聴では、「あなたの思いや気持をしっかり受け取った」とクライアントが意識できるとクライアントの中で安心感が芽生えて、やがてセラピストとの愛情や関心を持って心を込めて注ぎに注ぎ、クライアントが自ら自己変容が起きるよに寄り添うことがセラピストが役割だと私は思います。 ロジャーズの傾聴は、承認ではなく、受容的に受け取ることを言っているのだと私は思う。
2024.03.02
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読レポ第2001号カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 プレゼンス(ただ、そこに「いる」ことに全力を注ぐ) 4/4 この面接はロジャーズにとっても印象深い面接となった。25年後のあるインタビューでロジャーズは、このケースがセラピィにおける「プレゼンス」の意義を理解するきっかけになったと語っている。 私は、自分がしっかりクライアントに集中できている時には、ただ私が心を込めてそこにいるだけで(my presence)、癒やしにつながることを知っています。このことはおそらく、よいセラピスト全員に当てはまることです。 私はかつてウィスコンシンで、ある統合失調症の患者と1、2年かかわっていたことがあります。かなり長期の中断もありましたが。重要なターニングポイントが訪れ、彼はすべてを諦め、生きても死んでもかまわないと言いだし、まさに病院から飛び出そうとしていました。私は言いました。「自分なんかどうなってもかまわないって思ってるんだろう、でも、私はかまう(care)かまわなくなんか、ない。私は、あなたに何が起こるにのか心配している」 彼は10分か15分、すすり泣いていました。これがセラピィの転機となりました。私はそれまで、彼の感情に応答し、それを受け入れてはいました。けれどこの時はじめて、私は彼に人間として近づくことができましたし、私自身の感情に届いたと感じたんです。(Baldwin.1987) ジムとのこのカウンセリングは、ロジャーズに「ただ心を込めてそこにいること(プレゼンス)が、相手を癒やしていく」ということを知らしめたのである。と著者は述べています。 私もこのロジャーズのクライアントに集中できている時には、ただ私が心を込めてそこにいるだけで、癒やしにつながることは、私の師匠が悩みで悩んで自分の心に耳を傾けられないで、自分の殻に閉じこもりがちな否定的な人を寄り添いながらスモールステップでの量稽古での自己変容していった。 あんなに否定的に自分を捉えて苦しんでいる人が、少しずつ階段を登っていき1年以上になると最初とは、まるで違ていて、自分を肯定的捉えるようになっていっている。ロジャーズが「ただ心を込めてそこにいること(プレゼンス)が、相手を癒やしていく」と同じように、癒しの力だと私も思う。 まさしく、癒しの力が自己変容を起こすのです。
2024.03.01
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