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さる11月下旬に、「片岡の地を歩く」というテーマで王寺町の史跡探訪をご紹介しました。その時、行程の最終段階で、川の傍に立つ時計と鐘・人形を併せた塔のモニュメントの傍に架かる橋を渡りました。対岸の橋詰には王寺町の役場があり、モニュメントが「和の鐘」として町のシンボルになっていることがわかりました。この時に道路ウォチングとしてマンホールのふたを併せて撮っています。「マンホールのふた見聞考」シリーズとして、こちらのリストに加えてご紹介します。 汚水のふたの中央にこの「和の鐘」が意匠として据えられています。その左右には、町花の「さつき」と町木の「梅」がレリーフされています。「さつき」はこの王寺町の地域では育ちやすい常緑性小低木であり、愛好者が多いそうです。一方「梅」は、王寺町の町制施行日である2月11日頃に花を咲かせることと、「梅は百花のさきがけ」といわれることから、王寺町の発展をイメージして町の木に制定されたといいます。(資料1、以下適宜参照)王寺町は明治22年に葛下郡藤井村と王寺村が合併し、新たな王寺村となります。その後鉄道の開通が発展の契機となったようです。そして、1926(大正15)年2月11日に「王寺町」として町制施行され、1957(昭和32)年に、香芝町の大字畠田が王寺町に編入し、現在に至るそうです。(資料1,2) 整理していて気づいたのですが、汚水ふたにはメインは同じ意匠なのですが、こんなバリエーションがあります。さてどちらが先に使われたのでしょうか?ふたのサイズを計測していませんので、大きさにより区別されている可能性もあります。情報としては不詳です。王寺町のホームページには、次のように説明されています。”「和の鐘」の名称は、王寺町が聖徳太子とのゆかりの深い土地であり、和合の道を守ることが最も大切であるという我が国初めての十七条憲法の第一条「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」の精神を尊重し、また「和」は「柔」に通じ、「心が穏やかになる」「心が静まる」「親しくなる」等の意味を持つことから、この精神を未来に向って伝えていこうと名付けられました。この「和の鐘」は王寺町のシンボルとされ、昭和40年には『わたくしたちは「和の鐘」がなる王寺の町民です。』と町民憲章に、昭和49年には『やわらぎの鐘われらの王寺』と町歌にも謳われるようになりました。”また、この「和の鐘」とともに、翌平成2年から王寺町では、9月23日を「和の日」と定められています。この「和の鐘」は1989(平成元)年にふるさと創生事業として建設されたそうです。ということは、このモニュメントを建設した以降に、上掲の汚水ふたが敷設されているのでしょうね。史跡探訪と併せて、道路ウォチングで見つけた別の意匠のふたがあります。 この2つは亀甲文を主体にした同類型のふたですが、外周部分のデザインが異なっています。もうひとつは、「汚水」と「おすい」です。よく観察すると、「おすい」ふたには、左下の亀甲の中にNという文字が入っています。ひょっとすると、こちらのふたの方が新しいバージョンかもしれません。そして、これらは「和の鐘」のモニュメントができる以前から敷設されていたものか・・・・と推測したくなります。「和の鐘」が制定される前から王寺町があるのですから。上掲の「汚水」バージョンと対になりそうなマンホールのふたがあります。 この「雨水」用のふたです。道路表面の雨水が流入するようにという機能でしょうか、ふたに小さな孔が数カ所設けてあります。文字のひらがなバージョンは見つけていません。あるかないかも不詳です。中央にあるのは、王寺町の「町章」です。そのものズバリでわかりやすい!この町章の意図を引用します。”王は王寺の頭字を使い、○(まる)はローマ字のOJIの頭字を使い、平和を愛好する精神と、限りない将来の発展を意味づけています。また、現代の交通機関は、○(まる)すなわち車輪であり、交通に恵まれていることの表現であり、画きやすく表しています。”王寺町の町域は7平方キロメートルといいます。コンパクトな町です。歴史文化の側面は、既にご紹介の探訪記をご覧いただけるとうれしいです。序でに目に止めたものをご紹介します。 「仕切弁」です。上段のふたには「水」という文字が陽刻されています。下段にはありませんが、王寺町と表示されていますので、幹線となる水道管の仕切弁なのでしょう。上段のふたには、ふた自体と帯状円の外周部が一体のデザインになっていて、外周部に矢印が組み込まれています。一見しただけでは、全体で1枚のふたに見えます。下段のふたは、ふたの意匠との関連を感じない外周部の帯状円の意匠に矢印が組み込まれています。これらの矢印は水道管の埋設方向を示しているのでしょうね。意匠が全く異なるところがおもしろい。 ちょっとオシャレな感じがしたのがこれでサツキ、さつき(皐月)す。飾り文字のイニシャルで東西南北の方位を示しています。ふたという感じはしません。方位を示すために設置されているということでしょうか。探訪した日の行程で気づいたのは1カ所だけでした。マンホールのふたって、やはりおもしろい。道路ウォッチングは楽しめます。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 王寺町 ホームページ2) 王寺町 :ウィキペディア補遺皐月(さつき) :「季節の花 300」サツキ、さつき(皐月) 我が家の園芸植物と野草 :「あれこれ それなりクラブ」さつきとつつじの違い|見分け方/育て方/剪定方法/増やし方 :「Mayonez」ウメ :ウィキペディア梅(うめ) :「季節の花 300」王寺駅 :ウィキペディア畠田(王寺町) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 奈良・王寺町 片岡の地を歩く -1 畠田駅・尼寺廃寺(香芝市)へ探訪 奈良・王寺町 片岡の地を歩く -2 永福寺とその近辺 へ探訪 奈良・王寺町 片岡の地を歩く -3 火幡神社(畠田城跡)・親殿神社・芦田池ほか へ探訪 奈良・王寺町 片岡の地を歩く -4 片岡神社・放光寺 へ探訪 奈良・王寺町 片岡の地を歩く -5 達磨寺・達磨寺古墳群・和の鐘(時計塔)へ
2018.12.31
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平成知新館で前回ご紹介した3つの特集展示を見る前と見た後に庭を眺めました。京博を訪れた時のルーティンみたいなものですが・・・・・。西の庭の中央にある円形の噴水の手前から、京博正門越しに京都タワーの立つ西の景色を眺め、噴水の方に歩みます。 そして、この噴水のある広場からロダンの彫刻「考える人」を様々に眺めることにしています。「考える人」は不変ですが、四季折々周囲は変化しています。特別展覧会の折のポスターが変化しますし、庭の花々が季節に応じて変化します。一種の定点観測のようなものです。移ろいゆく環境の変化の中での不変のポーズ。勿論、金属塊としてのブロンズ像自体は刻々と変化し、経年変化があると思います。ミクロレベルでの酸化や腐食が進行していることでしょう。しかし、肉眼で眺める「考える人」は相対的な感覚としてほぼ不変。変化しているのは、それを眺めてきた己・・・・ということになります。久しぶりに、平成知新館の西側の庭を訪れてみる気になりました。石塔を眺めるために。 明治時代に、宮内省の技師だった片山東熊博士がフレンチルネサンス様式を取り入れて設計した博物館本館。それに照応したこの正門は時空を超えて今ここに存在することに歴史を感じさせる意義があるように思います。西欧に日本がどう対峙していくかの一つの有り様だったのでしょう。 眺めたかったのはこの石塔です。平成知新館西側の方形の庭にあり、庭の北西隅に移建されています。 「馬町十三重石塔」です。この石塔のことは、以前に「京都国立博物館 建物と庭」と題して載せた記事の中でご紹介しています。そちらも併せてご覧ください。 庭の西端に設けられた通路から外周を巡り、平成知新館側から眺めた十三重石塔一つ違和感を与えるのは、石塔の頂点に相輪部分がないことです。 この相輪部分が、石塔の傍の地面に置かれています。説明板にありますが、この相輪部は後補されたパーツだとのことで、石塔をここに復元する際に載せられなかったそうです。 庭の北西角から眺めた十三重石塔。相輪部がそれぞれ北側に置かれています。十三重石塔は何か特別な意味をもつのだろうか、とふと思ったのですが、調べた範囲ではよくわかりません。層塔の一種で、多層塔・多重塔ともいわれるようです。三重・五重・七重・十三重塔というふうに奇数に作られています。層塔は中国では5世紀、朝鮮では7世紀に作られた遺品が残っているそうです。「日本の石塔は朝鮮の影響によってつくられるようになった」(資料1)といいます。脇道に逸れます。日本で最古の層塔は三層塔で滋賀県の石塔寺にあります。奈良前期のものといいます。十三重塔ですぐに思い浮かべるのは、地元の宇治川の中島に立つ浮島十三重石塔(鎌倉時代)です。木造の十三重塔は、奈良県の談山神社に現存する室町時代に建立された塔が唯一と言われています。十三重塔で時代を代表するものがいくつかあるようです。時代と所在場所を挙げてみます。(資料1) 平安時代 於美阿志(おみあし)神社(奈良県) 鎌倉時代 般若寺(奈良県)、岩船寺(京都府)、光明坊(広島県) 南北朝時代 笠置寺(京都府)この他で国指定の石造文化財中の十三重塔には次の場所に存在するそうです。(資料2)国津神社(三重県津市、鎌倉後期)、射手神社(三重県上野市、鎌倉後期)、安養寺(滋賀県栗東市、鎌倉後期)、東福寺(京都市、康永2年)、法泉寺(京都府京田辺市、弘安元年)、新殿神社(京都府相楽郡、延徳3年)、天神社(京都府木津川市、建治3年)、辻墓地(京都府木津川市、永仁6年)、延福寺(京都府亀岡市、延文3年)、五社神社(大阪府池田市、鎌倉後期)、鹿谷寺跡(大阪府・太子町、奈良後期)、牧(奈良県宇陀市、鎌倉後期)、白峯寺(香川県坂出市、2基:弘安元年・元享4年)、旧城泉寺(熊本県八代市、寬喜2年)リストアップしてみると、近畿を中心にして西日本に散在する傾向があるようです。元に戻ります。 こういう石塔は、やはり築地塀やお堂などを背景としている方がしっくりときますね。京博の北隣は現在は豊国神社の境内地です。この後、平成知新館に入りました。 平成知新館の西端から眺めた明治古都館です。西端にも入口があり、そこから入ったことから、前回ご紹介した2つの屏風の展示を知ったのです。特集展示を一通り鑑賞して、平成知新館を出たのは閉館の少し前でした。 平成知新館を出たところで、東側の壁面と前の池などが生み出す姿を撮ってみました。ちょっとした抽象画の雰囲気が切り取れます。一方、西方向に目を転じ・・・・。暮れなずむ景色を眺め、写真を撮ってみました。 さて、出口に向かいます。タイムリミットです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p3302) 『新版 石仏探訪必携ハンドブック』 日本石仏協会編 青娥書房 p89-102補遺京都国立博物館 ホームページ 明治古都館・正門京都国立博物館 :ウィキペディア十三重石塔って? 十三重石塔を、よくお寺で見・・・・ :「YAHOO! 知恵袋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山 京都国立博物館 -1 亥づくし・中国陶磁(松井コレクション)・京の冬景色 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア 5回のシリーズでご紹介しています。2016年7月時点の景色です。スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 3回のシリーズで明治古都館外観再建、西の庭と野外展示をつづきにご紹介しています。 2017年1月時点の景色です。
2018.12.30
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「国立博物館メンバーズパス」が期限切れになっていましたので、京博での特集展示が始まった直後にその更新を兼ねて、特別展以来になりますが久しぶりに行ってきました。 展示会場は、平成知新館です。 これはA3サイズを二つ折にした特集展示・PRチラシの片面のご紹介。基本的な図柄は京博の南門前に掲示の案内板と一緒です。京博では2016年から、12月~翌年1月にかけて、「京博のお正月」つまり「新春特集展示」として、干支に因んだ様々な作品が展示されてきています。今回は2019年の干支、「亥づくし」がテーマです。明治時代の1901~1910に干支に因んだ展示の企画があったそうですが、その時は丑~戌で終わったとのことで、「亥づくし」は初展示ということのようです。1階の第5展示室に11点の亥に関連する作品が展示されています。チラシに載る墨絵のイノシシは、江戸時代の森狙仙筆「雪中三獣図襖」に描かれた中から切り出された部分図です(京都・廣誠院蔵)。イノシシの体毛が細かく密に線描されていて、眼が可愛い感じでした。「毛作り人形 猪」という非常に小さな江戸時代の作品も2点展示されています。朝鮮半島・統一新羅時代の「新羅十二支像護石」の亥像拓本や、中国・唐時代の陶製の白釉猪という作品も展示されていました。一番おもしろかったのは、チラシの内側に載っていますが、 室町時代に描かれた「十二類絵巻」です。干支に入った動物と入らなかった動物を人の姿に見立てて物語風に描いています。 これは絵巻に描かれたイノシシの部分スポット図です。脇道に逸れます。今までイノシシの英単語を意識したことがありませんでした。このチラシをみて、改めて「boar」という語を辞書で引いてみました。「1.(去勢しない)雄豚 2.a(または wild boar)イノシシ b イノシシの肉」(『新英和中辞典』研究社)。豚は「pig」ですので、「wild pig」と言えば、イノシシと理解してもらえるか・・・・。OKのようです。「Eurasian wild pig or simply wild pig」という説明を英語版ウィキペディアで見つけました。(資料1)チラシには、「Boars Galore」と記されています。この単語、憶えたことがない・・・・。「(名詞の後ろに置いて)たくさんの、豊富な」(上掲辞書)という意味だとか。なんとこの単語、日常生活ではよく見かける単語のようです。「Bargains galore!」という風に。「お買い得品山積み!」バーゲンセールの広告文句の定番だとか。知らなかった!元に戻ります。 チラシの反面はこれです。併せての「特集展示」として「美麗を極める中国陶磁」と題して1階の第2・3展示室に展示されています。これは平成24年(2012)に松井宏治氏が京博に一括寄贈されたものが、今回、「松井コレクション」として一堂に展示されたのです。 所蔵品目録として刊行されたのが、この図録です。館内売店で購入しました。中国陶磁を中心に収集されたコレクションで、陶磁器59件、考古13件、彫刻2件の計74件が展示されています。この寄贈品が今後館内に随時展示されることでしょうが、一堂展示という機会はたぶん少ないと推測します。そういう意味では、良い鑑賞機会になりました。上掲の大きな案内板とこの図録表紙にも使われている作品はやはりコレクション中のハイライトの一つです。「粉彩松鹿図瓶 大清乾隆年製銘 一対」です。松と数多くの鹿たちが細やかな筆致で描かれた柔らかな印象を与える図柄です。粉彩技法が用いられた磁器だそうです。特に印象深いのは、図録の表紙で強調しているように見える色鮮やかな紅色の蝙蝠です。蝙蝠という語からはどことなく暗い不吉なイメージを感じるのですが、紅色の蝙蝠は中国では真逆なのだとか。会場の説明文を読んでわかりました。購入した図録の解説からその意味を引用します。”蝙蝠は中国において「福」を意味し、赤い姿は「紅」の字がたくさんのことを意味する「洪」の字と音が通じており、その二つの意味を合わせた赤い蝙蝠はあふれるほどの幸福を意味しているとされる”とのことです。認識をあらたにしました。「鹿は禄につながり、松は寿を表すともいわれ」ていることより、この作品の意匠は福禄寿に通じるめでたさを一杯に表現していることになるようです。まさに展示の目玉です。お正月にふさわしい展示品の一つといえますね。粉彩技法について、京博で入手した資料に次の説明が記されています。ご紹介します。「(18世紀はじめに)ヨーロッパで発達した七宝の技術と色ガラスを顔料にする技術が合わさって、発展していく過程で生み出されたものです。粉彩は美しい白磁の素地を活かして、色ガラスの粉末に鉛粉を混ぜて顔料を作っていくこともあって、絵付けの段階で仕上がりの色調を把握できることが大きな特徴となっています。そのため、絵画と同様に絵付けを施すことが可能となり、官窯において宮廷画家なども動員がなされ、陶磁器に絵付けが行われるようになります。」(資料2)松井コレクションには白磁と青磁の作品ががけっこう含まれています。どちらも良いのですが、私はやはり青磁の色調の方により惹かれました。 これはチラシに掲載の作品群の写真です。チラシには他に4点の写真が載っています。やはりこれらは74点のなかでも目を惹きつけられる作品です。黄色い瓶は「黄玻璃細頸瓶 乾隆年製銘」(清時代、18世紀)、その名称が示す様にガラス製品です。気品のある黄色に発色しているのが目を引き寄せます。中国陶磁の作品群を眺めていって、「色絵人物図徳利」という色絵磁器が並んで展示されています。あれ、とその図柄に違和感を懐いたのですが、説明文を読みナルホドと納得。図柄が日本調だったのです。江戸時代(18世紀)の有田窯で焼かれた作品とみられるものでした。考古としては青銅器が蒐集されています。印象深いのは、秦-前漢時代の「連弧細地爬龍鏡」という青銅鏡の意匠です。今までに見たことがない図柄です。もう一つ挙げておきましょう。中国・唐時代の「銀鍍金狩猟文脚付杯」です。騎馬人物が馬を疾駆させながら馬上で弓を引き獲物を射ている図柄です。スピード感と躍動感のある図柄です。様々な動物と草花がレリーフされています。動物の中にはイノシシも走っています。日本の枠を外れて、この作品を「亥づくし」に加えてもよい気がしました。干支という概念は中国から渡来したものでもあるのですから・・・・・。もう一つの企画として「京の冬景色」という特別展示を併せて見ることができます。数が少ないのですが、5点展示されています。 上掲チラシにそのうち2点が載っています。上段の絵がやはり展示品の中では、ハイライトだと思います。国宝「法然上人絵伝」の巻42に描かれた冬景色です。下段は江戸時代の作品で、塩川文麟筆「平等院雪景図屏風」(六曲一隻)です。宇治川と一体となった平等院というのが、やはり本来のコンセプトなのでしょうね。今は対岸どころか、平等院のある左岸の堤防上からですら、残念ながら殆ど平等院が見えません。絵伝の巻42は法然上人没後の状況です。上人の遺体は大谷の墳墓に埋葬されます。しかし、山門の衆が墳墓を暴き死骸を鴨川に流せということを企みます。それを察しいち早く上人の遺体を嵯峨に移し隠密裏に一旦改葬します。その後、安貞2年、正月25日の暁に、更に西山の粟生野(あおの)の幸阿弥陀仏のもとに移して上人の遺体を荼毘にふしたのです。遺骨を宝瓶に納め、一旦幸阿弥陀仏に預けるのです。幸阿弥陀仏は上人の御骨を庵室のぬりごめ深くに納め置き、鎮西に下向します。貞永2年正月25日に、正信房が上人の御骨を迎えに粟生野の幸阿弥仏の庵室に出向きます。この絵巻の雪景色は巻42の記述から考えると、鎮西に下向して不在となっている幸阿弥陀仏の庵室の場面でしょう。幸阿弥陀仏はぬりごめは決して開けるなとかたく戒め、鍵を預けずに下向していたのです。御骨を迎えに行った正信房らは仰天します。しかし、そこで扉が開くという奇瑞が起こったことが記されています。「法然上人絵伝」の中では、一つの重要場面となる雪景色です。(資料3)どんな場面なのか、気になり少し部分読みしてこんな理解を得ました。補足しておきたいと思います。最後に平成知新館の館内で、今回初めて気づいたことをご紹介します。 平成知新館の庭に面した回廊部分に新たに屏風が展示されています。(館内での撮影可能エリアです。)建仁寺・方丈の障壁画のご紹介をしたのと同様に、ここで展示されている2つの作品は、「綴プロジェクト」の一環として製作された高精細複製品です。「海外に渡った日本の文化財」というテーマの下で製作されたものです。 ここに展示の2作品は、現在「サンフランシスコ・アジア美術館」に所蔵されている作品だそうです。とはいえ、美術書や図録、画像で作品を鑑賞することを思うと、実物の高精細複製ですのでその迫力を含めて充分に楽しめるギャラリーになっています。 一つはこの六曲一双の「韃靼(だったん)人狩猟・打毬(だきゅう)図屏風」です。 右隻の韃靼人が打毬をしている全景図から、第5扇の部分図を切り出してみました。西欧で、「ポロ」と呼ばれる競技と同種の競技なのでしょう。 左隻の韃靼人が狩猟をしている全景図から、第3扇・第4扇の下半分を切り出してみました。 もう一つが、この「四季山水図屏風」です。 式部輝忠という絵師の存在をこの屏風絵を見て初めて知りました。 これは右隻の第1・2扇から切り出した部分図です。春の景色に人物が点描されています。 左隻の第3・4扇の下部に描かれた雪景色にも、小橋を渡ろうとする人や小舟を操る舟人を点描しています。さて、平成知新館を出て、庭を散策してみましょう。つづく参照資料*京都国立博物館発行のチラシ、展示会場で入手した「出品一覧」1) Wild boar From Wikipedia, the free encyclopedia2) 「博物館 Dictionary No.212 清朝工芸の魅力」 2018.12.18 京都国立博物館3) 『法然上人絵伝 (下)』 大橋俊雄校注 岩波文庫 p178-185補遺京都国立博物館 ホームページ綴 TSUZURI 文化財未来継承プロジェクト ホームページ :「Canon」 帰ってきた日本の文化財 :「綴 TSUZURI」 「四季山水図屏風」 式部輝忠筆 「韃靼人狩猟・打毬図屏風」伝狩野宗秀筆 打毬(だきゅう) :「宮内庁」打毬 :「コトバンク」打毬 日本の伝統ゲーム :「ゲーム資料館」打毬図 :「文化遺産オンライン」2015加賀美流騎馬打毬 競技風景映像 :YouTube【青森の魅力】騎馬打毬 - 紅白舞いて、ちはやぶる(八戸市):YouTube舞楽・打毬楽 :「日本服飾史」ポロ :ウィキペディアポロ :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山 京都国立博物館 -2 庭を眺めて へ
2018.12.29
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仏光寺本廟の境内で、「三条小鍛治の古跡」の碑に出会ったことをご紹介しました。そこで、かなり以前に一度訪れたことがある「合槌稲荷明神」の社を続きに再訪してみました。仏光寺本廟の最寄りの交差点で三条通を北側に渡ります。北側歩道を西方向に歩めば、三条通歩道に面して、朱塗りの鳥居がずらりと列をなした参道が見えます。参道入口の東側角に「合槌稲荷大明神参道」の道標が立っています。朱塗りの鳥居には「正一位 合槌稲荷大明神」の扁額が掛けてあります。 道標の傍に、この駒札が立っています。ここは刀匠三条小鍛治宗近が常に信仰していた稲荷明神の祠堂と言われているのです。宗近はつねに稲荷明神を崇敬していたので、神狐が宗近の合槌をつめて、刀を鍛え上げる手助けをしてくれたことから、名釼「小狐丸」が生み出されたと伝えられています。その感謝をこめて稲荷明神を勧請して祀ったのがこの「合槌稲荷明神」だそうです。この伝説をもとにして謡曲「小鍛治」が作られたといいます。(資料1、駒札) 朱塗り鳥居が連なる参道は民家の前で左折します。立ち並ぶ民家への通路が参道を兼ねているというべきでしょうか。粟田口中之町に所在します。 民家の奥北側に、こじんまりした長方形の境内地があります。はるか昔に一度訪れた時の記憶からすると、かなり境内地が整備されたなという印象です。近年建立された感じの石造鳥居が3基建てられています。 社殿には覆い屋が設けられ、板柵の瑞垣で囲われています。東側の方が西側よりも境内地が広い感じです。 祭神は稲荷明神、つまり宇迦之御魂大神ということになります。社殿は再建されたのでしょうか、建物の木肌が新しさを示しています。 社殿の前面の拝所の木鼻はしっかりと正面に獅子、側面に象が彫り込まれ、蟇股の箇所には龍が丸彫りされています。 境内地の南西隅には、「二ノ富弁財天」の小祠が祀られています。このあたりは傾斜地ですので、境内地の西側は一段低くなり、駐車場のような空地になっていて、その敷地のフェンス越しに南北の通りが見えます。おぼろげな記憶とはかなり景観が変わっていました。手許の本には古川柳が載っています。ご紹介します。そこには巷の人々の思いが表れている気がします。(資料1) 眉へ唾つけつけ小鍛治きたえあげ 宗近は狐がついてほめられる 合槌のこんこんと世にひびき 宗近はそらおそろしい手間を入れ 参道を引き返し三条通に出る際に北から眺めた参道です。余談です。一つは、稲荷大社の境内といっても稲荷山に「御剱社(長者社)」があり、そこには「焼刃の水」と称される井戸があります。稲荷大社についてのブログ記事で「御剱社(長者社)」をご紹介し、その折りに謡曲「小鍛治」と「合槌稲荷」に触れています。こちらからご覧ください。 (探訪 伏見稲荷大社細見 -6 春繁社・御剱社(長者社)・薬力社と滝・御膳谷・眼力社・大杉社ほか)もう一つは、知恩院の三門傍の宗近に関わる遺跡伝説です。江戸時代に出版された『都名所図会』の「華頂山大谷寺知恩教院」(=知恩院)に「小鍛治井」が紹介されています。「小鍛治が井は山門の傍にあり。(三条宗近、名剣を打ちし時、ここに来つてこの水を用ひしとなり)」という説明が記されています。この古跡も人々によく知られていたということでしょう。(資料2)元に戻ります。 三条通に出ると、通りの南西側に「粟田神社」への参道が見えました。地図を見ると、粟田口鍛冶町に、粟田神社も所在します。粟田神社の境内地に「鍛冶神社」もあります。このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。この後、三条通の南側歩道を歩き、京阪電車の三条駅に向かいました。 白川橋に至る手前の民家の入口横に近年建てられたと思われる石標が目にとまりました。正面に「坂本龍馬 お龍『結婚式場』跡」と刻されています。 石標の側面には、「此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡」と並記されています。このあたりもかつては青蓮院の境内地で、塔頭金蔵寺があったそうです。青蓮院のあたりからこの辺も含めて、この辺り一帯の地名は粟田口三条坊町です。「元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は『内祝言』、すなはち内々の結婚式をしました。」(説明板より)これは1899(明治32)ごろにお龍さんへの聴き取りに対する回想によるとか。「この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医者であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめ」といいます。(説明板より)その直前には池田屋事件(6月)、禁門の変(7月)が起きています。しばらくして、薩摩島津家に望まれ、龍馬は長州毛利家との和解に奔走することになります。そんな状況の最中で、内祝言をしていたことになります。龍馬はお龍を寺田屋に託しますので、二人は新婚生活を楽しむゆとりも無く、ながく別居夫婦だったようです。(説明板より)慶応2年(1866)12月4日坂本乙女あての手紙に、龍馬は霧島山を描いた絵を入れて近況を語っています。寺田屋遭難事件後、龍馬は薩摩藩に匿われ、その後お龍と合流し薩摩藩船で鹿児島に行きます。龍馬とお龍は3月16日から4月12日まで、霧島方面への温泉旅行を行っています。新婚旅行の濫觴として有名なエピソードです。(資料3,4)龍馬はその1年半余前に内祝言を挙げていたことになります。金蔵寺についてですが、『都名所図会』には、「東三条金蔵寺御猿堂」という見出しで載っています。「青蓮院御門跡の院内なり。三猿の像は伝教大師の作。当時の本尊は米地蔵と号す。伝教大師唐土より将来し給うとなり」と記し、本尊の地蔵菩薩像が米地蔵と俗称されるようになった由来の霊験譚を続けています。かつては、俗に粟田の庚申堂として知られていたそうです。金蔵寺は明治初年に南に位置する「尊勝院」に合併され、三猿像・米地蔵は現在尊勝院に安置されているとか。(資料2) 三条通の白川に架かる白川橋上から眺めた下流側(南)の景色白川は左京区北白川の山中を源とし、南禅寺西方で疏水に合流し、岡崎の疏水慶流橋の西方で南に放流されて、今の白川が三条から知恩院古門前、祇園町北側を経て疏水に合流します。この辺りの白川はもと小川(こがわ)と呼ばれた白川の支流だったそうです。それがある年の洪水で流れが変わり、支流だった小川が今の白川になったといいます。(資料1)では、白川と呼ばれるようになったのはいつ頃か? 手許の資料ではつかめません。しかし、江戸時代に『都名所図会』(1780年刊)が出版された頃には既に白川と呼ばれていたことがわかります。「白川の水上」という見出しで、紹介されています。「志賀の山越えより流れて、東三条にては白川橋の名あり、知恩院の門前を西に流れて、大和大路より鴨川に落ちるなり」と。(資料2)白川橋はもとは木橋が架けられていたそうです。寬文2年(1662)5月の大地震で五条大橋がこわれたとき、当時の京都所司代牧野親成がその石材を転用して石橋に改築したといいます。その後幾度かの修理を経て現在に至るそうです。(資料1)これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p34-35, p18-192) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p286-2873) 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』 宮地佐一郎著 PHP文庫4) 『龍馬「伝説」の誕生』 菊地明著 新人物文庫 p224-231補遺合槌稲荷神社参道【道標】:「京都市」合槌稲荷神社 :「日本伝承大鑑」合槌稲荷神社 刀匠の信仰 :「京都を歩くアルバム」 この2つのブログ記事の写真は私がかつて訪れたときの記憶のものが掲載されています。 対比的にご覧になると変遷がイメージできることでしょう。小鍛治 能楽事典 :「銕仙会 ~能と狂言~」小鍛治 :「コトバンク」小狐丸 :「名刀幻想辞典」名刀小狐丸 :「花山稲荷神社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 仏光寺本廟 へ この仏光寺本廟の境内で出会った「三条小鍛治の古跡」碑についても触れています。 ご覧いただけるとうれしいです。
2018.12.27
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前回ご紹介した「没後五十年 藤田嗣治展」を観賞したあと、その場所を知りながら訪れることがなかった「仏光寺本廟」を初めて訪ねました。三条通の白川橋より東は、「粟田口」と称され、京都七口の一つです。三条通を経て東国に向かう玄関口で、古来から交通の要衝地です。このあたり古くは愛宕郡粟田郷と称されたことから、「粟田口」と称したそうです。この粟田口に仏光寺本廟があります。三条通の南側に位置し、参道は緩やかな傾斜地を上る坂道です。参道の石灯籠の竿には「東山」と太い文字が刻されています。ここは真宗仏光寺の別院です。東山別院または東山廟所とも称されます。(資料1)「東山」がそれを示しているともいえそうです。「寺伝によれば、元禄8年(1695)仏光寺第20世随如上人がこの地にあった角倉屋敷を購入し、仏光寺境内にあった祖廟を移して堂宇を営んだのにはじまるとつたえる」そうです。(資料1)真宗仏光寺派の本山仏光寺は下京区新開町に所在し、北辺の東西方向の通りは仏光寺通と称されます。南が高辻通、西が東洞院通、東が高倉通に囲まれた区画が寺域です。正式には「佛光寺」ですが、ここでは仏光寺の表記を使います。 北面する山門切妻造りと唐破風を組み合わせた屋根の四脚門です。 前面控柱の頭貫の蟇股や木鼻はシンプルな造形です。虹梁の上の大瓶束の箇所も同様です。しかし、本柱の頭貫を眺めると様相が一変します。 これは門の内側から全体を眺めた景色です。 こちらは門の正面(外側)からの眺めです。向かって左には、樹上に虎が身構える姿で前方の斜め下を睨みつけています。向かって右には、龍がその胴体をくねらせて、睨み付けています。まさに龍虎対峙する場面が丸彫りされています。 門の内側から見上げると、右には樹木と虎の胴体部分、 左には水流中の龍の胴体部分が彫刻されています。 門の幣軸と頭貫の間、幣軸と本柱の間の欄間は一貫して草花文の装飾彫刻で埋め尽くされています。 門扉は桟唐戸の様式です。戸の上部、花狭間の中央に「仏光寺藤」紋が取り付けてあります。 山門を入ると左側(東)に「光寿堂(こうじゅどう)」があります。納骨壇が設けられた納骨堂です。 門からの参道は真っ直ぐに歩むと本廟に向かいます。その参道にV字形に左へ参道が分岐し、光寿堂の南隣がこの「本堂」です。 入母屋造りの屋根の正面に見える獅子口をズームアップしてみました。軒丸瓦と併せて全面的に仏光寺藤の紋がレリーフされています。 こちらは降り棟の先端の獅子口です。 現在の本堂は安永4年(1775)に建造されたもの。本尊は阿弥陀如来像が安置されています。(資料1) 向拝に見える蟇股は厚みのある板蟇股で質朴なものですが、木鼻は彫りの深い象で、その頭頂は斗を支えています。柱上の大斗とで長い肘木を支え、連三ツ斗の形式の木組みです。 欄間は粗い格子と細かい菱格子を組み合わせた幾何学模様の均斉美が見えます。 屋根の軒先を眺めると、獅子の飾り瓦が置かれています。口が阿吽形になっています。 本堂前の参道を挟み、西側に鐘楼があります。鐘楼の北側の建物が寺務所(庫裡)のようです。 梵鐘を眺めると、撞座の上側の縦帯に「南無阿弥陀仏」と蓮華座のレリーフの上に陽刻されています。梵鐘を吊す龍頭(りゅうず)にははっきりと龍の顔が見えます。 草の間には草花文のレリーフが施されています、 「本廟」は一段高い境内地に上り左折すると、さらに高くなった境内地に設けられています。 本廟の正面手前に、基壇に石造覆屋を載せた焼香炉が設けられています。 本廟は一段高くなった敷地に建ち、正面に唐門があり、その両翼に透かし塀が境界となっています。さらに唐門の前にもう一つの門扉があり、石造の垣が仕切りとなっています。正面に「開山大師御廟前」と刻した角柱形の供花入れが門の両側に設けられています。また供花壇も設けてあります。 廟堂には親鸞聖人の遺骨と肉付歯を奉安した舎利塔が安置されているそうです。(資料1) 唐破風の屋根は銅葺きで、獅子口も銅板で覆われた形です。 破風の正面中央には、仏光寺藤の紋をレリーフした装飾金具が付けられ、兎毛通は深彫りの牡丹文が彫刻されているようです。破風には嵯峨桐紋を中央にした意匠の装飾金具も使われています。 蟇股の透かし彫りは少し変わった文様です。一部欠損がみられるようでもあります。 少し距離を置き、北西側から全景を眺めるとこんな景色です。御廟の唐門・透かし塀の前に少し距離をとり、石造の垣を設けるという形式は、東本願寺の大谷祖廟と同型です。 こちらは大谷祖廟を訪れた時の1枚です。石造の垣は同類型と思います。しかし、下部を観察すると、工法上というか意匠上というか、異なるやり方になっています。こういうところもおもしろい。 こちらの本廟は、正面が透かし彫り塀ですが、側面は築地塀が設けられています。本廟の前の境内地は南側と、西側が築地塀で仕切られています。そして、本廟を囲むように、築地塀の外周、西側、南側、東側に墓所域が広がっています。仏光寺のホームページに掲載されている「佛光寺本廟」という動画を見ますと、本廟を囲む墓所域はやはり壮観な感じです。宗祖を慕う門徒衆が集うというイメージと重なります。こちらから御覧ください。 (BUKKOJI MOVIE の下段・中央の動画<本廟のご案内>です) 西側の築地塀の傍に、この顕彰碑が建立されています。普門大律師円通を讃える碑と思われます。末尾の記述を読むと、この碑の新しさから近年に復元されたものと推測します。 築地塀から西を眺めると、遠近での山並みが見えます。国土地理院の地図でみると、近い方の茶色っぽい山並みは、小倉山・烏ケ岳・嵐山あたりかと思われます。(間違っているかも知れません・・・・・) 南側の築地塀の手前にこの樹木の間に石碑の立つ一画が目に止まります。 傍に、「三条小鍛治の古跡」と記された駒札が建てられています。この古跡のこと自体は、当日探訪して初めて知りました。この仏光寺本廟は、後で確認してみると、所在地が「東山区粟田口鍛冶町14」です。つまり、かつてこのあたりは、後鳥羽上皇の番鍛冶となった刀工粟田口氏が居を構え、粟田口物と称される名刀を生み出したところでした。林国家は大和国の刀工でしたが、平安末期、康治年間(1142-1144)にこの地に来住し地名を姓としたそうです。その子の国友・国安・国清が後鳥羽上皇の番鍛冶となります。国綱は鎌倉に下向し、北条家に仕え、北条時頼に名物鬼丸をつくったといいます。その子孫の吉光は粟田口藤四郎と称され、江戸時代に評判だったそうです。(資料1)一方、三条小鍛治宗近は平安中期の刀匠で、藤原兼家(東三条院殿)の番鍛冶だったといいます。「姓は橘、信濃守粟田藤四郎と号し、東山粟田口三条坊に住したので三条小鍛治とも称した」(駒札)そうです。長和3年(1014)77歳で没したといいます。(資料1、駒札)宗近は、名刀小狐丸、三日月宗近、長刀鉾の鉾頭の長刀などを造ったことで有名です。(駒札より)ところが、今年(2018年7月)の報道で、長刀鉾の長刀は学術調査が行われた結果、「京の刀鍛冶・後三条派の長吉が『平安城住三条長吉作』と入れ、作製年代を『大永2(1522)年6月3日』と記していた。」と判明しています。(資料3)この宗近を取りあげたのが、室町時代につくられた謡曲『小鍛治』です。江戸時代には、それが浄瑠璃や歌舞伎舞踊、長唄にも取り上げられていきます。それにより、名刀を造った三条小鍛治宗近の名はそれ以上に世に親炙したのでしょう。それ故に、三条粟田口一帯には江戸時代に作られた小鍛治に関連する遺跡伝説地がいくつかあります。この古跡もその一つなのかもしれません。駒札に記されている『拾遺名所図会』には、「小鍛治宗近水」という項が載っています。そこには「佛光寺墓所門前の西石垣の下にあり」と記されています。(資料4)関連しますが、『花洛名勝』には、良恩寺の傍に「小鍛治宗近宅趾」があったと記し、小鍛治宗近水があるのがしるしであると記しています。あるいは粟田口藤四郎の宅趾とも記しています。(資料5) こちらの石灯籠の竿には、「東山御廟所」と刻されています。側面に「安永七歳・・・」という文字が刻されています。安永7年は1780年で江戸時代です。この頃には、そう称されていたということでしょう。これで仏光寺本廟のまとめを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p33-342) 真宗佛光寺派 本山佛光寺 ホームページ3) 長刀鉾の長刀、戦乱で略奪 京都・祇園祭、銘に経緯 :「京都新聞」4) 小鍛治宗近水 拾遺都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 小鍛治宗近宅趾 花洛名勝 :「国際日本文化研究センター」 補遺小鍛治 能楽事典 :「銕仙会 ~能と狂言~」小鍛治 :「コトバンク」小狐丸 :「名刀幻想辞典」名刀小狐丸 :「花山稲荷神社」三日月宗近を見る 1089ブログ :「東京国立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.12.26
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東京都美術館での開催を経て、京都国立近代美術館で開催された掲題の展覧会が先日終了してしまいました。事後になりましたが、記憶の整理として、まとめを兼ねご紹介します。 まず岡崎の疏水端に掲示されていた大きなポスターには、「タピスリーの裸婦」が使われています。この作品、京都国立近代美術館蔵だとか。エコール・ド・パリを代表する画家の一人となった藤田嗣治(1886-1968)は、「乳白色の下地」と繊細な描線による絵を描き、大ブレークしました。彼の作品で最初に想い浮かべるのは、やはりいくつかの繊細な描写の裸婦像です。ほかにまず「寝室の裸婦キキ」(1922)、「私の夢」(1947)などです。最終的に彼は、フランス国籍を取り、洗礼を受けてレオナール・フジタと称しました。 この2枚は事前に入手した展覧会PRチラシです。 これは展覧会の当日券です。藤田嗣治は猫好きだったのでしょうね。何枚もの裸婦像にも猫を描き込んでいます。 美術館側の疏水畔に設置された展覧会案内には、猫の絵が載っています。今回展示されていました。「争闘(猫)」(1940年)という作品です。猫を好んで描いた藤田の絵の中で、猫に閑しては特にインパクトの強い絵です。図録によると、「第二次世界大戦勃発後、ドイツ軍が迫るパリで描かれたもの」という。そんな状況下で猫をアナロジーに使い、己の思いを託したのでしょう。 近代美術館の入口前、いつものボックス形の展覧会案内には、やはり今回の展示の中の代表作の一つ、「カフェ」(1949年:ポンピドゥ・センター藏)が紹介されています。 このスポットがいつものように、記念撮影場所になっています。人を入れずに撮るのが結構難しい・・・・・。どこかに人が写り込んでしまいます。 これは購入した図録の表紙です。上掲左側のチラシの裏面は、ほぼ全面にこの「カフェ」が使われ、東京での展覧会期間・場所の案内だけが下部に記されています。2006年に「生誕120年 藤田嗣治展:パリを魅了した異邦人」の展覧会がここで開催されました。そのときも、この作品が来日していたと記憶します。その時の図録の所在を見つけられませんでした。書架にスペースが無く、ボックスに入れているのかもしれません。 上掲チラシからの引用です。この作品、日本初公開だそうです。 「エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像」(1922年:シカゴ美術館蔵)黒ずんだタイルのように見えるのは、ソファーの女性の背景が銀箔で覆われていたからだそうです。「藤田は20年代に金箔をしばしば用いたが、銀箔が確認できるのは本作のみである」(図録より)とか。この絵の注文主がモデルだそうです。この絵にも猫が描かれています。猫は藤田のトレードマークになっている感じ・・・・。この構図は絵の注文主の希望によるものなのでしょうか? 藤田が自由に描いたのでしょうか・・・・・。この作品を見たとき、ゴヤの「裸のマハ」・「着衣のマハ」、マネの「オランピア」の構図を連想しました。 これもチラシからの引用です。左の「アッツ島玉砕」は、「生誕120年」展において初めて見たように思います。その時は、藤田が第二次大戦期間中に戦争の絵を描き、戦後戦争協力画家として批判を浴びたということを知ったことと戦争関連の絵画を描いていたことだけが記憶に残りました。この展覧会で再び見て、藤田が作戦記録画を描いたことは事実であるが、その動機は軍部への協力とは真逆の、戦争の悲惨さを描くということにあったのではと、この絵の構図と描き方から印象を強めました。会場にも記されていたかと思いますが、改めて図録を見ると、「軍からの委嘱ではなく自らの意思で、写真と想像に基づいて制作したのち、陸軍に献納し、『陸軍作戦記録画』となった」という記述があります。この絵は東京国立近代美術館藏なのですが、「無期限貸与作品」という位置づけにあることを知った次第です。かなりの人数の画家が戦争の記録画を描いたのですが、それらは戦後GHQがすべて接収したそうです。その中から改めて日本側に「無期限貸与作品」と位置づけた作品群の中の一つがこの「アッツ島玉砕」なのだそうです。右の絵は、「私の部屋、目覚まし時計のある静物」(1921年)というタイトルの絵です。これが「独特の白い下地に細い墨の線で描くという技法によって完成した初めての静物画」(図録より)と言います。この回顧展で、1910年の「自画像」から、1962-63年の「礼拝」という作品中に組み込まれた修道士姿の自画像まで、様々な自画像が展示されていました。1910年、少し気取った感じでキザな感じすらあり、自信に満ちた自画像から、様々に表情と相貌が変化して行く自画像を興味深く眺めました。自ら新しい技法を生み出した1921年という年に描かれた自画像がなぜか一番陰鬱な印象を感じさせる絵でした。技法を完成させる前の苦しい時期に描いた自画像なのでしょうか。1910年の自画像との大きな落差を感じました。1926~1929年の3枚の自画像は皆猫を一緒に描き込んでいますが、チラシに見る表情とは異なり、落ち着きのある明るさを感じさせる自画像です。2枚には硯と墨・筆が書き込まれていて、繊細な線描を確立した姿を感じます。裸婦像を含め、様々に女性の顔を描き出しています。その中で、個人的には「美しいスペイン女」(1949年、豊田市美術館蔵)と「マドンナ」(1963年、ランス市立美術館蔵)の顔立ちに特に惹かれました。回顧展ではやはり、一人の画家がどういう画風の遍歴をしていくかという点が興味深いと感じます。先達の画風を学び研究し、己の絵の中に取り入れながら、独自性を加えようとするプロセスが必ずあるようです。そこから独自の技法、画風が確立されていくかどうか。そこが分かれ道になるのでしょうね。久々に再会した絵は懐かしく、今回初めて見る絵は興味深く、代表作や話題作はまた違った気持ちで眺めることができました。あらためて藤田嗣治からレオナール・フジタへと変容した人物に関心を抱きはじめています。ついでに、脇道をすこしさまよって終えたいと思います。近代美術館1階のガラス壁面越しに疏水側に見える景色です。 近代美術館の庭に、こんな作品群が野外展示されています。晩秋の紅葉と作品のコラボレーションもいいものです。 これは別の日(12/15)ですが、京都国立近代美術館の南に位置する金剛能楽堂に行く時に、美術館へ行く折りに利用する白川沿いで初めてみた風景です。 白川沿いの道を何度も歩きながら、アオサギに出会うのはこれが初めてです。 ご覧いただきありがとうございます。参照資料*展覧会図録 『没後50年 藤田嗣治展』 朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション*展覧会用PRチラシ補遺没後50年藤田嗣治展 :「京都国立近代美術館」[公式]没後50年藤田嗣治展レオナール・フジタ (藤田嗣治、1886-1968) :「ポーラ美術館」藤田嗣治から「レオナール・フジタ」へ。その作品世界を読み解く :「美術手帖」藤田嗣治(レオナール・フジタ)藤田嗣治の肖像は上から目線 しりあがり寿が見た軌跡 :YouTube藤田嗣治レオナール・フジタ 20世紀最大の日本人美術家 :YouTube藤田嗣治 おちゃめな肉声 Real voice of Leonard Foujita 1965 :YouTubeマネ「オランピア」と美術史に残る裸婦像 :「足立区綾瀬美術館」エコール・ド・パリ :「artscape」エコール・ド・パリ :「コトバンク」エコール・ド・パリとは?特徴や有名画家と代表作を簡単解説します! :「アクリルラボ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.12.23
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円山公園の北東隅に「安養寺」があります。その南側で門前下段の地にこの「辨天堂」が位置します。過去幾度か訪れていますが、大概ひっそりとした雰囲気につつまれています。この雰囲気が好きですね。ここは安養寺の飛地境内になるそうです。大谷祖廟の北門を退出した後、久しぶりに足を向けてみました。 手水舎 拝所が唐破風の屋根になっています。赤地に「辨財天女」と墨書された提灯が正面に吊され、柱には「吉水弁財天女」と記された木札が掛けてあります。 正面の頭貫と虹梁の間に、透かし彫りの大きな飛龍が見られます。これがいいですね。虹梁の上は、普通は大瓶束の形ですが、ここは板蟇股になっています。 木鼻はしっかりと彫りの深い彫刻が施されています。正面側に獅子、左右に象が彫られています。 堂内には「辨財天」の扁額が掲げてあります。祀られている辨財天そのものは薄暗い上に、前に大きな円鏡が置かれ、その前に置かれた花瓶に紙を筒状に巻いた形のものが立てられていたり、孔雀の羽が供えられていたりしています。この筒状の紙の供えものは何と称するのでしょう? 調べてみましたが不詳です。ご存知のかた、ご教示ください。 この「吉水辨財天尊の由来」説明文が掲示されています。由来説明の要点を編集し、箇条書きにしてご紹介します。*吉水辨財天は建久年間(1190-1199)に慈鎮和尚が安養寺境内の名水(吉水)の畔に勧請した。*琵琶法師源照が技芸上達をこの天女に祈り、琵琶の妙音を奏でるようになった。 後小松天皇の恩寵を得て、盲人として初めて紫衣を賜った。源照が御礼にお堂を建立した。*鎌倉時代の刀工、粟田口藤四郎吉光は、辨財天の相槌を得てこの名水で名刀を打った。 有名になった吉光がその時用いた鉄砧(かなとこ)石がお堂の下に残っている*辨財天は、仏教伝来とともにインドから伝わった天女。妙音天、美音天とも訳される。 サンスクリット名は「湖を有する者」の意を持ち、水を司る神様である。 ここの辨財天は、源照の霊験譚から紫衣辨財天、場所から円山吉水辨財天とも言う。*辨財天は、金光明経を受持するものを守護し、経を聞く者に多大な恩恵をとの誓願をしたとされる。*辨財天は七福神の中で、唯一の女神である。説明文には、祇園に残るという興味深い唄の一節を紹介しています。「この恋の叶わぬときは円山の辨天様の池の井守のつがいを採って、真っ黒黒焼き大和のほうらく・・・・・想うお方にふりかけしゃんせ、この恋叶います。」吉水辨財天は、音楽技芸上達、福徳、財宝、延寿だけでなく、恋愛良縁にも効験ありとされているようです。慈鎮和尚とは、関白藤原忠通の子で、天台座主となった慈円のことで、慈鎮は勅諡号です。慈円和尚が天台の別院であった安養寺を建久年間に中興して、青蓮院に属せしめたといいます。慈円和尚はこの地に吉水房を営み隠居所としたそうです。(資料1) お堂の南側に立つ記念碑を見ますと、現在の辨天堂が再建されたものであることがわかります。何時なのかは不詳ですが。 「妙音随喜」と太い文字で刻された碑もあります。妙音は上記のとおり辨財天を意味します。 一隅に「吉水の井」があります。井枠の正面に「吉水」と刻され、その傍に「法然上人 閼伽の水 吉水の井」と記された駒札が立っています。「吉水」は「よしみず」と読みますが、一に「きっすい」とも読まれるようです。「吉水」はもとは辨財天堂の北側にあった小さな池だそうです。今はその上に堂舎が建っています。古来名水の一つとしてたたえられ、それに因んでこの地の惣名となったそうです。ある時代に池に代えてこの吉水の井が設けられたということでしょうか。『都名所図会』には、「円山安養寺」の項に、「吉水の井は鎮守弁才天の傍らにあり。」と記されています。(資料2)駒札に法然上人の名が記されています。法然はこの地吉水に吉水禅房を営み、浄土教を弘通したのです。親鸞はその禅房で法然の教えを受けるということになります。吉水の名水を汲まれて、閼伽の水として本尊に供えられたのでしょう。(資料1) 小さな境内地の南東隅に滝が設けられています。不動明王石像が祀られています。 辨天堂の背後は段状の石垣となっています。そこに小さな社が祀られていますが不詳。 境内の北東隅に、「慈鎮和尚宝塔」の駒札が建つこの大きな石塔があります。 壺形の塔身正面には、扉を開いた形で多宝・釈迦二仏が並座する姿が浮き彫りにされています。鎌倉時代の作と推定され、重文です。高さ約3m、花崗岩製です。 正面から見たときには、気づかなかったのですが、その背後に石塔が置かれています。 反時計回りにお堂を巡り、正面の石鳥居に戻って来て、この石灯籠が奉納されていることに気づきました。最初はあまり意識してませんでした。基礎がなければ、庭の一隅に置かれるスタイルの石灯籠です。これで、久々の辨天堂を出て、円山公園の坂道を下って行きました。ここからは付録みたいなもの。 「名勝 円山公園」の石標が立っています。 円山公園の中央にある大きな池。北辺から池の中央に掛けられた橋の東詰めの景色です。 池の近くで、石橋の橋脚に使われていたと思われる円柱が置かれているのを見つけました。四条通を歩き、京阪電車の祇園四条駅にいくとき、 南座で、久々に「まねき」がずらりと掲げてある景色を眺めました。今年は南座の改修工事が完了して、再開の運びとなり、従来の12月顔見世興行よりも早く、11月から連続2カ月の興行が行われています。11月初旬に撮ったものです。 今年は、このまねきが12月「吉例顔見世興行」のために、直前に掲げ代える作業が行われたという報道記事を読みました。その顔見世興行も、はやあと数日、26日に千秋楽となります。あっという間に時間が過ぎて行きます。これで、辨天堂プラスのご紹介をおわります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所図会 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p231-2322) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫補遺慈円 :ウィキペディア慈円 :「コトバンク」吉水 :「浄土宗大辞典」吉水の禅房 :「浄土宗大辞典」吉水の井 :「京都歩く不思議事典」25日、南座「まねき上げ」幸四郎ご挨拶のお知らせ 2018.10.25 :「歌舞伎美人」師走に向けて、南座で再びのまねき上げ :「歌舞伎美人」師走の京の風物詩「吉例顔見世興行」が南座で開幕 :「歌舞伎美人」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.12.22
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円山公園の南側に大谷祖廟(東本願寺)があります。その参道は東西方向で、東端に大谷祖廟が位置し、参道の西端は八坂神社の南楼楼門に向かう南北の道に繋がっています。参道の入口に「大谷御廟」という大きな石標が立っています。東本願寺と渉成園は幾度か訪れています。しかし、この大谷祖廟がここに在ることを知っていて、八坂神社や円山公園まで来る機会が幾度もありながら、訪れたことがありませんでした。一度は拝見しておこうと、11月に出かけました。そのまとめを兼ねたご紹介です。 参道脇の石灯籠。竿の正面に「大谷」の文字。 緩やかな石段の先に「総門(表唐門)」が見えてきます。檜皮葺きで切妻と唐破風を組み合わせた屋根の四脚門です。2010(平成22)年に修復工事が行われた際に棟札が発見され、1862(文久2)年に新築されたことが明らかになったそうです。(資料1) 総門前の右側に、この案内板が設置されています。この「大谷祖廟」は、1670(寬文10)年に東本願寺の琢如上人(第14代)が、親鸞聖人と教如・宣如両上人の墳墓をこの地に移し「大谷御坊」と称されたのが始まりで、1701(元禄14)年に墳墓の改装と本堂の建立が行われたそうです。明治以降に名称が幾度か変更され、1981(昭和56)年「大谷祖廟」に改称されています。(案内板より) 門を眺めると、その細部に関心が高まります。木鼻はすべてごくシンプルな形です。まず目に止まるのは前面の控柱の虹梁・頭貫部分です。 大瓶束の両側には菊花の様々な姿が彫刻されています。左右でその姿をそれぞれ変えて彫り込まれ、全体の輪郭は左右対称にみえるような造形になっています。その下部、頭貫上の蟇股には、龍に乗り笙(しょう)という雅楽器を捧げ持つ人物が彫刻されています。 中央部は唐破風屋根の曲線の垂木に装飾金具が縞模様に列をなしています。経年変化で銅板金具に緑青が吹いたのでしょうか。正面の垂木の先端も覆い金具が同様になっています。 本柱の頭貫上の蟇股は、左右の人物が一緒に舞踏でもしている一瞬をとらえたかの様なシーンです。向かって右の人は左手に瓢を持っているようですが、左の人が右手にしている物が何か不明です。人物の背後は、右には梅の木、左には笹竹が彫刻されているようです。 門扉の幣軸の外側には、草花文の彫刻で埋め尽くされています。表唐門に華麗さを加えている景色です。 総門を入ると、右手に細長い建物の側壁が美しい。上部は白壁、下半分が海鼠壁になっています。防火と美観を兼ね備えた壁面の美観です。 ここで、まず大谷祖廟の境内図を引用しご紹介します。ダウンロードできるパンフレットから切り出しています。(資料1) 総門の左側にある二層の「太鼓楼」 太鼓楼の屋根の鬼板は調べてみますと、「東六条八藤紋」がレリーフされています。これは東本願寺大谷家の家紋だそうです。(資料2)また、東本願寺の寺紋は「抱牡丹紋」とのこと。(資料2,3) 太鼓楼の南側から総門を眺めた景色です。 石段を上がって行き、西を見ると、京都市内が見えます。 石庭に連なる南側に手水舎があります。その南側に大谷祖廟事務所の建物があります。 振り返り、東側を眺めると松の木々の向こうに庫裡が位置します。 本堂の側面を眺めつつ、一段高くなった境内に上がりますと、南面する「本堂」前です。この本堂が上記のとおり1701年に建立された総欅(けやき)造りで、奥行き7間半(約13.6m)、横幅7間(約12.7m)のお堂です。本尊は阿弥陀像で、安阿弥(仏師快慶)作と伝えられているとか。片山仏とも呼ばれるそうです。(資料1,4) 鳥害除けのためでしょうか、木鼻や蟇股、木組みの部分は金網でカバーされています。全景を撮るにとどめました。向拝の木鼻は象の頭部が彫り込まれています。 御廟に行くには、本堂の少し南にある緩やかな石段をさらに一段高い境内地に上がることになります。その前に、石段傍に奉献されたブロンズの灯籠を眺めておきましょう。 火焔宝珠と笠には法輪のレリーフ 火袋には天女像のレリーフ 竿の部分に、宗祖親鸞聖人の大遠忌記念という陽刻が見えます。回忌数が写真では判読不詳。 「御廟」は正面に唐門、両側につづく透かし塀で囲まれています。その前に石造の垣が設けられています。そして、唐門傍には、灯明台があり、左右には献花台が設けてあります。 唐門の正面には、折りたたみ可動式屋根が設営されていますので、唐門の全体像を撮れなかったのが残念です。この御廟に、石墳が築かれ親鸞聖人の遺骨が納められて、その上に親鸞聖人遺愛の虎石が置かれているそうです。この石が「茶色で虎が伏せているように見えたところから名づけられたものといわれています」(資料1)。この虎石は、親鸞聖人が遷化された善法院で井戸が掘られたときに出て来た石と言います。その石の名に由来するのが、御池通柳馬場上ルの中京区虎石町です。この虎石は、虎石町⇒伏見城⇒宝塔寺(伏見区深草)と移され、1709(宝永6)年にこの大谷祖廟に納められたという変遷をしています。(資料1,4,5)宗祖とともに、本願寺の歴代をはじめ門徒衆の遺骨も納められているそうです。 唐門は豪華に荘厳されています。撮れる範囲で細見してみました。 門扉の上部の欄間には瑞鳥の透かし彫りが見えます。桟唐戸(門扉)の上部の格狭間には五三大割桐紋が透かし彫りで造形され、菱狭間には丁子菱様の文様が嵌め込まれています。桟が格子に組まれ、その中に牡丹のレリーフが取り付けられています。 門柱と框の間には葡萄文の装飾金具、門柱には法輪を中央に幾何学文様を線刻した装飾金具、左右の門柱の外側には、左が滝を登る鯉の意匠、右が獅子の子落としと推測する意匠の装飾金具でそれぞれ荘厳されています。 御廟の石段下から南に歩むと、鐘楼への石段があります。その石段へ向かう角のところに、「覚信尼公おん文」の碑が建立されています。 石段の先に、鐘楼が見えます。 梵鐘の下帯には草花文がレリーフされ、その上の草ノ間には、一体ずつ相貌を含めて異なる姿の諸仏がレリーフされています。細やかな彫像です。この鐘楼が大谷祖廟境内地の南端側に位置します。築地塀の南側には、東大谷墓地が広がっています。 御廟に向かう石段と本堂の間の東辺に建立された句碑 (彰如上人25回忌法要記念句碑) 口あいて落花ながむる子は佛 句仏(大谷光演の俳号) 大谷祖廟事務所の建物の一画に休憩所があります。そのそばに、この大きな釜の設備が置かれています。かつてはこれで湯を沸かし、参拝者を茶でもてなしたのでしょうね。側面に、「元豊通宝」が象られています。調べてみますと、中国・北宋六代・神宗の時代、元豊元年(1078)に始まる鋳銅銭です。(資料6)もう一つの文様は葵紋でもなさそうで不詳です。 本堂の北隣にある「庫裡」 立石の石組み手前の通路を北に進むと、この建物があります。貴賓用の玄関口なのでしょう。大谷祖廟は、総門までの幅の広い参道は少し「く」の字形に曲折する長いアプローチですが、総門を入った山腹の段状に広がる境内は比較的コンパクトにまとまっている感じがしました。境内地の一番高い上段地に御廟が祀られ、背後に山林を懐いた静けさがありました。行事の時には大勢の門徒衆で賑わうのでしょう。上掲の境内図に、太鼓楼の東側に「北門」が記されています。ここから大谷祖廟を退出しました。 「北門」を出て、外から眺めた景色です。これで探訪記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 大谷祖廟とは :「東本願寺」 大谷祖廟のパンフレットがダウンロードできます。同パンフレットも参照2) 大谷家 :ウィキペディア3) K-002 抱き牡丹 (だきぼたん) :「山崎商店」4) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p2135) 見真大師遷化之地・善法院跡・法泉寺跡(京都市中京区) :「京都風光」6) 元豊通宝 :「電脳古銭譜 がんちゃんの古銭のページ」補遺雅楽器 :「gakki.com」大谷祖廟・東大谷(1)、(2) :「仏教宗学研究会」大谷祖廟 京のスポット :「KYOTOdesign」法泉寺(京都市左京区) :「京都風光」大谷光演 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。 スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 京都・七条通を歩く -1 東本願寺・西本願寺・興正寺・梅小路公園
2018.12.21
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最初に、この京都御苑案内図の部分図(南西域)をイメージしやすいように掲げます。赤丸を付けたところが、京都御所のご紹介の最後にご紹介した「清水谷家の椋」という巨木のある場所です。ここから黒色矢印を記入した箇所を散策した結果のご紹介です。 京都御所の南辺築地塀から一筋南の東西の通り、マゼンダ色矢印の所から東を眺めた景色です。大宮御所の築地塀と門が突き当たりとなり、その背景の山に左大文字の「大」を遠望できます。 南に歩むと、東側に「西園寺邸跡」の木標と駒札が立っています。「西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公家西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいは妙音弁才天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てられたといわれています。この地へは1769(明和6)年に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、1878(明治11)年、以前の神仏混交の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。旧邸内は、西園寺公望が、私塾『立命館』を創設した地でもあります。」(駒札転記) 左図「幕末(慶応年間)の京都御所周辺図」に青丸を追記しました。ここが西園寺邸に該当します。現在の京都御苑は京都御所周辺に形成されていた公家町の跡地が整備されたエリアになります。 すぐ傍で、すこし道からは東に入ったところに「白雲神社」があります。上記の駒札に記載の神社です。 西面する社殿前の参拝所に「白雲神社」の扁額が掲げてあります。 祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、宗像三女神の一柱です。妙音弁才天と称えるそうです。西園寺家が東京に移転後、もと西園寺家邸内にあった妙音堂(鎮守社)を有志が引き継いでまつり、明治11年(1878)に神仏混淆の作法を神式に改め、現在の名称としたといいます。(資料1,駒札) 手水舎境内を反時計回りに巡ってみました。 本殿の南東側にある「福寿稲荷神社」 薬師石「別名、”御所のへそ石”とも呼ばれ、この石を手で撫で、幹部をさすると、怪我や病気の治療に効験があると伝えられています。少し見えにくいですが前面は人面のように見える凹凸があり古くから信仰の対象(磐座)であり神聖な場所として大切にされています。」(説明板転記)社務所の前を通り、元の道に戻ります。 更に南に進みます。「賀陽宮(かやのみや)邸跡」の駒札が道路脇に立っています。上掲の公家町図に見られるとおり、現在の道部分を含め東西に跨がる邸地だったようです。伏見宮邦家親王の第4王子朝彦親王(元青蓮院門跡・天台座主)が還俗し中川宮と称し、孝明天皇を助けたといいます。その邸跡です。邸の庭に榧(かや)の巨木があったことにちなみ賀陽宮と称したそうです。中川宮(賀陽宮)は公武合体政策を進めようとした公家です。(駒札より)「公武合体派の巨魁であり、長州勢力を京都から一掃した文久3年(1863)8月18日のクーデターでは計画の中心となった」(資料2)そうです。この政変が、長州藩に逃れる三条実美をはじめとする公家の「七卿落ち」という事態の原因となっています。都から長州に落ちのびてゆく場面が「時代祭」の行列の中に登場していると記憶します。 この邸跡に「胎範碑(いはんひ)」が建立されています。この碑は、久邇宮朝彦親王(1824~91)、つまり中川宮(賀陽宮)の没後40年にあたり、維新前の邸宅があった地に、「朝彦親王の遺徳をしのび,邸宅跡を記念するもの」(資料2)として昭和6年(1931)10月に建立されたものといいます。この後、上掲黒矢印の通り、道から宗像神社の側面から入り、境内を拝見しながら正面参道を抜けました。ここでは神社境内をイメージしやすいように、編集してご紹介します。「宗像神社」は本殿が南面していて、南に石鳥居と正面参道があります。 石鳥居の西側に駒札が立っています。 石鳥居をくぐると、すぐ近くに「花山稲荷大明神」が奉られています。この神社は「花山院家邸内社」だったそうです。 駒札社伝によれば藤原北家の関白藤原忠平の時に衣食住の守護神として伏見稲荷を勧請したとされているとか。忠平が関白となったのは941年、朱雀天皇の時です。摂関就任は3番目。因みに藤原道長は11番目です。清和天皇の皇子の邸が後に花山法皇の御所となり、それをさらに後に関白藤原師実(14番目)が引き継ぎ、その子の左大臣藤原(花山院)家忠が継承して、藤原北家花山院家の邸となったそうです。(資料3,駒札)駒札の花山院家忠邸図に記された通りの名称を現在の地図に当てはめると、上記賀陽宮邸跡を含む南側に該当しそうです。多分後に現在地に移されたのでしょう。 参道の西側には、「京都観光神社」が祀られています。傍に立つ由来碑によれば、昭和43年(1968)11月に猿田彦大神を守護神として「恵まれた観光京都に感謝の念を表すため観光関係者が相寄り」創建されたといいます。 手水舎の北に、「元紫宸殿 左近之桜」と記された駒札が立つ桜の木があります。 朧夜に散るや左近の桜花宮居の夢を枝に残して という歌が記されています。詠者の名が判読できません。 豊栄の庭 拝殿 社殿正面 瑞垣の門に近づくと、正面に「宗像」と記された扁額が掲げてあります。 祭神は多紀理比売命(たぎりひめのみこと)、多岐津比売命(たぎつひめのみこと)、市岐嶋比売命(いちきしまひめのみこと)の三姫の大神です。宗像大神と総称されます。「京都御所の宗像神社は、延暦14年(平安京創立の翌年、795年)、後の太政大臣藤原冬嗣公が桓武天皇の命によって、皇居鎮護の神として祀られたのが始めです。」(案内板より)また、次の説明もご紹介しておきましょう。「花山院家の鎮守神で、795(延暦14)年、藤原冬嗣が自邸の小一乗院内に筑前の宗像社を勧請したものといわれる。のちに藤原時平・花山院家忠が各一神を合祀したと伝える。」(資料1) 狛犬の西側、瑞垣の手前に三社が鎮座します。右から、少将井神社、繁栄稲荷社、琴平神社です。少将井神社は江戸時代に出版された『拾遺都名所図会』巻之一・平安城に、「少将井」「少将井天王社」という見出しで関連する項目が載っています。(資料4)少将井は、『枕草子』第163段の「井は、ほりかねの井。・・・」から始まる名水井を列挙する段の7番目、最後からは3番に出て来ます。烏丸の東、大炊御門の南の少将井御旅町西側の民家にあった名水の井戸だそうです。(資料5) 少将井御旅町の西隣りが少将井町です。現在の地名では中京区烏丸竹屋町下ルのあたり、車屋町通夷川上ルの少将井御旅町です。町名は現八坂神社の少将井の御旅所があったことに由来するそうです。少将井天王社が祀られていて、その祭神が「櫛稲田姫命」で、少将井の宮とも称されたといいます。櫛稲田姫命は素戔嗚尊の后神にあたります。この少将井天王社が、1877年(明治10年)にこの宗像神社境内に遷されたという経緯があるようです。(資料4,6)宗像神社の境内を探訪した後、再度元の道に出ると、京都御苑の南西角のかなりの広さの区画に「閑院宮邸跡」が位置します。昔、一度拝見していますが、久しぶりに立ち寄ってみました。 これが道に面している「東門」の傍に設置された案内パネルに掲載の案内図です。 内側からの東門の眺め 門を入ると、正面に建物が見えます。案内図の番号1の建屋は「収納展示室」として公開されています。ここは江戸時代の宝永7年(1710)に、東山天皇の第六皇子直仁親王を始祖として創立された閑院宮家の屋敷跡だそうです。同宮家が明治10年に東京に移るまで継続して使用されてきたと言います。その後、取り壊されることなく、使用目的を変えながら存続し、明治16年に宮内省京都支庁となった際に建て替えられたそうです。一方で、遺されていた建物で歴史的価値のあるものは、平成15~16年(2003~2004)に整備されています。 玄関傍から北方向を眺めると、「長屋門」が見えます。例えばこれは整備された建造物の一つだとか。黄葉のグラデーションが綺麗でした。今回は時間の関係もあり、南側から西側の庭園だけを少し散策してみることにしました。 玄関前から時計回りに庭を散策します。庭の南側に池があります。この池も同じ時期に復元されたそうです。「発掘された作庭当時の遺構は保存のために埋め戻し、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現しました」(説明パネルより)とのことです。州浜は海辺の景色を表現する手法です。京都御所内の御池庭の池がその一例になります。逆に、宮廷庭園で見られる州浜が、閑院宮邸で見られることが注目されることと言えるようです。 池側の通路を進んで行くとき、北側に主屋の建物の南側面が見えます。 通路は回り込む形で主屋の背後(西)と土蔵の間を抜けることになります。土蔵の先で左折します。 ここは、明治時代に宮内省京都支庁の所長官舎が建てられていた場所で、当時の官舎の間取りが跡地に示されているようです。そして、この官舎の南側に明治から大正期の趣の庭園が作庭されていたのです。その庭園が平成24~25年(2012~2013)に復元整備されています。(説明パネルより) 官舎側からの眺め 園池 官舎の庭園は、遣水と園池で構成されています。遣水というのは、「庭園内に水を導き流れるようにする伝統的手法」です。当時の京都支庁の所長は官舎といえども、優雅な生活空間に暮らしていたことになりますね。江戸期と明治・大正期の庭園が併存しているという面白さがある静かな空間です。東門から出て、「間ノ町口」から丸太町通に出ます。この間ノ町口より少し東に行った所にあるのが「堺町御門」です。 間ノ町口に出る少し手前、道の東側にこの一画があります。「拾翠亭(しゅうすいてい)」という表示が出ています。ここは九条家の屋敷跡で、大きな池と「拾翠亭」だけが現存する九条家の唯一の建物です。江戸時代後期に建てられたと伝わり、全体が数寄屋風書院造の建物で、内部には十畳と三畳の茶室が遺されています。池泉回遊式の庭園で、勾玉形の大きな池があり、中島には九条家の鎮守社として勧請された「厳島神社」が祀られています。(案内板、資料1)かなり以前に、ここも一度拝見したことがあります。機会を作って再訪してみたいところです。これで京都御苑の南西域探訪のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社2) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社3) 貽範碑 KA122 :「京都市」4) 少将井 平安京都名所図会データベース :「国際日本文化研究センター」5) 『新版 枕草子 下巻』 石田穣二訳注 角川文庫6) 少将井 :ウィキペディア補遺京都御苑 :「環境省」 歴史 見どころ案内 このページから散策マップのダウンロードができます。拾翠亭 :「国民公園協会 京都御苑」 「サービス・施設案内の最新情報」のページです。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間・新御車寄 5回のシリーズでご紹介しています。
2018.12.19
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京都御所通年公開の拝観出入口は「清所門」です。その近くに休憩所があります。今まで立ち寄ったことがなかったのですが、今回建屋内に入ってみました。そこで思わぬ副産物としての知見を得ました。一つは、この「年中行事障子」です。というか、衝立になっています。清涼殿東面の南端部の置かれているものを遠望しただけですが、その複製がこの休憩所内に設置されているのです。かつての宮廷で行われていた諸行事のリストを間近で見られます。正月元旦の行事として14項目が列挙されています。そして、二日の行事の前に、立春日と上卯日という語句から始まる二行事がさらに記されています。これだけあるとリストでも作って明示しておかないと、やはり覚えきれないでしょうね。そんな気がします。 もう一つはこれです。「内裏図でたどる京都御所の歴史」というパネル展示がされていたことです。この京都御所の変遷史がいつ頃から掲示されているのかは知りませんが、最後にご紹介した「御三間」の西側の広々とした空間がどうなっていたのか? その様子がまずわかる事が興味深いところです。展示パネルを情報として写真に撮りましたが、見づらいところがあります。まあ、変遷のイメージを理解する程度には役立つと思います。以下、説明パネルにより、時代を遡っていきましょう。 この最後の「宮城図」は、江戸中期の写しで『宮城図』所載の図だそうです。拝観時にいただいたリーフレットに記載された「京都御所」の説明から抜粋して引用します。まず、現在の築地塀で囲まれた京都御所の大きさです。南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万㎡です。「現在の京都御所の場所は、土御門東洞院(つちみかどひがしとういんどの)といわれた里内裏の一つで、元寇元年(13331)に光厳(こうごん)天皇がここで即位されて以降、明治2年(1859)に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間天皇のお住まいとして使用された。当時は現在の敷地の半分以下だったが、豊臣秀吉や徳川幕府による造営により敷地は次第に拡張された。建築様式や全体構成は時代と共に変化していったが、天明8(1788)年の焼失による再建時には江戸幕府の老中松平定信を総奉行とし。有職故実家の裏松固禅(光世)らの考証により、紫宸殿や清涼殿などを平安の古制に戻し、飛香舍などの失われていた御殿を復活して、寛政2(1790)年に完成した。しかし、この内裏も嘉永7(1845)年に焼失し、翌安政2(1855)年に前回の内裏をほぼそのままの形で再建させた現在の京都御所が造営された。」 御所内の仕切り塀の門から休憩所に向かう前に、宜秋門の方向を撮った景色です。 休憩所を出て清所門を退出して、京都御所の外周の幅広い砂利道を南に進み、京都御苑を抜けることにしました。 京都御所探訪の最後は、「宜秋門」を外から拝見することです。 蟇股には、魚に乗る仙人や鶴に乗る仙人が彫刻されています。 こんな場面の蟇股も見えます。樹下の官人椅座像のように見えます。 切妻屋根の破風先端部は亀甲文様の装飾金具できっちりと保護されて輝いています。、 本柱の頭貫の先端部も同様に装飾金具で保護されています。装飾金具や蟇股の華麗さと比べ、木鼻がごく単純な意匠であることが、逆に印象的ですらあります。 築地塀の丸軒瓦や鬼板には菊花がレリーフされています。築地塀端部の切妻屋根の破風の装飾金具は銅板のようですが、その意匠は門の屋根の装飾金具と同種です。 築地塀沿いに南に下り、振り返ってみた景色 御所の築地塀の南西角付近で、道の中央よりにでんと大木が鎮座しています。大きなムクの木です。 樹下に、この「清水谷家の椋」という駒札が立っています。このあたりにもとは、清水谷家という公家の屋敷があったそうです。樹齢300年といわれるこの木はその屋敷内かその近辺に植えられていたのでしょうね。京都御苑内でも数少ないムクの大木だそうです。 ムクの大木の南から京都御所の南側の築地塀とその東に如意ヶ嶽を遠望する景色です。築地塀の途中に、建礼門の屋根が見えます。 最後に、左大文字をズームアップして撮ってみました。かつてはこの御所から盂蘭盆会の五山送り火をすべて眺め見ることができたという伝聞を聞いたことがあります。左大文字がこのように見えるのです。御所が都の北端に位置するという時代であれば、さもありなんという気がします。これで京都御所の探訪記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。この後、京都御苑を通り抜けて、御苑内で寄り道を重ねつつ丸太町通に出ました。京都御苑散策を別稿でご紹介します。参照資料「京都御所」案内リーフレット 宮内庁京都事務所補遺京都御所 :「宮内庁」 施設の概要図 京都御所の拝観について 公開日のカレンダーが掲載されています。幕末の京都御苑内・公家町地図をアップしました :「3D京都」 幕末頃の清水谷家の位置も記されています。天明年間の御所を中心とした公家町 :「上京区」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間・新御車寄 へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -2 建礼門・建春門・紫宸殿・清涼殿ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -3 御池庭・小御所・蹴鞠の庭・御学問所ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -4 御内庭・御涼所・御常御殿・御三間ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 2016年の春の一般公開での探訪を8回シリーズでご紹介しました。 この年の7月から通年公開に公開方針が変更されたことになります。 (報道を見聞していなかったのでしょう。2年余も知らずにきました。) 対比的にご覧いただけると、おもしろいかもしれません。
2018.12.18
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御内庭(ごないてい)への門を通り抜けると、池には反り橋が見えます。 反橋の西詰北側に「御内庭」と表示された駒札が立っています。案内図を良く見ると、御内庭と御池庭は繋がっていることがわかります。南北方向に広がる地泉回遊式の池を観賞しつつ、池の西辺沿いに所定順路を北方向に進みます。 景色を一部重ねながらパノラマ合成してみました。所々に紅葉が見られます。 振り返り眺めると、こんな景色です。 池の西辺沿いに、白い砂利の小径が清涼所の東側を北にのびています。立入禁止のロープが張られた手前から撮った景色です。 池の北東方向の対岸に建物が見えます。 池から西に目を転じると、「御涼所」に向かう飛石の小径とその先に門があります。この立ち位置あたりが、御内庭拝見の北限です。 こちらが案内図に「迎春」と記されるあたりの建物です。南側に位置する「御常御殿」と繋がっています。 板戸で閉じられていますが、右下部分におもしろい建具が外側に取り付けてあることに気づきました。欄干風の手摺でしょうか。部屋から庭を眺めると、ちょっとしたアクセントになりそうです。 「御常御殿」の東面を南東側から撮ってみました。中央に見える板戸に描かれた図がこれです。曲水の宴の風景のようです。 御常御殿の母屋の周囲には、幅広の畳敷きの空間(廂ひさし、庇とも)が設けられています。板戸で仕切らた細長い部屋になっています。儀式などにおいて補助的で実用的な部屋としても使われる空間なのでしょう。上掲の板戸の北面になりますが、蹴鞠をする場面が描かれています。 こちらは東側から眺めた、母屋の北側の廂です。右がズームアップして撮った正面に見える板戸。生い茂る樹木の枝葉を描いているようです。 戸の開口部から、迎春の建物側を眺めた景色 「御車寄」の唐破風の装飾金具の意匠のバリエーションという風な意匠の装飾金具です。既にご紹介している写真と対比してみてください。御常御殿の南面の庭を通り抜けて西に進みます。 御池庭とを仕切る塀の傍に、井戸があります。この辺りの紅葉がきれいでした。 御常御殿の南面。 西側に独立したように建てられているこの「御三間」とも繋がっています。「御常御殿」は天皇の住まいであるとともに、南面には上・中・下段を備えて、儀式や対面の間としても使われたそうです。15室あり、すべて畳の間だとか。 「御三間」の板戸にも絵が描かれていて、こんなの部分図を拝見できます。 庭をはさみ、南側には御学問所の北面が見えます。御三間から西側は、北と西を塀で仕切った広々とした空間です。塀沿いと建物の周辺は作庭されていますが空間の中央部は砂利敷きの広場になっています。 この広場から眺めた御学問所とそれに連なる建屋の北・西面の景色です。 こちらは樹木主体の庭の背後に屋根が見える御三間・御常御殿エリアの全景です。 南を遠望した景色 樹木の紅葉と薄がコントラストを見せてくれます。 北東方向に、「参内殿」の屋根が少し見え、遙か先には比叡山の山頂を望むことができます。 ズームアップしますと、かすかに山頂の建造物が見えます。 西の塀際にも井戸が設けられています。北側の作庭部にもたしか井戸が見受けられたと記憶します。以前にご紹介しています。 広場の西端寄りから東を眺めた景色です。 西側の塀に設けられた門から退出です。 この後、清所門に近いところの建物に設けられている休憩所を訪れてみました。そこで想定外の説明パネルなどを見ることができました。うれしい副産物です。つづく参照資料「京都御所」案内リーフレット 宮内庁京都事務所補遺京都御所 :「宮内庁」 施設の概要図 京都御所の拝観について 公開日のカレンダーが掲載されています。寝殿造から書院造へ 文化史 :「京都市」目でみる私たちの住まいと暮らし 中根芳一 編著 寝殿造 貴族の住空間 :「風俗博物館」寝殿造 :ウィキペディア寝殿造 :「コトバンク」書院造 :ウィキペディア日本史 [書院造] :「Interior Zukan」書院造 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間・新御車寄 へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -2 建礼門・建春門・紫宸殿・清涼殿ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -3 御池庭・小御所・蹴鞠の庭・御学問所ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -5 休憩所での副産物・宜秋門(外側)ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 2016年の春の一般公開での探訪を8回シリーズでご紹介しました。 この年の7月から通年公開に公開方針が変更されたことになります。 (報道を見聞していなかったのでしょう。2年余も知らずにきました。) 対比的にご覧いただけると、おもしろいかもしれません。
2018.12.17
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清涼殿から順路を戻るとき、北側にこれから訪れる小御所の側面が見えます。 戻る順路の先に部分的にこの風情のある垣根が塀に連接していきます。宜陽殿と小御所の間には塀が設けられていて、門を通過して御池庭に歩を進めます。まず目にするのは、東側に広がる池です。 欅橋池の南辺寄りに、反り橋が架かっています。中島を経由して、橋が池の東辺に渡れるようになっているようです。この橋へは立入禁止です。 橋の近くから北を眺めると、池の西側にはゆったりとした州浜が北に延び、その北には塀の先に「御常御殿」の屋根が見えます。 「御池庭」に入り北方向へ少し歩み出し、まず目にするのはこの景色です。緑が濃い中で、紅葉が目にとまります。池面に映じる景色がいいですね。御池庭の中央あたりの池畔に立ち、池を左(北)から右(南)に眺めてみましょう。 左(北方向) 正面(東方向) 右(南方向)池の興趣をスポット的に眺めて行きましょう。 水面に映える欅橋 州浜傍で池中にぽつりと置かれた石に対するが如く、彼方の中島に見える石灯籠 御池に浮かべた小舟の舟着場になるのでしょうか。 北方向に眺めるもう一つの石橋 御池庭に少し入った辺りから西側を眺めると「小御所」の全景が見えます。 小御所には、半蔀(はじとみ)が設けてあります。ここの半蔀は下半分が板ではなく格子がはめこまれています。そして上半分が外側へ釣り上げた状態に成っています。下ろせば格子の蔀と同じ機能の建具になります。明かり取りを考えると、半蔀の方が便利でしょうね。 嵌め込まれたガラス戸が御池の景色を映じています。 そのため、室内の障壁画の撮影は無惨なことに・・・・。肉眼で直接鑑賞する分にはそれほど影響はありません。通年公開の為には維持管理対策が必要だからということでしょうか・・・・・。 小御所の北側と御学問所の南側の間の空間は「蹴鞠の庭」と称されています。 御学問所御読書始や和歌の会などがここで行われたといいます。明治天皇が親王・諸臣を引見して「王政復古の大号令」を発せられたのがここだそうです。 ここの板戸にも絵が描かれています。 御学問所の北側には塀が設置されていて、「御常御殿」や「御内庭」のあるエリアとは仕切られています。左(西)に門があり、門扉が開いていましたが、通行禁止です。左に見える建物が「御三間」で、右の屋根が「御常御殿」です。御池庭の池畔を塀沿いに右に少し回り込み、池の北側にある門から御常御殿のエリアにすすむことになります。 池の北辺に回り込み、池畔に置かれた石灯籠脇の紅葉を撮っていて、中島にふと目を留めました。 少しズームアップしてみますと、鳥が居ます。 アオサギですね。鷺が御池庭に飛んできていたようです。御所の池で初めて鳥を目撃しました。 池の北側に架けられた橋が見えます。そこから白い砂利道がこちらにのびてきて。 順路にある門の手前で池の北辺を東方向に散策する白い砂利道に続いて行きます。立入禁止なのが残念! 「御内庭」への門の傍で眺めた紅葉 それでは、御常御殿のエリアの拝見とまいりましょう。つづく参照資料「京都御所」案内リーフレット 宮内庁京都事務所補遺京都御所 :「宮内庁」 施設の概要図 京都御所の拝観について 公開日のカレンダーが掲載されています。王政復古の大号令 原文内容 単行書・詔勅録・巻之一・内部上 :「公文書にみる日本のあゆみ」 「復古大号令」が記載されています。小御所会議 :ウィキペディアアオサギ :ウィキペディアアオサギ :「サントリーの愛鳥活動」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間・新御車寄 へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -2 建礼門・建春門・紫宸殿・清涼殿ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -4 御内庭・御涼所・御常御殿・御三間ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -5 休憩所での副産物・宜秋門(外側)ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 2016年の春の一般公開での探訪を8回シリーズでご紹介しました。 この年の7月から通年公開に公開方針が変更されたことになります。 (報道を見聞していなかったのでしょう。2年余も知らずにきました。) 対比的にご覧いただけると、おもしろいかもしれません。
2018.12.16
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西側の「月華門」に近づくと、北側に紫宸殿が見えます。門から見えているのが「左近の桜」です。 回廊沿いに南西角まで進み、西の回廊を眺めると左の景色です。左端に少し見えているのが、「新御車寄」の建物の東端です。回廊の南西角に近いところに、門扉が設けられています。 御所・南側の「建礼門」 切妻屋根の側面です。宜秋門の装飾金具や懸魚の意匠と対比してみてください。亀にのる仙人 仙人と神亀こちらの蟇股はまた異なった場面が採りあげられています。 築地塀の端に施された装飾彫刻 東側の築地塀には、「建春門」があります。こちらは切妻屋根に唐破風が付いた形です。 こちらの装飾金具には、御車寄の唐破風に使われている意匠と同じ部分がある一方で、兎毛通や脇懸魚の意匠は異なっています。木鼻はこちらもシンプルです。 こちらは空想上の動物が彫刻されています。 西の月華門に対し、東側は「日華門」です。日華門から紫宸殿の南庭に入ります。 日華門のある東側回廊は「宜陽殿」の外廊から紫宸殿への敷石廊下(軒廊:こんろう)へと繋がっています。紫宸殿の前、東側に「左近の桜」が位置します。 南面する紫宸殿の前には、幅の広い階段が設けられています。西側の前面に見えるのが、「右近の橘」です。 「紫宸殿」と記された扁額が正面に掲げてあります。そして、現在時点では、紫宸殿内の北側の障壁画が見える状態です。 ハンディなデジカメで、ズームアップして何とか撮れたのがこの1枚。 これは月華門の近くに設置されていた「高御座・御帳台(たかみくら・みちょうだい)」の写真です。これが普段はこの紫宸殿内に置かれていますので、庭から背後の障壁画を見られる機会はありませんでした。勿論、高御座・御帳台も部分的に見えるだけだったのですが。 拝観当日いただいたリーフレットに掲載の写真を切り出して、引用します。室内に、普段はこういう風に置かれているようです。これらは、即位礼などで用いられる調度品ですので、新聞報道にありましたが、現在東京に搬出されています。2019年に、皇居宮殿での即位の儀式に使うための準備が進められているということでしょう。 通年公開に切り替わってからのリーフレト表紙に紫宸殿の正面全景と左近の桜が満開の景色が載っていますので序でにご紹介します。紫宸殿を眺めた後、日華門を出て、清涼殿に向かいます。以前の一般公開では、紫宸殿の西側を回り込み、清涼殿に進むという一方通行の順路が設定されていました。このあたりも、相違点です。 日華門北側の回廊に接する形で「宜陽殿」が建っています。この建物の北側を西に回り込んで行くことになります。 宜陽殿の北側にはこの入口が見えます。内部には東西方向に壁面で仕切られた2つの敷石廊下(軒廊;こんろう)が見えます。それぞれ東端に扉が設けてあります。この入口の手前は左右に屋根付きの空間になっています。どう呼ぶのか知りませんが、回廊の一部でしょうか、一種の待機スペースのような感じです。拝観順路は、右側の建物の外周を回り込むことになります。 左折して、西方向に進むと、先ほど右に見えていた敷石廊下の北側を通ることになり、左斜め前に、紫宸殿の屋根が見えます。 紫宸殿の背後から、小御所ほかへの渡り廊下の下を通り抜ける形で清涼殿の東庭に入っていくことになります。 庭の西端に、東面する「清涼殿」があります。 南端の回廊、清涼殿への外縁の入口あたりに、「年中行事の障子」が設置されています。 清涼殿の南側前方に左の「漢竹(かわたけ)」があり、北側前方に「呉竹(くれたけ)」が植えられています。 清涼殿の中央部だけ畳が敷かれていて、御帳台とその前に狛犬が置かれています。ここが天皇の日常の御座だったそうです。「昼御座(ひのおまし)」と称する場所です。 南側の狛犬と北辺の襖をズームアップしてみました。 清涼殿の北東隅に2種の障壁画が展示されています。 「荒海障子」と称されています。 この案内板の隣りに、別の説明パネルが設置されていて、更に詳しい解説が施されています。その要点だけ記しますと、この展示品が1855年に御用絵師・土佐光清が伝統的な図柄に基づいて描いたものの模写であること。襖は下地の木組みが地獄組み、13枚の和紙を重ねた仕上げで、引手は鹿皮という安政当時の工法・技法を復元したものであること。保護の目的でガラスで覆ってあるそうです。 清涼殿の北側のこの一画は、「滝口」と称されています。「(滝の落ち口の意。清涼殿の東北方の御溝水<ミカワミズ>を滝口と言い、そこに詰め所があったことから)昔、蔵人所<クロウドドコロ>に属して御所を守護した武士」(『新明解国語辞典』)という意味があるそうです。余談です。『平家物語』巻十の「八 横笛の事」に斎藤時頼が登場します。時頼は滝口の武士として宮中に出仕した人。斎藤時頼は建礼門院の雑仕横笛と恋仲になるところから悲恋が生まれます。時頼は出家し、瀧口入道と称されます。この話を小説にしたのが、高山樗牛作『滝口入道』です。(資料1,2,3)嵯峨の祇王寺の傍に「滝口寺」というお寺があるのを思い出しました。念の為ネット検索で確認してみると、やはり記事を書かれている事例を見つけました。(資料4)また、高野山別格本山「大圓院」が「瀧口入道と横笛」のゆかりの寺院だということを知った次第です。(資料5)『平家物語』には、瀧口入道が歌を詠み横笛に送ったという一首と、横笛の返歌が記述されています。 そるまでは恨みしかども梓弓まことの道に入るぞうれしき そるとても何か恨みん梓弓引きとどむべき心ならねば瀧口入道は後に高野の聖と人々が呼ぶようになります。一方、横笛は奈良の法華寺にあっていくほどもせず没したと記す他に、桂河に身を投じて死んだと伝える書もあるようです。参照本は前者です。(資料1)序でに、ふと西行法師を思い出しました。出家する前は「北面の武士」でした。北面とは何? 今まで気にしていなかったことが、気になりました。辞書を引くと、公の場で天子は南面します。その天子に対するためには、北に向くことになります。北面するのは「臣下の地位。臣下として従うこと」を意味するそうです。紫宸殿が南面するのはそこに理由があるのでしょう。北面する武士のことを「北面」とも略すとか。さらに、上皇に仕えた、北面の武士の詰め所も北面と呼ばれたようです。「北面の武士」は白河院の時に設置されたそうで、上皇・院の御所を守った武士という位置づけです。西行は、佐藤義清と言う名で、鳥羽上皇に仕えていた武士でした。(『日本語大辞典』講談社)もとに戻ります。 滝口側に描かれている襖絵です。 右下に描かれた部分図。魞(えり)と称される装置の一種でしょうか。定置漁具が橋の川下側に仕掛けてある風景です。 清涼殿側から、東の庭というか空間を眺めた景色。北と東を渡り廊下の建屋で囲われています。 南側は紫宸殿の背面になります。 清涼殿に来た道を戻ります。渡り廊下の下をくぐり、次は小御所や御池庭のある区画の拝見です。そことの境は東西方向の塀で仕切られています。つづく参照資料「京都御所」案内リーフレット 宮内庁京都事務所1) 『平家物語 下巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p143-1462) 滝口入道 :「コトバンク」3) 滝口入道 :ウィキペディア4) 滝口寺(京都市右京区) :「『歌枕』ゆかりの地を訪ねる」5) 大圓院 ホームページ補遺京都御所 :「宮内庁」 施設の概要図 京都御所の拝観について 公開日のカレンダーが掲載されています。建礼門 :ウィキペディア建礼門 :「コトバンク」建春門 :ウィキペディア建春門 :「コトバンク」瀧口入道 高山樗牛 :「青空文庫」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間・新御車寄 へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -3 御池庭・小御所・蹴鞠の庭・御学問所ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -4 御内庭・御涼所・御常御殿・御三間ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -5 休憩所での副産物・宜秋門(外側)ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 2016年の春の一般公開での探訪を8回シリーズでご紹介しました。 この年の7月から通年公開に公開方針が変更されたことになります。 (報道を見聞していなかったのでしょう。2年余も知らずにきました。) 対比的にご覧いただけると、おもしろいかもしれません。
2018.12.15
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11月11日、久しぶりに京都御苑の紅葉を眺めて、通り抜けようと思って、今出川通にある今出川御門から御苑に入りました。 振り返って・・・。京都御所の築地塀沿いに広い砂利道を歩いて行くと、京都御所の中に清所門を出入りしているのを見かけました。京都御所が公開されていました。過去、春秋の一般公開で幾度か拝見していますが、久しぶりなので、御所内の拝見をしてきました。後で調べてみて気づいたのですが、京都御所が通年無料公開に方針が変わっていたのです。春秋の一般公開では、観光客が殺到するということや、その特定期間では訪れることが無理な人もいるということが考慮されたそうです。2016年7月26日から事前申し込み不要の通年公開となっていたのです。知りませんでした!ブログを書いてきた都合から、前回、時季的に先に宇治の紅葉残映をご紹介しました。そこで少し時を遡らせて、ご紹介をしていきたいと思います。通年公開となっていますので、京都御所内の拝見という点では、あまり影響がないでしょう。通年公開で御所の四季を拝見できるようになりました。時季を変えて再訪する楽しみができました。「清所門」入口での手荷物検査をへて、「京都御所」案内のリーフレットをいただき、後は所定の参観順路を通って拝見します。それぞれの好みのペースで自由に拝見できます。 これは入手したリーフレットから切り出した京都御所の案内図兼拝観順路図です。京都御所拝見のご紹介は既に行っていますが、拝見の重点をずらせて、新たな視点で眺めたところもあります。前回の探訪記憶と対比すると変化している箇所もありました。説明の重複はできるだけ避けて、今回は撮った写真を主体にしたご紹介でまとめてみたい所存です。久しぶりの御所拝見は細見箇所と通覧箇所の組み合わせになりました。 清所門と宜秋門との中間あたり、築地塀沿いに建てられた蔵 「宜秋門」 南東側からの眺め ここでやはり、門を細見したくなりました。獅子口、屋根の合掌部をはじめ、各所に菊の紋章がレリーフされています。 やはり蟇股や木鼻、飾り金具の意匠に関心を惹かれます。 蟇股の装飾彫刻に対し、木鼻の意匠はシンプルです。 側面の蟇股 本柱の頭貫の先端部は装飾金具で保護されています。亀甲文の意匠です。 屋根の各桁の先端も同様です。 門扉 北東側から眺めた姿 切妻屋根の破風部の装飾金具も亀甲文の意匠で統一されています。三つ花懸魚のスタイルだと思います、 それに対して脇懸魚は蕪懸魚風のスタイルです。その上の菊の紋章の左右の装飾金具の意匠は何でしょう・・・・。 築地塀の端部 宜秋門の南東方向に位置する「御車寄」 公卿をはじめとする高位の貴族が使用した玄関です。 唐破風の玄関の装飾金具は草花文様が主体になっています。宜秋門の意匠と対比すると優美さが加わっています。 「御車寄」の玄関は、一つはこの「諸大夫の間」に廊下でつながっています。 春・秋の一定期間の公開の折りと違った点の一つは、各間の開放された箇所に、ガラス戸が嵌め込まれていたことです。室内を肉眼で拝見する分には大きな支障がありませんが、写真を撮ろうとすると、鏡面反射がして不便になりました。比較的ましな画像でこの感じです。 外縁にこの案内パネルが設置されていました。 「新御車寄」の建物の北側面。諸大夫の間の南側です。 こちらが「新御車寄」(南面)です。御所の南側の賢礼門を通り、左折して北に進んでくると、この南面する玄関口に至ります。 新御車寄から南東方向に位置する「月華門」南西寄りから撮ってみました。紫宸殿の東西と南を囲む回廊の西側の門になります。つづく参照資料「京都御所」案内リーフレット 宮内庁京都事務所補遺通年無料の一般公開となりました!今こそ行きたい京都御所 :「LINEトラベルjp」京都御所 :「宮内庁」 施設の概要図 京都御所の拝観について 公開日のカレンダーが掲載されています。宜秋門 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -2 建礼門・建春門・紫宸殿・清涼殿ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -3 御池庭・小御所・蹴鞠の庭・御学問所ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -4 御内庭・御涼所・御常御殿・御三間ほか へ探訪 京都御所を11月久しぶりに訪れて -5 休憩所での副産物・宜秋門(外側)ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 2016年の春の一般公開での探訪を8回シリーズでご紹介しました。 この年の7月から通年公開に公開方針が変更されたことになります。 (報道を見聞していなかったのでしょう。2年余も知らずにきました。) 対比的にご覧いただけると、おもしろいかもしれません。
2018.12.14
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先週の土曜日(12/8)、午後に源氏物語ミュージアムでの講座を聴講する前に、宇治川左岸の「あじろぎの道」から「喜撰橋」を渡り、宇治川の「中の島」の上流側「塔の島」から源氏物語ミュージアムまで、紅葉の残映を眺めつつ歩いてみました。この辺りは以前にご紹介していますので、今回は12月初旬に宇治川周辺でどこまで紅葉を楽しめたかに絞って、散策ルートを点描してみたいと思います。冒頭の景色は、塔の島にたつ「十三重石塔」から見えた紅葉です。 対岸の「観流橋」周辺は紅葉をとどめているようです。 塔の島から「橘島」に渡ると、紅葉の美しさが一隅に。 橘島から「朝霧橋」を対岸に渡ると、橋の畔に「宇治十帖モニュメント」があります。モニュメントの周りは銀杏の落ち葉が色を添えています。 塔の島から遠望した観流橋まで少し足を延ばしてみることにしました。 右岸を川沿いに遡ります。 私の記憶では、朝日焼の窯元があった邸内の通路です。今はある宗教法人の銘板が門柱に表示されています。 北側に、この石段があり、少し高い位置に休憩所が設けてあります。その下、右岸の道の傍に「田中順二先生の歌碑」が建立されています。石段と歌碑が目印になります。 休憩所から眼前に宇治川を眺めて 塔の島の背後、平等院のあたりにも紅葉が残っているようです。 観流橋上から、北の奥に位置する「宇治発電所」の水路沿いの紅葉が楽しめました。 さて、ここから朝霧橋まで引き返し、宇治神社の石段を上っていきます。 宇治神社の社殿前に少し紅葉が見られました。境内を西側に抜けて、宇治上神社に進みます。 参道の反対側にも。鳥居の方向の景色 宇治上神社の表門の先の紅葉 宇治上神社の参道を表門の前から左に回り込みます。塀からの境内の眺めです。 「さわらびの道」を源氏ミュージアムへと歩みます。 道の傍らに、与謝野晶子歌碑が建立されています。このあたりの紅葉は良い具合でした。 仏徳山(大吉山)への登り口の傍に、「総角の古蹟」碑があります。 さわらびの道傍に建つ民家の紅葉がいましばしの鮮やかさを見せてくれていました。 「源氏物語ミュージアム」への南側からのアプローチです。 苑内は落葉した紅葉の絨毯を敷き詰めたように・・・・・。 源氏物語ミュージアムの入口にある池が、紅葉の残映をしばし眺めたひとときの終着点です。このあとは、興味深い講座を聴講できたひとときでした。ご覧いただきありがとうございました。補遺宇治観光イラストMAP京都宇治観光マップ :「宇治市観光協会」観光パンフレットダウンロード :「宇治市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 源氏物語・宇治十帖ゆかりの地 -1 橋姫、椎本の古蹟 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 宇治 橋寺放生院スポット探訪 [再録] 宇治 興聖寺細見 -1 3回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 宇治 世界文化遺産・宇治上神社細見スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社スポット探訪 [再録] 宇治・三室戸寺細見 -1 参道を歩む 6回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 宇治を歩く 善法・妙楽周辺 -1 善法寺・学校創立碑・「山宣」の墓 7回のシリーズでご紹介しています。観照 [再録] 宇治市植物公園 -1 2回のシリーズでご紹介しています。観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院観照 宇治市植物公園 -1 2017花と緑のキャンペーン 2回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都府宇治市 太閤堤跡発掘調査現地説明会と周辺散策 -1 2回のシリーズでご紹介しています。
2018.12.13
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本坊から法堂(はっとう)に往来する門を抜け、境内に設けられた渡り廊下を通って法堂に向かいます。法堂側から振り返った渡り廊下の屋根の内側です。この屋根の様子を観察してみてください。そのとき法堂の北側の外回廊を西から東方向を撮った左の景色をあわせてみていただくと、イメージしやすいでしょう。裳階屋根の軒を深くし、法堂の基壇上の側壁から外側が甎(せん)を四半敷にした回廊になっています。渡り廊下の先端部の屋根を、裳階の屋根の下に入り込ませて重ねることで、廊下から法堂入口に上る際の雨除けになっています。そこで、冒頭の屋根内部の景色をごらんください。一番北側に丸軒瓦が見えます。本坊の渡り廊下の門の屋根の正面です。その手前では梁が二段になり、蟇股とその上に大瓶束が見えます。そして、一番手前を見ると梁は一本で、大瓶束とは違う形の束が見えます。その後に屋根の合掌部に付けられる猪の目懸魚が見えます。つまり、下段の景色に見える屋根の北端がこの猪の目懸魚のところということです。そして、この屋根の北端と本坊側の門の屋根より一段高めの屋根が一部重なる形で繋いでいるという方式になっているのです。その一段高い屋根の下部分は、本坊と法堂の間を東西に横断する通路のある境内地です。当日、観光客が行き交っていました。冒頭から脇道に逸れました。それでは法堂に北東側の入口から反時計回りで法堂内の甎が敷き詰められた床を進みます。法堂の実際の構造は五間四間・一重ですが、裳階屋根が付いていますので、既にご紹介の通り、正面七間・側面六間で重層の外観を見せています。そのため、裳階部分の周囲一間幅が堂内の回廊的な役割を担っています。 堂内を南に進みつつ、本来の堂内を内側の列柱の間から眺めると紅色の漆塗りの須弥壇と本尊、天井画が見え始めます。 内部に見える列柱が法堂構造の本来の柱です。 正面須弥壇の中央には、本尊釈迦如来坐像、脇侍として迦葉尊者・阿難尊者が祀られています。釈迦如来像を単独で祀る他に、釈迦如来に脇侍として文珠・普賢菩薩を従える三尊形式が多いようです。そこにさらに迦葉と阿難の二尊者を加えた五尊像の形式。さらに諸像が加わる群像を併せる形へと広がります。(資料2)ここでは、釈迦如来に二尊者だけが従うという形です。 釈迦如来坐像は、施無畏・与願印を結ばれる印相が多いですが、こちらは法界定印(禅定印)ですので、瞑想に入られている状態を表すのでしょう。(資料1)光背は頭光と身光との二重円光で、周縁部は飛天光の形式で舟形に後光が象られています。光背に化仏が表されていませんが、頭上に舎利塔らしき形が表されています。あまりみかけない形式のように思います。(資料1,2) 阿難尊者 迦葉尊者 脇侍の二尊者。迦葉尊者と阿難尊者は仏陀十大弟子の内の二人です。迦葉はマハーカーシャバの音写(摩訶迦葉)の略称で、「頭陀第一」と称された無執着の行で第一人者と称される弟子です。「仏陀の弟子中、もっとも執着の念のない、清廉な人格者で、仏陀の信頼ももっとも厚かった。仏陀の入滅後、教団の統率者」(資料3)となる尊者です。禅宗では特に迦葉尊者を尊崇するそうです。阿難はアーナンダ(阿難陀)の音写です。仏陀の従弟で、仏陀の常従の弟子となます。多聞第一と称され、「仏陀の教説を記憶している点では弟子中随一」(資料3)と評された尊者です。しかし、仏陀の生前中には覚りを開けず、迦葉の教誡を受けて大悟したと言われる尊者。多聞第一を経典の結集の折には役立てます。後に、迦葉は阿難を法の後継者とします。女人出家の道を開いた人でもあります。 堂内に設置された「法堂」の説明パネル 須弥壇の東側の景色です。内側の柱の奥に見えるのが説明パネルにある「土地堂(つちどう)」なのでしょう。 ズームアップし記録写真を撮影。黒っぽい画像を何とか識別できる程度に画像処理できました。「建仁寺の守護神である張大帝(ちょうだいてい)をまつる。この張大帝は、中国の廬山帰宗寺(ろざんきすじ)の守護神で、当山第11世となる大覚禅師(蘭渓道隆:らんけいどうりゅう)に三度も日本へ渡るようにすすめたという有名な因縁がある」(説明パネル転記)と記されている像です。 「土地堂」と対象的な位置に西側の「祖師堂」があります。この景色の右奥に見えるところです。「開山の栄西禅師の塑像を中心に建仁寺に関係の深い日中禅僧の位牌をまつっている」(説明パネル転記)そうです。それでは、法堂の天井を見上げることに致しましょう。 法堂の入口を入り、回廊部から見上げた天井です。 少し南に移動してみると、こんな感じです。余談ですが、法堂の本来の構造は側面四間ということがこの景色からよくわかります。 この位置でほぼ天井画の全景を見ていることに近づいています。 正面に須弥壇を見る位置から見上げると、双龍図の中央部がよくわかります。 この天井画「双龍図」は、建仁寺開創800年を記念して、日本画家の小泉淳作氏が描かれたものです。11.4m×15.7mで、畳108枚分相当の大きさだそうです。廃校になった北海道の小学校体育館を使い、構想から約2年の歳月をかけて秋10月に完成させ、翌平成14年(2002)4月14日に開眼法要されたとか。龍は仏法を守護する存在であるとともに、「水を司る神」といわれ、火災から護るという意味も込められているといいます。ここには「阿吽の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図」で「二匹の龍が共に協力して仏法を守る姿」が表現されているのです。(説明パネルより)ともに五爪の龍像が描かれています。 双龍図の北西隅に画家の署名が見えます。 立ち位置を変えて双龍図を眺めると、少しずつ像容が変化して見えるところがおもしろいところです。 堂内では他にも見るべきものがあります。その一つがこの天蓋です。 この天蓋にも昇龍と降龍が描かれています。 極彩色の瑞鳥の飾りが取り付けてあります。 また、本来の法堂構造である内側の列柱と裳階のための外側の列柱との間に渡された梁の上部に海老虹梁が使われています。その連なりを眺めるのも、禅宗様仏殿建築の構造美が見られて興味深いところです。誰が考案したのでしょう?法堂を出て、最後に外周の甎瓦の敷き詰められた回廊を巡ってみました。 法堂の正面(南面)を東から西に眺めた景色 法堂の西側面。左は南から北を眺めた景色。正面は方丈の築地塀です。一方、右は北から南を眺めた景色。正面には法堂と三門の間の樹林が見えます。 法堂の北面。渡り廊下に戻ってきました。南北の参道の先に、北から西来院、両足院という塔頭が建ち並び、その手前に紅葉した樹木が見えて、秋の情趣を引き立ててくれます。後は、廊下を引き返し、本坊に戻って退出です。 建仁寺の北門を抜けて、花見小路通を北に。四条通で左折し京阪電車の祇園四条駅に至るまでは、観光客に溢れる祇園界隈の雑踏の中を通り抜けることになります。聖と俗が隣合わせになっているというのもまた、おもしろいところです。これで建仁寺を再び訪れて、今までに見ていない箇所を拝見した細見記を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『図説 歴史散歩事典』 監修井上光貞 山川出版社 2) 『仏尊の事典』 関根俊一編 学研 p26-27,p1893) 『新・仏教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房補遺大迦葉 :ウィキペディア摩訶迦葉 :「コトバンク」阿難 :「コトバンク」阿難尊者 :「真宗学寮 広島仏教学院」小泉淳作 公式ホームページ小泉淳作 :ウィキペディア建長寺『雲龍図』と小泉淳作画伯 :「UNIQUELY鎌倉」中札内美術村 小泉淳作美術館 :「Walker」第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図 :「臨黄ネット 臨済禅 黄檗禅 公式サイト」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院 へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -2 方丈・海北友松の障壁画、大雄苑(方丈前庭)へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -3 方丈の西庭・恵瓊墓・東尋坊・清涼軒・小書院ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -4 大書院(書「風神雷神」)・潮音庭・小書院(北面の襖絵)ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズで、各所(勅使門・放生池・三門・法堂・陀羅尼鐘 西来院・開山堂・茶碑・楽神廟・浴室・禅居庵摩利支天堂・雲洞院(僧堂) 大統院・[雲源院])をご紹介しています。 2017年掲載探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院
2018.12.11
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大書院に行くと、扁額の前にこの屏風が飾られていました。「風神雷神」がダイナミックな文字で墨書されています。かなり太い筆で全身を使って書き出されたのでしょう。金澤翔子書です。 屏風の右手前に、この書家のプロフィールを説明するパネルが置かれていました。大書院の間仕切りの襖を外し、金澤翔子さんの様々な作品が展覧会風に展示されていました。作品群の中に、今年(2018年),32歳での揮毫だという『六龍』の書も展示されていました。「潜龍・見龍・乾龍・躍流龍・飛龍・亢龍」という6つの言葉をそれぞれ揮毫した作品です。当日会場でいただいた解説文によると、『易経』に出てくる言葉だと言います。これらは「人が一生のうちに何度も繰り返す成功や失敗、栄枯盛衰を龍の成長になぞらえた言葉」だとか。以前にもこの六龍を書かれているようです。補遺をご覧ください。屏風に仕立てられたものを含め、見応えのある書の作品が展示されていました。この書道家を初めて知った次第です。大書院に俵屋宗達筆「風神雷神」屏風(複製)が展示されていましたが、多くの人が拝観されていたので写真を撮るのをパスしました。代わりといっては何ですが・・・・。 本坊の拝観券にこの「風神雷神図」が使われています。 併せていただいた拝観案内パンフレットの表紙に風神がとりあげられています。こちらを借用してご紹介しましょう。オリジナルは、二曲一双の屏風絵です。右隻に風神、左隻に雷神がそれぞれ描かれています。 大書院と小書院は東西の渡り廊下で繋がれています。その間に「潮音庭(ちょうおんてい)」と名付けられた中庭があります。西の渡り廊下の途中で東方向に眺めた景色です。いただいたパンフレットには、「三連の庭」とも補足されています。(資料1) 大書院の正面から小書院を背景に眺めた潮音庭この中庭の中央に三尊石(3つの立石)、東に坐禅石があ配置されています。三尊石は、仏陀と2人の禅僧を象徴しているそうです。(資料1)2禅僧は、臨済宗建仁寺派の観点からすれば、臨済宗の開祖・臨済義玄と明庵栄西禅師を連想します。あるいは、さらに遡り、達磨禅師と臨済義玄禅師の2人かもしれません。廻りに紅葉が配されています。小書院の北側の間も拝見できるのが見えましたので、後で巡りました。 これは大書院側の北東側から眺めた景色です。背景は拝観順路で小書院から大書院に進む西側の渡り廊下です。 視点を変えて・・・・。 大書院から東側の渡り廊下を進み、南東側から眺めた景色です。右奥が大書院です。 手水鉢が南東隅に配置されています。小書院の北側廊下から眺めた景色。樹木の右奥が東側の渡り廊下です。一隅にこの中庭の名称「潮音庭」の木札が置かれていました。「小堀泰厳老大師作庭」、「監修北山安夫」と庭銘の左右に記されています。小堀泰厳老師は、平成11年(1999)に建仁僧堂師家ならびに建仁寺派第9代管長に就任された人。建仁寺第487世です。(資料2)北山安夫氏は、造園家、作庭家で、京都で北山造園という造園業を営まれている方です。(資料3) 小書院の北側の間には、前回ご紹介した襖の南面の作品「凪 The calm」に対して、同じ染色画家・鳥羽美花さんの「船出 Rowing away」と題された作品が描かれています。 右端に作品タイトルの紹介パネルが置かれていて、次のメッセージが「凪」と同様に、英文とのバイリンガルで記されています。「オールを漕いで遡った。 静止した水面に、光が差し込み、辺りはいっそう冴え冴えとした空気に包まれてゆく。 一筋の川は次第に蒼く深まり、さざ波はどこまでも広がっていった。 墨絵のようなカルスト地形の間を、流れるように進んでいく。 川沿いの岩棚には釈迦像が並び、精霊の山に近づいていることを教えていた。 僧侶の読経が遠くから聞こえてくる。 読経はさらにこだまし、永遠の凪の世界が待っているようだった。」 左端には、「鳥羽美花の『型染』プロセス」という制作工程の解説パネルが置かれていました。詳しくは、鳥羽美花オフィシャルサイトの「KATAZOME 型染め」のページをこちらからご覧ください。 (記録写真が不鮮明なので、調べてみて見つけました。) この作品も掲げてあります。掛幅仕様だったと記憶します。 小書院の東側廊下を挟んだ東側壁面にこんな円窓が設けてあります。東の方には案内図によれば、冨春閣と称される建物があります。(資料1) その先は、「○△□之庭」を東側から眺めることになります。右が小書院です。○は中央の樹木の根元の苔蒸した円形、□は井戸を意味するのでしょう。しかし、最初にご紹介した説明文では、○は水、△は火、□は地を表すということでした。水を汲み上げる井戸がなぜ地なのか? そして、円がなぜ水なのか? なぜだろう・・・・。五輪塔を思い出しました。それで説明に合点がいきました。五輪塔は、「地・水・火・空の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安時代に創始されたもの」(資料4)といいます。 手許の本で探訪記をまとめる折りには参照頻度が多く重宝している本の一つからこの図を引用します。これで五大と形との関係が一目瞭然におわかりいただけることでしょう。(資料2)尚、禅宗では「地水火風」を四大思想ととらえるそうです。(資料1) 再び、方丈前庭・太雄苑を側面から眺めつつ、法堂に移動します。 見る位置、見る対象を変えると、大雄苑は様々な表情、風情を見せてくれます。 方丈の東端から渡り廊下を進み、本坊区域を囲む築地塀に設けられた扉を抜けます。扉近くの屋根の裏側の太瓶束や梁のシンプルな曲線の彫り物や頭貫の上の草花文様の透かし彫りを楽しみつつ、一旦境内地に出ます。法堂に繋がる屋根付き廊下を歩み、いよいよ法堂です。つづく参照資料1) 「京都最古の禅寺 建仁寺」 本坊拝観受付でいただいたパンフレット2) 小堀泰厳プロフィール :「HMV&BOOKS」3) 北山安夫 :ウィキペディア4) 『図説 歴史散歩事典』 監修井上光貞 山川出版社 p334補遺プロフィール 金澤翔子 ホームページダウン症の天才書家・金澤翔子 ー 祈りの造形 | nippon.com :YouTube新年の一字は「光」 ダウン症の書家、金澤翔子さんが揮毫 :YouTube金澤翔子さん・泰子さん~席上揮毫&講演~ 2017/12/06 Wed. :YouTube金澤翔子美術館 ホームページ金澤翔子の「六龍カレンダー」が11月に発売されます 2011年 :「翔子小蘭」六龍(易経) 2018.11.2 :「井上将太奮闘記2.0」DVD禅僧が語る 小堀泰巌老師 「一つになれ」 :「禅文化研究所」建仁寺派管長 小堀泰巖老師法話 :YouTube禅僧が語る 小堀泰巌老師 「一つになれ」 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院 へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -2 方丈・海北友松の障壁画、大雄苑(方丈前庭)へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -3 方丈の西庭・恵瓊墓・東尋坊・清涼軒・小書院ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -5 法堂内(本尊・双龍図ほか)と外回廊 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズで、各所(勅使門・放生池・三門・法堂・陀羅尼鐘 西来院・開山堂・茶碑・楽神廟・浴室・禅居庵摩利支天堂・雲洞院(僧堂) 大統院・[雲源院])をご紹介しています。 2017年掲載探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院
2018.12.10
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方丈の外縁を南から西に回り込むと、枯山水の西庭です。これは「太雄苑」の一部になるのでしょう。白砂の上に、水流のゆったりとした太い筋が見え、北端側に2つの小島があります。方丈の西側面の半ばまでが枯山水の庭になっていて、その北辺に方丈の北側の庭への散策路が設けられています。北側は木立の間に茶室などが点在しています。 庭に下りて、北から眺めた庭です。樹木の向こうに法堂の屋根が見えます。法堂が借景になっています。 視線を下げて眺めると、水流模様を含め景色がかなり変わります。小島の孤絶感が高まります。 庭の南端をズームアップしてみました。庭石の背後に石塔が見えます。お寺でいただいたリーフレットを見ると、「織田信長供養塔」と記されています。(資料1)現在は七重石塔の形ですが、もとは十三重塔だったそうです。「塔身に織田有楽斎が天正10年(1582)6月2日、本能寺でたおれた兄信長の追善供養のため、その月のうちに建てて供養塔とした旨の銘がある。因みにこの塔は、徳川の治世下には開山塔の溝の底に隠してあったものを、明治31年になってここへ移したとつたえる」(資料2)とのことです。それでは、方丈の背後の庭を通路沿いに探訪しましょう。 庭の砂利道を歩み、振り返った景色です。 通路の左脇に「田村月樵碑」が建立されています。台石の正面に「月樵」と刻されています。 よく見ると、台石の上に立つのは大きな硯石の形をしています。円形の硯面の下部に蛙が彫刻されています。駒札には「田村月樵遺愛の大硯」と記されています。やはり・・・・。「田村月樵は、1846年丹波の国、園部に生まれる。幼少より絵筆に親しみ、長じて南画、日本画を描くなか、時には明治初期、日本に怒濤のごとく押し寄せた西洋文明のあらしのなかに油絵をみつけ、強い衝撃をうける。画材の油の調達に苦労しつつも、陰影の不思議さなど油絵のもつおもしろさに打ち込み、研鑽を重ね、心血を注ぎのち、我国洋画界の先覚者とまでいわれるようになる。しかし晩年は、油絵から遠ざかり、ただ仏画のみに没頭することになる。67~69才の折には建仁寺方丈の襖絵「唐子遊戯図」や塔頭霊洞院(僧堂)の襖絵「雲龍図」などを描き、腕を揮うが1918年72才でこの世を去る。 この硯は、月樵が生前愛用した長さ三尺の大硯で大海原に臨んで一疋の蛙がはらばって前進してゆくようすを彼自身が刻みつけたというものでる。前出の襖絵も、この硯から生み出されたものであろう。」(駒札転記) 通路沿いに北東方向に進みますと、この墓(卵塔)が通路脇にあり駒札が立っています。「安国寺恵瓊首塚」と記されています。安国寺恵瓊は、毛利家の政治に関わる外交僧として活躍し、関ヶ原の合戦においては主家の毛利氏を西軍に味方させるとともに、西軍の中枢において暗躍した人物。西軍が敗れると、恵瓊は毛利家西軍加担の罪で、京都六条河原で斬首され63歳で波乱の生涯を閉じます。恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、方丈裏に葬ったのだそうです。なぜ、建仁寺に? それは、天正年間(1573-1592)に恵瓊が豊臣秀吉の信任を得るようになった後に、恵瓊が、中世の兵乱で兵火に被災し衰えていた建仁寺を復興したという背景があるからでしょう。前回、恵瓊が安芸国安国寺から現在の方丈を移築したということをご紹介しました。一方、恵瓊は東福寺の塔頭・退耕庵を再興しており庵主になっています。恵瓊は天文7年(1538)、安芸国守護武田氏一族に生まれます。武田氏は大内氏との戦いで滅亡。4歳の恵瓊は安国寺に身を寄せて、仏道修行の道に入ったそうです。そして、16歳のとき笠雲惠心に巡り会い生涯の師と仰ぐようになります。そして、京都の東福寺に入山し禅林での修行に入ったのです。35歳の時、正式に安芸国安国寺の住持となります。それ故に、安国寺恵瓊と称されます。秀吉が天下人になるや、伊予国2万3000石の直臣大名に取り立てられています。後には6万石まで加増されたと言います。(資料2,3,駒札) 墓の左奥、飛石の通路の先に見えるのが「清涼軒」です。まずは、北東方向の通路を歩み、茶室「東陽坊」を拝見に行きました。 傍に駒札が立っています。この茶室は利休の高弟の一人、真如堂長盛(ちょうせい)好みの草庵茶室の外観で、その構成は二帖台目席の最も優れた規範的な形といわれるものだそうです。また、茶室南側には豊太閤遺愛の烏帽子石が据えられているそうです。(駒札より)茶席に近づき、反時計回りに巡ってみました。 背後に回り込むと、窓の下の腰板の半分がガラス張りにされていて、茶室内に「東陽坊」の説明板が置かれています。「京都東山真如堂の塔頭に、「東陽坊」という寺があった。桃山時代の住職を、長盛(ちょうせい)と称したが、利休に茶道を学び、終世炉に火を絶やさず、佗び茶を楽しんでいた。長盛は社家の家に生まれたが、後に僧侶となったので、尊円親王筆の名号と、伊勢天目を所持していたそうである。 利休は長盛を可愛がって、「東陽坊」の文字を鋳込んだ釜と、長次郎作の黒茶碗とを与えた。この茶碗が利休七種の中の「東陽坊」である。 長盛は、慶長3年4月5日に84歳で没した。茶室はもと北野の高林寺にあり、明治33年頃までは、京都中京の某家にあり、その後建仁寺開山堂の裏に移り、さらに大正10年現在地に移築された。高林寺は真如堂(真正極楽寺)の塔頭東陽坊の末寺で、住持の長盛が天正15年(1587)の北野の大茶会のとき紙屋川の土手に造ったものがこの茶室である。 内部は二帖台目で下座に床を備えている。床の隣は茶道口で、二枚襖の大きな口とし、台目一畳の控えを隔てて勝手の間と水屋に連なっている。勝手の間は二畳台目向板(むこういた)入りで丸炉を切り、風炉先窓があけられて、水屋手前ができるように工夫されている。 茶室の窓が比較的小さく少ないこと、床に墨蹟窓がないのは利休風な作風といえよう。一方、手前座勝手付の色紙窓、上棚の長い雲雀棚、袖壁の木の横木、また床前から手を前座にかけて延びる平天井と躙口前の化粧屋根裏といった構成は、織部風な作風が感じられる。しかし、高林寺にあったときの図では、勝手付には洞庫が設けられ、茶道口を出たところには水屋棚が設けられていた。再三の移転によってそのような改変を受けているが、なお古い手法も残されている。」(説明板全文転記) 東陽坊から西側に建つ「清涼軒」に巡ります。東面には軒下に甎(せん)と称される瓦敷の廊下が付けられ、南東角に入口が見えます。 入口から清涼軒の内部を眺めた景色この「清涼軒」も茶室として使われています。「お抹茶席」と誘いの表示がありますので、ここではお茶を味わいながら休憩ができるようです。(私は建物を眺めただけですが・・・・) 建物の南面 両脇に太竹の竹垣が設えられた門があります。飛石伝いの通路が建物へと続いています。太竹の少し先は細い竹で組まれた竹垣になり境界が示されています。この門は、上掲の田村月樵碑から通路沿いに歩めば、最初に見えるところです。このあたりで、北側庭内の探訪を切り上げて方丈に戻ります。 北側の外縁から眺めた庭です。白砂が池を象るように敷き詰められ、水の流れの筋目が美しく描かれています。中央に石の路が設けられ、方丈と北にある「納骨堂」を結んでいます。上掲の東陽坊は、この庭の背後の樹木を境にして、その北に位置します。 (資料4)前回、方丈のご紹介で、北西側の「衣鉢の間」はご紹介しました。「室中の間」の背後(北側)は仏壇が設置されて、その背後が「裏の間」となっています。 その「裏の間」にこの手輿(腰輿:ようよ)が展示されています。説明パネルが傍に置かれています。「対州行列輿」と称されています。徳川幕府は、寺院の保護と統制のための諸法度を定め運用したのですが、京都の学徳兼備の五山僧を「碩学」と呼び禄を与える一方で、碩学の漢文に関する深く広い知識を、外交文書作成に利用したのです。それは、九州・対馬の太守・宗義調が天正8年に対馬の「以酊庵」という寺の僧に通講の任を請うたことに始まるようです。つまり外交僧という役割です。徳川幕府は寛永12年より、南禅寺を除く四山の碩学中から輪番制で「対州修文職」を選出し、対馬に外交僧として駐在させたのです。1866年までの230年間に、87名、のべ126名の輪番僧が赴任したといいます。建仁寺では18名が名を連ねているそうです。(説明パネルより)「対州修文職」は「以酊庵修簡職」とも呼ばれるそうです。この記録数からみれば、複数回、その任を命じられた碩学も居たことになります。彼らはどんな思いで、この輿を利用したのでしょう? 東側の「下間一の間(書院の間)」には、海北友松筆「花鳥図」の襖絵を見ることができます。(これも高精細デジタル複製です。写真を撮り、使用状況と雰囲気を知るとともに記録に残せるのはメリットです。)方丈北側の外縁を東端まで進むと、廊下を挟み東側にご紹介済みの「○△□之庭」が見えます。この庭の北側が「小書院」です。小書院は4間が田の字形の間取りとなっています。 南側の2間を併せて北側との境の襖8面に「凪 The calm」と題する作品が使われています。傍に次のメッセージパネルが置かれています。「一人たどりついたところは、風もなく、音もない、この世のもの全てが静寂に支配されているようだった。 漕ぎ手のない小舟は、濡れた葉のように浮かび、零れおちた満月は、水面の中から輝き、辺り一面を凪の桃源郷にいざなっていった。」 右側に、この襖絵の作者のプロフィールがパネルにして置かれていました。制作者は鳥羽美花さん。愛知県生まれで京都市立芸術大学大学院を修了し、日本の伝統的な「型染め」を駆使して作品制作に励むアーチスト、染色画家です。(資料5) 小書院から廊下を挟み西側に「唐子の間」があります。そこに描かれた田村月樵筆「唐子遊戯図」の一部で、南側壁貼付絵から東側襖絵です。この箇所には、遊び戯れる唐子たちの明るくエネルギーに溢れる姿が墨書きされています。床壁貼付絵や押入襖絵は別の主題で唐子が描かれているとのことです。見落としたのかも。「宗立」の名で明治初期に京都洋画壇の先駆者として活躍した画家の墨絵があるというのは興味深いものです。(説明パネルより)小書院の北側には、庭を挟み「大書院」があります。拝観順路は「小書院」の南二間を拝観後、西側の渡り廊下を北に歩み、「大書院」の南面の間を拝観後、東側の渡り廊下から本坊の入口に至るというものです。 西側渡り廊下の手前で、大書院側方向に廊下の西側の庭部分を眺めた景色です。 渡り廊下の途中で、西方向を眺めて。方丈の北側の庭を東から眺めていることになります。この庭は緩やかな樹木の境を介して庭が繋がっています。 大書院の西端寄りから南西方向の景色です。納骨堂の東側面と背面が見えています。では、大書院拝見へと進みましょう。つづく参照資料1) 「京都最古の禅寺 建仁寺」 本坊拝観受付でいただいたパンフレット2) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p250-2553) 安国寺恵瓊 :「コトバンク」4) 1089ブログ :「東京国立博物館」5) Profile :「鳥羽美花 OFFICIAL SITE」補遺田村宗立(別号:月樵):ウィキペディア田村月樵 :「コトバンク」田村月樵展(宗立)開催 (注:2017年1月時点) :「豊中不動尊」安国寺恵瓊 :ウィキペディア安国寺恵瓊 :「年表でみる戦国時代」不動院 安芸の国 安国寺 ホームページ 恵瓊の部屋 このページに恵瓊関連資料が開示されています。広島・安国寺恵瓊で知られる安芸安国寺(不動院)と二葉の里、歴史の散歩道を巡る旅 :「ニホンタビ」信長の死を予言した男 安国寺恵瓊 インタビューほか :「文藝春秋BOOKS」鳥羽美花 オフィシャルサイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝! 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2018.12.09
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本坊から方丈の東側外縁に進みます。「礼の間」と称される「下間二の間」が目の前です。この間の襖絵が海北友松筆「雲龍図」です。これは北面の障壁画です。 こちらは、西面の障壁画で、西側の室中の間との境の襖です。いずれも襖4面で描かれていますが、観光客が多くて4面全体が撮れませんでした。だけどなぜ自由に撮影できるのか? それは栄西禅師800年大遠諱記念事業の一環として、襖全50面を高精細デジタル複製にし、現在常設で一般公開されるようになったからです。海北友松筆の原障壁画(襖絵)はすべて重要文化財です。永久保存上の維持管理問題が優先されたということでしょう。一方で、高精細デジタル複製技術の進歩の結果でもあります。(資料1)まず一般拝観者の目には大きな違いが無いかもしれません。方丈内部の写真を自由に撮れることにより、海北友松の描いた障壁画がどのように方丈を飾ってきたかが記録できる点が大きなメリットです。全体図がイメージしやすくなります。 建仁寺の方丈の間取り図を引用します。(資料2)この方丈は慶長4年(1599)に安国寺恵瓊(えけい)が安芸国(広島県)安国寺から移建したものだそうです。桁行11間、梁間8間で単層、入母屋造りの大建築です。これまでは銅板葺き屋根だったのですが、栄西禅師800年大遠諱を機に、建立時の杮葺き(こけらぶき)に戻されています。(資料1,3) 建立当時の姿に戻った方丈のほぼ全景がこれです。方丈の外縁から階段を下りて、法堂に向かう通路に降り立ち、南東側から眺めた景色です。方丈の外回りはすべて腰高障子です。 方丈は南面しています。方丈前庭は白砂に巨岩と緑苔を配した枯山水の庭です。中国の百丈山の名をとり、「大雄苑(だいおうえん)」と称されています。(資料1,3)百丈山は中国江西省奉新県にある山で、山中にある千尺の滝にちなみ百丈山と称するとか。周囲の山々の中で秀峰を突出させる様から大雄山ともいうそうです。この山に784年に百丈懐海が入山し、卿導庵(百丈寺)を創建し最初の独立の禅宗寺院となった地です。禅宗という点で縁があるということからの命名のようです。(資料4) 庭を北東側、方丈南側外縁の東端から眺めた景色。 ほぼ同じ位置から南方向に、庭の東端部を眺めた景色庭の東南隅に少し大きな島があり、そこに2つの巨岩が立石しています。その前に小さな円形の島が2つ配されています。1つの島には平石、もう1つには1つの立石が見えます。近い位置関係にある3つの立石は、見方によっては三尊石かもしれません。 ほぼ平行しながら、よく眺めると長短5つの水の流れが東西におおらかにのびています。 方丈前庭に直接入ることができる唐門が東寄りに設けられています。 南の外縁を西に歩み、庭の西端がわを見ると、北西隅に島があります。水の流れはその島に至ります。 西端側にある大きな渦 南側の外縁西端から東を眺めた景色大雄苑はゆったりしたおおらかな庭景色です。では、方丈内部の拝見と参りましょう。礼の間の西隣りが方丈の中央「室中の間」です。室中の北側の間に仏壇が配置されています。 正面の襖が一部開かれていて、仏壇に安置された本尊が参拝できる形になっています。室中には入れません。室中の間側に香炉台が置かれ、香炉が載っています。 本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像です。 本尊に向かって右側、室中には天井から掛幅が吊されています。開山千光祖師明庵栄西禅師の頂相図です。 室中の間の床面は一畳の幅で周囲に畳を敷きその内側の板の間に「拈華微笑」と一文字ずつ揮毫された書が紅色の布の上にそれぞれ並べてあります。黒光りする板の間に紅色、白紙に墨書というコントラストがまず良いですね。「拈華微笑」は有名な寓話のシーンを表す言葉です。釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)に居られたとき、天上界から大梵天王が下ってきて、釈迦に金波羅華(こんぱらげ)という花を献上して、釈迦に説法を願ったと言います。「拈」とは、つまむ・つまみとること、手に持つことだそうです。釈迦は献上された花を手に取って、弟子や集まっていた人々の前で黙ってその花を会衆に示されたのです。それを眺める会衆皆は沈黙しているばかりで誰も応ずる者がいなかったのです。だが、ただ一人、釈迦の第一の弟子・迦葉(カーシャパ)が破顔微笑して応じたのです。その意を諒解したからだといいます。これは「宋代以降の禅林で喧伝された寓話で、以心伝心で仏法の真理を体得する妙であるとされて、禅宗の立宗の基となっている」(資料5)そうです。そこで釈尊は迦葉にだけ、「正法眼藏・涅槃妙心・実相無相・微妙法門・不立文字・教化別伝の仏教の真理を授けた」(資料5)、つまり「私に一切を照見する眼を蔵する真実の教法である、悟りの心、形相もない真実の相、不可思議な教えがある。今、それを文字にたよらず、言説以外の仕方で伝え、摩訶迦葉にゆだねる」(資料6)といわれたそうです。釈迦が悟りを得て、会得された仏法を誰かに授けようとした場合、言葉でいくら説明しても最後のところは伝わらない。「仏法というものは、本当は何ともいえないところのものであるということ」(資料6)その究極のところを金波羅華を手に持つ(拈華)ことで示されたのだそうです。「たとえていうなら、熱いとか冷たいとかいう感覚や、甘いとかいう味覚を会得するのに、いくら本を読んでも人の説明を聞いてもわかるものではありません。説くことのできないものです。ただ体験することによってのみみずから知るのです。体験した者同志なら、何も言わなくても、ただ顔を見ただけでニッコリうなずくだけでしょう」(資料6)と。花を手に取って示された時の釈迦のこころが、迦葉のこころに伝わり響き、その花を受け止めて微笑として応えることが迦葉にはできたということです。迦葉が釈迦の仏法を会得していたということなのでしょう。このシーンは『華厳経』に書かれているそうです。そして、『無門関』の第六則に記されているそうです。(資料6)わずか四文字ですが、深い意味が込められています。 この室中の間の襖には海北友松筆「竹林七賢図」が襖16面を使って描かれています。 部分撮りしかできませんが、大凡こんな雰囲気です。詳細は補遺をご覧ください。 室中の間の天井を見上げますと、折上小組格天井に設えてあります。木(格縁)を直交させて格子を組み、その格間(ごうま)のそれぞれに格子(小組)を組み入れています。そして、さらに格天井の中央部を天井支輪で一段高く折上げるという形式です。(資料7) こちらは「上間二の間(檀那の間)」の襖です。北面と東面の二面の襖に、海北友松筆の「山水図」が描かれています。 檀那の間の北側は、「上間一の間(衣鉢の間)」です。ここは室中の間との境になる東面と南面に海北友松筆「琴棋書画図」が描かれています。 それでは、方丈の西側の庭と背後・北側の拝見へと一歩進めましょう。つづく参照資料1)「京都最古の禅寺 建仁寺」 本坊拝観受付でいただいたパンフレット2) 1089ブログ :「東京国立博物館」3) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂4) 百丈山 :「コトバンク」5) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房6) 『床の間の禅語』 河野太通著 禅文化研究所 p61-977) 『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p181補遺建仁寺 ホームページ 開山栄西禅師 重要文化財「建仁寺方丈障壁画」 50面の高精細複製製品を制作 :「建仁寺」建仁寺方丈障壁画 雲龍図襖 海北友松筆 :「Canon 綴TSUZURI」建仁寺方丈障壁画 竹林七賢図襖 海北友松筆 :「Canon 綴TSUZURI」建仁寺方丈障壁画 山水図襖 海北友松筆 :「Canon 綴TSUZURI」建仁寺方丈障壁画 琴棋書画図襖 海北友松筆 :「Canon 綴TSUZURI」拈華微笑 <今月の禅語> :「安延山承福禅寺」拈華微笑 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院 へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -3 方丈の西庭・恵瓊墓・東尋坊・清涼軒・小書院ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -4 大書院(書「風神雷神」)・潮音庭・小書院(北面の襖絵)ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -5 法堂内(本尊・双龍図ほか)と外回廊 へこちらもご覧いtだけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズで、各所(勅使門・放生池・三門・法堂・陀羅尼鐘 西来院・開山堂・茶碑・楽神廟・浴室・禅居庵摩利支天堂・雲洞院(僧堂) 大統院・[雲源院])をご紹介しています。 2017年掲載探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院
2018.12.07
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秋季特別公開の塔頭・久昌院を拝観した後、表門を出て築地塀沿いに南に歩き、「法水池」の手前で左折し、「三門」の正面に向かいました。久しぶりに三門を細見したくなったからです。 樹木の背後に見える築地塀が久昌院です。 法水池は東西に矩形の池があり、中央部が繋がっていて石の反り橋が架けられています。橋の先、つまり南方向に勅使門があります。西側の池の南西方向に見えるのが久昌院の南隣りにある「禅居庵」です。東側の池の東側に見えるのは「浴室」。 この建物が「浴室」今年の秋季特別公開では、「建仁寺開山堂・浴室」をセットにして公開対象になっていました。開山堂は以前に特別公開された折りに拝観していますので、今年はパスしました。 「三門」を正面から眺めた景色です。三門の先に法堂の屋根が見えます。 「望闕楼(ぼうけつろう)」と号されたこの三門は、三間三戸、重層、入母屋造りの屋根で本瓦葺きです。左右に山廊(上層に上る階段が入っている建物)が付いています。(資料1)「三門」は涅槃に入るための空門・無相門・無作門という三解脱門を意味します。解脱門というのは、「迷いから解放されようとする者が通らねばならない門」(資料3)のことです。現在の三門は大正12年(1923)に静岡県浜名郡に所在の安寧寺から移建されたものです。「御所を臨む望楼」という意味で「望闕楼」と名付けられたと言います。(資料2)”室町時代中期の瑞厳龍惺の「春眺」の詩の中に「望闕楼高くして帝城に対す」という句がある”(資料2)と言います。瑞厳龍惺は建仁寺の一庵一麟に師事しその法をつぎ建仁寺、南禅寺の住持となった室町時代の僧です。(資料4) また、「闕」という文字を漢和辞典を引きますと、第1義に宮城の門、第2義に宮城、天子のいどころ、という意味だと説明されています。御所をさすことになります。 山廊から細見します。二間の壁面に花頭窓が見え、丸軒瓦には「建仁」の文字が陽刻され、下り棟の先端の獅子口には桐紋がレリーフされています。「二引の桐紋」が寺紋です。飾り瓦は二頭の獅子です。 重層の屋根の曲線が美しい。今回眺めていて気づいたことは、この三門には鬼瓦が使われていず、獅子口で統一されていることです。 尾棰がぐんと突き出て、出組・登りが三手先のようです。高欄の擬宝珠は宝珠形ではなく、釣鐘形が使われています。 下層を見ると、出組・登りは二手先です。上層に上る階段の側面が右側に一部見えています。上層も同じですが、頭貫の上に頭貫よりも幅広の厚板が上に載せてあるのが特徴的です。帽子を被っているような一つのアクセントになっています。 蟇股は雲形で重厚な感じがします。通肘木の上には延斗が整然と並んで上部の支えとなっています。 麒麟を透かし彫りにいした蟇股と欄間に二羽の瑞鳥を透かし彫り 親子獅子と草花彫刻の蟇股 二羽の兎の蟇股と欄間には龍を透かし彫り三間に施された蟇股の箇所と欄間の装飾彫刻はそれぞれ異なる造形です。頭貫は、一貫した草花文様の深彫りで装飾されています。 西側のものを拡大してみました。 東側の山廊建屋の屋根は、飛び跳ねる一頭の獅子が飾り瓦に使われています。寺の門で完全に左右対称の同じ様式で均斉を取る装飾という発想はしないのでしょう。それぞれどこか異なるものが組み合わされています。三門の正面を西から東に抜けて、北に向かいます。 三門の北方向一直線上に、法堂(はっとう)、方丈が配置されています。法堂を南東側から眺めた全景です。 法堂もまた、一貫して獅子口が使われています。 南面する法堂の正面から眺めた三門 ズームアップしてみました。勅使門の屋根が垣間見えます。 正面から見上げた法堂 南西側から眺めた法堂全景禅宗様仏殿建築です。仏殿兼用で「拈華堂(ねんげどう)」と称されています。外観は重層、入母屋造り、本瓦葺きで正面は7間、側面は6間に見えます。しかし、この建物の下の屋根は廂(裳階:もこし)なのです。実際の構造形式は一重で、5間4間になります。裳階付きなので上の屋根が小さく見えますが、離れて眺めると堂々とした安定感があります。この建物の上棟札が発見されたことにより、明和2年(1765)に上棟されたことがわかっています。(資料1,2) 屋根の軒下を眺めると、法堂も三手先の組み物になっています。出組の整然とした姿に力強さと均斉美を感じます。 正面の両端と側面に連なる白壁が花頭窓を際立たせ、建物の美観を高めています。 正面の扉は連子狭間の桟唐戸が使われています。 法堂の東側面建仁寺の法堂・方丈・本坊などは通常拝観エリアになっています。いつでも拝観できるという意識があったためか、この境内を幾度も訪れながら未訪でしたので、この機会に拝観することにして、この後、本坊に向かいました。 本坊 通常、庫裡と称される建物です。正面入口の左に「大本山 建仁寺」、右に「宗務本院」の木札が掲げてあります。 本坊で拝観受付を済ませて、まず目に止まったのがこの境内図です。現在の建仁寺境内は、南端が「八坂通」に面していて、勅使門・法心池・三門・法堂・方丈が一直線上に配置されています。境内地としての北端は「どんぐり通り」、西端は「大和大路通」です。本坊の位置は絵姿でおわかりいただけるでしょう。 本坊を入った正面の東端に「韋駄天像」が祀られています。本坊に入ると、拝観は売店前の廊下を通り、左(西)方向に進みます。この通常拝観エリアはそれぞれの建物が回廊や渡り廊下で繋がっています。本坊の西側に南面する方丈があり、方丈の背後(北東側)には小書院、大書院があります。また背後には庭の中に納骨堂、清涼軒、茶室「東尋坊」などが散在しています。細見は次回以降として、まずは2箇所ご紹介します。1つは、方丈から小書院への廊下のところ、売店の北側にあたるところにある坪庭です。 こんな名称の庭「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、密教の6大思想(地水火風空識)を地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」(説明文転記) これは廊下の端に吊された鐘もう一つは、逆に方丈の外縁の東端側から階段を下り、スリッパに履き替えて渡り廊下を法堂に向かうときに、方丈の前庭「大雄苑」を花頭窓から眺めた庭景色です。 こういう感じで通路を歩みつつ庭を垣間見ることができます。 花頭窓の正面、廊下の反対側から見えるのはこの範囲。この大雄苑がどのような庭かは次回ご紹介します。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂2)「京都最古の禅寺 建仁寺」 本坊拝観受付でいただいたパンフレット3) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房4) 瑞厳龍惺 :「コトバンク」補遺建仁寺 ホームページ 六大 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院 へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -2 方丈・海北友松の障壁画、大雄苑(方丈前庭)へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -3 方丈の西庭・恵瓊墓・東尋坊・清涼軒・小書院ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -4 大書院(書「風神雷神」)・潮音庭・小書院(北面の襖絵)ほか探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -5 法堂内(本尊・双龍図ほか)と外回廊 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズで、各所(勅使門・放生池・三門・法堂・陀羅尼鐘 西来院・開山堂・茶碑・楽神廟・浴室・禅居庵摩利支天堂・雲洞院(僧堂) 大統院・[雲源院])をご紹介しています。 2017年掲載探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院
2018.12.06
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大和大路通に面した「惣門」を入り、右折します。堆雲軒の南隣りが久昌院です。この秋の「京都非公開文化財特別公開」(11/1~11/11)を機会に、九昌院を拝見に出かけました。その記録整理を兼ねたご紹介です。 九昌院の表門を少し通り過ぎ、南東側から撮った景色こちらは、表門の傍から築地塀が南に延びている景色です。紅葉した樹木の南側に、築地塀の屋根より少し高い生垣様の緑が見える点を記憶にとどめておいてください。 表門を入ると、右側手前に朱塗りの鳥居を構えた小祠がまず目に入ります。そして、通路が三方向に分岐しています。右側の建物が庫裡で、正面に貴人を迎える玄関口があり、左側には中門、その背後に見える屋根が方丈です。 面白いのは、三方向の通路の意匠がそれぞれ異なることです。 拝観は左の石畳の道伝いに、中門の方に進みます。その前にまずは庫裡の建物を眺めることから始めましょう。 庫裡の大屋根の鬼瓦と合掌部の懸魚 貴人用玄関の屋根は獅子口です。獅子口には三本沢瀉(おもだか)の紋が象られています。 下り棟の上端の飾り瓦は初めて見ました。先端の鬼板はシンプルな意匠です。 大きな庫裡で見るくにゃりと曲線を描くのは海老虹梁です。どこでみてもおもしろい、意図的にデザインとして使っているのでしょうか。建築力学的に重要な意味があるのでしょうか。いつも不思議に思う次第です。 中門に歩むとき、左に鐘楼が見えます。 根のはる姿にひかれます。 苔地の黄緑と樹木の濃緑、配置された岩。そこに青空が加わります。 中門は唐門です。 獅子口の経の巻には葵紋、綾筋の下には軍配団扇の紋のレリーフが見えます。軍配団扇紋は奥平氏の家紋です。この建仁寺の塔頭寺院は、美濃国加納城十万石の城主奥平美作守信昌が、三江紹益和尚を開祖に請じて慶長13年(1608)に開基したものです。奥平信昌は長篠の合戦(天正3年・1575)に置いて長篠城籠城で軍功をあげ、家康の娘亀姫を娶った武将です。関ヶ原の合戦後に初代京都守護職にも任ぜられています。「九昌院」は信昌の法号「久昌院殿泰雲道安大居士位」から付けられた院号です。(資料1,3) 蟇股は雲形様でシンプル、木鼻も抽象化された造形です。門柱上部・大斗の上の肘木が線刻されて全体のバランスがとれています。唐門を入り、方丈の北東隅から外縁に上ります。 唐門の内側傍にて 外縁傍から東面する方丈の方丈庭園(前庭)を南東方向にまず眺めた景色です。方丈正面の外縁あたりから方丈庭園を鑑賞しましょう。左(北)から右(南)へと眺める角度を変えながら視線を移していきます。 庭園の正面、池の向こうは生垣が二重になっています。二段目の生垣が、上掲の久昌院築地塀の屋根から上に見えた生垣に相当します。築地塀を生垣で隠す事により、建仁寺境内の樹林が庭園と一体化し、庭園が奥深く広がりを見せます。さらに樹木の彼方の東山が借景になっています。 池の手前の庭の苔蒸したエリアをとらえて庭を眺めると、また趣が異なります。池を眺める視線が低くなり、空と池面と前庭地とのバランスが変化することで、雰囲気が変わります。 東外縁を南端側に進み、唐門方向に方丈庭園を眺めた景色 池を主体に眺めてみました。 方丈庭園の南端部を様々に切り取った景色九昌院の特別拝観で撮影できたのは方丈庭園まででした。 これは、西門前に置かれていた特別公開案内の看板に掲載されていたものです。右の薬師如来坐像が方丈中央真室に安置されています。方丈上間一の間の襖絵が、方丈南端側に展示されていました。宇喜多一恵(いっけい)が「長篠合戦の図」を襖絵に描いたものです。一恵は寛政7年(1795)、京都に宇喜多七世の孫として生まれた人で、奥平信昌が若き日に長篠の合戦で立てた武勲をたたえて描いたのだとか。絵を田中訥言(とつごん)に学び大和絵の古法を習得して新機軸をだしたそうです。復古大和絵派の巨匠と目されているとか。方丈の背後にある茶室、方丈から渡り廊下を経て西奧にある書院と書院の一角に設けられた茶室などを拝見しました。また、「遠州好み」の三帖台目茶室もあります。(資料1)手許の本によれば、九昌院の南側に墓地があり、奥平信昌夫妻の霊屋(たまや)をはじめ雪村友梅や赤松則村の墓があるといいます。雪村友梅は南北朝時代の五山の詩僧で建仁寺第30世、赤松則村は南北朝時代の武将だとか。 (資料4)今回の特別公開では、西福寺とこの九昌院の2箇所だけ探訪しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『拝観の手引 京都非公開文化財特別公開』平成30年度第54回 京都古文化保存協会2) 奥平氏 武家の家紋の由来 :「戦国大名研究」3) 奥平信昌 :ウィキペディア4) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p260補遺建仁寺 ホームページ三江紹益 :「コトバンク」三江和尚建仁入寺法語 :「花園大学」京都東山 高台寺 :「歴史街道 ~ロマンへの扉~」 三江紹益禅師の木像写真が掲載されています。亀姫 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 西福寺 へ続きに訪れた通常公開の建仁寺本坊エリアを別稿としてまとめています。こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -2 方丈・海北友松の障壁画、大雄苑(方丈前庭)へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -3 方丈の西庭・恵瓊墓・東尋坊・清涼軒・小書院ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -4 大書院(書「風神雷神」)・潮音庭・小書院(北面の襖絵)ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -5 法堂内(本尊・双龍図ほか)と外回廊 へ建仁寺の探訪記を過去にまとめています。こちらも併せてご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズで、各所(勅使門・放生池・三門・法堂・陀羅尼鐘 西来院・開山堂・茶碑・楽神廟・浴室・禅居庵摩利支天堂・雲洞院(僧堂) 大統院・[雲源院])をご紹介しています。 2017年掲載探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院
2018.12.04
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京阪電車の「清水五条」駅で下車し、川端通に上がってから一筋北の松原橋まで歩きます。行く先は「西福寺」です。11月初旬に、平成30年度第54回京都非公開文化財特別公開が行われました。「檀林皇后九相図絵」や海北友松筆「布袋図」などが公開されるということを知り、訪れました。 松原橋の交差点で、右折し松原通を東に進みます。 川端通の傍に小さな公園があり、その一隅にこの付近の観光案内図が設置されています。 案内図の一部を拡大しました。黄色の丸を追記しましたが、そこが清水五条駅です。赤丸が松原通傍の公園の一隅に設置されたこの案内図のある現在地です。松原通を東に進みます。青色の丸を付けた場所が「西福寺」です。松原通をさらに東に進めば「六道珍皇寺」があります。南に進めば「六波羅蜜寺」があります。ここも同期間に特別公開寺院の対象となっていました。ここは以前に探訪しています。 「西福寺」を北東側から眺めた景色です。お寺は南北の通りとの角地にあり、通りが交差する角に「六道之辻」と刻された道標が立っています。ここは鳥辺野と称された葬送地、つまり、無常所への入口にあたります。上掲の地図の右上に黄緑色の丸を追記しました。五条通と東大路通の交差する北東角に、「大谷本廟」(西本願寺:黄緑の丸)があります。その東側に紫色の丸を付けたところが鳥辺野の谷間で、現在は墓地が広がり、墓石がびっしりと櫛比していて一種壮観な感じを受けます。かつて鳥辺野と認識されたエリアはかなりの広がりがあります。たとえば、東福寺の東に泉涌寺があります。その泉涌寺の北で、JRの琵琶湖線よりも南に、「鳥辺野陵」と称される御陵域があります。南はこの辺りも鳥辺野と認識されていたということでしょう。 西福寺は、この地に弘法大師が地蔵堂を建立し自作の土仏を安置したのが始まりといわれています。そして、関ヶ原の戦い(1600.9)で西軍が敗れ、徳川家康により安国寺恵瓊は五条河原で処刑されます。毛利家の家臣・井上安芸守は地蔵堂にこもり安国寺恵瓊の菩提を弔ったといいます。そして、慶長8年(1603)に蓮性和尚を開山に迎えて西福寺を創建し八宗兼学の道場としたとか。一時衰退。延宝6年(1678)に念故が中興、享保12年(1737)関白二条綱平(敬信院入道前殿下円覚)が亡父のために再興し、桂光山西福寺と称したと伝えられ、現在に至るそうです。(資料1,2,由緒) 本堂は東面しています。正面に「西福寺」と記された扁額が掲げてあります。霊元天皇(在位1663~1687)の宸筆と伝わるものです。(資料1)浄土宗鎮西派称名寺に属するお寺です。桂光山敬信院と号します。洛陽四十八願所巡りの第三十一番札所です。本尊は阿弥陀如来坐像。由緒には「仏師春日の作、坐像三尺余」と説明されています。手許の本ではこの本尊について、「像高86.6cm、寄木造り、漆箔、玉眼入、上品下生の来迎像で、体内に長禄元年(1457)の墨書銘がある。藤原風の穏やかさがあるが、やや生硬なところに時代の下降を思わせる」(資料2)と一歩深く説明しています。正面の扁額の右側には、不動明王像を描いた額や「六道之辻」と古銭を並べて文字を象った額が奉納されています。本堂の欄間には天女像が描かれ、格子天井には一つ一つの桝目に草花図が描かれています。 (残念ながらこの特別公開では本堂内の撮影は禁止でした。残念! 補遺をご覧ください。) 右端にこの額が奉納されていて、下部に「檀林皇后と弘法大師」の由緒が説明されています。その地蔵堂に嵯峨天皇の皇后(橘嘉智子)が参詣し弘法大師に厚く帰依されたとか。また、弘仁5年(814)に皇子正良親王の病気平癒を祈願され、皇子が無事に成長ののち仁明天皇として即位されたことから、この六道の辻地蔵を子育地蔵または六はら地蔵などと呼ぶようになったと言います。(奉納額より)これは今回購入した特別公開「拝観の手引」という小冊子の表紙です。そして、この表紙には「檀林皇后九相図」の最上段・右側部分の絵が使用されています。西福寺を訪ねた第一目的は、この九相図の原本画と今回初公開の図を拝見したかったからです。檀林皇后は自分が亡くなった後には風葬にし、それを描くように自ら指示したと伝えられています。九相図とは、人が死亡した後、徐々に腐り土に還っていくプロセスの状態を九段階の絵に表したものです。(資料1)本堂内では撮影できませんでした。しかし、ネット検索するとかなり数多くこの図がアップされています。また、この「檀林皇后九相図」は、毎年8月8日からの盂蘭盆会における精霊迎えには堂内に掲げられるそうです。皇后となった橘嘉智子が檀林皇后と称されるのは、仏教への信仰が篤く、京都の嵯峨に檀林寺を建立し、唐僧の義空(ぎくう)に禅書を講じさせたことから檀林皇后と呼ばれるようになったと言います。(資料3)檀林皇后が詠まれたとする歌が残っています。 はかなしや朝夕なでし黒髪もよもぎが本のちりとこそなれ己の死後に風葬にして九相図を描けと指示された核心を詠まれた歌のように感じます。尚、この詠まれたと伝わる歌について、一書では「檀林皇后が六道の辻地蔵尊を詠んだ歌が残されている」として紹介されています。(資料4)今回初公開されたのは、仏教系の世界地図で、「南瞻部州(なんせんぶしゅう)万国掌菓之図」と海北友松筆「布袋図」です。前者は、「久修園院(枚方市)の住職であった宗覚が作成した団扇型南瞻部州図を華厳寺(京都市西京区)の開祖となった浪華子(鳳潭)が改訂したもの」(資料1)だといいます。宝永7年(1710)頃のもののようです。 山門を入って、右方向に東面する本堂があり、正面には不動明王を祀るお堂が見えます。 お堂には、石造不動明王立像が祀ってあります。「末廣不動明王」と赤地に太い文字で墨書された提灯が吊されています。なぜここに不動明王像が?「後白河法皇が那智勝浦不動尊に籠もって千日修法を行うにあたりこの寺の地蔵尊に道中安全祈願をし、無事帰京できたお礼に那智の不動尊を勧請し地蔵尊の守護としたものである」(資料5)といいます。そのつづきに、こんなことも記されています。「その縁もあり室町時代頃からこの一帯には熊野比丘尼が多く居住し、熊野信仰を布教する拠点となった」と(資料5)。 前の水鉢は「お不動様の水」です。手水鉢と勘違いして手を洗う人がいるのでしょうか。注意書きが傍に貼られています。龍頭の口から水が注がれていますので錯覚しても不思議ではありません。 上掲の不動堂の前に立つと、左側に「地蔵堂」が西向きで隣接しています。 建物の左上に辻堂(地蔵堂)と西福寺の「由緒」を記した説明板が掲げてあります。堂内には数多くの地蔵尊の石仏が集められて祀られています。 左側の石造厨子内には水子地蔵尊。木札が立ててあります。 重複する撮り方にしていますが、左から右へ見仏していくとこんな感じです。 中でも、この地蔵菩薩坐像が目にとまりました。余談です。上掲写真の山門に向かって右前に石標が立っています。そこには上記していますが、「洛陽四十八願所第三十一番札所」と刻されていると判読します。これは四十八願寺として、阿弥陀如来像の霊場巡りを意味するようです。(資料6)調べていて知ったことですが、これとは別に、「洛陽四十八願地蔵」という霊場巡りがあるそうです。それには西福寺は含まれていないようです。こちらの第31番は妙心寺となっています。(資料7)元に戻ります。 地蔵堂は左端部分を仕切って、独立した空間を設け、観音菩薩立像が祀られています。山門を入ってすぐ左側になります。 こちらも、京都の観音巡礼の霊場には入っていないようですが、いい観音菩薩立像です。調べてみましたが、詳細は不詳です。 私の関心事の一つ、鬼瓦を西福寺でも撮ってみました。本堂の軒下に上掲の弘法大師・檀林皇后の絵の奉納額上部が見えています。 宝形造の屋根の露盤には「西福寺」と陽刻されています。 逆行気味ですが、地蔵堂の鬼瓦です。 山門の右に脇門があります。その内側傍に、「円福地蔵」の石標が立つこの石像があります。道祖神の双体石像を地蔵見立てにでもした印象の双体石像です。和やかさが溢れていてまさに円福で良い感じ。 ふと見上げると、門柱の貫の上部の欄間には、蓮池の透かし彫りが施されています。浄土にある池のイメージなのでしょうか。この側面を眺めると、山門が薬医門の形式とわかります。柱材や屋根裏を見ると、近年に修復された感じがします。幾度が山門前を通り過ぎながら、探訪したのは今回が初めてでした。小規模な境内域に拝見できる盛りだくさんなものがあるお寺です。序でに、触れておきましょう。この西福寺の辻向かいに「京名物 幽霊子育飴」の看板を軒下に掲げ、飴を売るお店があります。このお店の飴にまつわる赤子塚伝説が伝わっています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『拝観の手引 京都非公開文化財特別公開』平成30年度第54回 京都古文化保存協会2) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p2843) 橘嘉智子 :「コトバンク」4) 『京都 地名の由来を歩く』 谷川彰英著 ベスト新書 p161-1625) 『京都奇才物語』 丘眞奈実著 PHP新書6) 洛中四十八願寺 :「ニッポンの霊場」 これは阿弥陀如来霊場としての一覧です。7) 洛陽四十八願地蔵 :「京の霊場」補遺京都府内18社寺の非公開文化財を特別公開 2018.11.01 :「産経新聞」 西福寺で公開された仏教の世界観で描かれた世界地図「南瞻部洲万国掌菓(なんせんぶしゅうばんこくしょうか)之図」の写真が掲載されています。西福寺の本堂内陣(付記:写真掲載):「Amadeusの『京都のおすすめ』ブログ版(観光)」西福寺 壇林皇后九想図 :「日本伝承大鑑」九相観図 :「奥三河の古刹・釣月寺(ちょうげつじ)」九相図 :ウィキペディア小野小町の九相図(1) :「とみ新蔵ブログ」死を想い、今を生きる??九相図による生死の往還?? :「親鸞仏教センター」洛陽三十三所観音霊場 :「京都に乾杯」京名物幽霊子育飴 みなとや幽霊子育飴本舗 ホームページ 子育飴の由来幽霊子育飴 :ウィキペディア轆轤町 迷い路 不思議町 :「京都まにあ」 西福寺のある地名の由来が説明されています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)六道珍皇寺を少しご紹介しているこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 2016年「京の冬の旅」 -3 妙心寺境内と霊雲院、六道珍皇寺
2018.12.02
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