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(7)清貧一家の給料日前清貧一家は、そのゆえんを母に見ることが多かった。一つは、持病である。毎日3度3度薬を飲まねばならず、社会保険が使えるとはいっても、清貧一家にとっては、薬代はばかにならなかった。しかも彼女はプチ浪費家だった。というか、余り計算ができない体質だった。お嬢様育ちだからだろう。“食べたいものは食べたい”という気持ちが根底にあり、子どもがどう思おうと、自分の食べたいものが食卓にのぼった。ナマコの三杯酢、カキ酢、鶏レバーのしょうが煮、玉ひもの醤油煮、各種刺身、イモ、タコ、南京、たこ焼き、ところてん……。後半は、おやつに近いが、いずれにしても、「おかず」にはならないものばかりだった。それでも私は「食べなければ飢える」と思って食べたし、それらはそれなりにおいしかったが、好き嫌いの多い兄はダメだった。そんなときに活躍するのは“ふりかけ”だ。『まる◯や』のふりかけがいつも食卓にあったが、どうも「のり卵」がすぐになくなり、「ごま塩」がずっと残っていたように記憶している。そんな我が家の食卓が、一層清貧そのものになるときがある。おやじの給料日前3日ほど前から給料日までだ。経済難が食卓にモロに反映される。食費の不足が如実にあらわれたメニューが「おでん」「うどんすき」「かやくご飯」である。いずれも食材が安く、副菜が要らない。「うどんすき」に至っては、ご飯すら省略できる。「うどんすき」と聞くと、「すき焼き」を想像するかもしれないが、うどんだしを土鍋に満たし、うどんと切り落としの牛肉、かまぼこ、しいたけ、白ねぎを加えて卵でとじるという極めてシンプルにして安価な食べ物である。うどんはもちろん、関西でメジャーな「ゆでうどん」である。いまでも1玉50円そこそこで買えるものだ。しかし、子どもたちは大満足だった。ナマコやカキ酢よりよほど食べやすいごちそうだったのだ。それでも食費が足りなくなると、母は私に借金を申し出た。「1000円貸して。利子は50円」手放しでOKである。その当時(小学3年当時)の私の小遣いは300円だった。50円も利子をもらえれば、文句のつけようがない。小遣いの300円は貯金に回し、利子の50円で1ヵ月をしのいだ。そのうちに、貸せるお金が2000円になり、3000円になり。子どもにお金を借りた直後、母はどういうわけか「お好みでも食べようか」と言う。買い物に出たついでに駅前のお好み屋でお好みを食べようと言うのだ。母一流の「やけくそ」らしい。見境がない。豚玉が1枚350円ほどしたと記憶している。二人で700円使っていては、意味がない。母の手を強く引いて家に戻った。清貧一家にとって、「食」は毎日の闘いだった。何が食べられるか、どれだけ食べられるかが、夕飯時の攻防だった。だからこそ、食べ物の尊さ、ありがたさ、おいしさ、大切さがわかったのだと思う。そんな子どもたちの苦悩に相反して、母は残りもののご飯やおかずをポイポイ捨ててしまう気前のよさというか、世間知らずな行動はいまも直らない。清貧なのに、犬や猫を飼っていた意味は、そんな母の所業をフォローし、無駄を出さず、環境を破壊せずにやり過ごしてくるための必要不可欠な要素だったのではないかと思う。それが通る時代だったし、犬や猫たちも従順にそんなわびしいエサを文句もいわずに食べた。そんな清貧一家は日本じゅうにたくさんいた。それぞれ、腹を抱えて笑うような楽しみや、涙を流して感激するような喜び、いいようのない悲しみを抱きながら、精一杯生きていた。昭和の、懐かしくも哀しい風景である。
2007.04.30
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「苦情魔」ではないのだが、どうしても許せないことがあると、クレームを入れてしまう。といっても、この長い人生で、10回を数えることはない。よほどのことがあったときにしかしないことにしている。中でもその対応が印象深いのが三つある。一つは、大手某ファストフードチェーンだ。オーダーの聞き間違いや入れ間違いなどを数回やらかされてきたが、「支払った価格が合っているから」とか「これでも、嫌いではないから」とか「電話して持ってきてもらうのはかわいそうだから」とかと自分に言い聞かせながら我慢していた。しかし、あるとき、どうしても許せない間違いをやらかした。「ソーセージマフィン」と言ったのに、「エッグ◯ックマフィン」をよこしたのだ(◯は企業名がわかるとまずいので)。「ソーセージマフィンセット。ドリンクはカフェオレ」「ソーセージエッグマフィンですか?」「ソーセージマフィン」というやりとりがあった後である。私は、アレルギーはないが、卵アレルギーのある人なら、アウトである。アルバイトとおぼしきその女の子の顔は、鮮明に覚えていた。不本意ながら仕方なく「エッグ◯ックマフィン」を食し、憤懣やるかたないその状況を何とかして打開すべく、当該企業のHPにアクセスした。苦情等を受け付ける「お客さまセンター」というのがあって、電話番号がわかったのですぐさま電話した。すると、自動応答の無味乾燥な声がし、週末と祝日はクローズしていることを告げている。余計に憤懣が募り、明らかに用途が違うメーラーを開いて苦情を書いた。もちろん、氏名、住所、電話番号、アドレスすべてを記入した。翌日、メールが入った。「早急に調査し、対処します。今後このようなご意見はお客さまセンターへお電話いただくようにお願いします」腹が立つ。私は電話した。出なかったのは、そっちの勝手だ。数日後、当該の店へ行った。店長が変わっていた。対応も格段によくなっていた。うむうむ。カップ麺を食べたときのこと。蓋と本体を接着している部分から異臭がする。いわゆる「ホルマリン系」の揮発性がある、強烈な匂いだ。お湯を注いで温度が上がったときに発生するらしいことを突き止め、当該の某◯◯食品のHPにアクセスした。化学物質に対するアレルギーのある人は最近増えている。そうしたことを踏まえて、メールを書いた。果たしてその日のうちに電話がかかってきた。「商品開発部にも意見を聞きましたが、そのようなことはないようでして……」ないわけがない。この鼻で感じたのだ。そのことを理路整然と伝えた。「わかりました。再度調査し、改善すべきところは改善したいと思います。このような貴重なご意見をいただきましたので、つまらぬものですが、当社製品の詰め合わせをお送りしようと思います」「結構です。商品自体はおいしいと思うのに、接着剤が悪くて変な被害を出すのがもったいないと思ってメールしたのですから」「そうですか。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします」え……、送ってくれないの? である。Yesと言えばそれを望んでメールしたように思われることを避けたかっただけなのに……。某在阪テレビ局が放映していて、比較的よく見る番組があった。番組の内容はさておき、どうしても許せないコメントがあった。番組の最後にプレゼントコーナーがあり、局アナ(ベテラン女性アナウンサー)が「携帯電話からもご応募できます」とコメントする。いつもひっかかっていた。原稿を書く人間とコメントする人間は違う。私もテレビ、ラジオ両方の原稿を書いているが、こんな間違いはしないし、よしんば間違っていても、プロのナレーターなら指摘するはず。局アナというのは、問題意識に欠けているのか。「ご~」は尊敬語なので、「~になる」が続く。「ご応募になれます」もしくは「ご応募いただけます」が正しい。報道番組等で「日本語が乱れている」などと言うテレビ局がこれではよろしくない。思い余ってHPの「ご意見」コーナーから投稿した。月曜日に投稿し、次にその番組を見たのは木曜日だったが、木曜日のコメントは「携帯電話からもご応募&#できます」だった。躊躇しながら、「できます」を使った。金曜日は「ご応募いただけます」になっていた。是正に数日を要したようだが、これも改善されたようだ。ほかにも、運転マナーがなっていない車を警察に通報したり、信号無視もいとわず暴走するゴミ収集車のナンバーを市役所に通告したりしたが、改善したかどうかすら確認できないようないい加減な対応だった。役所はダメだ。苦情を言った3件中、食品会社が2社で、テレビ局が1社だが、対応が早いのはやはり「大手」で「食品」というカテゴリーの企業だ。極めて早いメールの返信や電話連絡があり、その後の対応がある。こちらが実感できる形の対処は不可欠だろう。テレビ局はダメだ。メールアドレスも記入したのに、何の連絡もない。全体未聞の不祥事を犯しておきながら、こうした指摘に適切に対処できないというのは、企業体質に問題があるのだろう。いずれにしても大切なのは、苦情そのものへの対処もさることながら、その先の是正をいかに行うか、それが、企業存続の是非を分つのだと思う。「客」の声は即ち企業の「利益」にダイレクトに影響するものなのだから。テレビ局の客は「視聴者」ではない。「スポンサー」である。ゆえに、視聴者への対応がおろそかになるのだろう。以前にも書いたが、マスコミの奢りは、早急に是正すべきであると思う。老婆心ながら。
2007.04.29
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当ブログ内で連載している「心霊現象な日々」について知人から指摘され、補足しなければならないと思われる事項を幾つか解説します。本来なら、最初にしなければならないところ、遅くなってしまい、申し訳なく思っております。●「霊道」って?霊の通り道です。亡くなった方があの世に行くための通り道、ということらしく、現世の状態に関係なく敷かれているようです。うちの中に通っているであろう霊道は、出口がよくなく、霊が滞留することが多くて心霊現象が起こりました。●霊は、電波?そうです。異様な周波数を持っていて、電気製品が影響を受けます。というか、うちでは、多くの電気製品が壊れました。テレビ局でも、器機の集まる編集室に霊がよく出ます。電波を感じ取って集まってくるというのが通説です。●霊は臭い?空気清浄機が反応します。鼻に感じる匂いではなく、匂いの“成分”を持っているのだと思います。うちでは、霊道が開く朝4~5時になると、空気清浄機が反応し、ゲージがぐんぐん上がっていくということがあります。「来たな」と思います。●「憑く」という現象うちの母に多いのですが、霊が憑いたとき、意味不明な反応をします。顔つきが変わり、通常の母がしないような行動をしたり、言動を放ったり。憑きものが出た後はケロッとし、「そんなこと言うてないよ」「そんなことしてないよ」と言ったり。私の場合は、肩や背中が重くなり、無口になります。霊感が弱く、霊の望む行動(母のような)ができないので、重さの圧迫に耐えるしかない、という状態です。●「生霊(いきりょう)」って?行きている人が放つ「怨念」「執念」が、相手に届く現象です。生きているだけに、その波動は強烈で、人を死に至らしめることもできるほどだとか。地縛霊(土地についている霊。その地で無念な最期を迎えた人が霊となって、地に憑きます)、背後霊(人の背につきまとう霊。霊のうごめくところに足を踏み入れて、厄介な霊を背中にのせて帰ってくるというのが多いようです)、守護霊(自分を守ってくれる霊。祖先の霊が多いようです)などと比べ物にならないほどのエネルギーを持っている、最も怖い霊魂です。いかがでしょう。「心霊現象な日々」はすべて実話です。こうした知識をもって、さらに楽しく読んでください。
2007.04.29
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コチズさんのブログで「ふと思ったいい男の条件」というのがあって、いつも興味深く読ませていただいているのだが、私は、「ダメな男」について書いてみたいと思う。まずは、「迷う男」。このブログでも同タイトルの小説まがいの小ネタを書いているが、あれやこれやと迷う男は無様だ。レストランの前でショウケースを見詰めたたまま凍っている男、運転していて、やたら道を間違え、「あれ」「あれ」を連発し、「こっちだろう」と曲がった方向が正反対、という方向感覚のない男、何かを買うとき「どうせ、大して必要じゃないから」などと理由をつけて安物を買っておきながら、買った後、「高い方にしとけばよかった」としきりに後悔する男。男は即決即断が美しい。しかも、間違わない自信と身体能力を備えている、というのが男のあるべき姿だ。二つ目は、「キョロキョロする男」。動作的なキョロキョロもそうなのだが、心がキョロキョロしているのが最もよくない。要は、信念や自信がないのだ。いつも人を盗み見して自分と比較し、小賢しく真似をしたり受け売りをしたりする。男はいつも心に指針を持っていなければならない。自分のスタイルをつくり、それを貫く姿は美しい。それから、「病気がちな男」。いつもどこかを患っているような、不健康そうな顔をしているような男は、信用できない。遊びの約束をしても、「体調が悪くなって……」とドタキャンされかねない。体力を使うような遊びをしようものなら、「無理だ」と自分だけ脱落してしまうのだ。小食で好き嫌いが多く、いつも食べ残す。こちらまで気分が落ち込む。いい男は、その表情から、全身から精気が静かにみなぎっていて、タフで、粘り強いものだ。狩猟民族的な強さをたたえていないといけない。「血の薄い男」もいけない。最近の若い男の子に多いようだが、献血センターで、横で血液の試験をしていた男の子が「薄いですね。今回は献血できません」と言われていた。血が薄いなど、若い女性だけの特権だと思っていた。「私、疲れやすいの。血が薄いんだって」などと、白い顔で言われると同情もフォローもするが、男に言われるとドン引きだ。もちろん、女性との関係においてとか、社会人として、夫としてとか、営業マンしてとか、ある一定の基準における「いい」「ダメ」があるのは確かで、一概には言えないが、上の4つの理由は、単に「男として」ダメだと思えるものである。しかし、母性のある女性はそれを「かわいい」と思ったり、「私がいなきゃ」と勘違いしたりするのだろう。母性のない私ならではの意見である、と書き添えておく。
2007.04.28
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その16 【魔のカーブにいた霊】その朝、日曜であるにもかかわらず、私はロケ地に向かうべく車を走らせていた。走っていた国道は、通勤にも使う道で、早朝走っていると、よく、ついさっき轢かれたと思われるような、生々しい動物の死体が路上に転がっている(張りついているときも)ことがあっった。そうした地点はかなり限定されていて、5キロほどの間に二つのポイントに絞られる。どちらもカーブがきつく、背の高い人間には多少見えても、地面を這って歩くような動物には寸前まで見えないだろう。その朝、そのカーブを通りかかると、中央分離帯に花束が添えてあった。通りかかったのは朝6時前だったので、夜中に何かの動物が亡くなったのであろうと思った。余り気にしなかったが、小さな花束は私の心を重くした。『もし自分が轢いてしまったら、どうするだろう』血まみれになっている猫や犬を抱き上げることができるだろうか。役所に電話して、遺体を引き取ってくれと申告することができるだろうか。そんなことを考えているうちに、高速道路の乗り口に到着した。そこからロケ地まで、およそ100キロの長旅であった。途中、事故渋滞、合流のための渋滞、自然渋滞と、渋滞責めに遭いながら、通常1時間で走破できる距離を2時間かかって現場に到着した。車をとめ、ドアを開けて右足を踏み出したとき、体が異様に重いことに気づいた。ようやくのことで車外に出たと同時に口からこぼれ出た言葉は「はぁ、しんど」だった。寝不足の上に、渋滞で神経を使い、長時間運転したせいで、身も心も疲れたのだろう、と思った。それには違いなかった。しかし、それにしては、体が重過ぎた。ロケが終わるまでの7時間ほどの間、何をするにも「よっこらしょ」「はぁ、しんど」と言わずにはいられなかった。ロケは滞りなく終わった。私はシナリオライタ-と監督を兼ねているので、現場での緊張や疲労はそれなりにあったが、ロケが無事に終了したことで、安堵した。車で自宅に戻り、食事をそそくさと終え、早めに床についた。にもかかわらず、翌日も翌々日も、体から異様な重さが取れなかった。火曜日の夜、背筋を伸ばしていられないほど背中が重いことに気づき、『これは尋常じゃない』と思った。家に戻って空気清浄機の電源を入れると、エアーモニターのゲージがみるみる上がっていく。グリーンのゲージがオレンジになり、とうとう真っ赤になって振り切れてしまった。「煙草も吸ってないのに、何で?」と驚いて言う同居人に私は言った。「背中、思いっ切り叩いて」同居人に背中を向けて座り、手を合わせて目をつぶり、般若心経を唱え始めた。「観自在菩薩摩可般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度…」266文字のうち、真ん中あたりまで唱えたところで「あ、下がってる!」同居人が声を上げた。空気清浄機のゲージがみるみる下がっている。般若心経を読み終える前に、ゲージは最低レベルになった。「ありがとう」背中を叩いてくれていた同居人に言った。あの花束は、人間の死を意味していたのではないかと思った。もしくは、この世に未練を残す、強烈な魂を持った動物の霊だったのかもしれない。いずれにしても、あの場所で私に憑き、3日近くあちこちを動き回った。それで満足してほしい。西明石のロケ現場とその道中のドライブ、居酒屋、風呂、定食屋、お得意先の打ち合わせルーム、スーパー、我が家……。生きていたら、きっと足を踏み入れることができなかったような、未知の場所だったはずである。その冒険をさせてあげただけで我慢してほしい。高級な料亭や、豪華なレジャー施設や、高級な車の車内や、広々とした家を見せてあげられなかったことは悪いと思う。が、この世の私だって見ても、味わってもいないのだから、諦めてほしい。『納得できない!』と怒るなら、今度から憑く相手を選べと言いたい。だれに憑いたって、裁かれることも、罰金を払うことも、叩かれることもないのだから。勝手に人に憑いて平然としている、そして、知らぬ間にどこかに消え去るわがままな霊たちよ。
2007.04.27
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(6)豊かさへの憧れ清貧一家が暮らす家は、まさに貧乏家だった。4軒長家の一番端の家で、隣人のくしゃみや笑い声が鮮明に聞こえる木造モルタル、トタン囲いの家だ。道路に面した極めて危険な玄関を入った内部は、小さな独立した台所、わずか3畳の前室、4畳半の居間、そしていきなり2畳の板の間で終わり、である。ポットン便所がその横にあった。玄関を出ると排水機能を担った溝があり、裏にはその水が流れ込むドブ川があった。押し入れが一つあったが、それ以外の収納部はなく、風呂も洗面所もないので、いわゆる“遊び”のスペースがない。家の隅々まで人間の足や手が入る。ポットン便所がいけなかった。裸電球が吊り下げられた小さな空間は、子どもにとっては恐怖のスペースだった。私は、スリッパを落としたことがあった。兄は片足を落としたが、からくも母に助けられた。姉に至っては、全身ドボンをやらかした。やんちゃだったのだ。用心深い私は、そうした失敗はほとんどない。風呂がないのもいやだった。冬の寒い日は、銭湯から帰ってくる間に体が冷えてしまう。しかし、無類の風呂好きだった私は、母に手を引かれて、喜んで銭湯に通った。この家には、清貧一家は12年ほど住んでいたが、途中で生まれた私は7年ほどいただけで、うち、記憶があるのが数年なので、記憶の数は少ないが、なぜかどの記憶も鮮明に覚えている。次に移り住んだ家はおやじの会社の社宅で、いわゆる文化住宅の2階だった。これもひどい貧乏家だった。鉄の階段を上がり、共同通路を通って玄関を開けると小さな玄関の前室が2畳、その奥が6畳で終わり、である。短い廊下の隅に便所、廊下の向こうにベランダがあった。風呂も洗面所もなし、である。何と、便所は2階なのにポットンという恐ろしい状況だった。こんな家に清貧一家5人で住んでいた。途中、母や姉が家出して、家族が兄と私の二人になってしまったことがあったが、概ね5人で暮らした。友達の家に遊びに行ったとき、洗面所があり、水洗トイレがあり、玄関に門がついていてベッドがあり、自分だけの部屋を持つ友達をうらやましく思った。6畳の部屋で4人が雑魚寝する我が家との違いをまざまざと思い知らされた。小学校4年のとき、道路拡張により、社宅が立ち退きになった。我々はその家から遠く離れた巨大ニュータウンに移り住むことになった。そこは天国だった。間取りは3DK。風呂も洗面所もある。ベランダも二つ。おまけにトイレは洋式の水洗だ。「ようやく我が家にも幸せがやってきた」と子ども心に人生最高の喜びを感じた。5階なのにエレベーターがなく、だらだらと長い階段を昇り降りするのは大変だし、ご近所とのつき合いも尋常ではない。いまから考えたら、最低限に近いような住まいだが、そのころの私には、天国のような場所に思えた。過去が余りにもひどかったからだ。しかし、新たな住まいを見たから、過去の住まいがひどいと思ったのかもしれない。“立ち退き”という非常事態がなければ、あそこで、あの生活を続けていたのかもしれない。人生とはひょんなことで激変する。ニュータウンだけに学校のレベルが高く、田舎の学校から転校した私には、追い付くのが大変だったが、それもすぐにクリアして、快適な学校生活を送ることになった。こうした子どものころの経験が、“豊かさ”と“貧しさ”の意味合いを知らしめてくれた。ありがたいと思う。“豊かさ”しか知らない人は、“豊かさ”の本質がわからない。同じく“貧しさ”しか知らない人は、“貧しさ”が人を卑屈にすることが理解できない。その後、私が就職したあたりで一戸建てに住めるようになり、やっと“自分の家”だと実感できた。“豊かさ”を得るのは徐々に、でいい。一足飛びに豊かになると、“豊かさ”の本質を見失ってしまう。金があるのが豊かなのではない。その金を使って人が豊かだと思える状況をつくり出すプロセスが必要なのだ。そのプロセスには、必ず人の「夢」が詰まっていなくてはならない。自分を「卑屈」から解放してくれる、貧しさの中で見た「夢」が。当面の私の夢は、両親をもう少し大阪寄りに移り済ませることだ。「お前らの世話にはならん」と豪語して、田舎に引っ込んだおやじと、それにいやいやながらついていった母だが、寄る年波には勝てない。何かあると、かけつけるのが大変なので、奈良あたりに住んでくれるとありがたい。……、休日返上の仕事漬けの日々を受け入れざるを得ない……。 合掌
2007.04.26
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21時過ぎ、事務所でお得意先と打ち合わせをしていたら、携帯電話が鳴った。ディスプレイを見ると、昨日しこたまおごってくれた、小料理屋の常連客その1だった。ゴルフの約束をしたので、それについての連絡かと、お得意先に断りを入れて電話に出た。「あ、もひもひ」よ、酔っている……、まともな電話ではないと察知できた。「あ、いま、よろしいでしゅか?」「はい、どうぞ」「ちょ、ちょっと変わります」「&♯”~$」中国語の挨拶だった。声は、常連客その2である。常連さんその1とその2にはいま中国ブームがやってきていて、中国に遊びに行ったり、中国人女性のいる店に出入りするのが楽しいようだ。声から察するに、相当酔っぱらっている。お得意先に聞こえはしまいかと気を使いながら、できるだけ早く終わりたいと思っているのだが、「血液型は何ですか」とか「髪を切ったそうですね」といった、携帯電話での通信で言う必要のないことばかりで、それに答える言葉が不自然にならぬようことさら気をつけてしゃべってはいるものの、意味のある会話でないことは、お得意先にも感じ取れるはずだと焦った。最後に常連さん1が電話に出て、「あしたは?」と聞かれた。その小料理屋に来るかどうか、ということだ。仕事柄、急に打ち合わせに出向いたり、納品のために仕事が長引いたりすることが多々ある。飲み屋に行く約束など事前にすることがないので、躊躇しながらも、「その予定です」と答えた。それが、お得意先に不審に思われない最善の言葉だと思えたのだ。電話を切ったと同時に、お得意先が、「仕事、忙しいんですね」と言う。こんな、意味のない空虚な会話が仕事の電話であっては、仕事の質が疑われると思った。「いえ、違うんです。ちょっとした知り合いからで」「そうでしょうね。血液型や髪を切ったことを気にして仕事をすることはないですものね」図星である。半分くらい事情を話した。「へぇ、もてていいですね」「おやじですよ、皆さん」「いいじゃないですか、おごってくれるんでしょう」「一人からおごってもらったら、それを見たほかの常連さんが、自分も、自分も、となるので、大変なんです」「得だなぁ、女性は」そうかもしれない。おごってもらえるのは得だろう。しかし、“ただより高いものはない”である。私はいつも、お返しのことばかり気になる。いいタイミングで、いやみなく返さないと、変な遺恨を残してしまう。お得意先との打ち合わせの後、食事接待となった。元から申し出ていたので、心づもりや金銭面では問題はなかったのだが、18:30に我が事務所に来ると言っていた得意先が来たのは、20:00時過ぎだったので、食事のスタートが22:00を回った。お得意先は私よりもはるかに若い男性で、真面目な人物だから、どうしても真面目な話になり、とどのつまりは人生相談へと至った。長い人生で得た教訓は、“経験のないことをわからせるのは不可能”ということと、“年齢が解決できることは多い”ということ。お得意先が悩んでいることは、だれもが経験することであり、それに悩むのはとても必要なのだが、言葉で何を言っても理解できないというのも確かだった。“自分は何をしたいのか”“自分は人にどう認められているのか”“自分が考えるべきこと、するべきことは何なのか……”答えは本人にしか導き出せないものだから、アド バイスのしようがないのだが、こう言った。「僭越ながら、年寄りだからできるアドバイスを二つ。一つは、どうにもならないことを悩まないこと。二つには、三次元で考えないこと」「ど、どういうことですか?」「どうにもならないこと、というのは、人事権のないあなたが、“上司と気が合わない、どうしよう”“あんな後輩とうまくやれるだろうか”と思ってみたって仕方ないでしょう。“上司とうまくやる方法は”“後輩をうまく操作する方法は”という思考を持つこと。そして、物事は常にミニマムで考えること。二次元でいいのです。タテは目的、ヨコは方法。ほかの要素を入れて3次元にしてしまうと、タテとヨコが曖昧になってしまう。“これとあれは関係あるから関連づけて考え、それを動かすときはナニを動かすと効率的だ”などと多次元的に動こうとすると、本末転倒になっても気づかない人がいます。やらんとすることは何か、をまずシンプルに考え、それをするときに一緒にやると効率的だと思える事柄を枝葉として考えていく。やらんとするシンプルストーリーが実現することを最優先にしていくということです」これとて、所詮経験がないとわかりづらいことなのだが、物事を考えるヒントにしてくれれば、と思った。「閉店です」という声を聞いて席を立ち、お得意先と別れて電車に揺られながら思った。「私は、男に甘えられるタチなのか……」答えはどちらかだ。1.私に母性を感じ、安心して相談できる相手だと思われている2.同類(おやじ)の匂いがし、気軽に約束事や相談事ができる……後者のような気がしてならない。
2007.04.24
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土曜日、久し振りにカットハウスに行って、思い切ったカットをした。土曜日はそれなりのスタイルを保っていたのだが、自分でブローすると、いきなりフツーになってしまって……。がっかりしつつ週が明け、二日もたっていたのですっかり髪を切ったことを忘れていた。仕事が思ったより早く終わったので、事務所の近くの小料理屋(「家庭料理の店」と銘打った、カテゴリーの定まらない料理を食べさせてくれる店)に行った。店に入るなり、ママが「いやっ!!」と目をパチクチさせて声を上げた。私は意味がわからず、“何か、意味のわからない約束をしたっけ”“「きょうは絶対来ない」と豪語したっけ”などと思いながら、ママの視線の先が自分の頭にあると理解し、髪を切ったことを思い出した。ママ曰く、「女らしくなった」「柔らかい印象になった」「色気がある」。ということは、髪を切る前は、「女らしくない」「きつい印象だ」「色気がない」ということだったということなのか。ま、それはいい。そうだと思う。席についてしばらくすると、常連さんその1が来た。私の顔を見るなり、わずかにのけぞった。すぐさま、髪を切ったことを認識したようだ。その常連さんはいつもそうなのだが、酒をしこたまおごってくれた。ついでに、ゴルフに誘われた。大分先の話だが、きょう来ていない常連さんその2の意見もあるようだった。そんな話をしていると、よそで飲み食いしていた常連さんその3が来た。私を見て、目が凍った。髪の変化に気づいたようだった。常連さんその1と私がゴルフの話をしていると、その3が割って入って、その1と話をさせてくれない。どうも、その3は、その1に嫉妬をしているようだ。その3は、その1より10歳ほど年上で、ゴルフでも先輩の関係ということは知っていた。「おい◯◯(その1の名前)、◯◯さん(私)とゴルフに行くセッティグをしてくれ」先に、常連さん1と私がゴルフの話をしていたのを盗み聞きしたのだろう。常連さん1は適当に応答した。そこからが大変だった。おごり合戦になってしまった。私は常連さん1に相当ごちそうしてもらっていたので、少し落ち着きたかったのだが、瓶ビールが届いて参った。ビール、バーボン、日本酒、の後だから、ビールはきつい。しかし、いただかないと、遺恨を残す。「もっと早く来て、先におごってくれ!!!!」と叫びたかった。それなりに飲んだ後の酒の味は半減する。キープしておきたいほどだが、ビールとなると、そうはいかない。というわけで、きょうは、しこたまおごってもらった。髪を切っただけでこの恩恵はありがたいが、肝臓のことを思うと、同じ貨幣価値のハンカチとか、トイレットペーパーとか、豚肉とか、キャベツの方がありがたいと思う。と言いつつ、女性は得だな、とひしひしと感じる。“肩をもむ”くらいのお返ししかできないが、これがとても好評なので、重宝している。私のマッサージは、格別らしい……。
2007.04.24
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(5)哀しき小鳥たち同じ年代のラジオ局の女性プロデューサーと話をしていたときのことだ。話題は「絵本」だった。世界的に有名な「ぐりとぐら」という本のことを私が話し出すと、女性プロデューサーは懐かしそうな表情をして言った。「ぐりとぐらか……。最初に飼った文鳥につけたなぁ」つまり、2羽いた文鳥の名前が「ぐり」と「ぐら」だったということだ。私ははっとした。私が小学2年生だったとき、清貧一家に白文鳥が2羽やってきた。白文鳥の名前は、「助さん」「格さん」だった。家庭の文化水準の違いを見せつけられた思いだった。「助さん」「格さん」は、兄が購入した。その唐突な行動に驚いたものだが、えてして貧しい家庭は動物好きである。自分たちの食べ物にも事欠いているくせに、どういうわけか、動物を多数飼う。家族は驚きながらもすんなり受け入れた。後に聞いたのだが、突然兄が小鳥を買ってきた理由は、「両親がけんかばっかりして家が暗いから、動物で気持ちを和ませたら家族が仲良くなると思った」そうだ。小学3年生の小さな子どもが心を痛めていたと思うと、切なくなる。しかし、そんな兄の思いを知ってか知らずか、白文鳥が我が家にやってきてすぐに母が言った。「名前は助さん、格さんがいい」子ども心に『それはないやろ』と思った。可哀想過ぎる。小さな文鳥に、時代劇に登場する人物の名前とは……。母はそんな子どもたちの気持ちにはお構いなしに、「助さん、格さん」と呼んで餌を与えている。その後間もなく、2羽の十姉妹がやってきた。その名前は……「弥次さん」「喜多さん」である。ほどなくして、2羽の桜文鳥が加わった。その名前は……「浩太郎」「橋蔵」だったと記憶している。そのころ、母が好きだった俳優「里見浩太郎」と「大川橋蔵」のことだ。次にやってきたのは「紅すずめ」だ。名前は……このあたりからネタが尽き、「ピー」「パー」のような、簡単な名前になった。「ピーチクパーチク」から取ったものである。「インコ」も、二代目「十姉妹」も子どもを生んだりしたが、皆短命だった。最も長く生きたのは、「助さん」「格さん」だ。よく部屋に放して遊ばせてやった。頭の上にフンをされるなどというのは日常茶飯事。でも、可愛かった。『チュンチュン』と愛らしい声を出し、肩や背中に乗ってくる「助さん」と「格さん」は不思議と、テレビドラマの中の二人の性格に似ていた。「助さん」はやんちゃで暴れ者、「格さん」は物静かで礼儀正しい。いずれにしても、小さな小鳥たちが、清貧一家に笑顔と笑い声をもたらしてくれたのは確かだった。家に来るなり、時代劇の役名(実在した人物だったようだが)をつけられた哀しき天使たちは、我が家と家族を恨んでいるか、喜んでいるか……。「これも運命」と諦めてくれているように思う。清貧一家の皆が我が身の運命を諦めていたように。
2007.04.23
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本日は、統一地方選だ。私の居住地もあてはまるので、朝から選挙とあいなった。でも、私はわけあって住民票を実家に置いているから関係はない。地方選に限らず、参議員選、衆議員選も同様だが、腑に落ちないことが幾つかある。一つは「選挙カー」だ。数秒で通り過ぎてしまう車から何かを呼びかけようとするのは無理があるし、第一うるさい。朝から晩まで騒音をまき散らして走り回っている。地方選ともなると、候補者が多いので絶えず選挙カーの音がどこかしらか聞こえてくるという事態になる。しかも、候補者の氏名の連呼という実に意味のない騒音が。いつも思う。「市民の意識を理解しない、こんな無神経な候補者には絶対投票しない」と。みんな思っているのではないだろうか。まさか、選挙カーから連呼される名前を覚えていて、夢遊病のように投票用紙にその名前を書いた、などという人はいないはず。え、いる?先日、とんでもない候補者を見た。少々薹が立ってしまったご夫人の声がするので、窓からその方向を見ると、赤いスタッフジャンパーを着た小太りの女性が拡声器で名前を連呼している。マイクを持った女性の後ろには、トランペットスピーカーを持った男性が。そのほか3人ほどの人間が列をなして歩いている。「このままでは、あなたの生活は大変です。◯◯は立ち上がります。◯◯をよろしく……」意味不明なセリフはもとより、その女性の3人ほど前を歩くハゲおやじが驚きである。スーツを着て肩にたすきをかけ、スタスタと歩いている。候補者と見た。なぜ自分でしゃべらないのか。政策を説きながら歩くのなら意味があるし、聞いてやろうと思う。しかし、意味のわからないおばちゃんの声、しかも、意味不明な連呼型のアピールが有効だとは、到底思えない。しかし、そうしたやり方が一般的なのだろう。そんなことで選ばれた人間に政治ができるわけがない。マニフェストも、民意も、政治信念もあったものではない。自分が議員になることで得られる個人的なメリットや名声のことしか考えていないのだろう。市民は、そろそろ真剣に考えなければならない。戦後の繁栄はもはや遺物となった。ムダや不正は許せないという風潮にある。明確な政策や公約を打ち出せない議員は、存在しにくくなっているはずである。しかし、因襲は現存する。理解し難いが、排除できないしがらみがあるのだろう。実に嘆かわしいことだが、それが日本の行政と政治の根底となっていて、代々受け継がれてきたに違いない。既得権益、利権、名誉欲……、このたびの地方選は無理だろうと思うが、いつか、まともな議員が選出され、まともな行政が執行されることを切望する。このままでは、日本は衰退してしまうことが間違いない。議員報酬、献金、議員年金、袖の下……、じじい議員たちの懐を潤している場合ではない。
2007.04.22
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今度は学歴詐称だ。4月20日現在で把握された人数は1141人。当初は40人と報道された。「速やかに申告した者は処分しない」と市が決定してから、爆発的に増えていった。まだ増える可能性がある。「学歴詐称」といえば、某議員のように、卒業の事実のない海外の大学を卒業したとプロフィールに書いたり、「中退」でありながら「卒業」と名刺に表記したりと、「高学歴」を得るために、悪いと知りつつ嘘をつくことと相場が決まっている。しかい、今回発覚したのは、“大卒者が、高卒と偽る”というにわかには理解しがたい内容だ。よくよく聞くと、大阪市の職員採用枠の中に「高卒者枠」というのが設けられていて、大卒枠を受験するよりも、容易に合格するそうだ。もとより、大学生だから高校生より筆記試験もできるだろうし、面接もしっかり対応できるだろう。「合格率」に「実力」が加わるのだから、さらに容易に合格できるという寸法だ。少し考えれば、そういう裏技的なやり方を思いつく人間もいるかもしれない。しかし、1141人は多過ぎるだろう。裏の情報ネットワークがあったとしか思えない。一人では、受験時にバレることに対して、また、よしんば入庁できてもその後バレることに対しての不安が大き過ぎ、踏み切れる人間は少ないと思う。しかし、前例が存在することを知れば、千人力のような話と化す。“犯罪”を犯す、という意識も薄らぐに違いない。大学を軸にしてか、親戚を軸にしてか、あるいは全国のどの市町村でも蔓延している普遍的な手法なのか、いずれにしても、情報が流れていたことは想像に難くない。この事件は何を意味するのだろう。自分がいい目に遭えるのだったら、法を犯してもいとわないという自己中心的発想。自分の行為のために、得ることができる機会を潰されてしまった高校生の存在を無視できる無神経さ。市役所という職場が、法を犯してまで入庁したいと思えるような、天国のような存在であるという本末転倒的な現状を役所がつくり上げてしまった現実。公務員は、なってしまえば権利が保証されているという日本の甘ったるい法律の存在が、役所の職員に誤解を与え、やりたい放題させてしまっているという事実。即、懲戒免職にすべきである。「一度に1141人もいなくなっては、役所が回らない」と言っているようだが、大丈夫。大阪市の職員数は48,000人もいる。いま、財政再建のために職員数を減らす方向だ。去年1年で1,600人ほど削減している。1,000くらいやめてもらっても、痛手ではない。そこどころか人件費削減が進んでよいではないか。どうせ、懲戒免職になっても、外郭団体に引き取られるのだ。ぜひともやめてもらいたい。ルール違反を犯した人間を何のおとがめもなしに野放しにするような役所が市民の信用や信頼を得られるわけがない。いや、職員がやめる程度で済むものではない。入庁した詐称犯に対して、管理職が気付かなかったわけはない。知っていながら知らぬ顔をしていた可能性は極めて高い。これほどの数である。管理職も一斉に懲戒免職にすればいい。そして、採用時に何ら調査もせず、漫然と合格にした人事の職員も責任を取るべきだろう。このとおりにやれば、膨大な人数に及ぶだろう。それこそ、“役所が回らない”はずだ。それでいい。大阪府に統合されればいいのだ。汚く、暑く、古く、危ない府庁舎から脱出できる府の職員は大喜びだろう。豪華で、頑強なつくりの大阪市庁舎に移れるとあれば……いや待て。市庁舎は売却すればいい。全員が老朽化した府庁舎に押し込まれて仕事をすれば、居場所のなさにイラつき、人を蹴落とすことを考えるだろう。不祥事の探し合い、問題発言や行動の探り合い、派閥ができ、対決する。そしてどちらかが負けて府庁を去る。人員の適正化の実現である。大阪市がどう処理するのか見てみたい。そして、大阪市民がどんな反応をするのか見守りたい(私は大阪市民ではない)。税金を無駄遣いされ、市民のことなど「金の元」くらいにしか見てもらえなかった市民の反応を。それによって、大阪市の行く末が見えようというものだ。
2007.04.21
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その15【おやじの生霊】私が小学5年生のとき、おやじが家出した。前夜、食事の後、いつものように夫婦喧嘩が始まった。理由は多分、おやじの生活態度が悪いことを母がなじったというのが相場だろう。風呂嫌いの上に下着を着替えないといった、ささいなことだった。ところが、どういうわけか話がエスカレートし、「ほんなら、わしが帰ってけぇへんかってもええねんな!」とおやじが吠え出した。母は「勝手にしぃ!」と一喝。おやじは私に助けを求めたのか、それとも別の意図があったのかはわからないが、「お前はどうやねん」と聞いてきた。冗談だろうと思っていたし、おやじの風呂嫌いには私も辟易していたので「ええよ」と言った。そう言えば、改心してくれるのでは、という淡い期待があった。果たしておやじは猛然と怒り、「わかった、もう帰ってけぇへん」とふて腐れて自室にこもった。翌朝、いつも不機嫌なのだが、一層不機嫌な顔をしておやじは出勤した。「おかあちゃん、おとうちゃん、帰ってくるやろか」母に聞いた。「さぁ」母は無関心そうに短くそう言い、いつもどおり、朝の家事をこなしていた。翌日、目覚めた私は、おやじの部屋をそぉっとのぞいた。おやじはいなかった。本来なら、深夜に戻ってきて眠っているはずである。「おかあちゃん、おとうちゃんから連絡あった?」「ないよ」「帰ってないやんか」「ほっといたらええ。そのうち帰ってくるわ」しかし、それから数日もおやじは戻ってこなかった。学校で「父親参観」のプリントをもらった。タイミングが悪い。どうせ来てはくれないのだが(実際は学校に来て、3分くらい授業を見ている。が、その後、姿を消す。パチンコか何かに行くのだろう。参観は、家を出る単なる口実なのだ)、プリントを渡せない事実は、私の心を曇らせていた。おやじの家出から10日目の朝、その日は日曜日で私は早くから起きていたのだが、ガサゴソと起き出すと兄や母に怒られるので、布団の中でじっとしていた。すると、母とおやじの部屋で寝ていた母が私を呼ぶ声がする。驚いて、母の元にすっ飛んで行った。「どうしたん、おかあちゃん」「見てみ、あれ」母は布団に入ったままの姿勢で天井方向を指し示した。指先をたどると……、ハンガーだった。「な、何? なんで?」揺れているのだ。窓から風が吹き込んでいるわけでもなく、もちろん地震でもない。が、かなり激しく揺れている。横にではなく、前後に。壁に当たってパンパンと乾いた音をたてている。「おとうちゃんが仕事の服をかけてるハンガーや」落ち着いた口調で母が言う。「なんで揺れてるの?」「もうすぐおとうちゃん、帰ってきはるわ」にわかに信じ難い言葉だ。『ピンポ~ン』玄関の呼び鈴だ。「まさか」と思いながら解錠し、ドアを開けた。そこにはおやじが立っている。「どうしたん、おとうちゃん」「会社の仮眠室の布団、臭いんや」そう言うと、即座に脱衣所に行き、服を脱ぎ捨てている。風呂嫌いのおやじが「たまらん」と思うのは一体どういう仮眠室かと思い巡らせた。私は母の元に行った。「な、帰ってきたやろ」母はニヤッと笑った。母の霊感が発揮された瞬間である。なぜ、ハンガーが揺れていることとおやじがが戻ってくることが結びついたのかはいまもってわからない。しかし、自信あり気な母の表情は、忘れられない記憶となっている。余談だが、私におやじが「お前はどうや」と聞いたのは、出て行く口実を私につくらせたかったのではないかと思う。おやじ一流の計算があってのことだろう。1日だけ家に帰りたくない事情があったが、理由は家族に言えない。【家出】という大げさな話にし、数日戻らなかったら、言い訳がきく、というふうに考えたように思う。この結末に導いたのは、母の生霊だったのかもしれない。母が自らの生霊をおやじの元に放ち、おやじを導いたということかもしれないといまになって思う。
2007.04.20
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(4)清貧一家とゴキブリ清貧一家とゴキブリは、切っても切り離せない関係だった。私が生まれた家は、4軒続きの長屋で、縁の下がツーツーの、地面のある家だった。次に移り住んだのはおやじの会社の社宅で、いまで言う「文化住宅」。1階の床下は土で、2階の床下は1階の天井という、極めてシンプルにして粗雑なつくりの住宅だった。我が家は2階だったのだが、天井裏がツーツーで、ゴキブリやネズミは絶えず行き来していた。その後暮らしたのは、巨大ニュータウンの団地の一室。風呂も洋式水洗トイレもあり、それまでの住まいと比べたら、雲泥とも言える環境だった。が、変わらぬことがあった。それは、ゴキブリの出現頻度である。夏場になると、毎日、どこかの部屋にガサゴソと出没する。どの住まいにも、出没しやすいポイントがあった。住まいごとの違いはあれど、総じて台所は出没最多ポイントである。我が家の住人は、ゴキブリが出たときの反応が実に個性的である。父は、過去3回のブログで披露したように、極めて動物的にして無慈悲な対処をし、ゴキブリを完全排除せしめようとする。兄は、おやじゆずりの昆虫好きで、ゴキブリを怖いとは思っていないようだが、油が気持ち悪いようで、カブト虫をつかむようにゴキブリの胴体を指でつまむことはできないようだ。ゆえに、触角をつかんで排除しようとする。ところが、ゴキブリの触角は太くて長いが、あんなでかい胴体を支えるほどの耐力はないので、兄の指に挟まっているのは触角だけで、胴体はどこかに落としてきているというようなことがしばしばだった。私が殺虫剤を根気よく吹き付け、ようやく全身けいれんに持ち込んだゴキブリをどうしても絶命させられず、ティッシュを5枚以上重ねても、クラフトの買い物袋を手袋のように手に装着しても、どうにもこうにもつかむことができなくて、けいれんのやまぬまま床に横たわるゴキブリを眺めていると、時折仰向けになったまま後ろ足に力を入れて背泳ぎのように頭側に進んでいくゴキブリの太ももの太さと力強さに、この生物が2億年を生き抜いてきた生命力の偉大さを思い知った。ピクリとも動かなくなったゴキブリだが、恐怖心の余り絶命したことが信じられずに注意深く眺めていると、時折弱く触角や足先が動くようにも思える。それがすぐに何かをもたらすとは思えないが、突然に唐突な動きをしないとも限らない。ゴキブリの推定死骸とともに夜を明かした私は、どうにかして自分の部屋から死骸を排除したかった。夜が明け、最初に物音を立てたのは母だった。自室のドアを開けた私は、前掛けを装着しながら茫然と歩く母に向かって、「おかあちゃん、ゴキブリ、とって!」と言った。母は、そんなに早い時間に私が起きていて、声をかけてきたことにしばし驚いたものの、すぐに冷静な表情に戻り「死んでるの?」と聞いた。「死んでると思う」すると母は、サランラップを手に取って、ツーッと引いた。15センチくらい引いてジジッとカットした。私は、それを何に使うか想像ができなかった。さしずめ、それはゴム手袋の役割を果たす、程度のことしか想像ができなかった。果たして母は、ゴキブリの死骸にサランラップをかけ、小さな手でムンズとつかんだ。次の瞬間、「パリバリギュギュウッ」という音がした。「あ……、潰したん? 気持ち悪くない?ティッシュでつかんだ方がいいことないの?」驚いた私の表情が理解できない、といった表情で、母は平然と言い放った。「直接手につかへんもん。ティッシュやったら、汁が手につくことあるやろ」“やろ”はない。経験がないのだ。しかし、透明なフィルムの中で、黒々としたゴキブリが変な色の汁を出してつぶれているのを見るのを何とも思わないのか。つぶすときの“パリパリ”とか“ギュギュッ”という異音が指先に伝わってくることに恐怖を感じないのか。「そんなもんより怖いもん、汚いもんは幾らでもある」持病持ちで精神力も極めて弱いと見える母だが、生命力は極めて高い人間だと再認識した。それ以降、ことあるごとに思い知らされるのであるが、母は強者であった。実は、飼い猫のチコも、ゴキブリにまつわる逸話が多数あるのだが、長くなるのできょうはここまでにしたい。一体、どこまでゴキブリに取り憑かれた一家なのか……。ゴキブリに勝ったのか、負けたのか、いまだ判明していない。しかし、家族全員がゴキブリとそれなりに対決し、数百万年と2億年という、生存の歴史の違いに悪戦苦闘したのは事実だった。
2007.04.19
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(3)ゴキブリとおやじ その3おやじは、ゴキブリに対して実に無慈悲だった。それは、私が自分の部屋に出現したゴキブリをことさら激しく「退治して!」と懇願するからということもあるが、別の理由もあった。おやじは、夏場はトランクス(ではない、いわゆるデカパンだ)一丁で寝ていた。元来、暑がりの上、酒を飲んで寝るので、体温が上がって人より暑い状態で寝床に入る。よって、肌布団は一瞬で跳ね上げて、ほぼ裸の状態で口を開けて寝ている。すると、なぜがゴキブリが近寄ってくる。ゴキブリは基本的に人間には近寄らない。ゴキブリが好むのは、水のある場所と、残飯置き場だ。おやじの体には水はないので、いきおい「残飯」、ということにになる。ま、それに近い匂いがするのは確かだ。果たしてゴキブリは、裸の父の体の上を這い回る。少しの間なら気づかないのだろうが、トゲトゲの6本足が体の上を這い回ると、さしものおやじも気づいて目を覚ます。おやじは無慈悲だから、素手でゴキブリをつかみ、そのままギュグッブチッと握りつぶす。つぶした瞬間、おやじは夢から覚める。ゴキブリを手に、おやじは激しく後悔する。手が汚れたからだ。ゴミ箱にゴキブリを投入し、ゴソッと起き上がって洗面所に行き、マジックリンで手を洗う。手を洗いながらおやじはゴキブリに激昂する。寝ぼけた脳に、ゴキブリはとんでもないヤツだとすり込まれる。ゴキブリはよく水を飲む。台所の流し台の上で、水をチューチュー飲んでいるゴキブリの姿を、トイレに行くために起き、不運にも目撃してしまった私は、詳しく観察した。ゴキブリには目がない。3つに分かれた体は他の昆虫と同様だが、牙のある口のすぐ上にあるのは、通常は目なのだが、ゴキブリにはそれはついておらず、太い触角の根元に土台のような四角い物体がついている。そこから突き出た長く太い触角は、感心するほど絶えず動いている。左右が違う動きをして、360°のものの動きを察知しようとしている。ぞうぉっとした。目がない姿は実に異様だった。しかも、トゲのたくさんついた後ろ足は非常に強く、自らの大きな体をやすやすと持ち上げて頭を上げる。ちょっと見方を変えれば「カブト虫」だが、カブト虫にはゴキブリのようなテカリや、意味もなくこちらに向かって突進してくるような不気味な動きはない。実はおやじは毎年夏になると、カブト虫をベランダで飼っていた。兄の上司及び同僚の子ども(男の子)にプレゼントするためだ。近くの小山に出掛けては、毎回大量のカブト虫をしとめてくる。中にはクワガタもいて、どちらかというと、父はこちらの方が好きだった。カブト虫は1年で生涯を終えるが、クワガタは越冬して7年ほどは生きる。クワガタを育てるのは、おやじにとって子どものころからの楽しみのようだった(実はそのころ、オオクワガタが高値で売れ出した。おやじはあわよくば大金をせしめることができるかも、と考えていたようだ)。小山から、門外不出の秘技を労してしとめた大量のカブトやクワガタは、2階のベランダに常設されたおやじ手製の虫箱(かなり大きいもの。タテ90×ヨコ90×奥行き60cmほどの木の箱。前面にネットを張り、側面に世話のための扉がついていた)に入れられ、おがくずの床や、小山から切り取ってきたクヌギの木の枝に思い思いの巣を得て生活していた。これらの昆虫は夜行性のため、おやじは仕事から戻る深夜に世話をした。懐中電灯で虫箱を照らしながら、クヌギの枝に砂糖水やハチミツを塗り、メロン(正確にはマクワウリなどの安価な果物)などを巣箱に入れた。「よっしゃ、よっしゃ、うまいか。元気にしとったのぉ」満足気にカブトやクワガタを眺めるおやじの目が、わずかに雰囲気の違うものをとらえた。暗い中、目をこらしたおやじは、思わず声を上げた。「おう! お前、何しとんねん!!!」それは、クワガタと並んで、クヌギの木に塗ったミツをおいしそうに吸うゴキブリだった。「お前なんかに吸わすミツはない!!!」迷わずおやじは素手でゴキブリをつかんだ。夕食のとき、この話を聞かされた。例のごとく、夕食の味が失せた。なぜに食事のときにゴキブリの話をするのか、そのわきまえのなさにいやになったのはもちろんだが、結末がいけなかった。「で、どうしたん、ゴキブリ」私は聞いた。結末が不安だったのだ。「そんなもん、腹をグリグリしてバラバラにしたに決まっとる」「残骸は?」「ベランダ(2階)から裏にほったった!」裏は耕されなくなった畑なので、そこまで到達したのなら問題ないだろう。しかし……、バラバラになったゴキブリの羽根や足が裏の畑に到達するとは到底思えない。1階の裏庭や窓のサンなどに、こまごまとしたゴキブリの残骸が突き刺さっていることは、容易に想像できた。ゴキブリに無慈悲なおやじのせいで、ゴキブリは身をもって我々に仕返しをしたのだと思えた。しかし、相も変わらずおやじはそれには頓着せず、無許可でミツを吸った不届きなゴキブリをしとめた達成感とともに、クワガタの飼育箱へのゴキブリの侵入に対する防御策についての発明に思いを馳せ、“心ここにあらず”の表情を見せるのだった。
2007.04.18
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(2)ゴキブリとおやじ その2清貧一家、ことにその次女は、夏場になるとガサゴソ出現するゴキブリに悩まされていた。おやじお手製のゴキブリ用「モリ」を使うこともできず、殺虫剤を振りまけば(その頃の殺虫剤の殺虫能力は極めて低く、なかなか絶命させることができなかった)、尻から黒い物体(卵)を目の前に落とされたり、壁から落ちるときにバタバタと羽根をバタつかせて、次女の顔目がけて飛んできたり(もちろん、頭に着地した)と、とんでもない結末を招いていたので、打つ手がなく、勢い、ゴキブリ出現時には、おやじに頼るほかない。おやじを呼びに行くと、「あれを使え」としばらく「モリ」を使うように言われていたが、「できるわけないやん」を繰り返す私に、毎回、自分が「モリ」を使ってゴキブリをしとめるはめになっていた。ある日、深夜に仕事から戻って寝ているはずのおやじが、朝食を食べている私のところに来て言った。「ええことがわかったぞ」そのイキイキした表情から、何かいい情報を入手したことはすぐにわかった。「ゴキブリの捕まえ方や」朝食がまずくなる、と思いながらも、得意気なおやじの表情と声色から、そんないい方法があるなら、聞いてもいいと思った。「まずな、ゴキブリをこう持つんや」そういうと、指先でゴキブリをつかむ真似をする。背中側に人指し指と中指をかけ、親指を腹側に深く差し入れて持つ、というのだ。その時点でアウトである。しかしおやじは続けた。「クルッとひっくり返して、親指に力を入れて腹の付け根(3つに分かれている体の真ん中〈前胸部〉と下部〈腹部〉の付け根)をクルクル押すんや。ほんだら、足も羽根もバラバラになって、壊れて死による!」“死による”はいいが、バラバラになった残骸をどうするというのだ。すべてがあり得ない。「この方法は万能に見えて、弱点がある。ゴキブリの油がべっとり手につくことや。ママレモンでは取れん。マジックリンでようやく油は取れるが匂いは取れん」朝食の味は完全に失せた。「しゃぁけど、この方法は道具が要らん。お前もこれで退治せぇ」おやじは意気揚々と自分の部屋に引き上げていった。果たしてこの日以来、ゴキブリの襲来ごとにおやじの元に走る私に「教えた方法で殺れ!」を繰り返すおやじがいた。しかしそれも、間もなく諦めて、新聞や、素手や、スリッパを駆使してゴキブリを一発必中でしとめるおやじに戻った。ゴキブリとおやじの格闘の歴史は長い。また披露したいと思う。
2007.04.18
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(1)ゴキブリとおやじ その1清貧一家の住む家は、そのほとんどがゴキブリのウジャウジャいる巣窟だった。ゴキブリは地面にいる。越冬するために、土の中に潜る。よって、地面に接する家には、ゴキブリがいるものだ。わかってはいるが、夏場は戦々恐々の毎日を送ることになる。私はゴキブリがすこぶる嫌いだ。いまでこそ、スリッパを履いた足で踏みつぶすことができるが、高校生前後のころは、その姿を見るだけで、身の毛がよだった。「お父ちゃん! 出た」天井近くを這うゴキブリを目撃するごとに、おやじを呼びに走った。「何がや」「ゴキブリに決まってるやんか」ゴキブリ以外のことで、おやじに頼るわけがない。ふん!「面倒臭いのぉ、自分でとれや」できないことがわかっていて、そう言う。余計に嫌いになる。ある日、高校から戻った私は、「ただいま」という私に背中で返事をするおやじを目撃した。“シャッ、シャッ、シャッ”不気味な金属音がしている。『何だろう』不審に思いながら、自分の部屋へ入った。果たして、いつものようにゴキブリの襲撃を受けた。天井近くの壁に、黒々とした大きな塊が蠢いている。長く、鋭敏な触覚が、縦横無尽に動いている。私が動くと、触覚が敏感に私の方に向く。ぞっとした。「おとうちゃん! 出た」おやじを呼びに走る。「ゴキブリか」そういって部屋から出てきたおやじの手には異様なものが握られていた。使わなくなったテレビのアンテナを解体して保管していた緑色のポールだった。しかもその先には尖ったものが……。サンドペーパーで研いで尖らせた針金をポールに装着した小さなモリのような棒だった。その棒を手におやじが言った。「これで突け!」そんなことができるのなら、新聞紙を丸めた棒でも、スリッパでも叩けるだろう。「どうやって!!!?」「見とけ、こうやるんや」そう言うと、おやじはゴキブリに正対し、肩の上にモリを掲げた。“シュッ”次の瞬間、親父の手を離れたモリは、ゴキブリの背中を貫通した。“ビョン、ビョン、ビョン”モリはゴキブリとともに壁に突き刺さり、ビョンビョン揺れている。「こうするんや。わかったか」そう言うと、おやじはモリを壁からはがし、その先に突き刺さっているゴキブリを素手で抜き取り、モリを私の部屋の隅に置いた。ゴキブリを持つおやじの素手もすさまじいが、部屋の片隅に置かれたモリの先に、ゴキブリの体液がついていると思うと、それもすさまじかった。高校生の私には、衝撃的過ぎる出来事だったが、おやじのゴキブリに対するスタンスはこれ以降も変わることなく、エスカレートするばかりだった。 つづく
2007.04.17
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20歳を過ぎたあたりから、おなかがすこぶる弱い。女性は便秘症の人が多いそうで、姉も母も究極の便秘症である。姉などは10日間排出しなくても平気だそうだ。私の場合は半日が限度で、丸1日もためようものなら、顔色が悪くなる。それ以上なら、気分も体調も顔色も脳の働きも病人のそれになる。どうしてなのか、と疑問に思ったのが22歳のとき。胃が痛くなると、食べたものの出現も早くなる。腸だけの問題ではないことが薄々理解できた。ある朝、その日は授業が午後からだったので、学校に出勤した私は、事務長に病院に行きたいと告げた。担任としての務めはきちんと済ましていたので、不本意ながら事務長は了承してくれた。病院で胃腸の不調を訴えたが、医者は「胃薬を出しますから、様子を見ましょう」病院通いをする余裕はない。「朝を抜いてきています。レントゲンを」そう言うと医者は“仕方ないなぁ”という表情をし、「若い人の症状は一過性のものが多いんだけどね」と言いながら、看護婦にレントゲンの準備を指示した。レントゲン室に入った私は、ガラス越しに見える医者のマイクを通した指示に従って、撮影を終えた。結果を示しながら医者が言った。「悪いですねぇ」若かったので、さすがに「ガン」を心配したりはしなかったが、「悪い」という単語は緊張を強いた。「瀑状胃ですね」「バクジョウイ?」「奇形です。原因はわかりません。先天性なのか、後天性なのか。生涯治らないのか、自然に治るのか」「治すのには、手術が必要ですか?」「治す手段はありません」「え……」「一生つき合う覚悟でいる方がいいでしょう」まだ22である。「一生」は長過ぎるだろう。「どうしたらいいんですか?」「酒と辛いもの、味の濃いものは薄めて飲み食いしてください」「ビールも?」「ビールは仕方ないなぁ。量を少なくして。ウイスキーは必ず薄めてください。それと、瀑状胃は極度の消化不良を起こしますから、腸に負担がかかります。慢性的な腸炎ですし、神経性の大腸炎もあるようです。その上、極端な胃下垂で、胃と接する大腸が、癒着して炎症を起こしています」「……それって、胃腸すべてが悪いということですか?」「そういうことです。定期的に検査を受けるようにしてくださいね」「定期的って、どれくらいの?」「2年間隔くらい」絶望的になった。80歳まで生きるとしたら、30回近くも放射能に被爆しないといけないということになる。と言いながら、バリウムを飲んだのは、その後2回だけ。カメラは1回。相変わらず悪いようだが、致し方ない。この胃腸のおかげで必要以上に太ることもなく、たくさん食べても、ちょうどいい塩梅の量を食べても結果は同じという人生を歩んでいる。毎日、大酒を薄めずに飲み、激辛の食べ物を好んで食し、胃痛、腹痛と闘いながら、懲りない生活を続ける私は、世捨て人となったおやじと何ら変わりない悲哀と虚無感を漂わせていることだろう。 南無
2007.04.16
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仕事上必要があって、農水省に電話をかけた。こちらの求めているデータが瞬時には見つからず「調べてから折り返しご連絡いたします」と言うのだが、中央省庁に勤める人間とは到底思えない頼りない声色で、“大丈夫かな”と不安に思った。念のため名前を聞き、受話器を置いた。果たして15分ほどでコール音がした。ディスプレイに「03~」と出ていたので、農水省だと思って電話に出た。「農水省の◯◯と申しますが……」「あ、お世話になります。△△です」「すみません、先ほどのお問い合わせですが……」と、データに関する話をし出す。が、一向に問い合わせた内容にそぐわないデータだった。「あの、そうではなく、こういうことを知りたいんですが」と軌道修正する言い方をした。「あ、そうですか、では、その専門の人間に聞いてみます」専門の人間がいるなら、なぜ念のため意見を聞くということができなかったのか。5分もたたない後、コール音がした。くだんの役人だった。「そういうデータなら、◯◯機構が持っていると思いますので、そちらに問い合わせてください」調べてみると、◯◯機構は農水省の外郭団体である。いまでこそ「独立行政機構」だが、小泉内閣以前には、省庁にぶら下がる役人の天下り先として確保された外郭団体だった。農水省が把握していないデータを外郭団体が持っていること自体が腑に落ちない。疑問に思いながら電話した。事情を説明すると、電話口の人間は「担当に変わります」と言う。出て来た人間は、「そのようなデータなら、△△が持っていると思います」と言う。“担当者”なら、よそのデータでも把握しているだろう。しかも、△△は◯◯機構と同じく、外郭団体である。役所ならではの「たらい回し」を不快に思いながらも、いたし方なく△△に電話した。こうして複数の外郭団体に電話をした挙げ句、たどりついた外郭団体の担当者は受話器を肩と耳の間に挟みながら、パソコンのキーボードをパタパタ鳴らしながら答える。「あー、お問い合わせのデータはズバリというのはないんですが、いいですか?」メモを取れということだ。細かな数字をだらだらを聞かされ、そっちで計算しろと言わんばかりの口調で「それでいいですか?」と聞く。こちらが知りたいデータとは全く違う。問い合わせたのは、「我が国における牛肉の市場流通量中黒毛和牛の締める割合」だった。多分、すぐにわかると思う。トレーサビリティーが普及している世の中で、屠畜牛の品種がわからないなどということはないはずであり、わからないようなシステムでは、狂牛病を防ぐことなどできるはずがない。国家的に公表したくないデータではないと思う。となると、役人が怠惰なのだ。外郭団体の存在が無意味なのだ。調べてみると、農水省の外郭団体とおぼしき財団法人や独立行政機構は複数あった(正式な数はきちんと調査してから公表したいと思います)。「天下り先」である。役人が退職金や報酬を求めて渡り歩く外郭団体をいかにたくさんつくるかによって、役人が出世できるか否かが決するそうだ。私利私欲を体現する最たる組織、それが役所だ。国家公務員としての報酬をもらいながら、利権絡みでいい思いをし、早期退職して多額の退職金を得ると同時に外郭団体に天下りして報酬を得、数年で退職して退職金を得て別の外郭団体へ、数年で……。実に無様な人生である。能力を生かすことなく、人に求められて働くことなく、成果を残すことなく、金にとらわれた思想と人生を送る……、皆がそうだとは言わない、とテレビでは免責コメントを言うが、皆がそうだと言えるのではないだろうか。なぜなら、役所がやっていることが、市民、県民、国民のためと思えないことの方が多いからだ。役所のやっていることの正確な公開と、存在意義の議論をそろそろやらねばならぬときに来ているように思う。議員、役人が得る報酬は税収であり、その多さが日本の大きな負担であることは、間違いない事実であるのだから。そしていまのままでは、その存在は日本という国の土台(税金)を皆が気づかない間に少しずつ食い尽くしていくシロアリのようなものとして国を滅亡に導くのだから。
2007.04.15
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最近、おかしな日本語にイラつくことが多い。日本語としては間違っていないのだが、何でそこで使うのかなぁと疑問に思う。例えば「やっぱり」。「給食費の不払い問題、どう思います?」「そうですね、やっぱり、日本人は自分勝手になっているんですよね」朝の情報ワイド番組などでよく耳にするやりとりだ。「やっぱり(やはり)」というのは、万人が共通の認識として持っているような、普遍的な事柄を語るときの枕詞のようなものだ。自分の主観を述べるときに使うべき語彙ではない。しかし、最近のコメンテーター(文化人とか知識人ではなく、立ち位置が定かじゃないタレントだが)は、当たり前のように頻繁に使う。「私はそうは思わない!」とテレビの前で息巻くより仕方ない。例えば「要するに」。「要するに、それは一概には言えないことだと思います」何ら要約していないし、「一概には言えないこと」は、コメントではない。述懐能力が欠けていることを露呈しているに過ぎない。要約することで、聞き手に整理して理解させ、自分のコメントの信頼性を高めるなどといったときに使用する語彙である。一体、何を説得したかったのか、意味不明である。例えば「~とは思う」。「間もなくシリーズが始まりますね。抱負を」「プロ1年目なので、いろいろ戸惑いもあると思いますが、自分なりのペースで頑張っていこうとは思います」「は」は要るのか。「とは」の使い方としては、「あなたとはやっていけない」「お前が犯罪者だったとは」「結婚とは、そういうものである」というのが正しい。もし、これを使うのであれば、「頑張っていこうとは思いますが、結果は保証できません」という言い方だろうか。いずれにしても、「は」が必要のない内容で使われることが多い。「思ってどうするのだ!」と突っ込まざるを得ない。例えば「本当に」。「本当にこんな状況で勝つことができて、本当に支えてくれたスタッフやファンの皆さんに、本当に感謝して、本当にこれからも頑張ろうという気持ちになりました」「本当に」=「実に、まったく、まことに」という言葉を、ワンセンテンスに何度も使う人が多い。感激して思い余っているのは理解できるが、何度も使うと言葉の威力が薄れてしまう。たとえば「~じゃないですか」。相手が同意することを前提に発せられるこの言葉は、聞く者にとっては不快この上ない。「いいえ」「そうは思いませんけど」と心の中で叫ぶ。ことほどさように日本語は乱れている。例に挙げた言葉などはまだましな方だと思う。日本語の繊細さを全く無視した用法や発し方は国語という文化を崩壊させかねない。正しい日本語を使って、だれもが納得でき、言葉にストレスを感じない毎日にしたいものである。言葉に鈍感な皆様、もう少し注意されますようお願いいたします。
2007.04.14
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電車に乗っていて、頻繁に感じる、というか、落胆することがある。“ガサツな女性が増殖している”ということだ。しかも、若い女性に。公共の場で、女性がガサツなのはいただけない。ガサツなのは、おばちゃんや田舎者のおやじだけでいい。それなら、“ほほえましい”くらいで受けとめられる。ドアが開くと、明らかに自分の尻のサイズより小さな空間を目がけて突き進んでくる女性がいる。ドカッと座る。左右の人は服や太ももを踏まれてびっくりする。そんな戸惑いにはお構いなしに、女性は足を組む。太ももが太いせいか、わざとそうしているのか、上になった方の足が前に大きく突き出すことになる。女性は大きなカバンをまさぐり始める。カバンの端と、女性の肘が私の腕や脇腹を打つ。不快に思いながらも探しているものはすぐに見つかるのだから、辛抱しようと思って我慢する。しかし、探し物はなかなか見つからない。ガチャガチャ、カンカン、コツコツと、不穏な音を鳴らしてガサゴソを続けている。一体カバンの中はどうなっているのだろうと想像する。何を探しているのだろうと、思い巡らす。果たして出てきたのは、大きな鏡だった。『え、そんな大きなものが見つからなかったの?』私は心の中で叫んだ。次のガサゴソが始まった。『また? 次は何?』小さなお茶のペットボトルが出て来た。蓋を開け、ゴクッと一口飲んだ後、クルクルッと蓋を締めて再びカバンへ。『一口だけなら、我慢できないの?』さらに次のガサゴソが……。出てきたのは、何とファデーションだった。この時点から化粧が始まったのは、ご想像いただけたはず。そう、フルコースの化粧だった。偶然にも降車駅が同じだったので、顔を見たら30絡みの女性だった。一般的に女性は、そのあたりの年齢が、最も分別がきく。自分の社会的立場や地位をきちんと考えることができるようになる年齢…だったはずである。東京にプレゼンテーションに出向いたときだった。新宿の巨大なビルの1階でトイレに行った。大きなビルの場合、1Fは外来者が使うものだと相場が決まっている。入居テナントの社員はそれぞれが借りているフロアのトイレを使うものだし、その方がいろいろな意味で都合がいい。しかし、明らかに制服だとわかる服装の女性数人がが洗面台を占領して化粧をしている。不快に思った。用を足すのが目的でないなら、鏡のあるどこかでやってもらいたい。昼食後のお勤めのある私にとっては、狭小な空間にそういう人物がいることは、とにかく邪魔である。しかし、不快な顔はしなかった。お勤めを終えた私は謙虚な態度で洗面台に向かい、少し体を移動して、蛇口が使えるようにしてくれた女性に「ありがとうございます」と声をかけた。心中は……お図りいただきたい。得意先としばし打ち合わせした後、プレゼン先に向かった。ドアを開けてびっくりした。さっき、トイレにいた女性だった。「先ほどは失礼しました」私が言うと、女性はニッコリ笑って「こちらこそ」と言った。あのとき、不快な顔をしなくてよかった、と思った。生涯で一度しか遭遇しないような場所とタイミングで会った人が、プレゼン先の受付とは。しかし、こういうことは往々にしてあるのだ。自分の言動が、仕事や人間関係で思わぬ結果をもたらすということは、無視できない。いつも、どんなときも“人に見られている”という感覚を忘れてはいけない。そういう羞恥心や分別や、社会的なプライドを持つのが30前後のときだろう。女性は。なのに、最近の女性はまったくもってガサツで恥ずかしい。何が女性をしてそうならしめたのだろうか。「緊張感のなさ」であろうと思う。昔、女性はいつも緊張を強いられた。立場や権利が確保されていなかったからだろうか。緊張が女性を美しくした。ストレスや責任や義務や重圧やさまざまな絶望感が女性への圧力となり、それを押しのける力となって、底力のある「美」となって女性を彩った。いまの女性はダメである。「美」の何たるかを知らない。知らないことを恥じない。恥知らずな行動を恥と思わない。親が悪いことは確かだ。前にも何度か書いたが、60前後~70歳の親が、恥知らずな日本人を生んだ。それは、連鎖となって、次の世代に受け継がれる。日本人が恥を取り戻すのはいつだろう。もうないことなのか。恥の概念が変わってしまったのか。いずれにしても、朝から横でガサゴソするのは断じてやめてもらいたい。朝のわずかな読書タイムを壊されたくないのだ。お願いします。おねえちゃん。
2007.04.13
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(15)おやじ復権!ガンの手術のために入院すること1ヵ月、おやじが退院して家に戻ってきた。入院前、あれほどおやじになついていた「チコ」だったが、退院当初、まるで他人が家にやってきたかのように振る舞い、母の部屋に入り浸った。打ちのめされたおやじは、1、2日落ち込んでいたが、復建を目指して立ち上がった。まずはスーパーに繰り出し、「あるもの」を大量に買い込んできた。「あるもの」とは、もちろん「カニ」である。「チコ」の大の大好物である。おやじは必要以上に音を鳴らしてカニをさばいた。母の部屋でゴロゴロしていた「チコ」が反応した。そぉっと台所に偵察に行く。「チコ」に気づきながら、素知らぬ顔をしておやじはカニをさばき続ける。恐る恐る眺めていた「チコ」は、そのうち床に尻をつけて座り、おやじの手元をじっと見ている。おやじはさばき終えたカニをキッチンの作業台の上に置き、布巾をかけて自室に引き上げた。「チコ」はとまどいながら母の部屋に引っ込む。おやじ一流の“じらし作戦”だ。「チコ」の気を引きつけておいて、時間をあけることでさらに「チコ」の欲望を盛り上げようという寸法だ。しばらくして、おやじは一人で鍋を始めた。もちろん、カニちりだ(カニに味がついてはいけないので、すき鍋にはできない。チコがいる限り)。気配からか、匂いからか、「チコ」が父の部屋にかけつける。父は澄ました顔で鍋を眺めている。辛抱たまらなくなった「チコ」が声を上げる「ニャワァー」「何や」おやじが「チコ」に声をかける。「ニャワァー」「欲しいか」言われている意味がわかっているのかどうかはわからないが、おやじの顔をじっと見ている。おやじは、煮上がったタラバガニの足を箸でつまんで持ち上げる。「チコ」が右足を上げる。いまにも立ち上がっておやじのところに駆け寄りそうだ。しかし寸前で思いとどまる。父は構わずに殻から身をはずす。いつの間にか持ってきていた「チコ」の餌入れを傍らに置き、人間用の皿の中にはずした身を入れる。「欲しいか」「チコ」はじっとおやじを見詰める。おやじは「チコ」の餌入れにカニの身を入れて目の前にかざす。「こっちに来い。ほら、チコ」餌入れを座っている自分の膝のすぐ横に置く。たまらず、「チコ」が駆け寄る。「チコ」は一心不乱にカニを食べる。おやじは「チコ」の体をなでて自分の匂いをつける。そんな駆け引きを3回も続けると、「チコ」がおやじの部屋に居つくようになった。ゲンキンなものである。「餌に泣いた者は餌で笑う」である。実に単純な手を使い、すぐにそれにだまされる……おやじもおやじなら、「チコ」も「チコ」だ。こうしてまた、おやじと「チコ」の哄笑生活が始まった。
2007.04.12
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(14)おやじの悲哀の理由ガンの手術を終え、一時帰宅で戻ってきたおやじを「チコ」は忘れていた。警戒心丸出しの行動を取っておやじを悲しませた。「ほんまに忘れたんか……ワシを……」ガンという特異(でもないが、大病デビューのおやじにとっては)な病気であったこと、入院も手術も生涯初の経験だったこと、69歳であったために入院費が多額だったこと(70歳なら、1/10程度になる)などなど、さまざまな要因が、おやじを弱らせていたのだろう。おやじは奈落の底に突き落とされたがごとき気持ちに陥ったという。しかし、その原因はまったくもって単純なものだった。「エサ」である。おやじが入院している間の「チコ」のエサの世話は私がしていた。毎週250kmもの道のりを2時間半で走破して、おやじと、母と、「チコ」の世話をしに実家に戻った。前出のごとく、「チコ」は骨がダメである。小骨が1本でも残っていようものなら、ゲーゲーとゲロを振りまく。私は、ゆでたハゲ(カワハギ)を箸で解体し、骨を丁寧に取って「チコ」に与えた。「チコ」は私が帰るのを待ち遠しそうにし、車が車庫に入る音を聞くと、いつもの玄関ドアでなく、「チコ」専用の出入り口から出て、車庫の後ろにある物置の上で入庫を待った。入庫を済ませて玄関前に立つと、「ニヤヮヮー」とかわいらしい声を上げながら足元に絡みついてくる。おやじが退院してからも、私にはなつくのに、おやじとは距離を置くようになった。すべては「エサ」である。「チコ」の意識の中では、“「エサ」の世話をしてくれる人だけに従う”という取り決めがあったようだ。1ヵ月もその役割を放棄した者は、「チコ」が認める地位にとどまれない、ということか。しかしそれも、おやじならではの手練手管で何とかし、「チコ」は再びおやじを飼い主に昇格させた。極めて単純な手法だったので、「チコ」が駄猫ぶりを露呈したということか、それとも、そんな単純な手法を使うおやじの発想が拙劣だったというべきか。
2007.04.11
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(13)おやじの悲哀「チコ」は父親になついていた。私や母親には余り甘えなかったが、父親にだけは猫なで声で、よく甘えた。大抵は“ブラッシングして”という要求とエサについての要求だった。夜行性の猫だけに、夜中起き出しては目を光らせ、父の気配を探る。当然父はいびきをかいて眠っている。しばらく、チコは父をじっと見詰めているが、諦めたように布団の上で丸まる。目は光ったままである。前にも書いたが、実家があるのは漁業の町なので、朝4時になると、町じゅうにサイレンが鳴り響く。船の出港や漁の解禁、寄港などに関係しているのであろうが、都会生活が長い両親にとって、朝4時に起こされるというのは、大変な苦痛である。しかし、チコは違う。夜中からずっと起きているのだ。サイレンの鳴る4時が待ち遠しくて仕方なかったに違いない。サイレンと同時に父を起こす。「ミヤワヮー」とかわいい声を発しながら。父は致し方なく起き上がる。眠気眼でチコの朝食を用意する。そのとき思うのは、「あの日、台風が来なかったら……」だったそうだ。台風の日でなかったら、兄がペットショップから「チコ」と「キコ」を拾ってくることはなかっただろう。そうやって父が「チコ」の世話を続けること9年。ある日、父はガンの宣告を受ける。入院して切除手術を受けた。およそ1ヵ月の間、家をあけることになった。入院して3週間を過ぎたころ、外出許可が出た。父は、退院準備のために家に戻った。ドアを開けて家の中に入ろうとした父は、玄関まで出てきて、警戒した目で父を見詰めるだけの「チコ」を見た。「チコ、元気やったか?」そう声をかけた刹那、「チコ」は首をすくめたそうだ。明らかに警戒の姿勢である。「なんや、わからんわけないやろ」父がそう言いながら靴を脱いで上がり框に足をかけると、「チコ」は脱兎のごとく駆け出してリビングの方に消えた。忘れている……。「チコ」は9年間も世話をしてきた父を、たった3週間で忘れてしまっていたのだ。父の落胆はいかばかりか。「あの日、台風が来なかったら……」と思ったに違いない。その原因は簡単なものだった。それは、「チコ」が駄猫であるゆえんであった。
2007.04.10
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(12)子ガラスとの対決両親が都会の家から田舎の家へ引っ越して間もなくのこと。「チコ」は、自然豊かで、野良猫など全くいない、素晴らしい環境を満喫していた。蝶々を追いかけ、寝そべってウグイスの声を楽しみ、カマキリにちょっかいをかけ、上空に響くトンビの鳴き声を興味津々の表情で聞いていた。そんな、自分が万物の霊長のごとき毎日の狭間に、その出来事が起こった。ある朝、裏の畦道に子ガラスがチョンチョンと小さく飛び跳ねならが歩いていた。「チコ」はそれを家の中で見つけた。匍匐前進のごとく姿勢を低くして庭に降り、子ガラスを見据えて尻を振った。その刹那、「チコ」は猛ダッシュをした。瞬く間に子ガラスに接近した。「チコ」は猛然と子ガラスに襲いかかった。その昔、兄の「キコ」が鳩を襲撃したときの記憶を蘇らせていたのかもしれない(前ブログ出)。子ガラスの背中にのしかかり、羽交い締めにする。子ガラスは羽をバタつかせ、逃れようとする。チコは力を緩めた。「キコ」ほど勇気も執着もないのだ。鳩の首を食いちぎり、食べてしまうほどの野生がない「チコ」は、子ガラスを驚かせるだけで十分だった。「チコ」は勝ち誇ったように、悠然と歩いて戻ってきた。「キコ」と死に別れて初めて、「キコ」に自慢できる瞬間だったのかもしれない。翌日、「チコ」は気づいた。同じ子ガラスが、きのうと同じところにいる。普通なら、何かあると思うのだが、“駄猫”である「チコ」は、またいい格好ができるチャンスだと思ったのだろう。姿勢を低くし、尻を左右に振りながら狙いを定め、子ガラス目がけて一目散に駆け出した。すると、子ガラスに到達する少し手前で、大きなカラスが急降下してきて、「チコ」の首を両足でムンズとつかんだ。「チコ」は地上からぐんぐん上がっていく。全身が棒のように硬直している。それを見た父が、慌てて走り出し、履いていた下駄をカラスに向かって投げつけた。「コラッ! ボケッ! 放せ!!」2m以上吊り下げられていた「チコ」を、カラスがすっと放した。「チコ」は辛うじて地上に降りた。カラスは「ガァーーッ」と大きな鳴き声を放ちながら、山の方へ飛び去った。子ガラスはおとりで、親ガラスが逆襲をしたというわけだ。「チコ」より、カラスの方が利口だったということ。「チコ」は腰が抜けたような低い姿勢で、家に向かって歩いてきた。「ワゥォォー、ワゥォォー」と、鳴き声というより、うめき声のような情けない声を上げながら。それ以後、カラスの姿を見るたびに、家の中から、あるいは外にいたときはあわてて家の中に入って、「フシュカシュフシュハフアシュ」と意味の分からない言葉を発しながら、カラスに向かって威嚇している。「チコ」は生涯、カラスには、この言葉を発し続けた。「汚いわ! 後ろから責めるなんて。大体、こっちは一人なのよ! なんで2匹で私をいじめるの! 卑怯よ」と言っていたのだろう。カラス、恐るべし、と言うべきか、「チコ」が情けないと言うべきか。
2007.04.09
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皆がそうだとは言いませんが、春は出費がかさみます。私には大変苦痛です。●車決算期には、ディーラーが思い切った値引きをしてくれるので、3月に契約をする人が多いと思います。モデルチェンジ直前であることと、決算時に少しでも売上を上げておきたいということでしょう。というわけで、数年前に買ってしまいました。春に。で、春はお金が要ります。保険、車検、税金……。締めて25万円。●家なぜか春に引っ越してしまいました。必然性はさほどなかったと思いますが、巡り合わせでしょうか。火災保険の更新が春にやってきます。結構かかります。半ば強制的なのに、2年で2万円。ドブに捨てるようなものです。●祝い春は、ひな祭り、入学、進学、卒業と、祝い事ばかりのシーズンです。取引先関係や親戚、知人関係から、聞きたくもない情報が多数もたらされます。こちらは何ら祝ってもらうことがなく、不公平を感じずにはいられません。●衣服夏は何でもいい。気軽に洗濯できることと、涼しいこと、この2点が満たされればいいのです。おしゃれをする気力もありません。秋は流行を余り気にしなくても大丈夫。パシュミナやポンチョ風ショールなどその年にはやるアイテムを1点だけ取り入れれば何とかなります。冬はもっとどうでもいい。コートに隠されてしまうから。若い人ならいざ知らず、我々くらいになると、中身はオーソドックススタイルで何ら問題ありません。コートやマフラーでごまかせばいいのです。そうやって1年をいなしてきますが、春になるとそうはいかない。春は流行を最も意識する季節だから。色やデザイン、素材、着こなし方、さまざまな面で新機軸が打ち出されます。致し方なく、適合するアイテムを購入するハメになる……。そうしないと、春のウキウキが味わえないのも事実。●医療費私は余りありませんが、花粉症や皮膚炎、目や気管の病気など春独特の病気が出やすいのです。かくいう私も、皮膚や唇に異常が出ることがあります。病院に行くと、社会保険でも3割負担。結構な額になります。すべては、平和と安全と心の安定のためなのですが、春はお金が要ります。暗くなるのを辛うじて救ってくれているのは、春の陽気と桜でしょうか。楽も苦もある新年度が始まりました。
2007.04.08
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大阪では、「桜の通り抜け」というイベントが大変メジャーです。4月の中旬から始まり、1週間ほどがその期間となり、造幣局周辺は大変な人出でにぎわいます(今年は温暖化が原因か、4/5~4/11という早期日程になっていた)。我が事務所は、通り抜けの入り口の近くにあります。ゆえに、朝の出勤が大変になります。朝から「通り抜け」に来るのはお年寄りが多く、出勤時間帯で混雑し、始業時間までに出勤したい人間と、桜を見ながらゆっくり歩きたい花見客との攻防が天満橋の上で繰り広げられます。毎年のことなので、諦めつつも“いい加減にしてくれ!”という魂の叫びが体の中で渦巻きます。私は、いまの事務所に10年以上いますが、通り抜けに出向いたのは得意先に要望されたのと、元の同僚が訪ねてきたときの2回だけでした。もちろん、子どものころや、学校の行事などで出掛けたことはありますが、特別に感慨が残っているわけではありませんでした(「見せ物小屋」は、人間として言い訳ができないほど衝撃的でしたが)。どうして日本人は、それほどまでに桜を愛するのか。答えの一つに「春」の特性にあると思います。我々が、「春」のある類まれな国土に生まれ、暮らしているからでしょう。日本人にとって「春」は、何もかもが新しくなり、希望に満ち、世界観が変わるほどのものだという認識があります。欧米なら新しい年度は9月だったりして、3月に対する感慨は、全く違うものだと思います。「桜」の美しさは、「生命力」の強さ、命の輝きが生み出すものであり、それを得て、生命力の落ちていた人は、他の人々からパワーを得るのだと思います。たった1週間の猶予の間に。
2007.04.07
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(11)チコとトイレ実家には、チコ専用の出入り口が設けてあった。建築時に、猫の出入り口をトイレの横につくってもらったのだ。チコは、この出入り口もよく使ったが、玄関のドアやリビングの出入り窓や、母の部屋の出入り窓も使って外に出るのが好きだった。どこに行っているのかと、探しに行ったことがあった。ときには近くの保育所の屋根の上で日向ぼっこしながら、園児の遊ぶ姿を眺めていたり、ときには、近くの家の塀の上にちょこんと座って、家人の動向を眺めていたり、ときには、庭の物置の上に寝そべって、桜の木にとまるウグイスの鳴き声を聴いていたり……。神出鬼没なチコは、あちこちで人気者になり、それに浮かれて優雅に闊歩するのだが、これだけははずせない! ということがある。それはトイレだ。どんなに楽しい時間を過ごしていても、オシッコがしたいと思うと、うちに飛んで帰ってくる。このときは、必ず自分専用の入り口を使う。リビングや母の部屋の出入り窓を使うとなると、閉まっていたときのリスクが怖いのだ。それほど、ギリギリまで外で我慢してから帰ってくる。「カッ、カッ、カッ」この音がすると、チコが焦っていることがわかる。爪を出してフローリングの床を駆けているのだ。チコ専用の出入り口の横がトイレで、その横が玄関で、玄関にチコのトイレがある。わずか数歩で行けるのだが、焦り具合がわかるほど、爪が滑る音がする。そんなときにトイレをのぞいたら大変である。用を足しているチコと目が合ったら、後で痛い目に遭う。トイレが終わったチコがそぉっと私に近づき、背後から、例の「手攻撃」を行使する。無視すると、背中に全身で飛びつく。どうやら恥ずかしいらしい。用を足している姿を人間に見られるのが、この上なく恥ずかしいようだ。なら、外でしてくればいい。しかし、品のいいチコは、外で、人目にさらされながら用を足すなどということは、考えも及ばないのだろう。私がトイレに行くときは、足にまとわりつきながらすかさず中まで入ってきて、私が用を足すのを悠々と眺めていたくせに。まったくもって、勝手でわがままな駄猫である。
2007.04.06
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(10)夏の暑さに夏の暑い日、実家に帰った私は、ドアを開けるやいなや「ニィヤォゥオー」とかわいい声を発しながら私の足にまとわりつくチコに愛らしさを感じた。ふと、視線を落とすと、チコの様子がおかしい。背骨に沿って、体毛がない。いわば、逆モヒカン状態になっている。意味がわからず声をかけた。「チコ。どうしたん」呼びかけると、チコが私の顔を見上げた。「ニィヤォゥオー」またしてもかわいい声を発しながら。私は驚愕した。チコの顔がおかしい。ま、眉毛がある! しかも、赤い眉が!目の上に優雅に弧を描く赤い眉のある瞳は、とても妖艶で人間的だった。しかし、よく見ると、マジックで書かれたものだとすぐわかった。父に言った。「これ、どうしたん? 背中の毛と、眉毛」「暑いから、夏バテせえへんように背中の毛を刈ってやったんや」「眉毛は?」「頭の毛を刈ったら、ぶさいくになったから、眉毛を足したったんや」意味がわからない。赤い眉毛がある方がぶさいくな気がするが。しかし、「チコ」は極めて満足そうな表情で家の中を動き回っている。後頭部から尻尾にかけての体毛は、猫にとっては体温保持に大きな役割を果たしているのだろう。電動バリカンですいただけで、暑い夏を快適に過ごせるというのなら、猫を飼っている人にこのことを知ってもらって、無駄な冷房費を使わないようにしてもらいたいと思う。容姿を第一に考える「チコ」にとって、変な眉毛を描かれることは不本意だろうが、「ブサイクだ」と指摘する人もいないのだから、眉毛の意味もわかりはしまい。夏に弱い猫を飼っている御仁へのアドバイス。頭から尻尾にかけて、背骨に沿って体毛を剃ってください。(特に大阪の)暑い夏を過ごす秘策です。もちろん、動物愛護団体から「動物虐待」と騒がれない程度に抑えていただくことを望みます。
2007.04.05
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きょうは、大阪も花冷えの一日でした。きょう、花見を予定していた人は、黄砂や、雨や、鼻汁や冷たい風やで、散々だったでしょうね。大阪の桜の名所の古木(といっても、樹齢50年くらいかな)八分咲きにはなっていたこの時期、天候が荒れるのは仕方ないけれど、これほど荒れるのは、珍しいのではないかしら。東京では、夕方に5℃ほどになったとか。みぞれやひょうが降りしきるような4月なんて、そうそうありません。今年は何かがありそうな気がします。北陸地震があったし、海外でもすごい地震があったので、そろそろ、南海、東南海地震とか……、日本を代表するような大きな企業がコケるとか……、日本の将来を変えるような新法ができるとか……、国際状勢を揺るがすような事態が起こるとか……。いまのうちに、桜を愛でておきましょう。来年は、桜どころではなくなっているかもしれません。せめて、平和で、元気で、幸せと思えるいま、桜を存分に堪能しましょう。ね、皆さん。
2007.04.04
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その14【おじさんの叫び】最後におじさんを見舞って2ヵ月後、父から連絡が入った。とうとうおじさんが亡くなったということだった。2ヵ月の間に何度か見舞いに行こうと思っていた。しかし、北海道への出張や補充社員の採用面接、ビデオ制作による現場張りつきの日々……いまとなってはそれとおじさんの人生の終焉への立ち会いとは比較にならないことは十分理解できる。しかし、そんなにすぐに亡くなるとは思っていないし、そう思うことが罪悪とも思えたので、至って普通の日々を送っていた。おじさん夫婦には、子どもがいなかった。我が家は3人兄弟で、女、男、女という構成で、私は最後の女だったため、当時の言葉で“要らん子”と思われていた。貧乏な上に病弱な母親、子だくさんという我が家の事情と、家長(長男は事情があって終生独身だった)という立場上、子どもが欲しいということで、おじさんとおばさんは私を養子にしたかったようだ。そんな事情があって、私はよくおじさんの家に泊まりに行った。親子としてやっていけるかどうかを探るためだったのかもしれない。おばあちゃんの助言があって、養子縁組は実現しなかったが、おじさんとは親戚の中でも一番親しかったし、好きだった。そんなおじさんの、まともな最後の顔を見たのは私だったと思う。脳梗塞で倒れた日、おじさんは実家に遊びに来ていた。父と競馬を楽しむおじさんを置いて、バイクで海岸に出かけた。海を見て何かを考え、心を落ち着かせて戻ってくると、おじさんが道に飛び出していた。「どうしたん、おっちゃん」「海を見に行ってたんか?」「うん」「おっちゃんも一緒に行きたかったのに」初めて聞くおじさんの甘えたような言葉に驚きながらおじさんの背後を見ると、父が車を出して追いかけてきていた。「おとうちゃんが迎えに来たわ。一緒に海を見に行っておいで」私がそう言うと、おじさんは悲しそうな顔をした。その後、父と私はおじさんを車で駅まで送り、家に戻った。おじさんは、寂しそうな背中を見せながら、ホームに降りる階段に消えた。その日、自宅の最寄り駅で降りたおじさんは倒れた。救急車で病院に運ばれたおじさんは、半身不随になった。それから3年足らずで逝ってしまったおじさんは、亡くなる2ヵ月前に見舞った私の顔を覚えていたのだと思う。葬儀が終わり、お供え物をおじさんの家に運び、おばさんの思い出話をひとしきり聞いた私は、帰途についた。2ヵ月前におじさんを見舞ったときと同じように、西名阪自動車道で大阪に向かって走っていた。以前と同じように、例の「チャゲアス」のテープが車内に響く中、海に行きたいと言ったおじさんの目、最後に見舞ったとき、最後の最後に視線が合ったときののおじさんの表情を思い浮かべていた。それまで鳴っていた音楽が、ふっと消えた。「うぉぉぉぉー、うぉぉぉぉー」スピーカーから声がした。それはまぎれもなく、最後に聞いたおじさんのうめき声だった。私は慌ててテープをイジェクトした。もっとおじさんが話したいことがあるなら、聞きたいと思ったからだ。しかし、それ以後、いかなる音も鳴らなかった。「ごめんね。私と気づいていたんやね。戻って、手を握ったらよかった。おじさん、ごめんね」声を出して言った。すると、不思議なことに、車の中が無音になった。高速道路を走っているにもかかわらず、車の走行音も、他車のエンジン音もすっかり消えた。わかってくれたのだと思った。多分わかってくれたのだと思う。でも、得体の知れない影響力を感じたのも確かだった。「いつも見ているで」と言っているかのような……。
2007.04.03
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その13【おじさんの生霊】7年前のこと。おじさんが危篤状態になった。それより3年ほど前、脳梗塞になり、半身不随の生活を続けていたのだが、再び脳梗塞を患って、集中治療室に入ることとなった。仕事が終わってから、大阪から奈良の総合病院に車で駆けつけ、見舞った。倒れたおじさんというのは、父親の兄で、長男亡き後、家長となっていた。おじさんと父の間に兄妹がいたが、生まれて間もなく亡くなり、父の下は5人の妹と、トメが弟の10人兄弟という構成になっていた。病室に入ってすぐに、父のすぐ下の妹夫婦が来訪し、おじさんを見舞った。私は奥に退き、おばさん夫婦がおじさんの顔に向かって話しかけた。おじさんは半身不随で、片方の自由がきかないため、いつも同じ方向を向いていた。私がとっていた手は不自由な方の手で、きっと感覚がなかったのだろうと思う。ひとしきり妹夫婦とおじさんの奥さん(おばさん)が話をし、30分ほどして帰っていった。おじさんは時折り「うぅぅ、うぅぅ」と苦しそうな声を出すが、話をすることも、視線を合わせることもなく、時間が過ぎ去った。『消灯時間です。お見舞いの方はお帰りください』館内アナウンスが流れた。21時になったのだ。私はおばさんに促されて出口に向かった。なぜか背後が気になり、私は振り返った。おじさんと目が合った。「うぉぉぉぉー、うぉぉぉぉー」苦しそうな、何かを言いたそうな、切ない声が響いた。「おっちゃん?」そう言って立ち止まる私に、おばさんが言った。「しんどいから、あんなこと言うねん」「気がついたんと違う? 私って」「わからへん。意識あれへんねん」おばさんはそう言うが、とても気になった。おじさんの目を見ながら、集中治療室から出た。「ありがとう、見舞ってくれて。気をつけて帰りや」おばさんに見送られて、車に乗った。エンジンをかけると、「チャゲアス」の70年代のベストアルバムのテープが鳴り出した。車のカセットデッキには、常にこのテープがつっ込んであった。西名阪自動車道を走っていると、テープがおかしくなった。テープが熱で伸びてしまったのか、SPレコードを33回転で再生したときのような、おかしな音になった。夏場だったし、購入してから10年以上たつ古いテープだったので、伸びるのも理解できた。イジェクトボタンを押してテープを出した。次の日の朝、車に乗り込んだ私は、何気なく出ていたテープをデッキに突っ込んだ。前夜のできごとはすっかり忘れてしまっていた。再生が始まってハッとした。「テープが伸びてたんだ」慌ててイジェクトしようとしたが、まともな音で再生されているのを確認し、首をかしげた。「あれ、きのう……あの部分だけ伸びてたのかな」そう思ったので少し戻って再生した。おかしなところはなかった。「どういうこと……?」この事件の真相を確認するのは、おじさんが亡くなった2ヵ月後である。それは、想像を絶する衝撃を伴っていた。
2007.04.02
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その12【訪問者滞在の秘密】朝方やってきた親子4人の訪問者は、その後しばらく悪さを繰り返した。ソファーから飛び下りる「ドスンドスン」攻撃が朝から始まり、ラップや気配で驚かすのは日常茶飯事、まるで、我が家のようにやりたい放題やりながら4人で暮らしていた。それくらいなら問題視もしないのだが、捨ておけぬ事態が発生した。同居人の商売道具とも言えるAV機器が次々と故障し出したのだ。DATを皮切りに、受像機、VTR、CDプレーヤー、アンプ、プリンター、HDDと、次々と壊れてしまう。いよいよ家族の存在を認識せざるを得なくなり、ある方法で確証を得ようとした。それは、ビデオで、家族が最も出没するリビングを撮影するというものだ。夜、廊下からリビングに向けてビデオをセットした。悲しいかな、古いビデオだったので、赤外線暗視機能などなく、フツーの撮影しかできないのが難だったが、とりあえず蛍光灯をつけた状態で、リビングが広く映せるようにセッティングした。翌朝、同居人と一緒に映像をチェックした。倍速で再生していたが、しばらくは、何の変化もなく「何も映ってないなぁ」「蛍光灯をつけてたからなぁ」そんな会話をしていると、「あっ!」二人で声を上げた。映っている!「何? これ」リビングのカーテンの上に瞬く光がある。点滅しているのではなく、同じ位置で光るばかりである。「外光?」同居人が言ったが、その位置の背後は壁で、外光が入ることはない。「違う……、でも、電灯がついているのに見える光って……」これも4人家族のいたずらなのだろう。「霊道」の存在を受け入れるとして、どうして一家は我が家にとどまってしまったのだろう。その理由はとても意外なもので、一家に申し訳ないと後で思った。リビングの横にある私の部屋の窓の上に、厄除けの「矢」が飾ってあった。母が買ってくれたものだが、厄が終わって2年以上たっていたにもかかわらず、神社に奉納せずに置いていた。聞くところによると、お札やお守りは、期限がきたらきちんと奉納しないといけないらしい。放っておくと、逆の効力を発揮するとか。霊道の上に建つ我が家を通り抜けようとした一家だが、厄除けの矢が邪魔をして、抜けられなかったということのようだった。矢を納めたら、嘘のように物音もしなくなったし、家電製品の故障もなくなった。神社仏閣の存在をないがしろにしてはいけないと痛感した。神社仏閣に頼るなら、決まりごとをきちんと守ることがご利益にあずかる最低限の条件だということは、当たり前ながら、なかなか理解できていないことではないだろうか。そんなこんなの日々を送りながら、心霊現象はなおもおさまらないのである。
2007.04.01
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