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いわゆる「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)ワクチン」は遺伝子操作薬である。「ワクチン」という語句が含まれているが、本来のワクチンではなく、効果も危険性も未知の新薬にほかならない。そうした代物を医薬品メーカーだけでなくWHO(世界保健機関)や各国政府は人びとに接種させてきた。 彼らは人類の遺伝子を書き換えようとしている可能性が高いのだが、それと同時にAIをナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術、認知科学と融合した世界を築き、「不要」になる人間を処分しようとしていると見られている。「超人」を作り出そうともしている。
2023.11.30
ガザでの戦闘で注目されているハマスは1987年にムスリム同胞団の中から生まれたが、その際、イスラエルが重要な役割を果たしたことを本ブログでも繰り返し書いてきた。PLOを率いていたヤセル・アラファトの力を弱めるため、ライバルを作り上げることにしたのだ。そこでイスラエルが目をつけたのがムスリム同胞団のシーク・アーメド・ヤシンだ。イスラエルの治安機関であるシン・ベトの監視下、ヤシンは1973年にムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして76年にはイスラム協会を設立。そしてハマスは1987年にイスラム協会の軍事部門として作られた。 ムスリム同胞団は1928年、ハッサン・アル・バンナによって創設されたが、その際、スエズ運河会社の支援を受けている。イギリスのグランド・ロッジをモデルにして、イギリスの情報機関MI6によって組織された。その後、アメリカのCIAに乗っ取られたというが、CIAはMI6を教師として組織されたので、どの程度違いがあるのかは不明だ。 アル・バンナはムスリム同胞団を組織する過程で「死のカルト」的な思想をイスラムへ持ち込むことになるが、その思想との類似性を指摘されているのが「暗殺教団」とも言われる「ニザリ派」である。 エジプトのムスリム同胞団は1930年代、カイロの郊外に戦闘員を訓練するための秘密基地を建設したが、教官はエジプト軍の将校が務めていたという。軍の内部に同胞団は食い込んでいたということだ。 第2次世界大戦の際にムスリム同胞団は秘密機構を創設し、王党派と手を組んで判事、警察幹部、政府高官らを暗殺していく。1940年代にはアンワール・サダトも同胞団と密接な関係にあった。サダトは1970年から81年にかけてエジプトの大統領だった人物だ。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005) ムスリム同胞団は1945年2月、そして48年12月にエジプトの首相を暗殺、49年2月には報復でバンナが殺された。その直後に同胞団のメンバーは大半が逮捕され、組織は解散させられたのだが、アメリカとイギリスの情報機関は組織解体から2年半後に復活させている。CIAが新生ムスリム同胞団の指導者に据えたサイード・クトブはフリーメーソンのメンバーで、ジハード(聖戦)の生みの親的な存在だ。 エジプトでは1952年7月にクーデターで王制から共和制へ移行するのだが、その背後にはCIAがいたと言われている。クーデターの背後にはムスリム同胞団が存在していたものの、実権を握ったのは自由将校団のガマール・アブデル・ナセル。 この将校団はナショナリストで、コミュニストを押さえ込むために使えるとアメリカは考えたようだが、このクーデターを好ましくないと考えたイギリスは自由将校団の政府を倒そうとする。 イギリスの動きはアメリカは止めにかかり、ナチスの親衛隊で幹部を務めていたオットー・スコルツェニーのほか、軍人や数百名の元ゲシュタポ将校を送り込んでいる。このグループはエジプトの警察でナチス的な手法を教えた。 ムスリム同胞団は1954年にナセル暗殺を目論む。その暗殺計画で中心的な役割を果たしたひとりのサイド・ラマダーンは同胞団を創設したハッサン・アル・バンナの義理の息子だ。ナセルはラマダンからエジプトの市民権を剥奪している。 ラマダンはサウジアラビアへ亡命、そこで世界ムスリム連盟を創設した。西ドイツ政府から提供された同国の外交旅券を使い、ミュンヘン経由でスイスへ入り、そこで1961年にジュネーブ・イスラム・センターを設立した。資金はサウジアラビアが提供したという。この当時、スイス当局はラマダンをイギリスやアメリカの情報機関、つまりMI6やCIAのエージェントだと見なしていたという。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005) ところで、イギリスの支配層、つまりシティを拠点とする強大な金融資本は中東を支配するためにサウジアラビアやイスラエルを「建国」した。彼らは19世紀からユーラシア大陸の周辺を支配して内陸部を締め上げるという戦略を打ち出しているが、その戦略にとってスエズ運河は重要な意味を持つ。石油や天然ガスの発見は中東の重要性をさらに高めた。 こうした戦略は「大イスラエル構想」と合致する。ユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域は神がユダヤ人に与えたのだという主張に基づくのだが、ユダヤ教の聖典であるトーラー(モーセ5書)はキリスト教の旧約聖書の最初の部分にあたるが、そこに書かれていることとはニュアンスが違う。ユダヤ教徒はトーラーを守るという条件の下で、その土地に住むことを許されただけなのだ。 勿論、キリスト教徒やユダヤ教徒だけでなくイスラム教徒も旧約聖書を聖典として扱っているが、それ以外の人びとにとって意味はない。それにもかかわらず、シオニストはエルサレムの南東にあるシオンの丘へ戻る権利がユダヤ人にはあると主張している。 シオニズムという用語は1893年にナータン・ビルンバウムが初めて使用、96年にはセオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』という本を出版しているのだが、パレスチナに「ユダヤ人の国」を作ろうとする動きはイギリス政府の方が早い。1838年にエルサレムにイギリスは領事館を建設し、その翌年にはスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査しているのだ。1891年にはアメリカでウィリアム・ブラックストーンなる人物がユダヤ人をパレスチナに送り出そうという運動を展開し、ベンジャミン・ハリソン米大統領に働きかけている。 19世紀の後半にイギリスの首相を務めたベンジャミン・ディズレーリはライオネル・ド・ロスチャイルドと親しく、ロシア嫌いで知られていた。ディズレーリは首相時代の1875年にスエズ運河運河を買収した。その際、資金を提供したのはライオネル・ド・ロスチャイルドだった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018) ディズレーリは1881年4月に死亡、その直後からフランス系のエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめた。この富豪はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドの祖父にあたる。 1905年から14年にかけての期間、毎年3万5000人のユダヤ人がパレスチナへ移住、07年にはバーギオラという自警団を編成、09年にはハショメールという組織に発展、それを基盤にして1920年にはハガナが設立された。このハガナがイスラエル軍の中核になる。 現在、イスラエルの首相を務めているベンヤミン・ネタニヤフの父親であるベンシオン・ネタニヤフはアメリカでウラジミール・ヤボチンスキーの秘書だった。 ヤボチンスキーは帝政ロシア時代のオデッサ(現在はウクライナ領)で生まれたこともあってか、後に彼はウクライナで独立運動を率いていたシモン・ペトリューラと連携している。ペトリューラはロシアでボルシェビキ体制が樹立された直後の1918年から21年にかけて大統領を名乗るが、その時期に3万5000人から10万人のユダヤ人を虐殺したと言われている。(Israel Shahak, “Jewish History, Jewish Religion,” Pluto Press, 1994) 1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアはウォルター・ロスチャイルドへ書簡を送り、その後、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)を弾圧する一方でユダヤ人の入植を進めた。 1920年代に入るとパレスチナのアラブ系住民は入植の動きに対する反発が強まる。それを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用する。この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立され、違法な殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。 ヤボチンスキーは1925年に「修正主義シオニスト世界連合」を結成するが、その流れの中からリクードも生まれた。1931年にはハガナから分かれる形でイルグンが組織されている。 その後、ヤボチンスキーはパレスチナに住むユダヤ人に対してイギリス軍へ参加するように求めたが、これに反発したアブラハム・スターンはイルグンを飛び出し、1940年8月に「ロハメイ・ヘルート・イスラエル(レヒ)」を新たに組織する。創設者の名前から「スターン・ギャング」とも呼ばれている。イルグンもレヒもテロ組織と見なされている。 1933年2月にドイツでは国会議事堂が放火され、これを利用してナチスが実権を握る。この放火はナチスが実行したと言われている。シオニストがナチス政権とユダヤ系ドイツ人をパレスチナへ移住させることで合意したのはこの年の8月。「ハーバラ合意」だ。 1936年4月にパレスチナ人は独立を求めてイギリスに対する抵抗運動を開始するのだが、39年8月に鎮圧され、共同体は政治的にも軍事的にも破壊された。その際、パレスチナ人と戦った勢力は2万5000名から5万名のイギリス兵や2万人のユダヤ人警察官など。約1万5000名のハガナも含まれている。 1938年11月にドイツではナチスがユダヤ系住民を襲撃、多くの人が殺され、収容所へ入られ始める。この「水晶の夜」以降もユダヤ教徒はパレスチナでなく、アメリカやオーストラリアへ逃れた。1945年に第2次世界大戦は終結、シオニストは1946年夏までに7万3000人以上のユダヤ人をパレスチナへ運んでいるが、パレスチナへの移住を望むユダヤ人が少なかったため、イラクに住むユダヤ人に対するテロを実行、「反ユダヤ」感情を演出してパレスチナへ移住させたという。シオニストは目的のためならユダヤ人を犠牲にすることも厭わないと言えるだろう。
2023.11.30
ワシントン・ポスト紙はイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相とハマスについて「奇妙な共生関係」と表現している。ハマスはイスラエルを破壊すると宣言、ネタニヤフはハマスを破壊すると宣言、緊張を高めることでいずれも自分たちの存在意義をアピールしてきたとは言えるだろう。 本ブログでも繰り返し書いてきたが、ハマスの創設にイスラエルが深く関与している。第3次中東戦争の際、中東のイスラム諸国はイスラエルの攻撃を傍観していたが、唯一イスラエル軍と戦ったのがファタハであり、その指導者がヤセル・アラファトだった。それ以来、アラファトはイスラエルにとって目障りな存在になる。 このアラファトの力を弱めるためにイスラエルはムスリム同胞団のメンバーだったシーク・アーメド・ヤシンに目をつけた。イスラエルの治安機関であるシン・ベトの監視下、ヤシンは1973年にムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして76年にはイスラム協会を設立。ハマスは1987年にイスラム協会の軍事部門として作られる。 シーモア・ハーシュによると、2009年に首相へ返り咲いた時、ネタニヤフはPLOでなくハマスにパレスチナを支配させようとした。そのため、ネヤニヤフはカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたという。 今年10月7日、ハマスなどの戦闘部隊がイスラエルへ攻め込んだのだが、この出来事には謎がある。ガザはイスラエルが建設した一種の強制収容所であり、その収容所を取り囲む壁には電子的な監視システムが張り巡らされ、人が近づけば警報がなる。地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっている。ところがハマスはイスラエルへ突入できた。しかも突入の数時間後、2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させている。そうしたことから、ネタニヤフ政権やアメリカのジョー・バイデン政権はハマスの攻撃を事前に知っていたのではないかと疑う人が少なくない。 攻撃の際、約1400名のイスラエル人が死亡したとされた。その後、犠牲者の人数は1200名だと訂正されたが、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装グループを壊滅させるため、占拠された建物を人質もろとも砲撃、あるいは戦闘ヘリからの攻撃で破壊したという。イスラエル軍は自国民を殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。さらに、停戦にともなって解放された人質もイスラエル軍にイスラエル市民が攻撃された実態を当事者として証言しはじめた。 イスラエル軍は自国の兵士が敵に囚われるのを嫌い、かつて、自軍を攻撃し傷つける代償を払ってでも、あらゆる手段で誘拐を阻止しなければならないという「ハンニバル指令」が出されたが、2016年にこの指令は撤回されたとされている。しかし今回、発動したのではないかという噂がある。 10月7日の出来事の背後にどのようなことがあるのかは不明だが、イスラエルやアメリカ政府の支配層の内部で利害対立が生じている可能性が高い。 今回、ネタニヤフとハマスが「奇妙な共生関係」にあると書いたワシントン・ポスト紙はCIAと関係が深いことで知られている。 アメリカをはじめとする西側諸国の有力メディアがCIAの影響下にあることはデボラ・デイビスが書いた『キャサリン・ザ・グレート』、カール・バーンスタインがローリング・ストーン誌に書いた「CIAとメディア」、ウド・ウルフコテの告発などで明らかにされている。 言うまでもなくバーンスタインはワシントン・ポスト紙の記者としてウォーターゲート事件を取材したことで知られているが、ローリング・ストーン誌でメディアとCIAの癒着を明らかにしたのはリチャード・ニクソン大統領が辞任した3年後の1977年だ。このテーマをワシントン・ポスト紙で書くことはできなかった。 ウクライナを巡ってはCIA(アメリカ)とMI6(イギリス)との間で対立が生じていると思える動きが見られるが、パレスチナでも内紛が始まったのかもしれない。
2023.11.29
厚生労働省は11月24日、9月分の「人口動態統計速報」を発表した。それによると死亡者数は12万7242人。「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)ワクチン」の接種が始まる前に比べて大幅に増えている状況に変化はない。まだ発表はないが、9月20日に始まったオミクロン株派生型「XBB」系統の接種キャンペーンは懸念されていた通り、犠牲者が増えているようだ。
2023.11.29
東京にあるシアターギルド代官山で開かれた「ジャパン インディーズ フィルム フェスティバル」で11月27日に山根高文が監督した作品『TSUSHIMA』が上映された。AI(人工知能)と人間社会との関係をテーマにしているのだが、人間はこれからも生き続けるという視点から描かれている。 しかし、現実世界ではAIによって人間が処分される可能性が指摘されている。WEF(世界経済フォーラム)を率いるクラウス・シュワブは2016年1月、スイスのテレビ番組マイクロチップ化されたデジタルIDについて話している。最終的にはコンピュータ・システムと人間を連結する、つまり人間をコンピュータの端末にするというのだ。 シュワブの顧問を務めているユバル・ノア・ハラリはAIによって「不要な人間」が生み出されると見通しているが、相当数の兵士もロボットにすげ替えらるつもりなのだろう。すでにAIを搭載したロボットは社会の中に入り込んできたが、戦場ではAI搭載のロボット兵器が投入されている。「不要な人間」は処分される。 デジタルIDは「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動」の中で推進が図られた。2021年2月にはイギリスのドミニク・ラーブ外相が出演した番組の中で、パブやスーパーマーケットに入るためにも「ワクチン・パスポート(デジタルID)」を必要にすることを考慮中だと語っている。こうした形でデジタルIDを広め、チップ化し、脳へインプラントしようというわけだ。そのチップと交信する外部のコンピュータには個人情報を記録されている。 データベースには犯罪歴、病歴、学歴のような個人データが蓄積されているだけでなく、スマートフォンを通過する情報、IC乗車券の利用状況、GPSを搭載している機器を使っていれば、どのように移動したかも記録される。街にはCCTVが設置されているが、最近は顔認証の技術がが進歩、街にいる人に関するあらゆる個人情報を監視者は本人に知られることなく調べることができる。ETC(電子料金収受システム)を搭載している自動車に乗っていれば、有料道路での移動状況が把握されてしまう。そのシステムとNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)が組み合わせ、警察は監視しているはずだ。 銀行の口座も監視されるので、カネの出し入れも筒抜けだが、口座を閉鎖されれば生活ができなくなる。デジタル通貨を推進しているのも管理のためだ。ウクライナでアメリカにとって都合の悪い事実を報道していたジャーナリストの中には預金口座を閉鎖された人もいるという。勿論、電子メールであろうと音声による通話であろうと、電子情報機関は巣の全てを記録している。 このようにして集められた情報に基づいて一人ひとりの性格、思想は分析され、「危険人物」かどうかを判断する研究も行われてきた。図書館でどのような本を借りているか、最近では通信販売が盛んになっていることから、どのような本を買っているかもチェックできる。 ある人物が何を考えているかを外部から探る技術も研究され、脳波を測定することで心理状態をある程度把握することは可能になっている。その技術を使った装置を帽子、ヘルメットなどに組み込んで労働者や生徒の管理に利用し始めたという。(South China Morning Post, 29 April 2018) AIをナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術、認知科学と融合、自然の摂理を否定し、「超人」の世界を築こうとしているとも言われている。 人類を個別に監視、管理する政策の背後には2015年9月に国連で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」がある。そのアジェンダによると、「SDGs(持続可能な開発目標)」を実現するため、個人を特定するためのシステムに記録されていない人びとを管理する必要があるとされ、デジタルIDの導入が進められることになった。2916年5月には国連本部でどのように導入を進めるかが話し合われ、「ID2020」というNGOが設立されている。 EUではCOVID-19騒動が起こる前からEU市民向けの「ワクチン・パスポート」を2022年に実現することにしていた。この計画を立てた人にとっては好都合なことに、COVID-19騒動が始まったわけだ。
2023.11.28
イスラエルでは警察もイスラエル軍の戦闘ヘリコプターがフェスティバルの一部参加者を攻撃したとしている。すでにハーレツ紙をはじめとするイスラエルのメディアはイスラエル軍がイスラエル人を殺したとする市民の証言を伝えているが、それを警察も認めたわけだ。 10月7日に始まったハマスの攻撃を利用してイスラエル軍はガザへの攻撃を開始、民族浄化を狙ったと見られているが、報道管制を実施したものの、ガザにおける住民虐殺の実態が世界へ伝えられ、ベンヤミン・ネタニヤフ政権は苦境に陥って停戦に応じた。 ガザでの虐殺に対する反発はイスラエルがサウジアラビアやインドと進めてきたプロジェクトを壊す可能性が出てきたが、これはアメリカの巨大資本にとっては憂慮すべき事態だ。最悪の場合、アメリカは中東における利権を全て失いかねない。 そうした中、アメリカ政府のエネルギー安全保障顧問であるアモス・ホクスタインはイスラエルを訪問、ヒズボラの問題だけでなく、地中海東岸の天然ガス田について話し合ったようだ。天然ガス田だけでなく、アカバ湾と地中海をつなぐベン・グリオン運河計画やIMEC(インド・中東・欧州経済回廊)プロジェクトを実現するためにもガザの戦乱が長引くことをアメリカ政府は避けたいだろう。 彼らにとってガザからパレスチナ人を一掃することがベストだったのだろうが、次善の策として、パレスチナ人を懐柔し、サウジアラビアやペルシャ湾岸の産油国がイスラエルやアメリカとプロジェクトを進めるようにしたいはずだ。ガザでの民族浄化は時間を置いてからということである。
2023.11.27
イスラエル軍に攻め込まれ、1万4000人以上の住民が殺されたガザで停戦が実現した。犠牲者の大半は非武装の住民で、その約4割は子どもだと言われている。イスラエル政府は破壊と殺戮でガザの人びとを脅して追い出そうとしたが、エジプトは協力せず、ヨルダンも警戒、そもそもパレスチナ人が移住を拒否した。そこで皆殺し作戦は始まるのだが、停戦はそれが失敗したことを示している。 1948年5月14日にイスラエルの建国が宣言されたが、そこには多くのアラブ系住民が住み、農業共同体が存在していた。その住民を追い出して土地を奪ったのである。そのため、シオニストの武装勢力は同年4月の上旬に「ダーレット作戦」と呼ばれる軍事作戦を開始した。 シオニストの軍隊で後にイスラエル軍の中核になるハガナで副官を務めていたイェシュルン・シフは4月6日、エルサレムでイルグンのモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャングのヨシュア・ゼイトラーと会っている。イルグンもスターン・ギャングもシオニストのテロ組織だ。 その3日後にイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005) こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。生活の基盤である土地を奪われ、追い出されたパレスチナ人は1948年の出来事を「ナクバ(大惨事)」と呼ぶ。国際連合は1948年12月11日に194号決議を採択、パレスチナ難民の帰還を認めたが、実現していない。似たような経緯で「建国」したアメリカがイスラエルを擁護するのは必然かもしれない。 イスラエルのヨアブ・ギャラント国防相は10月9日、ガザの完全閉鎖を命じ、「電気も食料も燃料もなくなる。我々は人間獣と戦っているのだ」と宣言した。戦っている相手を「ハマス」と解釈している人もいるようだが、実態は市民である。ギラド・エルダン国連大使は10月26日の国連で「われわれは動物と戦っている」と叫んだ。 しかし、ベンヤミン・ネタニヤフ政権は停戦に応じた。戦況がイスラエル軍にとって芳しくないということのほか、イスラエル軍がイスラエル人を殺したとする証言をハーレツ紙をはじめとするイスラエルのメディアも報道、そうした報道を元にして国外でも伝えられ、ネタニヤフ政権は厳しい状況に陥っている。 ハマスの戦闘部隊が攻め込んだ際、約1400名のイスラエル人が死亡したとされた。その後、犠牲者の人数は1200名だと言われているが、いずれにしろ、相当数のイスラエル人が死亡したことは間違いない。殺したのがイスラエル軍だということになると、ガザを攻撃したことに対する批判も強まるだろう。停戦を終え、戦闘を再開したならば、批判はさらに強まる。 解放された人質のひとり、ヤスミン・ポラットはイスラエル・ラジオのインタビューで、10月7日の銃撃戦でイスラエル軍が「間違いなく」多数のイスラエル人非戦闘員を殺害したと語り、ハマスは「私たちを虐待しなかった。私たちはとても人道的に扱われました」としている。 イスラエル軍が派遣した攻撃ヘリコプターのパイロットはイスラエルのメディアに対し、ハマスの戦闘員とイスラエルの非戦闘員を区別できないまま攻撃したと述べている。 イスラエル軍はハマスの司令部があるとしてアル・シファ病院を執拗に攻撃、患者や避難民を殺傷したが、司令部は病院から8.5キロメートル離れた場所にあることをイスラエル軍は確認している。それにもかかわらず、その後もイスラエル軍は病院を攻撃していた。 11月15日にアル・シファ病院へ到着したイスラエル軍はハマスが病院内にいたとするプロパガンダを開始、イスラエル国防総省のジョナサン・コンリクス報道官はAK-47、手榴弾、軍服が床に整然と並べられた軍装品を見せているが、そこにハマスのメンバーがいたことを示す証拠とは到底言えない代物だった。 また、10月7日の出来事には大きな謎がある。ガザはイスラエルが建設した一種の強制収容所であり、その収容所を取り囲む壁には電子的な監視システムが張り巡らされ、人が近づけば警報がなる。地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっているのだが、10月7日にハマスはイスラエルへ突入できた。しかも突入の数時間後、2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させている。 そうしたことから、ネタニヤフ政権やアメリカのジョー・バイデン政権はハマスの攻撃を事前に知っていたのではないかと疑う人が少なくないのだ。その攻撃を口実にしてガザのパレスチナ人を追い出すか皆殺しにする計画を立てていた疑いがある。 ハマスの創設にイスラエルが深く関係していることは本ブログでも繰り返し書いてきた。
2023.11.27
アメリカのバラク・オバマ政権がキエフのユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)でクーデターの幕を開けたのは2013年11月、今から10年前のことだ。ビクトル・ヤヌコビッチ政権に対する抗議活動ではあったものの、当初はカーニバル的な演出。そうした雰囲気だったこともあり、12月になると集会への参加者は50万人に達したと言われている。 しかし、年明け後にイベントの様相は一変、ステパン・バンデラを信奉するネオ・ナチのグループが前面に出てきた。2月に入るとそのメンバーはチェーン、ナイフ、棍棒を手に石や火炎瓶を投げ、トラクターやトラックを持ち出してくる。ピストルやライフルを撃っている様子を撮影した映像がインターネット上に流れた。 クーデターの中核になったネオ・ナチのグループは2004年からバルト3国にあるNATOの訓練施設でアメリカ/NATOの軍事訓練を受けていたと伝えられているが、それだけでなく、ポーランド外務省は2013年9月にクーデター派の86人を大学の交換学生を装って招待、ワルシャワ郊外にある警察の訓練センターで4週間にわたって暴動の訓練を受けたとも伝えられていた。アメリカの有力メディアによると、内戦勃発後の2015年からCIAはウクライナの特殊部隊をアメリカの南部にある秘密基地で訓練してきたという。 EUは混乱を話し合いで解決しようとしたが、オバマ政権で国務次官補を務めていたビクトリア・ヌランドはそうした姿勢に激怒する。ウクライナ駐在アメリカ大使のジェオフリー・パイアットとクーデター後の閣僚人事について電話で話し合った際、「EUなんかくそくらえ」と口にしている。 その会話がインターネットに漏れて間もない2月中旬、ユーロマイダンでは無差別の狙撃が始まり、抗議活動の参加者も警官隊も狙われた。西側ではヤヌコビッチ政権が狙撃を命じたと宣伝されたが、2月25日にキエフ入りして事態を調べたエストニアのウルマス・パエト外相は逆のことを報告している。バイデン政権を後ろ盾とするネオ・ナチが周辺国の兵士の協力を得て実行したというのだ。 ヤヌコビッチ政権は2月22日に倒され、大統領は国外へ脱出したが、有権者の7割以上がヤヌコビッチを支持していたウクライナの東部や南部では反クーデターの機運が高まり、クーデターから間もない3月16日にはクリミアでロシアへの加盟の是非を問う住民投票が実施された。投票率は80%を超え、95%以上が賛成する。 ドネツクとルガンスクでも5月11日に住民投票が実施された。ドネツクは自治を、またルガンスクは独立の是非が問われたのだが、ドネツクでは89%が自治に賛成(投票率75%)、ルガンスクでは96%が独立に賛成(投票率75%)している。この結果を受けて両地域の住民はロシア政府の支援を求めたが、ロシアのウラジミル・プーチン政権は動かない。 それに対し、オバマ政権は動いた。ジョン・ブレナンCIA長官が4月12日にキエフを極秘訪問、22日には副大統領を務めていたジョー・バイデンもキエフを訪れた。バイデンの訪問に会わせるようにしてキエフのクーデター政権は黒海に面した港湾都市オデッサでの工作を話し合っている。そして5月2日、オデッサでクーデターに反対していた住民が虐殺された。 虐殺は5月2日午前8時に「サッカー・ファン」を乗せた列車が到着したところから始まる。赤いテープを腕に巻いた一団がその「ファン」を広場へ誘導するのだが、そこではネオ・ナチのクーデターに対する抗議活動が行われていた。広場にいた反クーデター派の住民は労働組合会館の中へ誘導されている。危険なので避難するようにと言われたようだが、実際は殺戮の現場を隠すことが目的だったと推測する人もいる。 その後、外から建物の中へ火炎瓶が投げ込まれて火事になる様子は撮影され、インターネット上に流れた。建物へ向かって銃撃する人物も撮られているが、その中にはパルビーから防弾チョッキを受け取った人物も含まれている。 建物の中は火の海になる。焼き殺された人は少なくないが、地下室で殴り殺されたり射殺された人もいた。その際、屋上へ出るためのドアはロックされていたとする情報もある。会館の中で48名が殺され、約200名が負傷したと伝えられたが、現地の人の話では多くの人びとが地下室で惨殺され、犠牲者の数は120名から130名に達するという。虐殺の詳しい調査をキエフのクーデター政権が拒否しているので、事件の詳細は今でも明確でない。その後、オデッサはネオ・ナチに占領された。 オデッサの虐殺から1週間後の5月9日、クーデター政権は戦車部隊をドンバスへ突入させた。この日はソ連がドイツに勝ったことを祝う記念日で、ドンバスの住民も街に出て祝っていた。その際、住民が素手で戦車に立ち向かう様子が撮影されている。そしてドンバスで内戦が始まるのだ。 しかし、クーデター後、軍や治安機関から約7割の兵士や隊員が離脱し、その一部はドンバスの反クーデター軍に合流したと言われている。そのため、当初は反クーデター軍が戦力的に上回っていた。 そこでクーデター体制は内務省にネオ・ナチを中心とする親衛隊を組織、傭兵を集め、年少者に対する軍事訓練を始めた。並行して要塞線も作り始めている。その時間稼ぎに使われたのがミンスク合意だ。 ドンバスでの戦闘を停止するという名目でドイツやフランスを仲介者とする停戦交渉が行われ、ウクライナ、ロシア、OSCE(欧州安全保障協力機構)、ドネツク、ルガンスクの代表が2014年9月に協定書へ署名している。これが「ミンスク合意」だが、キエフ政権は合意を守らず、15年2月に新たな合意、いわゆる「ミンスク2」が調印された。 この合意について、アメリカの元政府高官を含む少なからぬ人が時間稼ぎに過ぎないと批判していたが、それが事実だとうことがここにきて明確になった。アンゲラ・メルケル元独首相は12月7日にツァイトのインタビューでミンスク合意はウクライナの戦力を増強するための時間稼ぎに過ぎなかったと語ったのだ。メルケルと同じようにミンスク合意の当事者だったフランソワ・オランド元仏大統領もその事実を認めた。 8年かけてアメリカ/NATOはキエフのネオ・ナチ体制の戦力を増強するために武器を供給、兵士を訓練、さらに要塞線を建設した。ソレダルには全長200キロメートルという岩塩の採掘場やアゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)が拠点にしていたマリウポリには地下要塞ができていた。 アメリカ/NATOは2022年春、ロシア軍を要塞線の内側へ誘い込んで封じ込め、別働隊にクリミアを攻撃させようとしたのではないかという推測もあるが、その直前にロシア軍はミサイルでドンバス周辺に集結していたウクライナ軍を壊滅させ、航空基地、レーダー施設、あるいは生物兵器の研究開発施設を攻撃したとされている。 出鼻をくじかれたウォロディミル・ゼレンスキー政権はイスラエルの首相だったナフタリ・ベネットを仲介役として停戦交渉を開始、双方とも妥協して停戦は実現しそうだった。 ベネットは2022年3月5日にモスクワへ飛び、プーチンと数時間にわたって話し合い、ゼレンスキーを殺害しないという約束をとりつけた。その足でベネットはドイツへ向かい、シュルツと会うのだが、その3月5日、ウクライナの治安機関SBUがキエフの路上でゼレンスキー政権の交渉チームに加わっていたデニス・キリーエフを射殺している。 停戦交渉はトルコ政府の仲介でも行われた。アフリカ各国のリーダーで構成される代表団がロシアのサンクトペテルブルクを訪問、ウラジミル・プーチン大統領と6月17日に会談しているが、その際、プーチン大統領は「ウクライナの永世中立性と安全保障に関する条約」と題する草案を示している。その文書にはウクライナ代表団の署名があった。つまりウクライナ政府も停戦に合意していたのだ。 停戦交渉の進展でロシア軍はウクライナ政府との約束通りにキエフ周辺から撤退を開始、3月30日にはブチャから撤退を完了した。31日にはブチャのアナトリー・フェドルク市長がフェイスブックで喜びを伝えているが、虐殺の話は出ていない。 その後、西側の有力メディアはロシア軍が住民を虐殺したとする宣伝を開始、停戦交渉を壊した。実際に住民を殺したのはウクライナ内務省の親衛隊だったと見られている。ロシアに寛容だと判断させた人びとが殺されている。 その間、4月9日にイギリスのボリス・ジョンソン首相がキエフへ乗り込んで停戦交渉の中止と戦争の継続を命令、4月21日にはウクライナ南部のミコライフ州のビタリー・キム知事が「ウクライナ24テレビ」の番組で「全ての裏切り者を処刑する」と国民を脅し、4月30日になるとナンシー・ペロシ米下院議長が下院議員団を率いてウクライナを訪問、ゼレンスキー大統領に対してウクライナへの「支援継続」を誓い、戦争の継続を求めた。 それ以降、ウクライナでの戦闘はアメリカ/NATO色が濃くなるのだが、ロシア軍有利の戦況に変化はなく、ゼレンスキー政権が6月4日に始めた「反転攻勢」が失敗したことをアメリカの有力紙も認めている。例えばワシントン・ポスト紙は自分たちが宣伝していた「反転攻勢」で進展はないことを報道した。 ロシア軍の攻撃が始められてから今年の秋までにロシアとウクライナの戦死者は約50万人に達するとニューヨーク・タイムズ紙は書いていたが、その8、9割はウクライナ兵だと見られている。 ベン・ウォレス前英国防相は10月1日、テレグラフ紙に寄稿した記事の中でウクライナ兵の平均年齢は40歳を超えていると指摘、もっと多くの若者を前線へ送り出せと要求している。「学徒動員」や「少年兵」を前線へ送り出せというわけだ。ロシア軍の戦死者は5万人から10万人と言われている。捕虜になったウクライナ兵の中に妊婦がいることを示す映像も流れている。 ネオコンにウクライナでのクーデターを決断させた原因は1991年12月のソ連消滅。アメリカが「唯一の超大国」になったと考えたネオコンは1992年2月、DPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇計画を作成した。作成の中心が国防次官のポール・ウォルフォウィッツだったことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 ソ連消滅後、ロシアは米英巨大資本の傀儡だったボリス・エリツィンが実権を握っていた。リチャード・ニクソンなど旧世代の「タカ派」でさえ愚策だと指摘していたNATOの東方拡大をネオコンは強硬、第2期目のビル・クリントン政権では主導権を握る。象徴的な出来事はマデリーン・オルブライトの国務長官就任だ。 そして1999年3月から6月にかけてNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたあと、世界侵略戦争を本格化させた。 エリツィン時代のロシアは西側巨大資本に略奪されたが、その手先になったロシア人も巨万の富を手に入れ、オリガルヒと呼ばれるようになる。そのオリガルヒは犯罪組織と一心同体の関係あったが、そうした地下世界で最も有名な人物はセミオン・モギレビチだろう。 この人物は「ロシア・マフィア」のボスだと言われているが、それ以上の存在だ。1981年1月から87年1月までCIA長官を務めたウイリアム・ケイシーの友人であるブルース・ラッパポートと親しいのだ。 しかも、モギレビチとラッパポートを引き合わせたのはイスラエル軍の情報機関アマンのために働いていたと言われ、ミラー・グループを率いていたロバート・マクスウェルだ。ロバートの娘であるギスレイン・マクスウェルはジェフリー・エプスタインのパートナー。エプスタインは未成年の女性を世界の有力者に提供、行為の様子を隠し撮りし、その映像はおどしの材料にも使われた。 モギレビチとロバート・マクスウェルが知り合いになった1988年、モギレビチはロバートの働きかけでイスラエルのパスポートを入手している。それ以降、モギレビチは年間400億ドルの利益を出すようになったともいう。 なお、エプスタインは性的な目的で未成年者を売買した容疑で2019年7月6日に逮捕され、8月10日にニューヨーク市にあるメトロポリタン更生センターで「自殺」、ギスレインは20年7月2日に逮捕された。ロバートは1991年11月5日、カナリア諸島沖で自身のヨット「レディ・ギスレイン」の船上から消え、死体となって発見されている。
2023.11.26
ガザでの戦闘は10月7日にハマスの戦闘部隊がイスラエルへ攻め込んだところから始まった。 ガザはイスラエルが建設した一種の強制収容所であり、その収容所を取り囲む壁には電子的な監視システムが張り巡らされ、人が近づけば警報がなる。地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっているのだが、10月7日にハマスはイスラエルへ突入できた。しかも突入の数時間後、2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させている。 そうしたことから、ベンヤミン・ネタニヤフ政権とジョー・バイデン政権はハマスに攻撃させたのではないかと疑う人が少なくない。その攻撃を口実にしてガザのパレスチナ人を追い出すか皆殺しにする計画だったのではないかというのだ。 攻撃の際、約1400名のイスラエル人が死亡したとされた。その後、犠牲者の人数は1200名だと言われるようになるが、相当数のイスラエル人が死亡し、拉致されたことは間違いないだろう。 しかし、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装グループを壊滅させるため、占拠された建物を人質もろとも砲撃、あるいは戦闘ヘリからの攻撃で破壊したという。イスラエル軍は自国民を殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。 イスラエル軍は自国の兵士が敵に囚われるのを嫌い、かつて、自軍を攻撃し傷つける代償を払ってでも、あらゆる手段で誘拐を阻止しなければならないという指令を出した。「ハンニバル指令」だ。1986年にレバノンでイスラエル軍の兵士が拘束され、捕虜交換に使われたことが理由だという。発想としては「生きて虜囚の辱を受けず」と似ている。 この指令は2016年に撤回されたとされているが、今回、発動したのではないかという噂がある。ガザでの戦闘が始まった時点でイスラエル政府の高官は記者団に対し、人質が拘束されていると思われる場所を特定できていればイスラエル軍はその場所を標的にしないだろうが、そうでなければ人質の安全を優先して作戦が制限されることはないとしていたと伝えられている。 アル・シファ病院の場合、イスラエル軍は別の場所にハマスの地下司令部があることを知っていながら病院を攻撃、患者や避難民を殺傷している。当初、勘違いしていたとしても、そこが司令部だということを確認せずに攻撃することは許されない。知ってからは確信犯だ。ウクライナでロシア軍は人質の安全を優先したことから攻略に手間取ったが、そうしたことをイスラエル軍は嫌ったのだろう。 それほどイスラエル政府は強硬で、ガザからパレスチナ人を一掃するまで戦闘を止めるようには見えなかったのだが、イスラエルとハマスは11月22日、戦闘を4日の間、中止することで合意した。停戦が始まってもイスラエル軍はガザ市民を銃撃しているようだが、合意したことは確かだ。 アメリカ海兵隊の元情報将校でUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めたスコット・リッターも指摘しているように、イスラエル政府が停戦に合意したのは彼らが想定したような戦況になっていないからだろう。ガザでの戦闘が西側で言われているような状況でなく、イスラエル軍が苦戦していることはハマス側が流している映像でも推測できる。ハマスのトンネルのうち完全に破壊されたのは約3割にすぎないという。 イスラエル軍はパレスチナ人を虐殺するだけでなく、ハマスと本当に戦っているのだとするならば、「飼い犬に手を噛まれる」といった状態だ。アメリカが自分たちの傀儡としてパキスタンと共同で組織したタリバーンと同じパターンとも言える。
2023.11.25
エルサレム・ポスト紙が11月14日に掲載した記事によると、イスラエル軍は数日前、ハマスが最高司令部の地下に地下司令部を建設、トンネル網とつながっていることを明らかにしていた。トンネルの深さは30メートルに達し、7人程度が乗れるエレベーターも設置されているという。この地下施設を制圧するためにイスラエル軍は精鋭部隊を投入したが、全体を占領することは困難だとされている。 この司令部はイスラエル軍がハマスの司令部があると主張していたアル・シファ病院から8.5キロメートル離れた場所にある。病院の地下に司令部があるとするイスラエル政府の主張は説得力がないと言われていたが、彼らは司令部が存在しないことを知った上で病院を攻撃していたことになる。 11月15日にアル・シファ病院へ到着したイスラエル軍はハマスが病院内にいたとするプロパガンダを開始、イスラエル国防総省のジョナサン・コンリクス報道官はAK-47、手榴弾、軍服が床に整然と並べられた軍装品を見せているが、そこにハマスのメンバーがいたことを示す証拠とは到底言えない代物だった。 イスラエルとハマスは11月22日、戦闘を4日の間中止することで同意したが、イギリス議会では11月15日、ガザ関するふたつの停戦案が採決された。ひとつは労働党が保守党の支持を受けて作成した「人道的措置の一時停止時間をより長くする」というもので、もうひとつはスコットランド国民党の「完全かつ即時の停戦」を求めたもの。どちらも否決されたが、労働党議員のうち56人が造反、スコットランド国民党の案を支持している。 10月7日以来、イギリスでもイスラエル軍によるガザの破壊とパレスチナ人虐殺に反対するデモが繰り広げられ、第1次世界大戦の休戦記念日にあたる11日には数十万人が停戦を求めて行進した。イスラエルとの完全な連帯を表明している保守党のリシ・スナク政権にとって不愉快な出来事で、内務大臣だったスエラ・ブレイバーマンは停戦を求めるデモを「憎悪行進」と非難してしまい、13日に辞任している。 現在、労働党の党首を務めているキア・スターマーは親イスラエルを公言している人物。彼はイスラエルに接近、自分の妻ビクトリア・アレキサンダーの家族はユダヤ系だということをアピールしている。 イギリスの労働党はイスラエルが「建国」されて以来、親イスラエルだったが、1982年9月にレバノンのパレスチナ難民キャンプのサブラとシャティーラでイスラエルとファランジスト党がパレスチナ難民を虐殺して以来、親パレスチナへ変化しつつあった。 この虐殺はファランジスト党の武装勢力はイスラエル軍の支援を受けながら無防備の難民キャンプを制圧、その際に数百人、あるいは3000人以上の難民を殺したと言われている。イギリス労働党の内部ではイスラエルの責任を問い、パレスチナを支援する声が大きくなった。 ところが、1994年5月、労働党の党首だったジョン・スミスが急死、その1カ月後に行われた投票で勝利したのがイスラエルを後ろ盾にするトニー・ブレアだ。1994年1月に彼は妻のチェリー・ブースと一緒にイスラエル政府の招待で同国を訪問、帰国して2カ月後にロンドンのイスラエル大使館で開かれたパーティーに出席、そこで全権公使だったギデオン・メイアーから富豪のマイケル・レビーを紹介され、それ以降、レビーはブレアの重要なスポンサーになった。 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そこで国内政策はマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義、国外では親イスラエル的で好戦的なものになったのだ。 労働党員の中にはブレアのような姿勢に反発する人は少なくない。そこで台頭してきた人物がジェレミー・コービン。2015年9月から党首を務めるが、これを米英の支配層は嫌う。両国の情報機関や有力メディアはコービンを引きずり下ろそうと画策、「反ユダヤ主義者」というタグを付けられた。 サブラとシャティーラにおける難民キャンプで虐殺が引き起こされた頃、アメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めようと考え、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議している。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)だが、そこには少なからぬメディアの記者や編集者が参加していた。 コービンに対する攻撃には偽情報も使われているが、その重要な発信源のひとつが2015年に創設されたインテグリティ・イニシアチブ。イギリス外務省が資金を出している。「偽情報から民主主義を守る」としているが、その実態は偽情報を発信するプロパガンダ機関にすぎない。そして2020年4月4日、党首はスターマーに交代した。 スターマーはスナックと同様、虐殺を肯定するため、イスラエルには自国を守る権利があると主張、「労働党はイスラエルの味方である」ともしてきた。こうした姿勢は労働党への怒りを強めているが、党内でも反発が強まり、地方議会では労働党議員の離党が伝えられている。
2023.11.24
イスラエルとハマスは11月22日、戦闘を4日の間中止することで同意した。人質の解放は24日以降になるという。アメリカのジョー・バイデン政権は停戦によって人びとが冷静に考える余裕ができることを恐れていたというが、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、停戦協定が終了すれば戦争は再開されると語っている。ガザからパレスチナ人を一掃するまで続けるということだろう。アメリカのように、先住民居留地へ押し込めるつもりかもしれないが、思惑通りに進むかどうかは不明だ。 西側の有力メディアはパレスチナの歴史を無視しているが、世界の人びとは多くがガザで行われている住民虐殺に憤っている。イスラム世界ではなおさらで、アメリカやイスラエルの支配層と利権で結びついている国々、たとえばペルシャ湾岸の産油国やモロッコ、インドなどはイスラエルを批判することに及び腰だが、そうした国々でも国民は怒っている。その怒りを無視すれば支配者の足元が揺らぐ。 11月21日にBRICSはガザでの虐殺を討議するためにバーチャル会議を開催、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカのほかサウジアラビア、アルゼンチン、エジプト、エチオピア、イラン、アラブ首長国連邦、そして国連事務総長が参加した。 議長を務めた南アフリカのシリル・ラマポーザ大統領が発表した総括では、ガザでイスラエルが行なっている戦争を停止するように求め、パレスチナ人の強制移送や自国からの追放を非難するとされている。共同声明が出されなかったのはアメリカやイスラエルとの関係が強いサウジアラビア、アラブ首長国連邦、インドあたりが反対したのだろうと見られている。 その前日、11月20日にはサウジアラビア、ヨルダン、エジプト、パレスチナ自治政府、インドネシアの代表とICC(イスラム協力機構)の代表が北京を訪れ、中国の王毅外相が主催する会談に臨んだ。この会談でサウジアラビアのファイサル・ビン・ファルハン・アル・サウド外相は戦争を直ちに止め、停戦に移行し、救援物資をガザへ搬入しなければならないと述べ、中国の責任感を賞賛している。 そのサウジアラビアはイギリスによって作られた国であり、リチャード・ニクソン大統領が1971年8月にドルと金との交換停止を発表、73年から変動相場制へ移行してからはドル体制を支えてきた。 金という裏付けをなくしたドルは金に束縛されることなく発行できるようになったが、何も対策を講じなければハイパーインフレになり、基軸通貨としての地位から陥落する可能性がある。そこでドルを発行元へ還流させなければならなくなったのだ。還流が進めば発行する余地が広がる。そこでアメリカはサウジアラビアを含む(石油輸出国機構)に石油取引の決済をドルに限定させた。ペトロダラーの仕組みだ。 変動相場制へ移行した1973年に第4次中東戦争が勃発。この戦争が石油危機の原因になったとされているが、1962年から86年までサウジアラビアの石油鉱物資源大臣を務めていたシェイク・アーメド・ザキ・ヤマニによると、「ある秘密会議」で石油価格の引き上げは決定されたという。値上げを指示したのはヘンリー・キッシンジャーだったという。当時、石油会社は多額の借入金で押しつぶされそうになっていたというが、ドルを基軸通貨の地位にとどめるためだったとも言えるだろう。 ペトロダラーの仕組みができあがって間もない1975年3月、自立の意思を持っていたサウジアラビアのファイサル国王が暗殺された。国王は執務室で甥のファイサル・ビン・ムサイドに射殺されたのだが、ジャーナリストのアラン・ハートによると、その暗殺犯はクウェートのアブドル・ムタレブ・カジミ石油相の随行員として現場にいた。 ビン・ムサイドはアメリカでギャンブルに溺れ、多額の借金を抱えていた。そのビン・ムサイドにモサド(イスラエルの情報機関)は魅力的な女性を近づけ、借金を清算した上で麻薬漬けにし、ベッドを伴にするなどして操り人形にしてしまったというのだ。(Alan Hart, “Zionism Volume Three,” World Focus Publishing, 2005) その後、サウジラビア国王のアメリカへの従属度は強くなる。イスラエル軍がガザで住民虐殺を始まる前、サウジアラビアを率いているムハンマド・ビン・サルマン皇太子はイランとの関係を修復する一方、アメリカやイスラエルとの関係も維持していたが、そうした二股政策を続けることが難しくなった。 11月11日、57カ国のイスラム諸国代表がサウジアラビアの首都であるリヤドで開かれたアラブ連盟とOIC(イスラム協力機構)の合同緊急会議に集まっている。その中にはイランのエブラヒム・ライシ大統領、トルコのレジェップ・エルドアン大統領、カタールのシェイク・タミーム・ビン・ハマド・アール・サーニー首長、そしてシリアのバシャール・アル・アサド大統領も含まれている。この会議で具体的なことが決まったとは言えないが、通常なら一同に会することはなさそうなメンバーが集まった意味は小さくない。その背後には各国の怒れる国民がいる。 イスラエル、アメリカ、イギリス、EU、サウジアラビア、インドが狙っている利権にとってガザは目障りな存在である。米英の巨大金融資本が19世紀に立てた長期戦略、ソ連消滅後にネオコンが始めた世界制覇プロジェクトだけの問題ではないが、ガザでの虐殺は彼らが狙っている利権を実現させないかもしれない。
2023.11.24
米英金融資本を中心とする西側の支配システムは「COVID-19パンデミック」に続き、デジタル分野でもパンデミックを計画していると言われている。そこで注目されているのがサイバー攻撃によるインターネット崩壊をシミュレートする「サイバー・ポリゴン」という演習だ。2019年から22年まで実施された。この演習ではクラウス・シュワブが率いるWEF(世界経済フォーラム)がデジタル・リスクの管理を専門とするロシアを拠点にするBI.ZONEに協力している。 COVID-19パンデミックの幕が上がったのは2019年12月、中国湖北省の武漢においてだった。SARS(重症急性呼吸器症候群)と似た重症の肺炎患者が発見されたのだが、その2カ月前、ニューヨークでコロナウイルスが全世界で流行するというシミュレーション「イベント201」が実施されている。主催者はジョンズ・ホプキンス健康安全保障センター、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団、そしてWEF(世界経済フォーラム)だった。 中国からも「イベント201」へ参加した人物がいる。疾病預防控制中心主任の高福だ。この人物は1991年にオックスフォード大学へ留学して94年に博士号を取得、99年から2001年までハーバード大学で研究、その後04年までオックスフォード大学で教えている。NIAIDの所長を務めてきたアンソニー・ファウチの弟子とも言われている。西側の医療利権に操られている可能性が高い。 そうしたこともあってか、COVID-19対策を指揮したのは中国軍の陳薇だった。この人物はSARSが2002年から03年にかけて流行した際にも対策を指揮、沈静化させている。その時の経験を活かし、彼女は今回、インターフェロン・アルファ2bを最初から使い、短期間に沈静化させることに成功している。 この医薬品はキューバで研究が進んでいるもので、リンパ球を刺激して免疫能力を高める働きがあるとされている。吉林省長春にも製造工場があり、中国の国内で供給できた。この事実は中国やキューバなどで報道され、中国の習近平国家主席がキューバのミゲル・ディアス-カネル大統領に謝意を述べたとも伝えられている。 こうした経験に基づき、サイバー・ポリゴンはサイバー攻撃で電力供給、交通、病院サービス、金融システムを崩壊させる予行演習ではないかと言われた。 アメリカの支配層は自分たちに従属しない国を屈服させるため、軍事力だけでなく経済戦争も仕掛けてきた。金融口座の封鎖、資産の凍結、そして略奪も繰り返している。現在の金融システムを崩壊させ、米英金融資本が支配するデジタル通貨システムに切り替えられたなら、彼らに逆らう人物は誰であろうと社会生活を営むことができなくなる。こうした新システムでは「ワクチン・パスポート」という形で生体認証IDが義務化されるという。 本ブログでは繰り返し書いていることだが、WEFで顧問を務めているユバル・ノア・ハラリはAI(人工知能)によって不必要な人間が生み出されるとしている。特に専門化された仕事で人間はAIに勝てず、不必要な人間が街にあふれるということだ。 失業者が増えれば社会は不安定するため、監視システムを強化し、生体認証IDで人間を管理しようというわけだが、それと並行して人口を減らそうとしている。危険だと指摘されている「COVID-19ワクチン」を強引に接種させてきた理由もそこにあるとしか考えられない。 シュワブは2016年1月、スイスのテレビ番組マイクロチップ化されたデジタルIDについて話している。最終的にはコンピュータ・システムと人間を連結、つまり人間をコンピュータの端末にするというのだが、不必要になった人間は処分されるのだろう。「トランスヒューマニズム」の世界を築こうとしているとも言える。処分されずに残った人間はコンピュータに監視され、命令されるロボットにする計画のようだ。 こうしてみると、サイバー・ポリゴンは重要な意味を持つ。2021年のオンライン会議にはWEFのシュワブ、アップル・コンピュータの共同創設者であるスティーブ・ウォズニアック、イギリスのトニー・ブレア元首相のほか、ロシアのミハイル・ミシュスチン首相も参加していた。ミシュスチンはモスクワ国立工科大学の出身で、西側のハイテク企業に憧れていたとも言われている。ウラジミル・プーチン大統領はこの人物をロシアの首相に任命した。
2023.11.23
12月15日午後7時から駒込の「東京琉球館」において、「米国は24年を乗り切れるか?」というテーマで「櫻井ジャーナルトーク」を開きます。予約受付は12月1日午前9時からとのことですので、興味のある方は東京琉球館までEメールで連絡してください。東京琉球館住所:東京都豊島区駒込2-17-8Eメール:dotouch2009@ybb.ne.jp ウォール街やシティを拠点とする西側の支配勢力は次の時代でもヘゲモニーを握ろうと画策していますが、思惑通りには進まず、支配システムの崩壊を早めていると言えるでしょう。2024年は彼らにとっても私たちにとっても重要な年になりそうです。その辺のことを考えていみたいと思います。 西側勢力はウクライナでロシアに敗北、ガザで新たな戦いを始めましたが、ここでも彼らの思惑通りに進んでいるとは思えません。東アジアでは好戦的なトーンを弱めましたが、前のめりになりすぎたと考えてのことでしょう。戦争の準備をしていることに変化はありません。遺伝子操作やAIを導入して人類を管理しようという計画も維持していますが、世界的に見ると反発は強まっているようです。 2013年11月から14年2月にかけてバラク・オバマ政権はウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターでビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒しました。ロシアとEUを分断、双方を弱体化させようとしたのですが、弱体化したのはEUだけで、ロシアは中国に接近し、同盟関係を築きました。同じようにガザでの住民虐殺はイスラム世界を団結へと導きつつあります。イスラエルと共同事業を進めようとしていたサウジアラビアも国民の怒りを無視することはできないようです。しかも怒りはイスラム世界という枠組みを超え、世界に広がっています。 東アジアでアメリカはオーストラリアとイギリスのアングロ・サクソン仲間とAUKUSという軍事同盟を作り、日本や韓国とも軍事的につながりを強め、フィリピンを巻き込みつつあります。台湾ではアメリカに従属する道を選んだ蔡英文総統の政策に対する反発は強く、フィリピンで火がつく可能性もありそうです。 AUKUSは中国やロシアを仮想敵とする「アジアのNATO」だとも指摘されていますが、日米韓同盟も同じでしょう。NATO(北大西洋条約機構)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は2020年6月、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本をメンバーにするプロジェクト「NATO2030」を開始すると宣言していますが、この構想ともつながります。 イスラエル軍はガザへ軍事侵攻する際、AI(人工知能)を搭載したロボット兵器を投入すると報道されていましたが、生活空間の中にもAIロボットは入り込んでいます。将来的にはAIをナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術、認知科学と融合させ、「超人」の世界を築こうとしているとも言われていますが、そうした世界では人間が必要なくなるとも指摘されています。 不要な人間は支配システムを不安定化させるため、管理を強化する必要を感じているはずです。そこで考えられているデジタルIDは今後、体内にインプラントする計画のようです。 西側巨大資本の広報的な役割を果たしているWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは2016年1月、スイスのテレビ番組マイクロチップ化されたデジタルIDについて話しています。「マイナンバーカード」もそのために導入が図られたのでしょう。 将来、外部のコンピュータ・システムと人間を連結する、つまり人間をコンピュータの端末にするというのですが、そのためには社会システムのデジタル化を徹底的に進め、管理の中枢になる高性能コンピュータを開発、通信能力を高めるために5G(第5世代移動通信システム)や6Gを整備するつもりでしょう。 シュワブの顧問を務めているユバル・ノア・ハラリはAIによって「不要な人間」が生み出されると見通していますが、これは強引に進められてきた「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)ワクチン」の接種と関係があるかもしれません。 西側支配層の計画では世界を軍事的に制圧、デジタルIDを世界規模で導入し、支配者以外の人びとに「mRNA薬」を接種させるつもりだったのでしょうが、予定通りには進んでいないようです。計画の破綻は彼らの破滅を意味するでしょう。彼らにとっても私たちにとっても、2024年は重要な年になりそうです。
2023.11.22
アメリカのジョー・バイデン大統領は遺伝子操作と核兵器で人類を死滅させかねない政策を推進しているが、その基盤にはイギリス支配層が19世紀に作成した世界制覇戦略がある。アメリカの世界戦略を作成したジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーはその戦略を引き継いだ。 ソ連が消滅した後、ネオコンは最終局面に入ったと考えたようだ。そこで1992年2月、彼らはアメリカ国防総省の「DPG(国防計画指針)草案」という形で世界を征服する計画を作成。国防次官だったポール・ウォルフォウィッツが作成の中心だったことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 19世紀に世界制覇を計画したグループの中心にいたセシル・ローズは1877年6月にフリーメーソンへ入会したが、その直後に『信仰告白』を書いている。その中で彼はアングロ・サクソンを最も優秀な人種だと位置づけ、その領土が広がれば広がるほど人類にとって良いことだと主張している。大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、イギリスが領土を拡大させることはアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877) その主張から明らかなように、ローズの考え方は優生学と重なる。当時、イギリスではハーバート・スペンサーが適者生存を主張、競争で強者が生き残ってその才能が開発され、弱者は駆逐されるべきだとしている。 弱者に無慈悲であればあるほど社会にとっては「優しい」のだというのだが、イギリスの人類学者、フランシス・ゴルトンは「遺伝的価値の高い者を増やし、遺伝的価値の低い者を減らす」ことで社会を改善できると主張していた。 こうした思想はセシル・ローズなどイギリスの支配者グループだけでなくアメリカの支配層に伝染、優生学運動はカーネギー研究所、ロックフェラー財団、ハリマン家のマリー・ハリマンなどから支援を受けた。そうした運動に感銘を受け、自国で実践したのがアドルフ・ヒトラーにほかならない。 ゴルトンの従兄弟は「自然選択(自然淘汰)説」で有名なチャールズ・ダーウィン。そのダーウィンはマルサスの人口論やレッセ・フェールの影響を受けていたとも言われている。 西側では人口を削減するべきだと考える人が今でも少なくない。公言している富豪にはマイクロソフトを創設したビル・ゲイツやCNNのテッド・ターナーも含まれる。 そのビル・ゲイツが音頭を取り、2009年5月、マンハッタンで富豪たちが密かに会合を開いた。集まった場所はロックフェラー大学学長ポール・ナースの自宅。参加者にはデビッド・ロックフェラー・ジュニア、ウォーレン・バフェット、ジョージ・ソロス、マイケル・ブルームバーグ、テッド・ターナー、オプラ・ウィンフリーも含まれている。その参加者は「過剰な人口」が優先課題であることに同意した。 テッド・ターナーは会合の前年、2008年の4月にチャーリー・ローズの番組に出演し、そこで人口が問題だと主張している。人が多すぎるから温暖化も起こるのだというのだ。ターナーは1996年に「理想的」な人口を2億2500万人から3億人だと主張したが、2008年にはテンプル大学で20億人に修正している。 ゲイツも人口を削減するべきだとも発言している。2010年2月に行われたTEDでの講演では、ワクチンの開発、健康管理、医療サービスで人口を10~15%減らせると語っている。「COVID-19ワクチン」で人口は減っているようだが、これは古典的な意味でのワクチンではなく、遺伝子操作薬だ。 そうした思想はトーマス・マルサスの人口論から少なからぬ影響を受けているが、実際の人口は等比級数的に増えるどころか減少に転じる兆候が出ている。2019年に出版されたダレル・ブリッカーとジョン・イビツォンの『Empty Planet(日本語版:2050年 世界人口大減少)』はその問題をテーマにした著作で、注目された。基本的に同じ結論の論文をランセット誌が2020年7月14日に掲載している。 マルサス信者は「人口爆発」という教義に縛られているが、実際の人口は減少する兆候が現れている。ランセット誌に掲載されたワシントン大学の研究によると、ピークは2064年の97億人で、2100年には88億人に減少、もし国連の「SDG(持続可能な開発目標)」が達成されたなら、2100年の人口は63億人になると推定している。 新自由主義の導入で社会を破壊してしまった日本では国民の多くが子どもを産み育てる余力をなくした。2017年の1億2836万人をピークにして減少しはじめ、2100年には5972万人(53.47%減)、SDGが達成されたなら5269万人(58.95%減)になるという。 中国の人口減も深刻で、2017年には14億1248万人だったが2100年には7億3189万人(48.18%減)、SDGが達成されたなら6億9974万人(50.46%減)にまで減ると見通されている。 減少の原因は様々だろうが、人為的な要因もある。人工的に作られた化合物やホルモンなどだ。 生活の周辺には多くの化学物質が存在している。そうした物質が発生異常や生殖異常の原因ではないかとする仮説が1996年に出版された『奪われし未来』で指摘されている。その後、「環境ホルモン(内分泌攪乱物質)」という用語が広まった。 この本が書かれた背景には精子の減少という事実がある。出版後の研究によると、1973年から2011年までの間に西側諸国では1ミリリットル当たりの精子数が52%以上減っているという。総数では59%の減少になる。(Shanna H. Swan with Stacey Colino, “Count Down,” Scribner, 2020) 化学物質が生殖機能にダメージを与えるとことは1970年代から現場では知られている。スワンの本によると、1977年当時、殺虫剤の生産工程に2年以上いると子どもを産めなくなるという噂があったと某化学会社の労働者は語っていたという。(前掲書) 実は、日本でも似たようなことが言われていた。測定限度ぎりぎり、おそらく測定不能なほど微量でも生殖機能にダメージを与える化学物質が次々に見つかっていると、某大学で化学を専攻していた大学院生が1976年頃に話していた。 ここにきて人間の生殖能力にダメージを与える要因がさらにひとつ増えた。「COVID-19ワクチン」だ。ファイザーで副社長を務めていたマイク・イードンは欧州評議会議員会議の健康委員会で委員長を務めるウォルフガング・ウォダルグと共同でワクチンの臨床試験を中止するように求める請願をEMA(欧州医薬品庁)へ提出した。女性を不妊にする可能性があるというのだが、その後の研究でイードンらの懸念は正しことが判明した。それだけでなく、精子もダメージを受ける。
2023.11.21
ジョン・F・ケネディは1963年11月22日、今から60年前にテキサス州ダラスで暗殺された。アメリカでは第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死してウォール街を根城にするファシズム人脈が息を吹き返していたが、ケネディの大統領就任でその流れが変わる可能性があったのだ。 ケネディ大統領に続き、マーチン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日に、大統領の弟で元司法長官のロバート・ケネディが同年6月6日に暗殺されて流れは変わらない。ロバート・ケネディは1968年の大統領選挙における最有力候補で、キングが副大統領になるとも言われていた。 リンドン・ジョンソン副大統領がケネディ大統領のダラス訪問を発表したのは1963年4月のこと。ダラスに不穏な空気が漂っていたことは大統領自身も承知していたはずだが、大統領は予定を変えず、11月21日の夜にフォート・ワース入りした。 その日から翌日の未明まで、警備を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くが「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して騒いでいた。そのナイトクラブを経営するパット・カークウッドはジャック・ルビー、つまり、オズワルドを警察署で射殺したとされている人物の友人だという。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993) 大統領一行は11月22日の朝にフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、パレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込んだ。 このリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーに言わせると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。 12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令するが、これを無視してエージェントのクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)事件を調査したウォーレン委員会でジャクリーンは髪の毛を元に戻そうとしたと証言しているが、委員会の報告書からは削除された。 銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスはパレードの前方にあった「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。 兵士のゴードン・アーノルドは銃撃の直前、「シークレット・サービスのエージェント」をそこで見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われたというのだ。アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。 銃撃が収まってから、今度はふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づいて、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。やはり銃撃後、グラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。ただ、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムは後に公開されている。 事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。 ジャクソンはフィルムが外部に漏れることを警戒し、ストーリーに対して動画に関する権利も買い取るように指示。この契約でLIFEはザプルーダー側へさらに10万ドル、合計15万ドルを支払っている。後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られたことがわかる。なお、NPICは1996年にNIMA(国家画像地図局)に組み込まれた。現在のNGA(国家地理空間情報局)だ。 このフィルムをNPICが保管していることを知ったCIA長官のジョン・マコーンは持ってくるように指示、映像を見ている。NPICはそれをオリジナルだとしていたが、本当のところは不明。マコーンはロバート・ケネディに対し、銃撃にはふたりの人間が関係しているという映像から受けた印象を語ったという。またNPICのスタッフで事件直後に映像を見たホーマー・マクマホンによると、銃撃は約8回、少なくとも3方向から撃たれているとしている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013) ザプルーダー・フィルムは長い間、一般に公表されていない。フィルムを隠したC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムを中心とするメディア支配プロジェクトの協力者でもあった。 このフィルムを公開させたのがルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソン。これがオリジナルである保証はないのだが、ともかくそれを1969年2月に法廷で映写させた。ただ、フィルムには大きな傷があり、見えない部分がある。 その傷に関し、LIFE側は現像所の技術的なミスで損傷を与えたと説明したが、有名写真雑誌のプロがそうしたミスをするとは考えにくい。いつ、どのようにして傷つけたかを明確にするべきだが、現在に至るまで納得のできる説明はない。 本来ならフィルムを隠したC・D・ジャクソンから事情を聞くべきなのだが、大統領が暗殺された翌年、1964年9月18日に彼は62歳で死亡している。 ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。 その後、ペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013) 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。 ケネディ大統領の暗殺を調査するため、リンドン・ジョンソン新大統領は1963年11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据えた。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。 委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキンだ。 ダレスはウォール街の大物弁護士で、大戦中からOSSの幹部として破壊活動を指揮、戦後CIA長官になるが、ケネディ大統領に解任させられている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっている。ダレスは委員会の中で唯一の専従だった。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015) この委員会にはCIAやFBIから情報が提供されたが、1964年1月にはCIAとの連絡係としてジェームズ・アングルトンが任命された。FBIはウィリアム・サリバンが担当している。(Michael Holzman, “James Jesus Angleton,” University of Massachusetts Press Amherst, 2008) ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書と出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。 ケネディ大統領が暗殺された直後、マリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983) ウォーレン委員会の結論はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だが、この結論をヘイル・ボッグスは口頭で批判していたという。ボッグスは1966年、委員会の腐敗した状況をジム・ギャリソンに話しているという。(Joan Mellen, “A Farewell to Justice,” Potomac Books, 2007)このボッグスを乗せたセスナ310は1972年10月16日、アラスカで行方不明になった。 ケネディ暗殺の際、CIA、シークレット・サービス、警察などに不可解な動きがあり、複数の狙撃者がいたことを示す証拠や証言が次々と明らかになる。それに対抗し、単独犯説を主張する勢力は「陰謀論」という呪文を考えつき、連呼するようになった。
2023.11.20
岸田文雄首相は11月16日に中国の習近平国家主席とサンフランシスコで会談、両国の戦略的互恵関係を包括的に推進する立場を再確認したという。平和共存、永続的友好、互恵協力、共同発展が日中両国の利益になると習主席は岸田外相に語ったというが、日本の支配層はアメリカを見ている。日本の経済は中国やロシアとの交易なしに維持できないのため、米英巨大資本の命令に従う岸田も中国との関係改善に努力している演技をする必要があるのだろう。 その翌日、アメリカ国務省は亜音速の巡航ミサイル「トマホーク」を最大で400機を日本へ売却することを承認し、議会へ通知したと発表した。最新型の「ブロック5」と一世代前の「ブロック4」をそれぞれ最大で200機ずつ購入する意向で、その総額は23億5000万ドルになるという。 トマホークは核弾頭を搭載でき、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートル。日本では「反撃能力」と表現されているが、先制核攻撃の能力があることを意味する。主な目標として想定しているのは中国だろうが、その戦略的同盟国であるロシアも視野に入っているはずだ。 トマホークの購入はアメリカの戦略に基づく。1991年12月にソ連が消滅した直後、1992年2月にアメリカの対外政策を決めているネオコンはDPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇計画を作成した。彼らはアメリカが「唯一の超大国」になった信じ、他国に配慮することなく単独で好き勝手に行動できる時代が来たと考えたのだ。 そのドクトリンは第1の目的を「新たなライバル」の出現を阻止することだとしている。旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないというわけだ。日本がアメリカのライバルになることも許されないのだが、それだけでなく、日本やドイツをアメリカ主導の集団安全保障体制に組み入れるともしている。 その時の国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツ。いずれもネオコン。そのウォルフォウィッツが中心になって作成されたことから、DPGは「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 そのドクトリンに基づき、ジョセイフ・ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表した。日本に対し、アメリカの戦争マシーンの一部になれという命令だろうが、当時の日本にはその命令に抵抗する政治家もいた。 そうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)た。その10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃されている。8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載された。 結局、日本は戦争への道を歩み始め、自衛隊は2016年に軍事施設を与那国島に建設、19年には奄美大島と宮古島に作り、23年には石垣島でも完成させた。ここに配備されるミサイルは中国に向けられることになるだろう。 アメリカの国防総省系シンクタンク「RANDコーポレーション」が昨年に発表した報告書によると、アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲しようとしているが、配備できそうな国は日本だけ。その日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約があるため、アメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにする。そしてASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたという。 日本は軍事拠点を作るだけでなく、高性能兵器の開発にも乗り出していると伝えられている。例えばアメリカと共同で音速の5倍以上で侵入してくるHGV(極超音速滑空体)を迎撃するミサイル技術の研究開発を考え、昨年7月24日には宇宙航空研究開発機構(JAXA)が鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所で迎撃ミサイルに必要な速度に到達することが可能だとされるエンジンの飛行試験を初めて実施した。 極超音速で飛行するミサイル自体も研究だと言われ、HGVではなくエンジンによって推進力を得る極超音速巡航ミサイル(HCM)の開発を目指しているという。2026年には九州や北海道の島々へ配備したいようだ。 政府は国産で陸上自衛隊に配備されている「12式地対艦誘導弾」の射程を現在の百数十キロメートルから1000キロメートル程度に伸ばし、艦艇や戦闘機からも発射できるよう改良を進めていると伝えられているが、その背景にアメリカのGBIRM計画があった。 日本は射程距離が3000キロメートル程度のミサイルを開発し、2030年代の半ばまでに北海道へ配備する計画だとも伝えられている。それが実現するとカムチャツカ半島も射程圏内だ。 アメリカの置かれた状況が急速に悪化、こうした当初の計画では間に合わないと判断され、トマホークを日本に購入させることにしたのだろう。
2023.11.19
ガザではイスラエル軍の攻撃で1万1500人以上の住民が殺され、2万9200人が負傷したとされている。死者の約4割は子どもだという。そのガザでイスラエル軍は病院や学校も破壊しているが、11月17日には通信を遮断したうえでアル・シファ病院へ再び突入した。15日に続く攻撃だ。病院から逃げ出した人びとを含め、少なからぬ患者や避難民が犠牲なっている。攻撃の前にイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はアメリカのジョー・バイデン大統領に電話をかけ、イスラエル国防軍が病院を攻撃し、占領する許可を得たとされている。 ブルームバーグによると、アメリカ国防総省はイスラエルに対する軍事援助を強化、秘密裏にヘルファイア・レーザー誘導ミサイル約2000発を含む砲弾やミサイル、タミールミサイル迎撃ミサイル312基などを供給したという。バイデン政権が大量の武器や多額の資金を投入したウクライナでの惨状が漏れ始め、アメリカでも批判が強まっていることからイスラエルへの支援は知られたくないのだろう。 しかし、イスラエル政府はまだ満足していない。さらに155ミリメートル高火力砲弾、M4A1ライフル、PVS-14暗視装置、M141ハンドヘルド・バンカー・バスター弾(地中貫通爆弾)を要求しているとされている。 ソ連が消滅した直後のネオコンと同じように、ベンヤミン・ネタニヤフ政権はガザで何をしても許されると考えているのかもしれないが、それを許しているのは日米欧の支配層だけ。ガザに対する無差別攻撃に対する怒りは全世界に広がっている。 病院の地下にハマスの軍事施設があるとしての攻撃だが、説得力のある証拠を提示できていない。そこでイスラエル政府はイリュージョンを使い始めた。例えばイスラエル軍がどれだけ病院を助けようとしてきたかということを語る女性医師を登場させたが、この女性がイスラエルの女優だということが明らかにされている。西側有力メディアの「報道」はイスラエル軍の検閲済みだ。こうした仕組みはユーゴスラビアでもイラクでもリビアでもシリアでもウクライナでも同じだ。 イスラエル軍は今回もアル・シファ病院の地下にハマスの司令部があることを示す証拠を見つけ出すことはできなかった。そのかわり、英語で「医療用品」と書かれた箱を運び込んだが、なぜヘブライ語でなかったのかと苦笑されている。箱の中にはハマスと病院を結びつける「証拠品」が入っていたのかもしれない。 ガザで虐殺を繰り広げるイスラエル政府に対する怒りは世界各地で抗議活動という形で現れているが、ダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)を倒したイラクの武装グループがイラクやシリアにあるアメリカ軍の基地に対する攻撃を始めている。今後、ガザのパレスチナ人に対する支援を始めるという。 10月7日にイスラエルへ攻め込んだハマスの部隊はアメリカ製の武器を携帯していたが、それはウクライナ軍が横流ししたものだと噂されている。 ガザはイスラエルが建設した一種の強制収容所化であり、その収容所を取り囲む壁には電子的な監視システムが設置されている。人が近づけば警報がなり、地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっているのだが、10月7日にはそうした動きが見られなかった。 また、アメリカ軍は10月7日にハマスがイスラエルを攻撃した数時間後、2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させていることから、事前にアメリカはハマスの攻撃を知っていたのではないかと言われている。 アメリカ軍はイスラエルに基地を保有しているが、そのひとつがネゲブ砂漠のハルケレン山頂にある「サイト512」。そこにはレーダー施設があり、イランの動きを監視している。オーストラリアにあるCIAのパイン・ギャップ基地もガザに関する電子情報を収集、そのデータをイスラエル国防軍に提供している。 攻撃の際、約1400名のイスラエル人が死亡したとされているが、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装グループを壊滅させるため、占拠された建物を人質もろとも砲撃、あるいは戦闘ヘリからの攻撃で破壊したという。イスラエル軍は自国民を殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。 10月7日のハマスによるイスラエル攻撃には不可解な点が少なくないのだが、その後の展開はイスラエルが建国以来続けてきたパレスチナ人弾圧に対する世界の怒りを噴出させかけている。
2023.11.18
中国の習近平国家主席は11月14日にアメリカを訪問、15日にはサンフランシスコでジョー・バイデン米大統領と会談した。会談後の記者会見でバイデンはアメリカと中国が「直接的で、オープンで、明確で、直接的なコミュニケーションに戻る」と語っている。 バイデンは「これまでで最も建設的で生産的な話し合いだった」とも述べたが、その直後、習近平を「独裁者」と表現。それに対し、中国の外交部(外務省)で報道官を務める毛寧は16日の記者会見で、バイデンの発言は「極めて不適切で、無責任な政治操作」だと批判した。これほど愚かな人物を大統領に据えているアメリカという国に未来はない。 若い頃から好戦的なことで有名なバイデンは大統領に就任した直後の2021年3月、ABCニュースのインタビューでロシアのウラジミル・プーチン大統領を人殺し呼ばわりし、ロシアに対する経済戦争や軍事的な挑発を強めたことが思い出される。ウクライナへの軍事介入を誘ったのだが、その結果、アメリカやEUは窮地に陥った。 世界的変革の時代において中国とアメリカには2つの選択肢があると習近平は指摘したという。ひとつは手を携えて世界的課題に対処し、世界の安全保障と繁栄を促進すること。もうひとつは競争と対立によって世界を混乱と分裂へと追い込むこと。どちらの道を進むかによって人類と世界の未来は決まるというわけだが、バイデンは一貫して混乱と分裂への道を突き進んでいる。 現在、EUや日本はアメリカへの従属度を強めているが、アメリカやイギリスを支配している人びとは表面に出てこない。米英は19世紀から金融資本が支配していることは否定できないだろう。その金融資本が混乱と分裂、つまり戦争への道へと世界を導いている。19世紀以来、米英支配層の最終目標はロシアや中国を征服し、世界の覇者となることだ。そのためにイギリスは明治維新を仕掛け、米英は明治体制にアジアを侵略させた。本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦後の日本も明治体制下にある。 来年、アメリカでも大統領選挙があるのだが、これで問題が解決される可能性はないに等しい。バイデン以外の人物がアメリカ大統領になっても事態に大きな変化はないだろうからだ。
2023.11.17
イスラエルはイギリスの支配層が作り出し、アメリカの支配層が引き継いだ「不沈空母」である。中東の石油を支配し、アングロ・サクソンの世界制覇プランを支える重要な柱のひとつであるスエズ運河を守ることがイスラエルに課せられた重要な役割だった。イスラエルと同じようにイギリスが作り上げたサウジアラビアでも似たことが言える。イスラエルがアメリカやイギリスを支配しているわけではない。 ベトナム戦争が泥沼化していることをアメリカ国民が知る直前、第3次中東戦争の最中に引き起こされた。戦争が勃発してから4日後、1967年6月8日、アメリカは情報収集船の「リバティ」を地中海の東部、イスラエルの沖へ派遣した。この出来事はアメリカとイスラエルとの関係を知る上で重要だ。 イスラエル沖に現れたリバティに対し、イスラエル軍は8日午前6時(現地時間)に偵察機を接近させ、10時には2機のジェット戦闘機がリバティ近くへ飛来、さらに10時半、11時26分、12時20分にも低空で情報収集船に近づいている。当然、船がアメリカの情報収集戦だということをイスラエル軍は確認できたはずだ。 ところが、午後2時5分に3機のミラージュ戦闘機がリバティに対してロケット弾やナパーム弾を発射した。ナパーム弾を使ったということは乗員を皆殺しにするつまりだということを意味している。 イスラエル軍機はリバティが救援を呼べないように船の通信設備をまず破壊するのだが、2時10分に船の通信兵は寄せ集めの装置とアンテナでアメリカ海軍の第6艦隊に遭難信号を発信、それに気づいたイスラエル軍はジャミングで通信を妨害してきた。 その数分後に3隻の魚雷艇が急接近して20ミリと40ミリ砲で攻撃、さらに魚雷が命中して船は傾く。その船へ銃撃を加えている。その結果、乗組員9名が死亡、25名が行方不明、171名が負傷した。 そこへ2機の大型ヘリコプター、SA321シュペル・フルロンが近づき、リバティの上空を旋回し始める。リバティの乗組員はイスラエルが止めを刺しに来たと思ったという。3時36分には魚雷艇とマークの入っていないジェット戦闘機が現れたが、すぐに姿を消してしまった。(Alan Hart, “Zionism Volume Three”, World Focus Publishing, 2005) 遭難信号を受信したとき、第6艦隊の空母サラトガは訓練の最中で、甲板にはすぐ離陸できる4機のA1スカイホークがあった。艦長は船首を風上に向けさせて戦闘機を離陸させている。イスラエルが攻撃を開始してから15分も経っていない。そこからリバティまで約30分。つまり2時50分には現場に戦闘機は着ける。 艦長は艦隊の司令官に連絡、司令官は戦闘機の派遣を承認し、もう1隻の空母アメリカにもリバティを守るために戦闘機を向かわせるように命じるのだが、空母アメリカの艦長がすぐに動くことはなかった。 リバティが攻撃されたことはリンドン・ジョンソン大統領へすぐに報告されたが、ロバート・マクナマラ国防長官は第6艦隊に対して戦闘機をすぐに引き返させるようにと叫んでいる。後にマクナマラはソ連軍がリバティを攻撃したと思ったと弁明しているが、当初の筋書きではそうなっていたのかもしれない。ソ連軍がアメリカの情報収集線を撃沈したというシナリオだ。(前掲書) ホワイトハウス内でどのようなことが話し合われたかは不明だが、3時5分にリバティへ戦闘機と艦船を派遣するという至急電が打たれている。この時、リバティは攻撃で大きなダメージを受け、メッセージを受信できない状況だったが、イスラエル軍は傍受した。 3時16分になると、第6艦隊の第60任務部隊は空母サラトガと空母アメリカに対して8機をリバティ救援のために派遣し、攻撃者を破壊するか追い払うように命令した。イスラエルの魚雷艇がリバティ号の近くに現れた3分後の39分に艦隊司令官はホワイトハウスに対し、戦闘機は4時前後に現場へ到着すると報告、その数分後にイスラエルの魚雷艇は最後の攻撃を実行している。そして4時14分、イスラエル軍はアメリカ側に対し、アメリカの艦船を誤爆したと伝えて謝罪、アメリカ政府はその謝罪を受け入れた。 リバティが攻撃されている際、イスラエル軍の交信内容をアメリカの情報機関は傍受、記録していた。その中でイスラエル軍のパイロットは目標がアメリカ軍の艦船だと報告、それに対して地上の司令部は命令通りに攻撃するように命令している。イスラエル軍はアメリカの艦船だと知った上で攻撃していることをアメリカの情報機関は知っていた。 その交信を記録したテープをアメリカの電子情報機関NSAは大量に廃棄したという。複数の大統領へのブリーフィングを担当した経験を持つCIAの元分析官、レイ・マクガバンもこうした隠蔽工作があったと確認している。(前掲書) ジョンソン政権は攻撃の真相を隠す工作をすぐに開始、その責任者に選ばれたのがアメリカ海軍太平洋艦隊の司令官だったジョン・マケイン・ジュニア、つまり故ジョン・マケイン3世上院議員の父親だ。 当時、アメリカ政府の内部で秘密工作を統括する中枢は「303委員会」と呼ばれていた。1967年4月、そこで「フロントレット615」という計画が説明されたという。リバティを潜水艦と一緒に地中海の東岸、イスラエル沖へ派遣するというもので、実際、後にリバティや潜水艦は派遣された。 この計画には「サイアナイド作戦」が含まれていた。リバティを沈没させ、その責任をエジプト、あるいはソ連に押しつけて戦争を始めようとしたという推測がある。いわゆる偽旗作戦だ。 リバティと一緒に航行していた潜水艦アンバージャックはアメリカ軍とイスラエル軍の交信全てを傍受、また潜望鏡を使って様子を見ていたとする証言もある。リバティの乗組員も潜望鏡を見たとしている。こうしたデータも破棄されたようだ。 その後、アメリカ政府は関係者に箝口令を敷き、重要な情報を公開していない。イスラエルでは機密文書が公開されるのは50年後と決められているため、イスラエルが開戦に踏み切った目的、戦争の実態、リバティを攻撃した本当の理由などを知ることのできる資料が2017年には明らかにされるはずだったが、10年7月にベンヤミン・ネタニヤフ首相は情報公開の時期を20年間遅らせることを決めている。 第3次中東戦争の結果、約43万9000人の新たなパレスチナ難民がヨルダン川東岸へ移動しているが、この時にゲリラ戦でイスラエル軍を苦しめたのがファタハである。 これ以降、アラブ人社会の中でファタハの存在は大きなものになり、その指導者だったヤセル・アラファトはイスラエルにとって目障りな存在になる。そこでイスラエル政府はアラファトのライバルとしてムスリム同胞団のシーク・アーメド・ヤシンに目をつけ、ファタハのライバルとしてハマスを作り上げる。1987年12月のことだ。 イスラエルの治安機関であるシン・ベトの監視下、ヤシンはムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を1973年に創設、76年にはイスラム協会を設立、そしてハマスを作ったのだ。そのハマスによるイスラエル攻撃をイスラエル政府やアメリカ政府は事前に知っていた可能性が高いが、その攻撃を口実として、イスラエル軍はガザで民族浄化作戦を進めている。 第3次中東戦争でイスラエルは支配地を拡大させたが、国連安全保障理事会は1967年11月に「242号決議」を採択、交戦状態の終結と難民問題の公正な解決、そして戦争で占領した領土からイスラエル軍は撤退するように求めているが、今に至るまで実現されていない。
2023.11.17
イスラエル軍はアル・シファ病院に対する攻撃を始めたという。その地下にハマスの軍事施設があると主張してのことだが、ハマス側は否定している。イスラエル政府がそう確信しているのは、かつて自分たちが病院の地下に施設を作ったからだが、そうした場所にハマスの戦闘員がいる可能性は小さいと考えられている。 真相は不明だが、その病院に少なからぬ患者や避難民がいることは間違いなく、入院患者は簡単に移動できない。こうしたガザでの住民虐殺が注目されているが、ヨルダン川西岸ではイスラエル人入植者によるパレスチナ人殺害も引き起こされている。 ハマスを含むパレスチナ系武装グループが10月7日にイスラエルへ攻め込んだ際、約1400名のイスラエル人が死亡したとされているが、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装グループを壊滅させるため、占拠された建物を人質もろとも砲撃、あるいは戦闘ヘリからの攻撃で破壊したという。イスラエル軍は自国民を殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。 ガザはイスラエルが建設した一種の強制収容所化であり、その収容所を取り囲む壁には電子的な監視システムが設置されている。人が近づけば警報がなり、地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっているのだが、10月7日にはそうした動きが見られなかった。 また、アメリカ軍は10月7日にハマスがイスラエルを攻撃した数時間後、2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させていることから、事前にアメリカはハマスの攻撃を知っていたのではないかと言われている。 アメリカ軍はイスラエルに基地を保有している。そのひとつがネゲブ砂漠のハルケレン山頂にある「サイト512」。そこにはレーダー施設があり、イランの動きを監視している。 オーストラリアにあるCIAのパイン・ギャップ基地もガザに関する電子情報を収集、そのデータをイスラエル国防軍に提供している。この基地は通信傍受基地は1966年12月にアメリカとオーストラリアとの間で結ばれた秘密協定に基づいて建設された。協定の期限は10年で、1976年までに更新しないと基地を閉鎖しなければならなかったのだが、アメリカ側は首相だったゴフ・ホイットラムが更新を拒否するのではないかと懸念していた。 ホイットラムは1972年12月の総選挙で勝利して首相に就任すると、自国の対外情報機関ASISに対してCIAとの協力関係を断つように命令している。チリのクーデターに関する情報を入手、チリでASISがCIAと共同でサルバドール・アジェンデ政権を崩壊させる工作を実行していたことを知っていたからだという。(David Leigh, "The Wilson Plot," Pantheon, 1988) そこでCIAは1975年11月、イギリス女王エリザベス2世の総督だったジョン・カーにホイットラム首相を解任させる。実際に動いたのはアメリカのCIAやイギリスのMI6だが、総督がいなければ解任できない。総督は名誉職だと考えられていたが、そうではなかったのである。 カーは第2次世界大戦中の1944年、オーストラリア政府の命令でアメリカへ派遣されてCIAの前身であるOSS(戦略事務局)と一緒に仕事をしている。大戦後もCIAと深い関係にあった。(Jonathan Kwitny, "The Crimes of Patriots," Norton, 1987) アメリカの電子情報機関NSAの基地はキプロスにもあり、中東も監視の対象だ。1961年9月、コンゴの動乱を停戦させるために動いていたダグ・ハマーショルド国連事務総長が乗っていたDC-6は何者かによって撃墜された。この時、キプロスの担当官はDC-6を撃墜した飛行機を操縦していたパイロットの通信を傍受していたという。 コンゴは1960年にベルギーから独立、選挙で勝利したパトリス・ルムンバが初代首相に就任したが、資源の豊富なカタンガをベルギーは分離独立させようとしていた。 アメリカのアレン・ダレスCIA長官もルムンバを危険視、コンゴ駐在のクレアー・ティムバーレーク大使はクーデターでの排除を提案したという。CIA支局長はローレンス・デブリン。このとき、ティムバーレーク大使の下には後の国防長官、フランク・カールッチもいた。当時のアメリカ大統領、ドワイト・アイゼンハワーは同年8月にルムンバ排除の許可を出している。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015) アメリカ支配層に選ばれたモブツ・セセ・セコが1960年9月にクーデターを成功させ、12月にルムンバは拘束された。1961年1月17日にアメリカでジョン・F・ケネディが大統領に就任する3日前、ルムンバは刑務所から引き出され、ルムンバの敵が支配する地域へ運ばれて死刑を言い渡された。そしてアメリカやベルギーの情報機関とつながっている集団によって殴り殺されている。 ガザでの戦闘も利権が関係していると見られている。ひとつは地中海東部、エジプトからギリシャにかけての海域で発見された天然ガスや石油。この海域に9兆8000億立方メートルの天然ガスと34億バーレルの原油が眠っていて、ガザ沖にも天然ガス田がある。 また、イスラエルはアカバ湾と地中海をつなぐ「ベン・グリオン運河」を計画している。スエズ運河はエジプト領にあるが、新運河はエーラト港からヨルダンとの国境沿いを進み、ガザの北側から地中海へ出るルートだ。 インドのナレンドラ・モディ首相は9月8日、ニューデリーで開催されたG20サミットの席上、IMEC(インド・中東・欧州経済回廊)プロジェクトを発表した。アメリカとロシアを両天秤にかけていたインドだが、ここにきてアメリカやイスラエルに接近していることを明らかにしている。 IMECはインド、UAE(アラブ首長国連邦)、サウジアラビア、イスラエルを結び、さらにギリシャからEUへ伸びるルート。イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相によると、アメリカがイスラエルにこの計画を持ちかけたというのだが、これはガザでのパレスチナ人虐殺で雲行きが怪しくなった。 こうした利権を包括したような大きな利権をネオコンは考えている。欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の最高司令官を務めたウェズリー・クラークによると、国防総省本部庁舎(ペンタゴン)やニューヨークの世界貿易センターが攻撃された2001年9月11日から10日ほど後、統合参謀本部でクラークは攻撃予定国リストを見たと語っている。そこにはイラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランが載っていたという。(3月、10月) ネオコンは最終的にイランを制圧し、中東の石油利権や海洋ルートを自らの管理下に置こうとしている。そのための拠点がイスラエルにほかならない。 中東で石油が発見された後、1916年にイギリスはフランスと協定を結ぶ。フランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコとイギリスのマーク・サイクスが中心的な役割を果たしたことからサイクス-ピコ協定と呼ばれている。その結果、トルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンをフランスが、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスがそれぞれ支配することになっていた。 協定が結ばれた直後、イギリスはオスマン帝国を分解するためにアラブ人の反乱を支援しはじめる。工作の中心的な役割を果たしたのはイギリス外務省のアラブ局で、そこにサイクスやトーマス・ローレンスもいた。「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。そしてサウジアラビアを作り上げる。 イギリス外相だったアーサー・バルフォアは1917年11月2日、ウォルター・ロスチャイルドに書簡を出し、その中で「ユダヤ人の国」を建設することに同意すると書いた。 そうした動きに対し、長い間そこに住んでいたアラブ人は反発、それを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成。そしてアイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを送り込むことになる。この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立され、違法な殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。そして1948年5月にイスラエルの「建国」が宣言された。パレスチナ問題はここから始まる。 1983年1月、中曽根康弘は内閣総理大臣としてアメリカを訪問、ワシントン・ポスト紙の編集者や記者たちと朝食をとった。その際、彼はソ連のバックファイア爆撃機の侵入を防ぐため、日本は「不沈空母」になるべきだと言ったと報道されている。 中曽根はそれをすぐに否定するが、発言が録音されていたことが判明すると、「不沈空母」ではなく、ロシア機を阻止する「大きな空母」だと主張を変えた。このふたつの表現に本質的な差はない。日本列島はアメリカ軍がロシア軍を攻撃するための軍事拠点だと中曽根は認めたのである。 ワシントン・ポスト紙は「大きな空母」発言以外に、「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」と主張し、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語っている。こうした発言はソ連を刺激した。 実は、その前にイスラエルは自国についてアメリカの不沈空母だと表現していた。だからこそ、アメリカはイスラエルを大事にしろということだろう。今でもイスラエルはアメリカにとって「不沈空母」だ。アメリカはイランを狙っている。 そのイランもガザにおけるイスラエルの虐殺を批判、状況によってはなんらかの形で介入することを匂わせている。ガザでの虐殺を続ければイランが軍事介入、それを口実にしてアメリカ軍がイランを攻撃するというシナリオをジョー・バイデン政権は考えているかもしれない。無謀だが、ネオコンは無謀なことを繰り返してきた。
2023.11.16
このブログは読者の皆様に支えられています。ブログ存続のため、カンパ/寄付をお願い申し上げます。 世界は現在、歴史の大きな節目に差し掛かっています。それを理解している米英を中心とする現在の支配者たちは新たない時代にも覇権を握ろうと画策してきました。彼らは「リセット」をその総仕上げだと考えているのでしょう。2024年は勝敗を決する年です。 ネオコンは1991年12月にソ連が消滅した直後、アメリカが唯一の超大国になったと認識し、他者を配慮することなく好き勝手に行動できる時代になったと考えました。そして作成された世界制覇計画が「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」にほかなりません。 この計画を作成したのは国防次官だったネオコンのポール・ウォルフォウィッツですが、アイデアを考えた人物は国防総省のONA(ネット評価室)で室長を務めていたネオコンのアンドリュー・マーシャルだと言われています。 手始めに行われたのがユーゴスラビアに対する侵略戦争で、21世紀に入るとアメリカ政府は2001年9月11日の「9/11」を利用し、国内の収容所化を進め、国外で侵略戦争を本格化させました。すでにソ連を消滅させ、中国を支配下に置いたと信じていた彼らが侵略のターゲットとしてイラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランを考えていたことは欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の最高司令官を務めたウェズリー・クラークによって明らかにされました。(3月、10月) ウォルフォウィッツ・ドクトリンに基づき、ネオコン系シンクタンクのPNAC(アメリカ新世紀プロジェクト)は2000年9月に「アメリカの国防再構築」と題する報告書を発表、その中で根本的な再構築を実現するためには「新たなパール・ハーバー」が必要だと主張します。その翌年の5月にアメリカで「パール・ハーバー」という映画が公開され、その4カ月後に9/11はありました。興味深い「偶然」です。 9/11の直前、2001年6月にアメリカ軍はアンドリュース空軍基地で天然痘による攻撃を受けたと言う想定の軍事演習「ダーク・ウィンター」を実施しています。演習はジョンズ・ホプキンス市民生物防衛戦略センター、CSIS(戦略国際問題研究所)、国家安全保障ANSER研究所、そしてMIPT(国立テロリズム防止オクラホマシティ記念研究所)が主体になっています。この延長線上に「COVID-19パンデミック」があると疑う人もいます。 現在、アメリカはこうした計画に沿って世界制覇をめざしていることがわかりますが、計画の前提は壊れているのです。つまりロシアが再独立に成功、国力を急回復させ、中国と戦略的な同盟関係を結びました。アメリカはロシアや中国を力づくで屈服させようとしていますが、全て裏目に出ています。 アメリカはシリアでの戦争で大きくつまずき、ロシアに直接挑んだウクライナでの戦いでは敗北しました。そして始められたのがイスラエル軍によるガザにおける民族浄化作戦、さらに東アジアでも軍事的な緊張を高めています。 こうした軍事的な作戦と並行して行われているのが「パンデミック・プロジェクト」。有力メディアだけでなくインターネットで言論統制を強め、ロックダウンで人びとの行動を規制、デジタルIDを推進して全人類を一括管理するシステムを構築しつつあります。その一方、推進された「COVID-19ワクチン」と称する遺伝子操作薬によって人間の免疫システムを破壊、人びとから生殖能力を奪おうとしていると懸念されています。 その背後にはAIとロボットを融合した世界が描かれているのですが、そうした世界で「無用」になると彼らがみなす人の割合は全人口の大半になるとも考えられています。 こうした現支配層の計画が実現できるかどうかは来年の戦いで決まるでしょう。彼らは必死です。その戦いで彼らに勝たせないため、私たちは正確な情報を集め、分析する必要がありますが、新聞、雑誌、放送、出版など有力メディアは「言論」を放棄、信頼できなくなっています。自分たちの力で情報を集めるしかないのです。大手メディアには頼れません。本ブログも微力ながら世界の情報を集め、伝えていく所存です。支援をよろしくお願い申し上げます。櫻井 春彦【振込先】巣鴨信用金庫店番号:002(大塚支店)預金種目:普通口座番号:0002105口座名:櫻井春彦
2023.11.15
ガザの建造物を破壊、住民を大量虐殺しているイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ政権に対する批判は世界で高まり、各国の支配層も無視できない状況だ。それに対し、ネタニヤフ政権はトニー・ブレアをガザの「人道調整官」にしようとしているという。この情報はイスラエルのYnetが11月12日に伝え、それをさまざまなメディアが流している。ブレアは1997年5月から2007年6月にかけてイギリスの首相を務めた人物で、イスラエルと緊密な関係にある。 ブレアは1972年から75年までオックスフォード大学に在籍していたが、そこでブリングドン・クラブに入っている。素行の悪さを「売り」にしていたクラブで、ボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、ナット・ロスチャイルドも所属していた。帝政ロシアの有力貴族だったユスポフ家のフェリックスもメンバーだ。 フェリックスは1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、彼もブリングドン・クラブに入った。大学ではクラスメートのオズワルド・レイナーと親密な関係になるが、このレイナーは卒業後、イギリスの対外情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになっている。 ユスポフ家が親しくしていたイギリス人アリー家のスティーブン・アリーはフェリックスより11年前、1876年にモスクワ近くで生まれた。この人物も後にMI6のオフィサーになった。 イギリスは産業資本家とユスポフ人脈を利用して第1次世界大戦でロシアとドイツを戦わせようと画策したが、皇后アレクサンドラや大地主階級が参戦に反対した。その勢力の代弁者が皇帝にも信頼されていたグレゴリー・ラスプーチンだ。 大戦は1914年7月28日、オーストリア-ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して勃発するが、皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチンは戦争が国の崩壊を招くと警告している。 そのやりとりを盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院することになった。入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。ラスプーチンが退院したのは8月17日のことだ。 すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。チームにはアリーとレイナーが含まれていた。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013) このチームがラスプーチンを暗殺したのだが、致命傷になった銃弾の口径から止めを刺したのはレイナーだったと見られている。1917年3月にはニコライ2世が退位、ロマノフ朝は崩壊して臨時革命政府が成立する。「二月革命」だ。臨時政府は7月にエス・エルでフリーメーソンのアレキサンドル・ケレンスキーを首相に就任させた。戦争はイギリスの計画通り「継続」である。 それに対し、ドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキのウラジミル・レーニンに目をつけ、4月にボルシェビキの幹部を亡命先からロシアへ列車で帰国させた。 8月になると臨時革命政府軍の最高総司令官になったのがラーブル・コルニーロフ将軍が反乱、事態を収拾できないケレンスキーは直前までメンシェビキだったレオン・トロツキーに助けを求める。結局、それが十月革命につながった。ボルシェビキ政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出したが、すでにアメリカが参戦していたこともあり、ドイツは負けた。 フェリックス・ユスポフと同じようにブリングドン・クラブのメンバーだったブレアは1994年1月に妻とイスラエルへ招待され、3月にはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、ブレアの重要なスポンサーになるのだが、言うまでもなく真の金主はイスラエルだ。 米英の親イスラエル人脈にとって好都合なことに、労働党の党首だったジョン・スミスが1994年5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利、党首になった。 レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そこで国内政策はマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義、国外では親イスラエル的で好戦的なものになる。 ブレアが党首になる直前のイギリス労働党は親イスラエルから親パレスチナへ変化しつつあった。その原因は、1982年9月にレバノンのパレスチナ難民キャンプのサブラとシャティーラで引き起こされた虐殺事件にある。 この虐殺はベイルートのキリスト教勢力、ファランジスト党が実行したのだが、その黒幕はイスラエル。ファランジスト党の武装勢力はイスラエル軍の支援を受けながら無防備の難民キャンプを制圧し、その際に数百人、あるいは3000人以上の難民が殺されたと言われている。イギリス労働党の内部ではイスラエルの責任を問い、パレスチナを支援する声が大きくなった。 そうした情況を懸念したアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めようと考え、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)である。アメリカとイギリスのエリートを一体化させることが組織の目的で、少なからぬメディアの記者や編集者が参加していた。 現在、イスラエルはガザでサブラとシャティーラにおける虐殺より多い1万1000人以上のパレスチナ人を殺している。その約4割は子ども。イスラエルに対する批判が高まるのは当然だ。そこでイスラエルは自分たちと緊密な関係にあるブレアを「人道調整官」にしようというのである。 ちなみに、ブレアはジェイコブ・ロスチャイルドやエブリン・ロベルト・デ・ロスチャイルドと親しく、首相を辞めた後、JPモルガンやチューリッヒ・インターナショナルから報酬を得て大金持ちになっている。
2023.11.14
10月7日にパレスチナの武装グループがイスラエルを攻撃する前、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフは汚職容疑で逮捕、起訴は免れないと言われていた。この点、スキャンダルまみれのジョー・バイデン大統領と立場は似ている。バイデンの場合、ウクライナでロシアに敗れた事実を隠しきれなくなったという問題も生じている。 ハマスの攻撃は「奇襲」だとされたが、ガザが強制収容所化している現実を知っているイスラエル人は政府の主張を怪しんだであろうが、さらに、イスラエルの新聞ハーレツなどはイスラエル軍が侵入した武装集団と一緒に人質のイスラエル人を砲撃したり戦闘ヘリで攻撃したと伝えている。イスラエル市民をイスラエル軍は殺害したということだ。(ココやココ) また、攻撃が始まった直後、イスラエルの子ども40人が斬首されたという話が流れ、アメリカのジョー・バイデン大統領やイスラエルのニル・バルカット経済相も子ども40人の斬首話を広めたのだが、作り話だったことがすぐ判明している。 その一方、ハマスの攻撃を口実にしてイスラエル軍が始めた攻撃は民族浄化作戦にほかならない。空爆で脅してガザの住民をエジプトへ、ヨルダン川西岸の住民をヨルダンへイスラエルは移住させようとしていたようだが、これは実現できず、地上戦を戦わなければならなくなった。たとえハマスとイスラエルとの間で話し合いができていたとしても、イスラム世界で燃え上がった怒りの炎は簡単に消えないだろう。 そうした怒りはイスラム世界を超え、世界に広がっている。フランスでもイスラエル軍による虐殺に抗議する声が高まり、エマニュエル・マクロン大統領はイスラエルに対し、ガザの女性や子どもを殺さないように訴えざるをえなくなるのだが、ほどなくしてマクロンはイスラエルのイツハク・ヘルツォグ大統領に対し、イスラエルによるパレスチナ市民の殺害を批判しているわけではないと「弁明」している。 欧米帝国主義の終焉は近いようだ。
2023.11.14
日本では「問うに落ちず語るに落ちる」ということわざがある。イスラエルのギラド・エルダン国連大使は10月8日に安全保障理事会で「これはイスラエルの9/11だ」と演説、ヨアブ・ギャラント国防相はパレスチナ人を「獣」だと表現した。またアメリカのアントニー・ブリンケン国務長官はハマスの攻撃について「9/11の10回分に相当する」と主張している。 イスラエル政府とアメリカ政府はハマスにイスラエルを攻撃させ、ガザで民族浄化作戦を始めたのだが、その結果、サウジアラビアのリヤドでアラブ・イスラム首脳会議が緊急開催された。これまで対立していた国の首脳が一堂に会したのである。中国やロシアもガザでの大量殺戮を批判している。ネオコンはまたもや大きな計算間違いを犯した。
2023.11.13
ハマスはムスリム同胞団系の武装組織。イスラエルから承認を受けたうえでカタールから資金を得てきたと言われている。イスラエル政府はハマスのガザ支配を積極的に支援していたのだ。 創設者のシーク・アーメド・ヤシンはムスリム同胞団の一員で、1973年にムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして76年にはイスラム協会を設立している。ハマスは1987年、イスラム協会の軍事部門として作られた。 イスラエルの元国会議員、モシェ・ファイグリンによると、このハマスを壊滅させるために「ガザをドレスデンや広島のように破壊」するのだという。実際、ガザはそうした状況で、すでの1万1000人以上の住民が殺され、そのうち約4割が子どもだ。自分たちが作り上げた「フランケンシュタイン」を壊滅させるという名目でガザのパレスチナ人を皆殺しにしようとしていると言われても仕方がないだろう。 イスラエル側でハマスと最も緊密な関係にある人物はベンヤミン・ネタニヤフだと言われている。シーモア・ハーシュによると、2009年に首相へ返り咲いた時、ネタニヤフはPLOでなくハマスにパレスチナを支配させようとした。そのため、ネヤニヤフはカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたという。 10月7日にハマスの戦闘部隊はイスラエルへ攻め込んだ。「アル・アクサの洪水」だが、この軍事作戦の展開は奇妙だと少なからぬ人が指摘している。 2年ほど前から攻撃の準備を始めたようだが、その間、イスラエルの情報機関が察知できなかったとは考えにくい。もし察知できなかったのなら大変な失態だが、戦闘が始まってからイスラエル軍はハマスの交信を全て傍受しているようである。 ガザはイスラエルが建設した一種の強制収容所化である。その収容所を取り囲む壁には電子的な監視システムが設置され、人が近づけば警報がなるはず。警報が鳴れば地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっている。 ハマスの攻撃で約1400名のイスラエル人が死亡したとされているのだが、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装集団を壊滅させるため、選挙された建物を人質と一緒に砲撃で破壊したという。イスラエル市民をイスラエル軍は殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。 攻撃が始まった直後、イスラエルの子ども40人が斬首されたという話が流れ、アメリカのジョー・バイデン大統領やイスラエルのニル・バルカット経済相も子ども40人の斬首話を広めた。 しかし、この話は確認されていないと別の記者が指摘、そうした話を広めるのは無責任だと批判した。バイデンはイスラエルでテロリストが子供を斬首している確認された写真を見たと主張していたが、その翌日には発言を撤回、報道官はバイデンがそのような写真を見た事実はないと語っている。要するに、作り話だった。 ハマスの攻撃から数時間後、アメリカ政府は空母2隻、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動させた。事前に攻撃を知っていなければ、これほど迅速に派遣することは不可能だと考えられている。 この攻撃はまさに「イスラエルの9/11」だった。ハマスの攻撃はガザからパレスチナ人を消し去りたいネタニヤフのような人びとにとり、願ってもないことだったであろう。
2023.11.13
フィリピンのボンボン・マルコス政府はRAA(相互アクセス協定)について日本と交渉すると発表した。この協定が成立すると、フィリピンと日本は互いの領土に軍隊/自衛隊を展開することが許され、軍事的即応性と協力がさらに強化されるという。岸田文雄首相は11月3日から5日にかけてフィリピンとマレーシアを訪問、フィリピンでは共同記者会見でRAAの交渉開始や日米比3カ国の協力を強化していくとしていた。日本はすでにオーストラリアと同様の協定を締結している。 言うまでもなく、この協定はアメリカの軍事戦略に基づいているが、その戦略はハルフォード・マッキンダーが1904年に発表した理論に基づいている。その理論はユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配し、内陸部を締め上げるという内容で、イギリスの支配層が19世紀に始めた「グレート・ゲーム」を進化させたものだ。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もマッキンダーの理論に基づいている。 この戦略は1991年12月にソ連が消滅した後、ネオコンによって暴走し始めた。彼らはアメリカが「唯一の超大国」になったと認識、世界は自分たちの考えだけで動かせる時代に入ったと考えるようになったのである。そして侵略戦争を本格化させていく。 当時のアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュだが、この好戦的な動きはリチャード・チェイニー国防長官の下で、ポール・ウォルフォウィッツ国防次官が中心になり、DPG(国防計画指針)という形で作成された。「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。旧ソ連圏を制圧するだけでなく、ドイツや日本をアメリカ主導の集団安全保障体制に組み入れ、新たなライバルの出現を防ぐと謳っている。 ところが、日本の細川護熙政権は国連中心主義から離れない。そこでマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベルを説得して国防次官補だったジョセイフ・ナイに接触、ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表した。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が主張されている。 そうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)るという事件が引き起こされた。地下鉄サリン事件の10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃されている。 さらに、8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載された。日本政府に対する恫喝だった可能性がある。 結局、日本は戦争への道を歩み始め、自衛隊は2016年に軍事施設を与那国島に建設、19年には奄美大島と宮古島にも作った。2023年には石垣島でも完成させている。 アメリカの国防総省系シンクタンク「RANDコーポレーション」が昨年に発表した報告書によると、アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲しようとしているが、配備できそうな国は日本だけ。 その日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約があるため、アメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにする。そしてASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたという。 日本は軍事拠点を作るだけでなく、高性能兵器の開発にも乗り出していると伝えられている。例えばアメリカと共同で音速の5倍以上で侵入してくるHGV(極超音速滑空体)を迎撃するミサイル技術の研究開発を考え、昨年7月24日には宇宙航空研究開発機構(JAXA)が鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所で迎撃ミサイルに必要な速度に到達することが可能だとされるエンジンの飛行試験を初めて実施した。 極超音速で飛行するミサイル自体も研究だと言われ、HGVではなくエンジンによって推進力を得る極超音速巡航ミサイル(HCM)の開発を目指しているという。2026年には九州や北海道の島々へ配備したいようだ。 しかし、日本政府はアメリカから亜音速の巡航ミサイル「トマホーク」を購入する意向だという話が出てきた。トマホークは核弾頭を搭載でき、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートル。「反撃能力」というタグがつけられているが、実際は先制攻撃能力だ。攻撃する相手は中国だけでなく、その同盟国であるロシアも含まれる。日本にミサイルを開発させる時間的余裕がなくなったのかもしれない。 その後、さらにトマホークの導入を前倒しすることになる。当初の計画では2026年度から最新型を400機だったが、25年度から旧来型を最大200機に変更するとされている。 日本が昨年1月にRAAを締結したオーストラリアはアメリカやイギリスとAUKUS(A:オーストラリア、UK:イギリス、US:アメリカ)という軍事同盟を太平洋に作っている。そのAUKUSに日本政府は近づこうとしていた。 AUKUSは中国やロシアを仮想敵とする「アジアのNATO」だとも指摘されたが、NATO(北大西洋条約機構)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は2020年6月、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本をメンバーにするプロジェクト「NATO2030」を開始すると宣言している。 アメリカやイスラエルから軍事物資の提供を受け、数年にわたって兵士の訓練も実施されたジョージアは2008年8月に南オセチアを奇襲攻撃したが、ロシア軍の反撃で惨敗。2015年9月末にシリア政府の要請で軍事介入したロシア軍はダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)は敗走させた。 アメリカ軍は2017年4月にトマホーク・ミサイル59機を、また翌年の4月には同じタイプのミサイルを100機以上シリアに向かって発射したが、ロシアの防空システムS-300、S-400、パーンツィリ-S1、そしてECM(電子対抗手段)などで6割から7割を無力化、ロシアの技術力がアメリカを上回ることを示した。 シリアでは軍事介入した直後、ロシア軍はカスピ海に浮かべた艦船から26基の巡航ミサイルを発射、全てのミサイルが約1500キロメートル離れた場所にあるターゲットに2.5メートル以内の誤差で命中させ、兵器の優秀さにアメリカ軍は驚いたと言われている。 こうした実戦により、世界の人びとはアメリカ軍よりロシア軍が優秀だということを知り、アメリカ離れを加速させることになったが、東アジアには日本というアメリカの絶対的な属国が存在する。台湾や韓国の現政府もアメリカに従属しているが、国全体では反発が強い。そうした中、日本とフィリピンは中国やロシアと戦争する方向へ動いている。
2023.11.12
イスラエルはアカバ湾と地中海をつなぐ「ベン・グリオン運河」を計画している。スエズ運河はエジプト領にあるが、新運河はエーラト港からヨルダンとの国境沿いを進み、ガザの北側から地中海へ出るルート。この計画が実現するとイスラエルは世界の物流に対する影響力を手にできるが、問題はパレスチナ人を封じ込めているガザ。新運河の不安定要因になる。その問題を解決するためにはガザからパレスチナ人を消し去らねばならないとイスラエルが考えても不思議ではない。 ガザには天然ガスの問題もある。地中海東部、エジプトからギリシャにかけての海域で天然ガスや石油が発見されているのだ。この海域に9兆8000億立方メートルの天然ガスと34億バーレルの原油が眠っていることがわかっている。ガザ沖にも天然ガスは存在、その開発が進んでパレスチナの経済が豊かになることをイスラエルは恐れている。 イスラエルは1948年5月14日に「建国」されたが、その時点から「大イスラエル構想」は存在していた。ユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域はユダヤ人の所有物だというのだ。 その構想を実現しようとしていた人びとはユダヤ教の宗教書であるトーラー(キリスト教徒が言う旧約聖書のうちモーセ5書)の記述を根拠だとしているが、トーラーによると、土地を所有しているのは神であり、ユダヤ教徒はトーラーを守るという条件の下でその土地に住むことを許されただけだ。大イスラエル構想はプロテスタントが言い始めたのだとも言われている。 しかし、「建国」際に大イスラエルを実現できない。1967年6月5日にイスラエルは第3次中東戦争を仕掛ける。この年の3月から4月にかけてイスラエルはゴラン高原のシリア領にトラクターを入れて土を掘り起こして挑発、シリアが威嚇射撃するとイスラエルは装甲板を取り付けたトラクターを持ち出し、シリアは迫撃砲や重火器を使うというようにエスカレートしていった。 軍事的な緊張が高まったことからエジプトは1967年5月15日に緊急事態を宣言、部隊をシナイ半島へ入れた。5月20日にはイスラエル軍の戦車がシナイ半島の前線地帯に現れたとする報道が流れ、エジプトは予備軍に動員令を出す。そして22日にナセル大統領はアカバ湾の封鎖を宣言した。 イスラエルはこの封鎖を「イスラエルに対する侵略行為」だと主張、イスラエルの情報機関モサドのメイール・アミート長官が5月30日にアメリカを訪問、リンドン・ジョンソン米大統領に開戦を承諾させた。そして6月5日にイスラエル軍はエジプトに対して空爆を開始、第3次中東戦争が勃発する。 この戦争で圧勝したイスラエル軍はガザ、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を占領したが、占領を続けられなかった。それでもゴラン高原の西側3分の2を不法占拠は続け、ヨルダン川西岸では不法入植で侵食してきた。そしてガザでの民族浄化作戦だ。 ハマスを含むパレスチナ系武装グループが10月7日にイスラエルへ攻め込んだ。軍事作戦「アル・アクサの洪水」だが、この攻撃をイスラエル政府やアメリカ政府は事前に知っていた可能性が高い。その根拠は本ブログでも書いてきた。この攻撃を受け、攻め込んだ戦闘員と一緒にイスラエル軍はイスラエル人を殺傷しているとイスラエルのメディアも報じている。 この攻撃を口実としてイスラエル軍はガザのパレスチナ人に対する無差別攻撃を開始、エジプト領のシナイ半島へ移動するように命じたが、エジプト政府は国境を開けず、パレスチナ人は移動を拒否した。そこで皆殺し作戦へ切り替えたようだ。 イギリスの支配層が19世紀に策定した長期戦略にとって紅海から地中海へ抜ける運河は重要な意味を持つ。その運河のそばにイギリスが作り上げた国がサウジアラビアとイスラエルにほかならない。 イギリス政府は1838年、エルサレムに領事館を建設。その翌年にスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査し、アメリカではウィリアム・ブラックストーンなる人物が1891年にユダヤ人をパレスチナに送り出そうという運動を展開し、ベンジャミン・ハリソン米大統領に働きかけた。 1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアはウォルター・ロスチャイルドに書簡を出す。その中で「ユダヤ人の国」を建設することに同意すると書かれている。 1920年代に入るとパレスチナでアラブ系住民はそうした動きに対する反発が強まり、それを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成。そしてアイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用することになる。この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立され、違法な殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。そして1948年5月にイスラエルの「建国」が宣言される。 シオニストには強力なスポンサーが存在した。その中にはエドモン・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアブラハム・フェインバーグが含まれている。(Will Banyan, “The ‘Rothschild connection’”, Lobster 63, Summer 2012) ライオネル・ド・ロスチャイルドと親しくロシア嫌いだったベンジャミン・ディズレーリは1868年2月から12月、74年2月から80年4月まで首相を務めている。ディズレーリが1875年にスエズ運河運河を買収した際、資金を提供したのはライオネル・ド・ロスチャイルドだ。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018) 1880年代に入るとエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめた。この富豪はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドの祖父にあたる。
2023.11.11
イランのモハマド-レザ・アシュティアニ国防相は11月5日、ガザでのイスラエルによる敵対行為を終わらせなければ、アメリカが大きな打撃を受けるだろうと警告した。イスラエルはアメリカの支援なしに存在し得ない国で、国内にはアメリカ軍の基地が建設されている。 そうした基地のひとつ、ネゲブ砂漠のハルケレン山頂にある「サイト512」にはレーダー施設があり、イランの動きを監視しているが、それだけでなく、オーストラリアにあるCIAのパイン・ギャップ基地はガザに関する電子情報を収集、そのデータをイスラエル国防軍に提供している。 イスラエル軍はすでに1万人を超すガザ住民を殺害、その約4割は子どもだ。その虐殺はハマスを含むパレスチナ系武装グループが10月7日にイスラエルを攻撃した結果だとされているが、状況証拠はイスラエル政府やアメリカ政府が事前に攻撃を知っていたことを示している。しかも、本ブログでも書いたように、ハマスの創設にはイスラエルが深く関与、特にベンヤミン・ネタニヤフ首相とハマスは緊密な関係にあった。 イスラエルに対する軍事作戦は「アル・アクサの洪水」と名付けられている。この攻撃で約1400名のイスラエル人が死亡したとされているのだが、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装集団を壊滅させるため、選挙された建物を人質と一緒に砲撃で破壊したという。イスラエル市民をイスラエル軍は殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。しかも、死亡者の多くはイスラエル軍関係者だという。 イスラエルはガザでの住民虐殺を止めていない。イスラエルによる敵対行為を終わらせなければ、アメリカが大きな打撃を受けるとイラン国防相は警告していたが、ヒズボラはレバノンとの国境周辺でイスラエル軍と戦闘を始めただけでなく、イラクやシリアに不法建設されたアメリカ軍基地もドローン、ミサイル、迫撃砲、ロケット砲などで攻撃している。アメリカのネットワーク局NBCによると、そうした攻撃で少なくとも45人の米軍人が負傷した可能性がある。 元CIA分析官のラリー・ジョンソンによると、メリーランド州ベセスダにある医療センターを定期的に訪れている人から、最近の基地攻撃で負傷したアメリカの軍人で病棟がいっぱいになっていると聞かされたという。アメリカ国内でイラクやシリアから撤退するべきだとする意見が増えることを恐れ、ホワイトハウスや国防総省はそうした情報を隠蔽している。情報の隠蔽という点ではイスラエルも同じだ。
2023.11.10
ウクライナでは来年、大統領選挙が実施される予定だが、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領はそれに反対している。2022年2月にロシア軍がウクライナに対する攻撃を始めて以来戒厳令下にあり、戦時中の選挙を禁止されているからだが、選挙を実施すれば負けると考えているのだろう。 大統領の座から降りれば、在任中のさまざまな不正が追及される可能性がある。ロシア語を話す人々への弾圧を継続、厳しい言論統制を実施して政治的な反対勢力を非合法化、正教会を弾圧、その一方でアメリカ支配層のマネーロンダリングや生物兵器の研究開発を容認、西側から得た武器の横流しなどはすでに指摘されている。 最も大きな問題は、アメリカやイギリスの命令に従ってロシアとの無謀な戦争を続け、ウクライナの若者を死なせてきたことだろう。この戦争が始められたのは2013年11月。アメリカのバラク・オバマ政権がキエフのユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)で「カーニバル」的な反政府イベントを開始したのだ。 年明け後、そのイベントは様相を一変、ステパン・バンデラを信奉するネオ・ナチが前面に出てきた。2月に入ると、そのメンバーはチェーン、ナイフ、棍棒を手に石や火炎瓶を投げ、トラクターやトラックを持ち出してくる。ピストルやライフルを撃っている様子を撮影した映像がインターネット上に流れた。 ユーロマイダンでは2月中旬から無差別の狙撃が始まり、抗議活動の参加者も警官隊も狙われる。西側ではこの狙撃はビクトル・ヤヌコビッチ政権が実行したと宣伝されたが、2月25日にキエフ入りして事態を調べたエストニアのウルマス・パエト外相は逆のことを報告している。バイデン政権を後ろ盾とするネオ・ナチが周辺国の兵士の協力を得て実行したというのだ。 ヤヌコビッチ政権は2月22日に倒され、大統領は国外へ脱出したが、有権者の7割以上がヤヌコビッチを支持していたウクライナの東部や南部では反クーデターの機運が高まり、クーデターから間もない3月16日にはクリミアでロシアへの加盟の是非を問う住民投票が実施された。投票率は80%を超え、95%以上が賛成する。 ドネツクとルガンスクでも5月11日に住民投票が実施された。ドネツクは自治を、またルガンスクは独立の是非が問われたのだが、ドネツクでは89%が自治に賛成(投票率75%)、ルガンスクでは96%が独立に賛成(投票率75%)している。この結果を受けて両地域の住民はロシア政府の支援を求めたが、ロシアのウラジミル・プーチン政権は動かない。 それに対し、オバマ政権は動いた。ジョン・ブレナンCIA長官が4月12日にキエフを極秘訪問、22日には副大統領を務めていたジョー・バイデンもキエフを訪れた。バイデンの訪問に会わせるようにしてキエフのクーデター政権は黒海に面した港湾都市オデッサでの工作を話し合っている。そして5月2日、オデッサでクーデターに反対していた住民が虐殺された。 虐殺は5月2日午前8時に「サッカー・ファン」を乗せた列車が到着したところから始まる。赤いテープを腕に巻いた一団がその「ファン」を広場へ誘導するのだが、そこではネオ・ナチのクーデターに対する抗議活動が行われていた。 広場にいた反クーデター派の住民は労働組合会館の中へ誘導されている。危険なので避難するようにと言われたようだが、実際は殺戮の現場を隠すことが目的だったと推測する人もいる。 その後、外から建物の中へ火炎瓶が投げ込まれて火事になる様子は撮影され、インターネット上に流れた。建物へ向かって銃撃する人物も撮られているが、その中にはパルビーから防弾チョッキを受け取った人物も含まれている。 建物の中は火の海になる。焼き殺された人は少なくないが、地下室で殴り殺されたり射殺された人もいた。その際、屋上へ出るためのドアはロックされていたとする情報もある。会館の中で48名が殺され、約200名が負傷したと伝えられたが、現地の人の話では多くの人びとが地下室で惨殺され、犠牲者の数は120名から130名に達するという。虐殺の詳しい調査をキエフのクーデター政権が拒否しているので、事件の詳細は今でも明確でない。その後、オデッサはネオ・ナチに占領された。 オデッサの虐殺から1週間後の5月9日、クーデター政権は戦車部隊をドンバスへ突入させた。この日はソ連がドイツに勝ったことを祝う記念日で、ドンバスの住民も街に出て祝っていた。その際、住民が素手で戦車に立ち向かう様子が撮影されている。そしてドンバスで内戦が始まるのだ。 しかし、クーデター後、軍や治安機関から約7割の兵士や隊員が離脱し、その一部はドンバスの反クーデター軍に合流したと言われている。そのため、当初は反クーデター軍が戦力的に上回っていた。 そこでクーデター体制は内務省にネオ・ナチを中心とする親衛隊を組織、傭兵を集め、年少者に対する軍事訓練を始めた。並行して要塞線も作り始めている。その時間稼ぎに使われたのがミンスク合意だ。 合意が成立した当時から西側では「時間稼ぎに過ぎない」と指摘する人がいたが、この合意で仲介役を務めたドイツのアンゲラ・メルケル(当時の首相)は昨年12月7日、ツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認めている。その直後にフランソワ・オランド(当時の仏大統領)はメルケルの発言を事実だと語っている。 ミンスク合意で8年稼いで戦力を強化、昨年初頭からドンバスへの大規模な攻撃が噂されるようになる。ドンバス周辺にキエフ政権が部隊を集結させ、砲撃が激しくなったからだ。 そうした中、昨年2月24日にロシア軍がドンバス周辺に集結していたウクライナ軍をミサイルで壊滅させ、キエフ側の軍地基地や生物兵器の研究開発施設などをミサイルで攻撃し始める。これでロシア軍とウクライナ軍の戦いはロシア軍の勝利が決まった。その後、戦闘が続いたのはアメリカやイギリスが戦闘の継続を命令、武器や弾薬を供給したからである。 ロシア軍の攻撃が始められてから今年の秋までに約50万人のウクライナ兵が戦死したと言われ、ベン・ウォレス前英国防相は10月1日、テレグラフ紙に寄稿した記事の中でウクライナ兵の平均年齢は40歳を超えていると指摘、もっと多くの若者を前線へ送り出せと要求している。「学徒動員」や「少年兵」を前線へ送り出せというわけだ。ロシア軍の戦死者は5万人から10万人と言われている。 こうした状況であるにもかかわらず、西側の有力メディアは「ウクライナが勝っている」と宣伝していたが、今年の秋にはウクライナ軍は勝てないと書くようになる。ホワイトハウスでも、ジョー・バイデン大統領、ビクトリア・ヌランド国務次官、ジェイク・サリバン国家安全保障補佐官などのグループは孤立しつつあるようだ。 ウクライナではゼレンスキー大統領の側近が離反し始めていたが、最近ではウクライナ軍のバレリー・ザルジニー最高司令官は西側の有力メディアに対し、戦況が膠着状態にあると語った。(ココやココ) そのザルジニー最高司令官の副官を務めていたゲンナジー・チェスチャコフ少佐が自宅で死亡した。「贈り物の箱」に入っていた手榴弾のピンを自分で引き抜いたと言われている。
2023.11.09
パレスチナ問題は1948年5月14日にイスラエルの建国が宣言された時から始まる。多くのアラブ系住民が住む土地へ外部からシオニストが乗り込み、先住の民を殺し、追い出して「ユダヤ人の国」を作り上げたのだ。ヨーロッパから移住してきた人びとが先住民である「アメリカ・インディアン」を殺戮してアメリカが作られた過程に似ている。 シオニストとはエルサレムの南東にあるシオンの丘へ戻ろうというシオニズム運動の信奉者で、ユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域はユダヤ人の所有物だと考えている。その地域を実際に支配しようとしてきた。いわゆる「大イスラエル構想」だ。ユダヤ教の宗教書であるトーラー(キリスト教徒が言う旧約聖書のうちモーセ5書)がその根拠だとされている。 シオニズムという用語はウィーン生まれのナータン・ビルンバウムが1864年に初めて使ったという。そして1896年にはセオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』という本を出版している。 シオニストはユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域はユダヤ人の所有物だと考えているが、現在のイスラエルにもそう主張している人たちがいて、その計画は「大イスラエル構想」と呼ばれている。この構想はプロテスタントが言い始めたのだとも言われている。 しかし、トーラーによると、土地を所有しているのは神であり、ユダヤ教徒はトーラーを守るという条件の下でその土地に住むことを許されたのだという。こうした記述をシオニストは自分たちに都合よく解釈したのであり、その主張と行動はトーラーの記述と合致しないと指摘する人もいる。 イスラエルを建国させたのはイギリスの支配層であり、現在、支えているのはアメリカ。そのアメリカでは先住民が虐殺され、土地が奪われていたが、1830年にはアンドリュー・ジャクソン大統領が「インディアン排除法」(日本では「インディアン移住法」と言い換えている)に調印している。 1861年から65年にかけての南北戦争を経て1890年にはウンデット・ニーで先住民の女性や子供が騎兵隊に虐殺されるという出来事があったが、この時点における先住民の人口は約25万人。クリストファー・コロンブスがカリブ海に現れた1492年当時、北アメリカには100万人とも1800万人とも言われる先住民が住んでいたと推測されている。数字に幅があるのは、何人虐殺されたか不明だからだ。生き残った先住民は「保留地」と名づけらた地域に押し込められた。 アメリカで民族浄化が進められていた1838年、イギリス政府はエルサレムに領事館を建設している。その翌年にはスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査。アメリカではウィリアム・ブラックストーンなる人物が1891年にユダヤ人をパレスチナに送り出そうという運動を展開し、ベンジャミン・ハリソン米大統領に働きかけていた。 1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアはウォルター・ロスチャイルドに書簡を出す。その中で「ユダヤ人の国」を建設することに同意すると書かれている。 1920年代に入るとパレスチナでアラブ系住民はそうした動きに対する反発が強まり、それを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成する。そしてアイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用することになる。この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立され、違法な殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。 1948年5月にイスラエルの建国が宣言されたが、ナチスの弾圧でドイツから逃げ出したユダヤ人の大半はアメリカやオーストラリアへ向かい、パレスチナを目指した人は少なかった。そこでイラクに住んでいたユダヤ人に対するテロを実施、イスラエルへ向かわせた。 シオニストの計画が順調に進んだとは言い難いが、彼らには強力なスポンサーが存在した。多額の資金を提供していた富豪の中には、エドモン・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアブラハム・フェインバーグが含まれている。(Will Banyan, “The ‘Rothschild connection’”, Lobster 63, Summer 2012) ライオネル・ド・ロスチャイルドと親しかったベンジャミン・ディズレーリは1868年2月から12月、74年2月から80年4月まで首相を務めているが、この政治家のロシア嫌いとユダヤ人支持は有名。ディズレーリが1875年にスエズ運河運河を買収した際、資金を提供したのはライオネル・ド・ロスチャイルドだった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018) 1880年代に入るとエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめた。この富豪はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドの祖父にあたる。 ベンヤミン・ネタニヤフ首相の父親ベンシオンが秘書を務めていたウラジミル・ヤボチンスキーは帝政ロシア時代のオデッサ(現在はウクライナ領)で生まれ、ウクライナで彼は独立運動を率いていたシモン・ペトリューラと連携している。ロシア革命の後、ペトリューラは大統領を名乗るが、その時期にペトリューラは3万5000人から10万人のユダヤ人を虐殺したという。(Israel Shahak, “Jewish History, Jewish Religion,” Pluto Press, 1994) 1925にヤボチンスキーは戦闘的なシオニスト団体である「修正主義シオニスト世界連合」を結成。その流れの中からリクードも生まれた。1931年にはハガナから分かれる形で「イルグン」が組織されるが、その後、ヤボチンスキーはパレスチナに住むユダヤ人に対し、イギリス軍へ参加するように求めた。 これに反発したアブラハム・スターンはイルグンを飛び出し、1940年8月に「ロハメイ・ヘルート・イスラエル(レヒ)」を新たに組織する。創設者の名前から「スターン・ギャング」とも呼ばれている。 レヒの創設とほぼ同時にヤボチンスキーはニューヨークで心臓発作のために死亡、その後継者に選ばれたのがメナヘム・ベギン。後のイスラエルの首相になる人物だ。 イスラエルを建国するため、シオニストは1948年の4月上旬に「ダーレット作戦」を開始、ハガナの手先としてイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺した。 襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、住民254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005) こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国連は1948年12月11日、パレスチナ難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。 その間、1948年5月20日に国連はフォルケ・ベルナドットをパレスチナ問題の調停者に任命した。彼は6月11日から始まる30日間の停戦を実現したものの、7月8日に戦闘が再開され、9月17日にはスターン・ギャングのメンバーに暗殺された。 こうして誕生したイスラエルを日米欧は支援、先住民であるパレスチナ人をテロリスト扱いしている。
2023.11.08
ガザでの破壊と殺戮の結果、イスラエルとアメリカに対する批判が世界的に高まっている。EUや日本はイスラエルを支援しているが、それはエリート層での話。欧米ではイスラエルの虐殺を批判する大規模なデモが繰り広げられている。特にイスラム世界での怒りは強く、その矛先はアメリカ軍の基地に向けられ始めた。 もし中東のイスラム諸国が団結して石油の輸出を止めた場合、日米欧は窮地に陥る。1973年にOPEC(石油輸出国機構)は石油価格を大幅に引き上げ、世界は揺れた。「オイル・ショック」だ。 しかし、この石油価格引き上げはアメリカの計画だった。サウジアラビア国王の腹心で石油鉱物資源相を務めたシェイク・ヤマニによると、この値上げを決められたのは1973年5月にスウェーデンで開かれた「秘密会議」。そこでアメリカとイギリスの代表が原油価格を400%値上げするように要求したのだ。この秘密会議は1973年5月11日から13日にかけてスウェーデンで開かれたビルダーバーグ・グループの会合にほかならない。 今回、石油の輸出が止められたとするならば、それはイスラム諸国の意志ということになり、1973年のオイル・ショックとは本質的に異なる展開になるはずだ。 ガザを救うために軍事介入、イスラエルに対する攻撃が始まったならば、イスラエルは核兵器を使用する可能性がある。イスラエルはアメリカと同様、核兵器を使用すると脅してきたと言われている。 イスラエルは世界有数の核兵器保有国である。その実態を初めて具体的に告発者したのはモロッコ出身のモルデカイ・バヌヌ。1977年8月から約8年間、技術者としてディモナの核施設で働いていた。彼の証言は1986年10月にサンデー・タイムズ紙が掲載した記事に書かれている。それによると、その当時、イスラエルが保有していた核弾頭の数は150から200発。水素爆弾をすでに保有し、中性子爆弾の製造も始めていたという。中性子爆弾は実戦で使う準備ができていたとしている。後にカーターはイスラエルが保有する核兵器の数を150発だとしている。 また、イスラエルの軍情報機関ERD(対外関係局)に勤務、イツァク・シャミール首相の特別情報顧問を務めた経歴を持つアリ・ベン-メナシェによると、1981年時点でイスラエルがサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上。水爆の実験にも成功していたという。(Seymour M. Hersh, "The Samson Option", Faber and Faber, 1991) 告発を決意したバヌヌはオリジナルの写真を持ってオーストラリアへ向かい、教会でバヌヌはフリーランス・ジャーナリストのオスカル・ゲレロと知り合う。そして、このジャーナリストがバヌヌの写真を地元の「シドニー・モーニング・ヘラルド」に持ち込んだ。 しかし、同紙は写真と証言を紙面に掲載することを断り、その一方でゲレロが持ち込んだ話を対内情報機関のASIO(オーストラリア安全保障情報機構)に通報、その情報はさらに対外情報機関のASIS(オーストラリア安全保障情報局)へと流れた。ASISはその情報をイスラエルへ知らせた。 シドニー・モーニング・ヘラルド紙と同じ系列の「ザ・エイジ」にも掲載を拒否されたゲレロはロンドンに向かい、デイリー・ミラーへ持ち込んだが、ミラー・グループを率いていたロバート・マクスウェルはイスラエルの情報機関に雇われていた。軍の情報機関(アマン)に所属していたと言われている。同紙の国外担当編集者だったニコラス・デービスはイスラエルのエージェントだ。 バヌヌに関する情報を入手したイスラエルの情報機関モサドのロンドン支局長はイギリスで国内を担当している治安局(MI5)にイスラエルが安全保障上の問題を抱えていることを伝えてバヌヌ監視の協力を要請する。MI5はイギリス国内で政治的、あるいは外交的問題を引き起こさないという条件で協力を約束した。 モサドはバヌヌをロンドンで拉致してイスラエルへ連行することができないため、彼をイタリアのローマにおびき出すことにした。そして登場してくるのが「シンディ・ハニン・ベントフ」なる女性だ。 シンディは散歩中のバヌヌに何気なく話しかけてパブに誘う。そうしたデートを何回か重ねた後、バヌヌはローマへ旅行しないかと持ちかけられ、ローマ行きを承知する。ローマで彼はモサドのエージェント3名に拘束された。ローマで大きな箱に押し込められたバヌヌは船でイスラエルのアシュドッドに運ばれている。 イスラエルが核兵器を開発しているのではないかとアメリカ政府が最初に疑ったのは1958年のこと。CIAの偵察機U2はネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持ったのだ。 そこでCIAのアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対し、ディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたが、それ以上の調査が実行されることはなかった。 ランダールが大統領に報告する際、通常はアレン・ダレスCIA長官やジョン・フォスター・ダレス国務長官が同席したというが、両者も調査の続行を要求していない。後にこの施設がフランスとの秘密協定に基づいて建設された2万4000キロワットの原子炉だということが判明する。 イスラエルの科学者は1960年2月、サハラ砂漠で行われたフランスの核実験に参加しているが、その直後にはイスラエル自身が長崎に落とされた原爆と同程度の核兵器を所有、63年にはイスラエルとフランスが共同で核実験を南西太平洋、ニュー・カレドニア島沖で実施した。その後、国防副長官だったシモン・ペレスは科学データの収集を目的とするLAKAM(科学情報連絡局)を創設して核開発推進の体制固めを行っているが、こうしたイスラエルとフランス、国としての関係は1967年の第3次中東戦争で壊れた。 そうした時、イスラエルへ核物質を供給したのがアメリカのNUMECだが、同社の核物質管理に不自然な点のあることをアメリカ原子力委員会(AEC)は1960年頃に見抜き、65年になるとウェスチングハウスやアメリカ海軍からNUMECへ持ち込まれた濃縮ウランのうち90キログラム以上が行方不明になっていることに気づいた。このほかの分を含めると、NUMEC関係の「紛失核物質」の総量は178キログラムから270キログラムに達すると言われている。 ジョン・F・ケネディ大統領はNUMECの問題にメスを入れようとしたが、1963年11月22日に暗殺され、副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンはこの問題を封印する。 ジョンソンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはイスラエルの建国や核兵器開発のスポンサーのひとりで、ハリー・トルーマンのスポンサーでもあった。 CIAのカール・ダケットは1968年、イスラエルは3ないし4発の核爆弾を製造したと推測、77年にNUMEC事件についてAECで暴露してしまい、イスラエルは重要な核物質の供給源を失う。 そこで行われた工作のひとつとして、モサドは200トンの酸化ウラニウムを1968年にソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックから購入している。「プラムバット作戦」だ。このほか。イスラエルはアメリカから3600キログラム以上のウランとプルトニウムを盗み出したという。 1967年からフランスに代わってイスラエルの核兵器開発に協力したのが南アフリカ。イスラエルはウランを入手するかわりに核技術や兵器を提供する。1976年1月にイスラエルのテルアビブに南アフリカ大使館が開設され、4月には南アフリカのジョン・フォルスター首相がイスラエルを訪問している。 そして1977年8月、ソ連のレオニド・ブレジネフ書記長はアメリカのジミー・カーター大統領に対し、カラハリ砂漠で南アフリカが核実験を準備している証拠をコスモス衛星がつかんだと警告、この話はイギリス、フランス、そして西ドイツにも伝えられた。その直後、アメリカの衛星もカラハリ砂漠で地下核実験の準備が進んでいることを確認。核兵器はイスラエル製だったと信じられている。 この実験は米ソなどの圧力で中止になったが、1979年9月にアメリカのベラ衛星が南インド洋、南アフリカの近くで強い閃光を観測。CIAやDIAの判断は、「90パーセント以上の確率で核爆発だ」というものだった。イスラエルと南アフリカの共同核実験だったのである。アリ・ベン-メナシェによると、南インド洋での実験で使用された核兵器の運搬手段は175ミリ砲だった。 その後、南アフリカはイラクへ接近、イスラエルはサハラ砂漠以南のアフリカ諸国と関係を深める。そして1981年6月、イスラエル軍機はイラクの原子炉を爆撃して破壊した。 南アフリカとの関係が悪化したイスラエルはウラン、チタン、モリブデン、重水、トリチウムなどを入手するため、ペルーに目を付ける。そうした希少金属を産出する地域を支配していたのは反政府ゲリラ、センデロ・ルミノソ(輝く道)だった。 このゲリラを率いていたアビマエル・グスマン・レイノソ元ウアマンガ大学教授はドイツ系ユダヤ人の父親とインディオのメイドとの間に生まれた人物。イスラエルは2800万ドルでそれぞれの物質を500キログラムずつ手に入れることができたという。 ともかく、イスラエルは少なからぬ核兵器を保有している。 ムーサ・アブ・マルズークが率いるハマスの代表団は10月26日にモスクワでロシアの政府要人と会談したが、その数日前、ウラジミル・プーチン大統領はロシア軍参謀総長のヴァレリー・ゲラシモフと会談するため、ロシア軍の南部軍司令部を訪れた。 原子力潜水艦から射程5500キロの弾道ミサイルを発射したこと、カムチャッカから射程1万2000キロの弾道ミサイルを発射したこと、TU-95爆撃機から射程5500キロの巡航ミサイルを発射したことについて、ゲラシモフはプーチンに報告したようだ。アメリカに対する報復攻撃のテストだったと見られている。アメリカだけでなく、イスラエルの動きを警戒してのことかもしれない。
2023.11.07
ハマスを含むパレスチナ系武装グループは10月7日にイスラエルへ攻め込んだ。軍事作戦「アル・アクサの洪水」である。この攻撃で約1400名のイスラエル人が死亡したとされているが、イスラエルの新聞ハーレツによると、イスラエル軍は侵入した武装集団を壊滅させるため、選挙された建物を人質と一緒に砲撃で破壊したという。イスラエル市民をイスラエル軍は殺害したということだ。ハーレツの記事を補充した報道もある。 イスラエル政府はハマスの残虐さを宣伝、ハマスの戦闘員がイスラエル人に発砲している映像を公開しただけでなく、タイムズ・オブ・イスラエル紙によると、軍事基地内でイスラエルの当局者は黒焦げの死体を撮影した写真に「ハマスの猛攻撃による殺人、拷問、斬首の悲惨な現場」という説明をつけて記者に示したという。そしててイスラエルの子ども40人が斬首されたという話を流した。 アメリカのジョー・バイデン大統領やイスラエルのニル・バルカット経済相も子ども40人の斬首話を広めたが、別の記者がこの話は検証されていないと指摘、そうした話を広めるのは無責任だと批判する。 バイデンはイスラエルでテロリストが子供を斬首している確認された写真を見たと主張していたが、翌日には発言を撤回、報道官はバイデンがそのような写真を見た事実はないと語った。バイデンはイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の話をそのまま事実として口にしただけだと説明されている。 いつものことながら、西側の有力メディアが伝えた話は如何わしい。相当数のイスラエル市民がイスラエル軍に殺された可能性が高いのだ。しかも、そうした情報がイスラエル国内で伝えられている。 現在、イスラエル軍はガザに対する激しい空爆を繰り広げているが、そこでも人質のイスラエル人を殺していると見られている。パレスチナ人をガザから追い出すことに失敗した後、ベンヤミン・ネタニヤフ首相はパレスチナ人皆殺しを決断したとしか思えない攻撃を続けている。 イスラエルにアメリカ軍の基地がある。軍事物資が保管されているほか、ガザから30キロメートル余り、ネゲブ砂漠のハルケレン山頂にある「サイト512」にはイスラエルを攻撃するイランのミサイルを監視するレーダー施設がある。 ガザに関する電子情報の収集はオーストラリアにあるパイン・ギャップ基地が利用されている。そこで収集されたデータはイスラエル国防軍に提供されている。 この通信傍受基地は1966年12月にアメリカとオーストラリアとの間で結ばれた秘密協定に基づいて建設された。協定の有効期限は10年。1976年までに更新しないと基地を閉鎖しなければならない。オーストラリアの首相だったゴフ・ホイットラムが更新を拒否することをアメリカ側は懸念していた。 ホイットラムは1972年12月の総選挙で勝利して首相に就任すると、自国の対外情報機関ASISに対してCIAとの協力関係を断つように命令していた。デイビッド・レイによると、ウイットラムはチリのクーデターに関する情報を入手、チリでASISがCIAと共同でサルバドール・アジェンデ政権を崩壊させる工作を実行していたことを知っていたという。(David Leigh, "The Wilson Plot," Pantheon, 1988) そこでCIAは1975年11月、イギリス女王エリザベス2世の総督だったジョン・カーにホイットラム首相を解任させた。実際に動いたのはアメリカのCIAやイギリスのMI6だが、総督がいなければ解任できない。総督は名誉職だと考えられていたが、そうではなかったのである。 アメリカのジャーナリスト、ジョナサン・ウイットニーによるとカーは第2次世界大戦中の1944年、オーストラリア政府の命令でアメリカへ派遣されてCIAの前身であるOSS(戦略事務局)と一緒に仕事をしている。大戦後もCIAと深い関係にあった。(Jonathan Kwitny, "The Crimes of Patriots," Norton, 1987) ウクライナでアメリカ/NATOはロシアに敗北した。この事実が世界に広まると、アメリカは「神の国」だという神話が崩れる。第3次中東戦争のようにイスラエル軍が圧勝する姿を示したいとネオコン、リクード、キリスト教福音主義者(聖書根本主義者、または旧約聖書カルト)は考えただろう。 しかし、地上軍がガザに侵攻、制圧する状況にはないようだ。シーモア・ハーシュによると、すでにイスラエル兵は地下施設へ入り込み、燃料不足からハマスのメンバーは窒息死の可能性があるというが、断片的に伝えられる情報からイスラエル軍は地上で苦戦していると分析する元CIA分析官もいる。 イスラエルはガザ内部への物資流入を阻止する一方、通信を遮断して情報が外部へ漏れないようにしているが、これは残虐行為が知られることを恐れているだけでなく、イスラエル軍の犠牲も知られたくないのかもしれない。
2023.11.07
10月7日にパレスチナの武装グループがイスラエルを陸海空から攻撃した頃、アメリカのジョー・バイデン大統領とイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は窮地に陥っていた。 アメリカはネオ・ナチを使い、ウクライナでロシア軍と戦っていたが、アメリカ側の敗北を隠しきれなくなっていた。スキャンダルまみれのバイデンにとって致命的だ。汚職事件で逮捕、起訴は免れないと言われていたネタニヤフも追い詰められていた。 しかし、ガザでの戦闘によってバイデンとネタニヤフは一息つくことができたとは言えない。バイデン政権とネタニヤフ政権は事前に攻撃計画を知っていた可能性が高いのだが、その後、イスラエルはパニックに陥っているとしか考えられないのだ。 冷静に考えれば、ハマスの攻撃を強調すべきなのだが、ガザで無差別攻撃を始め、1万人以上の市民をすでに殺したと見られている。そのうち約4割は子どもで、子どもの死体を写した写真、映像が世界へ発信されている。そうした情報が漏れることを防ぐため、インターネットを遮断したが、それでも漏れる。イスラエルがガザで住民を大量殺戮していることを世界の人は知った。 ネタニヤフはリクードの政治家だが、1970年代までイスラエルにおけるリクードやその主体になった政党の影響力は大きくなかった。リクードをイスラエルにおける政治の中心に押し出したのはアメリカのキリスト教福音主義者(聖書根本主義者)だ。 この宗派はアメリカを「神の国」、アメリカ軍を「神軍」だと信じていた。神軍であるアメリカ軍はベトナム戦争で簡単に勝てると考えていたのだが、勝てない。その実態を多くのアメリカ人は1968年1月のテト攻勢で知ることになった。ベトナム戦争に反対していたマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのは1968年4月4日。同年6月6日にはキングと親しかったロバート・ケネディも暗殺されている。 そうした時、福音主義者を引きつけたのがイスラエルだ。同国の軍隊は1967年6月5日から6日間でアラブ諸国の軍隊を蹴散らしてヨルダン川西岸とガザを占領、約43万9000人の新たなパレスチナ難民がヨルダン川東岸へ移動している。ちなみに、この時にゲリラ戦でイスラエル軍を苦しめたのがファタハである。 今回のガザ攻撃もネタニヤフ政権を支援しているキリスト教シオニストはネオコンとも結びついている。このネオコンが台頭したのは1970年代の半ば、ジェラルド・フォード政権の時代だ。 ネオコンは米英金融資本とも結びついているが、「ユダヤ人の国」の建設にも金融資本は重要な役割を果たした。1917年11月2日、イギリス外相だったアーサー・バルフォアがウォルター・ロスチャイルドへ書簡を送り、その後、先住のアラブ系住民(パレスチナ人)を弾圧する一方でユダヤ人の入植を進めた。 1920年代に入るとパレスチナでアラブ系住民の反発が強まり、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用することになった。隊員の多くは第1次世界大戦に従軍した後に失業した元イギリス兵で、違法な殺人、放火、略奪など残虐さで有名になった。イギリス政府はその働きを評価、パレスチナへ投入したのだ。
2023.11.06
イスラエル政府は10月30日、同国の情報省がガザに住む230万人をシナイ半島に移住させることを提案した報告書を起草したと認めた。その文書の日付は10月13日で、ガザの全住民を北シナイへ強制的に移住させることを勧告。ガザから追放されたパレスチナ人を収容する「テント都市」をシナイ半島に建設し、その人びとがガザへ戻ることは永久に許可されないとしている。一時避難ではなく、永久追放だということだ。また、安全保障を扱うイスラエルのシンクタンク、ミスガブのアミール・ワイトマンもガザの住民をシナイの砂漠へ移し、難民は他国に吸収されるべきだとしている。 エジプトが引き受けろということだが、イスラエルがパレスチナ人をエジプトへ追放しようとしているとエジプトは懸念してきた。パレスチナを「イスラエルの問題」から「エジプトの問題」へ変えようとしているとも考えている。今回、エジプトが国境を開けようとしなかった理由はここにある。 ハマスはムスリム同胞団系の組織だが、エジプトでは一時期、厳しく取り締まられていた。現在のエジプトは1952年に自由将校団のクーデターでムハンマド・アリー朝が倒されて誕生した。クーデターの名目的な指導者はムハンマド・ナギブ将軍だが、実際に率いていたのはガマール・アブデル・ナセルだった。 ナギブを支えていたムスリム同胞団は1954年にナセル暗殺を試みて失敗、ナギブ大統領は解任され、同胞団は非合法化された。このときに同胞団の中心的存在だったひとり、サイド・ラマダンはムスリム同胞団を1928年に創設したハッサン・アル・バンナの義理の息子だ。この暗殺計画の黒幕はイギリスだと見られている。 亡命生活に入ったラマダンはサウジアラビアへ逃れ、そこで世界ムスリム連盟を創設、西ドイツ政府から提供された同国の外交旅券を使ってミュンヘン経由でスイスへ入っている。そこで1961年にジュネーブ・イスラム・センターを設立した。資金はサウジアラビアが提供したという。この当時、スイス当局はラマダンをイギリスやアメリカの情報機関、つまりMI6やCIAのエージェントだと見なしていたという。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005) MI6は1956年2月頃にも暗殺を検討しはじめた。ロンドンにいたCIAのジェームズ・アイケルバーガーからワシントンのアレン・ダレスに宛てたテレックスの中に、MI6がナセルを殺す話をしていたとする記述があるのだという。アレン・ダレスやその兄のジョン・フォスター・ダレス国務長官もイギリスの考えに同調していた。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000) それから間もない1956年7月にナセルはスエズ運河の国有化を宣言、それに対してイギリスはプロパンダ放送局「自由エジプトの声」で反ナセルの宣伝を開始した。すでにフランスも反ナセルで動き始め、イスラエルに武器を提供しはじめている。(前掲書) 1956年8月にMI6のジュネーブ支局長だったノーマン・ダービシャーはムスリム同胞団のメンバーと会談、自宅に軟禁状態だったモハメド・ナギブ元大統領を解放して大統領に復帰させ、反ナセル派の将校は市民とナセルや閣僚の暗殺について協議すると伝えたという。(前掲書) ナセル時代に禁止されていたムスリム同胞団の活動を認めたのはアンワール・サダト。そこでムスリム同胞団のアブドゥラ・アッザムがカイロのアル・アズハル・モスクへ移動、さらにサウジアラビアのアブデル・アジズ国王大学で教鞭を執るようになった。そこでの教え子の中にオサマ・ビン・ラディンもいた。ガザからの難民を抱えるということは、こうしたムスリム同胞団系の武装組織を抱えることにつながり、国内の不安定要因になる。 こうしたイスラエルのやり方はアメリカでヨーロッパ人が先住民である「アメリカ・インディアン」に対して行った民族浄化と同じであり、パレスチナ人はイギリスが仕掛けた「イスラエル建国」で故郷を奪われた人びとだ。 イスラエルの建国が宣言されたのは1948年5月14日のことだが、そこには多くのアラブ系住民が住んでいた。その住民を追い出すため、シオニストの武装勢力は4月上旬に「ダーレット作戦」を始めている。これは1936年から39年にかけてシオニストがアラブ系住民を殲滅する作戦を展開した作戦の延長線上にあるとも見られている。 シオニストの軍隊、ハガナの副官だったイェシュルン・シフはエルサレムでイルグンのモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャングのヨシュア・ゼイトラーに会ったのは4月6日。イルグンもスターン・ギャングもシオニストのテロ組織だ。 その3日後にイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005) こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。 国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。そしてイスラエルの建国が宣言され、今、パレスチナ人はガザやヨルダン川西岸からも追い出されようとしている。 そして10月7日、イスラエルは攻撃を受けた。「アル・アクサの洪水」だが、この攻撃をアメリカのジョー・バイデン政権ややイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ政権は事前に知っていた可能性が高い。これは本ブログでも指摘したが、攻撃後、ネタニヤフ政権はパニックになったようにも見える。想定、あるいは筋書きと違ったのかもしれない。 今回の攻撃にはハマスだけでなく、イスラム聖戦、パレスチナ解放人民戦線、パレスチナ解放人民戦線総司令部(PFLP-CG)も参加していたと言われている。それに対してイスラエルはガザで破壊と殺戮を繰り返しているが、それによってイスラム世界は団結、「グローバル・サウス」の支援も強まった。
2023.11.05
ウクライナで生物兵器開発 アメリカの国防総省はウクライナで生物兵器の研究開発を行っていたが、ロシア軍は昨年2月24日から始めた軍事作戦の過程でウクライナ側の重要文書の回収、そこには生物化学兵器の研究開発に関する2万以上の文書も含まれていた。3月7日にはロシア軍のイゴール・キリロフ中将はそうした文書からウクライナには研究施設が30カ所あると発表している。DTRA(国防脅威削減局)から資金の提供を受け、CBEP(共同生物学的関与プログラム)の下で研究開発は進められたという。 そうした研究施設ではロシアやウクライナを含む地域を移動する鳥を利用して病原体を広める研究をしていたほか、2019年からウクライナ兵を被験者としてHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の感染実験が行われ、覚醒剤やモルヒネなどの薬物も使われていたという。 ウクライナでアメリカの生物兵器の研究開発施設を建設するという話が2013年に流れている。アメリカ国防総省がハリコフ周辺にレベル3のバイオ研究施設を作ろうとしていると訴えるリーフレットがまかれたのだ。実際、建設された。 ジャーナリストのディリヤナ・ゲイタンジエワによると、ドニプロ、ミコライフ、リビフ、ウジホロド、テルノポリ、ビンニツヤ、キエフにも施設があるのだが、各研究所はハリコフより前の2010年から13年の間に建設されたという。 アメリカ国防総省はウクライナだけに研究施設を建設したわけではない。中東、東南アジア、アフリカ、そしてジョージアを含む旧ソ連諸国にもある。特に注目されているのはジョージアにあるルガー・センター(国立疾病管理公衆衛生センター)で、近くにアメリカ軍のバジアニ空軍基地がある。センターで軍事プログラムを担当しているのはアメリカ陸軍医療研究ユニット・グルジアの生物学者と民間業者で、CH2Mヒル、バテル、そしてメタバイオタが含まれる。 ルガー・センターの研究員には外交特権を与えられ、ジョージア政府の直接的な支配下に置かれることなく、外交特権のもとに米国政府のために仕事をすることができる。他の国でも同じ仕組みになっているようだ。その研究内容は生物兵器(炭疽病、野兎病)やウイルス性疾患(クリミア・コンゴ出血熱など)の研究、将来の実験のための生物試料の収集などだ。アフリカにおける生物兵器開発 しかし、ロシア軍の攻撃が始まるとウクライナの施設は破壊を免れても落ち着いて研究開発することは困難な状態になる。そこで、ケニア、コンゴ、シエラレオネ、カメルーン、ウガンダ、南アフリカ、ナイジェリアといったアフリカ諸国、あるいはシンガポールやタイに移転したとされている。 アメリカの軍や巨大企業はアフリカを生物化学兵器の実験場として利用してきた。キリロフによるとアフリカではDTRAのほか、電子情報機関のNSA(国家安全保障局)や国務省が主導、ナイジェリアではHIV/AIDSに関する研究が行われ、感染者とされる人の6割がギリアド・サイエンシズの抗ウイルス療法を受けているという。 ギリアドの会長を1997年から2001年まで務めた人物がドナルド・ラムズフェルド。会長を退いたのは国防長官に就任するためだ。2001年1月から06年12月までその職にあった。 2009年1月から10年8月にかけて「新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)」で騒ぎになった際に宣伝されたタミフルを開発した会社がギリアド。この時もWHOはパンデミックを宣言したが、実際は大騒ぎするような状態でなかった。偽パンデミックで危険な薬を売ろうとしたわけだ。パンデミックを宣言できたのはこの直前に定義の変更があったからだ。「病気の重大さ」、つまり死者数が多いという条件が削られている。 国防総省は2005年、抗インフルエンザウイルス薬としてタミフルを備蓄するとして10億ドル以上の予算を計上し、この薬を日本も大量に購入しているのだが、2005年12月4日のサンデー・タイムズ紙によると、数十名のインフルエンザ患者を治療したベトナムの医師はタミフルが効かなかったと話している。副作用も問題になった。 WHOがCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)のパンデミックを宣言した後、日本の厚生労働省はレムデシビルなるギリアド・サイエンシズが開発した抗ウイルス薬を特例承認した。COVID-19(新型コロナウイルス)への有効性を認めたとされているが、これも効果がない上危険な医薬品だ。 それに対し、中国でCOVID-19を沈静化させたインターフェロン・アルファ2b、メキシコの保健省と社会保険庁が効果を確認したイベルメクチン、抗マラリア剤として知られているヒドロキシクロロキンなどの使用は妨害されてきた。 アフリカ西部のギニアでは2013年12月からエボラ出血熱が広がりはじめ、リベリア、シエラレオネ、ナイジェリア、さらにアメリカやヨーロッパへ伝染、1万1323名が死亡(致死率:70から71%)、大きな騒動になった。 その際、生物兵器を研究している学者が数年にわたってギニア、リベリア、シエラレオネのあたりで活動していたと話題になる。その学者が所属していたのは生物化学兵器を研究開発しているアメリカ軍のフォート・デトリック、そしてテュレーン大学だ。 感染が問題になり始めた2014年7月、シエラレオネの健康公衆衛生省はテュレーン大学に対し、エボラに関する研究を止めるようにという声明を出している。その研究が予防や治療が目的でないと判断したのだろう。 ザイールでは1976年8月にエボラ出血熱が確認されている。この病気がスーダンやザイールなどで見つかったのは1978年のことだが、病気がどこで始まったのかが明確でない。1976年の前は気づかれなかっただけなのか、病気自体がなかったのか不明だ。 1980年代の前半からこの病気を引き起こすウィルスを含む病原体を細菌兵器にしようとする極秘研究「プロジェクト・コースト」が南アフリカで始まる。そのプロジェクトで中心にいた研究者がウーター・ベイソンだ。AIDS AIDSはアフリカの研究室で生まれたとする説がある。 1950年代にジョナス・ソークがポリオのワクチンを開発するが、そのワクチンを投与したサルがポリオを発症することにバーニス・エディという研究者は気づき、警告する。その警告が無視され、多くの被害者が出ることになった。 また、バーニス・エディという研究者はワクチンの中に発癌性のSV(シミアン・ウイルス)40が混入していることにも気づく。ファイザー製の「COVID-19ワクチン」に混入していたDNAにその塩基配列の一部が入っていることが判明、問題になったウイルスだ。 エディは当時、NIH(国立衛生研究所)に所属していたのだが、その発言にNIHの上司は激怒したと言われている。ちなみにNIHはNIAIDの上部機関。組織の幹部は警告を封印し、医薬品メーカーはワクチンの製造を続けた。製造が止まるのは1961年7月になってからだ。 リコールが宣言されたものの、NIHは市場へ出回っている製品全てを回収することを命じなかった。そこでアメリカ人は発癌性のワクチンを1961年から63年にかけて接種されることになる。 猿の腎臓にAIDSの原因になる病原体が含まれていたとする説も存在する。アメリカでエイズが社会的問題になるのは1980年代に入って間もない頃。そうした中、1984年に免疫学者のアンソニー・ファウチがNIAIDの所長に就任している。その時の部下のひとりがHIVで有名になるロバート・ギャロだ。 実は、HIVの出現を予告したと思えるような発言が1969年にアメリカ議会であった。伝染病からの感染を防ぐための免疫や治療のプロセスが対応困難な病原体が5年から10年の間、つまり1974年から79年の間に出現すると1969年6月に国防総省国防研究技術局のドナルド・マッカーサー副局長が議会で語っている。HIVの存在が公的に認められたのは1981年のことだ。731部隊 アメリカにおける生物化学兵器の研究開発拠点はフォート・デトリックである。1943年にUSBWL(陸軍生物兵器研究所)がキャンプ・デトリックとして創設したのだが、研究開発が本格化するのは第2次世界大戦後のことだと言われている。ドイツや日本の研究資料や研究者を押さえてからだ。 日本では1933年に軍医学校が東京帝国大学や京都帝国大学の医学部と共同で生物化学兵器の研究開発を始めたが、正確なデータを得るため、日本では生体実験が組織的に実施されている。犠牲になったのは主に中国人、モンゴル人、ロシア人、朝鮮人。こうした人びとを日本軍は「マルタ」と呼んだ。 生体実験を実施するため、軍の内部に特別な部隊が占領地である中国で編成される。当初は加茂部隊や東郷部隊と呼ばれたが、1941年からは第731部隊と呼ばれている。第731部隊の隊長は1936年から42年、そして45年3月から敗戦までが石井四郎、その間、42年から45年2月までを北野政次が務めた。 1945年8月には関東軍司令官の山田乙三大将の名前で部隊に関連した建物は破壊され、貴重な資料や菌株は運び出された。捕虜の多くは食事に混ぜた青酸カリで毒殺される。事態に気づいて食事をとならなかった捕虜は射殺され、死体は本館の中庭で焼かれ、穴の中に埋められたという。 石井たち第731部隊の幹部は大半が日本へ逃げ帰るが、日本の生物化学兵器に関する情報はアメリカ軍も入手していた。1946年に入ると石井たちアメリカ軍の対諜報部隊CICの尋問を受けることになるが、厳しいものではなく、資料はアメリカ側へ引き渡された。 尋問の過程でGHQ/SCAPの情報部門G2の部長を務めていたチャールズ・ウィロビー少将と石井は親しくなり、隊の幹部たちはアメリカの保護を受けるようになる。日本が提供した資料や研究員はドイツから提供された知識と同じように、アメリカにおける生物化学兵器開発の基盤になった。 1950年6月に朝鮮戦争が勃発、52年2月に朝鮮の外務大臣はアメリカ軍が細菌兵器を使用していると国連に抗議した。アメリカ側は事実無根だと主張したが、1970年代にウィリアム・コルビーCIA長官は議会証言の中で、1952年にアメリカ軍が生物化学兵器を使ったと認めている。 朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍は輸血体制を増強しなければならなくなり、「日本ブラッドバンク」が設立されたが、北野政次が顧問に就任するなど、この会社は第731部隊と深い関係がある。後に社名は「ミドリ十字」へ変更され、「薬害エイズ」を引き起こすことになる。現在は田辺三菱製薬の一部だ。 第731部隊を含む日本の生物化学兵器人脈は「伝染病対策」の中枢を形成することになる。その拠点として1947年には国立予防衛生研究所(予研)が創設された。当初は厚生省の所管だったが、1949年には国立になる。1997年には国立感染症研究所(感染研)に改名され、現在、「COVID-19対策」で中心的な役割を果たしている。
2023.11.04
イスラエルの首相を務めているベンヤミン・ネタニヤフはパレスチナ人虐殺を正当化するため、「われわれの聖書(キリスト教における「旧約聖書」と重なる)」を持ち出した。 聖書の中でユダヤ人の敵だとされている「アマレク人」を持ち出し、「アマレク人があなたたちにしたことを思い出しなさい」(申命記25章17節から19節)という部分を引用、この「アマレク人」をイスラエルが敵視している勢力に重ねて見せた。アマレク人は歴史の上で存在が確認されていない民族だが、ネタニヤフの頭には存在しているようだ。 「アマレク人」を家畜ともども殺した後、「イスラエルの民」は「天の下からアマレクの記憶を消し去る」ことを神に命じられたという。ネタニヤフはパレスチナ人が生活していた歴史を破壊で消し去ると言いたいのだろう。インターネットには、95歳になるイスラエル陸軍の退役兵、エズラ・ヤチンがユダヤ人に対してパレスチナ人を殺して彼らの記憶を消し去れと呼びかけている映像が流れている。 こうした主張をするということは「約束の地」を想定しているのだろう。ナイル川とユーフラテス川に挟まれた地域、つまりパレスチナのほかレバノン、ヨルダン、クウェート、シリア、さらにイラクの大半、エジプトやサウジアラビアの一部を自分たちの領土にしようとしている。「大イスラエル構想」だ。 そしてサムエル記上15章3節の話を彼は持ち出す。そこには「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」ということが書かれている。これこそがガザでイスラエルによって行われていることだというのだ。 ネタニヤフによると「われわれは光の民であり、彼らは闇の民だ」としたうえで、イザヤの預言を理解しなければならないと主張する。「われわれ」とはイスラエル人、「彼ら」とはパレスチナ人、イスラム教徒、あるいはイスラエル以外の人びとを指しているのだろう。 ネタニヤフはリクードの政治家だが、同じようにこの政党に所属する元国会議員のモシェ・ファイグリンはガザをドレスデンや広島のように破壊するべきだと主張している。実際、破壊されたガザの様子は両都市を彷彿とさせるものがある。 ファイグリンは議員時代の2014年、ガザ問題の「解決策」を発表している。 まずイスラエルはガザの軍事目標を攻撃しようとしていると発表し、危害を加えられたくなければ直ちにガザからシナイ半島へ立ち去るように警告、そのうえでイスラエル軍はガザ全域を攻撃するが、その際、「人間の盾」や「環境へのダメージ」を考慮しない。 この攻撃と並行してガザを完全に包囲して兵糧攻めにし、攻撃で敵を弱体化させた後にガザへ地上部隊を侵攻させる。この際、考慮するのは兵士への被害を最小限に抑えることだけ。非武装の市民は「撤退が許可され」、ガザから離れることを望む人びとを援助する。 ガザはイスラエルの領土であり、イスラエルの一部になり未来永劫、ユダヤ人がそこに住むことになる。 ネタニヤフ政権はアメリカの支援を受けながらガザを攻撃しているようだが、パレスチナ人虐殺への反発は強い。シオニストに支配されている日米欧のエリートはイスラエルの軍事攻撃に沈黙しているが、市民の間で怒りが高まっている。「グローバル・サウス」では怒りを隠さないエリートもいる。イスラエルとアメリカという悪役の登場でイスラム世界が団結、スンニ派とシーア派の対立が弱まった。すでにアメリカ軍への攻撃も始まっている。 ファイグリンが「解決策」を発表した2014年、アメリカのバラク・オバマ政権はウクライナでクーデターを成功させた。ホワイトハウスでクーデターを指揮していたのはジョー・バイデン副大統領、バイデン副大統領の国家安全保障担当補佐官を務めていた人物がジェイク・サリバン、現場で指示を出していたのがビクトリア・ヌランド国務次官補だ。 1941年6月、アドルフ・ヒトラーに率いられたドイツ軍がソ連に対する奇襲攻撃「バルバロッサ作戦」を開始した。主な侵入ルートはウクライナとベラルーシだった。オバマ政権はこのふたつのルートを通ってロシアへ迫ろうとしたのである。 ソ連軍はドイツ軍を撃退したが、その時にソ連がおったダメージは大きかった。いわゆる「惨勝」だ。結局、ソ連は消滅するまでそのダメージから立ち直れなかった。皮肉だが、ソ連が消滅して衛星国やソ連構成国という重荷が取れたロシアは国力を急回復させることができたのだ。 ソ連が消滅する前年に東西ドイツが統一されたが、その際、アメリカ政府はソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフに対し、NATOを東へ拡大させないと約束していたとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックが語っている。ドイツの外相だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーは1990年にエドゥアルド・シェワルナゼと会った際、「NATOは東へ拡大しない」と確約し、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009) それだけでなく、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官がソ連側に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、NATO軍の支配地域は1インチたりとも東へ拡大させないと1990年に語ったとする記録が公開されている。イギリスやフランスもNATOを東へ拡大させないと保証した。ソ連の防衛を西側の「善意」に頼ったわけだが、言うまでもなく、こうした約束を守られなかった。1000キロメートル近くNATOは東へ拡大、ロシアとの国境は目前に迫る。そして2014年のウクライナにおけるクーデターだ。これはゆっくりしたバルバロッサ作戦にほかならない。ウクライナでのクーデターは「新バルバロッサ作戦」の決定的瞬間だと言える。 ロシアにとって深刻な事態だが、2014年にウラジミル・プーチン大統領は動かなかったが、クーデター後、クーデター軍の戦力は反クーデター軍より劣っていた。ネオ・ナチ体制を嫌い、ウクライナ軍の将兵や治安組織の隊員のうち約7割が離脱、一部は反クーデター軍に合流したと言われている。 残った将兵の戦闘能力は低く、西側諸国が特殊部隊や情報機関員、あるいは傭兵を送り込んでもドンバスで勝利することは難しい状況。そこで内務省にネオ・ナチを中心とする親衛隊を組織、傭兵を集め、年少者に対する軍事訓練を開始、要塞線も作り始めた。そうした準備のために8年間が必要だった。 その時間稼ぎに使われたのがミンスク合意だということを仲介役を務めたドイツのアンゲラ・メルケル(当時の首相)は昨年12月7日、ツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認めている。その直後にフランソワ・オランド(当時の仏大統領)はメルケルの発言を事実だと語った。 それに対し、プーチン大統領はアメリカ/NATOの「善意」に期待した。NATOを東へ拡大させず、1997年からNATOに加盟したすべての同盟国から軍事インフラを撤去することを定めた条約の草案をプーチンがNATOへ送ったのは2021年秋。それがロシア軍がウクライナへ軍事侵攻しないための条件だったが、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長は署名しない。こうした事情をストルテンベルグは認めている。 2023年に入ると、ウクライナ軍がアメリカ/NATOの下でドンバスに対する大規模な攻撃を始める動きが見られた。後にロシア軍が回収した文書によると、昨年3月にウクライナ軍は本格的な軍事侵攻を始める予定だった。 その直前、2022年2月24日にロシア軍はドンバスで軍事作戦を開始する。ミサイルでドンバス周辺に集まっていたウクライナ軍を一気に叩いき、ウクライナ各地の軍事施設や生物兵器の研究開発施設を破壊している。 アメリカ/NATOは8年かけてドンバスの周辺に要塞線を築いたが、ネオ・ナチを中心に編成されたアゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)が拠点にしていたマリウポリ、あるいは岩塩の採掘場があるソレダルにはソ連時代に建設された地下施設、つまり地下要塞が存在している。それを利用して要塞線は作られたのだ。 アメリカ/NATOはウクライン軍にドンバスで住民を虐殺させ、ロシア軍を要塞線の中へ誘い込む作戦だったとも言われているが、ロシア軍は大規模な地上部隊を送り込むことはなかった。地上部隊の中心は現地軍、チェチェン軍、あるいはワグナー・グループで、戦力を比較するとドンバス側はキエフ側の数分の1だったと言われている。 ロシア軍が攻撃を始めて間もなく、ウクライナ政府はロシア政府と停戦交渉を開始した。停戦交渉を仲介したひとりはイスラエルの首相だったナフタリ・ベネット。彼によると、話し合いで双方は妥協に応じ、停戦は実現しそうに見えた。 3月5日にベネットはモスクワでウラジミル・プーチン露大統領と数時間にわたって話し合い、ゼレンスキーを殺害しないという約束をとりつけ、その足でベネットはドイツへ向かってオラフ・シュルツ首相と会っている。ゼレンスキー政権の交渉チームに加わっていたデニス・キリーエフがウクライナの治安機関SBUのメンバーに射殺されたのはその3月5日だ。クーデター直後からSBUはCIAにコントロールされていた。 停戦交渉はトルコ政府の仲介でも行われた。アフリカ各国のリーダーで構成される代表団がロシアのサンクトペテルブルクを訪問、ウラジミル・プーチン大統領と今年6月17日に会談しているが、その際、プーチン大統領は「ウクライナの永世中立性と安全保障に関する条約」と題する草案を示している。その文書にはウクライナ代表団の署名があった。つまりウクライナ政府も停戦に合意していたのだ。 そうした停戦合意を潰したのはアメリカ政府やイギリス政府。アメリカ/NATOはウクライナへ武器弾薬を供給、軍事情報を提供、昨年夏頃にはNATOが指揮していたとも言われているが、十分な訓練をしないまま前線へ送り出され、「玉砕戦法」を強いられた。アメリカ/NATOはウクライナ人の命を軽視しているので可能な戦法だ。結局、要塞線は突破される。 今年6月4日にウクライナ軍は「反転攻勢」を始めたが、フォーブス誌によると、6月8日にウクライナ軍の第47突撃旅団と第33機械化旅団が南部の地雷原を横断しようとして壊滅的なダメージを受けた。その後も無謀な攻撃を繰り返し、反転攻勢の失敗は明確になる。 ウクライナに「玉砕攻撃」を強いたアメリカ/NATOは武器弾薬が枯渇、イスラエルにはアメリカ軍の兵器がストックされているはずだが、支障が出るだろう。 アメリカでイスラエルを無条件に支持している勢力はキリスト教の福音主義者(聖書根本主義者)。この宗教勢力の支援でネオコンは1970年代の半ば、ジェラルド・フォード政権の時代に台頭した。 福音主義者はアメリカを「神の国」、アメリカ軍を「神軍」だと信じていたのだが、ベトナム戦争で勝てないことに苛立つ。そうした中、イスラエル軍は1967年の第3次中東戦争で圧勝、新たな彼らの「神軍」になったのだ。 ここにきて神懸った発言をしているネタニヤフ首相。彼の父親であるベンシオン・ネタニヤフは1910年3月にワルシャワで生まれ、40年にアメリカへ渡った人物。そこで「修正主義シオニズム」の祖であるウラジミル・ヤボチンスキーの秘書を務めている。 ヤボチンスキーに接近したひとりにレオ・ストラウスという人物がいる。1899年にドイツの熱心なユダヤ教徒の家庭に生まれ、17歳の頃にヤボチンスキーのシオニスト運動に加わったのだ。このストラウスは後にネオコンの思想的な支柱と言われるようになる。カルガリ大学のジャディア・ドゥルーリー教授に言わせると、ストラウスの思想は一種のエリート独裁主義で、「ユダヤ系ナチ」だ。(Shadia B. Drury, “Leo Strauss and the American Right”, St. Martin’s Press, 1997) ストラウスは1932年にロックフェラー財団の奨学金でフランスへ留学し、中世のユダヤ教徒やイスラム哲学について学ぶ。その後、プラトンやアリストテレスの研究を始めた。(The Boston Globe, May 11, 2003) 1934年にストラウスはイギリスへ、37年にはアメリカへ渡ってコロンビア大学の特別研究員になり、44年にはアメリカの市民権を獲得、49年にはシカゴ大学の教授になった。 アメリカとイスラエルの神懸かった人たちは状況が悪化するにつれ、自分たちの本性をあらわにしはじめた。彼らは正気でない。そうした彼らに世界の人びとはうんざりし、同時に危機感を強めている。国連総会でパレスチナとイスラエルの大使が演説した後の議場の反応がそうした世界の雰囲気を示している。
2023.11.03
OHCHR(国連人権高等弁務官事務所)のニューヨーク事務所で所長を務めてきたクレイグ・モクヒバーが辞職した。モクヒバーは10月28日、フォルカー・ターク国連人権高等弁務官へ宛てた書簡の中で、私たちの目の前で再びジェノサイドが展開されていると主張、「これがあなたへの最後の通信になるだろう」と述べている。 イスラエル軍によるガザへの攻撃で多くのパレスチナ市民が殺されている状況を「ジェノサイド」と表現したわけだが、そのジェノサイドを防ぐ義務を国連が怠るどころか、アメリカの権力者やイスラエル・ロビーに屈服し、パレスチナを植民地化するプロジェクトは最終段階に入ったと主張している。 国連だけでなく、アメリカ、イギリス、そしてヨーロッパの多くの国も彼は批判している。「これは大量虐殺の教科書的な事例」であり、アメリカ、イギリス、そしてヨーロッパの多くの国はジュネーブ条約に基づく条約上の義務を果たすことを拒否しているだけでなく、イスラエルを武装させ、経済や情報の面でも支援し、イスラエルの残虐行為を政治的、外交的に援護しているとモクヒバーは批判した。欧米諸国は共犯者だというわけだ。 また、西側有力メディアの責任も指摘している。パレスチナ人を非人間的な存在に仕立て上げ、大量虐殺を助長し、戦争のプロパガンダや国家的、人種的、宗教的な憎悪を発信し続けているというのだ。 OHCHRの高官としては激しい内容の発言だが、このモクヒバーの主張は基本的に正しい。 1991年12月にソ連が消滅、それから間もない92年2月にネオコンはアメリカ国防総省のDPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇プランを作成した。その中心がポール・ウォルフォウィッツ国防次官だったことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 ソ連が消滅した段階で、当時のディック・チェイニー国防長官やウォルフォウィッツ国防次官を含むネオコンはアメリカが唯一の超大国になったと認識、誰に遠慮することなく好き勝手にできる「アメリカの時代」がきたと信じていた。そうした中、「リベラル」や「革新」を自分のキャラクターにしていた人びとの少なからぬ部分もアメリカへ従属するようになった。そうした中、国連も急速に堕落していく。 第2次世界大戦後、ホワイトハウスの主導権を奪還したウォール街は情報機関を存続させ、情報操作プロジェクトを始めた。「モッキンバード」だ。 デボラ・デイビスが書いた『キャサリン・ザ・グレート』によると、そのプロジェクトが始まったのは1948年頃。それを指揮していた4人は情報機関の活動をしていたが、その背景は国際金融資本だ。 その4人とは、大戦中からOSSで破壊活動を指揮していたアレン・ダレス、ダレスの側近で戦後に極秘の破壊工作機関OPCを率いていたフランク・ウィズナー、やはりダレスの側近で後にCIA長官に就任するリチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムだ。フィリップの妻がウォーターゲート事件で有名になったキャサリーン。(Deborah Davis, “Katharine the Great,” Harcourt Brace Jovanovich, 1979) フィリップはキャサリーンと離婚し、すぐに再婚してワシントン・ポスト紙を自分ひとりで経営すると友人に話していたが、1963年6月に精神病院へ入り、8月に自殺している。フィリップと親しかったジョン・F・ケネディが暗殺されたのはその3カ月後だ。 ワシントン・ポスト紙の記者としてウォーターゲート事件を取材したカール・バーンスタインはリチャード・ニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。 その記事によると、1977年までの20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達し、1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供したとバーンスタインにCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977) フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)紙の編集者だったウド・ウルフコテは2014年2月、ドイツにおけるCIAとメディアとの関係をテーマにした本を出版、その中で多くの国のジャーナリストがCIAに買収されていて、そうした工作が危険な状況を作り出していると告発している。 彼によると、CIAに買収されたジャーナリストは人びとがロシアに敵意を持つように誘導するプロパガンダを展開する。その結果、ロシアとの戦争へと導いて引き返すことのできないところまで来ているとしていたが、現実になった。そのウルフコテは2017年1月、56歳の時に心臓発作で死亡している。 情報操作のネットワークは私企業の世界へも張り巡らされてきた。例えば、2020年に始まったCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動ではアメリカ政府の公式説明に反する情報をグーグルやフェイスプックなどシリコン・バレーのハイテク企業は検閲している。 ベトナム戦争もアメリカ政府は作り話で始めたが、広告会社が主導したプロパガンダとしては1990年10月10日にアメリカ下院の人権会議という非公式の集まりで行われた「ナイラ」なる女性の証言が有名だ。 彼女はクウェートの病院で働いていた看護師を名乗り、イラク兵が保育器を盗んで多くの赤ん坊を殺したなどと主張、好戦的な雰囲気を作り出す一因になったのだが、この「証言」を演出したのはヒル・アンド・ノールトンというアメリカの広告会社で、雇い主はクウェート政府だった。 ナイラが話したイラク軍の残虐行為は嘘だったのだが、その作り話を涙ながらに語った少女はアメリカ駐在クウェート大使だったサウド・アル・サバーの娘、ナイラ・アル・サバーだ。勿論、イラク軍がクウェートへ攻め込んだ当時、ナイラは現場にいなかった。幼い子どもが殺されたという話は一般受けするとヒル・アンド・ノールトンは考えたのだろう。 ハマス(イスラム抵抗運動)が10月7日にイスラエルを攻撃した際、イスラエルでは40人の乳児の首をハマスの戦闘員が切り落としたとする話がイスラエルのニュースチャンネルi24などによって広められた。 この話がパレスチナ人に対するジェノサイドを正当化する心理を生み出したのだろうが、その話を裏付ける証言も証拠もなかった。攻撃の直後、ガザとの境界近くにある入植地を訪れたイスラエルのメディアの記者が犠牲者の遺体を回収した兵士の証言だとして報道した。 ジョー・バイデン大統領やイスラエルのニル・バルカット経済相もこの話を広めたが、別の記者がこの話は検証されていないと指摘、そうした話を広めるのは無責任だと批判する。 バイデンはイスラエルでテロリストが子供を斬首している確認された写真を見たと主張していたが、翌日には発言を撤回、報道官はバイデンがそのような写真を見た事実はないと語った。バイデンはイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の話をそのまま事実として口にしただけだと説明されている。 そうした残虐行為があったことを示す直接的な証拠や証言がないだけでなく、イスラエル政府は赤ん坊の名前を公表せず、悲嘆に暮れる家族の映像や証言も見当たらない。それでもイスラエルの子ども40人が斬首されたという話はガザで子どもを含む市民を虐殺する作戦の突破口を開いた。 そしてガザでは8500名以上の市民が殺され、その約4割は子どもだ。瓦礫の下敷きになって死んだ子どもや嘆き悲しむ家族などの映像が次々と発信されていた。そこでイスラエル政府はインターネットを遮断するなど虐殺の実態が漏れないようにしている。ウクライナではネオ・ナチが反クーデター派の住民を虐殺、その映像も発信されたが、その後、削除された。それでも虐殺の記憶は消えない。 ガザでのイスラエルによるジェノサイドに対する怒りはイスラム国だけでなく世界中に広がっている。モクヒバーのような立場の人にあそこまで言わせる怒りがアメリカやイスラエルへ今後、向かう。
2023.11.02
10月7日にハマスはイスラエルを陸海空から攻撃、数百人の戦闘員がイスラエル領へ侵入し、ガザからイスラエルに向かって5000発以上のロケット弾がテルアビブの北まで撃ち込んだ。その攻撃の2カ月前、アメリカの国防総省はネゲブ砂漠のハルケレン山頂にある基地にアメリカ軍人の「生命維持エリア」を建設する契約をコロラド州に拠点を置く企業と結んでいる。 この基地は「サイト512」と呼ばれ、イスラエルを攻撃するイランのミサイルを監視するレーダー施設がある。ガザから30キロメートル余りの場所にあり、その存在は秘密にされていた。ハマスのミサイルはガザから発射されたため、このレーダーは探知できなかったようだ。 アメリカは中東や北東アジアにAN/TPY-2レーダーを配備、そのひとつがサイト512。残りはトルコのサイトK、そして日本の青森県車力と京都府京丹後にある。ロシアがアメリカをミサイル攻撃する場合、北極を挟んでの撃ち合いになる。トルコや日本はアメリカがロシアや中国を攻撃するための拠点だ。 イスラエルにアメリカ軍の基地が存在することだけは以前から知られていて、その基地には少なからぬ武器弾薬が保管されている。アメリカとイスラエルがアメリカ軍の恒久的な基地の存在を初めて明らかにしたのは2017年9月18日のことだ。 アメリカにとってイスラエルは中東を支配するための「不沈空母」であり、その「不沈空母」を建造したのはイギリスだ。1982年11月に内閣総理大臣となった中曽根康弘は翌年の1月にアメリカを訪問、ワシントン・ポスト紙の編集者や記者たちと朝食をとる。その際に彼はソ連のバックファイア爆撃機の侵入を防ぐため、日本は「不沈空母」になるべきだと言ったと報道された。イスラエルの一部政治家は自国をアメリカの「不沈空母」だと表現していたので、それが記者の頭にあったのかもしれない。 中曽根はすぐに空母発言を否定するが、インタビューが録音されていたことが判明すると、「不沈空母」ではなく、ロシア機を阻止する「大きな空母」だと主張を変えている。「大きな空母」と「不沈空母」に本質的な差はない。中曽根は日本がアメリカの「空母」だと表現したことを否定しようとしたのだろうが、それが不可能だとわかると「大きな」と「不沈」の問題にすり替えた。いわゆるダメージ・コントロールだ。 アメリカ軍は第2次世界大戦が終わった直後からソ連に対する先制核攻撃プランを作成、JCS(統合参謀本部)が1949年に出した研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすと書かれている。 1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成、57年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」を作成した。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012) こうしたアメリカの戦略に合わせ、沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、暴力的な土地接収が始まる。1955年の段階で「沖縄本島の面積の約13%が軍用地」になっていた。 1955年から57年にかけてライマン・レムニッツァーが琉球民政長官を務めているが、その間、56年6月に「プライス勧告」が公表された。この勧告の中で沖縄は制約なき核兵器基地として、アメリカの極東戦略の拠点として、そして日本やフィリピンの親米政権が倒れたときのよりどころとして位置づけられている。なお、レムニッツァーはドワイト・アイゼンハワー時代の1960年にJCSの議長に就任する。 この勧告が伝えられると沖縄の住民は激怒、「島ぐるみ闘争」が始まるのだが、それに対して民政府は琉球政府の比嘉秀平主席の更迭を含む事態収拾策を画策している。そうした混乱の中、1956年10月25日に比嘉長官は55歳の若さで急死した。(中野好夫、新崎盛暉著『沖縄戦後史』岩波書店、1976年) テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、JCSのライマン・レムニッツァー議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイなど好戦派は1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。ソ連が反撃するためにはアメリカの近くから中距離ミサイルを発射するしかない。そこでソ連はキューバへ中距離ミサイルを運び込んだ。 本ブログでも繰り返し書いてきたが、ハマスによる10月7日の攻撃をイスラエル政府やアメリカ政府は事前に知っていた可能性が高い。イスラムの聖地であるアル・アクサ・モスクに対して冒涜的な行為を繰り返しているが、これは挑発としか言いようがない。 例えば今年4月1日、イスラエルの警察官がイスラム世界で第3番目の聖地だというアル・アクサ・モスクの入口でパレスチナ人男性を射殺。4月5日にはイスラエルの警官隊がそのモスクに突入、ユダヤ教の祭りであるヨム・キプール(贖罪の日/今年は9月24日から25日)の前夜にはイスラエル軍に守られた約400人のユダヤ人が同じモスクを襲撃、そしてユダヤ教の「仮庵の祭り」(今年は9月29日から10月6日)に合わせ、10月3日にはイスラエル軍に保護されながら832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入している。ベンヤミン・ネタニヤフ首相は新たな戦争を目論んでいるのではないかと言われていた。そしてネタニヤフと関係の深いハマスによる攻撃だ。 ハマスによる攻撃を口実にしてイスラエル軍はガザを攻撃、街は瓦礫の山になり、8300人以上の住民を殺した。大半は女性と子どもだと言われている。ある程度の住民を虐殺すれば残りはエジプトへ逃げ、難民化するとアメリカやイスラエルは予測していたかもしれないが、イスラエル「建国」時のような展開にはならなかった。民族浄化に失敗したのだ。ガザやヨルダン川西岸からパレスチナ人を一掃することはできなかった。 欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の最高司令官を務めたウェズリー・クラークによると、1991年に国防次官だったポール・ウォルフォウィッツはイラク、イラン、シリアを殲滅すると口にしていた。イラクのサダム・フセイン政権を倒して親イスラエル体制を築き、シリアとイランを分断した上でシリアを破壊、最後にイランを壊滅させる予定だったようだ。また2001年9月11日から10日ほど後には統合参謀本部でクラークが見た攻撃予定国のリストには、イラク、シリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そしてイランが載っていたという。(3月、10月) ガザに対する攻撃を続けならが、イスラエルやアメリカはイランの打倒を意識しているのだが、すでに中国やロシアがイランを支援するための手を打っている。イランはサウジアラビアとの関係を改善、この点でもアメリカの計算は狂っている。アメリカとイスラエルは世界で孤立しつつある。
2023.11.01
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