浜松中納言物語 0
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「息子を検非違使庁の長官に」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十九段の一堀川相国(久我基具)は、美男で楽しい人物であったが、過度の贅沢を好む性格で、自分の息子を検非違使庁の長官にして、庁務を司らせたが、庁舎にある唐櫃(中国風の収納箱)が古くて見苦しいと、新調することを命じた。だが、この唐櫃は、古代から伝わっていて、いつ持ってこられたかも分からず、数百年の年月を経た貴重な物であり、代々伝えられた公共の物品で、古くなり破損している事が返って価値がある。簡単に廃棄する事など出来ないと言う昔の出来事(故実)に詳しい役人の意見を聞いて、その事は止めにした。百段の一久我相国が、宮中の殿上で水を所望すると、女官が土器に水を入れてきた。相国は、まがりの器に入れて持ってきなさいと言って、まがりの器で水をお飲んだ。まがりの器は水や食物を入れる器だが具体的には不詳である。
2023.07.02
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「心に残って覚えた言葉」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十八段の一尊い僧侶が言い残した言葉を集めた「一言芳談」という本を見つけたので、心に残って覚えた言葉を書き留めておこう。☆するかしないか、しないのもいいかなと思う事なら、大体しないほうが良い。(明禅法印の言葉)☆後世のことを考えるなら、糠味噌を入れる瓶の一つすらも持ってはいけない。お経や仏像に至るまで、良いものを持っている理由など無い。(俊乗房の言葉)☆遁世者は、何も無い事を欠かさないように過ごす、何も無いのが最上である。(解脱上人の言葉)☆身分の高い貴族は下郎になり、賢者は愚者となり、長者は貧者になり、能ある人は無能になるというのが煩悩が無くなって望ましい。(聖光上人の言葉)☆仏の道は特別なものではなく暇人になって、世間の雑事を気に掛けないというのが第一の道である。(松蔭の顕性房の言葉)その他の事は覚えなかった。
2023.07.01
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--Blo-katsu AD--Blo-katsu AD--これは何だろう?「めなもみ草を揉んで付ける」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十六段の一めなもみという草がある。蝮(まむし)にさされた者が、このめなもみ草を、揉んで付けると、たちまち癒えるという。見知っておくべきだ。めなもみ---キク科の一年草。山野に生え、高さは約1メートル。九十七段の一全体に毛があり、葉は卵形で対生する。秋、黄色い花が多数咲く。花を包む総苞(そうほう)に腺毛があり、粘液を出す。漢方にも用いられ全草を腫瘍(しゅよう)などの薬用。その物に寄生し、それを捕食し、結果的に食い尽くしてしまう物は、数知れないほどある。身体にはシラミがつき、家にはネズミが走る。国には反逆者がいて徳の劣る者に財産があり、徳の勝る者に仁義がある。僧には仏法あり貴重だが、捉われすぎ金儲けに走らない。
2023.06.30
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「ある有職故実に詳しい人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十五段の一箱のくりかた(穴)の所に緒をつける時、左右どちらに付けますかと、ある有職故実に詳しい人に尋ねた所、軸(左)に付ける説や、表紙(右)に付ける説や両方に付ける説があるので、どちらでも差支えないようだった。文を入れる箱は、多くは右側にくくり付けるが、手箱には軸に付けるのも普通のことであると仰せられた。ある専門家に聞いてみた。右側と左側、諸説ありますが、どちらでも問題ありませんと同じ回答。箱を文入れとして使う場合は右側、道具入れにする場合は左側にする。ある人が久我縄手を通った所、小袖に大口を着た人が、木造りの地蔵を、田の中の水に浸して念入りに洗っていた。事情がわからず見ていた所、狩衣を着た男がに三人出てきて、ここにいらっしゃったといって、この人を連れて去ってしまった。久我内大臣殿でいらっしゃった。正気でいらした時は、立派で気品のある方でいらっしゃった。
2023.06.29
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「北面の武士のある者は」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十四段の一相国(最高位の官吏)は、後になって、北面の武士のある者は、勅書を、持っていながら、下馬をするような者であり、このような者が、どうして院にお仕えすることができるのだろうかと申し上げた。上皇はその北面の武士の職を解いたというが、このような場合には、勅書を馬上にて拝辞して、お見せしなければならない。下馬をしてはいけないと言われている。常盤井相国が出仕された時に、勅書を持った北面の武士が大臣に会って、馬から下りたとの事を、相国、後に、北面なにがしは、勅書を持ったまま下馬した者で、このような者が、なぜ君にお仕えできましょうかと申して、北面をクビになる。勅書は騎乗して見せるべきで下りるべきではなかった。
2023.06.28
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「願いが満たされる事は無い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十三段の二その人が言う事に、だから人が死を憎むなら、生を愛すべきだというのだ。生きている喜びを日々に楽しまずしてなるものか。愚かな人は、この楽しみを忘れて、わざわざ外に楽しみを求め、この宝を忘れて、危なっかしくも他の宝を貪っていては、願いが満たされることは無い。生きている間生を楽しまずに、死に臨んで死を恐れるなら、それは矛盾だ。人が皆生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。いや、死を恐れないのではなく、死の近いことを忘れているのだ。あるいはまた、生や死といった現象に関与しないと言うなら、それは悟りの境地に入ったというべきだと言ったところ、聞いていた人はますますあざけ笑った。
2023.06.27
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「夜の間に牛が死んでしまった」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十三段の一牛を売る者がいた。牛を買う人があって、その金額を払う契約をして、牛を引き取ろうという。だが、夜の間に、牛は死んでしまったが、この場合買おうとする人に利があり、売ろうとする人に損があると語る人があった。これを聞いて、傍らにいた人が言うことに、牛の主は、実際損はしたが、また大きな得もしていると話す。というのは、生きている者が死の近い事を知らない事は、牛がこの通りで、人も同じ事だ。図らずも牛は死んでしまった。牛は死んだが牛を買った主人は生き延びた。一日の命は万金よりも重い。牛の値段は、ガチョウの毛よりも軽い。万金を得て一銭を失う人に、損があったとはいえないと言ったところ、皆がバカにしてその理屈は、牛の主人に限ったことではないと言う。
2023.06.26
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「二つの矢を持ってはならない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十二段の一ある人が弓を射る事を習うのに、二本の矢を持って的に向かった。師の言うことに、初心者は、二つの矢を持ってはならない。後の矢を当てにして、初めの矢を放つ時にいい加減な心が生じる。毎回ただ当たりはずれなく、この一本の矢にて事を決すべきだと言う。わずかに二本の矢を持ち、師の前で一本も疎かにしてはならない。怠けおこたる心は、自分自身は気付かない思っても、師はこれを知るのだ。この戒めは、あらゆるのことに当てはまる。道を学ぶ人は、夕方には朝が来るだろうと思い、朝には夕方が来るだろうと思って、その時になってから身を入れてやればいいと心づもりをする。まして一瞬のあいだに、怠け心がある事を、どうして分かるだろう。現在の一瞬において、やるべきことを直ちにする事はとても難しい。
2023.06.25
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「言った事やした事は叶わない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十一段の二赤口に言った事やした事は叶わないとされ、赤口で得たものは失う事になり、計画した事柄も成す事ができないというが、そんな迷信は愚かだ。暦の大安吉日を選んでやろうとした事で、良い結果に終わらなかった事を数えてみれば、赤口にやろうとして上手くいかなかった事と、同じくらいあるだろう。その理由は、世の中は常に移り変わっていて、絶えず変化しやすいからである。あると思ったものがあるとは限らず、始めがあっても終わりがないこともある。志は遂げられず、欲望は絶えない、人のこころは不安定なものであり全てのものは幻影のようなものであり、どんな事柄であれば、暫くの間でも変わらずに存在し続けられるのだろうか、いや、そういった変化しないものなど無いのだ。変わらないものがあると言い張るならば、この諸行無常の理を知らないというだけである。吉日に、悪をなすに必ず凶なり。悪日に善を行うに、必ず吉なりと言われている。吉凶は人間の行いによるものであり、暦の日付けの縁起とは関係がない。
2023.06.24
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「乙鶴丸は袖をかきあわせて」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十段の二やすら殿とは在俗の男か、出家した法師かと法印がまた聞くと、乙鶴丸は袖をかきあわせて言いづらそうに、どうでしょうか、剃髪しているか否かを頭を見ることが出来ませんでしたと答えた。どうして、頭だけが見えないという事があるのか。僧侶と稚児(小さな子)の間で慣習的に行われていた『男色・同性愛』についての話である。法印(高位の僧侶)は、自分のお気に入りの稚児である乙鶴丸が、他の僧侶と浮気しているのではないかと嫉妬しているような口ぶりである。九十一段の一暦の赤口を忌む習慣というのは、陰陽道では忌むべき理由のない事である。昔の人も赤口を忌む事はなかった。最近、誰が言い始めた事なのだろうか、赤口(しゃっこう/火の元や刃物に注意すべき日)にする事は、先が通らず、将来で良い結果にならないと言われる。
2023.06.23
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「やすら殿の所へ行っていた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十段の一大納言法印が召し使っていた乙鶴丸が、やすら殿という者とねんごろになり、常に行き通っていた所、ある時乙鶴丸が外出して帰ってきたのを、法印が、どこへ行ってきたのと質問すると、やすら殿の所へ行っていたと言う。そのやすら殿は、俗人か法師かとまた質問されて、袖をすり合わせて、どうでしょうか。頭を見ませんでしたとお答えした。どうして頭だけ見えなかったのだろう。九十一段の一赤舌日(しゃくぜちにち)という事は、陰陽道には問題にしないことである。昔の人はこれを忌み嫌う事はしなかった。何者が言い出し始めたのか。この日ある事は、最後まで成し遂げられる事はないと言った。
2023.06.22
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「川の中から抱き起こす」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十九段の二松明を灯して走り寄ってきたが、どうなさいましたかと言って、川の中から抱き起こして上げると、連歌の賭けで賞品として貰った扇や小箱などの価値あるものが、水に浸かってしまっていた。危機一髪で助かったという様子で、這うようにして法師は家に入った。しかし、この猫又騒ぎの真相は、法師が飼っていた犬が周囲が暗いので、主人が帰ってきたのを知って喜び、飛びついてきただけという事だった。九十段の一大納言法印が召し抱えていた稚児の乙鶴丸は、やすら殿という男を知って、いつも通っていた。ある時、乙鶴丸が寺を出て行き帰ってきた時に、法印が、どこへ行っていたのだと聞いた。乙鶴丸はやすら殿の所へ行っていたと言う。(ノウゼンカズラの花言葉は名声・名誉・栄光・豊富な愛情・華のある人生)
2023.06.21
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「宇治に住んでいた男」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十九段の一山奥には猫又という化け物がいて、人を食べてしまうと人は言っているが、山奥じゃなくても近所の猫でも、異常に長生きした猫は猫又になって人を襲うそうだという人もいる。 それを聞いた何阿弥陀仏とかいう連歌をする行願寺の法師は、一人歩く時、猫又には十分に気をつけようと思っていた。ある所で夜が明けるまで連歌をしていた法師は、一人で歩いて帰っていたが、小川沿いの道で噂に聞いていた猫又と紛れも無く出会い、その猫又が足元へすっと寄ってくる。そのまま飛びついてきて、首の部分に噛み付こうとする。恐怖に耐える気持ちも無くなって、防ごうとしても力が入らず、怖くて足腰も立たなくなってしまった。法師はそのまま小川に転がり込んで、助けてくれ猫又だ、猫又が出たと叫んだ。周囲の家々から松明を灯して走り寄ってきたが、この辺りで見慣れた僧が小川の中にいた。
2023.06.20
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「先祖伝来の言い伝え」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十八段の一ある者が、小野道風(とうふう)の書いた和漢朗詠集として持っていたのを、ある人が、先祖伝来の言い伝えが根拠のない事と言う訳では無いが、四条大納言藤原公任卿が編纂された和漢朗詠集を、それより前の時代の、小野道風が書いたという事は、時代が違っていたのでは怪しい事と言った。だからこそ、世にも珍しい物なのだといって、益々大切にしまっておいた。藤原公任は小野道風が亡くなった年に生まれており、小野宮太政大臣の藤原実頼の孫にあたり、関白太政大臣藤原頼忠の子である。母は代明(よあきら)親王の女で、正二位権大納言に至り、四条大納言とも、言われ、漢詩文・和歌・管弦すべてに優れた当時最高の文化人である。三十六歌仙の選者『和漢朗詠集』の選者としても知られている。
2023.06.19
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「里人たちに切りつける」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十七段の三下僕は具覚房に傷を負わせた上に落馬までさせ、その上、山賊だと大声で、騒いだので、里人が多数がそろって立ち向かう事になり、我こそは、山賊だと言って、走り廻りながら、里人たちに切りつける。その暴れ回る男を、大勢で傷を負わせ、押えこんで縛り上げた。返り血を浴びた馬は、宇治の大路にある男の家に、駆け戻った。家の主人の男は呆れて、下僕たちを大勢走らせ、具覚房を探させた。くちなしの野原にうめいて倒れていたのを、探し出して担ぎ上げて、カゴに乗せ宇治へ連れてきた。具覚房は、何とか一命は取り止めたが、腰を切られるという大怪我をして、不具の体になってしまった。
2023.06.18
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「弓の弦に矢をあてがう」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草」の物語を公開してます。八十七段の二僧兵の下僕が、彼らに立ち向かって、もう日暮れになった山中を歩くとは、怪しいやつらだ。止まりなさいと言って、太刀を引き抜いたので、相手方も、皆、太刀を抜き、弓の弦(つる)に矢をあてがうなどして、戦う準備を始めた。具覚房は、これは大変な事になったと思い、手を摺り合わせ奈良法師たちに、この男は、正体もなく酔っぱらっているだけで、許してやって下さいと懇願し、僧兵たちはそれぞれ、下僕をあざ笑いながら通り過ぎて行った。下僕は具覚房に向って、お坊さまは、残念な事をされましたね。自分は、少しも酔ってなどおりません。折角山賊を退治して手柄を立てようと、思っていたのに、抜いた太刀を無駄にしたと怒り、具覚房を切りつける。
2023.06.17
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「宇治に住んでいた男」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十七段の一下僕に酒飲ませる際には細心の注意を、はらうべきである。宇治に住んでいた男が、具覚房といい、少し世俗的な雰囲気も残っている遁世(とんせい)僧が、妻の兄弟に当たるので、いつも親しく交際していた。ある時、宇治の男から具覚房に、迎えの馬をやったところ、具覚房は、遠い所からご苦労さん。馬方の男にまず一杯、酒を飲ませて上なさいと言い、酒を出した所、盃を受けて何杯も、気持ちよさそうにグイグイ飲む。2尺以上の太刀も腰に下げ、動作や話しぶりも元気よく、頼もしく思い、召し連れて宇治へ向かった所が、山賊がよく出るという噂の木幡の辺りで、奈良法師が僧兵を大勢連れてやって来たのと行き会った。
2023.06.16
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「千里を駆ける駿馬に学ぶ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十五段の二古代の伝説的な徳の高い王である舜に学ぶのは、舜の同士なのだ。千里を駆ける駿馬に学ぶのは千里を駆ける駿馬の同類なのだ。嘘にでも賢いことを学ぶものを賢いというのである。(7年間もものお陰で大病もせず幸せな日々が過ごせる)人が年老いても、なお若者と変わらぬ大志を抱くこと。もとは、年老いた足の速い馬である駿馬(しゅんめ)が活躍の場を失い、馬屋に伏していながら、なお若いころの千里を駆ける志を捨てない意。また、能力のある人が、それを発揮する事なく老いる例えとしても用いられる。八十六段の一平惟継(たいらのこれつぐ)中納言は、詩歌・文章に才能のある人である。生涯修行に励み、読経をして、三井寺の寺法師の円伊僧正と同じ寺に住み、文保(ぶんほう)年間に三井寺が焼かれた時、坊の主人円伊にあり、御坊を寺法師と呼んだが、寺が少なくなり、以後は法師と言うようになった。
2023.06.15
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「賢い人を見て羨む」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十五段の一人の心は素直ではないので、うそ偽りがあるものである。そうは言っても、稀に正直な人もいる。素直ではない人が、賢い人を見て羨むのは、世の常である。極めて愚かな人は、賢い人に会うと、これを憎む。大きな利益を得るために、小さな利益を受けない。偽り飾って名を立てようと、していると文句を言う。自分の心と違っている事によって、バカにして笑う。こんな事からお里が知れるというもので、この人は愚かの極みである。その性質が良くなる事はなく、嘘にでも小さな利益を辞退する事もできず、かりそめにも賢い人から学ぶ事の出来ない者であり、狂人の真似といって、大路を走るなら、狂人であり、悪人の真似といって人を殺せば悪人である。
2023.06.14
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「経・律・論からなる仏典の総称」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十四段の一天竺に渡り13年間滞在し帰国後、仏典の翻訳に努めた法顕三蔵(三蔵法師)が、三蔵法師は経・律・論からなる仏典の総称で戒律に通じている高僧の事で、天竺に渡り、故郷の扇を見ては悲しみ、病に臥しては中国の食事を欲した。あれ程の人が、酷く心弱い様子を、外国で見せたものだと言った所、弘融僧都(吉田兼好と同時代の人で兼好の友人で兼好より四歳ほど年下)仁和寺(にんなじ)の僧で弘舜(こうしゅん)僧正の弟子が、優しく情け深い三蔵と言ったのは、実に法師のようにでもなく、奥ゆかしく思われた。華厳院の弘舜僧正は、九条家の人で東寺の長者であり、故実に詳しい人。 成長しない世界では、しきたりだけが豊かになっていく。華厳院は仁和寺の別院の一つで、弘舜僧正は、法印権大僧都公玄の子で厳しい修行を積んだ。
2023.06.13
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「長生きするわざである」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十二段の二何でもすべて皆、物事の整っているのは悪いことである。やり残した部分を、放置しているのは、面白く、長生きするわざである。内裏を造るにも、必ず作り終わらない所を残すことであると、ある人が話したそうだ。仏典やそれ以外の書物にも、章段の欠けた事がとても多い。八十三段の一竹林院入道左大臣殿が、太政大臣に昇進されるとき、何の障りなく、来られたが、珍しい事も無い。左大臣で止めようという事で、出家された。洞院左大臣殿(実泰)が、この事に共感され、太政大臣になる望みはなかった。亢竜(こうりょう)の悔---昇りつめた竜はあとは下るだけ。高い地位についた人、名声を得た人、大金持ちになった人など、栄耀栄華を極めた人たちは、つつしまないと大きな失敗をして後で後悔するということ。月が満ちると必ず欠けるし、物が盛えると必ず衰える。万事、先がつまっているのは、破滅に近い道なのである。
2023.06.12
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「運に乗って敵を砕く」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十九段の一法師だけではなく、上達部・殿上人といった身分の高い人々まで一様に、武道を好む人多く、百度戦い百度勝っても、未だ武勇の名を定められない。なぜなら、運に乗って敵を砕く時、勇者でない人は無いからだ。八十段の一兵が尽き、矢が無くなり、最後まで敵に降伏せず、易々と死んだ後、はじめて武勇を表す道理だが、生きてる間は、武勇に誇るものではない。武勇の道は人間の道に遠く、鳥や獣に近い振る舞いであるので、武士の家に生まれたのでなければ、好んでも無益である。八十一段の一屏風・障子の絵も文字も、見苦しい筆運びで書いたのは、見辛いというより、宿の主人がくだらなく覚えるものだ。およそ持っている道具類によっても、その持っている主人の人柄がくだらなく思えることはあるようだ。
2023.06.10
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「ただ一人でいるのが良い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十五段の一手持ち無沙汰な生活の中で寂しく孤独を感じる人は、どんな人たちなのか。寂しさを紛らわす方法もなければ、只一人でいるのが良い。世俗に従えば、心は外界の欲得に埋もれ汚れてしまい、他人と交流すれば、他人の言葉に従うことになって、自分の心が自分のものでは無くなってしまう。人と戯れ遊び、物を巡って争い、ある時は恨んで、ある時には喜ぶだろう。俗世間では、心が定まる事がなく、好き嫌いの分別がやたらと湧き起こる。損得の感情が止む事がなく、惑いを感じて、目先の利害で酔ってしまう。酔いの中で夢を見て、走って忙しくしたり、ぼんやりして大切な事を忘れる。未だ本当の道を知らなくとも、血縁・友人の縁を離れて一人になる事、そして周囲の雑事に関わらず、心を安らかにする事が、その場限りと云えども楽しむ事だと言える。生活・人事・伎能・学問等の縁をやめよと天台宗の根本聖典の一つである摩訶止観にも書いてある。
2023.06.07
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「虚言が事実になってしまう」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十三段の三みんなが面白がっている嘘に対しては、自分ひとりだけが違うと言っても仕方がなく、そのまま聞いているうちに、自分が虚言の証人にすらされてしまい、そのまま虚言が事実になってしまう。兎にも角にも、虚言の多い世の中である。人の言うことなど、当たり前で、珍しい事などあるはずもないと思っていれば、虚言に流される事もない。世間で噂される虚言は、驚くようなものばかりだが、まともな人間は真偽の怪しいことを語らない。だけれども、仏陀の伝記や、神仏の奇跡については、信心もあって信じないわけにはいかなく、世間の虚言をまともに信じる事はばかげて仏教の説話については何をいっても仕方がないことである。本当の事と思いながらも、むやみに信じない事や疑いや嘲けりすべきではない。
2023.06.06
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「聞くと見るとでは大違い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十三段の二その道の専門家が書いた本になると、その方面に明るくない人は神の如くその内容を信じるが、その道をよく知る者であれば簡単には信じない。聞くのと見るのとでは、何事も大違いなのである。すぐに嘘がばれることも気にせず、口に任せて虚言を言い散らせば、そのうち、根も葉もない嘘だと分かってしまう。また、虚言を聞いた者が、内心ではあり得ない事だと思いながらも、人から聞いたままに、鼻を動かして興奮しながら語るのは、その人本人のつく嘘ではない。いかにも本当らしく所々を曖昧にし、肝心の部分は良く知らないふりをして、さりげなく辻褄を合わせて語る虚言は、世の中を乱す恐ろしいものである。 自分の面目を立てて名誉にもなる虚言には、人々は全く否定しようとしない。
2023.06.05
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「硯に筆が多く入っている」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十二段の一卑しくて下品に見えるものは、座っている周囲に道具が多いこと。硯に筆が多く入っていること。寺院の持仏堂に仏像が多いこと。庭に石や植木が多い。狭い家の中に家財多く、子・孫が多いこと。人に会った時に余分な言葉が多く伝えたい事が自分でも分からない。神仏に祈願する文書に、善行を為す方法(造寺・造仏・写経・布施・禁欲など)を余りにも多く書き記していること。多くても見苦しくないのは、文車(書物を運搬する車)に、積んだ本(書物)やゴミ捨て場のゴミである。七十三段の一世に語り伝えられていることは、本当のことは面白くないのだろうか。その多くはみんな嘘である。実際にあった事以上に人は大袈裟に言うが、年月が過ぎて、国境も隔たってしまえば、書きたい放題に語り伝えて、書物に記録されると、やがてその誇張された嘘が真実となってしまう。
2023.06.04
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「昔の人の家がその辺にある」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十一段の一その人の名前を聞くと、すぐにその人相まで想像できる感じがするが、だが実際に会ってみると思い出したままの顔をしている人はいない。昔の物語を聞いても、昔の人の家が今ではその辺にあるのだろうかと思う。(近鉄特急が通過するとリードが千切れんばかりに興奮する)昔の人物にしても、今いる人々に重ねて想像してしまうが、誰もがそのように思っているのだろうか。また、ふとした時に、たった今、人の言った事も、目で見た物も、自分の心の中で、こういう事が、以前にあったような気がすると思ったりする。それがいつだったのかは思い出せないんだけど、本当にこれらの事が過去にも確かにあったはずだと感じるのは、私だけが思うのだろうか。一度も体験した事がないのに既にに何処かで体験した事のように感じる現象。現代風に解釈すれば、既視感(過去に見た事のあるように感じる)なのだろうか。
2023.06.03
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「老いと死が待っているだけ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十四段の一蟻のように集まって、東西に急ぎ、南北に走る人々。身分の高いアリ、身分の低いアリ。老いたアリ、若いアリ。行く所があって、帰る家がある。夜に寝て、朝に起きる。行列の先には何があるのか。生を貪って、利益を求めて、とどまることがない。健康のために養生して、何を待っているのか。ただ、苦の原因となる老いと死が待っているだけである。老いと死は速やかにやってきて、瞬間瞬間の思いの間にも止まっていることがない。これを待つ間に、何の楽しみがあるのか。心が惑いのうちにあるものは、死をも恐れず、名声や利益に溺れて、死が近づいている事を顧みない。愚かな人は、死を悲しむ。人は永遠には生きられないことを知って、諸行無常を理解しなければならない。
2023.06.02
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「琵琶の柱を探って確認」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十段の一後醍醐天皇即位の前祝いの席で、琵琶の名器の玄上が盗まれていた時期で、菊亭大臣(琵琶の名手とされた藤原兼季)が琵琶を弾くことになった。菊亭大臣は同じく琵琶の名器とされる『牧場』で音楽を弾くことになった。(ももは踏切で遮断機が下り電車が通過するのを待っている)演奏の座についた菊亭大臣は、まず琵琶の柱を探って確認をしてみたが、琵琶の弦の支柱が一つ落ちてしまった。しかし、懐に糊を持っていたので、糊で支柱をつけて、神へ供え物を捧げる儀式の間にすっかり糊が乾いた。糊が乾いた事により、事故にはならなかったが、一体どんな恨みが、あったのだろうか、見物していた衣をかぶった女が、琵琶に寄ってきて、支柱を放り投げて、元のように戻したんだと言われている。
2023.06.01
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「旅の仮屋に立ち寄った時に」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十九段の一書写山円教寺の性空(しょうくう)上人は、法華経を読誦し続けた功徳により、仏教経典でいう『六根』が清浄になり悟りを開いた人物である。旅の仮屋に立ち寄った時に、豆のカラを炊いて豆を煮ている音がつぶつぶと鳴るのを聞いたところ、豆のカラと豆の関係で親密であるべきと。己らたちも、恨めしくも、我(豆)を煮て、辛い目に遭わせるつもりなのかと豆が言っており、火で炊きつけられている豆ガラのばらばらと鳴る音は、私が心から好きでやっていることと思うか。焼かれる事はどれほどか堪えがたいことだけど、どうしようもないことなのだ。そんなに俺たち豆カラのことを恨んでくれるなとか聞こえた。六根というのは人間の不確実で錯覚の多い感覚機能のことで、眼根・耳根鼻根・舌根・身根・意根の6つのことを指しており、現代風に言い直せば、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意志力(心の働き)の6つの感覚と意志の機能のだが、仏教ではこれらの六根を清らかにして真理に目ざめる事で、『悟りの境地』に到達できると教えている。
2023.05.31
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「消化を助け胃を丈夫にする」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十八段の一九州の筑紫国に、押領使(おうりょうし)の役職に就いていた某(なにがし)という人物がいた。この人は、大根は何にでも効く素晴らしい薬だと信じ、特に消化を助け、胃を丈夫にすると長年にわたり、毎朝二本ずつ焼いて食べ続けていた。ある時、押領使が所管する館の中に兵がいない隙を見計らって敵が襲ってきた。敵にすっかり取り囲まれていたのだが、館の中に二人の兵士が現れ、命も惜しまずに戦って、敵をみんな、追い返してしまった。押領使は不思議に思って、日頃、この館で見ない者たちだが、ここまで懸命に戦うとは、どんな人物なのかと聞いた。すると、あなたが長年信じて毎朝召し上がっている大根だと答えて、その勇敢な兵士は消えうせてしまった。何の役にも立ちそうにない物でも深く信じていれば、このような徳もある。
2023.05.30
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「常に百首の歌を詠む」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十七段の二歌人の吉水和尚が月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら月を愛で、花をながめた昔の優美な人・在原業平は、ここに祀られていると詠んだのは、岩本の社と承っているが、自分たちよりは、貴方がたのほうが、返って詳しいでしょうと、大層礼儀正しく言ったのは、実に立派に思えた。(昨日はももの7歳の誕生会を愛知に集い行った。あと10年生きてほしい)こういう歌人の経てきた筋道については、私ども宮司よりも歌人の方々の方がご存知ではないかと思いますと丁寧に答えて下さったことを良く覚えている。近衛の名前で呼ばれた鷹司伊平の娘今出川院近衛(いんのこのえ)歌人は、多くの歌集に歌を選ばれた女性であるが、若い頃から、常に百首の歌を詠む。才能が優れた才媛で、岩本と橋本の社の前の水で墨をすって歌を書いて、神社に奉納していた。この神社の本当に素晴らしいご利益があって、人の口にのぼるような良い歌を多く詠んだという。今出川院近衛は、作文や漢詩の序文なども上手に書く優れた人であった。
2023.05.29
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「愛する人の元に送った」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十六段の三花の咲いた枝に、鳥をくくってはだめというのは、どういう理由からなのか。伊勢物語で、秋の季節に梅の造花にキジをくくって愛する人の元に送ったという故事があるのだが、造花ならば花がついた枝でも、鳥をくくっても良いものなのだろうか。今日はももの7歳の誕生会で愛知県へ来ています。昨夜は濁り酒を飲まず眠剤と向精神薬だけで問題なく起きれた。六十七段の一京都・上賀茂神社の、岩本の社と橋本の社は在原業平と藤原実方を祀っている。業平と実方は共に和歌の名人として知られる人物だが、どちらがどっちの社に祀られているのかの由縁がすでに分からなくなっていて、いつも人々は両者の社を混同してしまっている。ある年に上賀茂神社をお詣りした時、神社にいた年老いた宮司を呼び止めて、その事について尋ねてみた。その老宮司が、藤原実方を祀る社は、御手洗の水面に影が映る社と聞いており、それでしたら、橋本の社の方が、御手洗に近いと思いますと教えてくれた。
2023.05.28
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「雪に足跡をつけない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十六段の二しじら藤(つづら藤)の割ってないツルで、鳥の頭と足の二カ所を枝にくくり、藤の先は、火打羽の丈と同じ長さに切って、牛の角のようにふくらませる。人の家に送るのであれば、初雪の朝に、枝を肩にかついで、中門より参上。この時に、大砌の石を伝って歩いて、雪に足跡をつけてはいけない。枝につけた鳥の風切羽を少しばかり散らしてから、御所の手すりにかけて置いておき、送り先の家が祝儀を下さるのであれば、今度は祝儀を肩に担いで、拝礼して退きます。初雪といっても、靴の先っぽが隠れないほどの雪ならば、風情がないので行くべきではありません。風切羽を散らすというのは、鷹は鳥の風切羽のあたりを狙って捕獲するので、鷹がその鳥を狩ったという証拠になるということで、花の咲いた枝に、鳥をくくってはいけないという。
2023.05.27
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「一つの枝に二羽の鳥を」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十六段の一岡本関白殿(近衛家平)は、朝廷に仕える鷹飼(たかがい)の下毛野武勝に、花の盛りの紅梅の枝につがいの雉の雌雄を添えて参上するように命じた。しかし、鷹飼の下毛野は、花の咲いた枝に鳥を取り付ける技など知りません。ましてや、一つの枝に二羽の鳥を付ける方法などは存じていませんと答えた。次に岡本関白は膳部の料理人や周囲の人々に聞いてみて、もう一度、武勝にお前の好きなように鳥をつけて持って参れと命じた。すると鷹飼の武勝は、花のない梅の枝に鳥を一匹だけくくりつけて、関白の元に参上した。鷹飼の武勝が申し上げる所によると、柴の枝。梅の枝。つぼみのある枝と散った枝には鳥を付けることができ、五葉の松にもくくりつけられる。枝の長さは七尺、あるいは六尺、枝の両端は返し刀で五分に切り落とす。枝の中ほどに鳥を付け、鳥の頭を付ける枝と足で踏ませる枝とがる。
2023.05.26
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「武装した兵士を配置」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十三段の二いつからかと言うと『後七日』を指導なされる阿闍梨の指示という事だが、昔、行事の最中に盗人が侵入したことがあり、このような物々しい警備になったようだ。今年一年の情勢・吉兆を占うとされる後七日の儀式に、武装した兵士を配置しているのは、兵乱の予兆にも成りかねない不吉な事。六十四段の一豪華な五緒の飾りを垂らした牛車は、身分に関係なく優れた人が乗るというものではない。その家柄に従って、極められるまで官や位を極めた者が、乗るものなのであると、ある人が説明していた。六十五段の一この頃の冠は、昔よりはるかに高くなった。だから、昔の冠を入れるケースを持っている人は、箱の端を継ぎ接いで、今でも使っている。
2023.05.25
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「言葉遊びのパズルのよう」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十二段の二延政門院。後嵯峨天皇の第二皇女。 元弘2年(1332年)に74歳で死去。折りしも延政門院が死んだのを聞いてこれを書いたのであろう。ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる一読すると意味不明なのだが、悦子内親王が読んだ歌は、言葉遊びのパズルのようなものになっている。和歌にある『ふたつ文字』は平仮名の『こ』、牛の角文字は『い』、まっ直ぐな文字は『し』、ゆがみ文字は『く』を意味しており、それらを合わせると『こいしく(恋しく)』になるわけである。六十三段の一一月八日から天下太平・五穀豊穣・国家繁栄を祈願して大内裏で、行われる『後七日』の行事に、宿直人と言う武者が配置されるように、この宿直人が配置になったのは、いつからだろうか。
2023.05.24
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「恥も忘れて財産も捨て」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十九段の二いつか出家して仏門に励もうとしている大抵の人は、みんなこのような物事に追われた状態で臨終を迎えてしまう。隣の家が燃えているのに、暫く待ってから逃げようなんて言うだろうか。命が助かりたいならば恥も忘れて、財産も捨てて火事から逃げるはずだ。寿命は人の都合など待ってくれない。無常の変化が押し寄せるさまは、大火のように大水のように凄い速さであるから、その無常から逃げることなんて出来ないんだ。死ぬ時には、捨てがたいはずの親や我が子、恩義や情愛すら、みんな捨てざるを得ない。六十段の一仁和寺の真乗院に盛親僧都(じょうしんそうず)という、極めて頭の良い僧がいた。芋頭という食べ物を好んでおり、毎日のように食べていた。講義の席でも、大きな鉢に芋頭をうずたかく盛り上げて、膝元において食べながら、もぐもぐと口を動かしお経を読んでいた。
2023.05.23
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「産まれない時の呪い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十一段の一お産の時に、屋根の上から甑(こしき/土器で作られた米などを蒸す道具)を落とす風習は別に決まった事ではないが、お産が滞って中々赤ちゃんが産まれない時の呪いであるが、お産が難産に陥ってなければ必要もない。身分の低い庶民が始めた迷信なので、たいした根拠というものもない。大原の甑(こしき)を取り寄せるのが、縁起が良いとされ、古い宝蔵に収納されていた絵巻には、貧しい者が子を産む時に、屋根から甑を落としている情景が描かれていた。六十二段の一出家した後嵯峨天皇の皇女・悦子内親王の延政門院が、幼少の折に、御所である院へ参上する人に言伝を頼んでお詠みになったお歌。ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる後嵯峨天皇のことを恋しく思っていらっしゃる気持ちが詠まれている。
2023.05.22
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「寺でも重く用いられた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十段の三書道、学問、弁論、全ての分野にも優れていて、寺でも重く用いられていた。だが、何処にでも居るどこか世間をバカにしているひねくれ者でもあった。すべて好き勝手に自由にやって、人の言うことなど聞くことがない。寺の外の法事のときにも、自分の目の前にお膳があると、他の人のお膳が準備されていなくても、さっさと自分一人だけで食べてしまう。盛親僧都は帰りたくなれば、一人で立ち上がってそのまま帰ったという。寺での食事も、周囲に配慮することもなく、自分の食べたい時には、夜中でも明け方でも食事をして要するに、食欲を我慢することがない。眠たい時には、昼間でも部屋に籠って寝てしまう。どんなに大切な用事があっても自分が起きたくないなら起きない。目が冴えてくると、真夜中でも歌など詠みながら散歩をする。普通ではない有様であるが、人に嫌われることもなく、すべての我がままは許してもらっていた。きっとこの僧侶の徳が高いからなのだろうが、何処にでも居る。
2023.05.21
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「僧坊と二百貫の財産を相続」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十段の二病気をすると二週間は治療だと言って部屋に閉じこもり、気が済むまで良い芋を選んで、いつもより沢山食べてどんな病気でも治してしまった。人に芋を食べさせる事はなく、一人で食べていた。極めて貧しかったが、師匠が亡くなった後に、僧坊と二百貫の財産を相続した。家を百貫で売り払って、三百貫の財産をつくると、全てを芋代にすると決め、京都にいる人にお金を預けると、十貫ずつ下ろして、芋頭が途絶えないよう計画して食べていた。他に財産を使う事もなく、全てを芋代にしたのである。三百貫もの大金を全て芋代にするとは、類い希なる仏教人だ人々は言った。この僧都が、ある坊さんを見て「しろるうり」とあだ名を付けた。[しろるうり]とは、何かと人に聞かれても知らないと答え、もしそのようなものがあるなら、きっとこの坊主にそっくりなんだろうと答えた。この僧都は、外見・容姿が良くて、力が強く、大飯ぐらいである。
2023.05.20
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「寺でも重く用いられた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。六十段の三書道、学問、弁論、全ての分野にも優れていて、寺でも重く用いられていた。しかし、どこか世間をバカにしているひねくれ者でもあった。すべて好き勝手に自由にやって、人の言うことなど聞くことがない。寺の外の法事のときにも、自分の目の前にお膳があると、他の人のお膳が準備されていなくても、さっさと自分一人だけで食べてしまう。盛親僧都は帰りたくなれば、一人で立ち上がってそのまま帰ったという。寺での食事も、周囲に配慮することもなく、自分の食べたい時には、夜中でも明け方でも食事をして要するに、食欲を我慢することがない。眠たい時には、昼間でも部屋に籠って寝てしまう。どんな大切な用事があっても自分が起きたくないなら起きない。目が冴えてくると、真夜中でも歌など詠みながら散歩をする。普通ではない有様であるが、人に嫌われることもなく、すべての我がままは許してもらっていた。きっとこの僧侶の徳が高いからなのだろう。
2023.05.19
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「恥も忘れて財産も捨て」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十九段の二いつか出家して仏門に励もうとしている大抵の人は、みんなこのような物事に追われた状態で臨終を迎えてしまう。隣の家が燃えているのに、暫く待ってから逃げようなんて言うだろうか。命が助かりたいならば恥も忘れて、財産も捨てて火事から逃げるはずだ。寿命は人の都合など待ってくれない。無常の変化が押し寄せるさまは、大火のように大水のように凄い速さであるから、その無常から逃げることなんて出来ないんだ。死ぬ時には、捨てがたいはずの親や我が子、恩義や情愛すら、みんな捨てざるを得ない。六十段の一仁和寺の真乗院に盛親僧都(じょうしんそうず)という、極めて頭の良い僧がいた。芋頭という食べ物を好んでおり、毎日のように食べていた。講義の席でも、大きな鉢に芋頭をうずたかく盛り上げて、膝元において食べながら、もぐもぐと口を動かしお経を読んでいた。
2023.05.18
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「本意を遂げられない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十八段の三煩悩を捨てて仏門に入る事は、ただ利益や欲望を貪ることばかりに努めて、悟りを得ようとしないのであれば、その生き方は本能のままに生きる。畜生(動物)と変わる所が無いのではないだろうか。五十九段の一出家など重要な事を思い立った人で、何かに囚われて離れがたかったり、心のどこかに引っ掛かる事があって本意を遂げられないでいるなら、その全てを捨てたほうが良い。もう暫くしたらとか、この事が終わったら同じように時間が掛かるならば、あの事も終わってからと人に笑われる。笑われないように確実に準備してからでないと、長年の経験の蓄積があり、その結果を見届けてからや、波風が立って騒がしくならないようにと考えていると、やり終えていない事ばかりが山積みになり、それらをやり終える事はできず、重要でやるべき出家を遂げる日はやってこない。
2023.05.17
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「どうして世俗を捨てたのか」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十八段の二世俗を捨てた意味がない。餓えや寒さに耐えられない。その程度ならどうして世俗を捨てたのかというのは、無茶なことである。しかし、さすがに一度は仏の道を志した者である。たとえ僅かな望みがあろうと、世俗の貪欲な者の望みには遠く及ばないのである。紙の布団に、麻の着物、一杯の飯に、藜の汁、こんなものがどれだけ他人のものを浪費するというのか。俗世間を離れて仏門にはいった人の求めるものは得ることが容易く、その心は簡単に満足してしまう。粗末な格好をしているので、見た目を恥じるところはあるが、その生活ぶりは悪事からは遠く離れており、善・仏に近いことが多い。人として生まれた証を立てるためには、どうにかして世俗の欲望を捨て切るということが望ましいのである。
2023.05.16
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「仏道を学ぼうとする心」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十八段の一仏道を学ぼうとする心があれば、住む所にこだわらず修行はできる。家にいても、人と交わっていても、来世の極楽浄土を願うことに何の障害があるだろうかと言うのは、来世とは何かを知らない人である。本当に、この世俗を儚んで、生死の執着を離れようとしているのに、何の意味があって、主人に仕えたり、家事に打ち込んでいたりするのか。人の心は他者との縁に引きずられて移ろうものだから、人とできるだけ交わらない静かな心境でなければ、修行に打ち込むのは難しい。その器は昔の人には及ばない。山奥に一人で籠もっても、餓えと雨風を凌ぐ手段が無ければ生存を維持することができないので、世俗の人と同じように貪欲になることがどうして無いと言い切れるだろうか。
2023.05.15
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「その人の品性が伺い知れる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。(産みの母は70年前27歳、育ての母は6年前86歳で永眠。ありがとう)五十六段の二人が本当に興味を持っている事に対しては、表情や反応が素直である一方、周囲に合わせて無理矢理笑ったり、興味を示したりすることは、本当の自分を偽る事になり、面白い事を言っているのに興趣を感じず、面白くもない事を言っているのに周囲に合わせてよく笑うのは、その人の品性のほどが、うかがい知れるというものである。人の容姿の良し悪しを評したり、才能ある人の能力について論評したりしているのに、それらの人と全く関係のない自分の身を引き合いに出して、自分ならこうするという話をしようとするのは、とても聞き苦しくてつまらないものだ。五十七段の一人の語り出した和歌に関する話では、話題になっている歌が悪い事こそ、不本意である。少しはその和歌の道を知っている人なら、悪い歌についてそれをすごいと思って語ることはない。万事において、知らない道をあれこれ語るのは、的外れで、知ったかぶりは聞き苦しい。
2023.05.14
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「慣れ親しんでいる人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。(カーネーションの花言葉は、母への愛)五十六段の一長らく会わなかった人から、その人の最近の状況を余すところなく次々と語り続けられるのは実につまらない。近くにいて慣れ親しんでいる人でも、暫く会わなければ、何となく他人のように遠慮を感じるようになる。教養や品位に欠ける人は、ちょっとの間、外出しただけなのに、今日は、こんなことがあったと言って、息継ぎもできないほどに自分ひとりで捲くし立てるように語って面白がっているが、何も面白くない。(カーネーションの歴史は古く古代ギリシャ迄遡る)教養と品位のある人の話は、一人に向けて語っていても、みんなが自然に耳を傾けて聞きたがるものだ。教養のない人は誰ともなく、大勢の中に自分から出てきて、さも今見てきたかのように話すので、みんなが同じように大笑いしてひどく騒がしくなる。
2023.05.13
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「語りかける言葉」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十四段の三法師たちは稚児へ語りかける言葉もなくしてしまい、互いに言い争って、腹を立てて帰ってしまった。あまりに興趣ある状況を作為的に作り上げることは、かえってつまらなくなるだけのことである。五十五段の一家の作り・構造は、夏向けを基本とするのが良い。冬はどんな場所にも住むことができる。しかし、夏の暑い時期は、暑さを凌げない悪い住居に住むのは耐えがたいことである。庭に作る小川や池にしても、深い流れは、淀んでいて涼しげがない。浅くサラサラと流れる様子が涼しげである。室内の小さなものを見る時、扉を押し上げて開く窓より、両開きの窓の方が明るくて良い。天井が高いと、冬は寒くて、夜はともしびの光が届きにくくて暗くなる。家の普請・作りは、役に立たない場所を作ったりするほうが、見た目にも面白いし、何かの時に色々と役に立って良いと、人々が話し合っていた。
2023.05.12
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「誰も気づかない状態」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十四段の二それを双の丘の便利の良い場所に埋めて、その上に紅葉を散らして、誰も気づかないような状態にした。御所に参った法師たちは、稚児をそそのかして連れ出した。嬉しく感じてそこかしこを遊び回ったが、丁度良い時間に、先ほど箱を埋めた苔が一面に生えている場所に並んで座った。とても疲れた、誰か紅葉の葉を燃やして、酒でも温めてくれないか、効験のある僧侶たち、試しに祈ってみよなど互いに言い合って、箱を埋めておいた木の下を向いて、数珠をすりあわせ、手で印を結んで、無駄におおげさに振る舞ってみせた。木の葉をかき分けてみたのだが、全く埋めておいた箱が見当たらない。掘るところを間違えたかと、掘らぬ場所もないぐらいに山を掘り返したが、箱は見つからない。埋めるところを誰かに見られて、御所に稚児を誘いに行っている間に盗まれたのである。
2023.05.11
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