浜松中納言物語 0
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「悲しみの声が聞こえている」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十三段の二足鼎を被った法師は医師に何か言っているが、声がこもって聞こえない。こんな症例は本にも書いてなく、聞いた事もないと医師は言い、法師は諦めてしまい元気なく仁和寺に帰った。法師の母親や親しい者が集まって枕元で泣き悲しんでその悲しみの声が聞こえているのかどうかもわからない。このような時に、ある人が、たとえ耳鼻がそげ落ちようとも、命さえあれば生きていけるだろう。こうなったら、ひたすら力のかぎりに引きに引いて何とか抜いてしまおうと。そこで、足鼎と首の間にわらを詰め込んで、首もちぎれんばかりに引いたら、耳鼻が欠け落ちて穴が開いたがなんとか抜け、命は助かったが、法師はしばらく病気になって寝込んでしまった。五十四段の一法王の居住する仁和寺(にんなじ)の御室に、すごく美しい稚児が仕えていて、仁和寺の法師たちの中に、なんとかこの稚児を誘い出して遊びに行けないかと企んでいる者たちがいた。芸能ができる法師を仲間に加えて、しゃれたデザインの(食物を入れる)重箱のようなものを念入りに作って、箱のような形をしたものにその重箱を全部まとめて入れた。
2023.05.10
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「側にあった足鼎を手に取る」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十三段の一仁和寺の稚児が法師になるというので、それぞれが芸や歌で遊び楽しむ祝いの酒宴が開かれた。ある法師が酔っ払って興に乗り、側にあった足鼎を手に取ると、鼻が引っかかるような感じがしたがそのまま鼻を押し潰し頭にかぶり踊り出した。みんなは盛り上がって大喜びしている。その法師はしばらく踊ってから、足鼎を抜こうとしたのだが、まったく抜けない。酒宴の興趣も冷めてしまい、どうしようかと慌てふためいた。何とかしようと引っ張ってみたが、首の周りの皮膚が破れて血が流れ、腫れに腫れ上がり、息が苦しくなってしまった。次は、足鼎を割ろうとしたが簡単には割れなく、音が響いて苦しそうで、割ることを諦めたが、どうしようもない。三つ足の角の上に帷子をかけ、手をひき、杖をつかせて医師の所へ向かうと、道ゆく人たちが怪しげな様子で見ている。医師の元に行き、医師と三本角が向かい合っている。
2023.05.09
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「水車は全く回らない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。五十一段の一後嵯峨上皇が、亀山殿(仙洞院)の庭の池に引く水を、大井川から引こうとして、大井の百姓に命じて水車を作らせた。百姓たちに労賃の銭(おあし)を沢山与えて、数日で水車の本体を作り上げさせたが、大井川に水車を設置してみたところ、まったく回らない。何とか直そうとしてみたが、結局水車は回ることがなく、無意味にそこに立てかけられたままであった。そこで、宇治の里人たちを召しだし、水車をこしらえさせてみると、簡単に水車を組みあげて設置したのだが、思いのままに水車は良く回った。水は亀山殿の庭の池にスムーズに流れるようになり、その水車作りの技術は素晴らしかった。何につけても、その道をよく知っている者、その道に慣れて精通している者は、素晴らしいものである。
2023.05.07
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「鴨川の桟敷の辺りまで」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。(今年の藤棚の藤の花は咲くのが早くもう散ってしまっていた)五十段の二東山から安居院のあたりまで出かけたところ、四条から北に向かって人々が駆けてくる。今、一条室町に鬼がいると叫んでいる。今出川の橋から見ると、鴨川の桟敷の辺りに人が群がっていて、そこを通ることもできない。これほどの騒ぎになっているので、全く根も葉もない噂ではないだろうと、供の者を遣いにやってみたが、鬼に出会ったという者はいなかった。日が暮れるまでこのような騒ぎで、喧嘩・乱闘なども起こって、感心できないつまらないことも多くあったようだ。その頃、二、三日ばかり人が発熱して苦しむ疫病が都に流行った。先ほどの鬼の虚言は、この疫病の予兆であったと言う人もいた。
2023.05.06
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「この世は仮のものに過ぎない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十九段の二禅林の永観が書いた『往生十因』には、ある僧は人が訪ねてきても念仏をやめようとはせず、いま火急の事があって、すでに朝夕(死)が迫り余裕がないと答え、耳をふさいで念仏を唱え続け、遂に極楽往生を果たした。心戒という聖人の僧侶は、この世は仮のものに過ぎないと思い、座る時に尻をつける事がなく、常にうずくまっていたと言われている。五十段の一応長の頃、伊勢の国で鬼になった女を捕らえて京に上った噂が起こった。その噂が流れた頃より二十日ばかりの間は、京の都は鬼の噂でもちきりで、みんな鬼を見ようと出歩いていた。昨日は西園寺殿のお屋敷に、鬼が連れて来られたそうだ。今日は上皇の元へ来るのだろう。たった今はそこそこにいたようだと大衆が言い合っている。本当に見たという人も、ただの虚言だと断言する人もいない。身分の高い者も低い者も、ただ鬼の噂ばかりを言い合っている。
2023.05.05
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「多くは少年の墓」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十九段の一老いが迫ってきてから初めて仏道の修行を始めることは、自分自身に対する無関心さや先延ばしにする態度を表し、そのような姿勢では真の意味での修行ができないということであり、若いうちから、自分の人生や行いについて考え、真剣に向き合うことが重要である。誤りとは先送りすべきでない重要な事を後回しにして、急いでできる事を優先したことである。このような過ちを後悔する事があるが、死が近づいてくると後悔しても何も変えられない。人生においては、自分自身が本当に大切に思っていることに集中することが重要である。過去の過ちを繰り返さないように注意する必要があり、また、死が差し迫ってくると後悔しても、それ以上何も出来ないという事を覚えておく事が大切で、人間はただ諸行無常の真理の下に、死が迫ってくることを意識して、わずかの間といえども、それを忘れてはならない。そうすれば、俗世の煩悩も弱まり、仏道に精進しようという心も切実なものになっていく。
2023.05.04
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「尼御前からは返事がなく」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十七段の二尼御前からは返事がなく、尼僧が言いやまないので、何度も問いかけると、尼僧は腹を立てて、くしゃみをした時に、このような呪いを唱えないと死んでしまうというから、比叡山で修行をしている若君を心配してくさめくさめと申し祈ってると答えた。中々有り得ない気持ちだ。(早くしてよと言わんばかりに不満を表情に現わしている)四十八段の一光親卿(みつちか/藤原光親)は、院(後鳥羽上皇の在所する仙洞御所)で、最勝講(五月に各寺の高僧を集め天下太平を祈念する儀式)の奉行としてお仕えして、光親は上皇の御前へ召し出されて、供御(上皇の食べかけの食事)を出された。宮廷の食事に対する儀礼的な意味合いも非常に強く、供御を出すことはその権力を象徴する行為でもあった。光親は食い散らかした衝重(料理を載せる膳)を上皇の居る御簾の中にさし入れて退出したが、女房たちはこの光景を見て、膳が汚れることを嘆き、誰が片付けるのかと不満を言い合った。後鳥羽上皇は、古来からの礼儀作法に通じた光親の振る舞いを高く評価し、当時の貴族社会における礼儀作法や身分の差について示唆するものとして、広く知られている。
2023.05.03
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「愛敬があって」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十五段の二人は、容貌・姿が美しいのが得難く素晴らしいものだ。物を言うにつけても聞き取り易く、愛敬があって、言葉数は多くない人こそ、飽きずに付き合いたい人だ。いいなと見ている人が、思っていたよりも劣った本性が見えるのは、残念な事で外見だけでなく、内面も含めた判断が必要だ。(この時点では逃走は考えていなかったようだ)四十六段の一柳原(京都市上京区柳原町)の辺りに、強盗法印と号する僧がいた。度々、強盗にあったために、この名をつけたそうだ。四十七段の一ある人が、老いた尼僧を連れて、京都の清水寺に参拝した。尼僧がその道の途中で、くしゃみをした時に、生命が弱らないように唱える呪文・呪いのくさめくさめと言いながら歩くので、尼御前、何をつぶやいてるのかと尋ねた。
2023.05.02
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「月が見えたり隠れたり」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十四段の三庭では遣水の音が響いており、ここの雲は、都よりも速く流れている。雲の流れが速いので月が見えたり隠れたりしており、今の天気は晴れとも曇りとも定めがたい趣きのある感じである。(ももはこのあと直ぐに一人で逃走した場所です)四十五段の一藤原公世(きんよ)の兄弟に、良覚僧正(そうじょう)といわれる人がいたが、とても怒りっぽい人だった。僧坊(僧の住居)の傍らに、大きな榎の木があったので、人が良覚のことを『榎木(えのき)僧正』と呼んだ。良覚僧正は、この渾名(あだな)は不適切だといって、榎の木を切ってしった。しかし榎の木の切り株が残ったので、人が『きりくいの僧正』と呼ぶと、良覚はますます腹を立てて、切り株を掘り出して捨ててしまった。その後が大きな堀になり、良覚は『堀池僧正』と呼ばれるようになった。
2023.05.01
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「目・眉・額が腫れ上がり」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十二段の二年齢を段々と重ねていく内に、鼻の中がふさがって呼吸もしにくくなり、さまざまな治療をしてみたが効果が上がらず病状は悪化していった。目・眉・額が腫れ上がり、目蓋の上に覆いかぶさって物が見えなくなる。その顔は二人で舞う二の舞の面のように見えたが、ただ恐ろしい形相であり、鬼の顔のようになって、目は額の方について、鼻は額の方についてしまった。その後は、お寺の中の人にも会わなくなり暫く引きこもっていたが、長い年月が流れるうちに、病状が重くなり亡くなり原因不明の恐ろしい病もある。四十三段の一晩春ののどかで風情のある美しい空、身分が低くないことを伺わせる立派な造りの家の奥深く、古びた趣きのある木立に、庭に散り萎れた花びらがあれば、これは見過ごしがたい情趣を感じる。その家の中に入って見ると、南面の格子の戸をすべて下ろしている。
2023.04.29
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「自分の後ろを振り返る」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十一段の二その事を忘れて、祭り見物で一日をつぶしている。愚かなのは我らとて同じようなものだと言うと、前にいる人達が、誠におっしゃる通りです。私たちも愚かなものですと答えてきた。みんなが自分の後ろを振り返る。ここへ入りなさいと少しばかり場所を空けてくれ、競べ馬が見やすい前列へと招いてくれた。このくらいの理屈は誰でも思いつくものだろうが、こういった状況で不意に言われると、思いがけない気持ちがして心を打たれた。人間は、非情な木石ではないので、時機・関係に応じて、物事に感動する。四十二段の一唐橋中将(源雅清)という人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)という人がいた。行雅僧都は、仏教の教理・思想を学ぶ人々の先生をする偉い僧侶だったが、気の上る病(高血圧でのぼせあがる病気)を持っていた。
2023.04.28
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「人が余りに多くて」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。四十一段の一5月5日に上賀茂神社の競べ馬を見に行ったが、牛車の前に大衆が立ちはだかり見えなかったので、それぞれ車を降りて柵の側まで寄って見たのだが、人が余りに多くてそれ以上前へ行けそうにもない。(ももの撮影中に逃走し20分探した所逃走した場所へ戻っていた)そんな状況の中で、向かいの栴檀(せんだん)の木の上に登った法師が、木の枝に座って特等席で見物している。法師はその木の枝に取り付きながら、たいそう眠たい様子で居眠りをしていて、あっ、落ちそうだという瞬間に目を覚ましてしがみつくことを、何度も繰り返している。人々は法師のそんな様子をあざけり笑って見ており、バカな坊さんだな。あんな危ない木の枝の上で、安らかに熟睡できるなんてなどと言っている。しかし、自分の気持ちの赴くままに、私たちの生死の境目も、まさに今起こるのかもしれなく、今日死ぬことになる可能性がある。
2023.04.27
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「世の中に明確な区別はない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十八段の五どういったものが、本当の知識と言えるのだろうか。世の中でいう所の可、不可とは、明確な区別があるものではなく一条の流れである。真の知性を体得した賢人には、智もなく、徳もなく、功もなく、名もない。こんな脱俗の境地を誰が知っていて、誰が伝えることができるだろうか。これは、徳性(仁徳)を隠して、愚を装うだけの境地ではない。初めから、真の賢者は、賢と愚(頭の良さの高低)・得と失(損得)を区別して満足するような相対的な境地にはいないからである。迷いの心を持って名誉や金銭を欲すると、全てが愚かな結末を迎えてしまう。名誉・金銭に関わる世俗の万事は、すべて否定されるべきことだ。あなたが様々な不満・迷いを抱えているにしても、語るに足らず、願うに足りないということである。
2023.04.25
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「遠からずこの世を去る」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十八段の四自分の賢さについての評判を伝え聞いていた人も、また遠からずこの世を去ってしまい、自分の名誉も消え去ってしまう。そういった諸行無常の世においては、自分の名誉を、誰に対して恥ずかしく思い、誰に認められたいと願うのだろうか。名誉は誹謗(非難)の原因でもある。死んだ後に、名誉名声が残っても何にもならない。知恵・賢さの名誉を求めようとするのは、高位高官を求めることの次に愚かなことである。しかし、本気で知恵を求め、賢明さの獲得を願う人に敢えて言うならば、知恵があるからこそ偽りが生まれるのである。才能とは、煩悩(欲望)の増長したものに過ぎない。人から伝え聞いて、書物で読み知ったような知識は、真の知識(知恵)ではないのだ。
2023.04.24
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「名門・名家の家柄に」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十八段の三愚かで思慮が足りない人でも、それなりの名門・名家の家柄に生まれて、時流に乗ることができれば、高位高官に上り詰めて贅沢な生活ができる。反対に、並外れた才覚・人柄を持つ賢人や聖人が、卑賤な官位に留まって、時流に乗ることができずに、そのままこの世を去ってしまうことも多い。故に、高位高官に上って名声を残そうとするのは、財力を求める事の次に愚かな事である。世間一般の人よりも優れた知恵と精神を持っていれば、知性において名誉を残したいと思うものだ。よくよく考えてみれば、知性・賢さに関する名誉を欲するという事は、世間の評判を求めているだけの事である。自分を褒める人もけなす人も、いくらあがいても共にいつかはこの世から消えていなくなってしまう。
2023.04.23
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「愚かな俗物趣味の産物」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十八段の二自分が死んだ後に、金銭が山と積み上げられて北斗星を支えるほどの栄華があっても、残された人々に余計な厄介ごとで、遺産相続の紛争を残すだけだ。愚かな人の目を楽しませる趣味もなく、また虚しい。大きな車、肥えた立派な馬、宝石や黄金の飾りも、風流を解する心ある人ならば、つまらなくて愚かな俗物趣味の産物と見るだけである。金銭を山に捨てて、宝石は川に投げ捨てたほうがいい。金銭・利益に惑わされるのは、一番愚かなことである。永遠に消えない名誉名声を後世にまで残したいというのは、誰もがそう願うであろう。しかし、高位高官を得た高貴な人たちが、本当に優れた人達だと言えるだろうか。
2023.04.22
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「一人お貸し下さい」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十六段の二そんな時に女の方から、召使いの下僕はいますか。一人お貸し下さいと、間接的に皮肉を効かせて好きな男のことを呼んでいると気配りして言って手紙を送ってくれたのが、予想外の思いがけない事で嬉しく、そのような寛容な心持ちをした人は素晴らしいとまったくその通りだ。三十七段朝も夕べもすっかり打ち解けて慣れていた女性が、ふとした時に、自分に気を遣い始めて、よそよそしく態度を取り繕ったりすると、今更、そんな事をしないでも良いではないかと思う人もいるだろうが、これが誠実で真剣だから、魅力的で良い人だなと感じてしまう。知り合ったばかりの女性が、打ち解けた様子で馴れ馴れしく話しかけてくるのも、また良いものだと思う。三十八段の一名誉や利益に使役されて、心を静かに穏やかに保つ時間もなく、一生を苦しむのは愚かである。財産が多ければ、財産を守ることに精一杯で、自分の身を守れなくなる。財産は、害を生みだし、災いを招く媒介になってしまう。
2023.04.21
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「ほら貝のようである」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十四段練香(薫物/たきものとも呼ばれ源氏物語にも記されている)のお香の材料となる貝香(かいこう)は、ほら貝のようであるが、小さくて口のあたりが細長く突き出た貝の蓋である。武蔵国の金沢という浦にもあったが、近所の者は、へなたり(巻貝の一種)と言っていた。三十五段文字が下手な人が、遠慮せずに文書(恋文など)をどんどんと書き散らすのは良い。しかし、文字が上手くないからと言って文字が下手なのを隠そうとして、人に代筆をさせて書かせるのは見苦しい。三十六段の一長い間に渡って、好きな女の家を訪ねないでいた時、どれほどその女が自分を恨んでいるだろうかと、自分の怠慢さを悔やみ、全く弁解の余地さえないような気持ちがしていた。
2023.04.20
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「墓参りをする者もなく」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十段の三亡骸は人気のない山中に葬り、しかるべき日だけお参りしては、間もなく、木の葉が降り積もり、やがて誰も墓参りしなくなる。故人を思い出して懐かしがる人がいるうちはともかく、話に聞き伝えるだけの子孫たちは、故人の冥福を祈る仏事や墓参も絶えると、どこの誰とも名さえ分からない。嵐にむせぶように枝を鳴らしていた松も千年も待たずに薪に砕かれ、古くなった墳墓は掘り起こされてしまう。子孫もいなくなれば、誰も墓参りをする者もなく、墓の周囲で、春の草が生い茂る様子は、風流を解する人の情趣を強く誘い、人間の死というものは悲しい。三十一段の一雪が趣深く降り積もった朝、ある人の元に伝えることがあって手紙を送ったのだが、その手紙の返事には昨晩から降り続いている雪のことが全く触れられていなかった。
2023.04.18
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「人から忘れ去られてゆく」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十段の二何年経っても、亡くなった人を忘れられないが、亡くなった人は次第に、周囲の人から忘れ去られてゆく。周囲の人は故人の思い出を笑い話として語るようになるが、私は臨終の時のことを覚えておこう。亡骸は人気のない山中に葬られたが、しかるべき日だけでなければ墓を、訪れる者も無く、墓は苔蒸して枯れ葉に埋まり、誰も墓参りしなくなり夕方の嵐や夜の月だけが、訪ねて来る縁者となることだろう。故人の冥福を祈る仏事や墓参も絶えてしまうと、故人の面影はどこの誰とも名さえ不明となり、毎年の春の草だけを、情趣を解する人は、しみじみと見るだろうが、ついには、嵐にむせぶように枝を鳴らしていた松も千年も待たずに薪に砕かれ、古くなった墳墓は掘り起こされてしまう。
2023.04.17
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「便利の悪い狭い山寺」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。三十段の一人が死んだ後ほど、悲しいことはない。四十九日の間、便利の悪い狭い山寺に大勢の人がこもって、亡くなった人の追善供養をするのだが、心が落ち着かない。その日にちが速く過ぎていくのは、何とも言えない気持ちだ。四十九日の最後の日は、とても薄情に感じられる。お互いに故人について語り合うこともなく、自分本位に要領よく身の回りの品々を整理して、山寺からバラバラに帰っていく。自分たちの本邸に帰りつくと、更に悲しいことは増えてくる。これこれの事は、ああ恐れ多い。後のために不吉な事として忌む事にするなどと言うのは、悲しみの中で何故そういうこと(故人の死が不吉)を言うのかと、人間の心が非常に情けないもののように思える。
2023.04.16
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「書き損じの手紙を破り」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十九段の一静かにもの思えば、全て過ぎ去った過去のみ恋しくてどうしようもない。人が寝静まった後には、長い夜の気慰めに、何となく身の周りの道具を取り出して、残しておきたくない書き損じの手紙を破り捨てている。その中に、亡き人が気ままに書き散らした文字や絵(落書き)などを見つけ出して、それらを見ながら昔のことを思い出していた。まだ生きている人からの手紙でも古いものになると、いつもらったのか、どのくらい昔にもらったものかと思い出すうちに物悲しくなってくる。故人の使い慣れている道具は感情を持っておらず、昔と変わらずそのままの形であるのだが、それがとても悲しいのだ。
2023.04.15
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「白い糸は必ず汚れる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十六段の二白い糸が必ず汚れることを悲しみ、道が必ず分かれる事を嘆いた人もいた。堀川院の選んだ百首の歌の中に、次のようなものがある。昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして昔の彼女の家の垣根がすっかり荒れ果てていた、茅草の中にすみれの花ばかりが咲いているというものである。この歌に詠まれた寂しい景色に、しみじみとした思いを寄せる。二十七段の一持明院統の花園上皇が、大覚寺統の後醍醐天皇に、天皇位を譲位する「御国譲りの節会」の儀式が行われた。花園上皇が、三種の神器を新天皇にお譲りになられた時には、この上なく心細い気持ちになった。花園上皇が退位なされた年の春に詠まれた歌は、殿もりの とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく新しい天皇の御世になり、主殿寮(宮中の清掃灯燭)の役人が誰も自分の屋敷の庭掃除をしないので、花が庭に敷き詰めるかのように散り落ちている。
2023.04.14
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「天皇の父母が亡くなった」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十七段の二殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく権力の座を失った花園上皇の周辺のもの寂しさを表現した歌である。現在の世俗の忙しさに紛れて、花園院の周辺には参上する人もなく寂しげな様子である。こういった落魄(らくはく/失意)の時期にこそ、人間の心(忠誠心)というものは現れてくるものだ。二十八段の一諒闇の年(りょうあん/天皇の父母が亡くなった時に服喪する期間)ほど、悲しく辛いことはない。1319年に、後醍醐天皇の母である談天門院(だんてんもん/藤原忠子)が亡くなり、後醍醐天皇が約1年間の喪に服した。天皇が13日間の間、喪に服する仮御所の「倚廬(いろ)の御所」の様子は、板敷を下げてあり、庶民の用いる葦の御簾を掛け、布の帽額(もこう)(御簾の外側に横長に張った布)は薄墨色で粗末であり、家具の品々も質素なものである。服喪している天皇にお仕えする人々の装束・太刀や平緒まで薄墨色に染めてあり、その異様な様子も厳粛で重々しい感じだ。
2023.04.13
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「何の建物の跡だったのか」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十五段の三行成大納言の書いた額や、源兼行が書いた扉の絵が、今も鮮やかに残っている様子が悲しく感じられ、法華堂などもまだ残っているが、これも朽ち果て壊れずにいつまで持つだろうか。こういった過去の名残・記録もないような場所には、建物の土台の跡が残っているだけで、何の建物の跡だったのかを正確に知る人はいない。だから、自分が見ることのできない遠い子孫の代まで繁栄の基礎を築こうとするようなことは、すべて儚いのである。二十六段の一風も吹き荒れてないのに散ってゆく花のように、移り変わってゆく人の心。過去に親しんだ月日のことを思うと、しみじみと感動して聞いた一つ一つの言葉を少しずつ忘れ去ってゆく事は、亡くなった人との別れより悲しいものだ。(4/12/13黄砂飛来--中国ゴビ砂漠の敦煌/鳴沙山/月牙泉を中国人と旅した)
2023.04.12
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「豪華な京極殿・法成寺の跡」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十五段の二見た事もない古代の繁栄・高貴の遺構を示す廃墟は、儚いものである。摂政になった藤原道長が建立した豪華な京極殿・法成寺の跡を見ると、昔の貴人の思いが偲ばれて、今のすっかり荒れ果てて変わった様子が哀れに感じられる。多くの荘園を寄進して、自らの一族(藤原家)が末代まで天皇の後見人(摂政関白)となることを望んだ道長は、その繁栄を極めている時期にこのように変わり果ててしまった状態を予測することができただろうか。法成寺の大門・金堂などは最近まであったが、正和の頃に南門は焼け落ち、金堂はその後に倒れたままで、再建する目途も立ってなく、無量寿院だけが、その形を今でも残しており、一丈六尺の仏様が九体、尊い姿で並んでいる。
2023.04.11
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「神秘的な情趣を感じさせる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十四段の二鬱蒼(うっそう)と古木が生い茂った森の景色も普通ではない。石垣が張り巡らされていて、榊の木に御幣(ごへい/神様への捧げ物)がたなびいている状況は、神秘的な情趣を感じさせる。特に素晴らしい神社は、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮である。二十五段の一飛鳥川の淵や瀬は常に姿を変えているが、この川の流れのように移り変わり続けるのが世の常であるならば、時は移り、物事は過ぎ去り、喜びも悲しみも入り交じり過去に流れ去っていく。華やかだった場所も、やがて人の住まない荒野となるが、家が残っていたとしても住む人は違う人に変わってしまう。毎年のように花を咲かせる桃李は何も語らないので、誰に遠い昔のことを尋ねればよいのだろうか。
2023.04.10
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「心身を清めるための野宮」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十三段の二宮廷の警護の下級役人たちが、自分はよくやっているという得意顔をしているのも面白い。更に、とても寒い真冬の夜に、警護の役人たちが、そこかしこで眠り込んでしまっている様子もおかしい。天皇が聞く内侍所の御鈴の音は、めでたく優なるものなりと、藤原公孝は仰ってる。(気温は21度と人出が多く公園では駐車場が満車状態)二十四段の一斎宮(伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女)が、伊勢神宮に下る前に心身を清めるための野宮(仮所)に滞在しておられるご様子は、優美であり、非常に趣き深いものに感じられた。伊勢神宮の神域では、仏教や経文を忌み嫌っており、染紙、なかごなどと違う言葉に言い換えられていたのも趣きがある。そのように、すべての神社は捨て難いものであり、魅惑的なものなのだ。
2023.04.09
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「末法の武士の世とは」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十三段の一朝廷の権威が衰えた末法の武士の世とは言っても、今なお、幾重もの門に囲まれた宮中の神々しい様子は素晴らしいものである。板張りの廊下の露台、天皇が食事を召し上がる部屋を朝餉の間というが、何とか殿、何とか門などと聞くだけでも、神々しいもののように聞こえてしまう。どこの家にでもあるような、板組みの小窓や板の間、開き戸であっても、宮中で「小蔀・小板敷・高遣戸」と言っていれば、特別に素晴らしいように聞こえるが、警護の役人が「陣に夜の寝る準備をせよ」と言っているのを聞けば、物々しい威厳を感じる。夜に天皇の御寝所を警護する者が、明かりを灯そうとして「かいともしとうよ(油火の燈籠を早く灯せよ)」とか言うのだが、それもまた洗練されている。宮廷行事を担当する公卿が、詰め所で行事進行の命令を下すのもかっこいい。
2023.04.08
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「古風な姿にこそ情趣がある」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十二段あの木の職人(匠)が造った美しい器物も、古風な姿にこそ情趣がある。手紙の内容なども、昔の人が書き損じた手紙の方がまだ素晴らしい。普段の話し言葉ですら、残念でつまらないものになっていく。昔は、車もたげよ(轅を持ち上げよ)。火かかげよ(灯火を明るくせよ)と言っていたのが、今では、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言っている。「主殿寮人数立て(主殿寮の役人に列席して式場を松明で照らせという)」今では「松明で明るく照らせ」と言い、四大寺(東大寺・興福寺・延暦寺園城寺)の僧を集めて天下太平を祈る最勝講の儀式に、天皇が講義を聞かれる御座所は「御講の廬(いおり)」と言うべきを「講廬」と言っている。情けないことだと、古事・慣習に通じた老人はおっしゃっている。
2023.04.07
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「山沢に遊びて魚鳥を見れば」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十一段の二月・花は言うまでもないが、風も、人の心を興趣へと揺り動かすものである。岩に当たって砕け清く流れる水の景色は、季節を問わずに素晴らしい。元・湘(中国の南部から洞庭湖に流れ込む川湘江)は日夜、東に流れ去っていく。愁えている人のために流れを止めることを、少しの間もすることがないという詩を拝見しましたが、これは情趣がある。竹林の七賢のけい康も、『文選』という古典の詩集の中で、山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶと言っている。人は遠くに出かけて、水草の清い所をさまよい歩くばかりでは、心が慰められることもないだろう。何事も、古い世が慕わしく感じる。今風のものは、何かひどく卑俗なものになっていくようだ。
2023.04.06
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「月ほど面白いものはない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。二十段名もなき路上の世捨て人が、『この俗世に縛り付けられるような物を持っていない身には、空を見て放心していると日々の移ろいが名残惜しい』と言ったのだが、本当にそのように思ってしまう。二十一段の一どんなことがあっても、月さえ眺めていれば、気持ちが慰められるものだ。ある人が、「月ほど面白いものはない」と言えば、また別のひとりが、「露のほうこそ趣きがある」と言って言い争いになった。ときには言い争うこれも趣深いものである。良い時期に当たらなければ、それに趣深さがあるとは言えない。あはれと感じる事象には、それを鑑賞するのに最適の時期があるのではないだろうか。
2023.04.05
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「一年を名残惜しく振り返る」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十九段の四公の行事が多くて、新春の準備と重なって、行事が行われている様子は、とても大変である。追儺(鬼やらい)の儀式から四方拝へと続く時期が、興味深い。晦日の夜はとても暗いのに、松明をともして、夜半が過ぎるまで、人の家の門を叩いて走り回って何事なのだろうか。物々しく罵り合って足を空にぶらりとさせている。明け方から、さすがに静かになるが、一年を名残惜しく振り返るのは心細いものだ。亡くなった人の訪れる夜として魂を祭る行事は、最近の都では見なくなった。日本の東方では、今でも行っている所もある。その魂をお祭りする行事は、とても情趣豊かなものではないだろうか。このようにして明けていく空の景色は、昨日から変わっているようには見えないが、珍しい感じがする。都の大路の様子は、松を多く植えていて、華やかで気分が晴れやかで、また趣き深いものである。
2023.04.04
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「人に見せるような価値はない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十九段の三思ったことを言わないのは腹がふくれるような感じがすることだから、筆に任せながらの他愛のない遊びなので、すぐに破り捨てたほうが良いものである。人に見せるような価値はない。冬枯れの景色というのも、秋に少しも劣らないものだ。水辺の草に紅葉は散り落ちており、霜がとても白く降りている朝には、庭の小川から湯気立つのが興味深い。年も暮れて、人々が急ぎ合っている時期には、また何となくしみじみとした気持ちになる。もの寂しいと決め込んで見る人もない月は、寒々として澄んでいる。20日あたりの空というのは、心細さ・寂しさを感じるものである。懺悔・滅罪のための仏名会(みょうえ/過去現在未来の諸仏の名を称える)朝廷の勅使の出発は趣深くて尊いもの。
2023.04.03
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「菖蒲の葉を屋根に」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十九段の二灌仏会と賀茂神社の祭りの頃の若葉が木の梢に涼しげに茂っている様子は、世の物悲しさや人の恋しさにも勝ってると人が語るのは、その通りである。五月に、邪気をはらう菖蒲の葉を屋根に葺き、早苗を取り込む時期の、水鶏(くいな)が戸を叩くような声は、心細く感じてしまわないだろうか。六月の頃、貧しい家に夕顔が白く咲いて、蚊遣り火がくすぶっているのもしみじみとしている。六月禊は、また興味深い。七夕祭は色気漂う。少しずつ夜が寒くなり、雁が鳴いている頃には、萩の下葉は色づくほどで、早稲(わせ)の稲刈りをして干している。取り集めて語りたい事は、秋に多いものだ。また、風が吹く明朝こそ、情緒的な趣きがある。言い続けられていることは、みんな源氏物語や枕草子などで使い古されてるのだが、同じことを、もう一度、また言えないという事もないだろう。
2023.04.02
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「心を浮き立たせる季節」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十九段の一巡る季節に心が奪われ、季節の移り変わりこそ、物事にしみじみとした趣きがあるものだ。物事の趣きの深さは秋こそ優れていると人々は言う。確かにそうだが、いま一層心を浮き立たせる季節は、春の景色である。鳥の声も事のほか春めいて、のどかな日の光に、垣根の草も萌えいずる時期から、やや春は深まり、霞がかってぼんやりとし、桜の花もようやく色づき始める。ちょうど、雨風が続いて、心が休まる暇もなく桜の花の季節が終わってしまう。桜が青葉になるまで、ただすべて、花のみに心を悩ませられるものだ。花橘は名前こそ桜に負けてはいないが、梅の匂いのほうが思い出される。昔の事を振り返れば、恋しい気持ちになってくるが、山吹の清らかさ、藤のはっきりしない趣き、すべてが捨てがたいものばかりである。
2023.04.01
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「水筒になるひょうたん」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十八段の二唐土(中国)の許由という人物は、身の回りの所持品や貯えがろくになくて、水を手ですくって飲んでるのを人が見て、なりひさこという物を与えた。ある時、木の枝にひょうたんを掛けていたら、風に吹かれてそれが鳴るので、音がうるさいと捨ててしまった。「なりひさこ」とは、水筒になるひょうたんのこと。また、手ですくって水を飲むようになり、きっと許由さんは、せいせいした気持ちに違いない。どんなに心が涼やかになった事だろう。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま/布団の寝具)がなくて、藁一束だけがそこにあった。夜はこの藁に包まり寝転がって、朝はその藁を片付けた。中国の人は、このような質素倹約な生活を素晴らしいと思えばこそ、これを書き残して世に伝えたのだ。日本の人は、この事績を語りもしなければ伝えもしない。
2023.03.31
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「中国渡来の竹の笛」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十六段宮中で神に捧げる神楽は雅楽、世俗じみていない優雅さが感じられ、情趣がある。一般的な楽器の音というのは、笛(日本製のヤマト笛)篳篥(中国渡来の竹の笛)だが、いつも聞きたいのは、琵琶や和琴だ。十七段山寺に籠もって仏にお経をあげるお勤めすることは、とりとめも無く、世俗の煩悩、つまり、心の濁りさえも清まる感じがする。十八段の一人は自分を質素にして、奢りたかぶりを退け、財を持たずに、世俗の欲望をむさぼらないようにすることが、いちばん大切とされる。昔から、賢人が富むのは稀なことである。
2023.03.30
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「見慣れない景色が多い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十五段どんな場所でも、思い立って、旅行すると、目がさめる気持ちがする。 遠くへ行く事はなく、この辺りや、あの辺りを見てまわり、田園風景や、山里などは、本当にふだん見慣れない景色が多くみられる。都へ手紙を送る頃には、もう開放的な心で仕事のことなんかどうでもよくあの件やこの件、時間がある時にうまくやっておくようになどと、書いて送るのがとてもわくわく面白く気持ちいいと思う。そのような旅先でこそ、全ての事に気遣いをする事ができるのだろう。身に着けてる装飾品も良いものは良く、芸能のある人、容姿が美しい人も、いつもより興味深く見ることができる。寺や神社などに忍び込んで、ひっそりと籠るのもまた風情があり面白くいいものである。
2023.03.29
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「少しくだけた感じの歌」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十四段の三新古今和歌集には冬の来て 山もあらはに 木の葉降り 残る松さへ 峰に寂しき「残る松さへ峰にさびしき」という歌を悪く、言っているが、実際、少し、くだけた感じの歌にも見える。しかし、この歌も、衆議判(歌の優劣の議論を通した判定)の時には、『よい歌だ』という内容の判定があった。(鈴鹿の桜は満開を迎え、花びらはしっかりついている)後に、後鳥羽院(上皇)もそのように良い歌に感じたということが、源家長の日記には書いてある。歌の道は昔と変わらないと言う事もあるが、そうだろうか。今、歌に詠まれる同じ詞・枕詞も、昔の人が詠めば、全く同じものではない。言葉が平易で素直であり、形式も整っていて、しみじみとした深い感動が伝わってくる。後鳥羽院が勅撰した『梁塵秘抄』の流行りの歌の言葉にも、また趣きのあるものが多い。昔の人は、日常的な言葉・話しぶりであっても、みんな素晴らしいように聞こえてしまう。
2023.03.28
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「別れ道は心細くも思える」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十四段の二新しい歌は、部分的に趣深く詠めているように見えるが、どういうわけか、古い和歌のように言葉の外にある情趣の感覚を覚えることはない。(2021/4/1のもも。元気だが今より2キロ太っていた)紀貫之(きのつらゆき)が、糸による物ならなくにと詠んだ歌は、古今和歌集では屑の歌(ダメな歌)と言ひ伝えられているが、糸として撚ったものでもないのに、別れ道は心細くも思えるという歌で、きつく撚った糸の細さを、心細さに合わせ、今の世の歌人が詠めるような歌ではない。古い歌には、『形・ことば(全体的構成・部分的な言葉遣い)』において、こういった優れた類が多く見かける事が出来る。糸による 物ならなくに 別れ路の 心細くも おもほゆるかなこの紀貫之の歌に限って、悪く言われるのも、分かり難く、源氏物語では『物とはなしに』と書いてある。
2023.03.27
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「南華と呼ばれる荘子」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十三段一人淋しく灯の下で本(巻物)を開いていると、見た事もない昔の文筆家たちと友情を育む事で、安心できて、楽しさのあまり、この上なく気持ちが慰められ心が穏やかになるようだ。本(巻物)には、『文選(全30巻)』の興趣ある文章の数々、唐の詩人白居易(唐代中期の漢詩人)が書いた『白氏文集』、『老子』の無為自然を、説く言葉、南華と呼ばれる荘子の篇の数々があり、この国の文章博士たちが書いた物にも、古いものには、しみじみとした趣きのあるものが多い。十四段の一和歌というのは、やはり情趣・風情がある。身分の低い下賎な者や山に住む木こりの所業も、歌にすればおもしろくて、恐ろしい猪でもふす猪の床(茅・葦・枯草などを敷いて寝ている所)なんて表現すると可愛らしい印象になってしまう。
2023.03.26
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「価値のあるものであれば良い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十二段同じ心(気持ち)の人としんみりと世間話などして、面白い事も、世のはかない事も、裏表なく話し合って慰め合えれば嬉しいのだけど、そのような人はいないだろうから、少しも違わないようにと相手に気を、遣って向かい合っているのは、ただ一人でいるような孤独な気持ちである。お互いに言おうとする事が『本当に』と聞く価値のあるものであれば良いが、少し自分の考えと違う所があるような人と『私はそう思わない』などと言い争いになることもある。そういうことだからとお互いに譲って、語ることができれば、何となく気持ちも慰められると思うけれど。本当は少し愚痴を言う方法が自分と違っているような人は、大体、良くも悪くもない事を言っている間は良いのだが、そういった毒にも、薬にもならないやり取りは、本当の心の友とは、全く異なっているところがありそうで、何ともやりきれない。
2023.03.25
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「誰かが住んでいる庵」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十一段神無月(旧暦10月)の頃、栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里にたずね入る事があったが、遥かな苔の細道を踏み分けて行くと、心細い様子で誰かが住んでいる庵があった。木の葉に埋もれる懸け樋の雫以外には、まったく音を立てるものがない。仏前に水・花を供えるための閼伽棚(あかだな/仏に供える水や花を置く棚)には、菊や紅葉などが折り散らし、さすがに誰か住む人がいるからだろう。こんなに荒れていても住んでいられるのかと、哀れに思って見ていると、向こうの庭に大きな蜜柑の木が、枝もたわむほどに実をならせていた。しかし、蜜柑の木の周りを厳しく囲っており、少し興ざめして、この囲ってある木が無ければ良かったのにと思った。
2023.03.24
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「カラスを避ける縄」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十段の三人間はどのくらい長くその家に住めるのだろう。家なんてあっという間に焼けて煙になってしまうこともあるのにと家を見ながら思ったりもする。家の構えを見る事で、その家に住む人の人柄や考えが推し量れる事もある。後徳大寺大臣の家の屋根に、鳶(とんび)が止まれないよう縄を張っていた。西行法師が見かけて、トンビが屋根にとまると、何か問題がありますか?この家の主人の心はそのように狭いものなのかと言ったという。その後は、二度とその家を訪れることがなかったと聞いている。綾小路宮が住んでいる小坂殿の屋根にも、カラスを避ける縄が張られていた。西行の逸話を思い出したのだが、実はカラスが池の蛙を捕まえるのを見て、綾小路様が悲しまれたと聞いた。そうであれば、素晴らしい心がけだと思う。後徳大寺殿にも、何か縄を張った理由があったのではないだろうか。
2023.03.23
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「昔ながらの風情ある庭」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。十段の二風情ある家の庭は、流行を追っておらず、華やかでもないけれど、木立は程よく古びており、手を入れていない庭は自由に生い茂っている。建物や透垣(竹・細板で作った向こうが透けて見える板垣)の配置も素晴らしく、それとなく置いている調度品(家具)にも古い歴史が感じられて、気持ちが落ち着かせられる。多くの匠(職人)が一生懸命に磨きあげ、唐物(中国からの輸入品)や大和の珍しい調度を並べたとしても、庭の植木・植物まで意図的に良く見えるように植え込んでしまうと、見苦しくなって寂しいものだ。
2023.03.22
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「やり取り7」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九段の二人間の心を汚す『五感・法がもたらす多くの欲望』は、仏道の修行により遠ざける事ができる。しかし、その中でも愛欲(色欲)の迷いというのは、老いも若きも愚者も賢者も捨てがたいのである。そうであれば、巨大な象でも女の髪で編んだ綱に繋がれるといい、女の履いた下駄の木で作った笛の音には、必ず発情した秋の鹿が集まってくると伝えられ、男が自ら戒め恐れて控えるべきものは、この愛欲の迷いである。十段の一家構えは自分の身分に似合っているものが望ましい。家は無常の世では、一時的な仮の宿ではあるが、現実には、人の家には興味を引かれる。身分の高い人がのどかに暮らしていると、家に差し込む月の光すら、しみじみとした趣きがあるように見える。
2023.03.21
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「身体そのものの美しさ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八段の二久米の仙人が、洗濯女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったという逸話があるが、本当にそういう事があってもおかしくはない。女の手足や素肌のふっくらした肉付きの良さや華やかな美しさというのは、仮り初めの香料などではなく、身体そのものの美しさ・魅力なのだから抵抗しがたい。九段の一髪の美しい女こそ、男の視線を引きつけると思われているが、女性の魅力や風情ある心情は話をしている気配で、障子越しにも伝わってくるものだ。何かにつけて、女はただそこにいるだけでも男の心を惑わす。女がくつろぎ寝る事がなく、我が身を顧みる事もなく、耐え難い事にも耐え忍べるのは、ひとえに愛欲(色欲)によるものである。本当に、愛欲・愛着の道はその根が深くてその源ははるかに遠い。
2023.03.20
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「無様な姿を晒している」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七段の三四十以上まで生きるような事があれば、人は外見を恥じる気持ちも無く無様な姿を晒している自分を、恥ずかしいとも思わず、人の集まる場所でどうやって出しゃばろうかと思い悩みむ事に興味を持ちはじめる。人前に哀れな姿を出して世に交わろうとするだろう。死期が近づくと、子孫のことを気に掛けることが多くなり、子孫の栄える将来まで長生きしたくなってくる。この世で何もしないで遊び暮らし続ける気持ちばかりが強くなり、風流さ・趣深さも分からなくなってしまう。こうなれば、死ぬことの楽しさが理解できなくなり、ただの肉の塊である。八段の一人の心を迷わすもので、色欲(性欲)に勝るものはない。人の心とは愚かで女の匂いなどはそれは本人の匂いではなく、肌に付けた仮り初めのもの(焚きしめた香料の匂い)だと分かっていながら、いい匂いの女に出会うと、男は必ず胸がときめくものである。
2023.03.19
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「一夜の夢のように短い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七段の二命あるものの中で、人間ほど長生きするものはない。蜻蛉(かげろう)のように一日で死ぬものもあれば、夏の蝉のように地の中で何年も生き地上に出て春も秋も知らずにその生命を終えてしまう。その儚さと比べたら、人生はその内のたった一年でも、この上なく長いもののように思う。その人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一夜の夢のように短いと思うだろう。永遠に生きられない定めの世界で、醜い老人になるまで長く生きて、一体何をしようというのか。漢籍の『荘子』では『命長ければ恥多し』とも。長くても、せいぜい四十歳前に死ぬのが見苦しくなくて良いのである。長生きをしても恥をかくことが多い。四十歳にならぬくらいで死ぬのが、見苦しくないと書いた兼好は、当時、四十八、九歳だったと言われている。芥川龍之介の三十五歳、太宰治の三十八歳、三島由紀夫は四十五歳だ。
2023.03.18
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