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5月31日(金)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(89年2月)「生」、内面世界(1)みなさんはどのような思いで短歌を作り出されたのであろうか。それぞれの理由でそれぞれの経緯があろうが、その初めに、きっとうたいたいもの、表現を求めたいものが心に鬱屈し、それが短歌などを作ろうと思い立たせたに違いない。しかし、しばらくそのようにして短歌を作り続けていって、間もなくうたうものがなくなってしまっていくのに気付かれるのも初心と呼ばれる人たちのあいだに共通する。そうした訴えを聞くことこともあり、そのときに、本当はそれから先に短歌を作るという、ないし制作という営みの意味が始まっていくものなのだとお答えしているが、それだけでみなさんの不安を除くわけにはいかない。制作とは何か。それは、制作すべきものを次から次へ求めていくことでもある。短歌もそうである。短歌を作るということは本当は、うたうべきものを次々に求め探していくことであるともいえる。うたうものは決してそのへんに満ちあふれ、むこうから集ってくるものではない。短歌一首作るごとにもううたうべき何ものもないという絶望に立ち、その絶望の彼方からなお次のものを求めて歩み出していくこと、ないしは分け入っていくことなのであろう。
2024.05.31
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5月31日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(上)(198)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「栄光の都ロンドンの明暗」(25)ラジオやテレビも、ほとんどオトナの占有物に近く、娯楽施設にしたところで、もともとと数も種類も少ない上に、子供らの立ち入りをゆるさない場所が非常に多い。食事の時間の団欒にしても、団欒と云えばスゴク聞えがよろしいが、あれは粗末で拙い料理を歓談でまぎらすためのトリックにすぎないという説を立てる人もあるくらいに、たしかに食膳に並んでる品も、つつましい。よくもまあ、これで子供らが欲求不満を訴えないものだと、つくづく不思議に思えてもくるほどに、味気ないと言えば味気ないのですが、それをなんとかカヴァーしている要素こそが、さきにも指摘しておいたように、両親による精神的な慈しみぶりにほかならあないのではないでしょうか。 (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(95)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)死角(1)うしろめたさ棄て去りゆかむ満開の桜の空はどこまでも青焼きそばに焼きいか匂ふ桜花(はな)の下佐保姫なんかどこにいきしか見てるだけで同罪というものがある人間社会のしがらみ持ちて風荒(すさ)ぶ空間の中に一本の桜の花は春さき駈(か)ける (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)近藤芳美「土屋文明」より(83)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第十歌集『青南集(せいなんしゅう)』より(1)慰めむ味噌汁を吾が煮たりしも口がかわくと歎きつづけき(昭和二十八年)慰めのため、その人に味噌汁を自分は煮た。だがその人は一夜、口が渇くと言ってかなしみ歎きつづけた…何があったのか。ただそれだけのことが追憶のようにうたい告げられている。しかもそこに孤独な思いがこもる。人の傍らに、味噌汁を煮たという事実だけがしだいに背後に繰りひろげていく心の世界である。「追悼斎藤茂吉」と題される。「死後のことなど語り合ひたる記憶なく漠々として相さかりゆく」「近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして」などという作品と並ぶ。斎藤茂吉の死は昭和二十八年二月二十五日。文明にとっては「アララギ」の同行者であるとともに眼前の巨嶺のようにそばだつ文学の先進であった。険しいリアリズムの世界を拓くことをみずからに課した彼の文学生涯は、茂吉の存在を併置せずしては考えられない。だが、ここにうたわれている悲しみは、同時に茂吉という人間自身の悲哀を伝える。白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか(昭和二十九年)白き人間…白人が先ずみずから滅び、さらに、人類のすべてが死に絶えたあと、地上には幾億とも知れぬ蝸牛が生き残って這いはびこるのであろうか…殺しても殺しても庭に増え、草木と野菜を喰らい荒らすかたつむりを憎みながらも抱く空想である。そうして、その空想を作者に抱かせるものは何か。「庭草むら」と題される中の一首。昭和二十九年「短歌」七月号に掲載。その年三月、太平洋のビキニ環礁でアメリカは水爆実験を行う。それより先、二十八年夏、ソ連は水爆実験の成功を伝えている。人類の死滅への不安を余所に、核兵器の開発がしだいに競い合われようとする。「苔に降る雨の中には伸び々と角をふり行く蝸牛ども」「人間の恐るる雨の中にして見る見る殖えゆく蝸牛幾百」などの作品が先行する。人間の恐るる雨…ビキニ環礁の実験のあとその放射能を含む雨が日本をも降り覆うとも噂された。暗い憤怒の歌。 (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)短歌集(278)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(12)散り果てし桜に雨を吹きつけて暗き一日(ひとひ)をただみだれ居り竹(たけ)煮(に)草(ぐさ)しらじらとして靡(なび)く道試歩する妻と踏切を越ゆほのぼのと紅(くれなゐ)ゆらぐばらの垣やうやく暗くわがふたりゆく限りなくゆかむ吾等にあらなくに漂(ただよ)ふ如(ごと)く萌(きざ)すあくがれ 病(やみ)あとの妻とこもれば草(くさ)土手(どて)をみだし吹きゆく暑き雨見ゆ (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(61)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(6)国二つ呼び交(か)ひ落す雪崩(なだれ)かな国境の谷間へ大きく谺しながら雪崩のおちる雄壮な景。普羅の本領は、山嶽俳句において発揮される。浅間(あさま)なる照り降りきびし田植(たうゑ)笠(がさ)浅間は作者のもっとも愛する山の一つ。三つの母音aを含むその名からして明るい。「決して憂鬱な姿でなく、また憂鬱な周囲をもたぬ」と言う。表面は単純な客観写生の句であるが、浅間の裾に抱かれた静かな美しい山村への愛隣の心は、「田植笠」という触目をとらえた座五の中にこもっている。「照り降りきびし」とは高原の天候の変化をよくとらえている。 (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)昭和萬葉集(巻十三)(159)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(55)生活の周辺(14)生活の周辺(3)阿部 太磯を荒み遊び場のなき島の児は神の鳥居に女(め)の子も登る高橋加寿男唐黍畑の向うに子供らの声とよむプールあり老(おい)いと隔(へだ)たる世界大野誠夫夕ぐれの青きプールにをとめ群れ雨寒しよと言ひつつ泳ぐ佐藤美知子混血児を愛する母なく、黒き手をさしのべさしのべ兎撫でゐる小林和民踏絵など踏みても神は許さむとふ少女の声の明かるきにあふ (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(337)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(39)(前日)肉体的快感を重んじ過ぎたり、それをあまりにのさばらせてはならないのです。肉体はあくなでも召使であって、主人であってはならないのです。(よりつづく)この点でも、キリストみずからが、簡素な節度の、真似のできない手本です。しかもキリストは事情によっては、ほとんど贅沢なほどの敬意をさえ甘んじて受けましたので、そのために、文字通りの禁欲を守りたがる使徒は、キリストに対する信仰を失ったほどです。どんなに信仰の進んだキリスト教徒でも、あくまでも自然な人間らしい生き方をすべきであって、隠者や過度の苦行僧のような生活をしてはならないでしょう。そして人生の価値と使命とを、享楽にも、苦悩や禁欲にも求めないで、もっぱら神の意志と委託に従うところの行いに求めなくてはなりません。よく引用される言葉ですが、ブルームハルト(ドイツの牧師)は賢明にもこう言っています。ひとは二度転向しなければならない。一度は自然な生活から宗教生活へ、次に宗教的生活からふたたび自然な生活(それが正しいものであるかぎり)へ戻らなければならない。しかし、初めの宗教的生活があまりにも行き過ぎでなければ、時にたぶん一度ですむこともあるでしょう。こうした二度の脱皮にあまり長く手間どりすぎて、その間すこしも人に愉快な感じを与えない者も少なくないのです。 (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。最新の教会最初にユダヤ教がありました。次にローマ教会(カトリック教会)が出来、そして新教会(プロテスタント教会)が出来ました。そして最後に無教会が出来きたのだと私は考えます。無教会は新教会(プロテスタント教会)のさらに進歩したものだと思っています。キリスト教は、ついにすべての外見的なものを脱却したのです。いま、世界各国でこの無教会の考えが起こりつつあります。わたしたちこの20世紀の終ろうとするときに遣わされた者は、ルーテルやカルビンやウエスレー等の創設した新教会のいずれの教派にも属さない、いわゆる無教会の考えでキリストの教えを伝えればよいのだと思っています。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.05.31
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5月30日(木)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(86年9月)「余剰なるもの」(2)理由は一つだけである。文芸がもしひとりの人間の「生」と呼ぶべきものの自己表現であるなら、短歌とはその最も直接であり端的である意味での自己表現の型式以外の何ものでもなかったということである。すなわち、そこにはその間に介在する余剰のものは何らない。むしろ、何らないことの上に成立する文芸である。そうして、わたし自身幾度か迷い選択をしようとした他の文芸型式には、それぞれにその何らかの余剰を交えなければならない。そうではないだろうか。たとえば小説という型式の場合、そこには物語ともいうべきどれほどかの設定が必ず入り込んで来なければならないのではないか。そうして、それらのすべての介在を余剰と思う年齢がわたしたち人間に至るのではないだろうか。それは老いの衰えということは別である。それにも拘わらずわたしは作歌と共に絶えず散文の仕事をも重ねてきた。ことに、『青春の碑』を書いたことの上に一つの仕事を通して重ねて来た。今度の『歌い来しかた』もそのひそかな継続と思っている。短歌を詩と言い替えるなら、わたしはわたしの散文を詩を作ることの中のものであるとも心の中に考えている。或いは、詩を作って生きることの上に、といってよい。一面議論めいた文章のむなしさをいつからか思って来た。歌論といってよい。それにも拘わらず求められては書かなければならなかったものがあり、いつかその切抜きが溜ったままとなった。整理して歌論集としたい気持があるが、つい後廻しとなって来ている。多分、三冊ぐらいあるだろうか。そのうち誰か手伝ってもらってと思っている。読み返せばそれぞれに何らかの愛惜がないわけではない。(86年9月) (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(上)(197)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「栄光の都ロンドンの明暗」(24)このようにして、この国の子供たちは成長を遂げてゆくのですが、どう贔屓目に見ても、この国は、およそ物質的な面に関するかぎり、子供らにとって、けっして豊かな国ではありません。成人用の雑誌こそ沢山出ていて、かの『ウーマンズ・オウシ』(”Woman’Own”)などのように、日本の雑誌が、その名をチャッカリ借用している週刊誌なども、すくなくないほですが、子供のための週刊誌や月刊誌を、これまでのところ一種類も見かけない。わずかに形ばかりの小新聞と、年一回クリスマスのプレゼント用に発行される年刊雑誌?が幾種か、目につくのみである。単行本にしたところで、『ロビンフッドの冒険』『不思議の国のアリス』『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』などのような、この国の古典的少年少女文学か、さもなければ、「グレイト・ライヴズ」の名で総称される偉人伝ものや「ナチュラル・ヒストリー」つまり博物の本あたりが、その大半を占めています。(つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(95)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)丸エンピツ(3)身をかはし身をかはしつつ生きたれどあざの如くに禍根を残す30度超えたる影の電線譜ふみつつドレドレソラシドードレドレ朝の陽は壁に判捺す梅花あり八十五歳の誕生日 ああ「鬱うつ」の漢字辞書を開きて閉ぢてなほ確認せむと開きて閉ぢる (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)近藤芳美「土屋文明」より(82)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(7)此のあした雲を抱ける青谷(あおたに)や行かば一日の息(いこ)ひあるべし(昭和二十五年)この朝、青葉の茂り合った山の谷間に、白い雲が沈んでいる。まるで谷が雲を抱きかかえているようである。そのはるかな谷まで登って行けば、きっと今日一日の静かな心の休息があるであろう。川原湯温泉での作という。川原湯温泉は作者の疎開地吾妻川渓谷のさらに上流にある。「雲抱ける青谷や」という擬人法の表現も巧みだが、それ以上に下句の「行かば一日の息ひあるべし」という淡々とした叙述に自然な、老練なものを感じる。「天を限る青き菅尾に次々に朝のしら雲あそぶ如しも」「谷の奥草原に黄なる朝日さし菅尾の雲はやうやく高し」「浴みつつ青葉に眠る夜々を何にうながし止まぬ瀬音ぞ」「燕(つばくら)の峠に見下ろす谷の道雲より遥かなりふるさとの方は」などが一連をなしている。六十二歳となった土屋文明の抒情作品の世界である。戦ひて敗れて飢ゑて苦しみて凌(しの)ぎて待ちし日と言はむかも(昭和二十六年)昭和二十六年九月八日、講和条約が結ばれ、同時に日米安保保障条約も調印された。戦争による占領はそれで形式的には終ったかもしれないが、日本は米国の従属国となる運命をも同じ日に選んだ。その時の作品である。「講和を迎へて」という題であるが、記念のため雑誌か何かに求められて作った一連と記憶する。「よろこびを知らざる国の八年にかにかくにして今日の日到る」「日本に帰らむと食を断つといふ島をこぞりて悲しみに居る」「ひよろひよろと立ち上りたる如くにていづ方に頼り行かむとすらむ」などが前後に連作風につづいている。講和条約の締結されたとき、土屋文明のこの一連の歌の暗い、重苦しい調子は、新しく結ばれた条約の正体と日本の運命とを静かに見詰めている眼を物語る。 (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)短歌集(291)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(11)山霧の吹き来て暗き谷みれば病やみて国いでし君をしぞ念おもふ暮れゆくと思ふしばしにて川波のひびきは暗しこのしがらみにくらやみに眼まなこ覚めゐる二人ふたりにて苦しきことを言ひいづるなりしらじらと硝子がらす戸どとほる光あり夜よをとほし坐すわりゐる妻がみゆ私にあらぬ希ねがひを守り来しわが貧しさは妻が知るのみ (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(60)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(5)駒こまケ嶽凍いてて巌いはほを落しけり木曾駒でなく、甲斐駒を詠んだ。凍てた山容を形容するに、巌の落花する響きをもってしている。もちろんそれが聞こえるはずもなく、比喩と誇張とをもって、山の偉容を詠嘆したのである。奥おく白根しらねかの世の雪をかがやかす白根三山の遠望である。「かの世の雪をかがやかす」がやはり美しい強い言葉である。概念的の言葉であるが、不思議に生きているのは、強い感動に裏打ちされているからである。「奥白根」は、普羅の造語、「奥日光」などという場合に準じて言ったのであろう。 (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木) 昭和萬葉集(巻十三)(157)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(74) 生活の周辺(13)生活の周辺(2)千頭 泰夜の荷役終りし船の燈に照りて岸にしばらく埃ただよふ脇 須美夜といふにはいまだ時ある港内に燈さぬものの影暗く揺る真鍋美恵子せまりたる朱の色の蛾の去りゆきてはげしく倉庫くらの扉が乾く榛はんの木の樹影の網目全身に浴びながらくる牧夫は半裸松本門次郎水にうく躑躅つつじの花をすくふ少女土には捨てず石のうへに並ぶ (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(336)ヒルティ 著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(38)(前日)神のほんとうの命令はことごとく実行できるものであり、それをすべて正確に、文字通り従順にまもることです。そして、「人間のこしらえた掟」は拒むことです。それによって、現代のキリスト教の諸派は新しくよみがえることが出来るでしょう。(よりつづく)また、苦難や禁欲は耐えることは必要ですが、よろこぶ心の傾向は危険です。これは時としてひそかな名誉欲と結びつくことがあります。そういう時はなおさらに危険です。その場合は、いわゆる、ただ一つの悪魔が他のおそらくはさらに手ごわい悪魔によって追い出されるだけです。人間は自分のいのちを投げ捨ててはなりません。自分の中のもろもろの力を漸次なしくずしに見殺しにするというような仕方で、自分のいのちを捨ててはならないのです。肉体的快感を重んじ過ぎたり、それをあまりにのさばらせてはならないのです。肉体はあくなでも召使であって、主人であってはならないのです。 (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。新教会私たちが目指す、無教会という新教会には、まず監督がおりません。牧師もおりません。伝道師もおりません。憲法もありません、洗礼もありません、聖餐式もありません、楽器も教壇もありません。あるのは、ただ神様だけです、イエス・キリストだけです、神様と人とを愛する心だけです。その教会堂は上に蒼穹(青空)を張り、下に青草の布をひいた天然自然です。その礼拝式は日々の労働であり、その音楽は聖霊を感じた時の感謝の祈りです、そしてその憲法は聖書です。監督といわれる人はキリストです、そしてその会員は霊と真(まこと)をもって神様を礼拝する世界中の兄弟姉妹です。わたしは永久にこの教会の忠実な会員でありたいと思います。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.05.30
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5月29日(水)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(86年9月)「余剰なるもの」(1)このところ、いくつかの会で、感想を語らなければならないときに繰り返しわたし自身の思いがあった。それは、わたしが七十歳を過ぎる今日まで長く生き、長く短歌を作りつづけて来たことの上に、ようやく今、歌人であったことがよかったと知る意味であった。歌人である以外の生き方は、振り返ってみて考えられなかったのであろう。遠く少年の日に短歌を作り出して以来、わたしもまた周囲の少年と同様に短歌というこの古風で不自由な定型詩型を幾度となく疑い、或るときは近代詩を作ろうとし或るときは小説を書かなければならないものとした。否、少年の時期を過ぎ、わたしが歌人として生きなければならなかった長い日にも同じである。わたしが『青春の碑』その他の散文を書き続けたのもそうした気持ちが絶えず心のどこかにあったゆえとしなければならない。そうした上で結局短歌だけを最後に作り、歌人であることをみずからの生涯として生きた。寂しみもしたが、それでよかったという思いは老年と共に濃い。 (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(上)(196)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「栄光の都ロンドンの明暗」(23)子供が友だちの家から招待を受けたときも、初めての場合には母親が盛装をして連れ添って行き、何時間かすると、また自分の子を引き取りに出向きます。(否、よほど親しくなってしまってからでないかぎり、招待をする側も、一応は親を通して申し入れます。)招待を受けたほうの子供の親は、訪問のさいにも辞去のさいにも、子供が先方の親に挨拶をするのを傍らで静かに観察しながら、社交上のルールやマナーというものを、それとなしに教えこむのです。日本で、これほど子供のことを時間と手間とを費やす親が、いまや幾人あるだろうかと、些か感激に耽らざるを得なくなるほどに、この国の母親たちの活躍ぶりは目覚しい。 (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(94)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)丸エンピツ(2)這ひ出でしひきがへる弥生の陽をうけて土下座してをり庭の一隅今のわが思惟の如きか砂浜を掘っても掘っても形崩るる二千年の縄文杉によりかかり人の生命の謎ときをするしめりたる落葉の秋を行く心ふくらみてくる茸きのこにょきにょき (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)近藤芳美「土屋文明」より(81)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(6)草をつみ食(く)らひ堪へつついきにしを流氓(りゅうばう)何に懼(おそ)れむとす(昭和二十五年)流氓は他国に流離する民の意。ここでは無論長い疎開者の生活をつづけている土屋文明自身のことである。草をつみ、それを食って戦争と戦後の歳月を生き耐えて来た自分であるのに、今ふたたび何をひそかにおそれようとしているのであろうか、とこの作品は歌っているのであろう。しかし、何を懼れるというのか、それは具体的には語られていない。それは作品の背後に暗く包みかくされている。作者は何に重苦しい不安をいだき、その不安を暗示的な言葉で歌っているのであろうか。わたしたちは昭和二十五年六月、朝鮮戦争が発生したという歴史を思い出すことが出来る。それと同時に日本の戦後史が転換期に立った事をも思い浮かべ得る。この作品に「懼れ」という文字で表されている感情は、その歴史と重なり合うものではなかろうか。吾がために君が買ふ朝の海老五疋(ごひき)虹のごとくに手の上にあり(昭和二十五年)「再三河幡豆」と題された作品。幡豆は愛知県の渥美湾にのぞむ地である。作者は万葉集の安礼の崎や四極山などの地名をこの附近に想定しようとして昭和十九年にも旅行した事が『続万葉紀行』の中に記されている。一首の意味は説明を加えるまでもない。友人が自分のため買い求めた海辺の海老が、虹のように美しく輝きながら今手の上にある、ということである。「虹のごとくに」という形容がこの場合鮮明な印象となって作品を引き締めている。「朝の海老」という言葉の感覚もさわやかである。「此のあした老いしあふちに吹くあらしただ暫(しばし)なる吾がしづ心」「雨の中に散るははかなき楝の葉いにしへ人も見たりや否や」などという歌も同時につくられている。古典への傾倒を背後にした格調の作なのであろう。 (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)短歌集(38)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(10)吾わがつまと二人住みたる跡見れば狭きに莧ひゆのたかだかと立つ吾わがふたり逢あひたる夜よはを松かぜはとよもし吹ききその夜もすがら老いし眼めが泪なみだになりてゆく母の幼子おさなごの如ごとき面おもてにむかふ厠かはやより這はひいで来きたる母を守もり炬燵こたつある室にわれかへりゆくいらいらともの思ふ吾を恐れゐる老いの姿は小さかりけり (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)現代俳句(抜粋:後藤)(59)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(4)茅かや枯れてみづがき山は蒼天に入る「茅」は、茅ケ嶽の略称。固有名詞を二つ(「茅ケ嶽と瑞牆山」)も用いながら、強い気魄で一句として統一をもたらした。「茅枯れて」の近景、「蒼天に入る」の遠景を打ち重ねて、雄渾な山景を描き出している。霜つよし蓮華れんげとひらく八やつケ嶽円錐火山をなしている八ケ嶽の山容を「蓮華とひらく」と形容した。一つ一つの雪の嶽がさながら白い花弁に当たる。イメージが直接的で、強い感動がじかにぶつかってくる。それに「霜つよし」という初五の裸の言葉が響き合う。きびしく美しい霜日和である。 (つづく)
2024.05.29
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5月29日(土) 昭和萬葉集(巻十三)(155)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(53) 生活の周辺(12)生活の周辺(1)四賀光子どこからか黒き貨物車あらはれて枯野の軌道重くとどろくたそがれの冬野を走る貨物車は戸口なくして只黒き箱真下清子はやて吹く街のにごりをつらぬきて屋根に雪ある貨車列過ぎぬ菰田康彦子らの待つ家路いそげば騒音の街に手錠のごと腕輪鳴る竹中皆二吹きわたる生臭き風日ぐれにて軽き廃船の上をも吹きつ (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(335)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(37)(前日)人間はみずからその命令に「木にもふれぬようにとの命令」をつけ加えることによって、誘惑者サタンのためにその望みどおりの状態をつくり出したのでした。そして、人間はその木にふれただけで死ななかったので、神の言葉と称するものがいつわりであることが、事実によって明らかになった、としたのでした。(よりつづく)実際、両親がその子供らに、または教会がその信者たちに、多くの極端な、不必要な命令をあたえながら、それが実行されなくてもしごく気楽にみのがしているのも、やはり神の言葉を誇張するのと同じ誤りをしています。神のほんとうの命令はことごとく実行できるものであり、それをすべて正確に、文字通り従順にまもることです。そして、「人間のこしらえた掟」は拒むことです。それによって、現代のキリスト教の諸派は新しくよみがえることが出来るでしょう。 (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。希望の理由「われらは希望の中に救われたり」(ロマ書八章二十四節)。私たちを救えるのは未来です、過去ではありません。過去にはもどれず、過去を修正することはできません。未来に全てがかかっています。わたしは、キリストにわたしの未来をすべてあずけました。今わたしの全身全霊はキリストに刻々と占領されています。キリストがわたしの全てを占領し終えた時わたしはかれに似て完全となるのです。わたしたちは、完全でないことを嘆いたり失望したりする必要はありません。不完全さこそ未来に希望を持たせる神様の計らいなのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.05.29
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5月28日(火)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(85年2月)今日の「個」(3)そうして、そうはならなかった、と今ではいわなければならないのであろう。短歌も、否、文学全体も、かって一度担わなければならないと知ったものの意味を急速に見失っていくことにより今日に至る歩をたどってきた。今日、短歌でうたわれているのは相変わらず小さな周辺の世界の中での「わたくし」だけであり、その哀歓の範囲をうたい繰り返しているだけでは戦前の短歌とは何か一つ変わってはいないのであろう。否、もし何かが加わっているというのならそれは意匠だけであり、本質は、ひたすら過去への回帰をつづけているのではないのか。わたしはかって「実存的人間」と、「歴史的人間」ということをいい、その限りない内面葛藤を内にすることにおいてのみ逃れられない今日の「個」がある意味を繰り返し書いた。すなわち、短歌が今日の文学とするなら、うたう「個」とはその謂いだけであろう、四十年の歴史はそれを見失う過程であったというのである。では、「未来」はどうだったのか。その反省をだれかがじっと続けていて欲しい。そうでなければ、一体「未来」はそのあたりの結社雑誌とどう違うか。(85年2月) (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(上)(195)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「栄光の都ロンドンの明暗」(22)やれやれ、ちょうどお誂え向きのセリフが出てまいりましたわい。だから、このへんで今夜は失礼仕りたいような気もするが、ついでに、もう少し書き添えておきましょう。この国では、子供に、ひとり歩きをさせないことになっているところから、小学校とのあいだの往き帰りにしても、大抵は親が付き添っています。下校の時刻近くになると、親たちが迎えに来て待っている。しかし、学校の門のなかには絶対に這入らない。フェンスを境に、その向う側は教師の管理する聖域であり、教師に子供らをたくしている以上、親だとて足を踏み入れることも口を挟むことも、いっさい差し控えるべき筋合いにあるとでも観念しておいでなのか、フェンスの外でオトナシクまっておられます。まさに、それは、「信託」という言葉のもつきびしさを、しみじみ感じさせるに足る光景であると申せましょう。親の顔を見つけると、先生がその子の名前を呼んでは親に引き渡す。呼ばれた子供は、先生にサヨナラの挨拶をして親のところに駆け寄る。そして、親子で帰って行くのです。 (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(93)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)丸エンピツ(1)丸エンピツ机の上をころがり出す震度2にも反応もちてのど飴を三日しやぶれば何となくメタボ気になる如月の空索漠(さくばく)といふ空間に佇ちてをり弥生梅園の花咲かぬなか眼下は東海道線 五十年前の夜行列車の揺れがたちくる (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)近藤芳美「土屋文明」より(81)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(5)蚊帳(かや)の中に衰ふる我を襲ひたる虻(あぶ)を刺客(せきかく)の如くに憎む(昭和二十四年)疎開生活五年目の歌。蚊帳の中に衰えてこもる自分を刺しに来る虻がいる。その虻を、まるで刺客か何かのように今憎悪している。そう作者は言っている。刺客は暗殺者の意味。いくらか誇張したユーモアのある表現だが、作品の中に組み込まれたその言葉の効果は、ユーモアなどではなく、もっときびしい、険しい作者の感情の表白となっている。険しいまでの孤独感である。「鰌一疋つかみ静子が帰り来ぬ川人足を吾に代りして」「亡き母を言ひつつ食ふもあはれかな妻の買ひ来しなまり一節」「伐りし木の朽ちて木の子の生ふるまで此の山下に住みとどまりし」などという歌がこのころに作られている。彼の『万葉集私注』は二十四年から相次いで出版され始めた。文明は新しい万葉注釈の原稿を書きながら、なおしばらく不自由な山村の生活をつづけなければならなかったのであろう。子供等に遠き老妻の歎(なげ)かひの今日しも我の怒(いかり)をさそふ(昭和二十四年)子供らと遠く離れて住んでいることを妻がなげく。その老妻の愚痴に、今日だけなぜか激しい怒りが自分の心中に湧き立って来る…それだけの意味の、一見単純な述懐の作品であるが、「今日しも我の怒りをさそふ」という下句の表現に複雑な心情が、屈曲し、たたみこまれている事を感じる。単に妻の言葉に怒っただけではない意味を読み取らなければならない。不意に耐えられない怒りをいだく作者自身も、妻以上に孤独を心に感じているのであろう。「夜寒くなりまさるなり手づからも虎子を清めて冬をまつべし」「眉一つ落ちては何の徴標ぞ自嘲滑稽の域にはあらず」「敗戦を予期して我等より強かりき高島翁も今は世に無く」などの作品が同じ連作をなしている。二十四年の冬。疎開地の谷の村で土屋文明は六十歳を送ろうとしている。 (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)短歌集(282)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(9) ひびかふはやさしきあきの虫にしてうつらふ季(とき)も吾にいたしも焼跡の土より雲母(きらら)ふきちらす風はあかざにひびきつつ吹く老(お)いかがむ母を背負ひて歩みゆく温泉(いでゆ)に下るあつき石道吾(われ)の背に仏の如(ごと)くかがまれり物言ふこゑは其(その)常(つね)の声ゆきめぐる舗道草なかに白く見え照る日こひしき高樹(たかぎ)町(ちやう)のあと (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)現代俳句(抜粋:後藤)(58)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(3)山吹や根雪(ねゆき)の上の飛騨(ひだ)の径(みち)昭和六年作。根雪とは永い間融けずに残っている雪で、固い。根雪の上が人の足跡で踏み固められて、おのずからの径が通じている。「根雪の上の飛騨の径」という「の」を打ち重ねた用法がおもしろい。彌陀(みだ)ケ原漾(ただよ)ふばかり春の雪春雪に覆われた彌陀ケ原が縹緲として作者の視界にひらけてきたのであって、驚きのこもった詠嘆である。おそらく富士から見た遠景ではないかと思う。彌陀ケ原をみたことがなくとも、「彌陀ケ原漾ふばかり」という十二字の持つ美しさは、誰にも感得できる。「春の雪」の座五に心にくいまでの作句の練れを感ずる。「春の雪」の点睛があって句が立体的な彫りの深いものになる。 (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火) 昭和萬葉集(巻十三)(155)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(52) 生活の周辺(11)乗ものの歌(3)田中順二搭乗の人のさま見えて廟あはひをよぎりてさびしヘリコプターは宇井幸子踏みしめて登り来たりし鉄階段は軽々として引き上げられぬ伊吹高吉危うくて気流のままにゆるるとき隣り合ひしが初めてもの言ふ清水晴代雄大積雲あらはれてきぬ機上より手をさしのべむ錯覚におつ (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(334)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(36)(前日)発刺とした感受力は、いまだそこなわれない情操のたしかなしるしであり、とりわけ青春時代を清らかに過したことを示すものです。つまり、人生のまことの清純な悦びを味わう感覚を、汚れた享楽によって早くから鈍らしてしまわなかったということを証明するのです。(よりつづく)また、肉体的生活を過度に抑圧することも、たしかに内的進歩にとっては利益にならないでしょう。それは、神の命令でもありません。むしろ、そうした過度の抑圧はただ人間のなす業(わざ)で、なんら値打ちのないものです。聖書の聡明な注解者が実に正しいことを述べています。つまり、人間の力をよく知る、適度の神の命令を、人間はつねに誇張して受けとる傾向があるのです。たとえば、信仰の従順をためす最初の試練に関する旧約聖書の物語において、神は人間に対して善悪を知る木に触れてはならないと言ったのではなく、その木の実を食べてはならないと命じたのでした。ところが、人間はみずからその命令に「木にもふれぬようにとの命令」をつけ加えることによって、誘惑者サタンのためにその望みどおりの状態をつくり出したのでした。そして、人間はその木にふれただけで死ななかったので、神の言葉と称するものがいつわりであることが、事実によって明らかになった、としたのでした。 (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。神の言辞(ことば)神様は人の言辞(ことば)をもってはわれわれに語ってくれません。神様はわれわれに事実でもって示されます。ある時は災難であったり、ある時は病気であったり、ある時は悪人を近づけたりします。そうして、神様の聖意(みこころ)をわれわれに伝え給うのです。事実には深い神様の聖意(みこころ)が隠されています。しかし、隠れた神様の聖意(みこころ)を理解するのは大変なことです。七転八倒の苦しみを数ヶ月続けても理解できないことがあります。しかしひと度神様の聖意(みこころ)を理解することが出来たら、青空に一点の疑いの雲がなく晴れ渡ったような心持となります。ですから、沈黙にまさる雄弁はないのです。事実をもって語り給う神様の言辞(ことば)の深遠な意味は計り知れないものがあるのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.05.28
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5月27日(月)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(85年2月)今日の「個」(2)そのわたしたちは、第二次世界大戦というわたしたちのすべてを巻き込む戦争を歴史体験として生きて来た。戦後四十年とはそういう意味である。その体験の上に、人間は何かを知ったはずであり、すくなくとも内面の何かを否応なく変えていったものと思ったことがあった。戦後の廃墟の上に生きて立った日であった。同様に文学も変わると思った。否、変わらなければならない切迫の中に立ったと思った。何か。戦場の生死の極限に立たされて知った人間の「個」の孤絶世界の意味と共に、その「個」が、もはや人間ひとりの「個」ではあり得るはずはなく、それは組織とか国家とか政治とかないしは歴史という外部世界とのがんじがらめの関わりにある運命的なものであると逃れようもなく知ったことであった。戦後の文学はその地点から始まり、その意味でのみ戦前の文学と隔絶するはずであった、と、少なくともその日にだれしも思った。短歌もまた、もし第二芸術論などにいう如く滅亡する運命のものではないとしたら、同様な意味を担ってのみ戦後短歌としての歴史を歩むのであろうとひとしく人は考えたはずである。 (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(上)(194)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「栄光の都ロンドンの明暗」(21)そこで、つぎに、もうひとつ見聞したことを紹介しておきましょう。ある日、わたしは、この国で言えば中流にあたる一家庭から、お茶の時間に招かれました。ちょうどその日は、その家の坊やも、彼の友だちを招待していたらしく、四時きっかりに子供のともだちがやってきた。両親も、わたしへの接待の傍ら、わが子と一緒になって暖かくその友だちをもてなしていた。そして、その子が帰り、自分の子も広間から姿を消したのち、初めてつぎのような会話が、両親夫婦のあいだに持ち上がったのである――。まず、父親のほうが口火を切った。「うちの子は、三時にと約束したように言ってたネ。それなのに、あの坊やは四時ちょうどに、やってきた。これは、うちの子の時間の伝え方が曖昧(あいまい)だったのではなかろうか。うちの子には、とかく物事をハッキリと伝えないという欠点が、ありはしないか。毎日接していて、そんな気がしないかい?もしも、そのような欠点があるとすれば、これは、いまのうちに直しておいてやらないといけないよ。」 要するに、日頃は子供を野放しにし子供の教育に無関心でありながら、いざとなると、「そんなことは学校で教えてくれたらよい。そのためにこそ学校に通わせているのではないか」などと、尤もらしいことを仰ったり、子供が学校から泣いて帰るようなことがあると、理由をも確かめないで、ただもうヤケに逆上遊ばされ、「先生の監督不行届だ」だの「もともとアノ教師は、ウチの子に妙に冷淡だ」だのと、目の色かえて学校にねじこもうとなさる、どこかの国の親御さんの一部に見られるような、家庭無責任、学校不信任の風潮などというものは、この国に関するかぎり、見たいと思ってもついに見ることができないらしいのであります。(つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(92)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(5)爆撃に逃げ生きのびし三叉路か自販機ひとつ灯りを照らす三十五度の灼けつく石の上走るトカゲ親子のつやつやとして赤紫の色で飾れるさるすべりたびたび地震に揺すらる魂天あま霧ぎらふ富士に向ひて飛びたちし小鳥追ひをり熱きまなざし「無理するな」とさとす声とも聞こえくるカナカナ二つリズム合はせてほろりんと落ちて死にたき 凌霄花のうぜんかづら垣根覆ひてシャンデリアなす (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)近藤芳美「土屋文明」より(80)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(4)はる山に相よろこべる鳥の声その世界にもはや入りがたきかな(昭和二十三年)春山に嬉々としてさえずり合っている小鳥らの世界にも、今は無心なよろこびで入り得ない自分の齢である…そういう気持ちを歌った作品なのであろう。老年の悲しみを呟く歌であるが、それが一種甘美な感情と重なり合っていることに気づく。「はる山に相よろこべる鳥の声」という上句の表現のためである。一歩あやまると甘く流れる表現を、わずかに支えているような技巧の老練と、その老練の上に立った放胆さを感じさせる。伊藤左千夫に「天地のなしのまにまに黙し居る山もはれては笑める色あり」という作があるが、その下句などと通うもののある表現といえよう。「こころひそかに求(と)め来りつつ再びの木の芽にたふるあはれなりけり」「ゆふ山に青葉くぐれるいかるがのするどき声は吾をおそれしむ」などの歌が並ぶ。いずれも悲哀感がほのかな明るい色彩の中に歌われている心境作品である。いかにありし我とその夜を思ふにもああをとめらの一人だになし(昭和二十三年)その夜、どのようにしていた自分だったのであろうかと思うにつけても、あゝ、その時の少女らの一人すら今いない…「或る追憶」という小連作の中の一首。「しらじらし月は出でむと夜ふけたる柵の上にはふるる露あり」「たれもたれも幼き声のたかぶりにとりとめのなき時のすぎにき」「絶えて見ぬ四十年なれば目につきて我に思ほゆにこ毛たつ手の」「すがすがと老い来りしにあらなくに顧るはあやふき細道なすよ」「玉かぎる風のたよりといふことも心にぞしむいまは亡きかも」「道の上のゑまひもとはと言ふならばわが目の前の山の間の霧」などという作品が互いに並んでいる。どのような事実がこの追憶の連作の背後にあるのだろうか。それはもはや作者だけが知っている事であり、心に固く秘めているだけのものなのであろう。四十年の過去の思いを歌うこの一連の作品の中に珍しく作者のたかぶりの感情が読みとれる。 (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)短歌集(287)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(8)茂り立つ雑草あらくさなびけ来きたる風子規しきのみ墓にただざまに吹く七月のてる日吹く風あきらかに吾は来て立つ子規のおくつき君がみ骨しづまる地つちもただやきて焔は吾の家に及びき墓山をこえ来てここに草繁しげる吾家わがいへの跡もいたづらにすぐたぎつせと流るる雨は見附みつけにておち合ふときに白波を立つ (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(57)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日前田普羅(2)春雪しゆんせつの暫しばらく降るや海の上単純な景色を単純に言い取ったのだが、それでいて捨てがたい。海の上を音もなく降る春雪…何の奇もないが、何となく人の気をそそる。「海の上」というさりげない結びが利いている。雪解ゆきげ川かは名山けづる響かな「名山けづる」とは気負った表現である。「響かな」という座五が非常に力強い格調を持っている。「名山けづる」が「響きかな」によって、不自然に感じない。雪解時の滔々たる推量の押し流される雄壮な響きをとらえたもの。 (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)昭和萬葉集(巻十三)(154)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(51)生活の周辺(15)乗りものの歌(2)山本かね子一様に傾かしげる人を窓に見せ夜の坂を寂しきバス発ちゆけり千頭 泰橋畔に降ろししバスも降りし人もしぐれふり来る橋渡りゆく志連政三魚売りの若狭わかさ女が朝のバスに若狭の雪を負いて入りくる島田幸造手ぶらにてバスに乗り来しチンドン屋の化粧落さぬ顔に真向ふ (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(333)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(35)(前日)享楽欲を生活原理としないなら、いやでも働くほかにないのです。なぜなら、ひとは働かなければ、この世はあまりにも味気ないものとなるからです。ところが、享楽欲が行為のもっとも深い動機となるならば、仕事はつねに享楽をえるための単なる手段となるのです。それは、実にいとわしい手段です。(よりつづく)しかしわたしたちはこうして享楽を断念すれば、強いて求めなくてもおのずから、美しい自然や、朝夕のさわやかな変化や季節の移り変り、家庭生活、真の友情、高貴な芸術や学問、自国民の生活と繁栄、さらには無邪気な動物の世界、わけても人類の全領域に行われる偉大な活動や善き行為などをよろこぶようになるが、このような発刺とした感受力は、いまだそこなわれない情操のたしかなしるしであり、とりわけ青春時代を清らかに過したことを示すものです。つまり、人生のまことの清純な悦びを味わう感覚を、汚れた享楽によって早くから鈍らしてしまわなかったということを証明するのです。 (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。愛の長短沙翁(シェークスピア)の言葉に「少しく愛せよ、しかして長く愛せよ」というのがあります。一時に多くを愛する人は長くは愛せない人です。熱烈な愛は賞賛すべきですが、その短いことが欠点です。愛は生命と同じです。その情熱よりむしろ長くつづくことが貴いのです。わが日本人の性質はどちらかといえば情熱的な短い愛が多く、長くつづく愛が少ないと思います。非常に残念なことです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.05.27
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5月26日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(85年2月)今日の「個」(1)例年のように、新聞の、新年詠などを作らなければならない日が来る。その新年詠を考えているうちに、四十年、ということばがふと心を占めた。戦後とよばれた日から四十年が過ぎたという思いである。あるいは、日本が、「大日本帝国」の滅亡ののち「日本国」と生まれ替ってからといえるのか。その間、わたしたちはこの国に生き、その時代を生きる時代とし、さらに、短歌作者であるために、その生きる時代の上に短歌を作って来た。歴史ともいえるし、短歌史ともいい得よう。 (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(上)(193)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「栄光の都ロンドンの明暗」(20)尤も、団欒中の一家のほうもドライそのものであり、お隣で幼児がひとり遊びするからといって、心づかいや気がねは、いっさいしない。終始なんのこだわりも見せずに、お茶のひとときを嬉々として打ち興じている。要するに双方に、じめじめしたものがないのです。オヤ、また脱線をしてしまった。君たちよ、きょうの手紙は、子供の躾かたのお話が主題なのよ。 (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(91)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(4)描く夢すてる齢と思へども生ある限り背にへばりつく食べ物の数の豊かさに慣れし子よ父はたくあんにお茶漬けが好き消費税値上げの論議続くなか庭のつつじは色あせはじむ月末は古新聞を束ねつつわが日月をともにすて去る外灯にあかりともれば蝉ひとつまことしやかに鳴きはじめたり (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)近藤芳美「土屋文明」より(79)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(3)潮を煮る小屋掛も多く捨てられぬ集めし薪乾く午(ひる)ごろ(昭和二十二年)「土佐雑詠」と題されている。二十二年の秋、土屋文明は高知県に旅行した。そのときの作品であり、高知から室戸崎にむかう途中の土佐湾の情景によって作られたものなのであろう。海岸のなぎさには潮を煮る小屋掛けがいたるところ朽ち傾いて残っている。戦争末期から戦後にかけて、そのようにして塩を得ようとした貧しい営みのあとである。平明な叙景歌であるが、作者が歌おうとしているのは単なる風景だけではない筈である。荒涼とした世界にむかう寂寥感が、沈んだことばでうたわれている。「敗戦の話はここもあはれにて盗みて逃げし隊長にくむ」「若き兵死地にむけたる士官一人土橋にかくれ生き居りし話」などの歌も同時に作られている。日本のどこに行っても、敗戦の悲しみはまだなまなまとした現実として生きていたのであろう。そのような日を背景にした作品として味解すべき一首である。朝(あした)来て夕べ又来る泉の上月のあたりは白きうす雲(昭和二十二年)朝来た泉のそばに、夕方またたずねて来る。峡の空にいつか出ている月に、白いうすぐもが静かにひろがっている…疎開生活も足掛け四年に入る。「疎開人かへりつくしし春にして泉の芹を我独占す」などと歌われているように、狭い谷の村に幾人か住んでいた疎開者らも、いつか次々に立ち去り、残るのは自分たちだけになっている。「食ふなき韮を惜しみて分たざる村人を憎まむかはた肯ふべきか」と歌うように、今の生活が必ずしも満足なものではない。しかし、東京に帰るべきあてもない。そうした感慨が静かな述懐として歌われた作品である。どこといって目立ったところのない歌であるが、その表現技法に行きとどいた配慮がなされているのは他の場合と同様である。「おそれつつ冬すぎにきと登り立つ楚(しもと)光りてつばらなる芽ら」などの地味な秀歌がこの前後には多い。 (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)短歌集(273)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(7)見下ろせば夜の潮のたゆたひのただゆたかなる光なりけり天あまつ日に貝がら光る草生くさふゆき立つかぎろひの中に息づく峡はざまよりかつこうひびく日暮れ時父亡なき家にけふはかへりぬ いくつか残りし硯すずりとり撫なでて今いま更さらに亡き父の恋しも (つづく)
2024.05.26
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