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今日は東京マラソンの日でしたね36000人と言う市民ランナーが都内の一等地を駆け巡るマラソンで、とても人気のある大会です。走りたくても競争率が高いマラソンで、毎年抽選になっています。(倍率は10倍以上とか・・。)確実に走りたい人は10万円以上の寄付をすると出走資格を得ることのできるチャリティー・ランナーという形での参加が今年からできたそうです。このチャリティー・ランナーは個人のみで法人参加はできませんが、今年は700人がこのチャリティー・ランナーとして出走したそうです。(一人最低10万円としても7000万円以上が集金できたわけですね。)ラッピング・カーを考案したのも都庁ですが、なかなか集金がうまい都庁です。これも石原都知事になってからの改革の賜です。今年の都知事選には出馬しないと言われていますが、できれば引き続き都知事として残り、もっともっと改革してもらいたいな・・と思うのです。さて、なかなか集中してできないのでおこたりがちなブログ更新。今回はすでに紹介しているサグラダ・ファミリアを建築した建築士として世界的に有名なアントニ・ガウディの手がけた集合住宅です。前回紹介した19世紀末の「バルセロナの都市再編」のおりにガウディは個人邸宅や高級アパートの建築を数件手がけています。今回はその中のカサ・バトリョを紹介しますが、実はかなり前に一度簡単に紹介していました。今回は外装の写真をふんだんに入れて紹介のやり直しです。カサ・バトリョ(Casa Batlló)スペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)グラシア(Gracia)通り43番地建築主 ホセ・バトリョ・・・繊維会社を経営建築家 アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí i Cornet")(1852年~1926年)改築の工期 1904年~1906年1904年・・増改築申請年1906年・・アパート階の賃貸許可申請年建物じたいは1870年に建築、その改築以来をガウディーが受けたわけです。カサ・バトリョの隣にはプッチ・カダファルク作のカサ・アマトリェルが建っていて、ホセ・バトリョはそれに負けないように邸宅の改築をガウディに依頼したと言われています。写真左の建物がカサ・アマトリェルです。参考に・・カサ・アマトリェルプッチ・カダファルク(1867年~1956年)カサ・アマトリェル建築年1898年~1900年。こちらの建物は1階だけ見学でき、1階奥に売店とカサ・アマトリェルの建築について解るディスプレイなどが展示されています。こちらの入場は無料。カサ・バトリョ(Casa Batlló)前入場のチケットを買うための行列がいつもあります。この建物は隣のビルと連結している狭間地にあり、間口は割に狭いのです。幅16.4m×奥行き60m季節により外装のタイルの色も違って見えるのです。写真は9月のものですが、この季節の写真が一番綺麗に出ているかもしれません。旧館は、地下1階、地上5階の木造梁のレンガ建て。改築後は、地下1階、地上6階+屋根裏の構造に増築。地下と1階・・・・・貸店舗と倉庫。2階・・・・・・・・・・・建築主の住宅階。3~6階・・・・・・・・アパート階。7階(屋根裏)・・・倉庫や洗濯室などのサービスエリア。改築と言う簡単なものではなく、全面的な改造となったようです。既存の壁構造をそのまま残し、木造の梁を補強すべく鉄骨も使用。ガウディ自身はこれを「木筋コンクリート」と称したそうです。内部は「木筋コンクリート」かもしれませんが、1階アーケードと2階ギャーラリーはモンジュイック産の砂岩で装飾。上階の壁面はレンガ造耐力壁に波を打たせてからモルタルで下地し、円盤タイルと破砕色ガラスを貼り付けている。バルコニーは鋳鉄製。屋根は施釉瓦ぶき。もう少しまとめたいのですが、眠くて思考力が無いので今日はここまで載せておく事にします。つづく
2011年02月27日
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昨年夏頃から始めたネット・ゲームのせいで恐ろしく忙しい毎日です。一日の生活サイクルがほぼ決まってしまうのですつまり、予定外の事が起きるとしわ寄せする訳ですから、毎日が超タイトなわけです。今はまっているゲームはチーム制になっているので、途中離脱は出来ません。終了まで共にがんばらなければならないのです。ゲームの世界もいろいろ人間関係があります。最も、迷惑かけないようにやるのはどこの世界でも常識ですねそれにしてもネット世界の人間関係は面白いと思います。年齢性別がわからない中でのやりとりです。私のメル友の中には高校1年生の男の子や小学4年生の兄弟もいたのです全然年齢が見えない所が実に面白いしかも日本全国の方と毎朝メールで会話をしているのです。つくづく世間は狭い? いえ、近いな・・と思うのですさて、前に紹介したとおり、ランブラス通りからカタルーニャ広場を通り、今回はグラシア(Gracia)通りに入ります。グラシア(Gracia)通りスペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)この通りではガウディの作品であるカサ・ミラ、カサ・バトリョがありガウディのデザインした街灯を見ることができるのです。前に紹介した地図から位置を確認してね。再びカタルーニャ広場旧市街地と新市街地の境界、バルセロナのほぼ中央に位置しています。上の写真の黄色のトンガリ屋根のあるビル前がグラシア通りです。広場と言ってもコンサート・ホールにもなるだだっぴろさは、5ヘクタールの面積があるとか・・。バルセロナの都市再編1854年市を取り囲む城壁が取り除かれた後、バルセロナの都市再編の機運がたかまり、市は1859年技師イルデフォンス・セルダーの「バルセロナ近郊の再生と拡張の為の計画案」をもとに新しい拡張地区の計画が実施されます。それにより並木を含む幅20mの道が碁盤の目のように街区を形成。他都市へは幅50mの大通りが造られ、その拠点とされたのが前出のカタルーニャ広場なのです。前回紹介していたランブラス通りはバルセロナ港のウォーター・フロント地区を結び、今回紹介するグラシア通りは北西方面の山の手に伸びてディアゴナル通りにぶつかっています。残念ながらグラシア通りはそこでとぎれていますが、そこをさらに北上するとグエル公園のある丘陵に繋がるのです。因みにディアゴナル通りはマドリッドやバレンシアなどに向かう幹線道路です。1888年万国博覧会がセルダーの計画の上、シウタデラ要塞を取り壊した跡地で開催された時、バルセロナは地方都市から世界的コスモポリタンな街に生まれ変わったそうです。これら都市再生の計画の中心にガウディら、建築家達が必要とされ、需要を満たす為に建築家や建築工匠の育成にも力がそそがれたようです。グラシア通りブランド店が並ぶなど、ここはバルセロナのシャンゼリゼ(パリ)と呼ばれているそうです。日本で言うと、表参道と行った感じの通りです。バスからの写真なので、フロントガラスのブルーが気になりますが、写真三軒目がガウディの作品、カサ・バトリョです。カサ・バトリョについては、次回詳しく紹介しますが、この建物はもともとあった既存のビルを改築したものだそうです。ガウディの作品、カサ・ミラカサ・バトリョに続いて建築されたこの建物は、サグラダ・ファミリアの工房でプロジェクトが進められていたそうです。バルセロナの人々は「ペドレラ(石切場)と揶揄したようですが、建築史家ヘンリ・ラッセル・ヒッチコックが「20世紀における最も予言的な建築作品の一つ」と評したように他に類のないデザインは建築分野からみると住宅作品の傑作とされているそうです。別の回でまた紹介しますね。ガウディの作品、街灯・・元はガス灯だったようです。街灯の説明の載っている資料が見つからず制作年がわかりませんが、街灯のデザインはアールヌーボーです。(スペインではそれをモデルニスモと呼んでいます。)美しいアイアン・ワークの植物と実のような電灯部分のデザイン。そして下のベンチは自然に一体化していて、ガウディらしい作品になっています。下がベンチになっているこの街灯は、実用として今もこの通りに何カ所か設置されているのです。バルセロナにはガウディのデザインの街灯が二つあり、もう一つがレアル広場の直線的な街灯です。(写真は今回ありません。)次回はいよいよカサ・バトリョです。
2011年02月21日
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書き込み追加毎日訪問して下さる方、遅れがちでゴメンナサイ m(_ _;;m 写真選択、書き込み、など最近一日では完成できなくて・・。今回はコロンブスの塔あたりからの湾岸の景色を少し紹介します。(今回紹介するのは残りの200度くらいの範囲です。)ランブラス通り(Las Rambla)スペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)コロンブスの塔からポルト・ベイ(Port Vell)他アラゴン・カタルーニャ連合王国コロンブスの塔はバルセロナのベイ・エリアです。観光客はあまり来ない場所ですが古くから貿易で成功していたバルセロナの玄関にあたり、税関もここにあるのです。下の写真右がバルセロナ港のハーバーです。海はもちろん地中海です湾岸を走るコロン通り。この通りの左側がゴシック地区。写真左の建物、GOBIERNO MILITAR と書いてあります。軍関係でしょうか? 地図にも明記されていません。このコロン通りのカーブしている先にフランスからの列車が到着するフランサ(Franca)駅があります。因みに市内最大のターミナル駅は現在はサンツ(Sants)駅。コロン通りに平行して道路は一部地下を走っています。湾岸の道路の混雑回避でしょうか?写真のハーバー前の建物も不明。ホテルかレストランかも・・。ポルト・ベイ(Port Vell)ヨットハーバーの向こうに広がる埋め立て?の島がベイ・エリアとして再開発された地区。桟橋を渡ると巨大ショッピング・センター(マレマグナム)、その隣が幾つかの映画館が寄り添ったシネマコンプレックス。そして水族館があるようです。ちょっと分かりにくいのですが、バルーンの向こう側に見えるビルのあたりがバルセロネタ地区。その海側は海水浴のできるビーチになっているようです。ランブラ・ダ・マール(Rambla de Mar)・・・遊歩道のような桟橋写真は海正面を飛ばして右に・・方位的には塔から南南東方面に。塔の後ろは、ワールド・トレード・センター。方位は南南西から西に・・。 (西日の上にガラス越しで綺麗に撮れていませんが・・)写真に見える小山が1992年のバルセロナオリンピックのメイン会場となったモンジュイックの丘。標高173m。コロン通りの先に見える円は地下を走る車の出入口になっています。コロン通りの左に見えるのがバルセロナ税関の建物。右に見えるのが海洋博物館。海洋博物館は1378年に建設された王立造船場だそうです。バルセロナからアテネに至る地中海を支配して広大な領土を支配していた在りし日の栄光のたまものです。バルセロナ税関・・桟橋、ランブラ・ダ・マールから税関の建物海側を撮影アラゴン・カタルーニャ連合王国カタルーニャの大きな発展は1137年のアラゴン王国との合併です。すでに手工業、商業、海運業で成功していたカタルーニャは小国でした。カタルーニャ王子ラモン・バランゲー4世は内陸にある大国、アラゴン王国の跡取り娘と婚姻が決定。そこにアラゴン・カタルーニャ連合王国が出来るのです。とりあえずラモン・バランゲー4世はアラゴン王に。しかし、両国は合併したわけではなくそれぞれの国はいずれ彼らの子孫が王位を継ぐ事になっていたようです。当時、交易は海軍力に比例します。アラゴン・カタルーニャ連合王国が地中海交易に成功して右肩上がりに勢力をのばして行くのです。カタルーニャの衰退・・・それは所謂大航海時代・・に起因します。15世紀末にポルトガルが東洋に航路を開き、オランダ、イギリス、フランスの商隊が大西洋やインド洋に進出するようになると世界は一変。交易は地中海から世界に・・。地中海交易で利益を上げていたカタルーニャは、世界に出る力がなかったそうです。よってカタルーニャの地中海の交易は衰退。カタルーニャの商工業も急速に衰退。国内では飢饉やペストが蔓延し国の衰退に拍車をかけたそうです。カタルーニャの消滅?こんな中、アラゴン・カタルーニャ連合王国のフェルデナンドはカステーリャのイサベルと結婚。今度の結婚はアラゴン・カタルーニャ対カステーリャです。アラゴン・カタルーニャ連合王国は一つの国家として統一に進み、結果カタルーニャはスペインと言う国の一部になって消えてしまう事になったのです。税関とモンジュイックの丘・・桟橋、ランブラ・ダ・マールから撮影ランブラス通りは・・終わりです
2011年02月19日
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夕刻から降り出した雨はいつのまにか雪に変わり、今回は溶ける事もなく街を白銀の世界に変えています。豪雪で困っている方にはもはや観賞などないでしょうが、東京で今年見る2度目の雪に、少しワクワクしています。雪は迷惑の方が多いのでしょうが、ほどほどであればとても美しいものです。汚れた物全てを塗りつぶしてしまうのですから・・・スペインの首都はマドリードですが、実は経済も芸術文化でもバルセロナの方が上なのだそうです。バルセロナは中世より栄えたカタルーニャの首都です。もしかしたらイベリア半島にはスペイン、ポルトガルの他にカタルーニャと言う国が存在していてもおかしくはなかった・・。イスラムの支配を受けていたイベリア半島にはいろいろな事情があったのです。言語も標準スペイン語がカスティーヤ語なのに対して、バルセロナではカタルーニャ語が使用されています。同じラテン語から変化した言葉とは言え、両者にはかなり違いがあり、ここバルセロナでは二つの表記がされているそうです。ランブラス通り(Las Rambla)スペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)コロンブスの塔ランブラス通りを警戒するポリス最近はテロが増えたので観光地での警備をしっかりやっているようです。スペインはスリやひったくり、置き引きが多く、観光客の為? かと思ったらそうではなかったようです。でも、ポリスが増えて結果的にドロボーが減ったと言います。まずはコロンブスの塔の上から見たランブラス通り(Las Rambla)からです。カタルーニャ広場から伸びているランブラス通りは海に面したコロンブスの塔で終点です。上からの景色は後ほどのちほどまた紹介しますが、この道の右手に方向にサグラダファミリアがあり、実はほぼこの道沿いにガウディの建設した有名なグエル邸があるのです。赤丸で囲った所です。コロンブスの塔からはわずか5分程で到着できる? ロケーションだったのですが、ガイドさんも紹介してくれなかったので、非常に残念な事に行っていないし、当然写真もないのですグエル邸(Palacio Guell) 1886年~1890年ガウディのスポンサーであった繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエルの為に建設された邸宅の一つで、当初は本館に接続した別館として建設。完成後にはこちらが本館として利用されています。この館を相続した伯爵の令嬢がアメリカの富豪に売却するのを拒み、わずかな年金を条件にバルセロナ県に寄贈した為に1954年より県立演劇博物館になっているそうです。(写真がないのでさわりだけね。)コロンブスの塔1888年のバルセロナ万博のさいにアメリカとカタルーニャの交易を記念して建てられたコロンブスの塔は、高さ60m。スペインの英雄コロンブスです。スペイン中にコロンブス・・・の名前を冠する記念碑やらなにやらとたくさんあります。2010年3月 「 スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所)」でコロンブスのお墓を紹介した時にコロンブスについても紹介していますからそちらを見てね。塔には展望台があり、エレベーターで登る事ができます。でも狭いのでエレベーターは4人程度、上も8人程度しか登れません。再び展望台からです写真左の並木がランブラス通りなので、並木の右側はゴシック地区と呼ばれる昔城壁の中にあった地区です。写真の矢印はサグラダファミリアです。つづく
2011年02月14日
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大阪に一週間程滞在して用事をすませてきました。パソコンは持って行っていたのですが、時間がとれなくてUPできず少し空けてしまいました勉強の時間もとれないので、今回は前回紹介したバルセロナの旧市街地に位置するランブラス(Rambla)通りを少し紹介しようかと思います。そして次にカタルーニャ広場の向こうグランシア通りにあるガウデイの建築した集合住宅を紹介予定です。ランブラス通り(Las Rambla)スペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)写真右下がバルセロナ港。写真左がモンジュイックの丘一部イエロー・・・・・・・カタルーニャ広場オレンジ・・・・・・・ランブラス(Rambla)通りスカイ・ブルー・・グランシア(Gracia)通りカタルーニャ広場広場の完成は1927年と割と新しく、日本で言えばホコ天になった銀座の和光あたり・・と言うところ?まわりはデパート、ホテル、銀行、等の商業施設がならぴ゛、この広場ではコンサート、展示会などのイベント会場として利用されるそうです。ランブラス通り(Las Rambla)カタルーニャ広場から海側のコロンブスの塔まで続く全長1.2kmのプラタナスの並木のある通りがランブラス(Rambla)通りと呼ばれています。前回紹介したようにボケリアの市場が途中あるだけでなく、広めの歩道にはカフェテリア、花屋、鳥屋さんなどが立ち並ぶ賑やかな通りとなっています。カタルーニャ広場からランブラス通り入り口人の歩く歩道がメインにあり、その両サイドに車が通れるようになっているのが特徴です。カタルーニャ広場の近くにはなぜか鳥屋さんが多かったようですが、最近は減ったと言います。カタルーニャの全盛期は13世紀頃でその頃旧市街は城壁で囲われたそうです。上に紹介した地図の通りの右側の地区はゴシック地区と呼ばれかつて王宮があり、大聖堂のある古くからのバルセロナの中心地なのです。ランブラス通りはその城壁の西壁に沿うように存在したバイパスのような通り道として発展。つまり19世紀末に取り壊されるまで、この通りの東側には旧市街の城壁が築かれていたと言う事になります。前回紹介したボケリア門はその城壁の門の一つで、それは今のカタルーニャ広場よりにあったようです。ランブラの由来ウィキペディアによれば、「ランブラ」はカタルーニャ語で一時的な水路、 アラビア語でRamla(砂の川床)に由来する言葉だそうですが、実際この通りは大雨の時にだけ水がたまる涸れ河だったそうです。普段水のない川床は、人や馬の通りには適していたようで、また市内を抜ける道が混雑する為に抜け道的に使われる道として賑わったようです。ここは花屋さんの多い場所・・。店は職種でかたまるようです。現在はなぜかパフォーマーが多い。下はオブジエではありません。観光客が捕まっています。空中浮遊。近くで見てもわかりません。これは想像の範囲です。次回はコロンブスの塔から。
2011年02月12日
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Break Time (一休み)スペイン、バルセロナの市場で見つけた写真を紹介します。それは日本人から見るとちょっと残酷に映るかもしれないけれど、欧州ではあたりまえのように見かける光景で、そこに我々日本人とはそもそも文化の根本が違うのだ・・と改めて感じるのでした。彼らはまぎれもなく狩猟民族出身者です肉屋の子豚スペイン、バルセロナの旧市街地に位置するランブラス(Rambla)通りにあるサンジュゼップ市場からの紹介です。この市場。またの呼び名ボケリア(Boqueria)。それは中世の市壁の一つ、ボケリア門に由来すると言います。そして、このボケリア市場の前身となるボケリア門の前の最初のショップは肉屋だったのです。サンジュゼップ市場(Mercat de St.Josep)バルセロナで最も巨大な市場は、その歴史はとても古く、バルセロナの市民に最も人気の市場として知られています。1217年には市壁のボケリア門で肉を売る屋台が置かれていた記録があるそうです。中世の市は、販売する商品により専門の売り場所がある程度決まっていて、現在のように一カ所でいろいろな品が買える事はなかったようです。実際初期のブドウの取引は、サンタアナ広場で行われ小麦の取引はノバ広場で行われていて、それがランブラ通りに移動させられた記録が残っていると言います。近隣の村のみならず、カタルーニャ全土から農作物やいろいろな商品が運びこまれ、市場はどんどん拡大、スペース的に市壁の中でおさまらなくなると市はおのずと市壁の外に・・。最初から市壁の外にあった肉屋を中心にいろいろな商品の取引はボケリア門の門前に拡大して行ったようです。そのボケリア門は1777年に取り壊され、その後市場は多少場所を変え、かつ商品の種類も前よりも増えて拡大し、今日のランブラス(Rambla)通りのところに屋根付きのコートができたようです。こんなところに巨大市場? と思うロケーションですが、歴史を知るとなるほど・・。ここは市場の中でも特に象徴的な市場として知られ、観光客も必ず訪れるのだそうです。900年近い市場の歴史を持つボケリアですから、その市場で働く商人たちもまた世代交代を経て代々続いた人たちばかりで、3世、4世といった人達が店を出しているようです。生ハム、ハモンセラーノがまるごと吊り下がっている光景はスペインならでは。特に熟成したハムがハモン。そして問題のかわいそうな子豚生ハムの素材にもなるだけに豚はスペイン人にとっては日本におけるマグロのごとく愛される食材だそうです。2009年6月「セゴビアの子豚の丸焼き料理 」を紹介したことがありましたが、ここは生、まるごと売りです。おそらくこれもまるごと焼き用の子豚と思われます。カテゴリーの中料理との素材で探せますからバックナンバーも見てね。帽子を載せているところがちょっと嫌ですね。でもかわいそう・・とは考えないのが欧州の人達。これは食べ物だ・・と割り切っているのです。かわいそう・・とか考えがちですが、我々だって食べています。切り身しか見ていないから罪悪感が薄いだけで・・。最近おこたりがちで申し訳ありませんが、明日からしばらく大阪行きです。パソコンは持参しますので、時間あればUPするようにします。何かネタがあればよいのですが・・。
2011年02月03日
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