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延期、延期で約束した日はあいにくの雨。ミッド・タウン(六本木)も人がまばら・・・。思い起こせば前回の時も強風の日。人の出足も悪かったせいでしょうか? ラッキーにもオープンと同時に1番でお店に入れましたおかげで、・・・・だからこそ撮れた写真がたくさんもちろん撮影許可をもらって撮影しました。だからシェフも店内もショーケースも撮影。写真を絞り込めないので2回にして載せる事にしましたTOSHI YOROIZUKA(鎧塚俊彦のスイーツ・ショップ) 1シェフパティシエ鎧塚俊彦のスイーツ ・・Part 2です前回は2009年12月8日「シェフパティシエ鎧塚俊彦のスイーツ購入 」でも紹介していますシェフについてはその時に紹介しているから見てね。カテゴリーの「スイーツとパン」から見られます。六本木のミッドタウン店お店は他に恵比寿店があるようですが、テイクアウトのみで、スイーツが食べられるのはここだけみたいです入り口右がテイクアウトのショップ写真はないのですが、窓際は焼き菓子のコーナー左手前・・・ピスタッチオのクレームヴリュレとクリーム・ムース右・・・・・・・ジャン・ピエールイートインの店内・・・写真奥が入り口席はカウンターのみで座席も少ないのですぐにいっぱいに・・。イートイン用のメニューがあり、ショップで売っているケーキやキッシュを食べる事も可能。オーダーを受けてからとても丁寧に作り上げてくれます。ドリンクにもこだわりがあり、シャンパン、スパークリングの他にティーも種類があり、ホットとコールドでもティーの品種を選ぶようになっていました。私が最初に頼んだのはパルフェ・オ・ショコラ アラ・トシ(トシ風)鎧塚氏のスイーツはとにかくチョコが絶品。フランボワーズとソース、生クリーム、トンカ豆のアイス、チョコクリームで底にフレッシュのアプリコットが小口大にカットされてはいっていました。小夏のパイ小夏と言う品種の甘ずっぱいミカンの味を引き立たせた今の季節の限定? らしいです。友人が頼んだ分なので定かではないですが、上のアイスはヨーグルト系か? チーズ系だったような・・・。値段はパルフェ、小夏のパイどちらかが1100円か1200円・・レシートがなくてわかりません。紅茶は650円。もちろんお店のケースで売られている商品もここで食べられます。小腹もすいているので、キッシュをいただきました。海老と空豆のキッシュ直径15~16cmのホールの1/4でお値段450円。フワフワしてしっとりしていてとても美味キッシュ・ロレーヌ発祥はフランスのアルザス・ロレーヌ地方で、そこの郷土料理だったそうですが、今やフランスの代表的な家庭料理の一つになっているそうです。いわゆる家庭料理なので、中身はいろいろです。基本はタルト生地の中に卵とクリームでスフレ状にした生地がベースとなり中にハムやベーコン、ここではエビと空豆、チーズなどの具材を入れて焼き上げたおやつです。スイーツだけでなくこんなものまで食べられるとは思いませんでした。ショップのカウンターにブリオッシュと並んで置いてあったので、お持ち帰りもいいかもしれません。デパ地下の食品売り場で売られているものとはちょっと違う。どちらかと言えばここのはケーキの中間かも・・。とにかく美味しかった。さすが、プロですまだ写真があるのですが、長くなるので一度ここで切ります。次回につづくリンク TOSHI YOROIZUKA(鎧塚俊彦のスイーツ・ショップ) 2back numberリンク シェフパティシエ鎧塚俊彦のスイーツ購入
2011年06月24日
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すぐに答えをのせるつもりだったのですが、意外な不思議を発見し、再度写真を撮ってきましたクイズ これは何でしょう? 解答編写真は伸びきったアスパラガス(Asparagus)の木でした。アスパラ林の下にはまたまた新しいアスパラの新芽が出てきています。実はこのアスパラは新芽を取り尽くして今は放置している状態のようです。アスパラガス(Asparagus)原産は地中海沿岸で、古代ギリシア時代から栽培されてきた野菜だそうです。以前ホワイトアスパラの所でも紹介しましたが、欧州の各国では季節の野菜としてこの時期珍重されています。特に欧州では日本のグリーンアスパラよりホワイトアスパラをよく見かけます。日本には明治期に入り、北海道で昭和40年代にホワイトアスパラガスが盛んに栽培され缶詰で出回ったようです。確かにグリーンのフレッシュなのはむしろ近年ポピュラーな野菜入りになったような気がします。βカロティン、ビタミンB群、ビタミンC、ビタミンE、カリウム、カルシウム、亜鉛、鉄分などが豊富に含有。「葉酸」と呼ばれるビタミンBの仲間や「ルチン」、「アスパラギン酸」も含有。葉酸は細胞分裂や細胞の育成に役立ち貧血の予防にも効果。抗酸化物質の「ルチン」は血管強化効果。アミノ酸の一種「アスパラギン酸」は新陳代謝の活性化効果、疲労物質除去効果による疲労回復の効果などがあるとされているそうです。他にも美肌・美容効果、ガン予防効果、動脈硬化予防効果など良い事づくめの野菜ですね「ホワイト・アスパラガス」・・・2009年5月に紹介。カテゴリーの「料理と素材 」で検索してね。アスパラの穂先穂先にはアスパラギン酸がたくさん含まれているそうです。アスパラギン酸は疲労回復や美肌に効果まだ生え続けているのになぜ採らない?アスパラはユリ目ユリ科の多年草と言うだけあって主に株で増やして栽培するので、来年に向けて株を残しておく必要があるからだそうです。さらに良質な芽(アスパラガス)を次回に採取する為には収穫しすぎず、また夏に十分葉茎を茂らせて光合成をさせ、根に十分な栄養を取り込ませておく必要があるようです。生長して芽が伸びきったアスパラ結構大きく成長するのでビックリ(高さは1m20くらい)上のアスパラ穂先部分・・拡大(ほぼ実寸)茎が成長すると袴のようなガクは自然に脱落袴の部分下から枝と何やら丸いものが・・。花芽でした。花弁は6枚、筒状花が咲く頃に針のように細い葉が出現。植物学的には枝で、偽葉だそうです。でもここに不思議が・・。実はアスパラは雌雄異株。株自体が雌株と雄株に分かれていたのです。しかも雌株と雄株共に一見区別がつかない。小さな花の中を覗き込まないと雌雄の判別がつかないのだそうです。そんな状態で区別するので、実際花が咲くまでどっちなのかプロでも判別が難しいと言う事です。ただ雄株のほうが勢いが強く茎も太めで収穫量も多いとか・・。残念ながら花が小さいので私のカメラで拡大写真は無理でしたでも、やがて雌株の花の方には実がつきます。まだ熟していませんが、アスパラの実です。実の大きさは5~6mm。左下は実を半分にした所。夏には実は赤く熟しタネがとれます。タネが捕れると言う事は地下株だけでなくタネでも栽培できますが、芽が出て、収穫にいたるまでは数年かかるそうです。だから株を使うのが一般的のようです。現在進行形なので、この先の写真はありませんが、秋には地上部が枯れるので、枯れた地上部を切りとり来春の収穫のために備えるようです。地下茎は1mくらい伸びるので地植えのがいいようですが、プランターでも何とかなるようです。自家製菜園する? ・・・買った方が早いかもね今日、私のお気に入りの季節限定ホワイト・アスパラガスのスープがお取り寄せで届きました。嬉しいな
2011年06月18日
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Break Time (一休み)東京と言っても田舎なので、少し歩くと農地がたくさんあり、いろいろな野菜が育っています。季節も頃合い、どこの畑も夏野菜が順調です。昨日は農家の方が畑仕事に出られた時に開設している100円野菜の無人ブースで今年初のトウモロコシを購入。トウモロコシは1本120円でしたが、甘みがあってとてもおいしかったです。さて、今回は暇つぶしクイズです「ここはどこ?」ではなく、「これは何?」の新シリーズです。第1号は畑から高さは1mくらいでしょうか。ここでは畑の際に植えられていました。この分量はたぶん自家用でしょう。他のところでは温室で育てられていました。温室内は撮影できないので、この路地物を撮影。本州中部では4月下旬頃から6月の季節物で、今スーパーでも売られていますが、野菜としては高いほうかもしれません。葉と花が咲いています。ちょっとスギナとかコスモスなどを思わせる仕様です。たぶん見たことの無い人の方が多いと思います。まさかこれがあれ? と思うような植物です。写真良く見ると解るかも・・。和名はオランダキジカクシ、オランダウド、マツバウドと呼ばれています。ユリ目、ユリ科だそうです へぇーという感じです。野菜ですからもちろん食べられます。北海道、福島、長野が産地として知られています。秋から真冬はオーストラリア、メキシコからも輸入されますし、タイやチリなども見たことがあります。3~4月にはアメリカからも・・。季節物ですが、需要は一年中あるからでしょうね。もともと原産は地中海東部。観賞用に日本にはいったのだそうです。確かにオシャレな感じの植物ですね。下の写真はこの植物の茎の部分です。この写真大ヒントです。わかっちゃった? 雄株と雌株があるそうです。答えは次回に・・答えリンク先 クイズ これは何でしょう? 解答編
2011年06月15日
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ラストにBack numberを追加しました。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)ブルゴス(Burgos)サンタ・マリア大聖堂(ブルゴス大聖堂) コンデスタブレ礼拝堂プラテレスコ様式(Plateresco)カステーリャ王国からレオン王国へと権力と財力のある時に建設され、増設された教会なのでブルゴス大聖堂にはたくさんの豪華な礼拝所が付設されています。それぞれに個性がありますが、一番美しい礼拝所を紹介しようかと思います。でもその前にプラテレスコ様式の黄金階段を紹介。これもこの教会に来たら見ておきたい物件です北西の翼、コロネリア門に出る為の階段です。地図では黄金階段はブルーの交差部左翼の入り口の壁になります。黄金階段イタリア・ルネッサンスを手本にした階段は1523年に完成。制作者はプラテレスコ様式の巨匠ディエゴ・デ・シロエ。鉄格子は1526年にフランス出身の職人イラリオ親方が欄干の金彩の装飾を加えたようです。教会が傾斜地にありコロネリア門の位置が8m高いので階段仕様になっているようです。が、この門は1830年以降閉鎖。その美しさと踊り場から豪奢な説教壇を思わせる造りです。プラテレスコ様式(Plateresco)15世紀末~16世紀前半にスペインで流行ったルネサンス建築がベースに派生した様式の1つだそうです。元来イタリアで生まれたルネサンス建築はシンプルですが、スペインに渡るとここでは土地柄イスラムの影響を受けたり、イスラムから改宗してカトリックになった元ムデハル(モリスコ)の職人達の技術力で細密な装飾が組み込まれて新しいスタイルを作り上げたようです。プラテレスコ(Plateresco)の語自体、銀細工師(platero)から派生した言葉だそうですが、「表面的な」、「装飾的な」、と言う意味で「銀細工的装飾様式」プラテレスコ様式と呼ばれるようになったと言います。プラテレスコ様式の確立は1530年代ディエゴ・デ・シロエによってオーダーの導入やデザインの統一化がはかられた時からのようで、初期のものは構造的にはゴシックのまま、装飾のモチーフにムデハルを用いるなど折衷的な所が多かったようです。まさにこの黄金階段はプラテレスコ様式の見本的な物件です。尚、後に紹介するかもしれないサンティアゴ・デ・コンポステーラ教会の前にあるパラドール・デ・サンティアゴ・デ・コンポステーラ(ホテル)もその代表的な作品として紹介されています。ここで再び教会の見取り図今回紹介するコンデスタブレ礼拝堂は地図上のピンクの部分。コンデスタブレ(元帥)礼拝堂ここが大聖堂の中で最も美しい礼拝堂で、ここもプラテレスコ様式の取り入れられた聖堂です。コンデスタブレ礼拝堂天井星形の透かし彫り。礼拝堂を上から下に・・この礼拝室のコンセプトは「聖母の清め」1482年シモン・デ・コロニアが建築を開始。サンタ・マリア門やピナクルの装飾を施したファン・デ・コロニアの息子のようです。1517年フランシスコ・デ・コロニアが香部屋を完成。装飾はヒル・デ・シロエ、黄金階段のディエゴ・デ・シロエ、フェリペ・ビィガルニ、レオン・ピカルドらが携わっているそうです。上部のステンドグラスは1500年~1510年頃の作品。幼児キリストの神殿奉献を表現している中央部の彫像ディエゴ・デ・シロエとフェリペ・ビガルニが制作。金彩をレオン・ピカルド。ティツィアーノの絵画を立体化したような、その美しさと精巧さには本当に驚く祭壇前にはフェリペ・ピガルニが彫刻したこの礼拝堂建立者の横臥像素材はカラーラ産大理石奥に見えるのが香部屋に繋がるプラテレスコ様式戸口。大理石の彫像は王国の元帥ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコとその妻。説明書では横臥像になっていますが、たぶん棺の上部だと思います。写真奥が入り口残念なのはその入り口の飾り格子の写真を撮らなかった事。人が多いと撮影が難しいのですこんな細密で美しい彫刻はなかなか見られません。いかに財力と権力を持っていたか・・が見てとれます。死せるキリストを飾る台座をささえる天使さて、何だか建築の紹介が多くなってきたような気がしますが・・。そんなつもりは本当はありません。顧みれば、確かに不思議とスペインは建築が多い事に気が付きました。「スペイン」、「建築」、「ガウディ」、だけではなく、ガウディを生んだ土壌にそもそもそう言う要素が多かった・・と言う事なのかもしれませんね。まだ紹介したい所もありますが、先を急ぐので、ブルゴスはこれにて終わりにします。最終的にサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は1~14までになりました。次回リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)Back numberリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3) サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
2011年06月11日
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ラストにBack numberを追加しました。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)ブルゴス(Burgos)サンタ・マリア大聖堂(ブルゴス大聖堂) 内陣と聖歌隊席サンメンタル門からのブルゴス大聖堂教会の見取り図ブルーの囲みが前回紹介したエル・シドの墓所のある交差部です。上の写真のサンメンタル門はその交差部の右翼の扉です。今回はレッドの聖堂内陣と聖歌隊席を紹介します。聖堂内陣主祭壇は後陣(アプス)に安置されている。現在の大祭壇はルネッサンス様式を基本とする構造で、1562年~1580年ロドリゴ・デ・ラ・アヤとマルティン・デ・ラ・アヤ兄弟がメインになり、他の芸術家と共に制作。金箔装飾は1593年に施されています。5列3段、各間は聖体の秘跡、聖母崇敬、聖人崇敬が彫刻されていますが、特にトリエント公会議(1545年~1563年)が行われていた間の教会建築なので、会議で検討確認されたカトリックの諸改革が祭壇に強調されたデザインになっているようです。トリエント公会議(Concilium Tridentinum)1545年にトリエント(イタリアのトレント)で教皇パウルス3世によって召集され始まった公会議はマルティン・ルターによって起きた宗教改革運動に押される形で開かれたローマ・カトリック教会の会議です。天災などで中断などが余儀なくされて1563年にピウス4世の開いた第25総会をもって終了。公会議の初期の狙いはプロテスタントとの決定的な分裂の回避だったようですが、結果は「聖書のみ」・・としたルターの考えを拒否し分裂。聖伝もしっかり残り特に秘跡の取り扱いを有効とするなどカトリックの方向性などが討議されたようですが譲歩もなく決裂。プロテスタント(反カトリック)の誕生に繋がったわけです。そもそも罪の償いを軽減する証明書とされた贖宥状(しゅくゆうじょう)(日本では免罪符と誤訳された)の乱発行が宗教改革を引き起こす元凶になったのです。それについてはまたの機会に・・。中央に置かれている聖母像(サンタ・マリア・ラ・マヨール)は銀製。以前にも紹介しましたが、この教会は「聖母被昇天の奇跡に捧げられた教会」なのでご神体がマリア様なのです。制作者は1464年に司教御用達の銀細工師クリストバル・デ・ドリートの作品らしい。写真中央下南西にあたるサンタ・マリア門の内側本来ならサンタ・マリア門から入った角度で内陣方面を撮影するのですが、ここは身廊に聖歌隊席が構えられている為に見通せない造りなのです。もともと内陣よりにあった聖歌隊席は1535年に現在の位置に移動。(教会地図、交差部の手前)聖歌隊席ルネッサンス様式のこの聖歌隊席は103席。写真右に見えるのはこの大聖堂の建立に尽力したマウリシオ司教の横臥像。横臥像は銅でコーティングされエナメルや宝石で装飾された逸品・・と説明にはありますが、それ程??制作は1506年フェリペ・ピガルニが制作し、1610年完成。ここの聖歌隊席は、古い修道院の聖歌隊席仕様で折りたたみ式になっています。素材はクルミにツゲ材の寄せ木細工になっています。浮き彫りの壁は旧約や新約聖書のテーマや聖人の逸話がモチーフ。ここでも先ほどのトリエント公会議で確認された「カトリック」が強調されたデザインがなされているようです。奥は南西にあたるサンタ・マリア門の上のステンドグラス全体が入っていませんが、写真右の突き出ているのはパイプオルガンの一部。左右に大きなパイプオルガンが壁のようにそそり立っています。聖歌隊席はクワイヤ(quire)とも呼ばれます。祭壇を囲んだ聖歌隊や聖職者の輪を意味する「corona」から生じたのだそうです。暗いので写真を無理に明るくしているので少しボケていますが、写真中央が司教座ではないかと思います。ブルゴス大聖堂は、13世紀にはカスティーリャ王国の首都であったので司教座が置かれていました。(今は不明)つづくリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)ブルゴスの後はレオン、オスピタル・デ・オルビゴ、セブレイロ峠、サンティアゴ・デ・コンポステーラへと続きます。Back numberリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シド サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
2011年06月08日
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ラストに関連Back numberを追加しました。さて教会の中に入る前にブルゴスの英雄の話しを少し・・。ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドレコンキスタ(Reconquista)ブルゴスの英雄エル・シド(El Cid)映画などでも紹介されているので、その名は世界に聞こえていますが、レコンキスタの英雄エル・シド(El Cid)は11世紀にブルゴス近郊で生まれたカスティーリャ 王国の貴族であり騎士です。レコンキスタ(Reconquista)イベリア半島がイスラムに征服されていた6世紀から13世紀。イスラムの宗教下からキリスト教の元に土地を取り戻す・・キリスト教徒による奪還、再征服の戦いを言います。時は、西ゴート王国が滅亡した8世紀初頭から1492年のイスラムのナスル朝(グラナダ王国)が陥落するまでを指しています。以下今までに書いたレコンキスタ関連です。良かったら見てね2010年2月スペイン・ロンダ 3 (要塞の街・西ゴート王国・レコンキスタ) リンク スペイン・ロンダ 3 (要塞の街・西ゴート王国・レコンキスタ)2010年3月スペイン・セビーリャ 2 (街の歴史・イスラム編) リンク スペイン・セビーリャ 2 (街の歴史・イスラム編)2010年3月スペイン・セビーリャ 4 (守護聖人とフェルナンド3世) リンク スペイン・セビーリャ 4 (守護聖人とフェルナンド3世)ブルゴスの街のオペラ座前にあるエル・シドを称える像エル・シド(El Cid)本名はロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)、通称エル・シド(El Cid)生年は1045年? 不明、没年は1099年。その遺骸は現在妻ヒメーナと共にこのブルゴス大聖堂に眠っています。シッドとはアラビア語で「主人」を意味する語が由来で、身分の高い人物への敬称に使われていたようです。レコンキスタの英雄としての彼の功績は写真にあるブルゴスのオペラ座前の銅像の碑文にきざまれているようにバレンシアをイスラム教徒の手から奪還した騎士としてです。スペイン最古の文学「わがシドの歌」と言うで英雄叙事詩に実話を元にしたエル・シドの功績が描かれているそうで、マドリードの国立図書館に物語の写本が残っていると言う事です。(物語なので後世脚色された部分は多いようですが・・。)その人気は当時よりも後世より高まり、最初はブルゴス郊外の修道院にあった墓所から1921年になってこのブルゴス大聖堂に移されたのです。墓所の場所はブルゴス大聖堂の一等地? クロッシングと言われる交差部の真下です。交差部の丸屋根にある美しい透かし彫りの星スペインならでは? のムデハル風の天窓です。1568年に再建されたこの丸屋根はファン・デ・バリュホを中心として著名な石切職人や彫刻家が携わって完成しています。レコンキスタ後もスペインでは長らくイスラム建築を主軸にしたムデハルの様式が影響を持ち続けています。その影響かと思います。何にしてもこの天窓はフェリペ2世をして「人の造った物と言うよりは天使の仕様に見える」と言わしめた美しさで、エル・シドの墓のあるこのクロッシングを霊廟のように見せています。エル・シドと妻ヒメーナの墓所縞大理石にブロンズ文字エル・シド(El Cid)は実は王家の内紛に巻き込まれて運命が翻弄された人なのです。カスティーリャ=レオン王であったフェルナンド1世の小性として王家に関わり、次代カスティーリャの国王となったサンチョ2世(在位1065年~1072年)付きとなりその下で活躍していました。(前半)王家の内紛は領地問題からです。1065年、カスティーリャ=レオン王であったフェルナンド1世が死去すると王は王国をそれぞれ子供達に分割したのです。カスティーリャを長子であるサンチョ2世が、レオンを弟アルフォンソ6世(勇敢王)が、ガリシアをガルシア2世が、トロとサモラを王女のエルビラとウラカにそれぞれ相続させています。しかしサンチョ2世は分割した王国を自分の元に集める戦いを始め、兄弟とも険悪になり結果、1072年に暗殺されています。(弟のアルフォンソ6世が犯人?・・の説があります。)しかしサンチョ2世を次いで王となったのがそのアルフォンソ6世。サンチョ2世の部下であったエル・シドはこの後カスティーリャから追放されています。エル・シドは生涯2回~3回追放の目にあっていますが、全てアルフォンソ6世によってです。簡単に言うとアルフォンソ6世に嫌われていた・・と言う事のようです。とは言え彼の妻ヒメーナはアルフォンソ6世の従姉妹だったようですが・・。クロッシングのエル・シドの墓から見るブルゴス大聖堂の内陣の大祭壇大祭壇は次回に・・・。エル・シドはキリスト教徒の英雄ですが・・・1081年に追放された時はサラゴサのモーロ人の君主(タイファ)に仕え、一時はキリスト教徒とも戦闘していると言います。そう言う意味では叙事詩にあるようなキリスト教徒の英雄・・とは言えない部分もあります。その後アルフォンソ6世と和解したとも言われていますが、再び追放されると彼を慕う多くの兵士達と共にまだ手のついていなかったバレンシアに向かい1094年にバレンシアをイスラム教徒から奪回して領地? にしているようです。銅像の碑文のようにバレンシアを奪還した事が彼をより英雄視して伝えられているのです。そこに妻を呼び寄せて暮らし1099年に亡くなっています。エル・シドの棺と呼ばれる中世の大棺写真が少しポケています。これはコルプス・クリスティ礼拝堂に飾られているエル・シドの棺と呼ばれる中世の大棺で、書類箱として使われていた。・・と説明書には書かれていました。エル・シドと何か関係はあったのかも・・。彼の生きているうちから彼の武勇を称える叙事詩が描かれ、歌が歌われていたと言います。アルフォンソ6世はそんな英雄視されるエル・シドを妬んで遠ざけたのかもしれません。それにしても史実と伝説はかなり違うようですね番外ついでにちよっと中世の騎士を紹介。ブルゴスのどこかの礼拝室の壁の絵だったと思います。エル・シドのように見えて実はエル・シドではないのです。なぜなら白馬と白い衣装の騎士は聖ヤコブらしいのです。クラビーホの戦いで突然現れキリスト教軍に勝利をもたらした騎士がいたそうです。イスラムとの戦いのおり、度々現れ、救世主となったその英雄的騎士は、聖ヤコブの出現と考えられたようなのです。サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの遺骸発見後のブームの中か? レコンキスタの戦いの中、その白い騎士はレコンキスタの守護聖人として祀られるようになったと言います。実際にそのような騎士がいたのかもしれませんし、何か他の話と混同されているようでもあります。何より漁師の聖ヤコブが馬に乗れたとは思えませんし、武器を振り回す事もありえない話です。まして生き返るなんて事もありませんし何者かが戦う戦士に心の支えを作ったのかもしれませんね。それにしても中世の騎士はカッコイー。ブルゴスは、13世紀にはカスティーリャ王国の首都です。レコンキスタを成功させた当時の王国の首都なのです。以下でブルゴス大聖堂(サンタ・マリア大聖堂)紹介しています。関連Back numberリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2) ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
2011年06月03日
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