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掛川駅の改札には、懐かしいかにゃママさんの御姿があった。そしてママさんも私達をギュッとハグしてくださった。この日も最初は曇りがちだったけれど、その後は快晴となり、私の下の姉の言葉でいうと、二人がイランから日本に夏を持ってきたみたいだね!というようなほど暑い日だった。日本の夏を忘れた身体は湿気を押し出すように汗が流れていてハグされると嬉しいのと、汗臭いだろうな、、、という不安で私の心は入り乱れていた。2014年にお逢いしたときとママさんはお変わりなく、若若しくスマートでいらっしゃった。私のことも変わってない、と仰ってくださったけれど、この数年は自身に心労も体力の衰えも私は感じていたので、優しいママさんは私を傷つけないようにそう言ってくださったのだと思った。駅にはもうおひとり、かにゃママさんの旦那さまがお車で待っていてくださっていた。ママさんのブログに掲載されているお写真で旦那さまのお顔は知っていたけれど、ママさんの方がお若く旦那さまはお年が上のように感じていたけれど、実際のパパさんは写真よりもお若く、とてもお似合いのご夫婦だと思った。そして旦那さまの印象で一番残っているのは、とても良い声をなさっているということだった。私達はおしゃべりをしながらしばしドライブを楽しんだのだった。【数年を隔て抱き合うぬくもりは身と心に等しく伝ふ】にほんブログ村
2018年02月10日
東京は曇りがちな天気だったようにおもうけれど、掛川へと向かうほどにお天気は良くなっていった。駅に到着したときは晴天で、そこには私が18歳まで生活していた時の雰囲気を保つ空間が広がっていた。 もちろん私が静岡に住んでいた頃は自動改札も携帯電話もDVDもなかった時代だったし、大型チェーンストアのようなものでどこへ行っても同じような街の風景が広がっていることも少なかった。しかも私が住んでいた場所はちょっと東へいけば神奈川県という静岡県だったけれど・・・なんというか掛川に降り立った私の脚は、かつてわたしが過ごした時の彩と速度に近い流れを感じていたのだった。 【掛川に降り広がりし光景にかつて身支ふ時の岸みる】 にほんブログ村
2018年02月08日
何箇所かで用事を済ませてから東京駅へと向かった。新幹線に乗るのも切符を買うのも不慣れというか、すっかりイランの生活が染み付いてしまうと母国にいるのに浦島花子で何をするにもオロオロしてしまうけれど、言葉は通じるから海外旅行に行くよりは気楽なのだろうと思う。それでもしばらく日本にいないとすっかり時代から取り残された日本人で、現代日本という時の波に乗って言動することができなくなっていることを、来日する度に痛感している。 なにはともあれ新幹線に乗車して、かにゃママさんがお迎えにきてくれる掛川駅に下車するまでは、息子も私も一安心ということでお茶を飲みながら窓の景色を楽しんだ。乗車時間は長く感じられたけれど、眠くはならなかったのでスマホで音楽(数ヶ月前にブログでも紹介した bitab というイランの曲)を聴きながら、私は密かに膝の上をTombakにして音楽に合わせて打って練習していた。今度来日するときはDAFを持っていこうかな、、、などと考えながら。一週間以上も楽器に触っていないとついつい恋しくなってしまうのだった。 Tombakは日本の気候だと張ってある皮が破れるから今時のDAF(DAFも本物は皮が張ってあるけれど、近年は皮の代わりに耐久性があり安価な代用品が張られていることが多くてそれ)なら日本に持ってきても壊れることはないかな、、、っと。宿泊先のホステルにも二つぐらいTombakにとてもよく似た楽器が置いてあった。多分海外(アフリカとかインドの楽器だったのかな?)からの宿泊客が置いていったものだろうと思われたけれど、残念ながら二つとも張ってあっただろうと思われる皮が見事に破れていた。 息子とイヤホンを分け合いながら音楽を聴きおしゃべりしながら掛川駅に着くのを楽しみに新幹線に身を運ばれていったのだった。 お茶画像は息子撮 にほんブログ村
2018年01月15日
ロックされた自動ドアを前に、左右にガラス戸を動かしてもビクともせず、虚しく時間が過ぎていく…その間私の心の中で散々この宿泊施設の管理人への罵詈雑言を吐きながら…。そんなことしていても問題は解決しないので、私は荷物を持ったまま階段を駆け上がっていた。二階は比較的長期滞在する客のためのシェアルームと共同のトイレ、シャワールーム、台所、リビングルームがあるフロアで、誰かしらいると思ったからだった。シェアルームの玄関のような下駄箱のあるところで様子を伺ってみると、心地よさそうな寝息がきこえてきたので、“すみません、すみません、困っています、すみません”と声をかけてみた。一分ぐらい少しづつ声を大きくしながら呼びかけていた時、規則正しかった寝息が途切れてひとりの若い金髪白人男性が上半身裸で出てきてくれた。その人は英語で“どうしたの?何があった?英語話せる?”っと尋ねてきたので、“出かけようとおもったら入口のドアが閉まっていて開かなくて困っています”っと答えたら、部屋に戻ってTシャツを着て私と息子と一緒に階下まで降りてきてくれたのだった。そして一階の隅っこにあるネットルームの部屋に入って、その奥にあった裏口を開けて私達を外に出してくれたのだった。後日談: 数日後に静岡からもどって管理人にこの事の次第を話したら、“あれ?説明してなかったっけ?これも渡してない?”っと、Wi-Fi、裏口を開けるパスワードなどが記載されている、ホステルの利用説明が記された紙を渡されたのだが、一週間以上も私達はそれらを知らされずに過ごしていたのだった。イランではこういう人は普通に見かけるけれど、日本でこの手のタイプに関わったのは初めてだった!!続く昨日の朝焼け。上から四、五枚目にも細い細い残月がちょこっと見えます。今朝の朝焼けも真っ赤だった。けれど月は見えなかった。 にほんブログ村
2018年01月14日
夏に来日したときの記事を終わらせないままに年を越してしまった。半年近くも前のことになってしまったので詳細は記せないだろうし、時間がとれずにまとめてアップできないだろうけれど、少しでも続きをあげて最後まで書こうと思った次第…来日七日目はちょうど七月一日で土曜日だった。週末にあたるので、ブロ友のかにゃママさんと、下の姉に会いに静岡まで遠出したのだった。お昼頃に着くようにと新幹線の発車時間までママさんに調べてもらい、東京駅発の新幹線に乗るために、宿泊先をでたのは八時前だったように思う。ところが今回の宿泊先の管理人はとにかくやることなすこと杜撰で、それは私と息子に対してだけだったのかもしれないけれど、再び私の心拍数と血圧はヒートアップしたのだった。さて今回は何が起こったか?というと、いざ出発!っとおもったら、玄関のガラスの自動ドアが開かず鍵がかかっていたのだった。(私には裏口のドアとその暗証番号は伝えられていなかったから、裏口の存在さえ私は知らなかった。)花の金曜日の夜は管理人も宿泊客も遅くまで飲むのが常だからなのか、土曜日の朝の八時前のフロントには人影もなく、二階から上の客室もひっそりと静まり返っていたのだった。続く昨日の夕陽にほんブログ村
2018年01月13日
来日六日目は、六月三十日金曜日だった。 この日は朝8時にlineで連絡をとり、元教え子の一人と彼女の仕事が終わったあとに、 人形町で待ち合わせをして再会を果たした。 来日すると私に逢ってくれるもうひとりの元教え子は、結婚、出産したばかりということで、 残念ながら今回は会うことはできなかったけれど、 元気な男の赤ちゃんの写真をみせてもらった。 再会できた元生徒は、とうとうお父様から独り立ちを言い渡されて、 ご実家の近くの一室を借りて一人暮らしを始めたとか。。。 (お父様が不在の夜などはお母様が内緒で連絡をくれて一緒に食事をしているようだが) 弟さんの方がはやく所帯をもたれたということだった。 人形町という場所には初めていったのだけれど、東京のオフィス街という感じがした。 今の私にはまったく接点のない、遠い場所にみえ、感じられたけれど、 結婚する前の大学四年間と、横浜から品川へ通勤していた四年間は、 私も頻繁に山手線を使ったり、東京の地下鉄を毎日のようにつかったりして、 この東京を日常の空間にしていたのだったなあ・・・っと、 仕事帰りの彼女の姿に私は自分を重ねていた。 彼女にもはやく女性としての幸せが訪れるといいなあっと思いながらも、 女性にとっての結婚というものは如何に影響力が大きいのかということを想い、 結婚、出産だけが女性の幸せでもないけれど、とも思ったりもしながら・・・ 【日の常とせし東京を旅先となせり吾の来し道を想ふ】 八年間日常空間としていた東京を観光地、旅行先にした自分が歩んできた道を想うのだった にほんブログ村
2017年10月31日
ちいちゃんご夫婦とは動物園を出たあと上野の駅でお別れをした。 再会の喜びを体験したら、そのあと必ずお別れの時が来るのだけれど、 どうも私はそれが苦手で、思い出すことも苦手というワガママ者。 旅が始まれば必ず終わりが来て日常の中に吸い込まれるのだけど・・・ そこまでくると、言い訳のようにその日常さえ、何時かは終わりがくるもので どこにいても旅で、この身体は借り物なのだろうと考えてしまう。 そんな悲観的なのか楽観的なのかわからない私は、ただただ 別れ際にちいちゃんさんと旦那さまに抱きしめられたときの、 何とも言葉にはできない、空っぽの心にポッと何かが灯るような感覚だけを刻んでいる。 (この二日後に再会した、かにゃママさんに抱きしめてもらったときにも同じことを感じた) 別れは別れで悲しいのだけれど、人の優しさや温かさに触れたときに、 出逢いと別れを必定(ひつじょう)とする生きることを、私は肯定できるからかもしれない。 【別るゝは定めなるも巡り逢ふ人のぬくもり灯(ともしび)とせむ】 生きていれば別れは必定だけれど、出逢った人のぬくもりを心の灯にしようと思う 一週間前に撮影した近くの公園 にほんブログ村
2017年10月12日
ワンちゃんたちとの触れ合いのあと、台湾料理のお店に連れて行っていただき、お昼をご馳走になった。その後は、またまた息子のリクエストで上野動物園へと向かったのだった。 午前中は少し曇りかっていた空は、上野駅に着く頃には、夏の空と暑さとなり、JR上野駅から上野公園を経由し動物園まで歩く頃は喉がカラカラになったので途中でWCに寄った。そのついでにミネラルウォーターを購入した。テヘランは五月の末から暑くなるので暑さには慣れていたけれど、テヘランの暑さと東京の暑さは異なるので、この暑さに慣れていない息子が熱中症を起こさないといいなと思ったからだった。(もちろんちいちゃんご夫婦も私も。実際、動物園から出る時に若い女性が熱中症か、貧血と思われる様子で倒れていた。)上野公園の遊歩道の傍らではマジックショーを通行人に見せている人もいたが、息子の足は動物園へとひたすら向かっていたので通り過ぎただけだった。 上野公園に入る手前で七夕飾りをちいちゃんさんが見つけて撮影なさっていたので、わたしも撮影☆ 上野動物園に息子を初めて連れて行ったのは2011年、六年前だった。 息子は幼児の頃から車や電車、飛行機などの機械ものにはそれほど興味を示さず、動物が大好きだった。それは小学校時代を通して中学二年生になっても変わらない。生き物が好きというわけではなく、虫は虫唾が走るそうで、金魚や観賞用の魚でさえも“僕にとって魚は食べ物でしかない”ということで好きではない。それでいて、亀や、イグアナなんかは飼いたい、飼いたいというので、彼の動物の基準は私にはよくわからない。 六年前、三年前はヤギ、ウサギ、ハツカネズミ、ポニー等に触れ合えるコーナーがお気に入りだった。六年前は小動物との触れ合いコーナーに三回ぐらい連れて行ったように思う。流石に中学生になると、そのようなコーナーにはこだわりを見せなかった。時間があったら率先して行こうとしただろうけれど、いけなかったからダダを捏ねるとかそういう年代は過ぎたようだった。 まずは何はともあれ上野にきたらパンダちゃん!ということでパンダの看板ならぬ看壁の前で記念撮影。ちいちゃんさんの旦那さまに撮影していただいた写真を拝借。 その後は園内の順路や説明書きを頼りに一つ一つ動物を回っていった。どうしてもガラス越しだったり、金網があったりするので画質が悪く、それを隠すためにPicasaで画像効果を加えたものをアップする。 イランののんびりに慣れきった私達とは異なり、ちいちゃんご夫婦の歩みは軽やかに速やかで、写真をとったり、ちいちゃんさん、息子と話をしていると、いつのまにか旦那様の御姿が見えなくなってしまったのだった(^_^;) 歩きながら、ちいちゃんからご親戚のお人柄やらご親族問題だとか、国境を超えてきっと世界中どこでも見られるのだろうというお話をしていただいた。(上野までの電車の中でもお話ができてよろしゅうございました。)内容を明かすわけにはいかないけれど、しっかりと私の胸と脳裏に刻まれていて、それらを思い起こしてこれを記している。 嫁という立場や状況は本当に日本もイランもないんだな・・・っと感じた。よく言えば?個性的な親戚の八方からの風雨にさらされながら、嫁として足を踏ん張っているといつの間にかどっしり根を広げているものなのかもしれない。 そう思うと2011年の頃に比べると、私は親戚の言動に動揺したり、揺すぶられ、感情を上下させることが激減したように思う。時というのは過ごし方次第で味方にも敵にもなるんだろうか?っとそんなことを思った。(風は最初の十年間弱は中立、真ん中の五、六年は向かい風、最近の四、五年では追い風になったような、でも多分苦難だった五、六年はなくてはならなかったのだろうとも思っている。経過はきっとその部分だけを取り出してどうこう言えるものではないのだろうという気がしている。) 人生の、嫁、母、女性としての大先輩のちいちゃんさんには、これまでネットを通じてもたくさんの助言、励ましをいただいている。人生にはいろんな側面があり、それは楽しく、楽なことばかりではなくても、嫁でも母でも女性でも、人としての器を少しずつ大きくしていけば、風雨にさらされようが飛ばされようが、カラカラと軽快な音をたてて転がり落ちて欠けたり割れたりするけれど、誰かに底を掬い上げられて修繕してもらい、そうこうしているうちに、その器にしかない色合いと形に磨き上げられるものなのかもしれない・・・そんなことを思ったのだった。 【向かひ風受け落ち転ぶ器とて底掬はれて使ひ磨かる】 にほんブログ村
2017年10月02日
子犬たちと三十分ほどふれあった後は、わんちゃんを連れての渋谷の公園をお散歩した。ちいちゃんと旦那様がいらしたので私も安心してお散歩させることができた。その日は完全なる晴れではなかったけれど、それでもかなり暑い日で、犬でなくても喉が渇いた。 イランでは犬を飼っていてもおおっぴらには歩道や公園を散歩させることが出来ず、下手すると歩道で補導されるというダジャレにならない結果になりかねないので、犬との散歩は息子の憧れで、彼は彼なりに夢を描いていたようだった。 犬は外に連れ出してもらえることを喜んでいたようだったが、お店を出てすぐに小も大も排出した。外でする方が犬の本能に近い行動なのだろうなと後始末しながら私は思った。そして室内でお触りしていた時から感じていたことだが、人馴れした犬は人を見下してはいないだろうけど、同等に見ているようなところがあり、散歩させていてもあまりいうことをきかない感じだった。犬はちいちゃんと息子におまかせして私は写真を撮影しながら景色を楽しんでいた。(後から撮った写真を見ながらさすが長年社交ダンスをなさっている方は立ち姿だけでなく歩き方、ちょっとした動作もバランスが絶妙で絵になる、美しいなと感心した!) 公園に到着してしばらく進むと、クーラーの効いた室内に慣れきって暑さに慣れていないからか犬は歩こうとしなくなっていた。水をやったら喜び、小さなエサを数個やったらかなりお腹も空いていたようで異様に興奮してしまった。こういうふうに飼われている犬は毎日散歩させては貰えないから太らせるわけにも行かず、餌も最低限しか与えられていないのかもしれない。 犬と同じく私達も喉が乾くだけでなくお腹も空いてきて、公園の眩しい青を日陰で愛でながら、ちいちゃんにいただいた鮎の形を模した焼き菓子をいただいたのだった。三年前は、上野動物園の爬虫類館の爬虫類独特の臭いがプンプンする中でも美味しく頂いた懐かしい和菓子だった。中に詰められているおもちのようなでんぷん質の甘さ加減と舌触りが美味で息子も私もすぐに疲労回復した。雀の涙程の餌では足りなかった犬が、なんとかおこぼれにあずかろうと必死に自己アピールしている姿が哀れだった。犬には店で購入したちょっこっとした餌しかあげてはいけないといわれていたからあげられず、嗅覚の優れた彼?には酷であった。(ちいちゃんの旦那様は犬の様子に心打たれてちょびっと分けていたかもしれない?) 時間はまだまだあったけれど、熱いアスファルトを歩く犬も心配で、犬は抱っこをせがむ幼い子供のように歩くことを拒んでいるので息子に抱っこさせて店に戻ることにした。ひ弱な息子が抱っこするには重かったようで息子も疲れてちょうど良かったかもしれない(笑) 犬を返す時に店長なのか店番なのかわからないけど若い女性に、この犬酷くお腹空いていましたよ(ちゃんと餌やってるのかい?という嫌味のつもり)っと言ったら、ひきつり笑いで、あれそうでしたか?と答えて誤魔化されところをみると、やはり普段から大した餌は与えていないように感じたのだった。 【このごろの若人(わかうど)に似し犬の仔等これも時代の風が生みしか】 我が息子にも通じるような近頃の若者に似た犬の仔も時代の風潮の産物なのだろうか…… このあとちいちゃん御夫婦にお昼をご馳走していただいたのだった。(つづく) にほんブログ村
2017年09月24日
日本滞在の五日目は三年前に初めてお逢いして、以後も楽天ブログを通じてずっと交流を続けているChiichanさんと、旦那様と再会した。今回もはるばる東京まで新幹線で来てくださって、品川駅の山手線の外回りのプラットフォームの一番前で待ち合わせすることにした。三年前に待ち合わせしたときは新幹線の改札にしてしまったが、新幹線乗り場は1週間使用契約をした公共ワイファイが使用できずに、アンテナのあるところまで行ったり来たりしながらようやくお逢いできた、、、っという経験があったから今回は新幹線乗り場では待ち合わせしないことにしたのだった。 十時十五分頃が待ち合わせ時間だったけれど、私達は一時間ぐらい早く着き、品川駅の構内をプラプラ徘徊し、息子用とお土産用のTシャツを数枚購入して時間つぶしをした。 十時になったので待ち合わせ場所に行き、そして十五分を経過してしばらくしたときに、山手線のプラットフォームも端っこだとアンテナがないのに私は気づき、階段付近に行くことにした。実はそのときに、お二人とすれ違ったが私は気がつかず、(息子曰く、僕は気が付いたけど、お母さんはスマホばかり気にしていたと・・・)お電話がつながったときには、私達がしばらく佇んでいたところにご夫婦はいらっしゃったのだった。 三年ぶりにお逢いしたChiichanさんは涼しげな色彩のお召し物にお帽子を被っていらっしゃり、華やかでいて着心地の良さそうな御姿をなさってた。旦那様もテニスで鍛えられたお姿健在で、お二人とも立ち姿がとても美しく若々しくいらっしゃった。 今回もお二人は息子のワガママを叶えてくださって、渋谷公園の近くの犬と触れ合えるお店に一緒に行くことになった。Chiichanさんの旦那さまは永年愛情を注がれてきた愛犬を亡くしたばかりだったが、この日の前日に息子は犬を散歩させたかったけれど、私と息子だけでは私はとても不安だったので、犬を永年飼っていらしたお二人がご一緒なら息子の願いを安心して叶えることができるだろうとお願いしたのだった。 まずは三十分ほど四人でワンコたちを抱っこしたり撫でたりして触れ合いを楽しんだ。この日もお店にはたくさんのお客さんが来ていた。お客さんには外国人の観光客が多く、英語が堪能なChiichanさんは彼らともスっとごく自然に会話を始められたのだった。私も息子も聴いていただけで会話には入らなかったが、コミュニケーション、人との接し方、交流の仕方というのは、言葉ができるできないの問題以外のものが大きいのだろうな、、、ということを感じたのだった。Chiichanさんにとってはごく自然の成り行き、そういう状況で目の前にその人がいるから発せられた言葉なのだろうなっと、私は小犬のふわふわした毛並みの感触を楽しみながら、会話を耳にしていたのだった。 【その時に人重なりて吹く風に揺れさゞめきて交はす言の葉】 その時にその人という偶然が重なり合って吹いた風が木々を揺り動かして葉がざわめくように、人の心を揺れ動かして発せられて交わす言の葉を、心地よく耳にしたのだった にほんブログ村
2017年09月13日
四日目は元教え子と一緒に過ごしたあと、息子のリクエスト、ドッグカフェか、犬と触れ合える場所に行きたい・・・っということで前日調べておいた渋谷の某所に行った。 イランでも実は去年しばらく犬を飼っていた。けれども意外にもイランで犬を飼うことの問題点が多く、大きかった。イスラムでは犬は穢れとみなされるので、日本のように外を散歩させられないだけでなく、公園も散歩させられない。屋上に置いておいたけれで、定期的な偵察ヘリコプターに反応して犬が吠える。糞尿だけでなく唾液も穢れ、私や息子が犬に触っただけで、私達を穢れた目でみる義両親の態度、対応にも疲れ、その上私自身が、服のうえから犬に手足をかけられても、そこから赤いじんましんが発疹してしまうという犬アレルギーであることがわかり、飼うのを断念した。(全ての犬に反応するわけではない。ダックスフント、ミニアトールピンチャー・・・?名前が間違っているかも・・・、ビーグルに反応)息子は犬が大好きで手放したことがずーっと心残りでいたので、日本に来たときには触れさせて、遊ばせてあげたいなっと思ったのだった。 夏の昼下がりだから利用者は少ないだろうな・・・っと思っていたけれど、若い人、学生、外国人の利用者が来ていて、フロアーはお店規定の満員に近い状態だった。六月の末だったけれど私達が来日した頃は夏の暑さが既にあり、晴天が続いてお天気に恵まれた時期だった。犬たちは店で一番涼しいところが何処かよく知っていて、少し遊んで満たされると、手足を投げ出して眠っている姿を多くみた。 犬は非常によく手入れされていてふさふさで、人馴れしていて愛嬌をうまく振りまき人を惹きつけるところと、気紛れも人は許してくれるっと知っているようなところがどの犬にも見受けられた。少し売れ始めたタレントのような雰囲気がなきにしもあらずだった。上から目線というわけではないけれど、決して人を下にも彼らは思っていないのだろうなと感じたのだった。 【愛嬌ときまぐれ振りまく犬の仔の瞳(め)に人の子は如何に映りて】 次の日は遠いところから私達に逢いにきてくださったChiicyanご夫婦との再会! にほんブログ村
2017年09月08日
四日目の水曜日の朝は、さて今日は何をしようか、、、っと思い巡らしていたら、来日する度に会う元教え子の顔が浮かんだ。前回来た時は運転免許証の更新手続きをした後に風邪で二日間ぐらい寝込んで、貴重な時間をベッドの上で費やしてしまい、彼女と逢ったのはイランに帰国する前日になってしまったから。今回は早目に逢いたいっと思ったのだろうと思う。 一応来日するだろうことは伝えていたが、詳しい日程は知らせていなかったし、彼女も低学年の小学生と園児の二人の男の子がいるし、今日の今日を指定して逢えるかどうかはわからないけれど、息子が朝食を食べている時間に電話してみたのだった。有難いことに二つ返事でお昼前に新宿南口の改札付近で待ち合わせすることになった。ところが、意外にも新宿まで遠くて、息子の支度にも手間どい彼女を三十分も待たせてしまった・・・(ごめんなさい) なんとか再会を果たし近くのファーストフードで近況やら、三年間のことや、元教え子のこと、元同僚のことなど話して、イランから持ってきたものを渡したり、写真を撮って過ごした。厚顔無恥のくせに小心者の息子は、まだこの日は日本語で話すのが恥ずかしくて、この教え子と日本語をなかなかしゃべろうとしないで私を仲介させてコミュニケーションをしていた。 教え子の旦那さんにはその時、東北地方への赴任の話がでていて、しかも至急返事をせねばならず迷っていた。赴任するなら単身ということで、旦那さんもなかなか決意できなかったのかもしれない。相談には思ったことを述べるけど、鉄砲玉のように結婚してイランに行って戻らない私に相談してもね、きっと基準がかなりズレているから参考にはならないよ。。。っと前置きしたら大笑いされた。でもこの子は、私が退職して一年経って高校を卒業したら真っ先にイランに私に会いにきてくれた生徒だったから、大笑いされたことが気持ち良く感じられたのだった。 【向こう見ず笑はるゝもこゝろよし吾を慕ひし君なればこそ】 私の向こう見ずを笑われても気持ちがよいのは、そんな私のことを心に思ってくれる貴女だからなのです。 にほんブログ村
2017年09月03日
ようやく宿泊先の部屋に入れて、それでもきつく結いたスーツケースの紐やら鍵やらを開けたり、さっとシャワーを浴びたりしていたら、床に就いたのは月曜日の三時半ぐらいになっていたと思う。でも身を横たえたらあっという間に眠りの穴に落ちていった。 あれだけ疲れていたのに、歳なのか、、、はたまた窓からさす陽射しのせいだったのか?朝8時すぎに私は目が覚めてしまった。(但し目覚めた後、自分が今どこにいるのか理解できていない数秒間があった・・・)そして再びきちんとシャワーを浴びて着替えて、イランから持ってきていたナーンと飛行機内で出されて食べなかった苺ジャムとバターを紅茶を入れて(ティーバッグをイランから持ってきていた)一人ムシャムシャ食べていた。息子は多分数時間は眠っているだろうな、、、っと思い、パスポートや帰りの飛行機のチケットやらイランの貨幣なんかはしばらく使わないので一箇所に保管したり(翌日、この行為が裏目にでることになるとは知らず・・・)すぐに必要となる荷物の必要最低限を出したり、ホステルの近くを散策してからコンビニで息子の好きそうなものを仕入れてきたり、久しぶりに日本のテレビをつけて小さな音で見たりして過ごした。 息子は十時すぎまで眠っていただろうか?意外にもこの日、彼も私と同じように早く目覚めた。しかし息子の方は三年前より成長して、体力の回復が早くて目覚めたように思う。それでもこの日は役所にいって、その後運転免許書の書き換えに出かけるほどの体力はないし、時間もないだろうな、、、っと、しばらくのんびりしてから、近場に出かけようと思い立った。 此処(滞在先)は、三年前に泊まっていたホテルよりも私の両親が眠る霊園が近いので、来日報告がてらにお参りしてこようと思ったのだった。 【疲労の極みも何ぞ高ぶりの強りしやがて目覚めしことは】 極度の疲労もなんのその、精神の高揚の方がもっと強かったのだろうか、あんなに疲れていたのに、こんなにすぐに私が目を覚ましてしまったということは?! 息子が中学生になったこと、私が英語を始めたことなど報告した。 私は此処へ来ると、沢山の思い出が蘇ってくる。 両親だけでなく、祖母(生まれた時から祖父はいなかったので)、おじ、おば(父方、母方共に)、小学生だった頃に憧れていたり、楽しみにしていたことがまざまざと浮かんでくる! あの頃の私にとっては 東京 は好奇心と期待に彩られた未知の場所だったことを思い出すのだった。 にほんブログ村
2017年08月25日
息子の不満も“こんなところ嫌だ、どうしてこんなことになるんだ。どうしてこんなところに来たんだ、なんで奴はいないんだ!”っと爆発していた。ホテルのガラス扉の外には、軽食をとったりタバコを吸えるようなイスとテーブルが幾つか置いてあった。暇を持て余し扉から外を眺めていた息子は声を潜めて“お母さん誰か来た、もしかしたら浮浪者かもしれない、お母さんは覗かないで!“っと言ったのだった。息子はその後もその人影の様子を伺っていた。そして“ああ、いいなあ、、、お母さん、あの人テーブルで焼きそば(インスタントと思われる)を食べてるよ、あ!お母さん二つも食べているよ!僕も食べたいなあ“彼が口にしているものに息子は目が釘付けになっていたようだった。ところが息子の予想に反して焼きそばを食べ終えた男性は、自動扉から私達がボケっと座っていたところに入ってきたのだった。 ホテルの狭いロビーは薄暗かったので、彼の髪、瞳、肌の色はわからなかったけれど、彼が三十歳前後の外国人であることはわかった。私は藁をもすがる思いで彼に話しかけてみた。“どちらの方ですか?”とまずは尋ねてみたら、彼は少し困ったような笑顔になって、“母はトルコ人で父はキプロス人(もしかしたら逆かもしれないけれど、両親の二つの国は確か)で僕はイギリスで生まれて、オーストリアに住んでいて、ホリデーは日本で過ごします”っと答えたのだった。彼がご機嫌に程よく酔っ払っていたからかもしれないけれど、彼の英語は私にとてもわかりやすい音だった。私は彼に“ホテルの人はいつやってきますか?私達はイランから来ました、とてもとても疲れています、早くベッドに入って身体を休めたいのです。”っと言ったら、“へえ~イランからきたの?イランに住んでいるの?君(息子)向こうの言葉話せるの?”っとそっちの方に興味をそそられたようだったけれど、二階には相部屋と共同トイレとシャワー室、そして台所があって、台所のあるスペースには横になれるソファーがあるから其処へ行って今夜は身体を横にすると良いっと言われた。そしてラッキーだったことは彼からホテルのInternetのパスワードを教えてもらえたことだった。 二階のその共同スペースには中国人女性がいることはわかっていたので、とてもあの甲高い話し声と笑い声を子守唄にはできないし、荷物や貴重品のこともあるので、たとえ横になっても眠ってはいけないだろうし、そんなところでは身体はともかく神経が休まらないだろうっと私は思った。とにかくまずは夫に無事であることを連絡してそれからどうするか改めて考えようと思った。 ネットを使ってlineで、ホテルに着いたが、フロントにいるはずの男性がいないことを夫に告げると、フロントにいるべきである男性のlineに連絡を入れると答えて私は通話を切った。そのあとおそらく十五分ほどしてフロント係の男性は下に降りてきたのだった。後から夫に聞いた話によると彼は二階のあの中国人女性らと一緒にいてそこで眠りこけていたということだった。(私は呆れて言葉を失った) 私たちは三階の隅部屋に連れて行かれた。そこには二階建てベッドともう一つベッドがあって三人泊まれるところなので、明日部屋を変えるかもしれないけどとりあえず今夜はここを使ってっと言われたのだった。もうどうでもいいし、どこでもいいやっと、サッサっと部屋のドアを閉じて、必要最低限の品を出して着替えてベッドに足を伸ばせたのは三時を過ぎていたように記憶している。 【酒酔ひの得体の知れぬ異人こそ救世主なる世ぞ面白き】 酒に酔っ払った得体のしれない外国人が救世主だったりするからこの世は小説以上に意外で面白いのだろうねきっと。 ※私達にネットのパスワードを教えてくれた外人さんとはこれっきりで二度と顔を合わせることはなかった。 義妹のvillaで飼っている家鴨 にほんブログ村
2017年08月19日
予約していた宿泊先は、一年ぐらい前に名前を変えていた。以前はホテル○○という名だったけれど、今は客層を変えたからか、○○ホステルとなっていた。浅草へ徒歩で行こうと思えば行ける距離に所在し、バスや自転車ならば楽々行ける距離なので、外国人観光客、とくにバックパッカー向けに格安で宿を提供するようになったのだろうと思う。 そんなことでタクシーの運転手がこの場所を知らなくても仕方がないことだったけれど、ナビゲーターという文明の利器があるので、おそらく0時半になる前に宿泊所に到着したように記憶している。 到着を喜んだのはほんの束の間のことで、宿泊所のドアには鍵がかかっていなかったものの、階段の電灯がついているだけで受付の窓口は締まっており誰もおらず、書置きも、 部屋の鍵も見当たらなかった。二階からは複数の外国人女性の話し声が聞こえてくるので、私は日本語で“すいません、すいません”と声をかけたが返事はなかった。 その時ホテルの受付の電話が鳴った。途端に私は、イランから夫が心配してかけているのだろうっと感じた。 そして電話は留守電の自動応答へと変わって、夫の声が聞こえてきたのだけれど、受付の窓口が閉まっていたために私と息子は何もすることができないでいた。 薄暗い狭い見知らぬ、得体の知れない間で、助けが必要なのに伝えられないもどかしさを息子も私も感じていた。夫は二度ホテルに電話をかけた。 受付の前には二つソファーがあった。しかし座るのではなく、私達は身を横たえ足を伸ばしたかったのだ、一刻でも、一分でも早く!相変わらず中国人女性の笑い声やら話し声がするので五分置きぐらいに私は“すいません”を繰り返していた。そんなことを繰り返していたら、およそ三十分後に(月曜日の一時ぐらい)に日本人男性が心配して上の階から降りてきたのだった。 彼は私達に、上にいるのは中国人女性で、ホテルの人はしばらくしたら来るだろうと言った。わたしはせめて夫に、無事に日本にも、ホテルにも着いたとできるだけはやく伝えたかったので彼に、“わたしは日本人だけれど日本には住んでいないので携帯を使うことができないから、このホテルのWi-Fiのパスワードを教えてください”と頼んだのだが、彼は、自分も日本には住んでいないからその気持ちはわかるけれど、パスワードの控えはなくしてしまってわからない、座っていればそのうちにホテルの人が来るから、と告げて戻っていった。わたしは降りて来てくれた彼に感謝をする代わりに心の中で“役たたず!”っと悪態をついていた・・・それほどに私の疲労は限界を超えていたのだった。 この宿泊所は羽田から遠いし知らない場所だし、私は気が進まなかったのだけれど、値段だけのことではなく、抗いがたい大きな力が指定したような部分があったと言えないこともなかった、、、私達が来日する前に、空手のイランチームがある大会に出場するために格安の宿泊所を必要としていて、夫がここを予約していたのだけれども、そのチームは思いもかけずに直前に日本のヴィザが降りないこととなり渡航できなかったのだった。そして宿泊費の約半分が戻ることになったのだった。 私と息子の渡航もギリギリまで行けるのか行けないのか?わからなかったのは、金銭的な問題があって、結局その戻ってくることになった宿泊費の半分のお金を私達の宿泊費にあてて、不足分だけ支払うことにして、来日が決まったのだった。(イランチームには私達が帰宅した半月後にイランの貨幣でお返した。)確かに此処の宿泊費は安い、二人ならば一泊一人3000円+税で宿泊できるから。この値段はカプセルホテルの値段だけれど、部屋が使用できるし、二階には自炊のできる台所もあって、長期滞在には適してもいたのだった。でもその代わりにサービスがとんでもなく、、、仕方が無いのかもしれないけれども、とんでもなく、悪かったのだった。 【為ん方無き時空の定む川の瀬に浮かぶ笹舟人なるものは】 せんかたなきじくうのさだむかはのせにうかぶさゝぶねひとなるものは サダメを前に人は、時空という川の抗い難い瀬に浮かぶ笹舟のようなものだ 本当に今思い返しても日本に着いてから部屋に入るまでの四時間は、異空間にさ迷ったのではないかと思うほどに時の流れが遅かった! 数日前の空 にほんブログ村
2017年08月17日
終電の日比谷線に乗って○個目のM駅に着いたのは月曜日の〇時前後だったように思う。M駅はとても不便な駅で上り列車にのる改札と、下り列車にのる改札が構内で繋がっていないで同じ名の駅が二箇所あるような特殊な駅だった。 しかも地上にでると二つの大通りが重なる立体交差点がM駅改札に通じる二つの入口の間に位置しているのだった。そんなことなど知る由もない私はエレベーターで地上にでたら、そこには大通りが二つあって、しかもその通りの名が夜の闇でさっぱりわからない。看板が遠くて暗くてみえなかったから。 K通りは地上にでたらすぐ目の前だからそこをまっすぐ行けばいいと夫からは極々簡単に説明をされていたけれど、まさか二つ大通りがあるとは! どちらかの大通り沿いに十五分ぐらいまっすぐ歩いて左に曲がると宿泊先なのだが、大きなスーツケース二つ抱えて夜中に見知らぬ地を歩き回って、息子と一緒に迷子になる勇気はとてもとても私にはなかった。しかし携帯はネットもアンテナもなく宿泊先にも連絡できない。公衆電話もみあたらない・・・ タクシーに乗ろうにも日曜の夜中、月曜の〇時近く、過ぎ?だったからか駅前であるにもかかわらず、まったくタクシーの影はない。そして通りがかりの六十前後の女性に迷わず私は声をかけた。彼女は親切にもご自身の携帯のネットで私が告げた宿泊先の名前を検索してくれたのだけれども、出てこない。宿泊先のある大通りの名前を告げても彼女もこの土地のことはわからないらしかった・・・ 途方にくれた私が駅へ通じる階段の方をふと振り返ってみると、偶然ギターを抱えた男性を降車させたばかりのタクシーを発見した。スーツケースも息子もおばさんのところに残したまま私はタクシーに向かって腕を挙げて駈け出した。 この天の助けを逃したらもう、夜明けまで宿泊先にはたどり着けないだろうという危機感が、なんとしてでもこのチャンスをものにしなければと疲れきった私の手足を動かしたのだろう。 ようやくタクシーを捕まえて、おばさんにも息子にも、そして私にも笑顔が浮かんだのだった。タクシーの運転手は宿泊先の名を言ってもわからなかったので、住所を告げてカーナビに導かれて私達は宿泊先へと向かった。 もうすぐ、本当にもうすぐに両足とこの身を思い切り伸ばしてよこたわる幸福を描きつゝ私はタクシーに揺られていたのだった。 ・・・この先にもまだ災難が待ち受けていることなどまったく知ることもなく 【闇囲む知らぬ地潜る時の間に垂るゝ機運の綱を渡りつ】 やみかこむしらぬちくヾるときのまにたるゝきうんのつなをわたりつ 夜の闇が囲うように迫る見知らぬ地に身を投じた私は、時の狭間に垂れるチャンスの綱渡りをしながら宿を探していたのだった。 数日前の空 にほんブログ村
2017年08月15日
ほぼ定刻通りに到着した飛行機から降りて、空港内へ繋がっている通路を歩いていると、息子も私も日本の匂いを湿気の中にほぼ同時に感じとっていた。 飛行機は満員だったわけではなかったけれど、人が沢山乗っていたと思う。空港内に入ると入国審査を受ける場所に長い列が出来ていて混雑していた。私達の乗った飛行機と前後して到着した飛行機があったのかもしれない。なぜなら順番待ちしている人々の中に中国人のブルジョワ?と思われる人々の姿を多くみたから。そして日本人用よりも外国人用の列のほうがより混雑していたように思った。私達は日本人用の列に並んだので、隣に座っていたイラン人男性とはそこで別れることとなった。できれば上野まで一緒に行きたいとは思ったけれど、列の状況をみておそらくそれは無理だろうな、と私は感じたのだった。 入国審査を通り、預けたスーツケースがベルトコンベア?みたいなものに乗ってでてくる場所へ行き、十分間ほどスーツケースの受け取りに時間を費やした。スーツケースをみつけ終わったところで入国審査の方を見渡してみたけれど、あのイラン人男性の姿を私達はみつけることができなかった。息子も彼のことを心配していたし、モノレールの終電にはまだ一時間近く時間はあったけれど、そのあと山手線、日比谷線に乗り継ぐことを考えると、彼を待っている時間はないと私は判断して、税関に向い、あらかじめ飛行機の中で記載しておいた書類を渡してArrivals Floorに出たのだった。夜遅くの到着だったため、出迎えの人々が思った以上にいて、彼らをすり抜け私達は足早に東京モノレール乗り場に向かうため、階下へ降りていった。 東京モノレールに乗るのは初めてだった。車内にfreeWi-Fi と書いてあったので、あらかじめイランにいるときにいれておいた、日本国内用のfreeWi-Fiアプリケーションを起動させて、東京に着いたとメッセージだけでも入れておこうと思ったけれど、ネットに繋がらなかった。東京はオリンピックを控えているのに、使えないのか…っと率直に思った。(この感想は、この時だけでなく、この旅を通して感じた率直な思いで、freeWi-Fiでお役に立ったものは、東京メトロのものと、浅草周辺の公共Wi-Fiだけだった。あとはマクドナルドも、JRも繋がらないか、繋がりが悪いか、速度が遅いもので私の助けとはならなかった。) 浜松町で山手線に乗り換え、上野まで行った。上野から先の日比谷線もそれまで乗った事はなく、日比谷線に乗り継ぐためには大荷物を抱えた私達には、結構遠いなあと感じられる距離だった。銀座線乗り場のなお先まで行かないと日比谷線の乗り場は見えてこなかった。 ようやく行き着き切符を購入して自動改札を通ると、次の電車が最終であることがわかった。下り階段はなんとか大きなスーツケース二つを下ろしたものの、スーツケースの一つを昇り階段の一番上においたら、私は息が切れてしまった。気持ちばかり焦るのに、疲労で力がでないで悪戦苦闘していた(エスカレーターは深夜でストップしていた)。 そんな私をみるにみかねてか、後からやってきた二十歳半ばぐらいの中肉中背、しかしTシャツから身体を鍛えているのがわかる(多分どこかのジムかスポーツクラブに通っていてその帰りだったのかもしれない、という服装をした)女性が私に声をかけてくれたのだった。そして持ち上げて階段を昇るのに悪戦苦闘していたスーツケースを階段の一番上まで持ち上げて運んでくれて、私の手から彼女の小さな荷物を受け取ると、私のお礼と賛辞も軽く受け流して、爽やかに吹き通る風が如くに彼女は去って行ったのだった。 【頼るべき者なく力尽くわれに差し伸べらるゝ大和撫子】 頼れる者もなく力も尽きた私に差し伸べられるのは力強く健気にひっそりと咲く大和撫子(の腕)であった! 野に咲く花の美しさに憧れる にほんブログ村
2017年08月06日
となりに座っていたイラン人男性は、真面目でお堅い感じの方で信心深い感じも見受けられたので、必要最低限のことしか私は話さなかったのだけれど、税関に提出する用紙の記載がきっかけで言葉を交わし、また長かった約十時間の飛行機の旅が終わり、もうすぐ日本に到着するということもあって、私は彼に話しかけてみることにした。 日本へは社用ですか?営業ですか?そんな質問から話し始めたように思う。そして話していくうちにわかったことは、彼は水戸で外国人向けに開催される何かの講習会のために、五日間滞在するということだった。しかも彼は明朝八時までにどうしても水戸に着かなければいけないと語ったのだった。それを知り私も息子も絶句した!! 私自身、日本到着が近づくにつれ決して少なくも、小さくもないストレスを感じていたのは、この飛行機の羽田空港到着予定時刻が午後十時半過ぎであるということに起因していたからだった。入国審査を受け、荷物が出てくるのを待ち、税関を通って空港の外に出ると十一時になっているだろうことが予測できた。そして宿を予約した場所は上野から日比谷線に乗って幾つか行った駅で、そこに到着する前に終電が終わってしまうことを心配していたからだった。 飛行機が少しでも遅れたら、必ず途中で電車がなくなり、タクシーを拾わないといけなくなる。前回に来日した時も、おなじような時刻の到着だったけれど、ホテルは蒲田に予約していたので終電に乗り遅れても大した距離ではなかったけれど、それでも蒲田駅を経由するバス停を探し終えるまでひどく緊張していた嫌な嫌な記憶がある。今回は上野からもっと行ったところで、羽田からタクシーを使うとお代は7、000円に深夜料金まで加算されてしまう・・・ この懸念は飛行機のチケットをとったときからずっと私を悩ませていた事柄だった。 でも、、、、上野なんて近い、すぐそこじゃん!この男性、こんなに疲れているのに、どうしても今夜中に水戸付近までいこうと頑なに思っているし、今夜の分の水戸のホテル予約までしているって言っているんだよ!私も息子も、、、多分彼も、まず水戸まで辿り着けないことはわかっているのに....なんてことが心に浮かんだのだった。 彼は、終電がなくなったら、駅の構内で始発電車が動くまでいさせてもられるだろうか?っとも悩んでいたのだった。外国人だしどんなものか、、、駅員に見つかったらなんと言われるのか?彼がイラン人だと答えたら駅員はどんな対応をするのか?わたしは答えることができなかった。それよりなにより、何処かで一夜明かすときに彼が貴重品を盗まれたらどうなるのだろう、、、とかいろんな不安なできごとが次から次へと脳裏を横切っていった。 “私達が宿泊するところは安く宿泊できますから今夜はそこに泊まったら?明日、始発で出かけたらどうかしら?”っとは言ったけれど、彼はどうしても明日の朝八時までに水戸へ、今夜は行けるところまで行く、、、という決意でいる。それだったら、もう一日前に日本に到着しないといけなかっただろうし、飛行機は羽田ではなく成田空港到着にすればよかったのに、、、と思ったけれどそんなことを今更彼に知らせたところでどうしょうもないので言わなかった。 上野までなんとか到着できるだろうか・・・っと散々不安に震えていた私の心を、 “日本語もわからない、来日も始めてですっていうのに、こういう状況下の人も世の中にはいる、そう、、、あんたのすぐ隣にいるものなんだよ” と神様に笑われたような気が私はしたのだった。 【おのれのみ辛しと思ふを神笑ふ如く彼をぞ我が横に据う】 自分だけが厄介を抱えていると思っている私を笑うかのように、神は彼という人物を私のすぐ隣に据えたのだろうよ ※※※ 〜chiichanさんに頂戴したお盆の絵柄。素敵です 〜 ※※※ 母息子の創作よりも奇天烈なスットコドンデン返し道中はまだまだ続く… にほんブログ村
2017年08月02日
日本に到着する二時間ぐらい前になると、Flight attendantに、税関を通るときに提出する用紙を渡された。乗っていた飛行機はカタール航空と日本航空の共同運営便だったので、私のものは日本人用の日本語で記された用紙だったけれど、私のとなりに座っていたイラン人男性は英語のものを渡されていた。用紙を書き終えて、となりをみると、彼の不安そうな様子が伺えたので、「何かわからないことがあったら、私に尋ねてくださいね。私はペルシャ語が話せるから」と彼に伝えた。〝百万円以上のお金を所持している〟という申告に彼は悩んでいたのだけれど、「百万円もっているの??」っと尋ねると、日本での滞在費、ホテル代だという。「どのぐらい滞在するのですか?」っと再び尋ねると、五日間とのこと。一ヶ月、2ヶ月滞在するならともかく????っと不思議に思い、イランの金額で数字をいうと、すぐにわかってくれたのだった。彼は十万円を百万円と一桁間違えたのではないかと思う。もちろん彼のものはdollarで記されてはいたけれど、日本の数の単位は“万”という特殊な単位が使われているから、こういう勘違いをするんだろうな、っと私はすぐに思い当たった。一万円は Ten thousand yen十万円は One hundred thouand yenOne hundred thouand yenをdollarに換算するときに誤ったんじゃないかと予想がついたので、「百万円は one million yen のことだよ」っと私がいったら「いや、そんなには持っていない」と彼はすぐに合点した。(ペルシャ語は英語と同じように百万のことを one million と言うから。)この会話のあと、私は彼と少し話し始めたのだった。【旅路とはときめきすると気がかりをたびたび重ね行くものなりて】旅路とは、わくわくドキドキする興奮と、気がかりと不安を何度も何度もたび重ねて前に進むものだから旅と言うのだろうか...つづく来日時に従姉にもらったアヒルの親子。親子のように見えるけれど別々に売っていたとのこと。素朴な温かみのある雰囲気が気に入っている。にほんブログ村
2017年08月01日
ドーハから羽田空港までの飛行時間は十時間ぐらいあったと思う。とりあえず日本に着くまでは安心っとおもってか、機内では4時間ぐらいよく眠った。息子は機内サービスの映画視聴で3本立て続けに子供向けのアニメや映画をみていたから、数時間しか眠らなかったのではないだろうか。私は 【美女と野獣 】の実写版を見たあと眠ってしまった。とても丁寧に作られた映画で感動したけど、最後の方は眠気もかなり私を揺さぶっていた。 食事は飛行が安定してから朝ごはんとして出された。私は卵焼きとソーセージではなく、白米と魚という和風を頼んだ。食欲はあるのかないのかよくわからなかった。睡眠も食事も時差を含めて無理やり調整させられているから不調ではないけれど、快調とは言えない状態だったのだろう。健康を損ねては前回の旅と同じ目に遭うので、眠気とは関係なくできるだけ身体をやすめ、空腹に関係なく適度に食事して、水を飲み、トイレにいくことを心掛けた。 食事が終わったら機内はずっと暗くしてあったように思う。外の陽射しは雲海の上だから相当なものであっただろうけれど、窓には特殊なフィルターがかけられていて、息子が外の明るさを知ろうとボタン?だったかを押して外したらflight attendant に機内を明るくしないように注意された(>_
2017年07月23日
長かった待ち時間の6時間がようやく終わるのを告げるかのように夜が白々と明けてきた。そしてゲートが開き、朝が来てようやく飛行機に乗り込めた。 3人がけの椅子に他人が来ないといいな....っと思っていたけど、通路側の席にはイラン人の男性が既に座っていた。 私よりもきっと一回りぐらいは若いのだろうけれど、白髪がかなり混じり、きちんとした服装をしていて、とても丁寧で礼儀正しい方であることをその外見からみて取った。 息子が窓側の席を望んだため、私が彼と隣り合わせに座ったのだった。立ち上がったあと狭苦しい座席に着いたり、シートベルトをつけたり外したり、食事、仮眠をとったりする時でも彼はできるだけ私に触れないように注意を払ってくれていることを感じた。 そういう人には宗教心が悪い意味で強く、外人、異教徒に触れるのを忌としてそのように接するイラン人もいるけれど、彼の場合は異性に対する気遣いという良い意味での所作だったと思う。 そして一般的にイランでは異性同士は気軽に声をかけたり、目を合わせたりすることはないので彼とは、日本に到着する四十分ぐらい前まで、ごくごく必要な時に、最低限の言葉しか交わさないでいたのだった。 【辛き夜の終わり告げし白光は旅のつヾきの扉放ちぬ】 長く辛かった夜に終わりを告げた朝の白い光は旅の続きの扉も開け放ったのだった にほんブログ村
2017年07月21日
ドーハで待ち合わせ時間が6時間もあったなら、置き忘れた息子のスマホをなんとか見つけて受取ればよかったっと日本に着いてから思ったものだったけれど、この時はまともな思考は持ち合わせていなかった....(;´д`) 羽田空港行きの飛行機のゲートまで行ったものの、まだまだ時間があり、硬いイスで座っているのはきつい、その後十時間もまた機内で過ごすことを思うと少しでも身体を休めておきたかった。 搭乗ゲートの近くにビーチサイドで日焼けに使うイスよりは角度があるけれど普通よりは脚が伸ばせる椅子のある休息室をみつけた。 息子は最初入室を嫌がったけれど、とにかく休めるうちに休まないとと言い聞かせた。 休息室は、空きができるとすぐに新しい人が来るので、ちょうど二つ並んだ長椅子をみつけてそこに身体を預けた。 クーラーが効きすぎて風邪をひきそうだったけど、スカーフもかぶって夏物長袖二枚重ねて眠った。 息子は秋物の帽子付きを持っていたので、息子の心配はしないですんだ。 私は一時間半ぐらい眠れたか。。。。息子は2時間半以上は眠っていたようにおもう。人によってはフロアの上にぐったりと身を横たえ眠っていた。 私は、息子の隣りでぐっすり眠っている黒人さんの所作に敏感になっていて度々目を覚ましてしまった。 私の隣りの女性はずっとスマホを眺め読んだり、どこかに書き込んだりしていた。 私のスマホはどういうわけか旅行の1ヶ月前からアラームがならなくなってしまい、目覚ましもなかった。飛行機の時間が気になって仕方がなかったことも私の眠りを浅くしていた。 三時間眠って息子が目覚めたところで休息室を退室した。まだ二時間近く待ち時間はあったけれど、そのうちゲートが開いて搭乗できるだろうし、トイレにいったり、このあと長時間座り続けなければいけないので、多少身体を動かしておこうと、息子とたわいもないことを話しながら空港内をゆるゆる歩いたのだった。 【心では思はざるもストレスは眠りの湖(うみ)の面(おもて)にぞ映(は)ゆ】 緊張やストレスは心で感じていなくても体は正直で睡眠という行為の水鏡によく映し出されるようだ にほんブログ村
2017年07月17日
飛行機は時刻通りに準備が整い、搭乗ゲートが開いて私たちは乗り込んだ。テヘランからカタールのドーハまでは、約二時間半のフライトで、座席は二人がけで私たちだけだった....他人を気にせず休める、ラッキーっと思ったのだけれど、後から考えるとそれが災いしたのだろう・°°・(>_<)・°°・。 フライトはテヘラン時間の11:35PM(7月24日)。普段十時半、十一時には眠くなる私は飛行機に座って間もなく、五里霧中の海に人魚の子守唄に誘われるかのように船を漕いで夢路を辿っていた。 息子はテヘラン空港のゲートで搭乗を待っている時から自身のスマホでゲームをして時間潰しをしていたが、機内でも引き続きゲームしていたんじゃないかとおもう。。。 二週間の滞在費の三分の一ほどの日本円が入ったバッグを肩から下げ私は船を漕ぎ続けていた。 ↑テヘランを飛び立ってすぐに撮影。 ドーハに到着したのは現地時間の7月25日0:10AM ドーハの方がイランよりヨーロッパ寄りで2時間の時差がある。 飛行機から降りて、transfer(乗り換え)の案内に従い、再び手荷物検査を受けた後階下へと向かった。 意外に広い空港で免税店は夜中でも普通に開店していた。また混んではいなかったけれど、トランジットのために空港で待ち時間を過ごす人が世界各国から来ているのがわかり、混みあってはいなかったけれど空いてもいなかった。 ドーハに着いてすぐに息子が私に 「お母さん僕のスマホ頂戴」っと言った。 私は何のことだかわからず、 「え?あずかってないよ???」 息子「飛行機の中でお母さんに預けたでしょう?」 何を言ってるのか、預かった覚えはない....息子は確かに預けたという。 そして私はねぼけながら受け取ったという。 私には記憶がなかった。 記憶を手繰ると、一度機内で物音で目が覚めたことがあった、通路側を見たら私の座席のシートベルトが落ちていたから、てっきりその音だと思い込んだけれど、息子のスマホが膝から落ちて前方の座席の下に落ちた音だったのだろう っと思い当たったけれど後の祭りだった.... なんで一心不乱?に眠りこんでいる私の手に息子は預けたのか?意識のない人間なんか人の形をしているだけの物体なのに?! しかも私は肩からバッグを提げていた、私の手ではなく、私のバッグにサッと入れるという機転がきかない息子が腹立たしかった! そして旅の初っ端から失敗をやらかした自分に幻滅したのだった。 【災ひは安の弛みに潜み在る人魚誘ふ水底がごと】 わざはひはあんのゆるみにひそみある にんぎょいざなふみなぞこがごと 災厄は安穏とした雰囲気の気の弛みの中に潜んでいる 美しい人魚の歌う声に誘われて海の底に引っ張り込まれて溺れるように ************ しばらく息子と私の間には不穏な空気が流れていたけれど、私の脳みそは再び睡眠を欲し、息子は私のスマホをいじり始めてスマホをなくしたことから気がそれたのだった。 ドーハでの乗り換え待ち時間は6時間もあった! ↑息子撮影。意識のない私 にほんブログ村
2017年07月14日
旅の始まりは7月24日土曜日。 午後11時半すぎの飛行機に乗るために、 午後5時頃家を出た。 その前に義両親、義姉妹たちにお餞別(イランの貨幣で日本では使えないけど、イランにも旅人に金品を渡す風習がある)をいただいた。 早すぎかな?と思ったけれど、途中道路が渋滞していたので、早めぐらいで良かったのだと思った。 2013年だったか?ドイツに行く時に空港が恐ろしく混んでいて三時間前に空港にいたのに、アナウンスで数回名を呼ばれ、飛行機の出立時刻はとうに過ぎていても私たちの前には、出国審査の長蛇の列があったことがあったので、早めに家を出たのだった。 空港は意外にも空いていたけれど、テロに備え警戒態勢を強化していたので、空港の一部が閉鎖されて移動は不便で時間がかかった。 荷物を預け、出国審査もガラガラで待つことも無く通過し、飛行機搭乗ゲートでリラックスして待っていた。 イマームホメイニ国際空港 【繰り返し名を呼ばれ発つ時も過ぐも吾は長蛇に巻かれ】 思い出したくない一瞬というものが必ず挟まって編まれているのが 過去 という読物なのかもしれない。 【思ひいでたくなき時の挟まれて編纂さるゝを過去といふなり】 このリラックスは束の間.... 飛行機を乗り継ぐ前も、乗り継いだあとも、母と息子にはいろいろな出来事があった! にほんブログ村
2017年07月11日
疲労困憊帰宅。 荷物の整理をして数時間爆睡。 再び荷物整理、、、で今日は終わってしまった。 何はともあれ無事に旅を終えられたことに感謝m(_ _)m 旅のお話は少しずつ記そう。 三、四年に一度日本を訪れるとして、あと何度私は行けるのだろうか? 三年前には感じなかった疲労を感じながらそんなことを思った。 時間とお金だけでなく、まず体力がないと旅を愉しめないものだと感じた。 そして気力と体力のあるうちにできるだけ来日したいものだと思った。 【能ふなら吾身に力あるうちに度々(旅々)問はむ故郷(くに)愉しまむ】 あたふなら わがみにちからあるうちに たびたびとはむ くにたのしまむ 今朝飛行機のなかからみたお月様 にほんブログ村
2017年07月11日
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