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< 仲間のいない電車 > 何故だか私はアメリカのサイボーグに乗って戦っていた。相手はソビエトのサイボーグ。何故ロシアではないのかも分からない。空に飛び立つ際、怖くてサイボーグの胴体にしがみつく所で目が覚めた。ここで一旦トイレに起き再び眠る。次の夢も奇妙。淋しい郊外で妻と別れて手を振った途端、目覚ましが鳴った。 時間は4時過ぎ。直ちにレース用の服に着替え。既に長袖シャツにはナンバーカードを張ってある。前夜雪が降ったことを確認し、雪の量から何とか最寄り駅までマウンテンバイクで行けると判断していた。このため荷物もリュックサックに入るくらいの量まで減らしていた。 玄関に行くと愛犬がいつもの散歩と勘違いして、盛んに尻尾を振り、外へ出ようとする。それを押し込めて扉を閉める。外気の冷たさに緊張が走る。道路の凍結が一番の心配。裏道を避け、バス通りの車道を行くことにした。まだ融雪剤を撒く作業車は出動しておらず、道路は圧雪状態。後で知ったのだがこの朝の最低はマイナス7度だった由。風が冷たく、直ぐに手がかじかんだ。 国道に出ると歩道の雪がバリバリと音を立てる。昨夜のうちに踏まれて凍った雪の音だ。積雪量は5cmほど。タイヤが幅広く、溝が深いマウンテンバイクだからこそこんな状態でも何とか進める。今は転ばずに駅に着くのが精一杯。帰りのことまで心配する余裕がない。慎重に坂を下り、何とか駅周辺まで来た。 コンビニで食料と飲み物などを調達。果物や薬などは家から持参してある。5時過ぎには駅に到着。だが有料の駐輪場はまだ開いていない。駅員が駅の入り口で雪かき中で、利用者はまだ誰もいない。駅舎に入り、念のために時刻表を確かめる。常磐線いわき行き電車は5時34分の発車。まだ時間はたっぷりあるし、これなら何の影響なく電車は運行しているはず。 ようやくシャッターが開いた駐輪場へ自転車を置きに行く。駅に戻るとS田夫妻の見慣れた顔があった。M井さんは前泊するらしい。それでも後何人かはこの駅から乗り込むだろう。初参加の夫妻にはそう話したのだが、何時になっても誰も来ない。あらら、こんなことは初めて。一体皆はどうしたのだろう。 定刻通りに仙台からやって来た上り電車に乗り込む。いつもは近くの駅から乗り込むY広さん達も来ない。念のため別な車両を観に行ったが、やはり仲間はいなかった。S田夫妻と歓談。話したのはM子さんの体調や、ご主人の別大マラソン参加のことなど。別大は今年60回の記念大会で参加資格を緩めたため、走友会から他にK野さん、A部さん、O内さん、S水さんが参加予定の由。 雪は県南の山元町まであり、福島県に入ると見えなくなった。相馬市付近で夜明け。どうやら天気は良さそうだ。お握りと煮物の朝食を摂る。福島の大野駅からY田さんが乗った。前夜は実家に泊ったため、仙台に雪が降ったことは知らなかったようだ。彼から仲間の参加状況を聞く。 M仙人は東京のマラニックに参加。Y広さんは不参加。Eちゃんは治療のため当分の間活動停止みたい。M井さんは勝田に前泊。なるほどそれで誰も乗らなかった訳だ。Y田さんとは2月の「いわきサンシャインマラソン」始め、今年の参加予定レースについて情報交換。窓の外で揺れる樹木。どうやら今日は風がありそう。特に勝田周辺は風が強いことで有名だ。 乗り換えのいわき駅でトイレを済ませ、茨城県に入ってからバナナと蒸し菓子を食べ、栄養剤を飲む。10時06分勝田駅に予定通り到着。会場へ急ぐ途中の商店街ではテーマソングの「君よ勝田の風になれ」が繰り返し流れ、いやが上にも臨戦態勢になる。受付で参加賞を受け取りいつもの指定席へ行くと、古川組の5人とM井さん、北海道のH賀さんが揃っていた。<続く>< 1月のラン&ウォーク >ラン回数:18回(うちレース1回) ラン距離:231km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:129km 月間合計360km これまでの累計75,040km
2011.01.31
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「第59回勝田マラソン」からつい先刻、無事帰宅しました。結果は4時間28分00秒(ネットタイム:4時間24分56秒)でのゴール。フルマラソンの参加者数は1万1千人くらいのようですが、順位は4594位でした。 最高気温は5度で晴れ時々曇りの予報でしたが実際は曇り時々晴れで、曇ると気温が下がり、風が吹くと体感温度はさらに下がり、とても寒い42kmでした。途中26km地点付近から右大腿部に痙攣が起き出し、だましだましの完走でした。所属走友会や宮城UMCの仲間も全員完走されたようです。 今回のレースについては、明日から完走記を書く予定です。どうぞお楽しみに。また留守中いただいたコメントへの返事は、明日書かせていただきます。心からの応援、本当にありがとうございました。
2011.01.30
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昨夜7時半ごろ、ブログのヒット件数が15万件に達した。開設したのが4年前の5月27日で、1日平均のヒットは112件。これには自動巡回分なども含まれているため、皆が皆読んでるわけではないだろうが、それにしてもさほど面白くもない私のブログを訪ねていただいたことに感謝したい。 未明、トイレに起きると居間の照明が点いていた。どうやら妻が起きて仕事をしているようだ。月末が近づくと報告書をまとめるため、妻は忙しくなる。そんな時はそっとしておくのが一番。そのまま朝まで布団の中。結局8時間半ほど眠ったようだ。きっと私も疲れていたのだと思う。 遅めの散歩から戻ると、妻は眠っていた。仕事を終えた後、二度寝したのだろう。静かに朝食の支度をし、1人で食べた。やがて起き出した妻は朝食と洗濯を済ませ、買い物に行った。この間、一言も口を利かない妻。何か気がかりな点でもあるのだろう。こんな時は敢えて話をせず、明日の早朝に出かけるレースの準備をする。 茨城県水戸市の明日の天気は晴れときどき曇りで、最高気温は5度。風さえなかったら、それほど寒くはないはず。長袖Tシャツにゼッケンを張り、軽めのシューズにICチップを取り付ける。手袋は一応2重にした。もしレース中に暑く感じれば、1枚脱げば良い話。若干の食べ物と着替え、薬類などを揃えておく。 何度か書いたように、問題は今夜の天気。明朝まで雪になるとの予報なのだ。自転車で最寄り駅まで行ければ一番便利なのだが、降雪量が多い場合や道路の凍結が怖い。きっとまだタクシーも走っていないはず。レースのある茨城県ひたちなか市までは、JRの普通列車を乗り継いで5時間近くかかり、朝食も電車の中で摂ることになる。結構長い旅なのだ。 古川組はきっと全員が前泊だろうが、我が走友会の仲間達はほとんどが当日のJRで行くはず。時刻は調べたし、安い切符も金曜日に買った。どうにもならないのが天気だが、これだけは運に頼るしかない。肝心のレースも運次第。何せ42kmを走るのは約2か月ぶりだからだ。寒さに体がどう対応してくれるか。そして最後まで足が痛まずに持つかどうか。 さて明日1月30日は、四国に住む2人の孫の誕生日でもある。上の孫は10歳、下の孫は8歳になるはず。先日は大量の写真と一緒に彼女達の手紙も送られて来た。私達より字がきれいなのは習字を習っているため。ピアノや合唱の稽古も賞をもらうほど順調なようだ。久しぶりに電話で話したら、下の孫娘の方はどこかぎこちないしゃべり方だった。彼女と会ったのは3年も前の話だから無理もない。その点上の孫娘はしっかり受け答え出来ていた。 今日は愛犬との2回の散歩以外はどこへも出かけず、自室で読書に励んだ。これできっと1週間分の疲れは取れたはず。今夜もゆっくり眠ってレースに備えたい。そんな訳で明日は早朝から出かけ、帰宅するのは深夜になる予定。明日のランニング日記の欄には既に42kmと記入したが、その通りの結果になることを願っている。
2011.01.29
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本が好きになったのは、確か小学生の頃。古本屋で美術全集を観てからだと思う。大人になって本と関わりのある仕事に就き、35歳くらいから歴史関係の新本を好んで買うようになった。取り敢えず買っておき、後で暇が出来た時に読むと言う方法だった。 買ったのは日本の古代史関係が多いが、それに関連する考古学や民俗学、文化人類学、人類学、言語学、神話学などの分野もたまには買った。沖縄への赴任後は沖縄の歴史や文化が関心の的となり、博物館に勤務した時期はアイヌ文化に心を惹かれた。買った本の大部分は専門書で、中には難解過ぎて途中で読むのを止めたのもある。だが我慢して読んで行くと、素人ながら少しずつ理解出来るようになるのが不思議だった。 現在の仕事に就いてから、藤沢周平の小説を読み耽った時期があった。わざわざ図書館から彼の全集を借りたのだ。確かに面白かったが、やがてどこか物足らなくなった。きっと趣向を重ねたのだろうが、私には同工異曲の作りものとの印象が強くなったためだ。 昨年たまたま読んだのが吉村昭。特に幕末期の歴史小説は圧巻だった。時代小説には必ずしも歴史的な事実は含まれないが、歴史小説には真実が求められる。彼の小説が面白く感じるのは事実関係を証明するために徹底的に史料を発掘し、それを基礎にして深みのある人間像を築き、壮大なストーリーを展開させるからだ。 私が歴史小説に求めるものは第一に真実。歴史の真実味を感じられない小説に興味はない。第二が人物像の確かさ。主人公がどんなことを考えた人間だったのかを知りたい。そして小説から学ぶことがあるかどうかが第三の視点。だから単にストーリーや発想が面白いだけでは満足出来ないのだ。 その点、昨秋から読み始めた宮城谷昌光の小説は、私の好みにぴったりだった。最近読んだのが「天空の舟」。これは古代中国の王国である「商」(殷)の宰相となった伊尹の生い立ちから逝去にいたるまでの不思議な因縁話だった。また「玉人」は6つの短編から成る幻想的な恋愛話で、これも古代中国の話。 「春の潮」は2編の初期作品と、その20年後に書かれた短編から成る。初期作品は学生当時の著作で、青年の屈折した心境がテーマ。確かに優れた文章表現だとは思うが、私にとっては読まなくても良いものだった。最後の一編だけが面白く、心に残るものがあった。そして目下読んでいる「史記の風景」は、中国の歴史書である史記のエピソード集。小説ではないが、著者の教養を感じさせる内容だ。 著者自身にも私は深い関心がある。彼の専攻は英文学だが、好んで取り上げるのが古代中国史中の人物。これが何故なのかが不思議でならない。高校時代に漢文を習ったと言うが、そんな知識程度で書ける内容ではないからだ。難解な文献を徹底的に読み返し、歴史の真実と確かな人物像とを描き出す手法には、ほとほと感服せざるを得ない。まさに神業だ。 何冊かの読書の合間に高良倉吉の「琉球王国」を読んだ。十数年前に見落とした重要な史実を今回幾つか発見し、非常に驚いた。そして沖縄の置かれた特異性について改めて再認識した。歴史も、またそれを作る人間も実に面白い。そして、事実を発掘する研究者がおり、それをテーマに取り上げる作家がいるからこそ、歴史の真実や面白さが私達素人にも伝わるのだと思う。
2011.01.28
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郵便局へ行って来た。妻に頼まれた振り込みと、当たったお年玉付き年賀状の賞品交換だ。当たったと言っても4等の切手シートが4枚だけ。日本郵便会社になってからかなりケチになったせいか、なかなか当たらないんだよねえ。 帰宅して暫くすると妻がランニングから戻って来た。今夜からまたまた雪の予報。走れるうちに走っておいた方が良いと妻は判断したのだろう。ともかく走れることは良いことだ。体にも良いし、ストレスが解消されて精神的にも良いからだ。 妻が昨年走り出してから、かなりの変身があった。最大の変化は体重が5kgも減ったこと。元々妻は太っている方ではないのだが、何故短期間に5kgも痩せたのかが不思議。2時間近く走れるようになって、体が絞られたのだろうと考えざるを得ない。 最近妻は良く食べる。食べることに貪欲になり、動物性たんぱく質を良く摂るようになった。以前は内心不満に思っていたことがあった。身長が10cm以上、体重が10kg以上少ない妻と私がおかずの量が同じなのは不公平じゃないかと。今ではその不満はない。あれだけ長く走れるようになれば、むしろたくさん食べるのは当然なのだ。 最近妻はショウガ入りの炊き込みご飯を作る。具は千切りにしたショウガと油揚げとマイタケ。最初聞いた時は「ええっ?」と思ったが、独特の香りがしてなかなか美味しい。何でもショウガは体を温める働きがあるとか。元々冷え症気味の妻には適しているのかも知れない。 少々不満なのは料理の際に量を作り過ぎること。ホームヘルパーである妻にとって、料理は得意中の得意。安い材料で簡単に美味しいものを作る天才だ。だが、残ったものはなかなか食べようとしない。結局は翌朝の食事や昼食の麺類に入れて、私が食べることが常。それでも物が無い戦後間もなくの頃育った私には、食べ物があるだけでも有難いのだが。 2か月以上かかった歯医者は先週で全ての治療を終え、私の口の中には新しい義歯が入った。初めは少し戸惑いがあったものの、今ではすっかり慣れた。優しい歯医者さんだった。奥様を含め、スタッフも感じの良い人達だった。そして何よりも新しい歯はしっかり物を噛めるようになった。老後の健康を保つためにも、これほど嬉しいことはない。 昨日は内科に行った。寒さが続いているため、多分血圧が上がっているだろうと予想していたのだが、その予想は見事に外れた。測定結果はむしろ低血圧の数値。聴診でも何の問題もなかった。薬局でいつもの薬を1カ月分もらって帰宅した。それにしてもあれほど混んでいた病院内が閑散としていたのは何故。 そのことを話すと、「先生が横柄なため、他の病院に変わった人が多いみたいだよ」と妻。彼女は職業柄、色んな病院の評判を聴くようだ。医師の横柄さは私も初めから感じていた。臨終までのホームドクターであって欲しいと願っていたのだが、その気持ちがかなり薄れたことも事実。 家の近所に良い医師がいることは老後の安心につながる。あの歯医者さんみたいな先生ばかりだとどれだけ助かり、どれだけ有難いか。健康には出来るだけ自分自身で気をつけようと思っているが、最後に頼らざるを得ないのはやはり医師の存在だ。あれだけ来院する患者が減れば、ひょっとしてあの先生も何が原因かそのうち気づくかな?
2011.01.27
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サッカーアジアカップの対韓国戦の結果が気になっていたのですが、昨夜は観ないで寝てしまいました。結果は何とPK戦での勝利でした。韓国を破ったのは実に5年ぶりとか。延長戦まで行って2対2の同点。やはり韓国は強敵でした。それでも最後はキーパーの川島が好セーブの連発。良い仕事をしましたね。さて、次の決勝戦の相手はウズベキスタンを6対0の大差で破ったオーストラリア。何とか4度目の優勝を果たして欲しいものですね。 鳥インフルエンザ発生のため宮崎県で41万羽のニワトリを殺処分している最中なのに、今度はお隣の鹿児島県出水市で発生したとのこと。出水市と言えばナベヅルの飛来地として有名なところ。それが先日9羽ほどが死に、そのうち6羽から強毒性の鳥インフルエンザが見つかった由。鹿児島は養鶏日本一で、出水市を中心にした半径10km以内で525万羽が飼われていると言うから、宮崎県の比ではありませんね。被害の影響がとても心配です。 佐渡のトキ保護センターのトキ2羽がビタミン不足になったと言うニュースにも驚きました。1歳のメスは翅を垂らしていたため調べたら骨折と判明。また4歳のオスは池で溺れていたため調べたらビタミン不足と分かったそうです。そしてその原因が何とドジョウの食べ過ぎ。厳しい冬でその他の餌が採れなかったのでしょうか。取り敢えずビタミン剤の補てんで症状は緩和したみたいですが、鳥がビタミン不足で溺れるとはねえ。 一方、スペインの国内に住むトンビは白いプラスチックの破片で巣を飾ることが分かったとか。この珍しい習性が見られるのは7歳から12歳までのオスに限られ、それよりも若い鳥や年老いた鳥は、逆に白いプラスチックを巣から捨てるんだそうです。この行動はどうも繁殖行動と関係しているようです。青い色のゴミを集める鳥の話も聞いたことがありますが、あれは南太平洋のどこの島だったかな。 栃木県の塩原温泉では、温泉街にクマが出没したとか。地元の猟友会が退治したのは3歳のオスのツキノワグマ。体重は35kgだったそうです。塩原温泉と言えば結構山岳地でしょ。それにこの厳しい寒さ。普通なら冬眠してるはずのクマが何故この時期にノコノコ出て来たのか。昨年の夏は暑さが厳しく、餌のドングリが少なかったのも関係してるんでしょうね。きっと腹ペコで眠れなかったのかもよ。そう考えると何だか可哀想ですね。 奈良県の纏向遺跡から6種類ほどの海の魚の骨と淡水魚の骨が大量に発掘されたみたいですね。それがここが邪馬台国である証拠なんだとか。同遺跡からは確か昨年、大型の住居跡が出ています。そして直ぐ傍には卑弥呼の墓と伝えられる箸墓古墳があります。だから大量の魚は卑弥呼に献上された証し、と考えたのでしょうね。でも、吉野ヶ里遺跡のある九州の研究者は、そんなことは邪馬台国があった決め手にはならないと話しています。 少し前に沖縄本島北部の八重岳で桜が咲き始めたとのニュースがありました。ずいぶん早い開花ですが、これは本土のソメイヨシノなどとは種類が違います。台湾原産のカンヒザクラがその花。漢字だと寒緋桜と書きます。本来の呼び名は緋寒桜(ひかんざくら)。でもそれだと本土の彼岸桜と間違えるため順序を変えたのです。下を向いて咲く可憐な花で、色は濃いピンク。本土の桜と違って、花は1ヶ月間も散らずに長持ちするんですよ~。
2011.01.26
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昨日は夕方6時に気温が0度まで上がったため、今年初の真冬日にはならなかったとか。そんな寒さに負けないよう、ちょっとした工夫をしている。勤務後は大抵走って家に帰るため、走る格好に着替える必要があるのだが、第2現場には着替えの場所がない。これまでは第1現場に出勤した直後に着替えていた。 それなら誰もまだ出勤してないため裸になっても良いからだ。ところが厳寒期の今は、寒い部屋で着替えるのが辛い。そこで出勤前に自宅で着替えることにした。長袖シャツの下に、長袖のTシャツを着、ズボンの下にロングタイツを履く。タイツは股引代わりになって、防寒に役立つ。第2現場では女性のいる前で着替えるため、例えズボンを脱いでも下がタイツだと大丈夫だし、勤務後はそのまま走って帰れるので一石二鳥なのだ。 「今でも走ってるの?」。第1現場のビルに役職者を乗せて来る個人タクシーの運転手に聞かれた。「うん、少しはね」。そう答えると「今は練習時期だからたくさん走った方が良いよ」と彼。「まあね」。私は曖昧に返事する。彼が良く腰を傷めて接骨院に行くのを知っている。仕事柄運動不足になり、直ぐギックリ腰を起こすのだ。 そんな彼が、都道府県駅伝の放送や寛平ちゃんの地球一周達成のニュースを観て、何らかの刺激を受けたのだろう。忠告や激励は嬉しいのだが、こちらは走り始めて32年目のランナー。自分の調子は自分が一番良く知ってるとの自負がある。歳が歳だけにそうそう無理は出来ないし、まして寒さが厳しい今の時期は、慎重なくらいでちょうど良いのだ。 そんな私が、ここ1週間ほどとある実験をしている。迫ったレースに備えて軽いシューズを試すのが1つ目。そして医療用インソールをしないで走るのが2つ目の実験だ。それは3年ほど前に傷めた左足が、ひょとして少しは回復していないかを確認するためでもある。軽いシューズはスピードが出て速く走れるが、それだけ脚への負担が大きい。 医療用インソールは偏平足による障害を防ぐためのものだが、堅いシリコン製のため抵抗が大きく、長期間走るうちに足の指や足底に「タコ」が出来て痛むのだ。左足の障害は種子骨の突起で起きた腱鞘炎だが、その後周囲の筋肉や靭帯が強化されたことで、ひょっとして医療用インソールを装着しなくてもフルマラソンくらいなら走り通せるのではと考えたのだ。その推測がズバリ的中し、今のところ何の問題も無い。 今日も山道を走って帰った。天気は良く風もない。ただ、博物館前の池には厚い氷が張り、天守台のトイレの水道は凍結していて飲めなかった。山道の歩道の残雪ゾーンは100mくらいから10mまでに減り、それも走れるほどにまで融けていた。やはり軽いシューズのせいか、時間が少しずつ短縮されているのが嬉しい。 それでも油断は禁物。レース前日の土曜日はまたまた雪になるとの予報。日曜日の早朝に駅まで自転車で行く時、道路の凍結が心配だ。途中のコンビニで食料を仕入れることも含め、今から当日の行動をシュミレーションしておく必要があるだろう。それにJRの時刻表も確認しておかないとね。何年か前、わずか1分差で電車に乗り遅れたことがあったからだ。危ない危ない。
2011.01.25
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卓球の日本選手権で男子シングルスの水谷選手が5連覇達成とのこと。彼は明治大学の現役学生で21歳とのこと。そうすると初めて優勝したのは17歳と言うことになる。女子の連覇記録は中国から帰化した小山ちれ選手の6連覇がこれまでの最長らしい。水谷選手はその記録を破りたいと話しているとか。何と頼もしい青年だ。女子の石川選手と言い、今後の活躍がとても楽しみだ。 男子の都道府県駅伝は、我が宮城県が最終区間まで1位でタスキをつないだ。だが、最終区間の大学、実業団にめぼしい選手がいないのが宮城県の悩み。スタート前には、多分10位前後になるだろうと思っていたが、まさかのトップ。だが、やはり精鋭を満遍なく揃えた他県には勝てなかった。7人に抜かれての8位は致し方ないところか。 それでも高校生に凄い選手がいると知って嬉しかった。仙台育英や東北高校は京都大会の常連だが、昨日の都道府県駅伝は強い学校ではなく強い個人が選手として選ばれるせいか、出場したのは私が知らなかった選手。都大路を走れなかった選手にとっては、とても嬉しいことだと思う。それにしても本県には強い大学生や実業団選手が少ないのが何とも残念だ。 大相撲初場所で優勝した横綱白鵬が、優勝後の披露パーティーで「ゆりかごのポーズ」をしていたのには驚いた。あれはサッカーで得点を挙げた時に外国の選手が良くやるポーズ。それを横綱が真似したのだ。実は前日白鵬には3人目のお子さんが誕生した由。女の赤ちゃんだったそうだ。それを聞いていたためとても微笑ましく感じた。時代は少しずつ変わって来たようだ。昨日は「湘南マラソン」が行われた日でもあった。ブログ仲間のhoneyさんは初めて5時間を切り、自己新記録でのゴールだったようだ。そして星峰さんは給水所でのボランティアをされた由。2人は星峰さんが待つASで無事対面出来たとか。仮装姿で楽しむランナーや颯爽と湘南の風を切るランナー達。好天の下、さぞ気持ち良く走れたことだろう。 1月の予定レースの「勝田マラソン」に引き続き、2月の予定レースである「いわきサンシャインマラソン」のゼッケンナンバーなどが届いた。いよいよ今年の初レースが近づいた。そしてその2週間後が2つ目のレース。果たして今の自分にどんなレースが可能なのか、体調と相談しながら最後までゴールを目指したいと思う。 昨日から時々頭痛がしていた。きっと厳しい寒さで血管が収縮し、血圧も普段より高くなっているのだろう。今日の立哨中に手はかじかんで痛くなり、足元には冷気が渦巻いていた。気温はマイナス1度だったが、風のせいでマイナス5度ほどに感じた。暖かいココア飲料で、何とか一息ついた。 勤務後は寒風の中、山道を走って帰った。標高の高い歩道の所々に雪が残り、一部は凍っていて危険なため車道の端っこを走る。膝の神経痛が今日は最後まで出ずに走れた。何とかこのままの状態でレースに臨みたいものだ。極力風邪に注意し、万全の体調で走ろうと思う。 2月初旬の「別府大分マラソン」にブログ仲間のらんふぉさん(沖縄)が初挑戦するようで、目下調整中みたい。同レースには同じ走友会のS田さんも参加予定と聞いた。名古屋のりゅうたさんは多分今年も参加するはず。国際レースに出るランナーの心境はぼんくらランナーにはとても理解不能だが、各自ベストのパフォーマンスが出来るよう願っている。
2011.01.24
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昨夜は「世界ふしぎ発見」を観ている途中に眠たくなり、8時間ほど眠った。私が起きた後も、妻はまだ眠っていた。実はホテルに泊った前夜妻の携帯に電話があり、そのことが気がかりで良く眠れなかったのだそうだ。ホームヘルパーと言う仕事の性質上トラブルが結構あるようだ。高齢者の利用者はちゃんと認識出来ずに怒ることが多いのだとか。 私達がホテルへ泊った夜、愛犬はちゃんと大人しく留守番をしていたようだ。帰宅すると物音を聞いた彼は盛んに吠えた。それでも私達だと分かると、急に大人しくなった。今朝は愛犬との散歩後、私が味噌汁を作った。主食のカレーは出来ていたから楽なもの。カレーを温めているうちに、ようやく妻も起き出した。 今朝はいつもの番組でなく、別な放送局で寛平ちゃんのことを大きく取り上げる番組を観た。アースマラソンの隠れたエピソードが幾つか紹介された。高齢のお母さんには、一旦地球一周の旅に出たら家に帰って来れないので、自分が戻るまでは絶対に死ぬなと言い残して出発したとか。無事に帰宅した息子を見て嬉し涙を流すお母さんの顔は、寛平ちゃんとそっくりだった。 奥さんが何度もレース中の寛平ちゃんを応援に出かけたことはブログで知っていたが、彼らの夫婦愛には涙が流れた。お母さんもそうだが、ヨットで太平洋に乗り出した時は、もしかしたら無事上陸出来ないかもと不安になったそうだ。息子が作った親父に捧げる歌を聞いた寛平ちゃんは泣いていた。息子も今度の地球一周旅で、益々親父の偉大さが分かったようだ。 11回もレース中に応援に行ったと言うアメリカ人のアメマのおっちゃん。彼は戦争で片足を失った人だが、寛平ちゃんの力走に感激して義足でランニングの練習を始め、フランスで念願通り一緒に走った由。その距離は僅か20mほどだったが、2人にとっては忘れられない思い出になったことだろう。 遥々ウズベキスタンの原野まで応援に駆け付けたかつての吉本の先輩。彼は喉頭がんで声を失い、吉本から黙って去った由。だが当時受けた恩義を返すため、前立腺がんに罹った寛平ちゃんを励まそうと、無理を押して不毛の土地へ旅立ったようだ。35年ぶりの思いがけない再会に、2人は涙で熱い抱擁を交わした。何と言う人生。そして何と篤い友情だろうか。 ゴール後の祝賀会が終わった後、寛平ちゃんはアースマラソンのスタッフと一緒に、翌朝まで痛飲したようだ。共に険しい旅を続け、共に苦しんだ仲間とは、きっと家族同様の付き合いだったのだろう。その後いつも見ている番組にチャンネルを切り替えたが、何とこちらのアースマラソンの紹介は30秒足らずで終わってしまった。ライバル社とは言え、何だかねえ。 卓球の日本選手権女子のシングルスでは、高校生の石川佳純ちゃんが自分よりも世界ランクの高い福原愛選手を破って初優勝した。前から勝負強い子だったが、凄い高校生が現れたものだ。一方の愛ちゃんは小さい頃からマスコミに注目された人気者だが、世界では強くても国内ではまだ優勝出来ないのが不思議。 大相撲初場所で横綱白鵬が千秋楽を待たずに18回目の優勝を果たした。6場所連続優勝は大鵬、朝青龍に続き3人目の快挙とか。先場所連続優勝をストップさせられた苦手力士の稀勢ノ里に今場所も不覚を取ったが、彼はまだ若い横綱だ。今後も慢心せずに精進を続ければまだまだ優勝回数を延ばせるのは誰が見ても明らかだ。 今日の新聞には愛媛勤務時代の走友武田大作君が紹介されていた。昨年中国で開催されたアジア大会のカヌー競技ダブルスカルで銀メダルを取った人だ。私より30歳年下の37歳。これまで4度オリンピックに出たが、さらにロンドン大会も目指すとか。彼は高校時代から往復26kmの自転車通学をしていた苦労人。変わらぬ精進が、今も第一人者の地位を保っている原因だろう。 そんなことに力を得て、今日は久しぶりに23kmのLSDに行った。天気は良かったものの、山の上でも川の堤防でも強い北風が吹いていた。だが、その冷たい風もレース対策だと思えば少しも気にならない。新しいシューズの履き心地も悪くはなかった。今年の初レースである「勝田マラソン」まで後1週間。右膝の神経痛が心配だが、何とかなると信じて臨みたい。感動する心と健康な体に感謝しつつ。
2011.01.23
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昨日の夕方から近郊の温泉へ行っていました。いつもは月1回ペースで妻とバス旅行へ行くのですが、インターネットで安く泊れるコースを見つけたのです。冬季の平日は通常料金の約半額です。金曜日の夕方から土曜日の午前中にかけてなら妻の仕事にも支障がないので、暫く前に申し込んでみました。 心配な点が2つ。1つ目は愛犬のこと。いつもなら夜は玄関に入れます。この時期は寒さが厳しく、外はこごえます。玄関に入れっ放しで外出するわけにも行かず、妻は愛犬を犬小屋に押し込めようとしたようですが、彼は頑として中に入らなかったとか。仕方なく犬小屋につないで私達は出掛けたのでした。 心配の2つ目は、私達が選んだのが夕食、朝食の2度ともバイキング料理のコースだったこと。温泉そのものには何の心配もなかったのですが、果たしてどんな部屋に泊り、どんな料理が出るのか、おっかなビックリだったわけです。でもそれは全くの杞憂でした。部屋は広くてきれいだったし、内風呂もついていました。 大浴場の温泉は本館と別館の2か所にあり、両方とも露天ぶろ付き。直ぐ目の前の峡谷は趣深く、遊歩道が通っています。泉質は筋肉痛、神経痛、関節痛に良く効くもので、お湯の中に思い切り手足を伸ばし、両方の膝周辺を丁寧にマッサージしました。結局妻も私も温泉に入ったのは3回。お陰でゆったりと寛ぐことが出来ました。 そして肝心のバイキング料理ですが、全く心配なし。豪華なグルメではないにしろ、なかなか立派な内容でした。握り寿司、散らし寿司、刺身、ふぐの焼き物、牛タン、讃岐うどん、おでん、それに煮物や焼き物など豊富に揃っていました。朝食は夕食ほどのメニューではなかったのですが、それでも大満足出来るもので、朝からたくさん食べて来ました。 さて、昨夜はアースマラソンに挑戦していた寛平ちゃんが、大阪にゴールする日。この日は混雑を避けるために、真夜中に兵庫県を出発したようですね。ホテルの部屋でテレビを観ていましたが、会場が近づくにつれ応援の物凄いこと。2年以上にわたって頑張った寛平ちゃんを一目見ようとする大勢の人が、彼を待ち構えていましたね。 走りも走ったり。スタートしてからゴールまで実に767日間かかったようです。そして走った距離は40,940kmだそうです。赤道一周が4万8kmですから、それよりもかなり北だったにも関わらず900km以上長かったのは、当然のことながら海でも陸でも、真っ直ぐ進めなかったためです。そのことが彼の苦労を物語っていると思います。 最終日、寛平ちゃんはスタッフの人に、もう今日で終わるのが寂しいと話していたそうです。ここまでの苦労よりも翌日から走れなくなることの方が辛いとは、よほど彼がこのアースマラソンに全てを賭けていた証しでしょうね。ゴール後に大阪市長がこの秋に開催される「大阪マラソン」への出場を依頼していましたが、そんな先のことまで考えられない状態のようでしたね。 寛平ちゃん、お疲れ様でした~!!暫くゆっくり休んで英気を養ってくださいね。でも芸人魂に溢れ、アスリート魂に溢れた寛平ちゃんのことですから、きっとゆっくり休めないでしょうね。ヨットと自分の脚で果たした前人未到の完全な地球一周。いやはや、どれだけ凄いことなのか比べるものがないため、言い表わすことが出来ません。 走りながら前立腺ガンにも打ち克った寛平ちゃん。灼熱の道、厳寒の道、埃だらけの道、直ぐ傍を車がビュンビュン通り過ぎる危険な道、ツルツル滑る氷の道、険しい山道。どれだけ辛かったことでしょう。でも言葉も知らない見知らぬ土地で、一生懸命応援をしてくれた大勢の人達。 1人のアスリートが見せたファイトが、世界中の人の心に大きな灯を燃やしてくれました。寛平ちゃん767日の間、本当に良く頑張りました。あなたの偉大な旅が終わった今、何だか心の中にぽっかりと穴が開いたような気がします。でもこれからは自分が出来る戦いに挑戦しようと思っています。本当に長い間ありがとうございました。
2011.01.22
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< 墓と祈り > 「世界ふしぎ発見」の第3問は、「首里城などを久高島のあるもので清めたが、それは何か」だった。答えは砂。砂と言っても浜に打ち上げられたサンゴの破片で、これを米(よね)と呼んだそうだ。サンゴの破片を米に見立て、豊饒を祈ったのだろう。回答の場面で解説者の高良教授が立っていたのは首里城ではなく、第2琉球王統の墓陵である玉陵であった。玉陵は「Tama-udun」のように発音する。udunは御殿のことで、王の死後の居城だったわけだ。 私が初めて玉陵を訪れたのは平成元年だが、何故お墓の庭にサンゴの破片が散りばめられているのか分からなかった。玉陵は石造りの大きな墓で、3つのブロックから成り立っている。1つは王の墓域で、残りは后や幼くして亡くなった王子の墓域。まるで倉庫のような大きさだが屋根の上には威厳のあるシーサーが鎮座し、王の墓を守っている。 沖縄の古い墓は風葬墓である。自然の洞窟に死体を葬ったのが原型だろう。高温、高湿度の沖縄では、死体はあっと言う間に腐乱し、白骨化する。私が初めて風葬墓を見たのは嘉手納町のY集落。道端の洞窟に白骨が折り重なっていた。風葬墓は普通漆喰で塗り固められて中は見えないのだが、あれには本当に驚いた。 玉陵は形の大きい石造りだが、基盤となる部分は岩山を刳り貫かれたもので、やはり風葬墓だ。第一尚氏王統が誕生した佐敷や、最初の王都となった浦添には、王族が眠る「ようどれ」があるが、いずれも風葬墓。「ようどれ」とは夕凪の意味。転じて死後の静謐な場所を表わしたのだろう。 やがて冊封体制によって中国の墓制が伝えられる。亀の甲羅の形をした「亀甲墓」は、琉球王朝の船が最初に到着する福建省周辺の風習で、母の胎内を表わすと言われている。人は死後再び母の胎内へ還るとの思想だ。墓が大きいのは親族一門の共通の墓だからで、集落のごく近くにあるのは、先祖が子孫を守ると信じたためだ。先祖を敬う沖縄では墓はとても大切な場所であり、清明祭(うしーみー:春の彼岸)などには親族一同が墓の前でご馳走を食べる風習がある。 沖縄の古来の宗教は原始神道。祈りの対象は大きな岩や樹木など自然そのもので、神社のような建物が出来たのは、明治になって正式に日本に帰属してからのこと。山の頂から海に向かって祈る老婆を初めて見た時、その荘厳な姿に胸を打たれた。海の彼方には沖縄の理想郷であるニライカナイが在るとされる。 男女神が最初に降り立ったとされる沖縄本島最北端の辺戸御嶽に登ると、「ここは神と通信する聖なる場所です。汚さないでください」と書かれた立て札があった。360度展開が効き大海原を見渡せる山頂は、確かに自然の偉大さを感じさせる場所だった。仏教伝来以降も沖縄人の心の中には、古来の神が棲み続けていたのだろう。 このように沖縄のことを書き始めたら切りが無い。多分30回以上は連載出来るのではないだろうか。それだけ沖縄には不思議で変わった話が多いからだ。まだまだ書き続けたいところだが今回はこれで筆を置き、いずれ機会を見つけてまた書きたいと思う。堅苦しい話に最後までお付き合いいただいたことを、心から感謝したい。<完>
2011.01.20
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< 女の戦い > 「世界ふしぎ発見」の第2問は、「琉球王朝時代のお妃候補の選び方はどれか?」で、3択問題。1)ゲームをする 2)踊りを踊らせる 3)歌を詠ませる。答えは1)で、ゲームに夢中になってる姿を見て人柄を判定したようだ。だが、最終的には複数の候補者の中で「金の鋏」を隠した畳の上に座った女性を選んだ由。お妃には隠れた人徳があるはずと考えたのだろう。 次に出たのが聞得大君(きこえおおぎみ)の話。琉球王国には大勢の祝女(のろ)がいて、神行事を司っていた。聞得大君はその祝女の頂点で、王の未婚の姉妹か叔母の中から選ばれ、王の政治を助けて王国の繁栄を祈った。当時は政治と宗教が一体化していたのだ。あたかも邪馬台国の卑弥呼を彷彿とさせ、天皇家と斎宮との関係に酷似している。 久高島はアマミキヨとシネリキヨの男女神が辿り着いた神聖な島だが、薩摩藩の侵攻以降琉球王の巡幸が禁止される。このため王に代わって聞得大君が、島の対岸にある知念半島の斎場御嶽(せいふぁうたき)から、久高島を遥拝することになった。斎場御嶽は世界文化遺産の一つ。神々しさに満ちた沖縄第一の聖地である。 神の島久高島では年間に数十の神行事が行われたと言う。その頂点が午年(うまどし)に行われるイザイホー。島の女性のほとんどがこれに参加したようだ。琉球王朝当時、島の男は王国の貿易船に乗り組んで外国まで出かけ留守になることが多かった。神行事が多かったのは留守中の女性の密通を防ぐためとの説がある。 不義を犯した女は罪の発覚を恐れ、地上に描かれた「橋」を渡れなかったとか。そのイザイホーが行われなくなってから30年以上になる。祝女(のろ)には幾つかの階層と役割があるが、この島の祝女の家で生まれた女性しかその役に就けないと言う規則があるためだ。 さて沖縄の古い言い伝えである「イナグは戦の先ばい」は、「女性は戦の先駆け」の意味を持つ。戦争の際、祝女は戦に先駆けて相手を呪い殺そうとしたわけだ。石垣島でオヤケアカハチが反乱した時、首里の王府は宮古島の豪族である仲宗根豊見親(なかそねとよみやー)と久米島の大祝女である君南風(きみはえ)を派遣し、見事に打ち破っている。祝女(のろ)は呪うの「のろ」や祝詞(のりと)の「のり」と通じるようだ。 琉球ではこのように、女性には特有のシジ(霊力)があると考えていた。男性が長い旅に出る際に肩に掛ける「てぃーさじ」(手拭)には、姉妹の月経血が付けられていた。姉妹の血が男の旅の安全を守ると信じられていたためだ。私も沖縄を去る時に、花織りの赤い布を肩に掛けていただいた。 天照大神が弟の悪行に怒って天の岩戸に隠れたため、世の中が真っ暗になった。困ったアメノウズメノミコトは、岩戸の前で女陰を曝す。観ていた男達が歓声を上げ、一体何事かと天照大神が覗いた所をタジカラオノミコトが思い切り戸を開け、再び世の中が明るくなった。 月経血で手拭を染めたのも、女陰を曝す神話も、女陰には穢れを払う神聖な霊力が潜むと考えた証しだろう。沖縄には既に日本が失った古い姿が、今も形を変えて残っていると考えて良いのではないか。<続く>
2011.01.20
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< 琉球王国の光と闇 > 先週の「世界ふしぎ発見」の第1問は、「琉球王の威厳を表わす描き方は何か」だった。答えは王を大きく描き、臣下を小さく描くこと。不正解には「後光を描く」や「髭を描く」などがあったが、後になればなるほど臣下は小さく描かれたみたいだ。 沖縄の歴史は日本と大きく異なる。日本の縄文時代に当たる沖縄石器時代が10世紀頃まで続く。日本の歴史書に登場した「阿児奈波」(あじなは)は恐らく沖縄のことで、久美(くみ)は久米島と考えられている。そして遣唐使船が沖縄近辺を通ったことがあった。だが、それは極めて短い期間だったようだ。数多く台風が来襲する沖縄近辺は、当時の船には危険だったのだろう。 沖縄の歴史が急に彩りを増すのは12世紀頃から。不思議な話だが、文字や金属や仏教の伝来もそれ以降と考えられるようだ。神話時代を除けば、権力が造成され王統が芽生えるのが舜天王統(1187年~)の3代73年で、以下英祖王統の5代90年、察度王統の2代56年と続く。当時の王都は良港のある浦添に置かれた。 この後沖縄を統一したのが第一尚氏王統で、15世紀ころの話。当時沖縄本島には北部の北山、中部の中山、南部の南山が鼎立し、それぞれ中国に使者を送り貿易していた。北山は酒盛の宴に女装で紛れて倒し、南部南山は王に美女を贈って住民の不満を誘って倒したと伝えられている。まさに戦国時代であり、統一後王府は首里に移され、那覇は中国をはじめ東南アジアとの貿易港となった。 中国との関係は冊封体制。つまり他のアジア諸国同様、形式的に中国の臣下となることで貿易を許されたのだ。進貢船は中国で建造され、通訳は当初中国人が行った。沖縄の帆船では外洋に乗り出すことが出来なかったためだ。その王統も尚円を始祖とする第二尚氏王統に王位を奪われる。第二王統は1470~1879年(明治19年)までの19代410年に及んだ。 王朝の最大の版図は奄美大島から八重山諸島までであり、八重山は同じ先島の宮古島の豪族に攻めさせた。また最大の貿易圏は日本からタイ周辺に及び、まさに沖縄の大航海時代だった。東南アジアの産物を朝鮮や日本に輸出し、日本や中国の産物を東南アジアに運んで巨利を得たのだ。 だが豊かな琉球王国は日本にとって羨望の的となり、ついに1609年(慶長14年)に島津藩の侵攻を受け、わずか3日間でその支配下に置かれた。平和な島では100年前以上も前に武器が捨てられ、鉄砲などの近代兵器を備えた島津藩にはとても歯が立たなかったためだ。 この結果、奄美大島から与論島までの7島を薩摩領として取り上げられ、以後王国の富の大部分は島津へ納めることになった。また、これよって否応なく幕藩体制に組み込まれ、事あるごとに江戸まで上って将軍に挨拶する義務が生じた。益々琉球の富は減ったが、伝わった踊りなど日本の文化が王国にも取り入れられることになった。 それらの事実を隠したままで中国との関係が以降も続いた。中国の使者が琉球を訪れた際は、薩摩の役人は目の届かない地方へ隠れ、琉球が島国であることを知られないために、わざわざ遠回りして中国の使者を首里城へ案内した。この2重帰属が悲劇の始まりであり、中国が琉球を支配したと錯覚する原因になったのではないか。<続く>
2011.01.19
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< 復元された城 > 「世界ふしぎ発見」で次に出たのが首里城。解説の高良倉吉琉球大学教授は偶然にも伊是名島出身の人だ。県立図書館に勤務した後、浦添市立図書館長を長く務め、「浦添市史」刊行の中心となった。専門は琉球史。彼の話によれば、沖縄の城(ぐすく)はシンメトリーではないと言う。例えば首里城の庭(うなー)は正方形ではなく、歪んだ矩形になっている。 また、沖縄では極端に角を嫌う。このため石垣の先端は反り返っている由。これはケーシ(返し)と言って、邪気を天に帰す働きを有するとのこと。三叉路の角に石敢当(いしがんどー)を置いて邪気を払うのも同様の理由だそうだ。そして首里城の一角には京の内と呼ばれる祈りの場所がある。沖縄の城は日本の城郭と違って、宗教的な色彩が極めて強いのだ。 首里城の本来の呼び名はスイムイグスク。スイは首里のことで、ムイは森。ただし沖縄の森は山を意味する。沖縄県内には他にも運玉森などがある。日本にも瓶ケ森(愛媛県)のように「森」がつく山名が幾つかある。「もり」は本来「盛り上がったところ」の意味で、恐らく山よりも古い概念だったのではないか。気高い山の頂に神が降り立つと先祖が考えたのは、既述の通りだ。 首里城は去る大戦で焼失した。地下に日本軍の総司令部があったため、徹底的な攻撃を受けたからだ。現在の城は平成4年に復元されたもの。復元の際に参考になったのが鎌倉芳太郎が書き写した首里城の設計図と彼が撮影した写真など。彼は香川県の出身で東京芸大の前身である東京美術学校を卒業後、沖縄の高等女学校などで教鞭を取った。陶器や紅型(びんがた)など、沖縄の民芸に深い関心を寄せ、古老とは琉球方言で話せたと言う。 さらに旧琉球王朝の末裔である尚家の信頼を得、同家所有の美術品や各種資料を自由に閲覧することを許されたようだ。彼が残した詳細な調査資料が、首里城の復元に貢献した訳だ。私が沖縄に赴任当時、首里城復元のための資料調査の方が職場へ訪ねて来られたことがあった。首里城の柱の色が赤か黒かを判断するためだった。 古老の記憶にあるのは黒なのだが、それでは説明がつかない由。最終的に選ばれた色は赤。柱に塗られた漆の赤は長い年月を経て本来の鮮やかさを失い、徐々に黒く変色したと考えたのだろう。再び色鮮やかな首里城が復元された陰には、誰よりも沖縄を愛した一人の日本人がいたことを忘れてはなるまい。 芳太郎がかつて教鞭を取った後身の学校で私の長女が学び、戦後首里城跡地に置かれその後移転したR大へ私が赴任したことは全くの偶然ではあっても、私には何故か運命的な出会いのように思えて仕方がない。<続く>
2011.01.18
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< 謎の島・伊是名 > 「世界ふしぎ発見」で次に紹介されたのが「沖縄のピラミッド」。何かと思ったら、伊是名島の三角山のことだった。伊是名島は沖縄本島の北部にある広さ15.4平方kmで、人口は1630人の小島だ。海上から観た山はきれいな三角形だったが、人工物ではないのでピラミッドと呼ぶのはどうか。山道を登ると石垣が築かれており、頂上部の拝所(うがんじゅ)に小さな香炉が置かれていた。 北方系民族の神話の特徴は山頂に神が降臨すること。日本では神名備(かむなび)山と呼ばれる形の良い山が多い。三輪山と大神神社、三笠山と春日大社、富士山と浅間神社の関係がそうだ。白山や男体山も然り。筑波山は男体と女体の2つの峰があるが、常陸国府が置かれた石岡市側からだと、山容は美しい三角形に見える。 伊是名の三角山には伊是名城(ぐすく)がある。18年前に私が訪ねた時は入口に鍵がかかっていて山に登ることは出来なかった。だがあの小さな島に何故あれだけ堅固な城が築かれたのか。最北端の伊平屋島と伊是名島が、最も南部の島尻郡に所属するのも不思議。理由は2島が琉球王朝の直轄地だったためだ。 伊是名城を築いた佐銘川大主は北隣の伊平屋島出身。彼は伊是名から本島南部の佐敷に移り住む。その2代後が第一尚氏王統の始祖となった尚巴志である。第一尚氏王統は7代64年で終わり、後を継いだのが第二尚氏王統の尚円だった。彼は伊是名島から本島に渡り、苦労の末第一王統の宰相となるが、やがて推戴されて王となる。 恐らく第一王統の最後は愚昧な王で、臣下がクーデターを起こしたのだと思われる。尚円の本名は金丸(かなまる)で、伊是名島には彼の生誕地とされる「みほそ所」がある。「ほそ」は「へそ」の古語で、へその緒や胎盤を埋めたのだろう。それにしても何故沖縄北方の小島から相次いで王統が生じたのか。 ある民俗学者の研究によれば、九州南部の倭寇が沖縄へ侵出したことと関係が深い由。さらに遠い宮古島にも倭寇の基地と伝えられる集落がある。また琉球の始祖となった男女神が本島北端の辺戸岬に立ち寄った後、東海岸沿いに本島を南下し、南部の知念半島に上陸したとの伝説がある。さらには八丈島に流された源為朝が、一時琉球に寄留したとの伝説も。いずれも北から南への移動なのだ。 九州のものと良く似た土器が沖縄本島からも出土することや、琉球語が日本古語の特徴を色濃く残していることなどを見ても、日本と沖縄には古くから交流があったのは間違いない。屹立する立岩の陸ギタラ、海ギタラの偉容、真夜中に神が忍び込む神アシャギの不思議な静けさ、塵一つ落ちてない美しい松山など、今でも伊是名島には神々しい雰囲気が満ち溢れている。<続く>
2011.01.17
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< 海中の不思議な遺跡 > 昨夜観た「世界ふしぎ発見」のテーマは沖縄だった。それも観光などの話ではなく、パワースポットなどを取り上げるようだ。面白そうだが、学術的な面はあっても同番組はあくまでも娯楽中心のクイズ番組。果たしてどんな内容になるか注目された。 最初に出て来たのが沖縄本島中部にある北谷(ちゃたん)沖の海中。つい最近、ここで古い遺跡が見つかった由。自然の物でなく人工物と判断されたのは、その遺跡から緑色のコハクやビーズが発見されたことによるとか。そして遺跡の形は沖縄特有の城、グスクに良く似てるそうだ。木村政昭琉球大学名誉教授の話では今後の研究によるが、今から2千年前のものと考えられる由。 沖縄に城郭としての城(ぐすく)が出現するのは13世紀前後のはず。もし海中の遺跡が本当に2千年前のものだとすれば、琉球王朝とは全く異なる文化になる。木村先生の専門は確か海洋生物学だったはず。研究上の理由でダイビングもするが、たまたま海中で見つかった人工物に強い関心を抱くきっかけだったと記憶している。 沖縄では与那国島の沖合にも壮大な海中遺跡があることが知られている。ここも木村先生自らが潜って調査している。確かに「遺跡」の写真にはとても自然物とは思えない階段、回廊、門、亀のような形の石、鋭角な溝などが写っていた。その後、延長の陸上にも同様の石組遺跡があることが分かった。 海中の遺跡はおそらく過去の大地震で海中に没したものだろう。大分県には江戸時代の大地震で海中に沈んだ島がある。今でも井戸の跡などが残っているそうだ。なお、北谷付近からは石板に描かれた不思議な絵文字が発見されている。沖縄に文字が伝わったのは13世紀前後と言われているが、その絵文字は単純で漢字とは異なる。北海道小樽市のフゴッペ洞窟に刻まれた絵文字と良く似ているのも奇怪だ。 木村先生はそれらのことを基にして、「琉球ムー大陸説」を唱えている。南太平洋の島々には、広く石組の遺跡や文化が残っているが、それらはかつて1つの大陸で、同じ文化を共有していたと言う考えだ。また沖縄本島の最北端、辺戸岬には海中洞窟があることも木村先生の調査で分かっているが、そこには人が棲んだ証拠の土器が残されていた。今より海水面が低かった時代、沖縄の先住民が暮らした跡だろう。 沖縄近辺の海中には熱水が湧いている個所がある。その代表格が琉球トラフ。熱水が湧く所には、貴重な鉱物資源があると言うのが通説。古い時代、琉球列島は中国大陸とつながっており、動物達もその陸橋を通って渡来した。それがその後の隆起と沈降の繰り返しで今のような島になったのだ。南島には不思議な話がたくさん残されている。<続く>
2011.01.16
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起床すると、外は一面真っ白だった。今日も雪。新年早々こんなに寒いのも珍しい気がする。一時は吹雪いた雪も9時過ぎには一旦止んだ。家の周囲と前の道路を簡単に雪かき。今日はどんなに天気が悪くても実行しようとしたことが2つあった。1つ目は古書店巡りで、2つ目がランニングだ。 自転車に乗って先ず遠い方の古書店に行く。表通りの雪はほとんど融けていて危険は無さそう。1番目の店で大量の宮城谷の著書を発見。喜び勇んで籠に入れた。念のために値段を確認してビックリ。何と定価の半額よりかなり高い。「あれっ、前回は105円だったのに?」と思って良く見たら、安い本は別の棚にあった。 高かったのは新本に近いセット物だったからみたい。一方105円と安い本は、ページ数が少ない本や、紙質が古くなった本、それに上下が揃わない本など、それなりに理由があるようだ。慌てて高めの本を戻して安い棚を探す。吉村昭著の「破船」と「海の祭礼」を買う。そして宮城谷昌光のものは「沙中の回廊」の下巻と「夏姫春秋」の下巻のみ。合計で420円也。 次に約4km離れた別の店へ急ぐ。こちらは古書の専門店で、かなりの在庫があることは先日行って確認済み。宮城谷の作品を探すと、「沙中の回廊」と「夏姫春秋」の上巻を直ぐに発見。作戦は正解だった。複数の店を丹念に探せば、こうして欠本を補えることもあるのだ。 喜び勇んで「風は山河より」1~3巻(4巻欠)、「重耳」上巻、中巻(下巻は欠)、「花の歳月」、「春の潮」を購入。こちらの合計は2300円だった。店の小母さんが次回に使える「1割引き券」をくれた。どうやら上得意客と見込んだのだろう。2店の合計は2740円也。新本の専門書だと1冊しか買えない金額。それで13冊の文庫本が買えたのだから実に愉快だ。 昼食後、吹雪の中を走りに行く。先日の成人の日に脚を傷めて以来、4日間走らなかった。痛めた夜は湿布薬を張り、翌日は消炎スプレーで膝の周辺を冷やした。3日目には走れそうだったが痛みが完全に引くまで我慢した。寒い時は怪我をし易い。そして歳を取っての怪我は治り難い。だからこそ「走らない勇気」が時には必要なのだ。 緩い坂道を往復しているうち、次第に体が温まった。汗をかきそうに感じた所で帽子とウインドブレーカーを脱ぐ。だが2重の手袋はそのまま。脱げばたちまちが冷えて来るからだ。1時間10分後には妻も走りに来た。行き交う毎に何度か妻とハイタッチ。暖かくなったのか、いつの間にか彼女は手袋を脱いでいた。心配して聞いたら、大丈夫とのこと。 今日は2時間走るのが目的。そろそろ終わりに近づいた時妻に尋ねた。「台所の鍵は開いてる?」。彼女は大きく頷いた。帰宅して台所の入口に廻ると、戸が開いたままの状態。鍵ではなく、戸が開いていたのにはビックリ。相当慌てていたようだ。幸い泥棒が侵入した様子はない。帰宅した妻にそのことを話すと、驚いた様子。そして、大きなくしゃみをした。やはり手袋を脱いだのが悪かったようだ。
2011.01.15
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今日は警備員としての研修の日。普段と違ってゆっくりで良いため、昨夜は遅くまで読書していた。今朝の散歩は近所の神社へ。帰宅が遅くなるため、朝のうちにお正月の飾りを神社の境内へ持ち運んだのだ。今日1月14日は仙台地方のどんと祭。「とんど」と呼ぶ地方もあれば、「松焚き祭」とも呼ばれる年間行事。境内には大きな穴が掘られ、既に50個くらいの松飾りが納められていた。 いつもより1時間以上遅い出勤で、行き先は会社の研修センター。高いビルの20階にある研修センターからは、遠く牡鹿半島まで見渡せる。我々警備員は半年に1回、実務研修を受けることが法律で義務付けられている。8時間ほど缶詰めになっての研修は、とても疲れるが受講しないわけには行かないのだ。今日は色んな現場から24名の同僚が研修を受けに集まった。 私のようなパートもいれば、長時間勤務する正社員もいる。そして年齢も70歳近い年配の方から20代の若者までと幅広い。いかにも若者らしい服装を見ると、こんなので警備員が務まるのかなあとの疑問も湧く。研修や表彰で顔見知りの人も何人かいる。たまたま話を聞いて、割と近所の人が居たのにはビックリだった。 研修内容はテキストに従ってのもの。他の教材を使用するもの。ビデオで映像を見ながらのもの。そして救急活動や護身術、消防など実技を伴うものなど色々だ。研修センターのスタッフにも変化があった。1人は現職で亡くなり、1人は退職したようだ。研修の合間にお茶やコーヒーを飲み、昼休みには配達の弁当を食べた。 実技だとそんなことはないのだが、ビデオの場合は部屋が暖かい上に照明を落とすため、つい眠気が生じる。それを8時間我慢するのはきつい仕事だ。私は休憩時間も「天空の舟」を読んだ。隣の若者が見て、「スリラーですか」と聞く。私は彼にこう答えた。「中国の歴史小説だよ。でも俺にとってはスリラーみたいなもんだ」。 宮城谷の小説は、どれもどんな帰結が待っているのか分からない。中国の古代史も知らなければ、人物像にも馴染みがない。それに次々に展開されるヒーローの数奇な運命が、まるでスリラー小説を読むような感じになるのも本当のところ。だから面白くてついどんどん読んでしまう。 研修を終わってビルを出たら、外はすっかり黄昏ていた。帰りのバスの中でも読書に夢中になり、ついに上巻を読了。まる1日で422ページを読んだのは初めてのこと。バスを降りて家路を急ぐ途中、「破魔矢」を持った人に出会った。きっと古いものを神社に納め、新しく求めた帰りだろう。帰宅すると愛犬の夕方の散歩は、既に妻が済ませてくれていた。
2011.01.14
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このところ猛烈に寒い。そして暗いニュースが多い。だから新聞を読んでもテレビを見ても、あまり楽しくない。政治は殺伐としてしかも貧困。ニュースでは凶悪な犯罪が増えているように思う。もちろんニュースを見ないわけには行かないが、新聞では小説を読むのが楽しみと言うのも淋しい話。それでも心温まるニュースは幾つかある。 先日のジャンプHBC杯で女子の中学生ジャンパーが、141mを飛んで優勝した。高梨沙羅さん14歳がその人。大倉山ジャンプ競技場の女子新記録だったとか。テレビで見たが、実に美しいフォームだった。スキーのジャンプ競技は落差が大きいだけに、空中に飛び出す時はかなり恐怖を感じると思う。それを克服しての優勝は「天晴れ!」。またそんな危険な競技を許した両親にも「天晴れ!」と申し上げたい。 日本ハムに入団したばかりの斎藤祐樹投手が、千葉県鎌ヶ谷の2軍球場で自主トレを開始したのをテレビで知った。平日にも関わらず、彼を観に2500人もの人が押し掛けたというから凄い人気だ。お陰で駅から球場までお客さんを乗せるタクシーが大繁盛とのこと。花がある選手はどこか違う。だがプロの一軍はそうは甘くない。これからキャンプでどう変身して行くか楽しみだ。我が東北楽天にもあんな人気者が欲しいねえ。 今や空前の人気者がタイガーマスクの伊達直人。孤児院の孤児達へランドセルをプレゼントしたのがあっと言う間に全国に波及、マスコミを大いに賑わした。わが宮城県ではとうとう伊達直人ならぬ、伊達政宗が名乗りを上げたようだ。慈善活動そのものは素晴らしい行為だが、自分が目立とうとするのはさもしい。中には何か勘違いしたのか、ボクシングのグローブやボストンバッグを贈った輩もいるようだ。 さて職場の小母さんから聞いた話だが、猫ひろしがミャンマーのマラソンで3位になり、そのまま帰化してオリンピック出場を狙っているとか。どこまで真実かは不明だが、何となく笑える。だが彼の細君は、帰化には反対だそうだ。念のために彼のHPを見たら、アンコールワット国際ハーフマラソンに出場し1時間15分59秒で3位入賞。どうやらミャンマーではなくカンボジア代表を狙っているようだ。 アースマラソン中の寛平ちゃんが福岡から広島へ着いた。だが日本国内を走るのは外国よりも疲れるようだ。原因は過剰な応援。大勢の人だかりで食事中でも寛げないとか。痛みをこらえながら必死に走っている彼を、もう少し静かに見守って欲しいものだ。フレーフレー寛平ちゃん。今頃はどの辺を走っているかな? 宮城谷昌光著「香乱記」全4巻を昨日読了し、今日から「天空の舟」の上巻を読み始めた。しかし彼の描く貴人像にはほとほと感服する。これまで4つの作品を読み終えたが、共通するのは主人公の志の高さ。歴史の表舞台にはついに立てなかったが、彼らを慕う人々の心の中には永遠の英雄として残る。戦国の世で清らかに生きることの難しさを感じさせられた私だった。
2011.01.13
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いつもなら2月が一番寒い時期なのに、このところの寒さは一体どうしてしまったのだろう。昨日の最低気温はマイナス4度。この冬一番の寒さだった。私が寝起きしている部屋は2階。1階の大部分にはシャッターがあって、それを閉めれば結構暖かさが保てる。だが、2階にシャッターはなく、外気の影響を受け易い。 だからガラスに結露が生じるのは普通の出来ごと。それが昨日の朝はすっかり凍っていた。布団に入っていても足が冷えるため、冬は靴下を履いたまま寝ている。愛犬の飲み水が凍る日が続き、夜は玄関に入れているが、朝の散歩から帰った後も、太陽が出るまでは玄関に入れたままにしている。結構寒さには強い犬種だが、歳を取ったせいか少しでも暖かい場所を好むようになったようだ。 時々庭に鳥が飛んで来る。スズメは畑で何かを突いているし、ヒヨドリは目下ウメモドキの実を食べに来る。ウメモドキのどこが梅に似ているのかと言えば、葉っぱだそうだ。同じ赤い実の南天を食べる気配はない。先日テレビで見たのだが、ヒヨドリは北海道から渡って来るようだ。天敵のハヤブサを避けるため、海面すれすれに津軽海峡を越える姿を見たら、何だか可哀相になった。 ネズミの穴掘りもまだ続いている。裏のコンポストに潜り込むための穴だ。彼らも生きるために必死なのだろうが、家の近辺で繁殖されてはこちらも困る。そこで穴を埋めて大きめの石を置く。すると彼らは別な穴を掘り、そこも埋めて別な石を置く。そうして今は5つほどの石がコンポスト容器を取り囲んでいる。人間とネズミの知恵比べは今後どうなるか。 この冬はまだ野菜が高いようだ。酷暑の夏が影響したのだと思う。我が家の家庭菜園で育ったカブもあらかた抜いて食べた。土に埋めた大根もその後1本掘り出して残りは9本。かなり大きめだが、ひょっとして春までに食べつくすかも知れない。ジューシーな大根は煮物にも大根おろしにしても美味しい。 白菜は12個ほどがまだ畑に植えられたまま。今台所にあるのが無くなったら、次はいよいよ彼らの出番。きっと寒さに耐えた分、甘くなっているはずだ。その点チヂミ菜は良く食べた。緑が濃くて栄養価が高い上に、凍結しないよう一層糖度を上げる。それが甘さの源だ。見た目はあまり良くないし、洗う時に手が冷たいけれど、大事に食べている重宝な野菜だ。 昨日は「鏡開き」。第1現場のビルから立派な鏡餅をいただき、家に持ち帰った。早速包装してあるプラスチックを壊し、出刃包丁で食べる大きさに切った。結構骨が折れる作業だが、食べ物を粗末に出来ない私には、少しも苦にはならない。アンコ餅と雑煮を作り、妻と一緒に食べた。お正月の料理でまだあるのは松前漬。これはご飯と一緒に食べると美味しい。それも残りあと僅かになった。2日後にはもう「どんと祭」。早いものだ。
2011.01.12
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昨日の11日は成人の日だった。以前は1月15日だったのが、法の改正で最寄りの日曜日にひっつく形になったのだろう。インタビューに答えて立派なスーツを着こなした新成人の若者が話す。「これからは社会に貢献出来る人間になりたい」と。なかなか殊勝な発言だ。仙台市内の成人式では、胸元が露わな女の子が映った。何と言う無様な服装なのだろう。 当然のことながら、彼らが着ているスーツや振り袖は、彼ら自身が代金を支払ったものではなく、ほとんどが親から与えられたものだろう。昔と違って子供の数が極端に減った今は、誰もが大事に育てられていると思う。そしてえり好みさえしなければ、どこかの大学へ入れる時代になったのではないか。 不景気が影響して、今は「就職氷河期」なのだとか。だから大学も3年になれば、ほとんどの学生は就職活動に必死になる。少しでも良い会社に入るために。そして少しでも高い収入を得るために。なるほどそれも悪くはない。だが、それが人生の全てだろうか。アメリカの大学は入るのは簡単だが、出るのは困難と言われている。予習をしっかりしていないと授業について行けないからだ。 それに教員達は学生に独創性を求める。日本の学生とは大違いだ。入学試験に必死になり、就職活動に必死になって、人間として成長すべき時期に大切なものを見失っているような気がしてならない。それでも一頃のような荒れる成人式よりはよほど健全。酒が飲めるのが成人の特権と勘違いし、成人式の会場で大暴れする若者の姿はもう見たくない。 私が二十歳を迎えたのは昭和39年。もちろん成人式は1月15日だった。だが私は成人式へは行かなかった。3月生まれの私は1年遅れて成人式を迎え、大部分の同級生は既に成人式を終えていた。だから見知らぬ人ばかりの会場へ行く気が起きなかったのだ。私が向かった先は血液銀行。成人の記念に相応しく献血をしようと思ってのことだ。 だが、院内の様子に愕然とした。血液銀行にたむろしていたのは、顔色の悪い不健康そうな人ばかり。彼らは自分の血を売って暮らしていたのだ。当時の血液銀行は献血ではなく、売血によって成り立っていた。つまり血は手っ取り早い収入の手段で、彼らは労せず金儲けをしていたのだ。私は黙ってそこから立ち去った。 昭和39年は東京オリンピックが開催された年でもあり、東海道新幹線が開通した年でもあった。その年末、私は京都に旅した。もちろん自分で稼いだお金でだ。あの旅が私の心を開放してくれたように思う。そして鬱々とした気持ちは、新しい職場に異動したことで一掃された。勤めて4年後には夜間大学に入った。22歳の勤労学生だった。 経済的にはとても苦しい4年間だったが、学べることが楽しかった。そしてそれが妻との出会いにもつながった。学生委員会に所属したせいで大学紛争にも遭遇し、まさに波乱の時期だった。その夜学も勤労学生の減少により、数年前に消滅した。大学卒業と結婚が同じ年だったから、あれからもう41年が経つ。我が青春の思い出もかなり古ぼけたようだ。
2011.01.11
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今朝も起きたら雪だった。やはり夜の間に降ったようだ。8時間ほど眠ったため、外は既に明るい。道路の凍結を防ぐため、作業車が融雪剤を撒きながら走っている。これで3日連続だ。愛犬のリードを短くし、滑って転ばないよう慎重に歩く。中学生のお姉さんと小学生の弟が雪の道を走っている。子供は元気なものだ。 わずか30分ほどの散歩だが、帰宅する頃には手がかじかんで痛いほど。今朝の最低気温は零下3度の由。当然愛犬用の水は凍っている。その氷を壊して捨て、新しい水を入れる。外の水道は凍結防止が施されているものの、少しは凍っているため最初のうちは出が悪い。風呂の残り湯で手を温め、顔を洗う。朝食は既に用意されていた。暖かい味噌汁が冷えた体には嬉しい。 私は3連休だが、妻は今日から仕事。その仕事に出かける前に買い物を頼まれた。車の無い我が家では、買い物は自転車か歩いて行くしかない。家までは緩い上り坂の上、冬は道路が凍って危険。ほとんどの買い物は妻がするのだが、重い物などは私が引きうけることになる。 ごく近所に個人経営のスーパーがあるが、商品が古い上に値段が高いため滅多に買わない。付近の個人商店や個人経営のスーパーはほとんど店を閉めた。価格が大資本のスーパーに勝てないためだ。今は元気で自転車でも坂道を登れるが、歳を取ったらどうなるか。それに今行っているスーパーもいつまで持つかは分からない。 今日の買い物は米5kg、玉ネギ10個、リンゴ10個、ブロッコリー、詰め替え用の洗剤、そして餃子の皮など。結構重量があるため、籠付きのママチャリだ。往きは良い良い帰りは何とやら。道路の雪は融けていたが、必死にペダルを漕いだ時、膝に痛みが走った。神経痛か、それとも古傷か。冬は時々こんなことが起きる。帰宅後、リンゴと玉ネギは物置へ入れる。ここは天然の冷蔵庫だ。その他は台所の所定の場所へ。 11時前から走りに行く。妻はまだ仕事から帰らないため、台所の鍵を開けておく。行き先は近所の坂道。ここなら雪が融けて走れるはず。だが、遮るものが無い広い道は、風の通り道でもあった。ビュービューと強い西風がとても冷たい。その寒風に逆らって坂を登る。下りは逆風のため少し楽だが、体感温度は零下3度ほどだと思う。 往きつ戻りつを6度ほど繰り返した。この間に小用を2回。上は長袖Tシャツで、下は薄手のトレパン。それに帽子を被り、手袋は毛糸とフェルト製の2重にした。「寒くないですか?」。あまりの薄着に驚いて知らないお爺さんが声をかける。「大丈夫ですよ。レースではこれで走るので」。 雲の中から時々太陽が顔を出す。その時だけはほんのり暖かい。イソップの童話では「北風と太陽」だが、ここは「西風と太陽」。奥羽山脈を越えて来た風が、鋭く顔に突き刺さる。1時間半ほど走って退散。距離は12kmほどだろう。この連休中に40kmは走りたかったのだが、実際に走れたのは10kmちょっと。不甲斐ない結果だが、寒い時に無理は禁物。 案の定、夕方の散歩の時に右膝周辺に痛みを感じた。寒くなると古傷が疼くことがある。走歴31年の間に傷めた個所は相当数に登る。それが歳と共に、ひょっこり顔を出すのだ。危ない危ない。無理をして走れなくなったら元も子もない。ここは安全運転で春になるのを待つのみだ。仕事から帰宅した妻が、往きと帰りで1回ずつ転んだと言う。幸い怪我はなかったが、冬の道には用心しないとね。「香乱記」は第3巻まで読了。
2011.01.10
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朝起きると外は真っ白。天気予報とは違って、夜中に雪が降ったようだ。でも積雪はわずか2,3cmほどのもの。喜ぶ愛犬と散歩し、雪に足跡を残す。昨夜は久しぶりに「世界ふしぎ発見」を観た。秋の特別番組や年末年始の特別番組もほとんど観ず、専ら読書に励んでいたが、面白い番組だけはどうしても観たい。昨夜はアフリカの大地溝帯の話だった。 昨日は少々不本意だった。妻と一緒に観た「武士の家計簿」だが、本当に観たかったのは洋画の「ロビンフッド」の方。だが、上映時間が夜の9時近くからの1回だけ。確か12世紀ころのイギリスとフランスの戦いが舞台で、ロビンフッドが祖国を救うために奮戦する物語と聞いた。自分の知らないヨーロッパの歴史を知る機会を失ったのと、スクリーンを介して壮大な情景を観られなかったのが残念だ。 帰路に寄った古本屋も少々ガッカリした。文庫本が1冊105円なのは嬉しいのだが、読みたい作家の物がほとんど揃ってなかった。もう1軒寄って見たが、こちらはレンタルのコミック本しか扱っておらず、全くの期待外れだった。本当は図書館で借りるのが良いのだろうが、帰宅ランでリュックに詰める時に本を傷める恐れがある。それに借りるのと返却に手間がかかるのが厄介だ。 昼前から映画を観に行ったせいで、走るきっかけも失った。そんな訳でさらに読書が捗ることになった。それが今日は雪でまたまた気勢を削がれた。ブログの書き込みで今日が「東北ブロック新春マラソン」の当日であることを思い出した。この分ではコース上の雪かきが大変だったろう。それに会場は海岸のため風が強く、きっとランナーは苦しんだはずだ。新年早々からレースに出場している走友達の苦労を余所に、今日も読書に勤しんだ。 昨夜第2巻を読了した「香乱記」だが、ストーリーは益々混迷を深めて来た。果たしてどんな結論になるのか全く分からない。それだけ古代中国史が複雑で、戦争のためにうごめく人間の心理が読めないのだ。また100人もの人名を覚えるのにも一苦労する。お菓子を食べ、お茶を飲みながら読書に熱中。 その後もチラチラと雪は舞ったが、気温が上がると路面の雪は融け出した。だから走る積りなら走れたはずが、コタツから出られない。そんな私に対し、昨日冬用の軽いウインドブレーカーを買った妻は、嬉々として走りに出かけた。2時間ほどして、風を通さず暖かい割に汗はかかなかったと喜んで帰宅した彼女。そんな良いアイテムのない私が寒い中を走り出す際は、かなりの勇気が必要となる。 夕方居間へ行くと、妻はテレビの音楽に夢中になっていた。徳永英明らしい。彼の歌はとても癒しになるとか。自分がもっと若かったら彼と結婚したかったとも。心の中で「へえ!」と驚く。まあどんなことでも癒してくれるものがあれば救われる。そう思いながら、私は愛犬と散歩に出かけた。 出かけた先は家から1.5kmほど先にある古本屋。駐車場にたくさんの車が停まり、。店内には大勢の客。きっと手頃な楽しみを求めて来たのだろう。売るために本を持参した人は順番を待つほどの繁盛ぶりだ。作家別のコーナーへ行き、宮城谷昌光の著書を探すとかなりの作品が並んでいた。値段は売価の半額。 「玉人」、「史記の風景」、「天空の舟」上下巻の4冊を千円以下で購入。出版年が少し古いが、読む上で何の支障もない。これで今後の楽しみが増えた。心を癒してくれるものは何でも有難いが、中でも読書は頭を使う分老化が防げる。そうは言っても、明日こそは走りたいものだ。今日から大相撲の初場所が始まり、大河ドラマ「お江」が始まる。
2011.01.09
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早いもので新年になって今日で8日目。3日(月)は走友会有志による塩竃神社参拝ラン50kmがあった。12名の方が参加し、うち女性は4名だったようだ。塩竃神社ではいつものようにUさん夫妻が差し入れを用意し、皆を待っていた由。Kさん、Mさん、走友会のHPで元気そうなUさんの姿を拝見して、ちょっぴり安心した。Uさん、頑張ってくださいね~!!M仙人は前日も50km走り、この日は片道にした由。2日間で75km走るとは凄い71歳だ。 3日には、近所で火事があった。ベランダから見たら遠そうだったが、妻がひょっとして知り合いの家かもと騒ぎ出した。その後、知人宅でないと分かりホッと一息。4日(火)は仕事始めだが、歯科医にも行った。スタッフ一同の写真入りの年賀状をもらったが、今年もにこやかに迎えてもらった。通院してからもう2か月近くなる。多分後数回で終わると思うのだが、名残惜しいような気もする。 5日(水)、見苦しくなった愛犬の夏毛を梳いて処分。暫くシャンプーしてないため、汚れも目立つが当分辛抱するしかない。今与えている餌は、初めてネットで購入したもの。これまでのと同じメーカーの老犬用のせいか、全く異常なし。そろそろ2回目の注文をしておいた方が無難かも。 7日(金)夜、鹿児島のNさんから電話あり。私の年賀状を見て刺激を受けた由。特に標高1600mの蔵王エコーラインを自宅からリュックを背負って山形県まで走った話には驚いていた。鹿児島では年末年始に大雪が降ったとか。専ら古本屋で買った本を読んでいると言う話が参考になった。蔵書は4千冊とのこと。ちょっと真似の出来ない読書家だ。同夜、「香乱記」第1巻を読了。今回も期待以上に面白い。 8日(土)、古新聞、古雑誌などを資源ゴミとしてまとめ、回収場所まで運ぶ。その後、妻と映画「武士の家計簿」を観に行く。これは旧加賀藩の経理担当だった武家から、最近発見された家計簿を元に作られた実話。歴史認識を変えるほどのインパクトはないが、算盤一筋の家系が藩の経済を救い、一家の財政を立て直し、明治以降も孫が海軍の主計担当になると言う不思議な縁が面白かった。草笛光子、松坂慶子、仲間由紀恵、中村雅俊、堺雅人らの主演。 帰路、古本屋に立ち寄り宮城谷昌光の本を探したが、既に読み終えた本と読みたい本の下巻だけしかなく、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの第1巻だけ買って帰った。値段は105円。「下巻だけでも買った方が良かった、吉村昭も探すべきだった」と気づいたが後の祭り。今後も極力古本屋を覗いてみようと思う。
2011.01.08
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今朝の最低気温は零下4度近かったようだ。予報が外れ午前中は雪が舞っていた。午前11時の気温が零下1度だったと妻。立哨では今季初めて防寒着を着た。裏起毛のない防寒着だと暖房が入ってない玄関ホールでは寒い。そして自動ドアが開くたびに、強い北風が入って来る。堪らず、暖房が効いた室内に一時避難。 管理室に戻って責任者の青年とお話。彼の趣味は少し変わっている。模型飛行機は旧日本軍のものを写真を参考にして作る本格的なもので、つい最近専門雑誌に出品し入選した由。もちろん自衛隊のブルーインパルスの訓練は、わざわざ休暇を取って撮影に行く。先日はD51の撮影に行ったと夢中になって話す彼。 第2現場の休憩室に入ると、部屋の暖房でたちまち眼鏡が曇る。お掃除の小母さん達の他愛もない話を聞きながら熱いコーヒーを飲み、それが終わると読書。そのうち暖房のせいで眠気が出、10分ほどまどろむ。何も気を遣わずに済む現場はありがたい。金曜日は洗濯ものでリュックが塞がるため帰宅ランはお休み。そしてバスに揺られながら読書を楽しむ。 昨夜大岡昇平著「わが復員わが戦後」を読み終えた。カバーには「戦争と戦後体験から生まれた名作の集成」とあった。作者がどんな風に戦争を総括したのか興味があったが、全くの私小説に過ぎなかった。確かに明晰な頭脳で終戦当時の記憶を再現してはいるが、あくまでも個人的な体験に留まり感動は受けなかった。きっとさほど苦労はしなかったのだと思う。 私が読んだ戦争に関する本はとても少ない。唯一覚えているのは女性作家が書いた「人間襤縷」と言う中学生の時に読んだ本。襤縷は「らんる」と読み、ぼろきれの意味。広島に投下された原爆によって大勢の人が死に、生き残った者も大変な苦しみを味わった。その現場を克明に描写した上下2巻の大作だった。 人間が襤褸切れのように傷めつけられた苦しみに比べれば、大岡が味わった捕虜生活と復員後の暮らしなどは楽そのもの。私の父は戦場で負傷し、片脚を失って帰国したいわゆる傷痍軍人だったが、子供の目から見ても当時は苦労の連続だった。その父が40歳で死んだ後、アルバイトをしながらようやく高校を卒業した私に比べても、彼はかなり恵まれているように思えた。 戦争の本質とは何か。そしてそれに翻弄される人間の本質とは何か。当時の国際情勢はどうなっていたのか。そんなことを期待した私にはとても物足らない内容だった。ただ、作家としてデビューした背景だけは分かった。 前日の水曜日、私は4冊の本を買った。宮城谷昌光の「香乱記」全4巻だ。今度の3連休に読もうと購入したものだ。今日から読み始めたのはその第1巻。今回の話はこれまでに読んだ中国・戦国時代、春秋時代の後、秦の始皇帝が全土を統一した時代の話だ。 いつもながらのスケールの大きさに驚く。宮城谷の歴史小説の面白さは単にストーリーの奇抜さだけではない。人間の本質や中国人のものの考え方が、戦争と言う舞台を通じて徹底的に描かれているからこそ読者を惹きつける。やはり「本物」はどこか違う。
2011.01.07
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昨夜から今朝にかけて雪の予報だった。朝起きたら道路が濡れていたものの積雪はなかった。まだ暗いうちの出勤。冬至を過ぎたので少しずつ昼が長くなっているはずなのに、逆に早朝の暗さが増している。その分、夕方は前より明るくなった。勤務先に着く頃から雪になった。どうやら降雪の時間がずれたようだ。 今日の最高気温は4度とか。だが風が強いため、体感温度は0度以下に感じる。その寒風の中を今日も走って帰った。これで新年は連続6日間のラン。そしてスピードも日増しに速くなっている。今年は極力スピードをつけたい。そうじゃないと制限13時間の「秋田内陸」の完走は無理。目下強化方法を模索しているところ。 さて、福岡港に上陸した寛平ちゃんは、早速その日からゴールの大阪に向かって走り始めたようだ。凄い精神力としか言いようがない。そして地球一周達成はもう間違いないだろう。きっとスポンサーも安心したはず。そのうちアースマラソンの映像が、公開されるのを楽しみにしている。 アメリカ大陸を横断するだけで、ランニングシューズ40足を履きつぶした寛平ちゃん。そして提供された「金芽米」をいつも美味しそうに食べていた寛平ちゃん。陸地の伴走では提供された車も大いに役立った。きっと各スポンサーの喜びも一入だと思う。 さて、届いた年賀状の中には、私がウルトラマラソンをしていることを知って、「超人的」と驚く一方で、「体を壊さないか心配」との声も案外多かった。寛平ちゃんの地球一周と私が100kmを走るのとを比較は出来ないけど、それでも計画性、経験、精神力など共通する部分は結構あると思う。 全然違うのは、私にはスポンサーがいないこと。だから小遣いをやりくりしながら出場するレースを選ぶ必要があるのは当然。最も卑近な例はシューズ。彼は幾らでも履きつぶせるが、私は数少ないシューズを工夫しながら持たせるしかない。少し窮屈で肉刺が出来るため履かなかったシューズを、最近練習用で使うことにした。短い距離なら摺れないし、軽くてスピードが出るためだ。 妻が知り合いから「ご主人が長距離を走れるのは、貴方が栄養価の高い料理を作っているからよ」と言われたと自慢。んんん?果たしてそれだけだろうか。それなら同じ食事内容の妻も100kmを走れるはず。確かに栄養は重要な要素だが、ウルトラマラソンはそんな単純なものではない。 アースマラソンのHPに、長男の慎太郎さんが父親の寛平ちゃんに捧げる「いつかのボール」を作曲したとの紹介があった。そんな息子の存在も、彼の歌を聞いたのも今回が初めて。前立腺がんの手術で入院した時も、励ます曲を作った由。命の危険を顧みず地球一周達成をほぼ成功させた父親と、その父に歌を通してエールを送り続けた息子。奥様も含め、家族の絆の大きさを痛感した私だった。 ウルトラマラソンの完走には、強い体や走力、食べ物や飲み物、走り易い服装やランニングシューズが必要だ。だが最も大切なものは心。困難な道に敢えて挑戦する気持ちが無くなったら、人は前に進めなくなる。最後まで「持たせる」必要があるのは、何物にも負けない強い心だと思う。
2011.01.06
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今年もたくさんの年賀状をいただいた。高校時代の恩師は間もなく傘寿(80歳)のはずだが、しっかりとした字で文面も充実している。お元気そうで安心した。4番目の職場の先輩Sさんも今年が傘寿のようだ。こちらも賀状からかくしゃくとした雰囲気が伝わって来る。もう1人のSさんはたった1年だけ同じ職場だった方。昨年の年賀状には認知症になったと書かれていたが、今年も頑張って送ってくれたのが嬉しい。 5番目の職場で一緒だったM先生はその後副学長などを勤めて定年となったが、まだ家族と離れて単身で残っている由。同じ職場の後輩Kさんの最後の勤務地は大阪だったが、こちらも定年で実家に帰り、母上の介護に当たる日々とか。2番目の職場の後輩S夫妻は子供が無く、犬の小次郎と猫の寅次郎が家族のようだ。賀状の写真は2人が家庭菜園で奮闘する姿だった。 昨年は世界へ旅行した人が多かったようだ。研修仲間のK君はドイツとトルコで美術館と世界遺産巡り。7番目の職場の部下だったHさんはベトナムの景色と人情の暖かさに感激した由。写真にはベトナム人の友人とパパイヤの木が写っている。従弟のSさんはイタリア旅行を楽しんだようだ。孫が増えて喜ぶ様子が文面に溢れている。 高校の同級生A君の賀状はアンコールワットの写真。あまり上手ではないが蓮池に寺院の建物が映っている。また、1日8km速歩しているとあった。若い頃下宿が一緒だったIさんからは、エジプトのピラミッド前で撮った写真が届いた。地域活動を楽しんでいるとのこと。4番目の職場の後輩J君からは中国の太湖で撮った写真。定年後の旅を夫婦で楽しんだようだ。 大学時代の先輩であるAさんは、ロシア、ウクライナ、ハンガリーを200km歩いたようだ。そして中国へも2度訪れた由。どこにそんな資金があるのだろう。神戸のNさんは、昨年のスパルタスロン(ギリシャ)は145km地点で関門に捕まったとか。それでも色んな勉強になったと、いつもながらの真面目なコメントだ。 走友の消息は他にもある。71歳のM仙人は今年の目標の1つに「エベレストマラソン」への挑戦を挙げておられた。そして「仙台国際ハーフ」の時間内完走も。「老いて益々盛ん」とは彼のためにある言葉みたい。宮城UMC仲間のAさんからは、いよいよ今年は海外のウルトラトレイルレースに挑戦するとある。 名古屋の走友T夫妻は共に国際レースに出場しているランナーだが、2人に抱かれた愛息の写真があった。名前は駿輔君。きっとこの坊やが大きくなったら、きっと両親みたいなエリートランナーになるのだろう。沖縄の走友Tさんは、もう長い間走ってないみたい。大学生の次男の学資を稼ぐため、定年後の今も必死にアルバイトしてる由。何とか頑張って欲しいものだ。 沖縄の友からの年賀状が、今年はめっきり減ったのが淋しい。沖縄を離れて早や19年。仕方がないと思いつつも淋しさが募る。大学時代の後輩T君からは、オーケストラと共にベートーベンの第九を歌ったとある。だが頭髪はすっかり寂しくなって、当時の面影はどこにもなくなっていた。四国在住の2人の孫からの年賀状だが、上の孫は「遊びに来てね!」。そして下の孫は「遊びに行くからね!」。さて、どっちになるかな?
2011.01.05
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年が明けて1週間ぶりの出勤となった今日。6日間暖房が入らなかったビルは、底冷えがした。お供えが上がっている管理室に入り警備服に着替えると、途端に気持ちがしゃんとする。警備日報には、「平成23年」と日付を書き込む。いよいよ新しい年の仕事始めだ。出勤して来た管理会社の責任者に、「今年もどうぞよろしく」と挨拶し、ビル内外の巡回に。屋上からは雪を戴いた山々が遠望出来た。 玄関ホールに立って、出勤する社員達に心を込めて挨拶する。中には立ち止まって先方から新年の挨拶をしてくれる方も。もう5回目の新年なので良く顔を知っているのだが、それにしても有難いことだ。きっとこの小父さんが自分が勤めるビルを守っていると思い、信頼してくれるのだろう。こちらも丁寧に挨拶を返す。 ビル最大の会社の重役達は、いつもより早めの出勤だった。多分社員達に新年の挨拶をするためだろう。新聞配達の人は、年末年始に配れなかった大量の新聞を持って来た。花屋さんはたくさんの花を差し入れた花瓶を抱えてやって来た。新年の挨拶の会場を飾るためだ。そして付近のビルからも大勢の社員。彼らは新年の挨拶に来た関連会社の方。全てが今日から新たに始動する。 第1現場の勤務を終えて、第2現場へ急ぐ。会社の仲間は既に朝から働いており、今は10時の休憩時間。お茶を飲んで寛いでいる皆に新年の挨拶をし、熱いコーヒーを戴く。休憩が終わると作業服に着替えて清掃へ。モップを絞る水が冷たい。拭き掃除が終わると、箒を持って公園の掃き掃除。こうして今年も肉体労働が始まった。勤務後は今年初めての帰宅ラン。日影の山道では20mほど凍ってツルツルの個所があった。 昨夜は書斎の本棚から不要な本を40冊ほど抜き出した。これは資源回収ゴミの日に出す積り。開いたスペースへは昨年1年間に読んだ本を並べ、大岡昇平著「わが復員わが戦後」を読み始めた。これもどこかで入手した古本。読み始めるとなかなかの手応えだ。戦後間もなくの頃、私はまだ子供。当時の知識階級が戦争や戦後の日本をどう評価していたのかを知る手掛かりになるはず。 今年は先ず、宮城谷昌光の中国史関係を徹底して読む積り。これまでの30年、私が読んで来たのは歴史学、考古学、民俗学、文化人類学、人類学などの専門書が主だった。昨年ふとしたことから読み始めた歴史小説がとても面白く、専門書とは違った魅力を感じた。これからの余生、時間はさほど残されていない。だからこそ読むべき本を厳選する必要があると感じた。 さて、アースマラソンの寛平ちゃんは約1000kmのヨットの旅を終え、今朝の7時45分に無事福岡港へ上陸したようだ。そして福岡から大阪まで、18日かけての「凱旋ラン」となる予定とのこと。彼の快挙と成功を共に喜びたいと思う。 年末年始の休暇前に比べ、私の体重は少し減った。暴飲暴食を慎んだのが原因だろう。寛平ちゃんには及ばないが、この一年自分の目標に向かって少しでも前進したいと思う。これから益々厳しくなる寒さだが、それも一年の始動に相応しいと信じたい。
2011.01.04
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日曜日の昨夜は大河ドラマの第1回が始まるのかと思ったら、どうやら次の日曜日からのようで少々がっかり。その代わりに長部日出雄の短編集を読み終えた。収録された6編のうち、特に「津軽じょんから節」、「津軽世去れ節」は津軽の風土を彷彿させる作品のように思えた。いわば彼の処女作であるそれらの作品から、その後作風がどんな軌跡をたどるのか知りたい気もする。 新年になって私のブログに書き込んでくれた方の中に、故障中の走友がいる。千葉の亀仙人さんは脚の調子が良くない由。元々スピードランナーだけに、思うように走れない現状に悔しい想いをされていることだろう。その彼の愛読書が、昨年末から私が夢中になっていた宮城谷昌光の作品と知って驚いた。確かに彼の本からは試練に耐えることを学べると感じた。 香川のTANさんは膝の故障で、昨年出たウルトラのレースはほとんど途中リタイヤだった由。ランナーにとって、体が思うように動かないことほど悲しいことはない。ただし、その原因が加齢によるものだとしたら、どう対処すべきか。それは私にとっても身近な問題で、間もなくその岐路に立たされる時が来る。 自分が速かった頃、強かった頃、自由に体が動いた頃。ついそんな時と比べがちだが、栄光は永遠ではない。私が所属する走友会にも、不調に苦しむ仲間が何人かいる。かつて怪我で苦しみ、今は加齢を実感している私にとってもその苦悩は人ごとではないが、その試練は自分で乗り越えるしかないとも思う。でもその苦しみが、やがて役に立つ時が来ると信じている。 昨日と今日行われた箱根駅伝。初日の5区で逆転劇を演じた東洋大の柏原は、昨年不調のどん底だったようだ。そこから這い上がるためには、人に言えない苦労があったのだろう。2日目の今日、最初の6区で早稲田が早くも東洋大を逆転し、そのまま逃げ切った。わずか30秒程の差。共に大会新記録だったそうだ。 早稲田の渡辺監督はこの日を夢見て、就任以来強化策を講じて来た由。長い長い臥薪嘗胆の日々。その苦しみが出雲、全日本、そして箱根と、大学駅伝3冠達成をもたらしたのだろう。5位の明大は48年ぶりの上位入賞だった由。6位中大のアンカーは、フラフラでのゴールだった。そしてシード権争いは過酷で、最後の最後に城西が落ちた。10位の国学院がゴール間近でコースを間違えたのにはビックリだった。 そこまで観てから走りに行った。今日は走友会の有志が塩竃神社まで往復50kmを走り初めする日。とても50kmを走れない私は18kmのジョグで終わり。今日も名取川の堤防は風が冷たかった。そして太白大橋からは獲物を狙う白鷺が見えた。31年前の元旦に走り出してから今年で32年目。真新しいランニング日記に3日間連続で18kmと記入出来た。 アースマラソンの寛平ちゃんは、元旦からの48時間で400マイルを航行。今朝8時の時点で、福岡までの残りは140マイルとなった由。韓国の済州島沖を通過した辺りから、日本のラジオ放送が入り始めたようだ。この分では明日辺り、福岡港へ着くように思う。そこから大阪まで再び走るのだろうが、苦労が多かった地球一周の旅ももうすぐ終わる。最後まで頑張れ~寛平ちゃ~ん。
2011.01.03
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妻がようやく家で穿く冬用のズボン4本を見つけてくれた。年末辺りから寒くなって来たため、出して欲しいと言ってたのだが見つからなかった。これまではトレパンで頑張っていたのだが、そろそろ限界に近づいていた。私の部屋はコタツが唯一の暖房器具。石油ストーブを点けても良いのだが、部屋が狭くて直ぐに空気が悪くなる。それに結露も凄いからねえ。 昨夜から長部日出雄の短編集を読み始めた。これは今の会社に入った最初の現場でゴミに出されたのを持ち帰った古本。6年ほど本棚に放置していたのだが、「楽毅」全4巻を思いのほか早く読み終えたため、出番となった。長部が津軽の出身であることは知っていた。津軽に居ながら、地元の話を書いているのかと思ったら、この本が出版された時の住所は、東京になっていた。 津軽は独特の風土だ。そこで生まれた太宰治のように、破滅型の人間がたまに出ると言う。強情で無口。それで口を開いたら、他の地方の人には理解出来ない津軽弁が飛び出る。そんな津軽を舞台にした話を、著者は幾つも掘り起こしている。これまでに読んだのは3編。いずれも個性の強い作品だった。その本を手袋をしながら読む。もちろんこの文章を書く時も同様。それだけ寒い室内は、長部の本を読むのに相応しい環境かも知れない。 昨日は元旦早々お墓へ行った。墓参りのためでも、鬼太郎に会いに行くためでもない。近所の道路工事で妨げになるお寺の墓地を移転する作業がどこまで進んだのかを観に行ったのだ。同じような考えの人が他にも3人ほど居たのには驚いた。或いはお墓の関係者なのかも知れない。50基ほどのうち、既に30基くらいが境内の他の場所に移転していた。後どれくらい掛かるかは不明だが、案外順調なようだ。 帰宅してコンポスト容器に愛犬のウ○チを入れようとした時、地面に掘られた小さな穴を発見した。どうやら犯人はネズミのようだ。前の家を取り壊す時に逃げた方割れだろう。ひょっとしたら彼らの住処は、イチジクの根元に積み上げた大量の枯れ枝やトマトなどの残骸の下かも知れない。コンポストの中には野菜屑や魚の骨などしか入ってないのだが、多分彼らも生きるのに必死なのだろう。 今日は本を読みながら箱根駅伝を観ていた。5区では東洋大学の山の神こと柏原が、トップの早稲田を抜き去って3年連続の往路優勝を飾った。タイムも往路新記録だったとか。最後に敗れたものの、早稲田も27秒差の2位だから大いに望みはある。5区では7位城西大の田村と、17位日大の田村の兄弟対決もあった。明日の復路は繰り上げスタートがわずか2チームだけと言う接戦。まだまだどうなるか分からず楽しみだ。 その結果を観て今日も走りに行った。前日の疲れが残っていることを考えレース用の軽いシューズを履いたが、全く心配なかった。途中山の上でK野さんと遭遇。ずいぶん速いランナーだなあと思ったら彼女だった。お互いに手を上げてエールを交換。土手の上は昨日より風は穏やか。何とか暗くなる前に帰宅出来た。 帰宅後、昨日読めなかった年賀状を、今日配達の分と一緒に読んだ。今ではメールで新年のあいさつをする人も増えたのだろうが、やはり私のような昔気質の人間には年賀状の方が親しみが持てる。単に印刷だけでなく、一言添えてあると、なおその人の気持ちが伝わって来る。お互いに元気で居るからこそやりとりが出来る年賀状。1枚の空間に込められた文面から、各自の暮らしぶりを想像してみる私だ。
2011.01.02
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大晦日の昨夜、「楽毅」全4巻をとうとう読み終えた。素晴らしい話だったし、楽毅と言う人物の大きさに感動した。戦いの結果中山国は滅びたが、その後仕えた燕(えん)の武将となり、燕王の恨みを果たして斉の国をほとんど制圧し、燕王から斉の国王になるよう推戴されるが固辞。その後燕王は死去し、後継の王は臣下のざん言を信じて楽毅を処罰しようとする。 最初から最後までスリリングな話だった。中国・戦国時代の政治的な背景の複雑さ。戦略と外交。王と臣下の間の信頼関係。結局「信」と「義」を失った国は滅ぶ運命にあった。史書には楽毅のことはわずか1ページしか書かれてないそうだ。それを著者は2千ページに及ぶ大作に仕上げた。その執念の凄さに感じ入った。著者宮城谷昌光は「史書」を書き写しながら、楽毅の人物像が何とか浮かび上がるよう祈った由。それを知って、宮城谷昌光の世界にますます惹かれた。 床に就いたのは新年になってから。朝起きて空を観たら、月と星が光っていた。どうやら低気圧の影響はないようだ。愛犬との散歩から帰宅する頃には、空が明るくなっていた。地平線から登る真っ赤な太陽。思いがけない初日の出だ。その曙光を仰ぎつつ、この一年の健康を祈った。 「お正月は何も作らないからね」。妻は昨年のうちからそう言っていたが、まさに正月らしいご馳走はなかった。それもまた良し。貧しかった戦後間もなくの頃に比べれば、飢えないだけでも有難いと思う。分厚い元旦用の新聞に目を通し、パソコンを立ち上げる。島根県では大晦日から元旦にかけて、雪に閉じ込められた車が千台も国道で立ち往生したとか。 一方、アースマラソン中の寛平ちゃんは、予定通り元旦の朝8時に中国・青島港を出航したようだ。今度のヨットは「時愛喜(ときめき)号」。まあ、何と素敵な名前をつけたのだろう。太平洋、大西洋を乗り切ったエオラス号よりもさらに最新鋭の機能を備えている由。今日は風も穏やかだったようだ。東シナ海、そして玄界灘を乗り切って無事福岡港へ帰って来て欲しいものだ。 「ニューイヤー駅伝」を観ながらメールを確認していたら、T田さんから古川の4人組が元旦恒例の朝練を敢行したとの一報。送られた写真には、T田さん、K彦さん、C一さん、S木さんの元気な姿があった。古川では残念ながら初日の出は拝めなかった由。それに比べて仙台はラッキーだったようだ。こいつは春から縁起が良いや~!! 寛平ちゃんと古川4人組の刺激もあり、昼食後は走りに行った。風も無く穏やかな元旦。山には雪がほとんどなくて助かった。麓の神社には元朝参りの人々。神社の注連縄が真新しくて清々しい気分。ただ土手の上は冷たい風に悩まされた。これからの季節はさらに寒くなる。これくらいで負けてはいられない。18kmを2時間ちょっとで帰宅。 ネットのとあるスポーツ紙に楽天の星野新監督の抱負が載っていた。彼曰く。「下剋上優勝のために80勝することを選手に求めたい」。良いねえ、これくらいの厳しさが無くちゃ優勝なんて夢のまた夢だ。私の昨年の抱負は「自分のペースでマラニックを楽しむこと」だった。それは今年も全く変わらない。そのためにも一年間健康で過ごしたいものだ。皆さまにとっても健康で良い年になりますよう、心からお祈りしています。
2011.01.01
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