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< 誰も居ない集合場所 > 宮城UMCはウルトラマラソン愛好者の集まり。確か13年前、U海事務局長が「秋田内陸」へ出場した仙台市近辺のランナーに呼び掛けて結成されたのが最初だった。その公式合同練習会として企画されたのが「薬莱山とお足マラニック」。薬莱山の中腹にある「薬師の湯」に正午までに到着すると言うのがそのルールだ。 私が所属する南仙台走友会は仙台の市内でも最南端の太白区を活動の場にしており、出発点の仙台市体育館からの距離は約55kmになる。だからゴールまでの距離は各走友会によって異なり、比較的ゴールに近い大崎市のチームだと30kmほどになる。8月の第1土曜日に開かれて来たが、今年は7月の最終土曜日に変更になると連絡があった。 私はこれまで8回参加し、全て完走している。それが今年は震災後に発症した不整脈のせいで、体調が思わしくなかった。強い動悸と眩暈から来る不快感。そして例年よりかなり早く梅雨明けして高温続きのため疲労感が消えなかった。この体調で高温下を55km走るのは無理と一時は参加を見合わせることまで考えた。 それが台風6号がもたらした低温のせいで、少しずつ疲労感が取れ始めた。ひょっとしてこれなら走れるかも知れない。そして途中で走れなくなったら、給水のための伴走車に乗せてもらえば良い。そんな風に思い直した。1週間前には久しぶりのロング走を試みたが、練習不足のため散々な目に。長距離の厳しさを改めて思い知らされたのだった。 前日は9時に寝た。起きたのは深夜1時。着替えとトイレを済ませ、自転車で集合場所に向かう。幸いまだ雨は降ってないが、濡れても良いようにリュックの中の荷物は全てビニール袋に入れておいた。少し早めに着き、コンビニで買い物。ゴール後のおつまみや朝食用のお握りを買い、店先で食べた。 仲間の到来を待つが誰も来ない。確か例年2時スタートのはずだが、時間を間違えたのだろうか。それとも今年はスタート地点が変わったのか。その後確認のメールが来なかったため、「いつもの通り」だろうとたかを括っていた。2時ジャスト。たった1人で暗闇に1歩踏み出す。幸いリュックを背負って走るのは苦にならない。そのうち仲間と遭えた際、伴走車に荷物を託せば良い。 根岸周辺でアベリアの匂い。だが周囲に花はない。これは自分の汗。スポーツドリンクを飲みながら走ると、甘酸っぱい汗が出て来る。それが乾くとアベリアみたいな匂いになるのだ。愛宕大橋を渡り終えた時、誰かが声を掛けてくれた。同じ走友会若手ホープのH郷さんだった。今からスタート地点へ向かうとのこと。 思わず「2時スタートでしょ?」と聞くが、彼の返事は「3時スタートですよ」。「おかしいなあ、いつもは2時なのに」とかみ合わない。兎も角リュックは彼が運んでくれることになった。わずか4kgほどだが、無くなると背中が軽く走り易い。偶然の出会いに感謝し「ゆっくり行ってるね」と再び夜の街を走り出した。それにしても何故時間が違ったのだろう。<続く>< 7月のラン&ウォーク > ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:125km ラン回数:10回 ラン距離:159km 月間合計284km 年間走行距離:1173km 年間合計:2255km これまでの累計76、935km
2011.07.31
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今日は宮城UMC主催の合同練習会。朝1時起床で出発点へ向かい、2時から走り始めました。わが走友会のメンバーは誰も来ないと思っていたら、どうやらスタート時間は3時だったようです。初めからハプニングの発生です。 仲間よりも1時間早目にスタートしたこと。雨が降って気温が低かったことが幸いし、比較的楽に走れました。でも途中で2回腹痛が起き、冷や冷やしながらのランでした。当初は体調の心配もしていたのですが、何とか55km先の目的地にゴール出来て幸いでした。 ゴール後は温泉と冷水に交互に入り、体の疲れを取るよう努力しました。そしてその後は40人近い参加者が大広間に集まって大宴会。老いも若きも心を打ち融け合っての懇親会は楽しかったですよ。マラニックの完走記は明日から書き始める予定です。お楽しみに!!
2011.07.30
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このところずうっと天気が悪い。大気が不安定で、時々にわか雨が降る。新潟では豪雨による被害が出たようだ。さて先日病院へ行った日のこと。多分雨は降らないだろうと判断し、愛犬を木陰につないでおいた。この日はなぜか診察に時間がかかり、帰りが遅くなった。病院の外へ出ると道路が濡れていた。どうやら診察中に、かなり降った感じ。 バス停で一緒になった老婆の話によれば、猛烈な雨で一時は道路が「川」のようになったとのこと。家に着いて荷物を片づけ、外へ出ようとしたところに妻が帰宅。愛犬の姿が見えないのを不思議がった妻が探すと、彼は木の下でじっと「伏せ」をしていたようだ。 最近は耳が遠くなり、目もあまり見えず、すっかり歳を取った我が家の愛犬。直ぐに体をタオルで拭いて散歩に連れ出すと、ようやくいつものように元気に歩き出した。きっと思わぬ大雨で驚いたはず。だが、いくら吠えても誰も来ないため諦めて、うずくまっていたいたのだと思う。可哀想だが時にはこんなハプニングも起きる。 裏の畑にコンポスト容器が3個埋めてある。生ごみを原料にして作る堆肥用だ。その付近に小さな穴が開いたのが半年以上も前のこと。ひょっとして前の古家を壊した時に逃げたネズミが掘ったのか。そのうちに穴がかなり大きなものに変化した。これだけしっかりした穴を掘るのはドブネズミだろう。 ところがそれから暫くすると、穴はイチジクの根元に積んだ土の山から続くようになった。そんなに長いトンネルを掘れるのはモグラしかいない。私はてっきり3つの穴はそれぞれ別な動物が掘ったのだとばかり思っていた。だが土の山を切り崩した時、穴から丸々と太ったドブネズミが逃げ出すのが見えた。 小さな穴はまだ彼が小さな時の作品。そして彼の成長と共に穴は広がり、土の山に巣を作ると、そこからコンポスト容器まで長いトンネルを掘ったのだ。怖がる妻の要望でHCから殺鼠剤を買い、コンポスト容器の中と物置の下に3袋ずつ置いた。コンポストの方は何の変化も無かったが、物置の下の袋は数日後に無くなった。 その後1カ月裏の畑に穴が掘られることは無かった。やれやれ、これで騒動は一件落着と安心したのだが、最近コンポスト容器の外側に再び小さな穴が開く。まだ容器の中に侵入するまでには至らないが、別のドブネズミがうろつき出したのか。きっと彼らも生きるのに必死なのだろう。 そして、最近我が家の敷地の中でシロアリが行列してるのを、お向かいさんが見つけて駆除してくれた。我が家は軽量鉄骨製でまだ新築後15年ほどだが、お向いさんは35年以上にもなる木造建築。シロアリに喰われ出したら一発らしい。危ない危ない。普段は気にもかけない敷地内だが、時々注意して良く見ないとね。
2011.07.29
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ひょんなことから「稲わら」が悪者になった。それも宮城県産のものだ。隣県とは言え、福島原発の放射能汚染とはほとんどなんの関係もないと思われて来た宮城県。それが表舞台に出たのは、たまたま測定した牛肉にセシウム137が含まれていたからだ。その原因が宮城県産の稲わらとはビックリ。 あの大震災の直後、外国の報道機関は過敏なほど放射能漏れを恐れていた。そしてフランスなど数国はチャーター便で自国民を帰国させる緊急措置まで取った。「どうしてそこまで恐れるのだろう」。多くの日本人は案外楽観していたのではないか。私も心配しつつ、雨でも自転車通勤していた。でもあの時はあれしか方法が無かったのだ。 我が宮城県は稲作の先進地だから稲わらも大量に出る。それに冬でも雪が少なく、外に出してある「わら」が乾燥して良質なのだそうだ。その稲わらが全国の畜産農家へ飼料として渡っていたとはねえ。それを牛が食べてセシウム汚染につながったんだ。果たしてどれだけの牛肉を食べたら体に影響が及ぶのか。その安全基準はどうなんだろう。 つい最近問題になったのが腐葉土。これは栃木県の園芸業者で、落ち葉の採集地は栃木県北部だった。結局汚染の原因は原発事故直後の風向きと、数日後の降雨だろう。雨が降ったことで汚染物質が地上にあるものに付着した。腐葉土と土の混合比率、植物が土壌から吸い上げるセシウムの比率、そして野菜を摂取した際に人体へどう影響するのか。 腐葉土の汚染はかなり高濃度だったようだが、最終的な人体への影響はさほどでもないと思う。稲わらにしても腐葉土にしても、国の安全基準はまだ出来ていない。今後の整備が待たれるが、特に福島県産の農産物の風評被害は甚大。福島県では今が桃の最盛期。「赤月」とか「川中島白桃」など優秀なものが多いが、福島県産の桃を「お中元」として送ることを郵便局が取り扱っていない。 先日妻がHCへ「よしず」を買いに行った。連日の猛暑で参ったのだろう。ところが在庫もなければ、入荷の予定が立たないとか。理由は日本一の「葦」の産地である北上川河口が、大津波で被害を受けたこと。刈り取った後には津波でもたらされた海砂が10cmも堆積して芽が出ず、刈り取ってない場所は瓦礫で目茶目茶。業者の話だと、今後数年は商売にならないそうだ。 北上川河口の葦は品質が良く、金沢兼六園の東屋の葺き替えなど、全国から注文が殺到するとか。それが全滅に近い状態では、「よしず」の入荷は望み薄なのかも知れない。地震や津波は天災だが、放射能汚染は人災そのもの。今後の対策をしっかりしてもらわないと、国民は安心して暮らして行けない。大震災の影響が一日も早く治まることを願っている。
2011.07.28
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今日は1カ月ぶりの病院だった。ドクターが「調子はどうですか?」と尋ねるので、「時々眩暈と動悸を感じることがあります」と答えた。血液のサラサラ度は良好。血圧は安定してるため薬を1種類減らし、不整脈を抑える薬も変えることに。ランニングのことを聞かれたので、「老化もあって長い距離は思うように走れなくなった」と私。 それに対してドクター曰く。「老化と言っても普通のお年寄りとは全然違いますよ。それでもフルマラソンくらいにしておいたらどうですか」。そしてさらに「動悸や不整脈と長く付き合って行きましょう」とも。手術をする選択もあるそうだが、私の場合はそこまでする必要はないと判断したのだろう。私はドクターを信じたいと思う。 この夏の猛暑もあってか、最近はかなり疲れる。ドクターが言う通り、自分でもウルトラマラソンはかなりきつく感じていることは確かだし、距離を短くするか、制限時間の長いレースを選ぶかしかないと思う。そうなるとウルトラの資金を稼ぐための仕事を続ける理由も薄れてしまう。 仙台空港の国内定期便が回復したそうだ。大津波で飛行機が次々に流されて行った悪夢のような光景。あれから4カ月半あまりで、良くここまで来れたと思う。ただし、空港アクセス鉄道の全面復旧は9月末になるとか。11月の連休には沖縄の本部半島を走る計画を立てていたが、どうやら大丈夫そう。こうなると問題は自分の体調だけだ。 新しい「仙台国際ハーフ」のコースなどが決まった。これまでとは全く違ったコースで、2kmと5kmも併設される由。規模は1万人を予定し、募集は10月からとか。市内の目抜き通りを走るのが私の長年の夢だった。制限時間が問題だが、ハーフなら何とか走れそうな気もする。 期日のかなり前に申し込むのがレースの決まりだが、料金を振り込み正式にエントリーしても、レース当日の体調まで保証されているわけではない。老化を感じる年齢になればなおさらその心配が高い。必要な情報を入手してエントリーし、休暇を確保するなどレース参加までには案外苦労も多い。来年はその苦労をなるべく減らそうと思う。
2011.07.27
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風呂場の扉が閉まる音で目が覚めた。時計を見ると10時半を過ぎている。妻が旅行から帰宅したようだ。そう思いつつ、再び夢の世界へ戻った。朝方、涼しく感じて網戸を閉めた。さらに寒さを感じ、小さな網戸も閉めた。起床は4時20分。7時間近く眠れたようだ。居間に行くと、テーブルの上に「お土産」が載っていた。 妻は長野が好きだ。中でも好きなのが上高地。高校生の頃から行っていたと言うから驚く。今回は友達と行った。家を出る時に「帰宅は月曜日の夜遅くなる」と言っていた妻。だからこの週末は1人で過ごした。いつもより静かな週末だったが、特に困ったことはない。冷蔵庫の中には食べるものがたくさん入っていたからだ。 妻の帰宅を前に、少しだけ準備をしておいたことがある。先ず妻の布団を敷いて置くこと。そして風呂を沸かして置くこと。自分だけなら水シャワーでも十分。むしろその方が冷たくて気持ちが良い。だが妻は冷たい風呂には入らない。だから前もって沸かして置く必要があった。そしてご飯を2合炊き、味噌汁を作って置いた。 深夜に帰宅した妻が食べるわけではなく、翌朝の分だ。帰宅してから翌朝の食事の準備をしたのでは、寝るのが遅くなる。そう思って、ワカメ、ジャガイモ、豆腐入りの味噌汁を作った。これは自分自身のためでもある。猛暑期の体調を整えるためにも味噌汁は不可欠だ。 食卓にはメモを置いた。「風呂が沸いてます。ご飯が炊けてます。味噌汁が出来てます。朝の分の魚があります。冷蔵庫に山芋あり」。箇条書きの極めて事務的なメモだが、帰宅した妻が見たら直ぐ理解出来る内容だ。そして安心して眠れるだろう。愛犬との散歩から戻ると、畑の野菜を収穫した。 真っ赤なトマト4個。完熟のトマトは暖かくてとても甘い。キュウリ5本とゴーヤ1本。そして25個ほどのミニトマトを台所に置く。朝食を食べ終えた頃、妻は起きて来た。そして開口一番「お世話になりましたね、お父さん」。そこで私は言う。「ヨーグルトも残っているよ」と。テーブルの上には玉子の入った山芋、そして台所には鮭の焼いたのが置いてある。妻の朝食のおかずだ。 今日の天気予報を妻に教える。自転車で仕事に出かける彼女にとって、天気予報は必要不可欠の情報だ。「日曜日のランニングは大丈夫だったの?」と妻。「途中でフラフラになったけど、水を被って35km走った」と私。久しぶりで長距離を走ったせいか、昨日は股関節が痛んだ。「今日は少し疲労回復したみたいだから帰宅ランをするか」。そうつぶやいて、私はランニングシューズを履いて出勤した。今日も暑くなりそうだ。
2011.07.26
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昨夜は歴史ドラマを3つ観た。最初の「テンペスト」は琉球王朝時代の話。「嵐」と言う意味らしい。沖縄の人以外は沖縄の歴史をあまり良くは知らないと思う。だからそんな人があのドラマを観たら、大変驚くのではないだろうか。かなり前に放送した「琉球の風」も歴史を無視したドラマだった。沖縄の場合、日本との違いをあまりにも強調し過ぎると、誤解を与えかねないと思うのだがどうだろう。 琉球王朝時代の習俗が見られて勉強にはなったが、宗教界の最高峰である「聞得大君」(きこえおおぎみ)が政治の世界に首を突っ込んだり、若い女性が実際にはいない宦官(かんがん)に扮するなど、歴史的には首を傾げることが多かった。宦官は後宮に妃娼が数百人もいた中国では必要な官職だが、琉球のような小王国では置く必然性が全くないのだ。 中国の冊封体制と薩摩藩の支配と言う二重帰属に苦しんだ琉球王朝。そしてヨーロッパ列強国が日本に対して開国を迫る幕末期の琉球の苦難がそれとなく偲ばれたが、あまりにも奇想天外なストーリーに耐え切れず、ついチャンネルを変えてしまった。2つ目のドラマは「江」。信長の姪で徳川2代将軍秀忠に嫁ぐ女性の物語だが、ここでのコメントは控えたい。 3つ目のドラマは「トンイ」。これは李氏朝鮮王朝時代の女官の物語。人気番組だった「チャングム」の2番煎じのような気もするが、歴史、風俗、文化の勉強に加え、ドラマ性もあってなかなか面白い。ここでも中国との関係に苦しむ半島国の悩みがしばしば浮き彫りになる。今後どう展開するのか楽しみだ。 さて現実の世界では、つい最近大きな事件と事故が起きた。最初はノルウェーのテロ。ノルウェー人の若い男が政府庁舎を爆破し、次いで与党の集会に集まった若い男女を乱射して大量殺害したニュース。ノーベル賞で有名な平和な国だけに、何故あのような極右国粋主義者が出て来るのか分からない。報道によれば80日をかけて爆発物を製造し、ネットには1500ページに亘る「自説論文」を掲載していたとか。 もっと不思議なのが中国版新幹線の衝突事故。かねて中国では、日本、ヨーロッパ、カナダの技術で、新幹線車両、地上設備、運行管理システムなどを導入し、新幹線網の拡張に奔走中だ。中国政府の発表によれば「落雷による設備故障」が事故の原因とのことだが、衝突した車両の先端部を切り取って破壊し、地中に埋めたとの報道もある。これが事実なら一体どんな意図があるのだろう。 そもそも先進各国から技術提供を受けながら、世界の市場へ進出するため「特許」を申請する動きも見せた中国。今回の事故も、国威発揚のため路線拡大や工事を急いだり、無理にスピードを出させたり、各国のシステムに統一性が欠けていたことが原因で、今後も重大な事故が起きる懼れがあるようだ。 つい先ごろは、レアアースの輸出規制問題でWTOから違法認定が出されたばかりの中国。不透明な政策の下、今後どんな問題が生じるのか予想もつかない。
2011.07.25
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朝早くから妻は旅行へ出かけた。今日走らないと走る機会はない。そう思って愛犬との散歩、畑への散水、朝食を済ませると走りに出かけた。昨日は仙台明走会主催のチャリーティーランがあったが行かなかった。折角涼しい日だったのになあ。そして、今月は走っても短いランばかりで、ちっとも距離が延びていない。 S田夫妻は「ハセツネカップ」への参加を前に、わざわざ奥多摩へ71kmの試走に行ったようだ。仙台明走会のAさんは来月の「モンブラン」を控えて、富士山でトレーニングをしたようだ。そして古川のT田さんは「萩往還」、「いわて銀河」、「サロマ」、「みちのく秋田チャリティーラン」、「おんたけウルトラトレイル」とウルトラレースを軒並み完走。そしてその「おんたけ」には9人の仲間が参加したようだ。 今アメリカでは「ロスアンゼルスーニューヨークフットレース2011」が開催中で、日本人選手が4人参加してるようだ。スタートは6月19日でゴールは8月27日の70日間。距離は約5130km。セントラルパークを目指すそのレースはなかなか過酷で、既に日本人選手のうちの2人がリタイアしている。サポートで参加していたS原パパも既に帰国したみたい。 それらのニュースも、今の私にはほとんど何の影響も与えない。ただ問題なのが今週末の「薬莱山とお足マラニック」。距離は55kmだが、果たして仲間に迷惑をかけずにゴール出来るかどうか。そのためにも一度は長距離の練習をしておく必要があった。今月は短い距離しか走ってないが40kmくらいなら走れるはず。だがその自信は早くも崩れた。 8kmくらい走ったところで時計を見たら、何と1時間20分近くかかっている。これではキロ10分ペースではないか。国道286号線から別れ、秋保温泉方面に向かう。警視庁のパトカー4台が市内へと出動中だった。元湯へは向かわず、途中から錦ケ丘方面へ。坂道が苦しく、さらにスピードが落ちる。ガックリとした気持ちを清楚な山ユリが慰めてくれた。 「峠」の最高部から昨年登った仙台神室、山形神室などの威容が見える。天文台の手前でガス欠のため歩き出す。コンビニでスポーツドリンクとアイスを購入し、店内で食べる。店の外ではバームクーヘンの小片も。気温は朝の21度から27度へと上がった。エネルギー補給で少し体が動くようになった。 愛子から国道48号線の旧道を走る。太陽は真上で日影はほとんど無い。折立から八幡方面に向かうのは無理と判断し、急遽ショートカットして馬石越トンネル経由で帰ることに。だがどうしても走れずにとうとう歩き出す。目指すは大梅寺山麓。そこまで行けば冷たい湧き水が飲める。強い日差しの中をヨレヨレ歩く惨めなランナー。 1.5kmほどで山麓に到着し、早速頭から冷水を被る。タオルと帽子を濡らし、ランシャツを洗い、裸足の脚を水で冷やした。湧き水で喉を潤し、バームクーヘンを食べ、20分ほどの休憩で出発。ここからトンネルまでは急な登りだが何とか走れた。練習中のロードレーサーグループに声を掛ける。 梨野から太白山の林道へ。ここは結構厳しいコースだが日影が多い。それに途中からは下りになる。ここでも山ユリが迎えてくれた。自然観察園の裏側を通り、笊川に沿う道。最後の給水はコーラだった。12時過ぎに帰宅し、オールスター第3戦に何とか間に合った。最後に35kmの灼熱ランには、気持ち良い水シャワーだった。
2011.07.24
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目が覚めると、妻の姿が見えない。きっと近所の坂まで走りに行ったのだろう。今朝も涼しく走り易い天気。戸締りをして愛犬と朝の散歩に行く。果たしてランニング中の妻と直ぐに会えた。妻に駆け寄る愛犬も、このところの涼しさで至極元気が良い。帰宅して愛犬に餌を与え、キュウリ、トマト、ミニトマトを収穫。ミニトマトは熟したのがかなりあるが、採ったのは30個ほどだけ。 昨夜のオールスターは珍しくセリーグが圧勝した。日ハムの武田が1イニングで9点も取られたことに驚いた。彼は田中マー君を抜いて目下防御率1位の投手。それがメッタ打ちに遭うとはねえ。その試合を観られたのは最後の方だけ。前日の木曜日とこの日は、2日連続で早番と遅番の連ちゃん。同僚が葬儀で休んだためだった。 夕食を食べて2時間もしないうちに寝たのが2日続き、胃の調子が良くなかった。それに週末の疲れも溜まっていた。気温の低い今日は走るチャンスだったが、心臓の動悸が激しく無理はしないことにした。朝食は昨夜の残り物。今年の初もの、ゴーヤチャンプルーなどだった。採れたてのトマトやミニトマトが美味しい。毎朝採れるキュウリはぬか漬けになった。 朝食後は庭の草取り。このところ曇天が続いていたため、畑の土はさほど乾いていない。最近は妻も庭の整理をしているため、雑草はバケツ2杯分で済んだ。さて、高校野球県予選は今日が準々決勝。最も面白い試合が4試合続く。幸いにしてテレビで実況放送があるので楽しみだ。 昼食はインスタントラーメン。運動しない割には食べ過ぎの感も。午後からはオールスターの第2戦も観戦。今日は西部のお替わり君こと中村の2本のホームランでパリーグが雪辱した。高校野球は東北高校が順調に勝ったが、仙台育英は伏兵の仙台商業に敗れた。仙台商業のエース米は2年生の左腕投手。変則的な投球がなかなか面白い。 大相撲では大関候補に上っていた琴奨菊が今日も破れて10勝4敗。平幕に連敗したことで印象がグッと悪くなったのではないか。全勝の小兵の大関日馬富士は1敗の横綱白鵬に勝って2回目の優勝。来場所は横綱取りを狙うことになる。一方破れた横綱は前人未到の8場所連続優勝を果たすことが出来なかった。魁皇が引退した大相撲だが、これからどう変化するか。
2011.07.23
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台風6号がもたらしたものは雨だけではなかった。ここ数日、ひんやりとした空気が街を覆っている。夜も涼しく、寝冷えしそうな感じ。先日まで暑さで喘いでいた老犬マックスが、この涼しさで元気を取り戻し、朝の散歩でもグイグイ引っ張る。今朝は栗の実を見つけた。結構大きく育っている。帰宅後、畑からゴーヤを2本採った。もうこれ以上は大きくならないと判断してのことだ。ついでにキュウリ4本と、ミニトマト20個ほどを採る。 ワールドカップで優勝して帰国したばかりのなでしこジャパンが、もう練習を開始したようだ。間もなく「なでしこリーグ」が始まるのだ。昨日の友は今日の敵。9月からはロンドンオリンピックの最終予選も始まるとか。そのスケジュールが驚くほど過密なのだ。大相撲では日馬富士が唯一全勝を守っている。大関候補の琴奨菊が横綱を破って10勝2敗。果たして居なくなったばかりの日本人大関が誕生するかどうか。 プロ野球ではオールスター前の最終戦が見ものだった。東京ドームでの日ハム対楽天戦は、ダルビッシュとマー君の投げ合い。結局は3対1でダルビッシュに勝利の女神がほほ笑んだ。これでダルビッシュは13勝目。一方、打線の援護が得られないマー君は9勝でストップ。2人の対戦成績も3勝1敗でダルビッシュが優勢。 来年は大リーグへ行くとの話があるダルビッシュ。これが2人の対戦の見納めか。今度の日曜はKスタでオールスターの第3戦があるが、その時は2人の豪華リレーが観られるはず。前回のダルビッシュは確か9連続三振のはず。そして一方のマー君は6失点だった。今回は大震災を受けた東北での開催。きっとマー君も雪辱を果たしてくれるはずだ。 海の向こうの大リーグでは、ゴジラ松井が日米通算で500号のホームランを打った。19年目の快挙だった。アメリカに渡って以降、手首の骨折や両膝の手術で苦しんだ松井。500号は第9位の本数だが、その上にいる打者は日本だけの数字。ところが大リーグでは球場も広い上に好投手も多く、20を超えるチームとの対戦になるため、かなり不利なのだろう。 今年は日米通算2500安打や1500得点も記録している松井。37歳と年齢も上がって来たが、もう少し頑張って欲しいと思う。一方イチローは今回オースターに選ばれなかった。打率も2割6分と低迷し、ヒットも104本に止まっている。そしてマリナーズもアスレチックスも、かなり勝率が悪いのが気に掛かる。 さて、甲子園を目指して戦っていた我が母校だが、昨日シード校の仙台育英に5回コールド11対1で敗れ、ベスト8入りは成らなかった。私達が現役の頃は好投手が居て、東北高校と決勝で戦ったものだが、今ではその面影はないのが少々残念。被災地の高校も負けじと頑張っていたのが印象的だった。高校球児達の熱い戦いはまだまだ続きそうだ。
2011.07.22
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先週の土曜日は昼近くになって温泉から帰宅した。そのまま妻は姉の家に向かった。3月の震災以来、精神状態が不安定になっていた妻の姉。パニック症候群のような状態から、今はうつ病のような感じになっている。妻はほぼ毎日のように、その姉の相談相手になっているのだ。ようやく妻が帰宅したのは夕方の4時半ごろだった。 慌てて庭に散水し、愛犬と散歩に行った。散歩から戻って妻に乗るバスの時間を告げると、一瞬戸惑ったような表情になった。この日は夕方から街中で開かれている「東北六魂祭」を観に行くと前から約束していたのだが、前夜の温泉一泊と帰宅するなり姉宅へ行ったため、すっかりそのことを忘れてしまったのだろう。 バス停に行くと、反対方向からバスがやって来た。そして街中に向かうバスは時間になっても来ないまま。慌てて妻に「さっきのバスが引き返して来ると思うよ」と言う。あまり乗り気でない妻はもたもたしている。「旧国道のバス停まで歩いた方が良いと思うよ」。私がそう言うと、いやいやながら妻は歩き出した。 バス停に最初に来たのは、先ほど終点まで行って戻ったバス。運転手の話だと市内が大混雑でバスは既に40分遅れているそうだ。やはり「六魂祭」が混雑の原因のようだ。今年の3月、東北は未曽有の大震災に見舞われ、大きな被害を出した。その復興を祈って急遽企画されたのがこの「東北六魂祭」だった。 青森の「ねぶた」。秋田の「竿灯」。岩手の「さんさ踊り」。山形の「花笠踊り」。仙台の「七夕」と「雀踊り」。そして福島の「わらじ踊り」。福島のわらじ踊りこそ聞いたことは無かったが、後は東北の代表的な夏祭りで超有名行事。それが仙台で一度に観られるなんて、滅多にないチャンス。この機会に何としても観たいと思ったのだ。 だが、市内に近づくにつれ、渋滞は酷くなった。仕方なく途中で降り、最寄りの駅で地下鉄に乗り換えた。これなら何とか時間に間に合うはず。だがそれは全く甘い考えだった。祭りが開かれる地区に最も近い駅で降りたのだが、ホームから改札口まで人の波、波、波。それが全く動かないのだ。 焦った私と妻は柵を乗り越えて地下道へ出た。だが、そこから地上へ出られない。ガードマンが「通せんぼ」をして先に進めないのだ。きっと地上も大混乱なのだろう。ようやく遠回りをしてデパートの地下から地上に出、会場へと急いだ。もう時間はあまり残っていない。焦る気持ちで人波をかき分ける。 ところがまだ時間前なのに会場では、「今日のパレードは終わりました」の放送。ええっ?と耳を疑う。さらに「ねぶた」と「竿灯」が行進出来なかったお詫びの放送も。私の頭はさらに混乱した。人混みの中に、浴衣を着た踊り手が見えた。長さ12mもある福島の「大わらじ」も見えた。だが、今日の行事はすべて終了した後だった。 仙台市が予想した人出は1日5万人。2日で合計10万人の計算だった。ところが初日に13万人が観に来たようだ。パレードの予定個所へ押し寄せた観光客が道路にまではみ出し、「装置」が大掛かりなねぶたや竿灯は危険と判断して、この場所でのパレードを急遽中止したのだそうだ。 そんなことも知らずに、何も観られなかった私達はすごすごと帰宅した。おまけに妻とはバス停まで歩く途中にはぐれてしまった。悔しがった私は翌日に再挑戦する予定でいたが、結局は行くのを止めた。見学に良い場所を確保するためには早くから出掛ける必要があるが、何せ日中の暑さが半端じゃないのだ。結局2日目の人出は前日よりさらに増えて23万人だったそうだ。5万人の想定に23万人では、きっと人を見に行くようなものだろう。 後日、仙台市長が見通しの甘さを謝罪していた。このようなイベントは最低でも6か月前から準備する必要があるそうだが、今回はわずか2カ月が準備期間。有名な東北の夏祭りを一度に観られるとあって期待が膨れ、大変な人出になったのだろう。多くの熱中症患者も出たらしい。もっとしっかりした準備の下に、ゆったりとした気持ちで東北の6大夏祭りを観られなかったのが残念だった。
2011.07.21
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台風6号が猛威を振っている。高知県では死者も出たようだし、各地の雨量が凄い。特に高知県の馬路村魚梁瀬では、1日に851mmも降ったとか。これは1日の雨量の新記録だったようだ。普通なら数カ月分の雨量が、たった1日で降ったのだから大変なもの。元々雨が多い地方だが、それにしてもねえ。 馬路村は徳島県境にある山村。ここで開かれているのが「おらが村心臓破りフルマラソン」。このスタート地点がダムのある魚梁瀬で、高低差350mを一気に下り、その後もアップダウンの繰り返しの厳しいコースだった。ユズが名産で、そのジュースがとても秀逸なのだ。私は愛媛の松山から200kmの道のりを、遥々原付で参加したことがあったっけ。 その台風6号は、台風7号を飲み込んだ「合併台風」なのだそうだ。だから影響が大きいのだろう。既に昨日のうちから、三重県や遠くの埼玉県でも水害が出ていたが、その後の様子はどうなのだろう。それにしても進路の予想が四国で直角に近い角度で曲がることに驚いたのだが、現実もそれに近い進路を辿っている。 大相撲で勝利数の新記録を樹立したばかりの大関魁皇が引退した。画面からは思うように体が動かないように見えて、これは引退が近そうだと思っていた。また場所前に、他の人に貸していた年寄の名跡である「浅香山」を返してもらったと聞いていたので、ひょっとして引退が近いかと感じていた。 既に何年も前に辞めた曙、若乃花、貴ノ花兄弟と初土俵が同じだったことを考えると、ここまで良く相撲を取り続けたと感心する。前場所負け越しての「角番」の回数も史上2位。文字通りボロボロになるまで頑張った、日本人唯一の大関に大きな拍手を送りたい。お疲れ様でした魁皇関。そしてこれからも大相撲発展のために、力を尽くして下さいね。 先だっての日曜日。洗濯ものを取り込んでいて、警備用のズボンがないことに気づいた。あのズボンがないととても困るのだ。慌てて庭に落ちてないか探しに降りた。洗濯機の中も見たが何処にもない。ひょっとして職場に置いたままだったのだろうか。月曜日に第1現場で探したが無い。第2現場にも忘れてなかった。責任者に聞いても紺のズボンは無かったのとの話。 それで分かった。ひょっとしてリュックサックの底に残ったままではないか。つまり洗濯機の中に入れなかったと言うのが最終判断。家に帰ってリュックの中を覗き込むと、果たして紺の警備用ズボンは静かに鎮座していたのだった。たまにはこんな失敗もある。それだけ注意力が衰えた証拠だろう。だからと言って人生を引退することは出来ないが、仕事を辞める潮時にはなるかも知れないね。
2011.07.20
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< 老舗旅館の歴史 > 80段の階段を下りてようやく岩風呂へ着いた。21時からは男の入る順番。だが脱衣所は男女別にある。これは混浴時代の名残なのだ。47年ぶりの岩風呂だったが、当時とほとんど変わらない感じだ。堂々たる大岩の脇に、4つの露天風呂。10人くらいしか入れない小さいものから、30人以上も入れる大きなものまである。温泉の温度も少し差があるようだ。 50度以上の源泉が出る個所だけは区切られていて、入れないようになっていた。ライトアップされて雰囲気はあるが、暗いせいか川の流れまでは良く分からない。久しぶりの岩風呂に満足し部屋へ戻った。その夜はやけに暑かった。クーラーを切って寝たら、汗だくで目覚めた。結局真夜中にクーラーを入れ直し、布団を被って眠った。 翌朝起きた妻は、昨夜は暑かったとぼやきながら朝風呂へ行った。5時半から7時までが女性の入浴タイムの岩風呂だが、その前に大浴場へも行く由。朝食は7時からなので、ロビーで新聞を読んだ。前夜の楽天は見事な勝利だったようだ。部屋に戻りながら、旅館の歴史コーナーで古い資料を読む。 作並温泉は、この旅館の先祖が江戸時代に開いた由。先祖は頼朝の奥州征伐に従った武士で藤原姓を名乗り、役職は対馬掾だったようだ。その子孫が岩松姓を名乗り寛政年間(1789~1801年)に3代かけて、河原に湧く温泉を開発して宿を開いたそうだ。ここは約200年の歴史がある老舗旅館だったのだ。 朝食はバイキング方式。心の籠ったメニューがたくさんあった。妻はご飯とパンを食べ、コーヒーとスイーツまでいただいたが、私はフルーツ入りのヨーグルトで締めた。一旦部屋へ戻って寛いでから、温泉をはしごした。先ずは広々とした大浴場。入っているのは数名。それから2度目の岩風呂。こちらは誰も入っていない。 4つの岩風呂を楽しみ、時々上がって目の前の川を眺めた。ここは仙台市内を流れる広瀬川の最上流部。今はロープが張ってあって川へ入れないが、昔は川で体を冷やしたりしたのだろう。清流に泳ぐのはヤマメだろうか。更衣室の窓からは、小さな滝と5mほどの深い澱みが見えた。30cmほどのヤマメが数匹、悠然と泳いでいる。 今回の宿はネットで安い企画のを見つけて申し込んだもの。それでも妻は大変喜んでくれた。来月は登山とミステリーツアーを申し込んであるが、また鄙びた温泉へ泊るのも良いと思う。旅館の前で若い仲居さんが6人ほどバスを見送ってくれた。そのうちの1人は駅まで来て、私達が乗る列車に手を振ってくれた。これが老舗旅館のおもてなしかと妙に感心した。<完>
2011.07.19
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気温34度の中でのデーゲームは9回表まで3対3の同点。青山は9回表を0点に抑えた。1アウトランナー無しから内村がライトに鋭い当たりを放った。突っ込む右翼手がボールを取り損ね、俊足内村はサードまで走った。1アウト2、3塁でバッターは聖澤。内野へのゴロの間に内村はホームに突っ込んだ。間一髪セーフ。4対3で劇的なサヨナラ勝ちだった。これで楽天は引き分けを挟んで4連勝。3位のロッテに僅か0.5ゲーム差と迫った。 このところ楽天は細かい投手リレーが成功している。また10連戦や9連戦をほとんど負け越さないで来たことが大きい。かなり貯金のある日ハムとソフトバンクの優位は動かないにしても、3位に食い込むチャンスは大いに残されている。後は投打の主役である岩隈と山崎が戻れば、かなり楽な戦い方が出来そうに思う。 高校野球の県予選が3回戦まで進んでいる。我が母校の名前がここまで全然出て来なかったので、どうなったのか心配だったが昨日2対0で勝利し、4回戦に駒を進めた。気分を良くし、大河ドラマの「お江」と、韓国歴史ドラマの「トンイ」を観て床に就いた。目覚まし時計は3時15分にセットしたが、気分が高揚していたのか時間前に目が覚めた。 女子サッカーワールドカップの決勝戦。さすがに世界ランク1位のアメリカは強かった。試合開始早々から猛烈な攻撃を仕掛け、最初からギアがトップに入りっ放しの感があった。個人技が優れているし、パワーもある。前半は危ない場面の連続だった。だが、その猛攻を耐え忍んでいるうちに、日本のリズムも良くなって来た。 後半先制したのはアメリカ。絵に描いたような見事なゴールだった。日本も諦めずに残り10分で宮間がシュートを放った。延長戦でも先に得点したのはアメリカ。2点目もエースの鮮やかなゴールだった。ここでも日本は諦めず、キャプテン澤がコーナーキックをボレーで決めた。あれは男でも決めるのは無理な体勢。良くあの位置から鋭いシュートが放てたものだ。 残り時間が無くなったところで、アメリカが日本のゴール前に迫り、岩清水が決死のファールで凌ぎレッドカードで退場になった。結局時間切れでPK戦に。ここからの「なでしこ」は神がかりだった。キーパーの海堀はPK戦になれば勝てると思っていたとか。案の定アメリカの3人のうち、2人を止め、1人はプレッシャーで外した。一方のなでしこは1人が外しただけで4人目がPKを決めて優勝を導いた。 誰がこの初優勝を予想しただろう。世界の実力チームを相手に連戦連勝を重ねたなでしこジャパン。この日も120分間走り続け、最後に王者アメリカを葬った。キャプテン澤の得点王とMVPも立派な勲章。ここまで選手達を導いて来た佐々木監督も立派だったと思う。表彰式ではカップを手にした澤を囲み、選手が1本の指を高々と掲げた。それは世界一のサインだった。狂喜する選手の後で、金色の紙吹雪が舞い散った。 選手達は明日の朝には帰国する由。大変な疲労が残っているはずだが、今後は国内での試合や、オリンピックの予選が待っているようだ。なでしこジャパンに対する世界の評価も、概して好意的なものが多かったように思う。15歳でワールドカップ初参加の澤を始め、ここまで到達する間の各選手の苦労は並大抵のものではなかったと思う。初優勝おめでとうございます。私達は貴女達が頑張る姿を観て、大きな勇気をもらいましたよ。
2011.07.18
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< 80段の階段を下って > 電車の座席から外の景色を眺めていると、国道48号線が見えて来た。4月の末に関山トンネルを通って山形県の天童市まで走った時に通った道だ。山間の道は大型トラックがビュンビュン通ってとても怖い思いをしたのだが、今となってはそれすら楽しい思い出だ。ウイスキー工場の赤レンガと特徴のある鎌倉山が見えると降りた駅が近い。 ここで降りたのは十数名。ほとんどが温泉への泊り客のようだ。駅前に旅館の番頭さんが迎えに来ていた。マイクロバスに乗り込んだのは6人。遅くなったと心配していたのだが、他にも泊り客がいて助かった。4月に走ったコースを温泉に向かってひた走るバス。見覚えがある風景に懐かしい思い出が蘇る。 旅館に着いて直ぐにチェックインし、部屋に荷物を置いて直ぐに夕食の会場へ向かった。既に夕食の指定時間になっていたし、岩風呂へ入る時間の都合があったからだ。大広間にはたくさんの泊り客がいた。最初に「健康赤ブドウ酢」で乾杯。届いたビールでも乾杯。今回の温泉1泊旅行は妻の誕生日を祝ってのもの。 プレゼントの時計はかなり前に渡していた。本当は誕生日に旅館で渡そうと思っていたのだが、ソーラー時計のため、あまり長く箱の中にしまって置くと影響があるかと心配になったのだ。今の時計も17年前に私が上げたのだが、五千円の安もの。それを「1万円した」と言って渡したのが、ずっと気になっていた。今回のは狂わない電波時計で値段も前回の7倍ほどしたのでまあまあか。 夕食の献立は、鮮魚の盛り合わせ(刺身)、イカのモズク和え、トウガンの葉ワサビ和え(小鉢)、赤魚(陶板焼き)、牛肉しゃぶしゃぶ(鍋)、海老(煮もの)、野菜の天ぷら、漬物2種類、芋の子汁、果物と盛りだくさん。地元米「ひとめぼれ」のご飯も2杯お代りして満腹の大満足だった。 だが、隣の泊り客が、「匂いの少ない焼酎はないか」とか、「なぜここでタバコが吸えないのか」とか、とても煩い。高校を卒業して就職したばかりの仲居さんが困り果てていた。気分が悪いので、部屋に戻って寛ぐ。時間を見て、妻は温泉に入りに行った。お目当ての「岩風呂」は、19時から21時までは女性タイムだった。 私も時間を見計らって大浴場へ行った。50人ほどは入れる大きな浴槽に、源泉かけ流しの温泉が溢れている。お湯は熱かったが気持ちが良い。手足を伸ばして軽くマッサージ。効能は筋肉痛や関節痛などに効き、元気回復にも良いようだ。21時前に出て、岩風呂へ向かう。地下2階まではエレベーターで。そこからは80段の階段を下りて河原へと向かう。杉の匂いが漂う緩い階段の途中には休憩場所もあった。<続く>
2011.07.17
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< 来ない電車 > 金曜日。午前中の勤務を終えて帰宅すると、玄関の中にマックスが横たわっていた。その首にタオルで巻かれたものを触ってみると、冷たくて気持ちが良い。「ははあ、凍らせたアイスノンだな」と一発で分かった。連日の猛暑が続く仙台。老犬のマックスにはとても厳しい気象条件だった。 それに黒のラブラドルはとても暑さに弱い。彼らの先祖は冷涼なカナダのラブラドル半島で海に飛び込み、漁網のロープを岸まで引っ張って来るのが仕事だったとか。冷たい水は得意なのだが、逆に暑い夏はとても苦手なのだ。妻は仕事に出かけている。この日は屋外の水道工事日でもあった。だが、工事の人の姿が見えない。 昼食はいつものように冷やし中華。それを食べ終わった頃に、工事の人が戻って来た。どうやら彼も自宅へ昼食を食べに帰っていたようだ。セメントの袋や砂利の袋を運び、やがて水を入れて混ぜ出した。我が家の屋外用水道は、不凍栓と言うのが付いている。冬季、気温がマイナス5度くらいになると水道が凍結するのを防ぐための装置だが、先日それが壊れてしまったのだ。 私がブログを書き終えた頃、外の工事も終わった。時々作業を見せてもらったが、さすがはプロの職人、実に手際の良いものだった。代金5万円を支払って、領収書を受け取る。まさか直ぐに代金を支払ってもらえるとは思っていなかったのか、親方は喜んで帰った。5万円が高いか安いかは分からないが、半日以上かかる手間仕事だから相場はそんなものかと納得。 そこへ仕事中の妻から電話。工事を終わったことを告げ、これから急いでマックスの散歩と庭への水撒きを済ませて、待ち合わせの場所に行くことにした。妻は仕事先から帰宅しないで済むよう、出かける準備をしていたようだ。まだ暑い中を愛犬と散歩し、急いで帰宅。次いで、完成したばかりの屋外水道へホースをつないで庭と畑へ散水。 もちろんコンクリートを打ったばかりの排水桝には水が掛からないよう、覆いをした。カラカラの庭はたちまち黒々と色を変える。バケツに水を並々と注ぎ、マックスを植え込みの陰に繋ぐ。彼は明日の午前中まで留守番役。日中あまり気温が上がらない場所を選んだ積りだった。それから慌てて温泉へ行く準備をし、妻と待ち合わせの場所まで自転車を飛ばした。 JRの最寄駅から温泉のある駅までの切符を買い、列車に乗り込んだまでは良かった。仙台駅で乗り換えようとしてビックリ。何と途中の駅までは3本もあるのだが、私達の目的地まで行く電車が出るまで、1時間以上も待つことが分かった。私達が着く5分前に、ちょうど良い電車が行ったばかりだったのだ。慌ててホテルへ連絡。夕方の4時にチェックインする予定だったが、色々あって3時間近く遅れてしまったからだ。<続く>
2011.07.16
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Kスタへ行ったのは1カ月ぶり。楽天の調子も上がらなかったが、私の体調もあまり良くなかったからだ。この日買ったチケットは3塁側内野上段席。普段より安い「バリュー・デー」だった。指定席だから遅く行っても座れるので安心。だが、先発が田中マー君だと言うのに、どこの席もガラガラだった。 行くには行ったが、勝利を期待してはいなかった。ひょっとして負けるかもとの思いもあった。前回の投球時、マー君は今季最短の6回でマウンドを降りていたからだ。中5日で投げ続け、きっちりローテーションを守っていた彼。きっと疲れも溜まっているはずと思っていたのだ。案の定、立ち上がりから調子は良くなく、あっと言う間にヒットを許した。 だが、ピンチを迎えた後の処置が抜群。全然動じないでピシャリと後続を断った。2回もピンチを迎えたが同様に抑えた。一方ソフトバンクの大隣の調子も抜群。何故この投手が0勝0敗なのか理解出来ないほど。結局マー君は10回まで投げ、許したヒットは4本。これに対して大隣はノーヒットノーランペース。ようやく聖澤のしょぼい内野安打が出て、何とか大記録の達成を阻止した。 延長戦に入っても田中は投げた。10回表まで投げて0点に抑えたが楽天も点が取れず、延長12回0対0で引き分けに。これでマー君の防御率はさらに上がった。最下位の西武が負け、3位オリックスとのゲーム差は依然2ゲームのまま。この体制で楽天も良く頑張ってるように思う。 帰宅したのが10時20分ごろ。それから風呂に入り、パソコンを立ち上げてスポーツの結果を確かめた。この日、魁皇が旭天鵬を破って白星を挙げ、新記録を達成したことや、女子ワールドカップで大活躍をした「なでしこジャパン」のボーナス加増を検討中であることも知った。共に嬉しいニュースだった。 今日は夕方から近郊の温泉に出かける。明日は妻の誕生日。一日早いが、そのお祝いなのだ。その旅館の名物は「岩風呂」。川を目の前にした露天風呂は圧巻。昔は男女混浴だったのだが、今は女子だけでも入れる時間帯があるようだ。多分そこへ行くのは47年ぶりくらいになると思う。そんな訳で、今夜もご訪問出来ないことをお許し願いたい。
2011.07.15
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暑い。それも半端じゃない暑さが続いている。昼も暑ければ、夜も気温がなかなか下がらずに熱帯夜。7月に仙台がこれだけ暑いことは珍しいことだ。何せ例年7月は梅雨の真っ最中で、気温は高くても24度ほど。それが連日夏日と熱帯夜では、疲労も溜まるし寝不足にもなる。 昨日も暑かったが、それ以上に熱い戦いもあった。先ず大相撲では魁皇がようやく今場所の初白星を挙げた。3連敗した時は危ないかと感じたが、これで通算の勝利数は1045勝となり、大横綱千代の富士の持つ記録と並んだことになる。早速取り組終了後に、九重親方(元千代の富士)と握手をする姿がテレビに映った。 魁皇の初土俵は昭和63(1988)年の春場所。そして新入幕は平成5(1993)年野夏場所。今場所の千秋楽には確か39歳になると聞いた。若貴時代の生き残りがヨレヨレになってもまだ相撲を取っている姿には頭が下がる。彼の持つ記録のうち大関在位通算65場所は最多タイ記録。そして、幕内在位107場所、幕内出場回数1438回、幕内勝利数877勝は1位の記録だ。通算勝利数の新記録達成も時間の問題だろう。 その夜も嬉しいことがあった。目下パリーグ5位の東北楽天が首位を独走中のソフトバンクホークスを1対0で破ったのだ。先発はソフトバンクがエースの和田。彼は今季7勝1敗の好記録を維持している。それに対し、楽天は目下0勝2敗の井坂。これじゃ戦う前から勝敗が決まったように思ったのだが、これが意外な結果になった。 初回高須のタイムリーで得た1点を、5人の投手リレーで護り切ったのだ。つまり「スミ1」が決勝点と言うわけ。最後は最近2軍から復帰したラズナーが抑え、3セーブ目を挙げたのだから嬉しい誤算。井坂にとっては、今季初勝利となった。我が楽天は目下借金6の5位だが、3位のオリックスまでは2ゲーム差。上位2チームを除けば、パリーグは混とん状態で面白いのだ。 嬉しいことが2つ重なると、寝苦しい熱帯夜でさえ気分が良い。興奮していたのか、未明3時にトイレに起きたまま眠れなくなった。そのままテレビを点け、女子サッカーワールドカップの対スウェーデン戦を観ることに決定。ゲーム開始後10分、何と自陣ゴール前での澤の横パスをカットされ、あっと言う間の失点だった。 これは拙い展開と思ったが、時間が早い分だけ体制を立て直すことが出来た。前半19分この日が初先発の川澄が右足で押し込みゴール。たちまち同点に追いついた。試合前に佐々木監督は言っていた。「決勝へ行きたいと強く思ったチームが勝つ」と。その監督の言葉と采配がずばり的中した。最近調子を上げた川澄の起用が勝利をもたらしたのだ。 後半15分、キャプテンで32歳のベテラン澤がヘディングで技ありのゴール。これで2対1と逆転。澤は今大会通算4ゴール目でトップタイになった。さらに後半19分、好調の川澄が30mのミドルシュートを、飛び出した相手GKの頭越しに決め3対1。これで勝負あった。ボール支配率は日本が60%以上だったとか。 「なでしこジャパン」の決勝の相手はアメリカ。対戦は1週間後のようなので、疲労も取れるだろう。今回のW杯に際して、彼女達は「金メダルを狙う」と明言していた由。それだけの気持ちと自信を持って臨んだ大会で、まさに「有言実行」だ。強いぞ「なでしこジャパン」。世界ランク4位も伊達じゃなかったね。 さて、今夜は久しぶりにKスタへ行く。今夜の先発は田中マー君。気持の強い彼のことだ。きっとやってくれるだろう。エース岩隈と4番の山崎が怪我で登録抹消中の楽天。いわば「飛車、角落とし」の状態で戦っているのが現状。暑い夜だが、それに負けない熱い声援を飛ばして来ようと思う。どうやら今夜も寝不足になりそうだ。ふう~っ。
2011.07.14
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九州に住む弟から初めてのお中元が届いたのが一昨日のこと。「これはどうした風の吹き回しだろう」。そう思っているうち、昨日は兄嫁から電話があった。何と弟が「彼女」を連れて東北を観光旅行中とのこと。そして今日、仙台に来るとの話だった。「へえ~っ、それでお中元をねえ」と思って電話を切ったのだが、思い立って兄嫁へ電話をかけ直した。 高校卒業後直ぐに東京へ出た弟。あれから弟と会ったのは、お互いの結婚式や母の葬儀など、今まで10回も無い。最後に会ったのは5年前。奥さんのお葬式が最後だった。私は31年間もの間転勤を重ねて来たし、彼も東京の本社勤務の他、北海道、茨城、宮崎へ転勤していた。彼の妻が亡くなったのも、最後の勤務地である宮崎でのことだった。 定年となった後も弟はそのまま宮崎に住み続けていた。のんびりとした土地柄が気に入ったようだった。奥様の希望通り遺灰の一部を沖縄の海に流した後は、地元のテレビ局に時たまゲストで出たり、ゴルフを楽しむ毎日だったみたい。「誰か良い人が出来たら結婚するかも」と言っていたが、あまり本気にはしてなかった。 兄嫁は車で弟達を仙台駅まで迎えに行き、私は途中で拾ってもらった。行き先は父母が眠る墓地。車から下りた時に初めて弟の「彼女」を見た。清楚な人だった。49歳の看護師さん。20代のお子さんが2人居られるとのこと。そして看護師の資格を取ったのが42歳と言う話に驚いた。深い志がなければその歳で看護師を目指すことはないはず。 夫君とは死別なのか離別だったのかは聞かなかったが、墓前の草を抜き、墓碑に水をかけ、線香を上げて手を合わせる姿を見ていたら、それぞれの第2の人生を幸せに過ごして欲しいとの思いが強まった。兄宅へ挨拶に行き、そこからは従弟のタクシーで市内見物しながら我が家へも寄ってもらった。 生憎妻は仕事で留守だったが、花壇のカサブランカと老犬マックスが迎えてくれた。従弟が我が家へ来たのは初めて。私達兄弟と従弟の3人が会ったのはきっと50年ぶりくらいのこと。弟も従弟も妻をがんで亡くしている。なんだか運命の悪戯を感じてならないが、次に会えるのは果たして何時になるか。 元気なうちに、是非弟達の所を訪ねてみたい。観光も楽しみだが、妻にも弟の彼女を見せたいからだ。そのためにもしっかり足を治さないとね。今日も30度を超える暑い一日だった。そしてこの暑さはまだまだ当分続くらしい。
2011.07.13
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第1現場に着くなりトイレに入った。バスに乗ってる時から腹痛が酷かったからだ。間一髪セーフ。いやはや危なかった。昨夜も網戸にして寝た。そして腹に掛けるのは、綿毛布からタオルケットに替えた。朝方は少し冷えたが、それが原因とは思えない。きっと朝食前に食べたカスピ海ヨーグルトのせいだと思う。何せ腸の働きが活発になるのだ。 つい最近、カスピ海ヨーグルトの「種」を新しいのに替えたばかり。前のが古くなって分離したりしていたからだ。それが今度のは物凄く濃厚で、おまけにビンも買い替えたため1回当たりの食べる量も増えたのだ。その「効果」がてきめんに現れたと言うわけだ。 第2現場に着くなり、またまたトイレに駆け込んだ。だが今度は失敗し、下着を汚した。慌てて「個室」で処理したが、下着の着替えがない。結局は作業ズボンだけを穿いて仕事をしたが、あまり良い気持ちではなかった。こちらの原因は冷たいココア飲料を一気飲みしたこと。 勤務後、整形外科へ行った。第2現場への移動の前に診察券を出していたため、直ぐに診てもらえた。今日は初めての先生だ。右足の底部に痛みがあることと、これまでの経緯を簡単に話した。気さくなドクターはレントゲン写真と私の足を交互に見ながら、「右足の偏平足には奇形が出ており、それが原因で足底筋が筋膜炎を起こしている」と説明してくれた。 そして私が最近底の軟らかいシューズを履いて走っていることを告げると、それが痛みを助長しているとも。私のように足底筋が伸び切った状態だと痛みを生ずるため、あまり足底の形態が変わらぬよう底の堅いシューズにインソールを入れて走る必要があるらしい。どうやら私は全く逆の考え方をしていたようだ。 底の堅いシューズは足に響くし、まして堅いシリコン製のインソールを入れると衝撃が強すぎて足が痛む。このためにクッション性の高いものを選んでいたのだが、変形した私の足のためには良くなかった訳だ。痛む個所に注射を打って診察は終わったが、果たして底の堅いシューズとインソールの共用で、足がレースに耐えられるものだろうか。 だが痛みの原因が解明できたのは良かった。今後ウルトラレースに復帰できるかどうかは分からないし、フルマラソンも走れるかどうか。ゆっくりとなら20kmくらいは走れると楽観しているが、今後の生活に支障を来さない足であって欲しい。少なくてもウォーキングくらいは楽しみたいと願っているのだが。
2011.07.12
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仙台の昨日の最高気温は35度近くまで上がった。居間の温度も34度。梅雨なのにこれだけ暑かったのは初めてのような気がする。そして昨夜も熱帯夜。これじゃまるで夏ではないか。天気予報はずっと曇りがちだが、気温の高さからして梅雨明けが近いとにらんでいた。それが今日帰宅したら、東北も梅雨明けしたとのニュース。やっぱりなあ。 花壇のユリが咲き始めた。割と大きな花弁で、黄色いのとピンクの2種類。妻が球根を植えたので名前は知らないが、ひょっとして「カサブランカ」だろうか。クチナシも咲き始め、良い香りが漂って来る。アゲハの幼虫にすっかり葉を食い尽されたのだが、その生命力は結構強いのだ。 垣根のバラが散り、3週間ほどに亘って掃き掃除を続けた。今は玄関脇のシャラが散り始めている。何故「夏ツバキ」の異名があるのか不思議だが、きっと花全体が椿のようにポロっと落ちるからだろう。ラベンダーも、名前を知らない黄色い花も咲き出した。猛暑につられて、ハイビスカスの赤い花も。 「空梅雨」の気配を感じ、トマトの上に差していた3本のビニール傘を数日前に撤去した。今は逆に雨が欲しいくらい土が乾燥している。初めて蒔いた「ロマノインゲン」と「寄居カブ」は結局失敗で、ほとんど収穫無しに終わった。急な気温上昇でトマトやミニトマトにもテントウ虫が齧った跡があるが、こちらは元気に育っている。 折った「トウ」の部分から大根が腐って来たことに驚いた。結局は全部抜き、少しずつ食べている。その跡地にシソを移植。こちらは順調に育っている。梅にも虫がついたが、それでも例年の半分ほどは収穫出来、きれいな実だけ選んで「梅酢」を作った。 ゴーヤは黄色い花を咲かせ始めた。まだ苗はそれほど大きくなく、先端部をちょん切ったのは1本だけ。脇芽を横に延ばし、たくさんの花を咲かせるためだ。夏本番で散水と追肥を怠らなければ、今後たくさんの実をつけてくれるだろう。3本の苗から、果たしてどれくらいのゴーヤが収穫出来るか。
2011.07.11
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目が覚めて玄関に行くと、扉の鍵が開いていた。どうやら妻は走りに行ったようだ。昨夜も熱帯夜。寝苦しい夜だったはずだが、妻には早朝から走る気力と体力が残っていたようだ。愛犬と散歩に出かけると、果たして近所の坂道を妻が走っていた。「暑くて喉が渇く」と妻。ペースはゆっくりでも2時間走れたら凄いと思う。 いつものコースを廻り、紫と白のアジサイを手折って帰宅。早速花瓶にアジサイを飾る。今朝の収穫はキュウリ3本、ミニトマト5個、そしてトマトが1個。そのうちミニトマト3個を朝食用にし、キュウリは半分に切り、味噌をつけて食べることにした。魚、煮物、サラダなど、朝食は全て残り物。残った素麺を使って素麺汁を作る。 散歩ではノウゼンカズラを見た。切手が貼ってなかったために戻って来た葉書も投函した。朝食後はカスピ海ヨーグルトとリンゴを食べる。テレビでは「なでしこジャパンが」ドイツを1対0で破ったニュースが字幕に。これでベスト4進出。ドイツはワールドカップでは12年間不敗の強豪。まさに大金星の殊勲だった。 新聞を読み、寛いでいるところに妻が帰宅。早速「なでしこジャパン」の勝利を伝える。今日も朝から気温が高く、あっと言う間に猛暑に包まれた。慌てて愛犬を玄関に入れる。そこへ義兄が段ボール箱を抱えてやって来た。朝一番の農作業の帰りのようで、箱の中には掘ったばかりのたくさんのジャガイモ。嬉しい報せの第2弾だった。 午前中はいつもの報道番組を観た後、ソファーで読書。早くも「三国志」の第2巻目に突入。やはり宮城谷昌光の歴史小説の面白さは別格。1冊読む中で登場人物は200人を超えるが、歴史がその後どう展開するのかワクワクしながら読んでいる。妻は暑い中を買いものに出かけた。10時前に少し強めの地震。県内は震度4で、津波注意報が発令された。 昼食も冷蔵庫の中の残りもので済ます。エネルギーを使わない日はそれでも十分。この日2度目の血圧測定も低めに出た。午後は弱い雨。予報では雷雨があると聞いたが、雷鳴もさほど強くはなかった。届いた宅急便は、四国の長女夫妻からのお中元。これは嬉しい報せの第3弾になった。夕方の散歩後、畑と庭に散水。雨の後の散水は初めてのこと。あんな雨じゃ野菜には不足と思ってのこと。キュウリ5本収穫。 今日から大相撲の名古屋場所が始まった。前回は不正が生じたことを理由の「技能審査場所」でさしたる表彰もなく、力士の顔ぶれも大幅に変わった。さて、今場所の話題の一つが大関魁皇。幕内最多勝利数1045で大横綱千代の富士と並ぶのだ。今日は残念ながら破れたが、若貴兄弟や曙などと同世代の力士がまだ頑張っていることに拍手を送りたい。
2011.07.10
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昨夜は熱帯夜に近かったのだと思う。網戸にして寝たが、それでも何度か目が覚め、扇風機をかけた。勿論パジャマなど着ないが、朝にはランニングシャツが濡れている。多分6時間は眠ったはず。体調も悪くないし、珍しく足の痛みも無い。こんな時は朝ランでもするか。そう思ってランシャツ、ランパンに着替えた。 愛犬に気づかれないよう裏の垣根を越えて近所の坂へ。交差点の所まで歩き、平らな所でおもむろに体操。朝ランなんていつ以来だろう。それにこの坂を走るのだって3カ月ぶりくらいだ。走る前の体操も久しぶり。涼しい時間帯に走るのも私にしては珍しいこと。先ずはゆっくり下り、そこから引き返して今度は登る。 道路はまだ工事をストップしたまま。車道にはまだ未舗装の部分があるが、歩道はほとんど舗装済みなので問題ない。朝は車も少ないし、第一ここには信号すらない。誰にも邪魔されず、ゆっくりゆっくり歩を進める。妻はこの坂道を2時間近く走ることがある。腰が落ちた不細工なフォームだが、2時間近く走れたら「オンの字」だろう。 今の体調だと来年のウルトラレースは厳しいと思う。ウルトラの経費を稼ぐために働いているようなものなので、ウルトラが無理な場合は働く意味が無いようにも思う。それに体がきつくなったのも事実。1時間半ほど走って帰宅。距離は11kmくらいか。帰宅後は水シャワーを浴び、愛犬と散歩。 帰宅後妻に昨日振り込んだ旅行代金の領収書を求められるが、見当たらない。仕方なくお釣りだけ返した。朝食後は古新聞などリサイクルゴミをまとめ、次いで畑の「ロマノインゲン」の始末。これは虫に食われて失敗作だった。ずいぶん遅れたが、「モロッコインゲン」を慌てて蒔いた。それが発芽したため、支柱を施す必要もあった。 午前中から既に暑い。汗をかきながら作業している所へ妻の姉夫妻が来宅。義姉の様子がどうもおかしい。義兄もどうして良いか分からない感じ。妻と30分ほど話して帰宅したが、義姉の表情は病人のものだった。暑過ぎて作業を中断し、涼しい部屋で読書に変更。読み始めた宮城谷「三国志」は、いつもの書き出しとは様子が全く異なる。 午後も読書と昼寝。そして4時頃から農作業を再開。ミニトマトを紐で縛ってまとめ、トマトの脇芽を摘む。そして発酵鶏糞を追肥し、ホースで散水。朝まとめた資源回収ゴミを出し、愛犬と2度目の散歩。 帰宅すると「ツアーの領収書が見つかったよ」と妻。どうやら郵便局に忘れたのを届けてくれたようだ。一方、妻が出した葉書も戻って来た。何と切手を貼らずに投函したみたい。今日は33度を超える猛暑だったが、失敗を暑さのせいには出来ない。今夜もまた熱帯夜で、明日も33度とか。明日こそ失敗をしないように注意したい。
2011.07.09
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昨夜は大雨との予報だったが、あれは仙台ではなかったのだろうか。確か未明3時頃に地震があり愛犬が吠えた。それでもしばらくしたら大人しくなり、私も再び眠ったようだ。いつも通り4時過ぎに起き、カーテンを開ける。外は弱い雨。トマトの上の傘が開き、畝は全く濡れていない。どうやら大雨の予報を聞いた妻が、前日のうちから傘を開いていたようだ。 布団を上げて台所へ行くと、洗い場の横にトマトとキュウリが置いてある。前日の夕方以降、妻が畑を見廻ったのだろう。雨はほとんど止んでいたが、念のために傘は持った。意外に涼しい朝。冷気が気持ち良く感じる。いつもは荒い愛犬の息が、涼しさのためかとても静か。散歩中に雨は降らなかったが、念のため愛犬をガレージにつなぐ。 畑を一巡し、キュウリを2本収穫。妻が採った分と併せて台所へ。そして朝食の準備。妻はグッスリ眠っている。きっと地震で目が覚めたはずだが、再び眠れたのだろう。朝食後カスピ海ヨーグルトと果物を食べ、薬を飲んでから血圧を測定。そして連載小説とスポーツ欄はもちろん朝刊のほとんどのページに目を通す。 6時20分裏口からバス停へ。服装は半ズボンとTシャツ。家に居る時のままのスタイルでの出勤。誰にも文句を言われないのを良いことに、究極のクールビズだ。新しいバス路線にも慣れた。疲れていない時は読書を楽しみ、疲れている時は居眠りを楽しむ。今日からいよいよ「三国志」第1巻の読書開始だ。読んでいるのは相変わらず宮城谷昌光の著書。 勤務後は久しぶりに「ランナーズ」を買った。付録に「全国ランニングガイド」が付いている。パラパラとめくったが、掲載されたレースがずいぶん減ったみたい。まあネットからのエントリーも出来るため、さほど不便はないのだが。バスの中でも「三国志」と「ランナーズ」を交互に読む。 昼食は冷やし中華。食後に本日2回目の血圧測定をし、パソコンを立ち上げてメールなどのチェック。15時前に愛犬を伴って郵便局へ。暑い。まるで夏本番の暑さ。あれだけ朝は涼しかったのに、この急激な変化はどうしたのだろう。愛犬の息遣いが荒くなる。大震災の影響で、狂犬病予防注射は2カ月遅れになった。おまけに獣医からフィラリアの薬投与の案内も来なかった。 結局は約2か月遅れで与え始めたフィラリアの薬。蚊がブンブン飛んでいるだけに、妻は心配していたのだ。そして梅雨の晴れ間を縫って、愛犬のシャンプーもした。目も耳も遠くなった我が家の愛犬。ただ、匂いにだけは人一倍敏感。その彼と私は今、計算上同じ年齢なのだ。9月の誕生日が来れば彼の方が歳上になり、その後はドンドン差が開いて行く。 郵便局で振り込んだのは来月参加する登山ツアーの料金。心臓が少しだけ弱り、足が痛むけど、6時間ほどなら歩けると思う。暑い時間帯の散歩を終えて、愛犬には冷たい水を飲ませた。そして私は風呂場で水シャワー。いつもなら冷たく感じる水が、今日はちょうど良い温度。だが、自室へ入るとたちまちサウナ状態に戻ったのだった。
2011.07.08
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震災を受けた家の修復工事が進み出した。3月の震災直後は屋根にブルーシートを掛けるのすら大変だったし、その後も人手が足りないのか修復工事が進まなかった。それが最近では、屋根瓦の修復や、擁壁の修復などが目立つ。ひょっとしたら被災証明が取れ、地震保険が下りたせいもあるかも知れない。ささやかだが、我が家でも地震保険金が振り込まれた。 3か月ほど休んでいた映画館が、ようやく営業を再開した。きっと10ほどあるホールの幾つかが地震で壊れたのだろう。津波の被害が大きかった気仙沼港に最初のカツオ船が入港し、たくさんのカツオが水揚げされた。少し遅れて女川港には、キチジなどの高級魚が水揚げされた。だが、福島の小名浜港へ入ったカツオ船は1隻も無い由。みな風評被害を恐れて水揚げしないのだ。同じ海域で獲れたカツオだというのに。 東京電力の福島第1原発では多大な被害が出、今でも放射能汚染対策で四苦八苦している。それが東北電力の女川原発では、ほとんど被害が出なかった。後80cmの所まで津波が来たが、辛うじて被害を免れたのだ。女川原発建設に際し、本社により厳しい立地条件を要求した人は、その後左遷させられたとか。かなり予定より高額な工事費になったためだ。 その人がその後どうなったのかは知らないが、会社は今頃感謝しているのではないか。もし当初計画通りの立地なら、きっと多大な被害を出し、会社は大きな損失を出したに違いない。その東京電力も東北電力も、先日の株主総会では一部の株主から求められた原発からの脱却は承認されなかった。簡単に他のエネルギーへ切り替えることが難しいのだろう。 地震や津波で落ちた幾つかの橋に、仮の橋が架かった。私が一昨年走って通った「新北上大橋」も橋げたの一部が落ちたようだ。水面までは10m以上もあり、長さ250mほどの巨大な橋が落ちるほど津波が巨大だったことに驚いた。その北上川河口でも、シジミ漁が再開されたようだ。 さる方のブログが再開された。被災後100日目を期しての再開だったようだ。その美しいブログに驚くべきことが書かれていた。津波で亡くなった方の指が切断されていた話だ。指を切ったのは、指輪を盗むため。その話は噂話としてEちゃんから聞いていた。そして避難所でレイプがあったとの話も本当だった。気仙沼で犯人の一人が捕まったのだ。人の弱みに付け込むとんでもない犯罪だ。 就任後9日目の松本復興相が自ら辞職した。被災地の県知事と話すのをニュースを観て驚いたのだが、非難の渦に飲み込まれ、辞めざるを得なくなったようだ。確かにあの言葉づかいは非常識ではあったが、連日のマスコミの「辞めろコール」に驚いたのも事実。今の日本の政治は最早「人気取り」でしかない。そしてマスコミの論調の低俗さを同時に嘆きたい。
2011.07.07
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周囲に病人が増えた。私の兄は71歳だが、脳出血で倒れてから35年になる。つまり最初に倒れたのが36歳の時で、その後2度発作を起こしている。体は自由が利かず、自由に話すことも出来ない。脳血管がもろくなったせいか精神的にも不安定で、たまに異常な行動を伴うことがある。それでも食欲は旺盛で、当分死あの世へ行く気配は無さそうだ。 兄を看護する義姉も病気のデパートみたいな人。子宮筋腫を始め、病院通いの連続。それでも自分が支えないといけないと頑張ってる姿を見ると、頭が下がる。2人の娘が近くに嫁いでいるため、いざと言う時には助けてもらえると思うが、長い間の苦労には感謝に堪えない。 近頃良く電話をくれるのが妻の姉。それまでもパニック障害が見られたが、3月の大震災以来不安が増え、良く眠れないようだ。鬱もあるようで、時には「死にたい」と漏らすこともある由。寡黙な夫はなかなか話を聞いてくれないとこぼし、結局は妻が相談相手になっている。でも自分で精神科へ行こうとするだけ正常なのかも。 その夫である義兄はかつて胃がんの手術を受けた。その後の経過は良く、今も働いている。同じ職場の上司が妻の兄。彼は何年か前、大腸にポリープが見つかり摘出している。そしてつい最近検査を受けた結果前立腺がんが見つかり、昨日手術を受けたばかり。その妻、つまり義姉も数年前にがんの摘出手術を受けている。こうして見ると私達の年齢では何らかの病気に罹るのが普通なのかも知れない。 大震災直後の妻は正常ではなかった。あの天変地異が妻の精神を不安にさせたのは間違いないが、その影響で私も相当のダメージを受けた。長く続いた不眠と不安。そして妻の態度の急変が私の心臓に不整脈を引き起こした。今だから話せるが、あの頃は絶望の真っ只中。心配した娘がわざわざ四国から訪ねてくれたのもその頃だった。 だが意外なことに、その妻がミスなく仕事を続けていることを、彼女の上司から聞いた。そして妻の精神状態が改善されたのは、皮肉にも妻の姉から頻繁に電話が来るようになってからだ。姉の相談に乗ってるうちに、自分自身を含め客観的に判断出来るようになったのだと思う。 心と体は一体のもの。体が不調になれば心も風邪を引く。まして未曽有の大震災に遭遇したあの時期、心は大いに乱れ、体調にも変化をもたらしたのだと思う。ほとんど物的な被害を受けなかった私達でさえ大きな影響を受けたのだから、家族を失い、住処を失い、職場を失った方々の心と体は、きっと悲鳴を上げ続けているはず。まして親を失った幼子の心はいかばかりだろう。
2011.07.06
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何だかとても疲れる。蒸し暑いせいもあるが、歳のせいもあると思う。午後は昼寝をすることが増えた。それも時によっては1時間半くらい眠ることも。朝の通勤時、バスの中で居眠りをし、第2現場の休憩でもつい居眠りをしてしまう。疲労回復が以前に比べて遅くなったようだ。面白い本なら眠気も起きなかったのが、最近では読書が催眠剤の感も。 その割に食欲が落ちないのが不思議。どんなに暑い夏場でも食欲は健在だ。あまり走れないのに食欲が落ちないと「夏太り」が心配。だが、朝夕の散歩や肉体労働で代謝機能がまだ活発なせいか、体重の増加はさほどでもない。これで愛犬が死に、かつ仕事を止めれば、果たして代謝機能がどう変化するか。 引き合いに出して申し訳ないが、私に良く似た人がいる。千葉県に住む亀仙人さんがその御仁。先ず男であること。同学年であること(彼は4月生まれで私が3月生まれのため約1歳彼が歳上ではあるが)。偏平足であること。血液型も確か一緒のはず。ウルトラマラソン愛好者であること。定年後に警備員をしていること。これだけ似ているケースは少ないはず。 ただし同じランナーでも、彼はHNに似合わぬスピードランナー。一方の私は極め付きの鈍足ランナーなのが相違点。その彼が最近調子を落としている。怪我が増えたし、故障も増えた。私は偏平足に伴う障害が出ていたが、彼は何とも無かった。ところが最近障害が出て、高額なインソールを作製されたようだ。インソールの使用は私が先輩だ。 そしてレースでのリタイヤが増えたのも最近の傾向。あれほど速く、あれほど強かったランナーが何故急に故障が増えたのか。原因は老化だと思う。ウルトラマラソンの先輩に高松のTANさんがおられるが、彼は一昨年辺りから100kmレースでのリタイヤが増えていた。そのころの私はまだ元気で、何故100kmが完走出来ないのが不思議だった。 ウルトラ界の先輩を見渡しても65歳を過ぎると走力が衰え、かつての栄光を感じさせなくなる方が増える。決して彼らが怠慢なのではなく、全ては老化の為せる業なのだ。制限時間があり、関門のあるレースでは、体力・走力の衰えがストレートに反映する。むろん何事にも例外はあり、70過ぎてもバリバリの現役の人も中には居られる。でもそれは例外中の例外なのだ。 6月のレースだが、私は「いわて銀河」では73kmでリタイアし、亀仙人さんは「サロマ」では、42.195kmで走るのを止めた。そしてTANさんの「阿蘇」は初めから50kmの部にエントリーし、見事完走。故障を抱えながら100kmに挑戦し続けるのも雄々しいが、50kmや60kmのレースを楽しみながら走るのも1つの考え方と割り切れるようになった。 無理のないレースに無理のない生き方。加齢と共にそんな生活にシフトするのは致し方ないこと。自分自身老化をどう受け止め、どう対処するか。老化に伴い物事を「諦める」のではなく、より本質を「明らめる」と考えるのはどうだろう。これまで見えなかった世界が、案外発見出来る可能性もあるのだ。<続く>
2011.07.05
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「お父さん、どうして走らないの?」。妻にそう言われても走れないものは走れない。6月の初めに走った「いわて銀河」以来、鬱々とした状態が続いていた。先ず心臓の調子が良くない。たまに強い動悸を感じる時がある。これが予告なしで突然やって来る。この時がとても気分が良くない。 それに時々眩暈がする。これもあまり気持ちが良いものではない。そんな時に走るのは無理。動悸や眩暈が治まっても、今度は右脚がおかしくなる。膝の痛みとかかとの痛み。歩いている時でさえ痛みが出ることがあった。そのことが影響したのか、一時腰にも痛みが生じた。きっと運動不足で筋力が弱り、軽い「ぎっくり腰」になったのだと思う。 そしていつになく調子が良さそうなので走ろうとすると、その日は雨だったりする。梅雨時の体調維持はかなり難しい。3週間ぶりに行った内科で、ドクターにレースとその後の体調をを話した。体調の悪さは服用している薬の副作用ではないかと疑っていたのだが、ドクターが言うには私の場合は色んな要素が影響しているのではと。 持参したランニングノートも彼に見せた。「不整脈の場合は8割の出力しかなく、その状態で良く73kmまで走れた」とドクター。ランニングを止める必要はなさそうだ。家で測定した血圧を記載したノートも見せた。前のドクターは一度もノートを見てくれなかったが、彼はそれを丹念に見てくれ、「不整脈が出ている時は、血圧の測定値が正しくないことが多い」と。 そして今は血圧が低い時期なので血圧降下剤の量を減らすとも。血液の「サラサラ度」はかなり改善された由。ただし「怪我をして出血しないように」との注意。薬は1ヶ月分処方し、今後もじっくり様子を見ることになった。 薬局では「血圧降下剤とグレープフルーツ」のことを尋ねた。私が服用している薬の中には、グレープフルーツを食べてはいけないものもあるようだが、少量なら大丈夫との話。だが、今後は出来るだけ食べないことにした。効果が出ないのではなく、逆に効き過ぎるのだとか。 その数日後、今度は眼科へ行った。前回とは異なる視野検査をするためだ。視力は左右とも少し落ちていたが、「そんなことは良くある」と検査士の方。視野検査は真っ暗な室内で。前回は慣れないため極く小さな光点を見つけにくかったのだが、今回はゆっくり検査したためか、割と発見出来た。 眼圧は正常範囲と女医。視野検査の結果もさほど悪くは無さそうだ。「あくまでも「緑内障の疑い」です」と彼女。次回の診察は2ヶ月後とのこと。帰路、何気なく唾を吐いたら緑色。「これが緑内障の証拠か?」と一瞬慌てたが、瞳を開くための点眼剤が目から鼻、喉と伝わったものと解釈。不整脈のことを眼科医には言わなかったがあれで良かったのかどうか。<続く>< 6月のラン&ウォーク > ラン回数:10回(うちレース1回) ラン距離:155km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:139km 月間合計:294km 年間走行距離:1014km 年間距離合計:1971km これまでの累計:76、651km
2011.07.04
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黒南風やまなこ潰えて二十年 湧川新一 作者は一体どんな人生を歩んで来たのだろう。目が見えなって早や20年。この間の苦労は並大抵ではなかったと思う。家族の思いも複雑だったはず。だが、目が見えなくなったことで、逆に見えて来たこともあったと思う。皆に支えられてここまで生きて来た。その20年の感慨が胸に蘇る。 黒南風(くろばえ)は梅雨のころに吹く南風。南風は「はえ」と読むが、沖縄では訛って「べー」と発音する。じっとりと湿り気を帯びた風が体にまとわりつく沖縄の梅雨。赴任した当時は、あまりの蒸し暑さに驚いた。4月だと言うのにバスには既に冷房が入っていた。 上司が関西出身の「いらち」(短気者)で、私は連日彼の部屋に呼ばれ、怒られてばかりいた。東北人にとって関西人は気持ちが通じない人種だと感じたが、今になって考えれば、彼も実績を上げるために必死だったのだろう。晴れない気持ち。そして鬱陶しい沖縄の梅雨。その重苦しさが20年ぶりに私に「詩」を書かせてくれた。 結局私は3年間を沖縄で過ごした。最初の2年は家族5人で。そして最後の1年は高校3年の長男と一緒に。この間クーラーはなく、扇風機だけで我慢。妻や長女がいた2年間は、アパートが1階で物騒なため、網戸にすらしなかった。ひたすら我慢をし、大汗をかきながら寝ていたのだ。あの寝苦しい夜が忘れられない。 内地とはまったく違う植物群。それに沖縄は歴史も文化も日本とは違う独自の世界だった。冷涼な土地に生まれた東北人にとっては厳しい3年間だったが、私は今でも沖縄に赴任したことに感謝している。 驚くべき経験も今は懐かしい思い出。私が沖縄に惹かれるのは、かつての東北同様に貧しかったからだと思う。だが、貧しさは同時に豊かさでもある。旅人をもてなす篤い人情が沖縄には残っていたのだ。 あれから沖縄関係のHPを幾つか見た。美しい観光写真、ある島の果樹園、子育て中の沖縄人(うちなんちゅ)などだった。だが、いずれもやがて観るのを止めた。どこか物足らなかったためだ。そして沖縄本島を自分の脚で1周することを思いついた。 1年目は西海岸沿いの140kmを3日間で。2年目は東海岸の150kmを2日間で。そして3年目の昨年は知念半島1周32kmとNAHAマラソン42kmを2日間で。今年は最後に残った本部半島1周50kmを走る予定だが、東日本大震災後体調を崩したまま。果たして実行出来るかどうかはまだ分からない。 私のお気に入りのブログの1つが「らんふぉにっき」。これは沖縄赴任時の走友であるらんふぉさんが、自慢の写真を毎日のように更新しているもの。美しく、珍しい沖縄の写真が満載され、私にとっては天国みたいな存在だ。それに同じランナーとして共感出来ることも多い。 そして私の部屋を飾っているのが沖縄出身の版画家、名嘉睦稔(なか・ぼくねん)の版画。いかにも南国らしい色合いの版画が疲れた心を癒し、懐かしい南島の風景を思い出させてくれる。12回に亘って記したこのシリーズも今日が最終回。面白くもない企画に付き合って下さった読者に心から感謝したい。<完>
2011.07.03
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パスポート笈底深く復帰の日 志多伯得壽 沖縄の歴史を返り見る時、7つの時代に区分する考えがある。「原始沖縄世」(うちなーゆー)は沖縄本島各地にグスク(城)を拠点とした権力者が現れる1100年代まで。「古代沖縄世」は江戸時代初頭の薩摩藩による琉球侵攻(1609年)以前まで。 薩摩世(さつまゆー)は明治初頭の廃藩置県まで。薩摩藩の侵攻以降、琉球は中国の冊封体制下にありながら実質上は薩摩藩の支配を受け、二重帰属となる。大和世(やまとゆー)は廃藩置県から1931年の満州事変まで。琉球王国は沖縄県として日本の一部に繰り込まれた。 戦世(いくさゆー)は1945年の太平洋戦争終結まで。ご存知の通り、沖縄は日本で唯一地上戦があった土地。アメリカの軍艦が沖縄の海を封鎖し、艦砲射撃の凄さは大変なもので15万人近い死者が出た。今でも工事の度に地中から不発弾が見つかるほど。 戦後は米軍及び米国民政府の支配下となる。これがアメリカ世(アメリカゆー)。太平洋戦争の最中からアメリカは沖縄の研究を進めて各集落の人口や言葉などを調べ尽くし、占領後の政策を練っていたそうだ。一方日本は高層気流に乗せて風船爆弾をアメリカ本土へ落とそうとしていた。それだけ軍備や情報量が違っていれば勝てるわけがない。 アメリカの占領下で沖縄は復興する。戦争で焼け野が原になった那覇市の国際通りは「奇跡の1マイル」と呼ばれたほど。だが、土地を米軍の基地として接収されるなどのため住民の不満は日増しに増大した。同じ米軍の占領下にあった鹿児島県の奄美群島は、一足早く1953年までにすべて日本政府に返還された。 それまでの間、日本に渡るにはパスポートが必要だった。奄美出身の横綱、初代朝汐太郎はパスポートが無いために、船で密入国し相撲取りになった話は有名。沖縄の日本復帰はそれから19年後。住民の喜びはいかほどだったろう。これで日本へ行くにもパスポートは不要。そのパスポートを笈(おい=木製の入れ物)の底深くしまったのが1972(昭和47)年5月15日だった。 私が沖縄に赴任したのは復帰後17年目。色んな面で「内地」の指導を受け、仕事の進め方もまだぎこちなかった。バイクの保険変更手続きに行ったら、保険料を返還してくれた。貧しい沖縄は税制でも優遇されていたのだ。 あの当時の沖縄は失業率、離婚率、犯罪数がとてつもなく高く、高校生が盗んだ車を無免許で飲酒運転し、死亡するニュースを良く耳にした。日本復帰後、今年で39年。果たして沖縄はどれだけ豊かになったのだろう。
2011.07.02
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豆打ちは乳の揺れ芭蕉布に委(まか)す 矢野野暮 何とダイナミックな動きなのだろう。梅雨が明ける5月から6月が沖縄での大豆の収穫期。蓆(むしろ)の上に干した大豆の枝を手に取り、一心不乱に棒で叩いているおばあ。莢(さや)からバラバラと大豆がこぼれる。激しい動きで芭蕉布(ばしょうふ)の着ものがはだけ、おっぱいが揺れる。 芭蕉布はイトバショウの繊維を織って作る。一反の布を織るのに必要な芭蕉は200本。野生のイトバショウは繊維が堅いため、すべて栽培で育てるようだ。切った芭蕉の皮を1枚ずつ剥ぎ、繊維を取り出す。全てが人の手による作業で、200本の芭蕉から糸を取り出すまでに20人で数日間かかるそうだ。 芭蕉の繊維はとても弱く、その糸を1本ずつ結ぶ作業は面倒らしい。また1反の反物を織り上げるには4カ月を要する由。芭蕉布はとても軽くて涼しい夏向きの布。琉球王朝時代は貴族も農民もこの芭蕉布の着ものを着ていた。王府には王宮が管理する芭蕉園があったし、庶民はイトバショウを植えるための家庭菜園を持っていた由。 イトバショウの栽培期間は3年間。繊維は内側ほど良質のものが取れるようだ。貴族や士族が着る上等のものは、「かせ」の段階で灰による精練を施すが、庶民用の物は布の状態で精練するようだ。現在では作り手も少なく高級品になっている。沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)喜如嘉(きじょか)集落が「芭蕉布の里」として有名。 大宜味村は日本一の長命の村としても有名だった。村の男は腕の立つ船大工が多く、他の地方へ出稼ぎに行っていた。村に残った女の人が始めたのが芭蕉布の織りものだった由。戦後は米軍によってイトバショウが伐採される悲劇が起きた。蚊の発生を防ぐのがその理由だったようだ。これを復活させたのが2000年に人間国宝の指定を受けた平良敏子さんだった。 3年前の7月。私は沖縄本島単独一周を目指す旅に出た。その3日目に最北端の辺戸岬を出発して名護に向かった。気温は33度ほどだが路上は45度を越え、私は2度軽い熱中症に罹った。とても走ることは出来ず、国道58号線をただノロノロと歩くだけ。この喜如嘉集落で食堂を見つけ、勇んで飛び込んだ。目当ての沖縄そばは売り切れで、私は何か他のものを食べたのだが、それが何だったのか思い出せない。 ともかく冷たい水が美味しかったことは確かだ。そして食堂の外で、芭蕉が風に揺れているのがとても印象的だった。先日の会社のカラオケ大会で、私は部屋に置かれていた泡盛の古酒(クースー)をほとんど1人で飲んだ。そしておもむろにマイクを取って歌った。沖縄の歌「芭蕉布」だった。 灰で精練した糸は白くならずに薄茶色。そしてティーチ(シャリンバイ)で染めると濃い茶色。この組み合わせが一般的なのだそうだが、最近では琉球藍で染めた紺も人気なのだとか。おばあが芭蕉布を着て豆打ちをしていた時代は、もうずいぶん遠い思い出になったのではないか。
2011.07.01
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