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ヒースの訃報に関して、現在来日中のアン・リー監督の言葉をネット上のメディアに見つけた。25日付けのSANSPO.comによれば、24日の新作「ラスト、コーション」ジャパンプレミアで、「非常に悲しい思いでいっぱいです」と言葉少なに話したという。さて、アマゾンで入手した「Brokeback Mountain Story to Screenplay」。原作(Annie Proulx)と台本(Larry McMurtryとDiana Ossana)が1冊にまとまったスグレモノだ。映画「ブロークバックマウンテン」は原作に非常に忠実だという話だったが、実際に読んでみると、原作にはないエピソードがかなり追加される一方、原作にははっきり書かれている部分が削除されたり、明らかに意図的に薄められたりしている。「追加された」エピソードはもっぱら、アルマと離婚した後のイニスの娘(特に長女)との交流、それに離婚後に交際した女性キャッシーとの関係に集中している。映画では、長女が母と離婚したイニスに、「パパと一緒に住んで面倒を見てあげたい」と言ったり、結婚式に出て欲しいと頼みに来たりする。ところが、原作にはこうした場面はいっさいないのだ。定期的に娘と会っているらしいことは間接的に書かれているが、長女がイニスに同居を申し出たり、結婚式に招待したりするエピソードはない。つまり、映画で最後に娘が訪ねてくるシーンは、「追加された」もので、原作にはもともとなかったのだ。キャッシーにいたっては、名前すら出てこない。映画ではキャッシーとの出会いがあり、交際が進んで娘に会わせ、その後破局に至るまでのエピソードが具体的に描かれているのだが、原作におけるキャッシーらしき女性は、ジャックとイニスの最後の逢瀬で、2人が情事の間に語り合う「嘘と真実」がないまぜになったお互いの近況の話にちらりと出てくるだけ。キャッシーという女性と付き合ったということさえ、「嘘」なのか「本当」なのかわからない。最後の「I swear…」だが、これは原作どおり。だが、その場面に至るまでの話が違っているのだ。原作では、イニスの頭には、最初から最後までジャックのことしかない。原作はまず、家族もジャックも失い、中年になったイニスが1人で朝目を覚まし、その日の夢にジャックが出てきたことで幸福感を味わっているところから始まる。そして、最後はジャックの実家から戻ったイニスがブロークバック山の絵葉書を買いに行く。そして、それを貼り付けて、1つになった2人のシャツを見つめて、「I swear…」と呟くのだ。「I swear…」の次に何を言おうとしたのか、という映画を見てのMizumizuの疑問は、原作では疑問にはならかなった。というのは、一番の「つながらない」と感じた、結婚を控えた娘とのエピソードが原作にはないからだ。カットされたシーンがあるからではなく、追加されたエピソードがあったから、うまくつながっていないと感じたというわけだ。思い出のブロークバック山の写真を貼りながら、「I swear…」と呟くだけなら、なんとなく言いたいことはわかる。「ブロークバックでのことは忘れない」とか、あるいは「俺にはお前しかいなかったし、これからもいない」とか、そうした気持ちだろう。ちなみに、映画は「I swear…」で終わるが、原作は以下のようにまだほんの少し続きがある。XXXX「ジャック、誓って…」と、イニスは呟いた。もっとも、ジャックはイニスに何かを誓わせようとしたことなど一度もなかったし、ジャック自身誓いを立てるようなタイプではなかったのだが。そのころから、ジャックがイニスの夢に出てくるようなった。それは彼が最初に出会ったころのジャックで…(以下、出会ったころのジャックの容貌の描写とイニスの夢の具体的な記述が続く)XXXXそして、原作は、次のようなやるせない文章で終わる。「イニスが知ってしまったことと、信じようとしたことの間には少し隔たりがあった。だが、それはどうしようもないことだった。自分でどうにもできないのなら、ただ耐えるしかない」。ここでいう「イニスが信じようとしたこと」とは、明らかに、(自分にとってそうであったように)ジャックにとって自分が唯一の男性だったということであり、「知ってしまったこと」とは、ジャックは現実には、自分以外の男性と関係を持っていたということだ。原作のラストシーンでは、イニスは自分の願いと現実の「隔たり」に1人で耐えている。だが、映画ではこうしたイニスの心情は大幅に後退し、「信じようとしたこと」と「知ってしまったこと」について掘り下げることもない。ジャックの死因についても曖昧なまま、同性愛を忌み嫌う近隣住民のリンチで死んだのか、あるいはジャックの妻が主張するように事故で死んだのか、はっきりわからない展開になっており、ただ「ジャックが突然死んでしまった」という深い悲しみと喪失感の中で、彼への愛をイニスが確認するシーンで終わっている。原作では、ジャックがどんなふうに死んだのかを現実の出来事として書いてはいないのだが、リンチ殺人であることを非常に強くにおわせ、少なくともイニス自身はそれを確信していく展開になっている。伏線は、ジャックとイニスの最後の逢瀬で語られた「嘘と真実のないまぜになったお互いの近況」にある。ジャックはそこでイニスに「自分は牧場主任の妻と不倫関係にある」と告白している。ジャックが自分以外の男性を関係をもったとしたら、ジャックを「殺してしまうかもしれない」と激怒するイニスだが、ジャックが女性と関係をもつことにはまったく嫉妬しない。実はこの「牧場主任の妻」は嘘であり、ジャックが関係をもっていたのは「牧場主任の男」のほうなのだ。それは、イニスがジャックの死後、実家をたずねていったときに明らかになる。原作では、ジャックの父は明らかにイニスに敵意をもっている。「あんたの名前は、生前ジャックからよく聞いていた」。ジャックとイニスの関係に気づいているのだ。そしてジャックが生前望んでいた「ブロークバックへ遺灰をまく」ことはしないと言う。イニスもジャックの父に反感をもっている。ジャックがイニスに、子供のころ父から受けた虐待について話していたからだ(この虐待体験は映画ではすっぱり削除されている)。そして、父はイニスに、「だが、最近ジャックは別の男の名前を言った」と教える。それが近所に住む牧場主の男であり、ジャックは長年のぞんでいた「イニスと牧場をやる」という夢を諦め、別の男と牧場を持つという新しい夢を持ち始めていたのだ。父の言葉で、イニスはやはりジャックは同性愛が周囲にバレて、リンチで殺されたのだと確信する。イニスがずっとジャックと一緒に住むことを拒否してきたのは、幼いころ、自分の父親が近隣の同性愛者に凄惨なリンチを加えて殺し、その死体を「教育のために」イニスに見せつけたという重い体験がトラウマとなっていたからだ。映画でもこのとおりの展開で、このとおりの会話が交わされるが、イニスのジャックの父への反感はまったく表現されず(虐待の話がないのだから反感をもちようがない)、「別の男」の存在を知ったときのイニスの衝撃もほとんど感じられないまま、さらりと流れて、そのあとイニスが1人で2階に行って、「2つの皮膚のように重なった(原作の表現)」ジャックとイニスのシャツを見つけるシーンにつながる。イニスはその自分のシャツをブロークバックに忘れたとばかり思っていた。だが、実はジャックが黙って持ち帰り、「自分のなかにイニスがいつもいるように」1つにして、クローゼットにしまっておいたのだ。映画では、このシーンは、きわめて念入りに、長々と、最大限感動的に描かれている。リー監督自身も、このシーンの重要さについて語っている。「自己否認ばかりしていたイニスは、重なった2人のシャツを見て初めて、『自分たちは愛し合っていたのだ』ということに気づくのです。自分にとって何が大切なのか、認めようとしなかったイニスが、最後にひとりぽっちで孤独な生活を送っているのは当然の結果。幸せな人生を送ろうと思ったら、イニスのように大切なものを見失ったまま生きてはいけない」。リー監督はこのことを強く観衆に訴えかけたかったのだ。クローゼットに隠されたシャツをイニスが抱きしめるシーンの直前に、イニスがジャックの死因について確信したり、別の男性の存在を知って衝撃を受けていたりしては、肝心の感動的な場面の印象が弱くなってしまう。だからあえて、その前の部分は淡々と流したのだろう。台本を見ると、父から別の男性の名前を聞いたときのイニスは「真っ青になる」とある。だが実際の映画では、ここでのイニスの表情は明らかに、あまり強調されていない。衝撃を受けた様子を描きたいなら、アップにするとか、もっと目を見開くとか、演出の方法はいくらでもある。また原作では、ジャックを路上で死なせた彼の妻への怒りや、ジャックを辺鄙な土地に眠らせたくないというイニスの反発も描かれている(つまり、イニスはジャックをブロークバックに連れて行きたかったのだ)のだが、映画にはそうした心情を暗示するような表現はいっさいない。それが最初のMizumizuの「曖昧な印象」につながったのだと思う。だが、リー監督のメッセージを聞くと、演出の意図が納得できた。映画で何をもっとも伝えたいかは、監督の人生観や世界観ともかかわっている。あまりにいろいろな要素をゴチャゴチャと詰め込むと、メッセージ性は弱くなる。アン・リー監督は「映画は小説のような心理描写ができない。あくまで視覚で表現する世界」とも言っている。確かに、彼は、「説明的な台詞」を好まない監督だ。台本の書き直しを頼むことも多いと聞く。この監督の作品には、ナレーションでつないだり、長々としたモノローグで心情を説明したりということがほとんどない。そのかわり、さりげない台詞に余韻をもたせ、卓越した視覚的な描写で物語を展開させる。色彩や照明効果、風景とセット、人物を撮るときのアングルを含めた映像のロマンティックな美しさは、「ブロークバックマウンテン」だけではなく、リー監督作品に共通している。何かを美しく見せようとしたとき、どこをどう引き算し、何を強調するかが、表現者の腕の見せ所だ。「シャツを抱きしめて涙するイニス」のシーンは、視覚的にもっとも感動を誘う場面であり、監督はそれを生かすために、台本にはあったニュアンスをそぎ落としたのだろう。このように監督によって弱められたのであろう要素のほかに、脚本家によって明らかに意図的に曖昧にされたイニスの性向もある。<明日に続く>
2008.01.26
ヒースの急死について、日本のネット上のニュースサイトでも詳しい情報が流れ始めた。CNN日本語版によると、23日の検視でも死因は特定されず、死因が判明するまでにあと10~14日かかる見通しだという。お昼のABCニュースでも同様のことを言っていた(そして、またも「ブロークバックマウンテン」でイニスに扮するヒースの映像が流れた。ほかの作品もちょっとぐらい紹介してあげたらどうなんだろ?)。さらにCNN日本版を読むと、女性マッサージ師は22日午後2時45分ごろヒースの自宅を訪れたが、15分たってもヒースが姿を見せなかったため、ヒースの寝室に入り、意識不明のヒースを発見したとある(警察関係筋の話)。家政婦のほうは、22日午後12時半頃にヒースの自宅に到着し、午後1時頃にバスルームの電球を交換した。その際にヒースは、ベッドでシーツをかぶってうつ伏せ状態で寝ており、いびきをかいていたという。昨日読んだ英語のニュースでは意識不明のヒースを発見したのは家政婦とマッサージ師の2人だと書いてあったが、CNN日本版ではマッサージ師が1人で発見したように書いてある。単に一緒に家政婦がいたことを省略してあるだけかもしれないが。日本の新聞は「睡眠薬の過剰摂取だとみられる」とほぼ決めつけたように書いているが、薬物の種類についてはアメリカのメディアはずっと慎重だ。昨日は「処方薬」としか情報がなかったが、今日付けのFOX News.comには睡眠薬、精神安定剤、抗ヒスタミンを含む6種類の処方薬が見つかったとあった。ヒースが主演を演じた「ブロークバックマウンテン」のアン・リー監督は、新作「ラスト、コーション」のPRのために今日本に来ている(なんというタイミング…)。リー監督によれば、「ブロークバックマウンテン」と「ラスト、コーション」は、前者が宗教的タブー、後者が民族的タブーを描いたという意味で姉妹のような作品なのだという。さて、その宗教的タブー作品の主役が、自身の声の役作りについて語った番組を昨日ご紹介したが、http://www.youtube.com/watch?v=fkOpJsdjrEU3:48から5:35のエレン氏とヒースの会話はざっと以下のとおり。XXXXエレン:まず最初に、イニス役でもジャック役でもいいと言われて、あなた自身がイニス役を選んだと聞いたんだけど、なぜイニスを演じることにしたの?ヒース:えっと…エレン:それと、なんでイニスはあんなふうに喋ってたワケ?(ゲスト爆笑)ヒース:まず最初の質問に答えるよ。ボクは自分には、イニスというキャラクターに与えられる何があると感じたんだ。イニスは自分の内面的な葛藤を表現するのにも、ものすごく口数が少ないし、ときには直接的な暴力に訴えてしまったりする。そういうところにとても魅力を感じた。なんというか、感情を荒っぽい肉体的な表現に変えて表わすようなところが気に入ったんだ。身体や声で感情を表現するということだね。それで、次の質問の声、それと訛り、それから口のことなんだけど、さっきキミがやってたみたいに、イニスはまるでこぶしを握るように、口を閉じて喋る。それは、彼まさにがんじがらめの人間だということなんだ。それを表現するために、どんな場面で何をやるにも、痛みをともなっているような感じを出したかった。言葉や喋りを含めてね。だから、口はぎゅっと閉じて、言葉はイニスの内面から、戦いながら出てくる、そんなふうでなくてはならかった。で、訛りのことだけど、ワイオミング訛りにちょっとテキサスのニュアンスも入ってる。それを明確にしたうえで、2つを少し近づけようと努力した。それは、この映画では老け役も演じる必要があったせいもある。これは自分にとって大きなチャレンジだと思ったよ。それで、訛りを自分の演技の重要な要素として使うことにした。映画の最初のほうではイニスはちょっとしか喋らない。それからだんだん訛った喋り方を前面に出すようにして、情熱とかエネルギーを表現する。そのあとは、落ちぶれて、孤独で、悲劇的な雰囲気にもっていく…エレン:なるほど、あなたが、どうしてイニス役を選んだのか、すごくよくわかったわ。本当に素晴らしかったと思う。イニスになりきるのために、あんなふうに、単に(言葉の)感情表現だけではなく、身体で表現するというふうにしたという話はおもしろいわ。XXXXところで、アン・リー監督が「ブロークバック」の公開に合わせて来日したとき、「アジアでこのテーマは受け入れられると思うか」という質問に対して、「日本のOLさんは気に入ってくれるかも」とマジメに答えているのを聞いて、思わず吹き出してしまった。わかってる! どこでそんな情報をキャッチしたんだろ。ただ、ブロークバック山は、日本の「一部の若い女性」が特に好む同性愛の世界とは若干違うと思うけどネ。一方で、アメリカでは反同性愛団体からは有害映画扱いされ、ゲイコミュニティの一部からは、同性愛を「まともに」描いていないと批判されたという。実はMizumizuは最初にこの映画を見たとき、ジャックが死んだ後、ラストシーンまでの展開がどうもよくわらかなかった。感動的であることに異論の余地はないのだが、感動的であるがゆえに、何かしら違和感があった。ジャックの死因についてが相当曖昧なままで、何かが抜けているような気がした。もっともよくのみこめなかったのは、最後の場面。1人でトレーラーハウスに暮らしているジャックを娘が訪ねてきて、結婚式に出てほしいという。いったんは「その時期は仕事が…」と、出るのは難しいというような話を始めるイニスだが、すぐに「大切な娘の頼みだから」と言って娘を安心させる。そのあと娘が忘れていった服をしまおうとして、クローゼットにかかった自分とジャックのシャツを見つめ、涙を浮かべながら、「I swear(誓って言うけど)…」と呟く。誓って、何? と、こちらが思ったところで映画は終わる。あれ? イニスは何を言おうとしたの? ワカラナイ(まあ、だいたい映画の中では、何を言っているのかよくわからない人物だったんだけど)。字幕はこれを感傷的なまとめにすることで解決していた。「I swear…」の台詞を「ジャック、永遠に一緒だ」という言葉に集約させていたのだ。原語とここまで違うと一瞬、非常に戸惑うし、粗野なイニスにはあまりに似合わないロマンチックな台詞だから、この日本語訳を嫌う人もいるだろう。だがある意味、これはとてもよくできている。何より日本人の情緒に強く訴える感動的な言葉だし、重ね合わせたイニスとジャックのシャツが象徴するのは、まさに「ずっと一緒にいること」だからだ。この2枚は、イニスとジャックの「若き日の楽園」だったブロークバックでの最後の日、ジャックが黙ってイニスのシャツを持ち帰り、自分のシャツの内側にたくしこんで合わせ、クローゼットにずっと隠しておいたものだ。それをイニスがジャックの死後、ジャックの実家に訪ねていって見つける。ジャックの実家では、ジャックのシャツの中にイニスのシャツがあったが、ラストシーンのイニスのトレーラーハウスでは、それが逆になっている。もちろん、イニスが「自分のなかにジャックがいるように」したということだ。本当に演出が細かい。だが、娘の結婚式に出る出ないの話をしていたシーンのあとに、ジャックに対して何を誓おうとしたのかわからない、と思った。イニスはジャックとの春先の最後の逢瀬のとき、「仕事が忙しいから、次は11月まで会えない」と言っている。ジャックが落胆して、「8月に会うんじゃなかったのか」と詰め寄ると、「8月の休暇を返上したから、今回休みが取れたんだ」と弁解していた。ということは、イニスとの8月の逢瀬は仕事を理由にダメ出ししたのに、娘の結婚式には仕事を休んででも出るといったことと、最後の「誓って言うけど…」の台詞には何か関連があるのだろうか? こういうふうに「どうも場面と場面がつながらないな」と感じるときは、劇場公開に向けてカットされたシーンがあることが多い。これは、原作を入手するしかないでしょう。と思って探したら、なんとおあつらえむきに、原作と映画の台本(!!)がセットになったペーパーバックがある。これはスゴイ! というわけで、さっそく手に入れて読んでみることにした。読んでみた結果、意外なことがわかった。
2008.01.25
天気予報では降る降るといっておきながら、なかなか降らなかったまとまった雪が、ようやく東京の朝を白く染めた1月23日水曜日。起きてメールをチェックしたらイギリス人の友人から、「ショック! ヒース・レジャーが死んじゃった」というメールが入っているのを見て我が目を疑った。ヒース・レジャーって「あの」ヒース・レジャー? 先日「いつ君」のエントリーへのコメントの返事に、「ブロークバックマウンテンそっくりのシーンがありますね」と書いたばかりだ。ヒースはまだ28歳。なんかの間違いじゃないの? さっそく、その友人が教えてくれたニュースソース「BBC News」にアクセスする。顔写真があった。間違いない。お昼にテレビをつけたら、ABCニュースでも「ハリウッドでもっとも将来を嘱望されていた俳優が急死」と速報を流していた。やはり、というべきか、ヒースの代表作として紹介されたのは「ブロークバックマウンテン」でのカウボーイ姿、つまりイニス・デル・マー役だった。日本語で聞いていたら、映画でのヒースの台詞が流れて、それがアナウンサーの読み上げるニュース原稿の間に入り、通訳が1人で両方訳して、結果ハチャメチャになっていた。BBCやABCニュースを総合すると、ヒースが意識不明(あるいはその時点で死亡?)で発見されたのは1月22日(火)の午後3時半。その時間に予約を受けていた女性のマッサージ師が、NYのオシャレなソーホー地区にあるヒースの自宅アパルトマンに行ったところ応答がなく、家政婦に連絡。家政婦と一緒に部屋に入ると、ベッドの上で裸でうつぶせになり、頭が床に落ちた状態で意識のないヒースを発見したという。周囲には処方薬が散らばっていた。最初家政婦とマッサージ師はヒースが眠り込んでいると思い、体をゆすって起こそうとしたが、まったく反応はなかった…。NYの警察当局は、23日に遺体を解剖して死因の究明に努めるとしながらも、薬も違法なものではなく、自殺は考えにくいので、オーバードーズ(薬物の大量摂取)による事故だと思われる旨の声明を出している。1月22日はアカデミー賞ノミネートの発表の日。ヒース自身は今回はノミネートされなかったが、出演した「アイム・ノット・ゼア」からケイト・ブランシェットが助演女優賞でノミネートされた。その同じ日にオーバードーズでの「不慮の死」とは・・・。だが、マッサージ師を予約しておいて、裸の状態で発見された(恥ずかしいよね、それ)という状況を聞くと、意図的な自殺とも考えにくい。日本語のニュースでは「睡眠薬」と特定しているメディアも多いが、英語のネット上の新聞では「処方薬」としか書かれていなかった。遺書などは今のところ見つかっていないようなので、能動的な自殺とは断言できないにしろ、もし本当に処方薬しか飲んでいなかったのだとしたら、大の大人が「たまたまアクシデントで」大量摂取して死んでしまった、というのも・・・。日本のメディアのいう「睡眠薬を大量に服用したらしい」というのが誰もが思うところだろう。イギリスの大衆紙「The Sun」のネット版では、最初『薬と一緒に裸のヒース発見』と、「マリリン・モンローかよ」みたいなセンセーショナルな見出しが踊ったが、その後数時間で『ヒース・レジャー、遺体で発見』とマイルドな見出しに書き換えられた。「The Sun」は、一般紙よりもっと突っ込んだ(というか、いい加減な?)情報を載せている。それによると、ヒースは新作の「バッドマン」(アメリカでは2008年の夏、日本では秋の公開予定で、現在撮影後の編集作業に入っている)でのジョーカーの役作り、つまりこの「サイコパス」なキャラクターをどう演じるかについて悩んでいたという。去年のミシェル・ウィリアムズとの破局によるストレスもあって酒びたり、薬漬けの状態で、不眠も深刻。「先週の平均睡眠時間は1日2時間ぐらいだった」と本人が語ったという(ホントに本人がそう言ったかどうかは知らないよ。こうした大衆紙はわりと平気で本人が言ってもいないコトを書くのが得意だ)。さらにハリウッドのゴシップネタをおもしろおかしく書きたてるのが得意なあるソースによれば、ヒースは娘のマチルダを溺愛していたので、ミシェルとの破局によって娘と離れ離れになったことが、精神なダメージとなり、重度のウツに陥っていたという。「ブロークバックマウンテン」で共演し、ヒースとミシェルの娘マチルダの名づけ親にもなったジェイク・ジレンホールが、この数ヶ月のヒースのひどい状態を心配して、支援(って何の? それは書いてなかった)を申し出たがヒースが断ったという。亡くなりかたが亡くなりかただけに、どうも虚々実々入り乱れて、いろんな情報な飛んでいるようだ。だが、今のところヒースと同じオーストラリア出身のニコール・キッドマンとオーストラリア育ちのメル・ギブソンが哀悼の意を表明したというのは情報として流れているが、ジェイク本人のコメントは何も伝わってきていない。もちろん、すぐにマスコミが大挙してジェイクのところに押しかけそうだけど。新作バッドマンでのジョーカー役でも周囲の評価では、「ジャック・ニコルソンにも劣らない名演」を見せていたというヒースだが、なんといっても、あっちこっちのメディアで紹介されているのは、カウボーイハットをかぶったヒースの写真。2人のカウボーイの秘められた愛をテーマにした、アン・リー監督の「ブロークバックマウンテン」(2005年)は、いまさらいうまでもなく、社会現象まで巻き起こした大傑作。オスカー3部門受賞をはじめ、全世界での映画関連の受賞数は76にものぼり(これは近年まれに見る数字だといっていい)、受賞にいたらないまでもノミネートされた映画関連賞は64を数える(出典:The Internet Movie Database)。米アカデミー作品賞こそ「クラッシュ」に譲ったが、「クラッシュ」は3オスカー、他の映画関連賞は38の受賞にとどまった(ノミネート数だけなら64と同数)ことからすると、総合的にみて、映画界での評価では圧倒的に「ブロークバックマウンテン」が「クラッシュ」を凌駕しているといって差し支えないだろう。しかも、批評家に絶賛されただけでなく、同性愛というきわめてマイナーなテーマだったにも拘らず、興行的にも大きな成功をおさめ、軽く180億円は稼ぎ出している。最終的にはいくら儲かったんだろう? 200億円は超えたんじゃないかな。約16億円(1400万ドル)というハリウッドにしては低めの予算で作られた作品としては破格のヒットだろう。主役のイニス役のヒース・レジャーとジャック役のジェイク・ジレンホールの演技も内外から高い評価を受けたが、不思議なことに、ヒースに関しては母国オーストラリアをのぞけば、アメリカ国内での評価がきわめて高く、ジェイクに関しては逆にアメリカ国内より海外で評価された感がある。ジェイクが英国アカデミー賞の助演男優賞を獲得したのもそのよい例だと思う(ヒースは英国アカデミー賞主演男優賞にノミネートはされたものの受賞は逃している)。ちなみに2人の演技に対して与えられた賞の数はほぼ同じなのだが、ヒースが8つ、ジェイクが7つ(「ジャーヘッド」や「プルーフ」と合わせての受賞も含む)で、実はヒースのほうが少しだけ多い。アン・リー監督はヒースの演技を「奇跡的な名演。若き日のマーロン・ブランドを思い起こさせる」と絶賛している。ジェイクのことも、もちろん違った表現で違った部分を褒めているのだが、この「マーロン・ブランド」というのは「ブロークバックマウンテン」のヒースの名演をひも解くためのキーワードだ。喜怒哀楽の感情表現が極めて巧みで、見ていてわかりやすかったジェイクの演技に対して、抑圧された性格のイニスを演じたヒースの表現は、特にアメリカ人以外には理解しにくかったのではないだろうか。アメリカ人には「西部の僻地ワイオミングにいそうな、古いタイプのカウボーイ」に対するややステレオタイプ的なイメージがある。口数が少なく、「男性的であること」を何より大事な価値観としてもち、何でも自分自身で問題を解決しようとし、解決できないことに関しては文句もいわず、じっと忍耐するようなタイプ。乗馬テクニックの巧みさ、くぐもったしゃべりかたを含めて、ヒースはアメリカ人の抱く古いタイプの西部の男のイメージにぴったりで、そこが高く評価されたのだろうと思う。明らかにヒースはジェイクよりはるかに馬に慣れていたし、山の斜面を馬とともに駆けていくシーンは惚れ惚れするほどサマになっていた。本人曰く「オーストラリア育ちだから、子供のころから馬に乗っていた」とのこと。日本のようにカウボーイもいないし、アメリカ英語もわからない観衆には、ヒースの演技の良さは完全には理解されなかったかもしれない。Mizumizuが「ブロークバックマウンテン」のヒースを見て、まず最初に思ったのは、「この人、なんでこんな聞き取りにくいしゃべり方すんの?」ということだった。アメリカの西部訛りはもともと非常にわかりにくいのだが、ヒースはそれをさらにくぐもった声で喋るから、ハッキリ言って何を言ってるんだか、さっぱりわからなかった(苦笑)。ジャック役のジェイクに関しては、それ以前の出演作を見たことがあったのだが、ヒースを見るのは同作品が初めてだったので、「もともとこういう変な声なのかな」と思った。ところが、その後すぐに見たヒースの主演作品「カサノバ」では、発音や声のトーンが全然違う。「ちゃんとマトモに、ハッキリしゃべっている」のにビックリした。つまり、あのマーロン・ブランドのごとく聞き取りにくい、低く、抑圧されたような声は、ヒースの役作りの一環で、それを知っているか、あるいは聞き取って感じることができるアメリカ人からは直接的な高い評価を得ることができたのだろう。この特徴的な声の役作りについて、Mizumizuと同じような感想をもったらしいアメリカのトーク番組の司会者を見つけた。「Ellen」さんという人で、自身の番組でヒースをゲストに招き、「ブロークバック」でのヒースの声の演技をオーバーにマネする自分の映像を流して、ヒースの爆笑を誘っている(Mizumizuも大爆笑してしまった)。おまけに「イニスはなんであんなふうに喋るワケ?」とMizumizuが聞きたかったことを聞いてくれている!番組が収録されたのは、「ブロークバック」が成功をおさめ、アカデミー賞にノミネートされたころ。そして、ヒースの演技をマネした場面(時間でいうと3:15から3:35の間)のあとで、エレン氏の質問に答えるかたちで、ヒース自身が声の役作りについて語っている。具体的にいうと3:48から5:35までの間がそのヒースのコメント。番組のURLは以下。http://www.youtube.com/watch?v=fkOpJsdjrEU番組はまず、ブロークバックマウンテンの成功とオスカーノミネートに対しての「おめでとう」コメントで始まり、そのときのヒースの生活についてちょっと触れ、それから問題の(?)ブロークバックの爆笑モノマネに入る。もっとも興味深いのはその後の3:48から5:35までヒースのコメントだ。しかも、なんと「イニス役でもジャック役でも選んでいいと言われ、ヒース自身がイニス役を選んだ」という知られざる秘話(?)も語られている。このようにわりとリラックスした雰囲気の中で自分の役作りについて語るヒースの映像はほかではなかなか見られないし、ご本人が亡くなってしまったから当然今後もないわけで、今となっては貴重だ。英語のわからない皆さんのために、明日ヒースの言葉に字幕をつけてご紹介しようと思う
2008.01.24
ジョディ・フォスターはもちろん、押しも押されもせぬ大スターだ。「告発の行方」と「羊たちの沈黙」でアカデミー主演女優賞を2度受賞。監督やプロデューサー業にも仕事の場を広げている。そのジョディの名を最初に世界中に知らしめたのが、スコセッシの「タクシー・ドライバー」だったが、この映画の公開当時は――今から考えると信じられない話だが――テータム・オニールがジョディと並ぶ天才子役として人気を二分しており、評価としては、「ペーパームーン」で最年少の助演女優賞(当時10歳)に輝いたテータムのほうがむしろ高かったかもしれない。「タクシー・ドライバー」では、ローティーンでの娼婦役というセンセーショナルな話題が衆目を集めたが、実は同じ年(1976年)にジョディが「主演」した映画があった。「白い家の少女」だ。タクシー・ドライバーの提示する世界そのものは、当時のMizumizuにはあまりに遠かったが、ジョディの大胆かつ繊細な演技には魅せられた。あの年齢で、あの存在感。まさに「恐るべき少女」というほかはない。実は役者だけが目当てで見に行った映画というのは少ないのだが、「白い家の少女」は、単にジョディが見たくて映画館まで足を運んだ。寒々とした閉鎖的なアメリカの田舎町にイギリスから父親と引っ越してきた少女。彼女は学校にも行かず、自分だけの世界に住んでいる。父親の姿はだいぶ前から見られなくなった。そうした彼女の生活に疑問をもつ近隣の大人たちが、彼女の秘密を探りに入れ替わり立ち代りやってくる。常識や慣習で少女の世界を崩そうとする大人たちと、自分の世界を守ろうとする少女との心理的な闘い。それがこの物語のテーマだ。内容からいえば、少女漫画的なファンタジーだ。妖精も魔法使いも出てこないが、大人顔負けの言葉と態度、それに意思をもって、堂々と社会と対峙していく少女というのは、あまりに現実からかけ離れている。いわゆるアイドル映画の1つだろう。それを証明するかのように、常に社会派の問題作として人々に見続けられたタクシー・ドライバーと違い、「白い家」は間もなく世の中から姿を消してしまった。だが、Mizumizuにとっては、「白い家」でのジョディが最高だった。「タクシー・ドライバー」のような妖艶さはなかったし、後の「告白の行方」「羊たちの沈黙」「ネル」に見るような本格的な演技力はまだ開花していなかったが、なんといっても、少年めいた中性的な雰囲気、当時「コマネチに似ている」といわれたクールで知的なまなざし、早熟で大人じみた(でも大人ではない)表情は、13-4歳という年齢のジョディでしか表現できないものだ。たとえば2年先だったなら、おそらくこれほどジョディという存在が特別に見えることはなかっただろう。長らく消えてしまった「白い家」だが、今年になってDVDで復活した。自分自身の感性が変ってしまったこともあって、映画館で見たときほどの衝撃や感動はなかったが、やはりジョディがこの年齢でこの作品を撮ったことの幸運は信じることができる。「アーモンドの香りがする」――このなんでもない台詞もジョディの物憂げで冷たい表情をかぶせて聞くと、何かしら謎めいた、ポエティックな世界が広がっていく。こちらの想像力をジョディが刺激するのだ。その後のジョディの大女優への脱皮(子役にとっては容易なことではない)も、この演技、この雰囲気なら当然の帰結かもしれない。だが、数日前、NHKのBS2の番組(アクターズスタジオインタビュー)で自身の人生での葛藤について、ジョディ自ら語るのを聞いたとき、大女優への道が彼女にとって必ずしも一直線で平坦なものではなかったことを知った。1981年、ジョディのファンだった青年がタクシー・ドライバーに刺激を受けて大統領暗殺未遂時間を起こす。それにショックを受けた彼女は、当時出演していた舞台での観客の反応が悪かったこともあって、演技の世界から一時遠ざかる。勉学との両立も難しくなり、「そろそろ役者も終りにしよう」と思っていたときに、「これで最後」だと思って出演した映画が「告発」だったという。それも望まれて役を得たわけではなく、なんとかカメラテストだけでも受けさせてほしいと頼み込んだのは、ジョディ自身だったというのだ。「告発」はジョディ自身の自己評価は最悪で、「できれば誰にも見て欲しくない」と思ったぐらいだったらしいが、この役でついに彼女はアカデミー主演女優賞を獲得する。10歳であっさりとアカデミー助演女優賞をさらったテータムと違い、ジョディはそのキャリアの長さにもかかわらず、ずっとアカデミー賞からは遠ざけられていたのだ。「羊たちの沈黙」では、監督は当初ミシェル・ファイファーを想定したのを、「どうしてもやりたくて」「飛行機のチケットを買い」「監督のところに押しかけて」「この映画についての自分の解釈について延々と熱弁をふるい」、役を獲ったのだという(この話にはかなり驚いた)。ジョディ自身はこの演技でもっとも印象深いシーンとして、レクター博士役のアンソニー・ホプキンスに、話言葉のアクセントで出身地を当てられる場面を挙げている。西バージニア州なまりのクラリス(ジョディ)のアクセントをレクター博士が口マネをするのだが、そのときのホプキンスの言い方が、「(ジョディのなまりの)演技がヘタだといわんばかり」だったため、ジョディ自身が怒りを感じ、それがシナリオの中のクラリスの屈辱感とうまく重なったのだという。こうした冷静で的確な分析ひとつをとっても、ジョディが並外れた知性を備えた女性だということがわかる。13-4歳で秘密をかかえた賢く早熟な少女の役を演じたとき、それは確かに虚構の世界だったが、ジョディ自身がもっていた知性が演技を支えていたことは間違いない。ジョディもインタビューの中で、子役時代の自分は、精神的に早熟で、周囲の人の気持ちを思い遣りすぎるがために、大変だったと語っている。だが、ジョディはそうした精神的な負担に押しつぶされることはなかった。テータム・オニールも、ちょっと遅れて美少女として一世を風靡したブルック・シールズも、時とともに女優としての輝きを失ったが、ジョディは今もまったく揺るぎがない。時の流れのくだした判定を見るとき、やはり「白い家」で衝撃を受けたジョディの才能は、生半可なものではなかったのだと納得する。ところで、白い家公開当時に流れた噂がある。主人公のヌードシーンがあるのだが、それは実はジョディ自身ではなく代役だというのだ。DVDを買ったので、問題のシーンをコマ送りで見てみた。確かに代役だった。間違いない。
2007.08.23
西荻と吉祥寺の間に1軒のお屋敷があった。城かと見まごう(?)石垣と背の高い門が聳え、堂々たる造りで外からの視線をシャットアウトしていた。表札には「来世研究所」。そう丹波哲郎の豪邸だ。丹波哲郎はかなり好きな俳優だった。照れずにカッコつけるところは日本人離れしたスケール感があったし、声のトーンも独特の音楽のような響きがあった。日本アカデミー賞を辞退した黒沢明監督に対して、「愚の骨頂」などとズバッと言ってみせる自信も、不思議と憎めなかった。最後に俳優・丹波哲郎を見たのはNHKの大河ドラマ「義経」の源頼政役だった。ひどく痩せて、さすがにほとんど動けないようだったが、準備不足のまま平家打倒に動かざるをえなくなった頼政が、宇治平等院で炎の中で討ち死にする最後のシーンで、ニヤリと笑って死んでいくその表情に丹波演劇の円熟を見たような気がした。丹波哲郎が亡くなったとき、西荻にある丹波邸も少しの間報道陣に囲まれていた。りっぱな石を組み合わせた門の奥も、丹波の出棺のときに少し写った。「ヘリポートがある」などという噂は嘘だとわかったが、よく手入れされたツツジと門までの長いアプローチはさすが大俳優の豪邸にふさわしいものだと思った。その後しばらくして丹波邸の前をとおったら、ショベルカーが入って遠慮なくすべてを壊していた。そして、そこは完全な更地になった。りっぱな石垣も門も何もかもなくなった。一度きれいな土に戻したと思ったが、今日とおりかかったら、すっかり草が生えていた。常に手入れされ、刈り込まれていなければいけない植栽ははかないが、雑草はたくましい。ずいぶん背が伸びていた。丹波邸のような贅を尽くしたお屋敷も結局遺族が相続できないと、こうなってしまう。あの門だけでも残せなかったのだろうか。大俳優の生きた証しがあっさり消されてしまったようで、なんだか寂しい。ここはどうなるのだろう? 間口のわりにはかなり奥行きのある敷地だが、それでもマンションには少し小さいかもしれない。何軒が建売が建つのかな? それが一番ありそうだ。こういうお屋敷もどんどん細分化され、美しく手入れされた植栽や古い樹木もばっさり切られてしまう。業者にしてみれば、儲けるためには、それが一番なのだろうけれど、武蔵野の面影を残す大木や、前の主人が丹精した植栽が、根こそぎ消されていくのを見るのは寂しい。杉並の高級住宅地の魅力は、ゆったり大きなお屋敷、植栽、そして樹木にあると思うのだが、そういった場所もどんどんつまらないキチキチした普通の住宅地に姿を変えていっている。
2007.08.22
「沈黙」でもっとも注目すべき登場人物は、長崎奉行の井上筑後守だ。主人公ロドリゴは日本に来る前、井上は高名な宣教師たちを次々棄教させている「悪魔の化身」だと聞かされていた。ところが実際に会ってみると井上は、ロドリゴの想像とはまったく違う柔和で優しげな老人だった。井上はロドリゴに対し、「ある土地では稔る樹も、土地が変れば枯れる」という喩えを引いて、「日本にとってキリスト教は無益だとわかったから禁制にした」のだと説明する。これはキリスト教徒が唱える普遍的な正しさや倫理観が、日本では意味をもたないこと、信じるに値しないものであるという決別宣言だ。また「スペイン、オランダ、イギリスという妾が日本という男に毎晩のようにお互いの悪口を吹き込んだ」と皮肉る。これは「絶対無二の倫理観」をかざしながら、実際にはご都合主義に自分たちだけが利権を独占しようとするヨーロッパの国々の偽善を暴いた言葉だ。もちろん、ロドリゴは自らの信じる正しさによって反論する。2人の会話は当然、平行線のままだ。すると、井上はむごい拷問を受け続ける日本人信者をロドリゴにつきつける。彼らはすでに棄教を約束しているが、ロドリゴが棄教しない限り許されることはないのだという。「お前たちは日本人を救うためにやって来たという。だが、実際には救うどころか、受けなくてもいい苦しみを与え、その苦しみから解放してやることもできないではないか」。これが井上が宣教師を棄教させる最大の武器だった。井上はロドリゴに対して直接的な拷問を加えるのではなく、ロドリゴの信じる神が無力であることをしらしめて、その信念をくじこうとするのだ。井上は恐ろしく、不気味で、しかも理性的で、知的な人物だ。温和さと残酷さを併せもつこのキャラクターをスコセッシがどう解釈してみせるのか。キリスト教徒にとってもっとも都合がいいのは、「唯一の神をもたずに現世的な体制に従属し、したがって、普段は温和な人間でありながら、命令とあらば倫理観のかけらもない悪魔のような所業をやってのける人間」だ。こうした解釈は、たとえば先の大戦での日本軍の残酷な所業を説明するときに繰り返し述べられてきた。絶対的な倫理観に欠けているから、日本人は時として信じられないぐらい残酷になるのだと。たしかに、それはそれで筋がとおっている。だが、「絶対的な神をもたないがゆえの残酷」と「絶対的な神をもつがゆえの残酷」のどちらがより人類の歴史において深刻だろうか。今世界中で起こっている血で血を洗う終りなき殺戮は、ほとんどが異なる「唯一の神」をもつ民族同士の対立によるものだ。日本人はそうした神を信じることを拒否した。井上のキリスト教徒に対する容赦のない弾圧は、八百万の神々とともに生きる民族が、自分たちの価値観を破壊するかもしれない「心の蹂躙」に対して起こした激しい拒否反応だともとれる。井上はその意味では、西洋による精神の侵略、そしてその後に続いて起こる武力による征服と支配を防いだ人物なのだ。キリスト教布教と植民地政策がセットであり、植民地政策には先住民の大量殺戮がともなったことは、いくら征服者たちが「自分たちは文明の伝達者であり、未開の野蛮人を啓蒙したのだ」と自己肯定しようと変りようがない。井上のキャラクターに注目したとき、「沈黙」をイラクとからめて描くのは多少無理があるような気もする。ことさら現在進行中の問題に関連づけるのは、アメリカ人の観客を意識した、アカデミー賞狙いのにおいもしないではないが、広い意味での「独善的な精神世界からの侵略に対する抵抗」として括るなら、そうした視点もなりたつのかもしれない。9.11のテロのとき、あるアメリカ人が思わず言った言葉がある。「こんなの、ジャップのパールハーバー以来だ」。日本人自身は自分たちがカミカゼの子孫であることを忘れている。あるいは忘れたいと思っている。だが先の大戦で、アメリカ人を恐怖させたのは、戦術上はほとんど意味のない「万歳突撃」「玉砕」さらには「カミカゼ特攻」までいった日本人の徹底抗戦の姿だ。そこまで狂信的な(としか見えない)自殺行為をためらわずに行うのは何故なのか、アメリカは必死に解き明かそうとした。現在イラクで頻発する自爆テロと日本軍のカミカゼ特攻や玉砕は、それを行う者たちの動機づけには実のところ大きな隔たりがある。日本人はその違いをわかっている。だが、アメリカ生まれであるスコセッシが、繰り返される自爆テロを見て、かつての日本を連想し、そこから「沈黙」の構想を膨らめたとしても不思議ではない。本当にイラク問題とからめた映画になるのだろうか? シナリオはできたのか? 井上役は誰がやる? 日本でのロケはどこで? 興味はつきないが、残念ながらいまだにスコセッシは沈黙を保っている。とりあえず今は、待つしかない。
2007.08.18
マーティン・スコセッシ監督が、遠藤周作原作の「沈黙」の映画化についに着手すると発表されたのが2005年11月。その後この企画はどうなっているのだろう? 2007年5月のcontactmusicの英文記事によると、スコセッシは作品の少なくとも一部を日本で撮ることを望んでおり、撮影自体はまだ始まっていないようだ。ついでに同記事にはおもしろい話が載っていた。「沈黙」は17世紀、キリスト教弾圧時代に長崎にやってきた宣教師の物語だが、スコセッシは主人公の姿をイラクに侵攻したアメリカと重ね合わせて表現したいのだという。記事が正しいかどうかはまだわからないが、「そうきますか」と思った。なるほど、イラクを独裁者の圧制から解放し、民主化してあげるのだなどと息巻いて侵攻し、激しい自爆テロとゲリラ戦に遭ってドロ沼に陥っている現在のアメリカの姿は、「日本はアジアでもっとも民衆の教育レベルの高い国。必ずやアジア随一のキリスト教国となるだろう」などと大きな勘違いをして、布教を始め、やがて想像を絶する拷問を受けて惨殺されていった宣教師たちと重なって見えなくもない。スコセッシが「沈黙」を映画化したいと考えたのは、少なくとも15年は前のことだから、最初はイラクとからめて云々という発想はなかっただろう。むしろストレートに、日本(あるいはスコセッシにとっては東洋かもしれない)と西洋の精神の対立というものに興味があったのではないかと思う。なぜそう思うのかというと、スコセッシが「豚と軍艦」(今村昌平)の最後で、逃げ出した豚が街中にあふれ出す(目を覆うほどおぞましい)シーンについて、「これは西洋文化の流入を象徴している」という意味のことをさっくり話しているのをテレビで見たからだ。スコセッシは相当の今村昌平フリークだ。今村オタクといってもいいかもしれない。今村作品のさまざまなシーンをたった今見ているかのように詳細に語り、自分自身の解釈をとうとうと述べる姿には圧倒された。一体何回今村作品を見ているのだろう? たとえば、「にっぽん昆虫記」については、売春宿の女主人が警察で取調べを受け、同様に話を聞かれるために連れてこられた若い女性にすれ違いざまに、「しいっ~」と唇に指をたてるしぐさをして、黙っているよう無言の脅迫をする場面があるのだが、「あのときの女の顔は、私がこれまで観たあらゆる映画の中でもっとも邪悪な表情」と絶賛する。実際にその場面がテレビに出たが、確かに、たとえフェデリコ・フェリーニでもここまで醜悪で邪悪な女性の顔は撮れないな、と思うような恐ろしい表情だった。自身の「タクシー・ドライバー」も今村作品に強く影響を受けたものだという。Mizumizuは10代のころ映画館でこの作品を見て、強烈なカルチャーショックを受けた。残酷でリアルな暴力シーンにもたまげたが、何より驚いたのは、「悪いやつだからといって一市民が勝手にソイツを殺し、しかもその殺人者がヒーローになる」という当時の平和な日本では到底考えられない価値観だった。今村とスコセッシには、「できれば見たくないものをわざわざ見せる」イタさがあり、Mizumizuは実はかなり敬遠してきた。今村昌平のヨーロッパでの高評価を歯がゆく感じたこともある。大島渚の「戦場のメリークリスマス」がカンヌでパルムドールを取るのではないかと騒がれたとき、実際に賞をさらったのが今村の姥捨て山をテーマにした「楢山節考」で、「なんでこんな貧乏で暗い、できれば日本人が忘れてしまいたい昔の日本をフランス人は歓んで観るのか」と思ったものだ。「うなぎ」もどぎつい色のドレスを着て踊る女の醜悪さにほとんど辟易した。スコセッシの暴力シーンも、できれば見たくない、認めたくない人間の「ある真実の一面」をはっきり見せられるような気がしてどうにも苦手だ。日本中が期待した「硫黄島からの手紙のアカデミー賞受賞」を奪った「ディパーテッド」もいまだに見ていない。だが、「沈黙」はぜひとも観たいと思う。キリスト教徒に対する苛烈な迫害は、日本人にとっては触れてもらいたくない過去かもしれない。だが、問題は最初は進んだ西洋(南蛮)文明の紹介者として歓迎したキリスト教をなぜ日本が次第に警戒し、最後は信者に非道な拷問を加えてまで締め出そうとしたかということだ。(明日に続く)
2007.08.17
渋谷のQ-AXシネマへ斎藤工(さいとう・たくみ)主演の「いつかの君へ」を観にいく。1日に1回のレイトショー形式。21:20から。時間が遅いので、安心して(?)仕事をだらだら片付けていてふと気がつくと、すでに20:30を回っていた。明日からは忙しくなるので、夜出られないかもしれない。慌てて車に乗って家を出たのが、20:45過ぎ。普段なら間に合わないところだが、お盆でわりと都内がすいていて、なんとか21:20分に劇場に滑り込んだ。映画はよかった。堀江慶(監督)の世界は、明るくて暗く、シリアスでコミカルだ。深刻な問題を扱っていても絶望はなく、といってごまかされた気分にもならない。双子の兄弟のノボルとリュウが初めて会話する場面は、「サイコ」の息子と母の会話をすぐに連想させる古典的な手法で、「もしや…」と思わせる。そうした精神の闇の部分は、結局最後まで完全に解決されることはないのだが、どこか楽観的な気持ちで劇場を後にすることができるのは、共演の河合龍之介の嫌味のない明るいキャラクターによる部分も多い。青春の負の部分を表現するのは斎藤工の役割だが、その中でももっとも印象的で卓越したシーンは、ドイツ留学を奨められたノボル(斎藤)が、「(ドイツにいけば)ひとりになれる?」と自問自答して、鏡に映る自分を横目で見やる場面だ。このカットはノボルの肩越しに撮られ、観客はその後ろ姿と鏡の中のノボルの顔を同時に見ることから、あたかもその場に2人の人間がいるような錯覚にとらわれる。緻密に計算されたこの視覚的な効果とあいまって、ノボルに問いかける声がノボル自身のものなのか、リュウのものなのか、一瞬混乱してわからなくなる。ここはこの映画でもっとも暗く、もっとも美しく、幻想的で暗示的な場面だ。そうした精神の陰の部分を鋭く表現してみせる斎藤工は20代半ば。テレビドラマにもCMにも出ているし、映画も舞台もやっている。ただ、まだ日本人なら「誰でも知ってる俳優」というほどではない。だが、いずれはそうなるだろうと思う。役者に対しては、よくみな「華がある」「華がない」という言い方をする。ただ見た目がいいとか、せりふまわしがうまいとか、そういったものを超えたその人独特の雰囲気だ。みなが感じる「華」とは何だろうと考えてみるが、実際のところよくわからない。人によってその「華」は違うかもしれない。ある人にとっては最高に華のある役者でも、ある人にとっては、何度見ても印象に残らない役者かもしれない。だから、華がある、ないは多分に個人的な嗜好で、ときには思い込みにすぎないかもしれない。それでも「華のある俳優」というものが存在することは確かだ。誰もがよく知っている俳優というのは、いいかえれば、「非常に多くの人が華があると認めている存在」に他ならない。俳優・斎藤工のもっている華とは、不思議な陰りであり、それとは相反するようでありながら確かに共存している透明感だ。同世代の俳優の中でも、そうした個性的な雰囲気では群を抜いている。それに演技もいい。「いつかの君へ」では河合龍之介と演技力を競いあっていた(河合龍之介も素晴しかった。軽快で器用で明るい演技は、斎藤工とは対照的な、別の可能性を見せてくれた)。左が斎藤工、右が河合龍之介。たとえば10年後に、この2人はどんな役者になっているだろう? 本当に楽しみだ。どちらも才能があり、役者という仕事に対する若者らしい野心があり、演技に取り組む姿勢も素晴しい。どんな役が回ってくるかという運もあるだろう。2人のブログも読んでみた。これも対照的で面白い。ストレートにその生活ぶりがわかるのは河合龍之介のブログだが、斎藤工は常に表現者たる自分のフィルターを通して、自分の見た風景を切り取るように心がけているようだ。老人たちが将棋を楽しんでいる写真につけられたコメントには驚かされる。こうした視点を20代にしてすでにもっているというのは、いろいろなものを見て、常に感性を磨こうと努力している証拠だ。東京の繁華街の交差点の一瞬を写した写真も面白い。斎藤工は今は青春モノで、ちょっと大人っぽい陰のある役どころを魅力的に演じている。20代の半ばという年齢を考えると、こうした役を演じるにはかなりギリギリかもしれない。DVD版BOYS LOVEでは高校生役の斎藤工のほうが、社会人役の小谷嘉一よりはるかに精神的に成熟してみえた。実際の2人の年齢を考えればそれほど不思議ではないのだが、この現実とは逆の設定が、作品を不思議なファンタジーに仕上げるのに一役買っていたと思う。10月からNHKで藤沢周平の「風の果て」が始まる。斎藤工が演じるのは、後に異例の出世をとげる主人公・隼太が若き日に仰ぎ見ていた道場仲間、鹿之助(斎藤工から仲村トオルにバトンタッチするらしい)だ。家柄もなく、したがって先々の希望はせいぜいよい婿入り先を探すぐらいしかなかった隼太と違い、鹿之助は名門の跡取りであり、生まれながらに隼太とは別世界に住んでいた。そうした「ほかとは違う」ものを背負った鹿之助をどう演じていくのか。斎藤工のもつ透明感と陰りというアンビバレントな個性が、後の2人の運命(隼太はやがて利権をテコに権力を得、鹿之助の政敵となり、鹿之助を葬り去ることになる)を思うときにどう輝くか、注目したい。斎藤工自身にとってもこのドラマは大きなチャンスだろう。斎藤工の名前がもっと大きくなったとき、渋谷の小劇場で観た今夜の佳作を懐かしく思い出す日がくるだろうか。是非ともそうなってほしい。
2007.08.15
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