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中世ヨーロッパでもひときわ異彩を放つ神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ2世。彼についてはすでに1月30日のエントリーと4月22日のエントリーで紹介したので、詳しくはそちらを読んでいただくことにして、今日ご紹介するのは、フェデリコ2世が南イタリアのプーリアに建設した「カステル・デル・モンテ」。カステルとは城、モンテとは山を意味する。その名のとおり、小高い丘の上に建つこの城は、世界遺産にも登録され、イタリアの1ユーロ硬貨の裏面の絵柄にもなっている。だがこの山城は、いろいろな意味で謎に満ちている。まず、まったくもって城らしくない。こちらは、ネットから拾った空中写真だが、ご覧の通り、8角形の外壁、8角形の塔が8角形の中庭を囲んでいる。装飾の花や葉も8枚ずつになっているらしい(ただ、実際に行っても、この目で確認はできなかった)。13世紀の城といえば、通常要塞の役割を兼ねるのが普通だが、この城は軍事的には、完全に無防備。堀も厩も銃眼も何もない。客をもてなすための城としても、明らかに役不足だ。大きな厨房もなく、広間もない。中庭を囲む塔とそれをつなぐ空間は、どこも均一で、主従の居室の区別がつかない。オリーブ畑の続くプーリアの平原。小高い丘のうえに建つカステル・デル・モンテは、かなり遠くからも見える。まるで山のいただいた王冠のよう。クルマで行ったのだが、城が視界に入ってきてからも、なかなかたどり着かなかった。それくらい、今でさえも辺鄙な場所だ。フェデリコ2世の好んだ鷹狩の拠点にしたという説もある。なるほど、実用的な意味では、そのくらいになら使えたかもしれない。実際に城として使うには、あまりに不便な造りなのだが、この実、この城は、ストーンヘンジやマヤの遺跡、あるいはエジプトのピラミッドにも通じる、綿密な天文学的計算に裏打ちされた設計になっているのだ。こちらは中庭の壁を撮った写真。太陽の影が見えるが、この影は、春分と秋分の日の正午に、中庭の一辺とぴったり重なる(ということはつまり、秋分の日と春分の日の間は中庭の床には日が差さないということ?)。ユリウス暦で8番目の月に当たる月の8番目の日、現在でいうと10月8日に、南西の高窓と中庭側の低窓を太陽光が一直線に結ぶ。また、夏至の夜には、中庭の中央のちょうど真上にヴェガが来るのだという。設計自体にフェデリコ2世自身が深く関わったことは文献等から知られている。皇帝は8という数字に、非常に強いこだわりをもっていた。キリスト教では、8はキリスト復活までの日数であり、イスラム教では天国を表す数字だという。その知的精神で「最初の近代人」とも称されるフェデリコ2世が、迷信ともいえるような「8」への執着を、大掛かりな城建設で見せたことは、非常に興味深い。論理的で合理的な思考の持ち主が、ある面で呪術的ともいえる神秘主義に傾倒するという傾向は古今東西を通じて、しばしば見られるからだ。フェデリコ2世は言語の天才で、さまざまな言葉を話すことができた。アラビア人とも通訳なしで話している。言葉にはそれぞれの論理があり、多くの言語を操るということは、それだけ多くの世界を心の中にもつことになる。ある意味でそれは、精神が相対する論理で分裂する危険性をはらむ。そして、フェデリコ2世の治世後期には、領土内でのキリスト教徒とイスラム教徒の対立が激しくなり、ノルマン・シチリア王国の繁栄も陰りを見せ始めていた。フェデリコ2世がこの世を去ったのは、1250年の12月。1+2+5で8になるという偶然が、最後までつきまとった。「城」としての機能をほとんどもたない、「8」という数字と大いなる宇宙の神秘に捧げられたとしか思えない、美しい孤高の城。小高い丘に建つこの城の上階から眺めると、オリーブ畑と小麦畑が海のように広がり、神の視線を手に入れたような錯覚にもとらわれる。その眺めはヴァイエルンの狂王ルードヴィッヒ2世の建造した白鳥城のもつ眺望に、ある程度似ている。ネオゴシックだの擬似ビザンチンだの、過去のさまざまな様式をゴッチャにしたルードヴィッヒ2世の城のインテリアを見ると、王のネジの取れっぷりに圧倒されるが、この世にはない世界とつながろうとしたという意味では、フェデリコ2世のカステル・デル・モンテも同じではないか。政治的な力をほとんど持たなかったルードヴィッヒ2世と、神聖ローマ帝国皇帝にしてノルマン・シチリア王であり、中世ヨーロッパで絶対的権威をもっていた教皇との対立も辞さなかったフェデリコ2世の人生に類似点はほとんどないのだが、内面に何かしら現実には成し遂げられない壮大な夢を秘め、それを大掛かりな土木工事という形で、うつせみの世に残そうとした情熱には共通点がある。そして、それは有史以来、「力」を手にした人間がほとんど必ずとらわれる妄執でもある。
2009.12.03
以前このエントリーでも取り上げた、ローマのタクシーの雲助ぶり。想像以上に悪評が高まっているらしく(苦笑)、こんな記事が出た。イタリアの首都ローマの最大手タクシー会社「Radiotaxi3570」が、観光客の間で悪名高い同市のタクシーを改善しようと、新たな試みを始めている。ローマでは、空港から市の中心部まで本来の料金の2倍が請求されることもあり、不慣れな観光客を乗せるため、ドライバー同士が言い争う姿がよく見られる。 同社は、観光客が自宅を出発する前にインターネットで料金を支払えるサービスを開始し、国内のほかの都市にも拡大する計画。インターネットでの予約時に、英語やフランス語、スペイン語、ドイツ語を話すドライバーを選ぶこともできるという。市当局は、観光客へのサービス向上や詐欺撲滅などを目指すキャンペーンを展開しており、カラフルな広告を使って、観光業従事者らに「正直になり透明性を保つことが、あなたやあなたの市を救う」と呼びかけている。インターネットで前払い? タクシー代を?なんだか、ますますドツボで信頼できなくなりそうだ。ネットで前払いしたものの、「知らな~い」「ドイツ語を話せるやつ? いないね、ここはイタリアさ!」「それはウチの会社じゃな~い。あっち(←と、全然違う方向を教えられる)」「荷物代は別」「夜だから割り増し料金」「そのホテルの道は今工事中。遠回りしなければいけないから割り増し料金」などなど、結局ワケわからないことまくし立てられて、同じハメに陥りそうな悪寒予感がする。そもそも、モシモシさんのブログにあるように、「空港から市内まで40ユーロ」という規定を決めたのなら、それを周知徹底すればいいだけの話だ。夜間だったらX%増しになると決めてもいい。それだけのことなのに、やれ荷物が大きい場合は1ユーロとか、コツコツ上乗せしようとするからぐちゃぐちゃになる(イタリアのタクシードライバーは、別に荷物の積み下ろしを助けるわけでもないのに、荷物代を割り増しで要求してくるヤツが多い。馬で運ぶならともかく、ガソリン車で、なんで荷物代が別にかかるのか理解できない)。固定料金表は、タクシー乗り場やタクシー内に掲げてもいいし、バンコクやNYのように、何人か別の人を配置して、クレームレターを渡すようにしてもいい。それほど大変なことではないはずだ。ところが他国では簡単にできることが、イタリアではなかなかできない。というより、やろうとしない。こういうところを見て日本人は、「イタリア人ってバカだな」と決めつける。イタリア人はバカではない。ただ、自分の目先の利益にヨワイだけだ。そもそもタクシーのドライバーに、「正直になり透明性を保つことが、あなたやあなたの市を救う」なんてきれいごと言ったって、信じてもらえるとは思えない。人間は、「ひきあわないこと」はやらないのだ。日本のタクシードライバーがぼったくりをしないのは、それが「ひきあわないこと」だと知っているからだ。誠実さを見せて信頼してもらうことが、長い目で見れば自分の利になる・・・元来ムラ社会の日本人には、その思考が染み付いている。イタリア、特にローマは事情が違う。タクシードライバーの客はほとんどが外国人観光客。短期間イタリアに来て、去っていく一見さんだ。イタリア語もできないし、土地にも不慣れ。そんな相手に正直に振舞うより、何だかんだ理屈をつけて1ユーロでも余計に稼いだほうが、よっぽど自分の利益になる。彼らはそう考えている。評判を落として客がパッタリ来なくなるなら考えるだろうが、ローマはあいにく、世界中からおのぼりさんがやってくる街だ。タクシードライバーは、実入りのいい商売ではない。自分の食いブチ稼ぐだけで精一杯の余裕のない労働者が、ローマ市全体のことを考えるだろうか? 「考えたところで何になる。市がオレらを助けてくれるのかい?」という彼らのホンネが聞こえてきそうだ。ローマの雲助タクシーの伝統は長い。どのくらい遡れるだろう? 20年? 30年? Mizumizuは少なくとも、思い出せる限り昔からローマのタクシーの悪評を聞いていた気がする。昔はイタリアの通貨・リラが弱かったから、多少ぼったくっても、リッチな旅行者には、さほどでもなかったのかもしれない。旅行自体が贅沢なことで、限られた富裕層しかできなかった。今は様相が違う。このまま汚名返上が出来なければ、観光で食べてるローマにとって、取り返しのつかないことになる・・・ と考えているのだろう。当局のお上は。だが、個々のタクシードライバーが、そんな俯瞰的な思考をもつとは、どうしても思えないのだ。人的資源をちょっと活用してシンプルに是正する方法があるのに、上の人間が、やれ認定ステッカーだ、インターネット予約だ、とシステムで何とかしようとするから、下は笛吹けど踊らずで、さっぱり透明で効率的な事業運営ができない。それがイタリア。このまま汚名返上ができるのか、それこそ「汚名挽回」になってしまうのではないか。ま、どちらにせよ、ローマではテルミニまでの直通電車のある時間に着いて、タクシーは利用しない、テルミニからは徒歩圏のホテルを予約する、それが一番だとMizumizuは思うのだ。そして今のMizumizuはといえば、ローマどころか、石垣島どころか、東京から一歩も出られない多忙な日々。12月のスケジュールはすでにいっぱいに埋まってしまい、新たな仕事が来ないようにと祈っている。
2009.12.02
マルティナ・フランカのことは、よく憶えていない。ただ、その街もバロックで、白い建物に挟まれた迷路のような路地があり・・・そして、半円形の回廊をもつ広場がこのうえなく優美だったこと。回廊のアーチ天井から吊るされた街灯の装飾が、あまりにリズミカルで可憐だったこと。回廊の中にあるタバッキの店主のおじさんと、絵葉書を買うついでに何か会話したこと。回廊の石畳を歩く人の足音が、やけに響いたこと。マルティナ・フランカのことは、よく憶えていない。だがどうしても、襟元をレースで飾った、この小さな広場だけは忘れられない。プーリア州の中では富裕層が住む街として知られているというマルティナ・フランカ。なるほど。ローマや、もっと北のミラノの邸宅ほどではないにせよ、オストゥーニで感じた、街全体に漂う貧しさは、確かになかった。貴族的なバロック風の装飾を施したバルコニーが、白い路地に華を添えていた。街から出ると、そこにはプーリアの田園風景がどこまでも広がっている。貯蔵庫として使っているのだろうか、トゥルッリもちらほら見えた。
2009.12.01
プーリアには、郷土色豊かな小さな街がたくさんある。中でもオストゥーニは少し異色だろう。オリーブの老木の向こうの丘に建つ白い建物群。丘全体が1つの街になっている。ここはまるでギリシア。エーゲ海のどこかの島に迷い込んだよう。壁も床も、ただただ白く塗られた家々に、鮮やかなブルーの扉の色がまぶしい。今にも扉をあけて、誰かが出てきそう。買い物に行こうとする主婦かもしれない。エスプレッソを飲みにバールに出かける旦那かもしれない。学校から帰ってきて、遊びに飛び出す少年かもしれない。途中で、玄関先の床を白く塗りなおしている中年女性の姿を見かけた。こんなふうに部分的に塗りなおすせいか、白の塗装は均一とは言いがたくなり、妙に新しい真っ白なところと、黄ばんだり汚れたりしているところの差が目立つ。それにしても、なぜこんなふうに憑かれたように街全体を白くしたのか。最初は衛生のためだとか、何か理由があったのだろうが、今に至るまで住民全員の総意で続けている、続けていられるのはなぜなのか。アラブ系のような顔つきの住民も多い。そして、明らかに経済的に豊かでない。昼間から時間をもてあましているような働き盛りの男性の姿も見かけた。複雑に上に伸びた住宅群の縁を、鉢植えの花で飾っている。お世辞にも洗練されているとはいえない、田舎じみた感覚だが、生活感が漂ってくるのが、メジャーな観光地にはない魅力。あまり有名になってしまうと、街全体がテーマパークのようになって、生活感が消えてしまう。生活感のない街は死んだも同然。ただの野外博物館だ。アルベロベッロで、それを感じた。青い空に映える、「白」が取り得の街オストゥーニは、まだそれほど多くの観光客を集めるにはいたらず、だからそこ、街のあちらこちらから人々の生活の匂いが漂ってくる。
2009.11.30
バロックの街、レッチェは、イタリア半島のカカトの底近くにある。バーリからなら日帰りも可能。駅から旧市街までは徒歩だと少し距離があり、途中で信号待ちのクルマの窓ガラスを拭いて小銭を稼ぐ貧しい少年を見た。新市街も全体的にうらぶれた様子で、イタリアの南北問題、つまり南部の貧困は、やはりまだまだ解決していないのだということを実感させられる。だが、旧市街に残るバロック建築群は、世界屈指と言っていいと思う。その最高峰がサンタ・クローチェ聖堂。白亜の素材そのもののもつ壮麗な質感といい、繊細で複雑な装飾といい、この聖堂のファサードを凌ぐものは、そうはないだろう。Mizumizuがこれまでに見たバロック聖堂のファサードの中でも、最高に洗練され、最高に美しいと断言できる。気が遠くなるほど壮大でありながら、同時に考えられないくらい緻密。この一大芸術作品を作り上げた人々の忍耐力と美意識には、打ちのめされるような感動を覚える。こうした建築を見ると、やはりイタリアはとてつもない文化国家だと思い知らされる。ひんやりとした聖堂内の装飾もまた見事。あまり余計な色がないところが、またいい。壁全体に装飾を施すのではなく、優美なディテールはレース飾りのように、ある空間を縁取っている。こうした取捨選択のセンスも、他のヨーロッパ諸国ではなかなか見られない。だが、このサンタ・クローチェ、たしかお昼から午後4時まで「お休み」で中に入れなくなる。夜は何時に閉まるのか忘れてしまったが、午後6時とか、そんなものだと思う。内部も必見なので、何を置いても午前中に行こう。旧市街を歩いて目立ったのは、石を加工する職人の店。ここで取れる石灰岩は、柔らかく加工しやすいのだという。アラバスターの街ヴォルテッラにも似た雰囲気があったが、職人のいる街には何ともいえない深みが加わるように思う。職人というのは世界共通で、どこかに置き忘れた魂を捜しているような、浮世離れした顔つきをしている。そうした魂の流浪人が、「加工しやすい石」という素材で、この土地につながれているというのがおもしろい。小さいけれど個性的な店をのぞいて歩くのも楽しい。重さを考えなければ買って帰りたいような装飾品がたくさんあった。バロック建築は、かたまって一箇所にあるのではなく、旧市街に散らばっている。角を曲がるとふいに視界に飛び込んでくる壮大なファサード。空気を吸うように、最高のバロック建築の息吹に触れることのできる街。こんな街は、世界広しと言えどめったにないし、もう永久に作られることはない。一生に一度は訪れるべき土地。ことに、何かを作っている人、表現している人なら、絶対に行くべきだ。
2009.11.24
ガルガーノ半島で宿泊したのは、ホテル・バイア・デッレ・ザーガレ、4つ星。何といってもロケーションが素晴らしく、食事も相当よかったので、心に残るホテルの1つになったのだが、いくつか予想外のこともあった。(1)絶景はレストラン棟からしか眺められず、部屋は「海の見える部屋」でも、かなり引っ込んだ場所にあり、松林の向こうに水面がチラと眺められるだけ。フルボード(3食付き)にすれば、昼間も絶景の海がレストラン棟から眺められて最高なのだが、3食付きというのは、ちょっと日本人には量が多かった。(2)ガルガーノ半島は全般的に下水道の整備が不十分だとか(バーリ在住のイタリア人の友人からの情報)。確かに、4つ星なのに、固定式のシャワー(ホースなし)しかなかった。水の出も悪い。(3)本当に孤立した、辺鄙な場所にあるので、クルマで来ないと、ホテル内にこもりっきりにならざるを得ない。だが、敷地は広大で、自然の中を散策できるので、そういう休日の過ごし方で満足できる人には、特に欠点ではないかもしれない。個人的には、ガルガーノ半島はやはり、自分でクルマで回ったほうがいいと思う。(4)事前に聞いたときには、「ガルガーノ半島の美しい絶壁を海から眺められるボートツアーがホテルから出ている」と言われたのだが、実際に行ってみたら、「まだ時期が早い。8月だけ」と言われた。ボートツアーは、マッティナータ(またも・笑)から出ているよう。とは言え、ホテル内はイタリア的な明るさと美しさに満ちている。ホテルの中庭を眺めたところ。白い壁にブーゲンビリアが這い、明るい日差しに照らされてまぶしく輝いている。ひょうたん型のプール。海の水はまだ冷たかったが、こちらのプールは温度もほどよく、何度か利用。ビーチでくつろく人々は、必ずしも宿泊客だけではないようす。「日帰り利用も可」なのではないかと思う。イタリア人はたいてい波打ち際でポチャポチャやってるだけなのだが、中にはここまで泳いでくる命知らず(?)の人間も。足でも攣ったら命にかかわると思うのだが・・・ こういうことをしてるのはドイツ人が多い。朝早く、プライベートビーチに下りてみた。まだ誰もいない。海岸は小石がゴロゴロ。朝の太陽を浴びて、小麦色に染まったガルガーノ半島の名物、「絶壁」。時間によってはピンク色がかっても見えるが、岩は基本的に白い石灰質。壁になった模様が美しい。絶壁の下を歩いていると、ポロポロと小石が落ちてくる。岩壁から剥離してくるらしい。夕方になると、岩肌は青白さを増してくる。帰りのバスは、Baia delle Zagare14:00→Foggia 15:30に乗った。10分ほど遅れてやってきたバスを待つ間、埃だらけのイタ車が何台か通ったが、だいたい道端でポツンと立ってるMizumizu+Mizumizu母の姿を認めるとスピードを緩め、なんなら乗せてあげようか、という雰囲気だった。バスはマンフレッドニアを過ぎて、半島の付け根にあるマッティナータへ向かう。一度、日本人らしき中年の男女が乗ろうとして、男性のほうが「切符は買えるのか?」と英語で運転手に聞いてきた。「ノー」と言われると、諦めたように歩き出した。帽子を被っているところといい、英語の平板なアクセントといい、日本人だと思うのだが・・・大丈夫なの? 乗らないで??周囲に店も何もないような半島の辺鄙な場所だ。歩いてどこに行くんだろう? 切符を売ってるところはないかもしれない。といって、タクシーもない。次のバスは2~3時間後。ここでバスに乗らなかったら、ヒッチハイクしかないと思うのだが、そんなアクティブなカップルには見えない。まさか、次の街のマッティナータまで徒歩? 気が遠くなる。罰金を取られるとはいっても、イタリアのプルマン(長距離バス)の値段は、日本の長距離バスに比べると、えらく安い。罰金取られて同じぐらいか、それでも安いかもしれない。「切符がなければ乗ってはいけない」というルールに忠実に行動してるのが、いかにも律儀な日本人らしいが、それも時と場所によると思う。運ちゃんはさっさとドアを閉め、バスは日本人らしき帽子のカップルを追い越していった。女性のほうは、少し未練ありげにこちらを見ている。声をかけて、行き先など聞いてあげればよかったかな・・・だが、どうだろう。マッティナータに着く前に、検札官が乗ってきて切符の確認を始めたのだ。やっぱりこういう、切符がものすご~く買いにくい場所では、ちゃんと働くのね、検札官。ここまで来ると、もはや公的ボッタクリではないかとすら思ってしまう。バス乗り場で切符を売っているのに、買わなかった人を罰するというならワカル。しかし、売ってないクセに「買わなかった」と難癖つけて高い料金を取るなんて、日本人には到底納得できない。イタリア人は、おかしいと思わないの?そもそも、バスの運ちゃんが切符を売れば、往復で買うのをうっかり忘れた客のほうが、わざわざ露店の兄ちゃんに頼んで切符を準備するなんて煩雑なことをしなくてもすむのに。案の定、切符がなくて、検札官に払っている人がいた。さほど法外な値段ではないらしく、あまり文句も言っていない。ということは・・・やっぱりさっきの日本人(?)も乗ってしまえばよかったのか?フォッジアから鉄道に乗り換え、インターシティでバーリへ行った。17:22Foggia→Bari18:25。プーリア州の州都バーリ。ここからを拠点に、アルベロベッロ、マテーラ、レッツェなどのアドリア海側の南イタリアの街を巡るのも楽しい。
2009.11.20
イタリア半島のカカトの上のほうに、鳥の蹴爪のように突き出た半島があるのにお気づきだろうか?アドリア海に面したここは、ガルガーノ半島と言う。ご覧のように、地質・地形が半島を境にくっきりと違うのがわかると思う。実は、この半島は昔は島だった。間の海を、島の険しい山から崩れてきた堆積物が埋めて、地続きに。MizumizuがMizumizu母と、ここを訪れたのは、夏のバカンスが始まる前の6月初旬。ローマから電車で、まずフォッジア(Foggia)へ。7:15→11:16そこからプルマン(長距離バス)で、ガルガーノ半島の南側にあるBaia delle Zagare(ザーガレ湾)を目指した。ザーガレ湾は人里離れた小さな入り江で、断崖絶壁の上にホテルがぽつんと建っている。周囲から孤立したリゾートホテルで、バス停こそ、Hotel Baia delle Zagareとなっているが、ホテルはバス停から500メートルほど離れているという。荷物を引きずりながら500メートル歩くのは辛い。事前にメールでバス停まで迎えに来てくれるように頼んだところ、「フォッジアからバスに乗る前に、到着時間を教えてくれ」と言われた。そこでフォッジアのバスの切符売り場で、Baia delle Zagareの到着時間を聞いたところ、時刻表も確認せずに、「30分ぐらいだよ」と教えられた。バスの出発時間は12時50分。30分ということは、途中多少渋滞にあっても、1時半には着くということだ。もっと時間がかかると思ってたので意外だったのだが、疑いもせず電話でホテルに、「1時半ぐらいにバス停に迎えに来て」と伝えた。ところが・・・!(←イタリアではお決まりの言葉)距離から考えても、そんなに早く着くワケがなかったのだ。途中でアドリア海に面したマッティナータという、そこそこの街を通ったときには、すでに1時半をとっくに周っていた。実際の時刻表は・・・フォッジア12:50→14:30ザーガレ湾だったのだ。そして、もう1つ、バスに乗ってしまってから気づいたことがある。しまった! 帰りの切符を買ってない!今は改善されたかもしれないが、イタリアのプルマンは、バスの中で切符を売らない。しかも全部のバス停に切符売り場があるとは限らない。ザーガレ湾のような、街のない辺鄙な場所になると、切符売り場そのものがないかもしれない。そして切符を持っていないまま乗るとどうなるか? タダで乗れるかもしれない。だが、検札官が途中で乗ってきたら、罰金を取られるのだ。罰金は場所によって違ったと思うが、確か3倍が相場(苦笑)だったと思う。その場合、切符売り場がバス停の近くになかったことは、罰金逃れの言い訳にはならない。この極めて不合理なシステムに腹を立てているようでは、イタリアでは生きていけません。14時半にHotel Baia delle Zagareの停留所で降りるとき、バスの運ちゃんに、「切符はここで買える?」と聞いてみた。バス停以外は何もない辺鄙な田舎道だ。案の定、「ノー」というそっけない返事が返ってきた。「じゃ、どこで買えるの?」重ねて尋ねると、「マッティナータ」マッティナータですと!?あのさ~。フォッジアから乗って、マッティナータを通り、ここに来たのよ。でね、帰りはマッティナータを通って、フォッジアまで戻るワケ。なのに、なんで切符を売ってるのがマッティナータなのさ! しかし、イタリアに慣れると、この程度の不条理には驚かなくなる。「ありがとう」と教えてくれた運ちゃんにお礼を言って降りた。すると、目の前に露店の店が1軒だけあった。日本で言えば、伊豆半島の道をさらに狭くしたようなドライブ道なので、クルマで来る観光客を相手にちょっとしたモノを売る店という感じ。Mizumizuたちがバスから降りると、「ホテルに行く人?」と聞いてきた。そうだと答えると、クルマでホテルまで送るという。どうやら1時間前の時間を教えられて、待ちぼうけをくらったホテルの人間が、「XXの2人が来たら、ホテルに送ってくれ」と頼んだらしい。バス停からホテルまでは、本当に500メートルほど崖をくだって着いた。チップをわたし、ついでに、「あなたたち、どこに住んでるの?」と聞いてみた。すると、ズバリ、「マッティナータ」という答えが返ってきた。ヤッパリ。半島の入り口にある街のマッティナータの住人が、ここらまで来て商売をしているというわけだ。さっそく、帰りのバスの切符を買ってきてくれないかと頼んだ。若いお兄さんは、快く、「いいよ」。「前払い」でお兄さんにバス代を少し多めにわたして、ホッ。これで罰金を取られずにすむ。イタリアの公共交通機関は非常に安いのだが、切符には本当に気を使うのだ。気苦労はあったが、バスの旅は車窓からの眺めが素晴らしかったのだ。フォッジアからしばらくは緑の平原を走る。やがて海から突然山になったような、独特の地形の半島が見えてくる。マッティナータを過ぎると、道は急な上りになり、狭く、2車線ギリギリ。中央線のない(消えたままホッタラカシというべきか)ところも多い。バスの右手には、松林越しに海が見え、左手には山の緑が迫ってくる。うねうねした道を走ってくるのは、きれいなドイツ車かぼろぼろのイタ車。慎重に走っていくドイツ車を、命知らずの(?)イタ車がびゅーんと追い抜いていく。ノロノロ安全運転してるドイツ車は、もちろんドイツから来たドイツ人の運転するクルマ。自然豊かなガルガーノ半島は、ドイツ人にも人気のリゾート。ホテルBaia delle Zagareからは、絶景と呼ぶにふさわしい、エメラルド色のアドリア海が広がっている。人気があるのも頷ける、日本人に知られていないのが不思議なくらいだ。海が特に美しいのは、天気のいい日の午後の2時から4時の間。松林の向こうで、まさしく宝石のような輝きを放つ。ホテルのプライベートビーチは、崖をはさんで左右に2つ。こちらは南側。崖をくりぬいたエレベータで下ることができる。こちらは北側のビーチを俯瞰したところ。<続く>
2009.11.18
ひところ日本を騒がせた、ローマの老舗レストランで起こったランチ10万円という信じられないボッタリ事件。このときに、陰で活躍したのが、被害者のお2人が宿泊していたB&Bを経営している日本人女性(モシモシさん)だった。それを知って以来、ちょくちょく彼女のブログにお邪魔している。話題も楽しいし、旅のアドバイスも実際的で的確。たとえばリンク先のエントリーにのっているタクシーの話。イタリア語ができるなら、たとえば公共交通機関で周るのには不便な地方を訪ねるのに、地元のタクシードライバーをメーターではなく貸切いくらで値段交渉して雇えば、地元の自慢話など聞けて楽しいのだが、それでさえ、ほとんど必ず後から「ガソリン代が足りない(←ガソリン代込みがどうかは、必ず事前に確認しないといけない)」とか「他の客は必ずチップをくれる」とか、チップをわたせばわたしたで、「他の客に比べて少ない」などと言い出す。だいたいこういうドライバーに限って、最初はとても調子がよく、「お金の話なんていいよ! 日本人大好きだし」などとおべんちゃらを言う。ついついそれに乗せられて「おまかせ」にすると、必ず痛い目に遭う。イタリアのタクシーは本当に頭が痛い。一番の解決法は、「乗らないこと」しかないというくらいだ。たとえば、ローマの空港から市内へ。Mizumizuは何度もイタリアに行っているが、この区間のタクシーは、「絶対に」利用しない。つまり、夜遅く着く飛行機には「絶対に」乗らない。フィウミチーノ空港からローマのテルミニ駅までは、直通電車が走っているのだが、これ、案外最終電車が早いのだ。夜遅くなるとティブルティーナ駅までしか行かなくなってしまう。一度どうしても、テルミニ駅へ行く電車に間に合いそうにない便になってしまい、そのときはティブルティーナ駅の前のホテルを予約した(泊まってみたら、約1名ロクでもない従業員がいて、おかげですっかり不愉快な宿となったのだが)。そのときも空港で、「テルミニ駅行きの電車って、もうないんですか~?」と聞いてきた日本人の若い女の子がいた。どうしてなのかは想像が着く。夜遅くローマに着く便は料金が安いのだ。だが、その無防備ぶりには本当に驚く。女1人で夜遅く着く便でローマに来るとは・・・ しかも、ネットで調べれば日本でもわかるローマ市内への公共交通機関の最終時間さえ知らずに。夜間バスがあることを教えてあげて、こちらはティブルティーナ駅行きの電車に乗ったのだが、夜間バスは間隔があいている。じゃあタクシー・・・となって、変な目に遭わなければいいがと心配したものだ。ぼったくりだけならともかく(それも思いっきり不愉快だが)、命にかかわるようなことをされないとも限らない。イタリアは日本ほど安全ではないのだ。このように、Mizumizuは飛行機の到着時間と市内へ行く列車の時間を必ず調べるのだが、「タクシーで行けばいいでしょ」と普通に考えてしまう日本人は多い。その際にどうしたらいいか・・・ 上にリンクした「モシモシさん」のエントリーに書いてあるとおりだ。ぼったくるつもりのドライバーは、やれ道が工事中だとか、入れないだとか言って、目的地のホテルの前につけずに客を降ろそうとすることが多い。ホテルのドアマンに客が助けを求めたりしたら面倒だからだ。そうやって「ぼったくり料金」を請求するというワケ。イタリアの観光相が、ぼったくり対策の組織を立ち上げ、「ぼったくり」をしないと誓約した業者に対する認証制度を導入することを決めたという。認定を受けるとステッカーが発行され、店やタクシーに張って安全性をアピールすることができるという話だが・・・信用できません!誓約なら誰でもできるんじゃないの? ステッカーなんて偽造も簡単よね。ホンモノかどうかどうやって見分けるの?とにかく自衛しないとダメ。しかも、最近のイタリアのぼったくりは額がトンデモになっている。昔からこういう話はあるのだが、以前のぼったくりなんて、暴力バー(←普通の観光客は行かないよね)でも10万円とか、せいぜいその程度の話だった。このごろはランチで10万円、バーだと100万円・・・やりすぎでしょ!原則として、お金は払ったら返ってこないし、カードでの清算も同じこと。サインする前に、必ず金額を確かめて、おかしかったらサインをしてはいけない。こういう被害に心を痛めてくれる現地在住の同胞というのは、実は案外に少ない。むしろ、「だまされるほうが悪い」みたいな口調で冷たくあしらう日本人のほうが多いのだ。親切ごかしで日本人をダマす日本人もゴロゴロしている。モシモシさんのB&Bが良心的でまじめな経営をしているのは、エントリーの文面からも、宿泊客の寄せるコメントからも察せられる。テルミニ駅からも近いし(徒歩5分)、朝食はセルフサービス(内容はジュース・シリアル・ヨーグルト・パン・ハム・チーズ)だが、24時間いつでも食べられるそう。これは早い時間に発つときなど便利。イタリアのホテルは案外朝食開始時間が遅い。インターネット使用可能なパソコン(もちろん日本語可能)が各部屋設置。宿泊料金は季節変動があるそうだが、シャワー付ダブルの料金は1泊100ユーロ(1人50ユーロ)、シェアバスルームの部屋(部屋にシャワーが付いていないということ)は70ユーロだそう。エアコンはないので、暑さに弱い方は注意。こういうアットホームなB&Bを拠点にして、ローマ近郊の街を日帰りで周るのは、それほど旅の上級者でなくてもできるし、楽しいだろうと思う。ネット予約のできるホームページは、こちら。隣りに同名のホテルがあるというので、間違えないように注意。こちらはホテルはではなく、B&B。ただし!いくら心強い同胞だからといって、何でもかんでも頼ってはいけない。頼りになりそうな人を見つけると、自発的に動こうともせず、「言葉ができないから」「自信がないから」「どう判断したらいいのかわからないから」などと言って、いきなり他力本願になるのは日本人の悪いクセ。何か問題が起こったら、後からごちゃごちゃ言うのではなく、その場で声をあげ、自分で解決するのが「大人の基本」だということをお忘れなく。
2009.11.10
ティボリには、もう1つはずせない見どころがある。古代ローマ帝国絶頂期の皇帝ハドリアヌスが作った別荘「ヴィラ・アドリアーナ」。旅好きだった皇帝は、旅先で見た珍しい風景を別荘内に再現しようとした。古今東西、貴賎を問わず、旅好きには孤独と思索を好む性質がある。ハドリアヌスもその例に漏れず、広大な別荘で「たった一人になれる空間」をあえて作ったという。ヴィラ・デステは多分にこの豪奢の影響を受けている。とはいえ、今はだだっ広さがヤケに印象に残る廃墟。ここは浴場だったとか。・・・よどんだ水をたたえた池にしか見えない・・・(苦笑)あまり人がいなかったせいか、無駄に広すぎる敷地のせいか、見学していて妙にうらぶれた気分になった。祇園精舎の鐘の声が聞こえてくるようだ。ローマに戻って、おのぼりさんで常にごった返しているトレビの泉に行ったら、はなやいだ気分になった。先日NHK BSでフェデリコ・フェリーニの「甘い生活」が放映されたが、アニタ・エクバーグがドレスのまま入っていき、マルチェロ・マストロヤンニが彼女を追って入っていったのが、ここ。ワケわらかない映画の典型みたいな「甘い生活」をまた見て思ったのは、昔の映画人は今よりずっと自由だったんだな、ということ。「大地にも泡がある」というのは、シェークスピアの台詞だが、フェリーニのこの名作では、浮かんでは消え、消えては現れる泡のごとく、さまざまな登場人物たちが現れてはふいに消え、消えたと思ったらまた現れる。ほとんど何の脈略もない。ここまで自分勝手な映画を撮れる監督って・・・今いるんだろうか? テリー・ギリアムの「Dr. パルナサスの鏡」には、内心大いに期待しているのだが、どうだろう?
2009.11.08
ローマからの距離でいったら30キロとたいしたことはないのだが、個人では非常に行きにくいティボリという町にあるヴィラ・デステ。だが、夏、広い庭園のむせかえるような草いきれの中を歩くと、散在する噴水そのものが音楽のようで、えもいわれぬ感動が味わえる。多少苦労しても、行くことを強くお奨めしたい観光スポットだ。Mizumizuは地下鉄とバスを乗り継いで行った。バスの切符を買うのに、「コトラルバス」と言うようにアドバイスしているガイドブックもあるが、「ティボリ、ヴィッラ・デステ」と叫んだほうが早い。イタリアでモノを聞くときは、とにかく腹式呼吸でハッキリ、デカい声で聞くことだ。真剣に聞けば、向こうもちゃんと取り合ってくれる。遠慮して小さな声で話しかけると、何をいかがわしい話をコソコソ持ちかけてるんだこのアジア人・・・というような目で見られないとも限らないので注意。とにかく、日本人(特に男性)は、声が小さすぎる。不明瞭にしゃべると、相手には誤解されて伝わるかもしれない。そうなると、頓珍漢なことを親切に教えられるハメになる。さて、ヴィラ・デステへのバス。いつものように、バスに乗るときに、「ヴィラ・デステには行く?」と運転手に確かめた。行く、という答え。「ヴィラ・デステの停留所に来たら教えて」といつものようにお願いする。いいよ、と愛想のいい答え。忘れられないように、運転手の近くの席に座り、ときどきガンを飛ばす(←これもバスの旅の鉄則←てっそくか?)。バスは林の中を進み、山の中腹にある町、チボリへ向かう。途中、硫黄臭い温泉施設を通った。ところが・・・!林を抜けもしないのに、急にバスが止まり、運ちゃんが降りようとするではないか。ちょっとぉ~! なんで降りるのよぉ。ヴィラ・デステに着いたら教えてくれるんじゃなかったの。慌てて運転手を引き止めると、ああ、という感じで、「向こうのバスに乗り換えて、このバスはここまで」と言うではないか!はあぁ?よく見ると、道に大きな穴があいて、水がたまっている。そして、その向こうにバスが待っている。通行止め?運転手があらかじめ通行止めを知っていたのなら、最初にMizumizuにそう言いそうなものだ。あるいは、説明が面倒だから、着いたところで話そうとして忘れていたのか? はたまた、そこまで来て通行止めだと初めて気づいたのか?(ふつう、そんなことはないと思うのだが、イタリアではあるかもしれない・笑)。よくわからないのだが、とにかく、Mizumizuたちがヴィラ・デステに行くということは、すっかり忘れていたのは確からしい。まあ、だいたいバスの運転手はこんなもんです。「一度頼んだのだから、教えてくれるはず」と思ってはダメ。「一度頼んだだけだと、忘れられる可能性大」と最初から思って頼むこと。それがイタリアで生きる道。ゾロゾロと歩いてバスを替える乗客に交じって、新しいバスに乗った。乗るときに、また運転手に着いたら教えてくれるように頼んだ。で、車窓から見ていると、なんとなくティボリの町に入ったのがわかったので、運転手に教えられる前に自分から隣りの乗客に、「ここはヴィラ・デステ?」と聞いてみた。あいにく、話しかけた相手は知らなかったのだが、後ろから、「そうそう、ここよ。私も降りるから、教えてあげる」と言ってくれた女性がいた。う~ん、親切。こういうところがイタリアなのだ。誰かに助けを求めれば、だいたい何とかなる。バス停で一緒に降りて、「こっちこっち」としゃかしゃか歩いて入り口を教えてくれる女性。そのまま、笑顔でまたしゃかしゃかと立ち去っていった。ヴィラ・デステの、池と噴水と、そして緑の饗宴の見事さは、喩えようもない。吹き上がる水、糸のように流れ落ちる水・・・ここの噴水にはオルガンの音色を感じた。上と下への水の噴射、調和の取れたリズム。ところどころに奇妙な形の彫刻が置かれている。ちょっとした装飾も素晴らしい。剥げかけたモザイクにもニュアンスを感じる。緑の塀の道のどん詰まりで待っているのは、多数の乳房を胸につけた女神の像。豊穣の象徴でもあるのだろうが、同時に異形の存在のもつグロテスクな美しさがある。ヴィラ・デステは、外とはまったく違った世界が、自閉的に完結している庭。流麗という言葉がぴったりな噴水とややグロテスクなバロック風の彫刻と、古びた石の邸宅の佇まい、そして庭園のほどよい広さに、心は呪縛され、同時に解放される。庭園入り口の扉をくぐってティボリの町に出たとき、たた今まで眼前にあった噴水と緑の壮大な世界が、あまりにきっぱりとなくなってしまったことが信じられなかった。
2009.11.06
イタリア中部ウンブリア州の小さな街オルヴィエート。ローマから鉄道で1時間という、ほどよい距離にあり、もちろん日帰り可能。イタリアの丘の上にある街の多くは古代ローマ以前、エトルリア時代にまで歴史を遡ることができるが、オルヴィエートもその例に漏れない。どこかヴォルテッラに似ていると思ったのも、街のルーツが同じせいかもしれない。だが、オルヴィエートは、ヴォルテッラのような「滅び」「崩壊」と言ったイメージはない街だ。エトルリア人の骨壷(笑)もない。街を支配しているのは、中世イタリアの雰囲気。中でも、華やかな黄金のファサードをもつゴシック建築のドゥオーモは、「ヨーロッパ中世」に今でもつきまとっている暗いイメージを一蹴するのに十分な傑作。この珠玉のファサードを見るためだけにでも、訪れる価値がある。ドゥーモのほぼ正面にある、わりあい細い路地から見た黄金のファサードの輝きがあまりに印象的だったので、この構図の絵葉書がないか探したら、ちゃんとあった。この絵葉書の写真は、地上からではなく、実はかなり高い位置から撮っている。ファサードの全貌が見えないところもいい。実際、狭い暗い路地から出て、ファサード前のせいせいとした広間に出ると、初めてこの壮麗なファサードが視界全体を支配することになる。その効果は絶大、圧倒される。また、丘の街オルヴィエートからは、ウンブリアの豊かな田園風景が一望できる。初夏にはウンブリアの明るい太陽に照らされて、緑のパッチワークが眼下に輝く。Mizumizuにとってオルヴィエートは、何と言っても白ワインの街。ドゥーモの裏手あたりにある、広場に面した外の席にパラソルを広げていたレストランに行き当たりばったりで座り、白ワインを注文したら、そのあまりに爽やかさに感激してしまった。サン・ジミニャーノにも有名な白ワインがあり、街で1、2を争う高級レストランで頼んだのだが、そちらのほうがあまり感動しなかった。ところが、オルヴィエートでたまたま飲んだ、ごくごく普通の白ワインがあまりに美味しい。日本に帰って来てからも、あの白ワインの味が忘れられず、瓶詰めを買ってこなかったことを非常に後悔した。それでオルヴィエートに行くという友人に、なんでもいいからオルヴィエートの白ワインを買ってきてくれるようにムリヤリ頼み込んだ。ところが・・・!運んできてもらった瓶詰めのオルヴィエート・クラッシコは、別に特筆すべき点は何もない、それこそまったく普通の白ワインだった。わざわざ重いワインを1本買ってきてくれた友人には申し訳なかったが、こちらとしては狐につままれたような気分だった。今でも、ときどき自問することがある。オルヴィエートで感激したあの白ワインの味は、イタリアの青い空と乾いた空気が演出した魔法だったのだろうか?
2009.11.02
フィレンツェを基点にトスカーナを周るのもいいが、ローマに腰を落ち着けて、周辺の街を訪ねるのも楽しい。たとえば、案外気楽に行けるのが、オスティア・アンティーカ。公共交通機関でローマから30分ほど。その歴史はローマがまだ王政だったころ、紀元前7世紀に遡る。ここはローマ遺跡の短縮版という感じ。小規模ながらローマ劇場もある。その向こうには列柱。松との調和が、ことに目を惹く。床モザイクもあった。床モザイクはポンペイ遺跡にもあるし、シチリアのピアッツァ・アルメリーナには、もっと素晴らしいのが残っているのだが、なんといってもここはローマから近いし、規模が小さいためか、完全な「露天ほったらかしモザイク」で、なんならその上を歩けるというおおらかさがいい。巨大な松の木に青い空がまぶしい。風になびく草を見ていると、夏草や 兵どもが夢のあとという松雄芭蕉の句が浮かぶ。オスティア・アンティーカでは、むしろ松のほうが主役に見える、ローマ遺跡としてはかなりささやかな部類に入るが、その分、威圧感のないヒューマンサイズが魅力。確かにここは、ローマびとの夢のあと。
2009.10.30
中世期にはフィレンツェと勢力を競い合ったシエナ。現在銀行のことを英語でbank、イタリア語でbancaと言うが、これはそもそも「机」を表すイタリア語のbancoから来ている。いわゆる銀行業がヨーロッパで最初に生まれたのはイタリアで、シエナでは世界最古の銀行が現在も営業している。中世イタリア(という国は当時なかったが)の金融業者が両替机1つで始めた銀行業。資金繰りに行き詰ると、業者は机を壊して(rompere)、破産を宣言した。英語のbankruptcy(倒産)の語源はこれだとする説もある。またシエナは、絵を描く人間なら誰しも知っている「ローシェンナ(いわゆる黄土色)」「バーントシェンナ(黒みがかった茶色)」にもその名を留めている。顔料の土がシエナ地方から産出したためだ。シエナからは、シモーネ・マルティーニを始めとするシエナ派という芸術の一大潮流も生まれている。シエナは間違いなく、14世紀まではフィレンツェと、肩を並べる芸術の都だったのだ。15世紀に入るとシエナは勢いを失い、フィレンツェと競う力はなくなっていく。ルネサンス期の都市としての衰退は逆にタイプカプセルの役割を果たし、シエナにはロマネスク建築の名残を留めたゴシック建築が威風堂々と残され、フィレンツェではほとんど消えてしまったイタリア中世の自治都市の佇まいが保存されることになった。シエナのドゥーモ。華麗な装飾に彩られたファサードと、横じま模様の鐘楼が目を惹く。この横じまは塗り分けたのではなく、白と緑の大理石を交互に積み上げたもの。ルネサンス建築の確かに一線を画す、まっすくに天を志向する直線的な美学がこの大聖堂にはある。ルネサンス建築の特徴が、横広がりの空間とするならば、ゴシック建築の特徴はやはり縦広がりの空間。その特徴を示すドゥーモ内部。アルプス以北のゴシック建築と違うのは、大理石がふんだんに使われ、内部の構造物そのものが非常に美的かつ豪華であること。この礼拝堂は、Mizumizuが行ったときは、土地の信者も観光客も分け隔てなく受け入れていたが、現在では拝観料を取るのだとか。シエナだけでなく、フィレンツェでも、その他の観光都市でも、2000年ぐらいまでは無料で公開していた教会の礼拝堂が拝観料を徴収するようになった。「観光客からは徹底して取る」――これは、イタリアだけでなく、ヨーロッパの歴史的都市全体が戦略としてやっていること。かつてのヨーロッパは太っ腹だった。美術館も安かったし、歴史的建築物もほとんどタダで見せていた。ゲイ大時代にヨーロッパをふらふらして、もっとも感動したのは、この文化国家の鷹揚さだったのだが、それも徐々に変わり、明確に方向転換したのは、やはりユーロによる通貨統合の時期ではないかと思う。今ヨーロッパの歴史ある街を訪れる外国人は「旅人」ではない。あくまで「観光客」なのだ。かつてはるばるやって来た「旅人」を寛容に受け入れていた街は、外から来る「観光客」に財源を頼るようになった。ある程度仕方ないとはいえ、こうした傾向も、歴史大国イタリアから日本人の足を遠ざける理由の1つになっていると思う。Mizumizuもヨーロッパには、もうさほど興味はない。逆に東南アジアに目が向き始めている。そうは言っても、世界の文化財の40%を保有する国イタリアは、やはりどこまでもイタリア。その文化財の奥深さや幅広さは、他のヨーロッパ諸国の追随を許さない。世界で最も美しい広場と言われるカンポ広場。実際に行ったときは、「世界一」のキャッチフレーズに過剰な期待感があったせいか、「これのどこが世界一やねん?」と、若干落胆したのだが、記憶の中の存在となったカンポ広場を思い浮かべるとき、「あれほどの広場は、やはり他にはない」と思うようになった。シエナ広場に向かう道は広くはない。そして、たいていは、建物の1階に通された抜け道のような暗いアーチ構造の通路を通って広場に出ることになる。すると、目の前に広がる、明るい、とてつもなく広い(と感じる)空間。すり鉢状に坂になった扇形の広場には、白い大理石に縁取られた三角形のパーツにレンガが敷き詰められ、それぞれの三角形がマンジャの塔の足元の市庁舎に向かって細っていく。広場と取り巻く空間の色調は、落ち着いた赤褐色に統一されているが、よく見るとその中に微妙な色の違いがあり、それが画一的でない視覚的な変化として、興味深く目に映る。シエナの街の色をなんと表現してよいかわからない。やはり、シェンナカラーと呼ぶのが適当だろうか。フィレンツェほど明るく華やかではない。むしろ枯れた、陰鬱な街だと思う人も多いかもしれない。だが、フィレンツェより一時代前、中世イタリアが確かに持っていた小都市の活力をそのままフリーズしたような街並みは、イタリア・ルネサンスのトップランナーにはない保守的で神秘的な趣きを今に伝えている。フィレンツェから来ると、ルネサンスとゴシック、2つの建築様式の美意識の違いを明確に認識できる。イタリアといえば、「ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマ」などと言われると、ついつい、「シエナだって、たいしたもんだよ」と言ってあげたくなる。もちろんナポリだって、パレルモだって凄いのだが。遠くから見たシエナのドゥオーモ。街外れまで、ときどき道に迷いながら、細い路地をひたすら歩いてきた。また行くことがあるかどうかわからないが(なにせ、ここは交通の便が悪い)、フィレンツェと同様、もしくはそれ以上の特徴的なカラーで、胸に残るイタリアらしい街の1つ。Mizumizuはシエナにローマからバスで行った。高速道路を走るので眺めはさほどよくないが、直通が日に数本出ていて便利。テルミニ駅からではなく、ティブルティーナ駅近くのバス停から乗る。ローマを拠点にして日帰りも可能だ。たとえば行き:ローマ8:30→11:35シエナ帰り:シエナ18:00→21.05ローマシエナ20:00→23.05ローマバスの時刻表は以下:http://www.sena.it/ita/activenews.asp?idcat=&idart=1196&azione=orari&layout=こちらはシエナで買った手刺繍の敷物
2009.10.02
斜塔のあるピサとわりあい距離が近いにもかかわらず、あまり日本人観光客の行くことのないルッカ。小さいけれど、落ち着いた中世の町だ。フィレンツェからも日帰り可能で、鉄道も通っているので個人でも行きやすい(バスでしか行けない町は、個人旅行者にはとても不便)。14世紀に建てられた「グイニージの塔」にのぼると、町全体が見渡せる。赤い屋根の波を真っ二つに割るように延びた小道。フィルターをかけて撮った写真。中央に見える楕円形の空間は、中世の趣きを濃く残した美しい広場。なのだが・・・広がった白いパラソルに誘われてカフェに腰を下ろしたら、値段の高さに驚いた。こんな田舎町で、さほど観光客もいないのに、銀座並み。接客態度はよかったが、これじゃ、地元の人は座らないだろうなぁ。どうりで静かだと思った。それでも「フラーゴラ・コン・パンナ」(生クリームと苺)は美味しかった。イタリアの苺は日本の高級な苺に比べるとかなり酸っぱく、硬い。一方生クリームはずっと軽く、一般的には上質。ブツ切りの苺に、ふわりと甘い生クリームを山盛りにしただけのシンプルなデザート。苺をバンバン入れ、生クリームを惜しまずにたっぷりのせる。その思いっきりのよさが好きだ。イタリアではありふれているが、日本ではあまり見ない。生クリームが高価なせいだろうか。
2009.10.01
ルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画『熊座の淡き星影』の舞台になった街、ヴォルテッラ。日本人観光客の間では、「塔の街」サン・ジミニャーノのほうが有名だが、個人的にはヴォルテッラのほうが好きだ。ヴルテッラの歴史は長い。古代ローマ以前にイタリア半島中部を支配していたエトルリア人によって街は築かれた。どこから来てどこへ消えたのかわからない、先住民族エトルリア人。イタリアに残る彼らの街は、決まって高台にある。エトルリア時代に遡ることのできる城壁。ヴォルテッラにあるエトルリア博物館には、この謎の民族の文化遺産が多く収蔵されている。驚かされるのは、彫刻を施した箱型の骨壷(エトルリア人は火葬)の多さ。『熊座の淡き星影』には、この骨壷が異様なほどゴロゴロしてる博物館の映像が出てくる。棺桶以外に目につくのは、華やかで大胆なデザインの金の装身具。エトルリア時代のこの美意識が古代ローマに引き継がれ、ヨーロピアン・ジュエリーの基礎になっていったのだろうと思う。暗い博物館を出ると、そこには現代トスカーナの明るい青空が広がっている。ヴォルテッラから数キロ先にあるバルツェ(崖を意味するbalzaの複数形)のサン・ジュスト修道院。ここの丘は地盤が悪く、地滑りを繰り返して、今では人が立ち入るのは危険だとして禁止されるほど侵食されてしまった。放棄された修道院は、やがては崖とともに崩れ落ちる運命。エトルリア人が歴史の闇に消えたあと、この地を支配したのがローマ人。その遺跡も残っている。もっともこの手のローマ劇場はイタリア各地にあるので、「またか」という感じ。遺跡自体はさほどのものでもない。それでも夜ライトアップされたローマ劇場は、幻想的な雰囲気を醸し出す。Mizumizuがヴォルテッラが好きなワケ・・・ それはここがアラバスターの街だから。この地で産出されるアラバスターを使った家具や置物の店が街のいたるところにある。ジャスミンの壁の奥は、アラバスター製ランプシェードの店。日本では北海道の洞爺湖にある「ザ・ウィンザー・ホテル洞爺」のロビーにアラバスター製の照明器具がどど~んと置かれていて見事だった。アラバスターの肌を通した灯りには、ガラスでは表現できないニュアンスが生まれる。欠点はもろすぎること。ガラス以上に傷つきやすく、割れやすい。ヴォルテッラには職人直営の小さいけれど個性的な店もある。いわゆる地方の伝統工芸が生き残っている街で、ここまで来なければ買えないアイテムが目白押し。しかし、はかない美しさの象徴でもあるアラバスター。割らずに日本まで持って帰るのは至難の業。ヴォルテッラで買ったアラバスターの蝋燭立て。ローソクのほうはオランダのデルフトで買ったもの。この蝋燭立て、2つ買ったのだが、1つはらせん状の首があっさり割れてしまった。ほかにも写真立てを買ったのだが、地震で倒れたりして、あちらが欠け、こちらにヒビが入り、とうとうバラバラに崩壊してしまった。それでもやはり、アラバスターには抗しがたい魅力がある。またいつか行く機会があったら、花瓶や、ランプシェードを仕入れたいと密かに目論んでいる。Mizumizuがヴォルテッラを好きな理由のその2・・・なんの変哲もない建物に、はっとするような美が潜んでいるから。ざらざらした石の壁の質感。初夏のトスカーナの明るい陽光が、乾いた陰影を浮き出せる。ニッチ空間に立つさりげない彫刻の芸術性の高さ。そして優れた色彩感覚。赤みを秘めたこの色調の壁には、赤い花が一番似つかわしい。普通の市民でも、それをよくわかっている。この色彩感覚、アルプスを越えて北へ行くと、だんだんととんでもないことになる。イタリア人がドイツ人をバカにする3大ジョーク――「こんな寒いのに泳ぐんなんて、ドイツ人だけだろ」「こんな天気に山行くなんて、ドイツ人だけだろ」「あの上着(シャツの場合もあり)にあんな色のネクタイ合わせるなんて、ドイツ人だけだろ」――の3番目は、実に正しい(他の2つも正しいケド)。ドイツ人の色合わせのチグハグぶりには、洋服でも庭の花でも、時に呆れる。イタリアの古い街には、色彩感覚疑うような取り合わせは、まずない。ヴォルテッラの街をぶらぶらしていると出会う美・・・建物と建物を支えるバットレス。路地を歩いていたら頭の上にあった。このバットレスの並びによって立体的な視覚変化が生じ、両脇の石造りの建物の壁――色のトーンは共通しているのだが、質感が少しずつ違う――ともあいまって、狭い路地がなんとも美的な空間になっている。さっそくカメラを向けたのだが、光の状態が悪くて、ちょうど路地の半分がスッパリ陰になる。自分で撮った写真が失敗だというのは、シャッターを押した瞬間にもうわかった。しかし、あとで店屋でほぼ同じ構図で撮った絵葉書を見つけた。この写真、やはり光と陰のバランスに相当苦労している。時間を選ばないとこういうふうには、撮れない。もう少し左右の陰が後退してもいいように思うのだが、路地の位置――あまり日の差さない場所にあった――からして、このくらいが限界なのだろう。自分で見つけたと思っていた「さりげない美」を、他人がとっくに見つけていたことを知るとガッカリする反面、「やはりいいものは、誰が見てもいいのネ」と納得する部分もある。閑話休題サン・ジミニャーノとヴォルテッラは距離的には非常に近いのだが、直行のバスがなかった。Colle di Val d'Elsa――直訳すると、「エルザ渓谷の丘」――という街で乗り換えなければいけないと聞いた。バス停で待っていると、隣りにアメリカ人の女の子が。「どこへ行くの?」と聞くと、「フィレンツェ」「直行はあるの?」「ある」会話しているところへバスが来た。見ると、行き先はColle・・・ とある。ああ、私のバスはこれ、と彼女と別れてバスに乗り込む。てっきり終点がColle di Val d'Elsaだと思っていた。ところが、案外遠いじゃないの。バスに揺られていると、アレッ・・・!前方の窓の向こうに、フィレンツェのドゥオーモそっくりのバラ色の屋根が見える。「コッレ・ディ・ヴァル?」と近くに座っているイタリア人に聞くと、物凄くビックリしたように、「とっくに過ぎたよ、もうじきフィレンツェ」と言われた。バスに乗る前に見た、Colle di Val d'Elsaというのは、経由地のことだったらしい。しかし、どこにもFirenzeとは書いてなかったハズ・・・だから、フィレンツェに行くといっていたアメリカ人の女の子は乗らなかったのに。もしかして、フィレンツェ行きは当たり前だから書いてなかったのか? いやいや、ただ見逃したのか・・・?真相は不明だが、とにかく、完全に乗り過ごしてフィレンツェまで来てしまい、また戻るハメに・・・だが、フィレンツェからエルザ渓谷を通るバスは、来た道とはまたルートが違い、ずっとノンビリした田舎道で景色がよく、怪我の功名になったのだった。
2009.09.22
トスカーナの地方都市をまわるバスは、名高い丘陵地帯を行く。トスカーナの田園風景。これは絵葉書だが、本当にこんな景色がバスの窓の向こうに広がっている。Mizumizuが行ったときは、ひまわりのシーズンではなかったが、サン・ジミニャーノにはひまわりをモチーフにしたお土産がたくさん売られていた。デザインに惹かれて買った、サンジミニャーノのひまわりTシャツサン・ジミニャーノは、塔の街。自治都市として栄えた中世の時代、金持ちが競って高い塔を建てた。塔の高さが富と権力の象徴だった。最盛期には、この狭い街に70もの塔が立ち並んでいたという。まさに、中世のニューヨーク。塔も見ごたえがあるが、中世建築の石の壁のもつ質感も魅力がある。塔のほとんどは今はなく、残っているのは15本程度。街は完全に観光地化し、あまり生活感がない。過去の遺産が秀逸すぎると、街は一種のテーマパークになってしまい、活力や魅力を失う。似たようなおみやげ物屋ばかりの通りを歩くのは、発見もなく、やや退屈。塔にのぼってサン・ジミニャーノを俯瞰。街自体が丘の上にあるので、塔に登ると、トスカーナの田園風景を306度堪能できる。ここからの眺めは筆舌に尽くしがたい美しさ。サン・ジミニャーノを遠望。中世の摩天楼都市は、もしかしたら、数百年後のニューヨークの姿そのものかもしれない。イタリアに来ると、「今」がすでに「遠い昔」にあったことがわかる。
2009.09.18
ミラノ・ヴィネチア・フィレンツェ・ローマ、1週間の旅――この手のイタリア旅行を卒業したら、どこか大きめの街を拠点に、地方の小さな町をめぐるといい。たとえば、トスカーナなら・・・フィレンツェを拠点に、サン・ジミニャーノ、ヴォルテッラ、シエナなど。シエナまで来れば、バス1本でローマへ抜けることもできる。トスカーナをめぐる旅は、やはりフィレンツェから。主だった観光名所を見たあとは、ボボリ公園をぶらぶらと散歩。白い石像、テラコッタの甕、池、植物・・・ 単に花や緑が美しいという公園はいくらでもあるが、芸術性の高い彫刻作品と植栽が調和した庭園という観点で見ると、イタリアの右に出る国はない。観光客だらけのミケランジェロの丘は避けて、高台の町フィエーゾレへ。ここへは、フィレンツェ市内からバスで行ったのだが、イタリアでは普通バスに乗る前に切符を買う。運転手は切符を売らない。なので、バス停に立ってる人に、「切符を買いたいんだけど、タバッキ(タバコ屋。バスターミナルのない街中でバスに乗るときは、タバッキで切符を買うことが多い)は、どこ?」と聞いたら、「あっちだ」あっちのタバッキまでトボトボと歩き、切符を買おうとしたら、売っていないという話。どこで買えるのかと聞いたら、「そっちだ」そっちの店に行ったら、「ここにはない」。ハア!?じゃあ、どこで買えるのよぉ。「バス停で聞いて。ここにはないから」再び振り出しに戻って、別の人に聞いたら、「バスで買えるよ」うそぉ~。「大丈夫。バスで買える」自信満々。で、小さな市バスが来て乗ってみたら・・・ な~んだ、本当にちゃんとバスの中に券売機があった。バスの中に券売機があるのを見て感動できるようになる国、それがイタリア。しかし、なんで、みんな「あっちだ」「こっちだ」といい加減なことを教えるのかね? 最初にタバッキの場所を聞いた人だって、バスに乗るんだから券売機があるのくらい知っていそうなものだ。こちらが「タバッキで」と言ったから、タバッキの場所を教えてくれただけかもしれないが、「切符を買いたいならバスでも買える」と、一言気を利かせて言ってくれてもいいんじゃないの・・ などと相手の気配りに期待するのは、Mizumizuもしょせん、あまちゃんの日本人、まだまだ修行が足りませぬ(←修行か?)。おかげでウロウロ500メートルは歩いた。この「親切に、いい加減なことを教える」のは、イタリア全土共通の現象。ニューヨークで、道やら行き先やら教えてくれる人々の話の正確さに驚いてしまったもんね。言われたとおり行ったら、ちゃんと目的地に着く!他国ではほぼ当たり前のことに、心から感動できるようになる国、それがイタリア。バスで行ったフィエーゾレ。遠くにフィレンツェの花のドゥオーモがかすんで見えた。
2009.09.16
トリノの街のシンボル的建築といえば、モーレ・アントネリアーナだが、この建物、トリノの街中に入ってしまうと、案外よく見えない。Mizumizuにとってトリノは、マダーマ宮殿に代表される後期バロック建築の街。レッチェの街に見られるような、壮大かつ絢爛な盛期バロック様式の建築と比べると控えめで、地味と言ってもいいかもしれないが、上品で洗練された佇まい。トリノの名物といえば、グリッシーニそれにヘーゼルナッツをたっぷり使ったチョコレート、ジャンドゥイオッティ。ナポレオン統治下のヨーロッパで、貿易の制限によりカカオが不足したため、トリノのチョコレート職人がピエモンテ特産のヘーゼルナッツの粉末を代用品として混ぜることを思いついた。そのときに作ったチョコレートの形にちなんで付けられたのが、ジャンドゥイオッティという名称。ジャンドゥイオッティ(単数形はジャンドゥイオット)とは、ピエモンテに伝わる仮面劇の登場人物ジャンドゥーヤが被っている三角帽子のこと。トリノで生まれたヘーゼルナッツを混ぜ込んだチョコレートは瞬く間にヨーロッパ中に広がり、「19世紀におけるチョコレートの革命」とまで言われた。現在では、25%以上のピエモンテ産ヘーゼルナッツ(あるいはイタリア産アーモンド)を材料に使用した製品だけがジャンドゥイオッティ(ジャンドゥイオット)の名を付けることが許されている。トリノには、長い伝統を持つチョコレート工房が多々あり、100年を超す老舗も珍しくないのだが、それぞれが独自のジャンドゥイオッティを販売している。たとえば、こちらなど。トリノで最初のチョコレート企業と言われるカファレル社は、「ジャンドゥーヤ」の名称を使っている。またトリノは、イタリアでももっとも古いカフェ文化をもつ街の1つ。サヴォイア家統治時代の優雅で豪華な雰囲気を伝えるカフェを、ほぼすべて短時間でめぐった驚異の(笑)ブログがこちら。ほかにピエモンテといえばアルバの白トリュフとバローロ・ワイン。このブロガーさんは、真のバローロ・ワインを求めて(??)バローロ村にまで行っている(こちらのエントリー)。このディープな旅は・・・ 完全にプロですね。2010年放映予定の荒川静香主演のピエモンテ宣伝番組のほうはどうだろう。バローロ・ワインの里にまで行ったら、それはそれでスゴイ。トリノ市内で、しーちゃんも訪れていたカフェを紹介しているブログがこちら。しーちゃんはすでに、ここでジャンドゥイオッティをお買い上げになったもよう。ジャンドゥイオッティに関するMizumizu自身の感想は、2007年に書いたこちらのエントリーを読んでいただくことにして、あくまで一般論なのだが、このヘーゼルナッツのチョコレート、日本人にはあまりウケない味ではないかと思う。日本では、ヘーゼルナッツそのものがあまりに売っていない。ピーナッツ、カシューナッツ、アーモンド、マカダミアナッツはこんなに溢れているのに、なぜヘーゼルナッツがここまでないのだろう?Mizumizu連れ合いは、「ナッツ星人」と呼んであげたいほど、ナッツが大好き。ヘーゼルナッツは特に大好き・・・なのだが、日本でのヘーゼルナッツの高さに閉口して、ヘーゼルナッツ入り輸入チョコばかり食べている。たとえば、こんなの・・・もちろん、これもトリノのメーカー、ジラウディの製品で、ピエモンテ産のヘーゼルナッツを使っている。ヘーゼルナッツはフランス語で「ノワゼット」。ノワゼットを使ったケーキは意外と多いのだが、元来甘いものがたくさん食べられない体質のMizumizu連れ合いはケーキダメ。ジャンドゥイオッティもヘーゼルナッツが練りこまれたものなので、ペケ。ナッツ星人には、ヘーゼルナッツのあの「硬い歯ごたえ」が必要不可欠のよう。ヘーゼルナッツの風味が好きで、ねっとりと甘い(甘さを控えたものもあるが、基本はめちゃ甘)濃厚なチョコレートが好きな方は、エスプレッソとともにジャンドゥイオッティをお試しください。何でも手に入る東京でも、ジャンドゥオッティはかなり入手しにくい。あまり売れないのだろうと思う。COVAにはあるが、COVAはトリノではなくてミラノのカフェ。ミラノとトリノはまた、文化がかなり違う街なのだが、東京のCOVAは、ショーケースに並んだプチケーキやジャンドゥイオッティ、絨毯敷きの上品な店内のインテリアなど、むしろトリノ風の雰囲気をMizumizuとしては感じる。そして、トリノはフランス的な街だとも思う。碁盤の目に整備された道路と整然とした街並み。古臭い老舗のお菓子屋も多い。チョコレートや生のプチケーキのほかにも、パートドフリュイも多く売られている。この土地の閉鎖的な空間からあまり出たがらないのは、フランスのリヨンにも似ているかもしれない。人もパリやリヨンに似て、よそ者に冷たい。トリノのチョコレートの歴史に関しては、こちらのサイトが詳しい。「ハシバミの実」というのがヘーゼルナッツのこと。
2009.09.15
ストレーザから直線距離で10キロほど北にある、マッジョーレ湖岸の町パッランツァ。もうあと30キロほど北上すればスイスという場所だ。ここにあるターラント邸(ヴィッラ・ターラント)は、ベッラ島の小さくまとまったフランス式庭園とは対照的な、広々としたイギリス式庭園をもっている。邸宅は非公開で、庭園も4/1から10/31までの開園。だが、やはり花の時期に行かないと魅力は半減。芝と背の低い花で統一されたメインガーデンを、背の高い大きな木々が取り囲む。樹木の緑は濃く、芝の緑は明るい――そのコントラストが明快で、鮮やかに展開する花の色の乱舞に、一種の落ち着きを与えている。咲き誇る花々とともに庭に配されたブロンズ像や石像も見どころのひとつ。甕の置き方にも美的センスを感じさせる。とにかく広い。広いにもかかわらず、非常によく手入れが行き届いている。やればできるじゃん、イタリア人!道のゴミもホッタラカシ、壁の落書きもホッタラカシのイタリアのふつーの街を思うと、その落差に言葉を失う。これだけ美しい庭園なのに、日本ではほとんど知られていないのが残念。こちらの動画でも1:25あたりからターラント邸の紹介が始まる。風にそよぐ花々が、明るい日差しを浴びて輝いている。こんもりとした樹木が、深い陰影を作っている。チューリップだけなら、たとえばオランダのキューケンホーフ公園のほうがすごいし、ラベンダーを中心にした花の絨毯というなら、富良野のファーム富田だって見事だ。だが、明るいトーンのこじんまりとした石造りのヴィッラ、庭のそこここに隠れている少年や少女の天使のような像、自然の起伏と植物の種類の多さ、そしてアルプスに連なる山々を遠くに見る澄んだ空気が、この場所を、2つとないこの世のエデンの園にしている。<明日はトリノの街を紹介します>
2009.09.14
マッジョーレ湖はピエモンテ州(州都トリノ)とロンバルディア州(州都ミラノ)の州境にある湖。湖の北、およそ4分の1はスイス領に入る。急峻なアルプスの山、すがすがしい空気。そして、スイスリゾートにはない、イタリア貴族文化の洗練も同時に味わうことのできる稀有な場所だ。湖岸の街ストレーザは、ミラノから電車で1時間。ヘミングウェイやアガサ・クリスティゆかりのホテル“Grand Hotel des lles Borromees ”もある。湖面に浮かんだ3つの島がボッロメオ諸島。右がベッラ島、左がペスカトーリ島、奥の緑の濃い島がマードレ島。ストレーザからベッラ島は船で5分。ベッラとはイタリア語で「美しい」という意味。島全体がかつてこの地を支配したボッロメオ家のパラッツォ(宮殿)と庭園になっている。宮殿はさほどでもないが、コテコテのバロック式庭園には度肝を抜かれる。庭園の入り口でまず来客を待ち受けるのは、いかにも貴族的だが、どこか奇妙な彫刻群。階段を上っていくと、白い孔雀がお出迎え。放し飼いにされた孔雀は姿は麗しいのだが、鳴き声が「ぎゃ~」と、不気味。こじんまりとしたフランス庭園は、非常によく手入れがされている。湖ぎりぎりまで、庭。湖側の庭園に下りて、上を見上げたところ。グロテスクすれすれで上品さを保っている彫刻と年季の入った植栽の立体的な組み合わせ。非常に美しいのだが、何かしらいびつな不安感が潜んでいる。まさにバロック(歪んだ真珠)の魅力と言うべきか。繊細で軽やかな渦巻き模様の門扉。門があり、湖があり、遠くに山がある。それだけで絵になる。ベッラ島のすぐ隣にあるペスカトーリ島。ペスカトーリとは猟師の意味。島がまるまるボッロメオ家の邸宅になっているベッラ島。そこの主に仕えた召使たちが、こちらの島に住んだのだろう。右端に見えるHotel Verbanoに、Mizumizuは泊まった。Hotel Verbanoからベッラ島を見ると、ボッロメオ宮殿が正面に見える。ライトアップされた夜の宮殿。この景色が見たくて、最上階の部屋を予約時に指定した。Hotel Verbanoの内装はロマンティックで可愛らしく、若い女性向き(おじいさまも泊まりに来ていたが)。ただ、水回りなどはよくないし、「有名ホテルから引き抜かれてきた」と聞いていたシェフのいるレストランでは、生臭い海の幸のリゾットを食べさせられてウンザリした。ペスカトーリ島には見て歩いて楽しい店もなかった。ベッラ島のパラッツォを正面から見ることができたので、1度は泊まって損はなかったとも思うが、素直にストレーザの湖岸のホテルにしてもよかったかもしれない。こちらは、ペスカトーリ島から見たストレーザ。華やかなベッラ島とはうってかわって寂しい、ペスカトーリ島の公園。マードレ島は、ストレーザから30分かかるのでパスして、そのかわりパッランツァのターラント邸に足をのばした。パッランツァはストレーザから船で45分。イギリス式庭園で有名なターラント邸は、花のシーズンは、まさに「この世のエデンの園」だった。<明日に続く>
2009.09.12
例のローマでのぼったくり事件以降、妙に日本人の機嫌を取りたがるイタリアのお偉いさん(こちらの記事参照)。以下、上記の記事から抜粋。ローマ市のマウロ・クトルフォ副市長は7日、朝日新聞の取材に応じ、「安心して旅行を楽しんでもらえるよう観光客を保護することが最も重要だ。そのためには何でもする」と語った。クトルフォ氏は9月に訪日し、ぼったくりの被害に遭った茨城県つくば市の会社社長らに直接会って謝罪するという。 この被害者のご夫妻が、「イタリア人の税金を使って行くわけにいかない」と同国政府からのローマ招待を断ったことが伝わると、イタリアのメディアは、「我々も彼らの節度を見習うべきだ」と持ち上げた。なんだかなぁ・・・さんざん「エコノミックアニマル」だの「黄色いサル」だの、嫌ってたくせに、どうしちゃったんだ、この態度の豹変ぶり。で、今度は、北イタリアのピエモンテ州が、2006年トリノ五輪の金メダリスト荒川静香を使って、日本人観光客誘致に乗り出す模様(苦笑)。こちらの記事によれば、Dal 29 agosto al 5 settembre Ceipiemonte, per conto dell’Assessorato regionale al Turismo, organizzerà un educational finalizzato alla realizzazione di un documentario televisivo (dal titolo "Arakawa nuovamente a Torino. Dolce Piemonte") in collaborazione con la TV giapponese BS ASAHI. Protagonista del filmato sarà Shizuka Arakawa, vincitrice della medaglia d'oro del pattinaggio di figura alle Olimpiadi del 2006, nonché testimonial del Piemonte sul mercato giapponese dal 2007. Di seguito, una breve descrizione dell’attività:- periodo di messa in onda del programma: inizio 2010- durata del programma: 120 minuti- tema del programma: Presentazione del Piemonte e delle sue bellezze attraverso la olimpionica 2006, Shizuka Arakawa;- località in cui si girerà il documentario: Torino, dove l'atleta ha vinto la medaglia d’oro olimpica; i laghi e le colline del Piemonte.とのこと。要約は以下のとおり。「アラカワ、再びのトリノ。甘美なるピエモンテ」と題したTVドキュメンタリーを、地方観光事務局の企画、日本のテレビ局BS ASAHIの協賛で制作する。8月29日から9月5日まで行われる撮影をオーガナイズするのは、ピエモンテ州の国際事業センター(Ceipiemonte)。放映は2010年初頭。2時間番組。番組のテーマは、2006年のトリノ五輪のフィギュアチャンピオンであり、2007年からは日本市場でピエモンテ州の観光親善大使も務めている(そうだったの!?)荒川静香を通して、同州の美しさを伝えること。番組中荒川静香は、金メダルを獲得したトリノを再訪し、ピエモンテ州の湖水地方や丘陵地帯に足をのばす。つまり、完全に観光キャンペーンタイアップ番組。しかし・・・「ピエモンテ州の湖と丘」と限定すると、案外難しいゾ。北イタリアには湖水地方が広がっているが、ミラノの北にあるコモ湖を含めて、だいたいがロンバルディア州に属する。ピエモンテにこだわる限り、湖のロケ地は、マッジョーレ湖しかない。しかもマッジョーレ湖は半分はロンバルディア州だし、北はスイスに入っている。となると、マッジョーレ湖で行けるのは、ストレーザ程度。ストレーザ自体には見どころがあまりないので、ここから船に乗ってマッジョーレ湖のボッロメオ諸島(ベッラ島、ペスカトーリ島、マードレ島)に行くというプランになりそうだ。「諸島」なんていうと大仰なのだが、要は、ストレーザとは目と鼻の先の湖上の3つの小島。もしストレーザより北のマッジョーレ湖に面した町、パッランツァのターラント邸庭園まで足をのばして紹介してくれたら、かなりディープなピエモンテ観光案内番組と言っていい。<明日は、上の「観光局が、いかにも荒川静香を行かせそうな場所」を、詳しくご紹介します>イタリアの観光局、つまり「お上」は、日本人観光客にまたイタリアに戻ってきてもらいたくて必死のよう。しかし、昨今のユーロ高、イタリア国内の物価上昇で、かの国は日本人にとって、実に「お得感のない国」になってしまった。そのうえ、観光客相手の「雇われ」が、有名観光地に行けば行くほど、最悪。Mizumizuがストレーザを訪れたときも、船着場の案内所のねーちゃんが、イタリア語もできず、情報にも疎いイギリス人観光客に幼稚な意地悪をしているのに出くわした。案内所では船の切符は売らない。切符は普通、タバッキ(タバコ屋)で買う。そころがその日は、案内所の向かいにあるタバッキが閉まっていた。ところが、このねーちゃん、どこで切符が買えるのか聞いてきたイギリス人老夫婦に、しゃあしゃあと、「あっち」と閉まってるタバッキのほうを、いかにも面倒くさそうに指差して横を向いてしまったのだ。もちろん、案内所からタバッキがやっていないのは、ちゃんと見えている。ついでに言うと切符は船着場を出て、道を十数メートル歩いた別の店でも売っている。事前に情報をゲットして、道のタバッキで買っておいたMizumizuは切符には困らなかったが、このねーちゃんがワザと閉まってる店を指差してるのは、その邪心モロの顔つきで一目瞭然だったので、すぐにこの何の罪もないイギリス人老夫婦に近寄って、ちゃんと切符の買える場所を教えてあげた。信じられないでしょ?こういうアホみたいな意地悪をして喜ぶ「雇われ」が、イタリアには実に多い。彼らは一様に、無教養と欲求不満を貼り付けたような顔つきをしている。不慣れな観光客を邪険に扱うことが、こういう「雇われ」にとっては、一種のウサ晴らしになってるようなのだ。一方でイタリアの一般人は、非常に親切でオモシロイ人間が多い。だが、イタリア語もできず、滞在期間の短い観光客は、ふつーのイタリア人と話す機会はなく、逆にこうしたトンデモな「雇われ」と接する機会ばかりがたっぷりある。だから、イタリアの印象は悪くなる。これは突き詰めて言えば、イタリアの格差社会や教育の問題が絡んだ非常に根深い問題なので、そう簡単に解決はできないと思う。それに、日本人のほうがイタリアに飽きた・・・ というか、イタリアを「食い尽くして」しまった感もある。というのは、イタリアの魅力は、文化遺産と自然の豊かさのほかに、「食」が大きな役割を果たしていたからだ。十数年前までは、日本では美味しいフランス料理は食べられても、レストランで飛び切りのイタリア料理を味わえる機会はほとんどなかった。本場のイタリア料理を食べたければ、イタリアに行くしかなかった。行ってみると、素材重視のイタリア料理は日本人の舌にも合った。多くの日本人がイタリア料理に夢中になった。だが、そこは勉強熱心な日本人。あっという間に「本格的な」イタリアンレストランが日本にもできてきた。今ではナポリに行かなくても、ナポリとほとんど変わらないピッツァが東京で食べられる。ミラノ風リゾットも、イカスミのパスタも同様。フレッシュチーズやエクストラバージンのオリーブオイルも、東京のデザートには溢れている。イタリアの文化遺産は驚異的だが、残念なことに日本人はそれを理解するほどヨーロッパ文明の歴史や成り立ちに詳しくない。清潔さで北ヨーロッパに劣るイタリアの街は、日本人にはまず「汚く」に見えてしまう。イタリアの美しさを理解するためには、それ相応の素養が必要だが、とりあえず「ヨーロッパ的な建築や絵画」で満足な一般人には、フランスやドイツで十分なのだ。いくら、イタリアの「お上」が、カネ払いのいいカモ日本人に戻ってきてもらいたくても、もう手遅れという気がする。中国人や韓国人に来てもらってください。彼らは日本人ほど大人しくないから、イタリア人とはいい勝負でしょう。
2009.09.11
アマルフィ 女神の報酬 スタンダード・エディション 織田裕二主演の映画『アマルフィ 女神の報酬』。映画館に行く時間は取れそうにないので、この作品を鑑賞するのはDVDになってからになりそうなのだが、プロモーション動画に出てくるコロッセオだとかサンタンジェロ城の撮り方は、まるでローマの観光ビデオのよう。イタリアを訪れる日本人観光客は、この10年で半減する勢いだとか。イタリアを訪れる日本人旅行者が減り続けている。今年はピーク時の半分ほどになる見込みだ。ユーロ高や新型インフルエンザの流行など、要因はいろいろあるが、豊富な観光資源にあぐらをかいてサービスの水準が低い、といった構造的な原因も指摘される。観光は大きな収入源だけに、伊当局もようやく外国人旅行者呼び込みに本腰を入れ始めた。 朝日新聞2009.7.18の記事より美しい風景を盛り込んだこうした「ご当地映画」は、需要の喚起に多少は役立つだろうか。さて、この映画、イタリアでもそれなりに話題になっているようで、イタリア人の友人から、「日本に関することは何でも興味がある。もちろん見に行くワ」とメールをもらった。うッ、そう期待されてしまうと・・・ 面白いんでしょうねえ? 日本を舞台にしたハリウッド映画みたく、「変なイタリア」とか「変なイタリア人」がテンコ盛りで出てくる、なんてことはないんでしょうね?しかし、一部のプロモーション動画で、「発信地はアマルフィです!」という台詞のあとに出てくるこのシーン。「アマルフィに隠された秘密」とテロップが出てるこの街、Mizumizuの目には、アマルフィじゃなくてポジターノに見える。右の教会はポジターノのシンボル、Santa Maria Assunta教会だよねぇ、どう見ても・・・Mizumizuのポジターノ旅行記はこちら。アマルフィとラヴェッロで撮った写真は、こちら。映画の宣伝サイトを見ると、ロケ地はさりげなく「アマルフィ海岸」になっていて、その意味では、確かにポジターノもアマルフィ・コーストに面した街だから、間違ってはいない。しかし、「発信地はアマルフィ」と言って、地図でアマルフィの街を指してるシーンが来て、次に「アマルフィに隠された秘密」というテロップと一緒に出た風景が、アマルフィじゃなくてポジターノってのは、なんか、変・・・イタリア・フリークの皆さん、気になりませんか?
2009.09.10
ロイターを始め、日本の新聞社も何社か報じた、ローマの老舗レストランのぼったくり事件。ロイターの記事は以下。[ローマ 2日 ロイター] イタリアの当局は、日本人観光客カップルの昼食に約700ユーロ(約9万4000円)を請求したローマの老舗レストランを、詐欺行為にあたるとして閉鎖した。このカップルは、ナボーナ広場近くのレストラン「パセット」で、パスタとロブスター、ワイン、ジェラートを注文したところ、579ユーロの食事代と115ユーロのチップを請求され、驚いて警察に届け出ていた。警察に抜き打ち検査を命じたローマのアレマノ市長は「このレストランは、決して再び営業をすべきでないし、営業許可も取り消されるべきだ」と述べた。一方、同レストランのオーナーは、苦情には驚いているし、チップはカップルの意思で置いていったものだと話している。さらに地元紙に対し、カキ12個とロブスター2キロ、ワイン、スズキ1.5キロを注文し、店を出る前にはウエーターと写真を撮ったと語り、食い違う主張をしている。同レストランは、チャーリー・チャップリンやグレース・ケリーも訪れたことがあり、149年の歴史を誇っていた。朝日、毎日でも同様の記事が出たが、どうもわからないのは、なぜこの邦人カップルが、そんな高い料理を注文したのか、警察に届ける前に、なぜ支払いに同意したのか、ということだった。そこで、イタリア語の新聞報道を探して見たら、こちらに記事があった。これを読んだら謎が解けた。Quando la coppia di fidanzati è arrivata nel locale, nessuno ha dato loro un menu dove poter scegliere cosa mangiare. È stato invece mandato un cameriere che parlava in inglese. Ed è stato lui che con modi gentili e affabili li ha convinti: «Fidatevi di me, faccio io». E così il menu del pranzo non è stato scelto dai ragazzi, che quindi non conoscevano il costo di ogni piatto. Però hanno mangiato ed apprezzato.この記事によれば、邦人カップルに誰もメニューを持ってこなかった(オイオイ!)。そのかわり、英語を話すやさしげなウエイターがやって来て、「私を信用してください。私が(メニュー選びを)やりますから」と言ったという。つまり、メニューは客が選んだのではなかったのだ。客のほうは、一皿がいくらするのか、わからないまま食べたということだ。しかし、料理はおいしかったらしい。Meno piacevole è stato invece il conto. Totale: 695 euro. In un primo momento i due turisti hanno pensato a un errore, ma i dubbi sono venuti meno quando sono tornati in possesso della carta di credito: sulla ricevuta risultava che al totale era stata addirittura aggiunta una «piccola» mancia di 115,50 euro, prelevata senza la loro autorizzazione. Di fronte alle proteste, il ristoratore è rimasto irremovibile ribadendo che quelli erano i prezzi normali del locale. Ma la coppia non si è rassegnata e uscita dal ristorante ha raccontato l'accaduto alla polizia.ところが、請求書を見て楽しい気分は吹っ飛んだ。トータルの請求金額695ユーロ(約9万)。カップルは間違いではないかと思ったのだが、クレジットカード払いにしてみてどうやら単純な間違いではないことに気づいた。というのは、695ユーロの中には115.5ユーロがチップ――元来、客が同意しなければ上乗せできないもの――として勝手に上乗せされていたからだ(つまり料理は579.5ユーロ、チップが115.5ユーロ。料理代の20%だって…! アメリカのレストランチップの最大パーセンテージじゃないの。イタリアでは聞いたことない額だ)。もちろんカップルは抗議した。だが、レストラン側は、この金額はここらの相場だと言って取り合わなかったという。それでカップルはレストランを出て、警察へ駆け込んだという次第らしい。なるほど、そういうことでしたか。しかし、ナボーナ広場で10万近いランチが「相場」とは、バカにするにもホドがある。ナボーナ広場は美味しい店が多く、Mizumizuも何度も行っているが、1人1万円払ったことはない。もちろんあまり高級なものや高いワインは頼まないということもあるけど。それでも十分満足できる量と質の料理が楽しめた。やはり、どんな老舗有名レストランでも、メニューを見ないで値段も聞かずに、「おまかせ」にしてはいけない。日本でも寿司屋など、時価の店もあるけれど、慣れない外国では危険すぎる。しかし、この店、ホームページを見ると、相当りっぱで、いわゆるボッタクリレストランには見えないし、たぶんウエイターもものすごく感じが良くて、お人よしの日本人はすっかり信用してしまった、ということだろう(ありがち)。このふざけた店、もちろん「初犯」なワケがない。今回はやりすぎてしまっただけだ。こういうふっかけは必ずエスカレートするもので、最初は数千円、それから1万円ちょっと、うまくいくと大胆になって数万円… となっていく。これまでに、何人被害者がいたのかね?こうした詐欺レストランはちゃんと相手を見ている。おとなしい日本人は格好のカモ。今回は男女の新婚さんらしいし、男性側には見栄もあるから、相当高くふっかけても黙って払うと踏んだんだろう。それがおとなしいハズの日本人が警察に駆け込み、警察も動いちゃったので、営業できなくなった。長い歴史のあるレストランなのに、たかが10万ばかりですべてがパー。バカだね、このイタリア人オーナーは。「まあ、いいや…」などと諦めずに、警察に掛け合った日本人カップルは、えらいじゃないの。これで次の被害者が防げた。不当だと思うことをされたら諦めずに行動を起こす、というのが大事なのだが、日本人はとかくこうした目に遭うと、「自分がだまされた」というのが体面にかかわるとでも思うのか、泣き寝入りすることが多い。特にオヤジ世代はそう。日本ではやたら威張りくさっているくせに、欧米に行くと急にウンウンと犬みたいに従順になっちゃう。このカップルは、年齢はわからないけど、たぶん若い世代じゃないかと思う。一部の日本の新聞には、レストランのオーナーが「サービス料だけは返す」と言っているとあったが、イタリアの記事にのっているレシートを見ると、サービス料ではなく、明らかにTip(Mancia)って書いてあるじゃん。それを勝手に20%にして請求したら、それだけで詐欺よ。で、この詐欺オーナー、ロイターの記事では「チップはカップルの意思で置いていったものだ」と言ってるそうだが、レシートみたらTip額が印刷されてるじゃん。客の手書きの書き込みじゃないし、そもそも20%ものチップを払うなどという発想は日本人にはありません。イタリア紙によれば、カップルの訴えを受けて警察が調べたところ、2人が払わされた値段は、店のメニューと一致しなかったことが確認された(これって、日本語の新聞には書いてなかった気がする。オーナーの言い分は書いてあったけど。なんで?)。また、このレストランは衛生基準を満たしておらず、「不潔な環境、機能していない冷蔵庫」などの問題点があったという。魚介を売りにしてるのに、冷蔵庫が機能してないって… クワバラ、クワバラ。どこが名店なんだろう??しかし、頼もしいのはローマ市長のGianni Alemanno氏。不衛生なうえに、詐欺まがいの行為を働くような店には、二度と営業許可は与えない、とキッパリ。無知で大人しそうな人間と見れば、騙してタカることしか考えてないようなアホもいるが、Alemanno氏のように正義感の強いマトモな人間はもっとたくさんいる。イタリアというのは、そういう国だ。過去のエントリーでも何度も書いたが、「こういうとき、日本人は助けてくれないでしょ」という場面で、Mizumizuは何度も普通のイタリア人に助けてもらっている。ともあれ、こうした被害を防ぐには?もちろんメニューの値段をしっかり確かめることだ。支払うときにおかしいと思ったら、もう一度メニューをもってきてもらって確認してもいい。ただ…セコンド(メインの皿)に頼む魚介の料理の値段の確認は、本当に難しい。メニューに100グラムでいくら、キロでいくら、というような書き方がしてあることが多いのがイタリアなのだ。たとえば、「舌平目のムニエル、100グラムでいくら」と書いてある感じ。当然、一瞬すごく安く見える。個体の大きさがそれぞれ違うからと言われればそれまでなのだが、日本人にはとてもわかりにくい。ロブスターなどは、殻つきの重さで計算されるし、しかも、目の前で量ってくれるワケじゃないから、結局は「おまかせ」になってしまう。一番ぼったくりがしやすい料理なのだ。シチリア旅行のエントリーでも書いたが、イタリアに住んでいてイタリア語にも堪能な日本人でもダマされる。Mizumizuも何度か頼んだことがあるが、妙に高いな、と感じたことが1度ある。といっても、1万とか、そんなものだったが。でも、それ以来、危険なので、この種の魚介料理は頼むのをやめている。めちゃくちゃ美味しいなら別だが、魚料理に関しては、日本が世界最高ですよ。イタリアもかつては安かったが、今ではレストランも日本より高いぐらい。世界最高の魚料理が食べられる日本国の国民が、わざわざ調理もかなり適当なイタリア国で、値段の不透明な魚介料理を食べる必要はありません。しかも、今はユーロ高だし。ただ、魚介を使ったパスタ(今回のレストランのようなぼったくりは除く)やスープ、それに値段のはっきりしてる魚介をつかったアンティパスト(前菜)なら、怖がることはない。要は「重さで値段が提示されているものに注意」ということだ。そういえば、ローマのヴェネト通りで、ガラスで囲まれたテラスがお洒落なカフェについつい入ってしまい、あまりの高さにビックリしたことがある。しかも、その店、イタリアでは税金は内税のくせに、TAXなどと書いて、何パーセントか忘れたが、料金をさらに上乗せし、その下にTIPを客に書き込ませるシステムにしていた。TAXがサービス料でしょ、と解釈してあげて、TAXの部分にマルをして、TIPは「0」と思い切り書き込んで、愛想笑いが不気味なウエイトレスにわたしたら、「Brava!(えらい!)」などと、あたかも、こっちがチップをはずんで書き入れてくれたかのように(おそらくは周囲のアメリカ人とおぼしきカモ客に対するカモフラージュ行為かと)、わざとらしく叫んでいた。Mizumizuはイタリア語を話すし、TAXが内税だということぐらい知ってると気づいたのだろう。「このあたりでのチップの相場は…」などとは言ってこなかった。ま、後ろ暗いことをしてるのだから、当然だけど。追記:このエントリーを書いてから、通訳として被害者をサポートしたローマ在住の日本人の方のブログを偶然見つけた(こちらから)。こんなに親切な日本人がいるとは、感激!
2009.07.05
遺跡エリアのとっぱずれ、ヘラ神殿からコンコルディア神殿を望む。パレルモで堪能したのは12世紀を中心とした中世ヨーロッパ建築。アグリジェントでは、紀元前5世紀の世界に迷い込む。シラクーサに行けば、そこはバロックの時代… 四国よりも一回り大きいだけの島、シチリアの効しがたい魅力は、こうした歴史の重層性にある。アグリジェントの遺跡エリアのそのほかの見所としては…ヘラクレス神殿、遠くから。ヘラクレス神殿、至近距離から。現存するのは、直列に並んだ数本の柱のみ。それに…カストール・ポルックス神殿のごく一部。ヘラクレス神殿、コンコルディア神殿、ヘラ神殿。そして道を隔てた反対側のエリアにカストール・ポルックス神殿。失われたゼウス神殿と合わせると、少なくとも5つの大きな神殿が、わずか3キロあまりの距離に林立していたことになる。さぞや、壮大な眺めだっただろう。昨日書いたように、最大の規模を誇ったゼウス神殿は、修復不可能なほどバラバラに壊れている。今はわずかに、テラモーネと呼ばれる、神殿上部を飾っていた人間の形の「屋根の支え」が見られるばかり。この「巨人」テラモーネだけで、高さ8m。遺跡エリアに横倒しに転がっているが…これはレプリカ。本物はすぐ近くにある国立考古学博物館で展示されている。「ホントにこんなものが何体も、しかも神殿の上の方にあったのかよ」と、信じられない思いだった。それが、今から2400年以上前だというから、なお驚く。世界遺産にも指定されているこの地域には、もう新しくホテルを建てることはできないのだが、以前からあった邸宅をホテルに改造したホテル・ヴィラ・アテネは、遺跡エリアに至近という最上のロケーションを誇る。泊まるなら、ゼッタイに「神殿の見える部屋」を指定しよう。他の宿泊客のコメントを読むと、「湿っぽくて眺めもよくなかった」とあったが、Mizumizuたちは、神殿ビューを指定したので、広いテラスのついた開放感抜群の部屋に泊まることができた。なんといっても最高なのが、夜ライトアップされた神殿を、テラスはもとより、ベッドの中からも眺められること(あの部屋だけの特権だったのかも)。ギリシア式神殿というのは、まさに建築美の1つの頂点、人類の到達した美の極致だ。いまだにパルテノン(つまりはギリシア式神殿)を模した建物が世界中で作られているのも故なしとしない。このヴィラ・ホテル。併設のレストランも味がよく、部屋も満足できるものだったのだが、レストランの請求でまたも…ディナーのあと、支払いをしようと思ったら、「部屋付けにします」と言われて請求書をチェックしなかった(少なくとも食事を終えたすぐ後、請求書をもってきてもらって確認しておくべきだった)。チェックアウトのときに見たら、案の定、1つしか頼んでいない水が2つになっていた。指摘すると、フロントの男の子がレストランに電話をかけて間違いを確認した(←明らかに便宜上の手続き。いつもやってることですから)。受話器を置いて、間違いだった(ワザとだけどね)ことは認めたのだが、「たいした金額でないからいいだろう。もう請求書は印刷してしまったし」なんて、開いた口がふさがらないような身勝手な台詞をかましてきた(呆)。「なら、現金で戻せ」と言うと、「ノー」と気後れもせずに、拒否(苦笑)。なおも、「ちょっとだけだからいいだろう」と、ねばる兄ちゃん(これってマフィア流の社員教育か?)。「ノー」とこっちも負けずに拒否。そんなにちょっとだけなら、キャッシュで返しなよ、まったく。水1本でなんでここまでネバるかね。間違えた(当然ワザとだけど)のはそっちのクセに、謝罪する気などさらさらなく、まるでこっちがクレーマーのような扱い。さんざん押し問答して、水の金額を戻した請求書を作り直した(←誰でもすぐできる作業)。で、サインをしたあとに気づいたのだが…なんと、1人前のリゾットを2皿に分けてもらったのが、ちゃっかり2人前になってるではないか!水だけじゃなかったのね。敵(敵だっけ?)もさるものだ。やられました。そのリゾットは「マザーオブパール」というしゃれたネーミングで、味はとてもよかった。ただ、1人前を分けただけだったことは明らか。そう注文したし、めちゃくちゃ量が少なかったもの。やれやれ。イタリアのレストラン、ホテルだろうと街中だろうと、星の数が多かろうと少なかろうと、ぼるところは習慣的にぼる。もちろん、ちゃんとした商売しているところも多いが。水1本しか頼んでないのに、「x2」なんて書いて目の前でダマすウエイターもざら。指摘すれば、たいていすぐ訂正する(今回のホテルは、ちょっと例外的にボクちゃんがネバっていたが)。料理の値段そのものをごまかす店もあり。皆さん、くれぐれもご注意を。間違いを指摘するのは日本人には勇気がいるが、ちゃんとした商売をしている正直者のほうが損をするような風潮に、同調すべきではない。シロッコが到来し、砂塵の街と化したアグリジェントから、ボロ電車でパレルモに戻った。途中、乾燥した荒野の無人駅に電車が停まったとき、ホームにかつてあったのかもしれない花壇から、朽ちたような駅舎の壁のほうに向かって蔓性の植物が伸びてきていて、朝顔を小ぶりにしたような花を1つだけ咲かせていた。地を這うようにして伸びた、細い蔓の上の小さな小さな紫の花は、信じられないほど強烈な、濃い色彩を放っていたのだった。
2009.04.30
アグリジェントへは、パレルモから電車で行った。パレルモ8:45→アグリジェント10:45友人のイタラはシチリアで一番好きなのが、アグリジェントだと言う。イタラはまだ10代のころ、母親と一緒にタオルミーナにバカンスに来て、上流階級御用達のホテル・サン・ドメニコに滞在していた。母親はアグリジェントまで行くのを嫌がったので、1人で鉄道利用でアグリジェントに来て遺跡を見て歩いたのだという。しかし、今ですらパレルモ・アグリジェント間の電車は、まぁ~ボロくて(笑)。車内はキタナイ、窓はキタナイ、おまけに、ガタガタ揺れが激しく、列車で酔ったことなどないMizumizuだが、乗って1時間で吐き気を催した。5月というのにやたら暑く、冷房などない電車だから、当然窓を開けるのだが、入ってくる風がまた埃っぽくて。後から聞いた話なのだが、ちょうどアフリカからシロッコが吹いてきていたらしい。日本にも黄砂が来るが、シロッコの不快さは黄砂の比ではない。アフリカの砂をたっぷり含んだ暑い風。それが街に到達すると、都市の埃と混ざり合う。マスクを持っていけばよかったと思う。アグリジェントの乾いた埃っぽさを経験した身としては、日本の湿潤でマイルドな気候が、いかにありがたい(まさに「有り難い」)かわかった。水だって、水道ひねればじゃんじゃん出る。なんて有り難いんだろう。南無阿弥陀~。さて、アグリジェントは古代ギリシアの植民都市として、紀元前5世紀に空前の繁栄を誇った街。最盛期の人口は30~40万人。当時「本家」のアテナイが30万人、「最強の軍事大国」スパルタで40万人だから、アグリジェントも大ギリシア文化圏屈指の街だったということだ。15世紀以降、ヨーロッパの列強が獲得していった「植民地」と古代ギリシア時代の「植民都市」はだいぶ性格が違う。ギリシアの詩人ピンダロスは、アグリジェントを「人類が作った中で最も美しい街」と称えている。アグリジェントのコンコルディア神殿(以下2枚の写真)は、現存するギリシア式神殿としては、現在のアテネに残るパルテノン神殿につぐ規模のもの。破風の保存状況などは、むしろパルテノン以上の良好さだ。保存状態の良し悪しも、遺跡の価値評価に大きくかかわってくる。紀元前5世紀のアグリジェントには、パルテノン神殿を遥かに凌ぐ規模の神殿があったという。これはゼウス神殿と呼ばれ、その大きさたるや縦約57m、横113m、高さ18mという空前絶後のもの。ちなみに、パルテノン神殿が30m×60m、高さ10m。写真のコンコルディア神殿は、縦横の長さが約17m×40mだから、ゼウス神殿は、それがほぼ6つ入るほどの巨大な神殿だったということだ。一番凄かったであろうゼウス神殿は、完全に崩れていて、今残っているのは、膨大な瓦礫の山だけ。もともと完成を見る前にカルタゴに攻められて破壊され、その後の大地震で完全に倒壊した。現在のアグリジェントに目を移すと、人口はたったの6万。大地は乾いて、木も元気がなく、背の伸びたサボテンばかりがやたら目についた。たった6万人しかいないにもかかわらず、水不足は深刻で、夏になると特に、「私設の水源」を資本力のある高級ホテル(マフィア資本と言われている)が独占してしまって、一般市民はシャワーを浴びる水にもこと欠くとか。Mizumizuたちが行ったときは、カタツムリが大発生していた。で、行き場を失ったカタツムリの群れが、あの硬いサボテンを食い荒らしているのだ。ぞっとするような光景だった。神殿のある場所の「乾き」は特に激しく、木もほとんどないので、一休みできる日陰を探すのも一苦労。コンコルディア神殿の近くに一本だけ、わりとりっぱなオリーブの木があるのだが(一番上の写真参照)、見学で疲れた観光客が木陰に群がって、遠くから見るとなんだか、アリンコの群れのようだった。花もまるで高山植物のように背が低く、色が鮮やか。地面を這うように咲いているのは、やはり水が少ないからだろうか。もともと古代ギリシア人がシチリア島に植民したのは、ギリシア本土の土地が痩せていたからだ。アテナイなどは黒海沿岸から穀物を得ていたが、増える人口に食料の供給が追いつかなくなった。当時のアグリジェントの気候がどんなものだったかは知らないのだが、少なくとも30~40万人を「飲ませる」だけの水があったのは事実だろう。今のアグリジェントは、どんどん砂漠化してきているように見える。あと数百年したら、もっともっと辺鄙な、人を寄せつけない場所になってしまうのではないか。初夏から夏にかけてコンコルディア神殿に行く方、遺跡エリアに入ったら、「屋根」はないです。木の下は奪い合いになります。真夏は40度を超えるという気候、必ず帽子と水(ただし、遺跡エリアにはトイレがないので、取りすぎには注意)を持っていきましょう。というか、アグリジェント(それにポンペイも似たようなもん)は、ヤワな日本人は真夏には行かないほうがいいと思いますね(苦笑)。熱中症になっても知りません。ヘラ神殿への道。暑い時期、3キロに及ぶ遺跡エリアの見学は体力勝負。ヘラ神殿の全貌。基段と柱十数本が現存。
2009.04.29
「マッシモ劇場で公演中の『エッフェル塔の花婿花嫁』は凄いって、さっきラジオで言ってたわよ」――パレルモのホテルでバーリ在住の友人イタラからファックスを受け取った。マッシモ劇場でジャン・コクトー作のバレエを鑑賞する予定だということは、バーリ滞在中に彼女に話してあった。日本を発つ前に、一応日本語に翻訳された『エッフェル塔の花婿花嫁』を読んだのだが…正直に言うと、ほとんどまったく、1行もわからなかった! 日本語なのに、意味がわからないのだ。翻訳が悪いわけではないと思う(と思う)。蓄音機がしゃべったりするらしいことはわかったのだが、「これが一体、どういうバレエになるねん?」と狐につままれたような気分。原作はどうやら、しゃべるバレエ――というのか「身振り劇」というつもりでコクトーは台本(というのか、なんなのか?)を書いたらしい。まあ、バレエだし、何でもいいやね、とりあえず珍しい演目だし。そんな気分だった。初夏の南国の夜は遅い。公演は午後9時(!)スタートだったのだが、午後8時半ぐらいに劇場に行くと、空はまだ濃い藍色で、オレンジ色にライトアップされたギリシア神殿様式の堂々たるファサードが、「ここはギリシアだ。私たちは正統なギリシア文明の後継者だ」と主張しているように見えた。このファサードは、『ゴットファーザーPart3』で、あのちょ~華のないコッポラの娘が銃弾に倒れるシーンに使われた。ヨーロッパの伝統あるオペラハウスには、たいてい足を運んでいるが、パレルモのマッシモ劇場の風格はまた格別なものがあった。一言で言うと、ローカルカラーが強いのだ。それは悪い意味ではない。イタリアという国は基本的にローカルの集合体だ。郷土愛が強く、日本のように東京一辺倒ということはない。経済的に最も豊かなのはミラノだろうけど、ミラネーゼ(ミラノ人)以外のイタリア人は、たいていミラノを嫌っている。マッシモ劇場の平土間の客の身なりを見ると、パレルモには社交界というものがまだ存在しているのだということを強く感じた。南イタリアは貧しい、というステレオタイプのイメージが日本人にはあるが、イタラはもちろん、彼女の友人たちも皆、たいていの日本人は足元にも及ばないほどリッチだ。富裕層と貧困層の間には埋められない溝があり、豊かな人は当然教養も高く、たいていの場合、忍耐強く、礼儀正しい。そうした階層に属する人々は、そもそもヒエラルキーの間の溝を埋めようなどと思っていない。ヨーロッパの有名なオペラハウスは世界中から客を集め、その分、地元民の占める割合が少なくなってきているところが多い。「他所からやってきた人」は、それほど身なりに気を使わない。もちろん、プレミエ公演や特別な音楽祭は別だが。マッシモ劇場の平土間に座っている客は明らかに土地の人間で、相当にドレスアップしていた。コクトーのバレエという、どちらかというと地味な企画だというのに。そして、これほど観光客の少ない劇場というのも、ヨーロッパではもう珍しいかもしれない。観光客が増えるというのは、それだけ国際化するということで、いい面もあるが、劇場というのは、そもそもその土地の人々のものだ。よそ者に頼るようになると、その土地特有のカラーが消えていく。品位やマナーも落ちてくる。そうした地方色豊かなマッシモ劇場で見たコクトーの『エッフェル塔の花婿花嫁』だが、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。舞台に再現されていたのは、まさしくベルエポックの時代のパリ。舞台の端に鎮座する巨大なカメラとともに、20世紀初頭の都市の景観が再現され、そこに生きる人々の喧騒と狂乱、そして孤独が映し出される。竹馬にのった若者や、預言者のように何かを叫び続けるホームレス風の老婆が、ベルトコンベアで流れるように、舞台を右から左に移動し、前景では美しい男女のカップルが幸せそうに流麗なダンスを披露する。コクトーの台本は大幅に削られ、台詞はほとんどなかった。舞台監督は、ミーシャ・ファン・ヘッケ(Misha van Hoecke)だというが、コクトー作品というより、むしろヘッケ作品と言うべきかもしれない。ヘッケはリッカルド・ムーティともよく仕事をしている有名な振付師。日本で彼の作品が見られないのは、本当に惜しい。コクトー原作のバレエの生舞台は、熊川哲也の『若者と死』(渋谷)を見たが、こちらも素晴らしいものだった。『若者と死』の振付は、言わずと知れたローラン・プティ。『若者と死』もヘッケ版『エッフェル塔の花婿花嫁』も、非常に同時代的で、むしろ今のトウキョウのどこかにある人生のドラマを切り取ってみせているような気がしてくるのが不思議なのだ。どうしてコクトーのバレエがこれほどまでに素晴らしいのか。コクトーを選び、コクトーが選んだ振付師が素晴らしいのか。あるいはその相乗効果なのか。多分、後者だろう。1+1が2以上のものになる。コクトーの書いたバレエには、そうした詩的数式の神秘があると思う。公演が終わり、夢見心地でマッシモ劇場の壮麗な階段を降りたところで、20代そこそこぐらいのカップルとすれ違った。「e' stato bello questo spettacolo(素敵な舞台だったね)」と青年のほうが、女の子の耳元に囁くのが聞こえた。その甘い声音が、パレルモの夜の最高のフィナーレだった。
2009.04.27
シチリア名物のお菓子といえば、フルッタ・ディ・マルトラーナ。アーモンドの粉で作ったマジパンの一種で、鮮やかに着色された果物の形をしている。映画『みんな元気』で、マルチェロ・マストロヤンニが、本土に暮らす子供たちへお土産として持って行ってたっけ。日本人からすると見た目の色が毒々しくて、あまり食指が動かないかもしれない。観光地にはよく売られているのだが、ハッキリ言って香料が強くておいしくないものが多い。だが、パレルモのホテルに置いてあったフルッタ・ディ・マルトラーナは、相当イケた。ホテルの兄ちゃんにどの店で買ったのか聞いたところ、ホテルから近かったのでさっそく買いに行き、お土産にした(日本に帰る前に、かなり自分たちで食べてしまったのはいうまでもない?)。泊まったホテルは、エクセルシオール・パレス。大理石と木目の美しい木材をふんだんに使った内装は、いかにもシチリアの伝統あるホテルらしく、スタッフも親切でとてもよかったのだが、今部屋の写真を見たら、改装されてしまったようだ。南イタリアの老舗ホテルは、水周りに多少難があるホテルもあり、改装自体は不可欠だと思うのだが、それにともなって古き良き時代の香りがなくなり、どこにでもあるような「モダンな」内装のホテルになってしまうのが、非常にもったいないし、さびしいことだ。エクセルシオール・パレスの部屋も、普通の都会的なインテリアになってしまった。おいしいフルッタ・ディ・マルトラーナの店を教えてくれた兄ちゃんはとても若く、高校生ぐらいにしか見えなかった。レセプション近くのテーブルに飾ってあったフルッタ・ディ・マルトラーナが、見かけも非常によくできていたので、Mizumizu母とじぃ~と見ていたら、ちょっと離れた場所から、「食べてみてもいいよ」と声をかけてくれたのだ(よっぽど物欲しげだったのか?・笑)。「そう?」と言って、1つつまもうとすると、「1つだけにしてよ」念を押されてしまった(よっぽどがっついて見えたのか?・笑)。フルッタ・ディ・マルトラーナを売っている店では紙の箱しかなくて、お菓子の形を崩さずに日本に持って帰るのに、かなり苦労したのだった。シチリアというと、「マフィア」のイメージがあって、一般人も怖い人が多いと偏見をもっている日本人も多いが、一般の人はむしろ素朴で、誤解を恐れずに言えば、単純な人が多い。州立考古学博物館に行ったときのことだ。特別展覧会をやっていたので、ついでに見たいと思ったのだ。ところが、イタリアではよくあることだが建物が壮大すぎて、入り口がわからない。ちょうど警備員のような人が、ガラスで隔てられた小部屋に座っているのが見えたので、彼に「すいません」と場所を聞いてみることにした。「展覧会はどこで見られますか?」すると!小部屋でリラックスして座っていたおじさん、東洋人の小娘と見たのか、ものすごくバカにした表情で、「わかんな~い!」と、薄笑いを浮かべながら両手を広げて見せたのだ。その不敬な態度にカッとなり、思いっきり大きな声で、「La mostra!!(展覧会よ)!」と、単語で怒鳴りつけた。すると…!バカにしたような笑いを浮かべていたおっさん、まるでびっくり箱(←いまどき、あるのか?)から飛び出した人形のように、弾かれたがごとく立ち上がり、「て、展覧会ですね」と言って、小部屋から出てきて(オイオイ、持ち場を離れていいのかよ?)、「こちらです。どうぞ」打って変わった丁寧な物腰で、エントランスまで案内してくれたのだ! 人を小ばかにしたような薄笑いは、へりくだったお世辞笑いに変わっていた!あまりの態度の豹変ぶりに、内心あっけにとられたのだが、もちろん、そんなことはオクビにも出さず、「ありがとう、ご親切に」と、鷹揚にニッコリ笑ってお礼を述べたのだった。しかし…シラクーサの「(メーター)見せただけだよぉ」のタクシーの運ちゃんといい、シチリアのオトコは、高飛車な態度のオンナに弱いのか? もしかして、あまりの強気の態度にマフィアのオンナだと思われたのか?(苦笑)。Mizumizuの態度は、日本人としては激しいほうかもしれないが、なんのなんの、イタリア女性に比べれば、まだまだその足元にも及ばない(と自分では思っている)。イタリア・オンナはもっと容赦ないし、気に入らないことがあれば、ものすごいキツイ口調でガンガンに抗議する(相手もひるまないことも多いが・苦笑)。何がなんだかわからないが、不愉快な人が突然親切な人になってしまった国立考古学博物館の中庭で撮った写真が上。パレルモのクワトロカンティという街中の観光名所で、「2度も妻がひったくりに遭った」という投書を新聞で読んだ。「なんという街だと呆れた」とその日本人観光客(かなりの年配)は感想を書いていたが、実際にクワトロカンティに行ってみて、あそこで2度も引ったくりに遭うなど、その無防備ぶりのほうにむしろ呆れた。もちろん、引ったくりをする人間が悪い。それは絶対だが、ちょっとした注意でそんな犯罪には巻き込まれなくてすむのだ。具体的に言えば、バッグはハンドルの小さい、手に持つタイプではなく、ストラップの長いバッグにして、肩から襷掛けにし、バッグ本体は前でかかえるようにする。これでまずほとんどの引ったくりやスリは防げる。南イタリアの都市には、「貧困エリア」がわりと観光名所と隣りあうようにして存在しているので、そこには近づかないように十分注意しなければいけない。危険な場所はホテルに聞けばわかる。そうした問題はあるにしろ、ちょっとした注意で簡単に避けることができるし、シチリアを女2人で公共交通機関を使って個人で旅しても、特に危険な目には遭わなかった。シチリア=マフィアだと思う日本人はまだまだ多いが、シチリアの住む大半の人は当然ながら、普通の市民だ。ホテルの資本はマフィアが牛耳っているらしいが、宿泊客としては、せいぜいホテルのレストランで水の値段をごまかされるとか、注文してもいない料理の請求が混ざっているとか、不快な目に遭うといっても、しょせんその程度のセコい問題だけだった。逆に魅力は尽きることがない。人も、歴史も、文化財も、豊かさと貧しさの残酷な対比も。そうそう、南特有の植物も。
2009.04.26
パレルモは建築の宝庫だ。王宮から教会から、さまざまな様式、それも折衷様式と呼びたいような特異な建物が街のあちこちに散らばっている。かつては荘厳だったであろう貴族の館が完膚なきまでに荒れ果てて、放置された廃墟もある。シチリアを舞台にしたヴィスコンティの代表作『山猫』では、クラウディア・カルディナーレとアラン・ドロンが、広すぎて手入れが行き届かず、まだ高貴な一家が住んでいるのに廃墟化しつつある、邸宅の中の使われなくなった部屋を探検するように歩いていくシーンがあるが、さもありなん。イタリアの文化財修復技術は世界に冠たるものだが、ここシチリアに関しては、取り壊す余裕も修復する余裕もないまま、朽ち果てたパラッツォ(宮殿のような邸宅)があまりに多い。その変わり果てた栄華の記憶こそ、まさにシチリアなのだと思う。保存状態良好の建築と、やや修復が行き届かずに痛みの目立つ建築と、無残な廃墟と化した建築と… パレルモは、だから、ある部分は甘やかに熟れ、別の部分は腐りかけ、一部は完全に腐敗した1つの果実なのだ。そんなパレルモだが、個人的に非常に気に入ったのは、サン・ジョバンニ・デリ・エレミーティ教会。お団子をのせたような、紅い円蓋がエキゾチックな教会だ。ここにもイスラム風の回廊をもつ中庭がある。円柱を含めた保存状態は、決して良好とはいえないが、そこが返って古びたゆかしさを感じさせる。そして、植物の繁殖力の強さ。自分自身を枯れさせるまで茂るだけ茂るのは、南の植物の本能だろうか。中庭から紅色のお団子屋根を眺める。この教会は、パレルモという果実の「少し腐り始めた部分」だ。きわどい苦味とともに、忘れられない記憶として刻まれた場所。
2009.04.24
<1月30日のエントリーから続く>父方から神聖ローマ帝国皇帝の、母方からノルマン・シチリア王朝の血を引き継ぎ、多くのイスラム教徒が官僚として仕えていた王宮に育ち、自身9ヵ国語を操り、聖地エルサレムを交渉によって――一時的とはいえ――その手中に収めさえしたフェデリコ2世(1194-1250)。中世のヨーロッパ社会では絶対的な権威をもっていた教皇と真っ向から対立する一方で、そのたぐいまれな知性と教養でヨーロッパ・イスラム両文化圏の知識人を驚嘆させた、真にコスモポリタンな皇帝。後の歴史家は政治家フェデリコ2世の合理的精神に瞠目し、「玉座に座った最初の近代人」と評した。フェデリコ2世を「世界の驚異」たらしめたものは何だろう? 血筋、教育、つまりは彼が生まれ育った環境… こうした天才が出るためには、何よりも相応の環境が必要なのだ。フェデリコ2世がこの世に生を受けたのが1194年。そのちょうど20年前に、パレルモにほど近いモンレアーレに建設された大聖堂は、「世界の驚異」を世に送り出したノルマン・シチリア王国の当時の文化的特異性をあますところなく披露する。中世建築の傑作と呼ばれるモンレアーレ大聖堂。ドゥーモ内部は、金を基調とした、絢爛たるモザイクに彩られている。もちろん威風堂々と参拝者(今では大半が観光客だが)を圧するのは、キリスト像だ。ドゥーモ内部は、まごうことなき、完全なキリスト教世界。ところが、教会付属の中庭に出ると、そこはいきなりイスラムの世界に変わる。「雪のキオストロ」と呼ばれる回廊をめぐらした中庭。細い円柱が涼やかさを誘う。柱には、エレガントなモザイク装飾が細かく施されている。この回廊で息を呑むのは、南国の日差しを浴びた中庭の明るさと、それゆえに際立つ回廊の陰の空間の対比の鮮やかさだ。そして、200本以上の円柱の作り出す「あやかしの空間」。特段複雑な作りの回廊ではないのに、林立する華奢な柱の区切る無数の空間を見ていると、迷路に入り込んだような錯覚に捉われる。こうした美意識はまぎれもなくイスラムのもの。眩暈がしそうなくらいに美しい。類似のイスラム風回廊はアマルフィにもある(通称「天国のキオストロ」)が、芸術性の高さでは、アマルフィの「天国」はモンレアーレの「雪」には到底及ばない。何より、アマルフィにはモザイク装飾がない。日本では長い間、ヨーロッパ中世を「暗黒の時代」だと教科書で教えていたらしい。今でも、近代の始まりとされる――一見――華やかなイタリア・ルネサンス時代に対し、教会支配の強かったヨーロッパ中世を否定的にとらえる日本人は多い。中世という語の響きには、魔女裁判のような迷信やペストに代表される疫病の流行といった暗いイメージがある。だが、それは無知からくる偏見にすぎない。ヨーロッパで中世史の研究が進むにつれ、イタリア・ルネサンスに始まると考えられていた古典文化の復興活動が、実は中世にすでに見られることが明らかになってきた。その代表例がパレルモを中心に興った「12世紀ルネサンス」であり、こうした時代に生まれてきたのが、「世界の驚異」フェデリコ2世なのだ。逆に中世を特徴づけると思われていた魔女裁判などの非理性的な迫害や都市の人口が激減するような疫病の突発的な流行は、中世以降もヨーロッパでは長く繰り返されたことが指摘されている。そして、キリスト教徒とイスラム教徒のケンカは根深く、今に至るまで対立と衝突はやむことがない。モンレアーレの真にキリスト教的なドゥーモ、そして純イスラム風の教会付属の中庭の回廊を見ると、2つの文化のもつ、相容れない美意識の違いが明確に知覚できる。だが、その相容れない強大かつ強力な文化が、ほんのほととき、この南の島にかつてあった強大な国家の王の庇護のもとで共存し、共栄した証拠を、人々はモンレアーレの大聖堂に見るだろう。キリスト教徒でありながら、イスラム文化に深い造詣をもったフェデリコ2世が、12世紀ルネサンスの生んだ奇跡の人であるなら、このモンレアーレ大聖堂は、12世紀ルネサンスの生んだ奇跡の建築。宗教の対立が再び人類共通の大きな問題になってきた今の時代だからこそ、この建築、この人物が、新たな意味をもつように思う。
2009.04.22
モザイクの宝庫、シチリア。ピアッツァ・アルメリーナで発掘されたローマ時代のヴィッラの床モザイクは、当時の風俗や貴族の生活をテーマとしたものだったが、パレルモにあるノルマン王宮に施されたモザイクは、豪華絢爛でエキゾチックなアラブ様式が訪れる人を圧倒する。「ルッジェーロの間」のモザイク。まばゆい黄金を基調として、流麗なアラブ風の装飾模様が壁と天井を覆いつくしている。上段は狩りの風景。下段には植物と猛獣。奥には鳥。どのモチーフも様式化され、左右対称に描かれている。モザイクで表現されたこの世界は、一種の楽園のデザインなのだ。現実をより写実的に描出することに向ったキリスト教徒的な美意識とは対極にある。これぞまさしく、アラブの美。この極めてアラビックな居室の主はノルマン王朝初代シチリア王、ルッジェーロ2世。シチリアという南の島でなぜ「ノルマン人」の王朝が成立したのか、そして初代の王がなぜ「2世」なのか、その物語は、北フランス・ノルマンディー地方のとある小さな村から始まる。ココ↓オートヴィル・ラ・ギシャール――11世紀、ここはノルマンディ公国の一部で、ノルマンディ公に仕える小領主のオートヴィル家の土地だった。オートヴィル家を含めたノルマン人のルーツは北欧にある。北欧、すなわちスカンジナビア半島やユトランド半島出身のバイキングたちが、8世紀末から海賊として、ヨーロッパの沿岸地域を荒らしまわった。その一部がフランス北部に定住し、ノルマンディ公国を作り上げたのだ。11世紀のノルマンディ公国では、人口が急増し、領主の息子といえど土地を相続できない者があふれていた。そんな彼らが向ったのが、イスラム教徒の攻撃を頻繁に受けていた南イタリア。当時の南イタリアには傭兵の需要があった。中には功を立てて出世し、かの地で新しい領主となる同郷人も現れた。そんな風の便りを聞いて、オートヴィル家の兄弟3人がまずは南イタリアに向う。3人の兄弟のうち、長男のギョーム(イタリア語:グリエルモ、ドイツ語:ヴィルヘルム。以後、グリエルモとする)は、勇猛果敢な騎士としてすぐに頭角をあらわす。南イタリアのノルマン人の傭兵隊のリーダーとして活躍し、鉄腕アトム… じゃねぇ、鉄腕グリエルモと呼ばれた。グリエルモは出世を重ね、ついに南イタリアのプーリア地方を治める領主アプーリア公となる。グリエルモの死後は弟が領地を引き継ぐ。オートヴィル家には12人(!)の息子たちがいた。グリエルモから見ると腹違いの弟にあたるロベール(イタリア語:ロベルト、以後ロベルトとする)も兄に続いた。ロベルトは権謀術数に長けた政治家でもあり、優れた軍人でもあった。彼には「狡猾な」を意味する「ギスカルド」というあだ名がつく。そのロベルト・ギスカルドは、長兄の鉄腕グリエルモの築いたプーリアを拠点に、次第に南イタリア全域に勢力を拡大し、3人の兄に続く4番目のアプーリア公となる。ロベルト・ギスカルドと合流して、シチリア征服に乗り出したのが、オートヴィル家の末弟ロジェ(イタリア語:ルッジェーロ、以後ルッジェーロとする)だった。ルッジェーロが故郷のノルマンディを出たのが26歳。長身でイケメンで弁舌さわやかで冷静で温和な青年だったという(たぶん、NHKの大河ドラマ級にそ~と~美化されてるね)。ルッジェーロはシチリア島全域を勢力下におき、シチリア伯となる。名目上は兄ロベルト・ギスカルド(アプーリア公)の家臣だったが、兄の死後は完全に独立し、アプーリア公をはるかにしのぐ南イタリアの強大な君主となっていく。そして、その息子ルッジェーロ2世が初代シチリア王(領地にはナポリ以南の南イタリアも含まれる)として戴冠、ノルマン人による王朝が成立するのだ。日本人に置き換えれば、山田長政が2代がかりでタイに王朝を作ってしまったようなもの。想像を絶するスケールの立身出世物語だ。http://www.medianetjapan.com/10/government/yaschan/sicilia/sicilia_001.htm↑この家系図を見るとわかりやすい。左上の初代シチリア王ルッジェーロ2世が、26歳でノルマンディを出たオートヴィル家の末息子ルッジェーロの息子。初代シチリア王ルッジェーロ2世の死後、ノルマン・シチリア王国はその息子グリエルモ1世、グリエルモ2世、ついで傍系のタンクレディを経てルッジェーロ3世、グリエルモ3世に引き継がれる。この間、王国を陰から支えたのは、イスラム教徒を中心とする有能な官僚組織だった。ノルマン王家は、彼らが北フランスからやってくる前から南イタリアに定住していたアラブ人のもつ知識や技術を利用して、王国の繁栄を築いた。当時、農業技術・自然科学・医学といった分野では、キリスト教圏よりもイスラム教圏のほうが進んでいたのだ。キリスト教徒であるノルマン人の王宮に異教徒的な美意識があふれているのには、こうした背景がある。さて、ノルマン系によるシチリア支配はグリエルモ3世で終わり、その後のシチリア王国は、ドイツ系であるホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝の支配に取ってかわられる。…というのは、男系から見た話であって、実際には、グリエルモ3世のあとにシチリア王となったハインリッヒ6世は、初代シチリア王・ルッジェーロ2世の娘を妻としていた。その跡を引き継いだ息子フェデリコ2世(ドイツ語:フリードリッヒ2世、神聖ローマ皇帝としては「2世」だが、シチリア王としては「フェデリコ1世」)はだから、神聖ローマ帝国皇帝の息子であり、かつノルマン王朝初代シチリア王の孫なのだ。ノルマン王家の血は娘を経由して、神聖ローマ帝国皇帝と融合し、2つの類いまれな血統を引き継ぐフェデリコ2世(1194-1250)が生まれた。そして、フェデリコ2世(シチリア王としてはフェデリコ1世)は、その血筋にたがわぬ異彩を放つ君主としてヨーロッパ中にその名をとどろかす。9ヵ国語を操り、キリスト教的な迷信にとらわれずに先進の科学を学び、合理性と異文化への深い理解を兼ね備えていた王は、交渉によって聖地エルサレムを回復するなど、「世界の驚異」と畏怖された。もともとイタリア生まれ、パレルモ育ちのフェデリコ2世は、神聖ローマ皇帝でありながら、生涯のほとんどを南イタリアで過ごした。彼のもとでシチリア王国の首都、異文化融合の地パレルモは、地中海世界の中心となり、当時のヨーロッパでも屈指の繁栄を誇った。だが、その繁栄もフェデリコ2世治世の後半、イスラム教徒を一転して迫害しはじめたことから陰りを見せ始める。そして、強烈なパーソナリティでシチリア王国を率いたフェデリコ2世がこの世を去ると、異文化共存の時代ははかない夢と消え、南イタリアは再び、さまざまな勢力の思惑に左右される不安定で後進的なヨーロッパ辺境の土地へ押しやられることになるのだ。<シチリアねたは4/22のエントリーに飛んで、続く>
2009.01.30
見所の多いシチリアの州都パレルモだが、まず足を運んだのは、パレルモ州立美術館だった。美術館へ行く途中、多少スラム化したような路地を通った。貧しい身なりの痩せた子供たちが駆け抜けていく。一瞬緊張してバッグを身体に引き寄せる。ナポリもそうだが、南イタリアでは観光客の歩くエリアと犯罪の多発するスラムとが隣接している場合がある。個人旅行者がうっかり治安の悪い地域に足を踏み入れてしまうと、身ぐるみはがされることもある。ナポリやパレルモのような街では、危ない場所をホテルの人にあらかじめ聞いておくのがいい。暗い路地を抜けて、美術館に着いたときはちょっとホッとなった。パレルモ州立美術館で最も見たかった画、それは中世末期15世紀に描かれた、作者不詳の壁画『死の勝利』。ヨーロッパの中世末期には、戦乱や黒死病の広がりによる社会不安を背景として、『死の舞踏』『死の勝利』といった主題の画が多く描かれた。パレルモの『死の勝利』は、あばら骨がむき出しになった馬に骸骨が騎士のようにまたがり、人々を蹂躙していく。この画が名高いのは、もう1つ理由があって、16世紀北方ルネッサンスの巨人、ピーター・ブリューゲルがこのモチーフをみずからの作品に取り入れているからだ。こちらが16世紀半ばに描かれたピーター・ブリューゲルの『死の勝利』。プラド美術館(マドリッド)所蔵。画面中央に、やはり痩せ馬にまたがった骸骨が大きな鎌を振るっている。刃の部分が異様に大きい恐ろしげな道具だ。ブリューゲルはこの画に取り組む前に、イタリアに旅行をしている。ブリューゲルの暮らしたフランドル地方とはまったく違うイタリアの風土や風景に触れ、中世からルネサンスに至る絢爛たる芸術作品に触れたブリューゲルは、故郷に帰ってから、「イタリアで吸い込んだものをすべて吐き出した」と言われ、北イタリアの険しい山を彷彿させるような風景を描いたり、イタリアで見た優れた先達の作品モチーフや絵画手法を取り入れたりしている。痩せ馬にまたがった「死」が、パレルモの『死の勝利』に想を得たのは確かだが、この2つの死の象徴は、描き方がずいぶんと異なっている。パレルモの骸骨は、馬にまたがった騎士の肉体が朽ちたあとのようで、ポーズもかなり人間くさい。馬も現実の馬の躯体を留めており、やや解剖学的だ。現実に腐った馬の死骸を見て描いたのかもしれない。一方、ブリューゲルの描く骸骨は、より細い骨だけの姿になり、馬にまたがったまま両手で鎌を横に握りしめ、振り回している。こんなふうに馬上でこれほど大きな鎌を振り回すなど、生身の人間には不可能だ。馬も木馬のように硬いラインとなり、生気がない。ブリューゲルの描く「馬にまたがった死」は、より観念的で、しかも幻想的なのだ。これはちょうど現在の映画の特殊撮影の進歩に似てはいまいか。パレルモの「死の化身」は生身の人間の姿からそれほど離れていない。ブリューゲルの「死の化身」は、生身の人間からは完全に離れた、細く直線的な骨だけの姿になり、自分の体に対して大きすぎる鎌を簡単に振り回している。重さなど感じないかのように。骸骨に表情はないはずなのに、なにか殺戮を無機的に楽しんでいるようにすら見えるのだ。人間は死ぬと腐る。腐り果てると骨だけになる。骸骨だけならそれは、「死んだ人間の最終的な形」にすぎない。だが、筋肉を失ったただの無力な骨の連結物が、痩せ馬にまたがって現れ、巨大な鎌を馬上で振り回すとき、人間の末路の形は超絶的かつ絶対的な恐怖の存在、すなわち死の化身として再生し、人々の上に君臨するのだ。ブリューゲルの描いた壮大な『死の勝利』自体、今のパニックものの映画のセットのようだ。ブリューゲルは、『イカロスの墜落』『バベルの塔』などの名作で知られるが、『イカロスの墜落』では、海に堕ちるイカロスの悲劇を壮大な風景画の中にあえて非常に小さく描いて、日常を続ける周囲の人々の無関心を強調したり、『バベルの塔』では巨大な建築物が作る途中で崩れ始めているにもかかわらず、さらに上へ上へと作業を続ける人間の愚かな業にさりげなく着目したりと、非常に現代的な批判精神性をもった画家だった。ヨーロッパの北、フランドルからやってきた画家がヨーロッパの南、シチリアで見た先達の作品に強い印象を受け、帰国後にその影響がはっきり見て取れるモチーフを作品に取り入れた。こうやってある表現者の精神は時代と空間を超えて、同じ感性をもつ人に影響を与え、再び生命をもつことになる。ブリューゲルがパレルモの先達の作品にそっくりな痩せ馬にまたがった骸骨を、自身のスペクタクルな作品『死の勝利』の中央に描かなければ、パレルモの作者不詳の『死の勝利』も、これほど人々に注目されることはなかったかもしれない。
2009.01.28
部屋のヒドさを思うと、とても美味しいものを出すとは思えず、ちょっと町をぶらついてみたのだが、歩いてるだけで気がめいりそうなくらいドヨヨ~ンとした町。ギリシア遺跡アリーノ、ローマ遺跡アリーノ、バロックの小道アリーノ、ヨーロッパ屈指の考古学博物館アリーノの重層的文化都市シラクーサから来ると、ほとんど何の刺激も感じられない。仕方なくホテルに戻って、スパゲッティを食べた。このホテル、フロントやレストランといった共同スペースはわりかしきれいにしている。スパゲッティも味はふつうだった。もちろん代金は部屋付けにしてもらう。部屋に戻ってシャワーを浴びようとして、またこの町の貧しさを実感することに。ノズルなんてない、かぶるだけのドロップ式シャワーなのだが、お湯がとってもぬるい。そしてものすごく水量が弱い。水がじゃんじゃん出る、なんてのは日本では当たり前だが、ヨーロッパの安宿では、決して当たり前ではない。水の乏しい地域のホテルでトイレやシャワーを使うと、日本ってなんて水の豊かなありがたい国なんだろうかとわかる。あ~、なんて最悪のホテル。町も死んでるし。ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレという世界的に有名な観光名所がありながら、まったくそれを町おこしに活用できていないのだ。みんな観光バスでヴィッラだけ見て行ってしまう。町はつまらないから、誰も寄らない。誰も寄らないからますますさびれる。典型的な悪循環。ホテルも、これで安いならともかく、シラクーサより高いときてる。ここも長くないかもな。町のバス停におりて最初に見た、朽ちかけたホテルの看板を思い出した。1晩だけだと言い聞かせて、じっと我慢の夜が明けた。ピアッツァ・アルメリーナから次の目的地パレルモまでのバスの便は、7:05→9:407:40→9:458:40→10:4513:25→15:5017:25→19:15の1日5便。所要時間の短い7:40のバスで行くことにして、朝早くチェックアウトした。早く出ることは前の晩に言っておいたのだが、翌朝フロントに行くと、昨晩「ここで食え」と言った兄ちゃん、しごく不機嫌で、なんとパジャマのまま(!)出てきた。顔も洗っていないらしく、目ヤニがついている。オイオイ。迷惑そうに、チェックアウトの手続きをする兄ちゃん。そんなに仕事が嫌ですか?バス停が少し遠いから、ポーターがいたら、荷物を運ぶのを手伝ってもらえないか聞いてみたら、にべもなく、「ノー! 誰もいないから手伝えない」むしろ憎々しげに答えるではないか。な、なんなんだ、この態度は。断わるにしても、言い方ってもんがあるだろう。道行く一般人でも、階段の上り下りのときなど、頼まなくても手を貸してくれるのがイタリア男なのに。すっかり気分を害して、請求書を見ると…アレッ!きのうの夕食の代金が入ってない。まだ回ってきてないのか、レストランの担当者が忘れたのか、はたまたこのフロントの兄ちゃんがうっかりしてるのか…もちろん、こんな可愛げのない兄ちゃんに、わざわざ間違いを指摘してあげる気にはならない。部屋代だけの請求書にサインし、荷物を引きずりながらフロントから出ようとしたら、ゆうべレストランでサーブしてくれたウエイターが(正面玄関から入って!)出勤してきた。こいつも、こっちに気づいているはずなのに、目をそらして、なぜか挨拶もしない。イタリア人にはめずらしい閉鎖的な性格だわ。こちらも知らんふりして出て行った。たとえ今からレストランの伝票まわしても、お客は去ったあと。これって、またも…天罰ですね。坂になった道を5分ほど歩いてバス停に。今度のパレルモ行きのプルマン(長距離バス)は、ちゃんと来た。後日、日本で、ヴィッラ・ロマーナで最終バスが来なかった話をイタリア通の友人にしたところ…「最終バスって来ないって聞いたことあるよ」最終バスは来ない?じゃ、なんで時刻表に書いてあるわけよ?そういえば、バーリの友人イタラは、街なかのポストに郵便物を出さない。「街なかのポストは集めに来ないから」と言って、駅や郵便局のポストにわざわざ入れていた。街なかのポストは集めに来ない?じゃ、なんで街角にポストがあるわけよ?もちろん、「未来永劫決して集めに来ない」わけではなく、「なかなか集めに来ない」「いつ集めに来るかわらかない」ぐらいの意味だとは思うけれど。まったく信じられないイタリアの公共サービス。それでもなんとかなってしまうのが、またイタリアなんだけど。ちなみにカード会社からのホテル代の請求には、やはり夕食代は含まれていなかったし、別に請求されることもなかった。カード決済にしたのでレートはよくなって、15万リラ=8,584円だった。アメリカのホテルなんて、すでに払ったミニバーの料金を別に再度請求してきたり(ニューヨークのルネッサンスホテル)、実際に泊まった日のきっかり1ヶ月後に、アメリカになんて行ってもいない、したがって泊まってもいないのに、また同じ金額を請求してきたり(ラスベガスのフラミンゴ・ヒルトン)したことがあるというのに。もちろんカード会社を通じて、間違いだと指摘し、取り消させたことは言うまでもない。
2009.01.27
レンタカー以外で、個人で一番安くヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレに行く方法は、ピアッツァ・アルメリーナに宿を取り、そこから公共バスで往復することだ。タクシーをチャーターするのは、3つ星クラスの中級ホテル1泊代よりずっと高くなる。逆に公共バスは日本に比べるとはるかに安い。シラクーサ7:00→ピアッツァ・アルメリーナ10:30のバス代が1人14,000リラ(840円)。3時間半乗ることを考えれば、格安だといえるだろう。アルメリーナから5キロ郊外のヴィッラまでは、バス代1,200リラ(70円)。効率よく回りたい日本人は、シラクーサ(あるいはタオルミーナ)からアグリジェント(あるいはパレルモ)に抜ける途中にピアッツァ・アルメリーナがあるから、ピアッツァ・アルメリーナで泊まらずにちょっと寄って、ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレだけ見に行きたい、と考える。だが、この方法は、21世紀とは思えない非効率的世界であるシチリア中部では思いとどまったほうがいい。ピアッツァ・アルメリーナに公共交通機関で着いても、荷物を預ける場所がない。おまけにアルメリーナからヴィッラまでのバスの便は非常に悪く、1~2時間に1本しかない。荷物をかかえてタクシーをチャーターしたとしても、ヴィッラを見学しているときに荷物をどこに置くかという問題が出てくる。だから、公共バスで行くつもりなら、ピアッツァ・アルメリーナに1泊して余裕をみたほうがいいのだ。だが!ピアッツァ・アルメリーナにはロクなホテルがない!これは本当です。なので、やはり一番いいのは、アグリジェントかカルタジローネを拠点にホテルを取り、大きな荷物はそこに置き、朝早く身軽にバスで来て、多少割高でもタクシーをチャーターする方法だろうと思う。では、ピアッツァ・アルメリーナに1泊して公共バスでヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレに出かけたMizumizuがどんな悲惨な目に遭ったか、つまびらかにしよう。ピアッツァ・アルメリーナのホテルは予約せずに来た。バス停で降りてから、近くのホテルに飛び込めばいいと思ったからだ。朝10時半すぎ。バスを降りると、1~2ブロック先にホテルの看板とおぼしきものが見えた。だが、どうも看板は崩れかけている(苦笑)。遠目にも、やっていなさそうなのがわかる。ちょうどそばで、おっちゃん2人が立ち話をしていた。ソフトケースの荷物を引きずりながら、おっちゃんの1人に、「あそこのホテルはもうやってないの?」と聞いてみた。「あ~、閉まっているよ」答えてくれた50がらみのおっちゃんは、風貌はモロにアラブ人なのだが、目だけはビックリするほど澄んだブルーだった。さすがにシチリア。アラブの血のどこかに、北ヨーロッパのノルマンの血が混ざってる。なんとなく感心しつつも、ホテルを探さないといけない。「この近くにホテルある?」と聞くと、まっすぐのびる道を指して、「ここを5分ぐらい歩いたところにある」とのこと。5分かぁ。ちょっとあるな、と思いつつ、荷物をひきずって歩き出した。すると!なんだか知らないが、このブルーの瞳のアラブ系イタおっちゃん、くっついてくるではないか。「たぶん、わかります」案内してもらうのは悪いから断わったのだが、「どこから来たの?」かなんか言って離れない。「東京から」「あ~、中国ね」ヨーロッパの田舎の一般人の極東に対する認識なんて、こんなものなのだ。「いや、日本」「そうかそうか。日本人はみんなお金持ちなんでしょ」つーか、キミみたいに平日の昼間っからプラプラしてないからね。みんなよく働くし。「でも、南イタリアも以前より裕福になったでしょ。バーリから来たけど、数年でクルマもよくなったし、みんなが着てる服もよくなった気がするけど」「いや、シチリアは貧乏だよ」ど~も嫌な予感がする、この会話。そうこうしてるうちにホテルらしき建物が見えてきた。「あそこがホテルね。わかった。ありがとう」と言ってるのに、まだこのおっちゃんはくっついてくる。とうとうホテルのエントランスをくぐった。宿代を聞くと、ツインで15万リラ(9000円)だと言う。シラクーサよりちょっと高い。でも、他に選択の余地がないので、泊まることにした。おっちゃんはまだぐずぐすしていて、部屋に入ろうとするMizumizuを引き止めて、「オレは家に子供が3人。でも仕事がないんだ」来たッ!「だから、何かもらえるとうれしいんだけど」「何か」というのが、「(おカネを)いくらか」の意味だというのは、モチロン察しがついたが、勝手についてきただけのオヤジにチップを恵んでやる趣味はない。Mizumizu母のソフトケースをあけてもらい、アルベロベッロで現地のイタ男と結婚した日本人妻がいたお土産屋でお義理で買った、おいしくもなさそうなクッキーを取り出した。そして、素知らぬ顔で渡す。「これをあなたのお子さんたちに」ブルーの瞳のアラブ系イタおっちゃんは、ものすごくガッカリした顔で、「ありがとう」と言ってクッキーを受け取って出て行った。さて、ホテルでヴィッラ行きのバスの時刻表をもらった。バスはホテルの前に来るという。おお、それは便利。しかし、便数が少ないなぁ。部屋に荷物をおいて、近くのバールでアランチーノ(ライスコロッケ)でも買い食いするか。しかし、部屋に入って驚いた。恐ろしくボロい。これでシラクーサのホテルより高いのか!? 信じられない。くつろぐ気にもなれず、町へ出てみるが、これまた町がどうにもならないほど、さびれてる。1つ2,500リラ(150円)のアランチーノを売ってるバールを見つけ、オレンジの生ジュース(スプレムータ、こちらは1杯180円)と一緒に食した。バーリでイケメンのアルトゥーロに薦められたアランチーノ。シラクーサの街中でも見つけて食べてみた。店によって美味しかったり、そうでもなかったりするが、基本はチーズ入りライスコロッケ、つまりは典型的B級グルメ。アルメリーナのアランチーノは油っぽくてハズレだった。ちぇっ、食い物までまずいや、この町。いったんホテルの部屋に帰り、恐ろしく便数の少ないバスの来る時間に合わせて、フロントにおりた。すると…!げげっ、またも例の物乞いおっちゃんがいるではないか。しかも、ホテルのバールで何やら飲んでいる。失業中なのに、昼間っからホテルのバールで酒(?)なんか飲むなよ!知らんふりして行こうとしたら、残念ながら見つかってしまい、こっちに近づいてくる。「ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレに行くの?」「そう」仕方なく、バスの時刻表を見せた。「行ったことある?」「あるよ」「よかった?」「モザイクはきれいだよ」「有名だよね。楽しみだな」また家庭内事情に話が及ばないよう、必死で観光名所の話を続けるMizumizu。ようやく向こうから小型のバスがやってきた。あれだな、ヴィッラ行き。ところが…!バスの運ちゃんたら、バス停をほとんど見もせず、つまりは停まろうともせずに行こうとするではないか!慌てて手を振るMizumizu。すると、ブルーの瞳のアラブ系物乞いイタおっちゃんが、ものすごいデカい声を出し、駆け出して運ちゃんに合図してくれた。そこでようやくバスに乗ろうとしてる人間がいることに気づいたらしく、運ちゃんがバスを停めた。やれやれ、乗る人あまりいないのかね、この路線…なんにせよ、ブルーの瞳のアラブ系物乞いイタおっちゃんが、ガタイのよさを生かしてゼスチャーしてくれたから助かった。いいとこあるじゃん。なんとかバスに乗り込み、いざヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレへ。http://jp.youtube.com/watch?v=Bc9t-MhVd30↑まさにこんなふうにヴィッラへ入場。しかし、本当に辺鄙な場所だ。世界的に有名な観光地だと思うのだが、みんなだいたい大型バスで来て、そのままアルメリーナの町へは寄らずに行ってしまうというパターンのよう。ヴィッラの中は人でいっぱいなのだが、周囲には商店街もなにもない。入り口近くにパラソルを立ててお土産を売ってる屋台のような出店があるだけ。帰りのバスは午後4時と5時半(最終)だった。行きのバスの便も悪かったから、着いたらもう午後2時半をまわっていて、午後4時のバスには間に合いそうもない。それで、ゆったり見て、午後5時を少し回ったところで、ヴィッラを出た。ところが!バス停で待てども待てどもバスが来ない。午後5時で入場が終わるヴィッラは、だんだんひと気がなくなり、出店もじょじょに店じまいを始め、あっという間に淋しい雰囲気になった。時計を見ると午後5時40分。30分以上待ったのに来ない。10分も遅れるだろうか?不安が募り、バス停とヴィッラの入り口の間をウロウロと歩く。そのMizumizuの不安げな姿を、大型観光バスのそばで、観光客グループの帰りを待っているらしい運転手が心配そうに見ていた。「バスが来ないのよ」視線を受けて話しかけてみた。「何時のバス?」「午後5時半」運転手は時計を見た。「もう45分だよ」「ここってタクシーあるかどうか、知ってる?」「いや、知らないけど、ないだろう」確かになさそうだ。公衆電話もないし、パラソルの下で商売している人たちが帰ってしまったら、周囲には本当に何もなくなる。このままバスが来なかったら? いや、もう15分も来ないのだから、来ない可能性のが高い。「どこまで行くの?」「ピアッツァ・アルメリーナ。ホテルを取ってるから、今日はそこに泊まるの」「このバスはピアッツァ・アルメリーナを通るよ、でも…」乗せてあげたいけど、自分からは乗せてあげるとは言えない、といった雰囲気だ。「誰が責任者? 乗せてもらえるか、聞いてみてもいい?」「彼女」運転手が指した先に引率者のような女性がいた。意を決して、ピアッツァ・アルメリーナまで乗せてもらえないか聞いてみることにした。すると、運転手もついてきてくれて、途中から「ずいぶんバス停で待ってて…」と助け舟を出してくれるではないか!女性はすぐにニッコリ笑って、「もちろん、どうぞ!」と快諾してくれた。あ~、助かった。日本では考えられないことだよね? でもイタリアではアリ。考えてみれば、5キロ先まで観光客を同乗させてあげるなんて、満席でなければなんでもないこと。でも、日本じゃ、「事故ったら責任が…」とか「どこの誰ともわからない人をいきなり乗せるわけには…」なんつって、助けてくれるとは思えない。観光バスを借り切ってやってきたのは、カラーブリアから来たという若者の集団だった。皆が乗り込んだところで、運転手がマイクで、「さ~、みなさん。今日はインターナショナルなゲストが乗ってます」とアナウンス。バスの中はなぜか拍手喝さい。照れ照れのMizumizuと母。公共バスに比べると、貸切の大型バスは天国。快適にピアッツァ・アルメリーナまで帰ってきた。しかも、ホテルもすぐに見つけてくれて、近くでちゃんと降ろしてくれたのだ!感激のMizumizuと母。バスを降りて、「ありがと~!」と出発するバスに手を振った。バスの客も手を振り返して感動的な別れ… かと思いきや、バスのみんなは誰もこっちを見てなかった!あれ~ッそれぞれのおしゃべりに夢中で、降りてしまった我々のことは、即座に忘れたよう(苦笑)。しかし、本当に助かった。地獄で仏とはこのことだ。さて、夜は食事をして早めに寝るだけだわ。このシケた町じゃ他に何もやることがない。ホテルのフロントの背の高い兄さんに、近くにおいしいレストランがあるかと聞いたら、「ない。ここで食べろ」とフロントの横にあるレストランを指差された。<このホテルでは、またひと波乱あり。それは明日のお楽しみ>
2009.01.26
シチリア中部の小さな町、ピアッツァ・アルメリーナ。ここから5キロ郊外にある「ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ」は、紀元前3世紀から4世紀に建てられたローマ時代の貴族の邸宅で、素晴らしいモザイク装飾で有名。もちろん世界遺産にも登録されている。日本語ではよく、「カサーレの別荘」と訳されていて、ローマ時代の貴族のカサーレさんの別荘だと誤解している人がいるが、「カサーレCasale」とは人の名前ではない。単語としては平野に点在している村落の意味もあるが、ここでは地名。また「別荘」という訳し方も正しいとはいえない。「ヴィッラvilla」は別荘の場合もあるが、お屋敷という意味でも使われる。実際、ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレはいわゆる別荘ではなく、永久的あるいは少なくとも半永久的に所有者が居住していた「家」であろうと言われている。「ロマーナ」は「古代ローマ時代の」という意味の形容詞。イタリア語では、形容詞は名詞の前にもつくが、後ろにもつく。Romanaはvillaを形容してるので、ヴィッラ・ロマーナで「古代ローマ時代の邸宅」という意味になる。ここにはサウナのような保温機能を備えた浴室があることでも知られているが、圧巻はなんといっても床に施された壮大なモザイク。イタリアでは、ラヴェンナ、モンレアーレ(パレルモ郊外)、アクイレイアなどにも素晴らしいモザイク画が残されているが、ピアッツァ・アルメリーナのヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレは、ローマ時代の風俗や風習、貴族の遊びといった世俗的なテーマを扱い、かつ構図が動的で大胆だということが他の街のモザイクにはない魅力になっている。まるで現代の映画のお色気シーンのよう。ふくよかな女性のお尻は永遠のエロチック。ビキニ姿の娘たち。ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレでもっとも有名なモザイク。バーベルをもった女性(左上)、ビーチバレーのような運動に興じる女性(右下)。あまりにモダンな姿に、現代人はビックリ。ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレにある膨大な部屋の使用用途はわかっていない。でも、床に果物を描いたこの部屋は、おそらくキッチン?こちらは家族の肖像? ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレは5世紀のバンダル人による侵攻後も邸宅として利用されたよう。完全に放棄されたのは12世紀ごろと言われている。50メートルにもおよぶ大廊下。ここには、アフリカでの狩猟の様子を描いたモザイク画が絵巻のように展開していく。スケールの大きさに驚倒。また、それぞれの動物の描写も緻密。アップで撮ってみたが、見学はわりあい遠くからしかできない。モザイクの上を歩くことも、もちろん不可。床にもホコリがかかっていて、もうちょっと掃いてよ、と思った。修学旅行で来てる子供たちも多い。引率の先生の説明をマジメに聞いているのは少数派。走り回ったり嬌声をあげたり、とても賑やかで小さな子供はどこも同じ。Mizumizuは、シラクーサからパレルモに抜けるルートの途中にピアッツァ・アルメリーナがあるので、ここで1泊したのだが、ハッキリ言って失敗だった。アルメリーナの町はロクなもんじゃなかった(これについては明日)。個人旅行なら、むしろアグリジェントを拠点にして(カルタジローネにも行くというディープな旅人は、カルタジローネ拠点でもいい)、大きな荷物はそこにおき、ピアッツァ・アルメリーナへは日帰り旅行で来たほうがいい。アルメリーナに着いたらタクシーをチャーターして送り迎えしてもらうのがベストだと思う。Mizumizuはアルメリーナから公共バスで行って、大変な目に遭ってしまった。
2009.01.25
ホテルのお兄さんに教えてもらったトラットリア、Quelli della Trattoria (住所:Via Cavour 28, Siracusa)は味は最高だった。パスタを作ってる太ったコックさんの絵の描いてある下がり看板が目印ですぐわかる。しかもパスタ2つに水で42,000リラ(2500円)とお値段も格安。だが、ここカードが使えないので注意。お兄さんオススメのスカンピ(scampi、実際にはアカザエビのことだが、レストランでは手長海老と書いてるところが多い)のクリームソースのフェットチーネ(きしめんのような平べったいパスタ)は、イタリアで食したパスタの中でも3本の指に入るほど。クリームソースといっても重くなく、海老の風味にもまったく泥臭さがない。自家製の麺はモチモチで味わい深い。言うことないパスタだった。本当においしいパスタを出す店はこういうところにある。ミシュランはイタリアでは当てにならないし、有名シェフの店は高すぎる。だがこのトラットリアは、カメリエーレ(ウエイター)がよくなかった。最初に、他の席も空いていたのにわざわざトイレの近くの暗いような末席に座らされたときに、ちょっとアレッと思った(「こっちは?」と別のテーブルをさしたら、「ダメ」と拒否された)のだが、運ばれきたパンを見て、眉をひそめた。パン籠にちょっぴりしか入っていない。しかもバゲットの端だけを切ったような、皮ばっかりのパンだ。別のテーブルを見ると、みんなパンが籠からはみださんばかりに盛られている。実は日本人の「イタリアでのパンのマナー」はひどいのだ。パンは黙っていてもいっぱい籠に入って出てくるが、これは「お持ち帰り用」では決してない。ところが日本人の特にオバさんと来たら、食べもしないのに出されたパンを袋に堂々と入れて全部持って帰ってしまう人がいるのだ。お願いだからやめてください。過去にそんな目にあったのかもしれないな… このときは好意的に解釈した。別になくなったら頼めばいいことだ。キレッ端だけだというのも、たまたまパンがそこで終わったのだろう。おいしいパスタを食べてる間に、ちょっぴりしかなかったパンがなくなった。そこで、「カメリエーレ!」と、叫んで、身長175センチ、体重もそのくらい… のもち肌の20歳ぐらいのウエイター君を呼んだ。すると、「あとで」と言って、別のデーブルになにやらサービスに行き、そのまま無視している。なので、もう一度大きな声で、「カメリエーレ! パンを持ってきて!」と叫んだ。ようやくパン籠を下げに来るウエイター君。籠が再び運ばれてきたので、「ありがとう」と言いながら中を見ると…あれっまた小さなキレッ端が、たった2コしか入っていない。これは、完全にわざとですね。日本人には信じられない話かもしれないが、こういう子供じみたイジワルをするウエイター、ホテルの従業員、売り子はヨーロッパでは全然めずらしくない。何か買おうとして店のキャッシャーに行くとする。無教養と貧困と不幸を顔にはりつけたような「雇われ」店員は、不慣れなアジア人観光客と見ると、わざと仕事仲間とおしゃべりを始めて、えんえんと待たせたりする。ホテルでしつこく声をかけてきた従業員につれなくすると、チェックアウトのときにわざと他の客を先にしてこれまた長々と待たせたり、パスポートを返し忘れたフリをしたりする。日本も格差社会と言われて久しいが、さすがに、不慣れな外国人客にイジワルをして日ごろのうっぷんをはらすほどひねくれた「雇われ」はそうはいないだろう。日本人の職業人は基本的にレベルが高いし、それなりに職務を忠実に果たそうとする。ただ、同じ職場での下の立場の人間に対するイジメは相当のものだと思うが。「どういたしまして」しゃーしゃーと言って、身長175センチ、体重もそのくらいのウエイター君は行ってしまった。パンはすぐに食べ終わった(なにせちっちゃいのが1人1個しかないので)。なので、こちらもまたしつこく、「カメリエーレ! パンをお願いします」と大声で言ってやった。キッチンのほうからは、なにかトラブルかと、オーナーらしきシェフ(非常に痩身)が心配そうに顔をのぞかせた。この身長175センチ、体重もそのくらいのウエイター君は完全に「雇われ」で、オーナー家族の一員ではないね。周囲のテーブルも東洋人に運ばれるパン籠だけが、ほとんど何も入っていないことに気づき、さりげなくこちらを見ている。ウエイター君はまたパンを持ってきた。「ありがとう」「どういたしまして」相変わらずちょっぴりしか入っていなかったが、もうそれ以上はさすがに必要なかった。味は最高だけど、ウエイターが最低の店だ。そう結論づけて、会計を頼んだ。42,000リラに対して、100,000リラ札しかない。おつりをもってきてもらい、「ありがとう」(←Mizumizu)「どういたしまして」(←身長175センチ、体重もそのくらいのウエイター君)と心のこもらない何度目かのお決まりの挨拶を交わす。おつりをウエストバッグタイプの貴重品入れに入れて店を出た…ところで、気づいた。そうだ、おつりをちゃんと確かめていなかった!つり銭ごまかしもイタリアでは日常茶飯事だ。58,000リラだから紙幣の数も多い。あわてて路上で、確認する。すると…なんと、小さなお札で8,000リラしかないではないか。やられた!あわてて店に戻ると、オーナーらしき人がキッチンから出てきて、ウエイター君となにやら話しているところだった。「ちょっと、あなた、58,000リラをくれなければいけないのに、8000リラしかなかったわよ。5万リラ忘れている」またまた(わざと)狭い店内の客全員に聞えるように言ってやった。ただし、抗議する口調ではなく、あくまで驚いた口調で。「え…」身長175センチ、体重もそのくらいのウエイター君は、差し出された札を見た。「本当?」心底驚いたようにこちらの目を覗き込む。ま~、したたかもん! わざとごまかしたくせに。もちろんそんなハラはオクビにも出さず、「本当よ、ホラ」とウエストバッグの中をべろ~んと見せた。身長175センチ、体重もそのくらいのウエイター君は、まだ信じられないといった顔で、オーナーらしきおじさんに何か言っている。店内、し~ん。隅に座らされた東洋人の、明らかに観光客が、さかんに「パン、パン」と言っていたのをみんな聞いている。「今度はおつりごまかしか」そう思いながら成り行きをうかがっているのは明らか。ウエイター君はオーナーらしきおじさんに、まだなにやら話していたが、おじさんのほうが、さっとこちらに50,000リラ札を出した。「ありがとう」とおじさんに言い、「気をつけてね」とウエイター君の肩を叩いて出た。まったく、なんつーウエイターだよ。テーブル差別+パン差別のうえにおつりごまかしかい? あんなの雇っていたら店の評判にかかわるわ。プンプンしながら、帰り道、Mizumizu母と2人で、「レイシスト・ウエイター」の悪口をまくしたてた。ところが!ホテルに帰って、部屋でウエストポーチをよくよく見たら、隅のほうから、別の50,000リラ札が出てきたではないか!「あれ~!」Mizumizu、思わず絶叫。バラバラときたお札をウエストポーチに入れたとき、たまたま50,000リラ札だけ別のところに入ってしまったのか?? それを暗い路地で見たから、気づかなかったのか!?「か、返さなきゃ」しかし、もう時計は23時近くになっている。それに、落ち着いて考えたら、このもう1つの5万リラは、本当に、身長175センチ、体重もそのくらいのウエイター君がもってきたおつりの一部だろうか? それもよくわからない。だいたい、あのあからさまな差別待遇は、許せないよね。よくよく考えると、また腹が立ってきた。わざとトイレ近くの隅の席に座らせ、別のテーブルもあいてるのに、「ダメ」だと拒否し、わざわざパンのキレッ端だけよこし、呼んでも、とりあえず無視し、再度呼んだらやっと仕事、しかもまたパンはキレッ端2個。3度目も断固としてキレッ端2個。気分悪いわ。食事代が42,000リラ。余計にこっちによこした(?)のが50,000リラ。おつりを、もしちゃんと払っていて、さらに5万リラをこっちによこしたとすると、食事代(2500円)をタダにして8千リラ(480円)の慰謝料(苦笑)を払ったということか?つまり、これは、天罰よね。「返しに行かなきゃ」の殊勝な心持ちは、あっという間に霧散した。翌朝、チェックアウトするとき、ホテルのお兄さんが、「Quelli della Trattoria 行った?」と聞いてきた。数々の(?)ウエイターとのトラブルにはまったく触れず、「うん、うん。すごく美味しかった。ありがとう」とだけ答えた。「よかったね」お兄さん自慢げにニッコリ。きっと後日馴染み(であろう)のあの店に行って、「日本人が来たでしょ? すごく美味しかったってさ」ぬぁんて、話しただろう。そのとき店のおじさんは、どんな顔をしたかな。
2009.01.24
シラクーサのホテルは日本から予約せずに来た。イタリアはよっぽどの観光地のハイシーズンでない限り、ホテルが見つからないということはない。シラクーサのように文化遺産テンコ盛りの街は、アクティブに観光して歩きたい。そうなるとタオルミーナのような滞在型の豪華ホテルではなく、経済的でそこそこ便利な場所にあるホテルに泊まったほうがいい。駅で母に荷物を見ていてもらい、近くのホテルを見に行った。さっそく手ごろそうな3つ星ホテルを見つけて飛び込む。フロントには若いイケメンのお兄さん。「今日ともしかしたら明日も、泊まりたいんだけど、ツインの部屋ありますか? できればバスつきの」「バスつきはないよ。シャワーだけ」「あ、じゃシャワーだけでも。いくら?」「86,500リラ(=約5,000円)」やっ、安い!「部屋代? それとも1人の宿泊料金?」「部屋代だよ」「泊まるかどうか決める前に、部屋を見せてもらえる?」「いいよ、もちろん」イタリアでは泊まる前に部屋を見せてもらうのは全然OK。どこでも気軽に見せてくれて、嫌な顔をされたことはない。見せてくれた部屋は、日本のビジネスホテルなら12,000円ぐらいは取りそうなレベル。内装はモダンで、シャワーはドロップ式ではなく、ちゃんとノズルがあった。ベッドのスプリングや水の出方などチェックして問題ないので泊まることに。シラクーサに着いた時間が遅いので、2泊すると告げる。泊まってくれると知ったお兄さんは、より親しげな口調になった。「キミ、日本人? イタリア語うまいね」つーか、ホテルに泊まるかどうか話してるだけなんですが。「イタリアに住んでるの?」来たっ! お決まりの質問。イタリア人は褒められるのも大好きだが、褒めるのがまた輪をかけてうまい。北イタリアの都会ではそんなことはないのだが、南に来ると、必ず「イタリア語うまいね」から始まって、「イタリアに住んでるのか」「イタリア語はどこで勉強したのか」と聞かれる。店でもホテルでも、観光案内所でも(苦笑)。イタリアに住んだことはないし、勉強も日本でしただけだとこれまたお決まりのパターンで答えると、ホテルのイケメンにーちゃん、「うそぉ。信じないよ」とオーバーなリアクション。とっても話しやすい雰囲気なので、ついでにいろいろ聞いてしまった。「あさっての朝、ピアッツァ・アルメリーナにバスで行きたいんだけど、バス停はどこ?」すると、フロントから出てきて、ホールにある市内地図の前にMizumizuを連れて行き、「バスは、ここから(←と街の中心からちょっと離れた場所を指し)出るんだけど、どのバスも、こう通って(←と道をたどり)、ここに来るんだ(←とホテルの近くを指す)」「来るのにどのくらいかかる?」「10分ぐらいじゃない、なんで?」「アルメリーナ行きのバスの時間は調べてきたんだけど、たぶんその時間はこのターミナルから出る時間だと思って」「ああ、そうか。いや、キミ、本当にイタリア語うまいね」つーか、バスの乗り方聞いてるだけなんですが。「アルメリーナ行きも必ずこのバス停に来るのは確か?」「言ったろ、全部のバスがここに来るんだ。間違いない」このイケメンのにーさんは、「雇われ」でないことは確かだ。たぶん家族経営のホテルなんだろう。ヨーロッパの「雇われ」の態度はおおむね悪い。ことに中級程度のホテルやレストラン、それにショップでは。逆に家族経営の店だと、非常に商売熱心。日本のように労働者のレベルが平均的に高い国から行くと、「雇われ」と「オーナー」の仕事ぶりの違いにしばしば驚かされる。街にも詳しそうなので、ついでに美味しい店も聞いちゃおう。「何食べたいの?」「パスタとか、リゾットが好きなんだけど」「パスタなら、絶対Quelli della Trattoriaだよ」「どこにあるの?」「カブール通り。ちょっと待って…」と、フロントに戻り、下から市内地図を出して、ボールペンでマルをした。「このあたりだよ。自家製のパスタの店で、スカンピのクリームソースのフェットチーネが最高」なんともクレバーなお兄さんだ(おまけにイケメン)。イタリアってなぜか美形のほうが感じがよく、親切なのだ。それは女性も同じ。おかげで次の街への行き方もわかったし、夜の食事の場所も決まった。さらにお兄さんは、地図の海岸沿いの道を指して、「ここは、海に沈む夕日がきれいだよ」なんて至れり尽くせりのアドバイス。そりゃどうも。さては、ずいぶんご利用になっていらっしゃるようで。ま、Mizumizuの場合、一緒に行くのは母だがね(笑)。駅で待ってる母を連れて、ホテルの部屋に入り、荷物を置いて市内見物に出発した。ホテルは旧市街からは離れている。バロック建築で有名なドゥオーモ広場に行こうと、タクシーだまりに行くと、ズタボロのイタ車で半分寝たようにダラけているじーさま運転手がタクシー列の一番前にいた。ヨレヨレのチェックのジャケットを着ている。うっ、やる気なさそうなじーさんだ。でも、最前列のタクシードライバーに優先権があるのは、イタリアの掟。しかたなく、あけっぱなしの窓から覗き込み、「ドゥオーモ広場まで行きたいんだけど、いくら?」と聞いた。じーさんはあわてて姿勢を正す。「クインディチ」15,000リラ(約900円)という意味だ。シワだらけの顔だが、人は悪くなさそう。タオルミーナが20,000リラからスタートだったので、さすがにそれより安い。OKしてズタボロ車に乗り込んだ。いざスタートすると運転はうまい… というべきか若いというべきか。とにかくイタ男はハンドル握ると素っ飛ばすもんだと思っているらしい。運転は総じてみな巧みだとは思うのだが、事故も多い気がする。街では、真昼間にしょっちゅう救急車のサイレンの音を聞く。あれは自動車事故がほとんどだろう。勝手に想像してるだけだけど。さらに、このじーさん、やや耳が遠いらしい。ちょっと話しかけると、後ろをぐうッと振り返り、こっちの目をしっかり覗き込んで、「え? 何?」と聞き返す。もちろんその数秒間は前を見てない。で、前を向いてくれたところを見計らって、さらにこちらが何か言うと、また振り返ってしっかり視線を絡めてくる。こ、怖いってばさ。前見てよぉ。も~、会話はなるたけ控えよう。ドゥオーモ広場の近くに着くと、ケータイの電話番号を書いた紙をわたしてくれて、「またタクシーが必要だったら、ここに電話して。市内だったらどこでも15,000リラでいいから」おお、それは便利。呼び出しても同じ値段なら安心だし。けっこう商売うまいじゃないの。これが、シラクーサのもう1つの見所、壮麗なバロック様式のファサードをもつドゥオーモ。ファサードの扉には、貴婦人のかぶるレースのような繊細な装飾が施されていた。旧市街のカブール通りは、まさに「バロックの小道」。石畳にバロック風のバルコニーや装飾をもつ石造りの建物の並んだ昔ながらの狭い通りだ。夜、食事にもう一度来たのだが、柔らかな街灯に照らされた道は、スペイン絶対王政時代の上品な残り香が漂い、ギリシア劇場やローマ劇場といった古代の遺跡を見たあとはなおさら、「ここって一体どこの国だったっけ?」と混乱してしまう。惜しむらくは、路地に活気がないこと。昼間から何をするでもなく、手持ち無沙汰に立ってる土地の人たちが、またうらぶれ感を増幅させていた。夜はさらに閑散として、ひと気がない。こちらは夜のドゥオーモ広場。ムーディなロウソクをテーブルにおいて、白いパラソルをひろげてまだ客を待っているドゥオーモ前のカフェ兼レストラン。でも誰も座っていない(苦笑)。さびし~『ニューシネマパラダイス』『海の上のピアニスト』『みんな元気』で有名なジョゼッペ・トルナトーレ監督の映画『マレーナ』でも、シラクーサの旧市街がロケに使われていた。この広場をモニカ・ベルッチ扮するマレーナが歩いているシーンがあった。さて、タクシーは公衆電話から呼び出すとたいがい来てくれて、非常に助かった。だが、一度だけ、「今ダメだから」と言われて、別のタクシーを使ったのだが、このタクシー、真っ白なピカピカのメルセデスで、グラサン(←死語?)をかけた30代のやる気(ぼる気?)まんまんのガタイのいい兄さんだった。「15,000リラ」と事前交渉して乗ったのに、いざ目的地に着くと、実はメーターを動かしていて、「ほら」とメーターを指し示す。2万リラを超えていた。カッとなったMizumizuは、「15,000リラって言ったじゃない!」と怒鳴った。その勢いに気後れしたのか、一見ヤクザ風(失礼!)のにーちゃん、驚いたように、気弱な声で、「み、見せただけだよぉ」だって!「なんで、メーター使うのよ! 見せただけぇ? 嘘つき! 1万5000リラって言って、それから2万リラって言うつもりだったんでしょ。サイテーね。シチリアのタクシー運転手はみんな親切だけど(←もちろんウソです)、あなたは最低!」と一方的にまくし立てて15,000リラをわたして、とっととタクシーを降りるMizumizu。Mizumizu母も黙ってついてくる。逆ギレされても面倒なので、相手が呆気に取られてるうちにどんどん道をわたって遠ざかった。安全圏内に入った(?)ところで振り返ると、タクシーから離れるわけにもいかず、ドアのそばに立ちつくしたグラサンの顔が、ジト~ンとこちらを睨んでいた。観光を終えた夜遅く、ホテルのそばを歩いていると、なんとじーさんのほうのタクシー運転手が友人とおぼしきおっさんと歩いてるのに出くわした。さっそく、ヤクザ風のにーちゃんに、15,000リラと言っていたのに、それ以上取られそうになった話を路上でするMizumizu。「あなたのほうがずっとよかった」と言うと、いきなり、それまでの話はすっかり頭から飛んでしまった(もともとあまり聞えてなかった?)らしく、「オレのがいいんだ!」何年洗濯してないのかわからないチェックのジャケットの胸をふくらませて、大声でリピートするじーさん。「そうそう、あなたのが優秀」調子を合わせると、ものすごく嬉しそうな顔になり、またこっちの顔を覗き込むようにして、「明日はどこ行くの? 朝迎えに行くよ」お抱え運転手にへんし~ん。明日は朝早くバスでピアッツァ・アルメリーナに行くからと断わると、じーさんはうなずき、「じゃあ、いい旅を。また来てね」と、友人とおぼしきおっさんと夜の(シケた)シラクーサの街へ消えていった。あのあと酒をのみながら、今日東洋人の観光客から気に入られた自慢話をおっさんに語ったのだろう。教訓:シラクーサでタクシーに乗るときは、ピカピカのメルセデスではなく、ズタボロのイタ車を運転してる枯れたじーさんのほうが無難。
2009.01.23
人でも街でも国でも、「もっとも華やかな時代」というものがあり、その輝きを忘れることはできないようだ。他のシチリアの都市と同様、シラクーサも長い歴史の中でさまざまな民族の支配を受けたが、この街が一番輝いたのは、古代ギリシア時代。シチリア最大のポリスとして繁栄し、アテネと勢力を競うほどだった。シラクーサには考古学地区と呼ばれるギリシア・ローマ時代の遺跡の残る地域と、主として17世紀以降に建てられたバロック建築が美しい旧市街地区がある。だが、圧巻はなんと言っても考古学地区に残るギリシア劇場(テアトロ・グレコ、紀元前3世紀ごろ)だろう。普通古代の劇場は石を積み上げて作るのだが、シラクーサのギリシア劇場は石を切り出して作った。規模ではタオルミーナを凌ぐシチリア最大の野外劇場遺跡であり、現在は減っているが、オリジナルの客席の列は67にも及んでいたという。紀元前の時代に、シラクーサではこんな巨大な劇場で人々が演劇という文化を楽しんでいたのだ。同じころの日本劣等列島では、人々はどういう生活をしていただろう? ギリシア劇場からそれほど離れていない場所に、ローマ劇場(テアトロ・ロマーノ、紀元後3~4世紀ごろ)もあるのだが、こちらはローマのコロッセオをミニチュアにして、徹底的に壊したようなお粗末なもの。写真にしてしまうと、スケール感の差が出ないのだが、実際にその場に立ってみると、シチリア最大のギリシア都市だったシラクーサが、ローマに征服されてからは、完全に「辺境の街」に追いやられた歴史の変遷が実感できる。また、シラクーサにはイタリアでも屈指と名高い考古学博物館がある。博物館の入り口に至る前庭には、手入れの行き届いたパームツリーがびっしり並び、強い日差しを受けて、幹と葉の美しい影模様が地面に描き出されている。この入念に演出された前庭の美しさを見ただけで、シラクーサという街がどれほどこの博物館を大切に思い、誇りにしているかがわかろうというもの。この博物館の入場券売り場で、窓口のお婆さんにお札を出したら、上にかざしてしげしげとチェックされた。偽札を疑っているということだ。妙に一生懸命な仕草に苦笑してしまったが、見たこともない外国人から大きなお札を出されたら、一応疑ってかかるのは、当たり前といえば当たり前だろう。こういうことを日本で外国人観光客相手にやったら、すぐ「差別」とか言って非難されそうだが、お札が本物かどうかをしっかり確認するのは、別に差別とは関係ない。そういえば、フランスのどこかの郵便局で硬貨を出したら、何度もひっくり返して見て、「これは受け取りたくない」とかって、窓口のねーちゃんに拒否されたことがあったっけ。別に腹も立てなかったが、70円かそこらの価値しかない硬貨で、しのごの言ってたあっちの態度のほうが失礼だった(さすが、おフランス)。もちろん、その硬貨は別の店で普通に使ってしまったし、そこでは「受け取りたくない」なんて言われもしなかった。さて、シラクーサの考古学博物館だが、展示物も先史時代から、エジプト、ギリシア、ローマに至る文明の遺物が所狭しと陳列され、圧巻の一言だった。立ち寄る価値は十分にあると思う。コレクションで中心を占めるのは、やはり古代ギリシア時代の遺物で、赤絵や黒絵の壺やギリシア神殿の装飾品などの充実ぶりを見ると、ここがイタリアだということを忘れてしまいそうになる。シラクーサには意外な特産品もある。それは「パピルス」。パピルスと聞くと日本人はまずエジプトをイメージするが、シラクーサではパピルスに描かれた――主として――ギリシア風の絵がお土産としてたくさん売られている。古代文明はこんなふうに海を隔てて互いに影響しあい、融合していったということだろう。断片的に頭に入っている「エジプト=パピルス(紙)」「ギリシア=(壺に描かれた)黒絵」が現在のシチリア島の街の土産屋で1つになっているのは、なんだかシュールな光景だった。アレトゥーザの泉には、今もこんなふうにパピルスが茂っている。ちなみにアレトゥーザとは、ギリシア神話に登場するニンフの名前。そして、シラクーサには、世界にその名を轟かせているスーパースターがいる。やはりギリシア時代、紀元前3世紀に活躍した数学者・物理学者にして発明家でもあるアルキメデスだ。アルキメデスはギリシア人、だが生まれたのはシチリア島のここシラクーサなのだ。そして彼は海をわたったアレクサンドリアで学問を修めている。アレクサンドリアから帰ってからはシラクーサ王へロンに厚遇され、数学や物理の研究で成果をあげた。もっとも名高いのが「静水圧の原理」。王の金冠が純金か不純物入りかを見極めるために考案された原理で、お風呂に入ったときに浴槽から水が流れ出すのを見てひらめいたという伝説でよく語られる。また、ローマの侵攻を受けた際には、さまざまな武器を考案して、これを防いだとも伝えられている。アルキメデスが死んだのは、紀元前212年のやはりシラクーサ。街を包囲したローマ軍の攻撃に巻き込まれてのことだったという。シラクーサはアルキメデスを忘れることなく、彼の名を戴いた広場もあり、マユツバだが墓もある。見所の多いシラクーサ。考古学地区でのもう1つの観光ポイントは、「ディオニソスの耳」と呼ばれる古代の石切り場。この名前自体は案外新しい。16世紀の画家カラバッジョの命名で、ディオニソスとは紀元前5世紀から4世紀にかけて実在したシラクーサの僭主。僭主とは卑しい身分からのし上がった国王のことで、ディオニソスはカルタゴとの戦いで功を立て、貧民階級の後援をえて勢力を拡大し、政権を握った。この人工的な洞窟は別名「ロバの耳」とも呼ばれる。入り口の形が似ているからだが、「ディオニソスの耳」という名前には、形のほかにディオニソスにまつわる伝説が絡んでいる。この洞窟は非常に音響効果がいい。そこで、ディオニソス王は自分に歯向かう反乱分子をここに閉じ込め、囚人同士の会話を盗み聞きして、彼らの陰謀や秘密を探ったというのだ。もちろん後世のデッチアゲで、カラバッジョ自身の創作だという説もある。もう1つはさらに悪趣味な伝説で、ここで犯罪者を拷問にかけ、その悲鳴や苦悶の声が増幅されて外に届くのをディオニソスが好んで聞いたというもの。なんにせよ僭主ディオニソスは猜疑心の強い暴君で、最終的な評価は高くなかったということだろう。さてさて、こちらはガラリと雰囲気の違う、モロ「現代」なコンクリート建築、マドンナ・デッレ・ラクリメ教会。ラクリメとは涙、つまり「涙の聖母」教会という意味だ。この教会が完成したのは1990年で、1953年に起こった「奇跡」にちなんでいる。ある市民の家にあった小さな聖母マリアの絵から、突然涙があふれ出たというのだ。調査の結果、マリアの涙は本物(つまり、人間の涙だということ)であることが判明して、そこは聖所とされ、やがて教会が建てられたという次第。悪いが、全然信用する気になれない、いかにもキリスト教的なミラクル・ストーリー。
2009.01.21
タオルミーナからシラクーサに移動する日。午後4時の鉄道に乗るので、その前にタクシーをチャーターしてタオルミーナからさらに山を登ったところにあるカステルモーラという小さな街を訪ねた。タクシーはフィックスレートで7万リラ(4200円)で話がまとまった。南イタリアのタクシーは、荷物をのせると「荷物代」を別に取られることもあるので、乗る前に「荷物代こみかこみでないか」と確認したほうがいい。荷物代取るといっても、単にトランクに乗せるだけで、しかも運ちゃんが手伝ってくれるわけでもない(苦笑)。なんで、あれで荷物代を請求するのか理解できないのだが、イタラもバーリで、運ちゃんに言われて別に払っていた。タオルミーナのホテルからカステルモーラへ行き、そこでいったん降りて昼食を取った後、迎えに来てもらって再度ホテルへ寄り、荷物をピックアップして駅までというルート。山道のつれづれに、タクシーの運ちゃんは、さかんに自分の友達のやっているホテルの宣伝をする。「次に来たときは、ぜひここに泊まって」パンフレットまで手渡す準備のよさ。「星はいくつ?」「3つ星。でもプールもあるし、食事もおいしいよ」タオルミーナにはもう当分来ないだろうなぁ…と話半分に聞いておいた。「タオルミーナのベストシーズンって、やっぱり夏なの?」「泳ぐならそうかな。でも、夏は40度になるから、観光するなら今(5月)が一番じゃないかな」とのこと。さて、カステルモーラに着くと、広場にタクシーを停め、「じゃあ、午後2時に迎えに来るから。そうそう、帰りはマドンナ・デラ・ロッカに寄ってあげるよ」「どこそれ?」「タオルミーナから十字架が見えただろう?」いいえ、気がつきませんでしたが…(恥)「あの十字架があるのがマドンナ・デラ・ロッカの教会だよ。タオルミーナとカステルモーラの間。やっぱり眺めがいいから、写真を撮れるようにちょっとクルマを停めてあげるよ」すこぶる愛想よく言って(でも、目は笑っていない)、お金はまったく取らずに去っていく兄ちゃん。カステルモーラは九十九折の山道をかなり登らないと来ることの出来ない不便な場所だが、広場にはクルマがたくさん停まり、観光客がタオルミーナの景色を楽しんでいる。広場からさらに石段をのぼって、高台へ。高台からの眺め。駐車場になっている広場におりて撮ったのが、こちら。海と空が溶け合っている。眺めのいいレストランを見つけ、2人で31000リラ(1860円)のランチを取った。フランス人がスパゲッティをフォークにのせ、ナイフで切っている姿を目撃した。それじゃ美味しくないでしょうに。話には聞いていたが、ホントにフォークにクルクルッと巻きつけて食べられないヒトがいるんだ。さて、約束の時間に広場に行ったが、なぜか運ちゃんはいない。キョロキョロしていると、もうちょっと若めの兄さんが声をかけてきた。なんと、さっきの運ちゃんは別の客を取ったので、代理で来るように頼まれたんだという。さしずめ「子分」といった風体だ。べ、別の客…あ~、おカネわたさなくてよかった。うっかり半分払ってしまったら、約束ポイされて、またこの不便な街で(場合によっては)下からタクシーを呼ばないといけなくなるところだった。値段を確認して、タクシーに乗り込む。途中でマドンナ・デラ・ロッカのことを思い出して、「寄ってくれるって言われたけど?」と聞くと、「ええっ?」完全に、聞いてないよ、って顔だ。「寄ってくれる?」と畳み掛けるとしぶしぶオーケーする子分クン。実に面倒臭そう。道の途中でタクシーを停め、「あっち」と指差す子分クン。車道をそれてちょっと歩くと小さな教会があった。ナルホド、「岩の聖母(マドンナ・デラ・ロッカ)」教会ってことね。岩というより崖と言ったほうが正しい気がするが。教会は閉まっていて中には入れなかった。その前のちょっとした広場がビューポイントになっている。確かにカステルモーラとタオルミーナの中間ですな。低くなったので、タオルミーナの街は逆によく見える。岬の先端には、ホテル・カーポタオルミーナの円い建物もなんとか確認できた。ここからなら、タオルミーナの街まで歩いて下れそう。実際に道しるべもあるから、歩道(ほとんど階段だろうけど)が街までつながっているようだった。写真を撮ってすぐ戻った。近づいてくるMizumizu母娘に気づくと子分クンはあわてたようにケータイを切った。さしずめ、「マドンナ・デラ・ロッカに寄るなんて言ったの?」なんて、アニキに確認していたのかも。別にい~じゃん、ただ道の途中でちょっとクルマを停めるだけなんだから。ホテルに着いて、またもタクシーを待たせ、フロントに預けた荷物をもってトランクに放り込むと、「じゃ、駅へ」と子分クンに。子分クン、相変わらず口数も少ない。不機嫌…というより、客あしらいに慣れていない感じだ。半島の観光地のタクシードライバーだと、土地の歴史や自慢話を明るく話してくれる楽しいプロフェッショナルもいるのだが、シチリアではどうもそういう運ちゃんに当たらない。駅で7万リラを払って事務的におさらばした。ちなみにタオルミーナから次の目的地シラクーサまでは16:10→18:18の2時間あまりの鉄道の旅。これで2人分の切符代が25,000リラ(カード決済したので、1426円)。2時間乗って1人700円ちょっとですから… ホントにイタリアの鉄道料金は安い(安かった)。
2009.01.20
シチリアに2つ残る古代ギリシア時代の野外劇場「テアトロ・グレコ(ギリシア劇場)」。大きさから言うと、シラクーサに残るものがシチリア最大だが、ここタオルミーナのギリシア劇場は眼下に広がる青い海、遠くにのぞむエトナ山という類いまれな借景を得て、イタリア屈指の絶景の地となっている。あまりにスケールの大きな景観に、ただただ圧倒される。「東京ドームを満杯にしてのコンサート」などと今の東京で言っているが、この巨大な野外劇場も、さしずめ往時はそのような位置づけだったのだろう。いや、「天・地・人」が一体になれる古代ギリシア劇場のほうが、現代の劇場より感動の演出では上かもしれない。庶民の娯楽は古代ギリシア時代からたいして変わっていないし、この時代に書かれた演劇が今でも上演されたりするのだから、虚構のストーリーに感動を求める人間の欲求も、昔も今もさして変わらないということだろう。もう少しレンズを絞るとこんな感じ。ゲーテもシチリアを旅したときに、半分埋もれかけた廃虚のテアトロ・グレコに足を運んでいる。18世紀のタオルミーナは羊飼いの住む素朴な土地だったよう。今では完全に観光の街。シチリアは古代の大ギリシア文化圏に属する歴史をもつが、いわゆる「植民地」と同義だと思うと本質を見誤る。ギリシア人がシチリアに植民してギリシア風の街を築いたのは確かだが、これらはあくまで独立した都市国家であり、ときに本家ギリシアのポリスをしのぐ繁栄を誇った。地中海世界に広がったこうした自治都市が、古代ギリシアの「植民都市」と呼ばれるのは、そうした理由から。柱頭の装飾は――あまり保存状態はよくないが――コリント式のよう。強烈な太陽が、乾いたレンガに陰を作る。真紅の花が、廃虚の壁にやけに鮮やか。遺跡見物の後は、観光客でごった返す街の中心、4月9日広場へ。さすがに世界的に有名なリゾート地だけあって、完全に観光客に占拠されている。華やいだリッチな雰囲気。ひたすら明るく輝く太陽に、からっとした気候も人々を惹きつけてやまない。ただ、こうなると街はもう1種のテーマパークになってしまう。店はお土産屋ばかり。どこもきれいに掃除され、植栽もよく手入れされているが、街角に生活感がない。働いている人もほとんどが一見さんの観光客相手なので、「味」がなくなってしまう。ゲーテの出会った羊飼いの少年は、今もシチリアのどこかにいるのかな。今のタオルミーナには、飲み物を運んだり、手軽なお土産を包んだりするだけの、すれっからしの兄ちゃんばかり。
2009.01.18
タオルミーナでの3泊目は、ギリシア劇場(古代ギリシア時代の野外劇場の遺跡)のすぐ下にある「ホテル・ティメオ」。距離的にはサン・ドメニコと目と鼻の先なのだが、荷物もあるので、またタクシーで移動。フィックス料金で、カーポタオルミーナ→サン・ドメニコのときと同じ20,000リラ(つまり1200円ほど)。カーポタオルミーナではチェックアウトするために荷物の運搬を手伝ってくれるようポーターを呼んだのだが、案の定20分待っても来ず、呆れて自分で荷物をひっぱってフロントまで行った。イタリアではだいたいこんなものなのだが、サン・ドメニコではポーターを呼んでものの10分もしないうちに、若い男性とやや年取った男性の2人が部屋に来てくれた。「さすがサン・ドメニコじゃん」と感動したのだが、よく考えたら、「呼んでもポーターが20分以上来ない」ほうが変なんだよね。でも、イタリアに行くと、来ないほうが当たり前。だんだんそんなものかと慣れてくる自分がコワイ(苦笑)。さて、ホテル・ティメオでは、「Enzo」と名札をつけたイケメン君がうやうやしく部屋まで案内してくれた。エンツォかぁ、映画『グランブルー』でジャン・レノがやった役ね……などと思いつつ部屋について、荷物をほどく前に、窓を見たら、あれっ…このホテルでも「海の見える部屋」を予約したのだが、見るといえば見えるが、視界の半分ぐらいを巨大な糸杉の木がふさいでいる。見たこともないような太く高い糸杉の木だった。さすがにシチリア。トスカーナあたりの細い糸杉とは生育具合が違う……と感心する一方で、ハッキリ言って、邪魔。そこで、フロントに電話する。「海の見える部屋を指定したのだけど、これじゃ、木の見える部屋。別の部屋を見せてもらえますか?」すると、さきほどのエンツォ君がすぐにやってきて、下の階の部屋に連れて行ってくれた。まだメイドが掃除をしてる途中だった。こちらの部屋は木は見えないが、1階低くなるので、海の眺めはそれほどでもない。どうもサン・ドメニコやカーポタオルミーナと比べると、部屋からの海の眺めは落ちるロケーションのよう。こういうことも行ってみないとわからない。部屋の内装も若干違うので、「この部屋とさっきの部屋とどっちが広いの?」とエンツォ君に聞いたら、「えっと……」と口ごもり、メイドの女性を振り返って、「どっち?」メイドの女性は、ベッドメイキングの手を休めないまま、「上のが少し広いと思う」うん、Mizumizuもそう思う。結局、最初の部屋のほうがいいと判断して、手を後ろに組んで直立不動で立ってるエンツォ君に、そう告げる。こういう面倒くさいリクエストにもイヤな顔をせずに付き合ってくれるところが、一流ホテル。簡単にまとめると…部屋の内装はカーポタオルミーナ:ファブリックなどの上質感は落ちるが近代的で使いやすいつくり。部屋も広い。サン・ドメニコ:重厚で歴史を感じさせる内装だが、部屋自体はやや狭く、ベッドも広くはない。ティメオ:豪華で装飾的なつくりになっているが、サン・ドメニコのようなアンティーク感はない。海の眺めはカーポタオルミーナ:目の前がど~んと海で、まさしくオーシャンビュー。サン・ドメニコ:天空から俯瞰するような、広~い海の景色が圧巻。ティメオ:せいせいと海は見えない(ホームページでも部屋からの海の眺めの写真はイマイチ・苦笑)。あくまでMizumizuが泊まった部屋。ティメオももっと条件のいい部屋があるのかもしれないし、カーポタオルミーナやサン・ドメニコももっと条件の落ちる部屋があるかもしれない。だが、ティメオのテラスからの眺めは圧巻だった。エトナ山がもっとも美しく見えたのが、このホテル・ティメオのテラス。こちらも山の中腹にあるから、ナクソス湾を見下ろしつつ裾野の広いエトナ山の全貌が一望のもとに見わたせる。エトナ山もとうとう雲のマフラーを取ってくれた。ブーゲンビリアとエトナ山。姿の美しさでは富士山の勝ちかな(ガッッツ~!)。ヤシの木の姿の美しさでは、サン・ドメニコの中庭に軍配。このヤシの木も相当手入れが行き届いているが、ちょっとずんぐりした姿。「つ」の字にくれたナクソス湾とその向こうのエトナ山を眺めながら、ブーゲンビリアに囲まれたテラスで飲んだスプマンテ(イタリアのシャンパン)は最高だった。こちらは夜のサロン。それなりに豪華な内装なのだが、サン・ドメニコに比べると、やはり新しいし、イタリアにある「本物の上質」とはちょっと違う気がする。アンティークな建物より、綺麗で整った雰囲気を求める人にはいいかもしれない。窓辺におかれた椅子もどこかよそよそしげ。サン・ドメニコと何か違うのかと聞かれると、案外うまく答えられない。「格が違う」「由緒が違う」という抽象的な言い方になってしまう。ただ、華やかではないが、夜景がきれいに見えた。これはほかの2つのホテルにはなかった眺め。夜、門の外に出て撮ってみた。左側の門がタオルミーナ最大の見所、ギリシア劇場への入り口で、夜は門が閉ざされる。右がティメオの入り口。昼間はここに門番が立っていて、入りにくい雰囲気。ただ、何か飲むぐらいなら、宿泊客でなくてもOKではないかと思う。レストランはランチタイムとディナータイムが短いので、ちょっと気軽に立ち寄って食べるのは、時間的に難しいかもしれないが、スプマンテ(シャンパン)やスプレムータ(生ジュース。「アランチャ」つまりオレンジがオススメ)をバールで飲むのはいつでも大丈夫かと。たとえ泊まらなくても、ギリシア劇場を見たあと、門番のお兄さんに聞いてみて、天国のテラスからの眺めを味わってみることを心からお奨めする。素通りするのはもったいない!結論:宿泊するなら、やはりサン・ドメニコが最高。ほんの7-8年前までは、ここが1泊2食つきでたった100万リラ(2人)で泊まれたのだ。100万リラというと、すごい値段のようだが、実際には6万程度。カードで決済したら、もっと安くなって正確には、57,398円(100万リラ+ディナーの飲み物代6,000リラで1,006,000リラ)だった。1人28,699円だから、今から考えると信じられないぐらい安い。いい時代だったなぁ。ユーロ導入直前のイタリア。
2009.01.17
夜、サン・ドメニコのフロントホールから中庭へ続くガラスの扉の脇には、松明の火が点され、中庭を囲むガラスの回廊はライトアップされる。中庭は幻想的な雰囲気に。中庭を囲むガラスの回廊も、昼間より夜のほうが美しい。ディナーもサン・ドメニコで食べた。いわゆる「ハーフボード」という朝・夕セットのブラン。夕食の時間に遅れ気味だったので、慌てて着替え、部屋の中ぐちゃぐちゃのままレストランへ。レストランは物凄い人で、高い天井に宿泊客の話し声がこだましていた。活気があるといえばあるのだが、期待していた優雅な雰囲気とは対極の夕食になった。カメリエーレも数が足りず、慌しく立ち回り、見ていて気の毒なほど。食事の味もたいしたことなし。部屋に戻ると、ベッドメークがされていて、ぐちゃぐちゃだった洋服類や小物類もきちんと片付けておいてくれている。それは一流ホテルの条件としては、当然といえば当然なのだが、どうも気になることが。このころはデジカメをもっていなくて、一眼レフカメラにリバーサルフィルムを持っていっていた。ディナーに行くときうっかりフィルムの入った袋をそこらに出しっぱなしにしていた。で戻ってきてみると、予備のリバーサルフィルムが1本足りないことに気づいた。ディナーの前に数を確認したわけではないので、メイドが犯人とは言い切れないが、ありがちなこと。一流ホテルとはいっても、金目のものは絶対に出しっぱなしにしてはいけない。フィルムは当時日本では比較的安価だったが、イタリアではとても高かった。<明日へ続く>
2009.01.16
タオルミーナ2日目はホテル・カーポタオルミーナからホテル・サン・ドメニコにタクシーで移動した。タクシー代は日本円で1200円ほど。乗ってる時間は10分もない。海辺の崖地から高台の街中に移動するだけ。イタリアのタクシー代は、安くはない。サン・ドメニコの予約も日本から個人でやったのだが、最初メールしたとき、「海の見える部屋はない」と言われた。もともと古い修道院をホテルに改装した建物だから、海の見える部屋は案外少ないのかもしれない。風光明媚なリゾート地では部屋からの眺めを非常に重視するMizumizu、がっかり。変な部屋に押し込められるのはイヤなので、「なら、予約はしません」とメールした。そしたら!その翌日か翌々日かにまたメールが来て、「海の見える部屋に1つキャンセルが出たので、アレンジできます」と言うではないか!あやしーなぁ…(苦笑)。そんなに都合よく、いっぱいだった予約にキャンセルなんか出るのか?というようなココロはオクビにも出さず、「それは、ラッキー。ではすぐ予約します」と返答した。するとご丁寧に、「ちょうど1部屋あいたので、すぐあなたのためにキープしたんですよ」と押し付けがましいメールが…(再苦笑)。出たッ! イタリア人の「褒めてもらいたい病」!もちろん、"Grazie! E' molto gentile!"と書いて返した。さてさて、ホテル・サン・ドメニコだが、結論から言うと、他のホテルとは明らかに、断然格が違うということ。広大な敷地が街中の観光に便利な場所にある、それだけでもう奇跡に近い。それでいて、ホテルの敷地内に一歩入ると、外の世界の喧騒とは無縁の静かな時間が流れている。ホテルといいながら、建物も庭もすべてがすでに文化遺産。由緒ある歴史が醸す重さの意味は、ネットの写真だけではやはりわからない。いや~、予約キャンセルしなくてよかった。たとえばこんなホールの空間の贅沢も、新しい近代的なホテルにはのぞむべくもない。床材の組み合わせ方、溝を刻んだ四角い柱、明かり取りの天窓、黄金のランタン、白い扉の配置、壁際に置かれた古いライティングテーブル…すべてが美的。毛足の長い赤の絨毯を敷いた長いなが~い廊下。まるで過去の世界に迷い込んでいくよう。吊るされたアンティークなランタンと窓にかかるカーテンはイエローゴールドで色調が合わせてある。部屋の内装もイエローゴールドが基調。ベッドはいっそ質素な印象。ベッドカバーのファブリックの質の良さは、ホテル・カーポタオルミーナとは雲泥の差。カーポタオルミーナはしょせん4つ星だなぁと納得。そして、なんといっても最高なのは…部屋から眺めるグランブルーの海。降り注ぐ初夏の陽光さえ可視化されている。沖を行く軍艦が、水面にぽたりと落ちたインクの染みのよう。ホテルマンの対応もきのう泊まった4つ星ホテルとは次元違い。一流ホテルかどうかは、やはりスタッフの教育がどれだけできているかで決まる。さて、部屋から出て広大なホテルを散策。まずは中庭。このヤシの木の手入れのよさには目を見張った。これほどふっくらと幹がふくらみ、葉をバランスよく八方に広げているヤシの木は、ほとんど見たことがない。ホテルのお客にしか見せないというのに。どこにでもある木を、どこにもない美しさをもった木にしてしまう。一朝一夕にはできないことだ。こういうのが本当の贅沢というもの。イタリアの上流階級は真の豪奢をよく知っている。ブーゲンビリアはてんこ盛り状態。この中庭は名高い「ガラスの回廊」に取り囲まれているのだが、その回廊の美しさは夜最高に引き立つ。なので、夜の回廊の情景は明日に譲って、建物の前面に広がる庭に出てみよう。海へそのまま続いているような錯覚をおぼえる道。敷き詰めた丸い小石にまで美意識が感じられる。いやはや、本当にすごいホテル。庭から見た海。左に見える海に突き出た岬の上の円く平べったい建物が、きのう泊まったカーポタオルミーナ。庭から戻ったところで、ちょっとした喫茶コーナーで生レモンジュースを飲んでいる日本人のシニアグループに会った。あまりいい場所ではなくて、外部の人はしいたげられる感があった。宿泊客以外にはあまり来て欲しくないタイプのホテルだということかもしれない。喫茶やレストランにも力を入れて、宿泊客でなくても豪華な気分を味わえるようにしているホテルも多いが、サン・ドメニコは明らかにそのタイプではなく、保守的・閉鎖的な雰囲気。もちろん泊まってる人間にしてみれば、そのほうが落ち着くが。Mizumizuたちが通りかかると、おばちゃんの1人が、「あら、ここにお泊り? いいわねぇ」だって…。何と答えていいのやらわからず、苦笑い。日本人グループはそのあと、庭に出て記念写真など撮っていた。庭だけなら、こうやって喫茶ついでに散策しても文句は言われないよう。<明日は夜のサン・ドメニコをご紹介します>
2009.01.15
シチリア随一の観光地、タオルミーナ。海あり、エトナ山あり、遺跡あり。おまけに気候もよく5月にはもうブーゲンビリアが咲き誇る。タオルミーナには有名なホテルがある。一番は「サン・ドメニコ」。修道院を改築した由緒あるホテルで、格式で言えば間違いなくナンバーワン。いや、イタリア屈指の名ホテルの1つと言ってもいいかもしれない。だが、Mizumizuにはど~しても別に気になるホテルがあった。1つは「カーポタオルミーナ」。ここは新しいリゾートホテルで、タオルミーナの街中からは離れているが、海に突き出した崖の上に立つロケーションが最高で、映画『グランブルー』の撮影にも使われた。『グランブルー』には、「サン・ドメニコ」にある名高い回廊も出てきて、この2つのホテルが1つのホテルのように描かれている。もう1つ気になるホテルは、タオルミーナ最大の見所、ギリシア劇場(といっても建物ではなく、ローマ劇場と同じく野外劇場の遺跡)のそばにある「ティメオ」。ぜ~んぶ、気になる。ぜ~んぶ泊まりたい。しかし、タオルミーナにそうそう何度も来るとは思えない。よし! じゃ、一度に3つホテルをハシゴしようじゃないの!というワケで、タオルミーナ3泊全部違うホテルという、あわただしい日程を組んだ。まずは、メッシーナからバスの乗ると、タオルミーナの街に入る前に通るホテル、「カーポ・タオルミーナ」を日本から個人で予約した。「海の見える部屋」をリクエスト。本当かどうか未確認なのだが、カーポ・タオルミーナには窓のない部屋もあって、そういう部屋を割り当てられると最低らしい。日本人の旅行記で読んだのだが、「部屋を指定する」という習慣のない旅行者(主に日本人)だと、この手の「悪い部屋」に押し込められることはままある。おまけに日本人はおとなしいし、同じ値段でも部屋によってずいぶん格差があるということを知らない人も多いので、いきおい貧乏クジを引かされることになる。メッシーナからバスに乗り、バスの運転手に、「ホテル・カーポタオルミーナに着いたら教えて」と言ったら、「ああ、じゃあジャルディーニで降りるんだね。いいよ」と気軽にオーケーしてくれた。もちろん「運転手は忘れるもの」を前提としているMizumizuは、前のほうの席に座って、時間になったら運ちゃんにガン飛ばそうと思っていたのだが、あいにくあいていなかった。仕方なく後ろに座る。やや寂しいメッシーナの街から出発したバスは海岸線を走る。20分もすると景色は次第に暖かそうな、リゾートっぽい雰囲気になってきた。海のすぐそばまで山が迫り、崖に張り付くように建物が立っている。車窓を眺めながら思ったのは…あ、熱海みたいだ…建物はカラフルなのだが、基本は熱海(苦笑)。と、タオルミーナにバスで入ったときの正直な感想を、後日イタリア好きの友人に話したら、「熱海よりはずっとステキなところでしょ」と一蹴された。時間を見て、そろそろ着くころだと思い、うっかり通り過ぎたら大変と、立ち上がって前のほうへ歩いていった。すると、それを見とがめた運ちゃんに、「座ってろ!」とすごい剣幕で怒鳴られた。「次がジャルディーニでしょ」「まだだよ! 危ないから座ってろ!」あくまで怒鳴る運ちゃん。イタリアの公共バスの運ちゃんは、こんな感じの人が多い。注意するときは躊躇なし、容赦なし。別の旅行のときも、後ろで高校生ぐらいの男の子が煙草を吸ったら、問答無用で怒鳴りつけていた。大人しく座って待っていると、どうやらそれらしいホテルが見えてきた。ホテルの前は広場のようになっていて、万国旗がはためいている。乗り過ごす心配もなく降りてホテルへチェックイン。近代的なホテルで、情緒はそれほどなし。ただ、新しく開発したエリアに建つホテルだけあって、ホールは広々。部屋に案内してくれたのは、ナヨったにーちゃんだったが、こちらの荷物を持つでもなく、知らんぷりしてオシャベリしていた。古いホテルではないので情緒には欠けるが、部屋もそれなりに広く、窓からはグランブルーの海とイーゾラベッラ(美しい島という意味)が見える、最高のロケーション。朝、日の出が見たくて早起きした。早起きは三文の得――いや、それ以上の感動的な景色をベランダから堪能できた。シチリアで見たもっとも美しい朝の色だった。内装は軽やかでモダン。手書き風の模様を入れた壁とレモンをあしらったランプが個性的。だが、カーポ・タオルミーナの最大の魅力は、エトナ山とイーゾラベッラを一望できる広いテラス、それにプライベートビーチにある。こちらが海に向って開かれた広大なテラス。右端にエトナ山が映っているのだが、この山、案外雲がかかっていることが多い。この日は一日中、マフラーのような雲が取れなかった。こちらはもう1つの絶景、グランブルーの海に浮かぶイーゾラベッラ。ブーゲンビリアは日本にもあるが、シチリアのほうが花の色が濃い気がする。この洞窟は?実は、エレベータでホテルのプライベートビーチに向う途中の通路。崖をくりぬいて作ったのだ(呆)。暗い洞窟のような通路をしばらく歩くと…青い海の広がるプライベートビーチ。さらに進むと…ここでは、トップレスで日焼け中の女性とか、半裸で絡み合う完全発情中のカップルとか、やりたい放題のイタリア人客が多くて、カメラのレンズを向けるのは非常に気が引けた。Mizumizu母は、カルチャーショックを受けたらしく、早々に引きあげようとする。もともと海派というより山派のMizumizu母。ヨーロッパのこういう場所ではあまりくつろげないらしい。夕食はホテルで食べた。もともと2食つきで予約したのだが、「今日の水揚げ」という別料金のメインを頼んでみた。氷満載のワゴンに魚がどっさり乗ってやってきて、ついつい雰囲気にのまれて注文してしまったというべきか(苦笑)。Mizumizuは舌平目、母はイセエビ。イセエビはやや茹ですぎの感があるものの、美味しかったよう。舌平目はハズレた、というより、その前のアンティパスト(前菜)とプリモ(第一の皿)でお腹がいっぱいで、セコンド(第二の皿、これがメイン)までたどりつけなかったというのが正解。ただ、この手の魚をチョイスして料理してもらうスタイル、シチリアでは避けたほうが無難かもしれない。値段を聞くと、「100グラムでいくら」としか答えてくれなくて、「これ」と指した魚がどのくらいの重さなのかは相手任せなのだ。タオルミーナの街中に「グロッタ・アズーラ」という有名なレストランがあるが、イタリア在住の友人が、家族を連れてここで食事をし、別テーブルに運ばれていたおいしそうな甲殻類(カニの仲間だったらしい)を見て、思わず「あ、それ食べたい」と頼んだら、あとから日本円換算で1万円(!)も請求されたらしい。ハッキリ言って、完全にぼったくり。でも重さで値段を決めるこの手の料理は、ぼったくりが防げない。イタリアに住んでいてイタリア語を話せる人ですらこんな目に。だいたい日本人も悪いと思う。「こんなの日本で食べたら1万円ぐらいする」などと、お世辞半分で言うから現地のシチリアーノが真に受けて、図に乗るのだ。「へ~、日本てそんなに高いんだ。じゃ、1万円請求しても大丈夫なんだな」。「グロッタ・アズーラ」はMizumizuも行ったのだが、いい印象はない。店の表の看板を見ていたら、店の男の子が寄ってきて、「入れ入れ」と言う。「ウニとかカラスミのパスタある?」と聞いたら、満面の笑みで(でも目は微妙に笑ってない)、「ある」で、メニューで値段を確かめる間もなく、店に連れ込まれ(苦笑)、「ウニのスパゲッティとカラスミのスパゲッティ!」と厨房に怒鳴り、別のおじさんカメリエーレ(ウエイターのこと)が、すかさず、大瓶の水を持ってくる(当然2人じゃ飲みきれない)から、「小さいのは?」と聞いたら、「シチリアにはない」なんて言ってた。ウソつけよ、まったく。ウニとカラスミのパスタだけ食べたのだが、1皿日本円で1700円ほど。今はどうなっているかわからないが、この値段は当時あのレベルのレストランのパスタとしては妙に高いと感じた。味のほうはまあまあ。「1万円取られた」友人の話を先に聞いていたら、ゼッタイに入らなかったのだが、残念ながらその話を聞いたのはシチリア旅行の後だった。タオルミーナに行って、レストラン「Grotta Azzurra」で食事するなら、くれぐれも値段にご注意を。グラムで値段を表示して料理してもらう魚料理は避けたほうが無難。いかにもおいしそうに店先に魚を並べてるから、雰囲気とカメリエーレの調子のよさにのまれないように。<続く>
2009.01.14
また一部で「危険なサイト」という警告が出るようになりました。楽天に問い合わせたのですが、「再現性がなく、原因は不明」とのことでした。なんら危険な情報は含まれておりません。安心して閲覧ください。イタリアの国内旅行は、プルマンと呼ばれる長距離バスの旅が便利で安い。街から街への移動なので、鉄道旅行では味わえない景色が堪能できる。古い街が多いイタリアは、街中に入ると道も細く、入り組んでいるが、郊外に出ると道も広く、緑豊かな草原や畑が広がっている。のびのびとした自然風景と生活感あふれる街の情景を交互に楽しめるのがプルマンの旅の醍醐味。バーリからはシチリアのメッシーナという街に直通のバスが出ている。バーリ8:30→メッシーナ15:00 メッシーナで乗り換えて、目的地のタオルミーナまでは30分ほど、という長旅。もちろん昼食時にはサービスエリアで長めの休憩を取ってくれるし、トイレ休憩的な停車もある。明日はシチリアへ経つという夜、イタラの女友達の息子のアルトゥーロが、わざわざMizumizuたちに挨拶に来てくれた。アルトゥーロは当時22歳で、シチリアにある大学の工学部で学んでいた。とてもイケメンで、かつとても性格がよく、おまけにものすごく親切。以前のプーリア旅行でカステラーナ洞窟(グロッテ・ディ・カステラーナ)という素晴らしい鍾乳洞を見学に行ったときは、愛車のミクラ(日産のマーチ)を出して、連れて行ってくれた。バスの便が非常に不便なところなので、大助かりだった。Mizumizuたちが今度はシチリアへ行くというので、やってきて、「エトナ山(←シチリアの有名な火山)と富士山って似てるよね」とか「富士山って何メートル?」などと軽い会話で楽しんだ(富士山が3776メートルだというと、「高いね~」と感心していた・苦笑)。Mizumizuもこのとき初めて、エトナ山より富士山のほうが高いと知った。アルトゥーロのオススメの食べ物は「アランチーノ」。直訳すると「小さなオレンジ」だが、果物ではなく、実は一種のライスコロッケ。カタチが小さなオレンジに似ていることからこう呼ばれている。シチリア名物で、彼のお気に入りだとか。屋台料理みたいな軽い食べ物で、高級品ではない。「ゼッタイ試すべき」はいはい、アランチーノは食べたいと思っていたから、試しますよ、もちろん。翌朝はイタラのマンションの管理人さんがクルマを出してくれ、バス停まで送ってくれた。ホント、至れり尽くせり。個人のバス旅行は、まずバス停を見つけるのが一苦労。鉄道旅行よりはるかに神経を使う。基本的にバスの中では切符は売らないから(フィレンツェの市内バスのように車内で買えるバスもあるが、基本的にはバスの運ちゃんは切符は売らない。知らずに乗ってしまうとあとから検査官が乗ってきて罰金を取られる)、切符売り場を発見するのも一苦労。長距離バスのターミナルなら立派な切符売り場があることもあるが、大きなバスターミナルがない街だとタバッキ(煙草屋という意味だが、日常雑貨なども置いている)で売るのが普通。停留所で買えないことも多く(というか、ほとんど停留所では買えないと思ったほうがいい)、切符を売ってる店がバス停のそばにないこともしばしば(←日本人には信じられない話でしょうが)。今回のシチリア行きはイタラが事前に切符を買っておいてくれた。バスの切符を買っておいてもらえるだけで大感激できるようになる国、それがイタリア。席は運転席の後ろではない、最前列2つを予約してくれたという。ところが…!バス停に行ってみると、すでにバスは来ていて、乗客も乗っている。しかも、一番前の席にはチャッカリおばちゃん2人連れが座っているではないか。「すいません。ここの席予約したんですけど」イタラが思いっきり高飛車な口調で抗議。ところが、おばちゃん2人はぜんぜんひるまない。「私たちもここを予約したのよ、ホラ」切符を振り回してわめき、「あなたたちは、そっちでしょ」運転席の真後ろの席を指し示す。「え… でも、確か私はここの席のチケットを…」イタラはいきなり弱気な声音になり、手元の切符をしげしげ。席の番号と照らし合わせようとするのだが、肝心の席のどこに番号が書いてあるのかわからない!(←イタリアですもの)運転席の真後ろの席はあいているので、Mizumizuたちはそっちに座り、「ここでいいから」とイタラに伝えた(←基本的に揉め事は避けたい日本人・苦笑)。おばちゃん2人はテコでもどきそうにないしね。定刻どおりバスは出発。なが~いシチリアへのバス旅行の始まり。ところが!しばらくしたところで、30歳ぐらいの女性が1人乗り込んできて、「私、ここの席を予約したんですけど」とMizumizuたちに言うではないか!ハア~?「私たちもここを予約しました」答えながら、上の棚にのせたバッグから切符を取り出して確認しようとしたら、「あ、じゃあ、いいですよ。後ろに座るから」と感じよく女性は後方の席へ。日本人は自分が予約した席に他人が座ってると、いきなりムチャクチャ腹を立てたりするのだが、イタリアでは案外寛容。これは鉄道でもいえることで、予約した人が来るまでは、別に誰が座っててもいいでしょってノリだ。もし自分が予約した席に他人が座っていたら、そう言えばどいてくれる。変にツンツンしないことだ。習慣が違うと思ってください。Mizumizuたちも知らずに予約席に座っていて、男性が、「ここボクの席です」と切符を見せるので、どこうとしたら、「あ、いいですよ。ボクが別の席に座るから」と譲ってもらったこともある。じゃあわざわざ声かけることないじゃん、と思うかもしれないが、ここがイタリア男のミエミエなところ。「本当はボクの席だけど、ボクは親切だから譲ります」と一言言いたいのだ。つまり、褒めてもらいたいワケね。こういうときは、もちろん大げさに、「ありがとう! とっても親切ですね!!」(グラ~ツィエ! エ・モルト・ジェンティーレ!)と満面の笑みで感謝の気持ちを伝えよう。テコでも動きそうにないおばちゃんと違い、若めのイタリア女性は親切だった。後方へ行く彼女へ向って、もちろん、「グラ~ツィエ! エ・モルト・ジェンティーレ!」しかし、いい加減だなぁ。いったいどういう発券の仕方をしてるんじゃ…と思って、再度しげしげ席の番号を探してみると…あっ!おばちゃんたちの座ってる席の番号が、座席の横の下のあたりに書いてあるのが見えた。Mizumizuたちの切符の番号と合っている。なぁんだ、やっぱりイタラが正しかったのネ。おばちゃんたちの切符の席が違っている可能性が高くなったが、もういまさら切符見せてもらって、このテコでもどきそうもないおばちゃんたちにテコをきかせるのもメンドウなので、そのままに。親切な30歳ぐらいのイタリア女性には、悪いことしちゃった。多分彼女の言っていることは正しいんだろう。イタリア半島とシチリア島は狭い海峡で隔てられていて、その名もまさにStretto(ストレット。狭いという意味)というのだが、橋がかけられていない。この不便さは、Mafiaに牛耳られたシチリア島との行き来が、あまりに簡単にならないようにという政治的な配慮があると聞いたが、詳しいことは知らない。バスはフェリーに乗り、海を渡る。やはり時間がかかった。橋がかかれば簡単だろうに。上陸するとすぐにメッシーナの街に着いた。バス停は思った以上に淋しく、バーリ8:30→メッシーナ15:00 メッシーナ15:25→タオルミーナ16:09の乗り換え便がちゃんと来るのか不安に。切符売り場で聞いたら、「すぐに来る」とのこと。がらんとしたバス停で待つ時間は、かなり長く感じた。ユーロ紙幣・硬貨導入の直前のタイミングだったのだが、リラ(当時のイタリア通貨)は大変に安かった。円高だったというべきかもしれないが。メッシーナからタオルミーナまでのバス代は2人で600円ほど。つまり1人300円。バーリからメッシーナまでのバス代も6時間半乗って1人確か3000円ほどだった。その後イタリアは急激なインフレに見舞われたが、バスや鉄道などの公共料金はまだ、かなり安いと思う。
2009.01.13
最初にアルベロベッロを訪れたときに、欲しいと思ったものの、かさばるし、重いし、壊れやすそうなので、買わなかったトゥルッリの置物。今度は意を決して買うことに決めて来た。安価で手ごろな小さいものがお土産屋に売られているのだが、当然こういうものは質が低い。一方で、石職人(実際に屋根の修復を行う職人)が作っているトゥルッリの置物は、実際のトゥルッリに使われる石を使った本格的なミニチュア。どうしても本格的ミニチュアのほうが欲しくて、石職人のアトリエを捜し出した。しかし、実際に見てみると、やっぱり重そうで、壊れやすそう。「日本まで運んでる間に壊れそう」と職人兼売り子のおじいさんに言うと、「大丈夫! 壊れたらのりではりつければいいから! 本物もそうしてるよ」胸を張って、太鼓判を押してきた。そ、そうか。確かに素材は石だし、屋根が崩れたりしたら修復すればいいのネ。というワケで、買ったのがコレ。幅約20センチ、高さ約12センチ。価格8万リラ(約4,800円)。左の屋根の天辺が微妙に左に曲がっているのに気づきましたか? やっぱり壊れたので、修復したのです。まっすぐに直せなかったのは、ひとえに修復の腕の未熟さ。買い物も無事すませ、アルベロベッロを去るMizumizu一行。アントニオはふだんは超おとなしい紳士なのだが、ハンドル握ると人格一変。F1目指してるのかよ? ってなノリでぶっとばす。さすがモータースポーツの本場、イタリア。と感心するより、ハッキリ言ってコワイ。おまけにクルマの後ろに乗っていたら、グネグネした田舎道で酔ってしまった。とうとう耐えられなくなり、「気分が悪いから、ちょっととめて」とクルマを停めてもらい、休憩して、ついでに助手席のイタラと席をかわってもらった。さらに、5月とはいえ、30度を越す気温と強烈な南イタリアの太陽光を浴びて、イタラ邸に帰ってから気分が悪くなった。もともとちょっとした太陽アレルギーがあり、直射日光に長くあたると皮膚に湿疹ができる。家で具合悪そうにしてるMizumizuを見て、イタラが、「どうしたの?」と聞くので、「太陽に当たりすぎて、気分が悪い」と答えたら、「変なの」と怪訝顔。へ、変ですか?イタリアにだって熱中症とか日射病ぐらいあるだろうに。「太陽の国、イタリア」と言うが、5月の太陽ですでに具合が悪くなるヤワな日本人のMizumizuは、南イタリアではとても長くは暮らせない気がする。さて、ここでMizumizuファミリーの本の宣伝。気楽な母娘旅のパートナー、Mizumizu母が1999年に出版した「イタリア・プーリア州2人旅」。すでに市販はされておりませんが、直販は可能ですので、ご希望の方に販売いたします。定価:1500円(消費税・送料込み)。購入ご希望の方は、住所・氏名をお書き添えのうえ、メールにてお申し込みください。今回のMizumizuブログの旅はバーリからシチリアに向かいますが、「イタリア・プーリア州2人旅」は、その前の旅、文字どおりプーリア州をめぐる個人旅行のお話です。イラストもMizumizu母。イタラとの出会いの詳細についても綴られています。意外なイタラの年齢にビックリするかも? また、風光明媚なプーリアの街が写真つきで紹介されています。内容は…プロローグ――アルベロベッロのトゥルッリイタラ・サントルソーラ――ある出会い脚光を浴びる「国の恥辱」――マテーラの洞窟住居トマトつかの間の栄光――カステル・デル・モンテ白い宮殿――グロッテ・デ・カステラーナバロックのまち、レッチェなどです。
2009.01.12
アルベロベッロはプーリア州の小さな街。トゥルッロ(複数形でトゥルッリ)と呼ばれる特異な円錐形の屋根の住居建築で有名だ。まるでおとぎの国に迷い込んだようなファンタジックな景観が広がる。ここに来るのは2度目。最初に訪れたときは、トゥルッリにもまだ日常的な生活感があったが、あっという間にテーマパーク化されてしまった。生活するには、狭くて不自由なトゥルッロ。今ここに実際に住んでいる人はごくわずかだという。屋根に描かれたマークは魔よけだとか。今は、トゥルッリはほとんどがお土産屋になっている。あるお土産屋の女主人が屋根の上に登らせてくれた。木製の狭い梯子を登ると、屋根の上には案外広いスペースがある。屋根の上から見るトゥルッリ群は、なかなか壮観。アルベロベッロに行ったら、是非どこかの店で上に登らせてもらおう。屋根は、石を扁平に砕いて積み重ねる。16世紀には、家屋にかかる税をのがれるため、税の取立人が来ると、石を屋根からはずして、「これは家ではありません。だって屋根がないから」と言い張ったとか。おとぎの国のような風景だが、耕すと石灰岩がゴロコロ出てくる痩せた大地に乾いた気候――ここに住む農民はずっと貧しかったのだ。ところでこのアルベロベッロ小旅行。バーリからイタラのBFのアントニオのクルマで行ったのだが、朝時間通りに迎えに来たアントニオ氏にイタラったら…「なんて時間に正確なの! 正確すぎるわよ!」とどなりつけ(わたしらはまだ支度ができてなかったのだ)、ドアも開けずに外で待たせたのだった。すごいなァ・・・ イタリア女性追記:署名サイトへのご協力ありがとうございます。読者の方からのご指摘が多かった、「提出先」問題ですが、発起人のsindoriさんへ皆様の意見を伝えたところ、「おかしなフィギュアスケートの採点をなんとかしたい!」については、テレ朝の他に、新聞社、JOC、IMG、「国別対抗戦反対」の方は、日本スケート連盟のほかに、新聞社、IMG、Olympusにも送付することが決まりました。詳しくは署名サイトをご覧ください。http://www.shomei.tv/project-603.htmlhttp://www.shomei.tv/project-608.html
2009.01.11
21世紀に入ってまもないある年の5月。Mizumizuは母とともにシチリア個人旅行を計画した。旅の計画の立案に協力してくれたのは、イタリアはプーリア州バーリに住む友人のイタラだった。「シチリアに行く前に、絶対にバーリにも寄ってね」の言葉に誘われて、日本からローマに飛んだMizumizu&母は、南へ向うインターシティに乗り込み、バーリに向った。ローマ7:40→バーリ12:31プーリア州は長靴のカタチをしたイタリア半島の東南、カカトからふくらはきぐらいまでの部分にあたる。バーリは州都でアドリア海に面した都会。駅前には整備された新市街。イタラのアパルトマンは、駅から歩いて7-8分の目抜き通りにある。日本風に言えば「都会の一等地に建つ高級マンション」。新市街を抜けると細い路地の入り組んだ旧市街が広がり、観光スポットでもある聖ニコラ教会もこのエリアに。聖ニコラは、サンタクロースの語源になった聖人で、バーリの守護聖人でもある。ニコラ像の周りには花がいっぱい。聖ニコラ祭では、この聖人像がかつがれて街中をねり歩く。こうした聖人祭、日本人には、『ゴッドファーザー』の1シーンというと、イメージがつかめるかも。聖ニコラ教会の裏手では静かな時間が流れていた。鉢の置き方もなんとなく詩的夜はお祭りがあるというので、旧市街へお出かけ。「カメラを取られないように気をつけて」とイタラから厳重注意が。明るく近代的な新市街と朽ちたような建物の並ぶ旧市街では、そこに住む人々の生活レベルの違いがくっきり。新市街は別にフツーの都会の街だし、歩くには旧市街のほうがおもしろいのだが、イタラ曰く、「夜は私だって1人では歩かない」とのこと。イルミネーションの「門」が教会への道を飾る。神戸のルミナリエ? と思うかもしれませんが、場所は南イタリアのバーリです。こちらのイルミネーションのほうが、日本のこの手のイルミネーションよりずっと素朴。こちらもまるっきり東京ミレナリオの縮小版。もちろんイタリアのほうが元祖です。「このイルミネーション、ここでのお祭りが終わったらどうするの?」とイタラに聞いたら、「たぶん、たたんで次の街へ持っていくんでしょ」とのこと。イタリアの元祖ルミナリエ・ミレナリオは巡回方式だったのネ。<明日はバーリの近郊、アルベロベッロを紹介します>追記:引き続き、フィギュアに関する署名を募集しています。内容をよくお読みいただき、ご賛同いただける方は、署名をお願いいたします。署名の集まり方の速さに驚いています。いかにおかしなルールと選手を消耗させる商業主義にファンの怒りが高まっているか、如実に見る思いです。http://www.shomei.tv/project-603.htmlhttp://www.shomei.tv/project-608.html
2009.01.09
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