仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2023.09.26
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カテゴリ: 仙台


大倉ダムの先にある定義山西方寺。その更に先に開けている集落が十里平である。美しい山間の桃源郷にもみえるが、開拓は苦難の歴史だった。

■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』
 蕃山房、2021年 から。なお、おだずま要約しています。

『十里平』(元仙台市八木山校校長(ママ)佐藤達夫)を参照した十里平開拓の歴史。
 戦後、樺太の残留者は昭和23年1月までに帰還した。宮城県は昭和22年樺太引揚24家族を受け入れ、広瀬村の農学寮に一時的に暮らした。十里平と愛子のうち、開墾すれば農業で暮らせるということで、十里平(西方寺奥の原野)に入植した。
 十里平には営林署関係の家族4-5軒が住んでいた。昭和23年夏、12家族が荒野に入植。家族人数に合わせて1町5反、2町5反など割り当てられ営林署から借りた。笹小屋に住み、刈り払い、立木伐採から開墾に従事。食糧事情不安で毎日の収入もなく、焼き畑でようやく大豆、小豆、大根を収穫するが、米がなくて、山菜(ミズ)、栗、キノコなど主食にした生活は想像を絶した。
 昭和23年笹小屋の大倉小学校十里平分校が設置。開拓者の生活改良のために、庄子長喜さんが村、県、国に陳情請願の苦労をしたもの。24年8月に開拓地の指定を受けて、1反歩に4千円の経費が出て、開拓は重労働であることから加配米を追加。その後、さらに15家族が入植。全部で27軒に1戸あたり3町歩の原野が与えられた。
 昭和25年に引き上げ住宅は建坪6坪割り当てられたが、小さくて暮らせないと陳情して8坪と補助金が配布され、笹小屋から寒さをしのぐ住宅で暮らすことができた。
昭和27年、県から貸金で赤牛を毎年2-3頭飼育した。堆肥もでき、ジャガイモ、大豆、トウモロコシ、麦など栽培効率が良くなった。道路はなく、森林鉄道(トロンコ線)を歩いて定義まで通った。
 昭和35年一部の人が田んぼを耕作したら収穫良かったので、開田しようと、県に請願して1戸当たり3町歩をめどに許可された。36年、県に開田計画を請願して、国からの45%補助の残りは農林公庫から借金した。昭和36年12月には稲田に引く水を谷川からポンプアップするために電気が引かれ文明の灯がともる。
 昭和38年に水田耕作は国の補助で行われ、ランプ生活からテレビや冷蔵庫の電気生活に。森林鉄道道路から開拓道路も整備され、自家用車を持つ新たな高原生活の誕生となった。
 昭和44年、米の生産調整の減反政策で、転作に5割の補助金。離農者が転出し始めた。昭和46年十里平分校が廃校。
 昭和48年には県の指導で休耕田を5割の補助金で牧草地に転換。稲田はデントコーン畑や牧草地に代わり、道路も整備されて本格的な高原酪農集落に。当時の集落民は14家族(おだずま注:お名前が記されている)。
 Sさん(94歳女性)の話。樺太で生まれ結婚後、終戦を迎え、2年後に北海道から引き揚げ。宮城農学寮の引揚者住宅に住んでいた。著者(おだずま注:昭和10年生まれの加藤さん)は、実家が米の配給所で、国の決まりに従って精米7部つきを配給したが、ソ連の酸っぱいパンより黒いのでもう一度精米してくださいとSさんから声をかけられたことを覚えている。小学6年生だった著者の加藤さんは、精米の手伝いをしながら、敗戦後樺太での危険な生活や、帰国までの苦労話を真剣に聞いた。まもなく農学寮から十里平の開墾生活に入ったSさんは4人の子宝に恵まれ高原で力強く生きた。Sさんは、入植した70年前は27軒も家があり、大変な開墾を乗り越え、学校で運動会やお祭りもやって活気があった。定義まで道路もなくトロンコ道を歩くので体の弱い人は大変だった。若い頃から農作業が忙しく夫婦げんかの暇もなかった。町に住む娘の家に暮らせと言われても、70歳過ぎると町では暮らせない。自由なここの暮らしが良いんだよ、とSさんのお話。Sさんの孫が牧場主人の仕事に追われる一方、定義夏まつりなどを支えている。

■関連する過去の記事(定義について)
定義(如来)をどう読むか (2023年09月23日)
定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か (2012年6月17日)
東北の難読地名 (2012年6月16日)
定義森林鉄道 (2011年9月11日)
定義如来西方寺 (08年4月12日)

■関連する過去の記事(朴沢、中山道など。朴沢も山あいの純朴な集落。)
国見峠と芋沢街道 (2016年6月21日)
七北田川の源流 光明の滝 (2015年9月14日)
中山峠の狼 (2011年10月6日)
中山道と狼石 (2011年1月13日)
中山道を考える(再び) (09年11月23日)
忘れられた宿場町 根白石 (09年11月4日)
朴沢の話 (09年5月13日)
朴沢をめぐる(続・画像) (09年5月2日)
朴沢をめぐる (09年5月2日)
中山(なかやま)道を考える (09年3月25日)
中山道のむかし (09年3月23日)

■関連する過去の記事(宮城県内の戦後の開拓)
ノンちゃん牧場のいま (2016年6月4日)
栗駒耕英の開拓史(後編) (2013年12月31日)
栗駒耕英の開拓史(前編) (2013年12月7日)





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最終更新日  2023.09.26 18:00:08
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