仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2013.08.18
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カテゴリ: 東北
〔前回から続く〕
■前回の記事
津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その1) (2013年7月20日)
津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その2) (2013年7月25日)
津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その3) (2013年8月15日)

宮崎道生『青森県の歴史』山川出版社、1987年(2版12刷)による。

陸奥の国が平静になったのと対照的に出羽方面には反乱が起こる。貞観17年(875)11月に「渡島の荒狄反叛し、水軍八十艘、秋田・飽海両郡の百姓二十一人を殺略」(三代実録)するという事件があった。この渡島の荒狄は男鹿地方の蝦夷と考えられるが、次の元慶2年(878)の事件にははっきりと津軽蝦夷が登場する。

すなわち3月15日に夷俘が反乱を起こし「秋田城・郡院屋舎・城辺の民家を焼く」という事件が起きた。出羽国司藤原興世は、陸奥国からの応援をえて鎮定にあたったが成功せず、政府は田村麻呂の孫坂上好蔭(よしかげ)、藤原保則、小野春風らを派遣する大乱に発展した。「三代実録」の記事によれば、秋田城下の賊地は12カ村に対して、向化の俘地(俘囚の地)は秋田城と雄勝城の間の3カ村に過ぎず、政府軍はこの3カ村を味方として上野国などの援兵をもって応戦の体制をとったが、津軽地方の蝦夷も南下する形勢にあった。

出羽の国司は「津軽の夷俘は、其の党多種にして幾千人なるを知らず、天性勇壮にして常に習戦を事とす。若し逆賊に速(招)かば、其の鋒当たり難し」(三代実録)として、応援の軍を要請している。しかし結局は津軽蝦夷の南下はなく、8月29日賊300人余が降伏し、12月には渡島の夷首103人が種族3000人を率いて秋田城へ入り、津軽の俘囚で賊と結ばない者100余人とともに帰順して、この大乱は終わった。

政府は田村麻呂、綿麻呂らに蝦夷を征討させ植民政策を進めるとともに、俘囚を内国に移して宮廷の労役に従事させたり、九州の防人にあてたりした。同時に、同化政策もとり、俘囚長を任命して間接的な支配組織を作り、賜物や位階授与、郡司、村長への任命などを行い、やがて夷俘の姓をのぞき、口分田を支給して課役の民とし内国の民と同じに取り扱う方針をとった。

文献には「出羽の俘囚」「陸奥の俘囚」とのみあってわからないが、津軽蝦夷の大部分は未征服、未教化の俘囚であったから、こういう取り扱いを受けるには至っていなかったであろう。このような経営の進展に連れて東北地方にも律令制度が適用されたわけで、土地区画制度である条里制の跡が、飽海郡、秋田市北郊、仙台平野、胆沢城付近などで認められる。これらは城柵や寺院もあり、東北経営の拠点となった地域であった。

開拓の拠点を中心とし辺境の地にも可能な限り律令体制をおしおよぼそうとした有様がうかがえるが、しかし律令制度そのものも平安中期にはくずれ、東北地方は蝦夷の族長を俘囚長として部族的政治組織を形成したのである。伊治公、須賀君、などの「君」「公」の姓は中央政府との関係における族長の地位を示すものであろう。

東北地方南部では5、6世紀に米作が一般化したとされ、雷神山古墳(名取市)は6世紀の前方後円墳でこのあたりが農耕社会を形成したことを示す。陸奥、出羽両国の米の生産力はかなりのものだったが、米以外にも馬が大きな役割を持っていた。すでに養老2年(718)に出羽渡島の蝦夷が1000匹の馬を献上したとの伝承があり(扶桑略記)、延暦6年(787)正月の太政官符によると、軍用馬確保のため王臣、国司らが競って狄馬を買うことを禁じる旨の詔がでている。このほか、「延喜式民部」には交易雑物として、葦鹿(あしか)皮、熊皮、砂金、昆布があげられている。

それぞれの住民集団による文化の差があろうから、これら陸奥、出羽の両国の一部の状況をそのまま青森県にあてはめることはできないが、田舎舘遺跡や下北郡宿野辺の土器の圧痕による米作の推定(伊東信雄氏)があり、米作文化が東北南部より著しく遅れていたとは断定できない。八戸市沢里の鹿島沢小円墳群は奈良時代末か平安初期とされ、鉄製の太刀と刀子、須恵器の提瓶、横瓶や勾玉、管玉、金銅、銀銅製品などが発掘されたことは、稲作文化の存在を推測させる。

これらを総合すれば、律令時代後期の青森県は、狩猟、漁労のほか一部水田耕作を含んだ畑作農業をいとなみ、牧馬をも行う、族長社会を形成していたと考えて良いであろう。青森県には館址が多く、これらのなかには中世も城砦として使用されたものも少なくないが、多くは「蝦夷館」などとよばれて北海道アイヌの「チャシ」と同種のものと考えられている。この「館」が族長の居館であり、それぞれの地域の中心でもあったろうか。


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最終更新日  2013.08.18 07:50:40
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