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一昔前にTVにも登場した有名?なマンション。住所は新田4丁目、RC5階建、2008年建築とのこと。TVではギリシャ建築風と紹介されていたが、さほど感じなかった。新田小学校のすぐそば(次の画像の奥が小学校、右手建物が神殿!)、東仙台駅が最寄り駅になるだろう。そして、もうひとつ。小鶴新田駅すぐ前にあるのが、パルテノン新田東だ。新田東二丁目、RC6階建、2005年建築、なのでこちらが先にできたようだ。■過去の記事リスト シリーズ仙台百景
2024.04.30
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かなり久々になりましたが、ロータリーを2つ追加いたします。新田東地区で南北に2か所。南のものは、新田東2丁目で、新田4丁目との境界をなす市道の中央に。その市道とは、R45から梅田川や仙石線をオーバーして小鶴城跡の高台の手前で直角に東に折れる幹線(両側は一昔前まで館町一丁目・二丁目)の東側を並走する狭い道路。画像の奥(南)には(この後)仙石線電車が走るのが見えました。南のロータリーから、その市道を北に300m行くと、もう一か所。新田東1丁目ですが、道の西側が新田3丁目になります。さて、これらは写真の通りで、本当はロータリー交差点(ラウンドアバウト)とは言えないでしょう。交差点とは位置がずれていて、交差点を直進や右左折する車はこの島を周回する訳ではありません。もっともこの島をUターンする車は見かけました。島には送電線の鉄塔が聳え立っています。おそらく、区画整理する際に鉄塔の足元を囲うように残して道路を敷設したのでしょう。■関連する過去の記事(仙台のロータリー交差点) 環状交差点がスタートだそうで(2014年9月1日) ラウンドアバウトは定着するか 仙台試論(2013年9月5日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 仙台のロータリー(その9)葛岡墓園正門前(2011年1月2日) 仙台のロータリー(その8)名取市相互台東(桜坂)(2010年12月4日) 仙台のロータリー(その7)名取市相互台(2010年12月3日) 仙台のロータリー(その6)日本平(2010年12月2日) 仙台のロータリー(その5)ひより台(2010年11月27日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台のロータリー(その3)永和台(2010年11月22日) 仙台のロータリー(続)(2010年11月22日) 仙台のロータリー交差点を考える(2010年11月21日)(向陽台ロータリー)■調査成果のマップです。
2024.04.29
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もう1年ほど前のことになるが、仙台駅から「ひたち」で出かけた。終着の品川駅が表示されることに、新鮮さを感じながら乗車した。さらに数年前のことだが、仙台駅で「女川」の文字が灯ったときの熱い感動を、思い出したのだった。
2024.04.18
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岩切の入山から、住宅街の車道を県民の森中央公園に登っていく途中に、岩切城跡の説明版がある。------------史跡 岩切城跡 指定年月日 昭和57年8月23日 別名を高森山、鴻の館(こうのたて)とも伝えられる。仙台市岩切入山と利府町神谷沢にまたがり、急峻な地形を生かした典型的な中世時代の山城である。 平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景(いさわしょうげんいえたて)を陸奥国の留守職(るすしき)に任じた。伊沢氏は留守姓を名乗り、岩切城を居城とする。七北田川の水運にも恵まれたこの地は、東北地方の政治、経済の中心地として大いに栄えた。貞和2年(1346)、足利尊氏は奥州管領(かんれい)として吉良貞家(きらさだいえ)、畠山国氏(くにうじ)を任命するが、足利家内部で兄尊氏と弟直義(ただよし)の対立が激化すると、両者も二派に分れて争うことになる。留守氏は畠山氏、宮城氏とともに尊氏側に加担したが、正平6年(1351)ここ岩切城での合戦に敗れ、岩切城は落城、留守氏は衰えた。 その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んで勢力を回復、藩政時代は水沢に1万6千石を領し、一門格に列せられた。なお、岩切城は元亀(げんき)年間、留守氏が居城を利府城に移すとともに廃城となっている。(航空写真があり、その説明)高森山を中心に、頂上や尾根を平に削り出して、数多くの平場を構えている。各平場は空堀で区画され、あるいは土橋で結ばれている。(書状の画像があり、その解説)岩切城の合戦に際し、野田盛綱(もりつな)が吉良方に属したことを示す文書(軍忠状)。留守氏が徹底的な打撃を受けたことが文中に見えている。(鬼柳文書)------------城跡に登る。仙台市中心部や、岩切、利府方面がよく望める。利府町神谷沢の東雲院の近くからも、城跡に登る道がある。畑の中を進む道はすぐに杉林に囲まれた坂道になる。史跡の区域に入ったからなのか石標がある。とうはつの森という看板がある。やがて、空が開けて平場に出る。シダレ桜が咲き始め。利府方面の新幹線の高架がよく見えた。ここにある説明板。高森山頂に近いはずだが、利府町域なのだろう。利府町教育委員会と記されている。読んでみる。------------岩切城跡(高森城跡) 仙台市岩切と利府町神谷沢にまたがり、自然地形を生かした典型的な中世の山城です。 平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景を陸奥国留守職に任命しました。伊沢家は留守姓を名乗り、岩切城を居城としました。七北田川の水運にも恵まれたこの地は、東北地方の政治、経済の中心地として大いに栄えました。貞和2年(1346年)、足利尊氏は奥州管領として吉良貞家、畠山国氏を任命します。足利家内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化すると、両者も二派に分かれて争うことになりました。留守氏は尊氏側に加担しましたが、正平6年(1351年)の観応の擾乱にてここ岩切城での合戦に敗れ、岩切城は落城、留守氏は衰えました。 その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んで勢力を回復し、藩政時代は水沢に1万6千石を領し、一門格に列せられました。なお、岩切城は元亀年間、留守氏が居城を利府城に移すとともに廃城となりました。平成21年12月 利府町教育委員会------------仙台市側の説明板に比較して、ですます体と若干の送り仮名の異同のほかには、「観応の擾乱」の語が入っている。去年よりはだいぶ遅れたが、仙台でも桜開花と報道された。早い遅いはあっても毎年毎年、花は咲く。何百年前の合戦に思いを馳せながら、陽気に包まれた散策だった。(4月2日午後)■関連する過去の記事(中世の岩切周辺) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)(2012年5月6日) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その1)(2012年5月6日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 中世の留守氏(10年9月21日) 国分氏と仙台平野の名族たち(09年8月9日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日)■関連する過去の記事(もう少し広く、岩切・燕沢・東仙台など) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.04.02
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2月というのに雪もない。吉岡から三本木まで奥州街道の名残を探訪した。吉岡の宿場町を出て、国道4号をクロスして進む。■前回記事 吉岡宿を訪ねて(大和町)(2024年02月01日)すでに大衡村に入っている。田圃の中を北上。善川をわたり、村道に一旦出て東進するがすぐまた折れて小さい道に入る。昌源寺脇のため池を左に見て小道はのぼる。散策路整備の看板がある。(画像では遠方に小さく看板が見えます。)(その看板を大きくしました。)奥州街道の歴史にふれる散策路の整備ここには、第二仙台北部中核工業団地ができる前、奥州街道がありました。奥州街道は、江戸日本橋を起点として、津軽半島の北端三厩宿までの日本で最長の街道です。平成20年度からの工業団地の造成工事により奥州街道がなくなることになったため、この区間を歩いて移動できるように代替えの散策路をつくりました。 散策路には、この地域にある樹木を植えたり、造成工事で伐採した樹木を細かく砕いたチップを再利用したりするなど、環境に配慮して整備しました。また、途中の中央平公園には発掘調査で明らかになった一里塚などの地域の歴史を学べる場を整備しました。 整備にあたっては、工業団地の事業主体である宮城県土地開発公社を始め、工業団地の立地企業や教育機関から多大な協力を得て実施しました。 平成22年3月 大衡村上記の案内板の現在地辺りを拡大して示します。(一部画像を加工。凡例を移動しました。)そのやや先に、車道をそれて左に昔の街道がある。正確には、(上記の看板の説明のように)代替散策路というべきで、往古のルートそのものとは違うのかもしれない。(こんな感じで散策路に誘導されます。)(わかりやすく案内板を建てたのでしょう。旧奥州街道はここを入ること、跡ではない、と誰かが添え書きしていました。)(画像ではわかりにくいですが、かなり傾斜のある坂道。坂をこえるとすぐ、工業団地を周回する道路=看板では村道奥田工業団地西線と説明=に出ます。)(ここまでの探訪活動と次の動きを地図に示してみました。)村道に戻り、東に進み、衡下集会所に近い交差点から工業団地に伸びる道(村道奥田工業団地西線)を進む。登っていくと、ほどなく、さきほどの旧街道(散策路)の出口がある。街道は、この新しい道をクロスする形で山中を伸びていたのだろう。そして、右手(東側)は半導体の大工場になるのだろう。いずれにせよ、すでに造成されて街道筋は消えている。さらに北進すると、ときわ台団地。その道路をはさんだ東側(中央平公園)に、駐車場と碑が在る。奥州街道の歴史にふれる散策路の整備1 奥州街道の歴史 奥州街道は、江戸日本橋から津軽半島三厩(みんまや、現青森県東津軽郡外ヶ浜町)に至る幹線道路です。慶長6年(1601年)、天下の実権を握った徳川家康は、五街道を基線とする全国の交通網の整備を命じました。街道は、参勤交代による大名行列や、物資の輸送、旅行などに利用されていました。 大衡村における奥州街道は、仙台以北の規模の大きい宿駅の一つである吉岡宿(大和町)と三本木宿(大崎市)の間の3里20丁(約14km)を結び、現在の第二北部中核工業団地内を縦断していました。途中には、旅人の里程の目安となる一里塚もありました。2 散策路の整備 この辺りには、江戸時代の景観をとどめている奥州街道が残っていました。しかし、工業団地の造成により奥州街道は分断されることになりました。このため、街道の雰囲気を再現した代替ルートを整備して旅行者が徒歩で移動できるようにし、また、中央平公園には奥州街道の歴史を説明する説明版などを設置し、街道の歴史にふれあう学びの場としました。 整備にあたっては、行政機関のみならず、工業団地内の立地企業を始め、NPO法人や教育機関と連携を図りながら進めました。《参加団体等》◇行政機関等 宮城県、宮城県土地開発公社、大衡村◇立地企業 セントラル自動車株式会社◇教育機関等 宮城県黒川高等学校、みやぎ街道交流会(NPO法人)平成22年3月 大衡村案内板の地図の現在地辺りを拡大して下に示す。(一部画像を加工。凡例を移動しました。)随分以前に書いた記事(下記)のとおり、トヨタ工場の造成で旧街道を消してしまったこと、工場外周に代替の散策路をつくったこと、そしてそれぞれのルートが、看板の図でよくわかる。■関連する過去の記事 セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)大衡一里塚(おおひらいちりづか)1 造られた時期 江戸時代初期(今から約400年前)につくられたとかんがえられています。2 場所 大和町吉岡にある一里塚から街道沿いに約3.9km北上したところ、また大衡村駒場に跡が残る一里塚から約3km南下したところにありました。奥州街道をはさんで、丘陵部に西塚、斜面部に東塚が造られました。3 大きさと形 西塚 ほぼ円形で、直径9.2~10.3m、高さ2.7m 東塚 南北に長いだ円形で、直径7.8~10.0m、高さ2.3m4 造り方〔おだずま注、略〕5 特徴 東塚と西塚の高低差は5mほどあり、東塚は海道から見下ろすような位置にありました。付近は痩せ尾根であったため、東塚は斜面に造られましたが、このような場所に造られた一里塚は全国的にも例がありません。また、階段状に土を盛ったり、石を少なくして粘土質の土を使うことで堅く崩れにくくするなど、塚を斜面に造るための工夫がなされていることも明らかとなりました。■宮城県公式サイト 奥州街道・一里塚 発掘調査現地説明会信号まで北進して、県道大衡落合線に出て右折(東へ)、パークゴルフ場を左に見て、トヨタの北側を弧を描く県道を東に進む。松の平二丁目の交差点に、もみじ広場。ここに案内板があり、階段の先に道が伸びている。(広場から見るとこんな感じです。)(案内板を大きく映します。)森田元平君墓(大義院元覚良道居士)について森田元平(1838-1879)は、仙台藩天文方を務めた藩士・儒学者で〔おだずま注、以下は要点のみ記す〕、文久3年(1863)志田郡伊賀村に移住し、明治6年斉田小学校(大崎市三本木)の仮教師となる。明治12年伊賀村で死去。享年42歳。黎明期の三本木・大衡地域の初等教育の礎を築き、有力者・政治家を輩出した森田の功績をたたえ、百名に及ぶ教え子が碑に名を連ねている。碑は、当初ここより南西に1kmの森田氏の所有地、通称森田沢(もったざわ)に建立されていたが、平成20年工業団地造成に関連し、妻と妹の墓とともに移設された。平成23年3月 大衡村(もう一つの看板です。)奥州街道跡 奥州街道は江戸を起点とした五街道の一つで、正式には奥州道中と言った。区間は江戸より白河迄で幕府道中奉行の支配下にあった。この本街道を北に延長し、仙台~盛岡を経て、青森県の北端三厩までの街道も一般に奥州街道と称され、幕府勘定奉行の管轄下にあった。奥州街道は奥州を縦貫する重要な幹線道路で、参勤交代の諸大名や商人荷・庶民の往還で賑わった。 ここ大衡村を通る奥州街道は、現在地付近を含めて、吉岡と三本木宿間の三里二十丁(14Km余)であった。 平成13年10月 大衡村(道に入ってみる。かなりの起伏と、左右にくねった道です。中央平公園にあった看板の旧街道と代替整備路の関係からすると、上の画像の階段と次の画像は代替整備路で、その次の写真あたりから旧街道になるようだ。)この旧街道は地図に落とすと、だいたいこんな感じになる。結構長く、数百メートルある。改めて、中央平公園の案内板のルートを、拡大して掲げる(下記。一部画像を加工。凡例を移動しました。)。照らし合わせると、もみじ広場近くの階段や急峻な坂は代替路だが、その先(上の二番目の写真や、次の探訪先)は旧街道のルートそのものになるのだと思う。こんどは、大衡落合線を大衡IC方面に向かい、信号を左折(北進)すると、県道大衡駒場線に入る。しばらく北上して、県道から左(西)に入る(中央平公園の看板では、村道楳田戸口線と説明)。配水場(大衡配水場)があり、その先に、ちょうどさっきの旧街道の出口がある。車道はロープで封鎖されているが、旧街道は人が入れる。(看板を大きく映します。)(旧街道に入ってみる。この写真は、村道楳田戸口線の出口方向を向いたものです。)県道大衡駒場線にもどり北進。次の交差点はショートカットが昔の街道筋で、鶴田川を渡って、石巻鹿島台色麻線に出る。(正確に言うと、旧街道ルートは県道大衡駒場線を横切って田園の中を通過し、鶴田川を渡る橋の手前で現在のショートカット道に合流し、石巻鹿島台色麻線に出るようだ。)駒場の郵便局をまがって、東北縦貫道をくぐる。すぐに折れて、高速道沿いに北進する。坂を上って降りていくと、三本木に入る。ここで一枚。昔の街道だろう。(ここまでの経路です。)■広報おおひら2018年12月号(No636)から。「大衡村の歴史 3」奥州街道 「奥州街道」は江戸日本橋から白河宿までの「奥州道中」の延長で、仙台、盛岡を経て青森に至る街道です。奥州を縦貫する重要な幹線道路で、参勤交代の諸大名や商人、庶民の往還で賑わいました。 「奥州街道」の仙台以北の大きな宿駅である吉岡宿を出ると、衡下地区石神沢に入り、善川を渡り松本へ北進します。善川は寛永18年(1641)の検地帳には悪川と記載があり、後に善川と改称したものと思われます。石神沢と善川の間には松並木がありましたが、明治年間に伐採された記録があり、昭和初期まではその巨根が所々に残っていました。 松本に入った街道は右に折れ、昌源寺の門前に出ます。ここから、昌源寺坂と言われる坂を登り切り、旧大衡村と旧奥田村の村境を進むと、まもなく直径5mの円形の一里塚がありました。子の地点は、文政期の大衡村絵図にも一里塚の印が記載されており、次の一里塚があった雲泉寺入口付近からちょうど3km付近です。 この一里塚から200mほど行くと、道の西側に馬頭観世音碑が4基ありました。これは吉岡宿の人々や馬の継立に従事した馬子達によって建てられたものと伝えられています。 旧大衡村と旧奥田村の境は、現在、第二北部中核工業団地となり一里塚跡はありませんが、この馬頭観世音碑は、ときわ台団地東側の中央平緑地公園内に移設されています。 松の平緑地公園以北から旧駒場村戸口までは、現在も街道の旧観を留めています。旧駒場村に入る手前には三角点があり、西に遠く船形連峰、中程に蓬莱山が眺められる見晴らしの良い場所になっています。この場所は、仙台藩主が休憩されたところと伝えられ、「奥松福城行記」(宮城県図書館蔵)に、「三本木迄山坂道なり、此間西の方、最上境に二つ嶽見ゆる。」と記されている地点と推測されます。 旧駒場村に入ると、村道楳田戸口線と県道石巻鹿島台大衡線とほぼ重なり、雲泉寺入口付近に一里塚がありました。その先の須岐神社には、江戸時代に「東の茶屋」「西の茶屋」があり、往来の人々の休憩処でした。その後、坂下から左に折れ、坂道を登り下りして三本木宿へ北進する道程となります。 大衡の奥州街道は、吉岡と三本木宿間の3里20丁(約14km)で、宿場としての賑わいのない通り抜けの道でした。 参考文献『大衡村誌』『おおひら歴史散歩』■大衡村の地域について 明治の町村制では、大衡村、大瓜村、駒場村、大森村、奥田村の5村の区域を以て、大衡村が発足した。現在の大字は、これら旧村の5つのほか、新しい町名である沖の平、桔梗平、中央平、ときわ台、ときわ台南、松の平。■他の方のブログ(大衡村の奥州街道の探訪記) 悠遊・楽感雑記帳から Hitoshさんの街道写真紀行奥州街道 KLB嵐山・みけねこさんの奥州街道を歩くその12・大衡村を北上するいずれも本当に素晴らしい内容。当ジャーナルは足元にも及びません。(雑感)今回の記事タイトルを「吉岡-奥田-駒場-三本木」としたが、吉岡(前回記事吉岡宿を訪ねて(大和町))はともかくとして、実際は奥田の工業団地周辺が中心だった。駒場の旧街道は車で流しただけだし、その先の三本木はちょっと入っただけ。時を改めて、駒場、三本木、古川と要所を歩いて探訪してみたい。そもそも宮城県内で、旧街道ルートが現国道4号(バイパスになる前を含めて)と大きく乖離しているのは、この吉岡-三本木のほか、高清水-築館、金成-有壁、有壁-一関、といったところだろうか。中でも奥田の一里塚前後の街道はすっかり山中に潜んでしまい、逆に往時の風情が最もよく残っていたかも知れないが、工業団地造成で消失を機に散策路復元や案内板などで、このように私たちに教えてくれる活動には敬服する。■関連する過去の記事(大衡村、大和町、奥州街道など) 吉岡宿を訪ねて(大和町)(2024年02月01日) 大衡村の良いところは...(2015年3月19日) 大衡村を元気づけようプロジェクトその2(2015年3月31日) 宮城・大和町の史跡 御所館と八谷館(2011年9月30日) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日) 鶴巣PAのETCカレー(2011年1月23日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 街道を行く 奥州街道の吉岡-三本木について(05年10月25日) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 宮床ダム殺人未遂事件を考える(09年8月23日)
2024.02.03
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住宅地のとある交差点。路上に「止まる」。ちなみに奥にみえる次の交差点では「止まれ」、これが普通。■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.01.06
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今回も、加藤さんの御著書をもとに、記事を書く。■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』 蕃山房、2021年松原医院は、昭和23年5月6日に広瀬村下愛子下原25-10に開院。院長は松原仁先生だった。広瀬村には、長い間、医者や医療機関がなく、待ちに待った開院だった。戦前は多くの家で、腹の痛みにゲンノショウコ薬草の湯薬、のどの痛みに焼き味噌ネギ、口の荒れに木ワタ、利尿にドクダミ、少々の風邪は梅干し湯、くるみ焼き味噌湯を飲み寝て休んだ。各家には富山の薬箱があり、腹痛、頭痛を治した。また、集落の中の家で作る家庭秘伝薬をいただくこともあった。重病の時は、八幡町のお医者さんを馬で迎えた。はじめて愛子に松原医院が開院し、松原仁先生は広瀬、大沢村の隅々まで往診してくださった。身近に病院があって、通院、入院(ベッド数18)が便利になったと村民は非常に喜んだ。(以上、加藤さんの御著作から。おだずま一部整理。)仙台市の住居表示対照表によると、下愛子(字)下原25-10は、現在の愛子東二丁目3-61、同3-63とされている(実施年月日H12.7.3、実施地区愛子東部地区)。国道旧48号(現457号)沿い、松原医院の場所だ。■関連する過去の記事 宮城の民間医療伝承(2011年09月04日)
2023.09.29
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大倉ダムの先にある定義山西方寺。その更に先に開けている集落が十里平である。美しい山間の桃源郷にもみえるが、開拓は苦難の歴史だった。■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』 蕃山房、2021年 から。なお、おだずま要約しています。『十里平』(元仙台市八木山校校長(ママ)佐藤達夫)を参照した十里平開拓の歴史。 戦後、樺太の残留者は昭和23年1月までに帰還した。宮城県は昭和22年樺太引揚24家族を受け入れ、広瀬村の農学寮に一時的に暮らした。十里平と愛子のうち、開墾すれば農業で暮らせるということで、十里平(西方寺奥の原野)に入植した。 十里平には営林署関係の家族4-5軒が住んでいた。昭和23年夏、12家族が荒野に入植。家族人数に合わせて1町5反、2町5反など割り当てられ営林署から借りた。笹小屋に住み、刈り払い、立木伐採から開墾に従事。食糧事情不安で毎日の収入もなく、焼き畑でようやく大豆、小豆、大根を収穫するが、米がなくて、山菜(ミズ)、栗、キノコなど主食にした生活は想像を絶した。 昭和23年笹小屋の大倉小学校十里平分校が設置。開拓者の生活改良のために、庄子長喜さんが村、県、国に陳情請願の苦労をしたもの。24年8月に開拓地の指定を受けて、1反歩に4千円の経費が出て、開拓は重労働であることから加配米を追加。その後、さらに15家族が入植。全部で27軒に1戸あたり3町歩の原野が与えられた。 昭和25年に引き上げ住宅は建坪6坪割り当てられたが、小さくて暮らせないと陳情して8坪と補助金が配布され、笹小屋から寒さをしのぐ住宅で暮らすことができた。昭和27年、県から貸金で赤牛を毎年2-3頭飼育した。堆肥もでき、ジャガイモ、大豆、トウモロコシ、麦など栽培効率が良くなった。道路はなく、森林鉄道(トロンコ線)を歩いて定義まで通った。 昭和35年一部の人が田んぼを耕作したら収穫良かったので、開田しようと、県に請願して1戸当たり3町歩をめどに許可された。36年、県に開田計画を請願して、国からの45%補助の残りは農林公庫から借金した。昭和36年12月には稲田に引く水を谷川からポンプアップするために電気が引かれ文明の灯がともる。 昭和38年に水田耕作は国の補助で行われ、ランプ生活からテレビや冷蔵庫の電気生活に。森林鉄道道路から開拓道路も整備され、自家用車を持つ新たな高原生活の誕生となった。 昭和44年、米の生産調整の減反政策で、転作に5割の補助金。離農者が転出し始めた。昭和46年十里平分校が廃校。 昭和48年には県の指導で休耕田を5割の補助金で牧草地に転換。稲田はデントコーン畑や牧草地に代わり、道路も整備されて本格的な高原酪農集落に。当時の集落民は14家族(おだずま注:お名前が記されている)。 Sさん(94歳女性)の話。樺太で生まれ結婚後、終戦を迎え、2年後に北海道から引き揚げ。宮城農学寮の引揚者住宅に住んでいた。著者(おだずま注:昭和10年生まれの加藤さん)は、実家が米の配給所で、国の決まりに従って精米7部つきを配給したが、ソ連の酸っぱいパンより黒いのでもう一度精米してくださいとSさんから声をかけられたことを覚えている。小学6年生だった著者の加藤さんは、精米の手伝いをしながら、敗戦後樺太での危険な生活や、帰国までの苦労話を真剣に聞いた。まもなく農学寮から十里平の開墾生活に入ったSさんは4人の子宝に恵まれ高原で力強く生きた。Sさんは、入植した70年前は27軒も家があり、大変な開墾を乗り越え、学校で運動会やお祭りもやって活気があった。定義まで道路もなくトロンコ道を歩くので体の弱い人は大変だった。若い頃から農作業が忙しく夫婦げんかの暇もなかった。町に住む娘の家に暮らせと言われても、70歳過ぎると町では暮らせない。自由なここの暮らしが良いんだよ、とSさんのお話。Sさんの孫が牧場主人の仕事に追われる一方、定義夏まつりなどを支えている。■関連する過去の記事(定義について) 定義(如来)をどう読むか(2023年09月23日) 定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か(2012年6月17日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 定義如来西方寺(08年4月12日)■関連する過去の記事(朴沢、中山道など。朴沢も山あいの純朴な集落。) 国見峠と芋沢街道(2016年6月21日) 七北田川の源流 光明の滝(2015年9月14日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)■関連する過去の記事(宮城県内の戦後の開拓) ノンちゃん牧場のいま(2016年6月4日) 栗駒耕英の開拓史(後編)(2013年12月31日) 栗駒耕英の開拓史(前編)(2013年12月7日)
2023.09.26
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以前記したこの問題(?)だが、地元に詳しい加藤さんの著作に解説されていた。■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』 蕃山房、2021年「定義」はジョウゲともジョウギとも発音する。著者をはじめ地元周辺の特に高齢者にはジョウゲが多いようだ。定義如来をご本尊としている極楽山西方寺(青葉区大倉上下一)に伺うとジョウギにしているとのことだ。ジョウゲはその住所〔おだずま注:上下〕からだという説もあれば、発音しやすいからだという説もある。ジョウギは文字を素直に音読すればという説のようだ。国道48号の案内標識には「定義 Jogi」とある。発音の出自は不明である。■関連する過去の記事 定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か(2012年6月17日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 定義如来西方寺(08年4月12日)
2023.09.23
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久々に、シリーズ仙台百景の続きです。神聖な場所です、皆さん気をつけましょう!■関連する記事(探訪記はこの記事をご覧ください。) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)■シリーズ仙台百景の過去の記事(こんな企画で100まで続くでしょうか) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.10
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榴岡に残る仙台藩の大飢饉と供養の歴史。これまで何度も記事の基にしている木村孝文さんの『宮城野の散歩手帖』をもとに、探訪してきた。はじめに画像を紹介。木村さんの御著作の内容は後に記しました。まず、金勝寺だ。区画整理事業で昭和56年にこの場所(仙台市立榴岡病院の跡地)に移ったが、歴史は古く、永正元年(1504)南町に建立、政宗の時代に東十番丁に移転したという(2番目の画像の記念碑の文から)。サンプラザも建てられたこの地は、昭和55年まで、伝染病患者を収容する仙台市立榴岡病院だった。(参考記事:明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)、宮城野の今昔(07年5月30日))明治28年に仙台避病院として孝勝寺裏の伊達家の土地につくったという。孝勝寺は今でも大きなお寺で広い境内に五重塔がある。その東側(今でいうと宮沢根白石線の東側)は、明治にはまだ、かつてお殿様の狩猟や野遊びのフィールドだった宮城野原が広がっていたのだろうか。(サンプラザのすぐ南に隣接している。)(移転の経緯を伝える記念碑)記念碑金勝寺は 永正元年(1504年)5月仙台連坊小路瑞雲寺第六世中岳泉波大和尚が開山となり 仙台南町に建立し 其後仙台城下町割(伊達政宗代)の際仙台東十番丁(天神下)の地を賜り堂宇を移転したものである 此度仙台駅東第一土地区画整理事業により現在地に移転の指定があり早速檀信徒一丸となり多額の浄財を寄進され 昭和54年10月着工し 工期1年8ヶ月を圣(ママ)て本堂 庫裡 山門 鎮守堂及び墓地等の移転新築落慶をしたものである昭和56年5月吉日当山23世住職 法貫宗勝代(金毘羅堂。その左手(東)に宝篋印塔。そしてその前に、丙申殍氓叢塚之碑と刻まれた飢饉供養碑がある。)次に、宮城野通を挟んで、孝勝寺のある区画の反対側(北側)の位置に、徳泉寺がある。堂宇を抜けて寺西側の墓地エリアに出ると、建物を背にして西に面する形で、2基の飢饉供養等と解説板があった。(木村さんの著作では墓地北側に並立とある。)お寺にお邪魔して読ませて頂いたから、全文を以下に記します。丙申殍氓叢塚之碑(へいしんふぼうそうぼうのひ)天保7丙申年(1836)は仙台藩最大の飢饉で領内の死者は30万に達した。食を求めて仙台城下に殺到する流民のため藩では城下数か所に粥小屋を設置し粥を施してこれを救済した。榴岡天神下には徳泉寺、金勝寺の寺域に設けられたがこの二か所だけで2千7百人が死亡したという。死者は小屋の近くに施穴を掘って投葬しその上に立てたのがこの碑である。しかしその場所がどこであったか今は知る由もない。殍は餓死者、氓は流民、叢塚は散らばっているものを一か所に集めることである。碑は徳泉寺、金勝寺ともに二基ずつ残っているが、当時飢饉がいかに悲惨な事件であったかを物語る貴重な石造文化財である。徳泉寺次は、願行寺である。正門は、徳泉寺と同様に、宮沢根白石線に面している。木村さんの本では、この寺にも飢饉供養碑があるという。良く調べなかったがこれだろうか。願行寺と徳泉寺の間には、地下化する前の仙石線が走っていた。飢饉の供養碑にかかわる3つの寺をめぐったが、ついでに一つ。サンプラザの区画のすぐ西が、政岡公園(榴岡五丁目公園)。三沢初子の墓などがあるが、看板によるとここも孝勝寺の領分のようだ。■出典 木村孝文『宮城野の散歩手帖』(宝文堂、1999年)pp.32-356 金勝寺、徳泉寺の飢饉供養碑(榴岡五丁目9-12、榴岡三丁目10-3) 仙台サンプラザの南隣りに松風山金勝寺(きんしょうじ)がある。もと東十番丁、仙石線南沿いにあったのを昭和53年榴岡病院跡地に移転新築した寺である。山門の脇に”仙台第十三番観音”の石柱が建っており、本堂前左側に金毘羅堂が建立されている。この寺は曹洞宗で、連坊二丁目の瑞雲寺の末寺で、永正元年(1504)中岳泉波和尚が開山したと伝えられている。金毘羅堂の東側に北面して嘉永5年(1852)建立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。この塔の前に「丙申殍氓叢塚(へいしんひょうぼうくさむらづか)之碑」と刻まれた飢饉供養碑が2基建っている。丙申は天保7年(1836)、殍(ひょう、又はフ)は餓死、氓(ぼう)は流民のことである。叢(ソウ又はクサムラ)は一ケ所に集めることで、餓死した流民を一ヶ所に埋葬したところに叢塚を建てたのである。天保7年(1836)は天候不順と風水害により凶作となり、仙台藩最大の飢饉の年で損害高は91万5784石、領内の死者は30万に達したという。(「宮城県史」二、近世史所収) 藩では食を求めて仙台城下に殺到する流民の救済に努め、天神下では金勝寺・徳泉寺に粥小屋を設けたが、両寺だけでも死者は2千7百人を越えたという。これらの供養のため建てた碑である。碑の高さは1.52m、安山岩で1基は尖頭方柱で、側面には南山古梁の撰文(「宮城県史」17巻221頁)が刻まれている。碑文にある総管役の佐藤季明は助五郎と称し、大町に居住した太物商で相当栄えた家柄で、針生林蔵の協力も得て、自力も加えて流民の粥を施すなど窮民救済に当たったという。 徳泉寺は浄土真宗大谷派本願寺末で勝光山と号し、貞享3年(1686)関口宗因開山の寺である。ここにも金勝寺と同型同文字の飢饉供養碑がある。門の入口と西裏無縁塚の上に建っていたとのことであるが、今は墓地北側に2基並立してある。 なお徳泉寺の仙石線をはさんだ北隣りには浄土宗の願行寺(がんきょうじ)がある。ここにも飢饉供養碑が天保のもの2,天明のもの1と計3基ある。 願行寺は東九番丁の常念寺、宮町五丁目の清浄光院(しょうじょうこういん)(万日堂)と共に、仙台の三回向寺の一つといわれ、三年交代で大回向を修行した寺である。<注>1 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めた供養塔で、塔身の四面に金剛界四仏(阿閦(あしゅく)如来・宝生(ほうしょう)如来・阿弥陀如来・不空成就如来)の種子(しゅじ)(梵字)を刻んでいる。<注>2 南山古梁(なんざんこりょう) 江戸時代後期の代表的な禅僧で、寛政5年(1793)七代藩主重村に迎えられて瑞鳳寺14世を継いだ。詩書に優れ名声も高く、南山筆の石碑が領内に多く見られる。<コラム>仙台藩の三大飢饉 江戸時代半ばすぎから、仙台領内では冷害、風水害によって凶作が続き、減収によって「郡村土地ともに廃れる」状態になった。三大飢饉として、宝暦5年(1755)、天明3年、5年(1783,1785)、天保7年、9年(1836,1838)があげられる。宝暦、天明は50万石を超す減石で、天保7年は91万5千石を超す大凶作となった。天明の飢饉による餓死者は30万人を数え、城下では騒動まで起こっている。■関連する過去の記事(仙台市立榴岡病院、地域と感染症など) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)
2023.09.08
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炎天下の小鶴、御立場、燕沢の訪ね歩き(下記の3記事です。)の最後に、あらためて眺めた比丘尼坂の道標をご紹介。 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)往古の東街道、また塩竈街道として芭蕉も歩いたこの坂です。さりげなく、石標が歴史を伝えています。比丘尼坂の伝説は、このブログのだいぶ前の記事(仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日))で多少触れました。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.05
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大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)に初めて行ってみた。比丘尼坂から岩切に向かう旧街道は何度か通ったことはあるが、(東仙台側から向かって)坂を上る途中、コミュニティバスのりあい・つばめ「小鶴1丁目(ぽれぽれ鍼灸整骨院前)」の辻から折れて、初めて入る道を登っていく。前回記事(小鶴城跡(2023年09月01日))、御立場町(2023年09月02日))の続きです。この後が、比丘尼坂(2023年09月05日)。なお、 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)も参照ください。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」4ページ大須賀森(おおすかもり) 岩切、鶴ヶ谷七丁目、燕沢三丁目の境でカトリック墓地のあるところに展望台がある。昔と云ってもそう遠くない鶴ヶ谷団地が造成される前までは、陣笠山とも呼ばれ、その名の通り陣笠を置いた様な格好の良い山であったと云う。一連の丘陵地の東端に当り見晴らし良く、伊達藩時代「御野初狩(おのそめがり)」と云って(おだずま注:同資料64ページでは「御野始狩」と表記。前回記事参照)、毎年旧正3日(ママ、おだずま注:旧正月3日か)に鷹狩に名を借りた、練武の行事が行われ、こゝ大須賀森は標幟場(たつば)として使用されていた、物見の丘である。 藩主の本陣は案内の丘の上(現在東仙台一丁目、その前は御立場町一帯)、岩切の諏訪の森(八坂公園のあった山)、高森(岩切城跡)、相の馬坂(入生沢)、陣ヶ森(松森との境の山)、鳥居峯(青麻一の鳥居跡富谷街道の分岐点)、は仮想敵陣として大きな幟(のぼり)を立てた。幟を立てる場所が標幟場(たつば)であり仮想敵陣は追標幟場(おたつば)と呼んだ。いつの間にか藩主の立つ場所だから「お立場」と変わってしまっている様だ。 岩切小学校の遠足でよくこの大須賀森へ行ったものだと聞いている。今は削られて低くなり展望台が設置されているが昔はその展望台の頂上より高い山だったと云う。展望台の上に立つと仙台平野が全部目に入り海まで見通せる眺めの良い場所である。(↓上記資料の散策図です。)展望台だ。ちょっと古い感じはするが、しっかり現役。展望台から四方を望んでみた。まず、カトリック墓地の向こうに、新幹線と田園地帯。南方向。小鶴や東仙台駅方面か。西方向は、鶴ヶ谷の大団地なのだが、草木が繁茂してよく見えず。展望台を降りて、墓地の周りを歩く。とにかく暑い日だった。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.04
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前回記事(小鶴城跡(2023年09月01日))の続きで、御立場町を散策しました。なお、この続編が、大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)、比丘尼坂(2023年09月05日)です。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」64ページ(御立場町から小鶴城跡へ)から(あとがきに、平成3年3月1日編集者伊藤敏、とある。仙台市岩切市民センター図書室にて)現在は東仙台一丁目と町名は変わっているが、つい最近までは御立場町であった。以前の表示の方が何となく歴史を感じ土地柄を連想させられて情緒もあると思うが。御立場は大須賀森の項に書いた様に御野始狩(別名戯動げどう)の時(おだずま注:同資料4ページでは「御野初狩(おのそめがり)」と表記。記事大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)参照)、藩主の立つ場所という意味からきているようだが、昔は標幟場(たつば)と云い目印の幟を立てた場所であった。実際に歩いてみると大須賀森よりは低い様だが、前面が開けてよく見えるし又、松原街道のすぐ上にあり交通の監視もよくできて大須賀森よりやはりこっちのようが藩主の居る本陣にふさわしいと感じた。今はもう全部住宅地となり眺望は全くきかないが、家と家の間から僅かに見える風景は実に素晴らしい。何か往時を偲ばせる物はないかと見て歩いたが何も見つけることはできなかった。町内を西から東へ縦走し小鶴城跡へ向かったが途中に珍しいお墓があるというので立寄ってみた。日蓮宗の円護寺である。珍しいのはお寺ではなくお墓である。手前半分は苦竹新田あたりの農家の人達のもので一般的な形態をしている。これは所々に散在していた古いお墓を東北本線布設の時ここに集合した共同墓地で(この由来を彫った碑が在った)何々家の墓となっているが、あと半分は円護寺のもので全部一様に「南無妙法蓮華経」と彫った棹石が並び、その台石に何々家と彫ってあった。日蓮宗では皆この形態をとっているのであろうが初めて見る我々には珍しく思われた。このお墓のある丘も規模は小さいが眺望はすごく良い所だった。御野始狩の時には標幟場の出先の物見の丘として使われたのだろうと想像しながら丘を降りた。(このあとの記載は、小鶴城跡に関わる。前回記事(小鶴城跡(2023年09月01日))の中に記しました。)上記資料の散策案内図を下に掲げる。下の画像は、「エトワール東仙台」の辻から南方向を見下ろしたもの。東北新幹線の高架の先に、仙台平野を望む。海抜28.8メートルとのこと。町内会の発足60周年記念。道は狭く一方通行になっている。タクシー会社(仙台第一交通)のあたりから丘陵(東仙台教会あたり)を見上げる。とにかく暑い日だった。県道(利府街道)まで上がって、資料(いわきりの息吹き)の散策地図の道を眺める。そばの前田屋、東仙台教会を挟んで道が進んでいく。私の記憶では、この画像正面の空き地(畑か)の辺りに、少し前まで「御立場パーキング」という縦型看板があったと思う。上の画像を撮ったのと同じ立ち位置(ガトーめぐろ付近)から、南東(東仙台駅方向)を見下ろす。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.02
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利府街道の小畑酒店の角から細い道に分け入る。東北本線「小鶴踏切」をわたり、小鶴城跡を探訪する。(関連記事 御立場町(2023年09月02日)、大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)、比丘尼坂(2023年09月05日))上の地図の細長い屋舗公園の入口に、スーッと高く新しい感じの標識があった。振り仮名は「こづるじょう」だ。側面の文書を読む。(以下)この城跡は仙台市の東部、宮城野区新田に所在し、標高10m程の低い丘陵地に位置する。『仙台領古城書上』には、小鶴村の「小鶴城」として「東西60間、南北36間」とあり、また、小鶴村『風土記』には「古館」として「竪38間、横27間」との記録がある。城の本丸は、屋舗と呼ばれる低地より少し西寄りにあたる伝上山というやや高い丘の上にあったと言われている。また、丘陵を取り巻く形に幅5mに及ぶ水濠があったと言われており、その名残が本丸跡の西側や北側にみられる。平成13年に西端部で発掘調査が行われ、堀跡などが発見されている。贈 仙台東ロータリークラブ公園の南が小高い丘で、ここが本丸だったのだろう。公園から北を望むと、東北新幹線と東北本線。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」64ページ(御立場町から小鶴城跡へ)(あとがきに、平成3年3月1日編集者伊藤敏、とある。仙台市岩切市民センター図書室にて) 小鶴城跡と云うからさぞ木立があって遠くからでもわかる様な場所と思いながら歩いたが、それらしき物が見当たらず道端の小さな案内板を偶然見つけた。これがなかったら見過ごしてしまいそうだ。平地にポコンと盛り上がった饅頭のような小さな丘がそれであった。周囲はすっかり住宅に埋められて城らしき雰囲気はまるでなかったが頂上へ出ると平場があり作業小屋のような建物が一つあった。ここが本丸の跡とのこと。 この平場の北西側は杉林となっており、その中に小さな祠があった。熊野神社と云う。往古は水濠をめぐらせた平城で、高さ20m、東西200m、南北100mの規模で室町時代末期ごろ構築されたものと云う。 安永3年(1774)9月の風土記によれば、逸見丹波という人が館を構えたとある。昭和50年頃は水濠跡で蓮根の栽培が行われていたと云うから記憶されている方もあると思う。今その面影はない。 この城の南東側に小鶴池があった。今は埋められて資材置場や倉庫となっている。小鶴池の伝説は日本中どこにでもある伝説といわれており、昔の農村の形態を物語るものと思われる。 「小鶴池往古は當村沼新田の内桑木橋と申す所の東に在りしが明暦年中新田開発致し候」 古歌「千とせをはひなにてのみや過しけん小鶴の池と云いて久しき」藤原敏行朝臣 安永風土記より 小鶴城の北側を廻り帰路につく。ここは昔の水濠跡であろうか細長い公園になっている。名前は屋舗(やほ)公園だった。昔何があったのだろうと考えさせられる。 この小鶴城跡の地図を見ると古碑が二つあり、又、安永風土記を見ると経塚があることになっているが、どちらも見付けることができず残念だった。 経塚は風土記に「げっそう壇廻り9間、右は何年頃に御座候哉三浦げっそうと申人法華経壹部八巻埋候塚之由、即此処をげっそう壇又は経塚とも申来候事」と書いてある。廻り9間というからかなり大きい塚であったものと思われる。小高い丘の高い場所で、見上げた電柱の表示はこうだった。■小鶴ケ池(同上資料から) 朝日がよくさす丘の中腹に、大きな屋敷を構え、多くの田畑を持ち、大勢の人を使っている一人の長者がいた。たくさんの米を収穫し、その籾がらが小山のように積っているので、近所の人々はそれを糠塚と呼び、その屋敷を長者屋敷といっていた。この長者は欲が深く、人使いが荒く、世間からはおそれきらわれていた。此の家に、小鶴と云う女が働いていたが、或日主人に千刈の田を植えるようにと命じられ、自分の子供を背負いながら、夜明けと同時に田植えを始め、やっと千刈の田を植え終えたのは夕暮れであった。背中の子供に乳をやろうとおろしてみると、子供はすでに死んでいた。小鶴は悲しさの余り、ただ呆然として子供を抱いたまま、田圃道をあてもなく歩き廻り、一つの大きな池につきあたった。いつしか夜も更けて、空には明るく月が照り、池の水に小鶴のあわれな姿がうつり、その影を追うように小鶴は池の中に沈んで行った。 翌朝、近所の人々が池の水面に浮かんでいる小鶴親子の姿を見つけ、手厚く葬ってやり、この池を小鶴ヶ池、ここの部落を小鶴と呼ぶようになった。(岩切歴史ものがたり より)下の地図は、上記資料「いわきりの息吹き」の散策案内だ。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.01
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今日の仙台も猛暑だ。35度を下まわると穏やかに感じるほど異変の夏だ。そんな昼下がり、水の森の丘に佇む、明治15年コレラ流行の死者をまつる塚を訪れてきた。■関連する過去の記事 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日)(そのほかの関連記事は最後にまとめて記しています。)はじめて、水の森市民センターにお邪魔する。プールや児童館も併設され、夏休みの子どもたちも来ているようだ。明治のコレラや碑について、ホールに何も解説などはなかった。この市民センターは水の森公園のちょうど南端に位置する(昭和の頃はスケートリンクがあったと思う)。館を出て市道沿いの敷地の南角が、広い公園全体の南端であり、公園内の長い園路の出発点がある。車止めがされ、林の中に進んでいく散策路なのだが、そもそも古くは秀衡街道(別名を古街道、義経街道)と呼ばれ、伊達政宗公が七北田を通る新街道と七北田宿を整備するまでは重要な街道だった。江戸時代は新街道の大名行列を避けるため、そして戦前は難を逃れるため、戦後は買い出しや病院通いのため、人々は秀衡街道を往来した。(仙台市サイトの解説)(秀衡街道に関する当ジャーナルの過去記事は、最後に整理しています。)そんな秀衡街道だが、この辺は明治の頃は相当寂しく暗い峠だったろう。下の地図の赤い印の場所が、叢塚の場所だ。さっそく、散策路を進んでいく。阿曽沼先生の言うとおり(上記の前回記事です)、150歩ほど北進すると左手に叢塚が現れた。碑文は三面にわたって刻まれている(写真は一面のみ)。解読文は前回記事のとおりだが、目にすると、仙台に現実に起きた災禍の重みと、碑を建てて後世に伝えた意気に押される。(↑左が市民センター。市道から入っていく散策路の入口。往時の秀衡街道だ)(↑碑の左面の刻文)さらに緩やかに上り坂を進んでいくと、すぐに三叉路に出る。なお、東西の二本に分かれる散策路は、三共堤の外周をまわり、北のキャンプ場で合流するのだ。東(北に向かって右)に延びる園路が秀衡街道だろう。この三叉路の山側(北)斜面に、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」(コレラ塔)がある。276人の供養碑だ。吉岡方面からやってきて秀衡街道を仙台に向かう人は、この峠を経て、現在の荒巻小学校の方向へ降りて行ったのだろう。コレラ供養塔のある三叉路からは、住宅が密集する東勝山の風景を見下ろせる。秀衡街道を引き返して、市道から公園の散策路に入る地点に戻る。(↑秀衡街道が荒巻方面に下っていく。尾根沿いの山道だったろうが、今では陸橋だ)(↑同じ陸橋部分を、散策路入口地点から。市内中心部のドコモビルが見える)(↑公園散策路入口地点から、西側住宅地を望む。桜ヶ丘や中山か)(↑北に向かう市道は坂道を下っていく。右側が市民センター)(↑水の森市民センター。右側の園庭の奥の法面の上が散策路だ)■関連する過去の記事(仙台・宮城と感染症) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(秀衡街道などに関して) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.08.03
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戦国時代の書状は、いわば現代の私文書。公文書にあたる文書(もんじょ)が、例えば、誰かの権利を保証するために、書式が決められ年月日と印判(判子)が捺されるものであるのに対して、書状の用途は多様で、公的な内容も私的な内容も書かれていた。電話やメールのないこの時代は、相手に使者を派遣する場合に、書状を持たせるのが普通だった。書状には、自分が書いた証明として直筆で花押(サイン)をするのが通例。(公文書ももともとは花押を用いたが印判が普及していき、反対に書状に印判が捺される場合もあった。)相手の手元に直接伝わる書状には、気持ちを伝えるための大変細かいルールが定められていた。それが御書礼である。書札礼(しょさつれい)ともいい、書状の書き方である。具体的には、文言はいうまでもなく、紙の種類、折り方、封の仕方、署名の仕方、宛先の書き方など多数のルールがある。家格や身分の上下、実際の力の強さなどさまざまな要因で、微妙に書札礼が使い分けられていた。伊達稙宗は、分国法の塵芥集を制定し、はじめて奥州守護に補任されるなど、伊達氏が戦国大名として発展する基礎を作った人物だ。ところで、稙宗の父尚宗は、文亀3年(1503)に越後守護上杉房能の支援を求めて同国人の中条藤資に書状を送った。このとき、守護上杉氏の家格が高いのは当然として、伊達氏と中条氏はともに国人で本来同格だが、尚宗は中条氏に対して「被官同然」、つまり家臣に対する書札礼で書状を認めた。これを知った上杉房能は「はなはだもって口惜しい」「上杉は大名である。伊達は国人に過ぎない」と怒りを表した(中条文書)。稙宗が受け取った書状には、古河公方足利高基の重臣である簗田高助が稙宗に対して「忠節を尽くしたので、御書礼を改めて(古河公方が稙宗に)書状をお書きなされます。今後ますます忠節を尽くしてください」というものがある。稙宗の忠節の礼に、古河公方が今まで以上に丁寧に書状を書くと、簗田が伝えたのである。当時、古河公方は書札礼を恩賞の一つとして用いていた。いかに書状の書き方が重要であったかが、わかる。伊達稙宗と子の晴宗は、天文11年(1542)に伊達天文の乱をひきおこし、天文17年の和睦成立まで激しく戦ったが、もともと仲が悪いわけではなく、天文6年ころには、稙宗と晴宗がそれぞれ高野山の観音院に宛てて、贈り物に対する返礼についての同日付でほぼ同内容の書状を送っている。ここで、稙宗は観音院から「水原」をもらった礼を述べているが、水原は、杉原(すいばら)の当て字で、当時武家が珍重した紙である。室町初期に成立した『書札作法抄』には、「武家に対しては杉原紙でなければ文を書いてはいけない」と記されており、貴重な贈答品でもあった。親子で書状を送っているのは、子の晴宗が政治的な活動を開始していたものとして注目される。書状の末尾には「詳しくは〇〇が申します」という形で、書状の内容を補足する家臣の名前が書かれることが通例で、こうした役割の家臣を取次(とりつぎ)といった。稙宗と晴宗はおなじ中野親時を取次として書状に記載している。晴宗は天文の乱が終結すると家臣に対して恩賞を与えている。土地はもちろんだが、中には、古河公方と同様に、家臣に対して書札礼を改めることを恩賞として用いた場合もあった。伊達家内部でも、家格に基づく書札礼が細かく定められており、自身の書札礼の格が上がることは極めて重要だったから、恩賞となりえたのである。晴宗の子の輝宗の書状では、仮名書きの書状が注目される。一般に仮名書きは女性宛の消息に使用されることが多いが、輝宗は家臣に対して用いている。これが政宗にも継承されたという。政宗の場合は、書状や印判状などの文書は現在4500点ほどが知られる。少なくとも4人の祐筆(曾根四郎助、石田(大石)長門、武山修理、大和田重房)がいたとされるが、しかし、直筆文書も1400点以上が確認されており、他の武将と比べて割合が格段に高い。書状は、一般的に年号を書かずに日付のみを書くのが当時の習わしだった。このため、文面に書かれた政治状況や花押の形状から年次を判断することになる。■佐藤貴浩『「奥州の竜」伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』KADOKAWA(角川新書)、2022年 から
2023.06.14
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長町の往年の姿を求めて、是非行きたかった企画展。地底の森ミュージアムを訪れました。■長町に操車場があったころ(第103回企画展。2023.4.21-7.17 協力:東北福祉大学地域創生推進センター『鉄道交流ステーション』資料係)■関連する過去の記事 仙台駅の位置について(その10)新幹線長町駅?(2021年11月14日) 往年の風景が一変の長町(2020年1月1日) 長町の蛸薬師堂(2015年2月11日) 蛸薬師(長町4丁目)とイボのこと(2013年2月10日) ガソリンカーと仙台(2012年11月5日) 東北福祉大の鉄道交流ステーション(2010年12月24日)〔他にも鉄道整備などに関する記事あります。記事リストをご覧ください〕以下は、展示内容から編集長が勉強した内容です。1.はじめに長町には大正から平成まで広大な貨物列車の操車場があった。長町操車場は、貨物列車輸送が盛んだった時期には、東北最大級とも言われた。24時間休まず動き続けた操車場(ヤード)には、大きな機関車庫や転車台もあった。2.長町の〈道〉と〈駅〉古くから長町周辺には、東北を南北に縦断し、東北と他地域を結びつける重要な道が築かれていた。古代には東山道(東北と畿内)、中世には奥大道(奥州と鎌倉)が走り、江戸時代の奥州街道(奥州と江戸)に継承される。現在の国道4号線、東北本線、東北新幹線へとつながっている。また、長町には、JRや市営地下鉄の他にも駅があった。大正から昭和にかけて秋保から石材を運んだり、温泉に向かう人々の足となった秋保石材軌道/秋保電気鉄道の始発駅。また昭和51年まで仙台市電の駅がつくられていた。3.長町駅・長町操車場の歴史(概説)長町に停車場ができたのは、明治27年(1894)で、急造りの臨時駅だった。日本鉄道が東北本線を明治20年(1887)に上野から塩釜まで開通したが、長町には駅がなかった。明治27年日清戦争の勃発で、政府と日本鉄道が契約を結び、兵員や軍馬などの軍用貨物輸送のため、当時の茂ケ崎村長町大道(だいどう)東北(とうほく)に臨時停車場がつくられた。東北各地から第二師団に集められた多くの兵隊が広島に向けて送り出された。その軍用駅跡地に民間用の駅として新設されたのが長町駅で、明治29年(1896)2月に営業を開始。当初は小駅だったが、大戦景気を背景に産業が発展し貨物輸送が増加すると、仙台駅が手狭になり駅を広げることも困難だったため、貨物輸送部門を長町が引き受けることになり、駅が拡張された。駅舎、仕訳線、中継(なかつぎ)貨物線などが整えられ、転車台も新設されて、大正14年(1925)立派な操車場が完成し、翌年に長町機関庫が誕生した。一方、大正3年(1914)には長町駅に連絡する秋保石材軌道(後の秋保電気鉄道)も開業。さらに昭和11年(1936)には仙台市電に長町線が新設され、長町は仙台南部の交通の要所となる。戦後は、北海道の開発が進み貨物輸送量が著しく増加したが、東北本線には中小規模の操車場しかなく非効率だったので、東北本線と常磐線の分岐点にあり、新鶴見・大宮・田端・青森の各操車場に直結する長町に改良の主力を注ぐことになった。この国鉄にとって戦後初の本格的な改良工事は、昭和30年(1955)11月に完成すると、長町は東北本線有数の大操車場となり、東北の物流の中心的役割を果たすようになった。その後、昭和36年(1961)宮城野貨物線及び宮城野駅が開業すると、長町駅で行われていた貨物取扱いは次第に宮城野駅に移り、さらにコンテナ輸送の発展でヤード方式が不要となったため、昭和61年(1986)貨物駅としての役割を終えることになった。操車場等の跡地は、土地区画整理事業により「あすと長町」に生まれ変わり、東北本線高架化にあわせ平成18年には新駅舎を旧駅舎の北側に移設・高架化し、地下鉄長町駅と近接した。かつての長町駅舎があった場所は、東側の「あすと長町」と西側の旧来からある長町市街地とを結ぶ市道となっている。4.蒸気機関車時代の長町駅大正15年(1926)、長町機関庫が貨物専用機関庫として仙台機関庫から職員263名を引き連れて分離、誕生。配置された機関車は27両だった。日本初の本格的な国産機関車のテンダー式蒸気機関車9600形(愛称キューロク)14両を中心に、明治生まれのC1型タンク機関車ながら引き出し性能や制動力に優れた2120形(B6形)7両、鉄道院製造の国産テンダー式蒸気機関車6700形7両という内訳だった。そして、操車場にはそれらを格納する東北一を誇る大きな扇形庫(機関車庫)を備えていた。昭和初年の恐慌を脱し景気が好転すると貨物輸送量が回復したため、鉄道省は新型の貨物用機関車の開発を行い、昭和11年からD51形(愛称デゴイチ)を製造。翌12年には長町にも配置された。D51形は戦時形として大量生産され、その数1,115両で国鉄蒸気機関車の代名詞と言われる。この頃長町には、上記4形式のほかに、3200形、8620形、C12形、D50形など。それとは別にガソリンカー3台が配置され、塩釜港-長町間を旅客運行し、途中には三百人町や行人塚(ぎょうにんづか)の駅があった。さらに救援用の操重車ソ35形も配置されていた。戦後には、東北線の貨物輸送量の増大に対応するため、東北線と常磐線の分岐に位置する長町に大きな操車場を設けることになり、昭和25年から30年にかけて、抱込(だきこみ)式ヤードへの大改良工事が行われた。総敷地10万5千坪、線路延長18マイルに拡張され、取扱能力2,500車/日におよぶ大操車場になった。昭和29年には長町こ線橋が開通。また、東海道・山陽本線で走っていて路線の電化で休車となっていたD62形が、東北本線長町-盛岡間で主に貨物列車の牽引車として昭和41年まで活躍した。(編集長追記)昭和27年の空撮写真が展示されている。SL扇形庫を備えた壮大な操車場全景がみえる。長町駅の向かいに秋保電鉄長町駅や仙台市電の長町電停がある。操車場の周囲は、長町市街地と、線路東側の北日本電線や日本通運倉庫と思われる建物があるが、周囲は大部分が田畑だが、西方には東北特殊鋼(現在のザ・モール仙台長町)、東南方面には東北金属工業が目立つ。5.電気機関車時代の長町駅昭和30年代には、国鉄は仙山線の交流電化試験の成功で、動力近代化を掲げて地方路線に電化・複線化を延ばし、駅設備等の改良を進めた。貨物でも輸送設備やサービスの近代化を図るようになる。速達性の向上、到達日時の明確化などが改善され、長町で最初に導入された台車振替検査方式などの合理化が進み、コンテナによる輸送も具体化されていった。この頃コンピュータも導入されている。昭和36年6月、輸送量過多の東北本線の貨物列車をバイパスルートで分離するため、長町-東仙台間に約7kmの貨物別線を建設し、宮城野駅を開業、仙台駅の貨物取扱業務の一部を移管した。同年10月、仙台-福島間が電化されると福島機関区に交流電気機関車(EL)のED71形が配置され、仙台以南での乗務が始まる。さらに昭和40年10月からは仙台-盛岡間電化完成で、仙台以北でEL運転。続いて昭和42年には常磐線全線電化で各線でEL運転が始まった。昭和42年8月には、ED75形交流電気機関車(ナナゴ)が27両配置された。ED75形は、国鉄が改良を重ねた交流電気機関車の標準機として、常磐線と東北本線向けに開発した車両で、シリコン整流方式を用いた最高傑作と言われる。総数302両作られ、長町機関区に多く配置された(昭和59年時で79両)。岩手国体(昭和45年)や全国植樹祭(昭和49年)のお召列車牽引機としても活躍。昭和43年9月にはEL基地が、予算総額4億9千万円を投じて完成。10月の白紙ダイヤ改正を迎えた。これは国鉄がヨンサントウと呼んだ大改正で、東北の鉄道にとってはやっと近代化に追いついた出来事だった。しかし、それによってSLは一部の入換機を除き全廃された。(編集長追記)昭和53年の空撮写真では、新造の立派な電気機関車(EL)庫がみえる。また、長町駅から南方に、長町材修場が長町レールセンターに改称されたとの説明。新幹線高架工事が進んでおり、秋保電鉄の駅と車庫はバスターミナルになった。なお、この頃には東北特殊鋼の周辺部にだいぶ住宅が建っている。6.現在の長町へ国鉄分割民営化を前に、長町で行われていたヤード方式の貨物輸送は廃止され、コンテナ列車による直行輸送に変わり、東北の物流の拠点は宮城野駅(現・仙台貨物ターミナル駅)に移っていった。仙台市は国鉄清算事業団(現・JRTT鉄道・運輸機構)から長町操車場跡を得ると、区画整理事業に着手した。その後、長町機関区は平成11年8月に閉業。線路が撤去されると、仙台市教育委員会による長町駅東遺跡等の発掘調査が行われた。平成18年9月には線路高架化工事が完成。3代目の長町駅が開業。また、長年親しまれた長町こ線橋は役目を終えて供用終了。翌19年には太子堂駅が開業した。7.長町操車場の歩み(年表風)1887年(明治20)12月15日 日本初の私鉄日本鉄道株式会社により、福島-仙台-塩釜間開通1891年(明治24) 長町の地元住民を中心に長町駅設置運動が活発化する1894年(明治27)10月 日清戦争の影響による政府からの要請を受けて、兵員軍馬等の軍用貨物の輸送を行うため、茂ケ崎村長町大道東北に臨時停車場を新設。駅舎の形態はなく急造りのホームだった。1896年(明治29)2月2日 日本鉄道株式会社により長町駅が創設され、一般運輸営業始まる(初代駅舎)。1914年(大正3) 秋保石材軌道が開業。1918年(大正7) 長町操車場を設置するための用地買収が始まる。1919年(大正8)5月 鉄道院官制改正により仙台鉄道管理局が創設される(翌年鉄道省仙台鉄道局に改称)。1922年(大正11)夏 名取郡長町大道西台畑の沼沢地を埋め立て、長町操車場の第一期工事が始まる。1923年(大正12)9月 岩沼-仙台間が複線化する。岩沼の鵜ヶ崎本丸跡を崩した土を運び込み、長町操車場の構内の沼沢地を埋め立てる。同年12月 長町駅二代目駅舎などが竣工される。1925年(大正14)6月11日 東北随一の操車作業駅として長町操車場が完成。操業開始する。敷地面積約34万m3、貨物列車到着線出発線各4線、仕訳線群(上り10線、下り14線)、取扱車数は発着中継車1,330車/日。1926年(大正15)3月15日 仙台機関庫より職員263名、27両の蒸気機関車をもって長町機関庫が分離し、貨物専用機関庫となる。1936年(昭和11)9月 長町機関庫から長町機関区に名称が変更される。1937年(昭和12) 長町機関区にD51形蒸気機関車が配置される。他にもガソリンカーが若干配置され、塩釜港-長町間を運転。三百人町、行人塚停留所などがあった。1947年(昭和22)6月 長町機関区に救援用操重車ソ35形が配置される。1950年(昭和25)10月 長町操車場抱込式ヤードへの改良工事に着手。1954年(昭和29)12月20日 長町こ線橋が開通する。1955年(昭和30)11月 長町操車場の改良工事が完成する。線路増設12.3km、移設17km、分岐器増設35組、同移転75組、線路切換93回に及び、取扱車数は2,500車/日となる。1956年(昭和31)5月 国鉄が貨物設備近代化委員会を設置し、貨物輸送の近代化に着手。1961年(昭和36)5月 秋保電気鉄道廃止。同年6月1日 宮城野貨物線・仙台市場線開通と同時に、仙台駅の貨物取扱業務の一部を移管し、宮城野駅が開業する。同年10月 仙台以南で電気機関車(ED71形、福島機関区配置)による乗務開始。ディーゼル機関車(DD13形が仙台及び宮城野駅の入換に使われる。1963年(昭和38)3月 長町機関区に仙鉄初の鉄筋コンクリート2階建冷暖房完備の乗務員休養室が新設。1965年(昭和40)10月 仙台-盛岡の電化が完成。電気機関車(EL)基地として長町機関区と仙台運転所が統合。仙台以北でELの運転を開始する。長町構内の一部入換をディーゼル機関車(DL)化する。1966年(昭和41)3月 仙台以南完全電化により白石機関車駐泊所が廃止。SL修繕が郡山工場に移管される。1967年(昭和42)8月 常磐線完全電化。長町機関区にED75形式が27両配置される(10月運転開始)。1968年(昭和43)9月 長町操車場にEL基地が完成する。同年10月 白紙ダイヤ改正(ヨンサントウ)でSLが全廃となる。1970年(昭和45)10月 ELの一人乗務実施。第25回岩手国体のお召列車に長町機関区のED75形式120号が充当される。1971年(昭和46)12月 長町機関区でEL台車振替検査方式を他区に先駆け実施。1972年(昭和47)3月 長町操車場の機関車庫(DL庫、旧SL庫)が老朽化により一部撤去一部改修される。1973年(昭和48)5月 長町機関区のEL検査総合試験装置をコンピュータ化。1974年(昭和49)5月 第25回全国植樹祭(岩手)のお召列車に長町機関区のED75形式120号が充当される。1976年(昭和51)3月 長町機関区開区50周年。この頃の車両配置は、ED75-67両、DE10-7両、DD13両、操重車-1、救援車-1、付随車-1。同年4月1日 仙台市電が廃止される。1984年(昭和59)2月 操車場(ヤード)方式の貨物輸送が廃止される。長町機関区は存続。1987年(昭和62)3月 仙台運転所宮城野派出が長町機関区へ移管される。同年4月 国鉄分割民営化。日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)長町機関区となる。1996年(平成8)6月 長町駅開業100周年式典1998年(平成10)3月 一ノ関機関区が長町機関区へ移管される。1999(平成11)年8月 土地区画整理事業により長町機関区が廃止。仙台機関区(宮城野区燕沢)が発足、移転。7月27日に長町機関区主催のお別れ会開催、8月1日に閉業。2000年(平成12)3月 長町での機関車入換が完全に終了。同年4月 仙台機関区が東仙台信号場駅と統合し、仙台総合鉄道部が発足する。同年秋頃 旧長町操車場の設備撤去作業が始まる。2001年(平成13) 仙台市あすと長町土地区画整理事業のため、長町駅東遺跡の発掘調査が始まる。長町駅の高架工事が始まる。2006年(平成18)9月18日 東北本線高架化工事が完成する。長町駅三代目駅舎が移転、開業。同年12月3日 長町こ線橋の供用が終了し、お別れ式が開催される。2007年(平成19)3月18日 太子堂駅が開業する。以上です。東北や日本の近代化の足跡と、今につながる地域の歴史を、ゆっくりと考えることができて大変良かったです。企画展のあと、地底の森ミュージアムの外周の散策路も良かった。リフレッシュになりました。なお、編集長が気にしていた(上記過去記事)、昭和52年にできたとされる「地下自由通路」については企画展での言及はありませんでした。
2023.05.03
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鳥の鳴き声を人間の言葉に当てはめることを「聞きなし」という。ウグイスの「ホーホケキョ」など。国や地方によって異なる。センダイムシクイは、「焼酎一杯グーイ」なのだそうだ。また、別の聞きなしとして、「鶴千代君」がある。これを歌舞伎「伽藍先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)の鶴千代君にちなんだことが、この鳥の和名の由来だという。■関連する過去の記事 江戸時代のビッグな御家騒動(2011年11月6日)(伊達騒動) 天下の三大お家騒動(2011年11月3日)(伊達騒動) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日)
2023.01.24
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温泉の本を読んでいて、杉山尚(すぎやまたかし)東北大学名誉教授のことを知った。仙台市出身、2004年に89歳でご逝去。東北帝国大学医学部卒業後、東北大学附属温泉医学研究実験所教授、附属鳴子分院院長などを歴任。読んだ本の内容とは、次のような趣旨の内容だ。湯治は「一巡り」7日間が多いとされる。ホルモンの分泌、血圧、心臓の拍動数、基礎代謝量、血中中性脂肪や血糖値などが、およそ7日周期のリズムで正常化していくからだ。温泉療養で、疲労・倦怠感、眠気、食欲の増進や減退、下痢や便秘などの胃腸障害、頭痛、同期、めまい、発熱、発汗などの全身症状や歯痛、咽頭炎などの炎症症状がでることがあるが、湯あたり(温泉反応)と呼ばれ、冬至が盛んで一日に何度も入浴した時代にはよく見られた。杉山尚東北大名誉教授やドイツの研究によって、湯あたりは療養開始から7、14、21日前後に多いことが突き止められているが、一巡り7日の身体のリズムにのった失調現象なのである。(飯島裕一『温泉の秘密』海鳴社、2017年)◆関連する過去の記事 日本三大胃腸病の湯 峩々温泉(2023年01月02日)
2023.01.05
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正月の仙台市内で「仙台門松」を見かけた。かつて仙台城下で正月の風景だった門松を復元するというムーブメントがあるのだ。そして、よく見かける竹を三本斜めに切ったものとはかなり異なるものだ。(以下は手にしたパンフレットの記載から。)正月を代表する風景として門松があります。かつて仙台城下で飾られた門松は、現在よく知られている門松の形(斜めに切った三本の竹を藁で巻く)とは全く異なるものでした。それは、二本の柱に大きな松と笹竹を取りつけて、門のように造り上げ、しめ縄を巻き付けて、中央にケンダイと呼ばれるしめ飾りを取りつけ、鬼打木(おにうちぎ)という割り木を根本に添えるものでした。地域や家によって形や材料に少しずつ違いはありますが、このような門松はほぼ旧仙台藩領全域で飾られていたようです。しかし、明治時代以降、少しずつその数を減らし、特に第二次世界大戦中や高度経済成長期に激減し、個人宅でこのような門松を飾ることはほとんどなくなりました。◆仙台城の門松仙台城で飾られた門松は、五階松や七階松を使い、約4mの高さになる豪壮なものでした。寛文10年(1670)の古文書によると、そのころ仙台城と藩の施設で42組の門松が設置されていました。城下にある藩の関連施設の分も相当あったようです。こうした仙台城で飾られる門松の材料は、宮城郡根白石村(現在の泉区)から献納されるのが恒例となっていました。門松の材料を納める家は御門松上げ人(おんかどまつあげにん)と呼ばれる8軒に限られていました。◆仙台門松の復元旧仙台藩領で飾られていたこのような門松=仙台門松は、近代以降急速にその数を減らしました。しかし、仙台市博物館が調査を重ね、さらに仙台市泉区根白石で伝統的な門松を今も飾っている旧家の協力を得て、復元することができ、仙台市内の歴史系ミュージアムで復元・展示活動が行われています。このたび、一般社団法人心のふるさと創生会議では、仙台の歴史と文化を継承することを目的に、この仙台門松を多くの方に知っていただきたく、賛同いただいた企業・団体で展示を行っています。仙台藩で飾られた仙台門松をご覧いただき、仙台の歴史と文化の一端に触れていただければ幸いです。心のふるさと創生会議では、2019年に設置運動を始め、4年目の令和5年には17基の仙台門松が飾られている。そして、古文書に従い42基の設置を目指して活動をするのだそうだ。
2023.01.04
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JR常磐線の佐貫駅は2020年3月14日に龍ケ崎市駅と改称された。龍ケ崎市公式サイトによると、駅名改称事業に関する市の負担額は約2億2千5百万円。当初の概算負担額は約3億9千万円だったが、高輪ゲートウェイ駅の開業や常磐線ダイヤ改正と同時に実施したことで割り勘効果が生じて減額になったとJRから通知されたのだという。現在のJR常磐線が明治29年(1896)に日本鉄道土浦線として開業した時、龍ケ崎はルートから外れた。その後、竜崎鉄道(佐貫駅ー竜ヶ崎駅、現在の関東鉄道竜ヶ崎線)が明治33年(1900)に開業する際に、竜崎鉄道佐貫駅に併設する形で日本鉄道も佐貫駅を設けた。佐貫駅の地は、当時稲敷郡馴柴村だった。昭和29年に稲敷郡馴柴村、大宮村、八原村、長戸村、北相馬郡北文間村、川原代村が龍ケ崎町へ編入され、さらに昭和30年に北相馬郡高須村の一部が編入されて、現在の龍ケ崎市が形成された。龍ケ崎が常磐線のルートから外れたことについて、流山とともに、「鉄道忌避伝説」の対象となっている。たしかに、仙台藩の飛び地の在郷町として発展した龍ケ崎は、立ち寄るだけの規模を有していたが、実際には、明治期の鉄道建設技術を前提にすればトンネルや橋梁を少なくする必要があり、また、常磐炭鉱と京浜を結ぶ最短ルートからわざわざ遠回りする理由がない。流山の場合は、江戸時代から江戸川水運の要衝で酒やみりんの醸造で知られていたが、江戸川や中川の後背湿地の軟弱地盤であり、地盤の安定した下総台地の縁の松戸経由の方が合理的だった。その後で流山軽便鉄道(現在の流鉄)が敷設されている(今尾恵介『地図帳の深読み 鉄道編』帝国書院、2022年)。ところで、上記のように龍ケ崎は仙台領の飛び地だった。仙台藩62万石のうち、陸奥の外にある飛び地は、近江の1万石、常陸及び下総の1万石だ。常陸国は、信太郡内13ヶ村(現在の稲敷郡阿見町、同郡河内町、同郡美浦村)、河内郡内13ヶ村(龍ケ崎市、稲敷市)、筑波郡内3ヶ村(つくば市)。下総国は豊田郡1ヶ村(現在の下妻市)。
2022.12.27
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伊達政宗の国元仙台での一日の様子。(伊達成実『政宗記」所収「政宗一代之行儀」などから。)出典:週刊朝日MOOK歴史道別冊『そうだったのか!江戸の暮らしと仕事』2022年12月20日■午前6時 起床寝床で自分で髪を結う。■6時15分 喫煙厠の後、煙草を嗜む。愛煙家だったが、一日の本数は決めており節度をもって吸っていた。小姓に寝床の上に虎革を敷かせて必要な道具を置かせた。■6時30分 閑所その後、寝床を出て、閑所(かんじょ)と呼ばれる小部屋に移る。京間一間(197cm)四方の小部屋で、ここに2時間ほど籠る間は、常に香を焚かせた。側近から報告を受けたり、指示を与え、また書状を書いたりした。朝の献立表を見て食べたくないものがあれば修正させた。■8時30分 行水政宗は合戦中や移動中でも朝夕二度の行水を欠かさなかった。行水の前には、刀掛けに刀を置き、広蓋には、寝間着を脱いで着替える小袖、帯、印籠、巾着、鼻紙を揃えさせた。行水の後は「奥」を出て「表」の行動となる。■8時45分 髪結い居間で小姓に髪を結わせながら、出勤した重臣に指示を出した。■9時 朝食朝食は、相伴衆(しょうばんしゅう)と称される側近たちと一緒にとった。小姓に呼びに行かせ、相伴衆が着座して膳の用意が整うと、政宗が箸をもって茶碗に手をかけるのを合図に相伴衆も箸を手にした。一の膳の後には二の膳が運ばれた。食後に飲酒する場合政宗はうがいをしてから飲んでいる。食事に親類が一人でもいるとうがいはしなかったが、普段は酒を呑むことはなかった。食事中は家臣が政宗を楽しませる芸を見せたが、それが終わると政宗が湯を所望することで膳を下げさせ、茶菓子の用意をさせ、その間に厠にいく。お茶の時間が終わると相伴衆は席を立ち、1時間半の朝食が終わる。なお、相伴衆との朝食という政宗の慣習は珍しいかもしれない。■10時30分 喫煙■11時 政務家臣が入れ替わり政宗の前に現れる。午後2時まで続くが、政宗の時代は昼食はとらなかった。政務は3時間程度だが、他の大名も、江戸城への登城がない日の執務時間は2時間程度だった。■午後2時 閑所政務が終わると、再び奥の閑所にはいる。昼食の習慣がないのでおやつで小腹を満たし、喫煙など。また、朝と同様、側近から報告を受け、指示を与える。朝夕二度の閑所の時間が、筆まめでグルメな政宗の重要な時間だったのだろう。プライベートで余暇を楽しむ時間でもあった。■5時 行水夕食が近づくと、朝同様に献立の修正の指示を行い、行水のあとは寝間着に着替える。そのあと喫煙する。■6時 夕食夕食は奥の居間で食べることが多く、家臣を相伴させたが人数は少なめでリラックスした時間のようだった。■8時お茶と煙草を味わってから就寝した。睡眠時間は10時間ほどとって健康を保った。伊達政宗に限らず、大名にはこのように守るべき一日の日課が決められており、それに従って行動していた。江戸屋敷でも同様だが、江戸在府中は月に3度ほど登城して将軍に拝謁することが義務付けられていた。登城日以外のスケジュールは国元と同じだが、幕府監視下にあったため外出を自粛するなど堅苦しいものだった。
2022.12.18
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先日、日本の精神医学のパイオニアで仙台出身の石田昇について記した(精神医学のパイオニア 石田昇(2022年8月21日))のは、秦郁彦の著作を読んでだったが、その出自などはわからなかった。阿曽沼先生の著作を読んでいたら、先生が丹念に調べた内容を記していた。■参考阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』丸善出版サービスセンター、2010年■以前の記事(石田昇について) 精神医学のパイオニア 石田昇(2022年8月21日)石田昇は、東北大学医学部の前身である共立病院副院長であった石田真の子である。以下、阿曽沼先生の著作に基づき、概説する(整理と構成はおだずまジャーナル)。1 石田真(1837-1891)について仙台市若林区弓ノ町の大安寺に、天籟石田先生讃徳碑なる石碑がある。石田とは、中目齋と図って宮城医学校~共立(社)病院を創立し、副院長となった石田真である。天籟は号である。石田真は、伊達一世念西公以来の藩医、錦織即休の第六子として生まれ(天保8年)、同じく藩医の石田道隆(現在の東二番町小学校に屋敷があり、第一次宮城県立医学所が開校された)の養嗣となる。明治3年、藩命により中目齋先生とともに大学東校で西洋医学を修め、さらに米国人医師シモンズとヘボンに学ぶ。横浜で塩谷良翰(初代宮城県参事に内定)に説かれて帰仙し、中目とともに共立病院を創立(明治5年)、中目が院長、石田が副院長となる。地域医療の中核として共立病院の果たした役割は大きく、創立の年には白石に分局を設け、翌明治6年には、石巻、古川に分局を、松山、仙台河原町に出張所を設けた。明治12年に病院が公立(県立宮城医学校)となると勇退して自宅で開業。信望が厚く門前市をなす盛業で、中目齋とならび当時の二名医と称された。明治24年55歳で食道がんで亡くなる。遺言により山形仲藝が解剖した。弓ノ町の大安寺に葬られた。石田の居宅には梅樹が数十本あったので、香韻書屋と名付け老後は漢書に親しみ吟詠を楽しんでいた。石田真の先妻(石田道隆の次女ツネ、明治2年25歳で死去)との間には、息子の康(1863-1951、北海道庁官吏)と娘がいた。継室は佐藤氏娘(市子)で、六男一女をもうけたとあるが、長男が昇(1875-1940)、次男が基である。真が亡くなったときは昇が16歳だった。2 石田真と昇大安寺には石田家の墓が二つある。石田真一家の墓と石田昇一家の墓である。昇の墓には、昭和15年5月31日昇行年66とあり、従五位勲六等醫學士 興學院昇雲俊龍居士 と刻まれている。真が東京・横浜に西洋医学を志して勉強しに行ったのは、先妻ツネをなくした翌年の明治3年で、後妻市子との間の長男、昇は、当時長崎にあった第五高等中学校医学部を卒業し、東京大学医学部に入り、在学中にドン・キホーテを翻訳出版。東大精神科に入局後三年目には『新撰精神病学』を著した大変な秀才だった。シゾフレニーを精神分裂病と訳して日本に紹介したのは昇である。昇は、明治40年(1907)弱冠29歳で長崎医専初代精神科教授(第二代は斎藤茂吉)となり、大正6年文部省留学生として米国ジョンス=ホプキンス大学に留学した。ところが昇自身が精神分裂症(現統合失調症)を発症し同僚医師を射殺し終身刑となったが、結核を併発し、病状が悪化して日本に送還され、昭和15年松沢病院で亡くなった。石田昇が地元の仙台を離れて遠隔の長崎に行ったのは、多感な16歳の頃の父、真の死が関係していたのかもしれない。石田昇先生一周忌追悼会で斎藤茂吉が詠んだ詩鳴滝をともに訪いたることさえもおぼろになりて君ぞかなしき(注:鳴滝はシーボルトが蘭学を教えた鳴滝塾)■関連する過去の記事(疫病、民俗、感染症など) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)
2022.10.08
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仙台とコレラの歴史について。阿曽沼先生の著作を読んで記す。■参考阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』丸善出版サービスセンター、2010年■関連する過去の記事(疫病、民俗、感染症など) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)1 明治15年の仙台コレラ流行と水の森の碑文緑豊かな水の森公園。水の森市民センターを起点とする散策路を150歩ほど北進すると、左手に、「叢塚」が建つ。さらに60歩ほど奥の散策路分岐部には、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」がある。276人の供養碑である。叢塚には漢文で碑文が刻まれている。以下が解読文である。明治15年7月、虎列刺(コレラ)疫が盛行し、宮城県仙台区の病死者日に十余名に上る。官は荒巻邨(村)に場を設けて死屍を火(焼)き、壇(檀家)の埋葬を許さず。蓋し伝染を防ぐなり。虎列刺疫は、印度に原出し、遂に我が邦に侵入して愈東に熾んなり。宮城県の此の疫あるや、今茲に始めと為す。疫の本は有機毒性為りて尤も酷烈にして熱度沸湯に至らざれば則ち撲滅せずと聞く。凡そ、飲水の不浄庭宇の不潔、及び魚鳥果菜、調理を失うの類は必ず其の種を遺す。故に飲食の選択、庭宇の麗掃、最も不可なるは以て心を用いざるべからざるに夫婦の愚かなるは衛生の何物為るを知らず、恬然として省みず。遂に毒を使わし焔炎々として嚮邇すべからず(向かい近づくのを止められない)。是自ら招くところの者有りと雖も豈に亦憫ならずや。今や秋気清爽、呻吟の声熄(や)むも当時を回想すれば実に人をして身戦(おのの)き心悸(おそ)れしむ。其の惨を極むと謂うべし。荒巻邨は仙台区の北に在り。場を設けて自り以来、屍276名を火(焼)く。火く毎に親戚遺骨を収めて之を葬る。然れども余骨灰中に現存する者堆積す。宮城県士族邨上左膳君之を哀れみ、叢冢を築き、遺骨を収めて合葬し、又碑を建てて永く香火の地と為す。義を好む者争って貲を捐して之を助け、余に嘱して之を記せしむ。嗚呼、君の此の挙、祭吊(弔いの祭)に礼情有りて義の尽くるに至ると謂うべきなり。死者霊有らば宜しく泉下に瞑すべし。是に於いて書す。明治15年11月 西岡逾明撰并書干時明治15年12月建之 発起人世話人8人邨上左膳なる人物の詳細は不明である。西岡逾明(ゆめい)は肥前佐賀の生まれで字は子學、宜軒と号した司法官。明治14年宮城県控訴院長に任ぜられ、のち大審院刑事局長、長崎、函館控訴院長を歴任した。西岡は文学を愛し、仙台在任中は維新後衰退した仙台文学を発揚した文人でもあった。2 過去のコレラの歴史コレラは経口感染する法定伝染病。潜伏期間は早ければ数時間から5日以内、猛烈な水様便と嘔吐で急速に脱水症状が進む。腹痛や発熱はなく、血行障害、血圧低下、筋痙攣を起こして死に至る。現在では補液などの適切な対処を行えば死亡率は1%から2%に過ぎないという。『宮城県史』の災害編には、疫病を含む多くの災害が記録される。・寛永6年(1629) 暑熱・疫病・享保19年(1734) 洪水・疫病・安永3年(1774) 気仙郡疫病・死者2,107人・寛政2年(1790) 疫病死者多し・寛政5年(1793) のどはれ流行・死者多し・享和2年(1802) 疫病流行・享和3年(1803) 麻疹流行・死者多し・文政7年(1824) 麻疹流行・死者多し・天保元年(1830) 痘瘡流行・子ども多く死す・天保2年(1831) 感冒流行・天保3年(1832) 朝鮮風邪流行・天保6年(1835) 夏中疫病流行・死者多し・天保8年(1837) 流行病者多数・安政元年(1854) 痘瘡流行・安政5年(1858) 天然痘・コレラ病流行・安政6年(1859) コレラ病激烈・文久2年(1862) 麻疹流行・死者多し・明治15年(1882) コレラ大流行・屍体は焼却病名が記載された最初は、寛政5年の「のどはれ」である。その後、麻疹、痘瘡(天然痘)、朝鮮風邪などがあるが、コレラが最初に記載されたのは安政5年である。日本のコレラ流行の最初は、コッホのコレラ菌発見の60年ほど前の文政5年(1822)とも言われる。この年は、朝鮮、対馬、九州、山口、京都や大阪の経路で流行し、朝鮮では4万人、対馬は全滅、萩583人、岸和田134人、大阪では毎日ニ三百人が死亡したという。安政5年(1858)は、九州、中国、東海道、江戸、そして仙台藩へ伝播したと考えられる。江戸の死者は30万人を越したといわれる。西岡は碑文の中で酷烈な伝染力を記し、衛生知識のないことが死を招いたと断じている。3 火葬について火葬はユダヤ教、イスラム教、ギリシャ正教やロシア正教では禁じられている。米国ではプロテスタント保守派で禁忌が強いこともあって火葬率は20%ほどだという。日本では、仏教伝来とともに伝わったという説が有力。これは仏陀が火葬されたことに因むと言われており、日本の火葬率は高いそうだ。明治政府が衛生面から推奨したことにもよるという。しかし昔は土葬が主で、火葬が主流になるのは昭和もずっと後である。何かで火葬の必要があるのに常設の火葬場がないときは、場所を決めて野焼きを行った。火葬が法律で決められた当時は、あの世に行けなくなると、施行前に自殺が相次いだそうだ。焼かれることが大変な苦痛だったからこそ、この碑を建てた人の心が顕彰され、人民の心は別に伝染防止のため集めて焼いた「官」の英断も賞賛されよう。
2022.09.19
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昨日(9月3日土曜日)の未明に仙台でコンビニ強盗(未遂)事件があったとのニュース。報道を総合すると、午前3時15分頃に、ファミリーマート仙台岩切店のレジにいた店員(男性70代)に、身長160から170cmでフード付きの黒いパーカーと黒いズボンで眼鏡をかけた男が、包丁のような刃物を突き付けて金を要求。店員が非常通報ボタンを押すと、男は何も取らずに店外に逃げた。店員にケガはなく、他に客や店員はいなかった。映像が公開されている。マスクはしているが比較的顔が分かりやすい。どんな事情にせよ強盗を働くのは言語道断、厳しい処罰を受けてほしい。そして、この店は主要街道沿いで私自身も何度か立ち寄ったことがあが、余計な不安感を地域に与えるべきでない。さっさと自分から警察に名乗り出てほしい。■関連する過去の記事(仙台と強盗)仙台菖蒲沢のコンビニ強盗事件(2014年11月26日)台原の強盗事件(2014年11月16日)相次ぐ放火と強盗(09年12月22日)
2022.09.04
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我が国の精神医学の草創期に残る人物に、仙台出身の石田昇がいる。■参考 秦郁彦『病気の日本近代史 幕末からコロナ禍まで』小学館、2021年1 石田昇について東京大学で最初の西欧医学の精神病を講じたのは、ベルツ博士(1879年)とされる。ドイツに留学した榊俶が初代の精神科担当教授となり(1886年)、その一番弟子の呉秀三が1897年引き継ぐ。呉は多くのすぐれた弟子を育てた。三宅鉱一、森田正馬、斎藤玉男、下田光造、斎藤茂吉、内村祐之などだが、出色の一人が石田昇(1875-1940)である。石田は、仙台藩御典医の家系に生まれ、旧制二高を経て明治37年に東大医学部を卒業、呉教室の助手と巣鴨病院医員を兼ね、多彩な才能を開花させた。まだ医学生の時代に、セルバンテス『ドン・キホーテ』の翻訳出版、小説(雄島浜太郎の名)などを発表していたが、31歳で大著『新撰精神病学』を刊行して注目された。好評で版を重ね、石田は最新の研究成果で増補改訂を加えた。特に難治とされた早発的痴呆の研究に取り組み、また、第6版(1915年)で最初に分裂病の訳語を採用して定着させた。(なお、精神分裂病は2003年から統合失調症と改称。)治療の実践面でも、明治40年に長崎医学専門学校精神科教授として赴任すると、開放病棟、作業療法を試行するなど実績を上げた。そして、大正6年(1917)末、呉教室で7年後輩の斎藤茂吉を後任に迎えて、アメリカ留学に向かった。後述の事件のあとは、大正14年(1925)12月日本に送還、松沢病院に入院し、回復せずに昭和15年5月死亡する。医学者の間で半ばタブー視された石田を、精神医学の先駆者として再評価したのは、呉の後任の三宅鉱一、内村祐之に続く第五代の秋元波留夫教授(在任1958-66)であり、その定年退官を控えた最終講義の場だった。その後、長崎医大の中根允文教授が石田について明暗両面の業績を著書にした。2 石田の起こした事件1917年単身渡米、ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学に籍を置き、近在のプラット病院精神科に通っていた。1918年11月に、同じ下宿からニューヨークに移った小酒井光次(衛生学者、また不木の名で推理作家)に宛てて、同じ病院の医員が自分を妬んで排斥しようとしていると絵ハガキを出している。その一か月後のことである。石田は、同僚のドイツ系米国人医師ウォルフをピストルで射殺した。1919年3月の最終評決は、犯行の30分前でさえ正気でない兆候は全くないという病院長の証言を採用して、有罪、第一級殺人罪で終身刑。石田は裁判官から抗弁を問われ、気が付くと拘置所にいた、夢を見ているようだった、と落ち着いた口調で陳述した。秋元は、この陳述ぶりから、犯行直後に自身の異常を自覚するまでに回復し、正気に戻ったと推定するが、長くは続かなかった。獄中手記では、医師を撃ったのは自分でなく計略に与した多数の米国人だ、などの記述がみられ、中根は典型的な妄想型統合失調症の病像と結論する。後日の松沢病院の日誌(本人からの聞き取りか)には、看護婦長が自己に恋着す、しかるにドイツ系米人が右看護婦長に執心し、日米間を離間せんとすと考え(なお当時は日独は交戦中)、ついに恋敵、国敵たると思惟する同人を短銃にて射殺、とある。石田は州立刑務所に収監され、その後州立精神病院に移される。大正14年(1925)12月、5年間の獄中生活を続けていた石田は、松沢病院で呉博士の治療を受けるため、出獄を許され、郵船横浜丸で帰国する。当時の新聞記事には、夫人は郷里仙台で病気静養中で、弟某氏その他ニ三のさびしい出迎え、とある。出迎えた弟とは、13歳下で東京地裁席検事(現在でいう特捜部長)の石田基のことだろう。鬼検事として知られたが、陸軍機密費事件を捜査中の1926年怪死(松本清張の著作がある)をとげる。1935年から松沢病院に勤務し石田の主治医となった秋元は、医学生の頃石田の主著を読んだのがきっかけで精神科医に進んだのだった。その頃、病室で重い病状の石田をみるたび、偉才を迷妄なる一肉塊に変えてしまう分裂病とは何者か、との思いにとらわれたという。松沢病院に移された石田には、恩師の呉秀三などが面会していたが、ジャーナリズムが石田を伝えることはなく、1940年、肺結核でひっそりと死亡。3 (若干)日本の精神医療の歴史1に記載のようにベルツ博士に始まる東大の精神科で先駆者たちが育てられた。東大の教授は、精神科専門の東京府立巣鴨病院の医長や院長を兼ねる慣例となった。巣鴨病院の前身は、宮内省下賜金を基に開院した府立癲狂(てんきょう)院(明治12-22年)だが、他にも、江戸期以来の座敷牢や、不備な民間経営の私立癲狂院で療養する場合が多かった。この時期に耳目を集めたものとして、旧相馬中村藩主の子爵相馬誠胤(ともたね)が狂人として軟禁された座敷牢を、錦織剛清が救出しようと訴訟合戦になった(相馬事件)。明治16年から10年紛争が続き、病死した相馬が毒殺でないことが判明して決着。この時期は、欧米でも精神病学は未発達で病名や分類も確立していなかった。病院の呼称も、癲狂院から、明治20年代に精神病院に。脳病院と名乗るのが流行した時期もある。明治36年に斎藤紀一が創設、養子の茂吉(歌人)が継承した私立青山脳病院は昭和20年空襲焼失までこの名で通した。我が国の近代精神医学のパイオニアは、東大精神科と巣鴨病院を30数年主宰した呉秀三だろう。病者の人権、福祉向上も重視し、収容施設の整備増設を政府に献言した。最大の課題は患者収容力の拡大と効果的治療法の開発だったが、約15万人の患者に対して精神病床は官公立1千、私立4千に過ぎず(大正7年呉論文)、大多数は私的監置(座敷牢)と民間療法に頼っている。昭和15年に2万5千床に増えたが、終戦時一気に4千床に転落。松沢病院(1919年に巣鴨から移転)では患者の半数が栄養失調で死亡した。
2022.08.21
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インフラの視点から歴史や都市を解説する竹村公太郎氏の著作を読んで、当ジャーナルでは、家康の利根川改修事業は政宗の南下を防ぐという目的であったことを、前に記した。■出典 竹村公太郎『”地形と気象”で解く! 日本の都市 誕生の謎』株式会社ビジネス社、2021年■関連する過去の記事政宗が迫った家康の利根川東遷(2022年2月27日)歴史地形学への招待、という副題のように、政治や経済の論理で語られがちな都市づくりや歴史上の動きについて、下部構造やそれを規定する地形や気象から必然性を読み解いている。例えば、桓武天皇が平城京から移ったのは、盆地を囲む山の樹木が伐採されつくして水害に見舞われ、生活排水で疫病が慢性化したからである。京都も水道インフラや下水システムがなく、不潔で疫病が蔓延した。清盛が遷都を狙った神戸(福原京)は、背後に山が連なる傾斜地形で排泄物を自然流下させ、大河川がなく干潟で船が座礁しない良港を拠点に海運を制覇でき、街道の東西を抑えれば流人の流入も防げる地形にあった。その平氏を破った頼朝が拠った鎌倉は、山に囲まれて人口膨張を許さず、傾斜地形が排泄物を流下させ、由比ヶ浜の遠浅の砂浜は船団の急襲を防ぎ、さらには、中山道や房総半島を経て関東、東北に向かうルートの要衝にあり、三浦半島には横須賀や浦賀という良港がある。モンゴル軍が九州で敗退したのも、ぬかるんだ福岡の地形で騎馬軍団が進めなかったのである。同書からポイントを摘まんでみたが、だいたいこんな解説だ。仙台についても、極めてユニークなまちづくりとして、説明がある。広瀬川と七北田川による河岸段丘の上につくられ、20mから100mの標高。他の都市のような低平地の沖積平野ではない。広瀬川には堤防がなく洪水の心配がない。台地の上の仙台は、水害がない代わりに水不足に対処する必要があった。そのため、広瀬川上流から四ツ谷用水を引いた。芭蕉の辻の街路の中央に水路が流れている絵がある。生活用水や防火用水、また水車の動力にもなったが、重力で流れるこの四ツ谷用水が近代の仙台市の下水道の原型になっている。東日本大震災で電気や水道の止まった一か月間、下水道システムは見事に機能した。ポンプが動かなくても、仙台市内の汚水は自然重力だけで流下したのだ。見事な都市計画上の条件を生かした政宗だが、それは秀吉に学んだのではないか。秀吉は湿地に囲まれた上町台地の先端に難攻不落の大坂城を築いた。飲み水は地下水が豊富であり、排水は南北に延びる台地の東西に排水路を向ければ自然に流下できた。台地の地形を生かして、町を南北に配置し、排水路は東の大坂湾と西の河内湾に向かわせた。日本最初の本格的な下水道である「太閤下水」を建設。大阪市下水道局はいまでも現役として使用している。政宗が大阪の街づくりを学んだ証拠はないが、大坂をモデルにしたのではないだろうか。竹村氏は仙台について以上のように述べている。
2022.03.05
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関ケ原の戦いを挟んで、徳川家康が急いでいた一大事業が、利根川の東遷である。この事業は伊達政宗の急襲に備える防衛であったという見方がある。そして、東北の大名の脅威が消えたのちも、湿地を乾田化させるため、また、洪水から都市を守る治水事業として、現代まで続いているのである。■出典 竹村公太郎『”地形と気象”で解く! 日本の都市 誕生の謎』株式会社ビジネス社、2021年竹村氏のこの本では、日本の都市づくりや歴史上の分岐点を、当時の地形に依拠したインフラの視点から明快に解説している。利根川東遷については、以下のように述べている。そもそも江戸の地は秩父一族の豪族江戸氏が開発し、その家臣太田道灌が江戸に城郭を築造し、応仁の乱から北条氏が関東一帯を制して、1524年上杉氏を追放して江戸城郭をも支配した。1590年に家康が転封されられたとき、江戸城の東は広大な湿地帯で、縄文時代に海だった地帯には、利根川、渡良瀬川、荒川が流れ込み、大雨で水浸し、高潮で海水が浸入する劣悪な環境であった。まず家康は、城の修復やまちづくりをさておいて、鷹狩と称して関東一帯のフィールドワークに徹した。これにより、すでに関西では伐採されてしまっていた森林が利根川流域に豊富にあることを認識し、また、湿地帯を穀倉地帯に転換させる地形の発見に至る。すなわち、利根川をブロックしている関宿付近の台地を削り、川を東の銚子に向かわせ、江戸城付近の干潟を穀倉地帯に変えるのである。このため、関ケ原で勝利し将軍の称号を受けた家康は、即座に江戸にもどり、利根川東遷事業を再開した。利根川と渡良瀬川が南に流路を変えて南の江戸湾に流れ込んでいたのは、関宿で両川をブロックする下総台地の存在である。この台地だけが、湿地帯の関東で乾いた土地である。下総台地は家康にとって非常に危険な地形だった。そもそも房総半島は京都から東北に行く海上ルートの玄関口で、上陸して北に向かうルートにあるのが半島の付根の国府台(こうのだい)だ。奈良時代に国府が置かれて以来、頼朝が陣を張り、北条氏と里見氏が合戦を展開した。この台地だけが湿地帯の関東で乾いた土地である。家康は、水軍を迅速に動かし国府台を抑えるために、運河として小名木川を開削した。各所に構える北条氏一党の武将たちを制圧するために、家康が絶対に抑えなければならない場所が、房総半島と国府台である。そして、独眼竜伊達政宗が一気に南下するときには、かならずこの台地を駆け下って房総半島を一瞬で抑えるだろう。房総半島は船が接岸できる良港が多い。関宿は、家康にとって東北から鬼の来る鬼門であった。家康は、この関宿の台地を開削して、利根川と渡良瀬川を銚子に向かわせ、台地の分断で東北の敵を防御したのである。1594年東遷の第一次工事として会の川締切(利根川を渡良瀬川に合流させる)、関ケ原の中断を経て、1654年赤堀川の開削でついに利根川と渡良瀬川の流水は銚子に流れた。すでに戦いのない平和な時代だったが、家康が始めたころの敵の防衛から水田開発に目的は変わり、さらに明治以降も堤防強化など治水工事は続いている。
2022.02.27
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仙台駅の位置に関する経緯について、ふたたび。今回は下記の文献から。(本文のほか、図の解説などからも構成しています。)■『宮城のトリセツ』昭文社、2020年(Part2 監修 原淳一郎)1 東北本線の仙台駅について日本鉄道によって建設された東北本線は、1887年(明治20)に上野-仙台-塩釜間が開通。上野-仙台間は所要時間12時間20分。当初の予定では仙台-野蒜間に敷設のはずが、1884年(明治17)台風で築港計画が白紙になったため仙台-塩釜間に変更された。その後1891年(明治24)青森までの全線が完成。仙台停車場(仙台駅)の建設に当たっては、場所をめぐる議論があった。日本鉄道は、市街地から離れた榴岡(現在の宮城野貨物支線の仙台貨物ターミナル駅付近)へ停車場を設置しようとしていた。これを知った地元商人たちが、城下町の衰退を恐れて反対。移設費用を仙台区民が負担すると申し出て、立地を変更するよう要求した。結局、この要求が通り、東北本線は仙台市街地寄りに引き込まれ、現在地に停車場が建設された。仙台駅の立地問題に限らず、鉄道開通までには、さまざまな問題が発生した。小牛田では汽車の振動で線路脇の農作物の根付きが悪くなる、煙で草木が枯れるなどの反対があったという。そのたび、敷設地の変更といった対応を迫られた。宮城県内の東北本線は、仙台が市街地寄りに駅を置いたため、全体から見ると仙台付近の路線がやや内陸寄りになっている。2 新幹線の仙台駅について1971年(昭和46)東京-盛岡間を走る東北新幹線の建設が決まった。ここで勃発したのが、東北本線開設時と同様の仙台駅立地問題である。停車駅の候補として、既存の駅から、仙台駅、長町駅、宮城野貨物駅が候補に挙がった。高速で走る新幹線の線路はなるべく直線が求められることから、長町や宮城野が適当かと思われるが、そうはいかなかった。地元の人々は市街地中心部への立地、すなわち現行仙台駅への停車を望んだ。このときは国鉄側も仙台駅停車を希望した。そういうわけで新幹線引き入れとともに、駅と周辺設備を刷新する仙台駅新駅舎の工事が行われた。1982年(昭和57)、大宮-盛岡間で開業した東北新幹線が、仙台駅前後で不自然に蛇行するのはこのためである。(文献内容の要約は以上)----------------地図から様々なことを読み解くという文献の趣旨から、各項目の記述はコンパクトなので、これまで調べたこと(下記の記事を参照下さい。)以上のことは基本的にはないが、東北新幹線の建設の際に、仙台駅前後の湾曲を避けるために長町駅も候補になったというのは初めて接する情報だと思う。長町の人たちは誘致運動したのだろうか。そして、もし長町に新幹線駅ができていたら、いまはどんな風景になっていたのだろう。■関連する過去の記事(鉄道敷設の歴史を含む仙台・宮城の鉄道関係の記事です。) 昭和47年仙石線新田踏切事故(続)(2021年10月19日) 新生富谷市はなぜ「駅なし鉄道なし」なのか(2016年10月10日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日) 仙山鉄道 3つのルート(2015年2月13日) 小原新道と白石人車軌道(2014年8月8日) 松山人車と白石人車軌道(2014年8月7日) 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日) 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1)(2013年4月19日) 仙台駅の予定地について(その9)(2012年5月23日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) 仙台駅の予定地(その8)(2011年9月26日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2021.11.14
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新型コロナがふたたび猛威を揮わんとする真夏に、ふたたび、芋峠の話題を。感染症と人間社会、わが仙台でも地名に残る苦難の歴史に思いを馳せるとき、先人に感謝しつつ、皆の英知をあつめて何としても乗り越えようと、意を強くしたい。■関連する過去の記事 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)上記の昨秋の記事は、太宰幸子『みやぎ地名の旅』(河北新報出版センター、2014年第3刷)を参考に書いたのだが、今回も太宰先生の『みやぎ 不思議な地名 楽しい地名』(河北新報出版センター、2014年)から。-----芋峠のある道は、馬場と新川を結び、新川地区が(旧)宮城町と合併するまで生活道路である通学路であったという。つまり、古い時代には、馬場と新川の村境であったということになる。そんな所には、賽ノ神が祀られた。地名にも、才の神などというのがあり、そこには庚申塔が立てられていることも多い。地名の意味は、村境であったからこそ生まれた。イモとは古くは天然痘のことで、峠は村の境で神聖な地でもあったから、その境界で悪い病気や事件が集落に侵入して来ないようにと神へ願い、サンダワラ(タラバスともいう)に御幣束を立ててお祓いをした。つまり「イモハライ」の地だったのである。天然痘は強烈な伝染病であったから、古代から為政者であろうと庶民であろうと勝てなかった。エジプト王朝のラムセス5世のミイラにも天然痘の跡があり、伊達政宗も天然痘に罹患し隻眼となった。現在はほとんど根絶されたというが、これまで何度も大流行した時代があった。種痘を注射した記憶のある方もあるはずだ。良薬がなく、治療や対策するすべを知らない庶民は、神に祈るより方法がなかった。一般的には疱瘡やオホソと呼ばれ、あちこちに疱瘡神が祀られ、仙台市には疱瘡神という地名もあったが、現在は国見に変更されている。-----東京オリンピックが終わった。新型コロナと関連付けて、是非論などいろいろな論評があるが、人々の活動を全面停止して良い訳はなく、大きく言えばバランスの問題であり政治的判断の問題だ。芋峠で祈るだけだった昔に比べれば、公衆衛生や医療の進歩はもちろんとして、情報の公開や伝達の技術と民主主義的決定の点では文字通りに隔世の前進をしたはずだ。21世紀にいきる私たちは、右往左往などしている場合ではない。小事をとりあげて論じる風も少なくないと感じるが、かの時代を懸命に生きた先人たちに、進歩した今の姿を示さなければならない。先を見据えて、進むのみだ。
2021.08.09
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芋峠(いもとうげ)は、青葉区の新川(仙台ハイランド跡周辺)と太白区秋保町馬場の間の峠。そばに仙台水道局の芋峠配水所がある。峠から馬場へ向かうと、芋生橋が芋生沢に架かる。由来は、多産する山芋と伝わるが、イモは天然痘のことで、村を壊滅させる威力をもつ伝染病だ。村と村の境界である峠で、悪い病気や事件が集落に侵入しないよう願い、御幣束を立てておはらいをした。伊達政宗も子どものころ天然痘で隻眼となった。大流行した時代があったのだろう。良薬がなく、すべを知らない庶民は、祈るしかなかった。京都には、「一口」と書いてイモアライ(イモを払うの意)という地名がある。■太宰幸子『みやぎ地名の旅』(河北新報出版センター、2011年)から。昔の人たちは、それこそ必死に命を守ろうとしたはずだ。いま、新型コロナウイルスに関するニュースが連日報じられる。情報が瞬時に飛び交い、医療が整い、民主主義体制が確立し、法制度や財政の仕組みを持っている今の世の中だ。かならず、乗り越えられる。■関連する過去の記事 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)(現在の仙台サンプラザ)
2020.11.28
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あまり歩いたことのない長町。新幹線の車窓からだと、東側(あすと長町)は大型の新しい建物が並び、とても貨物操車場の跡とは思えないほどだ。昭和のころ、ここが仙台の南の果てといわんばかりの存在感があった(私感です)4号線長町跨線橋や、自分は通ったことがないが操車場の地下を東西につないでいた長い自由通路は、その痕跡だけでも見えるのか。年末の小雨しょぼ降る日。傘を片手にJR長町駅からあすと長町側に出て、高架下沿いに、ひたすら南へ、旧笊川まで歩いてみたが、よくわからなかった。ただ、あの機能的でちょっと怖い(私感です)エリアがまったく一変したことは確かだ。以下は調べたこと。■国道4号跨線橋1954年に立体交差が完成する。現在の太子堂駅のホーム北寄りが鉄道と国道4号の交差地点だったものと思う。現在の長町六丁目南端交差点から、外車がたくさん並んでいるあたりで、かつての国道4号は上昇を始めて、新幹線の高架下を抜けて在来線をオーバーしたはずだ。ゆるやかにS字を描いて線路の西に出て、地上に降りた国道4号(当時)は、諏訪町の交差点に至る。貨物ヤードの南端地点になる。いま4号バイパスから車で行くとすると、篭ノ瀬交差点から太子堂駅に向かって市街地に入り、トーキンの南を通過して鉄道高架下に抜ける道路が現在はあるが、かつてはこの交差点で止まっていた(太子堂側に抜けられない)はずだ。■貨車操車場地下の自由通路長町操車場が長町地区と郡山地区と分断したため、横断者の事故があったことから、1952年に地下道が建設されたという。私は誰にも聞いたことがないが、かなり多くの人が利用したのだが暗くて怖い長い通路だったと新聞記事か何かで読んだ気がする。ぜひ痕跡をみてみたかった。いまの文化センター付近と、郡山側は東北地方整備局仙台河川国道事務所あたりを結んでいたのだろうか。これは、長町の飲み屋にはいって地元の方に聞くしかないか...■関連する過去の記事(長町) 長町の蛸薬師堂(2015年2月11日) 蛸薬師(長町4丁目)とイボのこと(2013年2月10日)
2020.01.01
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活断層の本を読んでみた。■國生剛治ほか監修『活断層が分かる本』技報堂、2016年活断層は、阪神・淡路大震災でもクローズアップされたが、今年4月の熊本の地震で、いっそう脚光を浴びたと思う。また、秋には鳥取中部の地震があり、これは未確認の活断層とされた。さらに、年末にかけては、東日本大震災の余震ともされる福島や茨城の地震があって、地下深くで断層がいまだに動いているということのようだ。原発、病院、学校などなど、活断層の影響はないか、などと気にする向きがある。気にするのは正しいことだが、そもそも未発見の断層も相当あるのだろうから、およそ活断層がすべて危険だとしているばかりでは、社会生活が成り立たない。把握と予測も大切だし、活断層がどれだけ危ないか(とりあえずはどの程度まで不活動を予想して良いか)、公共施設やインフラの施設安全基準やリスク管理のソフト対応をどうするか、など、ここは技術者と科学者の力を合わせて、現在までにわかることと不可測なことを明確にしながら、社会的な合意を作りながら進んでいくしかないだろう。この本の中で、断層のずれに対する備えの説明が、大変興味深かった。ことに、断層があると分かっても横断せざるをえない線形インフラとして、パイプラインや道路・鉄道などが、どうリスクに対処しようとしているか。例えば米国の石油パイプラインは、断層のズレを想定して、パイプがスライドできる構造にするなど可撓性をもたせて、2002年のデナリ地震に対処した。東海道新幹線の富士川橋梁は、入山瀬断層を横断するが、落橋防止のための橋脚を拡幅し、また橋の横に構造部材を備蓄して、早期の復旧に備えている。そして、仙台市地下鉄東西線について。大年寺山断層を横切って建設されたが、この活断層は平均変位速度0.1ミリ/年、平均活動間隔も3千年以上と長く、一回のズレは平均で数十cmと推定された。そこで、予めトンネル断面の内径を50cm拡幅して建設しておいて、被災後に掘削し直さなくても早期に復旧できるようにする考え方をとっている。一般論として、リスクに備える考え方としては、回避、低減、移転、保有の4種類の対応方針がある。・リスクの保有 損失を甘受すること。発生可能性と損失が小さい場合(リスク・マトリックスで左下)には、そのまま放置するこの対応が合理的。・低減 リスク発生可能性が高く、発生の際の損失が大きくない場合。リスク発生可能性を下げたり、損失を小さくする対策を講じる。・回避 発生可能性も損失も大きい場合には、規模の大きい対策が実行困難なので、リスクに巻き込まれないようにする。リスク保有によって得られる利益より、保有するリスクが極端に大きい場合に有効。・移転 保険に入ってダメージを低減など。発生の可能性が低いが損失が大きい場合に考える対策。仙台市地下鉄東西線の事例は、リスクの移転だ。
2016.12.31
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近年では、これほどクマたちが仙台市内に顔を見せている年はないだろう。昨日(16日)午前、向山一丁目の山林で無職男性がクマに襲われ、大けが。クマは体長1mで、男性は、山芋を掘りにヤブに入ったのだが、クマに顔をひっかかれたという。向山一丁目といえば、霊屋下からバス通りを登り切ったあたりだろう。竜ノ口渓谷の断崖の上に位置して、西は八木山香澄町に続く。たしかに、かつては鹿や狼が闊歩していたのだろうが、宅地が連なっている現在では、クマたちはどこからどうやって出てくるのだろうか。さいきん、用事があって東西線の青葉山駅から東北大学の施設を訪れたのだが、誰かが、ここにもクマが出る可能性はあるでしょうという。私自身は、実感が湧かなかったが、泉区の住宅団地でも大いに出没しているくらいだから、青葉山や金剛沢の山地からひょいと足を伸ばして、クマさんが姿を出してもおかしくないのかも知れない。現に、向山一丁目だ。八木山橋の架かる竜ノ口渓谷の南側、イメージとしては東北放送の北側斜面のあたりを歩いて、向山一丁目の台地のような宅地に出てきたのか。向山一丁目の区域内に、ヤブや山林はそれほどないと思うのだが、そもそも、クマが鬱蒼とした森を移動するという思い込みがおかしいのかも知れない。森だろうが、田畑だろうが、宅地だろうが、道路も公園も、スタスタ歩くのだろう。とにかく、どこに出るとか、どこなら安全とかいうものではない、ということだ。やっと昭和時代になって人間が自分たちの居住エリアと勝手に決めつけただけの話で、クマには何の関係もないのだから。
2016.11.17
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声優の肝付兼太さんが亡くなられた。スネ夫などの声で著名だが、我が家の子ども達にはアンパンマンに出てくるホラーマンが一番馴染みだったと思う。ご冥福をお祈りしたい。ところで、肝付さんのお名前をテロップで見て、仙台人の怠惰の気質を指摘した薩摩藩士の肝付兼武と関係があるのだろうかと、ずっと思っていた。■関連する過去の記事 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)(明治末年の出来事)ネットでみると、本名は兼正さんというのだそうだが、揖宿郡喜入(きいれ)村の出身。肝付氏の末裔とある。肝付(肝属)氏は、大隅の戦国大名で、郡名からこの名を名乗ったが、のちに島津氏の家臣となる。仙台藩を評した肝付兼武は、日置郡串木野の肝付氏から分家して鹿児島城下の家臣となったものの末裔のようだ。兼武の子の兼行は、海軍中将、大阪市長などを歴任。声優の肝付兼太(兼正)さんは、大隅肝付氏の庶流となる喜入肝付氏の末裔となるようだ。
2016.10.29
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■前回(仙台厚生病院が市議を提訴した件について考える)に続く河北新報の独自取材と書いたが、翌日(23日)の読売と更にその次の日(24日)の朝日のそれぞれ県内面に出ていた。● 読売 都計審での発言「評価低下」/厚生会が仙台市議提訴● 朝日 「名誉毀損発言」仙台市議を提訴/仙台厚生病院運営法人いずれも、直接市議にあたったのだろうが、市議のコメントも掲載して双方に配慮した形。例えば朝日新聞は、言論の自由に軸足を置くかとも想像したが、そうでもない。とりあえず、「特落ち」というほどではないにしても、仙台市民の知る病院だし雨宮地区再開発は関心が高いから、報道だけはしておくという程度の感覚だろうか。朝日新聞は、日曜の紙面を埋めた事情もあってか、提訴したというだけで、日付を明記していない。これから、背景を巡る解説記事や、市長定例会見で質問するなど、問題をどうメディアが切っていくのか、多少関心を持っている。もっとも、前回書いたように、提訴のような足引っ張りよりも、雨宮地区をどう再開発するのか、医療と福祉の施設とはどのようなものか、そのような「前向き」な論議を本当は期待するのだが。
2016.07.25
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数日前の河北新報に出ていた記事だ。他のメディアでは報道されていないようなので、河北の独自取材、つまりは、厚生病院から河北新報に持ちかけたネタだろうと読める。記事の概要はこんなものだ。・仙台厚生病院の母体である厚生会は、仙台市都市計画審議会委員の斎藤範夫市議に慰謝料を求めて提訴した。・また、これに先立ち、名誉毀損罪で県警に告訴を行った。・厚生会は、東北大学農学部キャンパス移転後の再開発に関して、イオンモールと連携して厚生病院を移転整備することとなっている。・この土地利用を審議した今年2月の審議会の場で、斎藤市議が、厚生会は県内の医療界に混乱をもたらした、ダッチロールをする問題ある団体だ、という趣旨の発言をしたという。・厚生会としては、この斎藤市議発言が、同会の医学部構想が場当たり的で一方的に撤退したとかのような発言であり、社会的評価を低下させるものだとする。・なお、斎藤市議コメント。審議には実現可能性に言及する必要ある。法的手段に訴えるのは、他の委員や他の審議会にも萎縮の悪影響ある。農学部移転後の再開発に関しては、すでに土地を東北大学の落札で7者のうちイオンが220億円で落札しており(2014年1月)、イオンの土地利用の計画では、全体10haのうち、西側の4ha余りを医療福祉エリアとする。ちなみに、東半分は、商業系と住宅エリア(北側)となる。おそらく、計画は淡々と進んでいるのだろう。2017年度中に農学部施設が解体されてイオンに土地が引き渡されるのだそうだ。仙台厚生病院は手狭で老朽化していることもあり、移転新築は厚生会としても宿願というところではないだろうか。斎藤市議の発言を、仙台市公式サイトの都市計画審議会議事録(第192回、2月3日)で読んでみた。担当課長の説明のあとで最初に発言している。(当ジャーナルで要約)・地区計画決定にあたっては、その実現可能性が重要な視点だ。・病院開設にあたっては医療法上の許可が必要だが、県や市に確認しても厚生会の話はないという。・より具体的に説明できないのか。(担当課長から、土地利用の制限を議論するのもので、特定の施設の協議状況などはわからない、との趣旨。)・それで良いのか。仙台は病床過剰地域だし、どんな医療施設か、福祉もあるいうがどのような施設か、それが示されないと判断できない。(担当課長から。決定を持って建築物の内容が定まり、実際に協議ができる状態になるもの。)・まず地区計画を決定してくれと言うのでは審議にならない。(医療法上の)許認可監督官庁に話もない状態で審議できない。(担当局長から。用途地域としては第二種住居地域で今でも病院はできる。さらに、地区計画によってこれ以外のものはできないようにするという趣旨だ。医療法との関係では、まず土地利用が先で、手続面では問題はない。)・医療法の許可が前提と言っているのではなく、どのような施設が検討されているのかを判断に際して確認したいのだ。単に厚生病院の移転だというだけで判断できない。・厚生会は医学部新設構想と関わっていた。当初は東北福祉大学と連携して構想され、今審議の場所を検討した。一転して栗原市と一緒にやろうとして、当地は医療センターともされた。そして実現が難しくなったと構想を撤回しており、ここ数年宮城県の医療関係で大変混乱をもたらしている。ダッチロールを繰り返して今に至る非常に問題のある団体だ。今移転と言うが本当に可能か大変疑問だ。この程度の話で実現性は判断できない。このほか、委員からは、交通渋滞、景観などの質問。病院の全面移転の実現可否についての質疑もあった。終盤で、会長から、斎藤委員の疑問を再び取り上げて「今日決めないとどうなるのか」と問われて担当課長が、「これが決まらないと施設設計が進まない。また、イオンが大学から土地を取得しているので時期までに事業を進めなければならない制約がある」と説明。これに対して、斎藤市議は、しっかりした材料を提供して次回の5月の会議で決めても影響はないのでないかと発言。担当局長は、逆に3か月で具体的な許可の見通しは立たない、今が最善の時期だと説明。まず、本日採決することについて、挙手採決で賛成多数。次いで、賛否の採決の前に、会長が意見を促す。まず、斎藤市議が、判断材料不足で反対と表明。他の委員から、個別の個人や法人について踏み込んで審議するのかの確認や(これを会長は否と説明)、意見書の扱いはどうするのかの確認もあった。木村委員からは、厚生病院の移転については聞かれれば情報が小出しに出ている状態で、わかることわからないことを最初から説明するのが基本でないか、との意見。採決は多数決で承認。斎藤市議の求めで反対者2名(斎藤市議、男澤委員)を議事録に記載している。斎藤市議の意見は、市民感覚的にはもっともだという気はする。ただし、仙台市の都市計画当局が説明するように、都市計画審議会の場においては、(事業者や当局がもつ情報は極力適時に提出されるべきだということは当然としても)移転の可能性や施設内容の詳細の点は、制度的に論議されるべき必須の事項とまでは言えないということなのだろう。しかし、奇妙なのは、厚生会の対応だ。公の論議なのだから、さまざまな意見があって良い。かりに斎藤氏の言い方が気にくわないとしても、その「言葉狩り」をするよりも、「医療法上の課題は現在こう考えている、当局には事前にこう説明している、見通しはこうだ」などと説明するのが先だろう。医療を提供する社会的存在として、何より患者さん達や地域住民のために、そうあるべきだ。新しく医療福祉の施設を形成するというのだから、市民や県民にその概要や手順を語るべきことは、なおさらではないか。あるいは、斎藤市議との間に何らかの経緯があるのか。いずれにしても、提訴とは異常だ。政治家が公正な論評を心がけることは当然だが、この程度の発言であれば、自由な論評の保障が優先して当然だ。河北新報の報道の仕方は、あくまで事実だけの形で、厚生病院の訴えに理があるとも、斎藤市議の萎縮効果の反論に理があるとも言っていない。ただし、提訴したことを見出しに掲げてややセンセーション感を醸し出したのは、関係の深い厚生病院への一応の配慮だろうか。東日本大震災のちょっと前に、仙台厚生病院は東北福祉大学と連携した医学部構想を打ち出した。震災の後で、河北新報は、東北再生に向けた3分野11項目の提言の一環として、医学部構想を取り上げた。地域重視、臨床重視という厚生病院サイドの「理念」に河北新報社が共鳴、追随した形だ。厚生病院が医学部を公言した頃には、すでに東北薬科大学(現在の東北医科薬科大学)は医学部設置に向けて準備を進めており、その実現可能性はともかく、医学教育界や病院関係者では周知のことのようだったが、薬科大学はあくまで周到に実現のためのステップを進めようとしていたのだろう。その後、厚生病院側は、表面的には突然のようにみえる構想の撤回。東北福祉大学の側に課題があったと言ったり、今度は東北学院大学との関係が言われたり、栗原市が出てきたり、実態はよくわからないが、とにかく迷走だと言われても仕方ない印象はある。事態はさらに混迷して、厚生病院の断念を受けた形で、急に宮城県が県立大学方式で設置を表明。なお、この直後に厚生病院の土地と建物が民間会社に売却されたことが、後に報道でわかっている。医学部新設の方は、郡山市に本拠をおく医療機関も構想を提出して、結局は、これらと薬科大学の三者の応募主体のうちから、文部科学省の審査会によって薬科大学が選定されたのが、2年前のことだ。振り返ってみれば、西高東低の医師養成や充足の状況の中で、根強く伏在した仙台・東北への医学部増設論議(反対論や慎重論もあったろうが)が、大震災を機に現実のものとして滑り出した。岩盤規制に風穴を開けたのは、村井宮城県知事や関係国会議員らによる政治の力が大きいと評したいが、東北の声を形成・喚起した河北新報の役割も重要だったと思われる。厚生会は、医学部構想と断念についてどう公に説明したのか、何らかの報道はあったかも知れないが、あまり記憶がない。迷走を指摘されて過剰に反応するよりも、「ダッチロールではない」というなら経緯や理由などを説明することが大事だろう。迷走かどうかの評価は、市民県民が行うものだ。今回の件は、あまり気持ちの良い話ではない。足引っ張りの仙台文化が、またぞろ発露しているようで。何と後ろ向きなことか。
2016.07.23
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戦前の仙台で最も広い道路は、市電循環線の走る南町通。それでも幅員23mに過ぎなかった。終戦の年の暮れに県土木部に復興建設課が置かれ、素案が短期間で策定される。事業は仙台市建設部に移されるが、すでに県の素案で、青葉通、広瀬通、晩翠通、東二番丁通などの広い道路や、県庁前、駅前、西公園などの公園構想が含まれていたという。東一番丁は、8mから15mに拡張する案に商店の反対もあった。最後まで意見が分かれたのは、復興事業の目玉である青葉通と広瀬通の2本の幹線道路のどちらをより広くするか。当初は、区画整理で全く新しくできる青葉通は、駅前で切れるが、将来を考えると駅東に連動する広瀬通を広くという考えで、復興院(のち建設省)は、予算の関係から、50m道路は広瀬通ではなく、青葉通の駅前から東二番丁通までとの意向が示されたが、結局は、東二番丁通以西の青葉通と広瀬通全部は、ともに50mから36mに縮小された。公園緑地帯は、予算の関係で14か所から9か所に削られた。惜しいのは、市役所前から広瀬川まで、幅60mの緑地帯を設けて、勾当台と西公園を結ぶ広大な緑地構想が実現しなかったこと。ただし、幅4mの定禅寺通の中に12m幅の緑地帯が設けられた。青葉通や広瀬通の名称は本来の名とは別の愛称。新憲法公布を記念して河北新報社が、戦災復興事業の代表である、2つの道路と2つの公園の愛称を募集した。6000通を上回る応募があって、青葉通、広瀬通、西公園、中央公園(勾当台公園)と決まる。事業は昭和35年に完了するが、その間、街路樹はどう選ばれたのかとか、駅前の青葉通の「直曲論争」、それに(ご破算になったが)仙台駅舎を160m後退させて駅前を広げる計画などが論議を呼んだ。司馬遼太郎は、仙台と横浜は戦災復興事業が全国的にもてもうまく行った方だという友人の解釈を紹介している。いずれも、超法規的な権力をもった米軍の進駐期間が長く、不法建築や不法占拠者の一掃が進んだというのだ。例えば、仙台の裏五番丁(日之出会館付近)は、不法建築とヤミ商売が横行したが(東北の上海)、武装警官やMPも動員して仙台市が強制立ち退きを行った。仙台は米軍が昭和32年まで駐留した。■石澤友隆『流行歌「ミス・仙台」-郷土・仙台の近現代史散歩-』河北新報社、2005年 を参考にしました。
2016.07.12
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仙台四郎は、いつどこで亡くなったか。これは誕生同様に諸説がある。大沢忍さんの著作には、明治35年に須賀川市内で死去、47歳とあるが、死亡の原因や様子は記録になく、それ以上生きたとの風説もあるとされている。粟野邦夫さんによると、明治36年に四郎は先代を離れて釜山港を漫遊中との新聞報道があり、一説には、明治42年に9月29日に、アジア大陸で死亡したとも。これだと享年56歳になる。義経のジンギスカン伝説にも似て、それだけ四郎をひいきにする人が多かったからか。このほか、大正の初めに34か35歳で死亡したらしいとするものもある。四郎が櫓下四郎と呼ばれたのは、近所に火の見櫓があったからで、その櫓も明治の初めに取り壊されており、四郎の誕生時期との整合性はないとの見解もあるから、墓も定かではない。■石澤友隆『流行歌「ミス・仙台」-郷土・仙台の近現代史散歩-』河北新報出版センター、2005年 から■関連する過去の記事 仙台四郎の話(2006年3月10日)
2016.06.30
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昭和53年の宮城県沖地震の際の、市民の体験記を読んでみた。その時、職場でどう苦労したか、町のようすはどうだったか、あるいは家庭や学校ではどうか、被害や救出の始終などの生の姿と、体験者として何を今後に伝えたいか、など。率直で等身大の体験集は非常に大事だ。後世に読み返して価値が増すと、まさにその後世の時点でそう思う。■仙台市総務局防災対策室『震度V-'78宮城県沖地震体験記集-』宝文堂、1982年災害は不可避だし、さほど制御できないが、だからこそと言うべきか、事実そのものと人やまちがどう関わって行くのかについて語り継いでいくことは重要だ。個別の事柄は、体験記集の中にそれこそ宝のようにたくさん詰まっていると思う。
2016.06.29
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先日、河北新報に載っていて軽い衝撃を受けた。昨年末に開業の地下鉄東西線は、日本一の標高を誇る(?)八木山動物公園駅の手前で、竜の口(河北の表現)渓谷を橋で渡る際に一度外の空気を吸うのだが、この橋は「2階建て」で、下は地下鉄電車が走り、上には道路橋が整備されているのだ。工事費55億円の内訳は車道32億円、東西線23億円で、効率化のため一体化して架橋したとのこと。上下式の併用橋とは、知らなかった。記事が解説するのは、都市計画道路計画がたどっている経過だ。都市計画道路の川内旗立線は、川内亀岡町から、3つのトンネルと、この竜の口を渡る橋を経て、太白区ひより台、旗立に至る。しかし、仙台市では事業着手時期は未定とする。市中心部へのアクセス向上で期待された道路だが、東西線開通もあり地元の熱意は冷めつつある。その上、渓谷一帯はオオタカやハヤブサが生息するため自然保護団体の反対もある。八木山地区の地元では、現在はむしろ、青葉山と八木山を結ぶ散策路としての橋の活用を市に提案しているという。川内旗立線と聞くと、若い頃に見聞きした仙台の道路の環状と放射状にめぐらされたネットワークを想起する。南小泉川内線といっしょになって、国道4号や北環状線よりも内側の都心部をまわる道路だったと受け止めている。当時できていた「宮城の萩大通り」や、数年前に伸ばされた台原から安養寺・ガス局へ至る道路が、それを構成している。青葉山や八木山の方面では、川内旗立線が、昨年できた(かつて幻の橋とされた)ひより台大橋で格段に通行が向上したが、計画では、川内亀岡から動物公園までは工学部の下をトンネルで抜けることになっている。仙台市は2010年6月に、都市計画道路網の見直しによる「新たな幹線道路網(案)」を定めている。評価の結果として、継続候補と廃止候補に仕分けをしているものだが、市のサイトでマップと合わせて、具体的にどの路線が該当するのかが、その理由とともに示されているので、わかりやすい。この資料をもとに、当ジャーナルの主観による「主な」路線が、どう評価されてどう位置づけ(継続か廃止か)られているのか、拾ってみたい。【環状系の道路】● 川内旗立線 未整備の、工学部、ひより台-旗立の両区間とも、継続候補。幹線道路としての連続性が重視された。ただし、後者の区間は、旗立保存緑地と基準を超える縦断勾配が課題とされている。● 川内南小泉線 川内-国見の区間1.7kmは、八幡と川内駅のアクセス、国見地区の幹線道路の必要などから継続とされる。他方で、国見-台原の区間は、トンネル構造のため北仙台駅にも北山トンネルにもアクセスできないという理由で廃止候補とされている。しかし、これは計画の考え方自体を否定することになるから、おかしな理由だとも思う。旧国道4号の西側部分で、確かに反対運動もあったとは思うが、結局、「環状」線としての完成は断念したようだ。● 鶴ヶ谷国見線 旧4号の北根3丁目交差点から西に東勝山や桜ヶ丘の下(北四番町大衡線タッチ)までは完成、また北根交差点から東に南光台小学校あたりまでは整備済み。未整備の区間のうち、西の桜ヶ丘、中山区間は混雑緩和のため必要として継続、しかし更に西の中山-国見の区間は、国見駅との直接のアクセスにならないなどの理由で廃止とされた。東の未整備区間である鶴ヶ谷区間(4号バイパスまで)は継続。● 鶴ヶ谷仙台港線 上記の鶴ヶ谷国見線の鶴ヶ谷区間(未整備)と接続して、4号バイパスから宮城野大橋で七北田川を越え、国道45号を立体で越えて仙台港に至る。未整備区間は、45号バイパスからの利府街道までの岩切地区で、パークタウン流通工業団地と仙台港を結ぶ産業活動を支えるため継続としている。● 六丁の目鶴ヶ谷線 六丁の目から新田を経て鶴ヶ谷に至る道路。鶴ヶ谷団地の南側は整備済み。また、新田のあたりも整備されたが、未整備部分のうち、小鶴、燕沢などの区間は廃止、自由ヶ丘は混雑緩和に寄与のため継続との位置づけ。● 上杉山通東仙台線 北仙台駅から、台原、小松島、幸町を経由して東仙台駅までを東西に結ぶ。そのほとんどが、他の路線で交通需要に対応できるなどとされて廃止候補に。● 東仙台南小泉線 東仙台駅付近から南下する路線。新田や自衛隊の中を縦断する区間は、廃止とされた。【放射系の道路】● 仙台駅旭ヶ丘線 錦町から台原に北上して旭ヶ丘駅に至る。大半を占める台原中学校付近以南の未整備区間は、廃止候補に。● 定禅寺通上田子線 錦町から東に延びて、国道45号とJR東北本線に挟まれる形で並行する形で、新田、田子大橋に至るもの。新田までの区間はすべて廃止とされた。● 向山富田線 緑が丘、西の平、西多賀を経由して富田に至る。八木山団地群を南北に縦断するものだが、構造やコストなどを理由に、すべて廃止候補としている。なお、この仙台市の資料には、優先度の高い路線・区間として、今後20年以内の着手を予定するものもリストアップされている。● 郡山折立線(環状) 未着手区間を挙げている。中でも最長の青葉山区間3.5kmは、八木山南地区から一気に仙台宮城IC南側に出る路線。● 川内南小泉線(渋滞解消) ガス局交差点から、坂下交差点を経て銀杏町まで。救急機関、産業活動などを理由に継続とされているところ。● 宮沢根白石線(環状、放射状) 国道45号から中江、小松島を経由して、南光台まで北上する区間。約4.5kmくらい。骨格的な幹線とされている。● 原町広岡線(概成済み、区画整理関連)● 向山常盤丁線(概成済み) 市民会館から大学病院前までの区間。
2016.06.26
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国見峠は仙台市と宮城町の境で、標高220メートル。市営バス大石原行きか仙台高校行きを利用する。仙台高校前の次のバス停の弁天前あたりから宮城町芋沢地区になる。峠の付近には仙台統制無線中継所の直径6mのパラボラアンテナ3基がある。ジュラルミンの反射光を放つ。これは、電話やテレビ極超短波の送受信用。また、巨大な仏舎利塔ももえる。道ばたの崖下の若い松林の中に、赤い鳥居の弁天堂の祠がある。江戸中期の黄檗宗臨済院の跡といわれるが、いまは廃寺となり、小さな堂宇が残るだけ。桜の咲く頃地元民が賑やかなお祭りをする。泉ヶ岳、七ツ森、船形連峰、仙台市街、名取耕土、仙台港の東北石油の大煙突に水平線などの眺望の雄大さ。国見の名のゆえんだろう。芋沢から仙台市半子町に通じるこの道は、昔の芋沢街道の馬道で、仙台高校裏手の足元の定まらぬ旧道に、数基の馬頭観世音が並んでいるのが印象的である。■以上は、仙台放送『仙台八十八景』宝文堂、1977年 を読んで記しました。
2016.06.21
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伊達政宗には、伊達家の系図に記載された子として10男4女がある。うち、十男で多田氏側室との間に生まれたのが伊達兵部宗勝(1621-78)である。政宗50代半ばの子ということになり、最初の子である長男秀宗(宇和島藩主、1591-1658)とは30年の年齢差であり、第二代仙台藩主となる次男忠宗(1599-1658)との間も20年以上離れている。のちに一関藩主となる宗勝だが、その墓は高知市の吸江(きゅうこう)寺にあるという。なぜか。忠宗死によりその子の3代綱宗が次ぐ(1658年)が、不作法により21歳で隠居(1660年)となり、綱宗嫡男で2歳の綱村が家督を相続。この間、宗勝は領地一関を分知されて立藩し(1660年)、田村宗良(忠宗三男、62年岩沼藩主)とともに後見役にあたっているが、長年の家臣の間の対立を背景として、宗勝の専横を訴え出た場での寛文事件(1671年)が発生。一関藩は改易の処分を受ける。遊興にふける3代綱宗には厳しく諌言したが聞き入れられず、伊達家と姻戚関係にある大名や幕府老中と相談して隠居に追い込む。しかし、綱村の代になると実権を掌握して、家中を我がままにしようとした、というのが一般的な宗勝の評であろう。山本周五郎の作では、伊達安芸に斬りかかった原田甲斐は、宗勝一派としての怨恨や評定の不利を理由に行動に出たのではなく、老中酒井雅楽頭と兵部の間で交わされた仙台藩解体の計画から仙台藩を守る忠義の臣であった。伊達の関係者達を死に向けたのは、密約の露呈を恐れた雅楽頭の仕向けである、としている。いずれにしても、兵部宗勝は権勢欲にかられた悪者と見られているだろう。一関藩のあった当の一関地方としても、藩主といえば、後で入った田村氏が連想されて、一関の町や学問奨励の気風を形作ったとして顕彰されているような気がする。伊達兵部宗勝のことは話題に上らない、いや、悪役の歴史をあえて語ろうとしない風潮があるようにも思われる。高知市の公式サイト(高知市指定史跡 昭和42年 伊達兵部宗勝墓 高知市五台山)には、このような説明がある。騒動の責任を問われた兵部は土佐藩山内家預かりとなる。延宝7年(1679)に58歳で死去。(吸江はギュウコウと読むようだ。)■関連する過去の記事 江戸時代のビッグな御家騒動(2011年11月6日)(伊達騒動) 天下の三大お家騒動(2011年11月3日)(伊達騒動)
2016.05.07
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従来言われる経緯は(貞山公治家記録)、天正18年(1590)4月5日、会津黒川城内の母義姫の館で、小田原の陣立ちの祝いに招かれた政宗が、母の用意した膳に箸を付けたところたちまち腹痛、急ぎ自分の館で投薬を受けて一名を取り留めた。政宗は、母が弟小次郎に家を継がせようとしたこと、背後に母の実家最上家の陰謀があることを感じ取り、7日に小次郎と傳役の小原縫殿助を手打ちにする。不憫だが母を手にかけるわけにはいかないためである。その晩、義姫は兄である山形城主最上義光のもとに逃げる。母や最上家の陰謀説に対して、政宗が弟擁立派を一掃するために仕組んだ一人芝居との説もある(海音寺潮五郎)。17年前〔おだずま注:出典の下記2014年の文献の表現のまま〕に、貞山公治家記録の誤りを正す決定的な史料が発見された。岩出山の虎哉和尚が京都にいた政宗大叔父の大有和尚に当てた文禄3年(1594)11月27日の手紙(仙台市博物館保管)。虎哉は、義姫が同月4日夜に岩出山城を出て最上氏のもと出奔したと伝えている。天正18年4月7日夜とされた従来説が否定されたのである。母は事件後も4年間、政宗とともに米沢を経て岩出山と、一緒に生活したことが明らかになった。この間、母子は音信を交わしている。文禄2年に朝鮮の陣中から母に宛てた手紙も含まれる。このことから、貞山公治家記録の他の部分も疑う必要がある。母が毒を盛ったとするなら、その後の音信も理解に苦しむ。小次郎を殺害したのも本当か疑問がわく。正史として母と最上の関わりを強く印象づける作為ではなかったか。小次郎の生存説がある。東京都あきる野市横沢の真言宗金色山吉祥院大悲願寺には、元和8年(1622)8月21日付けで政宗が13代住職海誉上人に当てた書状(白萩文書)が伝えられている。政宗が以前訪問した際に印象を受けた白萩の株分けを所望したものである。ところで海誉上人の弟子で後に15代住職となる法印秀雄(しゅうゆう)がいるが、寺の記録では政宗の弟とされており、政宗が寺を訪れたのも弟に会うためだったと伝えられる。白萩文書の包み紙には、秀雄が輝宗の末子で政宗の弟、幼名鶴若と称したと記されている。24代住職如環の書という。寺に伝わる金色山過去帳(東京都指定文化財)には、秀雄の没した寛永19年7月26日の条に、俗生は伊達大膳大夫輝宗の二男、陸奥守政宗の舎弟なり、とある。さらに過去帳には、政宗が没したとき、住職であった秀雄が兄の回向を執り行ったと記されている。直後に、秀雄は大悲願寺を去って中野の真言宗宝仙寺に移り、第14代住職を務める。秀雄については伊達家の系図や記録にはいっさい出てこない。輝宗の異腹の落胤とする説(五日市町史)もあるが、大悲願寺の過去帳のように小次郎の可能性があるのでないか。貞山公治家記録の記述は見直しが必要であり、もし政宗が小次郎を殺していたなら、その後の母との間の情愛あふれる手紙のやり取りは理解に苦しむ。小次郎殺害は、政宗と母義姫の共謀による偽装と考えられる〔おだずま注:出典文献の佐藤氏の見解〕。もちろん、母による政宗毒殺未遂も存在しない。当時、政宗には実子がまだなく(秀宗誕生は翌年)、命を懸けた小田原参陣を前に、血統を絶やしかねない弟殺害は考えにくい。手打ちにしたことにして密かに逃し、小原縫殿助に託したと考えられないか。とすると、なぜ事件から4年後に母は岩出山から山形に出奔したのか。また、小次郎処分をめぐって政宗と母の間で、どう話し合われたのか。最上氏に逃げ帰った母が、最上家の改易にともない仙台に身を寄せることとなり、政宗と再会するのは28年後の元和8年(1622)である。貞山公治家記録の付録の中に、毒殺未遂事件の直後に政宗が茂庭綱元に事件の経緯を知らせる手紙があり、政宗は、毒を盛ったのは母と思われ、背後に弟を擁立する勢力があり、弟に罪はないが家内が二分するおそれがあるため、やむを得ず弟を手討ちにしたこと、母の命に別状ないよう願うこと、このようなことは自分の口から言えないのでそなたが斟酌して良いと思うことは世間へくどき広めてほしいとしている。この手紙を見る限りでは、母は自分が悪者になることを了解していたと考える他はない。世間にくどき広めよとの政宗の意向は、政宗が岩出山城を留守に京都や朝鮮に行っている間に徐々に噂となって広まったと考えられる。伊達成実の成実記にも噂が家臣に広まったことを窺わせる記述がある。覚悟したとはいえ、日々大きくなる周囲の疑惑に耐えきれなくなって母は逃げ帰ったのでないか。あるいは、山形に逃げることが噂を自ら肯定する最良の方法と考えたかも知れない。28年ぶりに仙台で再会した2人の心中はどうか。当時の贈答歌から想像すると、母の返歌には、政宗の母としての誇りも感じられる。仙台に移った9か月後、元和9年7月16日に母は76歳で亡くなる。■佐藤憲一『伊達政宗謎解き散歩』(KADOKAWA新人物文庫、2014年)を読んで記しました。■関連する過去の記事 再び政宗毒殺未遂事件を考える(07年10月12日) 政宗毒殺未遂事件を考える(07年6月28日)
2016.05.02
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バスの車内広告で、かたい信用やわらかい肉、と銘打った肉屋さんがあった。上手い文句だなと感心する。創業50年、仙台牛の店。米ヶ袋の「肉のいとう」さんだ。広告にあるイラストマップで、あのバス通りの角のところだとわかる。たしかに昔からあった。学生の時分によく通ったし、新聞配達もしていて霊屋橋寄りのGSやこの付近に毎朝立ち寄っていた。たぶん、肉屋さんの並び(GS側)が、あの頃はパンプキンだったのではないかと思うのだが、違うかも知れない。片平の大学正門前から降りて突き当たる場所だが、その手前の左側(今は美容室さんのようだ)だったようにも思う。■関連する過去の記事(パンプキンと昔のコンビニ) コスモス(仙台)とエイトテン(石巻)があった時代-1983年の宮城のコンビニ事情(2005年11月16日) 仙台のコンビニ今むかし 「コスモス」を知りませんか?(05年10月12日)■関連する過去の記事(コンビニ事情など) 東北のコンビニ事情(2005年11月12日) セブンイレブンと青森県(2014年4月20日) 震災とコンビニ(2011年4月17日) 大型店販売不振 コンビニ躍進(2009年4月18日) 大手コンビニの店舗展開と東北(2008年8月16日)さて、あの頃の仙台の肉屋さんというと、思い出がある。自転車で行ったのか友人の車だったか覚えていないが、河原町から広瀬橋たもとのガードをくぐって、仙台バイパスの方向へ出ようとすると、若林四丁目交差点より手前の若林小学校付近に、「肉のマルハチ」さんがある。道路向かいが「しまむら」だ。つい先日、車でここを通ったときにも見たのだが、赤いテント地にはっきり「マルハチ」と書いていた。今は道もゆったり開けているが、あの頃は、道も狭かったのか拡幅工事中だったような気がする。店も今のような堅牢な建物ではなくて、小振りの店構えで看板もさほどくっきりしていないような印象がある。そして、その手書き感のある看板にはこう書いてあった。「肉のヌルハチ」。なるほどジンギスカンの繋がりで、遙かなる蒙古と満州の歴史を連想させる気の利いたシャレだと得心しかかったのだが、でも「マルハチ」にも見えるし、どっちなのだろうか。そんな迷いがあったので、記憶に残っていたのだろう。今思えば、ヌルハチとジンギスカンを結びつけた自分の発想がおかしい。私の経験史では、少なくとも30年数年は営業しておられることになるが、あの頃既に看板は古っぽかった(失礼)ので、こちらも50年の歴史を誇るのではないだろうか。広い構えの店舗からすると、外食のほか、卸しや配送なども手広く営業しておられるのだろう。自分は進歩がないが、町の肉屋さんは、時代が変わり人が移っても、しっかりと仙台を支えているのです。
2016.04.29
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来月26日、北海道新幹線が開業する。仙台と新函館北斗は2時間30分で結ばれるという。逆に、函館から見れば、札幌より仙台が近いことになり、私たちが実感してないような北日本の交流人口の構造変動が生じていく可能性がある。ある人の話では、道南地域の若者は、進学や就職で東京を目指す割合が相当高まるという。たしかに、これまでは札幌や、青森や仙台に親近感があったのだろう。しかし、新幹線でスイッと移動できるとなれば、日帰り可能という点で、仙台(最速達2時間30分)も東京(最速達4時間2分)も変わらないというわけで、実家としても「東北なら安心だけど」という距離感的優位性は、なくなってしまうのだろう。大学関係者に聞いたところでは、仙台の大学の中には、東京にストローされるとの危機感をもって道南の高校生向けに「営業活動」に注力するところもあるという。進学や就職のみならず、通勤地図も塗り替える可能性がある。もちろん、観光や週末の買い物、イベント、コンサートなどの行動範囲としても結合は高まるだろう。仙台に視点を置いて、考えてみる。2時間半というと、高速バスで気仙沼にいくのと同程度の時間だ。西に行くなら、鶴岡までの高速バスが同程度。もちろん、コストや頻度が違うので一概に時間だけで比較できないが、それにしても、ぐっと近くなることは間違いない。
2016.02.16
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今年(平成28年)、岩切駅に新たに自由通路も建設が始まり、多賀城市新田や南宮地区、また宮城野区分の東河原の人々の通勤通学に便利な南口が開設されるという。たしかにこれら地区の人々は、目の前に東北本線が通って、駅のホームに並び立つ人たちの光景も眼前にあるというのに、狭くて暗い高架下ガードをわざわざ迂回して駅北側の出入口まで歩かねばならない。5分程度はロスしているし、何より朝は混雑、夜も道路交通が危険である。岩切駅周辺の歴史については、三浦昇さんが著した『郷土再発見 我がふるさと岩切』で読んだ。私の手許にあるのではなく、かつて公共図書館で読んだ記憶で書くのだが、高校の先生をしておられた氏が30年をかけて地元の歴史や風物を網羅的にまとめた本当にすばらしい労作だ。文献の博捜によって歴史を、また、肉声や写真などをもとに明治から昭和に至る生活の視点、またかつての町並みの姿など、すみずみまで生き生きと岩切のまさに全てを知ることができる一冊だと思うが、、同時に、地域を知り伝えるという姿勢の原点を私は思い知らされて大変勉強になったと感じたのだ。さて、その三浦氏の著作では、東北本線が塩竈まで開通したとき、岩切駅は現在より東の南宮の方で、現在の塩竈街道踏切の付近にあった。踏切からすこし岩切側で教会があったところで、1年後に現在の位置である洞ノ口に移されたという。また、その際に加藤某さんが移転を迫られたこと、鉄道の盛り土のために周囲から土を掘ったのでため池が発生したこと、七北田川の鉄道橋のすぐ下流側に人が通れる橋があったこと、さらには、鉄道開通で今市側の旧街道がさびれて洞ノ口や若宮など塩竈街道沿いが活況を呈したことなどが記されていた(と思います。私の記憶が違っている点はご容赦下さい。)多賀城市議会の議事録をみると、平成25年頃の段階では、岩切駅南口の連絡自由通路が取り上げられ、仙台市で平成22年度に岩切駅を橋上駅にする調査費が計上され、翌23年度にJRが実施設計という矢先に震災が発生した、という内容がある。かなり以前から新田地区などで、県道を2度もわたる危険を避けて南口を作ってほしいとの要望があったが、事業主体が仙台市であること、負担金が生じることもありうること、などのやりとりがあるようだ。平成26年になると、仙台市とJRが事業をスタートさせたとの答弁があり、直近の平成27年の12月には、工事は平成28年度から2か年で行われ、駅の橋上化と南北の出入り口を結ぶ自由通路ができること、南口には送迎車両の転回スペースと駐輪場ができること、などを市長が答弁している。負担金は生じないようだ。130年前の岩切駅(現在地点)の開業で、おおきく岩切は変わった。塩竈街道沿い、また、安楽寺に至る七北田川沿いの道筋などは、その後に宅地化が進んだと思われ、県道の踏切がガードになるなどの改良はあっただろうが、駅の利用の不便は解消されずにきただろう。他方で、北口(と今後は呼ばれるだろうが、要するに駅前)の付近は、昔ながらの狭い街道だったのが、近年大きな道路が開かれた。2年後にどんな「南口」ができるのか、楽しみである。(10年くらい前です。岩切駅ホームで見かけたオバケの木?)岩切駅周辺に関して、もう一つ気になっていること。七北田川をわたる橋のことである。現在、七北田川(冠川)をわたる橋は、今市橋と岩切大橋、それに鉄道橋(東北本線と新幹線の高架渡河橋)だ。上掲の三浦氏の労作に、岩切近辺ではかつて仮設の土橋のようなものがあったし、また(上記のとおり)明治には鉄道橋のすぐ下流に橋があったというのだ。たしかに、東北本線の南東に取り残された形の岩切東河原地区と、川向かいである鴻巣地区をむすぶ橋があっても良いような気がする。人が通れる橋があれば、東河原の小学生が岩切小に通うのにわざわざガードを回らなくて済むし、鴻巣や余目地区の人たちも、上流の岩切大橋を迂回することなく、川向かいの岩切駅に向かって歩ける(南口できればなおさら)。なお、かつては鉄道橋の保線用通路を小学生が歩いたという話も聞く。これも、明治の岩切駅開設にともなう地域の課題ではないのだろうか。仙台市議会の議事録をざっと見てみた。1992年頃の赤間議員の質問に、従来何十年と地域住民は本来国鉄職員限定の鉄道橋を渡ってきたこと、JRはこれを禁止としていること、余目や鴻巣地区に住宅が増えており、岩切駅に直結する道路が必要なことなどが言われている。市側の回答は、大橋を渡ってもらいたい、新橋については両地区の推移をみて検討する、などの内容。■関連する過去の記事(岩切大橋から見た七北田川と鉄道橋方面を望む画像あります。その他記事は、この記事の過去記事リストをご参照下さい。) 今日の七北田川(2015年9月13日)
2016.02.14
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東一番丁が(昼の)銀座なら、稲荷小路は夜の銀座。戦後の区画整理で生まれた新しい道路で、10年前(おだずま注:1964年の10年前)に誕生したばかりの町。名称として、都通、芭蕉通、西銀座などが候補となったが、国分町にあった稲荷神社が移されたことから、この名称になった。■河北新報出版センター編『せんだい百景 いま昔 写真がつなぐ半世紀』(河北新報出版センター、2014年)からこの写真集は、河北新報が1964年に連載した「新仙台漫歩」を中心に、60年代の記事や写真を紹介して、半世紀後の現在を解説している。稲荷小路については、1964年1月6日の記事だ。同書には、半世紀を経た現在では、仙台一の繁華街は隣の国分町に取って代わられた、とある。半世紀前は、稲荷小路が堂々「夜の銀座」だったようだ。
2016.01.20
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今回も仙台弁のはなしを。(三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」によります。)仙台弁の代表ともいえる、「べっちゃ」について。仙台ベッチャとして悪名高い。「べ」と「ちゃ」は関東から別々に仙台に入り、仙台で一緒になった。「べ」は「べし」で、推定、予想、可能、当然、意志、命令。京都で使われ源氏物語にも出ているが、関東に入って「関東べいべい」と京都人から軽蔑された。そのころ、京では「べい」のかわりに、推量や意志を表す「う」「よう」という助動詞が出来ていて、「行くべ」の代わりに「行こう」と言っていた。これが、京から北陸をとって北奥に早く入って、「べ」と交替した。庄内、秋田、青森、盛岡などで「べ」をあまり聞かないのはそのため。関東では、今でも「ベー」「ベー」と言って、芝居で田舎言葉の代表とされている。関東やその奥の仙台では残ったのだ。「ちゃ」は、関東の「であ」が詰まって「だ、じゃ」となったのが、仙台で促音化したもの。関東で「行くだ」「行くじゃ」「行くよ」というところを、仙台は「行くっちゃ」となる。関東の在では、「だ」と「べ」が合わさって「そうだんべい」と言うが、仙台では、「べ」と「ちゃ」が合わさって「べっちゃ」になった。■関連する過去の記事 仙台弁「たれか」と「かばねやみ」(2016年1月18日) 仙台弁「うざにはく」の語源(2016年1月17日) 「おしっこがつまる」は仙台弁か(09年11月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日) 「んざねはぐ」の語源を考える(07年9月5日)
2016.01.19
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