仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.03.06
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カテゴリ: 東北
■人類の渡来

人類が日本列島に現れたのは最後の間氷期(リス・ウルム間氷期)になってからであり、約13万年前(酸素同位体ステージ5e)以降。このとき気候は一時的に現代よりも温暖とみられており、その後約7万5千年から6万年前がステージ4の寒冷期、約2万8千年から1万2千年前がステージ2の寒冷期(ウルム氷期の最氷期)。新人(現生人類)の渡来は約4万年前で、アフリカ起源の新人類の世界的拡散の流れと一致する。

(年代の説明)
・地球は寒冷な時期(氷期)と温暖な時期(間氷期)を繰り返してきた。
・現在は温暖な間氷期。
・その前の間氷期(最終間氷期)は、約13万年から7万5千年前である。
・その後、氷期があり(最終氷期)、約7万5千年から1万5千年前。
・最終氷期のうち、約6万年前までが寒冷期で、その後約3万年間の比較的温暖な「亜間氷期」があり、続く約2万8千年前から1万5千年前に厳しい寒冷期が存在した。
・2万8千年前から2万4千年前は、特に寒冷な最終氷期最寒冷期とされている。
・氷期には大陸氷床が拡大して海水面が低下。最終氷期最寒冷期には現在より約120m海面が低下したと考えられる。
・寒冷期の日本は、北はサハリンから北海道、南千島までが陸続きで、西は九州、四国、瀬戸内、本州がつながっていた。
・津軽海峡と朝鮮海峡は寒冷期にも存在した。日本海に入る暖流はほぼ遮断されたため、日本海側の多雪はなく、降水量の少ない乾燥した気候だったと考えられる。
・後期旧石器時代は、約4万年から1万5千年前の最終氷期後半の特に寒冷な時期にあたる。


泥河湾盆地(河北省、山西省)の遺跡など100万年以上にもさかのぼるアジア大陸と比較すると、列島の古人類の適応放散はかなり遅れているが、愛知県加生沢、岐阜県西坂などの遺跡が最終間氷期にさかのぼる可能性が指摘されている。すなわち、後期旧石器時代の開始時期である約4万年から3万6千年前より以前(前期旧石器時代)の可能性である。

■学界の状況

長い間、縄文時代が日本列島最古の文化とみられてきたが、縄文以前の可能性は1949年の岩宿の発掘によって切りひらかれた。芹沢長介は大分県早水台(1964年調査)を10万年以上前の遺跡として、3万年前より遡る時代を日本の前期旧石器時代と区分した。しかし学界の多数の認めるところとはならず(前期旧石器存否論争)。一方、宮城県では石器文化談話会を中心に、宮城県座散乱木遺跡で確実な旧石器が出土したとして論争は終結したとされた(1981年)。最古の人類は70年前にまでさかのぼると誤った考えが教科書にまで掲載された。2000年の毎日のスクープで捏造が発覚。前期旧石器研究は70年代の状況に後退。いまだに、後期旧石器以前の文化については学説は分かれており、新たな調査研究が行われている一方で、以前の文化を認めない考えも強く、列島には新人段階ではじめて人類が渡来したとの立場をとる研究者も多い現状である。

■旧石器時代人の活動

早水台は調査により、5万年前より以前と考えられる。栃木市向山遺跡、遠野市金取遺跡、桐生市鶴ヶ谷東遺跡など、5万年から7万年前の日本列島の石器は、全体としてみれば東アジアに拡散した中期旧石器文化に位置づけすることができる。

狩猟と採集を主とした後期旧石器時代の人類は、動植物の変化に影響を受けた。最終氷期最寒冷期の東北は、グイマツを伴う亜寒帯性針葉樹林が広がっていたと考えられる。仙台市富沢遺跡。また、東北南部の日本海側ではブナを伴う冷温帯針広混交林が広がっていたと考えられる。

最終氷期の動物相は、2つの要素からなる。1つは、東シナ海に陸橋が形成された約43万年前に成立した動物群で、ナウマンゾウ、ヤベオオツノジカ、ニホンムカシジカ、ツキノワグマなど。他の1つは、最終氷期最寒冷期にサハリン経由で北海道、さらに本州に流入したマンモス動物群であり、岩手県花泉のヘラジカ、オーロックス、ステップバイソンなど大型哺乳類の化石が確認された。しかし、本州ではマンソスゾウは確認できず、流入は限られていたが、これは動物群が閉鎖していない津軽海峡の「氷橋」を渡ったためと考えられている。

後期旧石器時代の人類は移動する動物群を追って居住地を転々する居住形態(遊動)と考えられ、数家族20人前後の集団が単位だった。石器群の変遷をみると、まず、後期旧石器時代前半は台形様石器とナイフで構成され(3万6・7千年前から3万2・3千年前)、東北日本全域で確認される。最終氷期最寒冷期の前の比較的温暖な時期で、ナウマンゾウなど大型動物がまだいた。

これに続いて、石刃技術を主体とする石刃石器群が盛行する(2万5千年前まで)。これまで東山石器群と呼ばれたものが中心で、ナイフが槍先の主体を占め、エンドスクレイパーは皮の加工に使用されたと考えられる。東北日本のほぼ全域で出土し、遺跡数が最も多い。石材消費が組織化され、原産地で集中的に製作した石器を携帯するなど、計画的な生業があったと考えられ、深浦産黒曜石など石材の広域移動から、列島縦貫方向など遊動範囲の広さも想定される。

最終氷期最寒冷期の最も寒い時期であり、草原や湿地が拡大した時期。ヘラジカ、ヤギュウなどのマンモス動物群が流入したと考えられ、移動する大型動物を追ったため広範囲を遊動したと考えられる。富沢遺跡で復元されたような湿原・草原と明るい林のような開かれた景観での狩猟が主だったと思われる。

その後には、薄型の石刃を素材とする基部加工や二縁側加工ナイフなどが盛行する。約2万3千年前後。杉久保石器群が代表で、神山型彫刻刀を使用した作業量の多さが推測される。森林環境にあった東北日本南部の日本海側に遺跡が多いことから、シカなどの中型小型動物を対象として森林の中で待ち伏せ猟が行われたのではないか。これに応じて遊動範囲も狭くなった。

その後続は、尖頭器石器群。和賀仙人遺跡では杉久保型も出土し、連続性がうかがえる。年代は約2万年前後。東北日本全域で確認され、他では関東から長野県に多い。石材は山形県上野A遺跡で珪質頁岩の原産地が確認された。後続する縄文時代初頭の石器群に受け継がれている可能性が注目される。

以上の変遷のなかで、AT降灰(鹿児島県を給源とする約3万年前の姶良丹沢火山灰)後の大型石刃石器群の時期に西日本の要素(国府形ナイフなど)を持つ石器群がある。山形県越中山遺跡K、山形県上ミ野A遺跡など。北は秋田県まで分布が確認される。これは、異文化集団の接触の視点が想定される。西日本由来の集団との接触や技術の伝達などの交流がうかがえる。国府石器群の本場の近畿・瀬戸内の遺跡数が急激に増加する時期なので、環境を要因として西日本で人口増加があったのでないか。


■阿子島香編『東北の古代史1 北の原始時代』吉川弘文館、2015年(うち阿子島香、沢田敦の両氏執筆部分)を参考にいたしました。

このシリーズは、東北古代史の最新の研究状況をわかりやすく勉強できる最適のテキストと思う。第3巻まで出ているので、日曜や平日の深夜などに一気に読み進めたいと思っています。読みながら自分の整理として当ブログにつづっております。





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最終更新日  2016.03.06 11:06:23
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