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京阪の交野線、交野市駅にやってきました。交野市の中心駅です。駅名標同上交野市駅は、1929年(昭和4年)、交野線の開業と同時にできた駅です。当初は「交野駅」でしたが、1977年(昭和52年)11月1日、「交野市駅」に名称が変更されました。同じ日、京都府の八幡町が市制施行によって八幡市となり、同時に京阪本線の「八幡町駅」が「八幡市駅」に名称変更されました。交野町が市制施行により交野市になったのは1971年(昭和46年)ですが、こちらは少し待たされた形になっています。ホームと橋上駅舎ホームは対面式の2面2線。橋上に駅舎があるため、昼間はどうしてもホームが暗く感じます。南側踏切から見た駅枚方市駅方面近づいてきた山並み交野線の行く手を阻む、交野の山並みが近くに見えてきました。終点の私市駅まであと2駅です。
2010年01月31日
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京阪交野線の郡津駅の西、釋尊寺の前の狭い道を南へ行くと、釋尊寺に隣接する場所に不思議な空間がありました。鳥居がありますから、神社の境内です。鳥居を見ても、とくに神社の名前はありません。奥に何やら見えています。左手の建物は何かの倉庫でしょうが、中に何が入っているのかよくわかりません。村野神社遙拝所大きさは2メートルほどでしょうか、大きな岩が積まれています。祭壇のような場所の柱には「村野神社遙拝所」と書かれた板が見えます。「遙拝(ようはい)」というのは「参拝」と対をなす言葉で、「参拝」がそこへ行って拝むのに対して「遙拝」は遠くから拝むことを言います。遠くから? 東に向いているようですので、西の方から拝んでいたのでしょうか?調べていくと、以前ご紹介した山田神社(2009年12月4日の記事)に行き当たりました。山田神社の末社(同じ境内に奉られた神社)に「石神社(シャクジンのヤシロ)」という神社があります(そのときは紹介しませんでしたが)。その案内板には「寛弘元年 安倍晴明 藤田ノ里ニ滞在シテ修行シタ時ノ加持石ヲ田中修理亮芳秀ガ本社ノ傍ニ祀ル」と書かれていました。平安時代の寛弘元年(1004年)、陰陽師の安倍晴明が藤田(とうだ)の里(山田神社の東付近)で修業をした? その時の加持石が祀られている? それがこの釈尊寺町にある??ちなみに村野神社というのは、村野駅の東、村野浄水場の西にある神社で、山田神社と同様に片埜(かたの)神社(枚方市牧野阪)の神職の争いで分かれて出来た神社だそうですから、石神社も村野神社遙拝所も、同じ片埜神社の社地内だったのかもしれません。同上これが安倍晴明の加持石かどうかわかりませんが、山田神社の案内板の記述などを考えると、西方にあった「藤田の里」で修業したということと位置関係では符合しています。
2010年01月30日
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京阪・郡津駅の西、釋尊寺から京阪・郡津駅へ戻る前に、周囲の地図を見てみると、すぐ近くに「甚兵衛(じんべえ)屋敷跡」という名前を見つけました。甚兵衛屋敷跡うしろは大きなマンション。周囲には畑地も残っております。同上枚方市教育委員会の案内板には、「元亨(げんこう)元年(1321年)11月16日、融通念仏宗中興の祖法明(ほうみょう)上人は、男山八幡宮の使いから、同宗の本尊である十一尊天得(てんとく)如来画像(阿弥陀如来を中心に十体の菩薩が囲んでいる)を、現本尊掛松の地(茄子作南町)で授かった後、一夜の宿を借りたのが、当地犬井甚兵衛の屋敷です。」と書かれています。融通念仏宗は、比叡山の天台宗の僧・良忍が、大治2年(1127年)、鳥羽上皇の勅願により開創したといいます。その総本山は、大阪市平野区にある大念仏寺です。100年以上に渡って宗門が途絶えていましたが、法明上人によって復興されました。1321年まで、本尊である十一尊天得如来画像は、京都府八幡市の男山八幡宮に預けられていたようです。法明上人は、本尊が男山八幡宮にあることを夢のお告げで知り、深江の庵(大阪市東成区、現在の法明寺)から東高野街道を男山に向かっていたところ、同じく夢のお告げでこの本尊を持って深江に向かう途中の男山八幡宮の使いと枚方市茄子作(なすづくり)で出会いました。 喜んだ法明上人は、本尊を近くの松に掛け、念仏を唱えて踊ったといいます。「本尊掛松」の名はこの本尊をかけたことに由来します。残念ながら明治時代に松は枯れてしまい、現在は植え替えられたとか。また別名「ほととぎす松」とも言われましたが、それはホトトギスの鳴き声が「ホンゾンカケタカ」と聞こえるからだそうです。ホトトギスの鳴き声は「テッペンカケタカ」とか「トッキョキョカキョク」とか言われますが、「ホンゾンカケタカ」って聞こえます?さて、大きな疑問が一つ残りました。この屋敷の主、犬井甚兵衛ってどんな人だったんでしょうね?
2010年01月28日
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読売新聞から拾い読みです。25日の早朝、神戸港で人がおぼれていると通行人から110番通報。パトロール中に駆けつけた兵庫県警葺合署の平田巡査長(29)が、20メートル沖合で男性の頭が浮かんでいるのを発見、4メートルの岸壁から飛び込んだ。投げ込まれた浮き輪を男性につかませ、岸壁までたどりつき、駆けつけた消防艇に救助された。見守っていた住民たちも大きな拍手を送った。当時の水温は9度。男性(65)は低体温症で入院したが命に別条なし。平田巡査長も病院に運ばれたが、点滴を受けて元気に勤務に復帰した。「2005年に警察官になって以来、命にかかわる現場は初めてだった。でもあの場面で飛び込んだことに迷いはなかった」「人の役に立ちたいと思って就いた仕事。また同じ現場に遭遇しても、同じ行動をとると思います」と語った。平田巡査長に、心より拍手を送ります。
2010年01月26日
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昨日ご紹介した「釈尊寺団地」。もちろん、釈尊寺というお寺が釈尊寺団地の南側、枚方市釈尊寺町に実在します。「釈」という漢字は、お寺の表札や地図では「釋」という字が使われています。「釈尊寺北」バス停京阪・枚方市駅から京阪バス10系統「釈尊寺団地」行きに乗ると、「釈尊寺」、「釈尊寺北」、終点「釈尊寺団地」の順に停まります。この釈尊寺北バス停から西に入り、少し入り組んだ住宅街を通りぬけると、釈尊寺の門前に出ます。釋尊寺の門階段を上がると、境内は墓地です。左側は本堂の左奥まで墓地になっています。本堂「浄土宗 釋尊寺」と書かれています。左側には枚方市教育委員会が設置した説明板があります。軒に釣られた鐘説明板には、次のように書かれています。当寺の縁起によると、天平年間(奈良時代中期)僧行基(ぎょうき)の開基とされ、もとは行基寺と号しました。一条天皇の頃(平安時代中期)七堂伽藍、十二の坊舎を備え隆盛をほこり、寺号を霊鷲山(りょうしゅさん)釈尊寺に改め、後一条天皇から「霊鷲山」の勅額を賜ったと伝えられています。その後兵火にあい次第に衰退しました。本尊は、木造釈迦如来立像で、鎌倉時代初期の制作とされ、清涼寺(せいりょうじ)式の代表的秀作で、昭和四五年大阪府の有形文化財に指定されました。東大寺の僧※然(ちょうねん)が宋からもたらし、京都嵯峨の清涼寺に納めた釈迦如来像は、多くの模刻が作られ清涼寺式とよばれます。像高は約一六七cm。構造は赤栴檀(せんだん)色を塗布したヒノキ材、寄木作。なお、宝相華(ほうそうげ)透彫(すかしぼ)りの光背は享保二一(一七三六)年に修理されています。(※は「大」の下に「周」と書く。ただし、「周」の「土」の部分の縦棒は下に突き抜けて「口」とくっつく)北側の白壁本堂裏手同上
2010年01月25日
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京阪・交野線の郡津駅にほど近いところに、「新天野川橋」と呼ばれる交差点があります。国道168号線(磐船街道)と府道18号線(水道みち)が交わっています。「新天野川橋」交差点上の写真に写っているのが府道18号線、クロスしているのが国道168号線です。とくに府道は慢性的に渋滞しています。天野川交差点の名前のとおり、天野川に架かる橋です。上の写真が天野川で、奥に写っている山並みが生駒山系です。川の東側(上の写真の左手)には団地が写っています。府営梅が枝(うめがえ)団地です。府営梅が枝団地郡津駅の西側には、府営交野松塚団地、もう少し村野駅寄りには、府営村野団地があります。村野団地の一部を除いて、最寄駅は郡津駅になります。また、天野川を西に渡ると、北側に広がる釈尊寺(しゃくそんじ)団地があります。釈尊寺団地団地の名標ここは公団住宅として1977年に開発された団地です。交通手段としては、郡津駅まで徒歩もしくは自転車で行くか、あるいは京阪バス(10系統)で枚方市駅まで出るかのいずれかです。「釈尊寺団地」バス停
2010年01月24日
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京阪の郡津駅の周辺を歩いてみました。駐輪場線路の西側に出て南側に、大きな屋根付きの駐輪場があります。同上この日は土曜日の午後でしたので、通勤や通学での利用は少なかったようですが、普段はひっきりなしに自転車が出入りしています。駅前広場りっぱな樹ですね。これ、やっぱりシュロなんでしょうね。ずいぶん幹が太いですけど。郡津の説明碑上の写真、古川橋駅や寝屋川市駅の駅前でも見かけました。この碑を参考にしながら、郡津について記します。郡津は交野周辺でもっとも早くから開けたところです。交野郡の中心地として、この地に「郡衙(ぐんが)」が置かれました。「郡衙」とは、日本の古代律令制度において、郡の官人(郡司(ぐんじ))が政務を行った役所です。郡役場といったところでしょうか。郡津は、その郡衙の門前だった場所で、当時は「郡門(こうど)」と呼ばれていたようです。それがなまって「こうづ」と言われるようになったとか。江戸の末期に、「郡津」と表記されるようになったようです。磐船街道(現在の国道168号線)や東高野街道(府道18号線、水道みち)が交差し、茶屋が立ち並んで賑わっていたそうです。奈良・平安時代には、「交野の都」だったと記されています。 交野会館松塚公園
2010年01月23日
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京阪・交野線、村野駅の次は郡津駅です。駅名標同上やはりありました、2種類の駅名標。ホーム郡津駅は地上にある相対式2面2線のホームを持っています。ゆったりと広いホームです。枚方市駅方向毎回のように言っていますが、ほんとうに、真っ直ぐに線路が敷かれています。出口 両方のホームは地下通路で結ばれており、地下に改札があります。改札口(ラチ外)改札口は1ヶ所です。わりとこじんまりとした規模です。地下通路(改札外)線路の両側を結ぶ地下通路です。左手が改札口です。駅舎入口(東側)同上東側の入口は2ヶ所にあります。駅舎入口(西側)上の写真の右手前には、ホームに直結する扉が設けられています。車椅子などはここから入れてもらうのだろうと思います。
2010年01月21日
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滋賀県と岐阜県の県境にある、伊吹山です。(撮影:2010年1月20日)この時期、東海道新幹線に乗って京都から東に向かうと、米原に近づいたとたんに雪景色になることがよくあります。大陸から吹いてくる冬の北西の風は、敦賀のある若狭湾から進入し、琵琶湖の北部を抜け、伊吹山にぶつかります。途中、あまり遮るものがないので、米原や関ヶ原は北陸と似たような気候になります。米原駅を過ぎてすぐ、左側の車窓に伊吹山が見えます。背景に伊吹山を置くと、北陸本線を走る列車がすごく映えて見えます。それほどに凛々しい山です。とくに冬山の美しさは富士山とはまた違った感動を与えてくれます。
2010年01月20日
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京阪・交野線の村野駅から東へ直線で1キロメートルほどのところに、大阪府の村野浄水場があります。交差点の標示府道18号線に「村野浄水場前」という交差点があります。この府道18号「枚方交野寝屋川線」は、別名「水道道(すいどうみち)」とも言われていますが、その名前の由来となっている施設です。府道18号大きなタンク?道路に面したところにあるタンクのようなもの。まるでUFOが着陸したかのような形状です。これって何でしょうねえ。配水するために必要な水圧を作りだしているのかな。この村野浄水場は、磯島取水場(京阪本線、御殿山駅の近く)で取水した淀川の水を水道水にするための施設で、1日に179.7万立方メートルの給水能力を有する日本でも有数の浄水場です。東京ドームの約1.45杯分に当たります。1998年(平成10年)からすべて高度浄水処理した水を供給しています。正面の門同上普段は目立ちませんが、府民のライフラインを支えている施設です。
2010年01月17日
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仕事が忙しくて更新が滞ってますが、なんとか元気にやってます。さて、次の駅は京阪・交野線の村野駅です。駅名標同上この駅にも、ホームの端の方には古いタイプの駅名標が立っていました。10000系(新色)私市駅方向地上駅で、相対式の2面2線のホームがあり、5両編成にまで対応しています。枚方市駅方向ホームからの景色1番線ホームから西側の景色です。手前が農地、その向こうは天野川をはさんで枚方市の市街地(山之上地区)が見えます。改札口(ラチ内)同上改札口は2番線ホーム側だけにあります。1番線側にはほとんど民家がないので、こうなってしまうのでしょうね。1番線ホームへは地下通路を使います。かつては構内踏切があったそうです。駅舎外観駅前は府道7号線が走っています。車の通行量が多い割には道が狭く、歩道も整備されていません。駅正面にコンビニ(セブンイレブン)があります。
2010年01月16日
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TUTAYAの発祥は枚方市です。1982年に枚方市駅前(枚方駅前百貨店5階)にレコードレンタルの店ができました。現在は改装してきれいなビルになっておりますが、当時は古びたビルだったと記憶しております。名前は「LOFT」です。翌年、枚方市駅東口近くに「蔦屋書店」ができました。2階でレコードのレンタルをしていました(ここでLPレコードを借りたことがあります)。現在は餃子の王将が入っています。ベルパルレ国道1号線店がオープンしたのは、その後しばらくしてからです(時期を特定できませんでした)。星ヶ丘厚生年金病院前の交差点近くに、すごく斬新な建物ができた当時を記憶しております。周囲にまだほとんど商業施設がなかったころ、その周辺だけが光り輝いていました。ベルパルレ国道1号線店当時としてはかなり遅くまで開いていました。コンビニなども広まり、夜型の生活習慣がだんだん定着していく時代だったと思います。いまでは24時間営業となっています。TUTAYAが全国区へと発展していく、そのきっかけとなった店舗のひとつではないかと思います。
2010年01月11日
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星ヶ丘厚生年金病院は、枚方市星ヶ丘4丁目にあります。国道1号線(枚方バイパス)沿いにあり、交差点の名前にもなっています。交差点の名標直線距離では京阪・交野線の星ヶ丘駅が近く、徒歩で15分程度です。しかし、狭くて坂のある生活道路しかなく、たいていは枚方市駅からバスやタクシーを利用するか、自家用車を使います。広い敷地には有料の駐車場が約500台分確保されていますが、かなり込み合っているみたいです。病院正面1953年(昭和28年)、この地に結核療養のための施設として「健康保険星ヶ丘病院」が開院しました。当時、結核は死亡率第1位の病気で、国策として全国に療養所が開設されていた時代です。その後、結核患者の数が減り、「療養」から「リハビリテーション」へと転換していくことになります。1968年(昭和43年)には厚生年金に移管されて「星ヶ丘厚生年金病院」と名称を変えます。リハビリテーションの総合病院へと変革する中、多くの診療科が新設されました。脊髄損傷、脳卒中を中心とした疾患を多く扱い、リハビリテーションに関する先進的な取り組みを続けています。また厚生労働省より2002年(平成14年)、北河内地区での「がん診療連携拠点病院」の指定を受けました(大阪府下で10病院)。しかし、病院経営が厳しいのはいずこも同じです。2003年、全国の厚生年金病院は構造改革の流れの中で売却・譲渡が論議されることになりました。これに対し、枚方市に限らず広い地域から星ヶ丘厚生年金病院の存続を願う署名が寄せられたということです(2005年9月末現在で13万人という数字が示されています)。このような声を背景に、2005年に成立した法案では、「厚生年金病院(全国で10病院)については公益的な医療提供を行う病院として存続することが可能」とする付帯決議が採択されました。2009年、政権交代後のニュースとして「永妻厚生労働相は、公的病院として存続する方針を固めた」という情報が伝わってきました。今後の動向を見守りたいと思います。北河内地区で唯一の「がん診療連携拠点病院」の指定をしておいて、廃止論議というのは筋が通っていません。大局的な観点から医療制度の抜本的な改革案を示すなかで、不要なものは削って必要なものには手厚く支援することが大切です。
2010年01月10日
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先月のある日、右足が痛くて、整形外科の外来で見てもらいました。レントゲンをとって、お尻の一点を押して「ここは痛い?」など聞き(痛いって!)、「しばらく様子を見ましょう」ということで、痛み止め(ロキソニン)の錠剤とシップをもらいました。1週間しても痛みが引かず、立ったり歩いたりすると歩けなくなるくらいに痛くなってくるので、また病院へ。不思議なことに、椅子に座っていると痛みが引いて行きます。幸いにも、車の運転にはほとんど支障がありません。MRIを見てもそれほど問題にするようなことはないということなので、また「様子を見る」ことになりました。そしてそのまま正月に。 さて、元旦の昼過ぎ、なんだか熱っぽいので体温をはかったら、39度近い熱。え゛っ、そんなにあるの(少し悪寒がする程度でした)? ひょっとしてインフルエンザ?夜半になっても熱が下がらないし、喉が痛くてタンも出るので、救急診療をやっている病院に電話したら、いまなら1時間待ちくらいですけど、受付はしてますという返事。とりあえず、痛い足をさすりながら車で出掛けました。ところが行ってみると受付中止。重篤なかたが運ばれてきたので、担当医はそちらにかかりきりとか。その日はあきらめて、そのまま帰宅。翌日、起きてすぐの体温は、38.5度。朝9時ごろに、電話で受付を確認してから出掛けました。出る前にもう一度体温をはかると、おや、いつのまにか平熱に。でもまあ、新型インフルエンザは熱の出ない人もいるというし。「熱があったし、いちおうインフルエンザの検査をしておきましょう。少し痛いですけど逃げないでくださいね」と言って、お医者さんは私の鼻の穴に棒を突っ込んでグリグリ。「逃げないで」と言われていなかったら、逃げていたかも。結論としては、インフルエンザ検査は陰性でした。その日は抗生物質と抗炎症剤と総合感冒薬、ついでに胃薬も処方されて帰宅。3日分の薬をきちんと飲んで、でもまだ喉が少し痛くて、すっきり治りきっていない感じ。空気が乾燥してますしね、喉が乾燥しないよう気を付けています。元旦の翌日に予定していた実家訪問はキャンセル。実家では多目におせちを作って待ち受けていたらしい。ごめんなさい。 さてさて、4日の月曜日、ちっとも右足の痛みが取れないので、また整形外科へ。「ここは痛いですか?」「ここは?」と、押しながら痛い箇所を確認してました。そんなにあちらこちら押すと、どこが痛いか分からなくなるんですが。結局、痛み止めの注射をお尻にしてもらいました。お尻に注射されるのは子どものころ以来です。けっこう痛かったあ。その後、痛みは少し引いたようです。でも、何かの拍子に痛みがじわっと出てくることもあり、すっきり快方に向かっているようには思えません。もう少し「様子見」でしょうかねえ。そうこうしているうちに、会社が始まり、通常勤務に。実はまだ、初詣に行っておりません。駅周辺の「取材」も途切れがちです。
2010年01月07日
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天門美術館の西隣に、「パナソニックベースボールスタジアム」があります。以前は「松下球場」と呼ばれてました。今回、初めて中に入ったんですけど、試合中で、ファンらしき人が熱心に観戦しておりました。よく手入れされて、ほんとうにきれいな球場でした。入口名標グラウンド外の駐車場一塁側ライト側ライトからセンタースコアボードグラウンド外にて <追記>歴代選手名あけやん2515さんからいただいたコメントで、グラウンドの周囲に選手名の書かれたボードがあったのを思い出しました。たしかに名選手の名前が載っていますね。(個人情報に配慮して、他の選手名は目隠しいたしました)
2010年01月05日
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枚方市の山之上北町に「天門美術館」があります。地図で見ると、京阪・交野線の星ヶ丘駅から西に1キロほどの場所ですが、実際に訪れるなら、京阪本線・枚方市駅からが便利でしょう(徒歩15分もしくは京阪バス「変電所前」下車徒歩3分)。バスの車内では「天門美術館前です」というアナウンスがありますが、実際に降りてみても建物は見えません。枚方市駅から歩く場合は、香里団地へ向かうバス道が国道1号線の下をくぐったところで西(右手)に曲がり、国道1号線へ合流する側道の上り坂へと進みます。国道1号の側道上の写真は国道1号の側道です。坂を上がったところが国道1号線との合流点です。合流点の手前国道1号線に合流する直前に、左に入る道があります。「天門美術館」の案内があるので、すぐにわかると思います。曲がるとこんどは下り坂になります。美術館前のオブジェすぐに、上の写真のようなオブジェが迎えてくれます。友だち同士で肩を組んだように見えます。なんだか楽しそうにも見えますし、見方によっては、何かを必死に防ごうとしているようにも見えます。天門美術館の入口入口はひっそりしていました。小径を通って中に入ると建物があります。途中にもいろんなオブジェが置かれています。ちょっと不思議な空間です。「財団法人造型美術センター」の碑この美術館は、彫刻家・池田遊子(ゆうし)さんによって設立されました。はじめ、「遊子」と書かれているのをみて女性かと思ったのですが、男性です。池田遊子さんは、1909年に広島県に生まれ、18歳で上京、宮彫師(みやぼりし)に5年間従事しました。その後、独学で彫刻家の道を歩みました。(宮彫とは神社仏閣などの欄間や扉の装飾のための彫刻のことです。)戦後、大阪市立美術館の天井裏を工房として17年間「占拠」していたそうです。1965年(昭和40年)、現在の美術館の土地の地主であった人の篤志により「財団法人造形美術センター」を立ち上げ、1975年(昭和50年)、「天門美術館」に名前を変えて現在に至っています。2006年没。特定の美術団体に属さず、「彫刻界の異才」と呼ばれることもあるようで、世俗的な栄誉にも無縁でした。現在の館長は子息の池田方彩さん。昨年、生誕100周年を記念した展示が催されました。
2010年01月04日
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えーと、京阪の交野線、星ヶ丘駅まで来ていましたね。この駅の改札口は1ヶ所だけ、下り(私市方向)のホーム側にあります。上りホームとは、地下通路で結ばれています。地下通路(右側階段)改札口(ラチ内)改札口(ラチ外)駅舎自体はあっさりした造りです。駅前の踏切 上の写真の手前側には改札口がありません。いったん踏切を渡って改札を抜け、ホーム下の地下通路を通って上りホームにたどり着くことになります。同上列車が接近すると遮断機が閉じます。遮断機が上がると同時にダッシュして、改札を通って行ったお兄さんがいましたが、間に合わなかったようです。くれぐれも気を付けてくださいね。駅前道路駅前のメインとなる道路は狭く、近くの国道が渋滞しているときには抜け道にもなるため、車の通行量がけっこう多い道です。私市方面この付近、交野線は地上をずっと真っ直ぐに走っています。
2010年01月02日
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。それにしても、虎だか猫だかわかりませんね。
2010年01月01日
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