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星田妙見宮への参道は、途中から階段になります。狭くて勾配はかなり急です。参道の階段絵馬堂階段の途中に絵馬堂があります。参道途中の休憩所といったところでしょう、中には腰掛けが設けられています。大きな虎が描かれた絵馬や、北斗七星降臨の様子を描いた絵が掲げられていました。本宮の拝殿階段を上がりきったところに拝殿があります。息を整える間もなく、いきなり拝殿というのはちょっときついですね、日ごろから鍛えておかねば。同上拝殿の前はかなり狭く、参拝者が前にいると並ぶにも苦労しそう。うまく表現できませんが、「バルコニー」のような、というとイメージしてもらえるでしょうか。ところで、上の写真の天井部分をご覧ください、黒い物が一部だけ写っていますね。方位磁石?同上固定されていますから磁石で動く必要はありませんけど、方位が示されています。中心に七曜星(北斗七星)、その周囲に八卦、それに宿曜占星術で使う二十八宿が記されています。一番外側が十二支です。宿曜占星術は、弘法大師(空海)が翻訳し日本にもたらした宿曜経が起源と言われており、インド占星術がベースになっているそうです。西洋占星術が太陽の運行をもとにしているのに対し、宿曜占星術は月の運行をもとにしているのだそうです。ご神体拝殿の左側に回って覗くと、注連縄がかけられた大きな岩が見えました。これがご神体です。つまり、空から降ってきた北斗七星の1つだというわけです。岩そのものがご神体であるため、本殿はありません。裏参道への道拝殿から階段を下りたところに、右手に回る通路があります。ここが裏参道になっています。もう一つのご神体裏参道に入って拝殿の奥を見ると、注連縄をしめた岩が見えます。しかし、拝殿左手から見た岩とは位置が違うように思えます。ご神体の岩は2つあるようです。そういえば、星の森には5つの石(そのうち4つは石塚の中に納められている)と案内板に書かれていました。そして光林寺に1つ。ここ星田妙見宮に2つ。合計8つ。やはり北斗七星は8つの星だということなんでしょうか。残念ながら、そのことをちゃんと説明している資料には、まだ出会えていません。
2010年04月30日
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星田妙見宮の鳥居から奥へと続く参道を歩いて行きました。石灯籠参道に並ぶ石灯籠の一つには、鹿のレリーフがありました。鹿といえば「神の使い」として奈良の春日大社が有名ですが、こちらの鹿はどういう意味があるんでしょうね。「小松神社」星田妙見宮は、正式には「小松神社」と言います。平安時代には「神禅寺」と呼ばれていたようで、「星田神禅寺」という記述も残っているようですが、いまは神社です。これも明治の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」のせいでしょうか。参道沿いの幟旗「星と霊符の社 太上神仙鎮宅霊符神 星田妙見宮大神 三寶大荒神」と書かれています。北斗七星と八卦この幟旗を見るだけでも、「占星術」「陰陽道」のイメージがわいてきます。周囲の8つの記号は方角を表す八卦(はっけ)です。「当たるも八卦、」という口上(今でいえばコピー)のほうが馴染みがあるかもしれませんね。真ん中は北斗七星ですが、なぜか星が8つあります。途中で分岐している星は「輔星(ほせい)」といわれたりします。他の7星よりかなり暗いそうで、昔は視力を確かめるのに使われることもあったとか。また、もうひとつ、目には見えない弼星(ひつせい)という星を加えて9星とすることもあるそうです。いずれも数にこだわりがあるのでしょうね。それにしても、見えないほど暗い星の存在はどうやって知ったのでしょうね???参道の摂社3つの祠が並んでいました。鳥居には、真ん中が「祖霊社」、左が「地蔵尊堂」、右が「庚申社」と書かれています。鳥居と階段左側に鳥居が見えてきました。その奥には長くて急な階段が見えます。いよいよ、覚悟を決めて、階段に挑みましょうか。
2010年04月29日
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「星の森」「光林寺(こうりんじ)」の次は、「妙見山」です。ここには「星田妙見宮」があります。この3つの地点が、一辺約900メートル(八丁)の正三角形の3つの頂点に当たることから、「八丁三所(はっちょうみどころ)」と言われます。星田妙見宮は、正式には「小松神社」というそうです。明治39年(1906年)、星田駅に近い星田神社の境外摂社とされたということですから、星田神社が本宮ということになりますね。直線距離なら京阪・交野線の私市駅にも近いのですが、間には山があり(ここには大阪市立大学附属植物園があります)、まっすぐに来ることはできません。星田駅から南東の方向へ20分近く歩いたでしょうか、コーナーミラーに掲げられた道標が目に飛び込んできました。妙見宮への道標付近は普通の住宅街で、この標示がなければ行き過ぎるところでした。妙見宮の入口付近同上手前に天野川の支流の小さな川があり、そこに橋が架かっています。小さな橋ですが、ちゃんと「妙見橋」という名前が付けられていました。「妙見橋」妙見宮の鳥居と参道同上妙見宮の由来入口に「星田妙見宮」の由来が書かれています。獅子窟寺の岩屋で弘法大師(空海)が修法をされたとき、七曜星(北斗七星)が妙見山に降臨したことが記されています。空海といえば真言宗ですが、仏教だけでなく神道や陰陽道の影響も受けているようです。祭神は神道では天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、仏教では北辰妙見大菩薩、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神とされています。北辰(ほくしん)とは北極星のことで、中国古代の思想では天帝のことを意味します。ここに仏教が交じって菩薩の名前が付けられたということです。ちなみに「妙見」とは優れた視力のことで、なんでも見通す力があるという意味です。それにしても、どの宗教とも言い切れない複雑さ。良く言えば、昔からなんでも受け入れてきた日本人のおおらかさとでもいいましょうか。ここのお祭りは、2月8日の「星祭り」、7月7日の「七夕祭」、7月23日の「星降り祭」で、すべて星にちなんだ祭りですね。星田妙見宮の「星の三大祭典」というそうです。参道さて、参道は奥へと続いています。先に進みましょう。(続く)
2010年04月27日
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さて、七曜星が降ったという「八丁三所」の2ヶ所目は「光林寺(こうりんじ)」です。光林寺は、JR学研都市線・星田駅から東へ歩いて10分ほどのところにあります。入り組んだ狭い道のため、少しうろうろしてしまいました。光林寺降星山・光林寺光林寺は西山浄土宗のお寺で、山号を降星山(こうせいざん)といいます。なんとも粋な山号といいましょうか。それに「光林」は「降臨」の意味もあるとか。いかにも星が降ってきた場所という感じですね。境内門から中に入らせていただきました。きれいな庭に、少し傾いた松の木が特徴的です。正面の本堂に向かって左手に、鳥居があります。お寺の境内に、です。鳥居狛犬と玉垣狛犬も聖域を囲む玉垣も、かなり苔むしています。磐座正面からでは岩がよく見えませんが、正面に置かれた石には「星御前」と書かれており、その奥(上の写真、右手)に岩が祀られています。ここには何も説明がありません。お寺の中にある不思議な空間です。鐘楼立派な鐘楼ですね。こういった風景に懐かしさを感じます。
2010年04月25日
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「星の森」の境内からもとのバス道に戻りました。向かい側のバス停の周辺は、公園として整備されていました。バス停「星の森」「星の森」の南側には、南東から北西に向けて、傍示(ほうじ)川が流れています。その川に沿って、公園や遊歩道があります。星のモニュメント同上ここにも、「星の森」の由来として、七曜星(北斗七星)が降ってきた話が伝えられています。「八丁三所(はっちょうみどころ)」の由来も書かれています。傍示川傍示川とは、その字の通り、境界を示す川でした。大化の改新のあと班田収受の法ができ、いったんは私有が禁止された土地ですが、律令制が崩壊し、平安時代には荘園が広まっていきました。かつてこの地方にも荘園が広がっていました。とくに石清水(いわしみず)八幡宮はこの付近に広い荘園をもっていたようです。同上ここでもアドプト・リバーの制度を用いて、川を美しくしようと頑張っておられるようです。
2010年04月24日
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弘法大師が獅子窟寺で呪文を唱えたところ、七曜星(北斗七星)が3ヶ所に分れて落ちたという言い伝えがあるといいます。その3ヶ所は、それぞれ8丁(おおよそ900メートル)ほどの距離にあるため、「八丁三所(はっちょうみどころ)」と呼ばれています。まず、3ヶ所のうちのひとつ、「星の森」と呼ばれる場所を訪れてみました。はじめは、地図を見ても史蹟や神社のような記号でそれらしい場所を見つけることができませんでしたが、「八丁三所」を手掛かりに、三角形の頂点付近を探していると、衛星写真で何やら空間があるのを発見。そばにバス停があるので、もしやと思ってバスの路線図を確認すると、ありました! 京阪バスの、その名もずばり、「星の森」。JR星田駅から南に1キロメートルほどのところです。バス停「星の森」「星の森」入口バス停の前にあるマンションのすぐ横が、「星の森」の入口になっていました。同上説明板入口に設けられた説明板の見出しは「交野八景 星の森の寒月」。しかし、八丁三所に七曜星が降ってきた伝説のことを説明しているだけで、「寒月」のことには一言も触れていません。なんだかなあ。星の森の境内入口右手には「星ノ森之宮」と書かれています。玉垣が巡らされ、神社の様式になっています。石塚上の写真、中央の台の上に置かれているのが、天から降ってきたと言い伝えられている石です。境内に置かれた「由緒」によると、昭和56年(1981年)、長く放置されたままになっていたものを整備したとあります。ご神体とされている5つの石のうち一番大きなものを石塚の上に据えて磐座(いわざ)とし、残り4つは石塚の中に納められているそうです。七曜星(北斗七星)といえば7つ星。そのうち5つがここにあるということですね。見ることができないのは残念ですが、整備される前は、荒れるがままだったのでしょうか?
2010年04月22日
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獅子窟寺をあとにする前に、面白い物を本堂前で見つけましたので、紹介します。吸い殻入れなんだか唐突な吸い殻入れです。広告が入っていたのでよ~く見たら、「当駅6番出口マルトミ2階 ABCクラフト FC大国町店」と書かれています。山の上に駅、ではなく、どうやら大阪市営地下鉄大国町駅にかつて置かれていたもののようです。いまでは地下鉄の駅は終日全面禁煙で、吸い殻入れはお役御免のはず。ここで第二のお勤めをしているというわけですね。火の始末には十分に気を使って、くれぐれも火事など出さぬようにしたいものです。 さてさて、話を戻しましょう。普見山獅子窟寺は、真言宗高野山派の寺院です。ここには、こんな伝説があります。嵯峨天皇のころといいますから平安時代初期のことです。弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺の窟に入って呪文を唱えると、七曜の星、つまり北斗七星が降り、3ヶ所に分れて落ちたと言います。その3ヶ所とは現在の「星の森」、「光林寺」、「星田妙見宮」です。その3地点は、一辺が8丁(おおよそ900メートル)の三角形を形作る位置にあるので、「八丁三所(みどころ)」に星が降ったと云い伝えられています。次回からは、この3ヶ所を訪れてみようと思います。
2010年04月20日
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さて、獅子窟寺の巨岩を眺めたあと、仁王門跡の付近まで戻ってきました。下り道の右手、ふもとから上がってきて左手に、「お大師さんの水」と書かれた標識があります。また、傍の案内板には、同じ方向に「王の墓」があると書かれています。参道脇の案内板竹林へと続く道先が見えませんが、せっかくですし、入ってみました。道はやや下りになっていて、竹林の中に入って行くようです。少し下ったあと、平坦な道になりました。すぐに、右手に赤い服をきた石像が視野に入りました。「お大師さまの水」傍らの説明には、こう書かれています。「何時の時代か、誰が云うとはなしにこの谷から(男岩と女岩)出る水を弘法大師の水やと云われてきた」ということだそうです。竹林の間を行く道さらに先へと道は続いています。道の両側は立派な竹で覆われていますが、鬱蒼と覆い茂る樹木とは違い、優しげな(あるいは怪しげな)日の光が射しこんで、不思議な明るさが保たれています。突然現れるお墓柔らかな光に包まれて、多くの墓がきれいに並んでいます。神秘な、厳かな雰囲気が漂っていました。誰もいません。入ってはいけない空間に足を踏み入れてしまったような、そんな場所です。突然、バサバサと飛び立つ鳥。ドキッとします。古いお墓の一群歴代の獅子窟寺の住職の墓とも云われているようですが、私にはよくわかりません。「王の墓」さらに奥へと進むと、上の写真のような小柄な石塔が2つ並んでいました。これが「王の墓」と呼ばれているものでしょう。現場には案内板がないので、少し不安になりますが、他にそれらしきものもないので、迷うこともないでしょう。ところで「王の墓」ですが、亀山上皇とその皇后の墓と伝えられています。私市の地に滞在して病気の治癒を祈願したところ治ったとのことで、喜んだ上皇が荒れたお寺を再建し寺領を寄進したということだそうです。この付近は百重ヶ原と呼ばれる場所で、この墓は「百重ヶ原陵」と呼ばれることもありますが、本来の天皇陵ではありません。ここは獅子窟寺再建に対する地元の人が感謝を込めて建てた私的な陵墓なのでしょう。 亀山上皇の本来の陵は、京都・嵯峨野の天竜寺境内にある亀山陵だそうです。陵とはいっても天竜寺のほうがはるかに大きいのですけどね。一方で、南北朝時代の南朝の天皇、長慶天皇の墓だとする説もあります。この先、道があるのかどうか、はっきりしませんでした。ここは無理はしません、すなおに引き返すことにしました。
2010年04月18日
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仕事が忙しく、ここ数日、帰宅・食事・そのまま布団、という日々が続いていました。今日もこれから出勤予定です。さらに階段が、、、獅子窟寺本堂の左手に、さらに上に向かう階段があります。階段の上には大きな岩が見えています。階段下の案内表示階段を上がると「府民の森・くろんど園地」と書かれていました。しかし、yahooやgoogleの地図にも、交野市の市街地図にも、それと思われる道は載っていません。辺りは山林ですので、航空写真を見ても分かりません。おそらくハイキングマップでも手に入れないと分からないのでしょう。「磐座(いわくら)」同上(大日如来)同上(弁財天)この付近には、大きな岩がいくつもあります。神聖なものとして崇拝され、一般に「磐座(いわくら)」と呼ばれます。地図には「観音岩」「獅子岩」などと書かれていますが、現地には明確な表示がなく、一人で訪れた私には、いまひとつはっきりと判別することができませんでした。真ん中の写真、「南無大日如来」と書かれた幟(のぼり)が立てられた一画には、岩の前に石碑が置かれていました。梵字の石碑右に掲げられた説明板によると、この石碑には梵字(ぼんじ)5文字が刻まれており、大日如来の「真言」だということです。「アビラウンケン」と読むそうです。真言(サンスクリット語で「マントラ」)は、真言宗などの密教系の経典に由来しており、「真実の言葉」、つまりは「仏の言葉」を意味するそうです。文字ではなく音が大切で、言ってみれば「呪文」ですね。説明板によれば、「この五つの文字は宇宙の要素(地・水・火・風・空)を表し」ているとのことで、「オン(帰依)・アビラウンケン・ソワカ(成就)と唱えるとすべての事が成就されると言われている」そうです。この先は?この先は?さて、案内図によればこの先に奥の院があり、「みろく岩」「鏡岩」「八丈岩」「龍岩窟」などの岩があるようです。しかし、この先は足元も悪そうですし、慣れた人といっしょに行った方がよさそうです。今日はここまでで引き返すことにしました。
2010年04月16日
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(運動不足の私にとっては)ちょっときつい上り坂をのぼって、獅子窟寺の本堂までやってきました。本堂に参拝したあと、周囲を散策してみました。地蔵堂天福岩災いを転じて福となすというところから、「天福岩」と呼ばれています。この岩を両手でしっかり抱いて、お願い事を一つだけ3回唱えると、諸願成就されると言われています。薬師如来の保管庫本尊である国宝・薬師如来が保管されている場所です。交野市内にある国宝はここだけと聞きました。普段は公開されていませんが、予約すれば拝観させていただけるそうです。交野市内寺務所の脇からの景色で、ほぼ西向きです。さきほどの展望台より視界が開けています。黄砂のせいで遠望は無理でしたが、晴れるとかなり遠くまで見えそうです。
2010年04月13日
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展望台から元の参道に戻り、獅子窟寺(ししくつじ)のほうに向かってほどなく、道端に古そうな石碑が立っていました。 参道脇の石碑この石碑には「聖武天皇勅願 行基菩薩開創 役行者 弘法大師 修行之旧蹟」と書かれています。奈良時代、聖武天皇の勅願を受けた僧行基が堂塔を建てたということです。当時は金剛般若窟といわれたようです。役行者や弘法大師(空海、真言宗の開祖)もここで修業をしたとされています。正式には普見山(ふみざん)獅子窟寺といい、真言宗高野山派に属しています。獅子窟寺の開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられています。役小角は飛鳥時代から奈良時代の呪術者で実在の人物と思われますが、それこそ日本中にゆかりの地があるようです。役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、修験道の開祖とされています。いわゆる修業の場だから、山の上にあるんですね。牛臥岩亀にも見えますが、牛臥岩とか牛石とか言われているようです。仁王門跡ここに仁王門があったそうです。仁王像は現在は本堂にあるそうです。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣のとき、大坂方に加勢しなかったという理由で火を放たれたということです。そのとき、全山に12の院があったといいますが、すべて焼失してしまったそうです。同上もうすぐ本堂へ仁王門跡を過ぎて、また少し上り坂をのぼって、ようやく本堂のある場所へと到着です。獅子窟寺の本堂近くにあったベンチに腰を掛けていると、シンとした静けさの中、どこからともなくウグイスの声が聞こえてきました。
2010年04月12日
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獅子窟寺(ししくつじ)への坂道をのぼっていきました。「五丁」「四丁」「三丁」道の途中にある石標に、あと五丁、四丁、三丁と励まされながらのぼっていきました。この日はかなり冷え込んでいたのですが、だんだん汗が出てきました。この先、なぜか「二丁」「一丁」の石標を見つけることができませんでした。参道入口の案内図には載っていたのですけど、ひょっとしたら見逃してしまったのかもしれません。「展望台」の道標「展望台」坂道が緩やかになった辺り、参道を左手にそれたところに「展望台」があります。同上公園の遊具というわけでもなく、、、でも、滑り台の下り口がないといった構造です。意を決して(笑)、上がってみました。展望台より参道の上り口からここまで、標高差100メートルほどを一気にあがってきました。北西の方向が開けているようです。この日は黄砂の影響で、景色全体がかすんでいたのが残念です。さて、元の参道に戻りましょう。
2010年04月11日
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忙しくて、ブログ更新が滞っています。だからというわけではないですが、手近なところをご紹介。車で通りがかった香里団地の「さくら通り」(←クリックすると別窓で出ます)の桜がきれいでした。さくら通りもう葉桜になりかけていますが、運転していて心がなごみます。
2010年04月10日
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京阪電気鉄道・交野線の私市駅の東1キロほどの山の中に、獅子窟寺(ししくつじ)というお寺があります。地図上では私市駅から1キロほどですが、私市山手の住宅街を迷いながら通り抜け、さらに山道を登って、おおよそ20分ほどかかります。隣の河内森駅から天田神社の前を通っていくほうが分かりやすいようです。お寺の生い立ちなどは後ほどご紹介するとして、まずは歩いてみましょう。「低区配水池」この日は河内森駅から歩きました。だらだらと続く坂道を上がって行くと、給水タンクが見えてきました。施設の入口には、「交野市水道局 低区配水池」と書かれていました。同上お地蔵さま道端にお地蔵さま。いたずらしないでくださいって注意書きが掲げられています。そんな罰当たりなことをする輩がいるんでしょうかねえ。案内図近くに案内図が掲げられていました。図の左下が「現在地」です。「獅子窟律寺」の石碑お地蔵さまの横に、「獅子窟律寺」と書かれた石碑が建っていました。なぜ「律」の字が入っているのでしょうね。「律」とは「法律」の「律」。仏教の世界では、僧侶が守るべき義務とか決まりごとのことです。そういう意味が込められているのでしょうか?「これより六丁」1丁はおおよそ100メートルほど。ここから600メートルということでしょう。ただし、さきほどの案内図を見ると、6丁という距離は獅子窟寺の本堂までではなく、手前の仁王門跡までのようです。獅子窟寺への入口急な坂道急坂は仁王門跡の手前まで続きます。さて、覚悟して上って行きましょうか。
2010年04月06日
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「星の里いわふね」の敷地内を歩いてみました。案内地図施設内にある地図を見ると、けっこう広いようです。ロッジ同上研修センター外装の工事中でした。ホームページでは、プラネタリウムは老朽化のため平成20年に閉鎖したと書かれています。この場所にあったのでしょうかねえ。平成4年にオープンですので、ちょっともったいない気がします。陶芸窯の小屋窯を貸してもらえるそうです。右奥がバーベキュー場です。炭焼き小屋炭焼き窯窯は貸してもらえるそうです。だれが使うのでしょう。おやおや、「落石のため立入禁止」と書かれています。敷地内には「野生の猿が出ます」といった注意書きもありました。これが「自然」なんでしょうけどね。「登山道」頂上まで15分、と書かれていました。15分か、、、上がってみましょうか。山頂付近頂上までず~っと階段の連続。けっこう厳しかった(笑)。山頂からの景色一気に上がってきた頂上からの眺めは、心地よいものです。交野市内から枚方市内、遠くには淀川の対岸・高槻や茨木の山々が見えています。画面のほぼ中央、左右に白く長い線が走っているのが第二京阪道路です。頂上の先に、、まだ道は続いているようなのですが、、、、この辺りで折り返したほうがよさそうです。
2010年04月05日
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国道168号線を車で走っていると、「星の里いわふね」(交野市立いわふね自然の森スポーツ文化センター)と書かれた案内板があります。 京阪電気鉄道・交野線の私市駅から南へ徒歩5分ほどのところです。この交差点を右折(奈良から来たら左折)し、八幡橋を渡ったところが「星の里いわふね」です。国道の案内板天野川(上流方向)八幡橋から天野川の上流を眺めると、生駒連山の北の端、磐船の渓谷が迫っているのが分かります。交野線はここを突き進んで生駒まで行くつもりだったんでしょうねえ。この付近、国道は天野川の上流に向けて左側を走っています。反対の右側には、上の写真のように遊歩道が設けられていて、府民の森・ほしだ園地へと続きます。府民の森には「星のブランコ」と呼ばれる大きな吊り橋があり、一度は行ってみたいと思っているのですが、行きそびれています。「星の里いわふね」八幡橋を渡ったところに、建物がいくつか建っています。「グリーンビレッジ交野」入口の右手の建物が「グリーンビレッジ交野」という宿泊施設で、研修室もあり、合宿に向いています。レストランのほか、バーベキューができる施設もあります。上の写真(正面の建物)は「交野市立市民スポーツレクリエーションセンター」です。772席を持つ舞台ホールや研修室があります。舞台ホールの椅子を移動させれば体育室になり、バレーボールや卓球などに使えます。私が訪問したときには柔道着を着た小学生ぐらいの子どもたちが出入りしていました。平成4年(1992年)、もともとあった「市民スポーツレクリエーションセンター」に、プラネタリウムと野外活動のための施設を加えて、「交野市立いわふね自然の森・スポーツ・文化センター」となりました。
2010年04月04日
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京阪・交野線の私市駅の近くを流れる天野川に沿って、「水辺プラザ」があります。川の様子を観察しながら上流に向けて歩くと、ところどころ、段差が設けられているのが分かります。天野川川の水が斜面を流れ、日の光を受けてきらきらと輝いているところがありました。少し川幅が狭くなっていて、急流すべりのような感じです。急流すべり?同上(上部)川床には石が敷き詰められています。説明板傍らの説明文によると、この建造物は「天野川砂防堰堤(えんてい)」というそうです。尺治川(天野川の支流で、水辺プラザの地点で天野川と合流しています)に設けられた砂防堰堤や川床とともに、国の「登録有形文化財」として登録されています。この天野川砂防堰堤は、明治32年(1899年)に造られたもので、大阪府内で一番古い砂防施設だということです。石造りで、長さ7.1メートル、高低差1.7メートルで、いまでもその機能を立派に果たしているということです。自然の景観と調和のとれた建造物というのは美しいものです。八幡橋水辺プラザの上流側の端、八幡橋まで歩きました。風はまだ冷たいですが、明るくて気持ちのよい散歩コースでした。
2010年04月03日
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京阪・交野線の私市(きさいち)駅の近く、大阪市立大学理学部付属植物園から、手前の日之出橋まで戻りました。ここから天野川の下流に向けて撮ったのが下の写真です。川の左側が植物園の敷地です。 天野川(下流側)天野川(上流側) 上流に目を移すと、川に沿って整備され、きれいな公園になっています。「水辺プラザ」日之出橋と上流の八幡橋との間(430メートル)は「水辺プラザ」と呼ばれています。地元では「私市水辺プラザ」とも呼ばれているそうです。「私市の水辺ワークショップ」を開催し、多くの人の意見を取り入れながら、豊かな自然環境や多くの動植物との共存を図りつつ水辺空間を創造したということです。水辺プラザ日之出橋から左手に回りながら、上流に向けて歩いてみました。上の写真は上流側からあずまや(中央、赤い屋根)と日之出橋(その右手)を撮ったものです。奥が植物園です。歌碑近くに歌碑が建てられていました。「狩り暮らし 棚機つめに宿からむ 天の川原にわれは来にけり」 (古今和歌集 在原業平) と書かれています。平安時代、交野市から枚方市にかけての天野川流域は「天野ヶ原」と呼ばれ、桜の名所であり、また貴族の狩り場としても知られていました。「棚機津女」と書いて「たなばたつめ」と読むようです。「宿からむ」とは「宿借らむ」。狩りをしていたら日が暮れたので泊めてもらおうということでしょう。「狩り」と「借り」を掛けているのかな。七夕伝説に引っかけて詠んだ歌ですが、なんとも業平らしい歌といいましょうか。あずまや「アドプト・リバー」ここも、大阪府の「アドプト・リバー・プログラム」制度が活用されているようです。「天の川を美しくする会」のみなさんに感謝。
2010年04月02日
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