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一昨日の続きです。 件の評論家の曰く、「経済効率でしか文化を見ていない。文化というものが人間の想像力や、人間そのものを育成するという観点に立って長い目でみていくという考え方がないと。日本の文化政策にそういう視点がない。」 この発言自体は、必ずしも間違いとは言えないと思います。つまり、先の「大衆に根付いていなければ文化とは言えない。」という見識と同程度には真面目に受け取っていいと思います。 問題は、何故それがクラシック音楽と関係するのか、ということがショートカットされてしまっているところにあります。 そもそも、文化、といういい加減な言葉で物事を括る事が問題なのです。 文化というのは、ある社会 - いろんな形で括られるものではありますが - に根差して存在するものの見方、考え方や感じ方の総体というべきものだと思います。一般的に「文化」と言われているものは、むしろ、文化的成果物とでも呼ぶべきものだと思います。別に、例えばクラシック音楽が「文化」ではない、と言っている訳ではありません。ただ、音楽そのものは文化的成果物であって、それが拠って来るものの見方、考え方や感じ方、つまり本来の総体としての文化と同一ではない、ということです。 確かに、クラシック音楽を聞く事が、人間の想像力や、人間そのもの(ってちょっとカッコいい言い方だけど、一体何がいな?)を育てるということはあると思います。しかし、元々文化的成果物というものは、そうした功利主義的なものであるとは限りません。むしろ、そういう効用もあるかも知れないけれど、どっちかというと、元々その拠って来たるものから必然的に立ち現れて来るものではないのか、と思うのです。 いやぶっちゃけた話、18世紀後半の中欧で神童だの天才だのと言われながら若死にするまで書き続けられた様々な音楽が、我々21世紀に生きる日本人と一体全体どういう関係があるんですか?というものだと思うのです。でもだからといって、誰もその音楽を聞かないという訳でもないし、聞いちゃいけないという訳でもない。聞いて楽しかったり、何か想いを致したり、考える所があったり、それが何かを生み出す契機になったりすることだってあるかも知れない。ただ、その音楽は本来は、我々が主に根差している日本とかの社会の文化に拠って立つ成果物ではないだろう、ということ。 それにも関わらず、我々がモーツァルトを演奏するオーケストラを支えなければならないとしたら、それは何故なのですか?何故同じような効用があるかも知れない他のものでなく、正にこのオーケストラを支えなければいけないのか?そういう問い掛けを回避して、「クラシック音楽は文化だから」と言い続けて来たツケが現況なのではないかと。 一方、我々消費者の方は、クラシック音楽=支えられるべき文化、というのとは別の原理で動きつつあるのであって、それを未だに理解出来ていない業界の方が問題なのでしょう。 この座談会でも、「最近チケットが売れない」「ギリギリまで待って安いチケットしか買わない」「ラ・フォル・ジュルネみたいな、イヴェントとしてクラシックを聴きに行くけれども、クラシックファンになるわけではない」みたいな発言が出ているのですが、これ即ち「聴衆=お客=消費者」であることを理解していない故の発言なのではないかと。 そもそも、たかだか2時間、わざわざ特定の場所に行って音楽を聞く事に5千円や1万円払うということがどれだけ高コストな行為である事か。文化を経済効率でしか見ないなどとは良くも言ってくれたなというもので、絶対額として下手すりゃ1週間分の食費を突っ込んでまでコンサートに行く、そんなチケット、給料減ったり頭打ちになれば買い控えもするだろうし、そのチケットが半額で手に入るかも、と思えば、待ってみるぐらいのことはするというものでしょう。そもそもクラシックのコンサートのチケットを買う時点で、相当経済効率的には浮世離れしていると言うべきでしょう。 聴衆が減っている、というのも、ある面では事実だと思います。が、その結果クラシックファンが減っているのかと言えば、決してそんな事はない。少なくとも、コンサートゴアーが減っている、ラ・フォル・ジュルネやのだめコンサートにしかお客が来ない、という言い方は、見方が硬直化しているからだと思うのです。 のだめコンサートで聞かされる曲は、どうしてもポピュラー名曲的なものになってしまうのでしょう。けれど、そんなコンサートは今までだってあったし、そこで演奏される音楽が普段のコンサートで演奏される音楽と違うのか。ラ・フォル・ジュルネだって、ホールが酷いのなんのとは言われるし、玉石混淆ではあるけれど、これだって音楽に変わりはない。 イヴェントには行くけどクラシックファンにはならない、のではなく、既存のコンサートは相手にしないという聞き方が出て来ている、そういうクラシックファンが生まれている、ということなのです。イヴェントでしか聞かない、ではなく、イヴェントでは聞きに来るファンが出来ている、なのです。どちらかといえば、これこそが「大衆に根付きつつある」ということではないのか。 むしろ、既存の業界のあり方は、そういう意味で大衆に根付く事を拒否する方式で差別化することで商品価値を高める戦略を取って来たのではないかと思うのです。そうすることで、浮世離れしたチケットを買わせるという戦略を取って来たのであれば、それでお客が来ないのは従来戦略が陳腐化しただけの話、努力の問題に過ぎないのかも知れず。確かに、それだけでは済まない面はあるとは思うのですけどね。 個人的には、冒頭の発言は、決して間違いではないのだと思うのです。今や、多くの「文化」は単に消費される対象になっている、というのが現実に近いのではないかと思うのです。ただ、それは、決して政府や企業や国家の責任ではなく、むしろ社会のあり方、要請によるものだろうと思うのです。だから、かような批判がクラシック音楽への助成を行う事とダイレクトに繋がる訳ではなく、むしろ送り手・受け手・その他関係者に対し天に唾するものとなっていると思うのですけど、まぁ、分からないんだろうなぁ....
2011年01月30日
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音楽の友2011年2月号、久々に買ったのですが、2010年のクラシック界を振り返る、的な座談会がありまして。まぁ、読んで貰えば分かるんですが、音楽評論家2名と新聞記者1名という鼎談で。 で、まぁ、突っ込み所満載の内容なんですが、例によってコンサート不況だとか、文化だとか、そういう話になってまして、これがまたまるで具体的な問題解決に繋がらない、相変わらずの内容で......... そりゃぁ、クラシック音楽界が不況に喘ぐ訳だろうよ、と。 で、よせばいいのに、2年前の橋下大阪府知事の発言をわざわざ引いて来て曰く「どこかの知事が、大衆に根付いてなければ文化と言えない、なんてことを言ったんですけど、やっぱりそれは文化のはき違えだと思うんですよね。」 そりゃぁ、日本に文化が根付かない訳ですよ。 この発言、大阪センチュリー交響楽団の予算削減に関してのもので、今でも、ネットで検索すれば、当時の橋下知事がこれに類する言葉を発しているのを見る事が出来ます。 文脈としては、音楽とか美術とかインテリぶってるけれど、府民に根付いているのか。根付いていると言えばお笑いの方がよほど根付いている。府民に根付くような努力を死に物狂いでやらなくてはいけないのではないか、と。 まぁ、今更ながらですが、この文脈がどんなもんだろうとは思うし、別に橋下知事を支持する気もないのですが、ただ、「大衆に根付いていなければ文化とは言えない」という趣旨として認識しているならば、まぁ実際にこの言葉通り発言しているかどうかはともかく、これは明らかに一つの見識とすべきなのです。 文化とは何か、ということを定義付けするのは確かに難しい。けれど、文化を「大衆に根付いていなければならないもの」とする考え方は、決して間違いとは言えない。何故なら、「大衆に根付いているか」という問いは、クラシック音楽というものが某かの文化的成果であるとするならば、その文化的成果の拠って立つ所は何であるか、つまりは文化的出自が問われているということだからです。 そして、この場合何故この問いが発せられるかと言えば、大阪府という地方自治体の税金が投入されているからです。現代日本の大阪府という地域(別に関西でもいいんだけど)に於いて存在するべき必然性があるかどうかは観念的には幾らでも言えるけれど、具体的に公金が出ている以上、その公金を投入すべきかどうかは、公共性の有無、公金を支出してまで支えるべき価値があるかどうか、に掛かっているからです。執行機関としての大阪府の長である知事が、だから、この観点に則ってこの問いを発するのは極めて妥当な話。 橋下知事は、何もはき違えてはいません。公金を支出すべきものなのか?という、職務上極めて妥当な問い掛けを、非常に分かりやすい形で出している。この問い掛けに、業界の側は真摯に応えて来たのか?ということです。 「大衆に根付いている」ということの判断は、言葉の上では定性的にならざるを得ません。けれど、例えば、この当時の対話の中で、これまた極めて妥当な言葉を橋下知事は発しているのです。曰く、「10万人の署名が集まったそうだけれど、その一人一人が千円とか出してくれないんですか」と。 正直に言って、私もそう思います。そこまで大事と言うなら、その一人一人が千円出すくらいなら、それは「大衆に根付いている」と言えなくもないのではないだろうか、と。 現実に、センチュリー響は、昨年秋の段階では、来年度から補助金が無くなるのに、協賛企業は1社、100万円分しか取れていないと聞きます。この辺、色々な事情や思惑もあるのかも知れないけれど(関西のオーケストラ合併論とかあった筈)、「根付いていない」とはこういうことではないのかと。センチュリー響に恨みはないけれど、これがこの業界が「文化」であり続ける努力を怠って来たツケなのではないかと。 少なくとも、「大衆に根付いてなければ文化とは言えない」というのを「文化のはき違えだ」とまで言うのなら、では一体文化とはなんなのか、我々、2011年の日本に暮らす人々にとってどんなものが文化で、それは苦しい中公金を支出してまで支えるべきもので、クラシック音楽は、もっと言えばあるプロオケ一つを維持することは、その公金を支出するに足ることなのだ、ということをきちんと説明すべきです。それが、まがりなりにも、音楽雑誌で、音楽評論家という態で、こういうことを発言するならば、丁寧に取り組むべきでしょう。 もう一つ言いたいことがあるので、それは明日。
2011年01月28日
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ミューザ川崎シンフォニーホール 15:00~ 3階正面 バッハ:管弦楽組曲全曲 カンタータ第42番~シンフォニア バッハ・コレギウム・ジャパン 指揮:鈴木雅明 他とも被っていたのだけれど、まぁ管弦楽組曲全曲だし、こっちにしようかと。 しかし、今日は眠かった.... いや、つまらないから、ってことではないですけどね。 ただ、まぁ、ああ、面白かった、というわけでもないのでして。 演奏が悪い訳ではないと思うんですけどねぇ... わかってて行くなよ、と突っ込まれそうですが、BCJってなんか微妙につまらない感じがあるんですよね、いつも。いや、つまらない、というのは若干語弊があって、がっかり感とか、多分そんな感じ。で、今回もねぇ、やっぱりそうなんですよ。 一つはっきりしているのは、この人達の演奏会で、物凄い手練れが絶品の一瞬を垣間見せる、みたいなことはないんですよね。 例えば、今日の売りの一つがナチュラルトランペット3重奏だと思うんですけど、やっぱりナチュラルトランペットだから、音程は安定しないし、どうしても輝かしさに欠ける。それは仕方ない、ということになっている。まぁ、実際そうだろうし、特別ダメじゃん、というわけではないだろう。 でもねぇ。やっぱり音楽として下手なものは下手だし、同じナチュラルトランペットでも、もうちょっと上手に聞かせる人はいるんですよね。そうすると、一生懸命、この安定しない楽しくない演奏を聞くのには理由が必要になってしまう。よりGenuine な古楽器演奏なんだから、とか。 手練れということで言えば、寺神戸亮とか、上手いには上手いんですけどね。いや、多分それどころじゃないくらいの筈。でも、聞いてて「おおっ」と腰が浮く、みたいな引き込まれ感はない。その辺が某かのがっかり感と関係してはいると思うのです。 でもそういうことより、多分もっと重いのは、そもそもこの人達が、もうちょっと聞いて楽しい方に振ろう、とかいう努力をしないところにあるんじゃないかなと。別に音楽は楽しくなきゃいけないとか思ってる訳ではないんですけど、でも、なんかよくわからないけど、この人達、付いて来られないなら、それはそれで仕方ないんじゃない?いいよ別に、みたいな感じがするんですが、そんなことないですか?気のせいかも知れんけど... なんかねぇ、聞いて理解している内容と、聞いて感じてるものとのギャップがあって、納得感が無いんだよなぁ... 例えば、去年聞いたアーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥス・ムジクス。あれも、こちらの感じ方にはムラがあって、ロ短調ミサなんて、半ば途方に暮れたような感じだったけれど、BCJ に感じるような納得出来ない感ではないんですよね。あれは、なんなんだろう。 BCJのアプローチは、勿論いわゆる「ピリオド演奏」追求スタイルで、最も大きい編成でも20人程度。第2番などは、フラウト・トラヴェルソをセンターに置いて、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの計5本の弦楽器にチェンバロという、計7名の殆ど室内楽というべき編成。このタイト感が面白い、というのは分かるんだけど、タイトな方に緊張感は鋭いけれど、この曲集とか、そういう風に聞かれるべきものと限った訳ではないような気がするんですが、どうだろう....... 決してつまらなくも、くだらなくもない、優れた演奏ではあるんだろうけど...... 俺ぁ、土曜の午後に、こういうものを聞きたくて「管弦楽組曲全曲演奏会」を聞きに来ている訳では.....あ、BCJはこういうものか。そうですねそれはそうですね。 .........................うーーーーーむ。
2011年01月22日
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新国立劇場 16:00~ 4階右側 ラ・バヤデール 音楽:レオン・ミンスク 振付:マリウス・プティパ / 牧阿佐美 ニキヤ:小林ひかる ソロル:デニス・マトヴィエンコ ガムザッティ:厚木三杏 ハイ・ブラーミン:森田健太郎 マグダヴェヤ:吉本泰久 黄金の神像:福岡雄大 トロラクヴァ:貝川鐵夫 ラジャー:逸見智彦 アダージョ:マイレン・トレウバエフ、菅野英男 東京交響楽団 指揮:アレクセイ・バクラン 我ながらまめっつーかなんつーか......... ラ・バヤデール。クラシックバレエの名作、歌舞伎で言えば十八番之内には入りそうですが、観たことないんですよね。というわけで、買ってあったので観に行きました。 しかし、今日の出演者が特に見劣りする訳でもなく、初日なのに、4階席はまぁ6分の入り。確かにバレエはあんまり上から見るのはあまりよろしくないだろうとは思うんだけれど、それにしても入りが悪いけど、こんなもんなんでしょうか?1階席は前の方はほぼ埋まってたようだしなぁ........ 面白かったです。とはいえ、若干退屈したのも確か。 結局、ロシア系のロマン派バレエなんですよね。だから、オーソドックスに、見せ場を次々と作って行く。それはそれで面白いんだけど、ちょっと眠気が...... ストーリーは割と面白いんですけどね。でも、失礼ながら半ばはスターとはいえ新国立劇場座付きのダンサーという感じ、瞠目して「こりゃぁ凄いや!」と目も覚めるような....とまではいかないかなと。面白かったですけどね。でも、回る回る何処まで回る....みたいな驚きはなかったし、表現力も、表現はあったけど、そういう意味での驚きはなかったかな。群舞もねぇ、端っこの方はあんまり安定してなかったし...... とはいえ、観れば観たで面白いものではあるし。ああ、定番レパートリーってこうだよねぇ、という感じで。 ミンクスの音楽も、まぁありがちと言えばありがちだけれど、ロマン派の魅力満点で十分面白いし。そしてまた、こういう曲になると、日本のオーケストラのはそつなく聞かせてしまうので、「いいじゃん」という一言で終わってしまうという................ そしてオケは日本のオケの典型みたいな東響(苦笑) 無論、贅沢を言えば、もっとちゃんと歌えよ、みたいなことはあるのですが、まぁ、バレエの場合、あんまりオケが妙な方向に頑張り過ぎると、踊りに影響しますしね。その枠内ではむしろよくやってたと思います。ソロも相応に聞けたし。 正直、バレエに関してはそう熱心に観ている訳でもないので、誰が凄いんだ、とか、よく分からないんですけどね。ただ、こちらも、オペラ同様に玉石混淆状態なのかな?オペラの方から見ていると、バレエ部門の方はまだしもよく出来てるんじゃないかな、という気がしてたんだけれど、どうなんでしょ。
2011年01月16日
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http://ameblo.jp/tpo/entry-10764550537.html東フィルのブログ にこんな記事が......まぁ、ある意味、正直というかなんというか....(笑)一方.....http://www.tpo.or.jp/information/detail-54.html大野和士は力尽きたらしいです。2月一杯安静だとか。あーあー葉書でも連絡が来ました。急遽と言えば急遽ですが。代役は渡邊一正だとか。さて、どーしよーかなー.....何処ぞのブログで「大野和士は定期公演を捨てた」とか書いて批判されてましたが、正直、常任でもなんでもない客演公演と新国のトリスタンだったら、普通は定期を捨てると思います。まして2月一杯安静なんだったら、今更新国1公演休んでも、定期なんて出来ないでしょう、今更。定期公演を楽しみにしてた方には気の毒ですが....
2011年01月12日
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いや、確か、去年も、年頭に「もうちょっとコンサートに行く回数を控えよう、選ぼう」とか言ってた気がするんですけどね。 去年のエントリーからすると、昨年のコンサート数は、90を越えたようで、これに海外で聞いた分とラ・フォル・ジュルネが追加されるという.... ちなみに、数公演は、行ったけどblogに書きそびれた公演なんかもありまして。12月のN響とか、書いてないしな、結局。 確かに生音はいいのだけれど、幾ら何でも玉石混淆にしても限度があるだろうと。というわけでもうちょっと絞ろうと思います。今度こそ。あーでも、2月3月は既に修羅場か........ その代わりではないですが、CDの方を復活させようかなと思います。生音に飽きた訳ではないけれど、そろそろそっちの方にも復帰しようかな、と。
2011年01月11日
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新国立劇場 14:00~ 4階正面 結局行ってきました。.......だぁれ?物好きとか言ってるのは....... 出来具合は、前回の4日よりは若干良くなったかな、というところ。基本はあまり変わりません。ステファン・グールドは相変わらず。イレーネ・テオリンは、まぁ、今日の方が良かったかな。ただ、やっぱりこのヴィヴラート声はあんまり好きにはなれません。それもあってか、発音も微妙に気になるし。変な話だけど、母語的にはよりドイツ語より遠い、それ故もっと発音も違和感ありそうなグールドより、テオリンの方が気になるんだよな......却って分かりやすいから? オーケストラは、第3幕がかなり良くなりました。パワー不足が改善されていて、前回は明らかに「愛の死」で失速していたのが、今日は結構頑張っていて。何やったんだろう?エキストラでも入れたか、餅喰ってスタミナ付けたか........(笑) 改めて聞くと、その一方で、大野和士の指揮が結構曲者なのかなという気がします。デュナミークの処理は相応でいいと思うのだけど、気が付くと、結構派手に表現を付けていて、テンポも揺れる、というよりはっきり緩急を付けていて。これはこれでどうなんだろう?と思わなくもないな.....と思っていたら、カーテンコールでブーイングが交じってました。これは、オーケストラの問題というより指揮者の問題として、なんじゃないかと思うのですが......どうだったんだろう?まぁ、気持ちは分からなくもないけど。 全体としてどう評価するかは難しい所だと思います。前回結構厳しい事は書いたし、その欠点は決定的に覆された訳ではないのだけれど、前回も含めて、まぁ、新国立劇場としては精一杯、って所なんでしょうね。公平に言って、及第点をあげるべきだろうとは思います。問題は、このレベルが持続しないことなのかなと。例えば、今年はこの後2月に椿姫、3月にマノン・レスコー、4月に薔薇の騎士、5月にコジ・ファン・トゥッテと控えてますが、このレベルがそれぞれ維持出来るかどうか。オケは2・3月が東響、4月が新日、5月が東フィルと、この辺が常設オケを持たない問題とも繋がるのですが、例えば5月の次の東フィルの登場時に、このトリスタンのレベルを維持出来るのか? 演出ですが、改めて観て、一つ思った事が。この演出、象徴主義的、という話を前回書いたのですが、これ、よく見ると、実は結構「現実」に拘ってる舞台なのかな、という気がして来たのです。 発端は、幕切れの「愛の死」。確かに、「愛の死」を歌った後、イゾルデは真っ赤な衣装を引き摺りながら、沈んで行く赤い月?太陽?を脇に、海の方=舞台奥へ向かって行き、徐々に照明が暗転して、という演出。これはこれで奇麗なんですが、冷静になって考えると、ひょっとしてこれは「入水自殺」ということなのでしょうか? いや、その解釈がいけない訳ではないんですが、これって「イゾルデは何故どのようにして死んだか/死なないか」という課題の解決としては、極めて合理的なやり方なのかなと。 そう考えると、この舞台、実は要所要所で微妙に合理的な面が顔を出すのかな、という気がしなくもない。そういえば、私の嫌いな若衆も、確かに現実的な存在として考えると、合理的ではある。実はこの舞台でもう一つ気になっていたのがマルケ王の扱いで、あまりにマルケ王が爺さん扱いされてしまっていて、それ故かクルヴェナールは3幕ではメロートを倒した後、王が出て来る前にあの若衆に囲まれて切り刻まれるという死に方をするのです。マルケ王は事が終わってから出て来る。確かに、マルケ王の実態とかも考えると、これはこれで合理的とも言えるんだけど...... どうなのかなぁ、これは。 終演後、アンケートを集めてまして、粗品を配ってたんですが、とうとう今回は箱形ティッシュ(苦笑)いや、記念品なんだし、もうちょっと、せめて絵葉書くらいでどうですか.....
2011年01月10日
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がオープンしてました。 http://www.lfj.jp/lfj_2011/ 去年の内にはもうあったみたいなのですが、オープンしたのが12/24だったらしいので、そりゃ知りませんわ.....わたしゃ日本にいなかったよ、その日から..... で、既に色々報じられていた今年(おお!そういやもう今年や!)のテーマは「タイタンたち」。 ふーむ。 まぁ、ネーミングはいいんですが、このイラスト、なんちゅーか、微妙に、昨シーズンの新日フィルのシーズンチラシに若干似てるような気がしやしませんか......? テーマも、あっちは「モンスター」だったし。怪物vs巨人。いや、別にいいんですけどね.... http://www.njp.or.jp/njp/programinfo/09-10pamphlet/p01.html それはともかく、LFJの方の詳細は2月に公開だそうです。
2011年01月09日
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新国立劇場 14:00~ 3階正面 ワーグナー:トリスタンとイゾルデ トリスタン:ステファン・グールド イゾルデ:イレーネ・テオリン マルケ王:ギド・イェンティンス クルヴェナール:ユッカ・ラジライネン ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ メロート:星野淳 牧童:望月哲也 舵取り:成田博之 船乗り:吉田浩之 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:大野和士 演出:デイヴィッド・マクヴィカー 新国のトリスタン、3日目は年明け早々の公演であります。既に昨年中の公演で色々言われているようですが、まぁこっちは初日なので(笑) 最終日は行けるかどうか微妙になって来たので、唯一確実に行ける(=予定が他に入りようが無い)のが一番高い席で、ある意味良かった良かった(謎) それはともかく公演はどうだったのか? まぁ、正直言って、相応にいい出来だったと思います。ただ、新国立劇場で、という条件付きですが。ま、こっちも、生で観るのは十数年ぶりくらいじゃないかと思うけど。 歌唱陣は、それなりのレベルであったと思います。声量的にはトリスタン役のステファン・グールドがいい出来だったと思います。単に声量があるだけでなく、歌としても今回はなかなかのもの。ただ、上手いんだけど、と留保条件をどうしても付けたくなってしまう。公平に言って、今このくらいの声でトリスタンが聞けるというのは幸せ、と言っていいとは思います。ただ、深みというか、声自体は立派だけれど、もう一枚腰が欲しいな、という気はします。歌としては平版とは言わないけれど、この役どころでの歌唱としては、という感じかなと。ただまぁ、これはこれで贅沢というものなのでしょう。 一方、イゾルデ役のイレーネ・テオリンは、これに比べるとやはり声量というか歌に不足があるかなと。歌えてはいるんですが、グールドと並べると、どうしても差が見えてしまう。ただ、このレベルであれば、文句は言えないでしょう。クルヴェナール、ブランゲーネ、この辺は役なりに出来ていたと思います。マルケ王がちょっと物足りないかなと。声がどうとかいうより、表現力というか、表現の方向性がちょっと爺さん過ぎやしないかい?というような。 まぁ、大体そんな所です。 問題はオーケストラ。一言で言って力不足。 正直、元旦までさんざんあれこれ聞いて来た後遺症はあるとは思うけれど、やっぱりそもそも音があっさり。これは毎度のことではあるけれど、出て来る音がもう一つ深み、厚みが足りない。低弦が 10-8 だったので、恐らく16-14-12-10-8といったところだったのでしょう。だから、新国立劇場でもあるし、人数的に不足は無い。そういう意味ではなくて、弦なら弦の一つ一つの音がもっと響きを持って欲しいのだけれど。これは最初からそうだったし、いつもの問題だとは思うんですが、こういう、響きに耳を傾けるような曲では、どうしても目に付いてしまう。嫌みな言い方かも知れないですが、結局「日本の規格」でやってる内は、この辺の力不足が何処迄行っても解消されない。で。観る方もそういうもんだと思ってしまうから、結局何時迄経っても誰も文句言わない。もうどうしようもないんでしょうか、この変なダブルスタンダード..... それと、それにしても、やっぱりパワー不足。年内の公演の話に比べると全体に頑張ってはいたのだろうけれど、やはりスタミナ不足だと思います。「トリスタンとイゾルデ」は、そういえば最後の最後に「愛の死」があるので、そこでオーケストラはクライマックスを造る事を要求されるのだけれど、正直、オケが反応し切れていなかった感じかなと。実は第3幕、ヴィオラの女性が一人途中で気分が悪くなったようで、他の団員に抱えられて出て行ったのだけれど、やはり「トリスタン」は過酷なのかも。 ただ、それを承知で言えば、そこはプロなんだからスタミナ付けてやって貰うしかないのだと思います。一人二人倒れるのは個人差もあるし仕方ないと思うけど(いや決して倒れるまでやれっていう意味ではないけどね)オーケストラとしては「だから充実度は下がるんです」というのは不味いんでないかと。厳しいようだけれど、演奏内容としては、これはこれで決して悪くは無いだけに、オーケストラとしての能力の限界を感じさせてしまうのは不味かろうと。結局これも同じ事で、日本人だからとか言ってちゃいけないと思うんですよね。 大野和史は確かにいい指揮ではあったと思います。細かい所に配慮が行き届いて、ピアニッシモで聞かせるべき所をちゃんと聞こえるようにピアニッシモで手を抜かずやらせているし、音楽の運びもかなり良かった。 いや、普通に聞けば、いい出来だったと思います。ただ、予想される不足点が見事に的中してるだけに、ちょっとなんというか...... 演出。 率直に言えばいい意味で凡庸。 まずもって、読み替えというものが全くない演出。強いて言えば、さくっと「ああこいつら元々好き合ってるんじゃん」というのが分かる第1幕、というくらいがやや特徴的かなと。 どちらかと言えば象徴主義的な演出で、7割方簡素だけれど、大体何がどうなってるというのはわかるくらいの具体性のある、という感じ。セット上にかなり大きな月が出るのですが、あれ、その存在自体や動きに、格別な意味はあったのかしら。色でもって意味付けしていたとか、最後に沈んで終わりとかいうのは分かったけど。 全体的には悪くないと思うのは、その舞台自体が相応に「美しい」ものだったかな、という点。これは、いわゆる「きれい」という意味ではなくて、美術的な意味。シンプルな装置を大胆にドンと置く、といった感じ。装置自体には勿論細部があって、がさがさした質感だったりするのだけれど、その大きさや見え方が新国立劇場の舞台によく合っていて、存在感があって、でも煩く自己主張しないという感じ。一番色々置いているのは第2幕なのだけど、ここにしても、上から見る限りでは、決してごたごたした感じではない。これに対し、色々に使い回される「月」を掲げるくらいで、暗くて見通せない舞台奥も含めて、空間を上手く使っていると思います。多分この路線自体は使い古されたものではあるのだろうけれど、それにしてもパッと見据わりのいい舞台だったと思います。衣装についても、イゾルデやブランゲーネのシンプルな衣装、マルケ王のうっかりすると司祭かと思うような質素な感じの衣装も、このさっぱりとした舞台に合っていたと思います。 ただ、どうにも違和感があったのが、各幕で出て来る上半身半裸の若衆集団。こいつらの振る舞いの乱雑さがこの舞台にとても合っていなかった。10人ばかりがガサガサ出て来るのだけれど、ブランゲーネに品の無いちょっかいを出したり、というのは分かるとして、まずこいつらの動きが悪い。動きに統一感が無いのだ。連動して動いてはいるのだけれど、動きがバラバラ。そして、動き自体がある意味生々しい。正直、素人臭い動き。これが、今回の象徴主義的な、もっと言えば様式美の方へ傾く方向性の舞台に合っていない。正直言えば、こいつらを出す意味が殆ど感じられない。もしこの演出の中で出す意味があるとすれば、様式美の方へ押しやられてしまうのをぶち壊す目的くらいしか想像が付かない。それほどまでに違和感のある動きだった。せめても、ぞろぞろと10人も出さずに、2,3人くらいでもっと統一感のある動かし方をすれば、とも思うが。もしこれが舞台と調和させるつもりで出したのだとすれば大失敗。正直、丸々省いても誰も困りません。 まぁ、それさえなければ、収まりのいい演出だったと言っていいのかも知れません。 ただ、この演出、間違いではないんだけど、ある意味ここまで「何も無い」というのも、どうなんでしょうね。別に奇を衒うべきとは言わないし、某か読み替えがあるべき、とも言わないけれど、ちょっと捻りが無さ過ぎると言うか...... 元々、こういう象徴主義的演出というのは、観る側の想像力に任せておく部分が多いものだと思うのですが、この演出、微妙に具体的な所と抽象的な所とが混淆していて、それがこの演出を受け入れやすくしている部分ではあると思うんだけれど、同時にこの演出の限界でもあると思うのですね。一歩間違うと、この話をよく知らない人にとっては中途半端でなんだか分からない内容、よく知っている人にとっては何の新味も無い内容とも取れてしまう気がします。変に捻った結果おかしなものになってしまう(新国の指環とかね)よりはよほどいいのですが、この演出、ここから何処へも行きようがない感じもあって、微妙な気はするのです。例えば、この公演、お前どうしてももう一回観たいか、と言われると、次の休日公演は一応仕事になりそうだし、とか天秤に掛けて、まぁ行かなくてもそん時は仕方ないかな、くらいの感じではあるのです。
2011年01月05日
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今更ですがまだ三ヶ日!まだ新年! というわけであけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいいたします。 って何をだろう..... 年末年始は、旅行に行っていました。年末年始なのであまり内容的には面白くないんですが、ウィーン・チューリッヒ・ミュンヘンと、お約束コースを廻ってきました。 年末年始はあまり面子が揃わないんですよね。それでも、思いもかけず「こうもり」のオルロフスキーのゲストでネトレプコが聞けたし、ニューイヤーも聞けたし、今回はミサも3つほど。 一番面白かったのは、しかし、チューリッヒでホグウッド指揮のフィガロ、これでしょうか。これは面白かった。小振りの編成だけれどもともと劇場が小さい。このオケを結構暴れ回させていたけれど、乱暴だけど粗くはないというか....まぁそんな感じで。 あとは......ミヒャエル・シャーデがあんなにオッサン顔なんだとは知らなかった(爆) ウェルザー=メストは振ってたけど、振ってないっつーか、結構オケに任せてた所が多くて。まぁニューイヤーなんてそんなもんだろうけど。リストのメフィスト・ワルツくらいが「本気のウェルザー=メスト」という感じで。 明日は「トリスタン」.....行けるのか?
2011年01月03日
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