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サントリーホール 18:00~ 1階右隅 モーツァルト:「後宮からの誘拐」序曲 / "あらゆる苦しみが" "悲しみが私の宿命に" ドニゼッティ:「ロベルト・デヴリュー」序曲 「ランメルモールのルチア」狂乱の場 ロッシーニ:「ウィリアム・テル」パ・ド・シス ドニゼッティ:「ルクレツィア・ボルジア」"私の願いを聞いて~彼は私の息子でした" トマ:「レーモン」序曲 ベッリーニ:「清教徒」狂乱の場 ポンキエッリ:「ラ・ジョコンダ」時の踊り ヴェルディ:「椿姫」"そはかの人か~花から花へ" <アンコール> バーンスタイン:「キャンディード」"きらびやかに着飾って" J.シュトラウスII:「こうもり」"田舎娘の姿で" ソプラノ:エディタ・グルベローヴァ 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アンドリー・ユルケビッチ 今日はルチア。これに尽きます。 そもそも、今日のプログラムは、グルベローヴァが歌うのは僅かに5曲。しかし、この5曲がとんでもない。ルチアとエルヴィーラの狂乱の場に、ルクレツィア・ボルジアも内実は狂乱の場。それに後宮のあのアリアと椿姫。これをプログラムに組む人は流石に空前絶後なのでは。いや、探せば、サザーランドとか、こういうの組んでるかも知れないですけど、デッセーとか、組まないと思いますよ。というかはっきり言って無茶。これはもう「コロラトューラ・アリア集」みたいなCDと同じ。それを生でやるかと。 案の定、予告無しで後宮のアリア「あらゆる苦しみが」は「悲しみが私の宿命に」に変更。ただ、これ、どうやらNBSの間違いだったのではないかと。 というのは、会場に張られていたプログラム表にも「あらゆる苦しみが」と書いてあるし、売り物のプログラムもそうなっている。で、解説も、間違い無くそのような内容に。ところが、プログラムの外語表記は、"Traurigkeit ward mir zum Lose" となっている。一方、通常「あらゆる苦しみが」とされるのは、このアリアの後の "Martern aller Arten"。 ....ケアレスミスにしては大き過ぎると思いますけどね。 とかいうことを経て、アリアでは2曲目のルチア。 私がグルベローヴァを生で聞いたのは、1992年が最初なのですが、その頃にして既にグルベローヴァは全盛期を越えていたと言われています。じゃぁいつが全盛期なのかと言われると、流石に諸説あるようですが、まぁ1980年代末頃が最盛期ではなかったかと。だから私は最盛期は直接には知らないのですが、その頃のグルベローヴァと比して、今日は85%か90%、まぁそれよりは少し下るかな、というくらい。正直、そのくらい凄かった。 じゃぁその頃はどうだったかというと、簡単に言うとこういうことです。 - 裏声や叫び声で処理せず、実声でアクートもコロラトューラも歌い切る - 最高音から低音まで、同じ声質でポジションチェンジを感じさせずに歌い通す - フォルティッシッシモからピアニッシッシモまで駆使し、等質且つ隅々まで行き渡る - フレージング等は完璧 で、今日はどうだったかというと、全体的には安定感は欠いていました。ポジションが上がってるな、という感じの歌い方だったし。ただ、それを技術で補って処理していた。もう、ピアニッシッシモを響き渡らせる、という風には行かなくなってしまったけれど、可能な限りデュナミークを調整して、振幅はあるけれど歌のフォルムを維持して聞かせていた。 その上で、最大限のパフォーマンスを見せたのがルチア。ファルセットや叫び声は最大限回避して実声で支えきった。流石にもう等質とはいかないし、ぎりぎりの所で支えているという緊張感はあったけれど、ここというところにぴしっと決めて来る。声量はまだしも、声質の衰えは明らかだし、それ故に余裕の無さは如何ともし難いけれど、持てる全てでカバーし切った。その結果の89%くらいの出来、だと思います。そこらの歌手の89%ではない。最盛期のグルベローヴァの89%、というのは、依然として圧倒的。今、これだけ歌える人は居ないでしょう。正直言ってここまで聞けるとは思わなかったです。 最後の最後、伸ばし切って綺麗に〆て欲しい所、叫んで切り上げてしまったのは、もうぎりぎりの所での処理だったのでしょう。あれが無ければもう表現の違いレベルの差でしかない、という所だったと思いますが、そこはまぁご愛嬌というもの。 実のところ、ルチアに比べると、他は一段劣るかなと。逆に言えばそれだけの覚悟で臨んだルチアだったのだと思います。今日はこれさえ聞ければもう御の字。そういう出来でした。 とはいうものの、他もなかなかこのレベルでは聞けないよね、という出来映え。最初の後宮のアリアは、技巧がどうこうというより歌の良し悪しが問われる所なので勿論問題なし。敢えて精彩を欠いたとすればルクレツィア・ボルジアくらいで、後半はエルヴィーラもヴィオレッタも、ルチアには譲るにせよ、いいもの聞かせて頂きました、といったところ。 アンコールの2曲は定番になっているので最早言うに及ばず。まぁ、性格的なショーピースみたいになっているのでこの2曲なんでしょうけれど、たまにはアデーレでも2幕の方を歌ってくれないかな~、とか、どうせならロザリンデの方、チャールダッシュなんか歌ってくれないかな~、とか、思わなくもないのですが、まぁそれは贅沢か。 今回、ロベルト・デヴリューは平日のは聞いていないし、先週の福岡も勿論聞いていないのですが、聞いた中では今回の来日の中で最高の出来だったと思います。ここまで聞けるとは、の上を行く、これが聞けるとは!という内容。 それにしても最近のお客はどうしてああいう風にすぐ立つようになっちゃったのかね。昔だったらアンコール2曲目くらいじゃ立ちもせず、さぁここから、みたいなところだと思うんだけど、今じゃプログラム分が終わるや立ち始めるってのは。まぁ、気持ちが分からない訳ではないけど.... でもまぁ、今は、リサイタルっていうとこんなもんじゃないし。狂乱の場3本に椿姫と大曲揃い、今時こんなプログラム組む人は殆ど居ないでしょう。そもそも、プログラムだけで実質2時間以上懸かってるリサイタルというのは確かに最近じゃ珍しいし。ちょっと特別過ぎる存在になってしまったのかも知れないですね。 グルベローヴァ自身、ここまでのプログラムはそうそう組んではいないのではないかと思いますし。海外でリサイタル聞いたのは、5年くらい前に一度だけあったけれど、その時はもうちょっと無難なプログラムだったし。それでも相変わらず他の追随を許さない内容でしたけれど。 しかし、未だこれを歌うグルベローヴァ、一体いつどうやって引退するんだろ.....想像がつかなくなってきました。
2011年10月10日
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新国立劇場 14:00~ 3階正面 初日から1週間、3日目を観てきました。今回2回目にして最後。 基本、初日と変わらなかったかなと。 トロヴァトーレというオペラは、ヴェルディ中期の作品の中でも、際立って構造的なオペラだと思います。構造的というか、音楽や幕・場の組み立てが作品の骨組み、屋台骨になっているということ。まぁ、正直、粗筋がぐだぐだで、各場面の間の連続性が薄いので、そんなもんでもないと舞台が構成出来ないというところでもありますが。 そういう意味では、同時期のオペラとして並び称されるリゴレットや椿姫と比べても、音楽のシークエンスがとても分かりやすく出来ている。ただ、シークエンスが分かりやすいことに意味がある訳ではなく、そういう構造にかなり独創的な音楽を放り込んでいるところに意味がある。というより、破綻した粗筋に破天荒な音楽を放り込んだ、それをなんとか統合しているのが骨組み、こういう言い方の方が当たっているのかも知れません。 シューベルトの器楽曲なんかにも言えるのですが、ともすれば枠を超えた音楽をなんとか構造の力を借りて形式の中に押し込んで楽曲として成立させる、という作品はしばしば見られます。 こういう作品はそれ自体がもう十分劇的なものになっているので、放っておいてもきちんと演奏すればもう十分で、余計なことをしない方がいい、というパターンが多いと思います。放っておけば、というのは勿論言葉の綾で、放っておかないで演奏しなけりゃいけないんですが、大抵、演奏する側が小手先で表現を捏ねくっても碌なことがない。きちんとした演奏を突き詰めることを指向すれば、まぁ大体いろんなものが自然に付いてくる。そんなもんだと。 で、今回の公演ですが、悪くはないんですが、こういう意味では王道ではないんですよね。リタルダントしたり、フレーズに手を加えて、表現を追求する。やりたいことは分かりますが、むしろ、このオペラでは、形式の中に押し込まれた音楽の流れ、力を削がないようにしてやれば、後は演奏者の実力に応じていろんなものは勝手に付いてくる、そう思うのです。 でも、いろいろやってしまう訳ですよね。それは歌手も同様で、非力ならば非力なりに一気呵成に行ってしまうのがいいんじゃないかと思うんですが、なかなかそうは出来ないんでしょうね。 今日もルーナ伯爵以外はどうも小手先に意識が行ってしまった感じで、あまり居心地よくは無かったかな、と。それ以上に、やはり指揮者でしょうね。前後半それぞれ1時間強、一気に行ってしまう拙速さこそが、むしろこのオペラでは大事じゃないかと。 その意味では演出にも問題はあって、舞台転換に時間を使い過ぎる。普通であればあまり問題のない時間ではありますが、トロヴァトーレの場合は、流れを切りたくないと思います。もし流れを切らざるを得ないならば、切り方も考えるべき。例えば第1幕、1場と2場の間、わざわざ暗転させるならば、「レオノーラの部屋」は暗転したままで持って来られるようにした方がいいし、安全上などの問題でそれが難しいのなら、某か手を考えるべき。どうせ切るなら思い切って幕を下ろしてしまってもいいんだし。 今回の演出についてもう一つ評価が上げられないのには、こうした丁寧さの欠如もあります。アイディアが色々あるのは分かるんです。2幕1場の戦場の場面は、明らかに日本の戦国時代に出て来る旗指物が林立しているし、3幕2場の背景に聳える木は満開の桜の花で、日本人ならばそれが示す死への暗喩までも含めて読み取ることは可能。ただ、そうしたアイテムが、場面場面では印象的でも、全体としてはとっちらかった印象になってしまうのです。それが残念。
2011年10月09日
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新国立劇場 14:00~ 3階正面 マンリーコ:ヴァルテル・フラッカーロ レオノーラ:タマール・イヴェーリ ルーナ伯爵:ヴィットリオ・ヴィテッリ アズチェーナ:アンドレア・ウルブリッヒ フェルランド:妻屋秀和 イネス:小野和歌子 ルイス:鈴木 准 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:ピエトロ・リッツォ 演出:ウルリッヒ・ペータース もう先週の話で、2回目を観に行く前に書いているという..... シーズン初日。別に狙った訳ではなくて、休日公演を狙うと初日と中日しかないからなのであります。本当は初日はあまり取りたくないんだけど、仕方ない。 演目が演目なので、何度行っても飽きない所ではありますが、平日が多いのは如何ともし難し。重ねてサロメを打つからだと思うのですが。同じ東フィルではあるけれど、わざわざ被せる理由がよく分からない。まぁ、色々お家の事情があるんでしょうけど。 正直、初日ということも併せると、こんなものかなぁ、といった感じでしょうか。 取り敢えずまぁ良かったかな、と思うのはルーナ伯爵。ちゃんと歌ってますよ、声も出てますよ、てなところかと。ただ、上手いか?と聞かれるとちょっと悩ましい。大体が自分も低声好きだし、バリトン役は取り敢えず聞こえればそれなりに映えるものではあるし... 一方その他が歌えていないかというと、そこまで言うほどでは無いとは思います。ただ、正直「こんなものかな」という感じだったのも事実。演目が演目だし、マンリーコやレオノーラは歌えるだけでも御の字、という話ではありますけれど、やはり手札を全部使い切ってます感は否めない。なんとか支え切りました、細かい所は勘弁してね、てなところでしょう。これは、回を重ねる毎にこなれる、というのとはちょっと違うかなぁ、と。 そういう意味では、オーケストラも含めてある程度完成してはいると思います。これは初日にしては予想外。 ただ、指揮に関してはかなり癖のある行き方。昔の、インテンポなんて知ったこっちゃないですよ、という感じに自由にテンポを変化させてくる。揺らす、リタルダントする、というのとはちょっと違って、ここ、という所でぐっとテンポを落としてくる。 そういう行き方としては、割とコントロールの出来た演奏ではありますが、これはどうなんだろう。確かにここでこう、というそれぞれの判断は的外れではないけれど、個人的にはこうはっきりメリハリ付けられると、若干違和感を覚えるのも確か。あまり好きではない。 演出はもっと癖がある。というより、あまりいい演出とは思いません。 ト書き通りではないけれど、今時としてはむしろ保守的な方ではないかという演出。読み替えなどはせず、ただ、先代の伯爵か何かを模していると思しき、死神だか亡霊だかが狂言回しのように舞台をうろつくというもの。全体を覆っているのは死の影であり、最終的には死が勝利する、という、なんというか、ゴシック調のオカルトチックな演出。 実に多くの細かい芸が配されていて、正直言うとそれがちょっと煩わしい。2幕、マンリーコがレオノーラを攫っていく幕切れは、大抵は多勢のマンリーコ側に抑えられて切歯扼腕するルーナ伯爵、というのが一般的なのが、この演出では両者入り乱れての大乱闘で死者続出、イネスは剣を抜いてレオノーラを追おうとするルーナ伯爵を押し止めて剣が刺さり絶命。いやそりゃあんたやり過ぎじゃないの?といわんばかりに人がよく死ぬ。 幕間に字幕に映される詩?といい、ちょっとどうかしらん。死の影が濃い、というのは理解はするけれど、あまりいい演出ではない、というより、個人的にはそんなに人が死ぬのに魅了されているのかお前は、と突っ込みたくなるような感じ。生理的に違和感があるなぁ、といった所かと。 言い換えると、今時の「問題投げっ放し」の半端な演出よりはよほどまとまってはいるけれど、これは好き嫌いが出るんじゃないか.... と思って、これは指揮と演出はブーイング来るな、と思っていたら、殆ど無し。 あれ?そうなの?とちょっと拍子抜け。いや、期待していた訳ではないし、自分はブーイングものとまでは思わなかったけれど、これでいいんだ?
2011年10月08日
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今更リンクを張る必要もないでしょう..... 8月にCEOを引退した時も、今回もそうだったのだけれど、IT系の記事で「ジョブズの功績」みたいな話にあって、殆ど触れられないのが、iTunesなんですよね。 で、一般紙の記事なんかでは、iTunesによる「音楽配信事業」を挙げるのだけれど、それもちょっと違うんじゃないかという気がするんですよね。 正直、今や私はディープなAppleユーザーなので、バイアス掛かってるのは間違い無いと思うのではありますが、それにしてもやっぱりAppleはこの10年間で大変な成功を収めたのだと思うのです。 その主要因は、やっぱりiPod・iPhone・iPadだと思うのですが、この成功の最大要因がiTunesだと思うのです。成功要因は2つ。iTunesを早い時期からWindowsにも対応させたことと、iTunesを変えなかったこと。 iPodが初登場したのは2001年らしいのですが、正直その頃「MP3プレーヤー」というのは、マニアックなギミック、という位置付けを大きく出ていなかったと思います。理由は、使い勝手というか、存在そのものが不透明だったから。まだ10年前には、MP3プレイヤーというと、一部の家電メーカーなどが出していた、著作権保護でガチガチに固めていたものと、怪しげなメーカーが出していた、著作権?そりゃ使う人の問題です、的なものしかなかった。しかも、容量には限界があって、SDメモリなんかを使って、256MBも容量があればかなりのものだった。でも、今も昔もMP3の圧縮率に変わりはないので、CD10枚もリッピングすればそれで一杯になるし、ネットで音源を入手、と言えば、著作権がグレー、というのがよくあるパターン。 で、iPod。iPodが革新的だったのは、難しいこと言わずに「これが新しい音楽の聞き方です」とばかりに、CDはMP3化してプレイヤーに保存するものでしょ、と言い出したこと。そこでiTunes。確か、初期のiTunesの使い勝手は、他の家電系メーカーのソフトと大差無かったと思います。Appleが偉かったのは、そのiTunesを、バージョンアップはしながら、ずーっと同じiTunesとして使い続けていること。もう一つは、早々にiTunesをWindowsに対応させたこと。これは、アップルとしては英断だったと思うのです。だって、それまでの5年10年の間、Apple最大の商売敵はMicrosoftだったのだから。 でも、その結果として、iPodはMac以上に普遍性のある商品になることが出来た。iTunesは出来ないことが沢山ある、と言えるけれど、でも、何も考えずに使いたいと思えば、本当に簡単に使えるのも事実。それが、基本はあまり変えないままにここまで来られた。iPodを持ってる人、持ったことのある人のパソコンには、それがWinであれMacであれ、iTunesが入っている可能性が高い。 で、iPhoneが成功したのには、色々理由はあるけれど、iTunesが敷居を低くした、というのが間違いなくあると思うのです。だって、昨日まで使ってたiPodと連携してたiTunesで同じように操作出来るんだもの。 iPadも同じで、そのままiTunesで連携が取れる。まぁ、使い方を考えると、iPadの場合、iTunesでの連携だけでは色々不足はあるんだけども。 ともあれ、iTunesが無ければiPodもiPhoneもiPadも決して成功しなかった。 iTunesで音楽を買う、というのは、一つのスタイルではあるのだけれど、それ以上にMP3というフォーマットに市民権を与えたのがやっぱり大きかった。著作権を保護する為の方策は、他社でも導入していたけれど、iPod系のやり方は、iTunesでなければ使えないよ、管理もこのソフト上でやるよ、というのを徹底して、その代わりその枠内で使う限りではユーザーはとても楽が出来るようにした。 このやり方は好き好きはあるし、ある意味顧客をコントロールしているのでもあるけれど、でも、これに乗っかってしまうと、とても楽な訳です。どちらを是とするかは考え方によるし、個人的にはあまり好きなやり方ではないのだけれど、でも、その代わり、とても楽に使えるようにした。これも間違い無いと思います。 少なくとも、MP3プレーヤーと言えばiPodと同義語に思われかねない程度には普及させたのは確かだと思います。その功罪は色々あって一筋縄ではいかないけれど、音楽の聞き方を変えたという意味では、間違い無くウォークマンと同程度にはインパクトがあったのだと思います。ウォークマンで音楽の聞き方は変わっても商売のあり方までは変わらなかった。でも、iTunesとiPodは、音楽産業の構造それ自体を変える一因になったのだと思うのです。良し悪しはともかくも。 だから、個人的には、AppleはiTunesのコンセプトさえ踏み外さなければ、当面は安泰なんだと思います。幾らiPhone4Sが目新しさが無いとか言ってみても、今更iTunesから何かへ乗り換える面倒臭さを本当に乗り越えられるものかどうか。だから、Android買っちゃった人は、多分、iPodのどれかを買ってしまうんじゃないかと個人的には思うのです。これがジョブズ最大の仕掛けだったんじゃないかな、と。まぁ、ああいう業界だから、何が起きてひっくり返っても不思議は無いんだけど。 R.I.P.
2011年10月06日
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東京文化会館 15:00~ 5階右側 ほぼ一週間おきにグルベローヴァ様を聞くことになります。いいペースですな~ 同じロベルト・デヴリュー、今日は東京文化会館。まぁどちらかというと、神奈川県民よりはこちらの方が音響的には聞く方もやる方もいい筈なのですが、なんとなくしっくりこない感じがするのはなんでだろう。 グルベローヴァ様に於かれましては、本日は今一つの雰囲気の御様子にて、というよりはっきり言って1幕は「これはどうなっちゃうんだろう」という感じ。安定感が無いどころか下が出ないと言った方が良かったか。それをなんとか持ち直したのは流石ですが、全般的には神奈川県民ホールでの方が良かったかな、と。横浜では、片鱗ながらも「満場に響き渡るピアニッシモ」を垣間見せてくれましたが、今日はそこまでとは。神は死んだのか............ とはいえ3幕幕切れの歌唱では今回の方がドラマチックだったかなと思うので、その分盛り上がりは凄かった。やはり神は最後に宿る..... ただ、まぁ、それとこれは別の話でもあって、やっぱりしんどいですね、そろそろ。毎年そう思いながら来ているのだし、振幅の度合いはあるし、だからそう悲観したものでもないのだけれど、かなりいろんな所で無理が出るようになりました。やっぱり、下が苦しくなってきたのと、息が続かないのと、この辺はやっぱり一直線ですね。傾きは緩やかなれど、流石にもう戻らない。出しにくい所があれば表現は限られるし、ブレスも思うようにはいかない。それでもまだこれを歌えることが驚異ではあるけれど。 まぁ、最初から分かってるんだけどね。 サラ役のソニア・ガナッシは今日の方が断然良かった。安定感が増してきました。それはロベルト・デヴリュー役のドルゴフも同様。この辺は歌い込んだ結果、なんでしょうか。他は厳しいかなぁ........まぁ、そう言っちゃなんですが、元々他のキャストに多くを求めてはいないので、このくらい出来れば、という感じではあります。 演出は、やっぱり好かないなぁ。この謎の現代風の舞台は、やっぱり「だからなんなんだ」という気がします。必然性が伝わって来ないのよね。或は、全然イングランドと関係無い舞台設定を組むことによる某かの配慮?むー。 それと、オペラは史実と全然違うと分かってはいるけれど、この演出でのジェームズ6世の扱い方はやはりちょっとね、と思います。無駄にスコットランド贔屓の私としましては、ジェイムズ6世への王位継承(王位継承して初めてイングランドとしてはジェイムズ1世)は、スチュアート王家でもっとも王位継承に本来近かった、ある意味それもあって当のエリザベス一世が処刑執行書にサインせざるを得なかった、マリア・スチュアートの継嗣としてのそれであり、ついでに言えば継承した際既にジェイムズ6世はスコットランド王、それも突っ転ばしの青年などではないのでありまして、ちょっとこの演出の「イングランド貴族の傀儡」的な扱いには承服しかねるのであります。 .........まぁ、どうでもいいか.....(笑)
2011年10月02日
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江東区森下文化センター 多目的ホール 19:00~ 休みだけどどうしたものか、とつらつら探していて見つけたので、お邪魔してきました。ソロだし、自治体系の主催とあって安かったし。 主催は「公益財団法人江東区文化コミュニティ財団 森下文化センター」。長い... 概ね年に一回ほどのペースで、ジャズやポピュラー系の人を呼んでライブをやっているそうです。今年で開館20年だそうで、山下洋輔は今回が2度目だとか。でも本人はあんまりおぼえてないんだけど、なんてMCで言ってましたが。 セットリストは以下の通り。 I will remember April やわらぎ Dear M Triple Cats Night in Tunsia ------------------------- エレジー Chat in a dream Memory is a funny thing 仙波山 ボレロ <アンコール> 枯葉~ ? (メドレー) 山下洋輔も久し振りで、前回は3、4年くらい前にオーチャードでやったコンサート以来かと。ソロでじっくり聞くのはいつ以来だろう? もうとっくに還暦を過ぎて、今おいくつでしたっけ?というお歳ですが、流石に往年ほどの大暴れという感じではありませんですね。肘打ちは健在でしたけど、ピアノ、壊れないし....(苦笑) 正直言って、大人しめになった感じではあります。今回はソロだからよりフリーではあるけれど、いわゆるフリージャズじゃないし。何処に行くかわかんないというスリルはあるんだけれど。 むしろ落ち着いて聞いていられる心地良さがありました。それはどうなんだ、という話でもあるのだけれど(苦笑) まぁ、お客さんも、地元のおっさんおばさんなので、過激さに於いてはやや抑え気味だったのかも知れないですけれど。今月、モーションブルーでトリオをやるので、それも楽しみではあるのですが、行けるんだっけか.....? 最後のアンコール、枯葉からメドレーでもう一曲、まぁ合わせて一曲くらいの長さだったのだけど、あれなんだっけなぁ。聞き覚えはあるんだけど、曲名が分からない..... まぁ、面白かったです。もうちょっとスパイシーでもいいかな。それと、やっぱり、ソロで聞くと、より一層面白いですね、この人は。抽き出しの多さが興味深い。特に、抽き出しに色分けがあまりなくて、たとえば「これはラテン」とかパターン化してない分、やっぱり面白いと思います。それがソロだとリミッター無しに発揮されるんですよね。御本人はきっとしんどいと思うけれど....
2011年10月01日
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