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新国立劇場 14:00~ 2階右脇 アイゼンシュタイン:ヨハネス・マーティン・クレンツレ ロザリンデ:ノエミ・ナーデルマン アデーレ:オフェリア・サラ オルロフスキー:エリザベート・クールマン アルフレード:大槻孝志 ファルケ博士:マルクス・ブリュック フランク:ルッペルト・ベルクマン フロッシュ:フランツ・スラーダ 新国立劇場合唱団 東京シティ・バレエ団 東京交響楽団 指揮:アレクサンダー・ジョエル こうもりは、年末年始に都合3回聞きました。 そのせいもあるけれど、やはり、ちょっとこれは....... ウィーンの国立歌劇場では、こうもりは大晦日と元旦にしか上演しません。少なくとも今は、もう1回くらいやるようだけれど。フォルクスオーパーではこういう縛りは無い。何故か?それはこうもりは「オペレッタ」だからです。敢えて言ってしまえば、オペレッタは国立歌劇場でやるようなものではない。 こうもりだって、他のオペレッタだって、ウィーン以外の地ではそういう理由で「上演しない」ということはありません。ベルリンですらそうでしょう。それは、ウィーンという土地が、フォルクスオーパーという劇場を持っているが故のこと、と言ってもいいのだと思うのです。わざわざ、オペレッタの類いを国立歌劇場でやる必要は無いだろう?というところでしょうか。 その国立歌劇場で、しかし、わざわざこうもりだけは大晦日と元旦には上演する。それも、大晦日のこうもりは、位置付け的にはプレミエに近い。これは、年に一回のお楽しみ、お祭りなのです。 だから、演奏する方は徹底的に楽しみ、楽しめるようにする。そのように演奏することに迷いが無いのです。これは音楽としての遊び。だから、その楽しみをしゃぶり尽くせるように演奏する。そういう、一種の割り切り、と言って悪ければ思い切りのよさがあるのです。ウィーンでなくても、それは同じ。割り切った上での突き抜けた面白さがなくてはつまらない。それは、演出やさもありなんのギャグで生まれるものではないのです。演奏する側の覚悟と、それを支えられる技術が必要なのです。 ええと、つまり、これがダメダメでね....... 東響は指揮者共々壊滅。上手い下手の問題ではなく、こうもりとはなんであるか、分かってないんじゃないだろうか。特に弦がまるで色気がありません。演奏自体も、妙にダイナミズムが中途半端で、活気の感じられないもの。正直今日はあまりいい位置で聞いては居なかったけれど、4階あたりと較べてそう酷くもないと思うし。こんなこうもり、こんなポルカ、聞いてもつまらない。こうもりは、オケの演奏が出来の半分を左右してしまいますが、これではもう..... それと、打楽器が悲惨。リズム楽器が全然リズム感 - インテンポで1234 1234という話ではない、どう演奏すれば色気が出るか、歌になるか、というレベルで - が出来てない。その上、時々歌手と合わなくなってる。歌手の方に問題無しとは言わないけど......普段ここまで酷くないと思うけれど、今日は最悪。勿論指揮者も悪いですけどね。 歌手もかなり悪い。確か以前は、ブレンデルとかが出ていて、それはそれなりに充実していたと思うのだけど、今回はそこまでの歌手ではない。それは仕方無いのだけど、この歌手陣がさっぱり。第1幕は全然声が出ていなかった。 第二幕以降ももう一つ。いい、と言いたくなるレベルではなかった。それなりによかったのは、オルロフスキーくらい。主役3役はダメダメ。特にアデーレは歌い切れてなかった。この人、以前ゾフィーを歌ったらしいけど、今当時の記事を読み返してみても、概ね「悪くはなかった」という感じですね。今回ははっきり言って良くなかった。アイゼンシュタインがまだマシかな、一応歌ってたし。ロザリンデはそれよりは良くない。 アルフレードはバカみたいなでかい声だし(まぁ、役には合ってるんだけど)、フランクは割と歌えてる方だったけど、フランクが良くてもねぇ。 とにかく、こうもりを聞く、という楽しさがじぇんじぇんないので、救い様がないのですよ。 演出は、確かに前回同様。ついでに言えばウィーンあたりでの演出と同一。ギャグまで一緒。日本オリジナルなのは、日本語アレンジして入れているくらいでしょうか。1幕で「出前」を取らせたり(ウナギだのシャブシャブだの言ってるし)、フロッシュが飲んでるのは「焼酎」だし、アルフレードが契約しているのが「シンコク?!」と聞いて慰めるとか(慰める件はウィーンではフォルクスだったりシュターツオーパーだったりする)、まぁ頑張ったのは分かるけど、それだけじゃ救われないんですよね。むしろ煩く感じるくらい。 独自の工夫では、今回、チャルダッシュの後に「ハンガリー万歳!」のポルカを入れたこと。これは前回無かったし、やはりニューイヤーコンサートで取り上げられた為でしょう。ここにバレエを入れて、狭い舞台全面で踊らせたのは、まぁ頑張ってるなと。ただ、その後の「雷鳴と稲妻」でのバレエはちょっと良くなかった。むしろ、舞台奥で踊ってる独唱&合唱陣の方が面白かった。 オケがねぇ.......もうちょっときちんとやらせれば良かったんじゃないかと思いますけどね。 点が辛くなるよな、と、自分でも思ってたけど、これほどとは.....
2009年01月31日
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久々に掃除をしました。 行かなかった公演のチケットが残ってるのを数えてみました。 ひぃ、ふぅ、みぃ..........................ダメじゃん....(涙) 行かなかったのには色々理由があるんですけどね。忙しかったり、急遽予定が重なったり、風邪引いてたり......仕方無いとは言いながら........ 人に譲るほどのものでも無かったりして、無駄にしてしまったのがあるもんだなぁ、思い返せば。 既に今年は予定変更で行けなくなったのとかで出てしまってるし。 もうちょっと神妙にしなくては....
2009年01月30日
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というわけで、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009のフレンズ会員先行発売が2月21日から受付されるようです。 というのをチケットぴあのサイトのアナウンスで知るっていうのは、フレンズ会員としてどうなんでしょう.....メールでのアナウンスはまだないですね.... 肝心の公演内容もまだ出て来てないですし。どうなるんだろう?例年からすると、2~3週間前にはオープンになってたと思うのですが。
2009年01月28日
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ザ・ミュージアム 日曜日、がっかりなコンサートの後、同じBunkamuraの美術館、ザ・ミュージアムへ。「ピカソとクレーの生きた時代」展。ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館の改修に伴い、収蔵品を大放出(貸出しだけど)、という触れ込みです。 うーん。最近のザ・ミュージアムの企画は、耳目は惹くけどいまいち、というパターンが多かったのだけど、そういう意味では、最近ではいい方だったのではないかなと思います。売り物のピカソは、6点といえど大作もあったし、パウル・クレーの方は、小品が主とはいえ全部で27点。その意味では、最近に無く力が入っていたと言えなくもない。 でも、思うに、どっか喰い足りなさが残るんですよね。企画に対する投資可能額の限界なのか、はたまた会場そのものの広さの限界なのか、いずれにしても「もうちょっとあるといいのに」感が拭えないのであります。まぁ、全ての美術館がルーブルみたいに大きかったらいいのに、みたいな話になりかねないので、限界は当然あるんですが。 表現主義>キュビスム>シュルレアリスム>カンディンスキーとクレー、という流れの中で、実は結構惹かれたのが、キュビスムの中にぽつんと継子のように置かれた、ジョルジュ・モランディの静物画。セザンヌの影響を受けたとかで、でもその絵は極めて正統的な静物画の系統で、デッサンはあるのに色使いが柔らかで独特。暴力的とも言えるような絵の中にこういうのが場違いのようにぽつんと置かれると、却って印象的ではありますね。 今回の展覧会でカバーしてる範囲の絵というのは、結構あちこちの美術館にもあったりしまして、マグリットなんかは横浜美術館にも大きいのがあるし、珍しくないとも言えるんですが、こうやってまとめて、しかも普段観られないものを観られるのは有り難い。 全体としてはクレーが充実していた、ということになるのかな。 まぁ、久々に満足出来た方の展覧会でしょうか。会場そのものの限界も、見方を変えれば「程良いサイズ」ということにもなるので、悪くはないのでしょう。その割には入館料高いよねぇ、という話でもあるのですが..... もう2ヶ月ほど続くようです。
2009年01月26日
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オーチャードホール 15:00~ 3階左手 モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 「ジュピター」 R・シュトラウス:「薔薇の騎士」組曲 「サロメ」より "7つのヴェールの踊り" 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:ペーター・シュナイダー 率直に言って、がっかりな演奏会でした。まぁそもそも、定期演奏会でまとめて買っているから聞きに来たので、でなければ多分来ていないのですけども。 モーツァルトの41番が前半。後半はR・シュトラウスのオペラからの選曲、但し声無し。これが実に中途半端。モーツァルトからR・シュトラウスに繋がる線についての云々は、取り敢えず措くとしましょう。しかし、選曲がよくない。 正直、私、R・シュトラウスの管弦楽をそれほど好いているという訳てはありません。だからといってコンサートに掛けてくれるなというつもりもありません。けれども、曲は選んで欲しいのです。 誤解を恐れずに言うなら、R・シュトラウスのオペラは、管弦楽曲として決して優れているとは言えないと思います。オペラの中にあるからこそ聞けるという面があったりする。これは別にR・シュトラウスに限った話ではないですが、あるオペラがいいものだとして、その一部分を切り取って演奏すればやはりいいかというと必ずしもそうではない。 今日演奏された演目は、そういう種類の音楽です。いい例が、「薔薇の騎士」組曲。この組曲の中には、あの第3幕幕切れ前、元帥夫人、オクタヴィアン、ゾフィーの3人による3重唱の旋律が出て来ます。今日の演奏ではどうだったかと言えば、まぁ相応に聞かせる演奏にはなっていました。でも、あの場面、あの音楽は、あのオペラの中の第3幕で、色々あってのストーリーがあって、その上でこの3人が歌うからこそ感動的、という面があるのです。それを、そうした所から切り離して持って来て、オックス男爵のワルツなんかと繋いで聞かされることが、音楽としていい、と感じられるものか?少なくとも私にはそうではなかった。それに、あのオペラを知る者ならば、あの音楽を聞いた瞬間、「その場面」を頭の中で想像しながら聞いてしまうでしょう。つまり、この音楽は「触媒」になってしまう。そういう楽しみ方もあるかも知れないけれど、それはコンサートとしてはちょっと歪んでるでしょう。 「サロメ」の "7つのヴェールの踊り" もそう。決して悪いとは言わないけれど、この音楽も、それだけ取り出してみた時、それほど面白いと言えるのか。 まぁ、こうした音楽を、プログラムの中の、一種のアクセントなりとして使う分には、まだいいかと思います。でも、今回のプログラムで言えば、これはメインディッシュに近い扱われ方をしている。それは、ちょっと、無理があるんじゃないだろうか?全体バランスとして、極端に言えば「オペラ本編の代わりの音楽」をメインに据えるというのはどうなんだ、と。R・シュトラウスのオペラの断片には、ワーグナーと違って、それだけで音楽として屋台骨となろうというだけの力は無いと思います。これが、3重唱を歌手込みでやるとか、そういうことならまた別なのだけれど。 指揮は、ワーグナー指揮者として有名なペーター・シュナイダーだったけれど、このプログラミングは、指揮者のせいなのかオーケストラの都合なのか、何れにしても感心出来ません。てーか、どっちもこんなプログラムで受けるなよ....... 一昨年の新国立劇場の「薔薇の騎士」で来日していますが、当時の自分の感想では、要するに、色艶が足らん、柔らかくない、という所だったようです。ああ、なるほどねぇ..... で、今回は、と言えば、正直、R・シュトラウスに関しては、この曲目では評価のしようがないかなぁ。強いて言えば、悪くはない、ってとこですかね。指揮者のステータス故か、結構ブラヴォーが飛んでたようだけれど、あの音楽でそんなに感動するものなのか。ちょっと不思議。 ただ、前半のモーツァルトについて言えば、感心出来ませんでした。自分の点が辛いもう一つの理由は、これ。 モーツァルトの41番、ジュピターを前半に置く、というやり方は、バランスの取り方が難しいと思います。一般に、オーケストラのコンサートであれば、前半に協奏曲を置き、後半にメインのプログラムを置く、というやり方が一般的です。その上で、それぞれの楽曲の長さを睨みながら、曲目を配置するでしょう。別にそうしなければいけない、というものではないけれど、それを外すなら、相応のコンセプトが欲しい。それが、この演目からは感じられないのです。 暴言を承知で言うなら、このプログラム、一体どの演目をやりたかったのか、さっぱり分からないのです。R・シュトラウスをやりたいのか、それともモーツァルトをやりたいのか。後半の曲目は如何にも軽い。ただ、音楽としては後半の方が音としても重いから、後半に置いた、というなら分かる。ただ、それにしては「軽い」のです。ジュピターはモーツァルトの交響曲としても特に音、構成等の面でも「重い」ので、前座に据えるのはかなり難しい。「でん」とメインに据えてもおかしくない。正直、R・シュトラウスに相対するなら、「リンツ」とか、せめても40番のト短調交響曲とか、そういう曲にした方が良かったと思います。よほど「ジュピターをやりたい」とでも思わない限り。 しかも、その、それにも関わらず折角据えた「ジュピター」がいまいちなのです。オーケストラがどうも微妙に揃っていない。何処かちぐはぐで、集中力の無い「ジュピター」。編成もわざわざ12-10-8-8-6と、低音重視の編成にしているにも関わらず、その低音部が弱い。低音に限らず、全体に、音は大きいのだろうけれど、全然音が迫って来ないのです。響かない、と言ってもいいでしょうか。音も表情も平版で、音をなぞっているけれど、それが音楽としての起伏を持っていない。「これがかつてと同じ東フィルか?」と思ってしまうくらい。 後半の方が、この点ではまだしもましだったかとは思いますが。 指揮者が指揮者だけに、面白かったという人は多かったようではありますが、個人的には、率直に言って、時間と金の無駄遣い、に近いコンサートでした。「ひどい」、というほどではないだけに、尚更がっかり感が募るのであります。
2009年01月25日
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仕事で忙しくて、結局蝶々夫人はパスした新国立劇場ですが(まぁあまり好きじゃないからね、あのオペラは...)、気が付けば来シーズン、2009/10年のラインナップが公表されておりました。 さて.............. ちょっと考えてしまうラインナップではあります。 まぁ、公演演目が限られる中でのことなので、無理は常にあるんですが..... まず、ドイツ・オペラが異常に多いこと。「異常」という言い方に語弊あり、と思われるかも知れませんが、「指環」を2年に渉って上演する関係上やむを得ないとしても、「魔笛」「ヴォツェック」「影のない女」というラインナップは、やはりドイツものが多い、という印象を否めません。10演目中1演目は日本語オペラをやるのを常としている以上、残り9演目中5演目がドイツ語(モーツァルトもあるにせよ)というのは、やはり多いという印象です。多過ぎるとは言いませんし、魅力が無いとも言いませんが。 一方、イタリアものは3演目。「オテロ」、「トスカ」、「愛の妙薬」。それに「カルメン」(フランスですね)という布陣。これは.....やはり、少ないと思いますよ。 歌唱陣。正直、私、最近アンテナがへたってるのは否めないんですが、それにしても、「おお!」と思う歌手が少ないと思う。ヨゼフ・カレシャ(カレヤ、だそうですが... 愛の妙薬)やトルステン・ケール(カルメン)、それに「オテロ」のキャストを除くと、キャストで耳目を引く人が見当たらない。まぁ、「指環」絡みはよく分からないんですけどね、正直。でも、例えば今シーズンの「チェネレントラ」みたいに、「これは!」というラインナップじゃない。だからダメとは言わないけれど..... 演出に関しては、再演が高くつくと言われている指環、これは再演で、その他を見ると、5演目が新演出。「オテロ」、「ヴォツェック」、「愛の妙薬」、「影のない女」、それに日本語オペラの「鹿鳴館」。「魔笛」「トスカ」「カルメン」が再演。これは、決して悪いバランスではないですね。鉄板と言ってもいい人気演目は再演で稼いで、新演出を挑戦、と言った所か。 その上で敢えて文句を言えば、やはり「イタリアオペラが少ない」「ヴェルディが少ない」の一語に尽きるでしょうか。「指環」と「影のない女」が同じ年に重なってしまったのがバランスの悪さの所以かとも思います。その上「ヴォツェック」をやるなら、こういうことになるのかも知れませんが、どうせ再演なら、或いは同じモーツァルトでも、「コシ・ファン・トゥッテ」あたりの再演でも良かったのでは。或いは、「愛の妙薬」に代えて「トロヴァトーレ」か「ドン・カルロ」あたりを再演して、モーツァルトでも「皇帝ティトゥスの慈悲」でも制作するとか。 まぁ、興行的にはこの演目は絶妙なのかも知れないですけどね。 しかし、「鹿鳴館」、池辺晋一郎作曲......ちょっと.......なぁ...... オーケストラですが、10演目中東フィル7演目、東響3演目。しかも東響の3公演は「魔笛」「影のない女」「鹿鳴館」。これは、やはり東フィルへの傾斜傾向継続と考えていいのかな? 指揮は、「指環」のダン・エッティンガーと、「ヴォツェック」「影のない女」の若杉弘が目立つ程度。微妙...... まぁ、そう言いながら買うんですけどね。
2009年01月20日
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NHKホール 15:00~ 3階右側 ウェーベルン:パッサカリア マーラー:交響曲第10番 ~アダージョ R・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラ斯く語りき」 指揮:デヴィッド・ジンマン 先週に引き続きN響です。ジンマンがなかなか良かったので、Cプロも聞いてみようと急遽参戦。結局この日はダブルヘッダーとなったわけです。しかも理論上間に合わない形に。 お目当ては最初のウェーベルンなので、後もあったし前半だけで帰る手もあったけど、つい最後まで聞いてしまいました。結果は....うーん、結果論から言えば後半聞かなくてもよかったかな? 全般に悪くはなかったけれど、先週に較べるとなんとなく集中力に欠けるというか、細かい綻びが目につきました。アインザッツが揃わないとか、音程が安定しないとかの類いですね。 別段致命的と言うようなことではないのだけど、それが気になってしまうということですから、全体的にも「悪くはなかった」以上ではなかったのかな、と。 ウェーベルンのパッサカリアは、新ウィーン楽派の中では比較的よく演奏される曲で、確かN響でも時々取り上げている演目です。で、この日の演奏は、おかしくはないんですが、どこかつんのめっているような感じがありました。一体何がどうなっているのか、フレーズが半拍、いや四分の一拍くらい早く出てしまっている感じ、とでも言ったらいいのか。本当に早い訳ではないとは思うんですけども。 悪い演奏ではなかったけれど、それが気になって.....もうちょっと落ち着いて聞ければ良かったかな。 続いての演目はマーラーの交響曲第10番からアダージョ。そう、この日の演目は、後期ロマン派、というよりロマン派末期の作曲家を集めたプログラム。 マーラーの第10番は未完に終わった作品で、作曲家自身で完成されたのはこのアダージョ楽章だけ。確か11月にも新日で聞いたのだけど、改めて、しかもウェーベルンの後で聞くと、この二人にはやはり音楽語法の上では大きな開きがあるな、と感じます。ウェーベルン自身はマーラーの音楽にとても惹かれていて、ある意味ではマーラーの後を継ぐ者と看做されてもいいのかも知れないけれど、半ば先祖返りしたかのように、一層ロマン派の語法に沈潜していくようなこのアダージョと、実際にウェーベルンが書いた作品との時間的な差は正直大きいと思います。 そういう音楽はN響の得意とする所ですね。実際、弦のウェイトが高いこの音楽、いい音色で演奏していました。今日一番良かったとすればこれではないかな? 後半はR・シュトラウスの「ツァラトゥストラ斯く語りき」。最近は「こう語った」なんですね。守旧派なので、昔覚えた通り名で参りますが。 後半、ついつい後の公演に遅れるのを承知で聞いたのは、ジンマンを聞けるだけ聞いておこうと思ったのと、「この曲」だから。皆様御存知「2001年宇宙への旅サウンドトラック」のこの曲、そういや実演では滅多に聞いてないな、と思ったので。たまにはこういうのもいいだろうし、久々にオルガンの大音響で爆裂、ってのもいいかな、と。 で。ええと、期待外れでした。多分、ジンマンとN響に非は無くて、そもそもNHKホールの3階席後方、しかも今日は中央より右に寄った所、で、大音響で圧倒される、というのを期待する方が流石に無理があった。それに、考えてみれば、ジンマンってそういう外連味のあるような演奏するタイプではないですね、やっぱり。 その上、聞く方が悪いのだけど、御陰様で滅多に聞かないこの曲、冒頭の「サウンドトラック」でもあるところのファンファーレの印象が強過ぎて、ついつい「モノリスは?!HALは?!スターチャイルドは?!」みたいな気分になってしまうのであります。その割に、本編の方はR・シュトラウスとしては結構渋いですしね。 ジンマン、今回が聞いたのは初めてでしたが、手兵でなくても意外と面白い演奏が出来る人のようですね。ただ、相性もあるのかな?先週のシューベルトのフレッシュな印象が鮮烈だっただけに、ちょっと「ムラもあるのかな」とか思ったり。まぁ、次回来たら、また聞いてみようと思うような指揮者ではありますね。
2009年01月18日
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東京文化会館 17:00~ 4階右側 オーロラ姫:イリーナ・ペレン デジレ王子:アンドレイ・ヤフニューク リラの精:イリーナ・コシェレワ レニングラード国立歌劇場管弦楽団 指揮:ミハイル・パブージン バレエを観るのは実は久しぶりです。まぁ、普段からコンサートほどには真面目に通っていないのだけど、改めてblogをチェックしたら、去年は一度も観に行ってません。実は海外に出た時に見たりすることはあるんですが、まぁ、そんなわけで、バレエについてはとてもじゃないけどいい観客とは言えません。 つい出来心で、安く出ていたチケットを買っただけなので、配役もいいんだか悪いんだかさっぱりです。まぁ、騒がれてるような人の名前はクレジットされてないようだけど、こっちもそんなわけで踊りの良し悪しまではっきり分かる訳ではないし。 とはいえ観れば観たで面白いのではありますが。 実は、今日は急遽ダブルヘッダーに仕立てたので、第1幕は思いっきり遅れて行きました。まぁ、眠りの森の美女、1幕遅れても大して悔しくはないし、東京文化会館だと1階で立見(座り見?)なので、構わないんですが。 観ていて「あれ?」と思ったのは、群舞が思いの外きっちりしていなかったこと。昔、それこそソ連崩壊直後に、旧ソ連系のバレエを観た時は、赤軍親衛隊も斯くやと思わせるような乱れの無い踊りを踊っていたように思うのですが、時代なんでしょうか。音楽とも時々ちょっとずれているような、そんな感じで。 それと、1幕の最後、幕切れでその他大勢が舞台奥の階段を上って撤収する所。なんというか、朝9時半頃JR渋谷駅外回りホームへの階段を上っていく通勤客の群れのような緊張感の無い風情で(8時半だともっと緊張感がある。9時半はもう緊張感無くダレつつありますからね)、おいおい君らバレエダンサーじゃないの?という感じ。バレエは、舞台上での所作が全てを決めてしまいますから、これはあまり頂けませんね。 ちょっと「旧ソ連のバレエ団」という印象からはズレていて、少々意外でした。 それ以外は、踊りは良かったと思います。「おおお、これは凄い!」と思わせるほどの何かはなかったけれど、流石に水準は高かったかな、と思います。 ひょっとして、と期待をしていたのは、実はオーケストラ。こちらは期待通りなかなか良かったです。 このクラスのオーケストラに期待出来るのは地力の高さですが、期待に違わずいい演奏です。 まず、パワーがある。日本のオーケストラも大きい音を出しますが、「大きい音を出す」のではなく、「地声がでかい」の類い。ある意味、繊細さはもう一つかも知れませんが、ちゃんとピアニッシモも出来る。その上で、「生来の音がパワフルで御しかねている」といった感じの演奏。 弦がいいです。弦の音が良い。弦がいいオーケストラは安心して聞けます。その上で管、打楽器が暴れ回るという構図。幕切れに向けての演奏は、さながらチャイコフスキーの交響曲のクライマックスといったところ。一歩間違うとどんちゃん騒ぎになるのを踏み止まっているのは、地力がある故の余裕のなせる技かと。 眠りの森の美女は、結構弦のトップソロがありますが、どれもいい演奏。その上で、第2幕の長いヴァイオリンソロによる間奏曲も今回は演奏。これが良かった。生で聞いたのは初めてですが、長くても飽きの来ないいい演奏です。 そんなわけで、音楽的に非常に楽しめた、お買い得な公演でした。バレエ観に行ってオケ褒めるってどういうことか、と言われそうですが、まぁ、こちらはこれが目的の半分以上なので、ご勘弁を、というところで。
2009年01月17日
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流石にこれだけ景気が悪いとなると、クラシック音楽みたいなものは影響を受けずには居られないようです。 昨年中には、まず、アイスランド国立響の来日中止が急遽決定されました。次いで、バルトリの来日公演が中止になり、東欧系のオペラハウスの来日予定がキャンセルされ、年末には、とうとう興行元の一つ、ムジークレーベンが倒産という事態になりました。 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009は、3日間の開催とのこと。これはまぁ随分前の発表ではあるけれど、やはり経済事情が影響しているのでは?と勘繰っているのですが。 東京のオペラの森は、小澤征爾のウィーン国立音楽監督退任に伴ってか、オペラ公演は全面中止、東京のオペラの森管の招集も、小澤征爾の指揮もなくなってしまいました。これは、経済事情が理由とは言い難い所ではあるでしょうけれど、必ずしも影響が無いとも言えないような..... 個別の事象をあれこれ言い募ってみても仕方無いですし、それぞれの事象に関連性があるとは言えないと思います。ただ、こうした状況が、やはりクラシック音楽というものが日本で置かれている脆弱さを表している、という見方は出来なくもないと思います。と同時に、これだけ苦しい状況でも、それを切り抜けて続けられるかどうかで、ラ・フォル・ジュルネなどの「イベントもの」の真価が問われるのではないかな、と思ったりもします。 正直、金銭面で折り合わないから来日しない、なんて話は別に問題でもなんでもないのでして。むしろ個別の興行よりも「器」である音楽祭とか、ホールとか、或いはオーケストラの運営が続けられるかどうか、それに対する理解が得られるかどうか、が肝心だと思うんですよね。(最近噂を聞かないけど、びわ湖ホールの運営方針はその後どうなっているんだろう?) てなことを思ったりしているのであります。まぁ、外野というか「お客さん」が騒いでも仕方無いでしょ、てな話ではあるんですけどね....
2009年01月13日
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聖アンセルモ・カトリック目黒教会 16:00~ 主の洗礼の祝日のミサ ヤコブ・オブレヒト:ミサ「カプト」(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ) "Parce, Domine" / "Salve Regina" (4声) グレゴリオ聖歌:入祭唱 "Ecce, advenit Dominator Dominus" 昇階唱 "Omnes de Saba venient" アレルヤ唱 "Vidimus stellam ejus in Oriente" 奉納唱 "Reges Tharsis et insulae" 聖体拝領唱 "Vidimus stellam ejus in Oriente" 他 朗誦 集祷文、イザヤ書・福音書朗読、叙唱、主の祈り、聖体拝領祈願、終祭唱 <アンコール> オブレヒト? 4声のポリフォニー合唱 ヴォーカル・アンサンブル カペラ 年末に買ってあったチケットです。東京で、プロの音楽家が15世紀のミサ曲を教会で演奏する、というのは流石にあまり多くないので、いい機会だろうと思って行ってみました。 会場の聖アンセルモ・カトリック目黒教会は、コンクリート造りの教会です。目黒駅から徒歩3分程ながら、住宅街や専門学校などに囲まれたエリアで、まぁ閑静と言っていいかという場所。300人程は入るかな?という感じの教会です。まぁ悪くはないんですが、コンクリート造りで、椅子の下にはヒーターも入っていて、と至れり尽くせりな感じ。 この、ヴォーカル・アンサンブル・カペラを聞くのは初めてです。たまたま何処かのコンサートでチラシを貰って、この公演を知った次第。丁度特段の予定も入ってなかったし。 内容は、ヤコブ・オブレヒトという15世紀フランドルの作曲家によるミサ曲「カプト」を中心に、実際のミサの形式で、入祭唱などをグレゴリオ聖歌で補い、聖書朗読等も朗誦で行って演奏する、というもの。但し、「ミサの形式」とは言いながら、実際のミサではないので、司祭が式を執り行うわけではなく、会衆による答唱もなし、勿論聖体拝領などもなし。......まぁ、こちらもクリスチャンではないので、その方が気が楽と言えば楽なんですが........ 演奏の良し悪しは........正直、こういう音楽を生で聞くことは殆どないので、判断出来ないといえば判断出来ないんですけどね。 女声3名、男声6名による、全4声の合唱ですが、非常に良く合っていて、綺麗に聞こえていたのは間違いありません。発音も悪くないと思います。十分聞き取れるものでした。 いや、実際、本当に綺麗な合唱でした。合唱のみによる演奏で、一切器楽は(オルガンも含めて)入りませんでしたが、過不足無く、会場に十分な声量で、雑味なく、将に少数精鋭という感じでした。 ただ、まぁ、素人が難を言えばですね、思うに、非常に綺麗なのはいいんだけれど、少々何かが足りないというか...............敢えて申さば、ですが、教会で、ミサ形式でやるならば、ミサですから、本来は素人である会衆が受け答えたりするし、朗誦だって日本語でやる可能性が高いと思います。(第2バチカン公会議以降そういう方針が主流になってる筈)この演奏は、如何に綺麗に演奏するか、を追求した演奏と言っていいと思います。それはそれで素晴らしいのですが。 「お前は音楽を聞きに行ったんだろう?」と言われればその通りなのですが、でも、教会で、ミサ形式で、と言われると、ちょっと違う物をイメージしているのでもあります。実際、欧州で普通にミサなどを隅っこで見学していると、今日の演奏のように綺麗には歌われませんから。その意味では今日の演奏、とても綺麗で素晴らしい出来ではあるのです。そうそう聞けるレベルではない合唱だと思います。それは間違いないんですが..... 難しいところです。勿論、偉そうなこと言える訳じゃないんですけどね。でも、やっぱり、すんなり帰っては来られない感じではあるのです。いけないわけでは全く無いんだけど。
2009年01月12日
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東京オペラシティコンサートホール 14:00~ 3階左側 カールマン:「チャールダーシュの女王」序曲 J.シュトラウス2世:「トリッチ・トラッチ・ポルカ」 ツィーラー:ワルツ「ウィーンの市民」 レハール:「ジプシーの恋」~"昔、娘がいて" J.シュトラウス2世:ポルカ「クラップフェンの森で」/ワルツ「南国のバラ」 レハール:「ウィーンの女達」~ネヒレディル行進曲 シュトルツ:「白馬亭にて」~"愛の歌はワルツでなければ" カールマン:「チャールダーシュの女王」~"踊りたい" J.シュトラウス2世:「ジプシー男爵」~凱旋行進曲 J.シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス:ピチカート・ポルカ ドスタル:「ハンガリーの結婚式」~"鐘の音を聞かせて" ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「うわごと」 J.シュトラウス2世:ポルカ「観光列車」/「こうもり」~我が故郷の調べ オッフェンバッハ:「天国と地獄」~カンカン <アンコール> レハール:「微笑みの国」よりアリア J.シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」 (夢の街、ウィーン) (J.シュトラウス:ラデツキー行進曲) ソプラノ:メルバ・ラモス ウィーン・フォルクスオーパー・バレエ 指揮:ウヴェ・タイマー 元々予定になかったのだけど、チケットを貰ってしまったので、N響の前に行くことに。物好きだよなぁ.....と思いつつ。 会場は結構満員に近い。さすがにこの種のコンサートは売れるのね....と思ったけど、結構 e+ とかで安売りしてたようで、その成果か.......なるほど。まぁ、コンサートは、お客が多い方がいいしね。 いや、まぁ、相応に面白かったんだと思いますよ。公平に言って。ただ、まぁ、威張る訳じゃないけど、年末年始に、ウィーン・フィルで「あれ」を聞いてしまいました。実はその前にもNiederoesterreihischer Tonkuenstler管なるところで、やっぱりワルツやらなんやら聞きました。そっちは大したことないんだけど、だから尚更「レベル」が見えちゃってます。んで、そういう耳で聞くと....うーん、ダンスバンド?(苦笑)比べちゃいけないけど、やっぱり音がね。柔らかくもないし、芯がしっかりしてるわけでもないし。 もとよりそういうことを狙いにしたコンサートじゃないんだから、言っても仕方無いので。ただ、まぁ、ちょっと苦しいよなぁ、と。そういうの聞いてなきゃ、程々に楽しんだと思うんですけどね。やっぱり行って帰って来て暫くは、苦しいです。 このコンサート、ウィーン・フォルクスオーパーのバレエが付いてる、ということだったのですが、どうしていたかというと、いつもの舞台上、前の方を広く空けて、そこで踊ってました。 おいおい、それって大丈夫なの?!だって、コンサートホールの舞台の床って、決してそのままで踊るに適してるとは思えないんですが。硬いし、滑るし。遠目には、何か敷いているように見えなくもなかったけれど、木の目を合わせてるシートか何かにせよ、バレエ用という感じではなかったし。舞台の広さも相俟って、ダンサーの方も思い切って跳んだり出来ないというか、なんとなく踊りにくそうだったので、正直、気になってあまり楽しめなかったというか.......だって、はたで見てても、怖いよ? 更には歌付きとこれまた賑々しく。昨年、フォルクス来日時、「マルタ」のタイトルロールを歌ったという触れ込みの、メルバ・ラモスというソプラノですが......うん、まぁ、いいんじゃないかしら............. 要はお祭りっすよ、お祭り!プログラムの最後がフレンチ・カンカンなのも、にも拘らずアンコールにはお約束で美しく青きドナウとラデツキー行進曲が入るのも、お祭りだから。難しく考えちゃいけないっすね、こういうのは、ハイ。......ドナウ、のところで帰っちゃったけど。腹減ってたし......
2009年01月11日
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NHKホール 18:00~ 3階中央 ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番 シューベルト:交響曲第8(9)番 D.944 「ザ・グレート」 ヴァイオリン:リサ・バティアシュヴィリ 指揮:デヴィッド・ジンマン ジンマンN響に登場!というわけで、実はちょっと楽しみにしていた公演であります。 ベートーヴェンの交響曲を改訂新版スコアに基づいて録音した最初の指揮者、てなことでチューリッヒ・トーンハレ管共々知名度が上がった指揮者ですが、もう70を超えているのですね。なんとなく勝手に「際物」イメージがついてしまってますが、それも失礼な話ですよね。 今回はシューベルトの第9番を振るというのでちょっと楽しみに。あー、ちなみに、新校訂版の呼び方に従い第8番....なる賢しらな言い草は個人的に嫌いなので、敢えて第9番と呼んでいます。大体が、シューベルトの場合そんなもん後世勝手に便利の都合で付けてるのであって、それをやれあれがどうだの何が正しいの数え方がどうのと小理屈を捏ねくり回すのが気持ち悪いので。それを言うなら「ザ・グレート」って表記をやめなさい、と。後世の理屈を捏ねるなら、ドイッチュ番号を使えば十分なのでして。いや、プログラムの解説2ページの内1ページ使ってぐじゃぐじゃこんな話書いてるので、少々気に触りまして..... 前半はショスタコーヴィチ。やはり、NHKホールでヴァイオリン協奏曲というのは無理があるよな、と思いつつ聞いていましたが、悪くない演奏でした。戦後すぐ書かれた、作風的にモダニズムと後期ロマン派の狭間で逡巡するような作品。演奏は、よく弾けているな、というのが第一印象。今となっては「難曲」とは言われない作品でしょうが、それを差し引いても、決してまとまりがいいとは言えない曲を散漫にならずによく弾けていました。 ただ、やっぱり「音を楽しむ」には、NHKホールは広過ぎるかも知れないですね。まぁ、それはもうそういう大きさのホールなのだから仕方無いことなので。 後半はお目当てのシューベルト。 正直聞いている時は気が付かなかったのだけど、演奏時間はトータルで50分程度でした。CDなんかだと、もう少し掛かってるのが一般的ではないか。つまりは、比較的速いテンポではなかったかと思うのだけど、「速いな」といった印象は殆ど無し。 一言で言えば「充実した演奏」という印象。構成の見通しも利いて、よく整理されているけれど、決して薄っぺらいとは感じない。上述の通り聞いている最中は「速い」とは感じなかったけど、シューベルトでよく言われるような冗長さを感じることもなかった。終始一貫して聞く側を飽きさせない、だれさせない、という演奏でした。シューベルトのソナタ形式の常で、結構長い第2楽章でも、決して長いなとは感じさせなかったし。 N響は相変わらずN響で、時々ホルンがとちったりするのは御愛嬌にせよ、特別凄い何かがあった演奏ではなかったと思うんですけどね。音は、とても良かったと思います。14-12-10-8-6の弦五部。この編成、確かに大きめですが、NHKホールということを考えると、決して多過ぎるとは言えない。むしろ中庸。これを、そこそこ鳴らしながら、うまく纏めていた、というところかと思います。 それがジンマンの力ということなのかどうかは分かりませんが、飽きさせない、という意味でいい演奏だったのは確か。こういうのは私好きですが、人によっては軽過ぎる、とか感じるのかしら?
2009年01月10日
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今回は結構長期で行った割にはオペラがあまり多くなかったのですが.... ミュンヘンで椿姫を立見で観ようと出掛けたら、開演直前に劇場前で「チケット買ってくれ!」と必死のおねーさんにつかまり、「有り金30ユーロしかないよ」と言ったら「じゃぁそれでいいから」と押し付けられた席が平土間8列目あたりのど真ん中。 こっちは15ユーロの立見席のつもりだったので(立見でも指定前売りですからね、バイエルンは)それこそセーター姿でえらい肩身の狭い思いをしつつ聞いたのでした。これがまた予定してた若手がキャンセルで、急遽アンドレア・ロストに差し変わるし.....ロストは一幕目全然高い音出さなかったけど、代役ながら流石に御見事でした。ちなみにロストが代役受けられたのは、こうもりのロザリンデにアサインされて来ていたからだと思います。でなけりゃ受けないでしょう... ウィーンでは、フランツ・ウェルザー=メスト指揮の「神々の黄昏」が面白かった。いや、ウィーン国立歌劇場、本気出すと半端じゃないです。流石に本格派でオペラハウスの経験が長い次期音楽監督。あんなに気の入ったウィーンを聞くのは本当に久しぶり。 それと、帰りにロンドンでトランジットだったので街に出たのですが(なんだよ10時間待ちって....)、St. Martin in the fieldsのランチタイムコンサートを聞きました。若手の弦楽四重奏団だったのですが、いや、やはりあの教会、響きがいいです。あそこでコンサート聞いたのは久しぶりでしたが、なかなか気持ち良く聞けました。 ま、こんな感じかな....
2009年01月09日
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例によって旅に出た際のコンサートの類いは出し惜しみしてあまり書かないんですけどね。 今回、ウィーンフィルのジルベスターの立ち見に行ったら、いい歳をした年配、恐らくは5、60絡みのセーター姿の日本人二人連れが後ろででかい声でくっちゃべってました。曰くこんな調子。「いやぁ、なんですかね、あれは、日本人なのに蝶ネクタイなんてしちゃって、恥ずかしくないのかねぇ、本当に」「ホントですねぇ。着物なんて着て来たりして、なんでしょうね本当に」「うわ、あのドレスも派手ですねぇ。恥ずかしいったらないね、ホントに」「なんなんでしょうねぇ、あんな格好して」「あ、出て来ましたよ(団員が)。あ、いますよ、○○さん。」「あ、いますねぇ。いやぁ、我々、あの人呼び出してどうのこうのだったんですもんねぇ」<得意気 あのですね、あなた達、本当に恥ずかしいですから、二度と日本から出ないで頂けませんか。というより金輪際日本でも人前に出てくるなこのバカ共。 ニューイヤーコンサートに限らず、欧米でオペラやコンサートを聞きに行くと、存外正装した人達を見掛けます。日本人が、ではなく、明らかに現地の人と思しきも含めてです。 何故か、というと、それは彼等にとって社交の場だから、というのがお約束の説明ですが、結局この種の人達は「それは自分達には当てはまらないのにそんな格好するのは変だ」と言うのでしょう。でも、やはりそれは決定的に違うのです。 日本人にとって一番分かりやすいのは葬式だと思います。最近は妙な葬式も増えたけれど、日本での葬式というのは概ね宗教や宗派を問わず喪服、或いは黒の礼服に男性なら黒ネクタイ、というのが定番で決まっています。何故そうなのか、は、そうでない服を着て行った時を考えれば分かると思います。例えば明るいベージュの上下に赤いネクタイでもして行った人を見掛けたら、一体なんだこいつは、と思うと思います。まぁ、急に聞かされて御通夜に、てな時だったら、しょうがないので、背広は仕方無くても、ネクタイだけ黒を締めて、喪章を付けるとかして参列するのがせめてものライン、てなところではないでしょうか。 何故黒なのか?それは、亡き人を悼む気持ちを表し、そこに居る人と同じ気持ちであることを表象する記号だからです。そんな記号に意味は無い、そんな記号に関係無く自分は悼む気持ちを持っているんだ、と言うのは自由です。でも、それは、遺族をはじめそこに居る人々の気持ちを逆撫ですることにもなりかねない。その記号を纏わないのは、悼む気持ちが無いからではないのか、という想いを掻き立てかねないから。だから我々は黒を身に付けるのです。 ドレスコードというのは、つまり、そういうことなのです。 正直、私も、幾らニューイヤーだからって、蝶ネクタイする気にはなれません。失礼ながら、着飾っている方々の中には、「いや、それはちょっと....」と思うお姿の方も居られました。でも、それを否定する気にはなれないのです。私自身はそういう格好はしない。それは、社交なんて柄じゃないと思うし、そんな格好をすれば一員になれるものでもない、と思うから。で、立見なら、タイも締めずにセーター姿で行くことだって、オペラの立見ならある。でも、じゃぁセーターと蝶ネクタイと、どちらがいいのかと言われれば、やはり後者の方がよほど真っ当だと思うのです。 何故なら、我々日本人は、海外でのコンサートの場に於いては所詮闖入者だから。その闖入者として、折角の社交の場を破壊してはいけない、と考えるなら、蝶ネクタイを締めて、着物を着て行く方が、遥かにその場をrespectしていると思うから。所詮闖入者だから、どんな格好して行っても同じ、と言えば同じかも知れません。でも、その思想は、やはり何処か独善的なのです。葬式に黒ネクタイも喪章も用意せずに行ってしまう、そこまでの禁忌ではないにせよ、やはりそうした独善的なものがある。それでも、自分が勝手にそういう格好で葬式に行くだけなら、まだしも(なんだあのバカは?)と思われるだけで済む。喩えて言えば、わざわざそんな格好で行った挙げ句「うわ、なんで皆喪服なんて着てるの?バカだねぇ」と言うに等しいことをしている訳です。 放言にしても許せない。しかも、学生とかそのへんの若造ならいざ知らず、あんたらいい歳だろうと。そんな人間がなんという恥知らずなことを言うのか。馬齢を重ねるとはこのことです。恥ずかしいから二度と人前に出て来るんじゃない、このバカ共。 これは、単なる礼儀の問題ではない。文化というものは、時にそうした一見すると下らない決まり事に縛られていることがあります。でも、それにどう対処するかというのは、その文化を理解する能力があるかどうかを示すものでもあるのです。音楽が文化であり得る理由も、ここにあります。音楽だけがその辺にゴロンと転がっているのではなく、ある社会の中で、相応の仕組の中に位置付けされているから、音楽は生きたものになる。日本でクラシック音楽が上っ面だけのもの、根無し草になっているのではないか、というのは、この裏返しです。 この両名、曲間に「いやぁ、バレンボイムの指揮は情熱的でどうたらこうたら」と言うとりましたが、まぁ、正直、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで、指揮者の指揮がどうたらこうたらなんてあるもんでもないでしょ。選曲や、基本的な方向性の詰めでは色々あるだろうけど。 もうどうしようもない俗物。こんなのがのさばってるから日本って......... ちなみに、今回思わず見とれてしまったお客さんは、日本語も話されていたので恐らくは在日の方だと思うけれど、目にも鮮やかな緑のチマチョゴリを着た妙齢の女性でありました。いや、結構美人だったし....写真撮っとけばよかった...... これは関係無いか。 ことのついでに気になったこと、あと二つ。いや、こちらは、まぁいいんだけどさ、って話なんですが。 その1。そのジルヴェスターとか、ウィーン国立歌劇場とか行ってですね、気が付いたんですが、何故か仏頂面の日本人男性が多いのですよ。緊張してるのかな、とか思ったんだけど、なんか不機嫌そうなんですよね。街中とか、帰りの飛行機とかでも同様。緊張してるのか、疲れてるのか、何か面白くないのか、よく分からないんですが、正直、ウィーン・フィルのウィンナ・ワルツなんて、およそこの世で最も能天気な音楽の一つ(笑)を聞こうって時に、なんでまたそんなに不機嫌そうな顔で居られるものやら。......お金が勿体無かった?うーん。 その2。これは、日本人に限らずなんですが、特に東洋人に多いかな。 例えばウィーン国立歌劇場の立見とかに並んでて、ヘッドフォンで音楽を聞いてる人が居るのですね。あれは、なんちゅうか........昔、「もうすぐゴハンなんだから、おやつは我慢しなさい!」とかって言われたことなかったのかしらん。いや、別にお腹一杯になるもんじゃないんだから、構わないだろうと言えば構わないんですが、なんか変だなぁ、とつくづく思うのです。これから生でオペラ見ようって時に、何か聞いてるってのは、なんなんだろう....
2009年01月06日
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新国立劇場 18:30~ 3階正面 (ミンクス:ドン・キホーテ 第3幕) ヴェルディ:ナブッコ 序曲 イル・トロヴァトーレ ~静かな夜 オテロ ~喜びの炎よ / 既に夜も更けた / 無慈悲な神の命ずるままに レオンカヴァッロ:道化師 ~衣装を着けろ マスカーニ:カヴァレリア・ルスティカーナ 間奏曲 プッチーニ:トスカ ~妙なる調和 / テ・デウム / 歌に生き、恋に生き / 星は光りぬ <アンコール> チレア:アドリアーナ・ルクヴルール ~私は神の卑しい僕です プッチーニ:トゥーランドット ~誰も寝てはならぬ ソプラノ:セレーナ・ファルノッキア / 木下美穂子 テノール:市原多朗 / ジュゼッペ・ジャコミーニ バリトン:直野資 新国立劇場合唱団 新日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:渡邊一正 / 菊池彦典 年末年始の予定変更で、3日のニューイヤー関係をすっ飛ばしたので、国内ではこれが初。とはいえ買った時点で出演者きちんと見てなかったんだけど.....なんでジャコミーニまだ呼ぶのかねぇ。もうおよしなさいよ。 買ってあったし、一応休みなので、まぁ行っておこうと思って行きましたが、その前に寄り道したので前半のバレエは見ず仕舞い。なので、後半のオペラ関係のみの話です。 で、正直言って、この内容はちょっと如何なものか? 歌唱陣が弱過ぎる。元々それほどに凄い歌唱陣を呼んでいる訳でもない新国立劇場にしても、「ガラコンサート」と言うからにはもう少し気合いを入れて集めるべきだったのでは。お客の入りも、それを反映してか、3階席は両脇は空いているほど。今日は一般には仕事始めだから、そうそう満員にはならないだろうけれど、それにしても。もう一つお客の盛り上がりもいまいちだったし。 例によって最悪なのはジャコミーニ。元々一流半がいいとこの人を、他にテノールが来てくれないからと皆で一流であるが如くに捏造してしまった、というのがこの人の実像。声量はあるから「凄い!」と思うのかも知れないけれど、もう今となっては、声量があるだけで荒っぽいのに加えて、声が安定しない。ゆらゆらと地震計の針のように揺れる声。おまけに独唱では全くオケに合わせる気なしで勝手に歌い、それが元の曲とは当然ずれている。それも、「伸ばしどころ」を伸ばす余力を作る為の端折りなのがミエミエ。それでも、流石に nessun dorma ではブラボーが貰えるのだから、安い商売ですよね。でも、もう、呼びなさんなよ、この人。 市原多朗の方が余程いい。ただ......この方も、お歳を召されたのですねぇ。昔に比べると線が細くなっちゃって。それでも、歌のフォルムを崩さないようにきちんと歌う所は好感が持てるのですが。 直野資は.....まぁ、直野資だなぁ。 木下美穂子は、声量はあったけれど、うーーーーーん。この人よりはファルノッキアの方が良かったかな。ただ、最後のアンコールのアドリアーナ・ルクヴルールなどもそうだけど、もう一つ歌に引っ掛かりがある。どっか余分な力が入ってるとでもいうような感じなんですよね。 正直、「ガラ」と言う割には、ちょっとどうかと思う内容ですね。ダメじゃないけど、ガラコンサートってもうちょっと晴れがましいものではないかしら?そういう感じがないんですよね。 それは、選曲にしてもそう。特にオテロの「喜びの炎よ」なんて、どうして選んだのか?はっきり言って、お客、戸惑ってましたよ。拍手する所なのかどうなのか。最後も、nessun dormaの後、雰囲気的に「ん、もう一曲あるんでしょ?」的な雰囲気だったのだけど、そのまま終わっちゃったし。あれは、下らなくもお約束で「乾杯の歌」やる所じゃないの?なんだか盛り上がりに欠ける感じでした。 今日ポイント高かったのは新日フィル。新国のオケピットでもいつも通りですねぇ。響き過ぎの所が似ているというのもあるんでしょうけれど、音は良かったです。相変わらず金管がずっこけたりとか、テ・デウムで妙にピッコロが煩かったりとかあったけれど、弦は良かった。うっかりすると東フィルよりいいのでは?いよいよ東響を追い落として新国ピットのローテーションに入る日も近いか?
2009年01月05日
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今更ですが、明けましておめでとうございます。今年も宜しく御愛顧の程を。 で、年末年始は旅行に出ておりました。まぁ例によって色々聞いて来た訳ですが、その話は追々。 去年は少しコンサートを絞ろう、なんて言いながら、結果的には全く絞れておりませんでした。今年は.....どうなるんでしょう。定期公演とか買ってしまってる以上、そう少なくはならないとは思うんですが。
2009年01月04日
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