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スキーは私にいろいろなことを教えてくれました。冬の山の中で見る満天の星や、夜空から降り注ぐ無数の粉雪の舞いは、自分がまるで宇宙空間にいるような感じにさせてくれると同時に、自分が宇宙の一員であることを教えてくれます。 自然の厳しさや美しさも教えてくれますね。ホワイトアウトするような吹雪には何度も遭遇しました。1メートル先も見えなくなります。リフトに乗っているときの、凍えるような厳しい寒さを経験する一方、晴れたときの雪山から見下ろす光景はえもいわれぬ美しさです。 また、子どものときは、「どうしてスキーがそんなにうまいのか。どこかで習ったのか」とよく尋ねられました。私の答えは簡単です。「見て覚えた」のです。うまい人の動きをよく観察して、それを真似ました。スポーツの基本はうまい人の動きをよく見て、コツをつかむことなんですね。だから周りにうまい人が多くいればいるほど、自分もうまくなれるわけです。 実は中学生のときには、あやうく雪山のスキーで遭難するような体験もしています。伯父と二人でスキー旅行に出かけ、群馬県の水上温泉近くの宿に泊まったときのことです。その宿泊施設から水上高原藤原スキー場へは、スキーを履いて30~40分ほど歩いて行く必要がありました。いくつかの尾根を越えて、道があってないような林の中の道を二キロほど進むわけです。 朝、初めてその道を教えてもらって、簡単に行き着くことができました。そのとき、伯父は「帰りは自分で宿屋まで帰るように」とだけ言って、スキー場では自由行動となりました。伯父はかなりの自由放任主義なんですね。 一日中滑って、夕方気づくと、伯父は既に自分で宿屋に向かって歩いて帰ってしまった後でした。私も朝の記憶を頼りに宿まで戻らなければなりません。ところがよく見ると、同じような尾根が二、三本出ています。それに朝とは違って夕方は景色や雰囲気が変わってしまうんですね。 それでも記憶を振り絞って、多分これだろうと思って選んだ尾根を進みます。しかし、いくら進んでも記憶にある道に辿り着きません。20分ほど歩いてから、どうも自分が間違った尾根を進んでいたことに気づきます。もう一本山側の尾根を行かなければならなかったわけです。 そこで軌道修正するために、谷を越えてその上の尾根に出ることにします。大幅な時間のロスをしてしまいました。夕闇がすぐそばまで迫ってきます。ちょっと焦りましたが、上の尾根まで出たら、そこには朝知った道がありました。ここまでくれば安心です。 宿屋のある村の光が見えてきました。宿屋に近づいたとき、雪がちらほらと降り始め、日はどっぷりと地平線の彼方へと沈んでおりました。 宿屋の前には伯父が心配そうに立っています。伯父は「あと五分待って来なかったら探しに行くところだった」と言います。私が尾根を一本間違ったことを伝えると、伯父は「もっとちゃんと道を覚えるように」とたしなめます。覚えたつもりだったんですが、不覚でした。 ともあれ、無事に生還。遭難することもありませんでした。 こうした失敗は良い戒めとなりますが、何事も「災い転じて福となす」こともできます。 高校一年生のときの冬の宿題で、「冬の花」という題の作文を書かされたんですね。私はこの時の「あわや遭難」という体験をベースにした短編小説を「冬の花」というタイトルで、200字詰め原稿用紙33枚で書き上げて提出しました。私の現代国語の成績はそれまで二学期とも「4」しか取れなかったのですが、その学期だけは「5」を取ることができました。作文が評価されたのだと思って、嬉しかったのを覚えています。それより少し前には学校の創作雑誌に初の短編小説「秋の話」という作品を紹介しておりました。このころから物書きを職業にしようと考えるようになっておりました。そして新聞記者や編集者を経て、現実にこうして、物書きになっているわけです。 (続く)
2021.11.30
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久しぶりの東京です。東京は既にクリスマス気分が漂っておりました。昨年は風の年、今年は火の年とされていますが、果たして来年は八卦ではどのような年となるのか。風、火とくれば、順番通りだと、地(大地・土)の年となるのですが、順番通りにならないこともあるとか。ただし、私たちは一足早く、土の旅である陶器の旅に出ておりました。それは追々ブログでも紹介するとして、疲れていなければ夜にも1980年のブログを再開いたします。しばらくお待ちください。
2021.11.29
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12月14日朝。目覚めました。曜日を忘れていましたが、今日は日曜日です。ヨーロッパで初めてスキーをする日でもあります。現在のモルジヌのスキー場のコース地図です。中央下の町がモルジヌです。当時のスキー地図がないので、正確ではないかもしれませんが、隣のスキー場である「Les Gets (レゲ)」に行くコースは整備されていなかったと思います。モルジヌの町から山に登るためのゴンドラはあったはずです。町にはほとんど雪が積もっていませんでしたが、このゴンドラに乗って手前の山の山頂まで昇ると、一面の銀世界です。そこでスキーをしました。ただ、ここは初級者・中級者向きのゲレンデです。つまり家族連れのためのスキー場という感じでした。昨日誘われたフランス人と一緒にゴンドラまで歩き、一日リフト券を購入。麓のゴンドラ乗り場か降車場でスキーをレンタルして、用意が整うと、初めてスキーを履いて、ヨーロッパアルプスの雪を踏みしめました。ところで私は、スキーはかなりのベテランです。幼稚園児か小学校一年生のときに初めてスキーをしました。と言っても東京の都会生まれ、都会育ちですから、雪には慣れていません。冬休みと春休みにそれぞれ1週間ほどスキーをするリゾートスキーヤーでした。幼少のときは体力がないので、スキーは大変でした。いつも置いてきぼり状態。大人たちについてゆくことができません。吹雪になると手はかじかむし、スキーはすぐはずれるは、転んで雪だるまになるはで、いつも泣きべそをかいておりました。特にリフトに乗るのに、乗り場までの急な坂をスキー板を履いて登るのが大変で、つらかったのを覚えています。そのような泣き虫の私でしたが、体力が付くと、坂を登るのも苦にならなくなります。そして、うまい人の滑りを真似て、毎年ドンドン上達してゆきました。最初はボーゲンでしたが、パラレルクリスチャニアができるようになると、小学校4年生くらいになると上級コースにも挑戦できるくらいになりました。私が通っていた小学校では五年生くらいになると一月にスキー学校があったのですが、当然そこでも断トツに上手かったです。私の小学校担任の先生は新潟出身でスキーや山登りが大好きな山男先生でしたが、最終日に私一人を連れてリフトで上まで登って、「俺について来い」と告げると滑り出しました。昔だったら、置いてきぼりにされていたかもしれませんが、私はそのときはほぼ上級者になっておりました。スキーのうまい担任の先生のすぐ後をスピードに乗って、自由自在に曲がり、下まで転ぶことなく降りてくることができました。スキーに関しては、その後もいろいろな思い出があります(続く)
2021.11.25
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あまりにも深い眠りに落ちていたので、目覚めたとき、私がどこにいるのか、朝なのか夜なのかもわからない状態でした。「ああ、そうだ。フランスのモルジヌに来ているのだ」――。事情を思い出すと、次にすべき行動を開始します。 時計を見ると、午後6時近く。3~4時間は眠り続けたことになります。辺りはすっかり暗くなっておりました。夕食を取らなければなりません。あと、情報収集ですね。 さて、その夕食ですが、ユースホステルによっては夕食が出るところもあるのですが、モルジヌのユースはハイシーズンにならないと食事の提供はありません。台所を使って自分で作るか、外に食べに行きます。自炊と決めていましたが、夕食の買い出しに行くのにも、もうお店は閉まっています。そこで、そういうときのために持っているスープの素とパン、それにチーズや何かの缶詰で、とりあえず飢えをしのぎました。 腹ごしらえをした後は情報収集です。何しろ、ほとんど到着してすぐに「バタンキュー」の状態でしたから、モルジヌがどのようなスキー・リゾートなのかまだ全くわかっていません。そこで、スキー場などについて、たまたまそばにいた同宿者に話を聞きます。 その人によると、町の中はそれほど積雪していませんが、山のほうはもう雪が積もっておりスキー場も開いているとのことでした。その話を聞いた別の人が自分も明日スキーをする予定なので、一緒に行こうと誘ってくれます。その人は、20代半ばくらいのフランス人男性で、口ひげを生やした感じのいい人でした。こちらとしてもヨーロッパのスキー場の勝手がわからなかったので、その誘いに乗ることにしました。この日のことで覚えているのはそのくらいです。その後も何かワイワイガヤガヤはしゃいだような気もするし、疲れていたので、早めに部屋に戻って就寝したような気もします。とにかく翌日は欧州での初めてのスキーの日ですから、早めに寝るに越したことはなかったのだと思います。 (続く)
2021.11.24
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郊外分岐点作戦は多くの場合、非常にうまく行きます。その際、常に運転手側の気持ちを斟酌する必要があります。その場所は止まりやすいか、そうでないか。泊まれるスペースがあるか、分岐点で行き先がわかりやすくなっているか、などなどが、考慮に入れなければならない条件なわけです。 ジュネーブでもこの作戦は功を奏しました。15分ほどもすると、車が止まってくれました。スイスでは英語が通じますので、英語で行きたい場所を告げると、途中まで送ってくれると言ってくれました。今となっては、ヨーロッパでのヒッチハイク成功第一号となった記念すべき運転者の顔も思い出せなくなっています。きっと親切な人だったに違いありません。 その後、それほど苦労した記憶がありませんから、ほかに二人くらいの人に車に乗せてもらって、無事に国境を越えてフランスのモルジヌに到着することができたと思います。とにかくジュネーブという大都市から脱出するほうが大変でした。何はともあれ、ヨーロッパ・ヒッチハイクの旅の初日は大成功でした。 モルジヌはフランスとスイスの国境近くにあるアルプスの山間の村です。標高は1000メートルほど。レマン湖とモンブランの間にある「太陽の玄関」と呼ばれるアルプスの一大スキー・リゾート地域の中にあります。 ユースホステルに着いたのは、午後1時か2時頃だったと思います。ちょっと高台にあったように記憶しています。町への買い出しには坂を少し降りて行きましたからね。非常に風情のあるリゾート地でした。 幸いなことに受付は開いておりました。冬場は外で凍えないように昼間から開けていてくれるようでした。ここでスキーをするつもりだったので、二泊泊まりたい旨をフランス語で伝えます。まだシーズン前だったので、開きベッドもあり問題なく宿泊できることになりました。 考えてみると、ケント大学を出発してから30時間近く横になっておりません。夜行列車の中も椅子に座って寝ていましたからね。しかも、この日は朝からかなりの距離を歩いています。体を休める必要があります。部屋に入って、開いているベッドを見つけると、もうそのままベッドの上に横になりました。 かなり疲れていたようで、横になると、瞬く間に睡魔に襲われ、深い眠りに入りました。 (続く)
2021.11.23
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この時のジュネーブが私にとっての初めてのスイスです。駅から降りて、街中を歩きます。 朝は結構冷え込んでおりました。吐く息も白いです。私の冒険旅行の第一歩がここから始まります。ここからヒッチハイクだけで、フランス南西部のボルドーに辿り着かなければなりませんからね。 ショーウィンドーを眺めながら、クリスマス前でにぎわう町を歩いてゆきます。物価が異常に高いですね。スイスに滞在するつもりはありませんでしたから、パリではポンドをフランス・フランに両替しただけでスイス・フランはもっておりません。だからあくまでもウィンドー・ショッピングに徹します。 このとき、信号機が赤から黄色になって青になるのを初めて見ました。どういうことかというと、青から黄色になって赤になるのは当たり前ですが、その反対で赤から青に変わるときに一度、黄色が点灯するんですね。青になって発進する際の合図になります。たとえば信号が赤でエンジンを切ったとすると、黄色になったときにエンジンをスタートすればいいわけです。 ところで、当たり前ですが、私はやみくもに街中を歩いていたわけではありません。どこに向かって歩いているかと言うと、郊外の道の分岐点です。街中ではヒッチハイクできませんからね。街中にある案内板の地図をよく見て、進む方角を決め、ひたすら街中を分岐点に向かって歩き続けます。 左手にレマン湖の大噴水を見ながら、東に向かって歩きます。ジュネーブから東に約45キロ離れたフランスの町モルジヌ(Morzine)をこの日の宿泊地と決めていたからです。 この時私が頼りにしたのは、この地図だけ。 ヨーロッパ中のユースホステル所在地が記された地図です。ユースホステルのある場所には三角形(▲)の印が書かれています。 該当箇所を拡大しましょう。ジュネーブの東に▲がありモルジヌの文字が見えますね。このほかに地図は持っておりません。この大まかな地図だけを頼りに、モンブラン橋を渡って、アングレ庭園のそばを通り、ひたすら東に向かって歩くわけです。人や車がせわしなく通りすぎる風景がしばらく続いた後、ようやくヒッチハイクが出来そうな場所に辿り着きました。おそらく1時間半以上、7キロは歩いたのではないかと思います。とにかく国境を越えてフランスに行かなければなりません。 郊外に出ると、運転手も止まってくれやすくなります。交通量が減れば減るほどヒッチハイク成功の確率は高まる傾向があります。車が止まれやすそうなところを選び、ひたすら待つわけです。あとは運を天に任せるだけ。(続く)
2021.11.22
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カンタベリーからヨーロッパ大陸への玄関口であるドーヴァーへは電車で20~30分ほどで着きます。ドーヴァーは大陸に最も近い場所にある港町。確かビザの延長を申請するため夏期中にも訪れていましたから、二度目の訪問でした。フェリーでドーヴァー海峡を渡ってフランスへ入国するのは初めてです。対岸は当然、フランスのカレー。 フェリーが出航してしばらくして英国を振り返ると、白亜のホワイト・クリフが遠くまで壁のように広がっておりました。白亜とは泥質の石灰岩の一種です。つまり白墨ですね。チョークや石灰の原材料として使われています。その白い壁も、やがて墨のように薄くなり、遠くの島影となって風景に溶け込んでゆきました。 約1時間半の乗船でカレーに到着。フランスに上陸します。同時に時間を一時間進めなければなりません。イギリスとフランスでは時差がありますからね。 その時差で思い出したのですが、冬休み期間中にフランス、とくに南仏に行こうと思ったのは、日照時間の問題がありました。イギリスの冬は、気候的にはとても暗いんですね。夏のようにからっと晴れることはほとんどありません。特に12月ともなると、朝7時でも外は真っ暗闇です。8時ごろになるとようやく空が白んでくるという感じ。午後1時を過ぎると、夕方の気配が漂い始め、午後4時には「夜」となります。つまり、ほとんどお天道様が拝めません。 そのような中で、ケント大学の寮に留まる気にはなれなかったというのも、今回のフランス、特に南仏の旅を計画した背景にありました。太陽を求めて南を目指そうというわけです。 再び、フランス北部のカレーに到着した場面に戻りましょう。 一時間時計を進めたということは、おそらく夕方近くになっていたということだと思います。私はすぐにパリ行きの電車に乗り込みます。スイスのジュネーブまでの切符は持っていますからね。一々切符を買わなくてもいいわけです。 そのままパリに直行。所要時間は2時間くらいでしょうか。パリに着いたときには、もう夜になっていたと思います。そして、パリ(おそらくパリ東駅)からジュネーブ行きの夜行列車に乗り込みます。何とか座席確保に成功します。 8時間半ほどの長旅(これで一泊分節約できますね)で、ジュネーブに着いたのは翌13日の朝でした。当時私が使っていた路線図。カンタベリー(Canterbury)、ドーヴァー(Dover)、カレー(Calais)の位置関係がわかりますね。(続く)
2021.11.21
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それは「水曜どうでしょう」の大泉亮も真っ青になるような「無謀な賭け」のような旅行計画でした。それは次のような旅です。 ケント大学のある英国カンタベリーからスイスのジュネーブまでの片道の切符と、フランスのボルドーからカンタベリーまでの帰りの片道切符のみを事前に購入。混雑が予想される本格的スキーシーズン(クリスマス休暇)到来前に、ユースホステルに泊まりながらフランスのアルプスでスキーをして、その後フランスを南下、南フランスの温かい場所で冬を過ごし、ボルドーからパリへ。そこで演劇を鑑賞してイギリスに戻るという壮大な計画です。 では、そのジュネーブからフランスのスキー場、南仏を経てボルドーまでをどのように移動するかというと、ヒッチハイクで移動しようという何とも大胆不敵な計画でもありました。交通費を使わずに、ジュネーブからボルドーに何とかして辿り着かなければならないわけです。 片道二枚の電車の切符代は2万円くらいだったと思います。その他の宿泊費、食事代などの旅費は10万円以内で済まそうと決意しました。本当にそのようなことができるのでしょうか。 計算すると、スキー代(レンタルとリフト券)などを含めたすべての費用を一日3800円で乗り切らなければなりません。素泊まりなら一泊1000円、食事代も入れて一泊2500円(すなわち4日で1万円見当)ならその費用で賄えそうです。 決行日は、寮を追い出される12月12日でした。1月6日までには寮に戻る予定です。 当日、何しろ当時の私は若くて力に溢れて「怖いもの知らず」です。ダーウィン・カレッジで朝ご飯を食べた後、午前中には出発します。今回は日本から持ってきたショルダーバッグ型キャリアバッグではなく、バックパックを購入して、それを背負ってゆきました。 いざ、ヨーロッパ大陸へ! (続く)
2021.11.20
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このようにケント大学では、学業ではリーディング・アサインメント(週三冊)やエッセイおよび宿題の提出を何とかこなし、一種の部活では週3~4回はテニスをして、趣味と実益を兼ねて週一回以上は劇場やテレビ・ルームで映画鑑賞をするなど充実した学生生活を過ごしておりました。しかし、やがて11月も終わりに近づくと、12月の冬休みをどう過ごすか、身の振り方を考えなければならなくなります。 ミカエルマス・ターム(秋学期)は12月11日に終わり、翌81年1月6日まで約四週間の冬休みに入るんですね。寮に残ることもできますが、その場合、その間の寮費を払わなければなりません。 その寮費が結構高いのです。もういくらだったかは忘れましたが、おそらく4週間で140ポンド(7万円)はしたのではないかと思います。それだけ払うのだったら、その間旅行に出かけるのとそう変わりません。 実は今回の留学の目的の一つには、フランス語を習得することがありました。だからわざわざフランスに近いケント大学を選んだことは既に述べたと思います。同時にパリとロンドンで本場の劇を観るという目的もありました。それとは別に、私がやりたいことの一つが、アルプスでスキーをすることでもありました。ですから、フランス語を話しながらフランスを旅して、フランスのアルプスでスキーをして、かつパリで観劇ができれば一石二鳥ならぬ、一石三鳥なわけです。 当時、ダーウィン・カレッジのフロント・ロビーから昇る階段の壁には、さまざまな学生による催し物の案内や募集が貼られていました。フランス旅行の計画を練っている際に、その中の一つにアルプスのスキー・ツアーがあるのを見つけました。だけども、これも結構高くて、確か10日間で16万円かかると書いてありました。 今から思うと手ごろな値段ですが、当時の私にはとてつもなく高かったんですね。予算オーバーです。そこで、何とも皆が驚くような安上がりの計画を思いつきました。次回はその計画についてお話しましょう。 (続く)
2021.11.19
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撮れたてのほぼ皆既月食です。午後6時3分に撮影しました。薄っすらと満月が写っているところが面白いですね。ケント大学時代のブログは夜、時間があればアップします。
2021.11.19
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結構恵まれたアジアからの留学生もおりました。非常にしっかりした感じの、シンガポールからの留学生のケネスは、金銭的には余裕がある感じでした。一度どういうわけか誘われて、カンタベリー市街のレストランで夕食をおごってもらったこともありました。 実はケネスとはその後、私が帰国してから一度、日本であったことがあります。それまでもクリスマスカードだけは毎年交換する仲で、消息はお互い知っておりました。ケネスはケント大学を卒業後、シンガポールの国家公務員となり統計局の役人になっていました。 1986年ごろのことだったと思います。共同通信浦和支局に勤めていた当時の私のところに、仕事で日本に来たから会えないかという電話連絡がありました。どこにいるのかと聞いたら、池袋のホテルで国際会議をやっていて、そのホテルにいるとのこと。たまたま時間が空いていたので、勤務を終えてから池袋のホテルで約五年ぶりにケネスに会いました。よく社会人五年でおじさん体型になる人もいますが、ケネスと私はお互い学生時代とほとんどかわっていなかったです。懐かしいひと時でした。 ケント大学時代は、香港のニューとも仲良くなりました。香港は当時イギリスの統治下にありましたから、結構自由に若者たちはイギリスに来ていました。ニューとは構内で上映される映画をよく一緒に見に行きました。 私は寮で唯一の日本人でしたから、日本人同士で徒党を組まなくてよい分、食堂では自由にあちらこちらのグループに顔を出しました。 変わった「食堂友達」では、イランからの留学生とチベットからの留学生がいました。その二人は非常に仲が良くて、いつも食堂では一緒にいます。そこへ私が時々お邪魔して話をするのですが、イラン人留学生はいつも授業や講師に対する不満をぶちまけていました。それをなだめるのがチベット人留学生。二人とも結構年配に見えました。30代後半だったのではないかと思われます。二人とも独特の英語を話しますから、最初は理解するのは難しかったですが、何回か話すうちにわかるようになりました。 一番頻繁に食堂で一緒になったのは、フランス人留学生のグループです。とにかくフランス語を勉強したかったので、フランス語でわからないことはすぐに質問しました。向こうも英語を勉強したいので、どんどん英語で話しかけてきます。既に書きましたが、ジョン・レノン暗殺事件も彼女たちが教えてくれました。 食事の割引カードはどこの寮でも使えましたから、時々ラザフォード・カレッジなど他のカレッジの食堂にも食事をしに出掛けました。ラザフォードでよく、タイからの留学生のグループと一緒に食事をしました。 このようにして、世界中からやってきたいろいろな国の学生たちと交流しました。ただ今では顔だけ覚えていて、名前を忘れてしまった人たちも多いです。名前だけでなく、どうやって知り合ったかも忘れてしまった人もいます。大学卒業後もクリスマスカードなどのやり取りをしていたのは、ケネスのほか、ドイツのミヒャエル、アメリカのデイヴィッドら5人ほどです。住所を渡し損ねて、音信不通になってしまった人たちも多いです。 もっとマメに連絡を取り合っていればよかったのでしょうが、いかんせん社会人になると仕事に追われるようになるので、それもままならなくなります。10年以上にわたってクリスマスカードを交換していたケネスとも、1990年代に私が二度目の海外留学に踏み切ったときに音信不通となりました。 もっと連絡を取り合っていれば面白かったかなと思う反面、それはそれで仕方がなかったのかなとも思います。それぞれの目の前の人生を生きるのがやっとの場合もありますからね。余裕ができたときに、しかも何かのチャンスがあれば、再び連絡を取り合う程度でいいのかもしれません。あとはただ、思い出の中に仕舞っておけばいいのです。 (続く)
2021.11.18
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今日も写真だけのアップです。今日の一枚はこちら。紅葉シーズンなので、紅葉を背景に秋の薔薇を撮影しました。ちょうど一週間前の11月10日に撮影。背景にある黄葉は、黄金柏です。確かに黄金のように輝いておりました。
2021.11.17
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大学寮で私と同じシャワー・トイレ共有ユニットにいた学生は、一人は一年生と思われるイギリス人、もう一人はアフリカ南東部の共和国マラウィから来た政府派遣の留学生でした。二人とももう名前も忘れてしまいましたが、マラウィから来た留学生とはよくチェスをして遊びました。年齢は私よりもはるかに上で、多分30代後半か40代だったように思います。顔は覚えていますが、ほかにもう一人、確かジョーという名のマラウィ人留学生も別のユニットにいて、その人の部屋によく遊びに来ていました。 チェスに関しては、私は駒の動かし方を知っているだけで、本格的なゲームをやったことはありませんでした。ですからそのユニット・メイトのマラウィ留学生に実践を学びました。ほとんど彼が勝ちましたが、一回か二回くらいまぐれで勝ったことがあったように記憶しています。 その人もジョーも社会科学科の学生であったように思います。 ほかには、香港やマレーシア、シンガポールなど東南アジアから来ていた留学生とも仲良くなりました。びっくりしたのは、マレーシアのパトリックと香港のクリスが一部屋を二人で共有していたことです。部屋の大きさは六畳ほどしかありません。そこにベッドと勉強机、洗面所、洋服ダンスがぎっしりと詰められています。どう考えても一人用です。では、もう一人はどこで寝るかと言うと、パトリックが床の上で寝袋を敷いて寝ていました。 寝るのはそれで良くても、勉強机は一つしかありません。勉強の時はどうするのかと聞いたら、勉強は寮の勉強室や図書館で集中してするので問題ない、と言います。確かに部屋は寝るためだけにあると考えれば、それで済みます。 どうしてそのようなことをするかと言うと、授業料や寮費が結構高いからですね。当時ポンドが高かったこともあり、特に東南アジアの学生人とっては、大問題でした。そこで苦肉の策として、一人部屋を二人でシェアして寮費を折半することにしたわけです。東南アジアの留学生は、よく大勢集まって寮の台所で自炊をしていました。食費を節約するためだったと思われます。それでも、遠くから見ていると、結構楽しそうでした。(続く)
2021.11.16
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学業のあらましはとりあえずこれくらいにして、ケント大学のキャンパスライフについても語っておきましょう。学生寮には、ほとんどなんでもあります。食堂、パブ、遊戯室、ラウンジ、テレビ室、洗濯室、冷蔵庫付き台所などなど。もちろんオープンする時間は決まっていて、パブは午後8時か8時半には閉店したように記憶しています。私はいつも、朝食を食べた後、ラウンジにいって新聞を読んでいました。読んだのはタイムズ、ガーディアン、デイリー・テレグラフの三紙。タブロイド紙も置いてあったかもしれません。平日はラウンジに置いてある新聞を比較的競争もせずに読めるのですが、日曜日は取り合いになります。そこで、日曜日は自分で三紙のうちの一紙を購入することにしました。日曜日には、ガーディアンはオブザーバーに、タイムズはサンデータイムズに名前が変わります。劇場もキャンパス内にあります。名前はガルベンキアン劇場。そこでは演劇やコンサートだけでなく、映画も上映されたりします。当時のリーフレットが手元にあります。こちらです。1981年の4月から6月にかけてのスケジュールが書かれています。そしてこちらが、その6月のスケジュール表。だいたい一週間(火曜と木曜)に2作品くらいのペースで映画が上映されていました。 勉強が忙しくて全部は見ることができませんでしたが、リーフレットの説明を参考にしながらめぼしい作品を選んで、半分くらい(月に5本くらい)は見ていました。 それとは別にいつも見ていたのが、ダーウィン・カレッジのテレビ室で金曜夜に開かれる映画会です。 もちろんBBCかどこかの放送局が放映する深夜映画の観賞会です。 噂で金曜夜には質の高い映画を上映する番組があると聞いて見に行ったら、英語の字幕付きで世界中の国の変わった映画を取り上げていて本当に面白かったです。 日本の映画も放送されたことがありました。 中上健次の『19歳の地図』を映画化した同名映画です。 これは良かったですね。 世界でも十分通用する映画です。授業でも話題になっていました。 ダーウィン・カレッジの住居区ですが、私の記憶では三部屋が一つのユニットを形成、シャワー室とトイレは3部屋共有となっていました。 洗面所は各部屋についています。 ただ私は、シャワーだけでは味気ないので、1週間に一度は寮内の別のブロックにある、共有用のバスタブ付の風呂を利用しておりました。 みなシャワーだけで満足しているのか私以外に使う人はほとんどおらず、ほぼ貸し切り状態。 そこでお湯に浸ってのんびりするのが、密かな楽しみとなっておりました。 平日は、確か毎日午前中に「掃除のおばさん」が来て、掃除をしてくれました。 話し好きの年配の女性で、よく寮生のことを気にかけてくれます。 洗濯は洗面所を使って自分で手洗いをしておりました。 お湯は出ますからね。 部屋の中のヒーティングシステムは、イギリスでは一般的なセントラル・ヒーティングで、建物の一ヶ所に設けた熱源装置から熱を各部屋に送って室温を上げる暖房システムです。 ボイラー等の加熱装置が温水を作り、各部屋にあるラジエーターに回され各部屋を暖かくします。 そのラジエーターに洗濯物をかけて、干しておりました。大体どの学生もそうしています。 あるとき、イギリス人のうら若い女子学生の部屋に何かの打ち合わせで呼ばれて行ったときに、話している最中にラジエーターに干していた自分の下着を、まるで焼いているおせんべいをひっくり返すように、私の目の前で無造作に裏返していました。 まあ、皆あまり気にしないのかもしれませんね。 あるいは、堅物に見えたと思われる私をただからかって反応を見たかったのか、または私のことが文字通り「眼中になかった」のか。その答えは、今でも謎のままです。 (続く)
2021.11.15
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「ユビュ王」について私が書いたメモも見つかりました。 ジャリの造語である「パタフィジックス(pataphysics)」という言葉も書かれていますね。 パタフィジックスとは、ジャリの言葉を借りれば「宇宙の例外を支配する法則」を扱う哲学のようなもので、人間の論理や科学理論からはみ出た現象を補完的に説明します。ジャリによれば、宇宙で起こるすべての出来事は、驚くべき出来事として受け入れられるのだとか。 ジャリはまた、パタフィジックス理論について次のように説明しています。 「もし、手の上のコインを落とそうと思ったら、コインは落ちます。次にどうなるかというと、無限の偶然性によって同じようにコインが落ちるようになるのです。別の人の手からも何百というコインが、無限の、想像できないような起こり方でこのパターンを踏襲するのです」 当時の私がこの文章を読んだら、何でこのようなことを言うのか全く分からなかったでしょうね。でも、オカルトを知る今の私なら、ジャリの言っていることがよくわかります。コインは重力によって落ちるのではないのです。皆がそう思うから落ちる。別に落ちなくてもいいわけです。その場にとどまっていても構わない。スプーン曲げも同じですね。皆がそう思えば、無限の偶然性によってスプーンは曲がり、止まった時計は動き出すものなのです。結局どのような哲学や学問もオカルトに突き当たるようになっているのですが、そのことはまた別の機会にお話しいたしましょう。(続く)
2021.11.14
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ジャリは『ユビュ王』の上演後、『妻を寝取られたユビュ』(1897年)『鎖につながれたユビュ』(1899年)を書きますが、ジャリの存命中には上演されませんでした。私たちが読まされた『ユビュのすべて』にはそのどちらも掲載されており、まさに不条理の塊のような本でした。 さて、そのジャリの『ユビュ王』ですが、実はイギリスに留学する前の1980年1月に日本語訳の劇を「渋谷ジァンジァン(我々は「ジャンジャン」と呼んでいました)」という小劇場で観劇していました。だからちょっとだけ、リーディングの宿題で楽ができたわけですね。 この小劇場は1969年7月、東京・渋谷の東京山手教会地下に誕生しました。収容観客数は200人未満の狭い劇場で、舞台の左右に観客席があるという変則的な構造になっていました。まさにアンダーグラウンド劇場(アングラ劇場)で、実家に近いこともあり、時々観に行っておりました。 不条理劇や前衛的な劇のメッカのような劇場で、70~80年代を中心に一世を風靡しましたが、時代の変化や経済活動の停滞を背景にして、運営がうまく行かなくなり、2000年4月に閉鎖されました。現在は音楽などのライブハウスとして使われているそうです。 (続く)
2021.11.13
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俗物の超人ユビュを生み出したアルフレッド・ジャリについても触れておきましょう。 アルフレッド・ジャリは1873年に9月8日、フランス西部マイエンヌ県のラヴァルに生まれました。父親はアル中で落ちぶれたセールスマン、ブルターニュ地方出身の母親は音楽と文学を愛する教養人でしたが、母方は精神疾患の家系でもあったようです。またアルフレッドには8歳違いの姉がいました。 1879年に母親は父親に見切りをつけ、二人の子供を連れて故郷のブルターニュ地方に引っ越します。1988年には同地方のレンヌに移り、15歳になったアルフレッド・ジャリはリセ(フランスの国立高等学校)に入学します。そこで彼は非凡な才能を開花させます。 学業で優れていたジャリは、すぐに悪ガキ・グループを率いるボス格になります。そして、善良だが肥満体でどこか抜けている物理学の先生をからかうようになります。ジャリらは、その先生の名前であるエベールをもじった「エブ親爺」を主人公にした人形劇「ポーランド人」を創作し、仲間の家でその劇を演じて興じていました。このエブ親爺が後に「ユビュ親爺」に変わるわけですね。 ジャリは17歳でバカロレア(高等学校教育の修了を認証する国家試験)に合格。パリに引っ越して、さらに上の高等教育(現在の大学)を受けることを目指しました。入学を認められませんでしたが、ほどなく彼の書いた詩や散文が論壇の注目を引くようになります。1894年には韻文と散文の詩集『記念すべき砂の記録(Les Minutes de Sable Memorial)』を出版。そして23歳になったときの96年の『ユビュ王』の上演で、賛否両論が巻き起こる演劇界の大スキャンダルを引き起こします。それまでの演劇では絶対にありえなかったような主人公が登場し、ありえないような物語が展開し、演劇におけるすべての既成概念を破壊してしまったからです。 この劇で一躍有名人になったジャリは、その後の人生で、まるで自分自身が「ユビュ王」になったかのような傍若無人ぶりを発揮します。悪趣味と退廃に満ちた生活を送るようになり、アルコールや薬物に依存するようにもなりました。奇行も目立つようになりますが、人気は衰えません。 彼および「ユビュ王」は、マックス・ジャコブ、ギョーム・アポリネールといった若き詩人やスペインの画家パブロ・ピカソなどの若き芸術家たちに多大な影響を与えました。ベテランの芸術家たちも同様でした。フランスの画家ピエール・ボナールは飼い犬に「ユビュ」、詩人ステファン・マラルメは飼い猫に「ムッシュ・ルビュ」「マダム・ルビュ」と名付けたほどです。 それほど愛されたジャリですが、不摂生な生活がたたって結核が悪化、1907年11月1日にパリで死去します。34歳という若さでした。 (続く)
2021.11.12
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今日は遅くなってしまったので、ユビュ王の話はお休み。その代わり、これまで撮りためていた写真から、とっておきの一枚をご紹介しましょう。それがこちら。9月30日午前11時3分。神奈川県のとある港を歩いているときに、空にまぶしい光を見たような気がしたので撮影しました。太陽の光輪ともいえる「光環」ですね。彩雲に近いかもしれません。迫力のある太陽と雲でした。
2021.11.11
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ユビュ王の主人公は、卑劣で尊大な「ユビュ親爺」です。作者のジャリがフランス・ブルターニュ地方にあるレンヌ高校在学中の1888年、15歳で、一教師をからかうために「ユビュ王」を人形劇で上演したのが初めです。その後改訂され1896年に出版・上演されました。どのような教師だったかはわかりませんが、ジャリの標的は「ブルジョワの愚劣さ」など社会に巣くってきた既成概念だったようです。 では物語を追ってゆきましょう。 いきなり「くそったれ!」という俗語で登場したユビュ親爺。この俗物の塊のような男は、妻にそそのかされて、ポーランドの王や王族たちを殺して王国を乗っ取ります。殺されたポーランド王は幽霊となって生き延びた息子ブグルラの前に現れ、復讐するよう告げます。 一方、王となったユビュ親爺はポーランド国民に重税を課し、貴族は殺して財産を巻き上げるなどやりたい放題の限りを尽くします。加えて自分の子分を刑務所に幽閉してしまう始末。脱獄した子分はロシアに逃れ、ロシア皇帝にユビュに対して宣戦布告をさせるように仕向けます。 ユビュがロシアの侵略軍に対峙している間に、妻は宮殿にあった金銀財宝を盗みますが、反乱軍を率いてユビュ王打倒を掲げるブグルラに宮殿から追い払われます。妻はロシア軍と戦っているユビュ王の元へ逃げますが、ユビュ王はロシア軍に敗れ、支持者からも見捨てられて敗走中。しかも熊に襲われるなど踏んだり蹴ったり。妻ともめている最中に反乱軍に追いつかれますが、熊の死体を使って反乱軍を何とか撃退します。その後、夫婦でフランスに逃げるところで劇は終わります。 すぐにわかるのは、シェイクスピアの『マクベス』や『ハムレット』などをパロディ風にアレンジしていることですね。しかし、やっていること(妻にそそのかされて王殺し)はマクベスでも、ユビュ親爺には良心の欠片も、常識的な心もない点で、マクベスやその他の物語の主人公を超越しています。その超人性に皆惹かれるのでしょうね。 何から何までハチャメチャなユビュ王の衝撃的な登場と、その辛辣で卑猥な台詞が続く芝居に客席は騒然となったということです。世間の評価は割れましたが、多くの知識人が少なからず影響を受けたことは否定できない事実でした。 (続く)
2021.11.11
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不条理劇の先駆けがピランデッロの『作者を探す6人の登場人物』なら、フランスの作家アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』は、「元祖不条理劇」と呼んでもおかしくない、予想不可能のハチャメチャな劇です。ピランデッロの作品よりも四半世紀早い1896年に上演されました。 本来なら(時系列的に読むならば)「ユビュ王」を読んでからピランデッロの作品を読み進むといいわけですが、「ユビュ王」のほうが長編なんですね。しかも我々はユビュ王シリーズの全作品を収めた500ページもの大作『ユビュのすべて(Tout Ubu)』を読まされましたから、かなり時間を取られました。こちらがその表紙です。 その意図はおそらく、最初に短編劇を読ませて、次により長い中・長編劇を読ませていくほうが学生にとって負担が少ないからではないかと思います。いきなり「ユビュ王」では疲れてしまいますからね。「ユビュ王」のストーリーも滅茶苦茶ですから、読むのは結構骨が折れました。 骨が折れる理由はほかにもあって、俗語のオンパレードでもあるからです。しかも古語的です。たとえば劇は、最初に「Merdre!(くそったれ!)」というユビュ王の第一声で始まるのですが、現代風に書けば「Merde!」です。フランス語の辞書には出てこないような言葉のオンパレードですから、もうこちらは勘(あるいは類推)で読むしかありません。もっともフランスの俗語に関して言えば、寮メートでもあった、アフリカ系フランス人のノアが教えてくれましたけどね。 俗語満載の作品でしたが、結構、楽しめる劇でもありました。次回はそのユビュ王の面白さに迫りましょう。 (続く)
2021.11.09
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ケント大学にいた当時は「時代霊」の存在などまったく知りませんでしたから、ピランデッロのことも、私は「面白い物語を書く作家だな」くらいにしか思っていませんでした。ピランデッロ本人がどう思っていたかはわかりません。薄々感じていたか、あるいはあくまでも自分が「発見」したと思っていたのか。いづれにしても、彼はその後、この劇文学世界を席巻することになる「不条理劇」の先駆けであるとみなされています。 当時、私が『Six Characters in Search of an Author (作者を探す6人の登場人物)』の余白に書きこんだメモです。 クラスでは当然英語で意見を言わなくてはいけないので、コメントも英語で書いていますね。 ピランデッロの『作者を探す6人の登場人物』の後、ブラドビーのコースで読まされたのは、アルフレッド・ジャリの『Ubu Roi (ユビュ王)』でした。 (続く)
2021.11.08
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最初に私が「時代霊」の存在に気が付いたのは、1984年のことでした。この年の6月に私は共同通信社富山支局の記者として、山口博・富山大学教授とともに「北アルプス立山の麓にある尖山は、古代日本のピラミッドではないか」という記事を書いたのですが、ちょうど同じ月に「サンデー毎日」が「古代日本にピラミッドがあった」という企画の連載を始めています。まったく打ち合わせもせずに、同時発生的にこうしたことが起こるのは、極めて尋常ではないことのように思われました。まるで誰かが背後で操っているようです。あとで気づくのですが、これが「時代霊」のような気がするんですね。 不思議なことは続きました。その後の取材で私は、東経137度11分に羽根という地名が並ぶ「羽根ライン」を発見するのですが、実は「発見した」というより、羽根ライン作成にかかわったとみられる「霊団」によって「発見させられた」という経験をします。そのいきさつはこうです。 富山市の羽根、岐阜市の羽根、愛知県の二つの羽根という地名を地図上で「発見」した後、私はまだそのラインが偶然の産物ではないかと疑っていました。そこで私は、ある種の占いをします。「もし富山湾を隔てた富山市の対岸の能登半島にも羽根という地名が東経137度11分上に存在したら、このラインを人為的なモノと認めよう」と考えたわけです。おもむろに能登半島の地図を広げて、目でそのラインを追ってゆきます。最初に目についたのは、奥能登最高峰の宝立山です。さらに南に南下すると、何とそこに羽根という地名を見つけてしまったんですね。 約束した以上、羽根ラインが人為的なモノであることを認めざるを得なくなりました。加えて、時期が来たらこのことを本にしなければいけないということもわかってしまいます。まさに「時代霊」に嵌められた感じ。言い換えると、時代霊によって羽根ラインを発見させられたということになるわけです。 自らの「発見」と、時代霊による「発見させられる体験」をある程度区別することもできます。「発見させられる」ときは、自分が思ってもみなかったことや、行動をさせられるからです。 たとえば、天体が子午線を通過する現象を「南中」や「正中」と呼びますが、私は「正中」という言葉はまず使いません。ところが、「発見させられる」ときは「正中」という言葉で来るわけです。本にも書いたので詳しくは説明しませんが、最初に「山岡正」という霊感(インスピレーション)が来て、何だかわからずにいると、数日後に「正」とは「正中」のことであるという言葉(正確に言うと、言葉と映像が合体したようなイメージ)が朝方降りてきて、岐阜県山岡町に正中線を引けということがわかるという具合です。「正中」という予想外の言葉が使われていることによって、私にとっては私以外の誰かが私に霊感を与えたことがわかるわけです。 2011年1月に、もう再び会うことはないと半ば決めていた第73世武内宿禰こと竹内睦泰氏に会うことになったのも、「私と竹内氏がコーヒー党か紅茶党の違いしかない」という「時代霊」からの「全く予想外の説得」があったからでした。 このように私たちは、実は「時代霊の働き」ともいうべき「霊感」に常に操られているのではないかと思われてきます。すなわち、「自らの発見」など本当は存在しない可能性もあります。すべての発見の背景には、「時代霊」がかかわっているのかもしれませんね。(続く)
2021.11.07
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自分の無意識(潜在意識)あるいは集合的無意識からの見えない働きかけ――不条理文学の神髄はここにあります。 たとえば夢を見るメカニズムを考えてください。夢には何か論理的な筋道があるわけではありません。すべてが自分の潜在意識から上がって来る漠然とした心の状態の表れです。ピランデッロの「作者を探す6人の登場人物」も同じです。作者の潜在意識の中に隠されている六つの異なる性格が、作者に劇を書かせようとするからです。 カフカの『変身』も同様です。別のモノに変化させられることへの漠然とした不安や恐れが「巨大な毒虫」として登場します。時代を考えると、それが集合的無意識からの働きかけであることもわかってきます。虫も殺せないような人が、ある日突然兵隊にされて、人間を殺す「駒」に「変身」させられる時代だったからです。その時代の集合的無意識の中にある戦争に対する不安や恐怖が、カフカをして「毒虫」を登場させたとみることもできます。目に見えない集合的無意識を人間の「巨大な霊」とみなせば、「時代霊」が作品を書かせたともいえるわけです。 もちろん私は、当時はそのようには考えておりませんでした。物語に登場する人物は、作者が想像して生み出すモノだとばかり思っていました。しかしその後、私自身も経験するのですが、ある特定の傾向の物語を人間に書かせる「時代霊」が存在することに気づきます。その働きかけは、やはり集合的無意識からやってきます。 ピランデッロは、そのことをこの劇作品で見事に描いていますね。本人が自覚しているか、していないかにかかわらず、多かれ少なかれ、芸術家は「時代霊」からインスピレーションを受けて作品を生み出します。そしてそれによって生み出された「登場人物」や「作品」は、作者の意図をはるかに超えて、自らの意志で勝手に動き出すものなのです。まさに『作者を探す6人の登場人物』に出てくる「監督」が、そうした「作者」の立場を代弁しています。登場人物たちの思わぬ言動に右往左往させられる様が描かれていますね。自分でも想像できないようなことを彼らは口走ったりします。 自分の意図とは違う方向へ向けて走り出したり、もう制御不能の状態です。自分はもう、彼らの言動を書きとめるのがやっとの状態になります。にわかには信じられないかもしれませんが、本当です。そういうことが実際に起こるのです。ここで、私自身の体験も紹介しておきましょう。 (続く)
2021.11.06
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いかがでしたでしょうか。ピランデッロの『作者を探す6人の登場人物』は、当時としてはかなり革新的な、まさに型破りの劇でした。劇場の既成概念をほとんどすべて破壊していますものね。 実際、この作品がダリオ・ニッコデーミの演出によって1921年5月9日に初めてローマのヴァッレ劇場で演じられたとき、大変な騒ぎと議論を巻き起こしました。その時の様子は、次のように書かれています。 (この劇の)非論理的な進行に憤慨した観客からは「ここは精神病院か!」とか「全く理解できない!」などの怒号が飛び交った。その場に娘と共に居合わせた作者(ピランデッロ)は、憤慨する群衆を避けるため、横の出口から劇場を去らなければならなかった。 いやはや、劇を上演するのも命がけですね。でもローマ公演は不評でしたが、同年のミラノでの再演では一転して大好評を得ます。さらにピランデッロも作品の構造とアイデアを明確にする努力を続けたため、評判はうなぎ登り。1922年にはロンドンやニューヨークでも演じられ、1923年のパリ公演でも大成功を収めました。以後瞬く間に、日本(1924年築地小劇場)を含む世界中で翻訳上演されるようになりました。 こうして、既存の演劇形式を解体するというピランデッロの試みは大成功したわけですね。不条理文学はすでに紹介したジードの『法王庁の抜け穴』(1914年)や、有名なフランツ・カフカの『変身』(1915年)などにその萌芽を見ることができますが、ピランデッロの『作者を探す6人の登場人物』は、その中でも不条理演劇の先駆けとみなされています。 この1914年、15年、21年というのは、注目すべき年代でもあります。第一次世界大戦とその後の混乱期と時期が一致しますものね。戦争という不条理が、この現実界を席巻していた時期と重なります。人間の理性や論理が通じない不気味な世界を感じ取った人間の集合無意識が、まさに「作者を探す6人の登場人物」のようにジードやピランデッロにこうした不条理文学を書かせたとも言えるのではないでしょうか。(続く)
2021.11.05
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登場人物は作家が作り上げて書くものでなく、登場人物が作家を探して書かせるのだというピランデッロの発想は、見事ですね。ここには「胡蝶の夢」のような逆転の発想があります。しかも、単純な劇中劇ではありません。舞台俳優たちと、作品の登場人物たちの間で、誰が舞台で演じるかを競い合うわけですからね。すべての既成概念を打ち破ることが起こり始めます。 それでは、舞台で演じることになった「登場人物」たちが何を演じたのかを引き続きみてゆきましょう。 実際に起きた通りに再現するよう求めた「継娘」の前に、突然「登場人物」として、太って派手な衣装を着た「マダム・ペース」が呼び出されます。「継娘」が身を置いた売春宿の女主人です。もちろん俳優ではなく、「ホンモノ」ですから、自分のキャラクターそのままにふるまいます。やがて「現実」が「登場人物」たちの「世界」に圧倒され始めます。 監督が俳優たちに「登場人物」たちを演じさせようとしても後の祭。結局、残りのシーンはすべて「登場人物」たちだけで演ずることを容認することになります。 特に舞台の主導権を握ったのは「継娘」でした。容赦なく「現実」を突き付け、監督を困らせます。「登場人物」たちの「現実」が、「現実」の舞台を支配してゆきます。 最後は「登場人物」たちに起こった庭園での悲劇で終わります。縒りを戻そうと試みたとみられる「6人の登場人物」が集まっている中、「女の子」が庭の泉で溺れ死んで、「少年」が拳銃自殺します。あっけにとられた監督や俳優たちは、この悲劇を前にして「現実」と「劇」、「真実」と「作り話」の区別が付かなくなり、混乱状態に陥ります。収拾がつかなくなったので、監督が舞台稽古の終了を宣言、俳優たちを家に帰します。 そして監督が足下を照らす照明を一つだけ残して照明を全部消すように命じると、いきなり緑のライトに照らし出されて背景幕の向こうに、亡くなった2人を除く4人の「登場人物」のシルエットが現れます。監督が仰天して見つめる中、「息子」「母親」「父親」の順で、舞台の袖から「登場人物」たちが出てきます。最後に「継娘」が舞台の左袖から現れたかと思うと、客席に降りて階段を駆け上ります。そして観客席の後方で立ち止まり舞台を振り返り、笑い出したかと思うと、そのまま劇場を立ち去ります。 後にはその「笑い声」だけが響き渡ります。(続く)
2021.11.03
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私がケント大学で読んだ『作者を探す6人の登場人物(Six Characters in Search of an Author)』の表紙です。 80ペンスと書かれてありますから、400円くらいですね。原書は当然イタリア語で書かれていますが、授業では英訳で読みました。70ページしかありませんから、半日もあれば読めますね。 あらすじは次の通りです。 ピランデッロ作の「ゲームのルール(やり方)」という劇のリハーサルを始めようとしていたある劇団のところに、見知らぬ六人の人間がやってきて邪魔をします。リハーサルを中断させられたことに劇団の監督(演出家)は腹を立てて、彼らに説明を求めます。6人のうちの「父親」が、彼らは未完の劇の登場人物であり、物語を完結させてくれる作家を探しているのだと説明します。 監督は最初、彼らは気が触れているに違いないと思いますが、彼らが真剣に自分たちの身の上話を語り始めると、彼らの物語に興味を持ち始めます。「父親」と「母親」には一人「息子」がいたのですが、二人は離婚します。「母親」は再婚相手との間に、「継娘」「少年」「女の子」を儲けます。この「父親」「母親」「息子」「継娘」「少年」「女の子」が作者を探す6人の「登場人物」というわけです。 最初に噴出した問題は「父親」がかつて「継娘」を買春しようとしたという疑惑でした。「父親」は「継娘」のことを覚えていないと言い張りますが、「継娘」は「父親」が身に覚えがあるはずだとなじります。そこに「母親」が中に割って入り、「継娘」に「父親」が別れた夫であると告げると、「継娘」と「父親」はお互いに不快感を示し、憤慨します。こうしたやり取りを見た監督は、自分は作家ではないが、彼らの物語を劇として上演することに同意します。 20分の休憩の後、彼らの物語劇を始めようとしますが、誰がどう演じるかで再びもめます。「登場人物」たちは実際に起きた通りに再現するよう主張し始めたので、監督や役者たちと、ことごとく対立するようになったんですね。たまりかねた監督は、「登場人物」たちにとりあえず、彼ら自身を演じてもらって、役者たちはそれをよく観察・参考にし、後で舞台で演じてもらうことにしました。(続く)
2021.11.02
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英文学と仏文学という二つの基礎コースのほかに私が履修したのは、専門コースである現代フランス劇文学でした。コース番号はH368。「H」はHumanities(人文科学)の「H」ですね。 担当教官はデイヴィッド・ブラドビー講師(当時)でした。専門コースを取るためには、事前に担当教官に会って話をして、了解を得なければなりません。そこでコース登録の日に、確かケインズ・カレッジかエリオット・カレッジだったと思いますが、ブラドビー講師に会いにゆきました。そのとき、ベケットの論文を書こうとしていることを伝えて、彼のコースを取りたいと告げると、あっさりと「いいよ」と言ってくれたことを今でもよく覚えています。気さくな感じの先生でした。 ただし、その後急にフランス語で「何年間フランス語を勉強してきたのか」などと聞かれてフランス語が話せるかどうかのテストもされました。そのくらいの会話なら、ICUでフランス人講師に鍛えられていましたから、スラスラ答えられます。無事、そのテストにも合格して、晴れて履修できるようになったいきさつがあります。 さて、そのブラドビー講師は、これも後で知ったのですが、この分野では新進気鋭の研究家として結構有名であったようです。1970年にケント大学に劇文学学科を創設した立役者であるとともに、大衆映画と演劇を扱った最初の学術研究会を発展させた功労者であったともWikiにも書かれています。学歴としては、名門私立のラグビー高校からオックスフォード大学のトリニティ・カレッジに進み、修士号を取得、グラスゴー大学で博士号を取っています。ケント大学で教鞭をとった後は、フランスのノルマンディにあるカーン大学の劇文学部長を経て、1988年にはロンドン大学王立ホロウェイ校に移って教授、学部長となり、最終的には名誉教授にも就任したと書かれています。 確かに彼のカリキュラムは非常に優れていました。不条理劇が世界でいつ頃どのようにして生まれ、それがどう発展していったかがよくわかるようになっていました。 そのカリキュラムの最初に読まされたのは、1921年にイタリアの作家ルイジ・ピランデッロが書いた不朽の名作『作者を探す6人の登場人物』です。次回はこの作品について説明しましょう。(続く)
2021.11.01
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