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原田マハ氏の「たゆたえども沈まず」の前半を読み終えて、19世紀中半のパリの美術愛好家の間での「浮世絵」ブームがここまで凄いものだったということを初めて知りました。 ゴッホの弟でありパリの画廊で働く「テオ」と国際的な浮世絵画商の「林忠正(1853-1906)」の大学の後輩でパリに呼び寄せてもらい彼が経営する画廊で働く「加納重吉(架空の人物)」との心の交流を中心に「アカデミーの画家」、新鋭の「印象派」や「浮世絵」のからくりを克明に描いているストーリーにぐいぐいと引き込まれて行きます。 ゴッホが「浮世絵」に随分影響を受けていたというのを知り、以前に「浮世絵」がヨーロッパに渡った経緯について自分なりにも調べてみました。 日本が鎖国をしていた江戸時代に唯一ヨーロッパの国で交易を行っていたオランダへ輸出する陶磁器などを包む包み紙として使われていたという事を知りました。当時の日本人にしては今で言うコンビニスイーツ一個の値段のチラシのような存在で、美術愛好家の間でも包み紙という印象程度の物だったようです。 オランダ人であるゴッホやテオは小さい頃からそれを目にするチャンスがあったのではと勝手に思っていたのですが、小説の中ではゴッホもテオもパリに来て初めて「浮世絵」を知ることになります。週刊美術館 ゴッホの画像から。 左が「渓斎英泉」が19世紀後半に描いた「雲龍打掛の花魁」で、右は「林忠正」のアイデアで「パリ・イリュストレ誌」の1886年の「日本特集号」の表紙を飾ったもので表紙だけではなく彼が書いた日本美術の紹介も掲載されているそうです。 林忠正の許可を得てテオとゴッホに適正価格で「浮世絵」を譲る役を果たすのが加納重吉となっています。テオがゴッホを支えたように林忠正を支える加納重吉の人柄にも惹かれます。 「日本趣味・花魁(英泉による)」 ゴッホ 1887年 アムステルダム・ゴッホ美術館週刊美術館 ゴッホの画像から。 加納重吉から受け取った英泉の浮世絵を「週刊美術館」の説明によるとゴッホはトレース紙を使って模写したそうです。 林忠正と加納重吉がパリに着いた時には既に浮世絵のブームはパリにあり、オランダから美術愛好家達が浮世絵を求めてパリで取り扱いをしている画廊回りをする箇所が小説にあります。 オランダに最初渡った包み紙としての浮世絵を誰がどのようにここまでのブームを引き起こしたのか興味が尽きません。
2021.01.30
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もし1970年にピカソやモディリアーニがアトリエ兼住居として使っていた「Bateau-Lavoir(バトー・ラヴォール」 洗濯船」が全焼せず、彼らのアトリエが当時と同じような形で復元され公開されていたら、もの凄い観光スポットになっていたのかと思います。 2006年に行った時はきちんと下調べをしていなかったので「洗濯船」が火事のためもう存在していないことも知らず、中に入れるものと期待していました。 「ショーケース」だけが展示され、写真右側の説明もフランス語で書かれているため、ほぼ年代と人物名しか理解できませんが「洗濯船」の名付け親であり詩人の「ジャックス・ヤコブ」の名前もあり、ピカソが1904年からここにアトリエを構え1907年にキュビズムの発端となる「アヴィニョンの娘たち」を完成させたと書かれています。また当時ピカソの恋人だった「フェルナンド・オリヴィエ」の名前もあります。 彼女はピカソとの「洗濯船」での生活について書いた本の中で「極貧と冬の寒さにもめげず休むことなく制作を続けた」と書いています。ピカソは1909年に「洗濯船」を離れますが、後に「みんな、いつかきっと洗濯船に帰ってくる。みんな、本当に幸せだった場所に。珍獣ではなく、画家として認められた場所に」と言っていたそうです。 イタリア人画家「モディリアーニ」は1906年に渡仏し1907年頃から「洗濯船」や周辺のアパートを転々としていたようです。1900年に入ってモンマルトルは古い建物の取り壊しが始まったので、最終的にはモンパルナスへアトリエを移したようですが、1915年に「洗濯船のアトリエ」で撮られた写真が残っています。また1950年代には実際のモディリアーニのアトリエが残されていたことを確認したという記録もあります。 画家仲間の「モーフラ」を激励しに「洗濯船」を訪れた「ゴーギャン」、パリの洗練した女性を描いたオランダ人画家、キース・ヴァン・ドンゲンが妻と子供と1年だけ過ごした「洗濯船」。そしてヴァン・ドンゲンは晩年を過ごしたモナコの別荘を「洗濯船」と名付け91歳で「洗濯船」で亡くなったそうです。 画家達が魂を燃やした場所「洗濯船」は火事で消滅しても永遠の場所なのだなぁと改めて思います。
2021.01.07
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