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赤坂に近い、東宮御所の前に、高橋是清記念公園があります。かつてこの地に「だるま宰相」といわれた高橋是清の自宅がありました。丸いふくよかな顔立ちから「だるま」といわれたました。高橋是清は、アメリカに渡ったときに、だまされて奴隷に売られそうになったといエピソードがありますね。「2・26事件」で殺害されたのは、実に残念でした。
2012年03月15日
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先週、取材で大阪まで一泊二日で行ってきましたが、仕事が終わったあとに、大阪の日本橋(にっぽんばし)まで足を延ばし、黒門市場まで行ってきました。黒門市場は、市場と言っても築地市場のような雰囲気ではなく、大きな商店街といった感じです。この市場には「ふぐ屋」「魚屋」「惣菜屋」「フグ料理専門店」などが軒を並べています。上は大きなマグロのディスプレー。銀色に光っています。これはイセエビですね。そして、フグ。フグ屋が多いということは、大坂が「食道楽」の町だからなのでしょうか。市場を歩いていると、惣菜屋が数軒、目に入りました。特に道端で「おでん」を炊いている光景は、東京ではめったに見受けられないのではないでしょうか。暖かそうな湯気をあげている「おでん」が、いかにも大阪という町を象徴しているような気がしてなりませんでした。
2012年03月12日
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先日の7~8日、取材旅行で大阪まで一泊で行ってきました。大坂は、何年ぶりでしょうか。列車に乗って、何が楽しいかと言えば、小生にとっては駅弁を食べることです。上の写真は、新幹線に乗る前に、東京駅で買った「五目わっぱ飯弁当」(900円)です。数ある駅弁の中でも廉価です。炊き込み御飯、鶏照り焼き、ナメコとソバの実の和え物、山菜の醤油煮、うずら卵、錦糸卵などです。「駅弁」の特徴は、御飯やおかずが冷たくても、美味しく食べられることがポイントだと思います。仕事が終わったあと梅田のホテルに近い北新地まで、食事に出かけていきました。北新地は小じゃれたバーや、クラブ、飲食店が軒を並べています。そこで入ったのが大阪名物「串揚げ専門店」。ソースに二度漬け禁止がルールですね。串揚げは、あのサラサラのソースだから、比較的さっぱりと食べられるのでしょうね。8日の帰り、大阪駅で買ったのが「炭火焼焼き鳥弁当」(880円)。内容は鶏肉味噌だれ焼き、鶏そぼろ、ネギ焼き、煮卵、シシトウなどです。買ってみて、確か東京駅で買ったのも、鶏肉関係の弁当だったな。しかし、同じ鶏肉でも料理の仕方が違っていたので、安いわりに、これも結構美味しくいただきました。御馳走さまでした。
2012年03月09日
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本日も冷たい雨が降っています。さてさて下の写真は、深川にある法乗院の閻魔堂に鎮座している「閻魔様」です。真っ赤な顔に、憤怒の形相が迫力ありますね。大震災の復興がすすまない、政治の指導力のなさ、東電の被害者にたいする保障の遅延、あげれば不満の種はいくらでもあります。それに、先日、東京や埼玉でおきた孤立死の問題をみると、現代の社会の冷たさに唖然としますね。昔、日本はこんな無縁社会ではなかったはずなのに、高度経済社会の実現にまい進してきた結果、大切な何かを置き忘れてきてしまったような気がします。閻魔様は、怒りの表情を浮かべて、何にたいして一番怒っているのか、できるものなら聞いてみたいところです。
2012年03月05日
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東京の各所を歩き回っていると、「こんなところに」と思われる意外な場所に、歌碑が残されています。すでにこのブログで紹介した歌碑もあるかもしれませんが、とにかく幾つかご紹介。上野駅前にある「ああ上野駅」の歌碑。井沢八郎が唄って大ヒットしましたね。集団就職で東北から上京した「金の卵」たちの心情を唄った歌で、どこか懐かしげな雰囲気がありました。上は数寄屋橋交差点に近い歩道にある、石原裕次郎が唄った「銀座の恋の物語」の歌碑。歌碑全体がベンチになっていて、恋人同士が並んで座ると、真ん中に碑が収まるようになっています。歌碑の上にあるのが、何代目かの「銀座の柳」です。青山学院大学構内のチャペルの前にある、「学生時代」の歌碑です。青学の学生だったペギー葉山さんが唄い、大ヒットしました。しみじみと、青春時代を思い起こさせてくれますね。新宿、花園神社境内にある、芸能浅間神社の前にある「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑。藤圭子さんが、暗い声で唄ったクライ歌でした。江戸川を渡る「矢切の渡しは」都内で唯一となった渡し船です。その乗り場にあるのが「矢切の渡し」の歌碑。こういう歌を聞いて「いいな~」と思うと、日本人であることを、自覚させられます。上も数寄屋橋交差点に近いマリオンの前にある「有楽町で逢いましょう」の歌碑です。低音の魅力のフランク永井さんが唄って大ヒットしましたね。いずれも小生が若いころに、一世を風靡したヒット曲ばかりです。
2012年02月24日
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東京の町をあちらこちらと歩き回っていると、結構、記念碑や彫刻作品や銅像やらが多いのに気が付きます。上の写真は文豪・夏目漱石の胸像です。新宿区の早稲田町の住宅街に、小さな公園がありますが、この公園にかつて漱石の家があり、生涯をこの地で閉じました。今では「漱石公園」として整備され、その入り口にあるのが「漱石の胸像」です。上の写真は小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)の胸像です。この像は、今ではコリアンタウンに近い、大久保の住宅街にある小泉八雲記念公園のなかにあります。公園として整備される前、この地に八雲の家があり、彼もこの家で生涯を閉じました。漱石が暮らしていた場所も、小泉八雲が暮らしていた地も、今では大都会の真ん中ですが、昔はひなびた片田舎のような所で会ったに違いありません。
2012年02月22日
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江東区にある富岡八幡宮。江戸時代から有名な神社ですが、本殿に向かう参道の入り口に、伊能忠敬の像があります。伊能忠敬は、全国を歩き回って、正確な日本地図をつくったことで有名ですが、旅に出るときは、富岡八幡宮に無事を祈願したそうです。伊能忠敬の本職は、酒造業でしたが、早くに隠居し趣味で全国を調査。作成した地図を幕府に献上したというのですから、こういう日本人がいたことを、大いに誇りに思っても良いのではないかと思います。
2012年02月15日
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昨日、資料を探しに図書館と、大手の書店に行きました。その帰りに住宅地の阪を下っていたら、板塀に開けられた小さな窓から、柴犬が顔をだしていました。その、のどかな様子が可愛かったので、カメラを向けたら、いきなり吠えられました。怪しい者に観られたのでしょうか。すっかり嫌われてしまったようです。
2012年02月14日
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小塚原刑場といえば、江戸の仕置き場です。この処刑場が存在した期間に、およそ10万人くらいの罪人が処刑されたといわれます。死んでしまえば、みな仏様です。下の写真は「首切地蔵」といい、処刑された罪人たちを供養するために、寛保元年に造立されました。片田舎に出かけて行くと、道端でよく、赤いよだれかけをかけたお地蔵さんを見かけますが、それとはちがい「首切り地蔵」は、見上げるほど大きな地蔵菩薩です。先日、テレビを観ていたら、昨年の東北大地震で、胴体部分がずれてしまったとのことでした。この写真は数年前に撮影したものですが、現在では崩れるとあぶないので、分解して下してあるとのことでした。この3月には、この写真のお姿に修復されるとのこと。あの大地震は、こんなところにも大きな影響を及ぼしていたんですね。
2012年02月10日
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相変わらず寒い日がつづいています。でも、心配しなくても、春は確実にやってきます。春の香りといえば、わが故郷の長野県では、フキノトウが代表的な存在です。フキノトウは、雪が消えた田んぼのあぜ道や、畑のすみから顔をのぞかせるので、これが出てくると春が近いことを実感させられます。フキノトウで「フキ味噌」作りますが、作り方は地方によって色々あるようです。長野県の我が故郷では、摘んだフキノトウを、みじん切にし味噌と混ぜ、油をひいたフライパンで炒めます。やや苦みがあって、酒の肴によく合います。上は福寿草です。これも春の到来を感じさせる花ですね。正月の花として栽培されてもいます。鮮やかな黄色がきれいな花ですが、ご存知のように、この植物は有毒です。根は強心薬にもなりますが、素人療法では危険で、根を煎じて飲んで亡くなった人もいます。きれいな花には毒がある、ということですね。
2012年02月07日
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下の写真は、小石川後楽園内の隅の方に、ひっそりと建っている「藤田東湖先先護母致死乃処」の石碑です。小石川後楽園は、かつての水戸藩の上屋敷があった場所で、大名庭園の趣を残しています。松平斉昭(最後の将軍、徳川慶喜の父)が藩主のとき、儒学者の藤田東湖は水戸藩に登用され、「天保の改革」を推進。斉昭の側用人として活躍します。安政2年、江戸をマグニチュード7~7・5の大地震が発生しました。このとき、水戸藩邸も大きな被害をこうむり、家臣たちの家屋が倒壊します。藤田東湖は、崩れてきた家を支え、母親を救いますが、自分は家の下敷きになって圧死します。享年49でした。東湖の親を思う気持ちは、いつの時代でも尊いものとして、後世に残したいという気持ちが石碑として結実したのでしょう。数日前、東京大学の地震研から、4年以内にM7クラスの地震が発生する可能性が、70パーセントと発表されました。このところ、東京周辺でも細かな地震が発生しています。いざという時のために、しっかりと準備をしておきたいと自戒している昨今です。
2012年02月02日
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東京ラーメンが大好きなので、外出する先に、旨いラーメン屋がないかをネットなどで調べてから出かけます・先日、古書店街で知られる神田神保町へ出かけました。駿河台から神田神保町にかけて大学が多く、その関係から昔から多くの古書店が並んでいます。それに、貧乏学生相手の安い飲食店が多いのも確かだし、今でも学生やサラリーマン相手の、安い飲食店が数多く点在しています。そんな中で昔から値段も味も変わらないのが、「伊峡」という店の醤油ラーメン。神田の裏路地にあり、もう40年以上は同じ場所で営業しているのではないでしょうか。ラーメンは、神田という都心にありながら、430円という嬉しくなるような値段です。最近、漬け麺、油の濃いラーメン、まるでラーメンとは思えないような価格の高いラーメン屋が多い中で、この値段とシンプルさは貴重です。細麺に煮干しのスープがマッチし、このラーメンのフアンが多いのも確かです。具はチャーシューにシナチク、海苔が一枚、刻みネギだけというシンプルさで、しばらくするとまた食べに行きたくなりす。古書店を巡って小腹がすいたころ、ちょと立ち寄って食べたくなる味でした。
2012年01月30日
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先日、新横浜まで出かけたとき、ついでにラーメンを食べようかと、新横浜ラーメン博物館に立ち寄ってきました。今回で3回目なので、中の様子は良く知っています。ラーメン博物館の内部は、昭和33年の盛り場を再現しています。したがって、写真のような映画の看板も掲げてあるわけです。東宝のSF映画『地球防衛軍』は、1957年に公開された作品です。当時、小生は小学生でしたが、巨大なロボットなどが登場し、その画面に目を釘付けになったものでした。現在のようなCGを駆使したリアルな画像とは、比べられないほどちゃちなものだったに違いありませんが、当時のSF映画としては、胸を高鳴らせるに十分な出来だったように思います。団塊の世代にとっては「オールディズ」の懐かしい時代です。
2012年01月07日
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遅まきながら、明けまして、おめでとうございます。アッと言う間に新年を迎え、そしてもう仕事始めです。毎年、月日が過ぎていくのが、早くなっていくような感じがします。30数年、親しく交際してきた友人も、すでに3名が逝ってしまいました。あと、どのくらい元気で活動できるのか。そう思うと、毎日、充実した時間を過ごさねば、と一層強く思うようになってきました。生涯、現役でいたいので、体力と相談しながら、そこそこに頑張ろうと思います。今年もよろしくお願いいたします。
2012年01月04日
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寒くなってくると、我が家の近くを流れる野川に、さまざまなカモたちがやってきます。もともとダイサギ、アオサギ、コサギ、カワセミ、カワウ、ユリカモメをはじめ、カルガモ、オナガカモ、マガモなどが多い川ですが、冬になると一層カモ類が多くなります。写真はマガモのオスです。逆立ちをして川底の水草や藻を食べているんですね。早朝の食事中に、揃って盛んに水草を食べている光景は、なかなか滑稽でユーモア満点です。
2011年12月29日
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先日、撮影もかねて日本橋は人形町まで出かけてきました。人形町は江戸時代からつづく老舗が多く、また、安産にご利益があることで知られている水天宮があるために、多くの観光客で賑わっています。「人形町通り商店街」には、すでに「謹賀新年」と書かれた提灯が用意されていました江戸時代、日本橋人形町には人形芝居の小屋があり、多くの人形使いが住んでいたことから、「人形町」という町名になりました。商店街の一画に、上の写真のような時計台があり、江戸の庶民の様子が漫画で描かれています。なかなか粋な時計台です。人形町の名物といえば、やはり「人形焼」ですね。買い求める人が並んでいました。商店街から一歩裏道に入ったところに「あづま軒」という中華料理屋があります。町で良く見かける、普通の中華料理屋さんですが、この店で評判なのが醤油ラーメン(500円)です。来店する客の半数は、このラーメンを注文します。安いうえにさっぱり系の東京ラーメンで、小生の追い求めている味に近いラーメンでした。ストレート麺とスープのコンビネーションが絶妙で、「二日酔いの日には良いね」と常連客が絶賛していました。
2011年12月24日
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毎年、12月15、16日と1月の15、16日に世田谷区の世田谷2丁目にある「代官屋敷通り」で、「世田谷のボロ市」が開催されます。400年以上の歴史があり、東京都の無形民俗文化財に指定されています。平日にもかかわらず、大変な人出です。左の茅葺屋根が代官屋敷です。「代官町通り」は、300メートル以上の長さがあり、その両側に様々な品物を売る露店が並びます。写真のようなボロい古着も売られています。洗いざらした藍の色が、なかなかいい味をだしていますが、このボロをどんな人が買うのでしょうか。古着、骨董、農機具、おもちゃ、古本、ガラスのインテリア、まな板、箸、こわれそうな剪定ばさみ、はたまた埴輪なんかも売っています。なんだか訳が分からないような品々であふれています。見て回っているだけでも、面白いですね。昔は、糞尿やカマドの灰、ぼろきれ、糸紡ぎ機なども売っていたそうです。昔の人は、本当に「もったいない精神」で、モノを大切にしたんですね。このような市に行って、モノを大切にした昔を思い返すのも、自分への戒めとして大切かな、なんて思っています。
2011年12月19日
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我が家の近くを流れる野川にやってくるカワウです。肉食だけに眼光が鋭く、行動もすばやく精力的です。野川には大きな鯉がたくさん生息していますが、それ以外にフナやモツゴなどの小魚もいます。カワウはどこからか飛来すると、川にもぐりこれらの小魚を捕食しています。潜ったと思ったら、思わぬところから浮かび上がります。しばらく、泳ぎ回って小魚を食べ、腹がくちくなると浅瀬で羽根を広げて日なたぼっこをしています。うらやましいほどマイペースな奴です。
2011年12月16日
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調布飛行場です。セスナ機が何機も駐機しています。この飛行場から伊豆七島の大島、神津島、新島へ定期便が就航しています。荷物の積み下ろしから搭乗の案内まで、すべてがアナログで、ハイテクを駆使した近代的な飛行場と比べると、懐かしい感じがするのと共に、何故かとても安心できてしまいます。新中央航空という会社が、ドルニエという乗員2名、乗客19名のプロペラ機を運航しています。伊豆大島まで竹芝桟橋から高速船で行くと1時間30分、夜間に出る船で行くと8時間かかります。しかし、ドルニエで飛べばわずか25分で大島まで行くことができます。プロペラ機なので、高度が低く天気が良ければ海岸線はもちろん、東京湾を行き来する船の様子が手にとるように分かり、なかなか楽しいフライトのようです。ちなみに小生は、まだ乗ったことがありません。
2011年12月01日
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先日、用事があって東京駅まで出かけてきました。時間があったので、駅の八重洲口の構内を見て回っていたとき、見つけたのが下の写真のお菓子です。東京土産専門の売店に置いてありました。「野田でどーだっ」というお菓子です。確か850円くらいだったと思います。サブ・コピーに「どじょうもすくうが日本も救う」と書いてあります。本当にこの「どじょう総理」で、日本は救われるのでしょうか。何となく頼りなさげな印象にうつるのは、小生だけでしょうか。
2011年11月26日
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写真は、大河ドラマで放送している二代将軍の秀忠と、お江の方のお墓です。芝増上寺の本堂の裏手には、徳川将軍家の墓所があり、二、六、七、九、十二、十四代と将軍家生母側室の墓が集められています。かつては荘厳な御霊屋が増上寺の敷地内にあったのですが、戦災で焼失し昭和33年に荼毘にふされ、現在の地に集められたものです。それでも将軍家の墓所だけに、厳かな雰囲気がただよっておりました。
2011年11月21日
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好き嫌いはあっても、幕末の激動の時代に花を添えた人物の一人に、新撰組局長だった近藤勇がいます。東京都調布市は、近藤勇(こんどういさみ)にゆかりの深い土地です。上の写真は、墓所である龍源寺の入り口にある、勇の像です。もともと中流の農家の出でしたが、子供のころから豪胆な気質で、少年のころ家に忍び込んだ2名の盗賊を、白刃を光らせて追い払ったという逸話が残っています。調布市を通っている人見街道に沿った地に、勇の生家跡が保存されています。上の写真が生家の宮川家があった場所で、小さな祠が建てられています。上の写真が勇が生まれた宮川家。近在では中流の規模の農家でした。勇は成長すると近藤周助が教えていた、天然理心流の道場に通うようになり、やがて理心流の四代目を継ぐほどの剣豪になります。そうして、宮川家から近藤家の養子になり、近藤勇という名になります。上は宮川家の跡に残されている、勇が産湯を使った井戸です。竹矢来で蓋がしてあります。京都で新撰組を結成し、多くの討幕の志士を捕縛、または惨殺しましたが、1868年に官軍と甲斐勝沼に戦って敗れ、武蔵板橋で官軍に投降し斬首されました。上の写真は調布にある龍源寺。板橋で処刑されたのち、首は京都に送られ、遺体は板橋で葬られます。その後、勇の養子が遺体を引き取り、菩提寺である龍源寺に葬ります。首がないので、遺体は右肩に残っていた銃創で確認したといわれています。写真の右から2番目が勇の墓です。今でも、花が絶えません。激動の時代を駆け抜けた、34年の生涯でした。
2011年11月01日
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我が家の近くを流れている野川で、営巣しているカワセミです。夏のころはあまり見かけませんでしたが、秋も深まってきた今日この頃、川筋に沿ってすばらしい速さで飛び交っています。餌をとるときは、川面に張り出した茎や小枝の上にとまり、小魚を見つけるとダイブして捕食します。背中の瑠璃色の羽根が、実に美しい小鳥ですね。
2011年10月30日
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『大江戸錦絵散歩』(新人物往来社刊・オールカラー・定価2000円)を、上梓いたしました。歌川広重には「東海道五十三次」「東都名所」など、いくつくか連作の錦絵作品がありますが、この本は江戸の名所を描いた「名所江戸百景」を元にしたものです。「名所江戸百景」には、119点の作品がありますが、当時、広重が描いた119ヶ所(一部、二世広重の作品もあります)を歩いて、現在、その風景がどのように変わったのかを、錦絵とカラー写真を並べて紹介し、見比べられるようにしてあります。現場を訪ねられるように、地図も掲載しました。江戸の時代の風景や風俗に興味がありましたら、書店でお手に取ってみてください。
2011年10月28日
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先日、法事で山梨県の南部町に行ってきました。その帰り、東名高速に乗る途中、富士宮市内の浅間神社に立ち寄って来ました。上が浅間神社の本堂ですが、富士山登山路の表門戸になっている、由緒ある神社です。なかなか雰囲気のある神社で、全国から観光客が集まってくるようです。神社の境内にあるのが「湧玉池」。富士山の湧水が湧いていて、大きな池になっています。水量が豊富です。地元の人の話だと、「先日の地震で、湧き出す水量が増えた」ということ。そういえば、東北の大震災のあと、富士宮市でも比較的大きな地震があり、東南海地震の前兆ではないかとも、噂になりました。今回の大地震では、温泉が湧き出したところもあったりして、地下水の流れに大きな影響を与えたようですね。湧玉池に湧き出した水は、池からあふれ神田川という川に流れ込んでいきますが、池も川も全国名水百選に選ばれているほどきれいです。この池と川に棲んでいるのが鴨とニジマス。上の写真でみるとそんなに大きくは見えませんが、40~50センチはあるニジマスがたくさん泳いでいました。駐車場のおばちゃんに、「ここの鱒は釣ってもいいの?」と聞いたら、「今は禁漁になったけど、解禁期間中なら漁券を買えば釣ってもいいさ」という返事。そして「私はよう川魚は食べんわ。川の匂いもするし、アユも食べないんよ」と、聞きもしないことを、付け加えていました。ということで、釣っても良いことは分かりましたが、ハタと考えてしまいました。この場所は、いかにも釣りづらいぞ、、、、と。なぜなら、ニジマスが神社の境内という聖地から湧き出る水のなかで暮らしていること。それに、観光客がたくさん通る衆目のなかでロッドを振っていて、なかなか釣れないとなると「へたくそ」と、白い目で見られるのではないかという恐れがあるからです。つまり釣りをする環境としては、最低と思わざるを得ないからです。釣れればかなりファイトしてくれるだろうな、と思いつつ川面を見ていると、お母さんと一緒の子供が、パンをちぎって川面に投げました。すると、見事な体型の鱒が、ジャンプしてパンに飛びついておりました。
2011年10月21日
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先週、ワイフがカナダへ10日ほど紅葉見物に行ってきました。「アウトドア・ショップがあったら、フライを買ってきてね」と言っておいたので、買ってきてくれたのが、下の「トラウト用のフライ」と「サーモン用のフライ」です。ショップでタイイングしていた、老フライマンが「トラウトの釣るには、これがお勧めだよ」と、選んでくれたのが上のフライです。ドライとストリーマーですが、日本の渓流でヤマメやイワナを釣るには、かなり大きすぎるようです。上は「サーモン・フライです」。これも「お勧めだといって」選んでくれたフライです。写真右下のピンク色のドライフライは、小生が巻いた14番フックに巻いたフライです。日本の渓流で使う平均的なサイズではないかと思います。カナダのサーモン・フライがどんだけ大きいかが比較できるように、並べて撮影してみました。白のドライ・フライは、古典的なウルフパターンですが、こんなに大きなフライだと、飛ばすだけでも大変そうです。カナダの大きな川で、キングサーモンを狙うには、良いのかもしれませんが、日本では北海道で大型のスチールヘッドや、サーモンを釣る以外は、出番はないだろうな、と思ったのでした。
2011年10月17日
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写真の少女は「きみちゃん」といいます。野口雨情の童謡「赤い靴」のモデルになった少女の像です。「きみちゃん」は、家庭の事情からアメリカ人宣教師の養女になる予定でした。しかし、病気にかかり、当時、麻布長坂町にあった孤児院で亡くなりました。明治44年9月、わずか9歳でした。産みの母親は、娘がアメリカに渡って幸せに暮らしているものと思い、その話を雨情に語りました。母親の話を聞いて、雨情が書いたのが、「赤い靴はいていた、 女の子ー、いーじんさにい連れられて 行っちゃった、、、、」の詩でした。「きみちゃん」の像は、港区麻布十番の小さな公園の一画にあります。
2011年10月05日
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路地の入り口に「思い出横丁」とあります。昔は「ションベン横丁」とか「ゴキブリ横丁」と言われていましたが、定食屋の飯も、一杯飲むときのつまみも、非常に安い店が狭い路地の両側に並んでいます。昔は闇市の跡でした。高層ビルが林立する新宿駅のすぐそばに、このような路地があるのは貴重ではないでしょうか。再開発の波で、大きく変貌していく都会にあって、歌舞伎町の「ゴールデン街」といい、この「思い出横丁」といい、焼跡闇市の痕跡は、世界に誇る大都会・東京の歴史の足跡でもあります。ちあきなおみに「新宿情話」という演歌があります。猪俣良作詞、船村徹作曲です。「新宿は 西口の 間口5尺の ぽん太の店が とうとうつぶれて 泣いてるヒロ子、、、、」という、なにか切なくなるような歌詞です。ユーチューブでも聴くことができますので、興味ある方はどうぞ検索してみてください。この、「ぽん太」という店は、実際に思い出横丁にあった店だそうです。最近は、ここを訪れる外国人観光客も増えてきましたね。
2011年09月10日
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おぎのやの「峠の釜めし」です。全国的によく知られた、弁当ではないかと思います。もともと、信越線の「横川駅」の駅弁でした。昭和44年ころ、信越線で長野へ向かうと、「横川駅」で必ず停車します。急峻な碓氷峠を越えるために、駆動車を連結してパワーアップするからです。連結された列車は、カシャカシャと客車の下についている歯車を、アブト式というギザギザの軌道にかませながら登っていきます。つまり、あまりに急なので車輪が空転してバックしないように工夫されているわけです。そんなわけで碓氷峠の手前の「横川駅」で、列車は必ず停車するのですが、そのときに売りに来たのが「峠の釜めし」です。現在、信越自動車道の軽井沢SAや、長野の各所の土産物屋などでも売っていますが、当時は「横川駅」オンリーでした。今、値段は900円。昭和44年ころ200円でした。中身は昔とほとんど変わっていないようです。この釜は益子焼で、1合のお米を炊くことができますが、釜めしを買っ人の多くは、持って帰って植木鉢にしたのではないでしょうか。1個や2個は、家にあるご家庭も多いに違いありません。
2011年08月31日
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今週の火曜日は、急に暑さがぶりかえして、ちょっと歩くと汗が噴き出すほどでした。そんななか、電車で錦糸町まで出かけ、のんびりと歩いて亀戸天神まで行ってきました。これで何回目の訪問になるでしょうか。亀戸天神は学問の神様・菅原道真を祀ってある神社で、春の梅、初夏の藤の花で有名です。亀戸天神は江戸前期に大宰府天満宮から、亀戸に分祀された由緒ある神社ですが、その向こうに最新の技術を駆使して建設されている、東京スカイツリーが見えました。新旧の構築物が混在していました。時代を越えた風景が、実に不思議に見えました。江戸の情緒が急速に失われていく東京ですが、とどまることなく新しい風景へと変貌を遂げていくんですね。
2011年08月25日
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神戸へ取材旅行に行ってきました。神戸へ出かけるのは、20年ぶりくらいになるでしょうか。新幹線で出かけたとき、何が楽しみかといえば「駅弁」を食べること。上の写真は、新幹線に乗る前に東京駅で購入した「深川めし」(850円)です。「深川めし」といえば、下町の深川で、飯の上にアサリ汁をかけて食べる庶民の食べ物でした。今では地元へ行くと「深川めし」専門店がありますが、観光客向けで高い割に美味しくありません。以前、食べたときに、小生がもっていた「深川めし」のイメージが壊され、がっかりしたことがあります。それに比較すると、この駅弁「深川めし」は、江戸前のアナゴにハゼの甘露煮などが、アサリ御飯の上に載っていて、各段に美味しかったのです。東京駅の駅弁屋で、さまざまな駅弁が販売されていますが、迷った末に買った駅弁がヒットした、という感じでした。上の写真は帰りに新神戸駅で買った「地鶏弁当」(850円)です。炊き込み御飯の上に煮た鶏肉、鶏そぼろ、つくね、などが乗っています。鶏肉は肉の味が分かるように薄味になっていて、より美味しさを引き立てていました。駅弁を買う時は、基本的に地元の食材でつくってある弁当を選びますが、最近は工夫を凝らして、安くてもかなり美味しい駅弁が増えているような気がします。
2011年08月10日
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先日、月島駅がある佃島を歩いてきました。佃島は徳川家康が江戸に下ったとき、大阪の職業漁師たちが家康に従い、佃島に居住を許され江戸湾の魚を獲って将軍に献上していました。獲った小魚を醤油で煮たのが佃煮です。現在でも佃島には、佃煮を販売する老舗が何軒かあり、近くを通ると醤油を煮た、美味しそうな匂いが漂ってきます。佃島を散策したあと、隅田川に架かる佃大橋を渡って明石町へ。明石町から東本願寺の横を通過して、築地場外へ向かいます。上の写真が築地の場外です。今ではすっかり観光スポットとなった、日本一の規模を誇る築地市場。この場外には、ありとあらゆる専門の小売店や飲食店が軒を連ね、一般の観光客でいつも賑わっています。この場外の一郭にあるのが「井上」という、中華そばやです。立ち食いそば屋ながら、いつも列をなすほど人気があり繁盛しています。「井上」の中華そば(650円)は、東京ラーメンです。特徴は、丼からあふれた、たっぷりのスープ、4枚のチャーシュウ、シナチクにネギと、少しばかりのカイワレが乗っています。とても、シンプルです。店の前の歩道に並べられたテーブルに運んで立って食べるのですが、同じテーブルで20歳くらいの西洋人の女の子が二名、中国人の母親と子供が食べていました。西洋人の女の子に日本のラーメンは口に合わなかったのか、二人とも途中でギブアップ。中国人の母子は、一杯のラーメンを二人で完食していました。中国には麺食文化もあるので、口に合ったようですね。ちなみに小生は、もちろん完食させていただきました。
2011年08月02日
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北アルプスの懐にあるリゾートホテルに宿泊した朝、北アルプスの眺望が望めるか、と思って窓の外を見ると鬱蒼とした森が広がっていました。山頂は雲で隠れ、常念岳の中腹まで入ってしまったせいで、とても眺望が望めるどころではありません。やは松本市か穂高あたりの、離れたところから見ないと、北アルプスの連山を眺めるのは難しいようです。しかし、この林の中からうるさいほどのミンミンゼミの音が、降るように聞こえていました。今年の夏、都市部ではセミの数が少なく、あまり音が聞こえないと言われていましたが、ここだけは例外なようです。そういえば昨日の夕方、ヒグラシも鳴いていました。ホテルを出て、松本城見物に向かいました。その前に旧開智学校を見物。明治6年に開校し、明治9年に新築された建物で、重要文化財に指定されています。和風と洋風が入り混じった擬洋風建築と呼ばれる校舎です。旧開智学校を見物した後、松本城へ。徒歩で10分あまりです。松本城は国宝ですね。なかなかの風情と貫禄です。松本城は、永正年代のはじめに造られた、深志城に始まるそうです。松本城の五重天守は、現存する日本最古のもので、うっかりすると転げ落ちそうな急で狭い階段を行けば、てっぺんまで登ることができます。天守閣の窓から晴れていれば、北アルプスの峰々が見えたはずです。しかし、この日はすっかり雲に覆われて、遠望することができませんでした。
2011年07月30日
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25~26日に長野県須坂市にある両親のお墓に、お参りに行ってきました。恒例の夏の行事です。お墓参りを済ませたあと、安曇野見学を予定していたので、一路、国道19号線を犀川沿いに松本方面に向かいます。途中、信州新町を通過するので、昼食は名物のジンギスカンを食べることに。信州新町といえば、20数年以上前にカメラマン氏と電車に乗って取材に来たことがあります。その時から信州新町といえばジンギスカンという話を聞いており、結構、昔からジンギスカン料理が有名だったわけですね。街道沿いに、何軒ものジンギスカンを食べさせる店が点在し、この付近の19号線は「ジンギスカン街道」と呼ばれています。特徴はタレにしっかりと漬けこんであり、全くマトンの臭みがないことでした。新鮮なマトンは、臭みがないそうですね。松本に入る手前で安曇野方面へ。26日には刈り取るという、国営アルプスあづみの公園の「そば畑」を観に行ったのです。この公園は、NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」のロケ地になったところです。古びた水車小屋に藁葺の納屋が、階段状の「そば畑」の中に点在しています。のどかな安曇野の雰囲気が満点の風景です。が、これはテレビの撮影の際に造られたセットなのです。このセットは、撮影終了後も、そのまま残されたもののようです。この日は、北アルプスの中腹にあるリゾートホテルに宿泊。近くにゴルフ場と、きれいな烏川渓谷があり、釣りの用意もしていったのですが、温泉に入ったら、出かけて行く気力が萎えてしまいました。歳かな~。この日の夕食に、アルプスの湧水で飼育したというイワナの塩焼き、信濃ユキマス&コイの刺身などが出ました。イワナは釣っても、リリースするようになって20年以上になります。ですから、20数年ぶりに食べたイワナの塩焼きということになります。久々に食べたイワナも信濃ユキマスの刺身も、美味しく頂戴しました。
2011年07月28日
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大型台風6号のせいで、ここ数日、東京は実に悪い天気でした。で、今週の前半は、ほとんど外出しませんでしたが、先週は猛暑の中、カメラを片手に西日暮里、谷中方面を歩きました。西日暮里駅から谷中方面の路地を歩いていたときに見つけたのが下の絵です。修性院というお寺には木造の布袋尊像が安置されていることから、この寺院の塀に描かれていた、ほほえましい布袋さんの絵です。これは谷中七福神の一人で「日ぐらしの布袋尊」として親しまれています。谷中七福神は、江戸市中でも最も歴史が古く、七福神めぐりは多くの庶民の行事として賑わってきたそうです。谷中から西日暮里にかけた一帯は丘陵地帯で「ひぐらしの里」とも呼ばれています。道灌山とか諏訪神社があることから「諏訪の台」とも呼ばれ、江戸時代、秋には虫の鳴く音を聞きに来たり、冬には眼下に見える雪の風景を見に来る、江戸近郊の行楽地となっていました。江戸庶民は実に省エネ的で、「粋」な楽しみ方をしていたんですね。
2011年07月21日
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先日、イルカの行動を研究している娘夫婦が、御蔵島から帰って来るというので竹芝桟橋まで迎えに行きました。何でも当日は海がやや荒れ気味だったので、御蔵島からヘリコプターで伊豆大島まで飛び、時間があったので大島で温泉につかり、大島から船で帰ってくることになっていました。上の写真は東海汽船が所有している「セブンアイランド・虹」号です。米国ボーイング社が製作した超高速船で、ジェットエンジンを搭載しています。走り出すと水中翼で海面に浮きあがり、時速80キロで海面を航行します。あまりの速さにクジラがいる海域に入ると、衝突しないようにスピードを落とすことになっているそうです。小生が小学生のころ、竹芝桟橋から伊豆大島まで行くのに、一晩かかり、夜、竹芝を出港すると翌早朝に大島の波浮の港に着いたものでした。しかし、この高速船だと1時間半くらいで行くことができるのだそうです。東京ベイブリッジの下を、まるでF1のようなスピードで、どんどん近づいてくる船があるな、と眺めていたのが、この「虹」号でした。「セブンアイランド」と名付けられているのも、伊豆七島にひっかけて命名されているのでしょうね。上の写真が竹芝桟橋に接岸したところです。船首に向かって左手が赤系統、右手が青系統の色彩に彩られ、実に派手な船です。この色はイラストレーターの柳原良平氏の手によるものだそうです。時刻は6時15分ころ。暮れなずんでいく桟橋の風景には、どことなくエキゾチックな雰囲気が漂っておりました。
2011年07月04日
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このところ、天気がよくありません。久々に太陽が出たと思ったら、30度を超える猛暑となりました。暑すぎても雨が多くても、なかなか渓流に出かける気になりません。今朝、2階のベランダに出て何気なくプランターを見たら、ピンクの可憐な花が咲いていました。 「ネジバナ」です。確か昨年も同じ場所から1本だけ立ち上がって咲いていました。ということは、根がひそかに生きて冬を越したのでしょうね。高さ20センチほどです。調べてみると「ラン科の多年草」でした。紅色の小さな花がゆるい螺旋状に茎につくので、この名前になったとあります。今年も姿を見せてくれた、小さな「ネジバナ」に感激して写真を1枚撮りました。
2011年06月27日
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先週、広島・博多へ取材旅行に行ってきました。久しぶりの地方出張です。「のぞみ」で東京から博多まで5時間13分。やはり、九州は遠いですね。尻がいたくなります。先日、テレビの番組で博多をとりあげていました。博多駅は立派な駅ビルになり、駅前広場はきれいです。夕方のサラリーマンの帰宅時刻には、多くの人々で賑わっていました。駅前の広場で見つけたのが「博多節舞姿」の像です。「博多節」とは、どんな民謡なのか知りませんが、博多を代表する民謡なようです。日本髪姿の芸子さんでしょうか、なかなか日本情緒たっぷりな、雰囲気のある像でした。さて、博多といえば、なんといってもトンコツ・スープの「博多ラーメン」。小生が好きなのはあっさりスープの「東京ラーメン」ですが、「郷に入れば郷に従え」で、「博多ラーメン」を食べないでは帰れません。宿泊したホテルのフロントで、美味しいと評判の店を訪ねると、駅ビルの2階に麺屋が集まっているフロアーがあるとのこと。行ってみるとありました。数軒の店が並んでいて、どれも旨そうです。そのうちの一軒に入り、食べたのが「ネギ味玉入りラーメン」(850円)です。白いトンコツ・スープに程よい塩味。なかなか捨てたものではありませんでした。最近、東京にも博多天神の「博多ラーメン」が進出してきましたが、東京ではど~も食べる気がしません。やはり食は地元の風土がつくるのでしょう。「博多ラーメン」は、博多で食べるに限ると思ったのでした。
2011年06月19日
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梅雨の晴れ間の昨日、上野の東京国立博物館・平成館で開催されていた「写楽」を観に行ってきました。寛政6年(1794)5月、江戸三座の役者を個性的に描いた大判雲母摺りの作品を引っさげて、突如、浮世絵界にデビューした写楽。翌、寛政7年(1795)正月に姿を消すまでの10か月間に146点の役者絵、今でいうプロマイドを残しました。上の写真が、平成館。平日でしたが、6月12日をもって写楽展が終わるせいか、実に混んでいました。写楽が描いた歌舞伎役者の「大首絵」は、美人画で知られる喜多川歌麿が最初、創案した構図ですが、初期の写楽の絵は、線の勢いといい、構図の大胆さといい、人を引き付けるに十分な光彩を放っていました。写楽の役者絵は、歌舞伎の上演期間により1~4期に分けられていますが、後期になるに従い線も単調で、構図の大胆さは失われ、小さくきれいにまとまってしまいます。写楽はなぜ10か月あまりの活動で、忽然として姿を消してしまったのでしょうか。それは謎とされていますが、次第に失われていく筆の力に、自ら限界を感じたからではないかとも推測できるのですがいかがでしょう。しかし、写楽の傑作とされている「大首絵」の多くは、アメリカ・メトロポリタン美術館、ベルギー王立美術歴史博物館、オランダ・アムステルダム国立美術館など、海外の美術館に多く所蔵されています。それが良かったのか悪かったのか、、、、。というのも、日本にあったら、とっくに失われていたかもしれないからです。ところで東洲斎写楽は、誰だったのでしょう。徳島藩主・蜂須賀侯のお抱え能役者・斉藤十郎兵衛ではないかと推測されていますが確かな証拠はなく、いまだに不明のままにされています。写楽の魅力は、初期の作品とともに、謎の人物でありつづける要素も大きいように思われます。
2011年06月08日
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長い間、フライフィッシングを楽しんできましたが、ここ数年、老眼がすすんできたようで、小さなフライが扱いにくくなってきました。フックのアイ(穴)にティペットが通しにくくなってきたわけです。特に、朝マズメ、夕マズメの薄暗い時間帯となると、なかなか通らず朝は明けてくる、夕方は暗くなってくるで、あせってしまいます。釣り人にいつも攻められて、神経質な魚を釣るには、なるべく食べやすい大きさ、つまり小さなフライの方が結果が良いことから、小さなサイズのフックに巻いたフライを使うことが多くなります。すると、よりアイにティペットが通りにくい、というジレンマに陥ります。そこでそれを解消しようと、渓流竿に使う天井糸か、太さが6号くらいの釣糸でアイを作ることにしました。上の写真の左の小さなフックのサイズが#18、右の大きなサイズが#14です。フックについているアイの部分をペンチでカットし、スレッドで天井糸を巻きつけ、アイを作って瞬間接着剤で固定します。「魚がかかったら、スッポ抜けないの」と聞かれますが、今までの経験から尺以上のサイズの魚がかかっても抜けることはありません。アイを作ったフックを何本か用意をしておき、エルク・ヘアに巻きあげたのが上の写真です。エルクを巻いた上に派手なピンクのエアロドライウイングを巻きつけてありますが、これはフライをキャストしたときに、見失わないようにつけたインジケーターです。こうしてアイをつくっておけば、ティペットが通らずに、いらいらすることもありません。また、つくたアイでも魚の反応には、全く影響がないこともわかっていますので、老眼になってきたな、と思われたら試してみたらいかがでしょうか。
2011年06月02日
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先週の水曜日の夜中から、金曜日までの夜行、一泊二日の予定で塩原の箒川と南会津方面の渓流に出かけました。福島県舘岩村を流れる舘岩川とその支流群、そして昔は秘境といわれ福島県側の尾瀬の入り口である、桧枝岐村を流れる桧枝岐川(伊南川上流)を釣る予定でした。塩原温泉を抜け福島県側に入ると、一路、舘岩村を目指します。以前は毎年のように通った道ですが、数年前とほとんど変わっていない風景です。舘岩村に入り小さなスーパーで入漁券を購入。すると店のおばちゃんから、「今年は釣りのお客さんが少なくてね。平日に来てくれてありがとう」と感謝されてしまいました。あの大震災で、まだ避難生活を送っている人たちがたくさんいます。そんな状況のなかで、のんびりと釣りをするのに、何となく後ろめたい気持ちをもつ釣り人が多いのかもしれません。南会津は福島県でも内陸で、大震災の被害を直接受けたわけではありません。しかし、このような山の中にも大震災の影響が及んでいるんですね。舘岩川に沿う道路を下っていくと、最初に合流しているのが鱒沢川です。上の写真が鱒沢川です。合流点に材木屋があるだけで、流域には一軒も人家がなく、実に清冽な水が流れています。ここ数年、鱒沢川の話は聞かなくなりましたが、15年ほど前はフライ雑誌などでもよく紹介されたイワナの渓流です。林道から木の根や蔦に掴まりながら10メートルほどの崖を降り、しばらく釣り登りましたが、またく反応なし。透き通った川底に、魚影が見えませんが、夕まずめにはどこからか出てくるにちがいありません。次に舘岩川に合流するのが湯ノ岐川。この川の中流域に湯の花温泉という温泉場があります。上流に田代山があり、まだ、まだら模様の残雪が見え、雪解け水が流れ込んでいるために、かなり増水気味です。この川は様子を見ただけで、竿を出さずに断念し、次の支流である西根川に向かいました。上の写真は西根川です。西根川の中流には木賊(とくさ)温泉があり、川沿いに公共浴場もあります。以前、良型のイワナが出た川です。入渓しやすい川だけに釣り荒れるのも早いのですが、気持ちの良い渓流です。ここでもかなり増水していましたが、遡行できないほどではないので、しばらくフライを流しながら釣り登ってみましたが、ドライには全く反応なし。川通しで引き上げて来たところで、郡山から来たというルアーマンで出会ました。淵で2匹ほどイワナを釣ったけど水が冷たいのか、追いが活発ではないという話でした。西根川の増水の様子から、もっと西に位置する桧枝岐川は、増水の真っ最中だろうと判断し、結局、桧枝岐で泊まるのを断念。帰る途中で、塩原温泉を流れる箒川を釣ってみることにしました。上の写真は塩原温泉のはずれに位置する箒川です。低い堰堤が点在し、里川ですがイワナとヤマメ、ニジマスが放流されています。関東地方で渓流が解禁になると、必ずといってよいほどニュースで取り上げられる川です。平日でも釣り人が多く、この日も数人のフライマンの姿がありました。こういう川では、スレた魚が多く、大きなフライでは出てくれないと判断。14番のエルクを18番のコンパラ・ダンに変えて流したところ、水面を割って出てくれたのが、上のニジマス君でした。川の様子を土手の上から見ていたとき、「この川には、けっこうきれいな魚が多いですよ」と話しかけてきた中年のフライマンがいましたが、彼の言葉通り尾びれがピンとしたきれいなニジマスでした。結局、夜行、一泊二日の釣りの予定が夜行日帰りという、強行軍となってしまいました。
2011年05月23日
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江戸末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858年)といえば「東海道五十三次」などでよく知られていますが、晩年のシリーズ画に「名所江戸百景」があります。江戸とその周辺の名所を描いた錦絵です。上の絵は「玉川堤の花」という作品です。この絵が描かれた場所は、「玉川」となっていますが、「玉川」といっても、あの「多摩川」ではありません。江戸市中に水を供給するために羽村から引いてきた「玉川上水」のことです。絵の場面は「玉川上水」の土手に桜並木があり、満開の桜を見物に訪れた人々で賑わっている様子が描かれています。では、この場所は現代のどのあたりだったのでしょうか。上の写真が「玉川の堤」があった付近で、現在の新宿御苑です。新宿御苑は、江戸時代、内藤駿河守の下屋敷と、その家臣たちの家々があった場所です。「玉川上水」の左岸側(向かて右側)は、甲州街道にそって内藤新宿という宿場がありました。旅籠や飯盛女たちのいる妓楼もあり、その町屋の裏手に「玉川の堤」があったのです。この下流には「四谷大木戸の水番所」があり、そこから地中に埋設された木樋によって、玉川上水の水は、江戸市中に分水されていたのでした。
2011年05月16日
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五月も中盤にさしかかり、場所によっては、まだ雪代が収まっていないようですが、標高の低い渓流では、一層、フライフィッシングが面白くなりつつあります。小生はもっぱら、川の状況に応じて、ニンフやストリーマーを使ったりしますが、やはり魚が飛びつく場面が見られるドライ・フライが面白いので、どうしてもドライを愛用することが多くなります。しかし、これからどの渓流でも、FFたちがドライ・フライを使う頻度が多くなり、そうなると魚も学習しますから、無邪気にドライに飛びついてくれなくなります。そんなスレた魚のいる渓流で、私が使うのがキジの剣羽根で巻いたテンカラ鈎です。上の写真がキジのネックの部分にある「剣羽根」と呼ばれる羽根です。剣のような形をしていることから、このように呼ばれています。テンカラ釣り(日本で昔から伝わる毛鈎釣り)の代表的な毛鈎として、職業漁師たちが使ってきたものです。最近ではテンカラでもフライのパターンを使ったり、フライフィッシングでもテンカラ鈎を使ったり、フライとテンカラの間で、使用する毛鈎の垣根はなくなりつつあります。まあ、中には「テンカラ釣りは、あくまでもテンカラ毛鈎でなくちゃ」とこだわる人がいますが、私の場合は、いかに工夫してスレた魚を釣るかに興味があるので、その辺はあまりこだわらないようにしています。ということで、剣羽根を巻いたテンカラ鈎を使う時があるのです。この毛鈎にはレッドコアライン(鉛のヒモ)をシャンクに巻き込んであります。剣羽根で巻いた毛バリは、他の鳥の羽根よりも沈みやすのですが、鉛を巻き込んであるために、一層、スムースに沈んでくれます。この羽根の出番は、ドライフライに反応しにくいとき。プールのような水深のある緩やかな流れで、フライが本物の虫ではないということを見切られるようなとき。そうして魚の警戒心が旺盛で、水面まで出てこないとき。こんな場面で使用して、面白い釣りをしたことが何回かありました。どうしてもドライ・フライに反応しない場面で、私が使う必勝フライの一つとなっています。
2011年05月12日
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ここ数年、ちょっとした江戸ブームのせいか、平日でも江戸城があった、皇居東御苑を訪れる観光客が増えているように思います。震災前は、サムライに憧れる外国人の姿も多かったようにも思います。写真の石垣は東御苑にある、天守台です。江戸時代、この天守台がある場所に、外観5層、内部6階、高さ58メートルもの天守閣がそびえていました。国内最大の天守閣は、江戸幕府の権威の象徴として建設されたものです。ところが、江戸の町を焼き払い、使者10万余人を出した「明暦の大火」(振袖火事)で、本丸をはじめ天守閣まで焼失してしまいました。時の4代将軍・家綱は天守閣を再建しようと、この天守台を建造しましたが、将軍を補佐していた会津藩主・保科正之は、これに異を唱えました。つまり「天守閣を再建するより、城下町の復興を優先すべき」と言ったのです。今回の大震災の復興に際して、何を優先すべきかが見えていない政治家たちに、聞かせてやりたいような言葉ではありませんか。さて、この天守台に木造の天守閣を建造しようという話がもちあがっています。この時期に、日本の元気を取り戻すために、何らかの役に立つのであれば、それも良いのではないかと思います。だた、全国の観光地にあるような、鉄筋とコンクリートで建造された天守閣だけは、勘弁してほしいものだと思っています。
2011年05月08日
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桜の季節も終盤にさしかかり、すでに遅咲きの八重桜も散っています。そんな中、4月にマルタウグイを釣った多摩川へ、鯉でも釣ろうかと出かけていきました。土手の桜の木から風に舞って散ってくる花弁が流れてきて淀みにたまり、絨毯のように広がっていました。こういうのを「花筏(いかだ)」というのでしょうね。春は恋の季節ですが、鯉も例外ではありません。多摩川には大きな鯉がたくさん生息していますが、産卵の季節になると、数匹の鯉が群れとなって浅瀬で産卵行動を繰り返します。近寄っても逃げようとしないのは、それだけ懸命なのでしょう。子孫を残す行動は、鯉といえども命を懸けた必死の行為なのでしょうね。そんな川でニンフで釣ったのが、上の写真の太った鯉です。以前、マルタウグイを釣ったときに8番ロッドでしたが、こんどは5番ロッドを使用。満月のようにバット部から曲がって、なかなか上がってきませんでしたが、しばらくやり取りしていると鯉も疲れたのか、ずるずると引かれるままに上がってきました。鯉はハリ掛かりしても、サケ科の魚のようにファイトしないので、どうしても物足りなさを感じてしまいます。しかし、重戦車のようなパワーは、さすがに鯉だと感心してしまいました。
2011年05月05日
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岩手県の大槌町は釜石と宮古の間に挟まれた、のどかな漁村です。今回の大災害で町長をはじめ30名の役場の職員が大津波にさらわれ、町全体が壊滅的な被害を受けてしまいました。イルカの行動を研究している娘が、3年前まで大槌にある東大海洋研究所に勤務し、アパートを借りて暮らしていました。上の写真が娘が暮らしていたアパートです。2階建てのメゾネット・タイプで、隣には若いご夫婦が子犬と一緒に暮らしていました。アパートの前は大槌川の土手です。写真はその土手の上から撮ったもので、子犬もこちらを見あげています。今回来襲したの大津波は、難なく土手を越えてアパートを押し流し、夫婦が仕事に出ている最中に留守を守っていた子犬の消息も不明のままになってしまいました。娘が大槌町で暮らしていていたとき、東北は渓流釣りのメッカなので、娘のアパートを足がかりに、大槌川や小槌川、鵜住居川、遠野の猿石川や気仙川、胆沢川などに釣りに出かけて行きました。そんな合間に研究所の中を見学させてもらったことがあります。上の写真の3階建ての茶色い建物が研究所で、庭には大小のプールが幾つもあり、ウミガメやマンボウなどが入っていました。大津波に襲われたとき、研究者や職員の皆さんは裏山に避難して、全員無事であったことが分かりました。ただ、蓄積してきたさまざまな研究データが水を被ってしまったようです。マンボウは定置網に紛れ込んだのを、研究用に漁師さんから分けてもらうのだそうです。東京ではほとんど食べませんが、大槌のスーパーではマンボウの白い切り身を販売していました。「マンボウを解体しますから、見に来ませんか」と、誘われて行ったのが、上の写真です。「臭いですよ」と言われていましたが、たしかに鼻にまとわりつくような異様な臭いが漂ってきました。娘の話では「食べると臭いは気にならない」ということでが、果たしてどうなのでしょうか。上の写真は研究所からつづく突堤の先端にある、井上ひさし原作の「ひょこりひょうたん島」のモデルになった島です大津波で崩れたのではないかと心配されましたが、赤い燈台が真ん中から折れたただけで、島自体が損傷を受けることはなかったようです。大槌町の背後には城山公園があり、写真はその高台から見た3年前の町の風景です。家々が軒を接して並び、静かでのどかな漁村でした。眼下に広がる家並みが、津波でことごとく流されたとは信じられませんが、それは現実なんですね。今シーズン、東北方面には釣りに行く気がおきませんが、とにかく早い復興を心から願わずにはおられません。
2011年04月27日
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墨田区・業平に建設されている東京スカイツリーも、634メートルを達成し世界一高い電波塔となりました。東京は言わずと知れた世界に冠たる大都会です。刻々と変貌しつづけるのも、時代の流れなのでしょう。再開発に次ぐ再開発で、江戸の残影は消えつつありますが、子細に再見してみれば、意外なところに意外な江戸の名残があったりします。そういった所を見つけたときは、心がときめいたりしてうれしくなります。この4月20日に明治書院から『江戸東京 橋ものがたり』(定価:1200円)を刊行しました。『一度は訪ねてみたい有名人のお墓』をはじめ、『大江戸タイムスリップ・ウォーキング』『江戸東京 坂道ものがたり』につづく4冊目です。、江戸時代、江戸の町には建築資材や食料品を初めとする生活必需品が、全国から運ばれてきました。大型の帆船で江戸湊まで運ばれた物資は、喫水域の浅い高瀬舟などに積みかえられ、江戸城近くまで運ばれました。その便のために江戸市中には、縦横に堀割が開削されていました。したがって江戸時代には市中に350以上もの橋が架かっていたといわれています。橋は通路の一部ですが、それだけはありません。橋が架けられると川の風景と相まって、名所となるケースも多く、また、数々の伝説や物語が紡ぎ出される舞台ともなってきました。本書では、そういった橋を100以上とりあげ、それぞれにまつわる物語を紹介しています。書店で見かけましたら、お手にとってみてください。
2011年04月20日
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渓流釣りのシーズンに入ったものの、寒さがぶり返したりして、なかなか気持ちの良い日がきません。新宿に出かけた際に、フライショップのサンスイに寄って、ウエーダーを新調しました。今まで使っていたのはアングラーズ・ハウスの、ゴアテックス製のウエストハイ(ソックスタイプ)で、暑くても蒸れず非常に快適だったのですが、やや足先に水が浸みてくるようになってしまったからです。まあ、10年以上も穿いてきましたから、いくら堅牢に作ってあっても、浸みてくるのもやむを得ないのでしょう。そこで新調したのが、今度はティムコから発売されている、フォックスファイヤーのスパイラルウエストウエーダーです。ゴアテックスです。前回はグリーンでしたから、今回はライトグレーのLサイズにしてみました。最近、腹がでてきたおかげて(医者から「メタボ予備軍」と言われました)穿くときに腹がつかえて苦しいのです。で、Lサイズのなった次第です。このウエーダーは、小生の誕生日の子供たちからのプレゼントになりました。さて、これを穿いてどこの渓流に出かけようか思案中です。
2011年04月19日
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本日の午前中、東京では結構冷たい北風が吹いていました。「天気晴朗なれど北風強し」です。そんななか自転車で多摩川へ、マルタウグイを釣りにいってきました。マルタウグイはコイ目コイ科の魚です。高度成長期以前、多摩川にたくさん生息していましたが、高度成長期に多摩川の水質が極度に悪化。生命力の強かったさすがのマルタウグイも、姿を消してしまったのです。その後、多摩川漁協が産卵床を整備し、卵を孵化させて放流するなどの努力した結果、マルタウグイが羽田の喫水域から、産卵期に入ると群を成して遡上するようになりました。多摩川の河川整備もすすんで魚道が整備されたおかげて、狛江市付近までのぼってくることが出来るようになったのです。マルタウグイのサイズは40~60センチ。産卵をくり返し10年は生きるといわれます。太平洋側は神奈川県以北、日本海側は富山県以北の喫水域に生息し、小エビやゴカイなどを捕食する動物食です。多摩川では2月の真冬頃から、群をつくり産卵のために遡上を始めます。風が強い日や極端に水温が下がると、群は姿を消してしまいます。そうして、また別の群が遡上してきます。先に上った群が産卵を終わると、次の群が待っていて産卵するともいわれています。こうして、4月末ころまで産卵がつづきます。上の写真は多摩川の狛江付近。風が強いのでやや波だっていますが、障害物がないので、フライを思いっきりキャストできます。ときどき、魚の背中が見えたりします。フライは10~9番フックに巻いたニンフです。アイの方にレッドワイヤーを巻き込んで、沈みやすくしてあります。遡上してきたマルタウグイは、あまり餌を食べようとしません。喰い方も口先だけで確かめるような捕食の仕方をします。このへんは遡上したサケと似ています。したがって、ヒットしたと思ったら外れるということを何度か繰り返しました。マルタウグイは、ヒットして走り始めると、8フィート8インチ、ラインウエイト#8というハードなロッドを、満月のように曲げるパワーがあります。なかなか手強いです。なんとか遊ばせて寄せたマルタウグイの口先には、ほんのわずかにニンフが引っかかっている状態でした。しばらくキャストを繰り返しときにヒットしたのが、上の写真のメタボ・コイです。デブデブです。手応えに合わせたとた、ジャンプしたのでコイだとすぐにわかりました。こいつはヒットすると流心に走り、流れに乗って一気に下り始め、あっという間にバッキング・ラインまで引き出されてしまいました。34年間、フライフィッシングをやってきて、バッキング・ラインまで引き出されたのは初めてです。しかし、コイは走るのを止めると、あとは重いだけです。寄せてきて浅瀬に入ると、流心に走るを何度か繰り返し、およそ20分ほどやりとりした上げることができました。1・5号のティペットが切れずにもってくれたわけです。マルタウグイと川にいるウグイとの違いは、川のウグイは婚姻食が2本、マルタウグイは1本です。背中がまっ黒な甲冑をきたように黒光りし、腹は見事に真っ白です。よく見ると綺麗な魚です。本日、朝6時から10時まで4時間で、ティペット切れしてフライごともっていかれたのが2~3回、アイのところで切れたのが3回。久々に8番ロッドを振ったので、明日あたりから右腕が筋肉痛になりそうですが、十分に楽しませてもらいました。
2011年04月12日
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急に気温があがり、東京ではサクラの満開宣言がでたりして、本格的な春の到来を感じるようになりました。先日、天気の良い日に再び、隅田川の畔を歩いてきました。今回は下流域です。上の写真は「永代橋」です。江戸時代、ここに「深川の渡し」があり、江戸から深川へ行くのに船で渡っていました。それに代わって元禄11年に架けられたのがこの橋です。もちろん、当時は木橋でした。江戸時代、幕府の資金で隅田川には五つの橋が架けられましたが、「永代橋」は四番目に架けられた全長200メートルの橋です。当時、橋の両側の広小路には橋番屋が設けられ、高札が立てられ、武士、医師、お坊さん、神官以外の通行人から「橋銭」を徴収する有料橋でした。まあ、いってみれば有料道路のようなものですね。永代橋は、いろいろな話題をなげかけましたが、最もよく知られている話は、元禄15年12月14日、両国にあった吉良邸に討ち入り、吉良義央を討って主君の仇に報いた赤穂浪士の面々が、泉岳寺に引きあげるときに渡ったことでしょう。赤穂義士の面々は、最初、両国橋を渡る予定でした。しかし、その日は大名たちの登城の日にあたり、不測の事態を懸念した奉行の服部彦七により「役目上の渡橋拒否」が申し渡されたために渡ることができず、永代橋を渡ることになったのでした。また、永代橋のたもとから、春と秋の二回、伊豆七島へ流される「流人船」が出航していました。上は永代橋から東京湾方面を見た写真です。高層のマンションが建ちなんでいるのは佃島で、ここには「鬼平」こと火付盗賊改の長官だった長谷川平蔵が設立した、石川島人足寄場がありました。人足寄場は軽犯罪者や無宿人たちを集め、手に職をつけて社会復帰させる施設です。当時、世界に例を見ない職業訓練更生施設だったのです。現在はベイエリアとして数多くの億ションが建ちならび、江戸の面影はすっかり消えてしまいました。
2011年04月08日
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