2017.08.23
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☆田舎の紳士服店のモデルの妻・宮下奈都
・2012年6月10日 第1刷
・文藝春秋
・初出:「別冊文藝春秋」2009年7月号~2010年5月号
・単行本:2010年10月 文藝春秋刊

♣︎竜胆達郎
♣︎竜胆梨々子(りんどう りりこ)
♣︎竜胆 潤=達郎と梨々子の長男
♣︎竜胆歩人(あると)= 〃 次男

梨々子という名の1人の女性の、30~40歳までの10年間の日常を2年区切りで丁寧に描いた物語。

ー0年、かすりの梨々子、田舎に立つー
梨々子と達郎が結婚して4年。長男の潤は幼稚園の年少児クラス、次男の歩人はよく泣く子だった。一歳を過ぎても歩人の夜泣きは2時間ごとに繰り返された。
ある晩、達郎が突然「会社、辞めてもいいかな」と切り出した。
明日の幼稚園のバザーのことで頭がいっぱいだった梨々子の頭に、達郎の言葉が届くのに時間がかかった。「辞めてどうするの?」という問いに、達郎は「いなかへ帰ろうと思っている」という。梨々子は、まさか本気で会社を辞めるとは思っていなかった。
バザーの翌週、達郎がうつだと診断されて帰って来た。「会社を辞めて田舎へ帰ろうと思うんだ」達郎は言った。それがとても素晴らしい考えでもあるかのように、梨々子が同意することを微塵も疑っていない声で。その晴れやかな声に梨々子は図らずも胸を打たれていた。こんな声を聞いたのはいつ以来だったろう。出会った頃の達郎がありありと思い出された。田舎へ帰ろう。達郎の提案を梨々子は飲んだ。

梨々子と達郎は、達郎と同郷の役員の紹介で出会った。入社試験の役員面接のとき、その藤沢という役員は「ひと目見て、彼はいい、と思った」と言う。あのとき、梨々子もひと目見て「彼はいい」と思ってしまったのだ。
何がこんなに好もしいのだろう。目の前の達郎は、話すだけで、笑うだけで、ぴかぴかに光って見えた。しかし、残念なことにどうやら達郎はそれほどでもなかったらしい。曲がりなりにも梨々子はもてた。自分から誰かを追いかけたことなどなかった梨々子は燃え上がった。ほとんど体当たりでなんとか捕獲した。恋愛の成就を寿ぐ気持ちより達成感の方が大きかった気がする。
つきあいはじめて2年半、結婚の挨拶に出向いた彼の田舎は、北陸の一番目立たない県の県庁所在地だった。がらんとしたその町は背丈が低くて、店も車も人も少ない。ファミリーレストランもあればファーストフードのチェーンもあるが、残念なことに売りがない。特別なことがあるとすればただひとつ、そこが達郎の田舎だということだけだった。

越してきた5階建てのマンションは、この辺の建物の中では頭一つ高い。4階の部屋の窓からは、町を見渡すことができる。のうのうと広がる家並みのところどころに、こんもりとした緑が見え隠れしている。日が落ちるころ、その向こうに見える山の稜線がやけにくっきりと見えて、地球の裏側まで来てしまったようで、もの悲しかった。

ー2年、潤とピアノと二人三脚(2年後)ー
達郎は、義父が経営する小さな会社で働いている。こちらへ来てからの方が朝の目覚めが悪くなったようで、毎朝10時半を過ぎて出勤していく。達郎には兄が1人いて父の片腕として会社を切り盛りしている。兄嫁は経理全般を任され、夫婦で義父母の家の隣に住んでいる。兄夫婦には子供がなかった。居間に黒光りがする大きなピアノがあった。達郎と兄の俊郎が弾いたピアノだ。義母がいった。「潤にどうやろ、このピアノ」いつも潤は無口だ。その潤が「弾く」とはっきり答えたので梨々子は少し驚いた。

ある日、帰宅した達郎は「そういえばさ、モデルをやってくれないかって、言われたんだ」という。平静を装っているが、なんとなく自慢そうな気配が漂ってきていた。梨々子はうつだって嬉しいのねと、内心意外だった。メンズショップ竹内は、義父の幼なじみがやっているという店だ。地元紙にだけ挟まれるチラシの束の中から、その一枚を抜いて梨々子は大事に眺める。スーツを着て微笑んでいるのは、コートを着てあらぬ方向を見つめているのは、誰あろう梨々子の夫だ。「お父さんだ。かっこいいね」と潤がいう。「そうね、かっこいいね」と小さな頭を撫でてやる。内心では、相当かっこわるいチラシだと思った。でも、ほんとうの達郎は悪くない、はずだ。あと15キロ痩せたら、そして昔の生き生きとした目を取り戻したら。

ー4年、たくさんの間違い、ひとつの出会いー
お隣さんから誘われたのをきっかけに、家族で小学校と自治会の合同運動会に参加するようになった。梨々子は徐々にその地に馴染んでいった。
ある夜、達郎は「僕、社会の役に立っていないよね」といい、夜中に咽び泣いた。梨々子は、達郎は病気なんだと自分に言い聞かせ、夜更けまで黙って達郎の背中を撫で続けた。34回目の誕生日の晩に。
夫のこと、子供達のこと、全て1人で抱え込んでいた梨々子だったが、身体の方が悲鳴をあげた。脇腹が痺れるように痛かった。ヘルペスではないかと、痛みを訴える梨々子に達郎は「ふうん」と答えただけだった。
学校に馴染めないている潤と歩人のことで、梨々子は度々学校に呼び出される。その日も担任から呼び出された。家に帰る気になれない梨々子は、通りかかったバスに乗り込み、駅前ロータリーでフラフラとバスを降りた。歩くとヘルペスが痛かった。どこか遠くへ行きたい。それでも延長保育に預けてきた子供たち2人のことが頭から離れない。ヘルペスを患いながら、自分がしていることが果たして合っているのか間違っているのかもわからない。誰にも頼れず感謝もされず、子供たちを育て上げなければならない。これからもまだこんなしんどい日々が続くのなら、頑張る自信なんかない・・・・・。
ふと、視線を感じて梨々子はそちらを見た。梨々子の目はその「人」から目を離すことができなかった。彼の視線は力強く、瞳を通して梨々子の中まで入ってきそうだった。その人はよく知っているのだ。自分のファンを。自分のことを初めから全面的に受け入れてくれる存在を。「やあ」好きではなかったはずの甘い声が、鼓膜をこれほど心地よく震わせるとは。梨々子の耳にはもう他のどんな音も聞こえなかった。

ー6年、歩人とたのしいかぞくー
2年前のあの日、駅から電車に乗るはずだった梨々子は、その人と2人でタクシーに乗った。そこで何をしたわけでもない。お茶を飲んで、少し話して、それで帰った。そして、いつものように一日が終わった。けれど、部屋の温度が変わってしまった。梨々子には達郎の体温を感じ取ることができなくなった。達郎の匂いもしなくなった。
2年前のあの日、男はタクシーを降りると先に立って歩きながら、くるりと振り返った。「おれ、本名はアサヒっていうの」その少年のような仕草が目に焼き付いている。その人といるだけで楽しい。会えるだけでいい。あれからアサヒとは2年間に7回会った。そして終わった。
その夜、達郎は子供みたいにそわそわして「10年前と同じやつ、探すの大変だったよ」といいながら、紙袋からシャンパンを取り出した。今日は、梨々子の36回目の誕生日、そして10回目の結婚記念日だった。ときめくようなことなど、無くて当たり前だと思っていた梨々子は、ときめかないのは私が忘れていたのだと気づいた。

ー8年、誕生日が待ち遠しいー
2年ほど前から、梨々子は隣の塩原さんに誘われて週に2度、午前中の3時間だけ病院でボランティアをしている。「主役やりたい人は家にいたらつらいやろ。病院ボランティアは脇役の脇役みたいなもんやで、どんだけ竜胆さんの好みに合うかわからんけど」と、結構痛烈なことをさらりと言った。不意に涙が出たかと思えばアサヒのことを思い出していた、というころだった。
歩人は三年生になっても相変わらずだ。おかえり、と声をかけても、うん、とうなづくだけで返事もしない。そんな歩人に、きよちという友達ができた。
田舎へ来て8年、ご飯をつくって洗濯機を回し、掃除をし、アイロンをかけて。4人でいる。性懲りもなく、ここにいる。

ー10年、とりあえず 卒業おめでとうー
週に4日、病院へボランティアに通っている。簡単な仕事ばかりだが、なぜか飽きない。誘ってもらって良かった、梨々子はそう思う。
達郎が10年間続けた洋品店のモデルを卒業することになった。次の撮影が最後だという。梨々子は子供たちだけでなく、彼の両親も誘って、こっそり覗きに行こうと思っている。
相変わらず梨々子はしょっちゅう、小学校に呼び出される。歩人のことでだ。ついに1週間給食に手をつけなかったとか、2時間行方不明だったとか(立ち入り禁止の屋上で空を見ていたそうだ)。一日じゅうひとことも口を利かなかったとか、そんな話を聞かされる。
そろそろこれが歩人だと認めてくれまいか。もう5年も似たようなことを繰り返しているのだから。多くは望まない。普通に生きられればいい。そんなつまらない、決まりきった常套句をつぶやいてみて、梨々子はひっそり微笑んだ。歩人は普通ではないかもしれない。でも、普通に生きられない子には普通に手に入れることのできない人生があるに違いない。
潤のピアノの先生から電話があった。潤くんのピアノは普通ではない。もっと高度な教育を受けさせる気持ちがあれば、相応しい先生を紹介するという。東京にいるというその先生のところに通うには、交通費もいる、月謝も高額だ。潤に才能があると言われれば嬉しい。ただ将来どうなるか分からない不安感を思うと、親としては消極的になってしまう。梨々子から話を聞いた達郎は「うーん」と唸り「普通に平凡に暮らしていければ、僕はそれでいいよ」と答えた。どうしてみんなで「普通」という言葉を使って、潤を下ろし、歩人を打とうとするのか、梨々子と達郎の話は限りなく食い違う。
それまで黙っていた潤が、そのとき口を開いた。「僕、東京の先生にピアノを習いたい。月に一度でもいい」その声があまりにもまっすぐで、梨々子の胸はじんわりと熱くなった。驚いたように潤を見ていた達郎も「がんばれよ」と顔をほころばせた。親が悩む必要なんてなかったのだ。潤には伝わったのだろう。父親の心からの声援が。
うつの人には禁句だと教わって以来、この家ではタブーになっていた言葉を、達郎自らが易々と使った。「がんばれ」という言葉を。





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Last updated  2017.08.23 11:31:58
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