.     47歳今まで中途半端に生きてきたけど,この歳になって「今から医者になる」と決意しました

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2008年10月12日
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カテゴリ: 追憶
毎年、この季節になると思い出す事が有ります。



私は、中学にあがるまで、小児喘息を患っていました。

経験の有る方にはご理解いただけると思いますが、

発作が起こると、


   「 死んだ方が楽かもしれん・・・


と、本気で思うほど壮絶な苦しみが襲ってきます。

特に、夜、横になって眠る時が一番発作が起きやすいのです。

その為、「また、発作が起きたらどうしよう・・・

という恐怖が先立ち、体調の良い日ですら、

寝る時既に、体調が悪化に向かっているのです。



季節の変わり目

・・・残暑が去り、急激に秋に変わるちょうど今頃が

一番発作の起きる頃です。

深夜、ひとたび発作が起きると

まず精神的にやられてしまいます。




呼吸が苦しくて、喉が「ひゅ~ひゅ~ぜ~ぜ~」

咳も止まず体力も消耗してきて、

苦しさと、得体の知れない絶望と、

「これから、どうなっちゃうんだろ・・・」

という不安とが入り混じってやがて涙が出てきます。



『医者へ行くと、お金もかかるし、

T先生 にも迷惑かけるし・・・
↑過去日記参照

子供心に、そんな事を思いながら、

しばらく苦痛に耐えるのですが、

やがて、気が付いた母親が起きて、身支度を始めます。




肌寒くなった秋の深夜、自転車の後ろで、

夜空の星を眺めて気を紛らしながら、

「T医院」へ向かいます。

意識は朦朧として、数分後には

深夜に叩き起こされて眠そうな「T先生」の前にいます。





ある晩、自転車の後ろで

半死半生で虚ろな眼をしながら

ぼんやりとしていると・・・

何かが落ちてるのを見つけました。

普段なら、気にせず一刻も早く

「T医院」へ向かうのですが、

何故かその時は、とても気になって、

自転車を止めてもらいました。

100mほど引き返すと・・・・・・








     「 神様ありがとう





世の中に、神も仏も“サンタクロース”もいない!!!

と、幼くして判断を下した私が

生れて始めて「神様」を意識した瞬間です。



何と、「 板垣退助 様御一行」です。

   ※当時は、「100円札」が有り、その肖像が

   「板垣死すとも、自由は死なず」の板垣退助です。

   10枚の板垣退助が私の元に・・・

   その頃の100円札10枚は、そこそこ「大金」です。


当時小学校3年生ぐらいの私にとって、

「板垣退助10人をGET」という 大事件

「岐阜県で、3番目ぐらいに金持ちになった

と錯覚させるぐらいインパクトの有る事でした。




これで、「T医院」にも大きな顔をして行けるし、

お父ちゃんの借金も返して、

お米屋さんのツケも払って、

給食費も、遅れずに払って、

欲しかった「鉄人28号」のソフビも買って、

ついでに、「クッピーラムネ」も箱ごと買って、



・・・・・・ 薔薇色 妄想

喘息の苦しみを一瞬忘れさせてくれました。





























「朝になったら、警察に届けよか。」

と言って、再び自転車を走らせた母親に、

「うちは、お金ないから貰っておいてもええやん」

と私は言いました。


すると、母親はいきなり自転車をとめて

喘息の発作で「ひゅ~ひゅ~」と喉を鳴らしている私に




















っと、強烈な平手打ちをくらわせました。



「そんな考えしてるんやったら

 このままここで苦しんで死んだ方がええわ!」



わけがわかりませんでしたが、

その場で自転車を下ろされて、

ただただ、不安と苦しみだけの私は

「ごめんなさい」

と言って、医者へ連れて行ってもらわないと、

本当に死んでしまうような気がしました。



朝、学校へ行く途中で警察署に立ち寄り、

「拾得物ナンタラカンタラ」という書類を書いて

「板垣様御一行」を“預けて”来ました。

六ヶ月経過して落とし主が現れないと

私の元へ帰ってくるのです。





毎日毎日「落とし主現われませんように・・・」

と願い続け、

「落とし主現れたよ~」なんて声をかけられれぬように

警察署を避けて遠回りしながら登下校しました。

その六ヶ月は、我が人生で

「最も長く感じた六ヶ月

になったのは言うまでも有りません。

  ※六ヶ月後、「板垣様」を迎えに行った時の

   ドキドキ感(本当に落とし主が現れてないのか?)と、

   無事に(?)「板垣様」が帰ってきた喜びに味を占めた私は、

   その後も、50円玉(当時はデカイ)だろうが

   10円玉だろうが、警察署へ届けまくりました。

   一時は、「拾得物ナンタラカンタラ」を常に数枚

   机の引き出しの「宝箱」に保管してました。

   ・・・10円届けられて書類を書く警察も

   さぞかし迷惑だった事でしょう。

   因みに、「板垣退助様御一行」が帰ってきたのは、

   六ヵ月後の4月初めです。

   お母ちゃんの誕生日が「4月5日」ですので、

   警察で、「板垣様」を手にした帰り道に

   花屋さんに寄って花束を買いました。

   お母ちゃんが涙を流しました。





   私も、泣いていましたが、

   私の涙の半分は

   「【板垣様御一行】=【花束の値段】にびっくりし、

薔薇色 妄想 が一気に吹き飛んだ悲しみの涙」

   だという事を、お母ちゃんは知る由も有りません。






その後、体の成長とともに、

「喘息」は少しずつ快方に向かいました。

それでも、この時期には突発的に発作が起き、

あまりの苦しさに、実家に「有るはず」の

「気管支拡張剤」という定量噴霧式のボンベ状の薬を求めて、

「京都⇒大垣」間の高速道路を、当時の愛車

「GSX400FS  IMPULSE インパルス )」

に乗り、時速180km~200kmで走破した事も有ります。

(しかも、その日は 死ぬか、と思うほどの吹雪でしたが、

 それでも一刻も早く欲しいのが「気管支拡張剤」なのです。)



後に、多い時は、狭い家の中で家ネコ8匹に囲まれ、

一日中家の中でタバコを吸いながら仕事をしてました。

不思議なことに、その頃から、ほとんど発作が起きません。

それでも、過去の忌まわしい苦しみの記憶から

「気管支拡張剤」は、お守りのように、常に携帯しています。





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最終更新日  2008年10月12日 02時09分53秒
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