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このごろ原発のことを書かなくなったからといって、忘れたわけではない。ずっとのどの奥にひっかかったままの魚の骨のように、いつも気になっているのだが、手が届かない状態なのだ。毎日、武田先生のブログはチェックしているし、発表されている原発の状況も産経新聞アプリや某巨大掲示板でだいたいはわかっているつもりだ。(すべてを鵜呑みにしているわけではないが私は早くから危険厨だ)先日NYの友達からメールが送られてきた。その内容は、福島の子供たちの年間被曝の許容量の現状。到底受け入れられない20ミリシーベルトという数値から原発事故前の1ミリシーベルトへ戻すという訴えに賛同し、署名をした。その結果、5月28日付けの朝日新聞で『文部科学省は子どもの年間被曝(ひばく)量の目安だった「20ミリシーベルト以下」を、「1ミリ以下を目指す」と変更し、すべての学校など約1800施設に線量計を配り始めた。」とある。これは多くの人の訴えが聞き入れられたと考えていいのだろう。やはりおかしいことはおかしいと声を出さないことには伝わらない。なしくずし的に現状を丸呑みするのはあまりにふがいない。・子供たちを放射能から守る福島ネットワーク・子どもへの年間被ばく量20mシーベルトは許せない緊急ネット署名のお願い・Moms to Save Children from radiation (東京の母親団体) ・福島教員の訴え・菅さんにも言おう! 20ミリ問題、今が正念場!!・首相官邸へのご意見箱私たち大人が未来ある子供たちにできることは美しいもの、安全なもの、きれいなものを残すことぐらいだ。10年後の未来を想像してみて。果たして「あのとき、正しい決断を下してくれてありがとう」といわれる日が来るだろうか。
2011.05.29
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便利な時代になったものだ。海外にいても日本と同じようにテレビがリアルタイムで見られ、ラジオもいくつものチャンネルが聴ける。このごろはラジオがお気に入り♪昼はTBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』や『小島慶子のキラ☆キラ』を食事を作りながら聴いている。(本当は東方神起を大音響で聴きたいのだけど、母がいるのでそうもいかない)母の朝のめまいもようやくひと段落つきひと安心。調子もいいので一ヶ月ぶりにボウボウに伸びた髪を切り、目立ってきた白髪を染めることに。息子と母の髪の生え方がまったく一緒なので、全然余裕で切れる。息子の髪も12年間私が切ってきた。どのように切っても失敗することのない便利な天然ウエーブ。切っている間、母のリクエストでようつべで演歌を流すことに。まずは・・・・フランク永井『有楽町で会いましょう』石原裕次郎『夜霧よ今夜もありがとう』『赤いハンカチ』五木ひろし『長良川艶歌』『よこはま・たそがれ』石川さゆり『津軽海峡冬景色』(これは私も歌える)『天城越え』(私の十八番。日本にいるころよくカラオケで歌いました)坂本冬美『まだ君に恋してる』テレサ・テン『時の流れに身をまかせ』『つぐない』(だんなの好きな歌手)・・・やっぱり母には演歌が体と心にいいみたいで、気分も頭もさっぱり。歌はやっぱり元気をくれるなあ~。
2011.05.27
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子供のころは無邪気に「○○になりたい!」と果てしなく無謀な夢も平気で宣言できた。それが若気のいたりといわれようと、その表情はイキイキと目は輝き、まったく前しか見ていない状態。本当に若いというのはうらやましいことだ。そして、その想いはなんだかかなえられそうな気がするもんね。息子は将来スペインに留学したいとかぬかす。さて、母の滞在も残すところあと一ヶ月となった。3分の2を消化中。残すは3分の1だ。最初の3分の1は本当にあっという間に過ぎた。遠出もいっぱいした。なんと、母とシティに行った際、帰り母をバス停で待たせて、待ち時間に私はコリアン・グロッサリーへ。(最近ハングル語を見ているだけでときめく私も相当痛いんだけど・・・)戻ってみると母が知らない男の人と話している・・・『ええええっ!いったい誰?』(あんたいったい誰やねん?)近づいてみると名刺を差し出し、英語の語学学校のマネージャーで、「シドニーに戻るまでまだ飛行機の時間があるので、食事でもいかがか」と。70近い母を食事に誘うか・・・あんた、うちの母をいったいいくつだと思ってるんだ。確かに白塗り仮面に変身した母は60代前半に見えなくもない。私たちはと~ても急いでいるので、そんな暇はないと丁重にお断りし、とっととバスに乗り込んだ。と、この日まで本当にルンルンと過ごしていたのだが・・・5月13日金曜日を境にして、急激に今までの疲れがでたのか、朝めまいがするといったまま、まったく立てない状態が一週間続き、ようやくこのごろ、そろそろと、おっかなびっくりまともに一日をおくれるぐらいまで自力で回復した。このとき心配症と不安症が一挙に押し寄せたみたいで、日本に帰っても生きる希望もなにもないといい出した。う~ん、難しい問題だ。私が生きる希望を持てといくら力強くいっても簡単に持てるはずもなく、それを他人が与えてやることはできない。やはり自力で見つけないことには長くは続かない。さりとて今さらとりたててやりたいことなんてないだろうし、目が疲れるとかいわれるのがおちだ。人は若いころからいっぱい自分の好きなことを持っておくに限る。そうすると年を取ってからもその好奇心の延長線上に、たくさん花が咲きそうな気がする。年をとってからそれを探すのは本当に難しい。
2011.05.24
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突っ込みどころ満載のアガシさん。新婚の奥さんをおいて、なんでちゃっかりギャンブル?5分で400ドル。ふぅ~ん。こりゃ、ベガスに相当はまってるとみた。LAから車で10時間往復20時間。それをものともせず一人で運転し続け、着くや否や奥さんそっちのけで目をぎらぎらさせてギャンブル。あとで聞いた話に寄ると1ヶ月に2回は着ているらしい。その後、アガシさんが勝ったという話はそれ以上聞かれなかった。勝ってるときはいいたいけど、負けてるといいたくないもんね。いったいどんだけ負けてんだ!こわくて聞けねぇ~私たち家族はカジノを後にし、専らショーを楽しむことに。海賊のショーとか光のショーとかいろいろ。だんなはベガスに来たのにただの一度もスロットもポーカーもやらなかった。意志の強いやつ。が、しかし、この先、このご夫婦とかかわってだんながアガシさんと仕事でパートナーとなった場合、先々の生活が見えてしまったのだ。週末はカジノ通い決定!こんなことは絶対いやだ。帰ってから反対したのはいうまでもない。あ~、このときLAに行かなくてよかった。
2011.05.20
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まずこの旅でこのご夫婦と急遽ラスベガスに行くことになったことがすべての始まり。しかも車で。荒野が延々と続き、途中に店もなく、ただただどこまでもどこまでも果てしなく続く道路。もうちょっとなんかあってもよさそうなのに、なんにもない。ラスベガスといえば、まばゆいばかりのライト。美しく整備されたホテル郡。”ゴージャス”という言葉がふさわしいそんな都市をイメージするだろう。ところがそこに着くまでにいったい何時間車の中にいただろう。多分10時間以上。遠くの方に輝く光が見えたとき、やっとゴールに近づいたことにどれだけ安堵したことだろう。そして、そのだんなの知人は着くや否や、奥さんを置いて、早速ギャンブルに繰り出して行ってしまった。もう勝手知ったるところという感じ。ホテルに入れば、スロット台が列をなしている。しかし、子供は立ち入り禁止エリアになっていて入ることができない。私はというとだんなに息子を預けて、まず50ドル分試してみることに・・・そうは問屋がおろすはずもなく、早くも撃沈。と、そこに知人登場。開口一番「たった5分で400ドル勝ったよ!」
2011.05.19
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またまたタクシー稼業に戻っただんな。暑い日も寒い日も黙々毎日仕事に行きます。そんなルティーン・ワークの毎日。記憶に頼るならば2005年夏、今度はLAに住む知人から仕事のお誘いを受ける。1年生になっていた息子の夏休みの時期とも重なったこともあり、遊びがてら行ってみることに。ちゃっかりレゴランドに行く計画も立て、久しぶりのちょっとウキウキ観光気分。行く前は『LAだったら同じアメリカだからビザの心配もしなくてもいいし、気候も温暖で住みやすいのかなあ・・・』などと考えていた。そしてLA到着。夜中にもかかわらず出迎えに来てくれただんなの知人と奥さん。ちょっとテニスプレヤーのアガシを小柄にしたようなくせのある人というのが第一印象。この当時、この夫婦は見合い結婚したばかりで、奥さんが母国から着いたばかりという。まだどこか所在なげな感じ。そして、次の日からこの夫婦と行動を共にし、だんだん心に違和感を持つできごとを体験することになる。
2011.05.17
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だんなのカナダでの単身赴任生活が始まって、私と息子の二人生活が始まった。いずれいっしょにカナダで暮らすつもりで、これも一時的なことと思っていた。ところが私のビザのステータスが問題でアメリカから国外に出ることが出来ないのだ。(出ることができても戻ることができない)本当はだんながアメリカの永住権のロッタリーに当たった時点で、自動的に配偶者である私も取れるはずだった。それがなんと1996年に一年間の留学のつもりで旅立ってから再び日本の地に降り立ったのが2007年。11年もの間アメリカに足止めされることになろうとは。まさに浦島太郎もびっくり。なんでそうなったのかというと、申請中に失くされた書類の数々。取ったはずの指紋押捺文書を途中で失くされたり、申請をまた一からやり直すことになったり・・・。本当についていないことの数々。でも、なんでか途中でほおり出して帰ろうとは思わなかった。バカ正直なのか、ただたんにアホなのか。そんなこんなで私が国外に出られないということはカナダにも行けない。だんなは泣く泣くお店継続をあきらめたのだ。そして、またまただんなは振り出しに戻り、またしても、タクシー稼業に逆戻り。『人生ゲーム』でさいころを振って、回したルーレットの数を進んだら、「振り出しに戻る」って書いてあったまさにそんな感じ。すがった藁にも見放される・・・、まさにトホホ
2011.05.15
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昨日は感情を抑えることができなくて、一回お休みをいただきましたが、仕切りなおして、またまた続きを・・・タイトルと全然近づかないんだけど、最後には『あっ、そいうことだったのか』と思っていただければ。ホントか?そうそう、だんなのカナダ行きの話が舞い込んできたのだ。だんなの古い古い幼馴染から「カナダでお店をオープンするけど、手伝わないか」という誘いだった。『濡れ手に粟』だっけ?いやいやこういうときは『おぼれる者は藁をもつかむ』まさにそういう心境だ。とんとん拍子に話は進み、だんなはまず単身赴任でカナダに行くことに。なんとだんなは99年にアメリカの永住権に当たり、申請受理されていたのでその辺りの問題がなくなっていたのも大きい。が、しかし、問題なのは配偶者である私だった。なんだかんだいっつもそう。足をひっぱるのはこの私。つづく・・・*******************************今日は13日の金曜日。みなさんはなんか起こりませんでした?実は私東方神起の新曲『I Don't Know』をi-podに入れようとして、ファンになってから今までの3ヶ月の集大成を誤って全部削除してしまいました。とほほもちろん、中にはお金を払って手に入れた東方神起のアプリもあるのに・・・泣くに泣けない。
2011.05.13
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涙・・・かっこよすぎるダンスすごい、いい日本に飛んで行きたい。今はそれだけ。
2011.05.12
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NYのタクシーの映画といえば、クイーン・ラティファ主演そのものずばり『TAXI NY』だろう。カー・アクションはけっこう好きだけど、『トランスポーター』と並ぶぐらいにこれもカーアクションの中では好きなほう。そういえば住んでた当時、マジソン・スクエア・パークで偶然この映画の撮影風景に出くわしたなあ。(多分、過去ログにジゼルの写真をのっけたような記憶が・・・)だんなもおおげさにいえばこれぐらい運転が荒い。前に乗っていて思わず『ヒェエエエ~』と変な悲鳴をあげることはよくある。後ろに乗っていた場合、急ブレーキに気分が悪くなることもよくある。車間距離をもっと開けてとか、ぶつぶつ文句をいうと笑っている。ま、しかし、こんなに運転が荒くても私が乗っているときに事故にあったこともスピード違反で捕まったこともない。で、なんの話だっけ?全然タイトルと結びつかないんだけど、そんなこんなでタクシー稼業を続けていたんだけど、突然友達に誘われてだんなはカナダに行くことになった。
2011.05.10
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めでたくタクシーのライセンスを手にし最初は元締めみたいな大きな会社でタクシーを借りることになった。毎日同じイエローキャブに乗れるわけではない。オンボロのに当たることもあれば、新車に近いピカピカのに当たることもある。初日はそんな事情もわからず、7時に行ったら、壊れそうなイエローキャブしか残っていなかった。そんなのに乗ったら、運転する方もお客さんも両方いいことがなさそうだ。それから少しでもいいキャブに乗るために3時起きの生活が始まったというわけ。早く行けば行くほどいいのに乗れる確率が高い。ピカピカに当たればその日はラッキー♪オンボロのにあたればブレーキのききがあまいとか、タイヤの磨り減り方が半端ないとか、もっと最悪なのは体臭がこもりにこもったどうしょうのないのもある。誰が乗ったらこうなるねん。スプレー持参ということになる。そのへんのところが自動で開くそしていつ乗ってもどれに乗ってもきれいな日本のタクシーと大きく違う。今はもっときれいになってると思うけどね。2013年にはすべて日産のバンになることだし。だんなはデイリーレートで借りていた。最初の100ドル分は借り賃で消える。それからが自分の取り分となるわけだけど、当然ガソリンは返す時に満タンにして返すとかいろいろ小さな規約はある。それに、朝一番で行けばマンハッタンからJFKへの長距離客が見込めたりする。朝4時に乗り始めてからほとんど休みなく、ずっと10時間ぐらいタクシーの中。本当に本当にただただ根性で続けていたようなものだ。その後、知り合いとチームを組んで、一台の新車のタクシーをシェアできるようになったので、かなり楽なシフトになったんだけど・・・このときのだんなの根気にはただただ敬服する。よくがんばったなあと心底思う。******************************************今日は『母の日』。だんなから私と私の母に。
2011.05.08
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3ヶ月分の小切手をもらって3ヶ月の猶予をもらったわけだけど、現実を先延ばしにしただけで状況は少しも変わらない。その先どうやって生きていくのか、職をどうするのか真剣に考えなくてはいけない。そして、だんながこの3ヶ月間にしたことはなんだったのか・・・それはイエローキャブの運転手になるべく学校に通い始めたことだ。しかしながら、ここだけの話だんなは極度の方向オンチだ。今ももう100万回通ったような道でも、なんでそっちに行くの~???と思う方向に必ず行く。いっちゃあ行けない方向に行く習性がある。が、幸いなことにNY・マンハッタンの道は縦にアベニュー、横はほとんど番号だ。それでも、いろいろ覚えることがあるらしい。3ヶ月が経つころには朝3時起きの日々が始まった。
2011.05.06
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ちょうど約10年前。まだ私たち家族がNYにいたころのこと。2001年9月11日、8時45分。いつもの朝と変わりなく『NY1』という地元のニュース番組を見ながら朝ごはんを食べていた。ふとWTCに突っ込んでいく飛行機・・・あの衝撃の映像がTVから飛び込んできたのだ。といっても、第一報を見ていたにもかかわらず、衝撃というよりも映像が脳に直接届いていないようななんだかぼんやりした感じということしか覚えていない。しかしながらまさにこの瞬間、私のたちの家族の生活も運命も一変することになろうとはまだこのときは考えてもいなかった。テロの詳細はウィキィに詳しく書いてあるので割愛するが、一番に変わってしまったことといったらだんなの職がなくなってしまったことだ。今の日本の状況と同じく当時のNYでも自粛ムードは続き、NYの観光客は激減。レストランもお店も青色吐息の状況が長く続いた。職がなくなってしまっては月の家賃さえ払えない。どうやって食べていくというのだ。本当に途方に暮れていた私たちに、だんなの友達から「ミッドタウンのウエスト・サイドに行けばなんとかなる」といううわさ聞きつけ、当時2歳の息子をストローラーに乗せ、いわれた住所を元にその場所へと向かった。人種の坩堝NY。いろんな国籍の人が集まり、はや長蛇の列が出来ていた。さてこのとき薄暗い体育館で自分の番がくるまで何時間待っただろう・・・。多分、半日以上は経っていたはずだ。その大きな体育館ほどの場所にあったのはアメリカ赤十字社だった。やさしげなボランティアのおばさん。本人確認の書類、毎月の家賃の領収書、銀行の明細・・・そんなものを確認され、「ま、クリスマスまでなんとかしのいで」と3ヶ月分の家賃と食費を含んだ小切手をもらった。募金をする方ではなく、 恵んでもらう方。なんともかんとも・・・。つづく。
2011.05.05
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お隣からいただいた真っ白のバラ**************************************オーストラリアの地に降り立ってから3年。申請を始めてから2年。その間に起こった私の病気のこと、ま、これが最大のネックだったんだけど・・・あとからあとから私の関する書類の申請が増えて、主治医の先生に書いていただいた手紙や補習校保護者会の方に書いていただいた手紙など、いろいろなことが考慮されて、この度めでたくオーストラリアの永住権をいただくことができました。この地に足をつけて生きていく覚悟ができました。あ~本当にうれしい
2011.05.04
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息子は無事中学校へ入学しました。(現地校は1月から始まってるけど・・・)分厚くて文字が小さくなった教科書にちょっと不安をいだきつつ、なんとかついていってもらいたい。私もちらっと数学の教科書を見たけど、まだ教えられそう。しかし、比例あたりからだんだんやばくなっていったんだっけ・・・と遠い記憶を探りつつ・・・宿題バトルはまだまだ続く。
2011.05.01
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