CAPTAINの航海日記

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2009.01.14
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カテゴリ: 鉄道忌避伝説
先日、適当にネットサーフィンしていたら、 ウィキペディアにおける磐城常葉(いわきときわ)駅の記事 に、面白い文章を発見しました。以下、少々長くなりますが引用します。

「(1917年に全通した磐越東線は)本来の計画では常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったが、鉄道敷設に反対の声が上がった。 それは三春町から物資の輸送を担当していた60台からなる馬車組合と農地の解放を渋る農民であった。
また、政治的な感情も鉄道敷設問題に影響した。当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあった。常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であった。 そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した。この結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設された。」

簡単に言うと、磐越東線の敷設時に田村市常葉町で鉄道忌避の動きがあった、ということです。なお、この文章はどうやら「福島県史」を下敷きにしているらしく、時の政治家や政権の名前まで登場して、もっともらしい話に仕上がっています。
しかし、鉄道忌避伝説の面白い所は、「基礎史料の明示がない場合、例え自治体史のようなオフィシャルな歴史書であっても、真実が書かれてない可能性が多分にある」という点。ちょっと調べてみるとわかるんですが、この文章もまた、率直に言ってトンデモ話なんですよね。以下指摘してみましょう。

(1)「本来の計画では常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったが」
地図については読者各自で確認して欲しいのですが、この部分からして既に噴飯モノ。推察するに磐越東線は田村市船引町から大滝根川や都路街道(現在の国道288号線)に沿って常葉まで東進する計画だったと読めます。ちなみに、七日市場とは常葉の中心街の東端にあたる地域。ここまではいいのですが、その後の「関本地区を経由して大越駅に抜ける」云々が明らかに変。関本は常葉の町の真南にあたりますが、ここから大越の間には標高500メートル前後の山々が連なっており、少なく見積もっても2キロ以上のトンネルを掘らなければ直通できないのです。磐越東線の建設が進められた1910年代の初頭には既にこのクラスのトンネルがいくつか開通してはいるもののいずれも「そこを掘らなければならない」必然性ゆえのものであり、トンネルの回避が可能な路線にわざわざ掘ったケースは皆無でした。また、現行の磐越東線の船引~大越間の距離は8.2キロですが、常葉を経由するとなると、確実に2倍近い距離になります。
常葉の馬車組合や農民が鉄道敷設に反対したのかどうかはわかりませんが、そもそも常葉は西の船引方面を除く三方を丘陵や山岳に囲まれており、鉄道建設のリスクが大きい場所なんです。例え当時磐越東線の誘致がすすめられていたとしても、願いがかなえられる可能性はそう高くはなかったでしょう。

(2)「当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあった。常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であった。 そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した。この結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設された。」
確かに河野は1870年代前半にこの地域の戸長を務めた経験があります。また、磐越東線の建設当時、反立憲政友会の立場を貫いていたのも事実です。が、当時の日本の政治状況は現在のように一つの政党がずっと与党にいるといったものではありませんでした。その中で河野自身も政権の中枢にいたことがあり、奇しくも磐越東線(当時の呼称は平郡西線)の三春~船引~小野新町間が開通した1915年には、第二次大隈重信内閣において農商務大臣の地位にありました。
また、そもそも河野は三春出身であり、その三春には鉄道が通じているのに常葉で反対運動が起こったというのも、おかしな話です。
なお、瑣末な話になりますが、憲政会という政党は、田村市内の磐越東線が開通した翌年の1916年に結成されたものです。従って「対立が強まる」云々という話も、正確な情報とは言えない面があります。

そんな訳で、この文章(厳密に言えば「福島県史」か?)の執筆者の知識、常識をちょっと疑ってしまうのでありますが、どうしてまたそんな話が出来上がってしまったのか? 次の日記では、その背景を、私なりに探っていきたいと思います。


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Last updated  2009.01.16 01:59:19
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