2003
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今回は1981年に初来日したフレッド・フリス、ソロコンサートのネタです。 オマケではまたw
Nov 30, 2015
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11月30日、偉大なる漫画家の水木しげる先生が亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りすると共に先生の残されたお言葉を。
Nov 30, 2015
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1991年のグラミー賞でボブ・ディランが特別賞を受賞した際のライブ演奏で、ウォーレスがドラムスを叩いてる映像です。70年代後半にディランのバックバンドにいたウォーレスが、91年の授賞式で叩いてる理由は判りませんが、米国在住であるために声を掛けられたのかもしれませんね。Bob Dylan - Grammy Lifetime Achievement Award - 1991 Grammy Awards 動画の5分半あたりからがライブ映像です。映像に一部乱れがあります。
Nov 28, 2015
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時は70年代終わり・・・
Nov 27, 2015
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寒くなってきましたね。と言う事でマンガです。オマケ
Nov 25, 2015
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現在Twitter上で@eclipse1228様が、ATBキングクリムゾンという企画のアンケートを行っておられます。 参加方法は、自分の好きなキング・クリムゾン楽曲を10曲、好きな順に書き、あと全メンバーのうち一番好きなメンバーを一人推す総選挙も同時に集計なさるそうです。 それらをツイートする際、ハッシュタグで、 #ATBキングクリムゾン と入れる事で投票した事となります。今回私はとても選べないので参加しておりませんが、大変面白い企画だと思いますので、興味のあられる方はぜひ参加されてみてはいかがでしょう?投票期間は、11月24日0:00~11月30日24:00までの一週間なのだそうです。投票方法について詳しくは以下のまとめ、そして途中経過をご参考になさって下さい。【オールタイムベスト】 #ATBキングクリムゾン 【投票要項】http://togetter.com/li/904092現在の投票経過は以下のツイートで閲覧できます。#ATBキングクリムゾン All TIME Best King Crimson Tweethttps://twitter.com/search?q=%23ATB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%BE%E3%83%B3参考までに各ラインナップ画像を1969デビュー年オリジナルラインナップ左からイアン・マクドナルド、マイケル・ジャイルズ、ピート・シンフィールド、グレッグ・レイク、ロバート・フリップ1970年春キャットフードをシングルで出したあたりピーター・ジャイルズ、キース・ティペット、ロバート・フリップ、グレッグ・レイク、マイケル・ジャイルズ1970年夏から秋サードアルバム、リザード制作時のメンバーメル・コリンズ、ピート・シンフィールド、ロバート・フリップ、アンドリュー・マカロック、ゴードン・ハスケル1971年4枚目アイランズのメンバーピート・シンフィールド、ロバート・フリップ、メル・コリンズ、イアン・ウォーレス、ボズ・バレル1972年秋太陽と戦慄制作時のメンバージェミー・ミューア、ビル・ブルーフォード、ロバート・フリップ、デヴィッド・クロス、ジョン・ウェットン1981年からの80'sクリムゾンエイドリアン・ブリュー、ビル・ブルーフォード、トニー・レヴィン、ロバート・フリップ1994年からのダブルトリオ編成トニー・レヴィン、パット・マステロット、エイドリアン・ブリュー、ビル・ブルーフォード、トレイ・ガン、ロバート・フリップ2000年代トレイ・ガン、エイドリアン・ブリュー、ロバート・フリップ、パット・マステロット2008年北米ツアーパット・マステロット、エイドリアン・ブリュー、ロバート・フリップ、ギャヴィン・ハリソン、トニー・レヴィン2015年から現行来日ラインナップビル・リーフリン、ジャッコ・ジャクスジク、ギャヴィン・ハリソン、ロバート・フリップ、パット・マステロット、メル・コリンズ、トニー・レヴィン
Nov 24, 2015
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和やかな雰囲気が伝わってくる演奏ですが、何のギグかと思いきや後ろに「Henrry McCullough」の文字。たぶんゲストで出演したステージの一場面なのでしょうね。Mel Collins 17.03.2015
Nov 23, 2015
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Gary Husband w Allan Holdsworth - "I.O.U." album outtake (1980)
Nov 21, 2015
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前回に続きキース・ガスター氏が60年代FDLでの活動を振り返ったインタビューからの抜粋です。「1966年中頃、私とゴードンらは当時のマネージャー、ニッキー・ジェイムズに家賃を借りてバラムに住んでいたのですが、そこに一緒に住んでた太った女の子(訳注、当時自分はジョン・レノンの愛人だと自称していた追っかけで大変ブサイクな人物で有名だったらしい)から逃げ出しました。(※12/4追記、この当時の二代目FDLマネージャーが前身バンド4HITS&MISS時代の女性ヴォーカリスト、ニッキーだったのには驚きました。下記画像参照、隣はダニー・チャーチル) ニッキーはジ・アニマルズとも知り合いでしたし、彼らがアメリカツアーの最中ではありましたが、アニマルズの住んでいたケンジントン、クランリーガ-デンズにある応接間が6つもある大邸宅を世話してくれました。オーナーがリンゴ・スター。 アニマルズが帰国するとチャス・チャンドラーが少し変わった男を隣の部屋に住まわせました。ある日、その男はゴードンに「ギターショップに連れてってくれないか」と頼みました。そこで私達はチャリングクロスロードやティンパン・アレー等へと彼のギター探しに付き合ったんです。この時ギターを買ったのかどうかまでは覚えてないですね。 2週間後、チャスが『このすげえギタリストのギグにベーシストとドラマーを探してんだ』と言ってたので、丁度お金が無かった私たちにも仕事の機会があるかもとゴードンと話してました。 その数週間後にはチャスからジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスのギグをクラブに観にくる様、我々は誘われたんです。アレにはぶっ飛ばされましたね。 ジミはブリンのプレイスタイルが好きだと言ってて、スピークイージーでの我々のギグを観に着てくれて、ステージで40分間我々とジャムをしました。 三枚目のシングルの後、1967年になると作曲家グラハム・ディーやブライアン・ポッターとの提携業務でアトランティックやポリドールの為にハウスバンドとしても働いてました。」質問者「ジョン・ブロムリーのアルバムSINGセッションについて思い出はありますか?」(訳注、発売は1969年だがセッションは68年の年頭からの3ヶ月)「ポリドールがバックアップしてた様々な作曲家の曲を契約まで持ち込むまでのスタジオバンドとしてたくさん仕事をしてる中で、ジョン・ブロムリーと出会いすぐに打ち解けて親友になりました。彼はとても才能に溢れたソングライターであり、人懐っこい男でした。彼のアルバム『SING』を手伝うよう頼まれた際は是非も無かったです。 その後は久しく会っていませんでしたが。2009年11月の100クラブでのリユニオンギグの打ち上げパーティで顔を合わせました。」質問者「あなた方は米国ソウル歌手ドニー・エルバートとどの位レコーディングしましたか?」「ポリドールから68年出だされたシングルの In Between The Heartaches / Too Far Gone (I'm A Fool)の両面、 そしてLPで出されたTribute To A Kingというアルバムを彼と一緒に作りました。」質問者「ゴードン・ハスケルはブッカーT&MGsの様な黒人バンドに指導されたと述べてますが」「いや、彼らから直接指導されたというわけじゃなく、ドニー・エルバートとの毎日スタジオで過ごした中でゴードンや私は多くを学びました。(訳注、ドニー本人の作品だけではなく、シャロン・タンディ等他のアーチスト作品もドニーのプロデュースで手掛けていた為だと思われる。) しかし、その後アトランティックのマネージメントが彼の英国での活動を終わらせてしまった為、私達は非常に落胆してしまいました。」質問者「ルパーツピープルでシングルが出てしまったのはクリス・アンドリュースのせいでしょうか?」「クリスは当時我々FDLの看板メインポ-カルでした。このシングルをFDL名義にして欲しくなかったのでEMIに伝えました。ルパートと言うのはゴードンを呼ぶ時に私が使ってたあだ名なんですw クリスの為に他の三人を集めてルパーツ・ピープルというグループを作ったという訳です。」質問者「たくさんの仕事を共にしたグラハム・ディーとの作業でお気に入りの曲は?」「Stop crossing the bridge、I forgive you、Two can make it togetherとかたくさんあるけどね。 私自身が特に気に入ってるのはBrick by brick。」質問者「FDLは結局何時解散したのでしょうか?」「シャロンとトニー・ヘッド名義で出したシングルTwo can make it togetherがチャートに入り、1969年5月トップ・オブ・ザ・ポップスに出演した時期、ブリンとシャロンの長い交際関係が終わりを迎えていたというのがあります。シャロンの薬物服用が余りに多く、その後の計画が立たなくなっていたのです。彼女無しでライブ活動するに至り、バンド内部にも摩擦が生じてしまいました。彼女に余りにもプレッシャーを負わせ過ぎた我々の責任なんです。 ブリンはブルーチアーのリー・スティーヴンスに『君の将来性はアメリカにある』と説かれて69年7月にバンドを抜け、シルバー・メートルに参加してしまいました。 一年前に抜けたゴードンに続いてブリンまでも。二人の大事な友人を失い私は荒んでしまったのでした。グレアム・メイトランドがその後加入しましたが、何もかも上手く行かなくなりました。」質問者「あなたが好きなFDLのラインナップは?」「セカンドシングルのサークルを出した時期は素晴らしかったですね。あと、ルパーツ・ピープルの茶番劇の後、ブリンとゴードンと私の三人だけになった時も好きでした。」======以上。 毎度毎度のなんちゃって意訳ですが、わかりうるバンドの活動の背景をガスター氏ご本人が丁寧に解説する内容がとても貴重でしたので掲載いたしました。原文中ではドニー・エルバートとのセッション作品は無くしてしまい長年聞いてないような件もあったのですが、昨年ハスケル氏にアルバムを贈った所ガスター氏宅で一緒に聞いたよとお便りを頂いたので久々に耳にされたのではないかと思います。謎が多いFleur De Lysという英国初のアトランティック契約アーチストでもあった彼ら。その歴史の一部が少しでも読み取れて面白いと感じました。最後までお読みいただきありがとうございました♪ではまた。
Nov 16, 2015
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Fleur De LysのYOU'VE GOT TO EARN ITが発売され2年半経ちましたが、以前にも復刻音源集が出てたのに、なぜ今更のように一枚で曲数の少ないアルバムが出たのでしょう? 以前出されたリフレクションズが正規リリースでは無く7"盤起こしを寄せ集めた粗悪音源CDであったとしても。 正規リリースとして初めてのアルバムとなったYOU'VE GOT TO EARN ITの発表に至る経緯を前身バンドフォーヒッツアンドミスからFDL解散まで唯一メンバーであり続けたキース・ガスターさんのインタビューから摘んでみることにしますw「1998年に23曲を収めたCDが出されていたが、あれは海賊盤だったと考えている。出た当初は存在さえ知らなかったが、2004年にゴードン・ハスケルの家を訪問した時、彼のCD棚にコレを見つけてね。スリーヴノートに書かれたライナー文解説は間違いだらけだし、FDLの演奏して無い曲(1stシングル、ムーンドリームスB面のジミーペイジ楽曲)やウェイグッド・エリスとか入っていたり。 アシッドジャズレコードがFDLの決定盤を出さないかと持ちかけてくれたんだ。そこでFDLのセッション音源であるドニー・エルバートやシャロン・タンディ、それにジョン・ブロムリーなども含めた二枚組CDを提案したのだけど、アシッドジャズからは『コストが掛かりすぎる』と拒否されたんだ。 最終候補の23曲から17に絞りこむのに相当迷いましたよ。ワイルドな曲を選び抜いて全ての収録曲に解説を書いて、それらに誇りも持っていますが、このアルバムを聞けばFDL最高の演奏が全て詰まってると言い切れる物にはならなかったですね。 FDLのバンド特性での問題は、激しいメンバーの移り変わりにあります。その6年間で多くの音楽スタイルから影響も受けました。私たちはソウルミュージック好きでもありましたし、地獄の様なロックも演りました。私たちの世代がフリークビートと呼ばれるジャンルを生み出したと書かれている時代の音楽です。 1965年秋、私達はシェル・タルミ-の持ちかけた強欲な提示のレコード契約を断りました。その後、イミディエイトのアンドリュー・オールダムと契約し、リージェントサウンドスタジオにトニー・カルダーがレコーディングの場を提供してくれたんです。私たちもいち早くデビューし名声が欲しかったので署名したわけです。(写真左から、ベースのダニー・チャーチル、オルガンのアレックス・チェンバレン、ギターのフランク・スミス、ドラムスのキース・ガスター) カルダーはデビュー曲として私たちにバディ・ホリーの『ムーンドリームス』を与え、練習した後の9月スタジオに入りました。ジミー・ペイジのプロデュースとされる曲ですが、彼はスタジオにいませんでした。というか私たちの誰もが当時彼が関与するとは知らされていませんでした。私はこの曲が嫌いだったし、他のメンバーも同様でした。FDLらしさが無い演奏をやらされたと言う感じでした。 同じセッションでは、ウェイト・フォー・ミーというダニーとフランクが書いたB面曲も録音したのです。 しかし、11月に出来上がったデビューシングルを聴くとB面には私たちの関与して無いジミー・ペイジの手による12小節ジャズジャムがウェイト・フォー・ミーのタイトルで収録されており、私達の演奏は無かったのです。 ショックでした。私たちフルールのメンバーは全員恥ずかしい思いをさせられました。 ペイジの言い訳は「オリジナル曲のテープが破損してた。リリース日に間に合わす為に彼自身の曲をB面に入れた」という話ですが馬鹿げてます。B面へ彼のクレジット曲を入れロイヤリティを得るための事なのでしょう。私たちをコケにしたペテンでした。このお陰で数週間後ベースのダニーはバンドを辞めてしまったわけです。 ですから我々FDLとジミーペイジの関係は蜜月関係とはとても言えないものだったので、この数ヵ月後に次のシングル『サークル』を制作する時もジミーはスタジオには着ませんでした。今度のプロデュースはグリン・ジョンズで、彼は本当のプロフェッショナルでした。」質問者「FDLは頻繁にメンバーが代わったバンドとして知られますが、ゴードン・ハスケルとフィル・ソーヤーが加入したことはバンドにとって弾みとなりましたか?」「ダニー・チャーチルが失望の末脱退した後、ゴードン・ハスケルが加入し、何の問題も無く収まりました。66年2月までひと月ほどドイツのクラブでプレイしてた時フィル・ソーヤーと知り合いました。彼は我々がイギリスへ戻る時一緒に帰国しそのまま正式メンバーとなりました。それと同時にハモンド奏者だったアレックス・チェンバレンが脱退してしまったのです。 帰国した我々は『サークル』をレコーディングし、66年当時最高のギタープレイをフィルがレコードに残してくれた訳です。彼のもう一つの才能は、我々がステージでモータウンスタイルのコーラスをする時に情熱的なハーモニーとなった事です。マンチェスター、ニューキー、ロンドンと各地を廻る巡業のバンの中でいつもハモる練習をしていたものです。 トニー・カルダーは66年3月4日金曜日、私たちにザ・フーのインスタント・パーティ(サークル)のカバーをしないかと提案しました。週末に仕込んで月曜にIBCスタジオで録音するつもりだったようです。しかし、私達は週末に2つのギグが入ってました。 何とかスケジュールをこなして月曜日にスタジオに行くとグリンの為に必死に演奏しました。私たちにとっても特別な経験となりました。へとへとになりながらもやり遂げた意味で。」質問者「シャロン・タンディはどの様な経緯で参加するようになったんですか?」「FDLは、フランク・フェンター(訳注、この頃FDLのマネージャーとなった)と出会い、彼の元妻であるシャロン・タンディを紹介されました。ゴードンとブリンと私、それにシャロンは66年から69年までアールズコート辺りの色んなフラットで共に住んでいました。私個人はシャロンの9枚のシングルで演奏しています。質問者「ホールド・オンはこの時代最も偉大なレコードのひとつです。あなた方の演奏がなぜルパーツ・ピープル名義で発売されたんですか?」「ルパーツ・ピープルの内幕は複雑で、正確に全てを思い出すには時間が経ちすぎました。彼らのシングルA面の事とか思い出せません。でも質問はB面に収められたホールド・オンでしたね。 この曲はゴードン・ハスケルとブリン・ハワースによって書かれています。まだA面曲のチャーリーブラウンが完成して無い頃でした。 プロデューサー、ハワード・コンドルはホールド・オン楽曲作者クレジットに自分の名前を上乗せしたことで卑劣な馬鹿野郎である事が判明しました。その上、たった一行歌詞を手直ししただけのルパーツのギタリスト、ロッド・リントンの名前も上乗せしました。そしてコロンビアからシングル盤が出る際には、レコードからブリンの名前をも削除してしまったのです。」以上、まずは前半としてお届けします。驚く様な当時の話がてんこ盛りですねー。そうかー、ホールド・オンの奇妙な作者連名はこんなカラクリがあったとは。酷い話ですね。確かにハスケル氏の過去インタビューでは「スタジオでブリンがギターを弾いて曲を考えてる間、僕が歌詞を書いていた」と述べてました。つまりハワード・コンドル(またはコンダー)とロッド・リントンは、本来の作者ではないわけですね。余りに長くなりすぎましたので、今回はこの辺で。続きはまた次回。続きはコチラ
Nov 16, 2015
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ちょっと前に、最初期のYESでドラマーだったトニー・オライリー映像というブログ記事を書きましたが、そこでも貼ったイエス在籍時の画像(右端)は横顔で正直どんな人なのかイメージが湧きにくいですね。ということで、イエス以前のクーバス在籍時の画像でどんなお顔だったか調べてみようと思いました。 調べてみるとおよそ半世紀前の古いバンドですので余り画像がありません。あっても顔が判別付き難かったり。 以下顔の判りやすそうな画像を並べてみます 上記の画像を見た後だと次のバンド画像でトニーが一番上にいる事が判ります 次の画像だとセンターにいます。ちょっと可愛らしいかもw ココまで来ると次の画像でトニーは右から二番目だと判別できるようになります ココでもう一度トニーのアップを そして再びYESでの画像からトニーのアップ 面立ちや輪郭、鼻筋に同一人物としての特徴が何となくつかめてきたような気がします。 1968年のシングル盤ピクチャースリーヴではトニーの写っていない画像が使われているものもある為、実際はバンド解散までは在籍していなかった可能性もありそうですが詳細はわかりません。クーバスの面々がジミヘンやエリック・バートンらと1968年撮影したロンドンでの画像にもトニーの姿はありません。 現在彼が何をしているかも一切不明です。関連記事: YES二代目ドラマー、デイヴ・ポッツの正体 http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201510160000/
Nov 12, 2015
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当初アルバムを手に入れた2012年に、極軽い気持ちでブログを書いて、ついでにバンドの人脈をファミリーツリーに描いたのでした。その後情報が入るたびに手を加え書き直し、最初のバージョンから数えて33になりましたw と言う事で、レイアウトもだいぶ整理されバンドの流れもだいぶ見やすくなったかもと思いますが、反面ごちゃごちゃするのもツリーの宿命。今回はKing Harryと微妙にからむハスケル氏の70年代の活動をご本人の証言を元に描き加えてあります。 もう手を加えるつもりも無いのですが、どうしても新たな事実が判るとw 毎度のことですが、ファミリーツリーは2012年の記事内にリンクを置いてあります。 King Harry - Divided We Stand (1977) http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201205190000/ オランダ盤シングルの記事はこちらでKing Harry - DEAR MATHEW / GRANDPA'S FARM (1977) http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201510290000/当初タイトルを二年半と書いてましたが、3年半だったw※11/12ebayで彼らのTシャツが売られてましたw買いませんけど。
Nov 10, 2015
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6月にロッド・スチュワートとPPアーノルドとキース・エマーソン セッション音源というブログ記事でナイスが結成された当時のセッション音源を紹介しました。今回はその続きと言うか、熱心なファンならご存知のPPアーノルドのセッションでナイスが演奏した曲です。 彼女のファーストアルバムにも入っていますし、近年のベスト盤にも収録されてます。また一部はエマーソンのセッション音源だけを寄り集めた編集盤CDにも収録されてます。 P P Arnold - Am I Still Dreaming P.P.Arnold - P. P. Arnold - Though It Hurts Me Badly P.P.Arnold - Treat Me Like a LadyはYoutubeに無かったw 当時のセッションをキースは「ミキサールームからプロデューサーのミック・ジャガーが『さあ、さっさと終わらせてメシ食いに行くぞ!』とトークバックでスタジオにハッパ掛けていた。レコーディングが終わりスタジオを出る時、次にセッションに入るスモール・フェイセズの連中と入れ替わりとなった。」と振り返っています。初期ナイスがドラマーを交代する前という訳で貴重なイアン・ヘイグのプレイが残されてる楽曲とも言えるのでしょう。
Nov 10, 2015
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最近新曲People Are So Fragile, Why Is Life So Hard?を録音したと公表したブリューさん。彼の最新インタビューです。Adrian Belew Interview by Sweetwater
Nov 10, 2015
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MCの呼び込みで登場し、エイジアのDon't Cryを唄う映像ROCK MEETS CLASSIC - John Wetton - Don`t cry LIVE @ Frankfurt 29.03.15しかし何にでも呼ばれると登場するお方ですね♪この動画、ウェットン氏ご本人がツイートでリンクしておられたので知りました。
Nov 9, 2015
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DGM lIVE!ユーチューブチャンネルにて1974年フランステレビ番組にキングクリムゾンが出演した映像が公開されました。REDの40周年エディションで見られるアレですね
Nov 9, 2015
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イアン・ウォーレスやジョン・アンダーソンのデビューバンドのリマスター映像がYoutubeにあがってましたので実際のDVD映像だともうちょっとクッキリしてます。DVD「ジャスト・フォー・ユー」の情報は以前紹介しましたのでリンクを貼っておきます。音楽映画 Just For You (June 1964) DVD (2014)http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201506050000/こちらは以前も紹介したメンバーチェンジ後のウォリアーズ映像Jon and Warriors - Mr. Nobody Nothing1966年辺りでしょうか?正確な放送日時はわかりません。ジョンの兄トニーが抜け、キーボードのブライアン・チャットンが参加した後の貴重な映像です。
Nov 8, 2015
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ツイッターで@eclipse1228様が行われていたメロトロン使用楽曲の人気投票ですが、投票結果が以下のリンク先で公開されています。【オールタイムベスト】 #ATBメロトロン 【投票企画】http://togetter.com/li/8934031位 ジェネシス「ウォッチャー・オブ・ザ・スカイズ」2位 キング・クリムゾン「暗黒」3位 キング・クリムゾン「クリムゾン・キングの宮殿」4位 キング・クリムゾン「墓碑銘」5位 マッチング・モウル「オー・キャロライン」6位 レッド・ツェッペリン「レイン・ソング」7位 PFM「人生は川のようなもの(ほんの少しだけ)」8位 ザ・ビートルズ「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」9位 イエス「同志」10位 チェレステ「光明の統治者」11位以下の結果はリンク先をご覧ください。
Nov 7, 2015
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綺麗にリマスタリングされた映像ここはやはりブルーレイのやつでしょうかGet Back - 1s Preview 【楽天ブックスならいつでも送料無料】ザ・ビートルズ 1+ 〜デラックス・エディション〜 (完...価格:8,678円(税込、送料込)
Nov 6, 2015
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Bill Bruford - Electronic Drumkit Demo, Japan 1986 当時、ビルが使ってたシステムを本人が細かく説明しています。番組MCは井上鑑、川口雅代両氏。番組終盤には当日のライブ映像もあります。時期的に、AKIRA INOUE - TOKYO INSTALLATION (1986)に参加した当時なのでしょうね。
Nov 4, 2015
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1967年夏、マイケルとピーターのジャイルズ兄弟が長年続けてきたトレンドセッターズと別れを告げ、故郷に戻り「時代はこんなに進んでるのに、何で俺たちは何もして無いんだ?」とジミヘンやピンクフロイドなど新しい時代の潮流に乗り遅れたことへの焦燥感を募らせ、「唄えるオルガン奏者募集」記事を出し、結果ロバート・フリップ(頭もじゃもじゃだがギターだけはべらぼうに上手い)と出会いました。この件はファンならご存知の方も多いでしょう。 しかし、組んだはいいがGGFが順調に軌道に乗ったわけじゃなく、フラワーポットメンとのギグ初日で失敗して解雇されたり、イタリアンシンガーのバックをやって興行師ともめたり、フリップは故郷でホテルバンドのクリスマスパーティーで箱バン演奏したりと翌68年のデッカとの契約までは色々と紆余曲折の中苦労も重ねてたようです。 その67年後半、仕事も無く政府の補助金で食い繋いでたGGFのマイケル・ジャイルズは、マイク・モートンのバンド「マイク・モートン・ファイブ」でも小銭稼ぎをしてた様なのですが、このバンドほとんど詳細が判りません。てか,、この時点でレコードも残してないから当然なのですがw フリップが67年末から68年新年にかけてマジェスティック・ダンス・オーケストラに出戻って仕事してた同じ時期、もしかしたらジャイルズもマイク・モートンのクリスマス興業に参戦していたのかもしれません。あくまで私の予想ですが。時期的に他の時期である可能性が無さそうですしね。 ジャイルズ兄弟は61年のダウランズ在籍時から67年に解散するトレンドセッターズ(変名バンド、トレンド、ブレインを含む)までの活動で、非常に多くのバンドと国内外のパッケージツアーを行いました。 当時のツアーの印象をピーターはシド・スミスさんのクリムゾン伝記本で語ってましたが、この時代に共演した様々なミュージシャンとの交流の中には、マイク・モートンもいたのかもしれません。 ジャイルズがマイク・モートン・ファイヴへ臨時参戦したと思われる67年に絞って調べると、確かに1967年にBBCラジオの番組アーカイブにTHE MIKE MORTON FIVEの出演記録が残されています。ただし出演は5月と7月の二回のみの記録ですが。BBC Genome - THE MIKE MORTON FIVE 記録を調べてもモートンの詳細な情報はほとんど出てこないため、食いっぱぐれてた時期のジャイルズ先生がモートンからどの様な仕事を請けてたかは不明です。どさ回り時代からの顔見知りと言う線もありそうです。 マイク・モートンは60年代末から、自身のバンドTHE MIKE MORTON CONGREGATIONで活動し、多数のカバー曲をシングルやLPで発表したバンドマスターでした。70年に制作されたマクドナルド・アンド・ジャイルズはライブを行わないレコードのみのプロジェクト。プロジェクトが終了後、ウッズ夫妻との共演もマクドナルドが渡米し暗礁に乗り上げたので、ジャイルズ先生は旧知のモートンから仕事の依頼を請けたのかもしれません。翌年2月から立て続けに4枚のLPでドラムを叩いてるのも昔なじみと言う縁なのでしょうね。 多くのヒットソングカバー集を大量にリリースしてるバンドですが、70年代後半には時代の流れでディスコソング集も出していたようです。また同姓同名のスプリガン所属のマイク・モートンは活動時期が被るけどまったくの別人と見てよいでしょう。
Nov 3, 2015
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激しいメンバーチェンジの末にギタリストがとうとういなくなったある日のことめでたしめでたし・・・※10/5、ソーヤーの移籍先が、スペンサーデイヴィスよりショットガン・エキスプレスの方が先であったため修正しましたw漫画制作ソフト コミPo!の無料体験版を使用してます.
Nov 3, 2015
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