2003
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モーガル・スラッシュやファミリーなどプロ活動初期の話から始まり、フリップとの関係や、60年代に出入りしてたドン・ストライクの店の話など盛りだくさんな貴重映像です。ASIA"s John Wetton is candid w Eric Blair on his life in music 1997
Oct 31, 2015
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トニーさんにひげが無いですよw
Oct 31, 2015
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同じセットでリンダ・ルイスなど他の歌手が唄ってるのもみた事があるので同じ番組かな?エディーが若い!
Oct 31, 2015
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夏なので暑そうですね
Oct 30, 2015
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いきなりREDが始まりますw
Oct 29, 2015
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アラン・バリーらボーンマス出身ミュージシャンらの集まったキング・ハリー、1977年唯一アルバムの紙ジャケット再発CDも出た事ですし、ココは何か追加のネタでもと思い、オランダから当時出ていた彼らのシングルを買ってみました♪オランダ盤はピクチャースリーブ。ピクチャー・スリーヴ裏面 彼らのシングルで現在確認できる物には、英国盤、ドイツ盤、オランダ盤があります。LPはインドや日本でも発売されていたくらいですので、もしかすると他の国でも出ていたのかもしれませんが。 サウンド的にはLPと違い、シングル盤向けの45回転カッティングの影響でしょうか?アコースティックギターの細かいリフが良く抜けて聞こえます。購入前には別テイクの可能性も考慮していたのですが、聞いてみた所同じテイクのようです。彼らの音は楽器が横並びに並ぶのではなく、立体的に配置された各楽器ごとの定位に奥行きがあるので、シングルでの歯切れ良い音でそれがより際立って聴こえるのでしょう。 紙ジャケット再発CDは未聴なのでそれを比較してはおりませんが、LPと比べると鮮明さを感じ取る事が出来ました。 ジャケットにメンバーの表情の良い写真が使われているのも、このシングルの魅力ではありました。ドイツ盤のジャケットは加工されすぎてて顔が不鮮明でしたのでwドイツ盤シングル参考画像一体どんな曲かというとこの動画はちょっと位相がおかしいみたいでヴォーカルが引っ込み気味です。レコードだとちゃんと歌声が前に出ています。ご参考までに。 前回のブログでゴードン・ハスケル氏にアラン・バリーの行方を尋ねた所、このキング・ハリーのアルバムが出たあと、一緒にクリフ・リチャードのバックバンドで短期間演奏してたことを教えてもらいました。その後の彼の行方は、2008年亡くなった元キング・ハリーのバンド仲間、ティノ・リチニオ氏の葬儀関連でフリップ日記に登場したくらいで、今現在どこで何をされているのかは判りません。 キング・ハリーのレコーディングを行った「ムーブメント・スタジオ」オーナーでもあったジョン・ディッケンソンは、この後自身のスタジオで若手ミュージシャンの録音やプロデュースを手掛ける一方、ムーブメント・ドラムマシンというデジタル・ドラムマシーンの開発と販売でも活動したそうです。マーク1は1981年、マーク2が1983年にそれぞれ発売され1999英ポンドで売られたようです。参考動画動画を見る限り、小型化された廉価機種もあったのかも。 このマシーンを使ったヒット曲というと、ユーリズミックスのスウィート・ドリームスが一番有名なのでしょうか。他にコレを使ったアーチスト名を見てみるとフィル・コリンズ、キム・ワイルド、トンプソン・ツインズ、ホット・チョコレート、カジャグーグー、ミック・カーンらの名前がありました。MTVのPV文化が栄え、エレポップが華やかだった時代に重宝されていた様ですね。 ディッケンソンもドラムマシン後の活動が判らない人ですが、元々実家がモーテル経営だったそうですし、スタジオもその一部の改造で作られていたんじゃないでしょうか。80年代だか90年代だかのキング・クリムゾンのリハーサルがディッケンソン所有の建物で行われてた記述を以前見た記憶があるのですが、どの記事だったか思い出せなくて(苦笑) いっそディッケンソン関連のレコードを取りまとめたCDなんかも出て欲しいですね。The ShameやShy limbsなど、結構なお宝音源がありそうです。参考過去記事King Harry - Divided We Stand (1977) http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201205190000/ゴードン・ハスケル氏2015年秋のお返事からhttp://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201510260000/
Oct 29, 2015
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最初に、今までハスケル氏関連のブログを楽天ブログテーマ「キングクリムゾン」に書いてきましたが、ご本人の気持ちを考えると失礼に当たるんじゃないかと考えるに至り、今回から分離した「ゴードン・ハスケル」というテーマで勝手ながら書くことに致しました。コレまでに書いたハスケル氏関連記事も順次移行しようと思います。 ただし記事カテゴリーでは、今まで通り<キングクリムゾンメンバーズワーク>で分類します。 さて本題です。ツイッターでtmatsushitaさんから「元フィールズのアラン・バリーって今どうしてるのでしょう?」と尋ねられ、そういや2008年に亡くなった元リーグ・オブ・ジェントルメンのティノ・リチニオとのLuckyというバンドでの活動以降、彼の消息は知れません。どうやらボーンマスのホテルで朝食作ったり給仕をしてたらしい形跡もあるのですが、現在の事がさっぱり判りません。 そこで、同郷出身のハスケルさんに他の質問と一緒に聞いてみようと思い立ち、半年振りに連絡いたしました。一緒に70年代後半にハスケル氏がJOE時代に関わったらしいレコードについても質問しております。 毎度毎度のポンコツ意訳でございますが、もし興味がありましたならご覧ください。(Q, )内はコチラの質問です。=======Dear XXX(Q,日本でのみレコードを1976年11月25日に発売した、イースト・サイド・シャッフル East Side Shuffleって、Joeの事ですよね?)「ええ、全て「ジョー」そのものでした。」East Side Shuffle - Just A Touch Away / Round and Round (25 Nov.1976)(画像上部の日本人が加藤ヒロシ氏、その隣で首だけ出してるのがハスケル氏、後方のトランクにいるのがジム・ラッセル、画面左側に飛び出してるのがマーティン・ラシェント。つまり、Joe+ラシェント=イースト・サイド・シャッフルってな事なのでしょう。ディスコブームに便乗して出されたシングルですがジャケットに書かれた「噂のニューステップ アップダウン」聞いた事がありませんw 酷い邦題ですね。)「シングルのビクチャースリーヴに写ってる車は私のアルファロメオだよ。」(下記でシングルジャケットからハスケル氏をアップに)(このシングルに記載された情報では、両面とも作・編曲/プロデュースがマーティン・ラシェント、ジム・ラッセル、加藤ヒロシの連名表記。ハスケルがこのレコードに参加しているのを示す材料は写真のみ。楽曲を聞きこんでみると、曲中ささやき声や一部コーラスがハスケル氏で、メインヴォーカルは声質からしてたぶん加藤氏。)「私たちは、リックマンスワース(ハートフォードシャー州)にあったジャクソン・スタジオで、マーティン・ラシェントと加藤ヒロシの為に働きました。」(※マーティン・ラシェント、英国や欧州でエンジニア/プロデューサーとして活躍した人物で、自身もマルチプレイヤーとして様々な楽器を演奏可能だった。70年代にはディスコ作品も数多く手掛けていた。ロック畑でもTレックスやストラングラーズ他膨大な数のレコード制作に関わった。2011年6月没。享年62歳。このシングル盤収録曲でのキーボードもおそらくラシェント氏のプレイかと思い、参加演奏者予想パ-ソネルを添えて質問しましたが、コレには答えが無かったのでたぶんそうなのだと思います。 ジャクソンSt.は郊外にあるスタジオで山口百恵作品のリズムトラック録りやグラフィティ・ハウス・バンド等JOE関連作品で使われてた場所。百恵アルバム「ゴールデン・フライト」ブックレットにもスタジオの全景写真が掲載されている。)(Q,アラン・バリーさんはご健在なのでしょうか?)「アラン・バリーが今も演奏しているかどうかはちょっと判らないです。私個人としてはまだ彼には演奏していて欲しいと期待しますけどね。」 「私が彼と最後に一緒に演奏したのが、クリフ・リチャード・バンドだったのですが、ツアー終盤の三日間だけでした。」 「彼は節度のあるよい人物で、世間一般に対しても生真面目すぎたんです。ハンク・マービンがクリフのレコード上で行ってたミスプレイをそのままコピーし演奏する事を求められても拒んだ為、馬鹿なマネージャーによって解雇されてしまいました。」(※クリフ・リチャードのツアーは完全に指示通り演奏する事が求められるという特殊な事情からか?) (Q,East Side Shuffleのレコードでサックスを吹いたのはメル・コリンズですか?) 「私の記憶が定かじゃないんですが、メル・コリンズの他に二名サックスプレイヤーを加藤ヒロシは起用してましたね。」 =========以上です。 今回もこれまたハスケルさんしか知りえない貴重な証言が、短い返答の中にいくつも拝見できますね。日本盤だけで出されたディスコバンド「イースト・サイド・シャッフル」は、やはりハスケル、ラッセル、加藤、三氏のバンド、ジョーのアンダーネーム、つまり変名だったわけです。 シングル画像左で扉から飛び出ている編曲担当のラシェント氏。ディスコナンバーなのにメロトロンを弾くとか、かなりマニアックなアレンジをしております、このお方w プログレディスコかっ!なんてねw 冗談です。 そして、このレコードにもメル・コリンズが関わってる事が確定。確かにレコードを聴けば聞くほど、ずば抜けたサックスプレイが彼の存在を音から浮かび上がらせます。曲自体はたいした曲でも無いのですが、サックスソロやサックスセクションの切れ具合はチョイト聞き物です。 翌1977年にJoe名義で出たシングルでもメル・コリンズはソロを吹いてましたが、シングルA面だけでした。しかし76年11月のシングルでは両面で彼のサックスがかなり目立っています♪ メルファンなら中古屋巡りしてでも買って損は無いでしょう。 ちなみにこのシングルのA面曲は、テイチクが1976年秋に出したディスコソング集のサンプラーLP「DISCO HITS SPECIAL DIGEST '76 AUTUMN(E-11-3)」にも収録されていました。ヒットして無い曲や発売前のもたくさん収録されてる奇特なサンプラーLPでしたがw あと、意外だったのがKing Harry後のアラン・バリーがクリフ・リチャード・バンドに在籍した件をゴードン・ハスケル氏から直接証言して頂いた点。コレも驚きました。以前から一時バリーさんがクリフのバンドにいたとは海外サイト情報で知っていたのですが、まさかハスケルさんと一緒だったとは。コレも驚きの情報でした。どうやらバリーさんもアンディ・マカロック氏同様、70年代は不運な時期が多かった人物なのでしょうね。以前ハスケル氏が91年のインタビューでバリー氏を「世界的な腕前なのに成功できなかった」と述べてましたが、実はその裏にはこんなエピソードが隠れていたのですね。 ハスケル氏がクリフ・リチャードのバンドにいた期間は合計で約12週間。Youtubeで確認できるそのバックバンド時代の映像は1977年10月24日。 という事は、バリー氏が三日間だけこのバンドにいた時期は、77年秋から78年春にかけてのいすれかの時期で、King Harry後すぐに参加したものと推測できます。 バリー氏の後任には、ピンクフロイドのサポートメンバーやシン・リジィでの活動で知られるスノウィー・ホワイトがクリフのバンドで79年ツアーまでリードギターを務めてたようです。※余談、ハスケル氏らJOEは翌1977年、山口百恵さんの英国制作アルバム「ゴールデン・フライト」に参加したことでも知られていますが、「百恵が来るなら僕の車を貸してあげる」という申し出があり、ハスケルが車を持って来たという話が、レコードプロデューサーの川瀬さんの証言で残されてますね。http://www.geocities.jp/kayochronicle/kayo-momoe-djpart1-6.html この車で百恵さんはロンドン中を回り、アルバムで数多く使われてる写真が撮られたそうですが、上記リンクの中の川瀬さんは「ゴードンのミニクーパー」と仰られています。 と言うことは、前年乗ってたアルファロメオから77年夏にはミニクーパーに乗り換えてたのでしょうか?それとも二台持っていた? でも、百恵さんが乗ったときはシフトレーバーが折れてたそうですからw 買い換えたとしたら中古なのでしょうね。 ※記事中Rushentを当初ルシェンテという読みで書いてましたが、その後日本ではラシェントと紹介されていたのを見つけたので読みの訂正をいたしました。※11/10追記、最初の質問は「イースト・サイド・シャッフルとディスコ・エクスプレスはJoeのことですよね」と尋ね、「全てジョーそのものでした」お答えを頂いていたのに、記事ではちょっと端折ってしまいましたw(制作体制が全く一緒の作品) Joe+ラシェントのコンビネーションは1976年にThe Disco Express名義でディスコソングカバー集アルバムFunky Stuff (Get Down Tonight) も制作しておりました。だいぶ以前Joeのブログ記事を書いた際にもこのアルバムについて触れましたが、時期的にこのアルバムはEast Side Shuffleと同時期と見てよいでしょう。今でも安価で買えるアルバムですが、AMAZONやiTune、GooglePlayミュージックではダウンロード販売もされています。オーケストラも起用したサウンドで出来のよいカバー集といえます。イギリスの他にもフランス、イタリアではジャケット違いで出されていました。他にもユーゴスラビアやインド、オーストラリア盤が発売されていたようです。
Oct 26, 2015
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と言う事で本年2015年の動画をば
Oct 25, 2015
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少し前にツイッターで、74年頃のフリップ師のインタビューを掲載されてるサイトを読んで「フリップがGGF時代、二度テレビ出演したような発言『最初のテレビ出演は怖ろしい物だった』『(二度目の)カラーミーポップは我々がもっとも良かった』と答えてるのを取り上げ、フリップの発言での一度目のテレビ出演はアル・スチュワートのBBCラジオ番組出演の勘違いなんじゃないかとウカツにも勝手な推測してしまった。 訂正します。GGFは、確かに二度テレビ出演してました。 では一体何時、彼らジャイルズ・ジャイルズ・アンド・フリップはテレビ出演したのでしょう? 答えはコチラThe Eamonn Andrews Show (17 Oct. 1968)http://www.imdb.com/title/tt0568404/?ref_=ttep_ep261964年からABCで全米に中継されてた番組で、度々英国からの中継も行われてたようで、ローリング・ストーンズもこの番組に出演歴がありました。なぜ彼らGGFがこの番組出演を68年10月に得たのかはわかりません。所属したデッカレコードの関係でしょうか?一応GGFのレコードは全米でも米デッカから発売されていましたし、当時のビルボード紙においてもポピュラーレコード評で4つ星を得てたくらいですから、そんな流れでのABC-TV登場だったのかも。 司会のエイモン・アンドリュースは、アイルランド生まれのテレビ/ラジオコメンテーター。保険外交員として働いてた時代、1944年アイルランドでアマチュアボクシングのジュニアミドル級チャンピオンになった。46年からはアイルランド国営放送ラジオでボクシング中継の解説をはじめ、それがBBCにも中継され知名度を高めたのだとか。 1951年からはTV創生期のBBCTVバラエティゲーム番組に司会として起用されてます。、同時期にBBCラジオでもボクシング中継を担当。 1956年にはジョージ・マーティンプロデュースで78回転時代のシングル盤で最高位18位を記録したThe Shifting Whispering Sands (Parts 1 & 2)というヒット曲を出した。ヒットの実績もあったんですね。でも動画で見る限り、どうやら歌手ではなくナレーターとしてですがwEamonn Andrews ' The Shifting, Whispering Sands' pts 1&2 この動画を見ることでエイモンがどんな人物で、どんな声の持ち主だったかが判ります。だから何なんだ?いえいえ、GGFはこの声で全米中に紹介されたわけです。 50年代から60年代半ばにかけてスポーツ中継などで活躍したエイモンはBBCを離れると米ABCに活躍の場を移したそうで、いわゆる司会者がホストとして進行するスタイルの草分けになったそうです。この当時の英国人として最高のプレゼンターだったそうです。(その活躍で英国王室からCBEを叙勲されてます。最高位のナイトではなくコマンダーですが。) その当時として最高の人物に紹介をされながらも「恐ろしい体験をした」と番組出演感想を語るフリップ師。一体どんな恐ろしいことだったのでしょう?もしかして昔の衛星中継とかのタイムラグ、時間差のある受け答えでしょうか?詳細は分かりませんねw 問題のGGF出演の1968年10月17日放送ジ・エイモン・アンドリュース・ショーは、たぶん現存していない可能性が高そうですね。当時の放送を残すのは高価なビデオテープそのものではなく、ビデオをフィルムに焼き付けるキネコ (Kineco) という方式での保存が主流でした。もしも現存してるとしたらそういう形での保管がされてるかもしれません。 1960年代におけるエド・サリバンみたいに自身の番組を全て保存してる人自体が珍しいわけで、87年に心不全で亡くなったエイモン・アンドリュース氏が生前自身のホスト番組アーカイブを所持して無い限り、その番組がこの世に残されてる事は無さそうですね。 参考までに、どういう番組であったかをリンクしておきます。妄想の種にしかなりませんがwEamonn Andrews Show ABC こちらはビートルズ登場回の音声だけですが、ジョンらメンバーがそれぞれスペシャルゲストとして番組冒頭紹介されてます。 こんな風にジャイルズ兄弟とフリップが「スペッシャル・ゲストォ!マイケル・ジャイルズー!(以下略)」とそれぞれ個別に大々的に名前を読み上げられ紹介されちまったのでしょうか?しかもその後すぐ演奏とはならずに司会者と延々トーク・・・、タダでさえライト嫌いのフリップさんですから、そりゃ恐ろしい体験だったのかもw演奏曲はThe Elephant Songしか判っていません。そういや以前インターネット・ムービー・データ・ベースでThe Eamonn Andrews Showのデータを見た記録があるなと思っていたら、Tropel's Page様のサイトでGGF関連ページを見たのち、一度IMDbに確認しにいってたからでした。もうすっかり忘れてました(汗)。まあ一度おどろいて、またみて驚けるお得な性格ということで許してやってください(自爆)。ピーター・ジャイルズの出してるGGF関連のCDやレコードに書かれたライナーをあんまり読み込んでなかったのもうかつでした。
Oct 25, 2015
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ジェノヴァのフェスティバルでの演奏Greg Lake - Genova, 2013.06.21 見ごたえあります
Oct 24, 2015
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当ブログがアルバム紹介なんて事を少々してた2005年、BJコールのThe New Hovering Dog(1972年発表)をダラダラと紹介してたのでした。マイケル・ジャイルズやフランシス・モンクマンの参加作としてですが。 あの当時はGoogle検索でアルバムを検索しても私の書いた項目か、ご本人のサイトしか引っかからなかったのですが、2013年にリマスターCDがリイシューされた為に入手可能となりました。楽天でも扱われています。もちろんアマゾン他でも購入可能。【楽天ブックスならいつでも送料無料】ニュー・ホヴァリング・ドッグ [ B.J.コール ]初回限定盤価格:2,192円(税込、送料込) その宣伝も兼ねてるのかもしれませんがコールさん、アルバム収録曲をユーチューブ上で公開中です。もちろん全曲ではありませんが。 せっかくですのでブログに貼り付けますw 気に入ったらぜひ買ってあげてくださいまし。上質な作品だと思いますよ。再発には1979年のボートラが二曲収録されてるようです。オリジナル盤LPもさほど高くなってない模様。B.J.Cole - The New Hovering Dog(1972) The Regal Progression フランシス・モンクマンのハープシコードがミソ。 You're Probably Lostジャイルズ節炸裂のドラミングも聞ける一曲 I Know Now ドリーミーなのに摩訶不思議な浮遊感で彩られるシングルカットB面曲 The East Winchley Tango アルバム最後を飾るコールさん自身によるEMS VCS 3とチェングという民族打楽器演奏。紙ジャケットをお買い求めでしたら、ニュー・ホヴァリング・ドッグ (生産限定紙ジャケット仕様)で検索するとヒットすると思います。
Oct 23, 2015
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Oct 23, 2015
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えーとっ・・・仲がおよろしいようで。
Oct 23, 2015
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フランク・ザッパとジョン&ヨーコっつー映像ですw 何という組み合わせなんでしょ。 ドラムスにエインズレー・ダンバーがいた時代のマザース。グリーンスレイド時代のアンディ・マカロックがマイ・フェイバリット・ドラマーと言ってたダンバーさんですが、当時のアンディはザッパのレコードとかも散々聞いてたのでしょうね♪
Oct 22, 2015
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1960年代、ロバート・フリップとしばしばホテルのラウンジで演奏をしていたアコーディオン奏者ダグラス・ワード氏。前回は彼とフリップやGGFとの共演について書きましたが、今回はシンプルに彼の喋る動画w 動画には「ベルリッツガイドの著者」と紹介されてますね。演奏家より客船航路の評論家のほうが世界的に名が通ってるということなのでしょうね。関連記事:ダグラス・ワードについてhttp://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201510200000/
Oct 22, 2015
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2015年3月19日に心臓麻痺でこの世を去ったマイケル・ブラウン氏(享年65歳)。 1960年代に、レフト・バンクにおいてそのセンス溢れる楽曲で注目を浴び、70年代には前期ストーリーズでも活躍した作曲家/鍵盤奏者。日本においてもザ・タイガース他GSバンドの多くがカバーした「いとしのルネ」の作曲者として知られていました。 近年は身体が弱り、表立った活動はありませんでしたが、晩年2013年4月にニューヨークでのレフト・バンク・リユニオン・コンサートで登場し、プリティ・バレリーナを演奏している映像が残されています。既に弱りきっており、介添え無しでは登場も出来ないほどでしたが、観客の暖かい拍手に手を挙げて応えていました。The Left Banke w/ Michael Brown - Pretty Ballerina (live) 往年のレフト・バンク映像からTHE LEFT BANKE "WALK AWAY RENEE" 1966 全米チャート最高位5位そして永遠のエヴァーグリーンであり続ける名曲THE LEFT BANKE- "SHE MAY CALL YOU UP TONIGHT" モンタージュとして出したアルバムよりMontage - Desiree 残念ながら以前あったマイケル・ブラウン在籍時のストーリーズTVCM映像が現在無くなってるので、当時の楽曲を。1972年の1stアルバム(全米LPチャート最高位182位)からStories - High and Low 1973年エディー・クレーマーを招聘、バンドと共同プロデュースで制作されたセカンドLP(全米29位)から
Oct 21, 2015
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キング・クリムゾン関連の歴史文献において、その前身バンドのジャイルズ・ジャイルズ・アンド・フリップがどうやってクリムゾンに至ったかという話が載っていますね。 ジャイルズ兄弟が歌えるオルガン奏者求むと広告を出したら唄えないギタリスト(しかも頭もじゃもじゃ)がきたと言うのもファンにはおなじみの話。 その後ひと月ばかりしてから、三人で組んだのはいいけれど何も進展して無いことをフリップがジャイルズに尋ねると、タバコを燻らせながらごまかしたと言う仕事がなにも無い状態。 フラワーポット・メンとの仕事も一日で失敗に終ってしまった為、三人はフリップが学生時代にトリオを組んだ事があるアコーディオン奏者ダグラス・ワードとのホテルでの仕事を得ました。 ワード+GGFのカルテットでイタリア人歌手ホットリップス・モレノのバックを務めますが、興業師がギャラをピンハネし、それに文句を言ったら連中の車で事故に遭うとか散々だった様です。 そんなワード氏、一体どんなアコーディオン奏者だったんでしょう? 元々彼はピアノやアコーディオンを楽団で弾いていた人物で、かの豪華客船クリーン・エリザベス号やクイーン・メリー号、そしてクイーン・エリザベス2世号の航路でバンドマスターも務めてたようです。(時期不明)(※11/17追記、その後の調べて彼がクイーンエリザベス号で仕事をはじめたのは1965年からだったようです。) 1963-64年、レイヴンズを抜けたフリップとチュートン・グレン・ホテルなどで演奏をした後、1966-67年はニューヨークの5番街にあるチャールズ・ハンセン音楽出版社でアレンジやスコアの仕事をしていたそうで、彼がキーボード専門誌に書いたアコーディオンの歴史についての記事は今でもWEBに公開されてる程の評価を得たそうです。 様々なアコーディオンの大会で優勝し、英国とアメリカで長年作編曲家・演奏家としても教育者としても活躍。近年は英国のハンプシャーで作曲活動と演奏に勤しんでるそうです。 フリップ氏とも交流を再開してたようですね。「ダグラスはアコーディオンの第一人者で最高の演奏家」とその功績を称えています。 フリップ氏の2008年日記にはワード氏と1963年当時土曜日の夜に演奏していたチュートン・グレン・ホテルを訪れ、当時演奏していた場所を指し示している写真が今も掲載されています。https://www.dgmlive.com/diaries.htm?entry=9082※10/22追記実はダグラス・ワード氏は豪華客船でのクルーズ旅行評論家でもあられるそうで、日本の旅行業界でもかなり知られる存在になられてるそうな。驚きました。ベルリッツ社の出すクルーズ旅行ガイド年鑑も彼が編集に関わってるとか。参考動画:JTB/ダグラス・ワード氏と行く憧れのクイーン・エリザベスで巡る欧州ショートクルーズ9日間(2014年)https://www.jtb.co.jp/shop/royalroad/info/cruise/worldcruise/150103.asp昨年行われたツアーはワードさんの講演会つきだったそうで。なんと日本版で本まで出てましたw【楽天ブックス送料無料】ダグラスワ-ドの新クル-ズ専科改訂版 [ ダグラス・ワ-ド ]よもやGGF関連話がココまで広がるとはwもしかすると以前私がQE2の仕事で乗船した時、ラウンジにいたかも?
Oct 20, 2015
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アラン・ホールズワースがライフタイムにいた時分の一枚。そういや後のロード・ゲームの頃にもギターヘッドにタバコを差してましたよね。
Oct 19, 2015
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まあなんと激レアなCMw
Oct 17, 2015
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GGF関連の記事でコチラから勝手にリンクさせていただいているTropel's Page様のサイトで、LPジャケットをスキャナーで取り込む手法とソフトを紹介されているのを読みました。当方ではまだ試してませんが、なかなか素敵な感じです。これで真夏や真冬にカメラで悪戦苦闘しながらLPレコードの撮影しなくても済みそうですね。LPジャケットをA4スキャナで取り込むhttp://tropel.fc2web.com/Olivia/Computer/Scanning/index2.html私も折を見て試したいと思いました。
Oct 16, 2015
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前回のYES三代目ドラマー、トニー・オライリーに引き続き、初期イエスでビル・ブルーフォードが1968年9月下旬に抜けて11月下旬に復帰するまでの間バンドに関わったドラマーの件です。 大学に戻る為ビル・ブルーフォードが抜けた1968年9月下旬のわずかな間だけYESにいたDave Pottsさん。一体何者なのでしょう?と思いちょくら調べてみました。 若き日のデイヴ・ポッツさんは、1966年にクライン・シェイムズ(綴りが微妙に違う同名の米国バンドでない英国の方のCrying Shames)に参加してたそうです。メンツの入れ替わりが激しいバンドだったので時期的にリッチー・アンド・クライン・シェイムズの頃のようですね。ポッツが参加したとき既にバンドはTOP20のヒット曲を持っていましたが、後から加入した彼はそれらのヒット曲で叩いてないそうです。このバンドもブライアン・エプスタインに飼われてたバンドだった様で、バンド初期にはジョー・ミークが制作で関与していたそうです。 その後ポッツは1967年にニューキャッスルで結成されたスキップ・ビファティ(Skip Bifferty)というアンダーグラウンドバンドに参加。オジー・オズボーンの嫁シャロンの父がマネージャーだったバンドで、グラハム・ベルが在籍したことで知られ、後のイアン・デューリーやクラッシュに連なる人脈を持つバンドらしいです。 ポッツはコチラも長続きはしなかった様で、68年発表のアルバムにポッツの名は微塵もありませんでした。 ブルーフォードが大学に通いだしYESから離れた1968年9月、実はジョン・アンダーソンと住んでいたそうなんです。このポッツ氏がw そういう縁かよと突っ込みたくなりますねw この頃バンドがドラマーを探してたということもあり1週間弱一緒にリハを行ったそうです。(海外サイトではポッツの参加期間について、売り出し中で連日演奏してたYESが1週間ほどギグを行わなかった9月22日から27日がその時期ではないかと考察してるサイトもあります。)参考サイトYES GIGS 1968http://www.m-ideas.com/sullivan/Yesgigs.htmlList of Yes concert tourshttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Yes_concert_tours リハがひと段落した週の終わり、当時YESをマーキーで売り出してくれてたクラブ・マネージャー、ジャック・バリーを交えてディスカッションが行われることとなったそうで。その際、ジャック・バリーからクーバスのトニー・ケリー(トニー・オライリー)を使うよう提案があり、どちらがやるべきかドラマー同士でも話し合われたのだとか。 ポッツ「トニーは22歳で僕はまだ18歳、彼の方がレベルが高かった。僕も22歳になればもっと上手くなれたのだろうけど。」 その後あちこちのバンドを渡り歩いたそうで、フランプトンズ・キャメルやロイ・ヤング、グラハム・ベル(ポッツが抜けた後にアラン・ホワイトが参加w)、テン・イヤーズ・アフター、そして後期のラヴ・アフェアーなど。 (画像中央がDave Potts) その後、レイ・トーマスやバルビ・ベントンのアルバムに参加、ピーター・フランプトン(カムズアライヴが大ヒットした頃のツアー)やオジー・オズボーンなどとツアーで演奏し、1980年からはプレイング・マンティスで活動していたそうです。(かなり日本でも知られたバンドなのだそうですが、ヘビメタ関連はわからないのでこの辺でw) なんだ、結構ご活躍されてるじゃありませんかポッツさん。キャリアも相当長いですね。決して無名のそこらに転がってるなんちゃってドラマーじゃなかったのです。 結局68年秋のデイブ・ポッツとイエスの関係は、同居人アンダーソンつながりで練習参加した程度だったのでしょうね。アイランズ制作前のキング・クリムゾンのオーディションでベースに決りながらも辞退したリック・ケンプ同様、正規メンバーになる以前のリハ参加程度だったようです。 ポッツ氏の参加作品で日本でも知られてるものというと、プレイボーイレコードでデビューしたバルビ・ベントンの1978年4枚目アルバムAin't That Just the Wayがありますが、レコードを所有して無いのでどの曲に参加してるか判らないです。ロジャー・グロバーのプロデュースでサイモン・フィリップス他メンツも凄いのでちょっと探してみようかなとw あとお祈りカマキリことプレイング・マンティスの1981年アリスタから出たアルバムでも全面叩いてるそうです。(バッキング・ヴォーカルのクレジットもあるそうでw)プレイング・マンティスは2015年11月に来日するそうですが、当然初期メンのポッツさんはおりませんし着ませんw プログレ人脈だと元ムーディ・ブルースのレイ・トーマス作品From Mighty Oaks (1975)にも参加してますが、個性的かと聞かれるとんー。一応貼っておきますのでご参考に。RAY THOMAS - High Above My Head ※10/17追記Mandrake Paddle Steamerマンドレイク・パドル・スチーマーの末期、ヴォーカルとギターが抜けた後のトリオ編成時にポッツ氏は参加してたようです。調べるほど微妙過ぎるバンド暦が出てくる人ですね。ツイートで「絶妙にブレイク直前などの時期ばかりを渡り歩く、コージー・パウエル先生とは真逆の人生~('ε'*)」と的確なご指摘を受けましたwホントそうですね。※2016/10/25追記その後の調べで、ビルがYESを一旦抜けたのは1968年8月末日のギグ。後任のトニー・オライリーが初参戦したギグが1968年9月6日のマーキーと判明。デイブ・ポッツはビルが抜ける事が判った時点で同じフラットに同居してたアンダーソンらから、リハーサルに誘われてたのでしょう。結局、バンドに正式加入したのはオライリーで、ポッツさんはリハのみだったようです。オライリーが最後にYESと演奏したのは11月18日。。11月5日ブレイスでのギグは、一日だけイアン・ウォーレスが叩いたという事が判りました。
Oct 16, 2015
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1968年9月22日、最初期のYESに入り浸っていたBill Brufordは、リーズ大学へ通う為にバンドから離れました。その後、YESは翌23日からDave Pottsというドラマーに叩かせましたが、余り良くなかったのかすぐにコレを交代、元KoobasのドラマーTony O'Reilly トニー・オライリーが参加してます。どうやら上記画像右端の人物らしい。 彼の叩いたYES音源なりあるなら聴いてみたいものですが、彼の在籍は9月下旬から11月下旬までの約二ヶ月なので残されて無い可能性が高いですね。(生前のイアン・ウォーレスのインタビューでは、一日だけデビュー以前のYESから頼まれ臨時ドラマーを務めたそうですが、その詳しい日時はわかっていません。)※ブログ最後に参考を記述。 YESで無いなら遡れと言う事で、ちょろっと漁って見たらありました。トニー・オライリーがYES以前にいたKoobas時代の演奏映像です。動画の冒頭3分20秒ほど英語字幕で無音の説明部分が続きます。この当時ビートルズ・マネージャーのエプスタインに飼われたバンドだったそうで、ビートルズのツアーで前座もしてたようです(他にザ・フーやジミヘンのツアーにも参加してた模様)。 このフランクフルトでのバンド名の綴りが違うのは途中で表記が変えられたからのようです。THE KUBAS LIVE IN FRANKFURT 1965 1966 カメラがヴォーカルばかり追うので余りドラマーは映りませんが貴重ですね。17分以降になるとドラマーもよく映りこんでいます。 60年代半ばは西ドイツの歓楽街で活動する英国グループが非常に多かった時代。YESのジョン・アンダーソン、KCのボズやイアン・ウォーレスら多くの演奏家が若き日をドイツでのクラブでプレイしてたそうですから、顔なじみだった可能性もあるかもしれません。 映像で当時のヒットナンバーをカバーし続けるバンドの音楽性がいかにも60年代中期のビートグループそのものなので、ドラマーとしての個性もよく判りません。そりゃビル先生の後だと生半可なプレイヤーじゃ勤まらなかったんでしょうね。結局その後ビルがYESに戻ったのは有名な話ですしね。 カバー曲だらけのライブ映像だけじゃあんまりなので、彼らが残した楽曲も貼っておきます。結構面白いですね♪The Koobas - Royston RoseThe Koobas - First cut is the deepestThe Koobas- City Girlちょっと再発CDを聞いてみたくなってきましたw10/15月追記 ブライアン・エプスタインの死後、1968年から彼らクーバスをマネージメントしたのが、エプスタイン繋がりのトニー・ストラットン=スミスだったそうです。時期的にはストラットン=スミスが経営悪化したイミディエイトから離れカリスマを立ち上げる前辺りなのかもしれません。 ボンゾドッグやナイスを手掛け、ジェネシスとはまだ契約する前、そんな微妙な頃だったのでしょうね。クーバスのヒットシングルThe First Cut Is the DeepestがイギリスでTOP20のヒットとなったのもこの頃とか。 それなのにどういう経緯でオライリーがYESに参加したのかは謎ですが、オライリーが病欠したYESのステージを緊急措置でイアン・ウォーレスが一夜ヘルプし、それがきっかけでブルーフォード復帰に繋がってるようですね。(となると11月下旬辺りかな?) その後のオライリーはBakerlooに一時いたようですが、ここでも数多く入れ替わったドラマーの内の一人にしか過ぎなかったようです。余談:イアンウォーレスインタビュー記事から意訳抜粋「ジョン・アンダーソンらとのウォリアーズからジョンの兄トニーが抜けた後僕らはドイツとデンマークで18ヶ月を過ごした。ココでドラマー経験を積んだのさ。この後、よく共演してたビッグ・サウンドに移籍しコペンハーゲンで半年働いた。それが終わると68年にロンドンへ戻った我々(たぶんスリーピーというバンド)はYESの連中と同じ建物に住んでいたんだ。 YESのドラマーが病気になった時、私はYESで一晩実際にプレイした。彼らからその後のギグもやらないかと言われたが断った。サンディー・ショーやビリーJクレイマー、マーベルズ他とのツアーサポートの仕事があったからね。で、ヴィヴィアン・スタンシャルから解散寸前で崩壊しそうなボンゾドッグのラストツアーに誘われたんだよ。そしてその後ニール・イネスの「ザ・ワールド」にデニス・コーワンらと参加したわけ。」イアン・ウォーレスというとYESでの代理話の他、末期ボンゾドッグでの臨時ドラマーやらフォリナーでの怪我人穴埋め参戦とかそういう余り日の当たらない活動がありますね。プロコルハルムのツアーメンバーというのもありましたし。こういった音源って残されてないんでしょうねー。そういや晩年の21バカバンドもジャイルズ先生の後釜でしたね。======= 今回の件で判った事に未解明だった下記画像があります。ジャイルズ兄弟が60年代中期在籍していたトレンドセッターズの何年の物か不明だったギグ告知ポスターが1966年とほぼ確定。 以前は64か65かな?とも思ってましたが、クーバスがPYEレコードで65年年末に出したシングル名が出ています。という事は4月の興業なので、66年以降がまず決ります。ジャイルズ兄弟のトレンドセッターズは67年1月にバンド名がザ・トレンドと短く変更されてますから67年以降はありえません。つまりめでたく66年と落ち着くって寸法です。 なるほど、66年ザ・リッツのダンスホールでは、後の初期イエスドラマーオライリーさん、そして後にクリムゾンメンバーとなるジャイルズ兄弟が同じ4月にそれぞれ出演していた。という余談でございます。
Oct 12, 2015
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昨年同様、秋のポーランドでのミニツアーを終えたハスケルさん。今は今年暮れから計画してるドーセットから始まるUKツアーの準備をしてるようです。大ヒットしたアルバム、ハリーズ・バーを書き上げたアッシュモア村、そこのホールからはじめる事がほぼ決ったみたいですね。
Oct 11, 2015
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1980年代あんまり参加作品が無いマイケル・ジャイルズ先生。どうもステージやら劇伴などの仕事もされていたようですが、それでも70年代の旺盛な活躍と比べると残されてる作品が非常に少なくなっていますね。 本作、リチャード・タンディとデイヴ・モーガンのアルバム、アースライズ。両名共にELO関係者ですね。ええ、エマーソン・レイク・アンド・オーマーではありませんwElectric Light Orchestraですね、当たり前ですが。 1986年発売され、その後もジャケットデザインを変えては度々再発をされています。そのアルバムのPrincetonという楽曲にのみマイケル・ジャイルズ先生が参加し叩いてるのが判明したのが2011年のリマスターCDだったようです。 ところがこのCD限定だったのかどうか存じませんが、現在非常に高いです。2万円くらいで出品されてるようです。若干のボートラが入って入るみたいですが、だからといってオリジナルLPが500円程度で買えるのにわざわざ高い金払うのはなんだろうと悩んでしまいますね。 どんな曲に参加してるかというとコレです。Tandy And Morgan band-Princeton リマスターCDじゃなくてダウンロードでもいいというのでしたら、アマゾン等でダウンロード販売されています。現物をコレクションされたいのでしたら中古でたくさん出回ってるLPがお安くてよろしいかとw 今回はこんなのもありましたよ、てな感じで。ジャイルズ先生が以前インタビューで「私が参加した45枚くらいのセッション作品」とか仰られた中にこんな作品も入ってるんでしょうねー。この他にもノンクレジットでまだ参加が判明して無い楽曲とかありそうな予感もするわけです。 ファンにとっては悩ましい限りです。
Oct 10, 2015
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フェイスブックのイエス・オフィシャルでは、現在2016年Rock and Roll Hall of Fameへのファン投票を呼びかけてるようです。投票サイトのリンクはコチラ。2016 Rock and Roll Hall of Fame Nominee Fan Vote!:http://rockhall.com/voting/2016-rock-and-roll-hall-of-fame-nominees-vote/投票方法は1、まず様々なバンドが並んだ一番下にあるYESの画像をクリック。すると画像右上のチェックマークが緑色になります。2、画像に左下の赤いボタン「Place Your Vote」wをクリック。3、コレで完了!簡単ですね。10/10時点で55万票を得てるYESの順位は現在第2位。是非YESにも殿堂入りを果たしていただきたいものです。
Oct 9, 2015
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妙に馴染んだアレンジでプログレがどっかにすっ飛んでるカバーを演奏するCaballero Reynaldoの演奏をどうぞw 秋晴れにはこんなのもいいですね♪Caballero Reynaldo - Owner Of A Lonely Heart (Yes) まさかのボザノヴァアレンジ♪Caballero Reynaldo - Frame By Frame (King Crimson) Caballero Reynaldo - I've Seen All Good People (Yes) Caballero Reynaldo - One Time (King Crimson) YESカバーとクリムゾンカバーのアルバムはダウンロード販売されています。価格もリーズナブルです。各曲の試聴もできるようですので興味のある方はリンクからどうぞwCaballero Reynaldo/Close To The Lounge http://caballeroreynaldo.bandcamp.com/album/close-to-the-loungeCaballero Reynaldo/In The Lounge Of The Naldo King http://caballeroreynaldo.bandcamp.com/album/in-the-lounge-of-the-naldo-king
Oct 9, 2015
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今年3月に取り上げた、ゲイ&テリー・ウッズとマクドナルト&ジャイルズBBCセッション音声のYoutube動画が無くなったので、補足に別動画をリンクしておきます。
Oct 6, 2015
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Bruford & Levin
Oct 4, 2015
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1963年から65年までボズと共にティー・タイム・フォー、ボズ・ピープルでご活躍された元メンバー、バリー・ディーン氏に以前から接触を試みてきましたがやっとご返信を戴きました。 私からの質問は、「ネットではティータイムフォーでレコーディングしたような記述がありますが、それは本当でしょうか?」という趣旨のものでした。 Music From The East Zoneというサイトでのバンド紹介にもディスコグラフィーに「 RtR For You 04/05/65 」と出てたのがどうにも気になっていたもので。(ちなみに、RtR とはオープンリールテープを指すそうです。10/27追記。) バリーさんからのお返事は「質問ありがとう。ティー・タイム・フォーはレコーディングして無いんだ。」でしたw 以前当ブログでも、 Boz Burrellが60年代に在籍したTea Time Four等バンド活動について というブログ記事でボズの活動を年代順に紹介しましたが、この中の疑問が一つ解決しました。結局1964年にVICTORからレコードを出すというのは当時噂のみだったようで実現しなかった模様です。
Oct 3, 2015
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ABWHの貴重なリハ映像ですね♪彼らが残したLDなどライブ映像ソフトだと、丁度レヴィンさんが病欠でベースの代役がジェフ・バーリンでしたので、レヴィンさんの演奏映像が見られるのもこの映像のレアな部分ですね。Gemini TV Anderson Bruford Wakeman Howe Rehearsalこちらは当時のテレビ番組映像のようです。
Oct 1, 2015
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なんと1時間半超えの映像です。ほとんど喋ってるだけですが、途中Brufordの内部映像などが挟まれます。Bill Bruford lecture/föreläsning Malmo Malmö 7 November 2011
Oct 1, 2015
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ツイッターで面白そうでしたので。 適当に語句を入れると天声人語っぽく難儀な文章が紡がれるやつですw天声人語風メーカー http://taisa.tm.land.to/tensei.html試すとこうなります。天声人語風メーカーでグレッグ・レイクを語らせてみたら
Oct 1, 2015
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