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・昭和54年(1979年)4月、園芸学会 が茨城県の 筑波大学 で開催されました。学会終了後、私は茨城県の山間部(現・常陸大宮市)に開設された農林水産省の 放射線育種場 を視察に行きました。放射線育種 とは、栽培植物に 放射線 を照射して人工的に 突然変異 を誘発し、そのなかで役に立つ変化を起こしたものを選び出すという、品種改良 のひとつの手段です。放射線育種 に使う 放射線源 としては、コバルト60 が使われます。放射線 を出さない普通のコバルトは、コバルト59 。これに中性子をあてて人工的に作った コバルト60 は、放射能 を持ち ガンマー線 を出します。私がまだ京都の KF大学 に勤めていたとき、京都大学 に 放射線照射施設 ができたと聞いて、学生を連れて、野菜のタネに ガンマー線 を照射しに行ったことがあります。ひとつの建屋の中を分厚いコンクリートで仕切って、玩具の円形レールセットのように連結した弁当箱ほどの大きさの台車に、タネを並べてコンクリートの奥へ送り込み、所定の位置で ガンマー線 を一定時間照射します。そしてまた、レールセットを同方向に回して、戻ってきた台車から照射済みのタネを取り出す方式でした。学生がタネを取り出すのを怖がりましたので、 「タネは ガンマー線 をあてられただけで、このタネが ガンマー線 を出しているのではないよ」と説明したことがあります。 ガンマーフィールドの中から入口を見る茨城県の 放射線育種場 の ガンマーフィールド は、この ガンマー線照射 を野外で大規模に行なう国の施設です。放射線 が外へ洩れないように、周囲を野球場のように高くして囲み、中央にやぐらを建て、ここに コバルト60 の 線源 を置きます。照射しない時は遠隔操作で 線源 を密閉します。 ガンマーフィールドの中心に立つやぐら私の行った時は、ちょうど照射を止めている時間で、ガンマーフィールド の中央まで入りました。フィールド 入口の扉は分厚い鉄製ですが、それでも ガンマー線 が直接当たらないように、通路をわざと曲げてありました。ガンマーフィールド を上空から見ると、フィールド は円形で、畝は同心円形になっています。線源 からの距離によって 被ばく線量 が違うので、果樹などは外側に、 一年生作物は内側に植えてありました。 上空から見るガンマーフィールド (放射線育種場のホームページより引用)ガンマーフィールド から程近い場所に ガンマー温室 があって、野外で育ちにくい植物が鉢植えにされていました。植物の根は茎葉よりも 放射線 に弱いので、特別なレンガで囲ってありました。 ガンマー温室ガンマー温室 では、 放射線源 の コバルト60 は、地中に埋められて密閉されています(上の写真の左下隅)。照射時には遠隔操作でふたを開け、線源 が地上に延びてきて照射をします。放射線照射 によって起こる 突然変異 は、多くが役に立たない変異物ですが、少数ながら役に立つ変わり物も次世代に出現します。その変異が遺伝してゆくかを何年もかけて見極めてから、新品種 として発表します。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *現在、放射線育種場 は、独立行政法人 農業生物資源研究所 の所管となって、イネ や キク など、かなりの数の 新品種 を発表し、品種登録 をしています。また、民間会社などから依頼を受けての 放射線照射 も行なっているそうです。東日本大震災で 放射線育種場 も被害があったようですが、放射能漏れなどは起こらず、事業を継続していると聞いています。
2012年03月29日
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・昭和54年(1979年)から 国公立大学の入学試験制度 が変わり、1月に “国公立大学共通第一次学力試験”(略称・共通一次試験)、3月に 各大学での試験、と2段階に分けて行うことになりました。大学入試 にとっては始めての試みです。この 大学受験制度改革 のために、昭和52年(1977年)5月に 大学入試センター が設立され、準備期間を経て、昭和54年(1979年)から “共通一次試験” が実施されることになったのです。 入試センターの開設“共通一次試験” 開始の年、私は入試の責任者の役目を充てられて、“共通一次試験” に真正面に取り組むことになりました。日本では、昭和30年代から始まった産業と経済の大発展につれて、大学進学率 が年々高まりました。そして、どこの大学に入学できるかによって、卒業後の将来まで決まるかのように言われて、大学入試が社会の注目を浴びるようになりました。出版社は、各大学の 入試問題 を調べて、 「OO大学入試・出題の傾向と対策」 というような本を販売し、高等学校側 からは個々の入試問題を採り上げて、 「難問・奇問 が多い」 とか、 「A大学の今年の問題は、B大学のO年前の問題とそっくりだ」 などと批判するようになりました。私も、“共通一次試験” が始まるまでに、入試問題出題者 となったことがありますが、それはとても気骨の折れる仕事でした。まず高校の当該科目の教科書10数冊を読み、過去数年間の各大学の当該科目の出題内容を調べ、それから問題の作成にかかります。自分が出題者、ということは、学内でも秘密ですし、問題作成についても、だれに相談することも許されません。試験問題の内容や文言に少しでもミスがあると、マスコミに採り上げられ、大きなミスの場合は、問題作成者の引責辞職につながることにもなります。 最初の共通一次試験受験生たち“共通一次試験” は、それまでの 大学入試 にかかわるさまざまな問題点を少しでも解消し、全国公平に受験ができるようにと、始められたものです。しかし何しろ、初めてのことなので、私は数日間、大学本部に詰め切り。2日間の試験 が終了して、整理した答案を送り出し、ほっとしたことを思い出します。“国公立大学共通第一次学力試験” は、その後に 私学の参加もあって、“大学共通第一次学力試験” と改められ、さらに “大学入学者選抜大学入試センター試験”(略称・大学入試センター試験) と改称して、現在も続けられています。
2012年03月26日
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・自分の仕事を進めてゆくために、私が加入している 学会 はいくつもありましたが、メインは 園芸学会 でした。園芸学会 は毎年2回開催され、春は東京か関東、秋はその他の地方。それで、ほぼ毎年、春には東京へ行きました。東京での宿は、東京大学のすぐ近くか 目白(めじろ) でした。秋は全国各地持ち回りで、職務の都合で行けない年もありましたが、大半の道府県を訪れることができました。日程に余裕のあるときは、学会の前かあとに、近くの名所を見物しました。昭和53年(1978)春の 園芸学会 は、東京ではなく、宇都宮大学 で開催されたので、その前に 日光 を訪れました。私は、判官(ほうがん・源義経)びいき・太閤(たいこう・豊臣秀吉)びいき で、徳川氏は好きでないのですが、一度は 日光 を観ておこうと思ったのです。 日光東照宮 参道まずは 日光東照宮。拝殿の前へ行くのに、料金を取るのにはびっくりしました。さらに拝観料を払って本殿上段の間まで入りました。陽明門 や 眠り猫・三猿 の彫刻 なども見ましたが、どれも派手過ぎて、神々しさが感じられず、神社というより屋外美術館のようだな、と思いました。 眠り猫 三猿の彫刻 陽明門前の石段 日光東照宮 陽明門東照宮 に隣接する 輪王寺 などを見てから、バスで いろは坂 を登って 奥日光 へ。奥日光 はまだ雪が深く、華厳の滝 は半ば凍っていました。 男体山 中禅寺湖船で 中禅寺湖 を遊覧してから、バスに乗り、戦場ヶ原 を通って 湯の湖 まで行きました。湯の湖 の温泉場は、さらに深い雪でした。 湯の湖帰りは 湯滝 のそばの道から、戦場ヶ原 を通って、中禅寺湖畔 まで歩きました。東照宮 の派手さよりも、奥日光 の自然の方が、はるかに好ましく感じました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *私は在職中、各地で開催された 園芸学会 へは、支部会も含めて、できるだけ出席するように努めました。開催がなかったか、または職務の都合で行けなかったのは、青森県・宮城県・山形県・群馬県・埼玉県・長野県・新潟県・富山県・福井県・滋賀県・長崎県・熊本県です。これらの各県のうちでも、園芸学会以外の職務などで行った所もあって、列車で通過しただけの県は、宮城・山形・群馬・新潟 の4県のみです。
2012年03月22日
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このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55 題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆・北海道から帰って間もなくの昭和51年(1976年)10月、島根大学 から 集中講義 の依頼があって出向きました。島根大学 の場合は、教官定員の都合で、専門の教官の採用が数年先になるとのことで、昭和55年(1980年)まで、一年おきに3回、松江 へ行きました。 現在の島根大学(北尾洋二氏のブログより転載)集中講義 というのは、本来、週1回ずつ15回行なう講義を、1週間のうちに、月曜から金曜まで連日実施して、土曜日午前中に試験をする、というものです。そのころ、土曜は休日ではありませんでした。集中講義 は、学生が復習をする時間が乏しいので、良い授業方法ではないのですが、大学内に専門教官がいない場合に、やむを得ず、非常勤講師 という形で、他大学の教官を呼んで行なうものです。10分ほどの休憩を挟みながら、立ったまま連続講義するのは疲れますが、2日ほどすると慣れてきて元気になり、かえって座っている学生の方が疲れて、居眠りする者がいました。 松江城 松江大橋の夜景(現在)松江 は 高松 よりも小さい都市ですが、小泉八雲 も好んだ落ち着いた城下町で、景色が良く、メノウ細工 の店がありました。非常勤講師手当 としていただく給与の額以上に、メノウの置物や細工品 を買って帰ったこともありました。 メノウの置物岡山大学 の場合は、私の 特定専門分野 の科目で、昭和52年(1977年)から昭和60年(1985年)まで、1年おきに5回、非常勤講師 を勤めました。 現在の岡山大学 岡山大学前の通り(現在)当時の 岡山大学前の通りは、現在の写真で見るほどにぎやかでなく、学生向きの食堂がところどころにありました。岡山大学 では、毎回 集中講義 が終った土曜日の午後、先輩の MD教授 に、岡山周辺の名所へ連れて行ってもらいました。吉備津(きびつ)神社・最上稲荷(さいじょういなり)・備中(びっちゅう)高松城跡 などへです。 吉備津神社 最上稲荷吉備津神社 は “吉備津の釜”で有名な神社、最上稲荷 は 稲荷 といいながら実はお寺で、神仏習合 が今に残るところでした。島根大学 にも 岡山大学 にもゲストハウスがあって、集中講義 に来る 非常勤講師 はそこで宿泊します。食事は、朝・昼は近くの店や学内食堂で、夕食は街の料理店へ行きました。
2012年03月19日
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・昭和51年(1976年)8月末、稚内(わっかない) から、今度は 宗谷本線 で札幌に戻り、北海道大学での園芸学会に出席しました。 北海道大学構内 北海道大学農場のポプラ並木学会終了後、タマネギのタネ(種子)を専門として採種販売している香川県の業者の人に誘われて、北海道内の タマネギ産地 を視察することにしました。北海道の タマネギ は、本州・四国・九州とは品種も栽培時期も異なり、早春に播種、9月に収穫します。栽培地域は、札幌から東へ、北海道中央部 を東西に幅広く続いています。この種苗会社は、北海道での 新品種開発 を進めていました。9月初めは、北海道での タマネギ の収穫期。北海道のタマネギ栽培 は、畑の畝(うね)立てをせず、苗の植え付けも 収穫も機械化 が始まっていました。 北海道のタマネギ畑 タマネギの機械収穫岩見沢から始めて、北富良野(きたふらの)・旭川・層雲峡・石北峠(せきほくとうげ)を越え、オホーツク海に近い 端野(たんの)町(現・北見市の一部) まで、所々で タマネギ畑 を視察しては、車で走りました。途中、この種苗会社の研究農場を訪問。また、屈斜路湖(くっしゃろこ)・摩周湖(ましゅうこ) に寄り道して、美しい景色を眺めました。 層雲峡附近 美幌峠から見下ろす屈斜路湖 屈斜路湖畔の硫黄山昭和28年(1953年)(2011年7月17日のブログ参照)に見た 摩周湖 は、朝霧に包まれていましたが、この日の 摩周湖 は晴れ渡った空の下でした。やはり 摩周湖 は、半分くらい霧に包まれているのが良いようですね。 摩周湖帰りは、網走湖 の南・女満別(めまんべつ)空港 から飛行機に乗り、千歳で大阪空港行のジェット機に乗換えました。 女満別空港ところが千歳を離陸して間もなく、函館空港 に緊急着陸。どうしたのかと心配しましたが、ソ連の ベレンコ中尉 というパイロットが、ミグ戦闘機 に乗って国を脱出し、函館空港 に飛来したのでした。米ソ対立冷戦 のさなか、この事件はその後、日米とソ連との間での国際問題になりました。
2012年03月16日
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・昭和51年(1976年)8月から9月にかけて、北海道大学で園芸学会が開催されたので、23年ぶりに北海道を訪れました。今度は、学会の前に 利尻・礼文両島 を観ようと計画していました。私の実家が昆布を主とする海藻販売業だったので、子供のときからこの島の名を聞いていたからです。 日本海を行くフェリー往路は船便。敦賀港から夜行のフェリーに乗船。途中、新潟に寄港するだけで、船中2泊。朝早く小樽に着き、札幌でいったん下車。札幌はすっかり大都会になっていました。 札幌市大通り公園札幌から北へ。今は廃線となった天北線で稚内(わっかない)に着いて、港の民宿で泊まり、翌朝、利尻島 行きに乗船。船上からは、次第に近くなる 利尻山 の雄姿を眺めていました。 利尻島行きフェリー 海上から見る利尻山 鴛泊港に到着利尻島 の 鴛泊(おしどまり)港 に着き、観光バスで南側を半周しました。途中の集落、鬼脇(おにわき)・仙法志(せんぽうじ) などの名は、父がよく話していた 利尻昆布 の産地名です。 島の東から仰ぐ利尻山 利尻島の南岸島の西側の町・沓形(くつかた) で下車、海岸や 利尻山 の麓を散策。その夜は漁師の家の民宿泊り。 沓形海岸翌朝、沓形港 から乗船して 礼文島 の 香深(かふか) へ。そのころ、礼文島 は、夏休みを楽しむ若者で賑わっていました。まず島の最北 スコトン岬 へ。それから南に戻って、香深 から西へ登った山の上が、美しい花園でした。 スコトン岬からトド島を見る礼文島 では2百メートルくらいの標高のところに、本州の2千メートル以上でないと見られない高山・亜高山植物の お花畑 があります。開花の最盛期は過ぎていましたが、まだ多くの花が見られました。 チシマリンドウ チシマゲンゲ リシリブシ 私の見た礼文島の高山植物礼文島 の西側は切り立った断崖が続き、人家もまばら。冬には日本海から吹きつける吹雪がすごいだろうと想像できました。山の上の お花畑 から、桃岩 とか 猫岩 と呼ばれる大岩が見えました。この 桃岩 のそばにある 桃岩荘ユースホステル が、若い人たちに大人気だったそうです。 礼文島西海岸そのころ、礼文島 には、エキノコックスという原虫による病原体があって、肝臓障害の原因になると聞いていたので、礼文島 には泊まらず、夕方の船で 稚内 へ帰りました。帰りの船を見送る若者たちが踊っていました。これが 桃岩荘ユースホステル の名物・歌乱舞でした。 礼文島・香深出港再び稚内港の民宿で1泊し、翌朝、バスで 宗谷岬 へ行きました。岬には 日本最北端 と書いてありました。本当は、択捉(えとろふ)島 の カモイワッカ岬 が 日本最北端 なのに。 日本最北端・宗谷岬稚内 に戻り、第二次世界大戦敗戦間近に、ソ連軍の侵攻によって、樺太で起こった悲劇を思い起こす 樺太島民慰霊碑・氷雪の門 を訪れて往時をしのび、稚内駅から札幌に向かいました。 樺太島民慰霊碑・氷雪の門
2012年03月13日
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・昭和50年(1975年)11月15日、フランス大統領・ジスカール・デスタン の呼びかけで、パリに近い ランブイエ で、最初の 先進国首脳会議(サミット) が開催されました。 フランス大統領・ジスカール・デスタン ランブイエ城遠景 ランブイエ城出席者は当時の 先進工業国・6カ国の最高首脳。山の頂上を意味する サミット(Summit) の名で呼ばれています。 第一回サミット参加国首脳顔ぶれを見ると、第二次世界大戦 で敵味方に分かれて戦った双方3カ国ずつ。それらが戦後30年を経て、今回は 自由主義陣営 の 主要先進国 として、協議をすることになったのです。会議の議題は、東西冷戦下で起こった オイルショックによる混乱収拾 と、それに続く 世界的不況への対策 という、おもに経済問題でした。そして、この会議で、今後毎年、主催国を交代して首脳会議を持つことに合意しました。この会議は G6(Group of Six) とも呼ばれました。翌年 カナダ を加えて G7 となり、1998年の バーミンガム会議 から ロシア も参加して、現在は “G8サミット” となっています。
2012年03月10日
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・オアフ島 での アメリカ園芸学会 が終ってからの オプショナルツアー では、私は ハワイ島 行きを予約していました。キラウエア火山 を見たかったからです。朝早く小型飛行機で オアフ島 から ハワイ島 に飛び、そこで朝食。ハワイ島 の ヒロ の町は ホノルル に比べて小さく、寂しい感じがしました。 ハワイ島の観光バスでキラウエアへバスで キラウエア に登ると、広い火口を見下ろす場所に小さいホテルがあって、噴火の時にはたくさんの人がやってくる、と言っていました。当時は前回の噴火からずいぶん日が経っていて、火口の周囲の固まった溶岩の上を歩いて回ることができました。 キラウエア火山の噴火口 固まった溶岩流 キラウエア火山の溶岩塊ハワイ島 からの帰りの飛行機は、マウイ島 に立ち寄って、ホノルル空港 に戻りました。ハワイ旅行 の最後の自由行動日。午前中、大通りの店を見てから、ワイキキビーチ で1時間ほど泳ぎました。当時はまだ、ワイキキビーチ で泳ぐ日本人の数は少なく、浜辺には、アメリカ本土から保養や観光に来ている女性が多くいました。 ワイキキの大通りのみやげ物店 みやげ物店の前で歌うハワイアンバンド ワイキキビーチ ワイキキビーチの美女午後には、ホノルル からバスに乗って、西の 真珠湾 を訪れました。湾の東岸から小さい船で西側の メモリアルホール へ。ホールに着く前に、昔、日本軍の爆撃で沈んだ 戦艦アリゾナ の姿が、海中に見えました。 オアフ島・真珠湾 メモリアルホール メモリアルホールに入るメモリアルホール の中には、多くのアメリカ人とともに、私を含めた何人もの日本人もいました。壁には、日本軍の爆撃で戦死したアメリカ軍人の名が記載されていました。日米開戦・真珠湾攻撃(2010年9月12日のブログ参照) から30数年を経て、かって憎しみあって戦った両国の国民が、今は交じり合って戦跡を静かに見ている姿に、時代の流れを強く感じました。真珠湾 から ホノルル に戻って、夕方、ホテル前に集まり、ホノルル空港 から飛び立って帰国しました。この私の ハワイ旅行 の時期は、1ドル約300円 の時代。ハワイ州 の 消費税 は4%でした。ハワイ には、まだ日本人の姿は少なく、経費もかかりましたが、有意義な旅でした。それから37年、ホノルル は一段と美しい町になって、多くの日本人が観光に訪れる地になっているようです。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *この年の翌10月、日本の園芸学会 が 広島 で開催されました。あらためて 原爆ドーム を訪れました。第二次世界大戦 を経験した私にとって、日米戦の始まりの 真珠湾攻撃 と敗戦直前の 原爆投下(2011年1月14日のブログ参照) を続けさまに見た、昭和50年(1975年)でした。
2012年03月07日
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・昭和50年(1975年)9月に、アメリカ園芸学会 がハワイのホノルルで開催されることになり、日本の園芸学者も参加してほしいとの要請がありました。日本の園芸学会 では、個々に参加するよりも団体として参加しようという話になって、羽田空港に集合と決まりました。私も行くことにしましたが、参加するなら 研究発表 をしようと準備しました。発表はスライドを映写しながら英語で話すので、口頭原稿を作って記憶してから、出発前に、香川大学にいるアメリカ人の客員教授に、発音やアクセントを聴いてもらいました。 ハワイ諸島(ハワイ州) 航空機内からハワイ諸島を見下ろす旅程は現地6日間。ホノルル空港着後に オアフ島内 観光、次いで2日間は 研究発表会、学会最終日は オアフ島内 園芸産地視察、学会のあとはオプショナルツアーと自由行動、というスケジュールです。ホノルル空港に着き、宿泊するホテルに荷物を置いて、すぐにバスで観光。おもに ホノルル市 の東、ダイヤモンドヘッド の周辺などを見て回りました。 展望所からホノルル市街とダイヤモンドヘッドを見る アメリカ軍人戦没者墓地 ハワイ州庁前に建つカメハメハ大王像2日目から学会出席。会場は ワイキキビーチ の西寄りの大きな ホテル・シェラトン・ワイキキ。 ビーチから見るシェラトン・ワイキキ ホテル シェラトン・ワイキキ ホテル玄関 アメリカ園芸学会受付私の 研究発表 は順番が早く、その日の昼すぎでした。前もって写真スライドを自分で枠にはめて、プロジェクターに設置し、発表時には、リモコンで写真を送りながら説明しました。 研究発表会場説明のあと、3人から質問を受けました。始めの2人は分かりやすい英語でしたので、答えるのは楽でした。3人目の質問者の英語は聴き取りにくくて困りましたが、何とか答えました。私の泊まったホテルは ワイキキビーチ の東寄りにあって、海水浴客の多いビーチ沿いの大通りを、歩いて何回か往復しました。夜には、みやげ物店の前で、ハワイアンバンドが歌や演奏を披露していました。学会2日目で 研究発表会 が終わり、そのあと 晩餐会 が開催されました。 アメリカ園芸学会の晩餐会学会3日目の 産地視察 では、パイナップル農園 や 草花鉢物の栽培ハウス が多く、野菜産地は少しでした。晩餐会 でも、産地視察 でも、なるべくアメリカ人の中に入って話すように心がけました。 オアフ島北部の産地視察 パイナップル畑(オアフ島北西部) 鉢物栽培ハウス(オアフ島北部) ハワイ 旅行の ブログ は、次回に続きます。
2012年03月04日
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・今回から月が替わって、平成24年(2012年)3月。いつも、私のブログ 「チューさんの今昔ばなし」 を見てくださって有難うございます。この ブログ では、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、昭和48年(1973年)10月から始まった 第一次オイルショック の時代に入っています。このブログは、私の想い出日記ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国の移り変わりでもあります。歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆私は、ブログとは別に、チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド というホームページを開設しています。ぜひご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆さて、昭和48年(1973年)10月から始まった オイルショック は、当初勢いのよかった 田中角栄内閣 に強烈なダメージを与えました。“日本列島改造論” で土地や建設資材が高騰したうえに、オイルショック で多くの生活物資が隠匿され、トイレットペーパー・パニック に象徴される 生活用品不足 と 物価の急上昇 を招きました。電気料金 は50パーセントも値上がりしました。そこへ、田中角栄首相 の 政治資金 の出どころが問題となりました。いわゆる 田中金脈問題 です。田中首相 の 金権政治 に対する批判が自民党(自由民主党)内でも噴出し、三木武夫副総理、福田赳夫大蔵大臣 が辞任して、閣外に去る事態となりました。田中首相 は記者会見などで 金脈問題 の弁明に努めましたが、これを徹底的に調べ上げる評論家などもいて、疑惑はいっそう広がりました。 記者会見で金脈問題を弁明する田中首相マスコミは自民党内の内紛を “三角大福大戦争” と名づけて報道しました。三角大福 とは、三は 三木武夫、角 は 田中角栄、大 は 大平正芳、福 は 福田赳夫 のことです。 この4人に 中曽根康弘 を加えて、この時期から、自民党はこの5人を領袖とする、およそ5つの派閥から構成されるようになったと記憶しています。このうち 田中派 は、群を抜いて多数の国会議員を擁する大派閥でした。自民党は保守合同で成立した政党なので、成立当初からいくつかのグループがありました。しかし、昭和30年代から政権を担当して来た 岸信介・池田勇人・佐藤栄作 のいずれもが旧帝国大学卒の官僚出身で、岸信介 と 佐藤栄作 は実の兄弟、池田勇人 と 佐藤栄作 は ともに 吉田茂 に引き立てられた、吉田学校の優等生 という間柄で、深刻な対立関係はなかったと思います。そこへ全く毛色の異なる 田中角栄 という人物が政権担当者となり、自民党の内情は大きく様変わりしました。そのうえ、日米の 中華人民共和国との国交回復 と オイルショック で、世情も転換しました。第一次オイルショック で諸物価が高騰し、“日本列島改造論” の施策も大幅後退・延期せざるを得なくなりました。国会で 政治資金 の 金脈 を鋭く追及され、昭和49年(1974年)7月の 参議院選挙 で自民党は大敗、これで党内の他の派閥に背を向けられ、田中退陣要求のデモが全国で起こる状況となって、田中角栄 は昭和49年(1974年)11月26日に辞意を表明。後任の自民党総裁には、椎名副総裁 の裁定で 三木武夫 に決まり、田中内閣 は総辞職。12月に 三木内閣 が発足しました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *田中角栄 は、新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)の出身。父の事業不振で貧困の中、高等小学校卒業。東京に出て、夜間の中央工学校に通い、1級建築士の資格を得て、土建会社を創業。戦後に衆議院議員を志して2度目に当選。佐藤派に属して頭角を現し、30歳代で岸内閣の郵政大臣。田中角栄 は、この経歴のとおり、立志伝中の人物で、人心収攬(じんしんしゅうらん)の術に長けていました。議員の病気見舞いに行くときには、200万~300万円の見舞金を持参したといわれます。人心収攬術は金だけでなく、議員の祝祭行事には自身が出向き、他の派閥や他の政党の議員にも労を惜しまなかったそうです。総理大臣辞任から1年余りのちの 昭和51年(1976年) になって、アメリカ上院外交委員会 で、ロッキード社からの献金事件 が表面化し、同年7月に東京地検は 田中角栄 を収賄容疑で逮捕しました。全日空 が購入機種を決めるに際して、田中角栄 が5億円の収賄を受けたという疑惑です。 全日本空輸が購入したロッキード社のL-1011トライスターしかし、田中角栄 が刑事事件被告人となってからも、田中派 の勢力は衰えず、以後の自民党総裁・総理決定の主導権を握り、田中角栄 は、政界の隠然たる存在であり続けました。昭和60年(1985年)2月、田中角栄 は脳梗塞で倒れ、行動と言語ともに不自由となり、政治活動ができなくなりました。平成2年(1990年)政界を引退。平成5年(1993年)12月16日、75歳で死去。ロッキード事件 は、上告審の審理途中で 公訴棄却 となりました。 田中真紀子田中角栄 の選挙地盤は、長女の 真紀子 が引き継ぎ、真紀子 は、のちに自民党で 外務大臣 を勤めました。その後 民主党 に移り、現在は 真紀子 の夫の 田中直紀 が 防衛大臣 となっています。
2012年03月01日
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