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・話は少し前に戻ります。昭和44年(1969年)4月 に転職で 香川県 へ移った私は、自分の先行きをどうするか、考えねばならなくなりました。定年までまだ20年以上もあり、そのさき、京都 へ帰るか、それともこの 香川 に住み着くか、どちらにするかです。どちらとも決めかねながら、香川 に住み着くことも考えて、とりあえず自宅を建てる 用地 を買っておくことにしました。前任者の W先生(2011年2月28日のブログ参照) は 三重県 の出身ながら、最終任地の 香川県 のこの町に、家を建てて住んでおいででした。その W先生 の紹介で、農家が手放す農地を買いました。田舎町 のこととて、京都市郊外 に比べて土地は格段に安く、手持ち資金でかなり広く買うことができました。その直後に降って沸いた、田中角栄の “日本列島改造論”。この田舎町でも土地が値上がりし、建築資材も値上がりしていると聞かされました。とくに国内産の材木の値段が高騰していました。 「このままでは、土地があっても家が建てられなくなるのではないか」 と心配になりました。急ぎ、この件を妻と相談したところ、妻の意向は 「20年も先のことなどどうなるかわからないし、長い間こんな粗末な官舎に住むのは、いや」ということでした。20年もの間、京都 の家をそのまま置いておくことは、とても無理だとも思いました。それで、この町に自宅を建てることにして、建築業者に相談してみたところ、「木材はかなり値上がりしているが、その他のものはまだそれほどでもない」 とのこと。それを聞いて、建物を コンクリート造りの平屋 にすることにし、この町でコンクリート造りの住宅を建てられる会社に、設計原案を描いて見せて、見積もりをとりました。 自宅建築工事開始・基礎と鉄筋組立て昭和48年(1973年)3月、自宅建築工事 開始、5月に コンクリート打ち込み、夏に 内部工事始め と、ここまでは順調でしたが、秋口になって 内装部材 や 照明器具 が入らなくなり、工事がストップしてしまいました。 生コン注入打ち込み 「どうなったのだろう」 と思っていたら、これが、石油ショック を事前に察知したメーカーや問屋が、値上がりを見越して商品出荷を止めたため、とあとで分かりました。工事を請け負った建築会社と一緒になって、内装商品 や 照明器具 を探し回り、昭和49年(1974年)1月にようやく 自宅竣工。2月に 入居 しました。予定を5ヶ月もオーバーしていました。 内装工事進行 マイホーム完成入居してから、私は丸太杭と青竹を購入して、自分で敷地の周囲全部に 四ツ目垣 を造り、生け垣 にしようと、サンゴジュ・ウバメガシ・ベニカナメ・イヌマキ などの苗木を植えました。南庭には ヒメコウライシバ を植えました。 四ツ目垣に植えたサンゴジュ コウライシバを植えた南庭 長男が小学四年生になっていたので、南側の一番良い場所に 子供室 を造りました。子供が独立してからは、私の部屋として、今この場所でパソコンのブログを書いています。 子供室この時期、“日本列島改造論” と“第一次石油ショック” に悩まされ続けた、香川 での 自宅建築 でした。
2012年02月27日
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・日中国交回復 の翌年、昭和48年(1973年)10月6日、第4次中東戦争 が勃発(ぼっぱつ)しました。中東では、第二次世界大戦 以後に建国された イスラエル と、 周辺アラブ民族諸国 との間で、何度も戦争が繰り返されていました。第4次中東戦争 は、エジプト と シリア が先に仕掛けた戦争で、イスラエル の反撃により エジプト も シリア も軍事的に敗北しました。この戦争自体は1ヶ月もたたないうちに アメリカ と ソ連 の仲介で停戦となりました。問題は、この戦争をきっかけに、すでに結成されていた 石油輸出国機構(OPEC) のうち、エジプト と シリア に同情したペルシャ湾岸の アラブ産油6カ国 が、原油価格 を 1バレル3.01ドル から 5.12ドル へと、70% も引き上げる発表をしたことです。 ペルシャ湾岸産油6カ国 石油輸出国機構(OPEC)本部(オーストリア・ウィーン)その2ヵ月後、ペルシャ湾岸産油6カ国 は、さらに 1バレル 5.12ドル から 11.65ドル へと再引上げすると決定しました。10月初めの 1バレル3.01ドル からすると、ほぼ4倍にもなる値上げです。中東の石油は、第二次世界大戦後に開発が進んだもので、はじめは欧米の 国際石油資本 が採掘権を持って価格を決めていたのですが、1960年に 産油国 が 石油輸出国機構(OPEC) を設立し、採掘権・価格決定権 を次第に確保してゆきました。 油槽船(タンカー) 石油備蓄基地(横浜)原油価格 の大幅急騰 は、原材料やエネルギー源を 中東石油 に依存していた先進工業国に大きな打撃を与えました。日本でも、列島改造ブーム で地価・物価が上昇していたところへ、石油高騰が追い撃ちをかけてインフレが加速し、“狂乱物価” という言葉までできました。物価上昇を先読みした業者が製品の販売を抑えたため、市場や店頭から商品がなくなって、石油にあまり関係のなさそうな、洗剤やトイレットペーパーを買い占める騒ぎまで起こりました。デパートがエスカレーターの運転をやめ、テレビの深夜放送もしばらく休止になりました。この 石油ショック による物資不足と物価高騰は、列島改造ブーム と 日中国交回復 で気を良くしていた 田中内閣 にとって、思いがけない大マイナス要因となりました。それで、急きょ、三木武夫副総理 を 中東諸国 に派遣して、「日本は、イスラエル支援国ではない」 と弁明に努めました。国内向けに、田中内閣 は、“石油緊急対策要綱” を閣議決定し、“総需要抑制策”を採って、予定していた大型公共事業を凍結・縮小せざるを得なくなりました。インフレ抑制のために 公定歩合(こうていぶあい) も引き上げられました。この 石油ショック によって、火力発電 のコストが急騰したため、各電力会社は、安価な電力源として 原子力発電 を推進することになりました。田中角栄 は、出身地の隣の刈羽村での 柏崎刈羽原子力発電所 の建設に力を貸したといわれます。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *平成24年(2012年)現在の 原油価格 は、1バレル100ドル以上になっています。、昭和48年(1973年)10月までの1バレル3.01ドル からすると33倍、すごい値上がりです。日本の円はその間に対ドルで約4倍の円高になっていますから、8倍強。それでもずいぶんの高騰です。石油依存の現代社会 は、今後どうなってゆくのでしょうか。東日本大震災によって全国の原子力発電 が頓挫してしまった今では、ますます 石油依存 が進むことと思いますが、もっともっときびしい 石油ショック が起こるのではないか、と心配ですね。
2012年02月24日
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・昭和47年(1972年)7月 に組閣を終えた 田中首相 は、すぐに精力的に動き始めました。まず外交。同年9月初めに、ハワイでの アメリカ・ニクソン大統領 との会談で 日米安全保障条約維持、日米貿易不均衡改革 などの 共同声明 を発表。 田中首相を迎えるニクソン大統領そして同月末、大平正芳 外務大臣 らを伴って、中華人民共和国 を訪問。毛沢東国家主席 や 周恩来首相 と会談。昭和47年(1972年)9月29日、日中共同声明 発表。日本国 と 中華人民共和国 は国交を回復し、台湾の 中華民国政府 とは、表向きの国交を断ちました。 田中角栄首相、周恩来首相と握手帰国した 田中首相 は、自信を持って臨時国会を召集し、衆議院を解散、総選挙 に打って出ました。ところが選挙結果は、 自民 271 社会 118 共産 38 公明 29 民社 19 諸派・無所属 16と、自民党 は過半数を制しましたが、前回より数を減らし、社会党 と 共産党 が善戦しました。田中首相 にとっては不本意な結果でしたが、当時まだ国情のよく分からない不気味な国・中華人民共和国 を 中国の正式政府 として承認したことに対して、国民の警戒心が働いたのでしょう。このころ、田中首相 のエネルギッシュな行動を、マスコミは “コンピューター付きブルドーザー” と評しました。しかし “日本列島改造論” で土地や土建資材の急激な値上がりを見た国民の中には、田中角栄 に対して 「暴走のおそれあり」 と思った人も多かったようです。
2012年02月21日
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このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55 題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆・昭和47年(1972年)6月、佐藤内閣 退陣の直前、 “日本列島改造論” という本が全国書店の店頭に積み上げられました。著者は、当時の 通商産業大臣・田中角栄。 田中角栄そして、その翌月の7月5日の 自民党臨時党大会 で、この 田中角栄 が総裁に選出され、国会での選挙で 総理大臣 に指名されて、田中角栄内閣 が成立しました。私は、次の首相は 福田赳夫 になると思っていました。佐藤栄作 も 福田赳夫 を支持していると聞いていました。ところが予想に反して、自民党の票は 田中角栄 に集まりました。 福田赳夫“日本列島改造論” は、日刊工業新聞社刊行 の 新書版219ページ、定価500円の本 で、著者は 田中角栄。私も早速買って読みました。 田中角栄著・日本列島改造論 日本列島改造論の目次抜粋 (田中角栄著・日本列島改造論より引用)この本では、日本列島 を 新幹線・高速道路 などの 高速交通網 で結び、四国 には3箇所に本州とつなぐ橋を架け、九州・北海道はトンネルでつなぐ、そして地方に工業を分散して過密と過疎を解消すると、図入りで説明してあります。 全国新幹線鉄道網理想図 (田中角栄著・日本列島改造論より引用) 国土開発幹線自動車道網図 (田中角栄著・日本列島改造論より引用)そして、日本の北部(北陸・東北)を工業地帯 とし、南部を農業地帯 とする、などなど・・・と書いてありました。これは、田中角栄 自身が新潟県出身で、豪雪寒冷地帯の貧困を身をもって知っていて、この解消を願って打ち出したものといわれます。まことに結構尽くめの 改造論 ですが、これを読んで、こんな全国的大工事を実施するには莫大な建設費がかかるし、できたとしても 維持管理修繕費 にまた巨額の費用がかかる、この資金をどうしてまかなうのか、と思いました。こんな持論を持つ人が、本の出版後1ヶ月もたたないうちに 総理大臣 になったので、“日本列島改造論” はたちまち現実味を帯びました。もっとも喜んだのは、全国の土木建築業者だったでしょう。そして、土地や建設関連資材がいっせいに値上がりし始めました。田中・日本列島改造内閣 の発足を見て、ある評論家は、 「 この内閣は インフレ内閣、そして 短命内閣 」と論評しました。私もインフレは進行すると思いましたが、なぜ短命なのかは、分かりませんでした。
2012年02月18日
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・昭和47年(1972年)5月15日、沖縄(琉球諸島および大東諸島) の 施政権 が アメリカ から 日本 に返還されました。沖縄 の諸島には、第二次世界大戦 で アメリカ軍 が上陸。沖縄本島 では激戦が続いたあと、日本軍 が玉砕し、島民も多くが戦火で亡くなりました(2011年1月3日のブログ参照)。その後 沖縄 は アメリカ が支配する地になり、サンフランシスコ講和条約でも アメリカの施政権下に置かれるもの とされました。そのころは私も、沖縄 は グアム島 のように、アメリカ の領土にされるものと思っていました。 沖縄占領後にアメリカ軍が設置した沖縄県民の仮設住居沖縄 では、日本人 も軍民ともに多くの犠牲者を出しましたが、アメリカ軍 側も、多数の将兵が戦死しています。戦争で自国民の血を流して取った地は、自国の領土とするのが当然、とされていましたから、沖縄 は 日本 には復帰しないと思っていたのです。日本 の敗戦後、アメリカ はまず 琉球列島米国軍政府 を設立して軍政を敷き、1950年から 琉球列島米国民政府 となって、アメリカ の 高等弁務官 が 米国民政府 の長となりました。米国民政府 の下に島民の 琉球政府 を置き、一定の自治を認めましたが、最終的決定権は アメリカ の 高等弁務官 が握っていました。 琉球列島米国軍政府庁舎沖縄(琉球 りゅうきゅう・沖縄の別名) の歴史を見ると、中世のころ、琉球 には小王朝がありましたが、王族間の争いがたびたび起こっていたそうです。関ヶ原の戦い の9年後・慶長14年(1609年)、島津藩 は 徳川幕府 の命を受けて 琉球 に出兵し、全島を占領。以後260年もの間、王朝は名目的に存続しましたが、事実上 島津藩の実効支配 が続きました。明治4年(1871年)の、明治新政府 による 廃藩置県 の翌年、琉球 だけは藩とされ、明治12年(1879年)の 琉球処分 で、いったん鹿児島県に編入、同年、沖縄県 として 日本 の県のひとつとなりました。琉球王 は東京に移り、侯爵 に列せられました。第二次世界大戦後に起こった 朝鮮戦争 や ベトナム戦争、ソ連 や 中華人民共和国 に対する備えとして、アメリカは、沖縄 の軍事拠点としての重要性を認識し、いくつもの 軍事基地 を建設しました。1960年代末まで、アメリカ は 沖縄 を 日本 に返還する考えはなかったようです。沖縄住民の多くは、早くから 日本復帰 を望んでいたようで、そのための署名活動も始まっていました。 沖縄での日本復帰要求署名活動 (昭和29年ごろ、出典 Wikipedia)佐藤栄作 は、総理大臣就任の翌年(昭和40年・1965年)8月、戦後日本の総理として始めて 沖縄 を訪れ、日本復帰 を叫ぶデモ隊に囲まれて、 「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発しました。一方、日本社会党 や 日本共産党 は、日米安全保障条約 と抱き合わせの 沖縄返還 に反対しました。昭和44年(1969年)、 アメリカ大統領 に就任した ニクソン は、佐藤総理 との会談で、日米安全保障条約 延長と引き換えに 沖縄返還 を約束しました。 佐藤総理大臣とニクソン大統領当時、選挙で選ばれた島民側の 琉球政府主席・屋良朝苗(やら ちょうびょう) や、日本復帰賛成派の島民らは、アメリカ軍基地 の島外移転を期待しましたが、それはとてもかなわぬことでした。 琉球政府主席・屋良朝苗こうして アメリカ軍基地 を 沖縄 に維持したまま “72年 核抜き・本土並み返還” が決定し、その約束どおり、昭和47年(1972年)5月15日、琉球諸島 と 大東諸島 は 日本 に返還され、沖縄県 として復帰しました。新しい 沖縄県知事 には、屋良朝苗 があらためて選出されました。沖縄返還 に際し、アメリカ 占領中に建設した施設などの資産引継ぎ費として、返還協定 に基づき3億2000万ドル(当時の為替レート換算で約960億円)をアメリカに支払ったと聞いています。 沖縄 が “核抜き返還” となったことで、韓国 と 中華民国(台湾) は、東アジアの防衛上強い懸念を アメリカ と 日本 に表明したとも聞いています。 佐藤栄作沖縄 の 日本 への返還が達成されたのを花道に、佐藤総理大臣 は昭和47年(1972年)6月17日、退陣を表明しました。佐藤栄作内閣 は昭和39年(1964年)11月から、7年8ヶ月の長期政権でした。佐藤政権 が長期継続できたのは、河野一郎 が死去してライバルがなかったこと、次を担う 福田赳夫・田中角栄・三木武夫 ・大平正芳 らを競わせる人事が巧みだったこと、などが挙げられています。しかし、何よりも、当時の 日本経済が至極順調だったこと が最大の理由だと、私は思います。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *沖縄返還 から40年、その間に、沖縄県 には多額の国費が投入されたと聞いています。昔の小王朝時代の 首里城 も復元されました。 守礼の門 復元された首里城しかし、アメリカ軍基地移転問題 は、いまだに宙に浮いたままです。せっかく決着がつきかけたのを、近年の 民主党政権 になって、鳩山由紀夫・元総理 がご破算にしてしまいました。この問題、これからどうなるのでしょうか。 沖縄 の アメリカ軍基地 の存在が、日本と東アジアの防衛に不可欠なのは、昔も今も変わりないと私は思っています。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 佐藤栄作 は、総理退任の2年後、アジアの平和に貢献したとして、ノーベル平和賞 を受賞しました。そして、その翌年の昭和50年(1975年)6月3日、脳出血により74歳で死去しました。
2012年02月15日
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・徳島県の 加島荘 へ行った翌年の 昭和47年(1972年) の夏休みは、加島荘 よりも東の 日和佐(現・美波町) の うみがめ荘 に泊まりました。ここは海水浴もできますが、近くの 大浜海岸 が ウミガメの産卵地 として有名なところです。 うみがめ荘後ろの山手には四国霊場第二十三番札所・薬王寺 があり、街には店もあって、加島荘 よりはずっとにぎやか、泊まり客も大勢でした。大浜海岸 は波が大きく、ウミガメの産卵地 でもあるので遊泳禁止。それでその隣の浜で泳ぎました。 大浜海岸 海浜を散歩する妻と長男 うみがめ荘 のすぐそばに 「ウミガメ水族館」 があって、アカウミガメ が泳いでいました。 ウミガメ水族館で泳ぐアカウミガメ大浜海岸 での アカウミガメの産卵 は夜中に行なわれます。私たちの宿泊中にも産卵があり、宿の人の誘導で、音を立てないように浜まで見に行きました。ウミガメ は産卵を始めると近くに人が来ても産卵をやめずに続けるので、宿の人の懐中電灯の明かりで、産卵の様子がよく見えました。ピンポン玉のような卵がカメの掘った穴に産み落とされるのですが、弾力性があって割れないのです。 アカウミガメの産卵昼間は海で泳ぐだけでなく、漁船からの魚の水揚げを見たり、街へ行ったりして過ごしました。 近くの小さい漁港で魚の見学今から振り返ると、加島荘 や うみがめ荘 での海水浴は、もう40年も前のことですが、私も家族も若くて健康の心配もなく、仕事も順調で、身分も安定した、良い時期でした。日本国内も、政治が安定し、経済も発展し続ける、良い時代だったと思います。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *このころ、香川大学農学部で、私の講座と、縁の深い別の講座で、私の後輩に当たる二人の助手を採用しました。二人とも俊才で、一人は後年、私と同じ講座の教授となり、そののち、私が昔勤めていた京都市の KF大学 の教授に転職しました。もう一人は、最後まで 香川大学 に勤めて昇任し、農学部長 を経て 香川大学学長 に就任、学長 を2期6年勤めました。
2012年02月12日
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・昭和46年(1971年)8月、世界が ドルショック で揺れた夏、私たち家族は 徳島県の太平洋岸 へ 海水浴 に行きました。長男が小学生になったので、波が荒い 太平洋 でも、もう大丈夫だろうと思ったからです。このころ、国民宿舎 という宿泊料の安いホテルが、全国各地に作られました。徳島県の太平洋岸 にも3箇所ほどできて、加島荘 はそのひとつでした。徳島県を南に走る牟岐線の 終着駅・牟岐 からバスでさらに南西へ。運転手に教えられたバス停で降りると、周辺に人家や集落はなく、加島荘 は海岸の高台に建っていました。 国民宿舎・加島荘宿舎には泊り客も少なく、海側を見ると、広い砂浜が広がり、少し入り込んで波の弱い安全な所もありました。 加島荘近くの砂浜・海水浴場 波に遊ぶ長男 なぎさに立つ妻加島荘 には4泊したと記憶しています。徳島県の太平洋岸 は、大きい町もなく寂しいところですが、太平洋の広がりは雄大で美しく、静かで楽しい想い出深い夏休みだったと、若かった日を振り返っています。
2012年02月07日
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・第二次世界大戦後、内戦に勝利して成立した 中華人民共和国 は、ソ連 を筆頭とする共産主義陣営に属し、アメリカ とは対立する関係にありました。ところが、スターリン の死後、中華人民共和国 は ソ連 と距離を置くようになり、国境紛争も起こって、仲違いするようになりました。この期をとらえて、アメリカ の ニクソン大統領 は、昭和46年(1971年)7月はじめに、大統領補佐官・キッシンジャー をひそかに北京に派遣し、周恩来・中華人民共和国首相 と会談させました。その合意の結果が、同年7月15日の 中華人民共和国への訪問予告発表 となりました。 北京で毛沢東と会談するキッシンジャー(中央は周恩来)そして、翌年の 昭和47年(1972年)2月21日、ニクソン大統領 は北京空港に降り立ち、中華人民共和国 を電撃訪問しました。 北京空港に降りるニクソン大統領 北京でニクソンと会談する毛沢東当時の 中華人民共和国 は、まだ 文化大革命 (2011年12月2日のブログ参照) が続いていたころで、毛沢東 も 周恩来 も健在でした。ベトナム戦争 もまだ終っていませんでした。ニクソン大統領 は、この訪問で 米中共同宣言 を発表し、事実上 中国共産党政府 を承認しました。しかし正式に国交が樹立したのは、6年後の 昭和54年(1979年)1月、カーター大統領 の時期になってからです。 北ベトナム は、この 中華人民共和国 と アメリカ との接近を、自国に対する 中華人民共和国 の裏切りと見なし、ベトナム と 中華人民共和国 との関係は急速に悪化してゆきました。 台湾を統治する中華民国総統府アメリカは、中華人民共和国 を承認する一方で、台湾に残る 中華民国政府 とは、1979年に成立した 「台湾関係法(Taiwan Relations Act)」 による事実上の 軍事同盟関係 にあり、この関係は現在も継続しています。
2012年02月04日
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このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは http://chusan.info/ 題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」なお、このエピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。 ................................・日本での 大阪万博 開催の前年・昭和44年(1969年)1月、アメリカ大統領 に共和党の リチャード・ニクソン が就任しました。 ニクソン大統領そのころ、アメリカでは ベトナム戦争 介入が泥沼化しており、ニクソン はこの解決を公約して 大統領 に当選しました。しかしアメリカ軍の名誉ある撤退は、すぐにはできない状態でした。大阪万博 開催の翌年・昭和46年(1971年)夏、ニクソン大統領 は、それまでの世界秩序を大きく変革する二つの方策を発表しました。二つの方策とは、7月15日発表の 中華人民共和国への訪問予告 と、8月15日発表の ドルと金との交換停止 です。この二つの方策の発表は、アメリカの議会にも諮らず、大統領 が独断で電撃的に行ないました。どちらも世界に大きな衝撃を与え、ニクソン・ショック と呼びました。とくに ドルと金との交換停止 の方のショックが大きく、これを ドルショック とも言います。ドルショック とは、それまで 金1オンス=35ドル と決めて行なっていた、ドル紙幣と金との兌換(だかん) を停止したことです。これによって、第二次世界大戦後の世界の通貨の枠組みを決めた、ブレトン・ウッズ体制 が終わりました。当時のアメリカは、ベトナム戦争 介入などで財政支出が大きく膨らみ、インフレーションが進行していました。この国家財政立て直しのために、大きな経済政策の転換の道を選んだのです。 スミソニアン博物館本館この年(1971年)の12月、アメリカと、他の10カ国の財務担当閣僚が、アメリカのワシントンD.Cにある スミソニアン博物館 に集まって、アメリカドルと各国通貨との交換レート を新たに決めました。日本からは 水田三喜男大蔵(おおくら)大臣 が出席しました。 スミソニアン協定に集まった国々アメリカドルと日本円との 公定為替レート は、敗戦後からこの日まで 1ドル=360円 でしたが、スミソニアン協定 で 1ドル=308円 と決められました。これは、アメリカ にとっては切り下げ、日本 には切り上げで、日本 にとって16.88パーセントの切り上げ でした。こうして ニクソン大統領 は、通貨安という手段で当面を乗り切りました。しかし、スミソニアン協定 による 新固定レート は長くは続きませんでした。西ドイツ と イギリス は、協定のあと、間もなく 変動相場制 に踏み切りました。昭和48年(1973年)2月、東京外国為替市場 でドル売りが殺到して市場が閉鎖されました。東京の外国為替市場 再開時に 日本 も 変動相場制 に移行、3月には 他のヨーロッパ諸国 も 変動相場制 に移行し、スミソニアン体制 は短時日で崩壊しました。この昭和48年(1973年)3月、アメリカとベトナムとの間に成立した パリ和平協定 に基づいて、アメリカ全軍がベトナムから撤退を完了しました。その2年後にサイゴン(現・ホーチーミン市)が陥落、長かったベトナム戦争 が終結しました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *平成24年(2012年)2月現在の 外国為替相場 は 1ドル=77円 前後。40年前の スミソニアン協定 のころとは隔世の感かあります。輸出産業 は「採算が取れない」と声高に叫んでいますが、潤っているはずの 輸入産業 は黙っています。世の中とはそんなもんでしょう。明治初年は 1ドル=1円。昭和初年は、1ドル=2円 から円を切り下げて 1ドル=4円。それが敗戦の日本経済崩壊で 1ドル=360円(闇ドルでは500円以上)。そして今は 1ドル=77円前後。円は高いのか安いのか、どの時期と比較するかで違うのでしょう。
2012年02月01日
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