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・昭和62年(1987年)10月、福岡市の 九州大学 での 園芸学会 の折に、いつも一緒に各種の委員をしていた 千葉大学 の IT教授 から、 「蔬菜園芸学の教科書を作ろうと思うが、メンバーに加わらないか」との相談を受けました。願ってもないことなので、早速お受けしました。IT教授 は、私のほかに、九州大学 の FE教授 と 三重大学 の TB教授 を加え、4人の共著 として制作することになり、私は 「蔬菜の生長と発育」 の章を執筆することに決まりました。4人それぞれ居場所が離れているので、IT教授 をまとめ役として、期日までに原稿を送ることにしました。共著の場合は、それぞれの 執筆者 によって、用語・文体 や 内容のレベル に差が生じやすいので、これを避けるために、相互に遠慮なく指摘しあうことも約束しました。昔の大学には 教科書 というものはなく、私の学生のころの講義は、教授の口述を筆記するものでした。新制大学になって、教科書 が出始めましたが、専門によっては、なかなか適当な内容のものがありませんでした。大学の数が増え、学生数も多くなって、大学の専門分野ごとに 教科書 の 出版社 ができてきましたが、はじめは 旧帝国大学の教授 を著者とするものがほとんどでした。教科書 というものは、その専門分野の全体にわたって書かなければならない、その分野の学問的体系を示すものでなければならない、また、簡潔でないといけない、という制約があります。私どもの場合は、執筆者4人 が互いに 草稿 を見せ合い、学会のたびに話し合い、遠慮なく相互に指摘や批判もして、全体をそろえ、一人の著者が書いたように仕上がったと思います。 図書「蔬菜園芸学」そして、平成2年(1990年)6月、初版の発行 にこぎつけました。その学問分野を専門とした者として良い仕事に恵まれたと思います。また、自分の書いた 教科書 を使って講義ができる、という喜びも味わうことができました。 この本は、出版後20数年を経た今も版を重ね、現役の 教科書 として使われています。
2012年04月28日
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・昭和61年(1986年)11月下旬、園芸学会 が始めて 沖縄県 の 琉球大学 で開催され、私は妻同伴で参加しました。沖縄 へはたびたびは行けないし、永年家事・育児をしてくれた妻にも見せたい、それに、長男のいなくなった家に一人にする心配もありました。アメリカの学会 では、以前の ハワイ の アメリカ園芸学会(2012年3月4日のブログ参照) を見ても、夫人同伴の人が多く、開催側も学会中の夫人向け行事などもあるのですが、日本は先進国になっても、そういった慣習は出来ませんでした。当時は 高松 から YS11 で 大阪空港 へ飛び、大型ジェット機 に乗り換えました。沖縄 へ行ってみると、夫人同伴の会員が何人もいました。やはり私と同じ思いで夫人を伴ったのでしょう。 那覇空港 那覇市街琉球大学 はキャンパスが広く、立派な建物が多くありました。そのころは学会の各種の委員をさせられていたので、研究発表 を聴くよりも、委員会 の仲間との相談や打ち合わせの用事の方が多くなっていました。 琉球大学キャンパス学会3日目の 見学ツアー には加わらないで、妻と1日コースの 観光バス に乗って 沖縄本島 各地を見物。ひめゆりの塔・摩文仁の丘・沖縄戦跡・パイナップル畑・万座毛・亜熱帯植物園・鍾乳洞 などを観て回りました。途中、学会見学団 と一緒になるところもありました。 ひめゆりの塔 摩文仁(まぶに)の丘公園 沖縄戦当時の日本軍地下壕跡 首里城守礼の門 万座毛(まんざもう)海岸 東南植物楽園 玉泉洞(ぎょくせんどう・鍾乳洞)沖縄 では牛肉が安くて、夕食には、大きなビフテキを食べたり、伊勢えび料理店 へ出かけたりして、食事も楽しみました。
2012年04月25日
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・昭和61年(1986年)3月から、私は 香川大学農学部 に附属する農場 の 場長 を兼任することになりました。私は、自分ひとりでコツコツと研究や著述をするのが性に合っているのですが、50歳代後半ともなると、自分のことよりも、全体の管理運営の役目をさせられることが多くなりました。昔、農林専門学校の 菊池秋雄校長(2011年2月4日のブログ参照) が言っておられた言葉、 「自分の研究をするのは30代に、本を書くなら40代に、50歳を過ぎれば管理運営の仕事」を思い出していました。香川大学農学部 の 附属農場 は、学部の東3キロメートルの隣町(現・さぬき市)にあり、大きな丘全体が農場になっています。それで俗に 傾斜地農場 とも呼ばれています。 附属農場管理棟丘の頂上に 畜舎 があって、牛・豚・鶏を主に何種類もの 家畜 を飼育していました。当時のおもな仕事は 豚の繁殖 で、いつも発育段階の異なる 仔豚 がいました。丘の中段には ブドウ・モモ・カキなどの果樹園 と ブドウのガラス室。 附属農場果樹園果樹園 を降りたところに 管理棟。その東に 野菜・花卉(かき)の畑 と ハウス群。丘の下の平地には 水田 と 茶園。ほかに 竹林 や 松林、花木(かぼく) の植栽場もあります。 附属農場の野菜・花卉ハウス農場実習 の授業を受ける学生は、農学部のバスで 農場 に来て、担当教官 から作業の説明を聴き、現場に入って 実習 します。教官 のほかに各分野の 技官 がいて指導を手伝います。また、多人数での会議や、農場 にある作物を材料に 卒業論文 の研究をする学生などが、宿泊できる建物もあります。 附属農場内の会議・宿泊施設 農機具庫の前で作業の説明を聴く学生 五月の茶摘み実習附属農場 には 専任教官 として 教授2人・助教授(現・准教授)1人・助手(現・助教)1人 がいて 実習指導 にあたり、事務長・事務官・雇員 が 農場 の事務処理を担当します。技官 は10名ほどいて、それぞれ専門の栽培や飼育の仕事をします。農場長 は 管理職 ですが、併任なので毎日は農場に行かず、最上位の専任教官を 農場主事(しゅじ) として、日常的な 農場業務管理 は、農場主事 と 事務長 に任せることになっています。私が 農場長 在任中、農場専任教授 2人が相次いで定年退官して、その後任を決めるのに一苦労しました。結果的には、1人は農学部の助教授のなかから、もう1人は公募して、北陸の 県試験場長 を定年退職した人を選びました。このころ、香川・愛媛・高知 の 3大学農学部 が連合した 博士課程大学院 の設立が認可され、愛媛大学連合大学院農学研究科 と称することになりました。3大学から、博士論文 を審査できる実績を持つ教官が選出されて、メンバーになりました。 松山城と松山市街私もメンバーの1人となったので、たびたび 松山市 へ日帰りや1泊で出張することになり、一段と忙しくなりました。農場長 の任期は2年。その間、大学附属農場協議会 出席のため東京・高知・札幌へ出かけました。高知は 連合大学院 の会議で何度も出張していましたが、北海道行きは3度目で、往復とも空路。会議の前後に、当時 札幌 に住んでいた姪の家や、積丹半島・支笏湖 などを訪れました。 札幌での大学附属農場協議会 農場協議会での酪農学園大学視察 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *園芸学会 でも 各種の委員 を充てられ、その後に 評議員 にも選出されました。もはや、自分個人の研究よりも、後進の人たちのために働く年齢になったのだ、との思いが一段と深まりました。
2012年04月22日
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このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55 題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆・昭和60年(1985年)11月、私は久しぶりに妻と二人で 観光旅行 をしました。妻はその前の2年間ほどは体調がすぐれず、遠出を控えていて、長男の 大学受験 や 入学、下宿の世話 などは私がしました。このころ、妻の心身が回復したので、長男の在学する 大学の学園祭 を期に東京へ行き、下宿している様子も見て、帰りに二人で箱根に行ったのです。それまでの旅行は、私の出張以外はほとんど子供連れ。50歳台後半に入って、また二人だけで旅行できるようになりました。新宿駅 から 小田急 で 小田原 へ。そこから 箱根登山鉄道 に乗り換えて、 箱根・強羅(ごうら) 着。強羅 に宿をとって 箱根 各所を見物しました。 小田原行き・小田急電鉄ロマンスカー(新宿駅で) 強羅に着いて昼食登りケーブルで 大涌谷 へ。噴煙を吐く 大涌谷 上空を風に揺れながら横切る 空中ケーブル は、スリル満点でした。 大涌谷を横切る空中ケーブルその日は 大涌谷 から車で 強羅 の宿に引き返し、翌朝再び 大涌谷 に来て、山上から 富士山 を仰ぎ見ました。そして 空中ケーブル で 芦ノ湖 北岸へ降り、観光船 に乗って南岸まで。 大涌谷山上から仰ぐ富士山 朝の芦ノ湖 芦ノ湖の観光船芦ノ湖 の南岸に着いて船を降り、箱根神社 や 曾我兄弟の墓 を拝んでから、ケーブルで 駒ケ岳 に登りました。富士山 や 芦ノ湖 の展望はすばらしかったのですが、山頂は強風で、早めにロープウェイで 箱根園 へ降りました。最終日は、タクシーで、芦ノ湖 西岸の スカイライン をドライブ。所々で車を降りて、富士山 を眺め、芦ノ湖 を見下ろしました。スカイライン を引き返して、昔の 箱根関所 や 旧東海道跡 などを見て回りました。 スカイラインからの芦ノ湖の眺め 旧東海道跡で元箱根で 箱根 名品の 寄木細工 を買い、バスで 十国峠 を越え 熱海 へ出て、東海道新幹線 で帰途に着きました。
2012年04月19日
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・昭和59年(1984年)8月、長男 が 関東の大学 に進学したのを機会に、長男 を連れて、父の出身地・福井県丸岡町(現・福井県坂井市丸岡町) の 父の実家 を訪れました。私はそれまでに8回ほど行っていますが、長男 は行ったことがないので、この折にと思ったのです。丸岡町 に行く前に、福井市 の南東・一乗谷 にある 朝倉氏遺跡 を見学しました。戦国時代に 織田信長 の軍団に滅ぼされた 朝倉氏の館跡(やかたあと) です。遺跡 はよく整備されていました。 一乗谷朝倉氏遺跡それから 丸岡町 に行き、丸岡城 を観ました。小さい 天守閣 ですが、日本に残る城では最古といわれています。 丸岡城天守閣前で父の実家 は、丸岡の町 からバスで山に入った、谷あいに開けた集落にあります。昔はひとつの村で、谷あいの田畑は自給分程度。おもな仕事は、豊富な 山林資源 によるものです。このときは、私の従兄弟(いとこ)が当主で、昔は 木炭の製造販売、その後は 杉の製材業 を営んでいました。 父の実家この地域は、山に登ると 加賀の白山 がよく見えるので、奈良時代に 白山信仰 の修行場だったようですが、その後は衰え、あらためて、平安時代末期から人が住むようになったそうです。昔の村の時代の古い家が、“千古の家” という名で残されています。 千古の家(福井県・坂井市丸岡町・竹田地区)私どもの行ったとき、地区の南の山際で トンネル工事の起工式 が行なわれていました。福井市 の平地から登り、トンネルを抜けてこの地に入って、石川県の 山中温泉 に通じる国道をつけるのだ、との話を聞きました。四国へ帰る前に、東尋坊海岸 へ行きました。東尋坊 はこのころすでにすっかり観光地化されていましたが、柱状節理 の岩が連なる海岸は奇景でした。 東尋坊海岸 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *小さかった子供が、成人して 大学 に進学しました。家業という仕事のない私のような家では、大学 まで進学させて、卒業後は自分の進む道を決め、生活を立ててゆく道を自身で切り開いてもらわねばなりません。4年間の 学費・生活費・交通費 の仕送りは、かなりの負担ですが、子を持ったからには、親としての obligation でしょう。それからのちは、本人の 努力次第、運次第、と思うほかはありません。そろそろ 子離れ・親離れ の時期が来たのだ、と思いました。このときの旅行は、長男に自分の 出自(しゅつじ) を教えて、やがての 別れ を惜しむ 良い機会 になった、と当時を振り返っています。
2012年04月16日
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・昭和55年(1980年)7月末、私は 長野県 の 高冷地野菜栽培視察 に行きました。おもな目的は 結球レタスの夏栽培状況視察 です。最初に塩尻の近くの 洗馬(せば)農協 を訪問。ここは 准高冷地 で、真夏には レタス の栽培ができず、初夏と初秋の栽培地です。行ったときは、初夏どりレタス の収穫が終る時期でした。畑はよく整備され、次の栽培に備えて耕され始めていました。 洗馬農協 洗馬農協の圃場洗馬 から次の目的地・野辺山 に向かいました。前もって頼んでおいた、専門学校・大学を通じての同級生で今は 信州大学農学部 の 教授 になっている S君(2011年5月6日のブログ参照) と途中で落ち合い、野辺山 に着きました。ここには 信州大学農学部 の 野辺山農場 があります。野辺山高原 は、標高1300メートル以上。盛夏でもレタス が栽培できる 高冷地 です。国鉄(現・JR)の最高地点 も駅の南にありました。高原は畑地が広く展開し、レタス・ハクサイ・キャベツ・ダイコン・ベニバナインゲン などが栽培されていました。 国鉄(現・JR)最高地点標 野辺山高原野菜栽培地一望 信州大学農場建物 信州大学農場の圃場その夜は 信州大学野辺山農場 の宿泊所に S君 とともに宿泊。S君 は若いときから呼吸器が弱くやせていました。彼は一時 香川大学 に勤務していたこともあり、信州大学 に移ってからは、細い体ながら頑丈になったように見えました。翌朝、再会を約して S君 と別れ、松本市 から思い出の地・上高地 に行ってみました。途中の道路は広く整備され、釜トンネル も以前の何倍も広く、上高地 の 河童橋 周辺は、登山者よりも観光客のほうがずっと多く見受けられました。25年ほどの間の大きな変わりようでした。 上高地・大正池 上高地・河童橋 上高地・田代池で上高地 から戻って、松本市 に宿泊し、安曇野(あずみの) にある ST種苗会社 の草花育種(いくしゅ)農場 を視察。国宝・松本城 も観ました。 国宝・松本城 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *この 信州大学野辺山農場 での S君 との一夜から4年後、S君 は呼吸不全の状態になって 京都 に戻り、治療の甲斐なく死去しました。野辺山 での元気さからは考えられないことでした。S君 の家は、京都 でも最高級住宅地帯の 下鴨(しもがも)泉川 にあり、父君は有名な画家。同じ 京都 でも、下町商店街生まれの私とは全く違った育ちでした。S君 死去の年・昭和59年(1984年)に、静岡大学教授 になっていた大学同級の MI君(2011年7月6日のブログ参照) が、S君 に先立って亡くなりました。私よりもはるかに頑健だったのに。その2年前ごろ、香川大学 でも、転職時に御世話になった TT氏 をはじめ数人の教授たちが、50歳代後半で亡くなり、また、野辺山高原野菜視察 の翌年には、義弟 が40歳代の若さで死去しました。大学受験勉強を始めるときに、進め方を教えてくれた専門学校同級の I君(2011年4月22日のブログ参照) も亡くなりました。彼は農林省で行政官となり、中年以後は各県の 食糧事務所長 を勤めていました。鳥取県 から 香川県 の 食糧事務所長 に転任して、香川大学農学部長 や私のところへ着任挨拶に来たころは元気でしたが、間もなく発病し、高松市 で死去しました。老少不定(ろうしょうふじょう)、会者定離(えしゃじょうり)、とはいっても、親密だった人たちが、定年も待たずに世を去って逝くのを厳粛に見送りながら、私は、人の世のきびしい現実と向き合っていました。
2012年04月13日
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昭和49年(1974年)12月に 田中角栄内閣 が総辞職した(2012年3月1日のブログ参照)あと、三木武夫内閣 が成立しました。田中角栄 の金権体質に対して、三木武夫 は “クリーン三木”といわれて首相に選ばれました。三木武夫 は、徳島県板野郡土成町出身。昭和12年(1937年)に30歳の若さで衆議院議員初当選。戦後は 国民協同党 を組織し、保守合同によって自民党に入った人物です。 国民協同党時代の三木武夫(1951年) (出典 Wikipedia)国民協同党 は資本主義、社会主義に対する第三の道としての 協同組合主義 を綱領に掲げ、議会主義・人道主義をうたう、理想主義的な中道政党でした。私は、徳島県土成町 にある 三木武夫 の生家へ行ったことがあります。家にはだれも住んでいないようでした。彼は、自身の地元の、当時吉野川北岸にあった旧国鉄の赤字線を廃止しました。これをみても、地元の新潟県に道路をはりめぐらした 田中角栄 とは正反対でした。このころ、最大野党の 日本社会党 は政権担当能力が乏しく、自民党政権 が永久に続くような状況でした。ただ、田中内閣 成立以後、派閥間のせめぎあい は激しさを増していました。こんな情勢のなかで、三木武夫 は、田中前首相 が逮捕された ロッキード事件 の徹底解明を表明したため、他の派閥からの総攻撃を受けました。いわゆる “三木おろし” です。三木武夫 は国会解散を考えましたが、閣僚の反対にあい、2年足らずで退陣を余儀なくされました。次の自民党総裁には 福田赳夫 が選出され、福田赳夫内閣 が成立しました。 福田赳夫福田赳夫内閣 は、昭和51年(1976年)12月から2年間続きました。福田赳夫 は首相続投を目指しましたが、田中派・大平派 の反発を受けて、自民党総裁選挙 で 大平正芳 に敗れました。 大平正芳こうして、昭和53年(1978年)12月、大平正芳内閣 が誕生しました。しかし、自民党 内の 派閥抗争 は “怨念(おんねん)” と言われるまでにひどくなり、これが国民にも知られるようになって、自民党 への支持は低下しました。その結果、昭和54年(1979年)10月の総選挙で 自民党 は敗北。自民党非主流派は 大平退陣 を要求し、国会の首班指名には、自民党 からは、主流派 が 大平正芳 を、非主流派 が 福田赳夫 を擁立するという、党分裂同様の有様になりました。何とか 大平正芳 が首班に指名されて 第二次大平正芳内閣 が発足しましたが、政局は混迷しました。翌 昭和55年(1980年)5月16日、社会党 が提出した 大平内閣不信任案 の審議に 自民党 非主流派 が欠席、そのため 内閣不信任案 が可決されてしまいました。大平首相 は、直ちに 衆議院 を解散。6月22日に 衆議院 と 参議院 の 同日選挙 を実施して、政局を一新しようと考えました。ところが 総選挙 公示の5月30日、街頭演説で第一声を挙げた 大平正芳 は過労と不整脈で倒れ入院。早速党内非主流派から 大平退陣 の声が上りましたが、大平 は拒否しました。そして入院から12日後の6月12日、大平正芳 は心不全により死去しました。享年70歳。昭和7年(1932年)の 五.一五事件 以来、48年ぶりの 現職首相の死 という事態に、状況は一変。自民党は、主流派・反主流派 ともに粛然として 挙党体制 をとり、選挙戦を進めました。結果は、衆参両院 ともに 自民党 が大勝し、安定過半数を確保しました。この選挙での 自民党 の勝利は、単に 大平正芳 の死に対する 同情票 だけではなく、当時の 社会党・公明党などの 野党連合政権構想 に対して、繁栄を続けている経済の失速を心配した国民の 保守浮動層 が、結束を取り戻した 自民党 を支持した結果だ、といわれます。大平正芳 死去後、大平派の 鈴木善幸(すずきぜんこう) が2年余り首相をつとめ、次いで 中曽根康弘内閣 が、5年の長期政権を保ちました。 鈴木善幸 中曽根康弘大平正芳の死 は、分裂寸前の 自民党 を再結束させて、社公連合政権構想 を打ち破り、 “ジャパン・アズ・ナンバーワン” と呼ばれた日本の繁栄を、さらに長く続けさせました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *大平正芳 は 香川県 出身。その顔だちは “さぬき男” の典型といえるでしよう。農家に生まれ、篤志家などからの奨学金を得て、高松高等商業学校(現・香川大学経済学部) から 東京商科大学(現・一橋大学) に進学。高松高等商業 在学中に、キリスト教 に入信。大学卒業後、同郷の 大蔵次官・津島寿一 に見込まれて 大蔵省 に入りました。大蔵省時代の上司・池田勇人 の側近となって、香川2区 から 衆議院議員 に立候補し当選。以後 連続当選11回。池田勇人 の没後、そのあとを継ぎました。大平正芳 は、国民生活の望ましい姿として “田園都市構想” を唱えていました。“田園都市構想”とは、自然に恵まれた田園 と 都市の持つ合理性 を併せ持つ地域社会 での生活をいいます。彼の頭の中には、生まれ故郷の自然豊かな 香川 の山河があったのでしょう。私は大都市から、大平正芳 の出身地・香川県 に移り住み、田園の中で自然に恵まれた生活をしていますが、残念ながら、香川県 の 田園社会 の中には、都市の持つ合理性 は、まだまだ乏しい、と感じています。
2012年04月10日
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・昭和54年(1979年)、 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(原題 Japan As Number One) という本が出版され、世界的ベストセラー となりました。著者は、アメリカの社会学者・エズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル。 ヴォーゲル氏 は、日本 と 中国 を中心に東アジア諸国の研究を続けてきた人物です。 ヴォーゲル氏「Japan Is Number One」 ではなく 「Japan As Number One」 としたのは何か意味があるのか私には分かりませんが、文字どおり訳せば 「第一位としての日本」 ということでしょう。つまりは このときの 日本が、経済や技術で世界第一位だ というのです。この著書のなかで、ヴォーゲル氏 は、奇跡的といわれた 戦後日本 の復興 と 高度な経済発展 の要因を分析して、 “日本的経営” を高く評価しています。そして 「その基盤となっているのは、日本人の学習意欲の強さと読書習慣の高さだ」と述べています。そして、当時の国民の能力について 「日本人の数学力はイスラエルに次いで2位、科学分野で2~3位、情報については7位」と言っています。また、 「英語力は他の国よりも劣っているが、将来はともかく、今の時点では大きなマイナスではない」とも語っています。そして、それを補うものとして 「優秀な通商産業省や大蔵省主導の経済への強烈な関与が、さらに日本の競争力を高めている」と指摘しています。ヴォーゲル氏 は、この 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 出版の16年前の 昭和38年(1963年) に、 「Japan’s New Middle Class」(日本の新中間階級-サラリーマンとその家族) という本を書いて、 「この世代が、近未来に 日本 を最先進国に押し上げるだろう」 と予告していました。「Japan’s New Middle Class」 で書かれた “日本の新中間階級-サラリーマン” とは、今では 後期高齢者 となっている元サラリーマンの世代です。現役のころは “猛烈社員” とか “エコノミック アニマル” などと呼ばれた人たちです。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 出版前年の昭和53年(1978年)10月、中国 の実力者となった とう小平(とうしょうへい) が来日。新日鉄君津製鉄所 や トヨタ自動車 の先進施設を視察し、東海道新幹線 にも乗って、日本の躍進振りに眼を見張りました。とう小平 は、続いて1979年1月に アメリカ を訪問。各地の工業地帯を訪れ、ロケット・航空機・自動車・通信技術産業 を視察しました。 カーター大統領(右)と とう小平(1979年)とう小平 は、日米両国 の先進技術を目の当たりにして、はるかに立ち遅れた 中国 の発展を目指し、政治・軍事は 共産党一党独裁 のまま、経済は 資本主義 を採り入れた、改革開放路線 を強力に押し進める政策を開始しました。当時の世界は、アメリカ と ソ連 の両大国と、それぞれに組する 東西両陣営 の 対立冷戦時代。対立の始めのころには キューバ危機(2011年10月18日のブログ参照) のようなこともありましたが、その後はかえって不思議な安定感がありました。このなかで日本は、西側自由主義諸国 の一員として、アメリカ の核の傘に入り、国防費を安上がりにして、当時の国民の勤勉努力により、もっぱら民生機器を開発量産して経済力をたくわえ、ナンバーワン といわれるまでにのし上がりました。日本 は、このころから数年後までがもっとも良い時代だった、と私は思います。私個人としても、この時は50歳代前半。仕事にも健康にも恵まれて、最高に働き甲斐のある良い時期だった、と昔を振り返っています。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 の刊行から三十数年。今の 日本 はどうでしょうか ? 中国 は 改革開放路線 を推し進めて経済大国になりましたが、これからどのように進むのでしょうか ? 81歳で今も健在な ヴォーゲル氏 はどう見ているのか、聞いてみたいですね。
2012年04月07日
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昭和54年(1979年)8月、山口県 の 秋吉台(あきよしだい)・萩市、島根県 の 津和野 に家族旅行に行きました。山陽新幹線・岡山―博多間 は、この年の4年前に開通していました。秋吉台 に宿をとって、カルスト台地 を歩き、地下の 秋芳洞(しゅうほうどう) を見ました。鍾乳洞(しょうにゅうどう) は 高知 でも見ましたが、秋芳洞 の方がずっと大きい 鍾乳洞 でした。 秋吉台のカルスト台地 秋吉台の妻と長男 秋芳洞の鍾乳石 秋芳洞の千枚田秋芳洞 を出て、さらに北にある 大正洞(たいしょうどう) と 景清洞(かげきよどう) へ行き、洞窟に入ってみました。大正洞 は縦穴、景清洞 は横穴で、どちらも水はありましたが、流れてはいませんでした。秋吉台 の次の宿は、城下町・萩。ここではレンタサイクルで街を走り、萩城址、桂小五郎・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋 の屋敷跡を見て回りました。伊藤博文 の家は、松下村塾(しょうかそんじゅく) のすぐそばにありました。吉田松陰 が教えた 松下村塾 は、良く保存されていました。萩焼 の店も見て回りました。 萩城址 松下村塾萩市内からバスで 島根県 に入り、津和野(つわの) に着きました。ここは幕末の法学者・西周(にしあまね) や 軍医総監で文豪の 森鴎外(もりおうがい) の出身地。谷あいの小さな町ですが、水路や川には錦鯉が泳ぐ奇麗なところでした。山に張り付くような場所に、大きな神社がありました。太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)です。「稲荷」 と書かずに、なぜか 「稲成」 の字を当てていました。一方、乙女峠 という所には、幕末にキリシタン信者を迫害した跡もありました。 津和野の町と太皷谷稲成神社
2012年04月04日
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・月が替わって、今回から 2012年4月。いつも、私のブログ 「チューさんの今昔ばなし」 を見てくださって有難うございます。このブログでは、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、昭和50年代(1975~1984年)、私の50歳前後の時代に入っています。このブログは、私の 想い出日記 ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国の移り変わりでもあります。歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆私は、ブログとは別に「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」 というホームページを開設しています。ぜひご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆昭和44年(1969年)に 香川県 に転職して来て以来、子供の小さい間は、日帰りで県内各地へ妻や長男と一緒に出かけました。これらは 旅行 というよりも 遠足 です。香川県内各地の名所 については、後日のページで書こうと思っています。長男が 中学・高校 に進学してからは、夏休みや冬休みに泊りがけで、家族旅行 をしました。京都には、私も妻も実家があるので、何度も行きましたが、このページは、そのほかへの旅行の話です。まず 四国。徳島県の太平洋岸 へは、長男が小学生のころ海水浴に行きましたが、内陸では 土柱(どちゅう)。海では 鳴門(なると)海峡の渦潮 見物。 阿波の土柱 (現・徳島県阿波市) 鳴門海峡の渦潮高知県 へは、昭和51年(1976年)12月に 足摺岬(あしずりみさき) へ。昭和54年(1979年)12月に 室戸岬(むろとみさき) へ。足摺岬 への旅行では、須崎・足摺岬・宿毛(すくも) と、愛媛県 の 宇和島 で泊まりました。宿毛 と 宇和島 では雪が降り、地元の人は数十年ぶりの積雪と言っていました。 足摺岬灯台 足摺岬の先端 雪の舞う竜串海岸 (現・土佐清水市) 宿毛湾の雪景色宿毛 からバスで、雪の積もった坂道を越えて、愛媛県の 宇和島市 に着きました。伊達博物館 や宇和島城 を観ました。昼間は曇りでしたが、夜になってまた雪が降り、朝、丘の上の宿から見る 宇和島 はいちめんの銀世界でした。 宇和島城天守閣 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *室戸岬 への旅行も年末の冬休みでしたが、この年は好天に恵まれました。岬の国民宿舎で宿泊後、四国八十八箇所 のお寺を回りながら、高知を経て 横波三里 を走り、窪川 まで行きました。当時の 室戸岬 一帯は、足摺岬 のような観光地ではなく、国民宿舎のほかに旅館が一軒。それと四国八十八箇所二十四番の 最御崎寺(ほつみさきじ)・気象観測所・灯台 があるだけ。冬でも自然豊かなところでした。 室戸岬灯台 室戸岬先端 中岡慎太郎銅像 (室戸岬) 岩崎彌太郎 (三菱財閥創立者) 生家 (高知県・安芸市) 高知城 観音像に水をかける長男 武市半平太銅像(横波三里・高知県須崎市)
2012年04月01日
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