全7件 (7件中 1-7件目)
1

このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55 題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆・平成2年(1990年)4月9日、私は妻を伴って、大阪市 の 鶴見緑地 で開催中の 国際花と緑の博覧会 を見学に行きました。この 博覧会 は 国際博覧会 のひとつで、何年も前から開催準備が進められていたものです。通称 「花の万博」 と呼ばれました。 花と緑の博覧会会場私の目当ては、大温室の 「咲くやこの花館」 に来ているという ラフレシア と キソウテンガイ です。 咲くやこの花館「咲くやこの花館」 という名称は、古今和歌集 の序文に詠まれている 渡来人・王仁(わに) が 仁徳天皇 の即位を促した歌 難波津(なにわづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花から採られたことは、よくご存知のとおりです。ラフレシア は 世界最大の花 として有名ですが、私はまだ実物を見たことがありませんでした。 ラフレシアの花ラフレシア は東南アジアの一部に分布する ラフレシア科 の寄生植物で、学名は Rafflesia arnoldii。 花の大きさは植物中最大ですが、ひどい悪臭を放つそうです。しかし館内の展示ではガラスで囲われていて、臭気は分かりませんでした。キソウテンガイ(奇想天外) は植物名として、とても変わった名です。アフリカ の アンゴラ と ナミビア の海岸の ナミブ砂漠 にだけ自生する ウェルウィッチア科 の 裸子(らし)植物 で、学名は Welwitschia mirabilis。 サバクオモト(砂漠万年青) の別名があります。 奇想天外(キソウテンガイ)私は、鉢植えにした小さい株の キソウテンガイ を見たことはありますが、大きな株の実物を見るのは始めてでした。雌雄異株(しゆういしゅ) で、葉は一生涯2枚だけ。25年ほどで花を着けるようになり、寿命は1000年以上、という変わり物です。「咲くやこの花館」の中には、ほかにもさまざまな珍しい植物がありました。 咲くやこの花館内のサボテン園「花の万博」 会場内には多くの花や植栽があって、美しさいっぱいでした。催し物も各所で行なわれていました。 会場内の花壇 会場内での外国人によるアトラクション 会場内での琴の演奏会
2012年05月27日
コメント(0)

・平成2年(1990年)2月から3月にかけて、東京証券市場 で 株価が大暴落 しました。日本の バブル経済の崩壊 が始まったのです。 東京証券取引所での日経平均株価の変動バブル とは、ご存じのとおり泡のこと。ビールを急にジョッキに注ぐと、半分も入れてないのに泡がジョッキの上から溢れんばかりになります。実体経済がさほどでもないのに、先を過剰に好感して景気が膨らみ過ぎる現象を言います。どちらの泡も、やがてはじけて消えます。日本での バブル景気 は、昭和60年(1985年)ごろから始まり、平成2年(1990年)年初が絶頂期だったと思います。土地や株の価格が驚くような価格に高騰しました。 「東京の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買える」 と言われたほどです。株式は、東京証券取引所 の 日経平均株価 が、平成元年(1989年)末のピーク時に 38915円87銭 の高値を付けました。土地や株の値上がりで資産価値が上昇した会社や個人は、さらなる値上がりを得ようとして、一段と国内外の不動産を買いあさり、土地や株のほかに絵画などの美術品も対象にしました。三菱地所 がニューヨークの ロックフェラー・センター を2千億円で購入し、安田火災(当時) が57億円でゴッホの 「ひまわり」 を買った話はよく知られています。 三菱地所が買ったロックフェラー・センター 安田火災が購入した絵画「ひまわり」大都市では、不動産業者などの依頼を受けた 「地上げ屋」 と呼ばれる集団が、片手に札束、もう一方の手で脅しをかけて、土地を強引に買いあさる行為を始め、社会問題になりました。土地の値上がりで莫大な 不労所得 を得た人や、所得は膨らんだが土地がそれ以上に値上がりして不動産購入を諦めた人たちは、高価な自動車を買いました。とくに何千万円もする 高級外車 がよく売れました。国産高級車 では 日産・シーマ、トヨタ・ソアラ など、外車では フェラーリ・メルセデスベンツ・ロールスロイス などの車種がよく売れて、供給が追いつかないために納車まで1年以上も待たされたそうです。 日産・シーマ フェラーリF40日本の政府もこの バブル景気 に浮かれていた節があります。自民党長期政権下で、波はあっても長く続く経済拡大と景気の上昇で、税の自然増収 が予算を上回ったはず。本来ならこの税収で、今まで発行した国債などを償還し、国の財政 を健全にするべきでした。ところが時の 自民党・竹下政権 は、全国のすべての市町村に 使途自由金 として、1億円ずつバラ撒いたのです。自治体 の中には、この金で金(きん)塊を買ったところもありました。私のような公務員は、景気によって給料が変わることはないのですが、私がこの バブル景気 を身をもって感じたのは、学生への求人・就職でした。多くの大学では、最終年度になると、希望する教官の研究室に数人ずつ分属し、卒業論文 を仕上げて卒業します。この 専攻学生の就職 の世話をするのが、大学教員の苦労のひとつでした。就職斡旋の義務はないのですが、やはり良い会社へ入ってほしい、と思うからです。それが、昭和50年代のなかごろから、「良い学生をほしい」 と、企業の方から頼んで来るようになりました。そして バブル の数年前になると、もはや教員を介せず、企業の求人係が直接に学生の下宿へ行って内定をとるようになりました。どの専攻学生も、3~4社から 採用内定 を受けて、私に 「どこへ入るのが良いですか」 と相談するようになり、企業の求人担当者 は、私のところへ来て 「OOさんは当社に採用内定しましたので、他社へ行かないようにご指導願います」 などと頼むような状況になりました。私が バブル をさらに実感したのは、京都へ行って、よく知っている料亭が 「12億円で売りに出されている」 と聞いたときです。 「場所は繁華な所だが、さほど大きい店でもないのにこんな値が付くとは ! 」 と驚きました。株価も土地の値段も無限に上昇するかと思われた 平成2年(1990年)2~3月、株価が暴落 しました。これが バブル景気崩壊 の最初のサインでした。株価が急落しても、多くの人はまだ 好景気 は続くと思っていました。この年の2年ほど前にも一度 ブラックマンデーの暴落 があり、その後さらに株価が急上昇したからです。しかし株価は安値へ下落するばかりでした。不動産価格 も下落に転じました。株価と地価の暴落 は、その後の日本経済を急速に悪化させてゆきます。信用の収縮・金利引下げ・貸し渋り・企業の倒産・不良債権による金融機関の破綻・人員整理と就職難・消費税の増額・超低金利 等々、経済活動の収縮による衰退 は、このときから始まったと言えましょう。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *近ごろの 日経平均株価 は 8700円 前後。平成元年(1989年)大納会の日 の 38915円 から、ここまで下落してしまいました。平成2年(1990年) は、経済のみならず、日本のすべてが下り坂を転げ落ち始めた年、と私は思います。
2012年05月23日
コメント(1)

・平成元年(1989年)11月10日、30年近く 東西ベルリン を隔ててきた “ベルリンの壁” が、東西両ドイツ国民 の手で撤去され始めました。この年、長く ソビエト連邦 の勢力下にあった 東欧諸国 で民主化・自由化の動きが広まり、6月に ポーランド で複数政党による民主化が起こり、8月には ハンガリー でも自由化が始まりました。これらの 東欧諸国 では、それまでにも自由化の動きが起こったことがありましたが、その都度、ソ連 の軍事的圧力によって抑えられていました。しかし ソ連 も ブレジネフ書記長 の死後は、東欧諸国 に対する強い指導力を失い始めていました。東欧諸国 の自由化を受けて、東ドイツ市民 の多くが 西ドイツ への亡命を求めて、ハンガリーや チェコスロバキア(当時の国名) に殺到し、国内でも、ドイツ社会主義統一党書記長・ホーネッカー の退陣を求める大規模なデモが起こりました。こうした混乱収拾のため、ホーネッカー書記長 は退陣。後任の東ドイツ首脳部は、11月10日からの “旅行許可に関する出国規制緩和” を発表しました。これを知った 東ベルリン市民 数万人が前夜から ベルリンの壁 に集まり、国境警備隊も市民の力に屈して、ついにゲートが開かれました。 ブランデンブルグ門の近くのベルリンの壁に上る 東西ベルリン市民たち(1989年11月10日)旅行許可証 など、もはや問題ではなくなり、東ベルリン市民 は、歓喜の中に 西ベルリン になだれ込みました。11月10日未明になると、ハンマーや建設機械が持ち込まれ、両ベルリン市民 が壁をこわし始めました。 撤去が続くベルリンの壁こうして、28年間、東西ベルリン を隔てていた “ベルリンの壁” はついに破壊されました。ベルリンの壁 だけでなく、東ドイツ と 西ドイツ の国境も開放され、その結果、東西ドイツ統一 の気運が一気に高まりました。 ブランデンブルク門が開放された日のコール西ドイツ首相(中央左)と 東ドイツ閣僚評議会議長ハンス・モドロウ(左端)1989年12月22日翌、平成2年(1990年)3月、東ドイツ で始めて実施された自由選挙で、統一を求める勢力が勝利し、東ドイツ が 西ドイツ に編入される形での 統一方式 が決定。7月には 通貨統合、そして10月3日に 統合式典 が行なわれ、悲願の ドイツ統一 が実現しました。1945年の 分断以来、45年ぶりの統一 でした。 ドイツ統一式典式典は ベルリン の 旧帝国議会議事堂 で行なわれ、会場では “黒・赤・金” の 3色旗 が掲げられ、ベートーベンの交響曲第九番 「合唱付き」 が演奏されたそうです。ドイツの統一 がこれほど急速に進むとは、西ドイツ の コール首相 でさえも予期しないことでした。イギリス首相・サッチャー や フランス大統領・ミッテラン は、その成り行きにむしろ懸念を感じたそうです。ブッシュ(父)・アメリカ大統領 と ゴルバチョフ・ソ連邦最高指導者 は、ベルリンの壁 崩壊から1ヵ月後の1989年12月に マルタ島 で会談し、東西冷戦の終結 を宣言しました。 マルタ島会談(右前:ブッシュ・アメリカ大統領、 左前:ゴルバチョフ・ソ連邦最高指導者) * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *ベルリンの壁 が崩壊して、西ベルリン へ入った 東ベルリン市民 が、真っ先に買いに走った品物は、バナナだったそうです。東ドイツ では、バナナは年に2回しか食べられない果物だった、とのことです。ベルリンの壁 の崩壊後に 西ドイツ に入った 東ドイツ市民 の中には、東ドイツ 製の自動車・トラバント に乗った人もいました。トラバント は東欧圏内での 東ドイツ 自慢の乗用車でしたが、西ドイツ のポルシェ・ベンツ・BMW に比べると、ひどく時代遅れの車でした。 ベルリンの壁の崩壊直後に西ベルリンに入ったトラバント601ドイツ統合 は、第二次世界大戦後に分断された 東西ドイツ両国民の悲願 でした。しかし 統合 してみると、東西の経済格差 はあまりにも大きく、統合 後20数年を経た現在でも、較差 はなお残っていると聞いています。
2012年05月19日
コメント(1)

・平成元年(1989年)9月16日、妻の実家での法事の翌日、京都東山にある 龍村(たつむら)織物株式会社 の織宝苑(しょくほうえん) を、妻の縁者一同で訪れました。織宝苑 は、京都市岡崎 から 南禅寺東 にかけて連なる、有名別荘庭園群 のひとつです。一般には公開していないのですが、妻の弟が、勤めていた トヨタ自動車 から関連会社の KT自動車 の 常務取締役 に就いて、取引関係があったことから、特別に見せてもらうことになりました。最初に建物の中に展示してある 織物類 を見せてもらいました。どれも美しい 織物 でしたが、その中で、ひときわ目立つ見事な 帯 があり、模様のなかに国歌 「君が代」の歌詞が織り込んでありました。案内の人に聞いてみると、昭和天皇の長女・照宮(てるのみや)茂子内親王 が結婚されたときの、納品の予備の品ということでした。皇室への納品の場合、同じ品を2つ作り、万一のときの替えとして用意しておくのだそうです。 照宮茂子内親王照宮茂子内親王 は、美しく聡明な方で、昭和18年(1943年)に 東久邇宮盛厚王 と結婚されましたが、昭和36年(1961年)に35歳の若さで病死されました。 展示の織物類を観覧展示の 織物類 を観覧後に、庭へ出て池の 錦鯉 を鑑賞し、広い園内を観て回りました。庭木・庭草 の種類が多く、どれも良く手入れされていて、美しい 大庭園 でした。 織宝苑庭園 池の錦鯉を鑑賞 園内を回る * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *明治の初め、滋賀県の 琵琶湖 から京都へ水を取り入れる 琵琶湖疏水(びわこそすい) が作られ、その 分流 が東山の山すそを通って北へ通されました。この水を取り入れて、政界・財界の著名人たちが、東山のふもとに 大庭園 を持つ 別荘 を構えました。山県有朋 の 無隣庵、野村徳七 の 野村碧雲荘 などが有名です。この 疏水分流 は、さらに北へ 銀閣寺道 へと流れ、その横の小道は “哲学の道” と呼ばれています。私たちの訪れた 織宝苑 は、その後 龍村織物 の手を離れ、ある宗教団体の所有になったと聞いています。
2012年05月14日
コメント(0)

・平成元年(1989年)5月、島根大学 からの 集中講義 の依頼を受けて、松江 へ出かけました。このときの 集中講義 は、以前の続きではなく、京都の KF大学 に勤めていたときの同僚で 島根大学 の教授をしていた HY氏 の招きによるもの。農学部の別の科の学生に、園芸学全般 についての講義をしてくれ、というものでした。他の大学での 集中講義 も多分これで終わりになると思い、妻を連れて行きました。HY氏 の夫人も KF大学 に勤めていた人なので、久しぶりの再会になるとも思ったからです。私の講義日の間、妻は HY夫人 と観光バスに乗ったり、話しあったりしていました。ただ、妻同伴なので、大学のゲストハウスに泊まるのを遠慮して、宍道湖(しんじこ)畔 の ホテルに宿をとりました。 宍道湖畔・一畑ホテル 一畑ホテルから眺める宍道湖帰途、HY氏 からもらった入場券で、安来市 にある 足立美術館 を観に行きました。足立美術館 は、安來駅 からかなり離れたところにありました。この 美術館 は、安来 出身で事業に成功した人物が収集した 美術品 を展示している、と聞いていました。入って見て驚きました。展示されている 美術品 もさることながら、建物 が奇麗で変化があり、それに加えて、庭園 がとても美しく作られていました。 足立美術館庭園(一) 足立美術館庭園(二) 足立美術館庭園(三) 美術館のロビーから庭園を眺める妻庭では、入場客に目立たぬように数人の 庭師 の人たちが手入れを続けていました。おそらく専属の 庭師 が何人もいて、毎日摘み込みなどの作業をしているのだろうと思いました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *アメリカに 日本庭園 の記事を専門にしている有名な雑誌があって、毎年、日本庭園 のランキングを発表しているそうです。それによると、この 足立美術館 の 庭園 が、連年、第1位を続けているとのことです。ちなみに、昨年のランキングでは、第2位は京都市の桂離宮、第3位は 高松市 の 栗林公園 と聞きました。外国人は、日本庭園 といえば、やはり日本的仕立ての樹木に囲まれた池や古い和風の建物のある、純日本的庭園 を好むのでしょう。 栗林公園南庭(高松市)
2012年05月11日
コメント(1)

・平成元年(1989年)6月24日、歌手・美空ひばり が亡くなりました。享年52歳。間質性肺炎 による 呼吸不全 での死去、と伝えられています。あとで知ったところでは、ひばり の病気はこの4年前から始まっていたそうです。昭和60年(1985年)から腰痛を訴えるようになり、2年後、公演先の福岡市で入院。大腿骨骨頭壊死 並びに 肝硬変 と診断されました。退院後ハワイで静養したのち、復帰しますが、病状は回復してなくて、体は衰え、激痛をこらえながらの舞台だったそうです。 デビュー当時の美空ひばり美空ひばり は、10歳のころから芸能活動を始め、ボードビリアン・川田晴久 の弟子となります。舞台のほかに映画にも出演するようになり、12歳で主演した映画で、シルクハットをかぶり燕尾服を着て歌った 「悲しき口笛」 が大ヒット。そして大スターの道を駆け登ることになります。私は、こうした 美空ひばり が嫌いでした。はじめは こましゃくれた子供、 中年になった ひばり は、歌のうまさから来る傲慢とも見える感じ。 「ひばりは譜面が読めない」 とそしる人もありました。後援者の黒いうわさもあって、NHK には長く出演しませんでした。 若いころの美空ひばり(出典 Wikipedia)しかし、元気いっぱいに歌う 「柔(やわら) 」 と、涙をこぼしながら歌う 「悲しい酒」 と、正反対の感情移入を必要とする歌をほとんど同じ時期に歌う、ファルセット を巧みに使い、地声 に戻る境目が分からない、など、天才と思わざるを得ない、とも感じていました。病気から復帰後の ひばり は、顔は青白く、やせていました。しかし、舞台での歌唱力に衰えはなく、表情にも以前の傲慢な感じはなくなり、すべてを悟った人のように見えました。おそらく本人は自分の死期が近いことを知っていたのでしょう。 最後の歌「川の流れのように」を歌う美空ひばり復帰後の歌 「みだれ髪」 と 「川の流れのように」 の2曲は、どちらも100万枚を越える大ヒットとなりました。そしてこの 「川の流れのように」 が最後の歌になりました。生まれながらの歌の上手、52年という、あまりに短い生涯。これらが没後20数年を経てなお、演歌・歌謡曲の女王 として慕われ続けるゆえんでしょう。
2012年05月05日
コメント(0)

・月が替わって、今回から2012年5月。いつも、私のブログ 「チューさんの今昔ばなし」 を見てくださって有難うございます。このブログでは、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今日は、昭和の終わりの日(1989年1月) のことを書きます。このブログは、私の想い出日記 ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国 の移り変わり でもあります。歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは http://chusan.info/ 題 名 は チューさんの今昔ばなしと野菜ワールドなお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆昭和64年(1989年)1月7日朝、昭和天皇 崩御(ほうぎょ)。天皇の死去を 崩御 といいます。天皇は、この1年半ほど前に十二指腸のガン治療の手術を受け、しばらくは回復の様子が見られましたが、崩御 の前年9月に大量の吐血があり、輸血が続いていました。 天皇崩御を報じる新聞紙面憲法 と 皇室典範 の規定により、直ちに 皇位継承儀式・剣爾(けんじ・三種の神器のうちの宝剣と勾玉)等承継の儀 が皇居内で行なわれ、明仁親王 が 新天皇 となり、美智子皇太子妃 が 皇后 となりました。この日が 昭和の終り。時の 総理大臣 は 竹下登。竹下内閣 は新元号を “平成” と決め、当時の 小渕官房長官 が発表しました。そして翌日は、平成元年1月8日 となりました。 竹下登首相と新元号を発表する小渕官房長官昭和天皇 は享年87歳8ヶ月。在位期間は62年余。歴代天皇 のなかで最長命、在位年数も最長といわれています。戦後の団塊の世代以後の人は、昭和 というと、昭和20年代後半以後 の 発展の時代 ばかりを思うようですが、私どものように、昭和初年 からの 戦前・戦中・敗戦直後 の悲惨な時代を経た者は、昭和 は決して良い時代ばかりとは思えないのです。戦前・戦中の昔、天皇 は 日本の統治者 であり、現人神(あらひとがみ) として崇められていました。実態は内閣や軍部がしていることも、すべては 天皇 の名によって行なわれ、批判や反対はできない国柄でした。とくに 軍隊 は 天皇直属の組織 で、内閣に属するものではなく、内閣の 陸軍大臣・海軍大臣 は軍の最高司令官ではなくて、軍の事務局長 のような役目だったと思います。それは 明治時代 に決められた“軍人勅諭” の中に、次のような言葉があったからです。 「わが国の軍隊は、世々 天皇の統率 したまうところにぞある」 「朕(ちん)は、汝ら軍人の 大元帥(だいげんすい) なるぞ」英邁(えいまい)な 明治天皇 の時代は、これで国政に何の支障もなかったのですが、その後、軍部、とくに 陸軍 は、天皇直属 を盾にとって、内閣や議会に圧力を及ぼし始めました。そして、いわゆる “国体明徴問題” などを提起し、五.一五事件 や 二.二六事件 で内閣の重臣たちを殺害し、これで日本は急速に 軍国主義化 して行ったと思います。昭和天皇 は、戦後ずいぶん経ってから当時の回想を述べ、その内容は雑誌にも掲載されました。それを読むと、「日本は 立憲君主国 だったから、ほとんどは内閣の決めたとおりにし、総理大臣 が判断できなくなった 二.二六事件 と ポツダム宣言受諾 の2回だけ、自身で決断し行動した」「もし私が戦争に反対しても、軍は私を押し込め、代わりの皇族を立てて戦争を強行しただろう、それなら、私が皇位 に居る方がまだよいだろうと思った」という主旨の話が書いてありました。これを読んで、 「昭和天皇は、自身が軍の 大元帥・統率者 であることを放棄していたのか、そして、天皇までが自分の保身を考えていたのか」 と思いました。昭和天皇 は相撲が好きで、戦後たびたび国技館を訪れていましたが、テレビで相撲を熱心に見入っている 昭和天皇 を見ると、「この人は、あの大戦争で何百万の国民が死に、何千万人もの国民が財産を失ったことを、どれだけ覚えているのか」 とも思いました。 国技館で相撲を見る昭和天皇昭和天皇崩御 の翌日、1月8日。この日から平成となり、新天皇 が公務を執り始められました。 新天皇・皇后両陛下敗戦後間もないとき、たまたま 京都御苑 内で 明仁親王殿下 にお会いして、「この方が早く成人されて、天皇になっていただきたい」 と思った日(2011年4月11日のブログ参照)から、40数年が過ぎていました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *昭和天皇 の葬儀・“大葬” は、2月24日に執り行われました。世界各国から 国家元首 が参列しましたが、多くは日本から経済援助を受けている国々の 元首 たちでした。 ブッシュ(父)アメリカ大統領第二次大戦での交戦国 だった国からは、ブッシュ(父)アメリカ大統領 が参列しただけで、イギリス・オランダ・中国・ソ連 からは、元首 の来日はありませんでした。その ブッシュ大統領 でさえも、 「今日、この日になって、やっと心から日本人を許す気になった」と述懐したそうです。ブッシュ大統領 は、若い日に、空軍パイロットとして太平洋戦線で日本軍と戦い、マリアナ沖と小笠原諸島近海で2度も撃墜されて、自国の潜水艦に救助された戦争経歴の持ち主です(2010年11月17日のブログ参照)。あれだけの大戦に敗北してなお、そのまま最後まで在位した皇帝や国王は、ほかにないでしょう。古くは、フランス皇帝・ナポレオン一世 の流罪。第一次大戦では、ロシア皇帝・ニコライ2世 は自国民による処刑、ドイツ皇帝・ウィルヘルム2世 と オーストリア皇帝・カール1世 は外国に亡命。第二次世界大戦では、イタリア国王・エマヌエーレ3世 は、退位ののち、王制廃止により国外追放。ドイツの ヒトラー総統 は遺体の完全消滅を命じて自殺。満州国皇帝・溥儀(ふぎ) は、退位後、ソ連軍の捕虜から中国の一市民となって終っています。
2012年05月01日
コメント(2)
全7件 (7件中 1-7件目)
1