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前回では、食材はすべて命を有する生き物であり、人間は、この命を犠牲にすることにより、自分の肉体細胞を維持している。従ってこれを食する時は、感謝の心でいただくべきだというようなことを述べました。さらに続けます。テレビの番組でよく食べ物を粗末に扱ったり、投げ合ったりする場面を放送しているが、食べ物を粗末に扱う番組は教育上からもよくないと思います。食べ物に対する感謝の心がそこにはありません。また個人の味に対する好みの問題もあるので、食事のある程度のえり好みは許容されるとしても、極端な好き嫌いはあまり感心されたものではありません。感謝の心があれば、何でも有難くいただけるはずだからです。極端な好き嫌いはわがままな心の反映であるともいえましょうか。ただ、体質的に特定の食物に対しアレルギー反応等を起すような場合は別です。また美味しさを求めて、食通ぶったり、グルメぶったりするのは結構なことですが、食べ物に対する感謝の心を前提にしていなければ、品性のあまりよいことではないように感じますが如何でしょうか。欲望をそのままに放置して、好きなだけ食べれば、肥満となり、体を壊して病気になったりします。欲望というものは食欲に限らず、少しづつ、拡大していき、満足することを知りません。天井しらずです。中高年になれば、長年の食生活から、そうとは意識せずにたくさん食べるようになっており、且つ新陳代謝が悪くなっているので、中年太りするのが普通です。従って、食欲をコントロールし、ブレーキをかける必要があります。そのためには、ある程度ストイックに生きる必要があります。しかし、中高年になってから始めるより、やはり若い頃から自分を律していく方がいいに決まっています。欲望のままに生きるのであれば、何ら動物と変りません。食欲だけに限らず、欲望の拡大を抑えるために、ある程度自分を律した生き方をしている人には何か崇高な気高さが感じられます。今後、食事の前には、感謝の心を内に秘めて「いただきます」と言おうではありませんか。これを習慣化していると、謙虚さが増し、感謝すべきことが他にもあるのではないかということに気づいて、より人格に磨きをかけるきっかけになるかもしれません。また感謝は人間関係を良くするキーワードでもあります。人に感謝されて怒る人はないでしょう。(本テーマ 完)関連書籍: 「自分を知って人を知る(人間関係を良くする方法論)」(東郷健作/著、新風舎出版)
2005.01.23
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「食」をテーマに2回に分けて書いていきたいと思います。まずは第一回目です。 日本は現在、食にあふれています。飽食の時代です。よほどのことがないかぎり餓死するということはありません。連日のようにテレビで“グルメの旅”とか“おいしい食を求めて”とかいうような料理に関する番組を流しています。 世界の中では飢えているところもたくさんありますが、それだけ日本が豊かになったということでもありましょう。テレビ番組では美味しさを求めて料理の腕の競い合いということも行われたりしています。あそこの店はおいしいとか、こっちに新しい店ができたとかが話題になったりもします。好き嫌いな料理を当て合ったりする番組もあります。社会が豊かになり成熟してくると食も一つのゆとりの文化となるのでしょう。ところで、三度の食事の時に「いただきます」といっていますが、この本当の意味はなんでしょうか?広辞苑では「出された料理を食べ始めるときの挨拶の言葉」とあります。しかしこれでは不充分のような気がします。よく考えてみれば、毎日口にしている食物はすべて命を有する生き物です。大根、人参、キャベツ、ほうれん草、もやし、トマトといった野菜類、ジャガイモ、さつまいもといったイモ類、米、麦、粟、稗といった穀物類、魚、かに、えび、貝といった魚介類、牛、豚、鶏といった肉類、これら口にするものはすべて生き物です。人間には食欲という欲があり、これを満たしていかなければ生命を維持していくことができません。我々は自分の肉体細胞を養うためにこれら生き物を殺生しています。どうして我々は他の生き物を犠牲にしなければ生きていけないのでしょうか?食物は何の報酬も求めることなく、人間のために命を捧げています。これはどうしたことでしょうか。これはおそらく造物主がいるとするならば人間に感謝する心の大切さを教えんがためであるように思えます。我々はこのことに気づくべきではないでしょうか。我々人間は、他の尊い命の犠牲の上に、生きていることを知るならば、必要以上に殺生するな、むやみやたらと食べるな、食するときは感謝の心で有難く頂戴せよ、このようなことを教えられているような気がします。食事の前の「いただきます」は尊い命を捧げてくれた食物に対する感謝の言葉でもあるのです。クリスチャンの家庭では食事の前によく「天の恵みに感謝」といったような祈りをしているがこれに近いのではないでしょうか。(次回へ)関連書籍: 「自分を知って人を知る(人間関係を良くする方法論)」(東郷健作/著、新風舎出版)
2005.01.22
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前回では、欧米語は論理的であるということについて述べました。 一方、日本語には、あいまいさがあります。よく言われているように、日本は元々、村社会、農耕社会、ほぼ単一民族による同質社会です。そこで、必要とされるのは、調和とか秩序といったものです。このような社会では、欧米ほどには、自己主張をする必要がありません。むしろ、他人との和を優先するようになって、角の立つような、あからさまな表現を、避けようとします。つまり、言葉はあいまいな表現となり、後は、察してくれということになります。長い期間、同じ土地に定住する村社会では、お互いの気持ちが、ある程度、わかるようになるため、完璧な文章でなくても、意思の疎通には、支障がないからでしょう。片言隻句でも、通じる場合があります。時に、自己主張の強い人がでると、あの人は、我の強い人で、調和を乱す人だということになり、疎んじられるようになります。 あいまいさの例として、「はい、結構です」というのがあります。これには、“YES”と“NO”の両方の意味があり、その時の会話の状況に応じて、どちらであるかを、察しなければなりません。“NO”の場合、あからさまに断るのではなく、婉曲に断り、人間関係に角を立てないという効用があります。ただし、現代では、これが悪用される場合があります。例えば、会社などへ、高額な書籍等を購入するよう、しつこく電話が、かかってくるようなことがあり、この時、断るつもりで“結構です”と返答したりしたら、購入を了解したということで、その書籍を送りつけてきて、トラブルケースがあります。このような時は、最初から、明確に毅然とした態度で、“要りません”とか、“購入いたしません”と返答すべきでしょう。 日本語と欧米語の優劣は、単純には、つけ難いものです。それぞれの異なった環境のなかで、それぞれに適合するかたちで、発達してきたからです。 ただし、これだけ、グローバル化したビジネスの世界では、明確で論理的な欧米語の方が有利です。日本語のようなあいまいさや、腹芸で商売をして、後は察してくれということであれば、後のトラブルの発生原因ともなり、また悪用されかねない面もあります。 重要なのは、同じ日本語でも、状況によっては、長所が短所になり、また短所が長所になるので、その都度、使い分ける必要があるということです。ビジネスのような世界では、不明瞭さや非論理性は、不利になるので、日本語を、意識的に明確、且つ論理的に表現する必要があります。逆に、気の合った仲間同士の会話では、あまりに明確、且つ論理的な言葉では、かえって白けてしまうでしょう。このような場合は、従来の日本語の表現で充分です。 以上、言語について長々と述べてきましたが、言語そのものを、論じることが目的ではありません。言いたかったことは、「日本人は、歴史的に相手の心を察する能力を、磨く環境に恵まれていた。それがまた、日本語の発達にも、影響をおよぼしてきた。この物言わずして、相手の心を察するというのは、人間にとって高度な能力である。」ということです。昔から、読心術とかいわれているものでもあるでしょう。 この高度な能力を、さらに磨くには、どうすればよいのでしょうか。 それは自分のことばかりではなく、他人にも関心を持つことです。そのためには、人の言うことには耳を傾け、また、人はどのような時に、どのように考え、どのように行動するか、観察を通して学ばなければなりません。つまり「他人に関心を持つ」とは、「他人を理解しようとする」ことであり、それはまた換言するならば、「他人を愛する」ということでもあるでしょう。赤ん坊を持つ母親は、泣声を聞いただけで、赤ん坊がミルクが欲しいのか、おむつを替えて欲しいのか、眠たいのか、あるいは、何か突起物みたいなものが、体に触れて痛いのか等の区別が、つくとのことです。これは、赤ん坊を限りなく愛しているからこそ、何をして欲しいのかが、すぐに分かるのです。現代は、ペットブームでもあるので、ペットを飼っておられる方も、多いのではないかと思いますが、自分のペットが可愛くない人はいないでしょう。であるからこそ、泣声を聞いただけで、何を欲しているのかが、分かるような経験をされた方も多いのではないでしょうか。(本テーマ完)
2005.01.09
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遅ればせながら、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。さて、今年の最初のテーマは、日本語について思うところを、2回に分けて述べさせていただきます。察しの日本語(1) 話し相手の気持ちや感情を察する感覚は、欧米人より日本人の方が、強いように思われます。あの人は人格者であるとか、徳ある人といわれるようになるには、ある程度人の心が読めなければなりません。人格者とか、徳ある人の定義には、いろいろと言い方が、あるでしょうが、簡潔にいうならば、見返りを求めることなく、無私の心で、他人のためにつくす人のことでしょう。あるいは、他人に対して、愛深き人と言っていいかもしれません。他人のためにつくすには、その人が望んでいることを、積極的にするようにしなければなりません。そのためには、人の心が読めなければなりません。 誤解を恐れずに、結論めいたことをいいますが、相手の心がわかるということが、人間の進化と関係があるとするならば、日本人の方が、欧米人よりも、その点においては、人間としての完成度が高い、といえるのではないかと思います。作家の司馬遼太郎氏は、その著「アメリカ素描」の中で、アメリカ人の教授から聞いた話を紹介しています。以下は、その教授の言葉です。「アメリカ人の場合、自己を表現するということを、母親や学校から徹底的に教えられます。まず第一に、自己を表現しなさい。第二は、自己が正しいと思っていることをやりなさい。そして自己表現はアーティキュレイト(明瞭)に、クリア(明晰)にやりなさい。また、相手に訴えるときはパーフェクト(完璧)にやりなさい、ということを教えつづけられます。そのため、相手の心を察する感覚が、弱くなっているのです。」 アメリカのような多民族国家では、教育は、自然、このような自己主張重点主義にならざるを得ないと思われます。出自のわからない者同士の共同社会では、相手がどのような考え方、価値観を持っているかわかりにくく、自己防衛のためにも、先ず自分の権利を明瞭、明晰、完璧に主張する必要に迫られます。従って、手段としての言語も隙のない論理的なものになり、日本語のようなあいまいさは、少なくなります。これは、アメリカだけではなく、陸地で国境を接している多民族のヨーロッパにおいても同様でしょう。自己防衛本能というものは、動物において顕著です。動物は、差し迫ってくる危機や危険に対し鋭敏な感覚を持っており、常に自分の身を守ろうとする自己防衛本能が、はたらいています。例えば、敵らしきものが近づいてきた場合、すぐに牙をむいたりして、相手を威嚇しつつ、いつでも逃げることのできる態勢をつくります。よく、私の家の庭に、野良猫が来ることがありますが、一瞬猫の目と、こちらの目が合う場合があります。その時、猫はギョッとした表情をし、目と目を合わせたままの状態で、そのまま固まってしまいます。この時の猫の心境は、どうでしょうか。「この人は、自分に危害を加える人だろうか、それとも、何もしない安全な人だろうか。もし、危害を加えるようであれば、こちらの方向へ素早く逃げよう。」と体を緊張させたままで、このようなことを、考えているのではないでしょうか。こちらが、何もなかったかのように、目をそらしてやれば、緊張を解き、しかし油断することなく、ゆっくりと去って行きます。これと、似たような経験をされた方も、多いのではないでしょうか。このような自己防衛本能を、強弱はあるにせよ、動物だけではなく、人間も具有しているのでしょう。 私は言語学者ではないので、断言はできませんが、欧米のような弱肉強食の社会では、一種の自己防衛本能から、自己主張するようになり、そのための手段として、必然的に隙のない論理的言語が、発達したといえるのではないでしょうか。(次回へ)
2005.01.08
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