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ある日、立ったままマグで緑茶を飲んでる自分に気が付きギョっとした。半世紀以上アメリカ暮しの私は日本人失格者になっていたのだ。 「17年間、日本に帰らなかった期間に日本語が怪しくなった」とアメリカ人の友達にこぼしたら、「ネットにはチャットルームというのがあるのだけど、きっと日本語のチャットルームもある筈」と教えられ、日本語のフォントをアメリカでも買える事もその時知った。ブログを始めてからもう20年近くなり、ネットで大勢日本にもお友達が出来、里帰りする度に「ヒロコさんを囲むオフ会をしましょう」とか言って、グループで食事をしたりする世の中になった。どうやら私のお茶好きの噂がひろがっていて、どこに行っても「お土産にどうぞ」とお茶をいただく。ある年、アメリカに戻ってスーツケースを開けたら30袋くらいのお茶がでてきたので夫が、「お茶屋でも始めるのかい?」と冗談を言ったくらいだった。 今では、南カリフォルニアでも手にはいるものだが、1960年代の私には、貴重なものであったから、妹から「京都に旅をした時のお土産です」と高価な玉露を送ってきた時は、うわぁ~っと叫んでお茶の缶に手を合わせて「大切にいただきます」とお辞儀をしたくらいだった。熱湯を冷まして入れた玉露は最高で、目を瞑ってまず香を楽しんでから有り難く、ゆっくりすすった。 夏が過ぎ、秋が過ぎ、年の暮れになったとき、どういうわけか日本の大掃除を思い出して、台所を片づけはじめたら、棚の奥からお茶の筒が現れた。『ヤヤヤ、これは一体何だろう?』と開けてびっくり玉手箱にあらず、霞がモア~と立ち上がり、白い固まりが見えたので、まな板の上にひっくり返してみたら、なんと!カビだらけの玉露が出て来たのだった!あまりにも畏れ多くて、特別なお客様が見えた時に出そうと思ってしまっておいたのを忘れていたのだ。だから最近では、勿体ないなどと言わないで、いただいたらすぐ飲むか、冷凍庫にいれるようになった。 さて、アメリカに来てよく聞かれるのは、「あなたはお茶をしますか」という質問。答えは いつも “No, I don’t.” である。アメリカ人の多くは、日本人なら誰でもが茶道をするものだと思ってるらしい。祖母や母の娘時代には、やっていたそうだが戦争で家は全焼、コンクリートの地下室に大事な物を入れて逃げ、着の身着のままのホームレス的時代が長く続いたから、茶道どころではなかったと思う。戦後、地下室の物は分厚い英語の本だけ残して空になっていたそうだ。無論、茶道具一式消えていた。皆生きる事に必死な時代であった。 波乱万丈な年月が過ぎ、私が高校生になった頃、「こうやるのよ」と、普通の湯飲み茶碗をつかってジェスチャーで「模様がついてる茶器ならそれを外側にして‥‥」「親指はこう・・・」「ちょっと指でふいて、袱紗でこう。あなたもやってごらんなさい」と、祖母がパントマイムで茶道もどきを見せてくれたのを覚えてる。そんな私に、半世紀も経った頃意外な事が起きた。 筆頭に書いたように、日本人とチャットをしていたのだが、英語と茶道を教えているという人と巡り合いウマが合って、あっという間に親友になった。「日本にいらっしゃる時は、是非いらして。和服をお着せして、お茶を点てて差し上げたい」といい、6年後にそれが実現したのだった。 彼女や、お弟子さんのお召し物を拝借して、初めて着付けをしてもらい、昔お化粧会社に勤めていたと言うお友達までがヘアースタイルやらメイクアップをしてくれた結果、いつもはポニーテールでジーパンの私が、あっという間に和服の日本人に変身!「お写真をとりましょう」と、袱紗の持ち方まで教えてくれた友達が「あなた、本当にお茶なさったことないの?」と聞いた。「ない!生まれて初めて。どうして?」と聞くと、「さまになってるのよ」と笑っていた。その時の写真がこれである。 パントマイムでも、普通のお茶碗でも、祖母が何度か教えてくれた事が、ちゃんと頭のなかに残っていたらしいから驚きである。 私が『茶道』と触れ合ったのは人生でその時だけである。
2022.01.29
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友達に書いた手紙の一部を載せてみます。彼女とは1967年にハワイから日本に里帰りしたときの帰りの船で友達になり、日本に行く度にあってました。亡くなられたご主人がメキシコの大学で助教授をしていたので、彼女は英語の他にスペイン語も話せます。ご夫婦で我が家に泊まった事もある気の置けない友達です。おたがいに年取ってきたのでもう会う事はないと思いますが、文通は続けてます。〇〇さん明けましておめでとうございます。 カードも送らずごめんなさい。歳と共に、物事にだんだんずぼらになってます。その典型として、コンピュータ―をやっていると、文章を替えるのも簡単、忘れた日本語もすぐ出てくる電子辞書があったりするので、手で字を書くことが億劫になりますね。ですから、読めても書けない漢字ばかり。これは、どうやら海外に住んでいる日本人ばかりではなさそうです。脳の構造も、【自分で考えるモードから、ネットを操るモードになってるのでしょう】 お正月などないアメリカに58年も暮していると新年になった気がしないので年号も間違いやすいですが、日本は日本で天皇陛下がかわる度に年号がかわるから、混乱しますね。今、令和2年くらいかしら。 COVIDも、デルタが下火になったと思ったら、オミクロン株がでてきて、なかなか普通の生活にもどれませんね。外国籍の元日本人は故郷に帰りたくても、日本が入れてくれないので家族にも会えない人が心を痛めてます。感染は国籍に関係ない筈ですから日本の方針は理屈にあいません。一つ良い事は、アメリカでも、これからは、マスクをしても変な目でみられないことです。全国民がやってますから。コロナ前だったら、病人しかマスクをしなかったので、嫌な顔をされたでしょう。それと、アメリカ人でも手を洗う人が増えたことは良い傾向です。 我々の合唱団も半分以下ですが、ライブでの練習を去年の9月からはじめました。勿論、マスクをかけて歌ってます。それでも、生でうたうハーモニーは、楽しいものです。二年間、インターネットで練習をしていたのですよ。これでは、ハーモニーが出来ないのです。短音しかできませんし、皆家でコンピュータ―の前でマイクの音を消してうたうのですから、味気ない事この上なし。 それでも、私は、今までとあまり変わらない生活をしてますよ。行きたいところには、マスクしてでかけるし、去年の9月から我が家に友達を招いて、彼等さえ怖がらなければ(全員、ワクチン済の人ばかりですし) 食事までしてますけど、感謝祭やクリスマスの家族のあつまりも大丈夫でした。 もう海外に行くのも面倒な歳になってきたので、全部おぜん立てをしてくれるスペイン・ツアーに2年前に申し込んだのに、コロナ禍で2年のびてやっと4月に行けるみたいですが、ツアーはバルセロナから始まって、セビリアで終るので、何の事はない、自分でカリフォルニアからバルセロナ往復、セビリアからバルセロナ片道の航空券やら、2日余計なホテルなどの予約をせねばならず、また、そういう込み入った事はグレッグが出来ないので、コンピュータ―の前で1人で血圧をあげてます。 車の運転は昼間はまだまだ自信がありますけど、とくに高速は暗くなると危険になってきたので、今年からは止めます。よるでも近所の運転はできます。つまり、スピードと遠近感の問題ね。脳の活動もじょじょに衰えて来てると思うので、地元雑誌の連載やフェイスブック、楽天ブログなどは続けています。指先動かして、あれこれ脳を使う事によって、すこしでも老化を防げたらと思ってます。 ありがたいことに、この歳になると、もう「死ぬときは死ぬさ!なきゃないで、なんとかなるさ」と居直った人生で、何事にもあまり驚かなくなっていますから、平和に暮らしてます。 あなたとのお付き合いも半世紀以上、長いわね。何度も何度も色んな人をつれて行っては、仙台でも東京でもお世話になりました。感謝しています。あなたが、コンピュータ―をやらないのが、ただ一つ残念ですが、これもあなたにとっては、平和かもしれないと思ってます。 では又、お元気でね。
2022.01.24
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時として越えし山河もとしとらば夢か真かおぼろげになるSometimes I wonder,ups and downs of steep mountainsI achieved in youth,whether they were real or dreamsthe distinction is fading.01/22/2022
2022.01.24
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これは、1980年か、81年です。私は、昔から日にあたると直ぐに肌がこげ茶になりますが、タヒチではこんなに黒くなってしまいました。このために、起こったおかしな話もいくつかありますが、一つは、日本人のご婦人たちのツアーに、公衆トイレで出くわした時、「まあ、日本からおいでなのですね、懐かしい日本語。私も元は日本からですが、アメリカに長くすんでいて、日本語をわすれかけてますから、日本語きくのうれしいわ」と言ったら、「この人、気を付けた方がいいわよ。この肌みてよ、地元の人にきまってるじゃない」「さぎよ」といって、皆、バッグを胸にかかえて出て行ったのです。大きな目の、右から三人目は、このカップルの長女で、この写真をみて一番最初にメッセしてきました。「ヒヒヒ、これ誰だかしってる」と。今では二人の子の素晴らしい母親になっていて、三人目が死産で今四人目を妊娠中。幼児(カメハメハ)を抱っこしてるのは、カリ。この人は、内外美しい人です。もう孫が何人もいます。カリのお母さんが、友人マリアンで5か国語話せる人.。ベルギーからの移民で私と日本を旅しました。ちょくちょく、私のブログにもでてきます。私が抱き寄せてる子は、モエアニといって、スパの娘で、スパは、マルケサス島出身、(写真にはいません)スパのおばあさんは、ポール・ゴーガンが、食べものもなくて、ひもじい思いをしていた時代に、毎日食事を食べさせていた人で、お礼にと、ゴーガンがくれた絵を、ありがとうといって、彼が帰っていくと、「こんな果物や子供の絵のどこがよい。じゃまだ」と、次々と海に投げ捨てていたそうです。「あ~あ、あれが、一枚あったら、大金持ちになれただろうに」と、私に話してくれて、爆笑したいつわがあります。ここにいる子達はそれぞれ親になって、もう高校生以上の子供達がいます。未だに、つきあっていますから、カリフォルニアに来るときは、我が家にもあいさつにきます。私は、来月80歳になるので、あれこれ整理してますから、思い出の写真が沢山でてきます。
2022.01.15
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年の初め 日本でもアメリカでも元旦早朝はシーンとしているが、その理由には雲泥の差がある。日本の【年の初めの厳かな日】に対してアメリカは【パーティー疲れか二日酔いで寝坊する日】といったらちょっと大げさかもしれないが、それが私の印象である。 1964年に日本を出たから最初の元旦は1965年のホノルルであった。大晦日は島中で爆竹や花火を一晩中バンバンならして、どこでもニューイヤーズ・パーティー。アルコールを飲んでどんちゃん騒ぎ、翌日は祝日で、お昼ごろまで寝るか、パジャマのままテレビでパサディナのローズ・パレードを見てからスーパーボールを見るコースが大半の殿方の元旦のようであり、フットボールを見ない人はパーティーの後片付け。3日が平日なら仕事も学校も普通にはじまるのがアメリカである。 ハワイ時代は、前夫も私も若かったし、二人共フットボール・ファンではなかったので「泳ぎにいこう」とワイキキの浜辺にいった。まだ殆ど人がいなくて静かな砂浜には、色とりどりの爆竹や花火の紙がちらばっていた。元旦に泳いだのは、後にも先にもこの時だけであるが、泳ぎが好きな私には「こういうのも悪くはない」と、外国での忘れがたい初泳ぎの思い出となった。 珍しかった海外生活も数年たつと、日本のお雑煮やおせち料理が懐かしくなったが、当時は白人の友達しかいなくて日本の食材などどこで買うのかも知らなかったから、大根と人参のなますとか、卵焼き、鶏の唐揚げに (日本から送ってもらった海苔で) 海苔巻きや、お吸い物だけでお正月を祝ったりしたが、日系二世などと知り合うようになったら、結構自分達で餅つきなどをやって、おせち料理もどきを作っているのを知った。明治生まれの一世達が、日本のトレディッションを維持していたようである。 私の小学生のころは、戦後のどさくさ時代であったが、幸い私は疎開先の田舎で育ち、山に餅草や、ぜんまい等を摘みに行ったり、漁村だったので食べものは豊富であり、大家さんの庭で、つきたてのお餅をいれたお汁粉などをいただいたり、羽付き、かるた遊びとか、海辺で凧揚げしたり、それよりもなによりも、お年玉をいただくのが待ち遠しかった。 ハワイから本土に引っ越した時、爆竹は違法なのでカリフォルニアではやらない事を知った。つまり、州によって法律も違うというのを実感しはじめた時期である。いつの間にかニューイヤーズイブには全国あげて、いや全世界で花火をあげるのをテレビで放映するようになった。ところが、アメリカ合衆国は広く、元旦といってもカリフォルニアが24:00だとすると、アメリカン・サモアはまだ17:00、ハワイも21:00、それなのにニューヨーク側はとっくに元旦の03:00という具合だから元旦もだらだら続き、年の終わりも始めもはっきりしない。つまり大きな国では、始めも締めくくりもばらばらで、私は新年気分になれない。 アメリカ生まれの子供達に、日本の『新年』を経験させてやりたいと思い立ち、社会人になっていた娘と大学シニアの息子に聞いたら、「是非行こう」と話しが決まり、クリスマス前に日本に着くようにした。子供達は、大家族の私の弟一家や、まだ健在であった母にクリスマスギフトを用意して行ったが、メリー・クリスマスと書いた小さなケーキがでただけで、ギフトを開けて終わりのあっけなさに、”Is that all?”とケラケラ笑っていた。 ところが大晦日まえになると、家族で大掃除したり門松たてたり台所で忙しくしてるのを見て、「アメリカのクリスマスと日本のお正月の感覚は逆なんだね」と言った。また、真夜中に家族揃ってたべる『年越しそば』に笑いころげ、そのあとで神社に出かけて身動きの出来ない初詣にはしゃいで写真をとりまくり、土産を買いまくり、2時頃帰宅したから翌朝はまだ眠いのに起こされ、家族全員そろって「おめでとうございます」といっておせち料理を食べる体験をして、日本の風習は感無量だったと言ってくれた。 日本は7日までは、お正月の雰囲気が漂ってるが、アメリカではまだクリスマス・ツリーを飾りっぱなしの家も可なりあって、前の年が終わってないような締まりのない気分になるから、私は大晦日前にはクリスマスの飾りは片づけてしまう。 帰国後ある日娘の家にいった時、「日本で買った凧、ここに飾った」と、龍と言う字が書いてある凧を誇らしげにみせてくれたが、上下逆さまであった。私が日本語教育を怠ったのがバレバレの一件である。
2022.01.07
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The First Walk of New Year今年もよろしくお願いいたします。7時前重ね着をして初歩きいつものコース犬と我のみIt’s not yet seven,I wear layers of sweaters,put leash on happy dogthe routine course just for uson the first walk of new year1/1/2022
2022.01.04
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