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朝出勤して、病院の鍵を受け取りに事務へ行き、医局へ行こうと歩いていると後ろから事務長が追いかけてきた。前事務長の定年退職に合わせ、院長が某銀行から(おそらく)高給で引き抜いて連れてきた男だが、まだ入職して数ヶ月。「じゅびあ先生、ご説明したいことがあるのですがお時間をいただけますか」立ち話出来るような話ではないらしい。これは絶対、ヤバイ話だ。「今日の午前中お時間はありますか」一瞬、いいと返事しそうになったが、あえて午後に送った。本当は午後、予約診察と家族面談が入っていて、時間的に苦しかったが、ちょっと考えがあったのだ。医局に上がると、作成しなければならない書類山積みだったが、仕事どころではない。あらゆる場合を想定しなくてはならない。頭をフル回転させて考えた。何を言ってくるつもりだ。相手は事務長、院長ではないから、直接診療に口は出せない。午前中時間がないと言った手前、そのへんで出くわすわけにも行かない。病棟の看護師休憩室にかくまってもらう。昼休みに食堂へ行くと、またそこで出くわしてしまうので、わざと昼食を早めにとり、昼休みになると同時に病院を飛び出した。何をしに...ってICレコーダーを買いに電器店へ。1対1だと、後で私が主張しても、そんなことは言っていないとか、言われかねない。正直予約診察どころではないが、何とか普通にこなす。ICレコーダーの録音ボタンを押して、事務長を診察室へ呼び出した。話の内容は...思ってもみないことだった。入職時から保証されていた、私の給与条件を変えると言うのだ。医師の俸給は、大学からの俸給表に基づいた年俸制。年俸が何で決まるか、というと基本的に卒後年次だ。私の場合、様々な家庭の事情(結婚、出産、育児、離婚)でパート勤務をしていた期間が何年か、ある。入職するとき、ボスに確認した。「私は非常勤勤務の期間がありますが、その年数もフルカウントでよろしいんですか?」その時の回答を私ははっきりと覚えている。「医者は、大学院生だったり、留学期間があったり、非常勤をいくつもやって繋いでいたり、臨床を離れていたり、人それぞれでややこしい。何はどうカウントする、と言い出すとキリがないから卒後年次でしか計れない。だからそれでいいんじゃないか。」うちの雇用契約は、いつも口約束。後から他の医師や看護師たちにも確認したが、全員書類を交わしていないそうだ。その条件で、何年も、やってきた。それを突然、非常勤期間を1/2でカウントしなおす、と言うのだ。産休育休に当たる期間をどう計算するという話もない。非常勤と言っても、ここのボスに乞われ、県境を越えて2ヶ所勤務をしていた期間(合わせれば十分常勤日数を満たす)も×年あるのだ。その理由は何だと事務長に尋ねられ、私はぶち切れた。「そんなことはプライベートであり、あなたにお話する義務はない」...この期間、私は前の家を明け渡すわけにいかず、子どもと居座っていた。弁護士を挟んで、家の持ち分の対価と慰謝料で元夫と闘っていたのだ(「離婚」参照)。大体ボスがよくご存知のことだ。「私が二つ返事で、分かりましたと言うと思っていませんよね。」「それが時代の流れと言うものです。非常勤期間を満額で計算するほうが、おかしい。」彼は私の履歴書を叩きながら言った。何年も前に書いたものの、コピーだ。「医師の中では該当するのは先生だけなんです。とにかくご納得いただきたい」「納得するわけないでしょう。それは納得させると言うことでなく、命令しているということです。あなたがたは入職時にさせて頂いた約束を次々に違えている。もちろん、あなたはご存知ないことだが、本当に助けて欲しいと乞われてここへ来て、私がこの病院の体質を変えたところ、随分あるんです。当直だってずっと無理してやってきた。一度も穴を空けてないんですよ。」「いや、それは申し訳ないと思うが、時代の流れですから。病院の事情も変わりました。」一番変わったのは、事務長が変わった、ということだ。アンタが医者を駐車場から追い出し、日直料を値下げし、さらに私の基本給まで引き下げるか。基礎医学の院生だった医者もいるが、私だけということは、それは臨床でなくてもフルカウントなんだな。「私の給与を下げるというんですね。つまり病院の私に対する誠意、私への評価は、そういうものだと。」「いや、先生にも事情があるでしょうから、その年数に当たる分、年次昇給の幅を1/3ほどにさせていただきたい。お話がつくまで、先生の4月以降の給与については3月と同じで据え置きとさせていただき、納得いただいた時点で、計算してその分をスライドして上乗せさせていただきます。」「つまり、兵糧攻めですか。」「いや、そうとって頂いては...とにかくご納得いただく形で。」「私は納得などしませんよ。」経営状況が苦しいからというのなら具体的に提示すべきだ。それと、自分がとっている高額な給与、役員報酬もね。心ここにあらずで家族面談を済ませ、医局に戻ると他の医師たちが心配して待っていた。早速ICレコーダーを再生して聞かせる。みんな、絶句。そして、動揺。「ありえない。」「まさか先生、のんでないでしょう。」「医療職は銀行勤務とは違うのだぞ!」「こんなことは、絶対にのんではいけない。」「こんな条件だったら、ここへ来る女医さんはいなくなりますよ。」「時代の流れと言うのなら、むしろ女性医師が復職しやすい環境に、というのが筋だ。」「僕は、もう後輩にこの病院は紹介しない。看護師の知人にも紹介しませんね。」「つまり同じことを看護職にもやるつもりだ。先生がのんだら、看護師全員のまされる。看護師なんて、パート勤務だったり、ブランクがある人が多い。だから、じゅびあ先生は絶対、みんなのためにのんではいけないんです。」「やる気なくなっちゃうよなー。」「あまりのことに書類を探していたのに分からなくなっちゃったよ。」「先生、のんでいないよね。これはもはや先生個人の問題ではないよ。これから先、赴任する医師も含めて、全ての医者の問題だ。」「つまりこの病院は約束したことを状況が変わったからと自己都合でみな一方的に変える。信用できないところだ。」「先生、話を潰せば後からでも全額取り返せるんだよね。派遣大学医局全ての問題だ。僕らも大学に掛け合う。だから分かりましたなんて絶対言ってはいけないよ。」しばらく私、兵糧攻めみたい。私も医者が少ない時、どうにか助けてくれとボスに頭を下げられて入職して医者が増えればこの始末。あんたも明日はわが身だよ、事務長。病棟では、ボスの担当する若い女性患者さんが、落ち着かず、何を言っているか分からないけれど誰彼構わず早口の大声で話しかけていた。私にも「じゅびあ先生、あのねぇ、○★×△...!」外来の時にも女医さんと話したい、とよく私の枠に来ていた。落ち着かない時の指示を1日何回使っていいか、どれくらい時間を空けていいか、看護師が必死で電話確認している。そんな指示、何回使っても、大瓶1本のませても、彼女はよくならないだろう。ベースとなる定期処方を工夫しなければ、このままレベルが下がっていくだけだ。現に1年前より、明らかに悪化している。だが、私にはどうしてあげることもできない。「彼女はワガママで自分の要求を次々にしてくる患者さんとは違うよ。精神運動興奮だもの。ジリジリして、何か言わずにいられなくて、助けて欲しくて、本当に辛いんだろうね。」そんな患者さんを見ていると、情けなくて、何も出来ない自分も歯がゆくて、涙が出てきた。
2007年04月25日
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「死にそうになった経験」の続きを知りたい方もあるかもしれないが、とんでもないことになったのでちょっとそちらは後回し。るーなちゃんも、青森直送のリンゴをしゃくしゃくと食べている。一見、いつもと同じ時間が流れている。でも....じゅびあ先生、ボスに身体を迫られてしまったのだ。違った、進退を迫られてしまったのだ。昨日突然ボスに呼ばれた。なるべく一人のときに出くわさないように気を遣ってはいたのだが。以前に、とんでもないことを言われた、という話に触れているが、そのことを再び持ち出された。「この前の話だが、身の振り方は考えたのか。早い話が、辞めていただきたいのだよ。」「....」「患者さんからの苦情がある。それだけでなく看護の職員からも君とはやっていけないという声がある。」「患者さんとは、Iさんのことですか?」Iさんというのは私がただ一度初診で診た患者さん。3月にボスが私に無茶を言った時、名前を出さずただ「自分の患者の知り合いが苦情を言っていたと伝え聞いた」とわざと特定できないように嫌味を言った、あれだ。あの時どんな話がされたかは詳しく書けなかったけれど、なんと自分と無関係な大学に週に半日、再教育のために外来診察をしに行け、その診察には上の教官がつくことになるだろう、ここで仕事を続けていくつもりなら、やれるだろうな、とにかく君には問題がある、というような、具体性の無い、ありえないような話だ。大体、大学というところは、その辺の医者がぽっと出かけて「診察をさせてくださーい」とやらせてもらえるところではない。当然そこの医局員や大学院生、研究生の身分が必要。しかも●●大学が、自分と関連の無い、一民間病院のヘタレ医師を、再教育のためにうちへよこせ、というはずがないし、権力にはとことん弱いうちのボスがこちらから大学に依頼できたはずもない。同日昼間患者さんの紹介でその大学からの電話を受けているが、その教授もいつもと同じで変わった様子は無い。いや、どう考えてもありえない話で、仕方なく勤務後すぐに自分の出身医局へ飛び、教官から話をしてもらったのだ。意図を確認してもらって呆れた。全く、何の計画性も具体性も無い話だったのだ。話は戻るが、Iさんは若い幻覚妄想状態の女性で、父親に連れられてやってきた。本人は「自分は病気ではないし、絶対に薬はのまない」と言っていた。これでは外来での加療は無理だ。娘とはいえガタイは大の大人、親が毎食後口を開けさせて薬をのませられるはずがない。父親には指定医診察の上、医療保護入院(父親の同意による入院)にすることを勧めたが、「本人が嫌がるものを入院させるのはどうしてもイヤだ。まして嫁入り前の娘に精神科入院歴を作るのはイヤだ」と言う。そこで私はこう説明し、1週間後の自分の外来に予約を入れた。「今回は、外来でお薬を出します。でもご本人がどうしてものまないと言っている以上、入院でないと治療は難しいと考えています。家で今度までにご家族がやるだけやってお薬がのめなかったら、医療保護入院でないと、当院での治療は責任を持ってお引き受けできません」2日後の早朝その患者さんが救急車を呼んだようで、当直医に救急隊から連絡が入っている。この時の訴えは身体じゅうが痛いというもの。精神症状によるものであることは勿論容易に想像がついた。だが当直医は「身体の訴えならまず身体の病院へかかってください」と受け入れを拒んだ。まず身体を診てもらって問題なければ、うちの外来にかかり直してもらえば済むことだった。しかし、この「かかり直し」を何故かボスが率先して自分で診、その後も自分の外来に予約を入れ、すっかり主治医として数回診察をしていた(ボスは普段部下に仕事を押し付ける傾向があるから、極めて不自然だった)。私自身は、自分の予約に来なかったので「あーあ、来なくなってしまったなあ。やっぱり治療は続かなかったか。次に来るときは何かやらかして、措置入院かなー」なんて思っていた。何回か外来で引っ張った末ボスがIさんを本人の同意で任意入院させたのだが、数時間で気が変わりIさんは帰ると言い出した。ボスに連絡をしたがなかなか来ないやら、本人は病棟の扉が開くたびに駆け出そうとするやら、仕方ないので家族が押さえつけているやら、で大変だったと言う。やっと現れたボスに報告すると「帰るってんなら帰ってもらえば?」と患者さんを診察もしないで、出かけてしまった。結局他の医師が診察したが、最初は「とても家でやれないから入院を継続したい」と言っていた父親も診察室を出るなり「連れて帰ります」と気が変わってしまい、一度も病室にも入ることなく帰宅したと言う。それきり治療は途切れている。ボスが治療に失敗したのだ。退院後に初めて知った私は慌てて外来カルテを探した。「知り合いがここにかかっているので教えられてここへ来た。この前の医者が当院では診られないと言ったので、内科へ行った。他の精神科へも行ったが、そこの医者『も』話を聞いてくれなかった」などとボスの字で記載あり。私は初診時にびっしり、カルテを3ページ余り記載しているから、これで話を聞かなかったと言われるのは心外だし、何よりも自分で診るつもりで処方も出し予約も入れている。話の流れから考えても「ここの医者が当院では診られないと言った」というのは、当直医が「身体の症状は当院では診られません」と受診を断ったことだろうと思う。ボスは「Iさん?ああ、そんな名前だったな」ととぼけた。多分私が前回の話をどの患者さんのことをさして言っているのか突き止められると思っていなかったはずだ。「あの方はお父さんの理解がなく、即日医療保護入院に出来なかった方です。」「難しいケースだったのは分かるが、Iさんの場合、一番困っていらっしゃるのはお姉さんだった。君の対応はその気持ちに答えていない。とにかくそれが問題だ」...じゃあ、あんたは答えたのか。ロクに治療もやらないで、「帰りたければ勝手に帰れば?」と追い出して、家族の説得もしなかった。結局治療になっていないじゃない。大体初診にそのお姉さんとやらは来ていない。一度も会ったことも話したこともないのに、気持ちを汲んでいないと言われても....。そう喉まで出かかったのを必死に呑み込んだ。ここでそれを口走ったら思う壺だ。「すでに各論をどうこう言っている段階ではない。君が(病院を)代わるつもりがないのなら、私には病院を守る義務がある。」...一度も具体的に各論なんて言ったことはないじゃんか。いつだって、ただ「とにかく君には問題が多い」だ。「副院長や大学教官から聞いたが、君は当直をボイコットしたのか」...あんたが教官に「アイツは当直をボイコットした、人件費もかかるし、そういう医者にはいて頂かなくてもよいと思った」と言ったのだ。教官は「彼女に問題はなさそうだから、よろしく頼む」と言ったはず。「ボイコットではありません。日直手当に差があることを知り、不平等だ、平等にしていただきたいと言っただけです。副院長にも説明しました。ですが3ヶ月経過しても、未だに何の説明もご回答も頂いておりませんので。」「まあ、そのことはいい。どうしても辞めないと言うのなら、君の業務を縮小してやるからな。」...ヒマになるなら、いいけどさ、をぐっとこらえて。「私としては、改めるべきところは改め、今後も自分の業務に邁進していく所存です」とにかくここはのらりくらりとかわすのが得策だ。「君のやっている業務など、他の誰がやっても同じだ」ボスは言い捨てて、外来へ去っていった。これって、いわゆるパワーハラスメント、って奴だよね?ボスが「病院を守る」と言っている本心は分かっている。経営的に、苦しいから、医者の口減らしをしたいのだ。じゃあ、誰を減らすか、と言うことになった時、独り身で子どもと病気の老親を抱え、規定どおりの勤務を続けられるかどうか信用出来ない私を選んだのだ。これは、「長くいる職員を信用できなくなる病」のボス自身が、次々に有名企業から事務方の人間を高給で引き抜いたり、自分の出身大学の医師だからと追加で採用したり、臨床経験の少ない基礎出身の医師をさらに採用したりしたためだ。本当は、2回とも、私との入れ替えを図った医師人事だったが、思惑に反して、私が粘った。いや、正直2回目は驚いた。私が辞める保証がないのに、まだ医師を採用するのか。どう考えても、赤字になるな、ということはディスクロージャが全くなくても判る。改めて看護の職員に調査を入れる。ごく一部、いや、一人だけ私とはやれないと言いそうな看護職員に心当たりは、ある。ボスの腹心の部下だ。いや、正確には腹心というより、取り入ってばかりいる。他の職員は病棟も外来も揃って、言う。「先生でこの病棟はもっているんです。先生が辞められたら、病棟は滅茶苦茶になってしまいます。」「先生の患者さんたちが一番落ち着いているんです。先生の患者さんが多いから、この病棟は助かっているんですよ。」「機能評価の時だって、サーベイヤーにまともに見せられるカルテは先生のくらいしか無いんですよ。それで先生が辛い思いをするなんて、美味しいところばかり奪って病院はずるい。」「何かお願いをした時に、嫌な顔をせずすぐ来てくださる、対応してくださるのは先生だけです。まさか本気で進退なんて考えてないですよね?頼める先生がいなくなってしまいます。」「先生がいる限り、私も辞めません。先生がよそへ動くのなら、私もついて行きます。」「いつだって言ってるんですよ。先生が主治医に当たった患者さんは幸せだって。だって必ずよくなって、帰るもの。他見てくださいよ。急性期と言いながら、1年もいる患者さんが、いるんだから。入れるだけ入れて、ほったらかしですよ。ほら、今もああやって訴えてくるけれど、何にも話なんか聞いてやりゃあしない。」「先生とは仕事をしたくないと言う職員がいる?ボスと仕事をしたくないという職員なら、沢山知ってますけどね。先生がそんなことを言われたんですか?どうしたらいいんでしょう。」「頼んでも動いてくれない先生や、使えない先生はいますよ。でも、そういう先生を優遇する。先生と入れ替えようとしたんですか?人を見る目がありませんね。」誰もボスが怖くて本音は言わない。患者さんがボスへの苦情を言っても、看護記録に書かれることもないし、上申されることもない。投書箱の中身すら、抹殺される。だがこれが、現場の声だ。少しでも上に届くものなら。職員自身がうつ病になった時、職員の身内が認知症で徘徊してしまった時、職員の友人が神経症にかかった時、「いつお願いしたらいいですか?」とこっそり診察を依頼されるのは、ボスでなくて、私なのだ。「役付きの誰かに頼まないの?」と訊くとみな「いやちょっと...先生にお願いしたいです」と答える。それを威張るつもりは無い。それを手柄にして見せびらかしたこともない。だが、みんなの本音は、そうなのだ。研修医の面倒を私がみるのもボスは気に入らないらしく、どうにか拘束時間を多くして、接触を減らそうとしているようだが、勝手に研修医クンたちはこっちになついてしまう。研修医クンたちの時間がかかる診察にも、きっちり付き合い、質問をどんどんして考えさせ、処方内容については根拠をきちんと説明するから。「頼りにしてるよ♪」と言ってちゃんと医師としての仕事をさせるから。彼らが上手く事態を処理したときには「ありがとう。助かったわ。」と伝えているから。彼らも困ると「センセーイ、今、いいですかぁ?」とまず私にコールしてくる。勤務も穴を空けていない。学校の用事で抜けた分の借りは、振り替え出勤して埋めている。当直も、自分に与えられた分はこれまで一度も穴を空けずにやってきた。母が入院した時ですら、だった。何が文句あるんだ、と本当に言いたいけれど、ボスはこの「何が文句あるんだ」と堂々としていること自体が気に入らないのだな。
2007年04月24日
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死にそうになった経験、ってあるだろうか。例えばすんでのところで車にはねられそうになった、とか。いや、それは瞬間的なものだろうけれど、自分が死ぬかも、という恐怖にある程度連続した時間さらされた経験が、あるか、ということ。飛行機に乗っていてトラブルに遭い、生きて帰れるか...と思ったときのような。20歳の時に私は手術を受けている。街中を歩いている時、突然の腹痛に襲われた。腹痛だけではなく、強烈な吐き気。耐え切れず、側溝に思わず吐いた(そのままにしてきてしまって、ゴメンナサイ...)。吐いても腹痛は止まらない。真夏の炎天下だったから、そのせいかと思ったけれど、景色が歪んで見えた。その当時お付き合いをしていた医学部学生と歩いていたのだけれど、久々のデートで体調不良を訴え、帰りたがる私に彼はヘソを曲げ、私を置いて一人スタスタ歩いていってしまった。待って、と追いかけることも出来ない激痛、思うように声も出ないほど。生まれて今まで体験したことの無い痛みだったが、救急車を呼ぼうにも親に迎えを頼もうにも、携帯電話が当時は無かった。駅まで行けば電話がある、と思ったけれど、電話をかけて、親が迎えにくるのを待つとすぐ出てくれたとしても15~20分。その時間を立って待っていられる自信が無かった。フラフラしながら駅にたどり着き、タクシーにへたり込んだ。家までの15分、中で吐いてはマズイ、ということばかり考えていた。そういうときに限って「今日は暑いですねぇ」なんて運ちゃんが愛想よく話しかけてくるが、私の返事は完全に上の空。運ちゃんも察したのかそのうち黙ってしまった。転がるようにタクシーを降り、インターホンを押して待つのももどかしく、私は玄関で倒れこんだ。「お腹...痛い...すぐ、病院...」只事でない私の様子に母はすぐかかりつけの医院へ連れて行ったが、診察の上大きな総合病院へ紹介された。総合病院で診察を受けた結果、私は虫垂炎(盲腸)と診断されたが、その日は虫垂炎の患者が多く、私は3番目。抗生剤の点滴を受けながら、手術の順番待ちとなった。胸部はよかったが、引き続き腹部レントゲン写真を立位で撮っている間に、モーレツに頭がフワッとしてきた。写真を撮るまで一瞬なんだからガマンしなきゃ、マズイ、と思いながら取っ手を握る両手に力をこめた。「はい、息を止めて」そう言われたところまで確かに覚えているのだが、研修医の先生に「じゅびあさん、大丈夫ですか」と声をかけられて気がついた時にはレントゲンフィルム台の下に崩れ落ちるように倒れていた。5~6時間、待っただろうか。すっかり夜も更けた頃、私の手術が始まった。予定手術時間は30分ほど、手術室を入ってから出るまでで、1時間ほどと聞いていた。虫垂炎ということで腰椎麻酔だったから、私の意識ははっきりしている。手術室内の会話も全て聞こえている状態。手術が始まって間もなくのことだ。何となく、なのだが周囲の雰囲気が急に変わったのが分かった。それまで和やかだったのに、緊迫して、いやに騒々しい。「××先生を呼んで」「輸血の準備をして」という会話の内容が、聞こえてくる。...ちょっと、虫垂炎の手術で、輸血?普通、そんなことあるわけないじゃないよ。何かしくじったな。どこか大きな血管でも傷つけたんじゃない?ちょっと、あたし助かるんでしょうね。このヤブ医者!なんてことが次々頭をよぎった。そうこうしているうちに、鳥肌が立って震えてしまうほどの寒さがきた。吐き気がする上、だんだん息が苦しくなってきて、酸素マスクをかぶされた。さっきの研修医の先生が「じゅびあさん、気持ち悪い?気持ち悪いね。酸素吸おうね」と声をかける。大出血しているのだ、ということが、それだけで分かった。あかん、あたし、死ぬんだ...。なんでアッペの手術(虫垂切除術)で死ななきゃいけないの...。お腹の中の、血液を吸引する音がする。これって経験しないと分からないのだが、確かに麻酔で痛みは抑えられていても、吸引したとき、お腹の内側の壁が掃除機に貼りついて吸われるような何とも言えない気持ち悪い感じがある。研修医の先生が「もう、終わるからね」と声をかけた。30分って、こんなに長く感じるものだろうか。どうやら縫合しているらしい。とりあえず、何とか生還したようだが、体温を奪われ、異常に寒い。歯の根が合わず、ガチガチと音を立てるほどだった。意味なく、涙が次々に伝った。顔面も冷え切って、自分の涙だけが妙に温かい。ちらっと時計を見ると、手術開始から、2時間半が経過しているのが分かった。その時、意外な言葉が私の耳に入った。「オバリー、病理に回しておいて」...オ、オバリー?オバリーって卵巣だよ?どうして、ここでオバリーが出てくるのよ。訊きたいけれど、口が利けない。その夜私はICUに入れられた。単に空床がなかったからである。痛くても眠れなくても尿意を催しても、周囲に遠慮して看護師を呼べなかったのは、前の話の中で少し触れたとおり。鼻から胃まで入れられたマーゲンチューブが喉に当たって、唾を飲み込むたびにゲッ、ゲッと反射が起きる。私はいったい何だったの、と不安を残したまま、夜が明けた。翌日一般病床に移されてから、私は衝撃の事実を知ることになる。
2007年04月22日
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2週間ぶりに動物病院へるーなを連れて出かけた。今週は比較的元気そうだが、来週は分からないので、歯と爪をキレイにし、食欲が出るようビタミン剤を打ってもらって帰宅。実は2週間前、「もう今度こそ最後だと思います」と長年の御礼を先生に伝えてあった。先生も、その可能性が高いでしょうね...とおっしゃっていた。何と言ってもその2日前に、死にかけたところから生還しているのだ。今日もう一度通院できたのは奇跡だ(生き返ったのも既に奇跡だ)。体重もここのところ怖くてもう測っていなかったが、意外に減っていない。10日も血尿が出っぱなしだが、結膜も白くないので、それほど貧血はきていない様子。ただ、鼻が黒ずんでいるのは、循環が悪くなっている証拠だそうだ。ビタミン剤が効いたのか、帰宅して、りんごが滑るのを追いかけっこして一気に1/4、齧っていた。動物病院動物病院、と簡単に言っているが、実は高速道路を飛ばして片道100キロ離れたところだ。離婚前に暮らしていたところでかかっていた先生に引き続き、今もかかっている。一度こちらの地元で、パスツレラで斜頚になってバタンバタンと倒れる子を緊急でかからせたのだが、指示通り抗生剤とステロイドを服薬させて3週間経っても頚の傾きがひどくてくるくる回ってしまい、食べられずみるみる痩せてしまった。すごく人気がある病院で、いつも数時間待って診察を受けていた。その日も混んでいて、思わず一度出した診察券を引っ込めた。いよいよ危ない。その時間待つことを思えば、走れる。最初から行けばよかった。体力の消耗を考えると(うさぎの)命がけで、元の先生のところへ走った。体重は既に2/3まで、減っていた。先生はお腹を触って「ガリガリじゃない!もう、盲腸の栄養分も使い果たしています。とにかく甘いものでも何でも食べさせて緊急に太らせてください。ステロイドは、初期はともかく正直どうかと思います。バイトリル(抗生剤)も体重あたり最低量しか入っていない。3倍量まで使えます。効いていないんだから、せめて倍量にしますよ」とやはりビタミン剤を打ち、食欲増進剤と抗生剤の混じったものを処方してくれた。獣医師だって、腕が違えば、こうまで違うのか....。3週間食べなかった子がすぐに食べ始めた。みるみる太って、2週間ほどで元通り。その後も完全にパスツレラを叩くため、1年半、バイトリルをのませ続けた。バイトリルは高いので、結構私のお財布には響いた。その子はるーなの娘。私の元で生まれたうさぎだ。7歳の今も丸々としていて、わずかに頚の傾きは残ったものの、元気にやっている。獣医師というのは、いろいろな動物を診なければいけない。その上、内科外科産科皮膚科歯科と一人で全てをこなすのだ。人間の医者より大変だと思う。今はペットが多様化して、犬猫ばかりではない。うさぎやフェレット、ハムスターなんてまだありふれた方。フェネック、チンチラ、プレーリードッグ、サル類、鳥に爬虫類。しかし、犬猫以外の動物の飼い主にとって、かかりつけを探すのは大変なことなのだ。るーなの歯の処置で、2~3週間に一度、9年間通い続けた。それ以外にも何かあると飛んでいった。母の入院中に食べなくなって、保育園に迎えに行った子どもを乗せたまま、1日おきに注射に連れて行った時が一番大変だった。今思えば、どの子もあの注射で何回か助けてもらっている。るーなもよく頑張っているけれど、ふと、自分もよく頑張ってきたなと思ったりする。
2007年04月20日
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今、女性の研修医が総合病院から精神科研修に来ている。当たり前だが、私と違ってピチピチギャルだ。そんな若い女性医師に、訊いてみた。「ねーねー、医者になってから、看護師からの扱いが、男性医師とちがーう、って思ったことって、ない?」彼女は怪訝そうな顔をして、「特に、無いですけどぉ」と答えた。以前に書いた、セクハラの話などをすると、びっくりした様子だったが、「どこにもある話。自分には無縁と思ってはいけないよ」と注意しておいた。時代は変わったなあ。私がローテート研修を始めた頃は、師長に「点滴の準備くらい自分でやりなさいよ」とボトルを投げつけられたことがある。点滴の準備、と言っても知らない、慣れないと意外に難しい。手順を誤ると、不潔になってしまうばかりでなく、ルート(点滴ボトルから血管に刺す針までの間)にエアが入ってしまい、使い物にならなくなる。念のため説明しておくが、ルートの壁にくっついているような小さな気泡は血管に入っても大丈夫。それに多少の空気は途中に「タコ管」というのがあるから、そのタコの頭の部分を上にしておけば、そこでトラップしてくれる。静脈から入って、肺の毛細血管に引っかかる程度の泡は問題にならないが、ある程度以上大きな血管を詰まらせるほどの空気だと、肺塞栓となるから生命に関わるのである。ベースとなる維持輸液に、必要な薬剤を清潔に加え、ルートの栓をきちんと閉めてからボトルに刺す。それから、点滴のポタポタ落ちて見える部分を、逆向きに持って数回プッシュすると、エアが入ることなく、液が流れてくる。液が1/3~1/2くらい溜まったところで、ルートの栓をゆっくりと開け、タコ菅の頭を下にして流すと、エアはまず1つたりとも入ることなく準備が出来る。だが、説明も受けず、全く知らないでやらされたのだからたまらない。見事にルートをエアだらけにして、薬剤を捨てる羽目になったのだ。当然師長にはこってり搾られた。研修医室に戻って尋ねると、男性医師たちは誰一人として、そんなことをやらされたことがない、と言う。当然のように点滴というのは全て詰められ、ルートが繋がれ、あとは針を刺すだけの状態で、彼らの前に現れるという。医師が手術時などに点滴の交換をすることがあるが、これは既にルートに液体が充満しているものを刺し替えるのだから、ただアルコールで拭いて刺し替えるだけ。これがやれても、点滴の準備はできない。今思えば、このときの師長には感謝している。少し年次が上がって分かったのだが、私の周りの医者は圧倒的に看護師任せで点滴の準備を自分でしたことがない人がほとんどなのだ(スマートにやれる人を見たことがない)。別れた元夫もできなかった。今、同じ職場に勤める医師も、知らないというので教えてあげたことがある。今の職場で当直をしているとき、看護師に点滴指示を出したところ、「点滴の準備をしたことが無くて、出来ません」と言われたことがあったが、その時も自分でサクサクとやれた。準備の仕方をあの時怒られながら覚えた御蔭で、私は家に持ち帰って一人でも点滴がやれるのだ。いよいよ手がなければ、一人でも持続点滴だって刺せる。これも、MRSAの出ている患者さんの部屋に一人で入室させられ、点滴ボトルと輸液セットを投げ込まれたことがあるからだ。止めるためのテープを2~3枚用意して、清潔トレーの縁に貼っておく。延長カテーテルをルートの先につけ、液が完全に先端まで送り、清潔トレーの中に入れておく。駆血帯を巻いて、補助者がいるときと同じように留置針を刺したら逆流を確認し、滅菌ガーゼを留置針側の接続部下に置いておく(血液が多少こぼれても、吸い取ってくれる。シーツに血液を付けると後で大変看護師さんに怒られる)。ぎりぎりまで逆流させたらカテーテルの先端部分(皮膚の上から触れば分かる)を左手指でしっかり押さえてから、右手で駆血帯を外す。トレーの中に置いてあった延長カテーテルを留置針の根元に合わせてそっと左手指をゆるめ、急いでキャップをねじ込む。後はテープで固定するだけだが、先ほど挙げたタコ菅の「タコ頭」は、必ず上になるようにして貼り付けなくては意味が無い。自分が帝王切開で入院中、点滴の準備がなっていなくてルートがエアだらけのを刺されたり、床に落とした針をアルコールで拭いて刺されたり、ルートをテープで固定するときにタコ菅が横や下を向いてたり、知っていると「何だよ!」と怒りたくなることが多々あった。女性医師が増えて当たり前になって、看護師から「医者は男性であるべき。同性のくせに生意気」という目で見られる時代は終わったみたいだ。
2007年04月18日
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毎年度始めに避けて通れない難関がこれだ。とにかく進級すると何で気が重いって、役員選出。うちの子どもの小学校では各クラス5つのクラス委員を選出する必要がある。うちは双子で、だいたい別クラスにされるから、私は片方のクラスに委任状を出して、もう片方のクラスに出席することになる。委員選出の日にやむをえない理由で欠席する場合は、午前中連絡可能な電話番号を委任状に記載して提出することになっている。委任状を提出すると、前年の委員(選出担当者)から電話が掛かってくる。「欠席して委任状を出したからと言って、委員を免除されるわけではありません」「なり手がいなかった委員については、クジで決めることになりますが、その中に入れさせていただいてよろしいですか」「その上で、選ばれた場合に異議申し立てはしませんね」表面上お伺いを立てる電話だが、「イヤです」と言ったらどうしてくれるんだ。...すげえ、怖い(笑)。5つの委員のうち、4つは、毎月第○×曜日の午前中、学校に行って、定例委員会(約2時間)に出席することが義務付けられる。それ以外に、司会と書記を引き受けるクラス懇談会、各委員会の中の役職決め、PTA総会、理事会への出席は原則全て強制されることになる。残りの1つの委員は、学校のバザーの直前1ヶ月ほど、ほぼ毎日準備で拘束されることになる。選出に出かけると、4つの委員会については最初に予定が組まれますので、お仕事を持っている方でも協力していただけると思います、とか説明される。だけど、本当に、無理なんだって。毎月、×曜日の診察だけ1回休みます、なんてことは、我々は患者さんには言えない。会社員なら前もって有給休暇を取れば、という発想は我々には通用しない。何と言っても我々の職場では、医師には有給休暇システムそのものが無い。誰かの代わりを誰かが穴埋めできる、という発想がない職種なのだ。自分が診療不能なほどの病気になった場合、子どもが嘔吐したりしている場合にのみ臨時で「申し訳ありません」と休みを取っているのが現状だ。...うちは、年長さんの頃から、熱だけなら子ども一人で留守番である。1年生の役員選出では、1つの委員がどうしても決まらず、突然「じゅびあさん、いかがですか」と話を振られた。何とか状況(シングルマザーで医師であること、さらに母が入院中であること)を説明してお断りさせていただいた。終わってもう片方のクラスに駆けつけると、やはり1つだけ決まっていない委員があり、部屋に入るや否や「△△委員だけ決まっていないんですが、じゅびあさんどうですか」と言われた。2年生の今年も、覚悟して出かけた。この役員選出だけは、1時間仕事を抜けさせてもらうことにしている。「やれない状況」を説明するために、出席しなければならない。みんなやりたくないんだからあなただけが逃れられない、という論理も確かにある。保育園の委員は全員仕事をしているのが前提だから、引き受けざるを得なかったが、あれは元々仕事をしている人を前提に、委員会の日時が決められていた。だが、本当にやりようがない、という場合もある。二人もお世話になっているのだから、悪いという気持ちもあるが、役員をやったら、仕事をクビになるかもしれない、というほどの危機だ。参観会、懇談会、運動会だって、フル出席が難しい状況。低学年のうちに、委員をやっておくほうがいい、というのもある。高学年になると、同じ委員でもさらに委員長など役がついてくるからだ。だが、低学年のうちに「やります」と手を挙げることすらできないくらい、委員会への参加が難しい。手を挙げて自分から引き受けて、「実際定例委員会にはほとんど出られませんけど」と言うわけにもいくまい。それに、うちの小学校は毎年クラス替えがある。高学年になってくると、どうしても役員経験者が多いクラスと少ないクラス、偏りが出てくる。多いクラスに当たってしまうと、一度やったのに...ということも、あるようだ。うちなんて双子だから、どっちかがそうなる可能性が高い。役員、委員選出に出かけると、妙に乳幼児の出席率が高い(笑)。「うちにはこんな小さい子どもがいるので、難しいです」というアピールだ。小学校まで車で送迎してもらい、「さあ、降りまちょーね」と赤ん坊を下ろしている母親を毎年見る。送迎する身内がいる、ということは、選出の時間くらい子どもを看ていられる身内がいる、ということなのだが。そんなこんなで今年も緊張して出かけたが、あれよあれよと言う間に全ての委員が決まってしまい、慌てて隣のクラスに移動したら、そっちも終わっていた。あんなに電話で脅されたのは、何だったの。...どうも、前もって今年は誰が引き受ける、ということが決まっていたようだ。周囲の母親が「今年は●●委員は★★さんだって」とヒソヒソ話しているのを聞いた。私は母親同士の付き合いには疎いので、根回しとか考えてもいなかった。ああいう委員というのは、何故か、積極的にやりたい!と手を挙げる人がいる。いや、いてくれるから助かる。あと、本当はやりたいんだけど、出しゃばるように見えるのもイヤなので、「誰もやらないのなら、私がやらせていただきます」と言う人。誰もやる人がなく、なかなか選出が終わらず、いよいよクジで、となった時にその緊張感?に耐えられず、「それならまあ、私でよければやります」と言ってくれる人。それから大多数の、出来る限りやりたくないという人。それと、私のように、本当にどう逆立ちしても、やりようがない、という人。双子だから、2年やるというのではなく、せめて、1年で済ませたい。委任状のクラスでクジに入れられ選ばれ、もう片方のクラスでも引き受けていたでは困る。というより、1年だろうと何だろうと、選ばれてしまったら本当に協力できない。これから毎年、2人の子どもが高校を卒業するまで、この憂鬱が続くのだ。
2007年04月17日
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その日、私の出勤を待っていたかのように彼の伯母さんからという外線通話が入った。彼がとても慕っていたため、よく話題に上ったユーモアのある人だ。彼の診察に初めて同伴していらした時に「あなたが噂の伯母さんですね」「はい、私が噂のお伯母さんです」という会話をしたことを、伯母さんも覚えてくれていた。入学式は一昨日終わったはずだし、調子が急に悪くなったのも考えにくいなと思い、繋がせると「先生?じゅびあ先生ですか?」といういつもと違う調子の声が耳に飛び込んできた。「先生、U、Uがね、死んじゃったの!」「えっ、そんな...どうして、どうしたの...そんなことする理由、何も無いじゃない。」「入学式は普通に出てね、来週から授業だって、GWにはこっち帰るって話もしていたの。美味しい店を見つけたから、あっちでご飯を食べようって約束もしていたのよ。なのに、ついて行った妹が留守した隙に飛び降りてしまったの。」「『飛び降りろ』って幻聴が聞こえたとか症状が出て、ってことはないでしょう?悪化した兆候はあったの?」「それは絶対ないと思う。すごく落ち着いていて、前の夜も妹とテレビを観たり、遊んだりして大笑いして枕を並べて寝たっていうもの。少しでもおかしいところがあったら、妹はあの子を一人置いて出かけたりしなかったはず。」「お母さんは、本人は帰ってきたの?いつ帰ってくるの?危ないからお母さんから目を離さないでね。」「昨日のうちに警察も入ったみたいだけど、夕べ妹は取り乱して夫にも連絡できない状態で。まだ今日は連絡取れていないのよ」「とにかく、詳しいことが判ったらすぐ連絡ください。ずっと待っていますから。」外来へ降りるエレベータの中で、怒りと涙がどっとこみ上げ、一人壁に寄りかかってボーっと天井を眺めていた。あのお父さん、お母さん、大好きな伯母さん、おまけに私まで裏切って、何てことを。入学手続きして、マンション借りて、新生活用品とスーツ揃えて、入学式も行って。お母さんも泊まれるようにって、少し広いところ借りて。これからあなたを失ったお父さんお母さんは、どうやって生きていくのよ。私だって、何のためにここまで治療をしてきたのよ。それでも、その日の診察は普通にこなさなければならなかった。それが仕事だから。午後になり、伯母さんから再び連絡が入った。お母さんが横にいて、私と話したがっていると言うので、代わってもらった。「Uね、大学に受かって安心した気持ちはあったけど、自分が本当に行きたいところには受からなくて、自分で納得はしてなかったんだと思う。自動車学校も行ったけれど、なかなか次の段階に進まなくて、自分の思うとおりにいかないことが、少しずつあって。時々、こんな病気になっていなかったら、今頃大学生なのかな、って言っていたこともあった。病気の症状でってことは、絶対ないです。先生、じゅびあ先生には本当に頑張って頂いたのに、こんなことになって、申し訳なかった...。そんな、先生いらっしゃって下さるなんて、お忙しいし、遠いのだからご無理なさらないでください。」涙ながらに話すお母さんに、電話を受けた診察室でもらい泣き。翌日、私は伯母さんから聞いておいた通夜会場に出かけた。Uさんの死因は伏せられ、事故で亡くなったということになっていた。焼香の順番を待つ列に並び、祭壇に飾られた彼の笑顔を見た瞬間、涙で身が震えた。入学式だけしか行っていない大学名の入った花輪が悲しい。棺の中の彼は、私がガツンと鎮静をかけて眠らせていた時と同じ穏やかな顔だった。焼香して手を合わせたけれど、とても「ご冥福」なんて祈れない。「冥福なんて祈れるか、このバカたれ」と彼に向かって心の中で叫んでいた。ご両親に向かって「お父さん、お母さん...」と言った後、ぐしゃぐしゃで言葉にならない。ご両親がそんな私を見て、抱きかかえるように肩を叩き、「先生...」とともに号泣。「先生、びっくりさせちゃったね。ショックだったよね。先生あんなに一生懸命やってくださったのに、申し訳ない。僕は先生に一生感謝する」とお父さんがおっしゃってくださった。「こんな、お父さんお母さん裏切って先に...」周囲を気にしながらもやっとそれだけ言葉が出てきた。伯母さんが声をかけてくれたので、彼の思い出話をしながら通夜がひと段落するのを待った。お母さんや伯母さんがUさんの小さい頃からの写真を、見せてくださった。ご両親が今よりずっと若くて、幼い彼を肩車したり、旅行先で手を引いたりしている姿。カメラに向かってピースサインを作る、お茶目な男の子。彼がどれだけ宝物のように慈しまれてきたかを思うと、ポタポタ音を立てて涙がこぼれた。「これ病気になる前なんですよ。高校生の頃」と見せてくださった写真の彼の笑顔は、私の知らない彼の笑顔だった。私は、病気になってからの彼しか知らない。私は彼の笑顔をよく知っているつもりだったけれど、写真の笑顔とはどこかが違った。私は彼の病気を治療し、症状を完全にコントロール下に置き、普通の生活に戻したつもりだったけど、そう思っていたのはひょっとしたら私の独りよがりで、彼にとってはどこかが、何かが違っていたのかもしれない。その場にご両親と、眠る彼と、私だけになったとき、お父さんがおっしゃった。「遺書も、何も遺していかなかったんです。本当にコイツはバカだよなぁ。先生がいらっしゃらなかったら、もう、あの時私たちはUを失っていたんです。こんな静かな死に方をしなかった。もっと悲惨な最期だった。先生に、この子は大学生にしてもらったんです。」お母さんも「あの時は、到底普通の生活に戻れると思わなかったのを、戻していただいて...」と言ってくださった。「私、手を合わせてご冥福なんてとても祈れなくて...今日は彼に怒ってやろうと思って来たんです。こんなことして、みんなを裏切って、絶対許さないからね、って。」お母さんが棺の中の彼の頬を撫でながら言った。「ほら、U。じゅびっちーが来てくれたわよ。許さないってさ。起きてきなさいよ。」目の周りが涙やけするくらい、帰り道も人目を憚らず泣いた。●●大学に入れなかったとしても、どうしてせめて1ヶ月辛抱してくれなかった。ここまで長く頑張ってこられたあなたが、どうして。健康な子でも第一志望に入れなかったというのはショックだから、それは分かる。でも1ヶ月もすれば、結構適応しただろうし、1ヶ月くらい授業を受けてからやっぱりもう1浪する、と言ってもよかった。1時間も授業を受けず、死ななくてもよかったじゃない。せめて死にたくなっちゃった、って病院に電話くれたら「すぐ帰っておいで」と言ったのに。「死なない?死なない?」って薬をのむのも怖がったくせに、死ぬ勇気なんてなかったくせに。彼にもしもう一度会うことが叶うなら、胸倉を掴んで怒ると同時に、訊いてみたい。私の治療はどこか間違っていたの?もし彼が、あそこまで回復しなくて、もっと人格水準も下がって欠陥状態で帰れなくなり、病棟に何年も入院し続けていれば、今も生命は保たれていたかもしれない。そのほうが、よかったと言うの?どうしたら、よかったの?あなたはどうして欲しかったの?それも訊けない今、彼がもう一度現れて、治療をすることがあるとしたら、やっぱり私は同じようにしかやれないだろう。普通の日常生活を送れるようにすること、家族と過ごせるようにすること、進学や卒業を可能にすること、症状をコントロールして仕事に就けるようにすること。精神科治療の目標は、それしかないのだから。
2007年04月16日
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桜の舞う頃、思い出さずにいられない患者Uさん。いつも忘れられない患者さんだから、思い出すというのは少し違う。初めて会った時、彼は有名一流大学を目指す、背の高い涼しげな目元の少年だった。明らかな幻覚妄想状態で、放置自動車にそのへんの散水ホースを巻きつけ「警察に届ける、持ち主が現れなければ、半年後には自分のものになる」と言っていたところを保護された。一晩親と過ごしたが、夜中に家を出て「ここはどこだ、何かおかしい。変わってしまった」と歩き回り、道々家の鍵だの、大事にしていたCDだのを捨ててきてしまった。探し当てた両親が翌日連れてきた時には「××(父親の名前)を殺してやる」と言い、「俺は●●大学に行くんだ」と何かにつけて喚いていた。そんなだったから即日入院させ、家族との面会も当面制限せざるをえなかった。入院したその日の夜、当直をしていると「Uさんが拒薬しています」と看護師からコールがあった。部屋を訪ねて服薬を勧めると、彼はボックスティッシュの箱をサイコロのようにころころと投げては転がした。「○○製紙って書いてある。知ってる?水に溶けません、流さないでくださいって。」そう言ったかと思うと突然そのボックスティッシュを拾い上げ、タオルやら、カップやらの上に積み木のように重ねて、何度も落としてみせた。そして私の足元を見て「その靴、どっちがブレーキ?どっちがアクセル?」と尋ねた。「Uさん、とにかく薬をのもうよ。のまないとよくならないし、帰れないよ。」私が声をかけ、看護師の一人が水の入ったカップを持ち、彼の口に薬を入れようとすると、「自分でのむ」と言う。彼の手掌に薬を載せると、彼はじーっと薬を眺めて、「これのんだら、死なない?死なない?」と私に尋ねる。私は笑って「死なないよ。保証するよ。」と答えた。よくある他の患者さんのように「じゃあまずオマエがのんでみろ」とは言わなかった。彼は看護師の手から水の入ったカップを受け取り、薬をのもうとしたが、何度思い切っても、口に入るに至らず、手がブルブルと震えた。のもうとはしてくれているんだ、でも生まれて初めてのむ向精神薬が本当に怖いのだ、無理ないな、と思った。突然、思いついて私は叫んだ。「●●(大学名)一気、いきまーす!」ハイテンションな手拍子に、看護師も合わせた。「最初に3つ!もひとつ3つ!オマケに3つ!それ一気一気...」彼は薬とカップの水を一気に飲み干し、高々と拳を突き上げた。後から訊くと、数日間看護師たちが同じようにして、服薬をさせ続けたとのことだった。無人のナースステーションに隙をついて侵入し、施錠された職員通用裏口の前で電気錠をいじっているところを職員に取り押さえられてしまったこともあった。取り押さえられて大暴れしたので、私が出勤した時には当直指定医の指示で保護室(隔離専用の、室内にトイレがあり余分な家具もシーツも何一つ無い部屋)に入れられ、中で自称「スーパーサイヤ人」になっていた。看護師たちはUさんが問題患者であるという意識だったようだが、私は「ナースステーションの施錠忘れによって当たり前に起きたこと。自らの意思に反して入院させられている患者さんは、誰しも隙があればエスケープしたい。結果的にそのミスによって、彼の不穏興奮性を誘発してしまったことが問題」と厳しく諌めたために、暫く主治医への風当たりが強まった。ご両親はこんな息子さんを当然のようにとても心配していた。家族面談のたびに「よくなるということはあるんでしょうか?大学進学どころか、とても普通の生活ができるようになるとは思えない。率直に言って治るんですか?」と父親が尋ねた。私はいつもこう答えた。「正直、治るのが難しい病気であることは確かです。服薬が要らなくなるのを完治とするなら、完治は無いでしょう。でも、私の患者さんで、服薬で完全に症状をコントロールし、日常生活を普通に送っている人は何人もいます。皆さん進学したり、仕事をしたりしているんですよ。お薬への反応性も個人差があるので、彼が必ずそのレベルまで行く、というお約束は正直できないです。でも、私は大学進学も含めて、彼が普通の生活を送れるようにする、ということを目標にして治療を行います。少なくとも、私はそうするつもりでやっていますよ。」治療が進むと病状は波を描きながらも、意味不明の会話は目に見えて減っていった。「じゅびっちー、結婚しよーぜ」「★★ってラーメン屋(時に、お好み焼き屋)が美味いんだ。食いに行こうよじゅびっちー」私のことを先生なんて呼んだことはほとんどないので、よく年配の看護師に注意されていた。「Uくんのオゴリなら、遠くても行くわよ」「えーっ、じゅびっちー稼いでるだろ。じゅびっちーのオゴリに決まってんじゃん」「そんなら行かないよー」そんな軽口をいつも私と叩いていた。未成年のくせに、他の患者さんにタバコを教えられてしまい、こっそり個室で吸っては叱られた。病院食のメインディッシュはボリュームが少ないから、当然若い男の子には物足りない。「じゅびっちー、肉が食いてぇ!」と時々言っていた。「今日のお昼は唐揚げだってよ」と言うと「やったー!唐揚げ大好き」と無邪気に喜んだ。外泊した時に、夜中に歩き回ったところを父親と歩き、鍵やCDの行方を尋ねて回ったが、ついに何ひとつ発見されなかった。奇異な言動がほとんど見られなくなったところで、退院。入院して2ヶ月ほどが経過していた。外来通院に切り替えて、まもなく受験シーズンがやってきた。まだまだ内服薬が多くて、睡眠時間も長い。ほとんど勉強できていなかったので、さすがにその年は無理だろう、と私も思っていた。本人も、前に出来たはずの問題が出来ない、勉強してもすぐに忘れてしまうと言っていた。結局翌年、彼は予備校に通い始めた。彼はよく頑張っていた。相変わらず「じゅびっちー」と言っては診察室に入ってきた。一度呼び方を変えてみる、と「じゅびあすゎーん」と入ってきたことがあったな。私が訊くといつも「勉強?やってるやってるぅ!」と笑った。模試で、●●大学こそ無理でも、いくつかの志望校A判定をとってきた。「じゅびっちー、そのペン見せてー。モンブランじゃーん。じゅびっちカッコイイー!受かったらそれくれる?」「やだよ。やんないよ。」健康な若者でも、朝から夕方まで予備校の授業に出るというのは根気の要ること。帰宅するとすぐ眠ってしまうのを、母親はかなり気にしていた。「先生、予備校から帰ると疲れるのかすぐに眠ってしまうんです。もう少し勉強したほうがいいと思うんですけど。それに集中力が前に比べて無いって...薬のせいでしょうか?」私は母親に、「彼は一生懸命やっていますよ。のほほんとしているように見えても、実は人一倍努力しているはず。欲をかかず、見守ってあげましょう」と繰り返し話した。だが、母親は自責感が強く、何度かこんなことを言っていた。「私が健康に成人させてあげられなかったせいだと思うと...こんな病気にさえならなかったら、今頃...」私は母親に決してそれを本人に言ってはいけない、あなた自身考えてもいけないと諭した。1年がかりで、少しずつ慎重に薬を減らし、極期に比べれば1/2量ほどになった。一度も幻覚妄想が出現することは無く、平穏な日々を過ごすことができた。そして3月、●●大学は無理だったものの、受験した大学のひとつに合格した。「じゅびっちー、薬のんでるとさ、酒飲んじゃいかんって書いてあるじゃん。大学入るとコンパとかあるじゃん。本当にダメなの?1滴も?」私は笑いながら答えた。「医者の立場としては、ダメって言わざるを得ないよ。まあ、20歳になって普通に生活していれば現実には、ね。1滴もなんてあんまり細かい野暮なことは言わないけど、ヘロヘロになるまで飲んではダメよ。」彼は新しく決まった下宿の話や、高校の同窓会の話なんかを次々にしてくれた。治療の手を離してはいけない、と思っていたので、服薬を続けること、とにかく状態が変わらない限り母親が薬をとりにくること、変われば通学どころではないのですぐ受診すること、授業の休みに合わせて本人が来院することを約束した。「何事もなければ次は夏休みかな?元気でやんなよ」と言う私に「夏休みかな、GWには一度帰るけど、病院休みだろ」と言う彼。じゃあなっ、と彼は片手を上げて診察室を出て行った。
2007年04月15日
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医者の筆記用具、というとまず一般的なのは製薬会社名や商品名入りのボールペン。MR(医薬情報担当者)さんたちが無料で配ったものである。確かに病棟で、診察室で、使ってそのまま忘れてしまうことも多いが、紛失しても探す必要が無い。研修医時代は、そういった筆記用具を使い続けていた。その後、大学合格時にもらって引き出しにしまいっぱなしになっていたボールペン達の出番となった。軸の細いモンブランにパーカー、ミキモトの真珠入り...。今は、といえば筆記用具には結構こだわっている。精神科医は、とにかくカルテ記載量が多い。肩も腕も手も痛くなるくらいだから、書きやすいもの、疲れにくいものを選びたい。さらに、「筆記すること」そのものに楽しみを覚えるような道具であればなおよい。筆記用具の軸の太さ、グリップの良さ、重心、筆圧と全体の重さのバランス、デザイン、インクそのものの粘り。現在カルテ書きに使用しているのが、モンブランのスターウォーカー、100周年記念モデル。ボールペンでなく、万年筆だ。インクはレーシンググリーンにしたかったのだが、某空港免税店でインクカートリッジの買い貯めをしようとしたら、黒しか取り扱いがなく、普通にブラックを使っている。モンブランのブルーブラックは公文書に使えるほど水に強いが、粘りが強く特殊でお手入れに注意が要るそうなので、未体験。連休で使わずに数日置いて、ペン先が詰まったりしたら大変だし(ペン先交換には日数とお金がかかる)。キャップの頭、透明樹脂の中に封じ込められているのは、ダイヤモンドのホワイトスター。無料サービスだった時にネーム入れをしてもらった。表面にモンブランの山の絵が刻まれた限定ペン先は18金で、ほどよい柔らかさ。白衣の胸ポケットに小さいダイヤモンドがひとつ、というのも宝飾品をあまり身に着けられない医師としては、アクセ代わりの感覚で楽しい。使わない時は必ず立てて休ませ、月に1回くらいは、キャップの中で結露したインクを綿棒で拭き取り、カートリッジ交換時にペン先を洗浄、乾燥する。いかにも「道具」という感じ。難点は、カートリッジのインクが1週間(勤務日数からすれば5日)もたないこと。ちょっと沢山話す患者さんの記事を記載すると、3日で「もう無いの!?」ということも。マイスターシリーズなら、コンバーター吸引式なのでボトルインクが使え、もう少し経済的だった。万年筆にする前は、ボールペンのほうのマイスターシュテュック、「ショパン」のプラチナラインを使っていた。今こちらのペンは、診断書などの書類用。愛用していたのだが、マイスターの万年筆を使っているドクターに「モンブランはボールペンもいいけれど、やっぱり万年筆のメーカー、使ってみないと良さがわからないよ」と勧められ、前述の100周年記念モデルを買ったのだ。こちらのボールペンもやはり優れもの。軸の太さ、グリップ、重さバランスは言うこと無し。何が違うって、ボールペンのペン先、つまりボールそのものが違う。非常にインクの出が滑らかで、ボールペン特有の「カリカリ感」がない。普通のボールペンは紙質によってボールが引っかかることがあるが、それがない。自然にスーッとインクが紙に乗ってくる。ひとつ難点は、インクの出が滑らかすぎて、カーボン複写の書類では下に全く写っていなかった、ということが時々あること。元々筆圧が高い私だったが、ショパンはペンの自重だけでボールが滑らかに回転するので、力が要らなくなってしまったのだ。このペンは軸の上半分を回してペン先を繰り出す構造だが、繰り出す瞬間に音もなくクリックされる感触を密かに手で味わうのが好き。私に万年筆を勧めてくれたドクターは、コンバーター式の万年筆を愛用中だが、ボールペンはマイスターシリーズでは物足らないそうで、スターウォーカーのメタルラバーを使っている。メタルラバーの金属のラインが、デザインとしてだけでなく、自然に手の滑りを防ぐと言う。一度借りて書かせてもらったが、メタルラバーは手の小さい私にはやはり軸が太くて、重い。物書きでもないのに確かに高価だけれど、筆記業務の多い人は道具を選ぶと疲れが違う。書くという動作そのものも楽しくなるので、試してみて。
2007年04月14日
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急性腹症、という言葉を一般の方は聞き慣れないかもしれない。読んで字の如く「急に腹部症状が出たもの」ということで、平たく言えば、急にお腹が痛くなった、という意味と思ってもらえばいいだろう。腹痛といっても痛み方にもいろいろある。疝痛と言われるチクチクする痛み、鈍痛と言われるドーンと重い痛み、他には押さえると痛い圧痛、押さえて離した時に痛みが増強する反跳痛など。問診は基本。痛む部位だけでなく、痛み方、他の随伴症状(嘔吐、下痢、発熱...)などから疾患を鑑別していく。それらの情報から、あと何と何を鑑別しなければいけないのか、を考えて必要な検査を組み立てる。恵まれた環境の総合病院だと、まず検査ありき、という方向になりやすい。オーダーさえすれば検査結果が出てくる、画像診断が出てくる、という環境にいると、つい検査結果が出揃ってから、診断を考えやすいもの。これが必ずしも悪いこととは思わない。だが検査結果だけ見て、患者さんの顔もろくに見ていない、話もろくに聞いていない、聴診器ひとつ当てない、という医師も現実に増えてきている。単科の精神科病院という恵まれない(?)環境にいると、院内でやれる検査は限られている。血液検査ひとつだって外注だからすぐに結果は得られないし、X線写真ひとつ撮るにもまず現像機の電源を入れて温まるのを待ち(冬場は30分くらいかかる)自分で撮影、現像までやらなければいけない。しかも所詮精神科の医者が撮影するんだから、なかなか放射線技師さんのように一発で上手い写真は撮れない。余分な被爆をさせないという観点からよくないことに決まっているが、ピンボケだったり、撮影タイミングが悪かったり(大きく息を吸って、止めて、という指示自体に従えない患者さんだと、こっちで呼吸のタイミングを見てシャッターボタンを押す)、思った場所がうまく撮れていなかったり(はみ出した...)、撮影しなおし、というのもしょっちゅうだ。それでも、診断のために必要なら、汗だくになって撮影に臨む。院外受診にかけようとしても、必ずしも家族が飛んできてくれる患者さんばかりではない。身寄りが無くて、ただでさえ人手薄の看護スタッフをつけて受診に出さなければならないケースも多いし、そうまでして受診させても、「(本来専門的治療が必要だけど、精神科の患者さんだから、あなたのところで)様子を見てください」だけで帰されることも多い。そうなると、自分の五感で、いかに「院内で、もしくは自分の手に負える状態かどうか」「今すぐ外に受診させなければいけないか、夜間なら明日までは様子を見られるか」を判断するのが重要になってくる。院外受診にかけるときも、「ある程度切迫していて相手が引き受けざるを得ない状況」を見極めて出すことが大事。一度ひどい断られ方をしてしまうと、もうその患者さんについて依頼できなくなってしまうから、タイミングが肝心なのだ。悪性症候群(抗精神病薬の生命に関わる危険な副作用)を起こした患者さんが、治癒後に引き続き誤嚥性肺炎を起こし、さらに軽快後に突然腹痛を訴え、嘔吐した。精神症状がとても悪く、行動制限をしている患者さんだったから、ずっと院内で診てきたが、精神症状がよくなり疎通がとれるようになった数時間後の出来事だった。すぐに診察に走ったが、たまたま院内に内科医がいた日で、即腹部X線撮影を頼んだ。即頼んだのは、それだけの腹部所見があったから。明らかにお腹が硬い。血液検査を出そうとする様子がないので「先生、血液も出したほうがいいんじゃないでしょうか」とつい言ってしまった。撮影が終わると、内科医が「これで様子を見ましょう」と点滴指示を出そうとしていたが、患者さんはますます顔色が悪くなってくるし、痛がり方も尋常ではない。「ここでやるのは、まずいんじゃないかなー」と思うが、こちらはしがない精神科医、相手は内科医、正直遠慮してしまう。困ったな、と思っていたところで血液検査(と言っても院内で返ってくるのは末梢血だけだ)の返事が届く。白血球は15000超え。もともと多血症気味だったので、正常範囲とはいえヘモグロビンが数日でガクッと下がっている(ずっと肺炎だったから、数日ごとにデータを取っていた)。「先生、ダメです。これは必ず何かあります。送りましょう!」結局自分で救急車を呼んで、力ずくで総合病院に叩き送った。通常なら相手の精神科へ入院依頼をかけてから(身体の病気の入院判断はできないわけだから、順序としては不満だが、たいてい相手からそれを要求される)、というのが順番なので、ついていった看護師はずいぶん相手先外科で文句を言われたらしい。「どうしてわざわざこんなところまで連れて来るのか」「精神科を通してもらわなければ困る」などなど。だが、結果としては正解。精神科へお伺いを立てて断られたりしている場合ではなかった。彼は十二指腸潰瘍の穿孔で、緊急手術になったのだ。後になって、腹部レントゲン写真を見ると、右横隔膜下にはうっすらとフリーエア(消化管に穴が空くと、そこから空気が腹腔内に入るので、立ってレントゲン写真を撮ると、横隔膜の下に溜まった空気が写る)があるではないか。今でこそこの患者さんは病棟で自慢のカラオケを歌っているが、自分に生命の危機があったことには気づいていないだろうな。
2007年04月10日
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ブログを見てご心配いただいたと思うけれど、うちの相棒は頑張ってくれている。夕べからサラダ菜を7枚、パセリを1束、短い大根の茎を1本分、固形のラビットフードも、普段の半分くらいは自力で食べた。今朝にはケージの中をよたよたしながら跳ねていたし、後足を伸ばして耳を掻こうとしたり(うまく届かないので私が掻いてやっている)、顔を洗ったりしている。持論によれば、「草食動物は弱りかけたら簡単に死んでしまう生き物」なので、うちの相棒の生命力というか、精神力はものすごいなーと思う。かぐや姫のように月からお迎えが来て、るーなが車に乗りかけたところを引き摺り下した私。彼女なりの生への執着なのか、私の声が届いたのか。とにかく、まだ私と一緒にいたいと思ってくれているるーなへ。本当にありがとう。明日は多分本当にこれで最後になるだろう動物病院へ歯の処置に連れて行くつもり。歯が伸びてしまうと、余計に食べにくいものね。うちの相棒は、桃が大好きだ。うさぎのお腹を考えると、桃はあまりよくはないが、あまりに好きなので、誕生日には決まってプレゼントすることにしている。若い頃は、スーパーの袋を提げて帰ると、匂いを嗅ぎつけて走ってきて、桃が透けて見える袋と格闘していた。昨日も今日も、当たり前だけどまだ桃は出ていない。もう一度、桃を食べさせてやりたい。ハシリで高くても、買ってやるのに、と思いながら毎日見ている。今年は暖かいんだから、早く出てこないかな....。
2007年04月05日
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るーながケージの中で、足を投げ出して倒れていた。お腹が動いていたのでまだ生きているのは分かったけれど、片目だけ半開きで動かない。触れるのに少し勇気が要った。夜中に動けなくなったようだ。夕べ掃除をしてからあまり汚れていなくて、倒れたまましたらしい排泄物がお尻の付近にだけ、落ちていた。そっと起こしてみたが、尿失禁してまた力なく倒れてしまう。出勤前で時間の余裕が無かったが、「ああ、よく頑張ったね」と抱き上げた。それでも「るーな、るーな、分かる!?」と大きな声で呼びかけると、ぴくりと耳が動いた。呼吸もいつもに比べてゆっくりで、鼻がひくっ、ひくっと断続的に動く(いつもは常にひくひくと呼吸に合わせて動いている)。身体が軽くなってしまって筋肉の張りが無い。夜から水分も口にしていないのだろう。呼吸が止まりかけ、時々ぴくぴくと痙攣している。このまま腕の中でだろうな、と思い、子どもたちに「るーなちゃん、いよいよお別れだよ。よく頑張ったんだからありがとうって言ってやってね。あなたたちより前からいるんだから、人間でいうと120歳くらいの計算だから、もう仕方ないのよ。」と簡単に説明。急いでリンゴを薄くスライスして、仰向けに抱き上げたまま近づけると、シャクシャクと音を立てて少し口にしてくれた。ラビットフードも、数粒は噛んでくれた。瞼を閉じて眼脂がこびりついてしまっているので、目をこじ開けてマイティアを点眼、きれいに拭いてやると、閉じていたほうの目も開いた。その様子を子どもたちが心配してガラス越しに見守っている。額と額をくっつけて「るーな!」と呼ぶと、耳が立ち、目が開いた。意識がもう無かったんだ。戻ってきたんだ。もうこれ以上食べない、というのでケージの中に起こした状態で座らせると、よろよろしながらも何とか倒れずに座っている。気になるけれど、時間がない。「お昼に一度帰るからね!」と言って仕方なく家を出た。昼休みは食事もそこそこに飛んで病院を出た。また、倒れているだろうな、と覚悟して家のドアを開けた。るーなはあまり動かないものの、ちゃんとまっすぐ座ったまま、目を丸くして待っていた。少しリンゴを食べた痕跡もあった。小松菜の葉の部分(小松菜も青梗菜も、小さい頃から葉の部分しか食べないワガママなお姫様なのだ)を入れてやると、自分から進んで食べ始めた。夕方私が帰るまでは、何とか待っていてくれそうだ。思えば飼い主孝行なうさぎだ。もし、温泉旅行に行っている間に死んでしまっていたら、私は覚悟していてもやはりひとりぼっちで死なせたという自責の念に駆られたと思う。もう、呼吸が止まりかけていたのに、苦しいだろうに、呼びかけると戻ってきてくれた。本当にいい子だね。気が気でないけど、普通に仕事をしている。今も、面談の家族待ち。正直、早く勤務時間が終わって欲しい...。
2007年04月04日
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医者の不養生、とはよく言ったものだが、忙しいとついつい自分のことは後回しになりがち。そうでなくても、人間というものは、何かあってもできるだけ「大丈夫」「何もない」と考えようとする傾向にある。私も、肺がんになった母親からしょっちゅう「検診だけは行きなさい」としつこく言われるが、実際平日にどこかの勤務を休んで総合病院のドックを受ける、などということは難しい。何か気になる自覚症状でも出ない限り、とりあえず問題先送りしてしまう。だが実際には医者もただの生身の人間。同じように風邪もひけば、インフルエンザにも罹れば、うつ病にもなる。患者さんにタバコを止めるよう、体重コントロールをするよう勧めるのも、自分のことを棚に上げて、あくまで「医師として」アドバイスしていると思ってもらわないとね。私も何人か、職業が「医師」である患者さんを知っているし、もちろん私自身が患者として医療機関を受診したこともある。まだ学部の学生だった頃に、2週間ばかり入院したことがあるけれど、手術したその日、一般の病床が満床で、私はICUに入れられてしまった。周囲は私より重症な患者さんばかり。あちこちで異変を知らせるアラームが鳴る。私は落ち着かなかった。手術後の痛みもあったし、まだ歩けないので、トイレにも行けない。マーゲンチューブ(鼻から喉を通って胃まで入れた管。口から食事が摂れない時に栄養剤を入れるため、逆に腹部の手術をした場合などは、胃を空にしておくために入れたりする)が入っていて、鼻や喉が痛い上、唾をのんで喉が動くたびに嘔吐反射が起きて苦しい。緊急手術だったし、思ってもいない病気だったし、事態が受け止めきれていなかったし、トイレには行きたくなるし、眠ることもできずにいた。トイレに行けないから、とオムツを当てられているのは判ったが、普段普通にトイレで用を足している人間が、急にベッド上でオムツの中に排尿しろ、と言われてもなかなかできるものではない(そういう経験がないと分からないので、医療機関の職員の中にはそれを理解できない人も現実にいる)。だが、私は遠慮して、看護師を呼ぶことが出来なかった。どう見てもここにいる中で自分が一番軽症で、看護師はあちこち走り回っていた。トイレも、喉ももう限界。少しでも身じろぎすると創が痛む。夜中の3時を回った頃だろうか、ようやく一人の看護師が私が眠っていないのに気づいた。「じゅびあさん、眠れないの?痛む?無理せずお薬を使っていいのよ」私はトイレが限界なので尿を採ってもらうことだけを何とか頼み、鎮痛剤や睡眠剤の使用は拒否した。痛み止めや睡眠剤を使って、病気がよくなるとは思わなかったし、痛みがあれば痛みがあるほど、自分の身体が回復に向かうような気がしていたからだ。また、急に発病して手術になったこと、思いも寄らない結果であったことを受け止めきれず、大きなショックを受けていたが、そのことも最後に退院するまで話せなかった。医学部学生で、多少の知識もあるはず、と思われているだろう、という意味のないプライドが邪魔して、私は毎晩看護師に隠れて泣いた。だからこそ医師としての私は、患者さんとしてお医者さんが来ても、取り立てて特別扱いをしないことにしている。最初は相手のプライドも立てて「●●先生」と呼んだりするが、継続した治療に乗ってからは「●●さん」としか呼ばないようにもしている。失礼の無いようにしなければならないのは、医者だろうとそうでなかろうと同じ。むしろ医者が患者さんとして来た時くらい、「安心してただの患者さんでいさせてあげたい」と思うのだ。もちろん、診断や治療内容の説明をする時には、若干医学用語を使ったり、素人さん向けの説明を省略したり、処方を少し変更するたびにカルテラベルの控えを出してそのまま渡したりという気は遣う。医師に限ってマメに処方内容を渡すのは(通常、少しづつ処方をシフトする時には少しずつAからBに替えますね、という大まかな説明で済ませる)、患者さんへの特別な気遣いというより、看護師に尋ねられてしまうと「医者を相手に」答えられないからである。むしろ自分のところの職員への気遣いだ。しかし、病棟で医者の患者というのは嫌われることが多い。「オマエなんかじゃ話にならない」というように看護師をバカにするような態度をとってしまう医者。専門用語を出して、職員の知識を試すようなことをしてみたり。自分から「俺はただの患者じゃないぞ」と特別扱いを要求する医者。これは文句なしに嫌われる。真夜中に当直医が出向いても「主治医じゃなきゃ話にならん、主治医をすぐに呼べ」と言った人、「今からすぐに処方を変えろ」とか「今すぐに自分に必要だから××(薬剤名)を出せ」言った人。後は勝手に自分の判断で主治医の知らないうちに薬を持ちこんでのむ人(常識として入院していてありえないことだが、素人さんばかりでなく、医者にも多い)。精神科の病気なんて、誰にでもやれると甘く見ていた身体科の医者が、無茶苦茶な自己処方で向精神薬を使い、どうにもならなくなってから来院されたもの....。いずれにしても、(自分を含めて)医者がひとたび患者になってしまうと、厄介なものなのだ。
2007年04月03日
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週末、母と姉、子どもたちを連れて温泉旅行に行ってきた。選んだ宿は一度以前に行って、みなが気に入った場所。特別に大きい宿でもないからあんまり教えたくないけれど、今回は特別に教えちゃうね。http://www.sekitaitei.com/式部庵、宇治十帖クラスの部屋だと、2家族で行っても十分な広さの上、互いの寝室を通らずにリビングと行き来できるように作られているから、感心する。1度目に出かけたときは母の髪(抗がん剤の副作用で抜けた)がまだ生え揃わなくて恥ずかしがるので、部屋に露天の温泉がついているところとして選んだ。それともうひとつ、これがまた教えたくないんだけれど、ここには最長39時間ステイの、「サンキュープラン」がある。私のように、仕事を持っていて3連休は特別なときしか取れないわ、という人にオススメなのだ。通常温泉旅館に2泊3日しようとすると、初日は14時15時頃から、夕食の18時半頃までにチェックインをしなくてはならない。だが、仕事をしていたら、よほど近くの宿でなければ難しい。2泊3日と言っても、同じ宿で2回夕食をとる必要はない。このサンキュープランは、22時以降しかチェックインできない、というプラン。それで予算的には、1泊2日料金のほぼ1.5倍といったところ。だが翌朝はゆっくり寝坊したり、丸1日現地の観光に回したりできる。東京から夜行バスを使って現地に乗り込むこともできるし、紅葉や花見シーズンの週末でも金曜日の夜中に走れば道路の渋滞を回避できるのだ。今回は、夕食を通り道の天ぷら屋でとってから、さらに移動してチェックイン。前回夜食のおにぎりとフルーツがたっぷり出て美味しかったので、お米は控えめにした。おにぎりに入っている梅干しが異常に美味しいので尋ねると、300g8000円の梅干しとのこと。前回、満腹でおにぎりにはほとんど手をつけられなかったのが今さらながら悔やまれた(笑)。とにかく一晩めはゆっくり部屋の露天に入り、オヤスミナサイ。翌朝食の時間は予め決めておかなくてもよい。起きてから電話で頼み、温泉に入ると出た頃に、六段のお弁当が部屋まで届く。もちろん昼まで寝ていてもOKだ。昼神はよく知っているので私たちは今さら熱心に観光という気分でもない。子どもたちが部屋でネットゲーム(全室インターネットはPCごと完備)を楽しんでいる間に、ロビーで限定の水出しコーヒーをいただく(こういうところで税サ込500円は安い)。初めてであればヘブンスそのはらや伊那谷道中を訪ねてもいい。秋ならば、リンゴ園もいいだろう。今回子どもたちは青木屋さんでアマゴ釣り。炭火で塩焼きにして食べた。アマゴが喉の奥まで針を呑み込んでしまい、とれないところを何度も助けてくださったそのへんのオジサマ方に感謝。外出から帰ると、通常チェックインのときに出されるお抹茶とお菓子(干し柿にクリームチーズが入ったもの)をいただく。それから夕食までは大きいほうの家族風呂(予約も、料金も不要。空いているときに札をひっくり返して施錠するだけ)に入ったり、部屋でインターネットやトランプをしたりして思い思いに過ごす。だがここの夕食はまた素晴らしいので間食は禁物。お造りは予め「海のもの」と「山のもの」を選んでおくが、やはりここは馬刺しと岩魚が入る「山のもの」を選びたい。子どもたちが大人のコースに入る蟹雑炊を食べたがるので、分ける器を持ってきてください、と頼んだらなんと子どもの分を別に2杯サービスで用意してくださった。夕食後は「紫宸殿の宴」。太鼓の音に誘われてロビーへ行くと、今回は能舞台で二胡の演奏(前回は三味線)。「朧月夜」「蘇州夜曲」「もののけ姫」「見上げてごらん夜の星を」「ふるさと」など知っている曲が多く、子どもたちも楽しめた。さらに二晩めも、しっかり夜食が。高菜で包まれたシャケのおにぎりは塩分控えめで、満腹なのに食べてしまった。お花見だんごのように串に刺されたフルーツも美しい。最終日の朝食はぜひ、和食で生卵を。名古屋コーチンの初産み卵を6種類の薬味(柚子味噌、ちりめん山椒、わさび、黒山椒、藻塩、トリ?塩)で頂く卵かけご飯。生卵だと3個つくが、温泉卵だと2個に減ってしまう(別にまぐろの山かけはつく)ので、生卵がオススメ。このコーチン卵を使ったカステラも(1800円と福砂屋の倍だが...)、昔懐かしいカステラの味で、お土産に喜ばれる。お土産といえば部屋にある手ぬぐいも、デザインが素敵なので、忘れずにお持ち帰り(タオルはいけませんよ!)。でも前回のは甥っ子が剣道の授業で手ぬぐいが要る、と持って行ってしまったのだっけ。息子は2泊3日で「もう帰るの?」と残念がる。娘は「いしだに住みたい」と言う。何もしないで温泉に浸かり、美味しい食事を頂いて過ごす楽しみが、この年齢で判るのか?
2007年04月02日
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