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岸見一郎氏は子どもをほめるということも警鐘を鳴らされています。母親が子どもに買い物を頼んで、子どもがそれをちゃんとできたら、「偉かったわね」とほめるでしょう。でも妻が夫に買い物を頼み、夫がそれをこなしたときに、妻は夫に「偉かったわね」とは決して言わないでしょう。これはどういうことでしょう。ほめるというのは、能力のある人が能力のない人に対して、上から下す評価の言葉なのです。「偉かったわね」とほめることが習慣になっている人は、その人が、他者との対人関係の構えが上下関係になっているということなのです。子どもでも大人でも、対人関係の下に置かれることを好む人はいません。ほめられたらうれしいという人がいれば、その人は、自分には能力がないことを他者に認定されたいということであると知らなくてはなりません。このことが分かるとほめられることでは、自分に存在価値があるとは思えなくなってきます。子どもが買い物を手伝ってくれた場合は、大人に接する時と同じように「助かった、ありがとう」と感謝の気持ちを述べるとよいのです。「ありがとう」「助かった」という言葉を聞いた子どもは、「自分は親の役に立つことができたのだ」と認識します。人の役に立つことができるという体験は、自分には存在価値があるのだという認識を持つことにもつながります。つまり自己肯定感を育てることにつながるわけです。自己否定から自己受容の世界に入っていくことができるようになるのです。するとありのままの自分を他人の前にさらけ出すことができるようになります。対人関係は悩みの原因にもなりますが、生きる喜びや幸せは人間関係の中で得ることができることも事実です。人間は一人では幸せになれないのです。「ありがとう」「助かった」というのはアドラーに言わせればヨコの人間関係です。ヨコの人間関係というのは他者を仲間として見るということです。それに対して「偉かったわね」とほめることは、タテの人間関係にあたります。森田理論でいえば「かくあるべし」的生活態度にあたります。「かくあるべし」という理想から現実や事実を見て、拒否、無視、批判、否定するのはまずいやり方です。「かくあるべし」という態度を止めて、現実、現状、事実に寄り添って生きていく態度が大切なのだと思います。ここで岸見さんの言いたいことは、森田理論でいう「事実唯真」を生活の中に取り入れて実践していくということだと思います。(人生の意味の心理学アドラー 岸見一郎 NHK出版 引用及び参照)
2016.02.06
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アドラーは、「人間は目的を達成したいという意志を持って生活している」という。子どもの頃の親のしつけや教育がよくなかったから、自分がうつになり、神経症になったと考える人はたくさんいます。今現在の自分の苦悩は過去の親の育て方に原因があるという考えなのです。アドラーは過去の出来事が、今の生きづらさの原因であるとすれば、タイムマシーンで過去に遡り、過去を塗り替えなければ問題は解決できないことになると言います。だから過去の原因で、現在の悲惨な状況が訪れているという考え方に異議を唱えているのです。アドラーの考えは、現在も将来も親に甘い汁を吸わせたくないという目的があるのだと言います。例えば親が自分の蓄財した財産をあてにしている。親が何もしないで、自分に依存して、楽をして、裕福な生活をしようとしている。そのために安定した生活を確保している自分を利用としている。そんな勝手な真似をさせないという目的達成の為に、親を拒否しているのだというのです。意識的にそんなことはないと思いますが、無意識的にはそのような強固な目的を持っているのだという考えです。また、子どもが、朝おなかが痛くて学校に行けないと言うことがあります。実際に本当におなかが痛くなるのです。お母さんは学校に電話をして休ませるようにします。すると途端におなかの痛みが消えることがあるそうです。これは子どもの方に、学校でいじめられたり、勉強が面白くないから学校に行きたくないという目的があるのです。目的達成の為に、腹が痛いのを手段として使っているのだというのです。他人に腹を立てるのは、相手が自分の思い通りに行動してくれないからです。相手を自分の思い通りにコントロールしたいという目的達成が叶えられそうもない。どうしたら相手が自分の思い通りに行動してくれるか。そのためには今自分は猛烈に怒っているという態度を見せつけることである。相手に暴言を吐いたり、脅迫したり、暴行をすれば相手を自分の思う通りに動かすことができるのではないか。怒りを自分の目的達成のための手段として使っているのです。怒り狂っている相手の態度に惑わされてはいけません。相手はただ単に、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けて、相手を意のままに操ろうとしているということを理解すればよいのです。そういう人はあらゆる場面で、相手をコントロールしようとしていますので、常に人間関係のトラブルを起こしていると思われます。いつも腹を立てている人は、自分の理想と現実との間にギャップを抱えて苦しみのたうちまわっている人なのです。神経質者の場合はどうか。本来与えられた仕事に対して力の限り取り組んでいくことが重要です。でも仕事はしんどい。仕事をするより仕事をさぼる方が楽です。もし高額宝くじに当たればすぐに仕事を辞めて、悠々自適に遊んで暮らしたい。そういう目的があるとすれば、仕事が出来ない言い訳を集めるようになるのです。上司にリーダーシップがないからやる気が出ない。対人関係が悪いので仕事に身が入らない。取引先がわがままなことばかり言うから仕事が前に進まない。失敗したらどうかということが気になって仕事が手につかない。対人恐怖の営業マンは、得意先が自分の提案を拒否して、冷徹に断る。すると自尊心がズタズタにされるから営業ができない。つまり仕事をしたくないというネガティブな理由を集めて、目的達成の為にそれらを手段として利用しているのです。アドラーはこれらの目的は、利己的、否定的、刹那的、非生産的、非創造的、じり貧、破滅的、退廃的な目的だといいます。人に害を与え、将来が豊かになることがありません。本来の目的は、共存共栄、人の役に立つ、将来が豊かになる、建設的、生産的、創造的なものである必要があるといいます。特に人間関係のコツはタテの人間関係ではなく、ヨコの人間関係の構築が重要であると言っています。森田でいえば、人間関係に「かくあるべし」を持ち込まないということです。(人生の意味の心理学アドラー 岸見一郎 NHK出版参照)
2016.02.04
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大平光代さんは壮絶な人生を経験されている。中学校でいじめに遭って絶望する。死のうと思って割腹自殺をこころみる。未遂に終わっても、さらにいじめがエスカレートする。そんな娘を母親は「世間体が悪い」といって突き放した。その後不良グループに加わった。その後16歳で極道の妻になり、背中いっぱいに刺青を入れた。そして新地のホステスとなって毎日酒をあびるほど飲んでいたという。その時代に大平さんという父親の知り合いと巡り合い、のちに養女になった。大平さんが心の支えとなって立ち直っていった。その後宅建、司法書士、司法試験にたて続けに合格する。そして少年犯罪を専門とする弁護士になる。その後大阪市役所の助役に選ばれる。職員の裏金、既得権益に鋭く切り込んでいったという。助役を辞した後は、弁護士仲間と結婚して、40歳で出産された。ところがその一人娘はダウン症の子どもだった。子育ての為に、大阪から1時間30分の田舎に転居して今は子育て奮闘中である。宅建に3カ月、司法書士に2回、司法試験は一発で合格されている。相当能力も高いし、努力家でもあるのだろう。でも私はここでいいたいのは、決して恵まれた運命ではなかった人生のことである。いじめの渦中にいた頃は自殺未遂もされたほど過酷な運命であった。その後の自暴自棄の生活は普通の人にとってはとても堪えがたいものであった。でも自分の運命を呪い、破滅的な方向には向かわなかった。歯止めが効いたのである。そこには大平さんという養父が親身になってめんどうを見てくださったおかげで、心が融解していったようである。現実の自分を認めて、前を向いて生きていくことの大切さを教えてくれた。だから人の力は大きい。神経症で苦しい人も一人で悩まずに集談会に参加してほしい。集談会には数は少ないが親身に話を聞いてくれる人がいる。そういう人を見つけることだ。そしてその人のそばにくっついて森田理論学習を続けることだ。集談会には神経症を克服した後も学習を継続されている方が多い。それは自分と同じような苦しみを味わってほしくないという切なる願いがあるからである。自分の苦しんだ体験と立ち直ってきた体験が役に立つという確かな自信があるからだと思う。さらに森田理論は掘り進めば進むほど自分の人生が豊かになっていくのだ。この2つの視点を支えにして学習を続けているのである。(今を生きる 大平光代 中公新書参照)
2016.02.03
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「叱り方 うまい先生 下手な先生」(関根正明 学陽書房)という本にこんなことが書いてあった。内容を見るとユーモア小話の材料になると思った。先生は生徒が忘れ物をすると不機嫌になる。遅刻をすると精神がたるんでいると言って怒る。授業中少しでもおしゃべりをすると他の人の迷惑になるといって注意する。でも先生本人の方は、チャイムが鳴っても、のんびりと廊下を歩いて教室に行く。そして教科書を開いて「この前は、どこまでやったか」などと進度を生徒に尋ねる。つまり進捗チェックをしていないと同時に、事前の教材研究は全くおこなっていないということだ。学習内容を「ここは試験に出すぞ」などと言って、生徒が赤鉛筆で印をつけるのをおもしろがっている。チョークを職員室に忘れて、「日直はだれだ、あ、君か、それでは君、悪いけど、職員室に行ってチョークを持ってきて」などという。普段は生徒に「忘れ物をするな。忘れ物なんかするのは精神がたるんでいるからだ」などと言い、「自分のことは最後まで責任をもってやりとげろ」と言っているくせにである。しかもそのチョークを持ってきてくれた生徒が、黙ってチョークを教卓にのせるのを「何だ、その置き方は。物の渡し方も知らないのか」などと言って叱る。そんな先生は疲れたと言ってはロクに本も読まない。忙しいとか、疲労をタテにして、飲み屋で飲んで、遅く帰って、後はテレビを眺めてゴロッとしていて寝てしまう。そんな怠惰な生活を送っている先生がいる。そんな先生でも規則違反、規律違反等にはことのほか厳しい。ボタンがついていない。ホックがはずれている。名札が消えかかっている。ベルトが細すぎる。バッチがついていない。髪の毛に油がついている。靴のかかとつぶしをしている。掃除当番をすっぽかす。整理整頓ができていない。宿題をしてこない。学習意欲がない。等々あげればきりがない。まあこんな先生はごく一部だと思うが。でももしこんな先生がいたとすると、会社のパワーハラスメントと一緒である。会社の上司がその地位と権力を利用して部下の人格を否定するような言動を浴びせるのである。部下は上司に怯えて、避けるようになる。ところが上司はしつこく追いかけまわして、これでもかというぐらい痛めつける。その結果うつ病を発症したり、神経症に陥ったりするのである。こういう上司は管理職不適格者である。学校の先生の場合は体力、経験、知識の面で生徒と上下の関係に陥りやすい。立場的にもともとそういう人間関係である。教室は密室であり、そういう環境に放りこまれるということはよほど自己内省力がないとパワハラ上司のような関係になりやすい。問題行動の顛末を子どもが親に話し、PTAで問題視しだすとややこしくなる。こういう先生は森田理論学習をしたらどうだろうか。教科の教え方もさることながら、こちらの方が先だと思う。是非とも「かくあるべし」の押し付けの弊害を学ぶことだ。「かくあるべし」を押し付けると生徒は猛反発する。生徒には生徒なりの思いや考え方があるからである。その自分の思いや考えを聞いてもらえない。そして先生から一方的に指示、命令、説教、非難、禁止、叱責、怒りなどが飛んでくる。地位、体力、立場を利用して一方的にコントロールされることはだれしもストレスを感じる。こんな先生は同窓会に呼ばれることはない。そして理不尽な扱いの数々が昔の思い出話として話されるのである。先生としても卒業して何年経っても、根に持たれて恨み続けられることは気持ちのいいものではないだろう。「かくあるべし」を押し付けない先生は、生徒が不祥事や間違っていることをした場合、事実関係をよく調べる。そしてそのような行動をとった背景を探ろうとする。どんな行動にもその生徒の気持ち、家庭環境、社会環境などの反映である。その生徒の話や言い分を十分に聞こうとする。立場や状況をわかろうとする。生徒を擁護しようとする。その態度は生徒にすぐに伝わる。先生がもしそういう生徒との人間関係作りを重視しだすと、すぐに人気が出てくると思う。子どもを教育することが楽しくなるだろうし、生徒から信頼されるようになる。先生になる時は誰でも立派な先生になりたい。生徒に信頼される教育者になりたいと思っていたはずである。初心に戻ることである。そのために森田理論を活用してほしいものである。
2016.01.15
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怒りという感情は掃き出すと楽になります。行き場がなくなり溜まっていたものを解放するわけですから一旦は楽になります。でもいつも怒りを解放させていると人間関係はめちゃくちゃに壊れてしまいます。それは境界性人格障害の人を見ているとつくづくと感じます。怒りの感情は相手との人間関係を悪化させる厄介者だと考えておられる人が多いと思います。今日は怒りという感情を湧きあがらないようにすることについて、野田俊作氏が興味深いことを述べておられますので見てゆきたいと思います。怒りを発散させれば、怒りという感情はなくなるという考え方は、怒りが行動の原因だと誤解している考え方ですね。原因だからそれを無くせばいいだろうと。つまり怒りという感情だけを見て、憎むべき相手であり、取り除こうとしたり我慢したり耐えたりしている。怒りそのものを目の敵にして対症療法的に対応しようとしているのです。でもこの考え方は間違いです。ほんとうは、怒りは原因ではなく結果なんですよ。相手を自分の思うように支配したいという目的があって、その目的が達成できないから出てくる感情なのです。目的があってそれが叶えられないから怒りが発生してくる。結果として怒りが湧き起っているのです。つまり自分が上か下かというタテの人間関係に固執して、その中で自分が上に立とうとする考え方から必然的に出てくる感情なのです。だから、誤った目的に向かって生きているという根本的な原因を取り除かなかったら、次から次へと怒りはでてきます。このように考えることが重要です。怒りがどんどん湧き起こってくると、私たちの心身はどんどん不健康になっていきます。その怒りは普通内向化して、胃潰瘍になったり、心臓が悪くなったりする。以上をまとめてみると、怒りという感情は人間関係の持ち方の間違いから起きてきているものなのです。人間関係の考え方の誤りから引き起こされている。怒りが自然発生的に湧きあがってくるといいますが、他人を自分の意のままにコントロールしたいという誤った目的があるから出てくることが多いのです。ここが問題なのです。こういうのをタテの人間関係といいます。タテの人間関係では、他人を否定し、ぞんざいに扱う。相手を信用していない。過保護、過干渉に陥っている。自分の善悪良否の基準を相手に押し付ける。対立的、攻撃的になり、力の強い相手からは逃げまくる。自分から人間関係を悪くする原因を作りながら、それによって自分が苦しんでいるのです。そういう他人をコントロールしたい欲求。他人を自分の意のままに動かしたいという欲求。是非善悪の価値判断をする生き方。これらは百害あって一利なしです。別の考え方に取り換えなければなりません。アドラーはこれをヨコの人間関係作りといっております。そのカギとなるキーワードは、相手を尊敬する。相手を信頼する。競争をやめて、お互い同士協力すること。共感すること。理性的に問題解決を図っていくこと。上手に自己主張していくこと。真の意味での平等観に目覚めて、個人の個性を認めていくこと。完全主義をやめて寛容であること。私たちはまずはそういう生き方もあるのだという理解から始めないといけないと思います。これを身につけると配偶者、子供、会社、学校での人間関係ですぐに腹が立つ、怒り狂うことが随分少なくなるのではないでしょうか。(続アドラー心理学 トーキングセミナー 野田俊作 星雲社参照)
2015.12.11
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相手と意思の疎通を図ろうとコミュニケーションをとったとしても、普通は両者には大きな隔たりがあります。それをそのまま放置しているとストレスになることがあります。これは人間関係の悪化の原因となることがあります。今日はそれを解消する道を考えてみたいと思います。その隔たりをどう埋めていくのかを、人間関係療法では教えてくれています。いくつかの改善が必要ですが、前提としては、相手との間にズレが生じていることを認めることです。ここが出発点です。ここでつまずいている人が多い。もともと日本では、会議などでも手をあげて積極的に発言すると、でしゃばりのように思われます。指名されて発言する方が奥ゆかしいというような風潮があります。いつもこんな状態では困ります。人間関係療法のコミュニケーション分析では、「沈黙は破壊的な可能性を持っている」とされています。直接言葉に出して相手に伝えなければ、自分の気持ちは相手に伝わりません。また、私のため息や態度を見れば、私がなにを言いたいか相手には分かるはずだというのも誤解を生む元になります。相手と面と向かって自分の気持ちを素直に話すことが一番です。もしそれが難しければ、次善の策として手紙、メール等があります。でもそれには注意が必要です。その際、森田理論をフル活用することです。まずは私メッセージです。例えば具体例として、夜勤明けの夫に、実父から至急実家に来てほしいと電話が入った。妻が、急ぐ用事でなかったら少し休んでいった方がいいんじゃない。(あなたメッセージ)夫は、うるさいな。俺が行くんだからほっといてくれ。妻は、そうね。でも一晩中寝てないで車を運転するのは危険だと思うの。事故でも起きたら私や子供たち、とても困るの。(私メッセージ)夫 そうだな。2時間休むからあとで起こしてくれ。「私メッセージ」は自分の感じたことや要望を相手に伝えていくということです。それを受けて、相手がどう感じて、どう行動するかは相手に任せているのです。私はこうしてほしい。私はこのように思います。私はこのようにしたい。常に主語は私です。相手を非難したり、コントロールしようとすると人間関係はますます悪化します。相手を否定したり、指示や命令をするのではなく、自分の気持ちを相手に伝えて分かってもらうということが大切です。「純な心」では、感情にはまず第一波が発生するといいます。それはほんの小さなもので軽く見逃してしまうことが多いものです。その次に第二波の感情が襲ってきます。これは、「かくあるべし」で装飾された感情です。普通は第二波の感情で相手とやり取りをしていることが多いのです。森田理論では、そんな時は第一波の感情を思い出して、そこから相手とのコミュニケーションをとりなさいと言っています。手紙やメールで交流する場合には、特に私メッセージと「純な心」は考慮する必要があります。次に「あの人は自分勝手で私の話を聴くような人ではありません。話するだけで対立が深まります。」などと、最初から決めつけていることがあります。私たちは、先入観が強く、事実を確かめることなく勝手に決めつけてしまうことがあります。相手と心が通い合うことがありませんので、対人関係が改善に向かうことはありません。相手をよく観察したり、相手の気持ちを確かめて事実を正確につかむという態度にならないといけません。次にそのズレの段階を見きわめることが大切です。3つの段階があります。ズレの解消に向かって再交渉が可能な段階。コミュニケーションに問題があって交渉自体が行き詰まっている段階。例えば沈黙しあってコミュニケーションが全くない等といった場合です。逆に一刻も早く人間関係を清算した方がよい段階。ズレの解消に向かって再交渉が可能な場合は、相手への期待を見直したり、コミュニケーションの方法を見直したりします。コミュニケーションに問題があって交渉自体が行き詰まっている段階では、コミュニケーションのやり方を改善してゆきます。一刻も早く人間関係を清算した方がよい段階では、否認、絶望、脱愛着のステップを踏んで楽になってゆく道を進んでゆきます。これらについては日を改めて詳しく見て行きましょう。(自分でできる対人関係療法 水島広子 創元社参照)
2015.12.10
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野田俊作氏の話です。結婚前の若いカップルのカウンセリングをやることが多いのですが、彼らの多くは出だしから間違ったことを考えている。つまり相手と相性が良くて、一心同体で、互いに同じことをいつも考えていたら、幸せになれるだろうと思っている。これ一見そうみたいに思えるでしょう。でも、実はこれは支配欲なんです。相手が自分の思う通りに動けばいいなぁと思っているのです。でもそんな人いませんよ。結婚してみればよく分かるけど、夫婦に与えられた課題はいったい何かというと、自分と違った物の見方をし、違った感じ方をする人とどう生きていくか、なわけです。それを、できるだけ自分と同じ種類の人を、と望むから、まず最初に失望するわけですね。この頃の若い女性はとてもバカげたことを考えているのね。働き者で、やさしい男性がいいという。そんなもの、働き者だったらやさしいわけないのよ。どちらか片方しか取れないのにどっちもある人間が理想だというこれ最初から間違い。さらに根性の悪いことにですね、結婚して幸せにしてもらおうと思っている。そんなアホな話はないと思う。ちゃんとした男にくっついて幸せにしてもらおうという考え方が間違っている。一生苦労するかもしれないけど、彼と一緒だったら、私はどんな苦労でもしようと思い、それが私の幸せだと感じる方がよい。最初から一緒に苦労しようと思って、それで結婚しているならば、これはヨコの関係なんです。あの人にくっついて幸せにしてもらおうと思っているのはタテの関係なんです。結婚の出だしからタテの関係だから、それに伴って出でくる、対人関係は、みんなタテの関係。親子関係や、嫁姑関係もね。絶えず感情が波立つわけよ。およそタテの関係があるときに、我々の感情は騒ぎだすからね。あなた方が日常生活の中で、感情的になることがあるとしたら、それはどこかにタテの関係があるからです。相手と自分は別々の考え方をする人間です。だから考え方の違いがあるのが当然です。それを、相手を自分の思うがままに支配してしまおうと意地を張るから問題が起きてくる。違うことを前提にして、その違いをいかに妥協させてソフトランディグさせていくか。そして協力して生活したり、子育てしたり、生活を楽しんだりする。一人ではとても味わえない人生のだいご味を二人で作り上げて共有化していく。そうでなかったら夫婦関係を継続することがストレスになり、精神的な苦痛を味わい、一人で暮らした方が健全であるということにもなりかねないのです。ましてや世間体、経済的な依存関係を求めて一緒にいるといることは、地獄のような苦しみを続けているということになります。これが心機一転、相手をコントロールしたい、相手を自分の思うように操りたいということは不可能なのだ。またそういう人間関係を続けていてはいけないのだということに気がついて、態度を改めることができれば、途端に夫婦の人間関係は良好になるのです。(続アドラー心理学トーキングセミナー 野田俊作 星雲社 82ページより一部引用)
2015.11.28
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雑談恐怖症について考えてみたい。人が数名で雑談している。あるいは主婦が何名かで立ち話をしている。その場の中に入り込めない悩みである。これは大勢でおこなう縄跳びにうまく参加できないのとよく似ている。みんなは何の迷いもなくどんどんと流れるように飛び込んでいく。縄が足に引っ掛かって縄跳びが中断することがない。ところができない人は、どこで入り込んだらよいのか分からない。仮に飛び込んで見てもうまく飛べるという自信が持てない。挙句の果てには自分の足に縄が引っ掛かって進行を妨げてしまうのである。そして恥ずかしい思いをする。みんなが自分を責めているような気がする。また能力のない自分を軽蔑しているように感じる。それならなんとか理由をつけて参加しない方が気が楽だ。人にも迷惑がかからない。でも避けてばかりいるといつまで経っても縄跳びはできない。みんなと楽しく遊ぶことはできない。そんな自分を自己嫌悪して、どんどん孤立して人間関係作りを避けていってしまうのである。雑談恐怖という人を見ていると、不思議なことに、仕事で人と会話する時は意外にも実に堂々としていることがある。営業成績をそれなりにあげて生活しているわけだから、会話ができないというわけではない。それは会話自体に仕事のためという目的があるからである。商品説明をして売り込むという目的。相手を説得するという目的がある。その目的があるために一心不乱になれる。雑談ではないので不安は発生しない。ところが雑談というものは、とりとめのない会話である。仕事のように会話自体にはっきりとした目的はない。会話自体が空中浮遊物のようなものなのだ。またはっきりした目的のない会話は無駄であるという気持ちがある。目的のない会話というものは、森田でいうと「生の欲望の発揮」を忘れてしまっているようなものである。そういう状態の時は、自分の意識は外へは向かわずに、内へ内へと自己内省していくのである。つまり自分の身体の違和感とか気分に向いてくるのである。そうなると相手との会話は蚊帳の外になる。また雑談することが苦痛になるのである。そもそも雑談には目的がないというがその考え方自体が間違いである。雑談は相手との関係を敵対するのではなく、友好的に保つという役割がある。挨拶と一緒である。「おはようございます」「おつかれさまです」「今日はいいお天気ですね。お変わりございませんか。」「おかげさまで。あなたもお元気そうですね」「もうかってますか」「ぼちぼちですな」これらは意味のない会話である。なくても別に生活に困るというものではない。でも意味のないことだからと言って、すれ違う相手にこういう声かけを全くしないとすると、疑心暗鬼で人間関係はとてもぎくしゃくしてくる。雑談というのは会話の中身に目的があるわけではない。人間関係を円滑に保つという目的があるのだ。だから取りとめのない肩に力の入らない話でちょうどよいのだ。またしいて会話に加わらなくてもよい。聞いているだけでよい場合も多い。参加していることに意味がある。参加してみんなの話を聞いているだけで、居合わせた人と良好な人間関係作りをしているということになる。意味のない会話は時間の無駄だと思って避けていると、人間関係は疎遠なままなのである。雑談の時話の中身に注意を向けてはならない。相手との人間関係を良好に保つための潤滑油としての役割を果たしていると思えば苦にならなくなるのである。そう考えると雑談の持っている意味は大きいのである。
2015.10.18
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社交不安障害の人のコミュニケーションについて考えてみました。社交不安障害の人は基本的に、相手から発せられるメッセージを「相手は自分に対してネガティブな評価を下すものだ」というフィルターを通して受け取ります。こういう先入観を持っていると、相手からのメッセージを正確に把握していないことが多い。また、自分への自信のなさや厳しさから、自分の言いたいことを伝えていないことが多い。たとえば、自分の気持ちを言葉で伝えずに、ため息をついたりにらみつけたりする。これだけでは自分の気持ちは相手には伝わりません。次に言葉は使っていても、直接的な言い方をしないで、嫌味を言ったり、遠回しな物言いをしたりしてしまうことがあります。また、自分の社交不安障害を隠すために、あえて理屈っぽいコミュニケーションをする人もいます。さらに難しいのは、攻撃的、拒絶的な態度をとる人です。本音を知られることの恥ずかしさへの恐怖から、相手が自分の内面を決して見ることができないように防御してしまうのです。はっきりした言い方をしなくても、他人は自分の必要としていることや自分の気持ちは分かっているはずだと思い込んでいる人もいます。阿吽の呼吸で相手が自分の気持ちを察してくれることを求めているのです。誰でも基本的には自分のことで精いっぱいですので無理な相談です。相手の言いたいことは分かっているという思い込みに陥っています。相手をよく観察しないで、ちょっとした態度や言葉ですぐに悲観的な考えをとってしまうのです。きちんと相手に向き合いコミュニケーションをとらないとはっきりしたことは分かりません。また間違って判断することになります。社交不安障害の人は相手と向き合うということが、自分を非難されるという怖れから向き合うこと自体を避ける傾向があります。怒りや不快を表現しないで沈黙してしまうパターンもよくあります。どうせ相手に向き合っても言い負かされてしまう。そしていつも気まずい思いをしてしまう。それだったら、最初から我慢したり耐えたりするほうが、気が楽だという考えです。社交不安障害の人はもともとそういうコミュニケーションが体にしみこんでいます。改善するためには、他の人からサポートを受ける必要があります。集談会などの仲間に協力を得て、具体的な事例を出し合って事前準備を行うのです。たとえば自分が社交不安障害になって、母親がいろいろとアドバイスや指示をしたとします。すぐにイライラして反発するのでは芸がありません。そういう時に母親に受け入れてもらえるような言葉を先輩などに聞いてみることです。「アドバイスが必要な時は自分からお母さんに相談する。それまではそばで見守ってほしい」こんな表現ができれば、母親を傷つけることもなく、自分の気持ちを母親に伝えることができるのではないでしょうか。(対人関係療法でなおす双極性障害 水島広子 創元社参照)
2015.08.31
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水島広子氏は「対人関係療法でなおす社交不安障害」(創元社)の中で、相手との人間関係の中に「境界を設定する」ことを提案されている。これは自分の問題なのか、相手側の問題なのかという境界線をはっきりとさせていくということです。満足のいく人間関係においては、境界線がしっかりと引かれて、お互いの「敷地」を尊重し合うことができている。しかし、自分が決めるべき事なのに相手が決めてしまう。つまり相手が自分の敷地に入っていることも多い。あるいは、本来相手の問題なのに、まるで自分の責任であるかのように感じて気を使ってしまう。相手の敷地に自分が入り込んでいる。このように勝手にお互いの敷地に入り込むと摩擦を起こしストレスとなります。これは中国が海洋資源の獲得を狙って海洋進出を企てているようなものです。周辺諸国から猛反発にあっています。このままでいけば日本海も中国の領海だと言いかねないようなものです。このようにお互いの敷地に不用意に踏み込むことは後々大きな紛争に発展する可能性があります。幼い子供がお出かけするときにいつまでもテレビを見ているとします。お母さんは「いつまでもグズグスしてないで、早く服を着替えて準備をしなさい。連れて行きませんよ。あんたはいつもこうなんだから、イヤになっちゃう」と言ったとします。これはお母さんが思っているように子どもが素直に行動してくれないからイライラしているのです。自分の不快な感情を子どもにストレートに掃き出しているのです。自分の不快感をスッキリと解消しようとしているのです。母親は子どもに自分からすすんでさっさと用意してもらいたいと思っているのでが、思うように行動してくれないから相手の敷地に入り込んで無理矢理行動することを迫っているのです。一種の脅迫行為です。反発心の強い子だったら駄々をこねて喧嘩になります。こういう場合は、「お母さんは早く準備してくれるとうれしいんだけどなあ。もう出かけないと電車に間に合わないよ。それともお留守番していてくれるかな。」と言ってみればどうでしょうか。そのあとどのような行動を選ぶかは子どもが決めることです。子どもの敷地に親が子どもの了解もなしに入り込むことは差し控えないといけません。社交不安障害で悩んでいる人は、相手が敷地に断りもなく入り込んできたのに、見て見ぬふりをしてしまうことが多々あります。理不尽な要求に対して我慢したり、たいしたことではないと耐えたりすることです。相手が自由に自分の敷地に入り込むことを許してしまうとストレスがたまります。また相手は自分の敷地なのに、相手の敷地のように思ってしまい、ますます縦横無人に入り込むようになります。親分、子分のような関係になってしまいます。そんな一方的な人間関係がいつまでも続くことは考えづらいことです。いつか火山の爆発のように大噴火をおこします。森田理論学習の中ではこのような人間関係を「不即不離」と言います。これは人間関係の極意です。べたべたとくっつかない。そうかといって全く離れているわけではない。絶えず気にはかけているのだが、深入りはしない。私メッセージの手法を使って自分の感情、気持ち、希望は相手に伝えていく。それを受けて相手がどう発言するか、どう行動するかは、相手の気持ち、意思を尊重するのである。決して自分の「かくあるべし」を押し付けない。すると自分のストレスがたまらないし、相手と対立関係になるということが避けられるのである。そういう人間関係の在り方を森田理論で学んで身につけたいものです。
2015.08.30
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耐える、がまんするということを考えてみました。これには2つの側面があると思います。1、生の欲望の発揮にあたっては、さまざまな障害が待ち構えています。やる気が出ない。時間がない。資金がない。協力が得られない。等いろいろとあります。意志の弱い人は、それらに圧倒されて、とても無理だと判断して早々とあきらめてしまいます。そして暇を持て余すようになるのです。その時考えることは、「どうせ自分なんか」という自己否定のことばかりです。このやりきれない気持ちを抑えるために刹那的な快楽を追い求めるようになります。意志のしっかりした人は、そこで踏みとどまることができます。一つ一つ障害を乗り越えて目標に近づいてゆきます。その状態は苦しみやイライラに耐えていると言えます。こういう意味での耐えられる人、我慢できる人です。それを持ちこたえながら前進できる人です。2、不平、不満、不安、恐怖、怯え、怒り、憎しみ、悔しさ、悲しみ、嫉妬心、憂鬱、無力感等のネガティブな感情が湧き起った時、表情や言動に出さないで、じっと我慢して耐える。普通はこのような人が我慢強い人、社会的に望ましい人であると考えられています。言動に出さないのでトラブルにならないからです。でもストレスが蓄積されて心身症、神経症になります。これが子どもに表れるとどうなるか。意地悪されても、つらいと感じない。へらへらしているのでもっといじめられます。また、いじめにあって学校へ行くことが難しくなります。ところが家でその気持ちを親に出すと、叱られます。子どもは、その気持ちを封印して、イヤイヤしかたなく学校に通い続けます。そのような子どもは一見我慢強いようですが、本来の我慢強い子どもとは違います。このような子どもの注意は対人関係にばかり向いています。するといじめなどがあると強いトラウマとなります。トラウマになるということは、その時に封じ込められた不快な感情が、何かの刺激を引き金にしてフラッシュバックをおこすようになります。些細なことで突然きれてしまい、重大事件を引き起こしてしまうこともあります。大人の場合はどうか。会社で頼まれた仕事は何でも引き受けてしまう。自分が目一杯の仕事を抱えていても、断ることができない。あるいは、体がしんどいにもかかわらず有給休暇の申請ができない。用事があっても、みんなと同じ時間までサービス残業をしてしまう。その反面、ランチにお誘いがかからないと気が動転してしまう。ミスや失敗をするともう会社をやめてしまおうかと考えてします。一人で孤立しているとみられることは死ぬより辛い。これらは小さいころから、自分のネガティブな気持ちを封印して我慢したり耐えてきたつけが表面化してきているのです。その蟻地獄の中から抜け出ることは容易ではありません。完全には抜け出せないかもしれません。効果があるとすれば、森田理論学習を積み重ねて、実践していくことだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.31
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小学校4年生のあるクラスで「心の教育」がありました。4名から5名のグループで、廊下にはってある絵を一人ずつ順番に見てきて、画用紙に描きだすという課題でした。一人ずつが、見てきたものを書き、全員で一つの絵を協力して仕上げるのです。その時あるグループで男子数人がけんかをはじめました。リーダー役の女子がけんかをやめさせようとしますが、収まりません。気持ちが荒れている男子は、いたずら書きをたり、まじめに取り組みません。リーダー役の女子は、イライラしながら一人で取り組みました。時間がきて、全員の前で発表の時間になりました。明らかにのグループは他のグループに比べて、未完成の状態でした。しかしこのリーダー役の女子は、発表では「みんなで協力してやれてよかったです」と言いました。心の中で思っていることとは違うことを発表したのです。こうして「心の教育」という授業は終わりました。波風を立てない建前の発表にはたして問題はないのか。私は問題が大ありだと思います。この女子の気持ちは「男子はけんかばかりして、協力してくれなくて、私はとても悲しくて残念でした」ではなかったでしょうか。この子のかなしい思い、悔しい思い、腹立たしい思いはどうなったのでしょうか。「心の教育」というからには、心にはネガティブな感情も湧き起ることもあり、その気持ちを抑圧しないで出し合う。そのことの意味を考えてみるということが大切なのではないでしょうか。そういう意味では格好の授業の題材になったはずです。先生は教室にいて見ておられるわけですから、そこに焦点を絞って授業を進めるべきだったのではないでしょうか。ただ単に共同作業を経験させることが目的なのでしょうか。そんなことをするとそのグループの児童を責めることになり、授業に悪影響をもたらすとでも考えられたのでしょうか。子どもを育てるということからするとどうも違うような気がします。ここで重要な点は、このネガティブな感情をどう取り扱っていくかということにあります。この点について、親、養育者、教師のみんながネガティブな感情は悪であり、憎むべき相手であると思っています。そしてその誤った思いを子どもたちに伝承しているのです。世代を超えてその悪循環が繰り返されているのです。先生はこの例を参考にして、ネガティブな感情を受け入れていくことの大切さを分かりやすく児童に説明していかなくてはなりません。文科省の教育の指導要綱にはそんなことは触れられていないのでしょうか。でもこれは人間が生きていくための必須の学習事項です。是非とも次世代を担う子どもたちに伝えてゆきたい学習項目です。そのためには、親、養育者、教師のみんなが、ネガティブな感情は生きていく中に当然出でくるものであり、逆らうことは自分を苦しめることになるのだという理屈を知ることが先決です。そして自分でもその方向で行動できる。それを子どもたちに伝えていく。すると、子どもの心の問題の大半は解決の方向に向かうのでないか。森田理論学習を続けている私たちはそのことを社会に認知させていく使命が課せられているのだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.28
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「みかんていいな」という言葉をキャッチフレーズにして、自分の気持ちを相手に伝える方法があるそうです。みかんの「み」は、見たこと、客観的な事実・状況を話す。「かん」は、自分の感じたこと。自分の思いや気持ちを話す。「ていいな」の「てい」は提案のことです。「いな」可否を尋ねて否定された場合の対案のことです。例えば共働きの妻が何か悩みがあって、疲れ気味の夫に相談する時のことです。あなたも疲れていると思うけど(客観的事実・状況)、私の話を聞いてほしいの(自分の気持ち)。仕事のことでとても困っているから、あなたに聞いてもらえるだけで気持ちが楽になるから、お願いできないかしら(提案)。もしあなたが今疲れているようならいつがよいか教えて(対案)。これはアサーティブな自己表現の手法だそうだ。これには森田的な考え方が含まれている。まずは事実や状況を正しく把握する。ここがまずもって大切になる。見つめていると、何らかの感情が湧き起ってくる。ここで大切なことは自分の感情を我慢したり、抑えつけたりしないことだ。湧き起った感情を素直に感じとることだ。決してすぐに相手のことを考えないことだ。自分の内なる感情を感じとること。その次に自分が相手に期待する気持ちを整理する。この段階になって、その気持ちを素直に相手に伝える。「○○してくれるとうれしいんだけど」「○○してほしい」等。でも相手には相手の都合がある。だから相手が受け入れてくれるかどうかは神様のみが知るところである。まあ5分5分ぐらいに考えておいた方が無難だ。つまり相手の気持ちを察してあげるのだ。「今すぐというわけではないよ」「いつだったらいいかな」「ここではまずいいかな」「食事でもしながらというのはどうかな」「喫茶店ではどうかな」「時間的に無理だったら教えてね」相手がどうリアクションしてもそれは相手の自由な裁量に任せてしまうことが重要となる。(はじめての認知療法 大野裕 講談社現代新書 138ページより一部引用)
2015.07.22
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5歳の女の子の話です。この女の子は、スーパーでお母さんの立ち話が長くなると「怖い、怖い」というのだそうです。また、レストランで食べられないものが出てくると、同様に「怖い、怖い」というのです。怖いと言いながら、近くに恐ろしいものがあるわけではないのです。この心理を考えてみましょう。目の前に恐怖心を起こさせるものがないわけですから、怖いというのは言葉だけのことではないのかと考えられます。実際に自分の体の中で感じていることは違うのではないか。多分じっと待っているだけなので、退屈だ。つまらないという気持ちなのではないでしょうか。もし、女の子が「ママ、つまんない。早くいこうよ」と言ったとしたらどうでしょうか。お母さんは、きっと「もう少し待ちなさい」「大事なお話をしているのだから、がまんしなさい」等ではないでしょうか。退屈だからといってグズグスした態度をとられると大変だからです。女の子は、こんな時お母さんは、いつも私の気持ちを分かってくれない。いつもお母さんは自分の言いたいことを私に押し付けてくる。その気持ちに耐えられない。そんな態度をとるお母さんはイヤだ。許せないと思っていた。ところがある日、「怖い」といったところ、お母さんは飛んできて、私の気持ちに寄り添ってくれた。めんどうをよく見てくれた。そこでこの言葉は魔法の言葉だと思ったのです。怖いという言葉を使えばお母さんは、私の後ろ向きの感情も適切に受け止めてくれるのだと学習していたのだと思います。それ以外の言葉で自分の気持ちを表現するとすぐに否定されてしまう。すると私は気分が悪くなる。こんな心理が働いたのでしょう。この奥には、日頃から娘の悲観的、マイナスな感情は認めてこなかったという経緯があったのです。お母さんとしては、子供に怖いと言われると、娘に何かあったら大変だ、助けてあげなければと思って、娘のいいなりになってしまいます。ところが、「たいくつだ」「つまんない」等と言われると違います。そんな言葉に従うと、娘がわがままに育ってしまうと思ったのです。こういう時は厳しくしつけをしなければならないと考えたのです。だから娘に厳しく対応するのです。お母さんが娘の気持ちに寄り添って、一旦はどんなネガティブな感情でもきちんと受け止めてみる。そしてお母さんの言葉で娘さんの気持ちを代弁してあげる。受容する気持ちがあると、娘さんはどんどんネガティブな感情も否定したり隠さないで表現するようになる。このことが子育てでは肝心なことです。これは大人の良好な人間関係作りにも応用できる考え方です。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.21
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5歳のあやちゃんとみかちやんが公園の砂場で楽しそうに遊んでいます。たくさん、お山や川をつくって、水を運んで、全身でダイナミックに夢中になって遊んでいました。4時になってお母さんが迎えに来ました。二人ともスイミングスクールの時間なのです。「お時間だから手を洗ってらっしゃい」と二人のお母さんが声をかけました。あやちゃんは「はーい」とすぐに遊ぶのをやめて、水道で手を洗い、お母さんと一緒にスイミングスクールに行きました。ところがみかちゃんは、「いやだ。もっとお砂場する。ママ、みて、これすごいでしょ。スイミング。いい…きょうは行かない」といって、お砂場遊びからもどってきません。私たちはどちらの子どもの態度が好ましく思うでしょうか。たいてい素直に親のいうことに従う子供を好ましく思うのではないでしょうか。しかし感情の育ちから見ると、みかちゃんの方が望ましいのではないでしょうか。楽しみのエネルギーが全身を流れているときに、それを急に中断するというのは難しいことです。子どもとしては「イヤだ。もっと遊びたい」と思うのは当然な成り行きであり、もっともなことです。むしろ心配なのは、あやちゃんです。あやちゃんは、それまで自分の身体の中を流れていた楽しみのエネルギーを、お母さんの声を聞いただけで、ピタリと止めることができてしまっているのです。自分の身体からあふれてくるエネルギーの流れを、ピタリと止めて、お母さんの指示に従うことができるということは、感情の育ちを考えたとき問題です。一般的にみると親の言いつけをよく守る理想的な子供のように見えます。しかしその裏では、自分のほとばしり出る感情を抑えつけたり我慢したりしているのです。あるいは、なんの抵抗もなくできるということは、すでにそういう思考パターン、行動パターンが習慣化されているということです。自分の意思や希望を我慢したり、耐えたりするようになっているのです。普段お母さんが子どものネガティブでマイナスの感情を受け止めてあげていないので、そういう感情を表出することができなくなっているのです。自然にわき出る負の感情を抑圧、拒否、無視、否定していると、ストレスがたまり続けて成長するにつれて大きな反動として表面化してくるのです。あるいは自分自身生きづらを抱えて、生きていくことが苦しくて仕方がなくなるのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.20
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幼い男の兄弟が家の中でそれぞれのおもちゃで遊んでいます。お兄ちゃんが弟のおもちゃが面白そうだったのか、横取りしてしまいました。弟は、ワーンと泣き叫び、地団駄を踏みながら、握りこぶしを作ってお兄ちゃんを殴ります。どこにでもある兄弟げんかです。その時お母さんはどんな対応をするでしょうか。お兄ちゃんには、「弟が遊んでいるおもちゃを勝手にとってはダメじゃない」「喧嘩するんだったらおもちゃは片付けるよ」「お兄ちゃんなんだから弟と仲よくしなさいよ」なかにはお兄ちゃんが悪いといってぶったりする人もいます。弟には「いつまでもワンワン泣かないの。泣きやまないんだったら家の外に出て泣きなさい」などといいます。この対応は如何なものでしょうか。これは兄弟げんかという現象を見て親の価値判断を押し付けているような対応です。また親の不快感を払拭するだけの対応にも見えてきます。森田理論学習をしている人はこんな対応はできないでしょうか。泣きわめいている弟に向かって、「おもちゃをとられて腹が立ったんだよね。さぞかしくやしかったんだよね」これは泣き叫んで大暴れするにいたった子どもの気持ちを察して、子供になり変わって言葉に出しているのです。すると子どもは「そうだよ。お兄ちゃんはずるいよ」などというかもしれません。こういう対応ができると、子供はとても素直になると思います。なぜか。腹が立つ、悔しいという感情はどちらかというと、ネガティブでマイナスの感情です。そのような感情を母親が無条件に受け入れてくれたということが肝心なことです。子どもになんともいえない安心感を与えると思うのです。親は子供の感情を否定しないでそのまま受け入れてくれているのです。こういう体験が積み重なると、子供はネガティブでマイナス感情も、親を信頼して安心してストレートに出すようになります。隠さなくて、親の前で素直に出すことが習慣化されてきます。ネガティブでマイナス感情には、不安、恐ろしい、悲しい、腹が立つ、嫉妬する、恥ずかしい、イヤだ、イライラするなどいろいろとあります。こんな感情を親がダメ出しをしないので安心して出せるのです。これを身につけると、ストレスや葛藤がなくなりとても楽に生きてゆけるようになります。生きる土台・基礎がしっかりと出来上がったようなものです。でも残念ながらこんな親はあまりいません。子どもを叱る。非難する。押さえつける。否定する親はたくさんいます。それが一般的かもしれません。すると子どもはネガティブでマイナス感情は、親には決して受け入れられないのだと思ってしまいます。そのうち、友達にも受け入れられない。社会にも受け入れられない。精神的に不安定な状態になります。ビクビクハラハラしていつも何かに怯えているようになるのです。心が休まることがありません。これが悪い感情を抑圧して、我慢したり、耐えたりすることの弊害です。そういう状態で生きていくことはとてもつらいことなのです。生きていることの楽しさや意義は見つけることができなくなります。森田では感情にはいいも悪いもない。自然現象である。だから抑えつけたり、拒否したり、無視したり、否定しなくてもよい。どんなに醜い感情でも自分に責任はないし、自由自在にコントロールすることはできないと言います。私たちにできることは、そのまま味わうことだけです。意味づけをしたり、価値評価をする必要は全くないのです。親はそのことを後押ししてやればよいのです。つまり自分の価値観を口に出す前に、子供に湧きあがってきた感情の交通整理をしてあげることです。すると子どもは、あらゆる生活場面で、ネガティブでマイナス感情を抑圧しなくなります。イヤな感情を隠す必要がなくなる。いい訳をしなくなります。迷いがなくなり、他人に気を使わなくてもよくなります。疑心暗鬼の気持ちがなくなります。余分なエネルギーを使わなくてすみますからとても楽な生き方ができるようになります。これが子供を育てるためにはとても重要なことです。あらゆる感情を素直に認めて味わうということはとても意味のあることだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.18
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幼児期に両親が子どもとどうコミュニケーションをとってきたかということは、その後の子どもに大きな影響を与えている。例えば弟や妹が生まれる。自分ひとりのときはみんながかまってくれてその愛を独り占めできた。ところが弟や妹が生まれると、そちらの世話にかかりきりになる。自分のことは以前ほどかまってもらえなくなる。するとどんなことが起きるのか。「やきもち」をやくようになるのである。嫉妬するようになるのである。二歳のあきら君に弟が生まれた。あきら君は、お母さんに抱かれた弟を見るとやきもちをやき嫉妬するようになってきた。あきら君はその気持ちに突き動かされて、弟に蹴りを入れるようになりました。お母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんがケガをするのではないかと気が気ではありません。必死に言葉で教えます。「赤ちゃんは弱いんだから、絶対に蹴ってはいけません」「あなたはお兄ちゃんなんだからやさしくしてあげてね」両親が何度話して聞かせても、あきら君の弟への攻撃は止みませんでした。しだいに両親は、弟への危険を回避するために、あきら君を叩くようになりました。両親はきちんとしつけなければと焦って、たたかれて泣き叫ぶあきら君を「ごめんなさい」が言えるまで、風呂場に閉じ込めてしまうようになりました。そのうちなかなか「ごめんなさい」が言えないあきら君がかわいいと思えなくなりました。あきら君は、お母さんが他の人との会話で「あきらのやきもちがひどくて、こまっているのよ」という言葉を聞いて、自分の身体を流れている感情はやきもちだということが分かります。でも同時にこの「やきもち」という感情は大人にはけっして受け入れてもらえないマイナスの感情なのだということも学習します。嬉しい、楽しいといった感情はいくら出してもよい。でもマイナスの感情、ネガティブな感情は決して人前に出してはいけない。そのような負の感情は抑圧し、決して表出させてはならないのだということも学んでしまっているのです。頭では弟をいじめてはいけないと思っても、実際には弟がお母さんに抱かれていると嫉妬心が自然にあふれだしてしまう。自分ではどうすることもできない。あきら君は二つの気持ちの狭間で混乱状態に陥ってしまっているのです。普通子どもたちはこういう接し方を絶えず受け続けて成長していくのです。するとマイナス感情、ネガティブな感情を自分では受け入れることができない人間になります。抑圧し、無視し、拒否し、否定するようになるのです。また他人のそういう感情も許すことができない。八方ふさがりの状態です。これがもし両親があきら君の身体の中にやきもちや嫉妬心がめらめらと燃え盛っていると認めてあげることができるとどうでしょうか。つまりあきら君の気持ちに寄り添うようにするのです。なにはさておき、あきら君の気持ちを汲んであげるようにするのです。あきら君の気持ちが分かると、弟と同じくらいあきら君も抱っこしてあげるようになるのではないでしょうか。「あきらも今度生まれてきた弟と同じくらいかわいいのよ」と言葉をかけてあげることができたのではないでしょうか。少なくともあきら君を叱る、叩く、閉じ込める、嫌いになるという方向には向かなかったのではないか。子育てではここがとても大切だと思います。これは子育てに限りません。マイナス感情、ネガティブな感情も否定しないで、受け入れていくということが人間の成長過程ではとても重要なのだと思います。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.17
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子供がよちよち歩きを始めて、屋外で遊ぶようになると、母親は近所の児童公園に子供を連れていく。公園には、それより前から遊んでいる母子たちのコミュニティが存在するので、上手に「デビュー」してその一員として認められなければならない。デビューに失敗し、ママ友から仲間はずれにされれば、公園はもちろんのこと、近所でも居場所がなくなってしまう。公園で親子で遊ぶということは戦場にいるようなものなのだ。自分がうまく「ママ友の輪」に入ることができても、まだ安心はできない。自分たちが仲よくするのは当然のことで、同様に子どもたちも「子供たちの輪」にうまく溶け込み、喧嘩することなく、仲良く遊ぶ義務がある。母親は、いざ公園に来て、ママ友とそつなく会話しながらも、横目で「ウチの子はちゃんと仲間に入れてもらえているか」「よその子を叩いたりしていないか」と、ずっと目をひからせていなければならない。神経を酷使するばかりで、休まる瞬間はない。実際、ちょっと子供がじゃれあった程度で、母親たちは、すごい剣幕で飛んで来る。だから、子供たちも、母親の顔色をうかがいながら遊んでいる。親同士のみならず、子供同士で何かトラブルが起きたら、大問題に発展する。問題がこじれば、その親子は公園に「出入り禁止」となってしまう。そこでそれを回避するために、自宅のすぐ近所に設備の整った公園があるのに、わざわざ車や電車に乗ってまで、遠くの公園に出張する親子がいる。また公園で遊ぶこと自体を子供に禁止する親もいると言う。(なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか 和田秀樹 祥伝社 49ページから引用)これは、母親自身が仲間から無視される、排除されてはならないという価値観が強いのだと思います。仲間に受け入れられないと生きている心地がしない。だから相手の気に触るようなことは正当な理由があっても決して言動に出してはならない。言いたいことがあっても我慢する、耐えるという姿勢を貫いているのだと思います。人間関係という荒波を無難になんとか切り抜けてゆかないと自分の人生はまっ暗闇だ。そういった考え方が染みついているのだと思います。そしてそうした価値観を小さいときから自分の子供たちに教え込んでいるのです。子どもたちは母親の一挙手一動を敏感に受け取っています。そして子どもたちもみんなと仲よくすることが一番大切なことなのだ。人を傷つけても、自分が傷つくこともどちらも許せないのです。集団から排除されるということは、自分に問題があるのだ。そんな大人になってはいけない。そういう価値観を絶対的で唯一のものとして刷り込まれてしまったのです。それは実に不幸なことです。人間関係の全くない仕事はありません。仙人のように一人で生きていくことはできません。そういう子供が考えることは、人間関係に気を使わなくてもやってゆけるような仕事を探すようになるのです。動物や植物を扱うような仕事。機械を作ったり、機械を操作するような仕事。指示命令をされないような仕事。ノルマの無いような仕事。研究職など自分ひとりでできる仕事。職人や芸人、俳優のような仕事。反対にチームを組んでする仕事。上下関係のある仕事。対人折衝のある仕事。営業の仕事。人とかかわるような仕事は敬遠されるようになります。そういう人間関係のみの価値観に凝り固まり、翻弄されることとてもつらいことです。せっかく人間に生れて来たのです。なんとか打開策を見つけたいものです。そのために、まずはそういう状態にあることを自覚すること。そして多様な価値観を知ること。さらに森田理論を学習して、「生の欲望の発揮」について理解していくこと。自分の生活を少しずつ森田的な生活に転換していくこと等が大切なのではないかと考えています。
2015.05.01
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今の日本の社会は、1億総対人恐怖症の様相を示していないだろうか。人の思惑がいつも気になる。他人の言動に鋭く反応してしまう。特に自分のことを非難されたり、無視されることには耐えられない。いつもピリピリ、オドオドしてしまう。そんな自分が情けない。心はいつも曇天、あるいは暴風雨の状態である。対人関係を無難にこなしていくことが頭の中の大半を占めている。生きていくことが苦しい。毎日地獄のようだ。なんとか抜け出したいが、どうしたよいのか。皆目見当がつかない。どうしてそんなことになるのか。その原因を探ってみた。まず、明確な課題や目標、夢や希望を持ち得ていないことがあげられる。高度経済成長時は車が欲しい、家電が欲しい、家を建てたい等の夢や目標があった。現在はほとんど欲しいものは買いそろえた。そこで新たな目標の設定が必要になった。だが物質的豊かさの次の目標設定はなかなか難しいのかうまくできていないようだ。つぎは心の豊かさの追求に向かって方向転換してゆくべきだという人は多いいが、明確な目標とはなりえていないようである。つまり現代は生きる目標の喪失時代と言えないだろうか。そういう時代は、本来前に前進するエネルギーが不完全燃焼して、右往左往して閉塞状態に陥っている。そこには自分の夢や希望などはない。課題や目標達成という意欲もわいてこない。きわどく人間関係という障害物をかわしながらなんとか生きているけなげな姿がある。アフリカのサバンナの草食動物たちが肉食獣の餌食になることを気にしながらなんとか1日を生き抜いているようなものだ。これではいかにも苦しい。第2に家庭教育、学校教育、社会教育の弊害である。最近の教育は没個性化、均一化、同質化、平均化、平等化を前面に押し出している。抜けがして勝手な自由行動は許されないのである。その場の空気を読んで、相手に合わせることが求められる。4月26日で投稿した事例がそのことを物語っている。日本は、国民皆年金、国民皆医療、介護保険、生活保護などのセーフティネットを張っている。弱者を放置すると大混乱するから、最低限の生活は国が保証しているのである。アメリカ等ではこれらは自己責任の自助努力に任せられていることが多い。私はセーフティネットを批判しているのではない。その考え方について説明しているのだ。最低限の生活を保障するということは、落ちこぼれを可能な限り救済するということである。つまり同質化、均一化の考え方が土台として確立しているということである。私はその考え方が突出して、突っ走ってしまうことに警鐘を鳴らしたいのである。つまり前提として、その人のもともと持っている特性や個性を引き出して全面的に花開かしていくという考え方が先にくるべきではないのかということを訴えたいのである。自分の長所、能力、個性を活かして、失敗やミスを繰り返しながら、自由に伸び伸びと挑戦したり、自由に行動することを推し進めない社会は問題がある。自分のキャラクターをうまくアピールして、相手と話を合わせ、その場の空気を読んで、人づきあいの上手な社交的な子供ばかりを養成していると、対人恐怖症で苦しむような人間を多量に作り出すことにつながるのではないか。換言すれば、そういう教育は他人の意向を第一に考える他人中心主義の人間を大量に作り出すことになっている。他人を傷つけてはいけない。自分も傷をつけられてはいけない。本音を隠して当たらずさわらず建前中心の人間関係を築いていくことが絶対的で唯一の価値観となっているのである。その価値観を共有できない子どもは社会不適用として仲間外れにされるのである。今のいじめは暴力でいじめられるよりも、無視されたり排除されるのである。いったん排除されると元に戻ることは難しい。だから子どもたちは仲間外れにされないように、本音を隠して表面上相手に媚びることばかりに神経をすり減らしているのである。これは村八分にされた人が村から追い出されるのと同じことである。これが1億総対人恐怖症に見舞われている日本の実態ではないのか。人間は自分中心の考え方で生きていくことが優先されなければいけない。自分の意志、気持ち、課題や目標、夢や希望に常に視線が向いていないといけないのだと思う。
2015.04.28
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部下や子どもに意欲を持たせて、やる気を高める働きかけをするにはどうしたらよいのか。森田理論を中心に考えてみたいと思います。まず相手の存在を認めてあげることだと思います。デール・カーネギーの「人を動かす」という本の中に6つのことを指摘されています。1、 誠実な関心をよせる2、 笑顔を忘れない3、 名前を覚える4、 聞き手にまわる5、 関心のありかを見抜く6、 心からほめるこれらは人を思うように操ろうとする処世術だといって嫌う人がいます。私はそうは考えません。相手の存在を認めて、相手を大切にするというのは意欲を持たせて、やる気を高めるための土台となるものだと思います。ここであげられている6つの視点はとても意味があります。相手に対し最初からけんか腰で、拒否、無視、否定、非難する気持ちではかえって反発されます。相手に礼儀正しく、やさしく接する。相手の話をよく聞いてあげる。相手のよい面をほめてあげる。潜在能力を高く評価してあげる。そして自分の力や能力を高めて、夢や希望を実現することの大切さを語ってあげる。相手に期待をかけてあげる。叱咤激励する。信頼関係ができていれば叩いてもいいのです。却って後で相手に感謝されることだってあります。次に「かくあるべし」を押し付けることは絶対に慎まないといけません。自分の考える理想の状態に相手を誘導しようとすることは絶対にあってはならないことです。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責等は相手の意欲を持たせて、やる気を高めることにはつながりません。いずれ大きな反発を招くことになります。それでもかまわないというのならやってみてください。また相手に任せて、相手にやらせるべきことを、手っ取り早く片づけるために、自分が代わりにやってしまう事はいけません。これは過保護というものです。相手のやる気や意欲は最初から抑圧されてしまいます。そして無気力、無関心、無感動で依存的な人間を作ります。これはていのよい拷問のようなものです。おもしろい未知の体験をさせることは大切なことです。出来るだけ多くの体験をさせる。多くのミスや失敗の経験をさせる。多くの人と接する機会を作ってあげることも大切です。失敗や体験から多くのことを学びます。3000回の失敗をして大人になるのだという人もいます。多くの失敗や体験は貴重な財産となってさらに前進することができます。また自分の信じたこと、楽しいこと、面白いことをやって見せることは、相手に良い意味でも、悪い意味でも刺激を与えることになります。出来るだけ将来に展望が開けるようなものを、紹介してあげることは相手に大きな影響を与えます。意欲ややる気に火がつきます。父親が魚釣りが好き、スキーが好き、楽器の演奏が好きな場合、子どもは少なからず影響を受けます。そして実際の問題点や課題を目の前に提示してあげることも必要だと思います。神経症で苦しんでいる人には特に必要だと考えています。相手が気づいていない事実を目の前に突きつけてあげることなのです。提示するだけです。行動は相手に任せてしまうということが大切です。ここを誤っていては何の意味もありません。それによって相手にどんな感情が起こってきて、どんなことに気がつき、どんな発見があるのか、とても大切なことです。例えば不良品率が20%もあった会社が、その不良品のサンプルを玄関に展示をしたところ、不良品率が劇的に改善されたという例があります。それは展示品がきっかけとなってみんなが刺激されて、話し合い、改善の機運が高まり、不良品率の削減に取り組むようになったからです。我々神経質者は、認識の誤りをたくさん作りだして自ら苦しみの種を作り出しているようなものです。その最たるものが「かくあるべし」的思考方法です。それ以外にもたくさんあります。その誤りは迷路に入っているようなものですから、自分一人ではなかなか気がつきません。分かりやすい事例を紹介してあげて相手に考えさせるきっかけづくりをすることはとても意味のあることです。セルフヘルプグループ活動の意義が試されるところです。最初は反発をされるかもしれませんが、一つでも二つでも考えるきっかけになれば、その人も改善のために舵を切っていくことができるようになるのです。以上が私が考えている、相手に意欲ややる気の気持ちを芽生えさせる働きかけの一例です。これ以外のことがありましたらぜひ教えてください。
2015.02.15
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森田先生は全集5巻の748ページで次のように言われています。癪にさわるべき事は、大いに癪にさわらなければいけない。何事にも刺激に対して、心の反応の鈍いものにろくなものはない。しかしいくら癪に障ったからといっても、決して八つ当たりをしたり・手を出したりしてはいけない。夫婦喧嘩で口争いをした時でも、不快な腹立ちが急に落ち着くものではない。これを強いて押さえつけようとすると、かえってますます苦しくなり、爆発する危険度が多くなるが、心の自然にまかせて「なんとかしてアイツをやりこめる工夫はないか」といろいろ考えながら、用事をしていると、いつの間にか心は他に転導して、楽な気持ちになっている。つまり我々は、自分の感情を否定し・抑圧することは不可能であるが、感情の自然に従いて、理知でもってこれを調節する工夫をすれば、楽に心の調和が保たれるようになる。森田先生は腹が立った時、その感情を抑えたり我慢したりしてはいけないのだといわれています。しかし軽率に仕返しをしてはいけない。反論したり、暴力に訴えることは幼児のすることと同じである。我々大人は理性があるのだから、怒りを制御しなくてはならない。神経質な人は腹立たしさを抑え込む人が多い。でもストレスはたまっている。それが何回か重なると、わずかなことから他人がびっくりするぐらい大爆発をすることがある。そしてあんな人とは思わなかったといわれるようになる。だから爆発を恐れて当たり障りのないように、耐えたり、我慢して付き合うようになる。森田先生は夫婦喧嘩の時は、腹が立つことがあっても決して顔に出さないようにして、日記帳に無理なこと・自分の不満のことを詳しく書き留めておいて、さらば喧嘩というときに、充分相手をやりこめるだけの材料を集めておいて、予定通りに論争を開始するがよいといわれています。
2015.02.10
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対人恐怖の人は人の思惑を気にして苦しんでいる。特に叱責されること、批判されること、無視されることは大変なストレスとなる。それが原因ですぐに相手に反発したり、逃避的生活を送っている人もいる。本人は一方的に被害者のような立場にあると認識しているのではないかと思う。でも案外自分が他人に対して加害者の立場にあるということには気づいていない。例えば、今の職場で150人ぐらいのパートやアルバイトを管理している人がいる。この人は人の思惑を気にする対人緊張の強い人である。その人は毎月、仕事の指示事項を出しているが文章などをよく間違えている。そんな時いつも間違いを隠蔽したり、取り繕ったり、いいわけをしたり、他人のせいにしている。また指示事項も前回の指示を取り消して、新たな指示に取り換えることがある。そのために現場で仕事のやり方に混乱を招いている。その方は自分の非を認めて謝るということをめったにしない。そのまま放置している。反面パートやアルバイトの人に対してはやりたい放題の暴言を吐いている。ちょっとでも気に障ることがあると相手を徹底的に責めまくるのである。親切に教えてあげる気持ちはないようである。「以前に言いましたよね。どうして決められたことをしないのですか」これが口癖である。自分が一回指示したことで、きちんと実施されていないことに対しては、鬼の首をとったような横暴な態度に出るのである。隣の席にいる人は、そこまで言わなくてもと思うことがあるという。高齢のパートやアルバイトの人は、売り言葉に買い言葉で反対に応戦する人もいるが、そういう人はひとたまりもない。最終的にはパートやアルバイトの人をいとも簡単に首にするのである。こういう人が人事を左右している事は大変不幸である。このように、対人恐怖で他人の思惑を気にしている人は、自分より力のない人を見ると、格好のストレス発散の相手としているのである。仕事の部下だけに限らず、配偶者、親や子どもをターゲットにしている人もいるのである。この問題を森田ではどのように考えるのであろうか。間違いに気づいて、間違いを指摘するというのは正しいと思う。放置するとますます間違いが多くなる。間違いを見逃していると、他の人にも蔓延してしまう。仕事にしまりが無くなる。やさしく指摘して、今後の対応を親切に教えてあげれば、ほとんどの場合改善してくれると思う。これは森田でいえば、ミスや失敗の事実を隠したりしないで、すぐに正直に認めるということである。さらにどうしてミスや失敗が発生したのかその原因を追及して次に活かすことができれば申し分ない。ここでいつも険悪になるというのは、普段からけんか腰でお互いの信頼関係が出来ていないからだと思う。指摘すればするほど火に油を注ぐようなことになる。そういう人は、相手に改善を求めるよりも、まず自分の態度を改めていくことだ。反省してみることだ。相手がミスや失敗をした時に、良い悪いの是非善悪で価値判断をしていませんか。さらに人格否定の言葉を浴びせかけてはいませんか。森田では、事実をよく観察する。具体的に正確に事態を把握すること。先入観や決めつけをしないで事実を認めること。間違っても裁判官のように是非善悪の価値判断をしないこと。ましてやミスや失敗にかこつけて相手を人格否定することは言語道断です。森田理論は人はそれぞれに存在価値というものを持っているのだと教えてくれています。ここは事実本位の体得のために是非とも身につけたいところです。
2015.01.16
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大平健氏のお話です。最近、他人から傷つけられるということを気にする人が多い。自分のプライバシー、プライベートな部分に土足で入り込んでくる人を敬遠する。そして、人を傷つけるようなことをしないように気を付けている。そういう当たり障りのない人間関係作りが普通の状態となっている。例えば電車でお年寄りに席を譲ろうとしても、相手が年寄り扱いされて気分を害するかもしれないと考える。やさしくするつもりが、かえってやさしくないことになりかねないということに悩むのです。もしその好意を拒否されると、自分の自尊心が非常に傷つくのです。席を譲ることにも慎重になっています。だから狸寝入りしたり、降りるふりをして隣の車両に移動してしまうこともあります。他人に親切の押し売りをして、仮に断られると自分が傷つくことを恐れているのです。最初からそういう関係は避けているのです。あたらずさわらずの人間関係が一番心安らぐのです。こうなると相手の出方に神経を使い気が休まることがありません。夫婦、親子、上司と部下、同僚、友達との付き合い方、すべてに及んでいます。相手と喧々諤々議論をするということはしなくなります。安易に話しかけるということもしなくなります。本音を出すこと自体がタブーとなるのです。ツカズハナレズの希薄な人間関係を好むようになります。相手が愚痴を言うのも戸惑います。涙を流して悲しみや悔しさを表現されると動揺します。ベタベタした付き合いは好まないのです。相手も自分の苦しみや葛藤を打ち明けることは相手を傷つけることになるので愚痴を言ったり告白することはなくなります。これらの原因はすべて自分が傷つくことを回避することからきているのです。このような人の特徴は、人生の節目で重要な決断をすることが出来ません。失敗して後で後悔をすることが恐ろしいのです。失敗をするとあとで自分がみじめになり、立ち直れないほど落ち込んでしまう。だからズルズルと放置して引き延ばしてしまうのです。モラトリアム人間になってしまうのです。そういう人が増えています。またこういう人は、「いちおう」「とりあえず」という言葉をよく使う人です。「とりあえず」というのは、失敗したときに急場しのぎだったので仕方がないと言い訳をするためにあるのです。これをよく考えてみると、自分自身に確信が持てない。自分の存在価値、判断、行動、実践に自信が持てないのです。今の自分は「かりそめ」の存在であって、今この瞬間を一生懸命に生きているとはいいがたい。現在は自分の生き方探しをしているのだという甘えがあるのです。私もそういう言葉をよく使います。これは神経症で苦しんでいる我々神経質者の特徴とよく合致しています。その心理について、森田理論は、解決の糸口を示してくれていると思います。特にこの心理は、自己内省力が肥大して、生の欲望とのバランスがとれていません。その2つの関係を学習して、生活に応用できるようになったとき、バランス感覚が戻ってくると思われます。(やさしさの精神病理 大平健 岩波新書参照)
2014.12.01
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集談会で以前聞いた話ですが、ある方が妻の誕生日に感謝状を額に入れて渡したそうです。その額には真ん中に大きく「感謝」と書いてありました。そしてその周りに感謝していることが小さな字で100個書いてありました。普段思っていても、感謝の言葉を口にすることはありません。朝挨拶をしてくれる。いつも笑顔を絶やさない。おいしい料理を作ってくれる。掃除をよくしてくれる。洗濯をしてくれる。ユーモアがある。誕生日にプレゼントをしてくれる。健康である。時間を守る。あまり怒らない。悩みを聞いてくれる。励ましてくれる。子供にやさしい。家計を助けて働いてくれている。・・・・。これを渡したとき妻は、最初は笑っていたが、そのうち泣いていたというのです。私はこれにヒントを得て、自分のいいところ、妻のいいところ、子供のいいところ、父親のいいところ、母親のいいところ、妹のいいところを5つずつ日記に書いてみました。自分のいいところは神経質の性格特徴を学習しているのですぐに出てきました。家族のいいところはなかなか出てきませんでした。これを以前はパソコンの前の壁に貼っておりました。家族も常日頃その忘備録を見るわけです。私が毎日パソコンの前に座る時は「やじろべい」とこの「忘備録」が自然と目に入るのです。極端な考えになった時は「やじろべい」がその考え方はバランスが取れているのかと問いかけてくれます。ミスや失敗をした時は、「忘備録」がお前も捨てたもんではないと励ましてくれました。家族に対して腹が立つときはが、その腹立たしさを弱めてくれる役割を果たしてくれました。心なしか家族の人間関係が改善したような気がします。よかったら皆さんもぜひ実践してみてください。
2014.11.09
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柏木哲夫さんはホスピスの病院で2500人の死と向かい合ってきた。それを「死にざま」こそ人生という本にまとめられている。(朝日新聞出版)その中に安易な励ましは禁物であるというのがある。ホスピスにやってくる患者さんは死をまじかに控えた患者さんばかりである。そういう患者さんは弱音を吐くことが多い。例えば「私はもうダメなんではないでしょうか」柏木医師は反射的に「そんな弱音をはいたらダメですよ。頑張りましょう」と答えることが多かったという。患者さんは「ハア」といって会話が途切れることが多かった。ある臨終の席で患者さんが教えてくれた。「あの時、私は先生に、もっと弱音を吐きたかったのに、先生が励まされたので、二の句が継げずに、黙ってしまいました。そして、その後、とてもやるせない思いが残りました」柏木医師は強いショックを受けた。それまで「弱音を吐きたい人を励ましてどこが悪い。励ますのは医師として当然すべきことだ」と思っていたのです。ところが私が励ましたことが役に立たなかっただけではなく、彼女に「やるせない」というマイナスの感情を残していたのである。それ以来励ますことはやめた。「大変ですね」「つらいなあ、しんどいなあ」「やるせないなあ」に変えていった。これを森田理論を使って分析してみよう。ホスピスに来る人はいろんな病院で様々な治療をして今まで十分に頑張ってきた人である。一時はガンなどの腫瘍が小さくなったこともあったけれども、また再発した。そして目の前に死が近づいてきた。食欲がなくなり、体が痩せて来て、立って歩くこともできなってきた。我慢できないほどの激痛が体を襲っている。もうがんばれない。がんばりようがない。痛みをなんとかとってほしい。軽くしてほしい。つらさを分かってほしい。弱音を吐かせてほしいのである。つまり患者さんが求めていることは、「死ぬのが恐ろしい」という気持ちを分かってほしいということだと思います。死にたくない。生きていたい。痛い。痛みを取ってほしい。というどうにもならないジレンマの中で葛藤しているのである。そういう患者さんの状況が分かれば、安易に「がんばれ、弱音をはくな」と励ますことは患者さんの気持ちを逆なですることである。こうゆうときは森田理論では精神拮抗作用を活用したい。患者さんは猛烈な「死への恐怖」・絶望感が出てくる。しかしその裏にはなんとか生き返れないものか。それにしてもこの痛みは何なんだ。痛みを和らげて欲しい。などの相反する感情が交錯している。その二つの感情で揺れ動いている患者さんにかける言葉は何か。医師としても適当な言葉はなかなかないと思う。そんな時は、患者さんのつらい立場を理解してあげる努力をつづけることしかないような気がする。そんな言葉の一つが「苦しいでしょうね」「つらいでしょうね、しんどいでしょうね」「やるせないでしょうね」ではなかろうか。すると患者さんは思い切り弱音を吐き出すことが出来ます。楽な気持ちになることが出来ます。森田では「共感的受容」といいますね。この気持ちがあれば、相手に自分の「かくあるべし」を押し付けなくなります。
2014.10.23
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学校でも会社でもいじめはあります。「人はなぜいじめるのか」(著者生野照子他 シービーアール)から考えてみたいと思います。この本によると、いじめは繋がりが濃すぎる空間を背景にして出てくるという。確かに限られた閉鎖的学校や会社などの人間集団で生活していると、わずかなことでいじめが発生しやすい。視野狭窄になってしまうのである。井の中の蛙のようなものである。そうなるともはや逃げようがない。だから狭い人間集団だけでの生活はまずいいと思う。そういう意味では、様々な人間関係を数多く持っていることが大切だ。たとえば、年賀状を出す人を思い出してほしい。会社関係の人、学校関係の人、集談会の学習仲間、ボランティアの仲間、趣味や同好会の仲間、中学、高校、大学の同級生、親せき、町内会の仲間、資格試験で一緒に学習している仲間、以前勤めていた会社の仲間など誰でも幅広い人間関係があることが分かります。私は以前500人の人に年賀状出すということを実践したことがあった。実践するためには2年ぐらいかけて、いろんな人と交友関係を作る必要があった。300人ぐらいはなんとかなったがそれ以上は私の場合無理であった。年賀状は比較的薄い人間関係ですが、それも人間関係です。その中には集談会の仲間との交流などは比較的安心できる安定した暖かい人間関係だと思う。困った時の支えとして役立っていると思います。そういう人間関係をいくつか持っていると、極端に落ち込むということはなくなると思います。神経質な人は、コップ一杯の人間関係を数人持てば御の字という人が多い。しかしこれは、何かのきっかけで簡単に崩れてしまいやすい。するとたちまち孤立してしまう。人間関係のコツは、少しだけ水が入ったコップを数多く持っていることだと思う。そしてつきあいは、その時々の必要に応じてくっついたり、離れたりする人間関係を築いていくことだ。森田理論ではこのことを「不即不離」という。人間関係作りの定石である。
2014.10.17
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最近通信手段としてLINEが盛んである。いつも携帯をチェックして、即返事を書かないと仲間外れにされる可能性がある。便利な通信手段のようだが、多くの子どもたちは毎日LINEに振り回されている。気が休まる時がない。今やたくさんの友達がいて、表面的には仲良く、密接につながった状態にしていないと生きていけないのである。親や教師が規則や勉強などでやかましくいっても軽く受け流す子供たちも、友達の関係についてはそうはいかない。死活問題なのである。一日中仲間の動向を気にして右往左往しているのである。我々対人恐怖症の者も、寝ても覚めても人の思惑を気にしている。対人恐怖症の心の状態は、天気でいえば、晴れ間のない曇天か雨模様である。それが一年中続いていると、いつも逃避的で、びくびくして恐怖で怯えた生活となる。ライオンに追い詰められた小動物のようである。本来会社に行くのは、仕事で会社に貢献して収入を得ることである。学校に行くのは勉強をするために行くのである。それぞれの集団の中で人間関係を良好に保つというのは、そのための手段である。今や本来の目的を忘れ、手段の自己目的化が起きているのである。これは本末転倒である。こんなことで苦しんでいるなんてもったいない。これは森田理論の「欲望と不安」の単元で学習したように、不安にのみとらわれた状態である。対人不安から少しでも抜け出る方法がある。自分自身の本来の欲望に目を向けることである。つまり、今何をやるべきなのか、自分は何をやろうとしているのか、何をやりたいのか。なすべきこと、課題、目的、目標、夢を明確にしていくこと。それに向かって集中し努力すること。その際対人的な悩みは一旦横に置いておく。不安と欲望のバランスをいかにとっていくのかに注意を払う必要がある。これは言葉を変えれば、他人中心の生き方から、自分中心の生き方へ転換するということです。私は以前曽野綾子さんの次のような話を紹介した。寿司屋の大将でカラオケもへたくそ。麻雀もカモになる。ゴルフの腕前も最低。経済観念は全くない。教養というものもない。その点では、奥さんをはじめ仲間からどうしようもない奴と笑いものにされている。でも寿司屋の大将は、それらを笑いの種にされても悠然としている。それはなぜか。確固たるプライドがあるからである。自分は寿司を握らせたらだれにも負けないという自信を持っているからだ。その自信に支えられて生きているのだ。もしその自信がなかったとしたら、人の思惑に翻弄されるようになる。守勢一辺倒になり、どんどんと蟻地獄の中に落ち込んでいくばかりである。高良武久先生も、10年一つのことに取り組んでいれば、その道ではエキスパートになれる。そうなれば、人間関係に振り回されることはなくなるといわれています。対人恐怖の人は、これを応用しない手はない。自分の思い、気持ち、意思、欲求、希望に目を向けて生きていくことだ。まずは身近なところから実践していこうではありませんか。
2014.09.09
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人に嫌われる人は、相手と相談するという気持ちを持ち合わせていない。例えば夫婦でレストランに行って夕食をしていたとする。ウエイトレスが「ワインなど如何でしょうか」と聞いてくる。すると妻が、自分に相談しないで、すぐに「いりません」と返事をする。すると夫はどういう気持ちになると思いますか。少し腹立たしい気持ちになると思います。「どうして、僕の気持ちを聞いてくれないのだろうか。妻はいらないかもしれない。でも僕は食前酒として飲んでみたいと思っていたのに」仮にそう思っていたとすると気分がよいはずはありません。「僕は注文するよ」と言えば険悪な雰囲気になることが予想されるので、普通は我慢します。すると余計にストレスが溜まります。こういうことが日常茶飯事で繰り返されることによって、夫婦の人間関係は次第に破たんしてくるのだと思います。でも妻はそのことに全く気が付いていない。相手は優柔不断で自分の意思など持っていないと判断しているのです。小さいことだけれども、妻は夫のことなど眼中にないのだと思います。極端に言えば、自分の気持ちは相手の気持ちだ。相手は私の決定、指示・命令に従えばすべて丸くおさまるのだという気持ちなのでしょう。私も苦い経験がある。家族で食事に行った時のことだ。私はメニューを見て早速オムライスを注文した。すると娘がお父さんはいつも自分勝手だというのだ。私は自分が好きなものを食べて何が悪いのだと思っていた。すると娘が言うには、家族のみんなで意見を出して相談したほうがいいというのだ。ああでもない、こうでもないと話し合いをするのがいいのだというのだ。またせめて子供たちの意見を聞いて、子供が決めた後に親が決めるようなゆとりを持つべきだというのだ。また、そういうお父さんはなんでも自分勝手に決めてしまう。車を買う時でも、マンションを買う時でも、私の勉強机を決めるとき、家族旅行の行先も、レジャーの行先もなんでも自分で決めてしまう。自己中心で、家族を思いやる気持ちがない。相談して家族の気持ちや意向を聞こうという態度がない。本人はいいかもしれないが、家族には大きな不満がある。ストレスが溜まるというのだ。私は娘の言葉ではっとした。長らく森田理論学習をしたのは何だったのだろうか。森田理論では自分の意思、気持ち、希望をしっかり持つことはとても大切だ。これが基本だ。ところがもう一つとても大切なことがある。相手の意思、気持ち、希望を聞いて確かめるということだ。最終的には自分の意向も反映させ、相手の意向も反映させて、双方にとって譲ったり譲られたりする関係を作り上げていくこと。自分のやりたいことをそのまま実行するのではなく、この過程をきちんと踏んでいくこと。人間関係づくりには欠かせないことだと思い知らされたのでした。
2014.09.01
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「共依存」という言葉は知っておられる方もおられると思います。共依存は主に親子、夫婦の間に発生します。親子の場合は自分たち夫婦の両親、そして自分たち夫婦の子どもの場合があります。身近にいる家族で自分を困らせたり、心配をかけたりする人がいるとします。そういう人にたいして世話をしたり、面倒をみることを生きがいにしている人が一方の当事者です。アルコール依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症、浪費癖、ひきこもり、不登校、家庭内暴力、摂食障害、受験を控えた子ども、介護の必要な両親などは格好のもう一方の相手となります。かいがいしく世話をしているので、一見すると家族思いの豊かな愛情と間違います。実態はそうではありません。愛情という名を借りて相手を思うように支配しているのです。森田理論でいう「かくあるべし」を押し付けて、相手を意のままに操ろうとしているのです。おせっかいをする人の大きな特徴は、自分の人生を生きていこうとしていないのです。森田でいうところの生の欲望を持っているわけではありません。一方にそういうものを持って、なおかつ思いやりの精神で世話をしているのではない。つまり人生は退屈でつまらないなと思っていたところに、運よく格好の生きがいを見つけたというようなものです。家族の世話をする。とことん面倒を見る。家族を悪から正しい道に導こうとしている。それ自体が唯一の生きがいになっており、それは少なくとも自己犠牲の上に成り立っています。だから将来自己犠牲が相手から感謝されない、充分に報われないということになるとすぐに反撃したり、自由放任で放り投げてしまうのです。一方、依存してしまった人は、もっと悲惨な人生が待っています。つまり自分が自分でなすべきことを、共依存の相手が世話をして、面倒を見てくれることによって、自分の一人で生きていく力がどんどん吸い取られてしまうのです。世話をされる、面倒を見てもらえるというのは、一見こんなに楽なことはありません。甘い蜜のようなものです。しかしそれと引き換えに、苦労したり、失敗を経験したり、能力を獲得したり、成功して自信を得たりする機会は持てなくなってしまいます。そして、いつか依存関係が崩れた時、自立するための心や体力・気力は骨抜きにされていて、自信もなく不安や恐怖に押しつぶされてしまうのです。目も当てなれない悲惨な人生が待っているのです。これは強迫神経症の原因となっています。アダルトチルドレンという言葉があります。親の育て方が悪かったために、今現在自分が世の中に適応できなくなった。親が果たすべき役割を放棄したために、自分は生きづらさを抱えて苦しんでいるのだ。つまり今の苦しみは機能不全に陥った両親の責任であると思っている人のことです。私はアダルトチルドレンの一つの原因は、実はこの「共依存」ではないのかと思っています。共依存は依存する人もされる人も、将来に希望につながるものは何もありません。では共依存関係から抜け出すためにはどうしたらよいのでしょうか。それは世話をしたり、面倒を見ている人が、かかわりを止めることです。苦しいでしょうが、一歩引いて愛情を持って見守ること、相手が自ら立ち上がるのを辛抱強く待ってあげることです。それが相手のためにもなり、自分のためにもなります。実はこれは森田理論学習の主要なテーマとなっています。森田的生き方は共依存的生き方を否定しています。つまり共依存関係にある双方とも、それぞれに自分の生の欲望を見つけて、大切にして一日一日を生きていくことをめざしています。それぞれが運命を切り開いていく生き方を目指しているのです。
2014.08.30
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横浜国立大学の名誉教授が、妻にマグカップで頭を殴られて殺される事件があった。最近テレビを見ていたら、夫とは同じ墓には入りたくないという人が何人も登場していた。集談会でも夫婦の亀裂が大きくもはや修復不可能ではないかと思われる人が何人かいる。どうもこの世の中夫婦関係がぎくしゃくしている人は案外多いようである。長い間の行き違いが歳を重ねてどんどん大きくなってきたのである。本来心を癒すはずの家庭がこんな状態では、人生味気ないばかりではなかろうか。そうかといって老後の生活費用の関係もあり、簡単には離婚できそうもない。つまり腐れ縁でつながっているだけである。せっかく縁があって知り合ったにもかかわらず、今やお互いに顔を見るのもいや。やることなすことすべてが気に入らない。家庭内別居の状態で実に味気ない生活である。特に老後、このような孤立に追いやられることはとてもさみしいことである。私の知り合いは、定年後夫は田舎で農業をし、奥さんは街中で一人暮らし。ほとんど別れて暮らしている人もいる。そうしないといつも喧嘩ばかりするという。こういう人は、他の人との人間関係はうまくいっているのだろうか。私は問題をたくさん抱えているのではないかと思う。つまりそういう人は、森田でいう「かくあるべし」が強く、相手を自分の思いのままに支配しようとする。支配できないと暴力やありったけの罵詈雑言を繰り返す。これでは夫婦関係は壊れてゆくばかりである。森田では人間関係については、不即不離という。不即不離というのは、引っ付きすぎず離れすぎず適当な距離を保つことを言う。これを発展させて考えると、夫婦はお互いにバランス感覚を磨かなくてはいけないのである。お互いに言いたいことを言い合うのは大変よろしい。これを夫婦喧嘩という人がいるが、私はそうは思わない。お互いに自己主張をしているのである。そしてどこですれ違いを起こしているのか問題点をあぶり出しているのである。これを片方が耐えたり我慢したりしていると、そのうち破綻する。ため込まないうちに、自分の気持ち、意思をしっかりと述べ合うことはよいことだと思う。これにはコツがあり、小さいうちに吐き出してしまうことがお勧めだ。そして非難、指示、脅迫ではなく、「純な心」を応用した私メッセージとして言い合うことだ。現実には、なんとか相手をねじ伏せようとする人が実に多い。自分の言っていることはすべて正しい。相手に有無を言わせず、自分の意見に従わせようとするのである。これは幼児が、その時々の気分のままにわめき散らすのと何ら変わりがない。我々は大人なんですから、相手の意見も聞かなくてはならない。そしてお互いの落としどころを探す努力をするべきである。バランスを意識することです。どちらかに偏りすぎてはいけない。もし今回自分の意見を通すと、次回は相手に花を持たせてあげないといけない。多分人間関係がうまくいっていない人は、この調整作業の手を抜いているのではなかろうか。常に食い違いが存在する。食い違いは、相手の言い分もよく聞いて妥協していかないといけない。必ず調和を求めて付き合わないと、すぐにバランスを崩してしまう。バランスが崩れるということは、自らの存在自体を危うくするものです。気を付けたいものです。
2014.08.28
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生活の発見会で世話活動をしていると、他人に体験発表を依頼したり、世話活動をお願いしたり、幹事になることを了解してもらう交渉をしなければならないことがあります。これは会社や家庭、同好会などでも発生します。対人恐怖の人はこれがとても苦手です。依頼して、なんとか見え見えの理由をつけられて断られるのではないかと勘繰るからです。人から自分を受け入れてもらえないで、拒否される、無視される、否定されることを極端に恐れているのです。そんな不快な思いをするのだったら交渉しないでおこう。自分が一人で背負い込むほうがよっぽど気が楽だ。そして少々キャパオーバーになっても、自分一人でやろうとしてしまう。そして過労で心身ともに行き詰まってしまう。仲間と分担してやれば自分の負担が減って楽になり、相手も貴重な経験ができるのに頭では分かっているのに、体がついてゆかないのです。これは森田理論学習でいう気分本位の態度です。普通の人はどうしているのか。だめでもともと。うまくまとまらないだろう。だけど交渉してみなければ話にならない。なにも行動しないのはストレスが溜まるという考えです。話すだけ話してみよう。仮に話がまとまればもうけもの。断られることもあります。どちらに転ぶか全く予測不可能です。でも交渉の過程で、相手の表情や態度、言動から将来を予測することができます。今はまだ早い、話にならない人だ、別な人を探そう。また今は話すタイミングが悪かった、時期をずらしてまた頼んでみよう。今度は話の仕方を変えてみよう。自分よりも彼に交渉してもらおう。などということが分かります。つまり観察によって、次の行動の手がかりを得ることができます。これは思い切って話すことによって弾みがついたということでもあります。このようにして自分が素直に引き下がるか、時を変え、戦法を変えてリベンジの機会をうかがっているのです。面白い話があります。電話セールスでは、1回目ではほとんど断られます。ここでもう二度とその顧客と関係を持とうとしないセールスマンが多いそうです。あの人は一回断ったからもう絶対にダメだと先入観で判断してしまうのです。成果を上げるセールスマンは2回目の電話ができます。また断られます。手を変え品を変えて3回、4回と電話をしますが断られ続けます。時には「お宅はしつこすぎる。」などと罵声を浴びせられます。でもくじけずに5回目の電話をします。ここで相手がセールスマンの熱意に根負けして成約に結び付くということがあるそうです。この時点でついに成果をつかんだのです。普通の人は、断られるというのは織り込み済みなのです。断られる時が出発点という考え方です。その理由をよく聞き、自分の気持ちと妥協点を探して、もし折り合いがつけば御の字という考え方なのです。我々対人タイプの人は、結婚したいような人がいても、自分から積極的に接近するということが苦手です。相手がどうしてもというのなら、仕方ないから付き合ってあげようかというような傲慢なところがあります。それでみすみすチャンスを逃して後で後悔するのが関の山です。「ダメでもともと、うまくゆけばもうけもの」というキャッチフレーズを明確にして臨みたいものです。森田理論学習で、最悪の結果を受け入れることができる能力を獲得しましょう。
2014.08.04
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栄陽子さんという人がいる。この方は海外留学の相談業務の事務所を開いておられる。興味のある方はホームページをご覧ください。この方が夫婦げんかのことを書いておられる。結婚した途端夫婦喧嘩が絶えなかったそうです。ところが2年ほどしてピタリとやんだそうです。それは栄さんがあることに気づいたからです。亭主と私では、私のほうが気が短い。だからけんかをふっかけるのは、いつも私です。彼は私がまくし立てるのを我慢して聞いている。私のほうは、我慢できなければ3日でも4日でも平気で続ける。そして私があまりにしつこいと、今度は突如、彼が腹を立てる。それが我が家の夫婦喧嘩の構造だったのです。私は対応を変えました。問題が起こったら、まず私のほうが、爆発して怒りを解放する。そして自分で「しつこいな」と思うところでブレーキをかけて、矛先を弱めればよい。徹底的にけんかをしたおかげで、けんかをしないですむ方法を見つけたのです。前提として、10癪に障ることがあると、我慢したり、ため込まないほうがよい。全部言葉に出して吐き出したほうがよい。肝心なことはその後です。相手のことを少し思いやる。それでその後の展開が全く違ってくるのです。もしそういう気持ちを双方ともに持たないで、各々自己主張を繰り返すと、最後は離婚する道しかなくなる。早く離婚したほうがよい。この話を聞いて3つのことが印象に残りました。1番目。栄さん夫婦はもともと妻が主導権を持ち、夫がそれに従うという形ができていた。これが双方とも主導権を持っていると最初からうまくいかなかっただろうと思う。調和がとれていたのである。森田先生も神経質者同士の結婚はよくないと言っている。磁石でいえばプラスとマイナスがくっつきやすいのと同じような理屈だ。2番目。自分の感情や気持ちは一番に尊重しなければならないということである。自分の怒りや不快な感情を抑え込んだり、相手のために我慢したり、耐えたりしてはいけない。ストレスが溜まっていつか大爆発を起こすからである。出来るだけ早く、その場で吐き出すことが大切である。出来るだけ小さいうちに小出しにして吐き出すことが大切である。その際「私メッセージ」の活用は強力な支援となるだろう。3番目。自分の不快な感情や気持ちを一方的に主張して、相手を自分の意のままに操るなどということは決して良いことではない。相手の主張や気持ちも素直に聞いてみなくてはならない。そして自分と相手の妥協点を探ることだ。これはWIN WINの法則である。あるいは親業では「勝負なし法」ともいう。以上3つの点を自覚して人間関係に活かしてゆけば、良好な関係を築いてゆけるだろう。(「逃げ上手」ほど生き上手 栄陽子 ヴィレッジブックス新書を参照しました。)
2014.07.22
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マンションではよく騒音問題が起きる。小さい子どもが上の階にいると下には相当音が聞こえる。私が管理人をしているマンションでもある特定の人がいつも問題を起こしている。その人は年配の奥さんなのだが、外にほとんど出ることはない人である。上の階には5歳ぐらいを頭に3人の子どもがいる。多分部屋の中を走り回っていることだろう。うるさいとその奥さんは、長い箒の柄のようなもので、天井をコツコツと叩くのだそうだ。昼間だけではなく、夜も頻繁にコツコツと音を出す。するとその音は上の階だけではなく、下の階や隣近所にも響く。自分が騒音を出すことによって、多くの人がその奥さんに対して腹を立てるようになった。先日は警察官が出動する騒ぎになった。こうなると収束はとても難しい。双方が犬猿の仲になっているし、上の階の人は近所の人の支援を受けて対決姿勢を鮮明にしている。下の階の人は当初被害者だったのに、今は加害者として近隣の人に認知されている。孤立無援の状態である。今や管理会社、管理組合に対して上の階の騒音を止めさせてくれと毎日のように要請がある。上の階の人は味方をたくさん従えて聞く耳は持たない。先日は開放廊下で大喧嘩をしていたそうである。この先テレビでよくあるような殺傷事件に発展しないことを祈っている。これは最初のイライラした時が肝心だったと思う。その時、上の階に行って冷静に事情を話すのが基本だったと思う。騒音を出しているほうは、最初はどの程度の騒音が発生しているのか、あるいはどの程度迷惑をかけているのか気が付いていないのである。今まで一回もクレームの話がないと、この程度の音は許されているのだと誤解してしまう。だから自分の気持ちは相手に伝えなければならないのである。話すことによって相手が初めて気が付くことがある。耳障りなことを聞くことは誰でも嫌なものではあるが、長い目で見るとそれは自分を救ってくれている。その後相手が子供に注意する。部屋の防音対策を立てる。場合によっては、これはまずいと思って引っ越すことだって考えられる。まずは解決の第一歩を踏み出せるのだ。今回の場合は、年配の奥さんは長らくイライラしながらも我慢して、耐えていたのである。最初はマンションというのはお互い様だし、少々のことは大目にみようと考えていたのだろう。ところが、毎日のように騒音が繰り返されて、精神交互作用で怒りは最高潮に達した。そして相手がそういう態度なら仕返しをしてやろう。そうしないと腹の虫が収まらないという状態に発展してきた。これを森田理論で説明すると、最初にイライラしたという気持ちから出発すればよかったのである。その気持ちを相手に直接話す。この場合は私メッセージを活用してみる。相手に話すのが嫌なら家族でどうしたらよいか相談してみる。管理会社に相談してみる。理事会に議題として取り上げてもらう。マンションのトラブル解決窓口に相談してみる。などいろんな解決方法があったはずである。ところがこの奥さんは、我慢に我慢を重ねた末に大爆発を起こしたのである。最悪である。小さな怒りでも蓄積されれば、ダムの決壊を招く。私も人間関係で大爆発を起こしたことは過去に何回もある。その後の修復はほとんどの場合不可能であった。その人とは疎遠になり、さらにそれを見ていた人とも疎遠になってしまった。それでもよいという気持ちならばよいかもしれないが、そこから得るものは何もない。
2014.07.04
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会社の中でも、親子の間でも意見の対立は常に存在します。その前提に立って、その事実を自覚しながら生きていくことはストレスを軽減する意味でもとても大切なことです。そうした自覚を持つことができれば、自分勝手の考えで相手を抑え込むということがなくなります。また相手にすべて合わせて盲従するということもなくなります。またその時々の気分に応じて、ある時は自分の意地を押し通そうとしたり、またある時は他人の主張にイヤイヤながら追随するといった優柔不断な態度が改められると思います。そのためには、まず自分の気持ちや意思をしっかりと持つことです。そして自分の気持ちや意思を分かりやすく相手に説明する。相手に自分のことを分かってもらうように最善を尽くす。それから自分の気持ちや意思は横において、相手の言いたいことに素直に耳を傾けてみる。理解するように努力してみる。最後に自分と相手の言い分の違いを整理してみる。相手と自分の双方にとって一番よいと思われる道を自分なりに考えてみる。妥協点を探っていくのです。これで自分の意見を一方的に通してしまおうという考えは少なくなってくると思う。反対に、相手に無条件に屈服するということもなくなってくると思う。これがストレスにさらされない対人関係のコツとなります。これは森田でいう精神拮抗作用の考え方です。どちらにも偏らない、どちらにもきめつけない考え方です。バランスのとれた考え、調和のとれた考えということになります。これは親業でいうと「勝負なし法」の考え方です。この世の出来事は常に流動変化しています。その中身は常に相対関係にあり、互いに影響を与えたり、与えられたりしています。人間関係も例外ではありません。バランスを無視すると、自らを破壊して、存在することすらできなくなります。
2014.06.18
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あなた おまえ呼んで呼ばれて 寄り添ってやさしくわたしを いたわって……好きで一緒に なった仲喧嘩したって背中あわせの ぬくもりがかようふたりは ふたりは二輪草おまえ あなた春がそこまで 来たようだよかった一緒に ついて来て……雨よ降れ降れ 風も吹けつらいときにも生きる力を くれるひとどこに咲いても ふたりは二輪草カラオケでよく聞く曲である。軽快な曲なので私も好きな曲である。でも40代以降でも、こんなに一心同体のような夫婦があるのだろうか。どうも信じがたい。森田理論学習をしてきて思う。もしあるとすれば、夫婦どちらも自己主張が強い夫婦。ことあるごとに、派手な夫婦喧嘩を繰り返す。今度こそは離婚してやると双方が真剣に思う。気が付けば妻が子供を連れて実家に帰っている。でも何日かするとまた舞い戻っている。反発するけれども、どちらも相手の言い分はよく聞く夫婦。近所ではどうしようがない夫と言いながらも、夫自慢もしている。そして時には相手に無理難題を押し付けて自分の意見を押し通す。時には相手の意見を受け入れて引き下がる。それの繰り返し。そんな夫婦が固いきずなで離れがたい夫婦になるのかもしれないと思う。そういう人は、生まれ変わってもまた夫婦になるのかもしれない。でも、生まれ変わったら別の人と結婚したいという人が多いというのはどういうことだろうか。残念だが、私もそんな感じになってしまった。
2014.06.01
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平井さんがまだオムツのとれない孫の赤ちゃんを二泊三日で預かりました。嫁が言い残したことは、夜の11時ごろ泣くので、その時にオムツを替えて、少し布団を叩いているうちに寝入ってしまい、その後明け方までぐっすり眠るということでした。ところが預かった当日は1時間30分にわたって泣き続けたというのです。次の日も状況は変わりませんでした。平井さんは次のように分析されています。赤ちゃんがはっきり目を覚ませば、おじいちゃんおばあちゃんが世話をしてくれているという認識が生じたでしょうが、半覚せい状態でとろとろしていてその認識ができなかったのです。そのような状態の時、おかあさんとは違った手さばきのオムツ替えや布団のたたき方であることが、孫を不安にしたのだと思います。その証拠に親たちが帰ってきてからはそんなことは全く起きませんでした。3歳までの子どもは、外部の刺激を受け取ってそれが心の深層で根づいてしまっているように考えられます。体の発達には熱心な親が多いようですが、心の発達、特に情緒面や自発性の発達については無関心でいることが多いものです。育児放棄などはよほどのことでしょうが、共働きで3歳までの子供との日常の接触時間が少なかった。または子供との情緒的な肌の触れ合いを避けてきたという場合は、思春期になって問題が出てくる可能性があります。マズローの欲求5段階説の3番目に、暖かい人との交流を求めて、集団への帰属欲求があるといいます。これが小さいときに阻害されると、トラウマとなってそれ以上の欲求には高まっていくことが困難になります。強迫神経症の対人恐怖の原因の一つになっているかもしれません。そういう自覚があれば、今からでも遅まきながら、そういう信頼しあえるグループをいくつか見つけることが大切になります。積極的に参加するなどして、人間同士の暖かい交流の機会を持つことが大切だと思います。その一つとして生活の発見会の集談会を利用してみてはいかがでしょうか。
2014.05.31
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相手を思いやる。相手の立場になって考えると人間関係はとてもスムーズになる。しかし、これをモットーとして心に誓っても、たいてい3日坊主で終わってしまうであろう。そしてすぐに「自己中心」が出てきて元の木阿弥になる。それを考える前に「自己中心な人」はどんな人なのだろう。第一に過保護で育てられた人。第二に過干渉で育てられた人。第三にほったらかしで育てられた人。過保護で育てられた人は、わがままし放題である。物質的金銭的な欲望を制御できない。欲望が満たされないと、他人のせいだと思う。被害者意識に陥りやすい。こういう人は「思いやり」とは無縁の人である。それこそ絵に描いた餅になるだろう。過干渉に育てられた人。「かくあるべし」を押し付けられて、人の思惑を気にする人になる。自分の感情、意志、希望を抑圧して、自己嫌悪、自己否定して生きるようになる。いつも何かに怯えて、ストレスをため続けている。こういう人は自分を守ることに精一杯で他人を「思いやる」気持ちのゆとりは持てないのです。放任されて育った人。後ろ盾がない人です。親が守ってくれない。一人海に投げ出されてしまったようなものです。そういう人は自分で自分を守っていくしかない。でも限界があります。人間は味方がいなくなるとすぐにつぶれてしまいます。こういう人も他人を「思いやる」気持ちにはなれません。ではどうすれば、相手を「思いやる」優しい心は生まれてくるのだろう。そういう生育環境を持ったまま「思いやり」のある人になることができる道があります。それには次の3つのステップを踏むことが必要です。1、 自分の喜怒哀楽などの感情を大切にする。自分の気持ち、思い、欲望、意志、希望をはっきりさせる。自分の感情、気持ちに気づくことです。自分の○○したい、○○したくないという欲求に気づく。自分の「好き、嫌い、快、不快」という感情から出発する。相手よりもまず自分の意思を優先する。自分の気持ちを基準にして「断る、引き受ける」ことを心から認める。次に可能ならこれらを私メッセージとして相手に伝える。2、 他人の喜怒哀楽などの感情を大切にする。他人の気持ち、思い、欲望、意志、希望を聞いてみる。他人の感情、気持ちに気づくことです。他人の○○したい、○○したくないという欲求に気づく。他人の「好き、嫌い、快、不快」という感情を知る。相手の「断る、引き受ける」気持ちを心から認める。この作業が相手の立場に立って考えるということです。3、 最後に自分と相手の考え方の違いを明確にして、溝を埋めてゆく努力を重ねることです。双方で話し合うことです。妥協点を見つけて、折り合いをつける努力を重ねていくことです。完全に折り合うことは難しいかもしれません。ここでは折り合いをつけることが目的ではありません。そのための努力をしているかどうかが問題です。こうしたスタンスをとれば、相手に一方的に「かくあるべし」を押し付けることはなくなる。標語で「思いやり」のある人になろうというのではなく、事実として「思いやり」のある人になれる。
2014.05.26
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それよりも、事実を十分に把握することに力をいれてゆきたい。そしてもっと自分が楽に生きてゆけるように、多少なりとも生き方を修正してゆきたいものです。次のように考えたらどうでしょうか。まず1ですが、我々の目的は神経質性格を存分に生かして、満足感の持てる人生を送ることである。その目標が明確であれば、いたずらに不安や恐怖と格闘することは避けたい。生の欲望の発揮にしっかりと舵を切ってゆきたい。2は、我々はいつも暖かい人間関係に身を置いておくことが大切だと思う。家庭、集談会、趣味の会、同級生、職場、親せきなどいろんなグループがある。広く浅く心温まる人間関係を築いておくことは必要である。これはその気になればできることです。3は、好奇心のあるものにはどんどん手を出していく。そして一人一芸を身につけてみんなを喜ばす。次に、自分の感情、意志、気持ちを大切にして、前面に打ち出す。そして「純な心」を生活面に応用して、「私メッセージ」で相手と交流する。さらに、自分の気持ちをしっかり持ったうえで、相手の気持ちや意向をしっかり受け止める。そして自分と相手の気持ちのすり合わせを行う。妥協点や調整点を見つけて、折り合いをつけるようにする。4は、欲望の暴走は問題を起こす。森田理論の「精神拮抗作用」をよく学習して欲望と不安のバランスを意識することである。欲望の追及に力点を置いて、適度にブレーキをかけて調和のある生き方を目指すべきである。5は、自分にも他人にも「かくあるべし」の押し付けは絶対にしないこと。これが神経症発症の最大の原因を作る。これは森田理論学習のメインの学習テーマです。「かくあるべし」を抜け出して、事実本位、物事本位の生活態度を身に着けたいものである。完全にできなくてもよい。1割でも2割でも改善できればよしとしたい。それで十分です。生きることがとても楽になると思います。
2014.05.25
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その際もっとも参考になるのは平井信義氏の考え方である。平井氏の親と子供のかかわり方を学習すると、子どもの成長段階に応じて、これは外してはならないこと。子どもにしてあげなければいけないこと。反対に絶対にしてはならないことが明確に示されている。次に要点を示してみたい。1、 子育ての目標をしっかり持つこと。勉強のよくできる子、親の言いつけをよく守る「よい子」を育てることが目的ではない。意欲のある子、好奇心旺盛で自発性があり、自己主張ができる子。自立心がある子、思いやりのある子に育てることが目標である。2、 赤ちゃんの時はスキンシップ、情緒的安定を図ること。触れ合いを大切にすること。泣き叫んでいるときに放任するようなことはよくない。3、 物心がつくと子どもに自由を与えること。そして数多くの経験と体験を積ませる。反抗期、いたずら、けんか、おどけやふざけを許容する。出来るだけ自由を与える。しつけと称して「かくあるべし」の押し付けはさけること。4、 ただし自由をできるだけ与えることは必要だが、自由の暴走はさせないように見守っていくこと。5、 そのためには過保護、過干渉、そして放任して突き放すことは絶対に止めること。神経症で苦しんできた我々は、生育過程のどこかに問題があったと思える。それを自覚してゆくこと。これがとても大事なことである。その前に一つ断っておくことがある。親の育て方を、非難して恨むことはいったん封印しましょう。親をいくら恨んでも何にもなりません。
2014.05.25
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親が子供に対してどのように対応したのかということは、子どものその後の人生を大きく左右することは分かっている。高校を卒業して親の元から巣立ち、自分の人生を自ら切り開いていってくれれば御の字だ。ところが現実は厳しい。不登校、いじめ、家庭内暴力、非行、盗み、無気力、心身症、神経症、孤独、自殺など問題行動が後を絶たない。対人恐怖症で苦しんで、人生の半分を棒に振った人間として考えていることがある。今からでも遅くはないから、子どもと親のかかわり方について学習してゆきたいということだ。それはなぜかというと、第一に孫の生育にかかわるからである。自分の子どもにもヒントを与えることができる。子育て真最中の人にとっては、先人の知恵は役に立つことだろうと思う。次に死ぬまで人間関係は続くのであるから、今後の参考に供したいのである。自分の育ってきた経過をたどることによって自覚が深まる。つまり自分の生育過程のどこに問題があったのかがよく分かる。問題点がはっきりすれば、多少なりとも対策が立てやすい。リセットして一から生き直すことはできないが、生き方に修正を加えることはできる。我々は苦悩を背負ったまま、これから先まだまだ生きてゆかなくてはならないのだから。
2014.05.25
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対人恐怖の人は、幼児の頃親に甘えさせてもらえなかった。それから少し大きくなって自分の意志で行動しようとしていると、ダメ出しをされて自由な行動が制限された。あるいは親が先回りして何でもかんでも手を出してしまうので依存的な子供になった。対人恐怖症になったのは親の責任だ。親はきちんと責任をとるべきだ。といっていつまでも親を恨んでいる人がいます。以前の私もそうでした。もっとも今は違いますが。しかし私は完全な親はどこにもいないと思います。また親を恨んでも事態がよくなることはありません。かえって悪化するばかりです。それよりも今の対人恐怖症の自分を認めて、社会生活が多少なりとも楽になるように行動すべきだと思います。それにはまず人を愛し愛される体験を遅まきながら追体験することだと思います。そのためには居心地の良いグルーブに所属して、癒したり癒されたりする体験を持つことです。子供の頃に持てなかった体験を取り戻すのです。これは私の体験からいって、とても大切なことだと思っています。少しでもそういう体験ができれば何とか生きていけるようになります。苦しいときは、学校や職場、家族の人間関係が中心になっていると思います。それも大切なことです。しかし実際には硬直化して逃げ出したくなるような関係になっていませんか。閉塞的で抜け道ないのでは困ります。最後には人間関係を避けて一人で過ごすことが多くなります。それはまずいいパターンです。もし問題を抱えていれば、他で居心地の良いグループを探してみませんか。森田理論学習をしている人は、生活の発見会の集談会の人間関係があります。神経症という悩みを持った仲間ですので、共感が持てます。学習だけではなく、できたら世話活動、懇親会、野外学習、一泊学習会、支部研修会、全国研修会などにも参加すれば親しい仲間ができると思います。私は全国に友人ができました。この仲間から困った時に何度助けてもらったかわかりません。それ以外も、趣味、同級生、地域社会、町内会、以前の職場の仲間、親せき、習い事などのグループなどなど、その気になればいくらでもあります。一つでも二つでも探して参加してみませんか。その際注意点があります。私は広く浅くの付き合いがよいと思います。あまり、引っ付きすぎると問題が発生したときに収拾がつかなくなります。時と場合に応じて、できれば癒しのグループをたくさん持っておくことです。付き合いのコツは森田理論学習でいう不即不離を心がけてください。次にグループに入る時は、他人のために役に立つことをするという気持ちが大切だと思います。人が自分のために癒してくれるのを待つのではなく、自分から人を癒してあげる側面も忘れてはいけないと思います。
2014.05.10
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子育ては「こんなに楽しいものだったのか」「子育てがこんなに楽でいいんでしょうか」という人がいます。そういう子供は親に信頼されています。自分をかけがいのない人間だと認めています。そして安心して自分のやりたいことに精一杯挑戦してゆくようになります。それは後ろ盾として親がしっかりと見守ってくれているという安心感があるからです。最後に親の元から巣立って、一人で人生を切り開いていけるようになります。そういう子供になってほしいという願いはすべての親が持っていると思います。でも現実はうまくいっていないことが多いようです。子どもを自分の所有物として、意のままに操ろうとしているからです。うまくいっている親は、自分の期待を自分の子供に課すのではなく、子供の行動を好奇心をもって見ておられるようです。そして子供を積極的で前向き、好奇心いっぱい、自立させるという大きな目標を持っておられます。子どもの自立を促すことを目標にして子育てをしていると次のようになります。子供の自立を目標に子育てをしていると、目先の行動に振り回されることがありません。子供の自立を目標に子育てをしていると、誰が責任をとる問題なのかを考えるので、親は忙しい思いをしなくてすみます。子供の自立を目標に子育てをしていると、子供の失敗は、子供が成長するチャンスと考えるので、冷静に対応できます。子供の自立を目標に子育てをしていると、子供を勇気づけることが自立への近道だと分かるので、子供とけんかをすることが無意味であると分かり、トラブルを避けるようになります。子供の自立を目標に子育てをしていると、協力することの楽しさを子供に伝える工夫を考えるので、親自身が生き生きするようになります。「かくあるべし」という理想を前面に出して子育てをするのではなく、「どんな子供に育つのだろう」と親自身が子供に興味と関心を示して子供に接したとしたら、子育てはとても楽しく、ワクワクできるものとなり、それは子供にとって何物にも代えがたい贈り物となることでしょう。この投稿は「ぼくお母さんの子どもでよかった」PHP研究所を参照しています。
2014.04.02
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配偶者、両親、子供、部下の話をよく聞くということは難しいことです。「いま忙しい」「そんなことは分かっている」「何回も言わないで」「しつこい、くどい、うるさい」「またですか」「後で聞くから」といって相手の話を無視したり、拒否したり、否定することはありませんか。仕事をしながら、新聞を読みながら、テレビを見ながら相手の話をいい加減に聞いていることはありませんか。これは相手には興味がない、関心がないといっているのと同じです。マザー・テレサは愛の反対言葉は「無関心」であるといっています。「無関心」は相手をないがしろにしている究極の言葉だそうです。せめて集談会では相手の話をよく聞いてあげてほしいものです。生活の発見会では「受容と共感」を重視しています。受容とは相手のありのままを受け入れることです。共感とは相手の身になって考えることです。相手を受容ができるようになると、自分の不安、恐怖も受容できるようになります。つまり神経症の克服につながるのです。関東地区の森田理論学習の研修から傾聴のポイントをあげておきます。1、 聞く人は相手に寄り添うように、相手の話をよく聴き、途中で割り込んだり、先回りしたり、結論を出さないようにする。2、 聴いているという態度を明確に示す。声のトーン、相づち、うなずき、オウム返し、確認、わからないところは質問する。3、 沈黙があっても待ってあげる。十分に相手に考える時間を与える。4、 しゃべりすぎない。特に自分の先入観や価値観で、相手を評価したり、判断したり、批評したり、説教したりしない。5、 自分の気持ちや感じたことを伝えるときは、私メッセージで伝える。私はあなたの話を聞いてこう感じました。
2014.03.01
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タモリと赤塚不二夫の人間関係は面白い。お互いを思いやる優しい心には舌を巻く。赤塚不二夫は都心の自宅マンションはタモリに住まわせ、自分は木造の二階の家に引っ越して、「おそ松君」「天才バカボン」などの漫画を描いていた。赤塚氏は「タモリは今まであったことのないすごい才能を持った男だ。彼のような男に下積みの生活をさせたら時間がもったいない。彼の才能にはこれがいいのだ。」と常々言っていたそうです。そのうちタモリは日本で知らない人がいないくらいのタレントになりました。「笑っていいとも」今年3月で終了するそうですが31年も続いたそうです。反対に赤塚不二夫は売れなくなってきました。そんな時タモリがやってきて、今度会社を設立することにしたので顧問になってくれといったそうです。顧問料として毎月30万円ほど振り込んできたそうです。赤塚氏はタモリのウソは見抜いていました。周りの人に言っていたそうです。「タモリは架空の会社を作って、俺に顧問料を振り込んでくれているんだ。」でもタモリから振り込まれたお金は決して手を付けることはありませんでした。「タモリのような芸人という職は、いつ売れなくなるかもしれない。その時のためにこのお金はとっておかなくてはいけない。」またタモリは赤塚不二夫に「あのベンツを1千万円で売ってくれないか」とか、「あのキャンピングカーを500万円で売ってくれないか」とかお願いしたことがあるそうです。これは実際に欲しいのではありません。お金で困っている赤塚不二夫を傷つけないようにお金を回してあげていたというのです。二人は取っ組み合いのけんかをしていたそうですが、心奥深くではお互いに信頼しあっていたことがよく分かります。うらやましい人間関係です。もともと赤塚さんという人は不思議な人です。所有欲というものがほとんどない。自宅にも多くの人が勝手に寝泊まりしていたというのです。みんなと毎日宴会をやることが楽しみだったというのです。それも各自とっておきのかくし芸大会をして大いに笑っていたというのです。人間味があるというか、あるがままの自然な生き方を実践していた人です。型破りだけれども魅力いっぱいの人です。昨年の7月17日と5月19日も赤塚さんの投稿がありますのでご覧ください。
2014.02.24
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光秀は信長の気まぐれな言動に翻弄されながら、我慢して耐えてばかりいた。光秀は一時も気が休まることはなく、常に否定され、批判され、拒否され、抑圧され、心の中には、虚しさ、無力感が積み重なっていった。そのうち抵抗する力がなくなり、信長に抵抗することをあきらめていった。これはメダカのような小さい魚を入れた水槽に、その小さい魚を食べる大きな魚を入れてみるとよく分かる。最初小さい魚は食べられないようによく逃げ回る。ところがしばらくすると、小さい魚はどんなに逃げ回ってもいつかは食べられてしまうと悟ってしまう。するともう動き回ることはしない。抵抗することをあきらめて生きるようになる。夢遊病者のようになるのである。でもあきらめても、光秀の心の中では信長に対する怒り、憎しみ、恨みが渦巻き、一発触発状態になっていたのです。その恨みはただ殺すだけでは気がすまない。出来るだけ苦しませて殺したいというほどに恨みが膨れ上がっていったのである。そんな光秀の心の中を、感情を無視してきた信長が気づくことはなかった。ここで森田理論の学習をする我々が学ぶことは何か。不快なイヤな感情は、我慢したり押さえつけたりすると光秀のようになるということです。我慢したり耐えたりしてはいけない。たとえば小さいうちに、言葉にして私メッセージで吐き出すということが肝心ということです。光秀の場合は信長の前ではなすすべがなかったのでしようか。こういう場合逃げてもよかったのではないか。むしろ一刻も早く逃げることが正解だったのではないだろうか。また信長の部下から降りるという道はなかったのでしょうか。それ以外になんでもいいのですが、自分を守るという行動を探してほしかったと思います。戦国時代はそんな甘い考えは許されないのかもしれない。すると理不尽な運命だけれども、それに従って生きるしかすべがないのかもしれない。何ともやりきれない光秀の一生であった。
2014.01.28
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次に明智光秀。59歳で農夫の竹やりを受けて死んでいる。織田信長よりも12歳年上であった。15年間も信長の部下として仕えた。その間信長の冷たい仕打ちをたびたび受けていた。それが本能寺の変で爆発したのである。明智光秀は元々口数の少ない、物静かで穏やかな人であった。自分の領地では、農民の安定を強く望んでいて、農民の税を減らすように努力していたという。戦いでも力で制圧するというより和議に持ち込むというやり方を好んだ。頭脳明晰で学究肌の風流人であったそうだ。戦国時代というのは、光秀にとっては生きにくい時代であったことだろう。今の時代だと研究室にこもり、自分の研究をまとめて学会誌に発表して生活しているような人だったのです。それが第一線の営業本部長を、有無を言わさず押し付けられているようなものなのである。さらに上司はヒットラーのような独裁者であったのだ。戦国の時代に武将として生きたこと、信長の部下であったことが彼の最大の不幸であった。こんな事件があった。本能寺の変の3年前のことだ。光秀56歳。信長45歳の時のことだ。1579年中国地方平定の一環として、信長は光秀に丹波出陣を命じている。光秀は粘り強く説得を重ね、「命を奪わない」という約束を信長に取り付けてやっと波多野秀治兄弟を投降させて幕引きを図った。ところが信長は、その約束を無視して波多野兄弟を安土にて磔にしたという。光秀の努力も面目も丸つぶれである。何よりも面子を重んじる光秀を深く傷つけた。信長はこうした光秀のプライドを傷つけるような行為を繰り返している。
2014.01.28
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子供も巣立ち、定年を迎えた夫に妻が、離婚を切り出すことがあるという。夫にとっては青天の霹靂で、なんで今更。「おまえがそんなことを考えていたなんて考えてもみなかった」という言葉が出てくるそうです。奥さんは年金を分割して、退職金も半分ずつにして自分の人生をもう一度やり直したいと思っているのです。こういう家庭は亭主関白だったのではないでしょうか。旦那は「かくあるべし」で奥さんをあごで使い、奥さんの話は、新聞やテレビを見ながら聞き流す。旦那は自分の好きなように、お金を使い、時間を使い、楽しんできたのです。そのつけが表面化してきたのです。これを森田理論の感情の面から考えてみましょう。よくオーナーワンマン社長で部下を虫けらのように扱い、罵詈雑言を浴びせる人がいます。部下は辞めさせられると困るので、黙って社長の言うことに従います。ところがそんな扱いを受けると、部下は不平不満をどんどん蓄積していくのです。ところが、ワンマン社長にしてみると、素直に従ってくれたので何も問題は起きていないと思ってしまう。このままでも部下はどこまでもついてくると思ってしまう。そういうことが重なると、たまに部下が切れそうになっても、反省するということはなく、無頓着に見逃してしまう。つまり、部下の感性は感じられない人間になってしまっているのです。一方部下のほうは、腹立たしさを我慢したり耐えたりしているうちに、痛みに対して鈍感になり、麻酔をかけたように感性が鈍ってきます。ところが、表面では何事もなかったように見えても、無意識の感性の中では憎しみが積み重なり、恨みへと変わっていきます。さらにはけ口がないと、諦めに代わってきます。さめた人間に代わってしまうのです。これは無意識の中で起きていることで、表面的には穏やかなので、はっきりとは気づきません。ワンマン社長がそういう社員を見ると、オドオドして怯えているように見えるのです。そうするとますますいびり倒すことに拍車がかかってしまう。その悪循環の繰り返しです。しかしいったん諦観者が、反旗を翻すと恐ろしいことになります。感情的にその場限りの反抗では終わりません。執念深く、徹底的に相手を打ちのめすまで冷徹な復讐を行います。夫婦の離婚問題は、このような二人の人間関係が長らく続けられてきたということです。溝は深く修復は難しいと思います。却って、普段から自分の気持ち、感情をお互いにぶっつけあっていたほうが、雨降って地固まるように、夫婦のきずなは深まるのではないでしょうか。それほど感情は大切なものです。感情は押さえつけたり、いい加減に扱ってよいものではありません。最優遇対応で取り扱うべきものです。無くてはならない大切なものです。私は「感情取扱主任技術者」の国家試験を設けてもいいぐらいに思っています。それもレベルによって3段階ぐらいに分かれると思っています。それに合格した人が、結婚して親になったり、あるいはリーダーとして人をまとめる仕事に就くべきだと信じています。リーダーというのは、やりたいという意志と素質があるかどうかが重要です。そうでない場合、自分も部下たちも苦渋の葛藤を抱えることになります。
2014.01.26
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ハワイでは、夫が妻に「俺についてこい」と言って歩き始める。しばらくして後ろを振り返ると、妻は反対方向に向かって歩いていたという笑い話があります。日本では昔妻は夫の三歩後ろをおとなしくついて来るのがよいとされていたという。そういう意味では日本もハワイ並になってきたようだ。ところが二人がお互いに自己主張するものだから、一向にかみ合わないということで悩んでいる夫婦も多い。それは離婚の増加で見て取れる。最近は結婚件数70万から75万件に対して、離婚件数25万件程度である。結婚しても3件に1件は離婚している。皆さんの周りにも離婚経験者は多数おられることだろう。森田では、同じ性格の人の結婚はよくないという。たとえば、神経質性格同士はよくない。これは実感としてよく分かる。同じ趣味を持つ人同士、同じ仕事を持つ人同士はお互いにメリットがある反面、デメリットも大きい。それはいつも引っ付いた状態だからだ。これは森田理論学習の「不即不離」から見るとバランスが悪い。磁石でもプラスとプラスは反発ばかりする。プラスとマイナスは離そうと思っても自然にくっついてくる。結婚も基本的には、自分とは反対の性格の人同士で一緒になり、お互いの不足を補うというのがうまくいくコツだと思う。また自己中心的な人同士の結婚も難しい。ただし、これは神経質の人のように、自分の気持ちを抑圧しないで、相手にぶっつけているのでまだ救いはあると思う。「雨降って地固まる」ということわざがある。お互い自分の感情や気持ちを吐き出しているのはよいのだが、ピントはずれている。吐き出し方を森田理論学習でよく理解してほしい。つまり自分の感情や気持ちを素直に出しているのではない。自分の「かくあるべし」を相手に押し付けて、自分の意のままに、相手をコントロールしようとしていることが問題になるのである。お互いが、それが当たり前な自然な人間関係であると誤解しているのである。そして、長い間には、相手が自分の思うようにならないと次第にあきらめに変わってくる。放任して突き放してしまうようになる。しかし無意識の感情としては、怒り、恨みがどんどん蓄積されている状態である。いずれダムにいっぱい水が溜まってくると放水せざるを得ない。溜め続けるとダムは確実に決壊してしまう。森田理論学習でいうように、小さな感情を大切に扱う。小さな感情のうちに言葉に置き換えて表現する。私メッセージで自分の感情の状況を相手に伝える。日記に書いてみる。一人で呟いてみる。我慢したり、耐えたりしているといずれ大きな反動が起きてきて自分も葛藤するし、家族を巻き込んで大変な事態になることをよく考えてもらいたい。
2014.01.11
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彼が「そんなことがあったんですか」といったきり感謝の言葉もお詫びの言葉もなかったということ。この後輩は普段からみんなによく思われていなかった人です。するといつも先輩からは疎んじられて、先輩の一言が針で体を刺されるように感じて、苦痛を感じていたことが考えられます。そしてこの事件です。針の筵に座らされた状態です。体がこわばり、顔もチーターに追いかけられている小動物のようにこわばっています。つまり先輩と後輩の人間関係は、敵と味方に分かれて戦っているようなものです。彼は身構えて、戦闘態勢に入っているのです。自分を守ることに必死ですから、先輩を思いやるゆとりなど皆無だということです。どうしてそんな人間関係になったのか。それは普段から、後輩の言うことなすことに対して、先輩が我慢して耐えてきたというつけが表面化してきたのです。今までギリギリのところで踏ん張ってきたものが一挙に爆発したのです。表面的には、我慢して抑えてきたつもりでも、無意識の世界では決して忘れることはできなくて、不満のアスペリティが蓄積され続けていたのです。不満のエネルギーはどこかで解放されます。解放されないで生きていくということは、存在の破壊を意味します。他人の思惑に翻弄されている人は、このように他人の機嫌を取ろうとします。それは自分の気持ちや感情を表に出すと相手と争うようになることを恐れているのです。ましてや争って負けるということになると、相手に服従させられると考えるのです。争うときは、絶対に負けないように身構えてしまいます。すると手も足も出なくなるのです。ますます自分の腹立たしい感情を抑えてため込むという悪循環になります。自分の感情、気持ち、意志をしっかりと持って、問題が小さいうちにそれらを「私メッセージ」で言葉にして表現してみるというという姿勢は極めて大切となります。森田理論学習はそういう生活習慣を作ることを目指しています。
2014.01.11
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会社でお金をごまかす、女癖が悪いなどで普段みんなが快く思っていない後輩がいました。その彼が年末の忙しいときに有給休暇をとって休みました。ところがその間に自分の担当している得意先で大変大きなトラブルが発生しました。上司はその担当者の携帯に何度も連絡を入れましたが一向に電話がかかってきません。業を煮やした上司は、部下数名に命じて事後処理に当たらせました。夜中の12時過ぎにやっと応急処理が完了しました。おさまらないのは部下たちです。「どうして僕たちが尻拭いしなければならないのか。それも雨が降る寒い中、こんな遅くまで。」「僕たちは僕たちでいつもの仕事があるんです。」「それにしてもあの後輩はいい加減な人だ。」「大体トラブルは以前から予想されていたことだ。なんで手を打ってなかったんだ。こんなことになったのは後輩の責任だ。」その同僚に対する不平不満でいっぱいです。さらに彼らを怒らせたのは、休み明けに出てきた後輩の態度です。「そういうことがあったんですか」といったきり感謝やお詫びの言葉はないのです。「どうしてあんなに我関せずといった態度がとれるのだろう。他の人のトラブルの時はいつも理由を作って回避する。一言お礼を言ったり、昼ご飯をみんなに奢ったりするのが普通だろうが。とにかく人格的に問題がある。もう顔も見たくない」よくありがちな話です。森田理論で考えてみましょう。
2014.01.11
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