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今日は雑談の場で自分が触れてほしくない不祥事などを話題にして、みんなで楽しく会話されることを取り上げてみたいと思います。「他人の不幸は密より甘い」という言葉があります。他人の不祥事、劣等感で悩んでいる事、ビクビクオドオドした小心な性格、ミスや失敗などは格好のターゲットになります。「からかうこと」は、遊びの一環で楽しんでいるという人もいます。ても、当の本人は、さらし者にされた、恥をかかされた。心ない言葉で、深く傷つけられたと思っています。基本的には、本人を前にして楽しむというのは不謹慎だと思います。相手が傷つくことは、知っていても知らないふりをしてあげる。当の本人の前では話題にしないことが大切になると思います。しかし現実にはそんなことはお構いなしで盛り上がることが多い。話題にされる当の本人はどう対応しているでしょうか。いろんなタイプの人がいます。1、実はそうなんだよとあるがままに認めることができる人がいます。テストで極端に悪い点数でも、それをみんなに回して自らさらし者になれる人がいます。あるいは過去の不祥事を詳細に説明してその場をさらに盛り上げている。これは事実を何一つ隠すことなく、あるがままに認めているのです。むしろ、積極的に開示して親近感を演出している。こういう人には周りの人は安心して近づいてくる。これは、しでかした不祥事は仕方ない、自分はそんなことで勝負をしていない。自分には相手の追随を許さない聖域を持っている。そこで勝負を賭けているのだという信念を持っているような気がする。他に自分を肯定するところを持っている人である。欠点が大きければ、長所も大きくてバランスが取れていると思える人である。2、次に、カッとなってすぐに言い返す人がいます。あるいは暴力をふるう。からかった人はただでは済まさないぞという態度に出る人です。こんな人は以後危険人物として取り扱われることになる。和やかな人間関係を保つことができない。3、反発することを抑えて、へらへら笑っている人がいます。腹の中は怒りで一杯ですが、ここで怒りを爆発するのは大人げない。堪えて我慢するしかない。でもイライラする気持ちを抑えきれない。苦悩や葛藤を抱えて神経症まっしぐらといった人です。4、からかわれたことを問題視して対策をとる人がいます。たとえば、薄毛の人がウィングをつける。植毛して事実をごまかす。しかしうまくごまかしたように見えても、何かしら違和感がある。ごまかしたことがばれてしまうと、破れかぶれの行動にでる。神経症でいえば、不安を根こそぎ取り除こうとしている人です。不可能に挑戦しているようなもので、苦悩は深刻です。5、からかうような人を避けるような人がいます。雑談の場は極力近寄らないようにしている。白か黒の二分法的な人間関係になりやすい。学校や会社での人間関係がいびつになり、臨機応変な付き合いができなくなります。こうしてみると、事実をそのまま認めていくことが一番だと思います。それ以外は人間関係を良好に保つことが難しくなります。観念優先で事実、現実、現状を受け入れないという人は、人間関係が悪化して孤立するようになります。森田理論の事実本位の生き方を身に着けていきたいものです。そのノウハウはすべて森田理論が教えてくれています。
2022.04.25
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会社では、2割6割2割の法則があると言われます。上から2割の人は仕事に積極的に取り組み成果を上げている人。会社の利益はこの人たちからもたらされている。下から2割の人は、会社の足かせになっている。ほとんど役に立たないばかりか、扶養家族となっている。この人たちは、退職勧奨や出向や転籍の処遇を受ける。真ん中の6割の人は、指示されたことは何とかこなしている。人間関係に気を配りながら、最低限の義務は果たそうとしている。下から2割の人を追い出したら会社は安泰か。そうはいかない。しばらくするとまた2割6割2割の法則通りになるという。この法則は自分たちが属している組織の中で働いているように思う。それなら、この法則を所属している組織の中で活用していくことが得策である。自分と馬が合って楽しく会話ができる人は、2割くらいのものだと割り切るのである。そして反対に、自分と馬が合わなくていつもけんか腰で対応している人が2割くらいはいる。神経質性格の人は、完全欲が強い。理想主義である。全員と仲良くしないと、この会社での自分の居場所はないように考えがちである。この考えに固執すると窮屈になる。あと6割の人は、ことさら自分に好意的に接しているわけではない。また、あからさまに嫌悪感をむき出しにして接しているわけでもない。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの付き合いをしている。好きでも嫌いでもない、特別あまり関心を持っているわけでもない。こういう人は日和見主義という。腸の中にいる細菌の多くはこの日和見細菌だというどちらにつく方がよいのか決めかねているような人だ。問題は、自分のことを快く思っていない人が、日和見主義の人を味方につけて自分を仲間内から追い出そうと企てた時である。こうなると8割の人との人間関係がぎくしゃくしてくる。これは何としても避けることだ。そのためには、嫌いな2割の人とあからさまに敵対してしまうのはまずい。挨拶はきちんとこなして、あとはつきず離れずで最低限の付き合いをこなしていくことだ。あまりにも露骨な言動を繰り返していると、悪い噂を流して6割の人を巻き込んで自分に歯向かってくるので要注意である。この法則は会社や学校だけではない。趣味の会、集談会、親戚、町内会、OB会など組織と名のつくところにはつきものである。ですから所属している組織が一つだけというのは、きわめて不安定である。そこで躓くと逃げようがなくなる。これを防ぐためには、日頃から付き合いの幅を広げておくことである。会社、学校、家族、親戚、趣味の会、勉強会、集談会、自治会など多くの組織に関わることである。それらすべての組織で、2割6割2割の法則が働いていると意識しておくことだ。2割の人と親しく会話できれば上等だと思っていると気持ちはすごく楽になるはずである。それをすべての人に求めると、身動きが取れなくなる。あと8割の人とは、あいさつ程度で、必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係を持つことが出来れば十分ではないでしょうか。
2022.04.18
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黒川伊保子さんのお話です。女性の会話は、共感で始まり、共感で終わる。共感がなければ、どんなに長くしゃべっていても(うんちくや一般情報をプレゼントしても)、女性はそれを会話と言わない。男性は定年して家に入るにあたって、どうしても心得てもらわなければならないことがある。それは奥さんと会話する時に「共感」というクラッチペダルを踏むことだ。奥さんが「腰が痛い」言えば、「それは辛いだろう」といたわってあげる。「片付け物は俺がするから、座っていてもいいよ」という言葉が出てくれば二重丸だ。間違っても「痛いのならすぐに医者に診てもらえ」と言ってはいけない。奥さんが急に熱を出して寝込んだ時、「しんどそうだね。大丈夫かい。薬を買ってこようか。車で病院へ連れて行ってあげようか」という。間違っても「じゃ、俺は今日の夕飯は外で食べてくるから」と言ってはいけない。「私が苦しんでいるのに、旦那は何を考えているの。私のことはどうでもいいの」と思ってしまう。いっぺんに夫に愛想が尽きてしまう。姑や息子の嫁の愚痴をいう妻に、「自分のことは棚に上げて、なんていうことを言うのだ」と言ってはいけない。「お前にばかり負担をかけてすまないね」というべきだ。暑い日に台所に立っていたら「ソーメンは涼しいけど、ゆでる人は暑くて大変だね」といたわってあげる。夫であるあなたはリビングに寝そべっている。妻が買い物袋を両手に抱えて玄関のドアを開けた。あなたはすぐに駆け寄って、「重かっただろう」と荷物を持ってあげますか。それともスーパーから家まで500mの距離を歩いてきたのに、今さら台所までの3mを運ぶなんて意味ないだろうと思いますか。妻はこの3mで絶望するそうだ。500mは何も思っていなくても、最後の3mで「何のねぎらいの言葉もかけてこない夫」に絶望し、深いため息をつくのである。夫が妻に謝るときも、いたわりの気持ちを込めて話すことが大切になる。「あなたって、どうしてそうなの」と言われたら、「いやな思いをさせてごめんね」「どうして○○してくれないの」と言われたら、「気がつかなくてごめん」「早く帰るって言ったよね」には、「心細い思いをさせてごめんね」こう言われれば、妻は、添えられた言葉に共感とねぎらいの気持ちを感じて、ストレスを軽減させることが出来るのです。(定年夫婦のトリセツ 黒川伊保子 SB新書参照)まさに女性は共感に始まり、共感に終わるのですね。いつも自分の気持を前面に押し出していると、いずれ妻から引導を渡されてしまうかもしれませんね。森田理論学習では共感力が大切だと言われています。これは日頃から夫婦の日常会話で訓練しておくとよいかも知れません。全部できなくても10個のうち1つでもできればと思います。
2022.04.16
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宇野千代さんの著書に「幸福の法則 一日一言」というのがある。至極の言葉が散りばめられているので、書道の得意な人はこれをもとにして、日めくりカレンダーを作ることを実践されたらどうだろうか。今日はその中から、約束を守るということを取り上げてみたいと思います。8月23日人との付き合いの上で、守らなければならない最低の義務というものは何だと思いますか。私はね、時間を守ることだと思っているのですが、如何ですか。世の中にはね、時間にはルーズだけれど、ほかのことは几帳面で、誠実だという人がいるかもしれません。しかし、そんなことはごく稀でしょうね。約束というのは守るためにするものです。決めた時間を守る。これは人と人との付き合いの上で守らなければならない最低の義務であると同時に、文明人としての最低の義務でもある、と思われます。(同書135ページ)みなさんは人と約束したことは何が何でも守り通すように心がけていますか。それとも気が変わったらいつでもドタキャンすればよいと思っていますか。私は生活の発見会に35年以上関わってきて、人と約束をしたことを気にかけて万難を排して守り抜くという人が9割くらいだったと思っています。ほとんどの人は、人との約束事は大切に取り扱っておられるのです。約束した後で魅力的なお誘いがあっても、最初の約束は第一優先順位として守り抜く。当たり前の話で、ここで取り上げる必要がないことかもしれません。ところが1割くらいの人は、約束なんてあってないようなものという考え方をしています。特に約束した日がはるか先の場合は要注意です。そのうち、気が変わるのでしょう。気分に振り回されてしまうのでしょう。見苦しい言い訳をして断ってこられます。信頼を失いマイナスイメージを背負うことになりますが、本人にはその自覚はないようです。この人たちも発想力やアイデアは素晴らしいものがあります。ところが、移り気という特徴が強いために、実行力と持続力に欠ける。他人をけしかけるばかりで自分が先頭に立って行動することが少ない。抑うつ症状を持っている人が多かったように思います。そういう人は1度あることは3度あるという感じです。懲りずに何度でもその失態を繰り返しているのです。ですから宿泊を伴う旅行や研修会に参加を申し込んでこられた場合は、最初は除外して考えた方が無難です。宿泊の手配や交通費の手当てをしてしまうと、後の調整が大変になるのです。最後に再確認をして、申し込みを受け付けるようにした方がよいようです。そういう取り扱いをすると「やはりそうか」という感じで腹が立ちません。森田に「時間の性を尽くす」というのがあります。有限の時間を大切にして2倍にも3倍にも活かして使うということです。約束を厳守する気持ちの希薄な人は、時間は無限にあると思っている節がある。貴重な時間を何倍にも活かして使うという気持ちがないように思います。興に乗れば時間は無制限にいつまでも同じことを続ける。それが深夜に及んでも気にならない。その結果規則正しい生活が崩れる。時間の性を尽くすことを心掛けている人は、約束を破ると他人の時間を奪うことになるという意識が働きます。ましてドタキャンすると多大な迷惑をかけて申し訳ないと思っています。ずっと先の約束はカレンダーに書いて何度も確認しています。そもそも「時間の性を尽くす」という考え方は、「物の性を尽くす」「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「お金の性を尽くす」ことにも通じる考え方です。その物や人が持っている価値をより多く引き出して、最大限の活躍の場を与えてあげるということです。その物が持っている潜在能力を発掘してできる限り活かすという考え方です。つまり「約束を厳守する」ことを徹底することは、森田的な考え方・生き方に大きくかかわっているのです。それが希薄ということは、森田理論学習の理解が不十分な状態ではないでしょうか。
2022.03.19
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柏木哲夫医師の話です。外泊許可をめぐって看護師との会話です。その1・・・85歳の大腸がんの末期患者が外泊予定日に38度の熱が出たので医師の立場から予定を取り消した。受け持ちの看護師がやって来て、「先生、Aさんは外泊すべきだと思います」という。私はその言い方にムカッとして「しかし、熱があるからな」と返した。それに対して「今日を逃せば、もう外泊はできないと思います」と反論してきた。私は「いや、またチャンスがあると思うよ」と言うと、「今の患者のニーズを満たすことがホスピスだと思いますが」と返してきた。私は「熱があるのに外泊を許可して何か起きたら私の責任だからね」と言い返した。看護師と私は険悪な状態になった。関係修復に時間がかかった。その2・・・82歳の前立腺癌で末期患者のBさんがいた。この方も外泊予定日に熱が出た。尿路感染だった。外泊予定を取り消した。別の看護師がやって来て「先生、Bさんが外泊できなかったのが、私、悲しくて」と言う。私は「せっかく一生懸命いろいろアレンジしてくれたのに、残念だけど、熱があったからね」と答えた。看護師は「もし外泊して何かあったら大変ですものね」という。私は「ただ、患者さんや家族の望みを満たすことがホスピスだからね。もう一度、検討し直そうか」と返した。看護師は「いえ、残念ですけど今回の外泊は見送った方がよいと思います。きっとまたチャンスがあると思います」と言う。私も看護師も「外泊許可が出せなくて残念だ」という気持ちでいっぱいだった。(人生の実力 柏木哲夫 幻冬舎 180ページより要旨引用)この2つは同じようなケースですが、その後の展開に雲泥の差が生じました。その1では、人間関係が険悪になりました。その2では、相手を思いやってやさしい気持ちになりました。どこが違っていたのでしょう。これは森田理論にもかかわることです。その1では、看護師も柏木医師も「自分の意見」をもとにして会話しています。自分の意見を述べ合うということは、自分にその気持ちがなくても、自分の言い分を相手に押し通すことになります。結果として相手の意見を非難・否定することになります。話は平行線をたどり、2人とも気まずい思いをすることになります。これを防ぐには、どちらかが自分の意見を取り下げることが必要になります。いづれにしても後味が悪くなります。それよりも、最初から「その2」のような対応を心掛けた方がよいと思います。その2では、「自分の意見」ではなく「自分の素直な感情や気持ち」をもとにした会話になっています。「自分の素直な感情や気持ち」は、相手に自分の主張を押し付けません。相手がどんな対応を取ろうと、それは相手の自由ということになります。これを森田では「純な心」と言います。「純な心」からの会話を心掛けると、相手は自分の素直な感情に対して、素直に応答してくるという現象が現れます。磁石のプラスとマイナスが引き寄せられるようなものです。これで人間関係が改善されるのでしたら利用しない手はないと思いますが如何でしょうか。
2022.03.18
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対人緊張の強い人にお聞きします。あなたがマンションのエレベーターに一人で乗って、「閉まるボタン」を押そうとしたときコツコツと足音が聞こえてきました。その時の対応です。扉を開けて、その人が乗り込むのを待ってあげようとしますか。あるいは、「閉まるボタン」を押して、早くエレベーターを動かそうとしますか。私は早くエレベーターを動かそうとする方です。知らない人と一緒になると、ついうっとうしいと思ってしまうのです。挨拶をしなければいけない。愛想を振りまかないといけない。他の人と一緒の時間を過ごすことを苦痛に感じるのです。集談会で対人恐怖症の人は、人と仲良くしたいという強い欲求を持っているのだといわれます。犬猿の仲になると、人間関係が最悪の状況になりますから、当然仲良くした方がよいのは分かります。しかし積極的に仲良くしたいという気持ちを持っているのかといわれると、それはどうかという気持ちがありました。私は父親から放任ぎみに育てられました。無視され続けたのです。自分を保護してもらうことがなく、非難・否定されるばかりでした。いつのまにか恐ろしい父親には近づかないようになりました。父親との関係が敵対関係になると、人間関係を学習することができなくなります。そのうち友達関係もうまくいかなくなりました。会社での人間関係もうまくいかなくなりました。他人に対する信頼感が持てなくて、いつも敵対してしまうのです。いつ危害を加えられるか分からないので、専守防衛の態度で他人と対応する。その状態はすぐに相手に伝わりますので、相手も近寄ってこなくなる。あるいは自分の気持を抑圧して付き合うのでストレスだらけになります。そのうち相手と仲良くしたいという気持ちはなくなり、一人で人生を謳歌できればそれでも良いかと思うようになります。仲間と群れて楽しむよりも、自分一人で楽しむ道を追求していく。その方が余計な気を使わなくて済むので気が楽なのです。その気持ちがエレベーターの対応に現れてくるのだと思います。それでは私は対人関係についてはどう考えていたのか。私は負けず嫌いです。対抗心丸出しです。他人と比べて劣っていることが許せない。全ての面で人の上に行きたい。常に優越感で満たされていたい。そして他人から一目置かれる人間を目指そうとしていたのです。称賛されてうらやましがられる人間になりたいと思うようになりました。実に思い上がった考えを持っていたのです。膨大なエネルギーや資金が必要になっても、艱難辛苦を乗り越えて絶対に手に入れようと考えました。努力を惜しまない強い執着性はあったのです。それが無謀ともいえるトライアスロンや国家試験の挑戦でした。努力の結果目標は次々に達成しました。しかし目標を達成しても、他人からまぶしい眼で見あげられ、尊敬される人間にはなれませんでした。それだけの情熱があるのなら、どうしてそのエネルギーを仕事に投入してくれないのかと皮肉を言われる有様でした。事実仕事では成果を上げることが少なかったのです。つまり無駄な努力とみなされて、むしろ軽蔑する材料として取り扱われました。私の当初の願いは無残にも打ち砕かれました。どうしてこんなちぐはぐなことになってしまったのか。尊敬される人間になりたい。他人から一目置かれる人間になりたいという目標を持つことは別に悪いことではないと思います。しかしそのやり方や手段は方向性が間違っていたのではないか。それよりは無理なくその目的を達成できる方法があることが分かりました。それは森田理論学習の中で分かりました。森田先生は人から良く思われる人間を目指すよりも、人の役に立つ人間になれと言われています。そのためには、相手が困っていること、興味や関心を持っていることを意識して掴む努力をする必要があります。忘れないようにメモしておく。それをたくさんストックしていく。できるものからどんどん手を付けていく。地味な作業ですが、これらを積み重ねていくとどうなるか。1年も愚直に取り組んでいくと、感謝されることが多くなる。そして信頼感が高まってくる。しだいに一目置かれて、尊敬のまなざしで見られるようになる。人ができないような大きなことを達成して、人の注目を集めることは至難の業です。例え目標を達成しても、思うような結果がついてこない。それに引き換え、この方法は、無理なく、確実に人心を掌握することができるようになります。どうしてこのあたりまえのことに気が付かなかったのか不思議です。私と同じように人のできないことをして人から注目を浴びたい。そして自己存在感を高めたいと思われている人は、早めに方向転換をされることをお勧めします。
2022.03.13
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群れで生活している動物は、群れから離れることは死を意味します。アフリカのサバンナで暮らすシマウマなどを見ているとすぐに分かります。人間もそれ以上に社会的な生き物だと言われます。社会から孤立して仙人のような生活はできません。自由で勝手気ままな暮らしはできません。社会の中で、相互依存関係の中で生命が維持されています。厳しい社会の目を気にしながら生きていかざるを得ません。人間は社会のしきたりやルールに従うことで、延命できる生き物です。その一方で、人間は誰でも自己中心的な面も持ち合わせています。困難を乗り越え、人を押しのけてでも生き残るのだというたくましさを兼ね備えた人が、生き永らえるためには有利です。でも、自己中心的な側面が、あまりにも強くなると、仲間内から排除されます。この相反する2つの側面とどう折り合いをつけていけばよいのか。ここが思案のしどころです。対人恐怖症の人は、常に相手の思惑を忖度しながら生活されていらっしゃると思います。私もそうです。これはまともな考え方だと思います。でも相手の思惑に振り回されるのは、耐えがたい葛藤や苦悩を生み出します。ここで肝心なことは、どちらを優先するかという事だと思います。神経質性格者は、強い欲求や欲望を持っていると言われます。確固たる自分の感情、意志、気持ち、欲求をもっているのです。これを第一優先順位にすることが大切になると思います。それを後回しにして、他人に合わせようとするから、苦しくなるのだと思います。順序が逆になってしまうと、ストレスでのたうち回るようになります。頭で考えると、そんなことを押し通すと人間関係はうまくいかないと考えがちです。それは認識の誤りではないでしょうか。むしろいつも相手の気持ちを忖度していると、相手の言いなりになってしまいます。相手になめられてしまいます。ますます苦しくなります。ですから、自分の感情、意志、気持ち、欲求を大切に取り扱うことが必要になります。でもそれをストレートに相手にぶっつけるのはいただけません。自分の立場をしっかりと持ったうえで、相手の気持ちや考えをよく聞いてみることが大切になります。そして二人の間に横たわっている食い違いを確認する。食い違いが分かれば、相手と話し合いや交渉をする必要があります。譲ったり譲られたりのギリギリの交渉となる場合もあります。人間関係を良好に保つためには、どんなにしんどくても話し合いや交渉は欠かせないのです。それを力で押さえつけることがあってはならないと思います。そんなことをすればまともな人間関係を築くことはできません。自分の意思を明確に打ち出して、その次に相手の気持ちもある程度はくんであげる。面倒な作業ですが、これを避けて人間関係は改善できません。これ以外に、人間関係を改善するために次の2点を提案いたします。一つは、森田理論の「不即不離」を応用して、カチンときたときは、正面からの対応は控えて、距離をおいて付き合いましょう。ベタベタし過ぎない、また離れすぎないという広くて浅い人間関係作りです。対立していても、いずれ時間の経過が解決してくれるはずという理論です。もう一つは、自分の専門分野、得意分野を持つということです。つまり、これは誰にも負けないという自分の聖域を持つことです。これがあると自己信頼感、自己肯定感が生まれてきます。自分が信じられないと相手の思惑に振り回されます。現在はなにもないという人は、今からでも遅くはありません。仕事でも趣味でも何でも構いませんので努力して身につけることです。高良先生は一つのことに10年くらい打ち込めばその道の専門家になれると言われています。これを持っていると、少々他人から手荒な仕打ちを受けても、自己信頼感に支えられて、何とか乗り越えていけるはずです。ぜひ試してみてください。
2022.03.10
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再び市原悦子さんのお話です。役を作るうえで、善人悪人というのはない。美しい人、醜い人というのもない。ただ、人には美しい瞬間と醜い瞬間あるだけ。(ことばの宝物 市原悦子 主婦の友社 104ページ)なるほど、おっしゃる通りだと思います。こういう気持ちになれば、険悪な関係になることは少なくなると思います。普通は一度でも相手が自分のことを非難・否定した。ネガティブ、マイナス感情をあからさまに爆発させた。本能的な欲望を暴走させて、問題行動を起こした。弱点や欠点、ミスや失敗を隠蔽している。言い訳や責任転嫁している。このような態度を見せつけられると、その人を悪人、要警戒人物として扱う。一つの事象からその人物の全てを悪・醜と決めつけてしまうのである。もともと人間性に問題があって、箸にも棒にもかからない人間である。その人が近づいてきたら、関わらないようにしてすぐに離れた方がよい。凶悪事件を起こした人は、社会から隔離して管理した方がよい。自分に危害を加える人を憎むべき敵とみなしてしまうのです。そういう先入観、決めつけ、思い込みで行動してしまう。それが昂じると、自分を非難、否定、無視、軽蔑する人はすべて敵にまわすようになる。以後、対立関係にはいり、親しく交わることはなくなります。市原さんは、その考え方は一方的ではありませんかと問題提起されている。問題行動を起こしたときは、確かに悪人であり極めて醜い一面を見せる。でも別の場面では、善人で美しい行動をとることがあるのではありませんか。自分のことを大切に扱ってくれることはありませんか。みんなのために寝食を忘れて尽くしてくれることはありませんか。人間は生まれてずっと悪人ということはありえない。悪人・善人という姿を様々に垣間見せながら生きている。だから両面を過不足なく見てその人の人間性を判断する必要がある。そうしないと誰でも悪人、醜い面を持ち合わせているので、そういう人をことごとく排除していると、自分の方が孤立してくる。親しい人間関係を持つことはできなくなります。森田理論では、人間関係のコツは「不即不離」にあるという考え方です。人間は誰でも虫の居所が悪くて、破れかぶれな言動をとることはあります。その後で「しまった。やってしまった」と後悔しているのです。でもやった後では取り返しがつきません。その一瞬をとらえて、鬼の首をとったような気持で、悪人・醜い人と決めつけて敵に回していると、最後には廻り廻って自分の立場を窮地に追い込んでしまう。さらにたちが悪いのは、仲間をけしかけて徒党を組んでさらに追い打ちをかけることです。相手が悪人・醜い面を見せたときは、距離を置いて様子を伺う。決して近づいてはいけない時です。そっとしておく。非難・否定しないで寛容な気持ちで許容できるようになるといいですね。時間が経ち、場所が変わり、環境が変わって、機嫌のよいとき、善人・美しい面を見せたときは頃合いを見て付き合いを始める。それもべったりくっつくほど親密な付き合いを避けて、さらりとした節度ある付き合いを心掛ける。それを心掛けないといずれ窮屈な付き合いになります。こういう考え方、付き合いを心掛けていると自分の生活は豊かになります。
2022.02.27
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女優の市原悦子さんのお話です。日頃から自分をさらけ出すことをやっていないと、お仕事がきたときに、のびのびとできません。(ことばの宝物 市原悦子 主婦の友社 92ページ)自分をさらけ出すことができる人は、一つの素晴らしい能力を獲得している人だと思う。この自分をさらけ出して生きることは2つの側面がある。一つは、欠点や弱点、ミスや失敗をさらけ出すということ。もう一つは、感情、意思、考え、意見を前面に押し出すということ。自分をさらけ出すことは難しい。才能と言ってもいい。欠点や弱点は目立たないようにごまかす、隠蔽する。しかしそれがいつばれてしまうかもしれないという不安が付きまとう。神経がそこに張り付いて、注意や意識が内向きになる。ミスや失敗は言い訳をする。偽装工作をする。責任転嫁をする。いつまでも放置して報告を遅らせる。しかしそれが気になって眠れない夜を過ごすことになる。そしてごまかしが発覚したときは、すでに時遅し。人間性を疑われ、信用が失われて、再起不能となることがある。自分がどうしようもないダメ人間とみなされてしまうことを恐怖している。負けず嫌いですべての面で相手と張り合っている。人間は長所と短所がほどよく配置されていることを理解していない。短所はそれをそのままにして相手に花を持たせる。逆に長所や特技、自分が元々持っている優れた能力はさらに伸ばす。こういう柔軟性、割り切った考えを持つことができない。その結果自分の考えや思いとは全く逆のことが起きる。このことを森田理論では、思想の矛盾に陥るという。あの人は隠蔽体質、詐欺的体質がむんむんするので距離を置こう。こちらからは積極的に近寄らないようにしよう。逆に欠点や弱点、ミスや失敗をそのまま公開する人は安心感がある。他人の欠点や弱点、ミスや失敗を暖かい包容力で許してくれる。お互い完全、完璧ないので、許しあえる人間関係が好ましい。感情、意思、考え、意見を前面に押し出すということですが、人間関係を破綻させないためには、相手の気持ちを忖度することを優先する人が多い。他人の思惑を気にして、自分をないがしろにしているのである。自分の気持ちを抑圧して、相手の言動に振り回されているのでストレスがたまる。本音よりも建て前を優先している態度が身についているのであろう。これは順序が逆になっているのですね。ここで大切なことは、相手を無視して自己中心で押し切れということではありません。相手の気持ちを大切に取り扱うことは大切です。相手と向き合うときは、自分の立場、気持ち、考えを第一優先順位に持ってくるということです。それを抜きにして相手と付き合うことは、ストレスを生み出す。これで対等の立場で交渉することが可能となる。市原悦子さんの「自分をさらけ出して生きる」というのは、この2点を心掛けて生活の中に根付かせていくことだと思う。そういえば、市原悦子さんは個性的で魅力的な演技をする女優さんでした。特に樹木希林さんと共演された「あん」という映画がよかったです。
2022.02.25
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石原加受子さんの言葉です。あなたは、人に依頼されたら、気持ちよく引き受けたり、罪悪感なしに断ったりすることができますか。あなたは、手助けが欲しいと思ったら素直に依頼したり、断られたとしても、相手に悪意を抱かずに受け止められるでしょうか。独立独歩の人と見える人すらも、傷つくことを恐れていて、頼まれると断れないし、断ったら気に病むし、自分からは頼めないという人なのかもしれません。傷つきたくないという思いは、万人に共通するものです。傷つきたくないから「断ること」を恐れ、「頼むこと」を恐れるのです。(「また断れなかった・・・」がなくなる本 石原加受子 河出書房新社 126ページより引用)他人からの依頼を自分の都合に合わせて上手に断ることができる人は、他人に対してお願いや依頼が躊躇なくできる人です。「断ること」と「お願いすること」は表裏一体です。ですから、自分の意志を押し出して「断ること」ができない人は、「他人にお願いや依頼」をすることができない人です。この指摘は耳が痛いです。私のことを言われているようです。私は大学を卒業後、出版社に就職して書籍の訪問販売の仕事をしていました。見も知らない人に書籍を買ってもらうという「お願いや依頼」をするという仕事です。私の気持ちの中には、「書籍は読みたい人が自らの意思で買って読むもの」という思いがありました。だから、読む気がない人に、書籍の販売をするということは押し売りになるという気持ちでした。その結果、本を読むことが好きな人を選別して、その人たちだけに営業をかけることにしました。いわゆる有力な見込み客のみを相手にするという方法です。有力な見込み客から断られると、自分の自尊心が傷つきました。ショックを受けて、次の仕事に向かうことができなくなりました。そして、成果の上がらないダメ社員になってしまいました。成果を出している人を見ると、見込み客の選別などはしていませんでした。断られたらすぐにあきらめて、次の人にアタックする。訪問回数を上げないと成果には結びつかないという信念をもって仕事に取り組んでいたのです。自分が傷つくことよりも、その日1日のノルマを果たすことに全力を挙げているわけです。これは、お願いや依頼したことを相手が引き受けるかどうかは、相手の自由だ。相手に選択権があるというということをはっきり自覚していたのだと思います。私の場合は、有力な見込み客は絶対に買ってくれるはずだ、この人を取り逃がすと後がないという切羽詰まった心理状態になっていたのです。ですから断られると相手を赦さない。能力のない自分を自己嫌悪する。しだいに仕事をさぼるようになる。どんどん悪循環が加速してきました。その反面、人からのお願いや依頼を断ることは、相手が気分を害して、その後の人間関係が悪くなると考えていました。ですから相手の依頼事項はよほどのことがないかぎり、引き受けるようにしてきました。自分の気持ちや意志に反してまで、引き受けるので、辛いこともありました。転職先での事です。ある実力のある営業マンから、翌日大切な要件を頼まれました。私は次の日有休休暇を取ることにしていました。だから明日のことは安易に引き受けることはできなかったのです。私は「明日は有休をとるので引き受けることはできない。他人に依頼してくれ」と言えばよかったのです。ところがあろうことか、「分かりました」と言って引き受けました。私はその依頼事項を同僚に再依頼して有休をとりました。ところが同僚はその案件のことをすっかり忘れて手付かずになっていたのです。次の日大変な状況になったことは容易に想像していただけるかと思います。断ることができない人は依頼することもできない。その心理的からくりは、自分が傷つくことをひたすら恐れているのです。その時の自分の注意や意識は相手の言動ばかりに当てられているのです。ここですっぽりと抜け落ちているのは、素直な自分の感情、気持ち、意志、欲求などです。それらを十分に認めて、できるだけ叶えてあげる、癒してあげることが必要だったのです。これが第一優先順位となります。これがすっぽりと抜け落ちていたので、歯車がかみ合わない原因だったと思います。森田理論学習中ではっきりと気づきました。これに気づくと、訪問販売の仕事の場合、「成果を上げて同僚や上司に評価されたい」という気持ちが強かったわけですから、その方向で努力精進できたはずです。相手の言動に振り回されて、自分が勝手に傷つくばかりというのは避けられたと思います。有休休暇の場合は、自分の都合を優先することですから、事情を話して断ることができたと思います。普段から自分の感情、気持ち、意志、欲求を軽視して粗末に扱い、そのエネルギーを他者の思惑に向けていると、とっさの時に間違った行動をとってしまいます。森田は自分の素直な感情、気持ち、意志、欲求を正しく認識して、それを第一優先順位に位置づけて、対人関係に対応していきましょうという理論だと思います。
2022.01.21
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九州・沖縄サミット蔵相会合の総料理長を務められた三國清三さんのお話です。三國さんは20歳のとき、スイス・ジュネーブの日本大使館の料理長として赴任されたそうです。あるとき、その週末にジュネーブ駐在の米国大使ご夫妻らを招いての晩餐会の予定があった。こういう機会は、料理長の腕の見せ所になる。普通は、最高の食材や珍しい珍味を取り寄せて、自分の得意料理を披露することになるように思われる。三國さんのそのようなやり方はしないそうです。三國さんは、まずゲストに関する情報を徹底的に調べるのだそうだ。宗教によって、豚肉は駄目、鶏肉は駄目という場合もある。食物アレルギーはないかどうか、好きな食べ物、嫌いな食べ物、どんな飲み物が好きなのかなど。これらはゲストの行きつけのレストランなどに聞けばすぐに分かる。「うちの店に来られたら、いつも決まってこれを召し上がる」といった飛び切りの情報がつかめれば、そのレシピを聞き出して、実際にお出しする。今回は1日休みをもらい、米国大使の行きつけの店に出向き研修をさせてもらったそうだ。厨房に入れてもらい、どんな食材をどこから調達し、どんなものをどんなふうに作っているのか、つぶさに観察をされたという。事前に好みや苦手な食材をすべて調べ上げて、その店に倣ったフルコースを作ってお出しした。その中に「ウサギ肉のマスタードソース」というのがあった。米国大使はそれを口にして、「これは僕の大好物なんだよ」と大喜びだったそうだ。晩餐会は終始和やかなムードに包まれて、日本大使からお褒めの言葉をいただいた。(食の金メダルを目指して 三國清三 日本経済新聞社114ページ参照)この話は、相手の興味や関心を掴んで、それに応えることが、どんなにその後の展開を和やかなものにするかを教えてくれている。自分の身につけた技術、自分の頭で考えたアイデア、自分の人生哲学などを相手にアピールすることも大切である。ところが相手のことをまだよく分からない段階で、それらを積極的に打ち出すのは、いくら優れたものであっても、相手に喜ばれることは少ない。順序としては、相手の趣向、考え、性格、興味や関心などを把握することが大前提になる。そのためには相手のことをよく観察する。相手の話をよく聞く。いったんは相手の話に共感する。受容する。そこに自分が身につけた技術や能力、アイデア、考えなどを提供して、相手の希望を満たしてあげる。そのように心掛ければ、相手から感謝されるようになる。森田理論では、相手に自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けてはいけないという。そんなことをすれば相手から反発を食らい、人間関係は悪化する。反対に相手の現状や状況を観察して、相手に寄り添うことにエネルギーを投入するほうがよほど人間関係が和やかになる。いわれてみれば当たり前のことですが、その順序を間違えている人が多いように思われる。
2022.01.19
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私は宇野千代さんの大ファンである。「宇野千代 幸福の言葉」(海竜社)は私の愛読書である。宝石のような言葉が散りばめられている。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。親しくない仲に礼儀があるのは当然のことで、親しい仲にも礼儀がある方が好いとの意ですが、実はもう一歩強めて「親しき仲にこそ礼儀あり」としたいものです。愛し合う二人の間にも礼儀というものが必要です。お互いに相手の傷にさわらない、傷のあるところは知らん顔して除けて通る、ということです。朝起きたとき、夫婦で「おはよう」とあいさつはしていますか。子供や親にも「おはよう」とあいさつしていますか。これが家族の礼儀です。なんだか気恥ずかしい。とってつけたような挨拶はできない。釣った魚にエサはいらないという気持ちなのでしょうか。そういう習慣は我が家にはない。それはなれ合いになりすぎて、人間関係の基本を無視しているのです。家の中で知らない人と同じ付き合いをしているということになります。一番大切にしなければいけない人を、粗末に扱っているということになる。「ご飯よと 呼ばれていけば タマだった」という川柳があります。犬や猫には優しい声をかけているのに、一番世話になっている人を軽々しく扱っている。近所の人に出会った時、こちらから近寄って、「おでかけですか。よいお天気で気持ちがいいですね」とあいさつしていますか。知っていても知らない顔して通り過ぎることはありませんか。会社や学校では、「おはよう。元気」とあいさつしていますか。挨拶のタイミングがなくて、知らないふりを決め込むことはありませんか。これでは油のない歯車を無理やり回そうとしているようなものです。他人から何かもらった時、親切な対応を受けたとき、メールをもらった時、何かを依頼されたとき、すぐに返信をしていますか。気心の知れた人だからそんな必要はないと思ってはいませんか。これは大きな落とし穴にはまっています。返信しないと、相手は無視されたように思います。恩を仇で返されたと思うようになるのです。人間関係はそんな些細なところから壊れていきます。後でしまったと思っても、すでに時遅しということになります。葬式があった時、万難を排して告別式に参列していますか。特に親戚関係にある場合は、肝に銘じておくことです。どうしても参列できない場合は、通夜だけには行っておくことです。理由をつけて葬式を回避しているととんでもないしっぺ返しがあります。反対に犬猿の仲だった人でも、真っ先に駆けつけて悔やみの挨拶をすると、今までのわだかまりがすっと消えていきます。人間は感情の動物ということを忘れてはいけません。おまえはどうなのだといわれると、お恥ずかしい。気をつけているが時たま失敗をしてしまう人間です。でもその方向でやっていきたいと念じております。人間関係の基本は挨拶からを肝に銘じたいと思います。
2022.01.11
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次のような人事権を持った上司がいた場合どうしますか。・そのことは会議の時に説明しましたよね。聞いていなかったのですか。・この件については通達文書に書いてありますよね。読んでないのですか。・入社の時約束しましたよね。どうしてきちんと約束を守らないのですか。・就業規則にはっきりと書いてあるじゃありませんか。そういわれれば、確かにあなたのおっしゃる通りです。私がいい加減だったので、申し訳ございませんでした。でも、1回言われたことをきちんとしなさいといわれても、ちっとつらいです。何を言い訳しているのですか。見苦しいですよ。そんなに反発するのでしたら辞めてもらっても結構ですよ。代わりの人はいくらでもいるのですから。重箱の隅をつつくような感じだ。責める。叱責する。責任追及する。勢いにまかせて相手を追い込んでいく。相手はついに音を上げる。その後、その上司が恐ろしくなり寄り付かなくなる。人によっては退職する。その人も人間ですから完璧ではありません。間違ったことをする時がある。その方も、たとえば大切な書類の送り先間違いをすることがある。先日は大量の郵便物が宛先不明で返送されてきた。そんなときは、決して素直に謝らない。必ず言い訳をする。あるいは捏造する。下手に出て媚を売る。また自分の上司から叱責されると、悔しくて泣いていることがあるという。他人のミスや失敗には厳しいが、自分のミスや失敗にはとても甘い。始末が悪いが、ラインの課長なのでどうすることもできない。この人の特徴はもう一つある。会社内で小さな仲良しグループ作っている。仲間内では、相手がどんな不祥事をしてもすべて見逃す。そして積極的に味方になって擁護する。周りから見ると、必要以上に持ち上げ、親密なので違和感がある。それが仕事だけではなく、私生活にも及んでいるという。この人は森田理論で分析すると、完全主義、完璧主義の人だ。一度指示したこと、伝えたこと、ルールは完璧に実行すべきだという「かくあるべし」を持っており、伝家の宝刀で相手を一刀両断する。100点満点が当たり前で、それ以外はすべて0点とみなす傾向が強い。仕掛けた網に相手が引っ掛かってくれると途端に元気になる。対抗心で対応した何人もの人が退職に追い込まれた。辞めていった人たちには共通する特徴がある。「俺のことを何だと思っているのだ」という気持ちで話をしている。自己主張が強い。定年前は大きな会社の役職者だった人にその傾向が強い。するとその女上司は「あなたは一体何ものなんですか」という。話がかみ合っていない。こうなると部下は弱い。退職に追い込まれる。私は10年以上になるが、今まで3回ほどはらわたが煮えくり返るような思いをしてきた。今で考えても理不尽なことを言われたと思う。でもやめることなく今まで在職している。それは、下手にけんかをして退職に追い込まれては損だという思いがあった。つまり、できるだけ長く仕事をしたいという気持ちを優先している。その気持ちをしっかり持っているので、どんなに腹立たしいことがあっても、破れかぶれになることはないのだ。少々の腹立たしさはがまんしてきた。私はその人に対して森田理論の「不即不離」を応用しているのだ。相手を全く無視しているわけではないが、距離をおいて遠巻きに眺めている。そして、会議の話は細大漏らさずよく聞いてメモしている。さらに通達文書はよく読んで、実施すべきことをカレンダーに記入している。就業規則はよく読みこんでいる。疑問点は、担当営業マンや同僚に確認して解決するようにしている。その人には補助者がいるので、補助者がいる時を見計らって極力その人に聞くようにしている。これらを実施することで、大事に至ることは避けられていると思う。それでも時々電話がかかってくるが、言いたいことがあっても、すぐに反発はしないことに徹している。その人ににらまれて、不本意ながら、退職に追い込まれると収入が0になるので、それだけは何としても避けようと思っている。読者の皆様の中にも、上司や同僚との人間関係でストレスだらけの人がおられるかと思います。でも、安心してください。人事異動のない役所や会社はありません。いずれは、離れ離れになります。今までの関係はなくなるのです。またそういう上司は、能力がないので降格や左遷されることもあります。早まって、喧嘩をして、退職に追い込まれることだけは何としても避けるようにしてください。一時的には、言いたい放題のことを言ってすっきりしても、後の祭りです。
2022.01.06
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あなたの周りいる人で、異性に好かれる珍しい人はいませんか。私の周りにはいます。とびたたてイケメンという人ではありません。それなのに次々と、女性の心をつかみ親しくなっていくのです。他人の思惑ばかり気にしている人にとっては、どうしてそんな芸当ができるのか不思議です。今日は異性に限らず周囲の人を引き付ける方法を、考えてみたいと思います。その方法は、相手の心に快の感情を湧き起こすということです。相手の頭の中に快感情を発生させて、報酬系神経回路が動き出すようにする。人間は好きなことや快感をもたらすものには目がないと思うのです。・笑顔での挨拶を欠かさない。暖かい言葉をかける。・相手の話をよく聞いてあげる。共感してあげる。・落ち込んでいる時、大丈夫だよ、心配しなくてもよいと励ましてあげる。・ダジャレ、川柳、ユーモア小話などで相手を楽しませる。・自分のミスや失敗談は大袈裟に加工して公開する。・相手の名前を連呼する。できれば愛称で呼ぶ。・ちょっとしたものをプレゼントする。・本などを貸してあげる。・役に立つ情報の収集に努め相手に教えてあげる。・困っている時にはすぐに助けてあげる。私の元同僚で異性の心を掴むことが上手な人のやり方を紹介します。ひと言でいえば、相手の気を引くことを次々に実行しているのです。仕事ぶりは今一つでしたが、その方面ではとにかくマメな人でした。いつも人の輪の中にいるような人でした。そういえば釣りバカ日誌のハマちゃんに似ている。相手の名前は男女に限らず愛称で呼んでいる。出社すると仕事を始める前に挨拶をして回っている。外回りの時は電話やメールをこまめにしている。会社での歓迎会、忘年会などはいつも幹事を引き受けている。店の選定、進行などが完璧で、みんなから信頼感を得ている。用事がなくても絶えず人と接触することを心がけている。外回りの営業から帰ってくるときには、アイスなどを買ってきて配る。出張や旅行に行ったときは、必ずお土産を買ってくる。それも行列をして買ったとか、いかに評判の良いお菓子であるか説明している。いつのまにか女性社員にお土産を催促されるようになっている。せっせと試供品や招待券をもらってきては周りの人にプレゼントしている。いつもやさしい言葉をかけている。愚痴や他人の悪口を聞いたことがない。ミスや失敗をしたときは慰めている。心配いらないと励ましている。自分がミスや失敗をしたときは、面白おかしく脚色して披露している。ダジャレのオンパレードといった印象がある。相手のよいところを見つけるとすぐに誉めてあげている。また第3者に吹聴して間接的に誉めることが多い。「かわいい」「好き」「素敵」「きれい」「すごい」「素晴らしい」「かっこいい」という言葉が口癖になっている。何回も繰り返すので相手もその気になってしまうのかもしれない。カラオケ、飲み会、ボーリング、小旅行、観劇などを企画している。雰囲気がよく、安くて美味しい店を何軒も知っている。近くの穴場スポットをよく調べ上げて、行かないかと誘っている。断られたら、「じゃ、またね」とすぐに引き下がる。ダメでもともと、うまくいけば儲けものという感じなのだろう。この中であなたが心がけていることはいくつありましたか。人の思惑が気になっている人は、これらのなから実践課題をつくって実行してみるというのは如何でしょうか。相手の脳が報酬系回路で回転し始めた時、きっとあなたにツキと運が向いてくると思います。人間関係が好循環すると、人間として生まれてきて本当によかったと思えるようになります。
2021.12.12
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みなさんの中には、朝晩仏壇に手を合わせておられる方もいらっしゃるでしょう。私は寝る前に先祖様の名前をつぶやきながら焼香しています。今日も見守っていただいてありがとうございますと感謝します。これをしないと寝床に入る気になれません。その時感謝の言葉を書いたものを読み上げるようにしました。「素晴らしい1日を送れたことに感謝します」「いつも見守ってくれている両親、ご先祖様に感謝します」「いつも支えてくれる妻に感謝します」「自分のもとに生まれてくれた子供(○○)に感謝します」「今日1日ご縁のあった人に感謝します」「今日も無事に仕事が終わったことに感謝します」「今日もおいしい食事にありついたことを感謝します」「心身ともに健康で過ごせたことに感謝します」「私を助けてくれたすべてのものに感謝します」感謝しながら、グチを言うことはできません。不平不満、非難や否定することもできません。つまり不快や嫌いという感情を吹き飛ばして、快や好きな感情にさせてくれます。快の感情はドパミン、アドレナリン、βエンドルフィンを分泌させます。それらがやる気の脳の司令塔である側坐核、快楽の中枢司令塔の腹側被蓋野(A10神経)を刺激します。それらは報酬系神経回路を刺激して脳全体を駆け巡ります。特に理性の脳である前頭前野がその意向を後押ししてくれます。生産的、建設的、創造的に働いてくれます。一度快感を知った人は、弾みがついてまた体験したいと思うようになります。プラスのスパイラルにはいり、しだいに幸せな人生になります。感謝をしない人と比べると、最後には雲泥の差となって顕在化します。
2021.12.11
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12月号の生活の発見誌には対人関係の持ち方についてとても参考になる記事が多かった。その中でも私の目を引き付けた記事があった。携帯に500人ほどの登録があるという人の話である。この500人はその方を中心に同心円をいくつか書けますといわれている。同心円は私との関係が濃い人からどんどん薄い色になって広がっていきます。一番薄い人は、年賀状を交換するだけの人だそうだ。またこの同心円は固定的ではないそうです。その時々で、必要な時に、必要に応じて、必要なだけの臨機応変な対応を心掛けていると、同心円の色は濃くなったり薄くなったりするといわれる。友人について考える時に、心底悩みを打ち明けたりできる人は、悩みの分野にもよるが意外と少ないように思います。しかしいるかいないかは大きな違いです。これは悩みの種類に応じて、500人の人脈の中から適材適所で選択できるということではないでしょうか。うらやましい限りです。これは森田理論の「不即不離」のことを言われているように思います。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係を心掛ける。その時の状況に応じて臨機応変、広く浅くが基本になります。親密すぎるかなと思ったら少し離れてみる。離れすぎかなと思ったらまた近づいてみる。その匙加減ができることが凄い事なのです。神経質者は引っ付く時は引っ付きすぎるし、離れる時は離れすぎるのです。これはまさに人間関係の極意だと思います。決してコップ一杯の人間関係が幸せを運んでくれるわけではないと思います。その事にあこがれている人は、妄想が強いか願望が強いかのどちらかです。この方は、人間関係の在り方を見事に解説されていると思います。そういえばこの方は普段からとても人望がある方ですね。老婆心ながら一言付け加えれば、人と対応する時には、他人中心ではなく自分中心を忘れないようにしたいものです。自分の感情、気持ち、意思、関心や興味、欲求や欲望を大事に取り扱うことです。これをないがしろにして、相手と関わり合うと、相手に交渉の主導権を握られてしまいます。そうなりますとすぐに支配、被支配の人間関係に陥ります。身近なところでは夫婦の人間関係がそうですね。そういう関係にある夫婦はいつもいがみ合っていますね。同じ屋根の下に住んでいても、没交渉ではやり切れませんね。自分の立場が明確になっていると、対等な人間関係を築くことができます。あとは交渉事ですから妥協点を求めて話し合うという態度で接することです。お互いにwin winの関係を目指して努力すればよいのです。時には言い合いもするでしょう。けんかになることもあるでしょう。私の場合はほぼ毎日口げんかするのが日課のようなものです。それは自分とは考え方の違う人間がいる限り避けて通ることはできません。そこが人間関係作りの醍醐味と言ってもよいかも知れません。もし乗り越えていくことができれば、子供にとても良い影響を与えます。これ以外にも人間関係のコツはいくつかありますが、最低限この2点を肝に銘じて生活するだけで、人間関係はかなり好転します。人とかかわることは楽しいし、自分の人生を豊かに彩っていることが実感できるようになります。対人恐怖症の人はぜひ自分の生活に取り入れてみてください。
2021.12.06
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8月号の「生活の発見誌」の中で高良武久先生が次のように指摘されています。神経質者は何でも自分のことに関係をつけたがる。それが自己中心的な態度ですよね。自己中心的な態度と利己主義は別なんだけど、いつも自分が中心になっているんだよ。だから人と話しするときでも物事に即しない。物事というのは人と話しする場合には、対談の話題だとか、用件のことなんだね。その方にどんどんのってゆけばいいんだけれども、自分のほうにくっついてるんだね。相手が自分のことをどう思っているか、どういうふうに思われているか、どうみてるか、いつも人の思惑が問題になっているわけだな。対人恐怖的な心理というのは人の思惑の奴隷なんですね。それで非常に敏感になるんだな。だから自分自身にくっついて物事にのってゆかない。人の話も上の空で聞いているわけだな。だから何をいったか、聞き逃してしまうことも多いしね。自分からもまた、話題が出ないんだね。しかも対面しているんだから混乱しますよね。大切なことは自分の気持ちに即した態度でなくて、物事に即した態度ですね。それが大切なことですね。社会不安障害の私にとっては耳の痛い言葉です。この点について、今日は2つの提案をしてみたいと思います。自分の方から話題がないということですが、話題作りのきっかけを作ることが大切だと思います。相手の趣味、家族、健康などについて興味や関心を寄せるというのはどうでしょうか。その他新聞やテレビを見て話しのネタを用意するというのもあります。こういう努力をする気持ちを持っていると、自己内省に向かうエネルギーが、自然に外向きに変化していくと思います。もう一つの提案は、他人の思惑が気になるという点ですが、自分の素直な感情や気持ち、意志や欲求や目標が明確でないでないときに問題になると思います。まず自分がどういう気持ちなのか、何を食べたいのか、どこに行きたいのか、何をしたいのかを問いかけてみることが大切だと思います。真っ先に取り組むことは、自分の立場を明確にすることだと思います。自分の素直な気持ちや感情を大事に取り扱うために、森田理論で学習した「純な心」を活用したいものです。素直な感情は突然湧きあがります。きちんと掴まえるという意識がないとすぐに忘却の彼方へと飛び去る運命にあります。そして次に「かくあるべし」を含んだ感情が湧き上がってきます。普通はそれに基づいて対応することになりますので、本音と建前が乖離して苦しみが出てくるのです。相手と対立するようになり、人間関係で悩むことになります。自分の素直な感情や気持ち、意志や欲求や目標を意識するためには、毎日日記をつけることをお勧めします。それらを文字にしていくことで、より明確にできるようになります。つぎに、その素直な感情や気持ちを相手にどう伝えるかという点も大切になります。これは「私メッセージ」の手法を使うことを考えましょう。「私」を主語にして話しすることです。「あなた」を主語にするとうまくいかなくなります。そしてお互いがwin winの関係になれるように話し合い、ある程度のところで妥協して折り合うという気持ちを持っておくことが大事です。そのように心掛ければ、他人の思惑に一方的に振り回されることは、ある程度防げるのではないでしょうか。
2021.11.17
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11月号の生活の発見誌に対人恐怖症の方の相談があります。その方は、他人からの批判・侮辱、嘲笑、失望といった自分に向けられたマイナスの反応を見ることを極端に恐れているといわれています。そんなとき、些細なことで傷ついて、落ち込んだり機嫌が悪くなったりするので、周囲から腫れ物扱いされていることが多いように感じておられます。私と同じ悩みです。生活の発見会にはこのような悩みを持っている人がとても多いようです。今日はこの問題を取り上げて、解決策を考えてみたいと思います。対人恐怖症の人は、人が怖い、人が信用できない、人は自分を苦しめるだけだと思っています。他人と交流することによって、人生を楽しむことはありえないと思っています。生涯孤独に生きていくことを選択する方が、よほど気楽に生きていけると思っています。それで納得して生きていければ、葛藤や苦悩は生まれないはずです。ところが心の奥底では、仲間外れにされることは何としても避けたい。他人から一目置かれてあこがれるような人間になりたいという強い欲望を持っています。そのはざまで葛藤や苦悩でのたうち回ることになります。一方では、非難、否定、罵倒、軽蔑、無視されたくないと思いながら、他方で集団への帰属欲求、他者からの承認欲求が強く渦巻いています。これは欲求というよりも、渇望に近いものです。非難や否定されたくないという思いが強いときは、絶えず周囲にアンテナを張り巡らせて、他人の動向を逐一キャッチしています。神経が休まる暇もありません。対人的な予期不安がでてくるとすぐに防衛策を行使するか、回避しています。自分の人生を生きているのではなく、他人の人生に合わせて、自分の主体性を抑圧して生きているのです。自分の感性、興味や関心、問題点や課題、夢や希望は蚊帳の外になっています。他人の意向を忖度して、自分の意思を無視しながら生きることは苦しみ以外のなにものでもありません。この場合、帰属欲求や承認欲求を満たすために、大きな事件を起こして世間の注目を得ようとする人もいます。そうまでしてもこの2つの欲求を満たしたいのだと思います。あるいは、誰もが望んでもできないことに挑戦して、目標を達成して、世間の称賛を得ようと考える人もいます。これはかなりハードルが高く、途中で挫折してしまう人もいます。仮に他人から注目されるような目標を達成しても、冷ややかな目で見られることもあり、自分が望んでいる帰属欲求や承認欲求が満たされるわけではありません。この問題は、どう考えたらよいのでしょうか。森田理論の「欲望と不安の関係」が解決の糸口になります。森田理論では対人的な不安は、他人からよく見られたい、他人から高い評価を受けたいという反面から生まれてくると考えられています。対人恐怖症の人は、強い集団への帰属欲求や他者からの承認欲求を持っています。そういう強い欲求を持っていると、自動的に仲間外れにされたり、非難や否定されたらどうしようという不安が同時に湧き上がってくるようになっているのです。これは森田理論では、精神拮抗作用と言いますが、人間には誰にも備わっているものです。本来なら帰属欲求や承認欲求に基づいて行動することが欠かせません。たとえば、挨拶をきちんと行う。愛想を振りまく。優しい言葉をかける。相手が困っているときはすぐに援助する。助けに入る。人が喜びそうなことや役に立つことを見つけて行動に移していく。対人恐怖症の人は、そんなことには目も触れず、いつの間にか不安のほうにばかり目を向けているのです。他人が自分をどう取り扱うかということばかりに注意や意識が向いています。これは車のアクセルとブレーキの関係で考えてみると分かりやすい。目的地に向かうためには、アクセルを踏み込んで車を前進させなければいけません。しかし一旦前進させたら、カーブや下り坂や交差点ではブレーキを適宜活用して速度を調整する必要があります。神経症の人はアクセルを踏み込むことをしないで、いつまでもブレーキの効き目を確かめているようなものです。これではいつまで経っても、車は動き出しません。永遠に目的地に着くことはできません。ここでは、まずアクセルを踏み込むことに注意や意識を向ける必要があります。そして要所で、ブレーキを活用するというふうにすれば万事うまくいきます。このことを森田理論の「欲望と不安」の単元でよく学習していただきたいと思います。「欲望と不安」の単元では、不安の特徴や役割、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮とは何かについてより深く学習することになります。ちなみに、不安と欲望の関係は、サーカスの綱渡りのパフォーマンスをイメージするとよく分かります。長い物干し竿のようなもので絶えずバランスを取りながら注意深く前進しています。これが欲望と不安のバランスを常に意識しながら、生の欲望に乗って前進している人間本来の姿と重なってみえます。この2つを理解して実践すれば、人の思惑に振り回されて、葛藤や苦しみだらけという事態は回避できるようになります。
2021.11.03
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生活の発見会の出している「生涯森田のすすめ」という冊子の中に、夫婦の人間関係のことが紹介されている。・夫婦の力関係について夫の力=100マイナス夫の年齢(70歳であれば、100-70=30)妻の力=100マイナス夫の力(100-30=70)若い頃夫の考え方や行動に合わせていた夫婦も、年齢を重ねるにしたがって、その力関係は逆転する。対等な人間関係を維持している夫婦は少ない。どう見ても妻の方が上司に見えてくる。自分だけならよいが、子供も暗黙の了解で、妻のほうに照準を合わせている。経済的にも精神的にも、妻の尻に敷かれている夫が増えてくるというのである。それは夫が妻に依存しているからかもしれない。食事、洗濯、掃除、整理整頓、生活費の管理、財産管理、近所の付き合い、身の回りの調度品の管理維持まで妻に頼り切りである。日常茶飯事はすべて妻が取り仕切っている。夫は毎月約1万円の小遣いを与えられて、細々と暮らしている。それで好きなものを買いなさいと言われても限度がある。隠し財産を持っていないと、身動きが取れない。特に、定年退職して一日中家にいるようになった夫は、手持ち無沙汰で覇気がなくなる。魂が抜き取られて、生命維持装置を取り付けられて、ただ延命を図っているに過ぎない。妻は、テレビを見て、ネットゲームばかりしている夫を見てはため息ばかり。疲れたといっては横になり、犬のようにゴロゴロされては、掃除機をかけるにも支障が出る。「亭主留守で元気がいちばん」と言われて、厄介者扱いされている人もいる。運動不足になり、ボケてはいけないので、近くを散歩する。本屋や図書館、大型スーパーにいき商品を見て回る。妻の買い物にはほとんどついていく。近くにスーパーがあるのに、車で少し遠くのショッピングモールに出かける。そのうち認知症への不安、足腰の衰えが気になり、老眼が進み、膝の痛み、ガンなど身体的な病気が心配になりサプリメントに頼るようになる。これは他人事ではありません。定年を迎え、仕事がなくなり、趣味や夢や目標がなくなると、多かれ少なかれこの路線に入ってきます。そのうち、その生活にすっかり安住してしまうと、抜けることができなくなってしまう。現役時代に社会的に相当の役職者に登りつめた人ほど、その傾向が高くなります。・生まれ変わっても今の妻と夫婦になりたいと答えた夫は76%生まれ変わった時は今の夫と夫婦になりたいと答えた妻は16%・子供のことはいつも気になるが、配偶者のことはほとんど気にならない。そのような夫の姿を見せつけられると、妻はつい生まれ変わったら別の人とやり直したいと思ってしまうのでしょう。それに引き換え夫の体たらくはどう表現すればよいのでしょう。・夫婦喧嘩をしないコツは、妻の話に対しては、「①助言しない ②評価しない ③詮索しない ④時々相槌を打つ」だそうです。そのうち、夫の方から妻に話しかけることは少なくなっていく。妻が一方的に話していることが多い。夫がほかのことをしながら、「うっとうしいな」と上の空で聞いていると、益々疎遠になる。ましてや、助言、評価、詮索すると、夫婦関係が途端に険悪な雰囲気になる。別の本には次のように書いてあった。・結婚したとき、妻は夫に対して「今はこうだけど、将来はこう変化して欲しい」という希望を持っているが、実際は変化しない夫がほとんどである。反対に、夫は妻に「将来も変わらないで、今のままでいてほしい」と思っているが、妻は必ず変化する。妻は夫により人間として大きく成長して欲しいと願っているが、現状維持が精いっぱい。歳をとるにしたがって、体力も精神面も退化してくる夫が多い。それに対して、妻は嫁にきて足場を固めて、祖父母が亡くなると、そのうち一家を取り仕切り、自立心旺盛になる。興味や関心のあることには貪欲に取り組んでいる。生を謳歌している。夫と妻の勢いはどんどん差がつくばかりである。その結果として、・夫を亡くした妻の平均余命は、その後約17年。妻を亡くした夫の平均余命は、その後約2年。あなたは、この事実をどうお考えでしょうか。今は若いから私たちには関係のない話だと思っていても、「光陰矢の如し」ですぐに老後はやってきます。その時に慌てふためいては遅いのです。
2021.10.22
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次のエピソードから、人間関係のあり方を考えてみたいと思います。会社で上司が部下に、「これをやっておいてくれ」と仕事の依頼をしました。部下は「はい分かりました」と返答しました。その時部下は、今やりかけ中の仕事があるので、それが終わってから取りかかろうと思いました。するとしばらくして、上司がやって来て、「あれ、できているか」と尋ねました。部下は、「はい、すぐにやります」と答えましたが、もう少しで自分の仕事が終わると思った彼は、上司から依頼された仕事を後回しにしました。三度目に上司がやってきたとき、堪忍袋の緒が切れました。「上司の指示を何だと思っているのだ。もうやらなくてもいい。だからお前はダメ社員なんだよ」とものすごい剣幕で怒鳴りました。部下は突然のことで大変驚きました。断ったわけではないのにどうして叱責されなければいけないのか。いきなり上司が切れて、暴言を吐いたので、心が傷ついたというのです。部下は上司が切れるとは想定外の出来事だったというのです。一方、上司は我慢に我慢を重ねていたのですが、ついにダムの水がいっぱいになり、一挙に決壊したのです。このことが部下には全く理解できなかったのです。確かにこうしたすれ違いがあると、上司と部下の人間関係は一瞬で険悪になります。お互いに周りの人を巻き込んで相手の悪口を言うことになると、組織は滅茶苦茶になります。この場合は上司と部下という立場の違いはありますが、力関係は拮抗していると思います。上司が有無を言わさないで、相手を自由にコントロールすることは不可能です。力が拮抗していると、お互いが自分の考えや気持ちを前面に押し出していくようになります。森田でいうと、お互いが自分の「かくあるべし」を相手に押し付けるようになるのです。すると相手の「かくあるべし」と自分の考えや気持ちが対立するようになります。「かくあるべし」を押し付ければつけるほど相手との人間関係は悪化してしまいます。お互いの力関係が拮抗している場合は、対立関係、犬猿の仲になりやすいと思います。夫婦の人間関係、親子の人間関係でもそうです。友達関係もそうです。同僚もそうです。この場合は、お互いが「かくあるべし」を持ち出して応酬をしてしまうので、勝つか負けるかの戦いに発展してしまうのです。そして喧嘩をしてお互いに傷ついて、犬猿の仲になるのです。これを防ぐことはできないのか。森田理論では「かくあるべし」の応酬をするのではなく、まず相手の立場、言い分、気持ち、事情を考えてみることを提案しています。つまり事実本位に徹することです。先の例では、上司がこの仕事は、午後の会議で使う急ぎの仕事であること。自分は別の準備があるので時間が取れないことを部下に伝えて、なんとか協力してもらえないかとお願いする。交渉したからと言って、部下が引き受けてくれるかどうかは分かりません。そのときは不本意ながらも上司は引き下がらなければいけません。他に適当な人を見つけるか、自分で準備するしか方法がありません。部下には部下の言い分があります。いきなり指示命令で、自分をこき使おうとする上司の態度に不満を感じる。自分の仕事は自分なりに段取りがあって、それを中断されるのは困ります。まして、自分もノルマや時間との戦いの中で仕事をしているのだ。そのことを配慮してほしい。その日の仕事が遅れて残業や明日に廻すことはしたくない。あとで、遅れた分を助けてもらえるという条件なら快く引き受けてもよい。など。上司はいきなり自分の仕事を押し付けるのではなく、相手の気持ちを斟酌しながら交渉をする。うまくいかないときのことを考慮して、第2案、第3案を考えておくという姿勢が大切になります。相手にお願い事をするとき、当然相手は引き受けるべきだと考えているとすれば、見込み違いになった時のショックは計り知れない。実際はその方が多いように思います。たとえば集談会で「世話役を引き受けてもらえませんか」と交渉することがあります。断られるケースも多々あります。いちいちショックを受けていたら消耗します。引き受けるべきだという考えに固執していては、必ず後に尾を引きます。そのうち、依頼することが恐怖になります。そして世話役の補充ができなくなり組織が低迷してくるのです。このような硬直した考えでは、人間関係はうまくいきません。そのうち、相手を非難する。否定する。冷たくする。無視する。つまり、たえず仕返しを考えるようになる。これは相手は自分の依頼を断るべきではない。素直に従っていればよい。相手を服従させて、意のままにコントロールしようとしているのです。森田理論でいくら「かくあるべし」を少なくして事実本位の態度にならないと、神経症から立ち直り、生きづらさはなくならないと分かっていても、強力な観念優先の態度がコールタールのようにまとわりついているといった感じです。自分には自分なりにこうしたいという欲望・気持ちがあります。それは裏を返すと、相手にも相手の立場、気持ち、事情があるということです。この考えがすっぽりと抜け落ちて、自己中心が独り歩きしてしまうとまずいのです。自分の気持ちを私メッセージで伝えて、相手の都合や事情をきく。難しければ、「じゃまた機会があったら、お願いします」と身を引く。行動の決定権はあくまでも相手に委ねるという態度を維持する。その匙加減は、数多くの失敗の経験の中ではぐくまれてきます。双方の言い分を明らかにさせて、つぎにその溝を埋めていくのが、人間関係を良好に保つ秘訣になります。しんどい交渉ですが、この態度を維持していると、人間関係はよくなります。森田理論はその方向を目指している人を応援しているのです。
2021.10.19
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私の失敗談です。先日田舎に帰って、畑仕事をしていると、私の田んぼに突然コンバインがやって来て稲刈りが始まった。私は田んぼは小作に出しているので、受託者の人が作業を始めたのだ。私は挨拶のきっかけを掴めないまま、遠巻きに眺めていた。ある程度たった時、用事を思い出し車で出かけた。後で「挨拶をしなかった」ことが大問題に発展した。受託者は好きで作業を引き受けているわけではない。放置できないから、奉仕のつもりでやむなく引き受けているというのだ。感謝と慰労の気持ちを持って親しく挨拶をすべきであろうといわれた。そういわれればもっともなことである。後の祭りであった。でも言いにくいことを、正直に教えてくれたことを感謝している。私は挨拶を怠ったためにその後気まずい思いをしたことが何回もある。たとえば事務の仕事をしていた時、職人さんが会社に来たとき、出向いて挨拶をしなかった。後で、その職人さんが、「あいつは挨拶にこなかった」と他の職人さんに話していたという。それからあることないこと、さまざまな噂をどんどん広められてしまった。自業自得であった。パソコンで売上計上の仕事をしていた時、今まで面識のなかった部署の仕事をすることになった。その部署の責任者や営業マンにきちんと挨拶をしていなかった。すると、気に食わない奴と思われたのか、以後協力関係が築けなかった。クレーム商品や返品交換や値引き対象商品の売り上げ処理は困難を極めた。油の切れた歯車を無理やり回しているようなものですから、色々と問題が出てきたのです。転職したとき、その会社ではお世話になった上司にお歳暮やお中元を贈る習慣があった。私は全く知らなかったので何もしていなかった。上司からそのことを指摘されてびっくりした。この習慣がよい悪いは別にして、人間関係を円滑にするための挨拶のようなものをしなかったつけは大きかった。井の中の蛙状態は実に恐ろしいことだと思った。それから葬儀の時の失敗も多い。会社を代表して取引関係の葬儀に出席することが多かったが、その時会社の香典以外に個人の香典を渡していないことがあった。個人の香典を渡していないということは、後々大きな影響があることを思い知らされた。個人攻撃をされるようになるのです。また親戚の葬儀を、仕事を理由にして、妻に参列してもらったことが何回かあった。通夜に出席していたとはいえ、告別式に参列していないということは問題であった。私のマンションの管理人の仕事は、自分が休むと代行管理人を入れることになっている。葬儀は土日とは決まっていない。代行の手配がつかないことがある。その場合は仕事に穴をあけることになるので、休むことはできないと思い込んでいた。会社に親戚の葬儀で休ませてほしいというと、嫌な顔をされることがあったので、なかなか言い出しにくかったのである。そこでやむなく妻に参列してもらっていた。後日、法事に参列すると、親戚から非難されることがあった。これについては、最近分かったことは、葬儀の日を振替休日とし、土曜日か日曜日に振り替え出勤をすれば問題ないことが分かった。嫌味を言われるのにとらわれて思いつかなかった。これらの失敗は今後に活かしたい。まず、もし今後そのような指摘をされたら、言い訳をしないで素直に謝る。つぎに、親しく挨拶することは人間関係の基本と認識して実行する。そうしないと、その後の人間関係に暗い影を落とすことを肝に銘じたい。特に集談会に初めてやってきた人の対応をきちんとするようにしたい。つぎに結婚式は欠席しても、葬儀は万難を排して参列するべきだといわれる。これは社会的な常識、人間関係の基本とされている。基本を無視して後でいくら取り繕うとしても、相手は本音の部分で反発を感じているので、よほどのことがないがない限り修復は困難である。義理を欠かさないようにしたい。
2021.09.30
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スーパー銭湯に行くとサウナがあります。サウナから出ると、すぐに水風呂がありますね。水風呂に入るときは、サウナで体を十分に火照らせた後に入ります。すると、火照った体が一瞬で中和されて、爽快な気持ちになります。身体に心地よい刺激を与えて、疲労を回復させる効果があるように思います。この順序を逆にして、まず水風呂に入り、その後サウナに入る人は見たことがありません。水風呂から入ることは拷問を受けるようなものです。苦痛以外のなにものでもありません。この順序をきちんと守ることで、爽快な刺激を体に与えることができるのです。サウナに入るときは、順番を間違えることはありませんが、人間関係では順番を間違えている人が多いように思います。信頼関係ができていないにもかかわらず、一方的に注意、指示、命令、非難、否定してしまう人のことです。これは先に水風呂に入り、そのあとでサウナに入ろうとするようなものです。親子関係、夫婦関係、上司と部下の関係、同僚との関係、友達関係、近隣の人間関係、自治会の人間関係などを思い出してみてください。私も拙速に相手にそのような態度をとることがあります。やってしまった後で、いつも後悔しています。でもなかなかその態度が改まりません。こういうことを繰り返していると暖かい人間関係を築くことはできません。対立関係に陥りやすく、その後ずっと恨み続けることに発展しやすい。つまり人間関係が遮断されてしまう方向に向かうことになります。こういうことが繰り返されると、最後は孤立してしまうと思います。すでに信頼関係ができていると、少々きついことを言ってもあの人は私のことを思って助言してくれているのだと素直な気持ちで受け入れることができるようになります。信頼関係を築くためには、日ごろから、相手の話を価値批判しないでよく聞く。受容と共感を心掛けて、絶えず温かい言葉をかける。相手が喜びそうなことを見つけて、実行に移す。相手に寄り添い、ともに楽しむといった時間を過ごすことが大切です。注意、指示、命令、非難、否定したくなった時は、相手との信頼関係はできていますかと自問自答することが大切です。それが作られていないときは、それらはすべて自重しなければなりません。信頼関係ができると、相手から攻撃されることに絶えずビクビクすることがなくなります。自由に自分の思ったことを表現できるようになります。自由自在な人間関係に変わってきます。他人と付き合うことで、初めて自分の人生が豊かになることを実感できます。森田理論では信頼関係のない状態の時、自分の気持ちや考えを相手に強要することを「かくあるべし」押しつけると言います。「かくあるべし」を押し付けるという態度が神経症の発症の大きな原因になるとみています。葛藤や苦悩でのたうち回るようになるのです。「かくあるべし」というのは、他人に向けられているように思われがちですが、その矛先は自分にも向けられているのです。この方がより深刻です。最愛の味方であるべきはずの自分が、自分に対して敵対しているのですから、生きること自体が辛くなるのです。
2021.09.23
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7月号の生活の発見誌に心を軽くするキーワードが紹介されていました。これによると、「ありがとう」というと、心が軽くなる、心の中にいい風がスッと吹いてくるのを実感しますとあります。眠れないときに、「ありがとう」を口ずさむと、身体がリラックスして睡眠がとれる。この方はもう2年近くやっておられるという。非常に効果があるので、ぜひ試してみることを勧めておられます。「ありがたいと感謝したいこと」を日記に書いて、それを寝床に入って「ありがとう」と繰り返すとよいかも知れませんね。「ありがたいと感謝すること」は、あたりまえのことの中かから見つけることが肝心です。するといくらでも思いつきます。「ありがとう」という言葉で感謝探しを続けていると、自己否定や他人否定からどんどん遠ざかることができます。人間関係が丸くなります。それ以外のキーワードとして、「一生懸命を楽しむ」「今に生きる」と言われています。私は座右の銘として「凡事徹底」という言葉を大切にしています。森田では「ものそのものになりきる」という言葉もあります。会社から指示された仕事は、最初から意欲的にはなれません。それでよいのです。ここでは、イヤイヤでも行動に手を付けたということが肝心です。森田では、目の前の事象を見つめていると、感情が動き出す。感情が動き出すと、気づきや発見がある。興味や関心が生まれてくる。しだいにモチベーションが高まり、積極的、建設的、生産的な行動に結びついていくと言います。つまりイヤイヤ始めたことでも、行動には弾みがついてくるということです。最初は気持ちが入ってなくても、行動しているうちに、無我夢中になって自分のことはすっかり忘れていたという状態に入ることが重要です。結果ではなく、プロセスを楽しむためには、いったんは仕事に入り込むことが欠かせないということです。逆に「がんばる」という言葉はあまりよくないと言われています。神経症の人は、間違ったことを一生懸命がんばって神経症になったわけですから、頑張るというのは止めた方がいいと言われています。スポーツ観戦などの応援で「がんばれ」という言葉を使うことがあります。「もっとがんばれ」という言葉は、よく考えてみると「結果を出せ」「成果で答えろ」「負けは許さないぞ」と「かくあるべし」を押し付けている言葉です。猛練習を積み重ねて、試合に臨んでいる選手にしてみれば、「勝負はやってみなければわからない」「普段の練習通りのことが出せたらよい」と思っています。逆に「絶対に勝って成果を出さないとお世話になった人に合わせる顔がない」という気持ちが少しでも入り込んできたら、それがプレッシャーとなって、想定以上の成果を出すことは極めて難しくなります。本番に臨む選手には、「練習のつもりで思い切ってやれ」で十分です。この方が良い結果につながるように思います。
2021.09.10
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対人恐怖症の人で、自分の「生の欲望」が分からない。夢や希望と言われても、そんなものはありません。何をしたいのか自分でもよく分からない。挑戦してみたいこともありません。趣味はなんですかと言われても、すぐに答えられるものがありません。自分がどんな気持ちなのかもよく分からない。漠然とした将来不安はあります。でも、毎日楽しく生活できていれば十分じゃないですか。そういう人に、話題を変えて、「自分に対する他人の言動や態度は気になりますか」と質問すると、「それはものすごく気になります」と言われます。問題はそこですよと言われます。仲間から排除されると生きていけませんから、他人の言動や態度は、常にアンテナを張って監視しています。とにかく仲間外れにされないように、極力相手に合わせています。自分のことを非難、否定、無視、からかい、軽蔑、叱責されるようなことが発生しないようにいつも気を使っています。気を使い過ぎてしんどいのです。わずらわしい人間関係には極力かかわらないようにしようと思っています。そこまで気を使っているのに、無難な人間関係を築いているとは思えません。人間関係の悪化はストレスがたまります。他人と付き合わないで済む方法はないものでしょうか。つい羽目を外して、喧嘩を売り、切れて不平不満をぶちまけています。それがさらに人間関係の悪化を招いています。例えば、上から下目線でものをいう。馬鹿にした言い方をする。尊大かつ問答無用という態度をとる。横暴な態度をとる。怒鳴る。感情的になる。平気で嫌味を言う。委縮する。おびえる、平身低頭する。媚びへつらう。緊張しながら笑顔をつくる。ふてくされる。ふくれ面をする。警戒心丸出しで険しい目つきで相手をにらむ。不機嫌な顔つきになる。斜めに構える。あきらめる。無気力になる。これらは相手に反抗し、仕返しをしているのですが、人間関係はますます悪化します。こうした人間関係を改善する方法はないのでしょうか。私たちは森田理論学習で「純な心」が大切だと学びました。「純な心」とは、言い換えると素直な感情、直観、一次感情、初一念などと言われます。素直な自分の感情、気持ち、欲求、意志、意向、自分の立場や都合などと言い換えてもよいと思います。まずこれらにきちんと向き合う態度が大切であると学びました。これらをきちんと認めて、確実にキャッチすることが肝心です。これらは意識して取り組まないと、すぐに自分の頭からすり抜けてしまいます。これが石原加受子さんの、自分中心心理学でいう、自分中心主義のことだと思います。こういうものを確実にキャッチできたら、それらを大切に取り扱うことが肝心です。辛い感情や傷ついた気持ちになれば、自分自身でその心を癒してあげる。欲望や目標があれば、できるだけ自分自身で叶えてあげる。満たしてあげる。これらは最初から他人に依存して満たしてもらうものではありません。自分が自分のために自分の心や感情や欲求を満たしてあげることが重要です。注意や意識は、まず自分の感情、気持ち、欲求、意志に向き合うことが肝心なのです。そこを抜きにして、人間関係を議論しても根本的な解決策にはなりません。対人関係で苦しんでいる人は、ここがすっぽりと抜け落ちているのです。すると行き場を失った注意や意識は、他人が自分をどう取り扱ったかに向けられているのです。さらにその感覚が敏感になって、相手の一挙手一動に向けられて振り回されるようになるのです。2つのバランスが崩れて、他人思惑の方に偏り過ぎているのが問題です。これが、対人関係で苦しむ原因となっているのです。ですから、対人関係を改善するためには、このバランスを回復させていく必要があります。自分の素直な感情、直観、一次感情、初一念を基本にして、発言・行動する習慣を早急に作り上げることが大切です。素直な自分の感情、気持ち、欲求、意志、意向、自分の立場や都合などを最優先するようにするのです。他人の思惑を気にして生活している場合は、それは一旦放り投げて、自分の感情、気持ち、欲求は何かを見つめ続けることです。100均で3冊100円で売っているメモ帳を「感情、気持ち、欲求ノート」として、見落とさないでチャッチしていく習慣作りに取り組むことです。これは森田実践で取り組む「初一念ノート」で純な心を捕まえる訓練とよく似ています。軌道に乗ったら、次に嫌な感情や気持ち、欲求を癒す、満足させる、叶えてやるための行動に手を付けていくようにするのです。すると注意や意識がいきなり他人配慮型に向かうことが少なくなります。他人をいきなり攻撃するよりも、私の感情、気持ち、意向などを「私メッセージ」で発信することになりますので、いきなり戦闘モードに入ることが無くなります。自分も楽になり、他人をも傷つけることが格段に少なくなります。ぜひ実践してみてください。以上は、「また断れなかった・・・がなくなる本」(石原加受子 河出書房新社)を参照しています。関心があればご参照ください。
2021.09.05
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石原加受子さんは、人間関係は自分中心から出発することが大切であると言われています。他人中心から出発すると問題だらけになると言われているのです。その順番を間違えると、人間関係は葛藤や苦悩を抱えるようになると言われているのです。今日は人間関係における自分中心心理学を取り上げてみたいと思います。私たち人間には、次々とさまざまな感情、気持ち、欲求が湧き起こります。それに基づいて、他人とかかわることになります。これは他人への配慮を欠き、自己中心的な行動のように見えますが、そうではありません。石原さんは、人間関係で一番大切なことは、自分の素直な感情、気持ち、欲求などを明確にして対応していくことだと説明されています。ここでは自分の感情や意志や欲求が宝物のように大切に扱われています。これは森田理論でいうと、最初に湧き上がってくる感情、第一次感情、直観、初一念と言われるものです。いわゆる「純な心」として説明されている部分です。森田理論を学習した人は、「純な心」の体得は悲願と言ってもよいものです。「かくあるべし」を骨抜きにさせて、「事実本位」に近づく手段となるものだからです。「純な心」の大きな特徴は、きちんと掴まえようという意志を持たないと、すぐに消え失せてしまうということです。見逃してしまうと、「純な心」に基づいた対応はできなくなります。「純な心」を見失うと、単にそれだけでは済みません。さらに大変な事態に直面することになるのです。見失った途端、その問題ある事象を観念で解釈するようになるのです。人間は高度に発達した大脳を持ち、言葉を使う生きものです。記憶力も高度に発達しています。一旦初一念を掴みそこなうと、その隙間はすぐに別のもので埋められてしまいます。その隙間を埋めにやってくるものが曲者で始末に悪いものなのです。これをずばりいうと、理屈や知識や情報などです。その他、一般常識、規範、規則、習慣、法律、ルール、風習、しきたりなどが我が物顔で侵入してくるのです。今までの人生で身につけた観念の世界で満たされてしまうのです。森田でいう「かくあるべし」が前面に出てきて、他人との対応に当たるようになるのです。これが人間関係に暗い影を落とすのです。「かくあるべし」で他人に対峙すると、他人を上から下目線で見てしまいます。決して対等ではない。力の強いものが弱いものを攻撃するようになります。相手を自分の考えに同調させる。自由に相手をコントロールしようとします。相手を攻撃し、喧嘩になってもそれは仕方がない。とにかく相手に勝つことが目的になります。ここで負けると、逆に相手に主導権を取られてしまう。この状況に至ることは、最悪と考えるようになります。相手の話を聞かない。理解しようともしない。受容と共感とはほど遠くなる。実際には、批判、非難、否定、叱責、攻撃、説得、指示、命令、強制、抑圧、脅す、一喝する、見下す、無視する、からかう、悪評を立てる、大声でわめくようになります。これに対して、当然相手は猛反発してきます。そしてついに双方が戦闘状態に入ります。緊張状態にあるときは、まだよいのですが、少し気弱になった時、或いは自分を援護してくれる人がいなくなった時は極めて危ない。そのとき相手が、本気モードに入り、どんどん軍備を増強し、援軍を引き連れて現れたときはひとたまりもない。すぐに仲間内から追い出されてしまいます。あとはひっそりとなりをひそめて、生き永らえることぐらいしかできなくなってしまう。それは社会的な死を意味します。人間は群れから離れて単独で生きていくことはできません。ぎりぎり生きていけるとしても、味気ない人生になります。どこで歯車がかみ合わなくなったのかと反省しても、すでに時遅しということになります。この最悪のパターン陥らないようにする事が必要です。そのヒントは森田理論が示してくれています。森田理論では、最初に湧き上がってくる自分の素直な感情、気持ち、欲望をきちんと掴まえましょうと言っています。それがするりと滑り落ちてしまうようでは、とても人間関係の改善には向かいません。森田では「初一念メモ」を持ち歩いて、素直な感情、第一次感情、直観をきちんとキャッチするという実践があります。それを参考にして、「自分の感情、気持ち、欲求ノート」のようなものを持ち歩いて、絶えず自分を見つめるという作業を続けるのです。これが習慣になるまで取り組むことです。また、その体験を集談会で発表して、アドバイスをし合うことが有効です。つぎに、自分の素直な感情、気持ち、欲望を相手にどう伝えるかという課題に取り組むことになります。こういうプロセスを大切にすると、絶えず相手の思惑に神経をとがらせて、言い争うということが避けられると思いますが如何でしょうか。
2021.09.04
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生活の発見誌に、お悩み相談があります。学校の親睦会や委員会のことを考えると憂うつになります。自己紹介があるのでほとんど欠席しています。どうしても出席しなければならないときは、人前で発言する自分が思い浮かび、頭から離れず怯え、発言する言葉を考えてはまとまらず、不安に襲われます。ソワソワ落着かない状態になり、家事が手につかなくなり、気持ちにも余裕がない日々を過ごしています。この方は自己紹介が苦痛だとおっしゃっています。自己紹介を堂々とよどみなく、完璧にこなしたいという気持ちが強いのだと思います。自己紹介は自分の名前と役割、自分の状況などがある程度伝えることができれば十分です。集談会などでも、名前と症状だけの自己紹介をする人もいます。時間にすると30秒くらいです。誰も変に思いません。むしろ時間が押しているときは、早く切り上げてくれてよかったと感謝されます。自己紹介があるときは、事前準備が必要です。これは家にいる時に、具体的に紙に書いてみることをお勧めします。しゃべることが分かっていると安心します。本番では、それを棒読みするだけでもよいと思います。誰も変には思わないはずです。それとこの方は一人で悩みを抱えて苦しんでおられるようです。神経症の蟻地獄に落ちた人は、もがけばもがくほど深刻になりますので、孤立することは避けた方がよいのです。相談相手として、ご主人はどうですか。話を聞いてもらえていますか。学校行事には、時間が取れれば、一緒についてきてもらうことはできませんか。私も飛び込み営業ができなくなった時、同行営業をしてもらった時は、すぐに逃げ出さないで何とか仕事ができたという経験があります。それと生活の発見会に入会しておられるのでしたら、信頼できる人に個人相談に乗ってもらうのが有効です。あるいは信頼できるカウンセラーに話を聞いてもらう方法もあります。より深刻な場合は、精神科で薬物療法を受けてみるのも選択肢の一つです。この方は、今すぐにこの苦しみを取り除いてほしいと切なる思いで相談されているのですが、残念ながらこれといった処方箋はありません。たとえノウハウを教えてもらったところで、それは今の苦しみを刺激して、さらに増悪するだけになります。神経症で苦しんだ人は、自分も同じような経験をしているので、傾聴、共感、受容はできますが、これといった特効薬を提示することはできません。ではどうすればよいのか。森田理論学習に取り組むことをお勧めします。とくに神経症の成り立ちをしっかりと理解することです。注意と感覚の相互作用(精神交互作用)によって、神経症が固着してきたことを理解することです。また不安と欲望の関係についても、学習することが必要です。不安というのは、欲望とセットなっています。この方の欲望は、人前で堂々と発言したいということです。本来は不安に学んで、堂々と発言するためにどんなことに取り組めばよいかと考えればよいのです。今は、そのことを忘れて、不安を取り除くことばかりに目が奪われています。不安と欲望のバランスが崩れているのが問題です。ミイラ取りがミイラになっていることがわかれば、それだけでも楽になれます。私が対人恐怖症を克服したと思ったのは、治す努力を緩めたときでした。不安を放置して、生の欲望に方向転換した時でした。どうせ治らないのなら、これからの人生を精いっぱい楽しんでみようと切り替えたからです。トライアスロン、資格試験、楽器の演奏、自家用野菜つくり、加工食品、一人一芸、カラオケなど興味や関心のあるものにどんどん手を出していきました。そうしていたらある日突然気が付きました。たしかに人の思惑は今でもとても気になります。でも人の思惑に振り回されて、生きていくのがむなしいという状態は回避できている。それよりも毎日の生活の中でささやかな楽しみをいっぱい味わうことができている。これは不本意かもしれないが、ある意味で対人恐怖症を克服したと言えるのかもしれない。また、神経症を完全に克服すると、神経質のプラスの面がなくなる事だから、この程度の治り方がよいのではないか。他人の思惑を気にしながら、精いっぱい人生を満喫して生きていこう。この方向で努力したことは間違いなかったと思う今日この頃です。
2021.09.03
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男の子はドキドキする冒険が大好きです。冒険には、好奇心や勇気も必要ですが、一番大切なのは実は安心できる港のような存在なのです。安心できる場所のない人は、冒険することができません。男の子が母親に甘えるのは、母親のことを安心できる港のような存在だと思っているからです。毎日母親のひざの上で英気を養っては、また新しい冒険にでかけるのです。幼いとき、しっかりと甘えさせてもらった子供は、挑戦を恐れない人になります。たとえばこんなことも言えます。よちよち歩きの赤ちゃんがコテンと転び、本人は何が起こったのかわからずに、パニック状態で泣いてしまいました。「転んだら自分で起き上がる」子供になってほしいと思う気持ちは分かりますが、それを学ぶためにはその前に、「転んでも大丈夫」ということを学ばなければなりません。だからいきなり「自分で立ちなさい」というのではなく、最初は「大丈夫?」と歩み寄り、そっと手をさしのべてあげてほしいのです。そうすれば「転んだのは痛かったけど、転んでもボクは大丈夫なんだ。お母さんが見てくれている」という安心感が育ちます。安心感があるから、また立ち上がって歩き出そうとします。もう少し早く走ってみようかなと思う挑戦心が生まれます。失敗を恐れない子に育つのです。そしてそのうち、手をさしのべる親に、「大丈夫、自分で立てるから」と言えるようになります。そのときはじめて、親は、さしのべた手を引っ込め、「エライね」とひと言褒めてあげればいいのです。(男の子 育てにくい子ほどよく伸びる おおたとしまさ 主婦の友社 59ページより引用)子どもができたら母親や父親は子供の母港としての役割を果たすことが必要になります。母港に立ち寄って、食料や必要な物資を積み込み、大海原への出向が整うのです。母港を持たない子供は、信頼感、安心感、エネルギーの補給ができません。自信が育たず、冒険や挑戦へ踏み出すことができなくなります。「お父さんやお母さんが後ろで見ているから、思い切って挑戦してみなさい」という気持ちになれないのです。いざとなった時に自分を守るのは、自分しかいないということになると、冒険や挑戦するよりも、自己防衛にエネルギーを投入するようになります。外向きに向かうべきエネルギーが内省化して自分を攻撃するようなことも起きるのです。ここでは母親の役割のように書いてありますが、男にとっては父親が信頼できる母港の役割を果たしているかどうかは、その後の子どもの人生を左右します。父親になったら、できるだけ子供と一緒に過ごす時間を大切にしたいものです。授業参観日には必ず学校に行く。体育祭には子供の写真を撮る。行楽地には家族で出かける。帰省には子供を連れて行く。キャンプを企画する。チャッチボールや卓球などを一緒にする。その際、口やかましく叱責しないで、子供のやることなすことを暖かく見守り、いざとなった時は、助けに入るという態度を維持したいものです。他人と付き合うことが苦痛だという人は、安心できる母港を持っていない人だと思います。森田の人間関係は「不即不離」という考え方です。必要な時に必要なだけの人間関係を作り上げていく。狭くて濃密な人間関係を目指すのではありません。広く薄い人間関係を必要に応じて、必要なだけ築きましょうという考え方です。ここでも母港の役割は大切です。私は生活の発見会の集談会の中で母港を見つけました。頻繁に会って話しているわけではありません。心の中で、何か問題が起きたら、真っ先に相談する人がいると思っているだけです。それだけ信頼できる人です。その方は、頭から自分のことを否定することはない。包容力を持って私の話をよく聞いてくれる。そして豊富な人生経験の中からひと言アドバイスしてくれる。この母港を持っているから、生活の最前線で様々なトラブルで意気消沈することがあっても、母港に帰れば何とかなるという安心感に支えられて生きているのです。子どもにとってはそれは親です。父親も例外ではありません。いまだ母港を持っていない人は、早急に母港を見つけなければなりません。仕事、学校、友人、同級生、以前の会社の同僚、趣味の仲間、家族、親戚、地域社会、師、カウンセラーなど誰でもよいのです。何かあった時、安心して寄港して、羽を休めて英気を養うことが大切です。母港を持たないで人生の荒波を乗り越えることは不可能と肝に銘じることです。そこからはじめて、生の欲望の発揮に向かう足がかりができるのです。
2021.08.25
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人間関係で悩んでいる人が多いように思います。私もその一人です。これまでの人間関係の投稿を読み返してみた。そして、これからの注意点や改善点をとりまとめてみました。私の場合は、他人から叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒否、激怒、攻撃されることがイヤで仕方がない。相手が弱い場合は精一杯の抵抗をする。でも基本的には、攻撃するエネルギーが少ないので、そういう相手からは距離を置くようにしてきた。できるだけ逃げ回ってきた。しかしストレスがたまり、いつもイライラしている。一人で楽しいことを見つけて、人生を謳歌したいと考えても、そんなわけにはいかない。第一仕事をして、人とかかわりを持たなければ、生活できなくなる。人間は社会的な動物であるから、もともと仙人のような生活はできないと思う。どういうスタンスで他人と付き合っていけばよいのか。35年間森田理論を学習してきてある程度の方向性は見えてきた。一番役に立ったことは、森田理論で不即不離の人間関係を心掛ければよいということだった。広く浅く、必要に応じて必要なだけの付き合いで十分だということだった。たとえば、年賀状だけの人間関係でも、大切にしましょうという教えだった。それまでの私は、狭く深い人間関係にあこがれていた。親友が3人くらいいればよいと思っていた。それ以上は望まないと考えていた。しかしそれだと、何かトラブルが発生すると、人間関係が一挙に破壊されて、益々孤立することになる。この考え方は目の前のもやもやが晴れる考え方であった。集談会で次のようなアドバイスをもらった。人間関係は2人の人に好かれているとすれば、2人の人には嫌われている。そして残り6人の人は好きでも嫌いでもないという関係にある。ベタベタした人間関係は自分を窮地に追いやることになりますよということだった。次に岡田尊司さんの「愛着障害」の学習をしたとき、父親との関係に問題があって、根強い人間不信に陥っていることが分かりました。その解決方法として、遅まきながらも、「心の安全基地」を作る必要があることが分かりました。私は集談会の仲間の中に、「心の安全基地」となる人を見つけることができた。苦しいときに親身になって相談に乗ってくれる人を得て精神的にずいぶん楽になりました。今では大変感謝しております。次に高良武久先生の講話を聴いていた時、対人恐怖症の人は、仕事でも趣味でも何でもよいので10年間一つのことに打ち込んでみなさいと言われていた。そうすれば、その道の専門家になれます。生きる自信が持てるようになります。そうなれば、他人から少々非難されても、受け入れることができるようになります。私はそれを聞いて、このブログを10年間毎日続けてみようと思い立ちました。現在8年と8か月です。10年経った時に総括をしてみたいと思っております。今の段階では、高良先生のお話は間違いなかったと思っています。「他人中心から自分中心」の考えを主導しておられる石原加受子さんからは、他人の思惑に振り回されている人は、自分の考え、気持ち、欲求、都合を後回しにする傾向があります。本来は、それらをまず大切に取り扱うことが肝心なのではありませんかと教えてもらいました。これは森田理論の「純な心」を大切にすることと同じことだと感じています。これを森田理論とつなぎ合わせて、事実本位の考え方を確立できました。その他、「私メッセージ」の活用、win-winの人間関係の構築、共依存の人間関係の排除、「かくあるべし」の排除、他人への肯定的な言葉の投げ方など人間関係の改善に向けてポイントとなる学習をさせていただきました。これらはすでにこのブログで紹介させていただいております。その他にもいろいろと学習しましたが、人間関係の改善に向けての主な項目は以上です。ぜひ参考にしてみてください。精神的に楽になると思います。
2021.08.23
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昨日の続きです。相手からの依頼事やお願い事を断りたいのに断れない。自分の素直な気持ちや意志を抑圧して、正反対の心にもないことを選択する。これはつらいです。モチベーションが上がらない。ストレスでイライラします。あげくの果てに、胃潰瘍やうつ病などの身体的な病気に罹ります。この心理を分析してみましょう。依頼されたことやお願い事を断ると、相手に嫌な思いをさせてしまう。相手に無理を強いることになる。相手に負担をかけてしまうのではないか。そんなことをすると、人間関係がぎくしゃくしてくる。相手に嫌われ、嫌味を言われて、気まずい関係になる。相手から冷たくあしらわれるようになる。同調者を集めて攻撃されるようになるかもしれない。孤立することは何としても避けなければならない。このように考える人は、子供の頃に、他人からお願いされる、それを断る。自分からお願いする、相手に断られるという経験が圧倒的に少ないのです。そんな人が大人になって、自由自在に相手と交渉できるとは考えにくい。子供の頃の雑多な社会体験不足が大人になって問題になっているのです。神経質な人はそういう傾向が強いのですが、いまさらそんなことを言っても仕方がない。では社会体験が不足して大人になった人はどうすればよいのでしょうか。大人になって四苦八苦している人はどうすればよいのでしょうか。こういう人は、「・・・を断ってはいけない」「お願いされたことはすべて引き受けなければならない」「断られる可能性があることは他人に依頼してはいけない。そうしないと後で間違いなく大変なことが起きるはずだ」「お願いしたことは有無を言わせず引き受けてもらわないと承知しない」などという「かくあるべし」を持っている。それも強力なものです。相手からの依頼事項やお願い事は、相手が自分に引き受けてもらえるかどうかを打診してきているのです。引き受けるかどうかは自分に選択権があるということを忘れてはなりません。自分が相手に依頼することやお願いすることは、今度は相手が引き受けるかどうかを選択する権限を持っているということです。提案を引き受けるかどうかは、常に相手に委ねられているのです。「かくあるべし」を前面に出すと、相手を自由自在にコントロールしてしまおうということになります。それは即、支配被支配の人間関係に陥ってしまいます。良好な人間関係が崩れて、お互いに敵対する方向に向かいます。そうなると自己防衛に膨大なエネルギーを投入せざるを得なくなるのです。精神的につらくなり、一人で過ごす方がストレスがないという気持ちになります。これが人間関係の悪循環の始まりとなります。ですから人間関係に「かくあるべし」を持ち込むことは極力避けなければなりません。「かくあるべし」が少なくなれば、人間関係は事実本位になります。それはどういうことかと言いますと、自分の考えや気持ち、欲求や都合を明確に打ち出すということです。相手の思惑に振り回される前に、自分の立場をはっきりさせるということです。それらを優先して考えていくという姿勢を持つということです。森田理論でいうと「純な心」を大切にするということになります。人間関係を改善するためには、この態度を持つことがとても重要です。これを大切に取り扱う人は、相手の要求に対してすべて言いなりになるということはなくなると思います。自分の素直な気持ちと相手の要求の対立の中で、どうすれば折り合いが付けられるのかと考えるようになるはずです。中間の妥協点や落としどころを探して、交渉するということになると思います。時には自分の要求を押し通す。別の場面では相手の要求を受け入れる。つまり、状況に応じて臨機応変な行動がとれるようになります。この態度を維持すると、いきなり相手と闘うことがなくなります。闘うよりも話し合いによって、人間関係を改善していく方が好ましいと考えるようになります。相手から依頼やお願いごとがあった時は、負担が少なければ、なるべく引き受けた方がよいでしょう。自分の都合がつかないときは、相手の依頼をよく聞いて、できる限りの範囲で引き受けるしかないと思います。また、時間的にどうしても無理なら丁重にお断りするしかない。早めに言ってもらえれば、次回はなんとか協力しますということにするしかない。また能力的に無理な場合は、引き受ける範囲を絞って引き受けるしか方法がない。あるいは自分にはあまりにも荷が重すぎるといってお断りする。いずれにしても、自分の考えや意思をはっきりと相手に伝えることが大切です。その方が、いったん人間関係が悪化することがあるかもしれませんが、長い目で見ると、人間関係はうまくいくと思います。また自分の気持ちに素直になるので、ストレスがなくなります。反対に自分が相手に依頼するときも、「ここで断られたらどうしよう」などとあまり深刻にならなくなります。相手が引き受けてくれるかどうかは相手に決定権があるわけですから、どう決着するのか全く読めません。結果は半々ぐらいだと思って依頼することができるようになります。もし相手が引き受けてくれればもうけものという気持ちになります。断られたら「ああ、そうなの。残念ね。じゃまた今度ね」と言って、快く引き下がることもできるようになります。あとくされのない付き合いになります。「私はいつも我慢して引き受けているのに、私の依頼したことを簡単に断わる人は許せない」といった気持ちになると、後に尾を引きます。ストレスでイライラするようになります。そのうちあの人とは今後絶対につき合わないという最悪の状況に陥ります。「自分一人で過ごす方がよほど気が楽だわ」と思っている人は、人生の楽しみの半分を捨てているようなものだと思います。実に残念なことです。
2021.08.19
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私は集談会で、何回も参加している人に対して、「世話活動をお願いできませんか」という声掛けができない。相手から「手伝いましょうか」という言葉をいつまでも待っている。大学生の時、好きな彼女ができた。彼女もまんざらではないようだったが、「つき合ってください」とは言えなかった。万が一断られたら恥さらしになると考えたのだ。いつの間にか彼女は別の人と付き合い始めて、最終的には二人は結婚した。しまったと地団駄踏んだが後の祭りだった。飛び込み営業をやっていた時は、見ず知らずの人に「買っていただけませんか」というお願いができなかった。断られると自尊心が傷つくことが恐ろしいということにとらわれていた。「売ってください」と先方から言い出すのを待っていた。当然営業成績は振るわなかった。営業事務をやっていた時は、仕事がいっぱいでパニックになった時、「手伝ってもらえませんか」というお願いができなかった。万が一拒否されたらどうしようかという予期不安に振り回されていた。断られるくらいなら自分でやった方がよいと考えてしまう。残業して、一人でたくさんの仕事を抱えて苦しんでいた。他人に依頼やお願いができなかったのである。その結果一人で相撲を取っているような状態になった。重い荷物を一人で抱え込んで苦労することになった。それだけなら自業自得で我慢できたかもしれない。他人に依頼やお願いができないということは、他人からの依頼やお願い事があった時に、断ることができないということでもあった。本心は嫌でやりたくないのだが、断ることができなくて、不本意ながらしぶしぶ引き受けてしまう。これもとても苦しい。私の場合でいえば、他人を束ねてリーダーシップをとる能力がないのに、管理職を引き受けてしまった。まとめきれずに組織は崩壊した。課員には今でも申し訳なく思っている。あるとき、明日が生活習慣病検診というとき、上司の得意先の接待に同行したことがある。飲み過ぎて結果は最悪だった。どうしてあのとき断ることができなかったのか、後悔でいっぱいになった。明日は有給休暇で休みというときに、営業マンから大事な仕事の依頼があった。それを「明日は有給休暇で引き受けることができない」と断ることができなかった。「こんなに忙しいときによく有休がとれるものだ」といわれることを恐れたのだ。その依頼を同僚に頼み込んで肩代わりしてもらうことになった。これで大丈夫だと思って、自分は有給で休んだ。しかし次の日、その同僚はその依頼をすっかり忘れていた。私の責任になり、営業マンから軽蔑された。私はいたたまれなくなった。他人からの依頼やお願いごとを断ることができる人は、他人に対して気軽に依頼やお願い事ができる人だと思う。反対に断ることができない人は、他人へお願い事をすることができない人です。なぜかと言えば、根っ子が同じだからです。立場が変わっただけのことです。この問題を、森田理論を応用してどう対処したらよいのでしょうか。明日の投稿課題とさせていただきます。
2021.08.18
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できたからほめるのではない、ほめるからできるようになる。どこの会社でも、仕事をスピーディーにこなす人と、もたもたして遅い人がいると思います。特に流れ作業で一定のスピードについていけない人がいると、仕事がつかえてしまいます。仕事が停滞すると、全員の仕事のリズムが崩れてしまいます。こうなりますと、その人を叱責するようになると思います。人間関係が悪くなります。マツダの工場見学をしました。ベルトコンベアーの上を次から次へと自動車が流れていました。一人の人は同じ仕事をしています。例えば機械が自動でフロントガラスを運んできます。それをきちんと固定する仕事を担当している人は、2年間は同じ仕事をすることになるそうです。時間内に完了しないと、その人の上部に取り付けてある赤色灯がグルグル回転します。同時にけたたましい警報音が鳴り響きます。そういうときは、すぐにお助けマンがやって来て、仕事の遅れを取り戻します。仕事の遅い人は居づらくなる職場のように感じました。仕事の遅れが常態化している人は、人に迷惑をかけてしまいますので、最終的にはその職場から排除されることになります。相手には、ほめるところは一つもないようにみえます。相手をほめるということに焦点を当てた場合、これは目の付け所が悪いと言えるのではないでしょうか。ではどんなところに注目してほめればよいのでしょうか。例えば、最低でも70のスピードが要求される仕事に取り組んでいる時に、60のスピードでしかできない人がいるとします。その人がたまたま63のスビードでできたとき、その3はほめるに値するのではないでしょうか。ほかの人と比べるとまだ物足りないところはありますが、その人は小さな進歩を果たしているわけです。ここはほめどころだと思います。普通は「その程度のことで喜んでもらっては困ります。それでなくてもお荷物になっているのですよ。もっと仕事に集中してください。みんな難なくできていることですから。できないのなら辞めてもらうしかありませんよ」と叱咤激励することが多い。こんな言い方をされると、誰でもやる気は起きてきません。この3を評価してあげると、相手はうれしくなり、積極的に仕事に取り組むようになるでしょう。その結果、仕事のスピードがアップしてくるという流れになるのです。最初はスピードアップしていなくても、スピードを意識して仕事に取り組んでいることも、ほめる材料になります。「スピードを意識して取り組んでいるね」と評価するだけで、不思議と仕事は速くなってくるものです。目の付け所の問題です。できるからほめるのでは遅すぎる。小さな変化を見逃さないできちんとほめてあげる(評価してあげる)ことで、その人のやる気に火がついてくる。きっかけはごく小さなものなのです。これは、組織を統括して、成果を上げるマネージャの資質としては、必要不可欠な能力となります。神経質者はその小さな変化に敏感に反応するという性格特徴を持ているわけですから、対人関係にこれを活かさない手はないと思うのですが如何でしょうか。
2021.08.16
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子供のけんかには親が口をはさまないのが原則です。実際には、子ども同士のけんかに親で出てきて、相手の家に怒鳴り込んで傷害事件にまで発展することもあります。仮に親が子供の仲裁に入るときはどんなことに気を付けるとよいのでしょうか。たとえば、兄弟げんかの場合、弟の言い分だけを聞いて、「あなたはお兄ちゃんでしょ。弟をいじめてはいけません」などと一方的に叱責することはいただけません。お兄ちゃんにはお兄ちゃんの言い分があります。それもきちんと聞いてあげるべきです。別々に聞くよりも、兄弟がそろったところで、一人一人の言い分を聞きます。途中で他の兄弟が口を挟もうとするときは、それは止めさせます。手足を出したり、泣き叫ぶ時も同様です。一人ずつ、相手の目の前で自分の言い分をきちんと主張させるのです。ここで肝心なことは双方の言い分を黙って聞くだけです。司会進行の役割を果たすことです。信号機が壊れたとき、警察官が交通整理をすることがあります。これと同じです。どちらかに肩入れすることなく、平等に話をさせることです。自分の言い分をしっかり聞いてもらえたという体験が大切です。これが大人になった時、利害関係が衝突したときに、話し合いによる解決策を探るという原点になるのです。こういう経験がない大人は、無理やり暴力や権力で短絡的に相手をねじ伏せてしまうようなことを考えるようになるのです。双方に大きな痛手を与えます。次に大事なことは、スポーツの審判や裁判所の裁判官のように、どちらが良いか悪いかを裁定することは慎むことです。森田理論では、観念で是非善悪の価値判断を行い、それを前面に押し出すやり方は、「かくあるべし」の押し付けになるといいます。これが神経症の原因になり、葛藤や苦悩でのたうち回るようになると学びました。いいところまで行ったのに、最後でずっこけてしまっては元もこうもありません。実に残念な結果となります。大岡越前の裁定に三方一両損というのがありますが、これは喧嘩沙汰になったときには、話し合いによる痛み分けが人間関係の破壊を防止するというものです。上から目線でいい悪いと裁定すれば、いったん解決したように見えても、後々大きなしこりを残します。親が司会進行役に徹すると、子ども同士はそれぞれの主張を吐き出して、自分たちの気持ちを相手に知ってもらうことができます。それで少しは冷静になれます。お互いに、相手の気持ちを多少なりとも理解できるようになります。そしてつぎに自分の主張と相手の主張の妥協策を探るようになれば、犬猿の仲になることはありません。こうした経験は、大人になって、利害関係で対立したときに、いかんなく発揮されることでしょう。人間関係が破壊されることを防止します。こういう交渉力は大きなコミュニケーション能力の獲得につながります。その原点は、相手の話を平等に聞いてあげるというところにあるのです。
2021.08.14
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生活の発見会の集談会に参加している方は、共感することを心掛けておられると思います。アットホームな集談会にするためには、相手に純粋な関心を寄せることが大切です。相手の話を真剣になって聞いて、共感する。参加者一人一人に対して、そういう気持ちで対応していけば、お互いに信頼感が作り上げられることでしょう。それはとても大切なことですが、共感する時に、1つだけ気を付けてほしいことがあります。西村貴好さんは次のように指摘されています。共感する時は、共感に留めて、マイナスの同調まではしないことが大切です。「○○さんに、こんなことを言われました」「あぁ、それは辛かったですね」これが共感です。「○○さんに、こんなことを言われました」「あぁ、それは辛かったね。それは△△さんひどいわ」「△△さんひどいわ」というのがマイナスの同情に当たります。マイナスの同情までしてしまうと、火に油が注がれ、マイナスの感情が山火事のように広がります。また△△さんを要らぬ敵に回してしまうことにつながりかねません。共感に留めておくと、共感している相手のマイナスの炎がやがて鎮火してきます。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル 141ページ)同情するというのは、相手の辛い気持ち、悲しい気持ちを受け止めるということです。幼い姉妹でお姉ちゃんが泣いていると、妹もつられて泣きだすといったイメージです。相手の辛い気持ちや悲しい気持ちに対して、解釈することはやりすぎということです。神経症の悩みは、普通の人から見ると異質に見えます。実際にそれで苦しんでいるわけですから、「しんどいですね」「辛そうですね」と同情してあげることは大切です。しかし一般的には、「そんなことを些細なことを気にするのは止めなさい」「すぼらはダメですよ」「それより目の前のやるべきことをしなさいよ」「あなたは逃げているだけではないの」などと自分の見解述べて相手を非難しています。とくに神経症に縁のない人から見ると、しんどいことから逃げる手段として、神経症を悪用しているように見えてしまうのです。自分は不安や苦しみを抱えても前向きに頑張っているのに、そんな態度は絶対に許せないという気持ちになってしまうのだと思います。共感を通り越して、解釈してしまうことは、即「かくあるべし」を押し付けてしまうことにつながります。そういう人は、自分自身にも「かくあるべし」を押し付けていますので、二重の葛藤を抱えて苦しむことになります。一般社会では仕方ないとしても、集談会の中で、「早く仕事を見つけて仕事をしなさい」「正社員の仕事につきなさい」「仕事や学校へ行くのをさぼってはいけません」などと言われると、自分の居場所はここにはないのだなと敏感に察知してしまうのです。集談会では相手に寄り添う共感を大切にして、自分の解釈は封印するという態度が求められます。
2021.08.12
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星山海琳さんのお話です。人には、「理解してもらえないと生きていけない」というタイプと「まあ、そう理解されるもんじゃないよな」というタイプがいます。「理解してもらいたい」は「承認欲求」ともいいますが、生きていて楽なのは圧倒的に後者で、こう考えていると、けっこうたくさんの問題を回避できます。私は後者なのですが、これは「理解なんていらない」と一匹狼を気取っているわけではなく、もちろん理解されたり認められるのはうれしいし、自信にも勇気にもなります。でもそれはラッキーかつ幸福なプレゼントであって、足りないものを埋めてもらうことでも、マイナスをゼロやプラスにしてもらうわけでもありません。前者は、つまり他人から理解されないと自分で自分の価値を認められない、ということです。でも、他人の嗜好や気分に自分の価値を左右されるのは疲れますよね。理解されているときは問題は表面化しませんが、人生には理解されないタイミングもあるので、できたら手放したい苦労のはずなんです。(不登校になって伸びた7つの能力 星山海琳 廣済堂出版 149ページ)アフリカのサバンナで暮らしているシマウマは群れで暮らしています。群れから追い出されるということは、死を意味します。人間も一人で孤立しても生きていけると粋がっても、実際には不可能です。生きるということは、社会に受け入れられることが前提になります。仲間として認めてもらい、のけ者として排除されないように言動には細心の注意を払う必要があります。マズローの欲求5段階説では、承認欲求は3番目に挙げられています。では、社会に受け入れられるためには、自分の感情、気持ち、意志、欲求を前面に押し出してはいけないのか。他人の意向を忖度して、じっと我慢しなければいけないのか。神経症の人は、このような二者択一的な考え方をする傾向が強いようです。自分の素直な感情や気持ちを抑圧して、他人配慮型の生き方を選択するしか生きる道はないと考えがちです。すると自分の本音と実際の言動が乖離して苦悩や葛藤が生まれてきます。これは、他人の意向を配慮して、心にもないことを言ったり、行動しているわけですから、自分の本音の部分が無意識に猛反発しているのだと思います。これが心身症、神経症を引き起こしてしまうのです。私は、他人に配慮することも自分の感情や気持ちを大事に扱うことも、どちらも大切だと思います。自分の態度をどちらかに決めてしまうことは問題だと思います。考え方としては、2つのバランスをいかに上手に取っていくかにかかっていると思っています。他人に配慮した生活をすることは、普段誰でも実践していることだと思います。精魂尽き果てるほど、気を使っているのです。そして疲れ果ててしまっている。そのうち一人で過ごす方がよほど精神的に楽だと思うようになります。では、肝心な自分の本音の部分は、どう取り扱っていますか。自分の素直な感情、気持ち、意志、欲求をどうにか叶えてあげたいと思っていますか。社会不安障害で苦しんでいる人は、こちらの方が蚊帳の外になっている可能性が高いと思います。車のアクセルとブレーキの関係でいうと、自分の素直な気持ちの方がアクセルです。それを踏み込まないかぎり、前進はしません。とりあえず前に進むことが大切です。でもブレーキ(他人への配慮)が壊れていると欲望が暴走するリスクが高まります。暴走して交通事故を起こしてはどうしようもありません。それを防止するには、本音の部分を全面的に押し出しながら、それが暴走しないように、ブレーキを活用して調整すれば問題は発生しません。神経症の場合は、他人の言動に振り回されて苦しいばかりです。その時、自分の感情、気持ち、意志、欲求などを軽視、無視しているのです。ここが問題だと思います。サーカスの綱渡りでは、バランスを失って地上に落下して大けがをします。時には命を落とすことになります。バランスが崩れているのであれば、今からでも遅くはありません。バランスを意識して、その感覚を取り戻すことです。そのためには、他人への配慮の努力は一時封印することです。封印しても今までの習慣から、多少なりとも出てきますから大丈夫です。そのエネルギーを、自分の感情、気持ち、意志、欲求などを叶えてあげるにはどうすべきかに振り向けるのです。バランス感覚を取り戻すために、避けて通れないと覚悟を固めることです。この方法でバランスを回復したとき、対人関係は劇的に改善されているはずです。実際に取り組んで、真偽のほどをご自分で確かめてみてください。
2021.08.07
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あなたの周りにこんな上司はいませんか。傲慢な上司、仕事をしない上司、批判ばかりする上司、意地の悪い上司、無能な上司、意思決定できない上司、上にへつらい下に厳しい上司、感情の起伏の激しい上司、権威を振り回す上司、リーダーシップのない上司、やる気のない上司、無理難題を押し付ける上司、部下を育てることができない上司・・・こういう上司のもとで仕事をしていくことは辛いものです。ストレスがたまり、仕事を放棄したくなります。実際に、「こんな上司のもとで仕事なんかしていられるものか」と言って辞職する人もいます。でも多くの人は、家族の生活を考えて我慢しているのが現状だろうと思います。ではどういうスタンスで付き合ったらよいのでしょうか。仕事の妨げになる悪い上司を、テレビゲームの「悪玉キャラクター」に見立てるというのはどうでしょうか。例えば、「スーパーマリオブラザーズ」では、さまざまな障害物や悪玉キャラクターが次々に出てきます。それらを回避し、或いは押しのけて最終ゴールを目指します。このゲームの面白いところは、行く手の先々に必ず障害物が用意されているということです。もし障害物がなく、簡単にゴールに到達するゲームだとすると、ゲームとしては成り立ちません。そんなゲームは面白くも楽しくもありません。絶えず障害物が待ち構えているというのは、私たちの人生そのものですね。その障害物を正面からまともにぶつかるのではなく、うまくかわすことを心掛けるのです。ときには巧みに味方につけることができればいうことはありません。上司の言動に振り回されるだけというのは、地獄の苦しみです。それは自分の気持ちや欲求とまともに向き合っていないから起きるのではないでしょうか。上司に限らず、親や学校の先生などを完全無欠で理想化し過ぎるのは問題だと思います。すべての面に渡りパーフェクトな人間像を求めてしまうのは無理があります。人間というのは、誰でもプラスの面があれば、マイナスの面があります。どんなに高潔に見える人であっても、醜い面、欠点、弱みを抱えています。長所や強みがあれば、短所や弱みもあって全体としてみればバランスがとれているのです。それなのに権限を持ち、人を指導し、教育する立場の人は、完全無欠であるべきであると理想化していると、その「かくあるべし」によって無残にもその期待が裏切られることになります。その反動として、上司、親、先生に反旗を翻して対立することになります。双方が不幸になる原因がここにあります。どんな人間も完全無欠な人はいない。そういう人間同士が、仕事という現場で激しくぶつかり合っているのが、普通の状態であると心得ていれば、少々問題行動のある上司に対してもむきになる事が防げるのではないでしょうか。完全に無視するでもなく、完全に追随するでもなく、森田でいう不即不離を心掛けるのです。私の経験では、そういう上司はいずれ降格、左遷、退職に追い込まれていました。管理職として成果を上げられないということは、会社のお荷物になるわけです。そういう人を平社員として降格させても、行きがかり上人間関係が窮屈になります。その上司の上にはさらに上の上司がいて、厳しく査定していることを見逃してはいけません。のらりくらりとほどほどの付き合いに留めることをお勧めしたいと思います。会社勤めの最大の目的は、生活費を賄うということです。この目的を忘れないことも大切です。この目的を忘れてしまうと、自分の立ち位置が浮遊物のように空間をさ迷うことになります。この目的を忘れて、上司との良好な人間関係作りを目指すことは本末転倒です。このことを森田理論では、手段の自己目的化と言います。逆に言うと自分の目標をしっかりと意識している限り、上司の言動にいちいち振り回されてしまうことはなくなります。そしていずれ潮目が変わるはずだと希望を持っておくことです。
2021.08.04
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「ありがとう」の反対語はなんだと思いますか。それは「当たり前」だという人がいます。「当たり前」と感じた瞬間に、そこに感謝や価値が見つけられなくなります。家族がいて当たり前、自分のことをしてくれて当たり前、仕事があって当たり前、部下は会社に来て当たり前。ノルマは達成されて当たり前。子どもは学校に行って当たり前。自分や家族は健康で暮らすのが当たり前。当たり前と思った瞬間に感謝がなくなる。そんなことってないでしょうか。人は悲しいことに、失うか、失うかも!という状況にならないと、本当に大切な存在の価値に気づかないものなのです。そんなとき、心の闇の光となるのが「ありがとう」なのです。「ありがとう」を探すヒントは、「当たり前」だと感じてしまっていることに意識を向けること。「当たり前」の中にこそ、価値を見つけ感謝を伝えていくのです。これは意識すれば、いくらでも見つけることができます。これを実践すると、小さな事実を宝物のように大切に取り扱うことができるようになります。そして森田の事実本位の生活に近づいていくのです。日常生活の中で「すみません」「ごめんなさい」が口癖になっている人はいませんか。この言葉は、相手に精神的、物質的な負担やご迷惑をおかけして申し訳ない。何かお返ししなければ、私の方の気が済まないという気持ちにあふれています。何かお返しすれば、貸し借りがなくなり、私の気持ちが楽になるという心理です。これを、積極的に「ありがとう」「助かりました」「うれしい」という言葉に置き換えませんか。相手に、感謝の言葉を伝えることに専念するのです。相手は、自分の声掛けや行動が相手の役に立ったようだ。相手が喜んでくれて、私もうれしいという気持ちになります。そういう人は、相手が喜んでくれる声掛けや行動に注意や意識を傾けるようになると思います。さらに人の役に立つことを探して実行するようになると思います。自分の持っている能力の範囲で、他人の役に立つことを実践するというのは、森田が目指しているところです。これを心掛けていると、注意や意識がネガティブな自己内省ばかりに向かうことを防止することになります。外向きに前向きに変化してきますので一石二鳥となります。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 ユサブル 59ページより一部引用)
2021.07.25
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昨日の続きです。「がんばれ!」と言いたくなる場面では、「がんばれ!」という言葉は使わないようにしましょう。そういいたいときは、「がんばっているね」という言葉に置き換えましょう。ガンや難病で闘っている人たちは、もう十分すぎるほど闘ってきた人たちです。その人たちに「がんばれ!」という言葉は、酷な言葉になります。「がんばっているね」という言葉は、自分に寄り添ってくれて、安心感を与える言葉になります。「がんばりすぎないでね」という言葉も同様です。仕事の内容をチェックする時に、「不備がない、大丈夫、オッケー、問題なし」という代わりに、「完璧!」という言葉が有効です。相手との付き合いがある程度ある人ならば、「いつもながら完璧」と言えば、相手もついうれしくなるでしょう。居酒屋などで、「ご注文のお品はすべてお揃いでしょうか」と聞かれたときに、「大丈夫」「全部出ている」「オッケー」という代わりに、「完璧!」という言葉を使ってみましょう。きっとスタッフの顔が緩んでくるはずです。「すみません」「ごめんなさい」が口癖になっている人がいます。これはすぐに改めるほうがよいと思います。たとえ使っても、すぐ後で「ありがとうございます」と付け加えたらいかがでしょうか。相手に何かしてもらった時に、「すみません」というと、あなたに借りができました。いつかこの借りをお返ししないと、自分の気持ちの収まりがつきませんと言っているようなものです。交通事故の時に、何はさておき「すみませんでした」と謝ることは、この後の交渉にマイナスの影響を与えます。そういうときは、「すみません」という代わりに、「お怪我はありませんか」というのが正解となります。企業のお客様相談室では、クレームの電話をかけてきた人に、「すみません」とすぐに謝るようなことはしません。クレームの内容が分からないときに、「すみません」と謝ると、自社の非を認めたようなものです。相手はそれに付け込んで損害賠償を要求してくる場合があるからです。そういうときは、「ご不便をおかけしております」と言って、早速事実確認に移るのです。「いつも」という言葉と、「珍しい」という言葉を間違えて使っている人が多いようです。「あなたはいつも遅れて来るね」「おや、今日は珍しく早く来たね」などです。これは事実多少違っていても、言葉の使い方としては、逆にしなければなりません。「どうしたの、珍しいね、君が遅れて来るなんて」「いつもながら、時間厳守だね。いい心がけだね」この一言で、相手は気分が楽になります。また今後に良い影響を与えます。言葉というのは相手に「かくあるべし」を押しつける道具になる場合があります。反面、有効活用すれば、相手を和ませ、鼓舞させる言葉にもなります。これは包丁がおいしい料理を作る道具にもなるし、凶器にもなるということだと思います。「面白い」「惜しい」「がんばっているね」「完璧」「ありがとう」「いつも」「珍しい」昨日、今日取り上げた言葉を自分のものとするだけで、人間関係は大きく変化すると思いますが、如何でしょうか。言葉は自分の素直な気持ちを、ストレートに相手にぶっつける道具に過ぎないと信じている人は、認識の誤りを抱えている人です。人間関係は悪化の一途をたどります。できれば、これらの言葉を習慣化して自分のものにしたいものです。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル参照)
2021.07.22
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「かくあるべし」を減らして、事実本位に近づくために、言葉使いを意識して変えていくという方法があります。とっさの時に対応できるように、普段から訓練しておくことが有効です。まず、「でも」「しかし」という言葉を頻繁に使う人がいます。この言葉を使う人は、相手の話を途中で打ち切って、自分の考えや気持ちや要求を相手に飲ませるという方向に向いています。相手は話半分で消化不良を起こします。さらに、相手が自分を意のままにコントロールしようとしているのが分かりますので、その態度に敵対するようになります。森田では「傾聴」「受容」「共感」を大切にしています。この言葉を連発している人の周りには人が近づかなくなります。注意したいものです。相手の考え、やり方が自分の思っていたことと違う場合、「それは違います。間違いです」と相手を否定することが多いと思います。そのとき、「その考え方ややり方は面白い」という言葉に変えてしまうのです。機械的に使うようにするのです。習慣化するとよいと思います。「面白い」という言葉は、相手を否定していません。でも積極的に同意している言葉ではありません。相手にとっては、自分を認めてもらったという気持ちになります。相手の話がまるっきり違うと思った時は、「面白い、あともう少し変化したバージョンははないかな」というようにしたらどうでしょうか。相手に伝えたいメッセージは、「間違っている、箸にも棒にもかからない、このままではダメ、考え直しなさい」ということなのですが、相手への伝わり方、相手の受け止め方が全く違います。もう一つの言葉を紹介します。相手がこちらが考えている水準からはるか低水準なことしかしていない場合。例えば、仕事にしても、やるにはやっているが、おざなりである。部屋の掃除をさせると、中途半端で止めてしまう。勉強を始めてもすぐに止めてしまう。頼みごとをしても、依頼した以上のことをやろうとしない。こんな時「ダメじゃないの。やる気がないんだね」「自分でやった方がましだわ」「依頼した私がバカだったわ」これでは、相手を非難、否定、バカにしていますね。相手はいやいやながらもいったんは行動したわけです。何もしないでごろごろしているよりはましなわけです。そこに着目すると、「惜しいね」という言葉が効果を発揮します。相手にとっては、自分の行動を全面否定されたわけではありません。2割か3割はできている。そこは認められたという気持ちになれます。非難や否定されると、もう二度とやるものかという気持ちになります。惜しいといわれると、気持ちが離れていきません。5割か6割の出来にして、相手の期待に応えたいという気持ちにつながるチャンスが出てきます。あるいは期待以上に頑張るかもしれません。相手を生の欲望に突き進ませる魔法の言葉になるのです。この言葉も、こういう場面が訪れたときは、この言葉を使うという準備ができていないとなかなか出てくるものではありません。習慣化しておくことが大切になります。「その考え方は面白いね」「惜しいね」という言葉づかいを身につけた人は、人間関係がよくなります。使わない手はないと思います。また「かくあるべし」から、「事実本位」の態度を推し進める言葉でもあります。これ以外にも魔法の言葉がいくつかあります。明日ご紹介いたします。
2021.07.21
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「存在していて当たり前」「持っていて当たり前」「居て当たり前」「やってもらって当たり前」「問題がないのが当たり前」ということの中に、感謝や価値を見つけることが苦手な人が多いように思います。たとえば家族がいて当たり前、自分の世話をしてくれて当たり前、友人がいて当たり前、好きな食べ物を腹いっぱい食べられるのが当たり前、仕事があって当たり前、経済的に何不自由がない生活が当たり前、自動車があって当たり前、クーラーがあって当たり前、仕事があって当たり前、ノルマが達成されて当たり前、人間関係が良好であるのが当たり前。健康であるのが当たり前、安全に暮らせることが当たり前。当たり前ということが習慣になると、なかなか感謝の念は持てません。当たり前の中にことさら価値を見出す必要はなくなります。これらは、自由に手に入る空気や食べ物のようなものになるからです。普段の生活の中では、そこに注意や意識を払うことがなくなってしまうのです。それよりは、欲しいのに手に入らないもの手に入れる。問題のある現実を解消する。幸福感をさらに高めることなどを追い求めて、さらに「当たり前」のことを増やそうとしています。そうこうしているうちに、今まで「当たり前」と思っていたことに問題が発生することがあります。勝って当たり前という相手に、思わぬ不覚を取るようなものです。今まで「当たり前」と思っていたことには、注意や意識が向けられることがなかったわけですから、精神的にはかなり混乱することになります。これは今まで「当たり前」のことに光を当てずに、軽率に取り扱ってきたつけが回ってきたと考えてはどうでしょうか。森田理論は生の欲望を発揮して生きていくことが、人間本来の生き方ですよと教えてくれました。そのことに異論はありません。そのスタンスを維持することが肝心です。しかしザルで水を掬うようなことをすると、決して幸せは近づいてこないと思います。何を言いたいかと言いますと、普段から「当たり前」のことに感謝して、評価することに注意や意識を向けていきませんかということです。自分が今現在生きているということ、自分が持っているもの、恵まれた生活環境、居心地の良い人間関係に「ありがたい」と感謝することを、いつも忘れないようにすることです。ないものねだりばかりではなく、今存在しているもの、持っているものに光を当てることです。朝晩、仏壇に手を合わせている方もおられるでしょう。そこでは先祖様に感謝の念を言葉にして伝えています。食事をする前には、手を合わせて、食べられることに感謝している人もいます。この種の行動は、自然に感謝の気持ちが湧き上がってきますね。「当たり前」のこととして、今まで見向きをしなかったことをできるだけ書き出してみることをお勧めします。そこに大きな光を当てるのです。10個も20個も見つかると思います。日記を書いている人なら、今日の出来事の中から、「当たり前に感謝」を込めて、毎日3つずつ日記に書きだしてみるのです。これを最低1か月間続ける。感謝探しは、小さな幸せのかけらを見つけることになります。考えただけでも幸せになれるような気がしませんか。それは感謝探しは、「かくあるべし」のつけ入るスキがなくなるからだと思います。さらにこの手法を人間関係に応用していくのです。他人が自分にしてくれた「当たり前」と思っていたことに、感謝の言葉でお返しするのです。「ありがとうございます」という言葉を使うようにするのです。「申し訳けありません」「すみません」が口癖の人は、早速「どうもありがとうございます」に切り替えましょう。そういう気持ちを持っている人に、他人は安心して近づいてきます。
2021.07.08
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宇野千代さんのお話です。ある作家の話であるが、その作家は結婚披露の席上でテーブルスピーチを求められると、好んでこういう話をする。今日から新婚生活に入られるお二人に、私はこういうアドバイスをします。それは二人とも、仲の良いときばかりではない。けんかをするときもある。そのけんかのときに、腹が立ったら、相手をひっかいても、ぶんなぐってもかまわないが、決して言葉でもって、お前の顔はなんだ、サルが怒ったときみたいだぞ、とか、あなたは無類のけちんぼだとか、薄情者だとか、口がさけてもそんなことを言ってはなりません。打たれて痛かったことは忘れても、言葉で言われた痛烈なことは頭の中に刻み込まれて決して忘れることはないからです。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫)相手から受けた暴力は時が忘れさせてくれます。ところが相手から受けた言葉の暴力はいつまで経ってもなくなることはありません。心の中でいつまでもめらめらとくすぶっているのです。私も以前生活の発見会活動の中で、先輩会員から受けた人間性を否定する言葉は、今でも忘れることはできません。その方は、今では、他の人からは神様のように尊敬されている方ですが、私の心の中にはいつまでも怨念が渦巻いているのです。もっとも私も、「かくあるべし」を振りまいて、他人を非難、否定してきましたので、自分では気がつかないが、他人を生涯にわたって苦しめているのではないかと思います。自覚がないというのが実に恐ろしいことです。過去のことはもはや取り消せないわけですから、それ以上のことをしてなんとか返済しなければなりません。そう考えて、人の役に立つことを見つけるようにしているのです。結婚する前は、誰でも、努力して、相手の機嫌を取ることばかりをしています。プレゼントや暖かい言葉を投げかけます。必要以上にしている人が多い。ところが、結婚したとたん、釣り上げた魚にエサはやらないといった態度で、手のひらを逆さにしたように、相手のことを叱責、非難、否定してしまう人がいます。相手を無視するのはさらに悪い。DVというのは最たるものでしょうね。結婚する前は、ことさら相手の機嫌を取ることをしなくてもよい。極端なことを言えば、けんかを売るようなことをしてもよい。これはあくまでも結婚する前のことです。しかし、いったん結婚したからには、そのやり方は捨てる必要がある。結婚してからは、誕生日のプレゼントを欠かさない。母の日、父の日のプレゼントを用意する。相手のことを思いやり、暖かい言葉をかける。困っているときは相談に乗る。大変な時には助けに入る。結婚には、もともとそういう努力義務が課せられているのです。努力義務を放棄することは許されるものではないと心得るべきです。そうはいっても自己主張の塊のような夫婦が一緒に生活するわけですから、波風が立たないわけがありません。けんかの種はそこら中に転がっています。相手がおならをしただけでも許せない。せんべいや漬物を音を立てて食べるのが許せない。などなど。それを防ぐためには、結婚する前にお互いが衝突した場合は、話し合いによって解決するという約束を文章にして署名捺印しておくことです。クリナップ契約のことです。けんかばかりする夫婦は、それを額に入れて居間に飾っておくことです。結婚とはひたすら妥協を求めての交渉を繰り返すことなのです。その交渉が嫌だという人は、もともと結婚する資格がないということです。そういうことを続けていると、雨降って地が固まるようになるのです。そして私の人生はこの人でよかったのだという気持ちが生まれてくるのです。そして自分の人生を優雅に彩ってくれた配偶者に感謝できるようになります。相手に「かくあるべし」を押し付けることが習慣化している人は、自分にも「かくあるべし」を押し付けている人です。自己肯定感が持てないという原因は、ここにあります。まるごとの自分、現実の自分を認めることができないで、自分に対して喧嘩を売ることばかりしているのですから、自業自得ですね。これを改めるには、まず夫婦の人間関係を改善することです。それは子供の精神的な成長に、とても良い影響を与えるはずです。
2021.07.04
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西村貴好さんのお話です。人は、悲しいことが起きたとき、苦しいときが起きたときに本当の悲しみや苦しみを感じるのではありません。自分に悲しいことや辛いことが起きたときに、自分の悲しみや苦しみ、辛さに共鳴してくれる人がひとりもいないと感じる時に、本当の悲しみや苦しみ、あるいは辛さを感じるのです。あなたも、誰かから相談事を受け、その問題を解決したり、悲しみや辛さを取り除くことができないこともあると思います。そんなとき、相手の問題を解決することができなかったとしても、相手の悲しみや苦しみの感情に共感を寄せてあげることはできる。共感を伝えてあげるだけで、相手の悲しみや苦しみがぐっと和らぐのです。むしろ問題を解決すること以上に共感を伝えることで救われることがあるかもしれません。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル 140ページ)カーネギーは人を動かすという本の中で、「盗人にも5分の理を認めよ」と言っています。相手を非難、中傷したくなった時は、その前にしなければならないことがあります。相手の考えや行動を理解しようと努めることです。これが優先されるべきです。でもよく目にすることは、そのプロセスを飛ばして、是非善悪の価値判断をしてしまう。それが適切で非の打ちどころのない普遍的な考え方だと思い込んでしまう。それを駆使して、有無を言わせないで、相手を追い込んでしまう。これは、共感や受容とは真反対の態度です。人間関係を簡単に破壊に導きます。こういう人は、その矛先を自分に対しても向けていますので、二重の苦しみを抱えているはずです。この態度を改めないと、神経症から解放されることはないと思います。共感するというのは、観念優先の態度を抑制して、相手の考えや行動に寄り添うという努力を意識的に行うということです。この努力はエネルギーを使います。観念優先に凝り固まっている人は、相当なエネルギーが必要になります。この実践は、とりもなおさず、「かくあるべし」を抑制して、事実に寄り添う態度を身につけることにつながります。森田が目指している方向と一致しています。傾聴力、共感力、受容力を身につける努力は、「かくあるべし」を抑制して、事実本位に近づくための手段となるのです。集談会では意識してそのことに取り組まれていると思います。集談会で難なくできるようになると、はじめて社会生活の場で応用可能となるのです。集談会でみんなで切磋琢磨しながら、是非習得に向けて頑張ってみてください。
2021.06.28
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望月康彦さんのお話です。私は蜂を手で掴まえられるんです。掴まえ方のコツがあって、ギュッと掴んでしまうと、間違えなく刺されます。蜂が身のキケンを察知するからです。しかし、包み込むようにやさしく自然に、蜂の方から手にたかるようにしてあげると刺されません。そうすれば蜂は、私の手を敵だとは認知しないからです。たとえ、皆が嫌う蜂であっても、敵意をむき出しにさせなければただの虫なんです。この技を、人間関係にも応用することができたのです。嫌いな人、苦手な人を、好きになることは、非常に難しいことです。だから、無理に好きにならなくてもいいんです。ただし、敵として思わないことです。自分の方から、心の中で相手に敵対心を向けると、相手もそれを察知し、そこから摩擦や苦しみが生じてしまうのです。自分と合わないからといって、敵になる必要はないのです。肯定できなくても、否定しないことですね。相手を否定すればするほど、それが苦しみへと変わります。(「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ 望月泰彦 太陽出版 35ページ)嫌いな人や苦手な人がいると、態度に現わす人が多いようです。「私はあなたのことが嫌いです」から、私に近づかないでください。目を吊り上げ、しわを寄せて、ムカデやゴキブリを見つけたときのような、険悪な表情になります。そして敵対心を持つようになります。そして、暴言を吐く、実力行使に訴えたりします。まわりにいる人は、幼児が駄々をこねているように見えます。これに対して相手もすぐに敏感に対応します。こうして最後には犬猿の仲となるのです。こういう人間関係に陥ると、いつ相手と戦闘状態に入るか分からないので、いつでもスクランブル発進できるように緊張感を高めることになります。エネルギーの無駄遣いをせざるを得ないということです。やりたいことややらなければならないことがあっても、注意や意識の大半がそちらのほうに向けられているので、気もそぞろになってしまいます。森田では、嫌いな人や苦手な人とどう付き合うことを勧めているのか。ずばり不即不離の人間関係でしたね。嫌いな人や苦手な人に対して、自分を叱咤激励して近づいてはいけませんと言っています。最低限の人間関係を維持しているだけでよい。あいさつ程度でよいということです。さらに、相手のことをこき下ろすような言動は厳に慎む必要があります。嫌いだという態度や悪口、批判する言葉はぐっと我慢することです。役者は嫌なことがあっても、演技の最中はそんなことを態度に出す人はいませんね。役者の演技力を参考にすることです。少し、距離を開けて遠巻きに眺めているだけにする。無視、無関心というのは、相手を攻撃していることと同じことですから、慎む必要があります。そして時間の経過をひたすら待つという戦略です。時間と場面が変化すれば、それに対応して感情も変化してくるというのが森田理論です。森田理論では、人間関係はあまり親密でベタベタという関係はよろしくないといいます。そういう人は、反対に嫌いな人は全く寄せ付けないという態度になりやすいのです。広く浅く、必要な時に必要な人間関係を構築するのが基本だといわれています。イメージとしては、集談会、仕事、家族、親族、趣味、習い事、学習、同級生、OB会、ボランティア、町内会、地域社会など幅広い人間関係作りを普段から心掛けておくことです。さわやかでさらりとした人間関係を心掛けることで、嫌な人や苦手な人に過度にとらわれることはなくなっていくはずです。嫌な人や苦手な人は、いつの間にか自然に人間関係が途絶えてくるという運命にあるのです。付き合い方が間違っているから、自分で苦しみを作り出しているのです。さらに相手を巻き込んで二重の苦しみを作り出しています。
2021.06.11
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堀江貴文さんが、こんな質問を受けたそうだ。「私は営業力しか自信がありません。他のスキルがまったくないまま起業してしまいました。どうしたらビジネスを軌道に乗せられるでしょうか」堀江さんは、「優秀な技術者と組めばいい」と回答した。今から新たに「努力して新しい能力を身につける」なんて、遠回り過ぎる。それより誰かに頼って仲間を作ることを考えた方がよい。誰もが、自分の「よい面」をうまく使う。言い換えれば、「得意なこと」「自分の強み」だけを活かすように考える。そのために有効なのは、「他人のよい面だけを見る」ことです。人間はよい面と悪い面の両方を持っている。悪い面に焦点を当てていると、他人と親しくなれない。仕事も進まない。いちいち傷ついていたら、何も進まない。だから、人の「悪い面」を見てしまっても、「そういうものさ」と軽く受け流す。人の「いい面」だけを見ていたほうが生きやすい。人間は助けられたり、助けたりの相互関係で成り立っている。人の価値は、「いざというときに頼れる人の数」で決まる。(炎上される者になれ 堀江貴文 ポプラ新書参照)メンタルヘルス岡本記念財団の元理事長岡本常男さんは次のように話されている。人を使う立場にある人は部下の長所を伸ばすように指導することが肝要だ。ドラッガーは、管理者にとってもっともたいせつなのは品性を身につけることだといっている。すなわち部下の欠点ばかりを責めたてて、罵倒するのは品性にかける行為である。部下の長所を見つけて、育てあげるのが品性というものであり、管理者の最大の義務であると言っている。(自分に克つ生き方 岡本常男 ごま書房 160ページより引用)神経質者は放っておくと、相手の悪い面、欠点、弱み、問題点に目が行ってしまう。それを口に出して相手のことを非難、否定、軽蔑する人が後を絶たない。相手はよい面、長所、強み、夢や希望も持っているのだが、そこに光を当てて誉める、評価する、持ち上げるということに無頓着な人が多い。これは別に神経質者だけではなく、多くの人が持っている傾向です。どうして険悪な人間関係に発展することが分かっているのに、止めようとしないのでしょうか。相手の悪いところは見て見ぬふりをする。良い点に焦点を当てて、これをクローズアップして評価する習慣を持っている人はそういう意識をもって生活している人だと思います。これは誰もが身につけたいと思ってもなかなか獲得出来ないものです。その能力を身に着けている人は、相手のよい面と悪い面の両方をバランスよく見ようとしている。バランスをとるためには、悪い方には目をつぶり、よい面ばかりを見る習慣を作らないとバランスは維持できないということがよく分かっている人です。悪い点を口に出しそうになった時、抑止力が働くような能力を身に着けているのです。森田理論はバランスをことさら重視している理論です。これを対人関係に応用していくと、目についた相手の悪いところは目をつぶり、ちょっとしたよいところは実態以上に高評価するということを実践することなのです。
2021.05.28
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相手を非難し否定することが習慣になってしまっている人がいます。旦那の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。奥さんの言うこと、なすことのすべてが気に入らない。子供の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。親の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。他人の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒絶、激怒、憤慨、攻撃を生活信条として押し出しながら生活している人です。こういう人は、他人と常に対立して戦闘状態に入り、自己防衛に最大限のエネルギーを投入しなければなりません。無駄でむなしいことに取り組む人生にどんな価値があるのでしょうか。まちがいなく、自他ともに苦しい生活を余儀なくされます。でも分かっていてもやめられない。それはなぜなのでしょうか。私は太古から人間に引き継がれてきた本能の仕業だと思っています。アフリカの東海岸に人間のルーツはあるといわれますが、サバンナの中で肉食獣から身を守ることは大変なことだったのです。絶えず近くに肉食獣がいないかどうか、神経を研ぎ澄ましておく必要がありました。万が一危険な目に遭った時は、一目散に逃げる。木の上に逃げる。武器を持って戦う。仲間と一緒になって追い払う。逃げる、攻撃することで、初めて生き延びることが保証されてきたのです。周りは敵だらけだと思っている人の方が延命できたということです。相手を無条件に信頼し、好意を寄せることは自殺行為に等しいということです。そのDNAが脈々と人間の本能として受け継がれてきていると理解すれば、なぜ他人を見れば非難や否定したくなるのかが分かるような気がします。人間はもともとそういう特徴を持った生き物であると認めることが肝心だと思います。そういう特徴は、性格と同じようなもので、いくら無くしてしまいたいと思っても無理だと思います。叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒絶、激怒、憤慨、攻撃を生活信条として生きている自分を受けいれるしかないと思います。しかしそれだけでは、高度な大脳を持った人間としては、芸がないと思います。また、その生活態度は森田理論で考えてみると、きわめてバランスが悪いと思います。バランスを失うと、その存在すら危うくなるというのが森田理論の考え方です。それは不安と欲望の調和、精神拮抗作用、不即不離の学習の中で学びました。このバランス感覚を人間関係に応用するためにはどうすればよいのか。批判や否定の反対は、相手のことを認めて受け入れるということです。相手の言動を認めて受け入れる。評価する。誉めてあげる。相手が「当たり前」と思っているような発言や行動に価値を感じて、感謝の言葉とともに伝える。その方にほとんどのエネルギーを投入するといういき込みで取り組む。地道な普段の行動の積み重ねが肝心です。とりあえず、これを夫婦や子供や親に対して取り組んでみませんか。それで少しずつバランスが取れてくるようになる。相手との信頼関係が生まれてくる。信頼関係がない状態で、非難や否定だけを前面に押し出す態度は、人間としてはとても未熟な人だと判断せざるを得ません。こうした信頼関係ができた人に対して、たまには叱責、非難、否定することは許されると思います。それが人間の本能なのですから。でも、信頼関係が全くない人に対して、叱責、非難、否定する言葉を発することは、決して許されることではないと思います。これはどんな状況においてもそうです。いつも自分の存在を認めて、評価してくれている人から、たまに叱責されても、それは私のことを思ってくれての言葉だと受け取れるようになります。人間関係にバランス感覚を応用している人は、問題あるときは、躊躇なく叱責、非難、否定できるようになります。自由自在です。自由人として生きていくことが可能になります。あえて苦言を呈することで、相手の信頼感は、さらに尊敬や畏敬の念に昇華されていくのです。
2021.05.24
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好きの反対語は嫌いです。肯定の反対語は否定です。相手のことを、嫌い、虫が好かない、非難、否定していると対立します。負けないように対抗しますので、ますます人間関係は悪くなります。そこに常にエネルギーを集中させていますので、目の前のなすべき仕事や家事などが雑になります。では「愛」の反対語は何でしょうか。嫌いではありません。「愛」というのは無条件に好きということです。尊敬しているということです。相手のことがいとおしい、かけがいのない人として心の底から思っている。貴重品を扱うように丁寧に大切に接しています。「愛」の反対語は、ずばり「無視」だそうです。「嫌い」には、まだその上があって、それが「無視」するということなのです。嫌いというのは、険悪ではありますが、まだ相手との人間関係があります。誤解が解け、人間関係が修正できるとまた交流できるようになる可能性を秘めています。太平洋戦争で日本とアメリカは敵同士で殺し合いをしていました。ところが今は唯一無二の同盟国といった関係です。男女の関係でも、あんなに犬猿の仲だったような人が、いつの間にか結婚したという光景を何度か見てきました。どこで和解したのでしょうか。不思議なことがあるものです。「嫌い」というのは、現在両者の間に、埋めることのできない大きな溝があるということだと思います。その溝を埋めることができれば、むしろかけがいのない仲間・伴侶として助け合う関係に変化していくのです。そういう人の方がむしろ固い絆で結ばれている。それは相手の欠点や弱点、主張をあるがままに認めて、受け入れることができたということです。こういう方向に向かうほうが望ましいと思います。そのためには、関係修復に向かって努力する態度がもとめられます。新たな人間関係を構築するという気持ちが大切です。しかし「嫌い」という考えにとらわれてしまうと、相手のことを徹底的に「無視」するという方向になることもあります。神経質者が選ぶのはむしろこちらの方が多いと思います。溝を埋めて、問題を解決し、妥協点を探していこうと努力する道よりも、相手を無視、排除する方が楽ができるからです。エネルギーの消耗を防ぐことができるのです。しかし非難や否定、無視を繰り返していては、永遠に険悪な人間関係は好転しません。無視するというのは、相手からできるだけ離れる、顔を背けるということですから、相手も同様の対抗手段を行使します。そして自己防衛に多くのエネルギーを投入しないと、不意に攻撃されて息の根を止められることになりかねませんので常時緊張・戦闘状態になります。すると、目の前のなすべきことがお留守になるという悪循環が始まるのです。無視するという人間関係がいったん発生するとあらゆる面に波及します。会社や友達関係だけではありません。たとえば家族の人間関係です。配偶者とは食事も別々、洗濯も別々。居間に集まらず個室で過ごす。当然寝室も別々。なかには配偶者が寝静まった後に帰宅し、起きてくる前に家を出るという人もいます。一つ屋根の下で暮らす意味がないという状態です。子供とは没交渉。子どもは心の安全基地を失って、他人が信頼できなくなります。子供を巻き込んで不幸の再生産をしているのです。森田理論でいう人間関係の原則は、「不即不離」です。引っ付きすぎず、離れすぎず、バランスをとっていく。必要に応じて必要な人間関係を、時と場所に応じて使い分けていく。濃密な人間関係ではなく、薄くて広範な人間関係を築いていくということです。無視するという態度は、最初から人を避けていることですから、「不即不離」の人間関係を構築するという出発点に立つことができない。天涯孤独に生きていくことを宣言しているようなものですから、じり貧で後悔の多い人生が口を開けて待っているということになります。そういう意味では嫌いという態度に戻って、お互いの溝を修復していくという段階に戻すことが必要になります。
2021.05.23
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「7つの習慣」の習慣の6つ目に「相乗効果を与える」というのがあります。これは人間関係で、1プラス1が2ではなく、3にも4にもなる結果をもたらすかかわり方のことを言います。プラスのシナジー効果が生まれるようなかかわり方、好影響を与える関係性のことを言います。そんな人間関係を築くためのヒントを考えてみたいと思います。植物の世界では共栄作物というのがあります。たとえばアブラナ科(ハクサイ、キャベツなど)の野菜を連作するとネコブ病菌が増殖します。ところが連作を止めて、アブラナ科以外の野菜であるネギなどを植えるとネコブ病菌は死滅することが分かっています。この2つの野菜を交互に植えることによって、病気を防ぎ合っているのです。クロールピクリンなどで土壌消毒を行なう必要はなくなります。双方が協力して病気にかかりにくい土壌環境を作り上げているのです。こういうかかわり方は素敵ですね。お互いの特徴を活かして、好影響を与えているのですから。人間関係においても、プラスの波及効果をもたらすことが可能です。私の場合を振り返ってみると、興味をもって挑戦したことは、すべて他の人から影響を受けています。テニス、スキー、チヌ釣り、加工食品作り、自家用野菜つくり、国家資格試験への挑戦、トライアスロン、沢登り、カラオケ、国内旅行、海外旅行、温泉巡り、グルメ、読書、ブログ、楽器演奏、コンサート、一人一芸、ホームページ制作、パワーポイントの活用術、株式投資、競馬、麻雀など。私は執着性が強いので、やり始めるととことんまでやり続けるという傾向があります。気づいてみると、影響を受けた人は、とっくに止めているのに、私だけがとりこになっていたというものもあります。それが神経症の克服に大いに役立っていたのです。生き方の面では生活の発見会の集談会、支部活動などで知り合った人から好影響を受けました。仕事で行き詰った時、精神的に落ち込んだ時、真っ先に相談したのは、気心の知れた集談会や支部の仲間たちでした。私は、安心できる心の寄港地、母港を持っていたので、なんとか荒波を乗り越えることができたのです。お世話になった方々には、感謝してもしきれません。それから生活の発見会が出している「生活の発見誌」の記事に助けられました。もう35年間も毎月丁寧に読んでいるのです。だいたい2日ぐらいで読み終えています。心に響いた記事はノートに書きだしました。切り抜きをして、項目別に整理してきました。そしてそれらを基にして自分の考えをまとめてきました。ただ読みっぱなしではなく、自分の意見や考えと比較しながら読み込んでいく作業が、今の生き方に反映されてきたと思っています。発見誌を通じて多くの人にお世話になりました。この場を借りて、感謝申し上げます。生活の発見誌をこのように活用するということは、まさにシナジー効果を存分に味わってきたと思うのです。こういう人たちの好影響を受けて、今まで生きてきたのだと感じます。集談会で森田理論を実際の生活に応用している人からは計り知れない好影響を受けました。集談会でそういう人に会えることは無類の喜びでした。愚直に森田道に邁進している姿を目の当たりにできたことは、とても幸運でした。一つのことに真剣に取り組むことは、知らず知らずのうちに、他人に大きな影響を与えるということが分かりました。森田理論学習の世界で、他人の人生を左右するようなかかわり方をしたいものです。これからは好影響を与えられるように精進してゆきたいと考えています。7つの習慣の最後は「刃を研ぐ」です。これについては、明日投稿します。
2021.05.18
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7つの習慣の4番目は、win-winの人間関係を作り上げるということです。人間関係には次の4つがあります。1、自分だけが勝って相手が負ける。2、自分が負けて相手だけが勝つ。3、二人とも負ける。4、二人ともが勝つ。1は自分の力が強くて、相手を自分の意のままに服従させるということです。自分にとっては短期的にみれば、うれしいでしょう。しかし相手にはストレスが残ります。また自分よりも強い人との関係では、今度は自分がストレスにさらされます。こういう人間関係は、絶えず勝つか負けるか、戦いが続きます。他人と仲良くなることはありません。絶えず警戒するようになって疲れます。2番目の場合は、逆パターンです。自信をなくして、オドオドするようになります。3番目の場合は、力関係が拮抗していて、お互いに妥協しない場合に起こります。周囲の人から、あの二人は犬猿の仲だとうわさされるようになると、その人を避けるようになります。夢の中に出てきてうなされるようになります。7つの習慣の中では、4番目の方法を目指して話し合いを心掛けている人は、葛藤や苦悩を抱えることがなくなる。人間2人いれば考えていることはどこかに食い違いが出てきます。たとえば大型連休の時、夫は家族でキャンプに行きたいと妻に持ちかけました。妻は実家の母親の病気で入退院を繰り返しているので、今度の連休は実家に帰り看護をしたいと言いました。お互いが自分の主張を押し通そうとすると、喧嘩になります。それがエスカレートすると、口もききたくない。勝手にしてという気持ちになります。ここで妥協を求めて話し合いをするとどうなるか。妻の実家に行って母親の介護を優先する。さらに家の片付けなどを手伝う。その合間を縫って、妻の実家から近くの釣り堀で釣りを楽しむ。あるいは、比較的近い湖で釣りを楽しむ。露天ぶろや観光地を散策する。このような形で双方が納得すれば、雨降って地が固まるということになります。人間は元々考えていることが異なっており、その溝を埋めていくのが欠かせないと考えて、実行している人は強いということです。神経質性格の人は負けず嫌いな人が多い。征服欲が強いのです。すべての面で相手と争って、相手に勝ちたい。相手の上に立ちたいということです。相手も同じ性格特徴を持っていると、戦いを意識するようになります。営業などで、成績の良い人をライバルとみなして、その人に追いつきたい。なんとかよい成績を出して追い越したいという挑戦の気持ちは、モチュベーションを高めて、「努力即幸福」の体験ができます。ライバルの存在はその人を一段と成長させる側面があるのです。しかし一方で、どうにも勝てないと判断すると、劣等感で苦しむことになります。あるいは、相手を蹴落とすために、足を引っ張ることを考えるようになるかもしれません。負けず嫌いというのは両面性があるということです。負けず嫌いの人がwin-winの人間関係を心掛けるとどうなるか。お互いにライバル心を燃やして切磋琢磨するばかりではなく、それぞれが目指すべき目標を別に設定するようになると思います。たとえば、相手を倒すという目標よりも、全国一の営業成績をたたき出して社長表彰を受けるという目標にすり替えることが起きます。そのために、当面ライバルを追い越すために切磋琢磨しているが、目標は相手を倒すのではなく、二人同時に全国優秀営業マンに名を連ねて、社内で一目置かれるような営業マンになる。そうなれば管理職になって昇進したり、ヘッドハンティングされるようになる。そのためにはお互いに営業ノウハウを開示して、さらに営業テクニックを向上させる。青山学院陸上部の原監督は、自分の練習メニューや指導方法などの多くを他の大学に公開しているという。企業秘密ともいえるノウハウを開示することは、リスクを伴うが、さらに自分たちが成長していくためにはそのやり方の方が有効であるといわれています。この方法は二人とも人間的に成長できます。ライバルでありながら、無二の親友であるという人間関係を築くことができます。明日は人間関係のシナジー効果について投稿します。
2021.05.17
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昨日の続きです。「7つの習慣」の4、5、6は人間関係に関するものです。5番目の習慣は、「まず相手のことを理解してから、自分のことを理解してもらう」というものです。私たちの自助グループの生活の発見会の集談会では、傾聴、受容、共感を心掛けています。どんなにしゃべりたいことがあっても、まず相手の話をよく聞く。相手に8割くらい話してもらって、自分が2割くらい話すくらいの気持ちでやっとバランスがとれて、会話が成り立つと聞いたことがあります。そういう心構えでやっと調和が保たれるということだと思います。話すことばかりに、気を取られていると、肝心なことを聞き逃してしまいます。また自分の「かくあるべし」を相手に押しつけるということにもなります。カーネギーの「人を動かす」という本に、「盗人にも5分の理を認めよ」というのがあります。この言葉をキャッチフレーズとして、しゃべり過ぎないように心がけましょう。相手を理解することに100%エネルギーを集中することです。集談会の自己紹介のとき、順番が来たら何を話そうかと考えている人がいます。そういうことは、集談会に参加する前に家で準備することをお勧めします。また、症状の説明は、あらかじめ整理してまとめておくことです。その原稿を見て話す態勢ができていれば、相手の話に集中できます。受容できない人は、事実、現実、現状を批判、否定することが習慣になっている人です。誰でも自分のことを叱責、非難、否定されると腹が立ちます。人間関係は対立関係に入り、勝つか負けるかの泥沼の状態になりエネルギーを消耗します。「でも」「しかし」「そういわれますが・・・」「一言言わしてもらいますと・・・」「その意見は違うと思います」という言葉が口癖になっている人がいます。相手が話しているのに、相手の発言の途中で口をはさんでしまう人もいます。これらは傍で見ているととても見苦しいことです。こういう人は他人を最初から受容しようという気がないのではないでしょうか。相手に勝つことばかりが優先されているのかもしれません。他人を受容しない人は、自分も受容できないことに通じます。このことを忘れないでください。自分自身で苦の種を作り出しているのです。自分で自分を否定しているのですから、将来にわたり生きづらさを抱えてしまうのです。さらに自分を取り巻いているあらゆることに対して、敵対的であるという傾向が強くなります。森田理論の中心的な考え方の一つが「事実唯真」です。どんなに受け入れがたい事であっても、実際に目の前で起きている事実に対しては、受け入れるしかないという考え方です。事実に対しては完全服従です。これに反旗を翻して、闘う、事実を隠蔽する、ごまかす、捏造することは、ますます葛藤や苦悩を抱えるようになるという考えです。事実を否定することが習慣になっている人は、否定して自分が勝つことが目的になっています。すると事実を正しく把握することができなくなります。事実に対して色眼鏡をかけて見誤ってしまので、間違った対策を立ててしまう。問題の鎮静化どころか、火に油を注ぐような結果となります。正しい課題や目標に向かって、行動するという態勢づくりができていないということです。集談会で共感、受容、傾聴を心掛けているということは、普段の生活の中で、自分、他人、自然などと折り合いをつける生き方を身につけることにつながるのです。集談会ではとても共感などできないという場合もあるかと思います。そういう時は森田理論の形から入るということを思い出してもらいたいと思います。ジェームスの言葉に「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだ」というのがあるそうです。集談会では、とてもこの人の考えには共感できないと思っても、形から入ることをお勧めします。相手の身になって形の上だけでも共感するのです。「大変ですね。つらいですね」と相手に寄り添っていくことです。すると不思議なことですが、時間の経過とともに、心から相手と共鳴しあえる場合があるのです。行動によって感情はどんどん変化していくということだと思います。森田先生は、親の理不尽な言動に反発していても、介護が必要ならばイヤイヤ世話をしているうちに、親と気持ちが通じ合うようになる場合があると言われています。「共感を心掛けよう」と言葉で言っているうちはダメです。共感に向けて一歩を踏み出したその行動が、カギを握っているのです。4と6の習慣については明日の投稿といたします。
2021.05.16
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堀江貴文さんの話です。堀江さんのところに「こんな商品(サービス)を開発したのだが、堀江さんの知名度を活かして、拡散に協力してほしい」という依頼が舞い込むそうだ。見も知らずの人にこういう依頼を突然することは失礼なことではないか。他人に物事を頼むときに重要なことは、その人へ思いをぶつけるのではなく、その人に、「自分に協力するメリット」を感じてもらうことが重要なのではないか。そのためには、相手のことを徹底的に分析しなければならない。そのうえで、自分が相手に何を与えることができるかを考えないといけない。端的に言うと、まず「自分に協力して相手が得られるメリット」(相手が喜んでくれそうなこと)を5~10パターン考える。そして相手が喜んでくれるまでメリットをひとつずつ小出しにしてプレゼントする。10も候補を用意していれば、相手に何かしら響くものがあるだろう。お互いにメリットを与えあう関係は、「対等な関係になる」ということだ。(炎上されるものになれ 堀江貴文 ポプラ新書 176ページ)堀江さんは、ギブアンドテイクの対等な人間のことを言われているのだと思います。見も知らない人に突然協力依頼をするということは、自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けるという態度に近いと思います。強制や脅迫によって人を動かすことができると勘違いしているのかもしれません。そんな人間関係は、暴力、お金、物、食べ物などで一時的に自分の思い通りに、相手を動かせたとしても、隙を見せると猛反発されかねない。また、疑心暗鬼になり、防衛するための膨大なエネルギーが必要になる。この態度は、相手の気持ちや現状が全く把握できない。信頼関係はほとんど育たないと思います。むしろ、最初からすれ違っているために、いつか激しい争いになる可能性があります。元々自分と相手の気持ちや考えていることの間には、食い違いがあるのが普通です。それをどういう方法で埋めていこうかという発想が全くないのだと思う。こういう方向で良好な人間関係を維持することは難しい。他人と仲良くなりたい、他人に協力依頼を取り付けたいときはどうすればよいのでしょうか。まず最初に、相手とは、どこにどんな食い違いがあるのかを把握することが大切になります。元々食い違いがあるという前提に立つことができる人と、そんなものは全くないと思っている人では、次の展開が全く違ってきます。食い違いがあるはずだと思っている人は、まず相手の気持ちや考え方を理解しようとします。それが分からないうちは、何も始まらないと考えているのです。相手の気持ちや考えがある程度わかった段階で、今度は自分の気持ちや考え方を相手に伝えます。そして二人の間に存在する溝をどうしたら埋めることができるだろうかと考えます。目的達成のためには、話し合いや交渉で譲歩できるかどうかを探り合います。つまり妥協点を求めて話し合いや交渉を続けることになります。妥協できなくても力に頼って相手をねじ伏せるようなことをしてはいけません。どうしても和解や妥協点を見いだせない場合は、そのままにして、時間の経過を待つ。一時的に冷却期間を置くことになります。ここでの焦りは禁物です。堀江さんの言われているとことは、和解や妥協するための手段、方法について提案されていることだと思います。相手のメリットになることを10個くらい用意して、小出しにプレゼントする方法は特にセールスなどの場合は必須のテクニックとなります。ところで、対人恐怖症の人は他人とはもともと分かり合えないのが普通の状態だと思っている人が多いように思います。両親との関係が元々ぎくしゃくしていたので、他人は自分に危害を加える恐ろしい存在として認識しているのだと思います。ですから、いきなり先ほど述べた方向で動くことは、ハードルが高すぎるという面があります。岡田尊司さんが言うところの、心の安全基地、辛い時に立ち戻れる母港を持っていないので、まともな人間関係を築いていくのは大変なのだと思います。そういう方は、是非とも集談会に参加することで、先ず心のよりどころを見つけていただきたいと思います。私も対人恐怖症でしたが、集談会の仲間は暖かく受け止めてくれました。それが生涯の財産となりました。何か問題が発生したら、集談会の仲間に相談に乗ってもらえるという気持ちを持っていると、ある程度のことは、何とか乗り越えられるように思います。家族や会社や学校や友人関係がぎくしゃくしている人は、是非集談会の仲間に相談してみてください。きっと暖かく受け止めてくれるはずです。
2021.04.13
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先日プロフェッショナル 仕事の流儀という番組にサンドウィッチマンが取り上げられた。サンドウィッチマンは今やレギュラー番組を15本抱えている。そして「好きな芸人ナンバーワン」に3年連続で選出されている。どこにそんな人気の秘密があるのでしょうか。サンドウィッチマンは、伊達みきおさんと富澤たけしさんの2人でやっている。仙台商業高校のラグビー部で知り合ったという。高校卒業後伊達さんはサラリーマンをしていた。24歳の時富澤さんに誘われて漫才の道に入った。富澤さんが伊達さんを誘ったのは、高校時代のある体験がもとにあるという。部活の後、富澤さんは自転車を盗まれたことがあった。それを一緒になって探し回ってくれたのが伊達さんだったという。固いきずなでつながれているのは、この時からだ。二人は性格がまるで違う。伊達さんは人なつこい。他人とかかわることが楽しくて仕方がないという感じだ。漫才では絶妙なつっこみを入れる。食えない時代に営業担当をしていた。富澤さんは人見知りが激しい。ボケ担当だ。実は台本はすべて富澤さんが作っている。富澤さんは一つのミスを引きずるタイプだ。負けず嫌いの面も持っている。典型的な神経質タイプだ。二人はそれぞれ自分は半人前だという自覚がある。二人合わせて一人前という意味で、ニコイチだと言っていた。あいつがいれば大丈夫。あいつの分まで頑張るという気持ちが強い。24歳で漫才師になり、33歳でⅯ1グランプリで優勝するまでは極貧の生活だった。アルバイトの日々。でもライブに出ないと認められない。ひもじい。借金ばかりが増える。その時自分たちは世間から必要とされていないと感じていたという。30歳の時、富澤さんは、「もうだめだ。漫才をやめよう」と伊達さんに申し入れたという。伊達さんは、「もう1年間だけ必死にやってみよう。それでだめならあきらめよう」と返したという。伊達さんは、ここでやめたら富澤さんは自殺するのではないかと心配していたそうだ。いまは人気者になったが、いまでも生活は地味だ。いつまた売れなくなるか、危機感を持っている。つらい時期を経験しているので、後輩芸人に優しい。東日本大震災の復興支援ライブにも熱心だ。そして二人は性格は全く違うが、お互いに思いやりが深い。コンビの夢は解散しないことだと公言する。これが夫婦なら固いきずなで結ばれた素晴らしい夫婦になることだろう。お互いの違いを認めて、あいつの足りないところは自分がカバーしてやろうという気持ちを持っている。自分と違うという面を見つけると、「かくあるべし」を振りかざして、相手を誹謗中傷する人が多い。この二人を見ていると、足りないところがあるのが当たり前。それを非難するのではなく、補い合っていく方がよほど幸せになれるという信念のようなものを感じる。漫才をする時だけ一緒で、普段の行動は別々という漫才師が多い中で、この二人はいつも一緒である。不思議な感じがする。この二人は極貧の生活を9年間味わったことが、今の生活に生きている。私たちは神経症を抱えてのたうち回った経験がある。それが森田療法に出会うきっかけとなった。こんな幸運は神経症が取り持ってくれた縁である。有難いことだと思う。つらい経験は、森田療法によって一旦克服すると強みに変わる。人生に深みと味わいをもたらす。そこを出発点として、新しい人生に向き合えるようになるからだと思う。つらい経験は、他人の経済的、身体的、精神的な痛みを我がことのように感じることができる。こうしてみると山あり谷ありの人生だったが、あきらめないで生きてきて本当によかったと思う。集談会で、「60歳以上まで生きながらえた人は、100点満点の人生です」と聞いたが、まさにその通りだと思う。
2021.04.06
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