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桂小五郎は、蛤御門の変の後、半年あまりの間、逃亡生活を送っていました。幕府からは、朝敵となった長州藩の中心人物として行方を探索され、長州にも、親幕府政権が成立したために帰ることが出来ず、身を寄せる場所がなかったのです。小五郎は、その間、芸妓の幾松や町人の甚助などに支えられ、京都~但馬出石~城崎と場所を移りながら、世を忍び、潜伏を続けました。今回は、そうした波乱に満ちた、桂小五郎の潜伏生活の様子をたどります。元治元年(1864年)6月。蛤御門の変で、長州の軍が潰滅し、京の町が戦火につつまれる中を、桂小五郎は、一人、京を脱出しました。その後、数日して、再び京に潜入。小五郎は、鴨川の橋の近くで、乞食のような身なりをして隠れ住みます。しかし、小五郎は、今でいえば指名手配の要注意人物。新撰組などから、執拗な探索を受け続けました。そんな中で、小五郎を支えたのが、京・三本木遊郭の芸妓、幾松でした。幾松は、命を狙われていた桂小五郎を庇護し、新選組に追われる小五郎を、機転を働かせて、度々かくまったといいます。小五郎の食事についても、商家の女になりすました幾松が、橋の上から握り飯の入った包みを、そっと投げ落として渡していました。しかし、小五郎も、いつまでも、京に留まっていることは危険であると感じていて、何とか、関所を超え、京から抜け出すことを考えていました。そこで、小五郎は、懇意にしていた対馬藩士に相談し、その下僕をしていた広江甚助という町人に、協力を依頼します。甚助は、小五郎が自分の援助を必要としている事を聞き、小五郎を、京から脱出させて、かくまうことを決意しました。甚助は、小五郎を、甚助の郷里出石に逃れさせる段取りを進めていきます。小五郎を船頭に化けさせて、京を脱出、関所もうまく通り抜けて、小五郎を、無事、出石に連れて行く事に成功しました。この後も、甚助は献身的に小五郎をかくまい続けます。出石では、最初、知人の家に小五郎を住まわせ、次いで、会津、桑名の藩士が小五郎の探索にきたという噂を聞くと、出石から城崎の湯治宿に小五郎を移動させました。時には、広江家ゆかりの寺に預けたり、又、ある時は、「広江屋」という荒物屋を小五郎に開かせたりしました。小五郎も、この時期には、甚助の妹の婿と称し、広江屋孝助と名乗っていたといいます。そうした、ある日。小五郎は、高杉晋作が藩内でクーデターを起し、俗論党政府を打倒したとの噂を聞きつけます。小五郎は、長州の状況を確認したいと考え、甚助に下関に行くよう頼みました。さらに、この時、自分の居場所を、村田蔵六にだけ伝えるよう指示しました。蔵六は、下級藩士ではありましたが、小五郎は彼に全幅の信頼を置いていたのです。甚助は、下関へと向かい、京から逃れてきていた幾松と面会。又、村田蔵六に会って、小五郎が但馬に潜んでいることを伝えました。やがて、小五郎が無事でいることを知った長州藩は、一日も早く、小五郎を藩に呼び戻そうとしました。成立ほどない長州新政権は、藩を背負って立てる、首相のような役割が果たせる政治家を切望していたのです。結局、甚助と幾松の2人が、出石まで小五郎を迎えに行くことになりました。慶応元年(1865年)2月。桂小五郎が、長州に戻ってきます。帰国後の小五郎は、事実上藩政府の頂点に立ちました。それとともに、それまで無名であった村田蔵六(のち大村益次郎)を、いきなり、軍務大臣に相当する軍政の責任者に抜擢。彼は、この蔵六をして、藩軍の整備にあたらせ、来たる対幕戦の総司令官にしようと考えていました。ここから、長州の倒幕に向けての軍制改革が、本格的に進められることとなっていきます。ところで、小五郎の逃亡を必死に助けた甚助。人から頼まれたというだけで、何の義理もなかったはずの小五郎に対し、驚くほど親身になって、彼をかくまい、生活の面倒を見続けました。多くの危険はあっても、利益を受けることのない、まさに、無償の善意でありました。小五郎は、甚助の人情により、この苦境から救われたということができるでしょう。小五郎も甚助の恩を終生忘れることがなく、明治になってから、甚助が大阪で商売を始めたときには資金を提供し、「広江屋」の商号と孝助の名も与えたといいます。そして、もう一人、芸妓の幾松。こちらは、その後、桂小五郎と結婚。後の木戸孝允夫人・松子となります。
2007年11月23日
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芸術の秋。こんな、絵画はいかがでしょうか。 描いた人は、花峰山人(かほうさんじん)。私の父です。30年あまり、趣味で絵を描き続けていて、今も、絵を描くことを中心とした生活を送っています。私とは、離れて暮らしているんですが、訪ねて行くと「この絵は、どう思う」と、書き上げた絵を見せてくれます。自然を題材にした絵が中心で、今は、淀川の情景を描いた一連の絵に力を入れています。 私の家にも、父の描いた額やら掛け軸やらが、いっぱいありまして常に、絵に囲まれて暮らしております。何もない白い紙に、どのように描いてゆくか。絵には、その描く人の、思いや、人となりが現れてくるものと、私は感じています。父の絵がどうかは、わかりませんが、優れた絵は、生活にうるおいを与えてくれるものであると思っています。
2007年11月17日
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秋もすっかり深まってきました。いよいよ、紅葉のシーズン。関西地方は、まだ見ごろというところまでいってませんが、でも、徐々に色づいてきているようです。この時期、一度は紅葉狩りに出掛けたい、と思いながらも、最近、数年は行っていません。今年は、どうかな・・・。もう少し、色づいたら行ってみたいな。ところで、紅葉というと、今では、赤く染まったもみじや楓が一般的ですが、遠く、古代では、違っていたようです。奈良時代の頃は、野山が色付く情景を「黄葉」と書いて「もみち」と清音で呼ばれていたとか。どちらかというと、イチョウやブナなどの落葉樹、黄色く色づく木の方が、むしろ、注目されていて、そうしたことから、「黄葉」と表現されていたようです。『万葉集』でも、「紅葉」という表現はほとんど登場することがなく、「黄葉」が主流になっていました。例えば、こんな歌。 秋山の 黄葉を茂み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも 柿本人麻呂 故郷の 初黄葉を 手折り持ち 今日ぞ我が来し 見ぬ人のため 詠み人知らずこのように、奈良時代の前後、「黄葉」が一般的であったのは、黄色を高貴な色として尊重していた、中国の影響であったともいわれています。それが、「黄葉」から「紅葉」へと変わっていったのは平安時代の中頃であったようです。国風文化が栄え、屋敷には庭が造られるようになり、そうした中で、赤く色づく楓などの木が、庭に植えられるようになりました。そうしたなかで、黄色く色づく木々より、赤く色づく木の方が注目されるようになり、やがて、晩秋の木々が色づくさまが「紅葉」と記され、「もみじ」と呼ばれるようになっていきました。晩秋、青い葉が紅く色づいていくさまが、脚光を浴びるようになっていったのです。「紅葉」を愛でるというのは、やはり、日本で生まれた文化なんですね。和歌でも『古今和歌集』になると、「紅葉」という表現が数多く登場するようになります。 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき 猿丸大夫 このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに 菅家(菅原道真)このように、紅葉のことを、錦にたとえているのは、絶妙の表現だと思います。こんな歌もあります。 嵐吹く 三室の山の 紅葉葉は竜田の川の 錦なりけり 能因法師 『後拾遺集』紅葉が山々を彩るさまは、まさに、絢爛で、秋、自然が織りなす日本の絶景であるといえるでしょう。今年、みなさんは、どんな、秋を満喫されているでしょうか。
2007年11月10日
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20世紀初頭は、世界的に、北極・南極への関心が高まった時代でもありました。世界各国の探検家たちが、競い合うようにして、極地を目指し、北極、南極の探検を行いました。そうした中、日本を代表して南極点到達を目指し、世界の探検家たちと競い合ったのが、陸軍中尉・白瀬矗(しらせのぶ)でありました。まさに、日本の極地探検の草分けといえる人物。しかし、その生涯は、その栄光とは裏腹に、様々な苦難に満ちた人生でありました。今回は、そうした白瀬中尉の生涯をまとめてみます。白瀬矗は、文久元年(1861年)秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市)の生まれ。父は、地元では歴史のある浄蓮寺という寺の住職でした。幼い頃、寺子屋で北極の話を聞いたことから極地に興味を抱き、探検家を志すようになったといいます。1879年(明治12年)僧侶になるために上京しますが、故あって軍人を目指し、陸軍教導団騎兵科に入校。教導団を卒業後は、伍長として仙台で勤務につき、予備役となってからは、志願して千島探検隊に参加しました。これは、彼にとって、極地への挑戦に向けての予備演習でもありました。しかし、千島の自然環境は想像以上に過酷なものでした。白瀬は厳寒の中、壊血病に苦しみ、食べるものもなくなって、愛犬の肉を食べて飢えをしのぐこともあったといいます。足掛け3年にわたった千島列島での生活の中で、白瀬は、極地での過ごし方を学んだといえるでしょう。1895年(明治28年)白瀬は、なんとか救助され、九死に一生を得ることができました。白瀬34才の時のこと。やがて、1900年代に入ると、世界では、極地探検についての様々な動きが出てきました。1909年(明治42年)には、アメリカの探検家ピアリーが、北極点踏破に成功。白瀬は、北極点踏破を目標としていたので、このニュースを聞いて、北極探検を断念し、南極点到達を目指すことを、目標に考えはじめました。しかし、南極探検についても、イギリスのスコットが南極探検に挑戦すると発表。ノルウェーのアムンゼンも南極点を目指す準備を始めているとの話が伝わります。これらの話を聞いて、白瀬も彼らと競争することを決意したといいます。1910年(明治43年)日本でも、帝国議会で南極探検の実施についての審議が行われました。この予算について、衆議院では可決されましたが、政府はその成功を危ぶみ、3万円の援助金は認めたものの、補助金の支出は、認められませんでした。しかし、国民はこの計画を熱狂的に応援しました。「南極探検後援会」という組織が発足され、会長には大隈重信、幹事には、三宅雪嶺らが就任。この会が、国民からの義捐金を集めて、渡航費用を支出しました。南極に向う船は、元漁船で、千島遠征に使用されていた木造帆船を使うことに決定。これに、蒸気機関を取り付けるなどの改造を施し、「開南丸」と命名されました。極地での輸送には29頭の犬を使った犬ぞりを準備。隊員は、白瀬以下27名が決定されました。そして、同年11月に、開南丸は東京芝浦を出航。いよいよ、南極を目指します。途中、何度か流氷とブリザード(地吹雪)に阻まれながらも、航海は進みます。1912年(明治45年)1月、白瀬らの一行は、ついに南極大陸に上陸。その地点を、船の名前をとって「開南湾」と命名しました。そこから、さらに、南極点に向けて前進を続けます。しかし、南極は、年平均気温がマイナス30°Cという極寒・不毛の地です。探検隊の前進は困難を極めました。ソリを引く犬を失ってしまったり、激しいブリザードに見舞われて、仲間同士が孤立したりと、非常に過酷な探検でありました。用意した食料も、次第になくなってきます。南緯80度5分、西経165度37分の地点まで、到達した時、白瀬はついに、南極点到達を断念しました。彼らは、ここに日章旗を掲げ、同地を「大和雪原」(やまとゆきはら)と命名。隊員一同は、万歳を唱和しました。この時、南極点を目指していたのは3隊。ノルウェー隊のアムンゼン、イギリス隊のスコット、そして、日本の白瀬隊です。白瀬が南進を断念した段階で、ノルウェー隊のアムンゼンは、すでに、その1ケ月前に、南極点に一番乗りしており、10日前には、イギリス隊のスコットも南極点に到達していました。白瀬は、結局、南極点に到達することはできませんでした。しかし、他の2隊に比べ、装備の面でも充分でなかった中で、南極点到達に挑戦した、その勇気と英知は世界からも称賛されることになります。白瀬、51才の時のことです。白瀬らが帰国すると、日本中がその壮挙に沸いていました。隊員たちは、提灯行列・祝賀会等の大歓迎を受けます。白瀬は、一躍、時の人となりました。しかし、それもつかの間。白瀬には、新たな苦難が待ち受けていました。白瀬の後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、白瀬は数万円の借金を背負うことになったのです。南極で苦楽をともにした、隊員の給料すら支払えなかったといいます。白瀬はこの借金のため、家財を売却し、転居につぐ転居を重ねました。南極での、実写フィルムを抱え、日本ばかりでなく、台湾、満州、朝鮮まで講演をして回り、南極探検による借金の返済費用を集めました。結局、借金の返済が完了した時には、23年の歳月が流れていました。その後、白瀬の晩年も、その栄光とは裏腹に、貧困との闘いでした。1946年(昭和21年)に死去。死因は「栄養失調による餓死」であったといわれています。享年、85才。今年は、南極観測50年。1957年(昭和32年)に昭和基地が開設されてから、ちょうど50年にあたります。毎年、南極観測船「しらせ」で隊員たちが南極に渡り、今も南極の調査・観測が続けられています。現在、白瀬の功績は、南極観測船の「しらせ」や「白瀬氷河」「白瀬海岸」「開南湾」という南極の地名としても残されています。白瀬の極地探検に賭けた情熱は、今に語り継がれていると言うことができるでしょう。
2007年11月03日
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