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自らを、武神・毘沙門天の生まれ変わりと称し、天才的な用兵で卓越した強さを示した上杉謙信。騎馬軍団を駆使して、戦国最強と謳われた武田信玄。織田信長が最も脅威に感じていた武将は、この2人であったでしょう。信長は、両者と戦うことをできるだけ避けたいと考えていて、同盟を結ぶなど政略をめぐらせて、両者とは対決しないように立ち回っていました。信玄とは、養女を武田勝頼に嫁がせることで同盟を結びましたし、謙信には、たえず手紙を送ったり、所蔵していた「洛中洛外図屏風」を贈ったりして、機嫌をそこねないように、気を使っていました。結局、信長と信玄は戦う機会がありませんでしたが、信長と謙信は、一度だけ戦っています。上杉謙信対織田軍の戦い。それが、手取川の戦いでありました。以下は、手取川の戦いと、そこに至るまでのお話です。元亀3年(1572年)武田信玄は、信長との同盟を破棄して西上を始め、織田軍に迫りました。この時、信長は、上杉謙信に対して、武田信玄という共通の敵に対抗しようという話を持ち掛け、上杉謙信と同盟を結んでいます。この信長と謙信の同盟関係は、その後4年ほど続きました。元亀4年(1573年)織田軍との戦いを目前にしていた、武田信玄が陣中で病死。しかし、このことにより、信長と謙信との関係が変化し始めました。信心深い謙信は、宗教勢力との抗争を繰り返している信長に対し、不快感を表面化させ始めます。天正4年(1576年)上杉謙信が、2万余の大軍を率いて能登に侵攻。能登の領主、畠山氏は七尾城に籠城して抗戦しました。この七尾城は、北陸屈指の堅城といわれた城で、さすがの謙信も攻めあぐみ、上杉と畠山の戦いは、翌年まで、もつれこみます。しかし、一方畠山氏の側も、七尾城内で疫病が発生して、幼年の当主まで病死してしまうなど、次第に、追い詰められていました。結局、畠山氏は信長に救援を求める事を決定。信長は、この救援要請を受け、即座に援軍の派遣を決断します。上杉謙信の軍との対決・・・。そこで信長は、これに備え、これまでにないほどの特別体制をくみました。北陸方面軍の将である柴田勝家を中心として、勝家配下の前田利家、佐々成政、佐久間盛政。それ以外に、丹羽長秀、滝川一益。さらには、中国方面担当の羽柴秀吉まで北陸に送りこみました。これら1万8000人の軍勢を先発隊として、信長自らも3万の軍勢を率いて、後発隊として出陣します。織田軍の主力を総動員といった、層々たる陣容です。天正5年(1577年)柴田勝家の先発隊が進軍を開始。しかし、その頃、七尾城の畠山勢では異変が起きていました。畠山氏の中の、親上杉派が謙信に内通。城内で反乱を起こして、七尾城は落城してしまったのです。上杉謙信も七尾城に入城。さらに、謙信は、信長が援軍を進発させたという知らせを受け、軍を進めて、手取川にほど近い、松任城に入ります。一方、柴田勝家の軍は七尾城の落城を知らないまま、進軍を続けていました。勝家が、七尾城の落城と謙信の軍が松任城に入っていることを知ったのは、七尾城を救援すべく、全軍が手取川を渡り終えたときでした。この状況を知った勝家は、慌てて撤退命令を出します。しかし、その撤退の途上、織田軍は、謙信自らが率いる上杉軍の猛攻撃を受けました。手取川の渡河に手間取っていたこともあって、このときの織田軍はなす術も無く、まさに、上杉軍の餌食となりました。この戦いで、織田軍は2000人近くの死傷者を出し、手取川で溺死したものも、数千人に及んだといいます。結果は、上杉謙信の圧勝でした。この戦い、織田軍は、上杉に不意をつかれたという事もありましたし、信長自身は、戦場に到着していなかったので、厳密には、信長対謙信の直接対決とはいえないでしょう。しかし、正面から両軍主力が戦ったとしたら、やはり、戦場では、上杉謙信が勝っていたのではないかと思われます。個々の兵の強さでは、織田の尾張兵は、上杉の越後兵とは比べ物にならないくらい、圧倒的に越後兵の方が強かんでありました。もっとも、戦略面・戦術面を含めた実際の戦いで、最終的にどうなっていたかは、わかりませんが・・・。この後、謙信は、能登から加賀国の大半を支配下におさめ、翌年には、次なる遠征に向けての準備を始めました。おそらく、信長を打倒し京へ上洛することを計画していたものと思われます。ところが、その出陣の数日前、謙信は春日山城で突如病に倒れました。上杉謙信、急死。享年49才。結局、謙信も、信長と本格的に対戦する前に世を去ることとなりました。信玄の時もそうでしたが、なぜか、2人とも信長と対決する直前に亡くなっています。このあたり、この頃の信長は天佑に恵まれていたと言うべきでしょう。信長包囲網と称される、反信長勢力を四方に抱えながらも、信長が勢力を広げてこられたのも、こうした運の良さも味方したためといえるとも思います。手取川の戦い・・・。本能寺の変で信長が横死する、5年前のことでした。
2007年10月28日
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甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に うれいなし戦国の武田軍を謡った「武田節」。私は、この歌は古くからある民謡だとばかり思っていましたが、意外にも新しく、昭和36年に三橋美智也が歌った民謡風の流行歌だということを最近知りました。作詞は米山愛紫で、作曲が明本京静。しかし、この歌は武田軍のエッセンスを上手くまとめられていると思います。往時の武田軍の様子がうかんでくるようです。2番の歌詞には、よく知られた武田信玄の名言が出てきます。 人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵どれだけ城を堅固にしたとしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる。といったような意味。戦国を生きぬいた武田信玄の人生哲学です。この言葉の通り、武田信玄はその生涯の中で、甲斐国内に、一度も新たな城を普請することなく、、堀一重の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に居住しました。しかし、この躑躅ヶ崎館。居館とはいっても、実際には城郭同様の防御力を持っていたようです。東西を2つの川に囲まれ、後背には山が控えるというような、天然の要害を利用した構造になっており、周囲にはいくつかの詰め城があり、館の守りを固めていました。また、武田信玄は、信玄堤を築くなど、民政に心血を注いでいたことも、よく知られています。民政が軍事力の基礎であり、戦いの勝敗とは、もともとは、政治の善し悪しにあるということを、信玄はよく知っていたのでしょう。 人は石垣 人は城この言葉にいう、人とは、武田の家臣団はもちろん、領民全体のことをも念頭に置かれているように思います。領主と領民とが、生死を共にするような挙国一致の団結こそ、最も大事である。信玄はそう考えていたのではないでしょうか。NHKの大河ドラマで「風林火山」が取り上げられて、今年、また、武田信玄がクローズアップされていますが、戦国を生き抜いた信玄の人生哲学、時代をこえて、今の世にも、訴えかけてくるものがあります。
2007年10月19日
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今週末、伏見への小旅行。私は京阪沿線に住んでいて、伏見までは電車で40分程度です。伏見は酒どころとして知られている町ですが、酒造の展示館や、古い酒蔵が残されている一画もあって、落ち着いた町並みには、積み重ねられてきた歴史が感じられます。 伏見の地は、良質で豊富な水量を持つ地下水に恵まれていました。このことが、ここに酒造業が栄えた大きな要因になりました。伏見は、かつて「伏水」と記されていて、この地名からも水に恵まれた地であったことがうかがえます。こうした、酒造りで栄えた伏見の町で、信仰を集めているのが、「御香宮」(ごこうのみや)神社です。この神社も、また、名水で知られています。 祭神は神功皇后。仲哀天皇の后で、子(応神天皇)を身籠りながらも三韓征伐をなし遂げたとされる伝説の皇后です。仲哀天皇・応神天皇ほか6柱も併祀されています。ここの境内には、「御香水」と呼ばれる清水が湧き出ていて、これが「御香宮」の由来となっています。平安中期の貞観4年(863年)のこと。境内から突然水が湧き出し、同時に良い香りが四方に漂いました。この水を飲むと病気がたちまち治るという評判が広がり、これを聞いた、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったと、神社の由来は伝えています。 環境省の「日本名水百選」にも選ばれていて、非常に人気の高い名水です。この日も、ペットボトルを持ってこの水を汲みにくる人等、多くの人が訪れていました。、私も飲んでみましたが、口当たりのやわらかい、とてもまろやかな水でした。この水も伏見を流れる地下水。伏見の酒造りを行う杜氏にとって「御香宮」は、酒造りを守ってくれる氏神であり、今もその信仰を集め続けているようです。
2007年10月13日
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東大阪市小阪にある、司馬遼太郎記念館。一度行ってみたいと思いながらも、実際に訪れたのは、今回が初めてです。庭に面した大きな窓のある書斎。ここで、多くの名作が書かれました。司馬さん没後の状態をそのままにして、今も保存されています。 展示館のメインは、地下一階から聳え立つ超大型の書架。ここに、古今東西、多種多様な全集や歴史資料等が並べられています。2万冊に及ぶといわれている、司馬さんの蔵書の一部で、まさに、司馬作品の源がここにあるといえる、圧倒的なスケールです。10月の企画展は「二十一世紀に生きる君たちへ」。司馬さんが、小学6年生の教科書用に書き下ろしたエッセイで、その自筆原稿の全篇が展示されていました。「二十一世紀に生きる君たちへ」司馬遼太郎記念館刊「二十一世紀に生きる君たちへ」の一部を抜粋してみます。『 私は歴史小説を書いてきた。 もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。 歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、 「それは、大きな世界です。 かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」 と、答えることにしている。 』という書き出しで始まるこの文章は、司馬さんの世界観・歴史観が凝縮されたといえる、珠玉の名文であると、私は思っています。続いて、以下は、未来を担う子供たちに対して”自己の確立”を呼びかけている部分です。『 君たちは、いつの時代でもそうであったように、 自己を確立せねばならない。 --自分にきびしく、相手にはやさしく。 という自己を。 そして、すなおでかしこい自己を。 二十一世紀においては、特にそのことが重要である。 二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。 科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。 川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、 科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。 』さらに、「いたわりの気持ち」を持つことの重要さを、司馬さんは説いています。『 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。 このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。 他人の痛みを感じることと言ってもいい。 やさしさと言いかえてもいい。 「いたわり」 「他人の痛みを感じること」 「やさしさ」 みな似たような言葉である。 この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。 根といっても、本能ではない。 だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。 その訓練とは、簡単なことである。 例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、 そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、 他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、 二十一世紀は人類が仲良しでくらせる時代になるのにちがいない。 』これらのことは、歴史について、人間について、思索を重ねてきた司馬さんが、最後に掴んだ一つの結論であったように思います。一人一人が、そうした自覚を持って、人に、社会に、人生に向き合っていけたらと、つとに、そう感じました。
2007年10月08日
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高杉晋作の、クーデター軍蜂起に呼応して、行動を開始した奇兵隊。”奇兵隊の軍が萩へと向っている。”知らせを受けた俗論党政府は、急遽鎮圧軍を編成し、萩を進発させました。やがて、萩と山口の中間地点である絵堂という高台で、両軍が対峙します。俗論党軍は、奇兵隊に対し、・萩に近づいてはいけない。すぐに退去せよ。・兵器は、殿様のものである。返納するように。とする内容の命令を出し、上意として使者を送ってきました。これに対して、奇兵隊総監の山県狂介。以外にも、あっさりとこれを了承しました。但し、武器を一時に集めることはできないので、何ヶ所かに武器返納所を設けて、順次回収していくとの回答をします。この回答に使者は安堵し、陣に引き上げていきました。しかし、これは、山県が仕掛けた罠でありました。山県率いる奇兵隊軍は、その夜、絵堂に滞陣する俗論党軍に対して夜襲を仕掛けます。不意をつかれた俗論党軍は、これにより敗走。その後、奇兵隊軍は、絵堂の地は守備に適さないという判断から、そこから奥まった集落である、大田まで陣を後退させました。こうして、大田・絵堂の戦いと呼ばれる長州藩内戦争は、戦いの火蓋が切られました。しかし、この戦い。俗論党側の方が動員兵力が多く、奇兵隊は苦しい戦いが続きます。俗論党軍の総攻撃を受け、奇兵隊も支えきれず、退却する場面もあり、何回か窮地に陥りながらも、何とか持ちこたえ敵軍を撃退することを繰り返していました。一方、その頃。下関に陣取っていた高杉晋作率いる部隊は、しばらく、下関を動きませんでした。小倉にいる幕府側の軍(肥後藩)の動きを警戒していたためです。しかし、絵堂での奇兵隊軍勝利の知らせを受けるや、密かに下関から兵を移動し始めます。保有していた軍艦のうち一隻も、萩へと進発させ、海からの攻撃を目指します。やがて、晋作の軍が大田に到着。山県の奇兵隊軍と合流します。晋作の到着で、沸き立つ奇兵隊軍。勢いにのって、奇襲攻撃を仕掛け、俗論党軍をさらに敗走させました。ここで、晋作は、さらに萩へと追撃を続けようと主張します。しかし、山県は反対しました。奇兵隊軍は、相次ぐ激戦を繰り返したため、兵の疲労が頂点に達していたのです。隊士の間でも、体勢を一度立て直してから、再攻勢に出ようとする意見が大勢を占めました。結局、山口まで戦線を後退させ、戦闘態勢を整えるという結論に落ち着きます。ところが、この頃。俗論党政府の側も窮地に陥っていました。奇兵隊軍に相次いで撃退され、さらに、海上からは軍艦の砲撃を受けるという事態に、政府部内は大きく動揺していました。そこへ、俗論党政府に反対する藩士たちが集まり、勢力を広げ始めました。彼らは”鎮静会議員”と称する有志団を結成します。奇兵隊等諸隊と提携することで、藩論の統一を目指そうという活動です。やがて、俗論党政府との勢力争いの結果、藩主に対し、俗論党政府閣僚を罷免すべしとの意見書を提出。ついに、俗論党政府は崩壊します。俗論党の領袖椋梨藤太は、津和野へと落ちのびようとしましたが、途中で捕えられ、処刑されました。他の俗論党の面々も、相次いで捕らえられ、野山獄に投獄されました。こうして、長州藩に新政権が誕生。”鎮静会議員”のメンバーが、尊王派を中心とした閣僚を選出します。しかし、功労者であるはずの晋作は、この新政権に、何故か参加しようとしませんでした。この時、晋作は「人間というものは、艱難は共に出来るが、富貴は共に出来ない。」と言っていたといいます。高杉晋作の功山寺決起から始まった、この一連の戦いは、長州藩内における、それも規模のあまり大きくない戦闘ではありました。しかし、この戦いで尊王派が勝利したことが、討幕へと直結し、明治維新を迎える大きな原動力になっていったといえます。この後、長州藩は、幕府との戦争を念頭においた、軍備の近代化を急速に進めていきました。もはや、従来の尊王攘夷ではなく、討幕・近代化の方向に進んでいたのです。
2007年10月07日
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第一次征長戦で、幕府に対し服従を示した長州藩。藩の実権も、俗論党と呼ばれる保守派が掌握しています。数ヶ月前まで、尊王攘夷の急先鋒だったはずの長州藩ですが、蛤御門の変以降のわずかな間に、その状況は一変しました。しかし、こうした藩内情勢の中、再び、尊王攘夷派が主導権を取り戻します。それは、高杉晋作が挙兵し、俗論党政権を打ち倒した事によるものでした。高杉晋作の藩内クーデターです。以下、高杉挙兵に至るまでの、状況について。晋作は、俗論党政権が成立し、尊王攘夷派への弾圧を始めたと見るや、九州福岡へと逃亡、尊攘派勢力を集めて、再起を図ろうと画策をしていました。しかし、勢力を集結させるに至らず、密かに、一人下関に戻ってきます。潜伏しながらも、奇兵隊に対し決起を呼びかけるためです。当時の奇兵隊は、俗論党政府から解散命令が出され奇兵隊総督の赤根武人は、俗論党政府との妥協を図る道を模索していました。俗論党の弾圧により、奇兵隊も以前の勢いをなくしていました。晋作はそうした奇兵隊に、再び火をつけようとしたのです。奇兵隊。実際に、その実権を握っていたのは、総監という職を務めていた山県狂介でありました。総督の赤根武人は留守にしている事が多く、隊務を山県に任せきりにしていたためです。晋作は、九州に逃亡する前からも、狂介に対し決起を促し続けていました。山県狂介は、足軽の家の出で、吉田松陰門下というほどではありませんが、松下村塾に数日来た事がある、ということから藩内で、松門系に属していました。後の、総理大臣山県有朋。明治陸軍・明治国家体制の創設に大きな影響力を持ち、明治政界の大御所となった人です。一方、晋作は奇兵隊の創設者ではありましたが、創設後、ほどなく、隊の運営を人に預け、自らは奇兵隊の運営から離れていました。隊の中では、晋作の人気はまだ高いものがあるものの、実質、奇兵隊に対しては何の権限もありません。奇兵隊を動かすには、隊を掌握していた山県狂介を説得するしかありませんでした。「このままでは、奇兵隊も諸隊も自壊する。長州藩も滅びる。この高杉とともに決起しないか。」と、晋作が説得します。しかし、山県も隊士たちも、長州藩36万石を相手に廻して、とても成功はおぼつかないと言い同意しません。再三の説得にも、慎重な山県は兵を挙げようとしません。「もう頼まん。ただこれまでの交誼に免じて馬を一頭貸してくれんか。これから萩に行き、殿を諌める。・・・万一、俗論党に捕らえられ殺されても天命というもの。」晋作は、最後まで熱誠をこめて訴えましたが、通じず、奇兵隊はついに動きませんでした。しかし、この時、わずかながら晋作と行動を共にしようとしたものがありました。一人は伊藤俊輔。この時、力士隊の隊長職が空席になっていた事から、隊長となっており、力士隊を率いています。もう一人は、石川小五郎。遊撃隊の隊長です。2隊あわせて、総勢80名あまり。晋作は、ついに、この人数で挙兵する事を決意します。晋作は兵を率い、まず、功山寺にむかいました。早朝の功山寺、昨夜からの雪におおわれ、この時一面の銀世界だったといいます。元治元年(1864年)12月15日のこと。八月十八日政変で長州に落ちてきていた、三条実美ら五卿を訪ね、挙兵のあいさつをするためです。(三条ら五卿は、幕府側からの命令で九州へ移ることが決まっていましたが、 この頃は奇兵隊に護衛されて、功山寺に仮寓していました。)晋作は、五卿を前にして、今回の挙兵の趣旨を述べ、出陣の酒をあおりました。これは、晋作にとって、私兵ではなく、義兵をあげるという意味合いを持たせるための、儀式でありました。酒を飲み終えるや、晋作は「いまから、長州男児の肝っ玉をお目にかけます。」と言い放って出て行ったといいます。何か、芝居の台詞のようで、作り話のような感じがしますが、実際に、この場面で、そう言ったようです。決死行を前にして、かなりの、高揚感が晋作にあったのでしょう。功山寺の門前には、奇兵隊の参謀が駆けつけていました。「高杉さん、今日の出兵は見合わせてくれ無謀すぎる。みんな死ぬぞ。」晋作の挙兵を止めにやってきたのです。晋作は、それには答えず、馬に鞭をいれ駆け出しました。総軍80名も、それに続いて駆け出しました。晋作のとった作戦は、まず、下関の馬関奉行所を襲撃すること。実際には、ここの奉行とかけあい、戦うことなく、当座の軍資金と食料を入手することに成功します。次には、三田尻の海軍局を狙いました。ここには、長州藩の3隻の軍艦が停泊しています。折からの、幕府への恭順を示すためとして、これらの軍艦は、臨戦態勢を解除しておりました。そこへ、晋作を始めとする決死隊20名が急襲。船将たちをおどしあげて、軍艦を奪います。晋作たちは、癸亥・庚申・丙申の3隻の軍艦を手に入れ、下関に回航してきました。この情勢を聞くや、奇兵隊は沸き立ちました。決起すべきである。隊士の声が強くなり、山県もついに挙兵に踏み切る事を決意します。元治元年(1864年)12月18日。奇兵隊が萩に向けて、進軍を開始しました。これより、長州藩内戦争が、本格的に始められることになるのです。
2007年10月01日
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