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お寺を訪ねた時、仏像の前でお経を唱えている人を良く見かけます。一心にお経を唱えているそうした姿を見ると、どんなお願いをしているのだろうとか想像するとともに、とてもほほえましく思ったりします。私も、こんな風にそらでお経を唱えることができたらと、最近は歳のせいか、そう思うようになってきました。私の家では、この10年ほど前からお彼岸やお盆、法事の時など、お坊さんを呼ぶのではなく、いつも皆で「般若心経」を唱えることにしています。面識のないお坊さんにお経をあげてもらうより、身内のものが自分で供養のお経を上げる方が心がこもっているからと・・・。そうした形がわが家では定例になっています。身近な存在になってきている「般若心経」。今回は、そうしたお経「般若心経」についてのお話を私なりにまとめてみました。(「般若心経」ってどんなお経なの?)「般若心経」とはどういうお経なのか。それが明確に示されているのが、そのタイトルです。一般には「般若心経」と呼ばれていますが、「摩訶般若波羅蜜多心経」というのが、正式なタイトル。このひとつひとつの語句の意味はというと「摩訶」=大いなる、素晴らしい「般若」=苦しみのない、幸せな「波羅蜜多」=理想の世界(彼岸)へ到達する「心経」=中心的な教えつまり、摩訶般若波羅蜜多心経というのは、大いなる、苦しみのない理想の世界に到達するための中心的な教えということになります。苦しみや迷いから脱して、理想の世界へ達するためには、どうすれば良いか、ということが、このお経に書かれているんですね。また、普段、よく耳にしている「般若心経」ですが、これはあくまでも本文にあたるもので、実際には、この本文の前に「序文」があり、本文のあとには「結文」があります。これらを通して「般若心経」を見てみると、この「般若心経」というのは、お釈迦様が開いた勉強会の様子が描かれた物語であるのだということがわかってきます。(「般若心経」は、研究発表会?)「序文」では、まず、お釈迦様が、自らが主催する勉強会の教壇に立つところから始まります。「では、今日の勉強を始めましょう。今日はどなたが発表してくれますか?」と、お釈迦様が問いかけます。すると、観音様(観自在菩薩)が手を上げて、「今日は私が発表します。」と答え、お釈迦様に替わって、観音様が教壇に立ちます。「私は”般若波羅蜜多”の修行をして、一切の苦しみから救われました・・・。」と観音様が発表を始めました。ここからが、「般若心経」の本文になります。人はなぜ苦しむのか、その根源は何か、苦しみを取り除く方法は・・・。観音様は、その研究成果を述べていきます。すると、聴講生のひとりである舎利子くんが、質問をします。「五蘊のことをもっと教えて下さい。」「この世のものは、すべて空なのですか?」こうした質問に対して、「それはね。舎利子くん。」と観音様は、丁寧に、その質問に対して答えていきます。ちなみに、この舎利子くん。なれなれしく呼んでいますが、実はこの人、釈迦十大弟子のひとりで、中でも智恵第一と称された、お釈迦様の高弟。お釈迦様の右腕とも呼ばれた、すごい人なのです。続いて観音様は、修業によって苦を乗り越えた例としてすべての菩薩様(菩提薩捶)と、すべての仏様(三世諸仏)の事例を紹介していきます。苦しみのない、理想の世界に到達するためには、”般若波羅蜜多”の修行を、繰り返し繰り返し実践することが大切だと話す観音様。そして、観音様が、最後に紹介したのが、どんな苦しい時にでも、励ましてくれる呪文の言葉でした。ぎゃーてい ぎゃーてい はーらぎゃーてい はらそーぎゃてい ぼーじそわかー羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶現在、一般的となっている「般若心経」ですが、実は、これは、三蔵法師(玄奘三蔵)が、古代インドの言葉を漢訳したもの。しかし、この最後の呪文の部分だけは、古代インドの言葉を音にしただけで、玄奘も翻訳をしませんでした。この呪文は、当時から、翻訳することを禁じられていたともいい、それは、その音の持つ不思議な力を、そのまま残すということだったと考えられています。あえて、この呪文の意味はというならば、理想に向かって前に進め 勇気をもって前に進めというような感じでしょうか、きっと観音様も、この呪文の言葉を胸に修行を続けてこられたのかも知れません。(「般若心経」の教えについて)と、ここまで「般若心経」について、そのストーリーを中心にまとめてみました。でも、その教えの意味するものはというと、とてもとても奥が深くて、私なぞが理解できるものではありません。”般若波羅蜜多”の修行とは、見返りを求めない(布施) ルールを守る(持戒) 人の言葉に惑わされない(忍辱)繰り返し続ける(精進) 自分をみつめること(禅定) 智恵を磨き実践する(智恵)これら6つの事柄(六波羅蜜)を習得することが、その修行であるといいます。”五蘊皆空”という言葉が出てきます。五蘊とは、人間の存在を5つの要素(色・受・想・行・識)に分けたもので、それらは、常に変化していくもの。この変化していくということを受け入れることにより、”苦”を感じない自分を育てることができるのだと。こうしたことは、「般若心経」の教えの一部ではありますが、たとえ、これらが理解できなくとも、とても大事なことを伝えているように感じます。「般若心経」を唱えていると、心楽しく落ち着くような、、。その意味を理解できないまでも、どこか、安らぎを与えてくれるような、そんな感じがしてきます。「般若心経」とは、そんな心の良薬なのではないか、最近は、そう思いながら「般若心経」を唱えるようにしています。摩訶般若波羅蜜多心経観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子色不異空 空不異色 色即是空空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界乃至 無意識界無無明亦 無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽無苦集滅道 無智亦無 得以無所得故 菩提薩捶依般若波羅蜜多故 心無罫礙 無罫礙故無有恐怖 遠離一切顛倒 夢想究竟涅槃三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三貌三菩提故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪是無等等呪 能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶般若心経
2016年04月13日
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あけましておめでとうございます。今年も、よろしく、お願い致します。正月のお飾りというわけでもないですが、私の家に「三番叟」(さんばそう)という名のおめでたそうな土焼き人形があります。扇と小槌を持ち、微笑んでいるかのような表情を浮かべる翁と鯛をつるした竿を手に持つ翁の2体の人形。でも「三番叟」って、いったいどういうものなの?部屋に飾っていながら、何も知らないというのも、どうかと思い、この「三番叟」について、少しばかり調べてみました。そのなかで、少しわかったこと、、。「叟」というのは翁のことであり、どうやら、この「三番叟」というのは、翁猿楽と呼ばれる日本の宗教的芸能を源流とする演目であるということでありました。(狂言における三番叟)現在、「三番叟」という演目で、最もポピュラーなのは、狂言で演じられているもののようです。特に、野村萬斎が演じている「三番叟」が人気のよう。これは、2段の構成になっていて、前半が面をつけずに舞う「揉之段(もみのだん)」、後半は、面をつけて舞う「鈴之段」といいます。特に、前半の「揉之段」は、とても迫力があるようで、激しい足拍子を繰り返し、「舞う」というよりも、「踏む」と言われるほどに、躍動感があるのだそうです。これに対して、「鈴之段」は、鈴を振りながら舞う、荘重なもの。この動と静のコントラストというのも、きっと、魅力のひとつなのでしょうね。そして、こうした舞いの所作の中には、深い意味が込められているのだと言います。「揉之段」で繰り返えされる足拍子というのは、農耕における足踏みを現すものであり、また「鈴之段」の中では、種まきをするしぐさが織り込まれているということで、そう、この「三番叟」というのは、もともと五穀豊穣を神に祈るための神事であったのです。(三番叟の歴史)「三番叟」が、もとは神事であるということを書きましたが、それでは、その歴史・成り立ちについて。日本における芸能ということで、古いものとしては、田植えで豊作を祈って踊ったという田楽がありますが、その一方、中国から伝わった大衆芸能「散楽」を基礎にして、日本で生み出されていった「猿楽」という寺社向けの芸能があります。そうした猿楽の中のひとつが、「翁猿楽」と呼ばれる宗教色が強いもの。これは、父尉、翁、三番猿楽、冠者など、いくつかの演目からなっており、天下泰平や五穀豊穣などを祈願し、寺社に奉納するために演じられていたものでありました。実態としては、聖職者である呪師が行っており、かなり、格式の高い神事といえるものでありました。中でも、春日若宮の祭りで行われていたものが、最も古いとされ、また、興福寺や延暦寺でも、この翁猿楽が奉仕されていたのだといいます。神に捧げる神事であった翁猿楽。しかし、この中で三番目に行われていた三番猿楽だけは、呪師が行うのではなくて、芸能者である猿楽師が務めていました。これが、「三番叟」の原型となります。やがて、翁猿楽の中でも一番目の「父尉」が省かれることが一般的となり、本来、その余興芸のような位置づけであったはずの猿楽師の芸が、人気を得ていったため、「三番猿楽」の部分だけが、芸能として残っていったということのようです。さらに、この猿楽師の芸は、世阿弥によって集大成されていくことによって「能」として定着し、そこから、さらに派生するような形で「狂言」が生まれていくことになります。現在、この宗教的儀式としての翁猿楽は、いくつかの神社で、伝統芸能として一部伝えられているようですが、芸能の舞いとしては、能、狂言、歌舞伎の中に取り込まれてしまっているのだと言えます。***と、まあ、相変わらず新年から取りとめのない話を綴って参りましたが、今年もまた、思い出したように、時折ではあるかも知れませんが、ブログの更新を続けていきたいと思っています。この一年、皆さまにも、幸多き年でありますように。本年も、よろしく、お願い申し上げます。
2016年01月05日
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日曜の夜といえば、大河ドラマ。子供の頃から、ずっと、そういう習慣になっていて、私の家では、今でも基本、日曜の夜8時はチャンネルがNHKになってます。でも、今年の「花燃ゆ」は、テレビがついていても、どこか見ているような見ていないような・・・。本来、幕末の長州藩というのは、好きなジャンルのはずだし、話としても面白いはず、と思ってはいるものの、何だかどうもイメージが違います。主演の井上真央は、とても頑張っていると思います。激動の時代を象徴するような事件も色々出てくるし、それなりに、楽しんで見ている部分もありますが、でも、どこか、違和感を感じながら見ているような気がします。「花燃ゆ」については、また今後の展開に期待するとして、それより、来年放送の大河「真田丸」は、大いに期待が持てそうです。脚本が三谷幸喜、主演が堺雅人ですから、それだけでも、興味がそそられますし、最近、その主な配役も発表され、来年は真田幸村で盛り上がりそうな気配です。その最大のクライマックスとなるのは、もちろん大坂の陣。今年はちょうど、大坂冬の陣(1614年)大坂夏の陣(1615年)から、400年にあたるということから、大阪では、色々なイベントも行われています。その関連で、というわけではないですけど、今年は、「大坂の陣検定」なるものも受験しましたし、大坂の陣にゆかりの場所を、色々、訪ね歩いたりもしました。大坂の陣、ゆかりの地めぐり。そうした中から、今年、訪ねた真田幸村にゆかりの場所を以下で、いくつかを、ご紹介したいと思います。三光神社(天王寺区玉造本町14-90)天照大神、月読神、素戔嗚神の三神を祭神とする古社で、中風除けの神としても知られている神社です。ここは、幸村が「真田丸」を築いたという真田山であったとされています。境内には、幸村が本城と真田丸との連絡通路に使っていたとされる抜け穴があり、その入口には、真田幸村像が立てられています。心眼寺(天王寺区餌差町2-22)真田幸村・大助父子を弔うために創建されたとされる寺院。門前には、真田丸出城跡碑が建てられています。茶臼山(天王寺区茶臼山町1-108)茶臼山の麓に、河底池と呼ばれる小さな池がありますが、ここは、平安初期に和気清麻呂が堀川を掘削した痕跡であるとも言われています。冬の陣では徳川家康の本陣、夏の陣では真田幸村がここに本陣をおきました。誉田八幡宮(羽曳野市誉田3-2-8)大坂夏の陣の激戦地のひとつ。真田幸村は誉田八幡宮に陣を敷き、伊達政宗の軍との戦闘を繰り広げました。安居神社(天王寺区逢坂1-3-24)少彦名神と菅原道真を祭神とする神社。夏の陣の時、幸村は、家康の本陣に対して、幾度か突撃を試みましたが、家康を追い詰めたものの、首を取るまでは至らず、最期、ここで腰をおろし休憩しているところを討ち取られました。境内には、真田幸村戦死跡の碑、幸村が休んでいたという「さなだ松」最期の姿を再現したという幸村像があります。大阪城(大阪市中央区大阪城1-1)そして、大坂城。慶長20年(1615年)5月。徳川勢の総攻撃により、大坂城は炎上し、秀頼・淀殿母子は城内の山里曲輪にて自害しました。現在の大阪城天主は3代目。昭和6年、市民の寄付を集め再建されたものです。長きにわたって続いた戦乱の世の、その最後を締めくくったのが大坂の陣。最後にひと花咲かせたい。そこには、様々な立場・境遇の中で、それぞれに賭けた思いがつまっていたように思います。来年の「真田丸」ぜひ、楽しみにしたいと思います。
2015年07月23日
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仏教が日本に伝来してきたのは、欽明天皇の頃。初めて金色に輝く仏像を見た当時の人たちは、たちまちその魅力にとりつかれたのではないかと、想像をしています。「異国の神はキラキラし」日本書紀には、そういう記述が残されているそうですが、この表現というのは、その時の驚きと感動の様子を伝えているようにも思えます。***ここ数年、色々とお寺めぐりをするようになってからというもの、私も次第に仏像に対して興味を抱くようになってきました。崇高な顔立ちの如来像や、気品にあふれた菩薩像。手足がいっぱいあったり、憤怒の形相をしていたりと、摩訶不思議な像たちにも、えもいわれぬ魅力があふれています。仏像のことをもっと知りたい。そんな思いから、昨年は、新たに始まったお寺検定・仏像3級というものも受験しました。わずかながらでも、仏像についての知識がついてくることで、また、さらに、仏像を見る楽しみが増えてきたように感じています。仏像3級という資格を得たことよりも、多くの仏像と出会って、仏像がより身近に感じられるようになったことの方が収穫だったのではないかと思っています。今、そんな感じで、仏像にぞっこんになってます(笑)***昨年の夏以降、お寺や博物館を色々まわって仏像を見てきましたが、そうした中から、いくつか仏像をピックアップしてみました。特に印象に残った仏像たち。これらはすべて、国宝にも指定されているのですが、どれも、まさに珠玉の仏像群であるのだと思います。不空羂索観音 【東大寺・法華堂】(奈良時代)手に持った羂索(投げ縄)により、衆生を救済しようする観音菩薩。この像は、奈良時代を代表する仏像のひとつとされています。八部衆像 【興福寺・国宝館】(奈良時代)八部衆というのは、仏法を守護する神々。中でも、阿修羅像が特に人気の像で、日本を代表する仏像のひとつであるとさえ言われています。毒を焼き尽くす鳥の化身であるとされている迦楼羅(かるら)もユニークな像ですね。薬師如来と十二神将 【新薬師寺】(奈良時代)左手の薬壺が特徴的な病を治す如来様。勇壮な十二の武神が、その周囲を守護しています。パノラマチックなこの空間は、結構気に入っています。薬師三尊像 【醍醐寺】(平安時代)~奈良国立博物館「醍醐寺のすべて」よりこれも同じく薬師如来像。薬師如来像では、日光月光両菩薩が脇侍する形のものが多いです。醍醐山上(上醍醐)の薬師堂に、永らく祀られてきた仏様です。如意輪観音像 【観心寺】(平安時代)意のままに願いを叶えてくれる観音様。観心寺のこの像は、とても柔和な顔立ちで、何とも優雅です。平安初期の最高傑作であるとされていて、年に一度しか公開されない秘仏でもあります。八大童子像 【金剛峯寺】(鎌倉時代)~あべのハルカス美術館「高野山の名宝」より運慶の代表作のひとつとされている仏像群。写真の像は、そのうちの矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)で、不動明王の両脇に脇侍していることが多いことでも知られています。これらの像からは、いかにも運慶といった躍動感が伝わってきます。また、これからも、仏像に出会う旅を続けていきたいですね。仏像の魅力は、まだまだ尽きません。
2015年04月26日
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幕末・明治にかけて活躍した人物に、小室信夫(こむろしのぶ)という人がいます。その主な略歴をあげると、幕末期、尊王攘夷活動に参加するも、やがて幽閉され、維新後に釈放されてからは、一転して、自由民権運動の立ち上げに参画。板垣退助らが主唱した「民撰議院設立建白書」を起草し、日本初の政党「愛国公党」の結成にも加わりました。その後、実業界へと転身、鉄道や銀行、郵船など、いくつもの企業を興しました。という感じで、その半生は、幕末・明治という時代を象徴するかのように、激動と変転の連続であり、ドラマチックであるとさえいえると思います。その経歴からして、結構、歴史の表舞台で活躍している人なのですが、でも、その割には、あまり知名度が高くはありません。この小室信夫について興味を抱き、少しばかり調べていたのは、5年ほど前のこと。2011年には、このブログにも記事をアップしました。 当時、掲載した記事→ 小室信夫の生涯しかし、この記事を書いて以降は、私も小室信夫のことを調べることなく、年数が経過しておりましたが、今月になって、小室信夫のご子孫の方から、コメントを頂きました。実は、この記事については、これまでにも小室信夫のご子孫の方、何名かの方からいくつかコメントを頂いておりました。それらのコメントを拝見していると、祖先の偉人に対する強い思いと見識にあふれていて、ただ敬服するばかりです。しかし、その頂いたコメントに対し、これまでお礼を申し上げることもなく、また、ほとんど返信もできないままになっておりましたこと、この場を借りて、お詫び申し上げます。しかし、このことは、このブログを開設した時のコンセプトである歴史談義に花を咲かせる場にしたい、ということからして、望外の幸せであると、感じております。さて、ここで、小室信夫に関して、最近知り得た情報をひとつ。京都・平安神宮の拝殿前広場に手水鉢がありますが、これは、どうも小室信夫が寄進したものであるようです。この手水鉢には、明治二十八年歳在乙未四月之吉貴族院議員 小室信夫と刻印されていました。思いがけないところで、古い知己にめぐりあったような、この銘を見つけた時には、そんな感慨がありました。
2015年03月15日
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かつて先人たちは、生身のままの装備で山の奥深くにまで入り込み、山陵を闊歩していた。そうした記録や伝承というのは、断片的に、いくつか残されてはいるのですが、そうした残された文献をもとにして、あえて当時と同じ装備・持ちものだけを携え、同じルートを辿っている登山家がいます。その人の名は、サバイバル登山家とも称されている服部文祥さん。股引・脚絆にわらじといういで立ちで、米・調味料と鍋程度のものだけを持って山に入り、山中では、採取や狩猟により食を得て、たき火で調理する。夜はテントや寝袋もないので、たき火の横でゴザにくるまり、山中で夜を明かす・・・。現代文明を遠ざけ、ありのままの自然と直に向き合った時に、見えてくるものがあるのだと、服部さんはいいます。『百年前の山を旅する』と題されたこの本は、先人たちの山岳記録や古道についての実地検証を試みたものであるとともに、当たり前のように現代文明に囲まれ過ごしている現代人に対し、警鐘を促してくれるような、そんな一冊でもありました。服部文祥・著 『百年前の山を旅する』新潮文庫 2014年1月 この本の構成は、著者が先人たちの足跡をたどった7つの山旅紀行からなります。その中心は、明治・大正期、日本登山草創期の登山家たちの山登りを実地に再現しようとしたものでありますが、中には、江戸時代以前の山登りについて検証したものもあります。そうした中から、以下の2編をご紹介したいと思います。(黒部奥山廻りの失われた道)江戸時代、加賀前田藩は、領地の境界と山林資源を確保するため、極秘のうちに、見廻り部隊を黒部の山深くにまで送り込んでいました・・・。奥山廻りと呼ばれたこの一隊は、現在では道がなくなってしまっている越中側のルートをたどり、鹿島槍ヶ岳の山頂にまで到達していたのだといいます。この黒部川支流域というのは、険谷が続く難所で、現在でも登攀するのが容易でないとされているところ。この周辺を江戸時代の人々が行き来していたとは、とても信じ難く、服部さんは、あくまでもこれは伝説であり、加賀藩は巡回しているかのように見せかけていただけなのではないか、と考えていたようです。しかし、立山の博物館で、奥山廻りの行程を記した古地図を見たとき、これは、実際に行われていたものであると、確信したといいます。服部さんは、立山連峰北の越中側から山中に入り、鹿島槍ヶ岳の山頂を目指す旅に出ます。けものみちのような、道なき道を通り、谷や急峻な山壁など、地形を見ながら、その都度コースを判断して進んでいきます。この黒部川支流域を登攀することが、現代において困難とされているのは何故なのか。それは、急峻な谷を現代装備をもって登攀しようとしているからなのではないか。現代人が、そう認識しているというだけのことで、昔の人たちは、山の地形を見て判断しながら登れるコースを選んで登っていた、ということに服部さんは気づいたのでありました。鹿島槍ヶ岳山頂に到達するまで、6日間に及ぶ山の旅。この旅を終えての服部さんの感想というのは、かつての先人たちは、山との接し方や登り方というものを、本当に良く知っていたということ。山中で食糧を調達する方法や、夜の過ごし方などを身につけさえすれば、装備がなくても自在に山陵を歩くことが出来るのだということを、服部さんは、実証することができたのでありました。(鯖街道を一昼夜で駆け抜ける)若狭で獲れた鯖に一塩ふって、翌日の朝には京に届けられていた・・・。若狭の海産物が京に運ばれていたという記録は、古くは平安朝の頃のものが残されているようですが、その後、京の鯖寿司が有名になるにつれて、この道は「鯖街道」と呼ばれるようになっていきました。若狭から京までは18里(約72km)ほど、昔の人は、この山の道を本当に一昼夜で歩けたのだろうか。このことに興味を抱いた服部さんは、実際に自分の足で歩くことによって、それを試してみようとしました。鯖街道と呼ばれているこの道も、初期のコースは針畑から経ケ岳をまわって鞍馬に至る山の道で、その後、安曇川・高野川沿いに大原へと至る迂回ルートへと変わっていきます。服部さんが挑戦したのは、初期ルートの鯖街道。現在は、道の形をなしていないのですが、できるだけ、古道のコースに忠実に進んでいきます。いくつもの峠を越え、山里を抜け進んでいきますが、結局、行程の半分くらいまできたところで日没に・・・。服部さんは断念します。やはり、この行程を一昼夜で歩くことは無理なのでは・・・。ただ歩くだけではなくて、鯖を荷として背負わなければならないし、また、日没になってしまえば、ヘッドライトもない時代に、どのようにして夜の山を歩くのか。鯖を一昼夜で京まで運んだという話は、それに尾ひれがついて誇張され、脚光を浴びただけのものなのではないか。この時、服部さんは、そう結論づけました。しかし、その後、いくつもの登山行を繰り返す中で、服部さんは、その時の結論に違和感を感じるようになっていきました。若狭から京都まで、一昼夜で歩けない。そう決めつけたのは、現代人の世界観で、そう考えていただけだったのではないか。朝早くに小浜を出て、日没までにどこまで歩けるのか、もう一度試してみよう。それから、6年後、服部さんは鯖街道の一昼夜行に、再度挑戦します。この行程を、ほとんど休まずに歩き続けることは、肉体的にもかなりハード。しかし、疲労困憊になりながらも、先を急ぎます。でも、一度通ったことがある道だからとういうこともあったのでしょう。16時頃には、鞍馬に着きました。18kgの荷を背負い、4時間の休憩をとったと仮定して今回の体験から、小浜から出町柳までの実質所要時間は20時間程度。そして、夜の山道についても、良く知っている道であるならば、月明かりや提灯程度の明かりさえあれば、昔の人は歩けていたはずだ、そう考えるようになっていました。鯖街道を一昼夜で歩くことは、肉体的には厳しいとはいっても十分に可能である。服部さんは、2度目の鯖街道挑戦にして、そうした結論を得るに至ったのでありました。***高度に発達した文明の中で生まれ育ち、便利で快適な生活が当たり前となっている現代。しかし、それは人間が本来持っている能力を退化させ、自己の可能性を、自ら限定してしまっているということなのかも知れない。この本は、そんなことを考えさせられるような、魅力に満ちた一冊でありました。
2015年02月01日
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新年、あけましておめでとうございます。昨年は、このブログも、さっぱり更新が進まないまま、特に仕事が大変だったというわけでもないのに、さぼりぐせがついたということか、数えてみると、年間7回しか更新していませんでした。今年は、もう少しブログに力を入れて、少なくとも、月に一回くらいは更新したいと思っております。他に、今年の抱負は・・・?それもいくつかあるのですが、それはまた、あとで書くとして、今年は、元旦に、住吉大社へ初詣に行ってきたので、まずは、そのお話から・・・。大阪の初詣の代表格といえば、なんといっても住吉大社。そういわれているだけあって、とにかくすごい人でした。反橋を渡るにも、通行を整理する人がいて、足元を注意して渡って下さい。決して押さないで下さい。とばかりに、連呼されていました。それでも、何とか橋を渡り切り、本殿までたどりつきました。住吉大社というのは、全国に2300社あるとされる住吉神社の総本社。江戸時代以前、その地域で最も格が高いとされた神社は、「一の宮」と呼ばれていましたが、ここは、摂津国の一の宮であります。この神社の祭神はといえば、底筒男命(そこつつのおのみこと)中筒男命(なかつつのおのみこと)表筒男命(うわつつのおのみこと)この三神は総称して、住吉三神と呼ばれています。これに、三韓征伐の話で名高い神功皇后が祭神に加わります。住吉三神というのは、日本神話に登場する神で、古事記・日本書紀によると、イザナギの禊祓いの儀式により、生まれてきたということになっています。イザナギは、黄泉国(死の世界)に旅立ったイザナミを引き戻そうとしますが、それが果たせず、地上に戻ってから、黄泉国の汚れを洗い清める禊を行います。そのとき、瀬の深いところで洗うと底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で洗うと表筒男命が、それぞれ生まれてきたのだとされています。イザナギの禊祓いの儀式というのは、この時に多く神々が生まれてくるという話になっていて、色々興味深いのですが、この儀式の一番最後に生まれてくることになるのが、アマテラスとスサノオ。いわば、住吉三神というのは、アマテラス・スサノオのお兄さんにあたると言えなくもありません。この神社の創建譚については、神功皇后の三韓征伐の話と関連があります。「三韓を征討せよ」との神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ向けて出航。このとき、住吉三神が現れて、神功皇后の身辺を守りつつ、時には突風に身を変え、神功皇后の船団を後押したといいます。帰国後、この住吉三神からのお告げがあり、神功皇后がこの地に創建したのが住吉大社であったとされているのです。 神功皇后の三韓征伐については、前にこのブログで書いたことがあります。 神功皇后三韓征伐についての過去の掲載記事 よければ、参照下さい。「住吉大社で、ここ見といたほうがいいよ、とかあったら教えて」ここに来る前、友人に聞くと、いくつか見どころを教えてくれました。住吉鳥居、手水舎、舞台、おみくじ、石灯籠などこれを探してみるのですが、人ごみであまり動けないのと、雪も降ってきて、寒いから帰ろ、と家族が急ぐので、結局、3つくらいしか見つけられませんでした。残念。本殿で参拝を済ませたあとは、お守りを買って、住吉大社をあとにしました。住吉大社は活気があって、なかなか良い神社ですね。また、通常の日に一人で来て、ゆっくりと歩き回わってみたいなと思いました。思えば昨年は、色々な意味で人とのつながりが深まった一年でもありました。このブログを通じて出会った人たちにも、何かとお世話になりましたし、また、それ以外の部分においても・・・。そうした人との出会いというのは、今年も大切にしていきたいなと思っています。そして、何より健康に留意し、平凡でもいいから、災禍なく穏やかに過ごせる一年であることを願っています。皆さまにとっても、この一年が良い年でありますように。本年もよろしく、お願い申し上げます。
2015年01月03日
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毎年、8月15日の終戦の日になると話題にのぼる靖国神社。日本の首相や大臣が靖国神社に参拝したということに対して、中国や韓国等から、毎回のように抗議が繰り返され、その是非が新聞・テレビ等で取沙汰されています。それというのも、靖国神社には、太平洋戦争における軍人が多く祀られていて、しかも、その中には、東京裁判で有罪の判決を受け戦争犯罪人とされた人までも合祀されているということが、物議をかもしている大きな要因になっているのだと思います。靖国神社は、太平洋戦争における戦没者を祀っている神社。どうしてもそうしたイメージが強い靖国神社ではありますが、しかし、本来、創設された当初の靖国神社というのは、そうした対外戦争における戦没者を祀ることを目的として創建されたものではありませんでした。靖国神社が創建されたのは、明治2年(1869年)のこと。大村益次郎が中心となり発足した東京招魂社が、その端緒であり、そこでは、戊辰戦争の戦没者が、まず祀られました。そして、その後、さらに、この靖国神社は、幕末維新の際、国事に尽くし、動乱の中で命を落とした人たちを祀る神社として、発展していきます。靖国神社というのは、戊辰戦争の戦没者を慰霊するための神社ではありましたが、また、それだけではなく、幕末維新における国事殉難者を顕彰し忠魂する、そうした側面を持った神社でもあったのです。ところで、今回、ご紹介したいのは『靖国神社と幕末維新の祭神たち』という一冊。この本は、靖国神社を幕末維新の国事殉難者を祀る神社という視点で捉えた好著であり、また、多くの取材や数値データをもとに分析を加えた労作であると思います。この本からは、靖国に祀られている祭神たちの意外な事実が浮かび上がってきて色々興味深いのですが、その一端を、以下でクイズ形式を交えながらご紹介したいと思っています。吉原康和 著 『靖国神社と幕末維新の祭神たち』吉川弘文館 2014年8月刊(目次)1、靖国の祭神とは何か (対外戦争の戦没者追悼施設なのか/長州藩が主導した東京招魂社創建)2、「英霊」創出と排除の論理 (井伊直弼と吉田松陰のそれから/水戸天狗党復権・顕彰の時代/非合祀の群像/重複合祀と変名問題)3、対外戦争時代の特別合祀 (維新の勝者と敗者の融和/第一次大戦中の特別合祀/第一次大戦後の特別合祀)それでは、以下、クイズ形式で、この本のご紹介をしたいと思います。問題1・次の4人のうち、幕末維新殉難者として最初に靖国神社に祀られたのは誰でしょう。ア)吉田松陰 イ)高杉晋作 ウ)坂本龍馬 エ)大村益次郎靖国への合祀というのは、一度に行われたわけではなく、明治から昭和にかけて、長年、数次にわたって合祀がされていったものでありました。その中で、幕末維新殉難者が、最初に靖国神社に祀られたのは明治16年(1883年)のこと。この第一回目の合祀で、対象となったのは、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎など、土佐勤王党の面々80名でありました。最初が、なぜ、土佐藩だったのか。この本によりますと、様々な要因があったとされていますが、土佐藩の殉難者は、その履歴がはっきりしていて、承認を受けやすかったというのが、その理由だったのではないかと分析されています。ということで、問題の正解は、ウ)坂本龍馬です。問題2・次の4人のうち、靖国神社に祀られていないのは誰でしょう。ア)西郷隆盛 イ)伊藤博文 ウ)乃木希典 エ)東郷平八郎靖国神社に祀られている祭神というのは、大きく次の2つに分類されますが、それぞれ、その合祀される基準が異なります。1)幕末維新殉難者幕末維新期(ペリー来航から戊辰戦争終結まで)の間に死亡したもの。その中で、勤王家であり、倒幕に貢献したものが対象とされました。このことは、維新の勝者たる明治政府が、自己を正当化するためのものであったと言えます。2)戊辰戦争以後の戦争による戦没者明治以後に起こった戦争で死亡したもの。太平洋戦争での戦没者も、この中に含まれます。とは言っても、これらはあくまでも基準であり、その時々のさじ加減で、祭神として認められたり認められなかったりする場合もあったようですので、このあたりが微妙なところではあります。では、こうした基準に沿い設問の4人について見てみましょう。まず、4人とも幕末維新期に死亡したわけではないので、2)戦争による戦没者に該当するかどうかによります。西郷隆盛は、西南戦争で敗れ自決をしました。しかし、この戦いは明治政府に対する反逆であり、西郷は、天皇に弓ひく逆臣であるとされたため、靖国に祀られることはありませんでした。伊藤博文は、ハルビンで朝鮮人の安重根に暗殺されました。しかし、この死は戦争による死亡ではないため、靖国に祀られる対象とはなりませんでした。乃木と東郷は、日露戦争の英雄であり、軍神とまでいわれた人ですが、そうしたことは、靖国に祀られるポイントとはなりません。乃木希典は、明治天皇の死に際して殉死しましたが、これは、乃木が自己の判断により死んだものであるとされ、東郷平八郎は、天寿をまっとうして病死していますから、ともに、靖国には祀られていません。ということで、以上、この問題は、いじわる問題のようではありましたが、4人とも靖国には祀られていないというのが正解です。ちなみに、大久保利通、木戸孝允、山県有朋など、維新後まで生き残こって栄達を極めた元勲たちというのは、上記と同様の基準で、靖国神社に祀られる対象とはなっていないのです。ところが、その一方、薩長(官軍)と敵対し朝敵とされた会津藩士であっても、靖国に祀られている人がいます。それは、蛤御門の変の時に、御所を守って戦った会津藩士たち。その時点では、会津藩が朝廷側だったということで、このあたりは、幕末政局の変転のめまぐるしさを示しているとも言えます。ただ、彼らが靖国に祀られることになったのは、時を経て大正になってからのことで、会津をとりまく周囲の環境変化の流れの中、ようやく認められたものなのでありました。さて、最後にもう一問です。問題3・幕末維新殉難者として靖国神社に祀られた人が一番多かったのは、次のどの藩でしょう。ア)薩摩藩 イ)長州藩 ウ)土佐藩 エ)水戸藩これも、意外と思われるかも知れませんが、エ)水戸藩が正解です。水戸藩というのは、徳川光圀以来の尊王藩であり、幕末期の尊王思想に大きな影響を与えてきた藩でありました。しかし、苛烈な藩内抗争を繰り返していたため、最終的に維新の中心勢力になることはありませんでした。それでも、靖国に祀られている人が多いというのは、一年にもわたる水戸天狗党の乱での犠牲者が数千人規模であり、その人たちが合祀されているということが、水戸藩の人が多く祀られている要因となっています。著者の吉原氏は、茨城県の出身ということもあり、こうした天狗党を含めた水戸藩関連の事例を掘り下げることから、靖国へと合祀されていく過程や実態を明らかにしようとされています。知っているようで、知らない靖国神社のこと。興味をお持ちの方は、ぜひ一読されてはいかがでしょう。お薦めできる一冊です。
2014年10月14日
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「海の日」が7月の第3月曜になったのは、平成15年からなのだそうですが、これにより7月に3連休がとれるようになって、この時期、遠出する機会というのが増えているように思います。そんな中、今年は、京都北方の町、舞鶴へと出かけてきました。この「海の日」の3連休化に伴い、国が推進している事業の一つが、「海フェスタ」というイベント。これは海についての認識を深め「海の日」本来の意義を再認識してもらおうという趣旨のもののようですが、毎年、この時期に、全国の主要港湾都市で実施されていて、第11回目となる今回は京都が開催地。舞鶴を中心とした7つの市町村が共催という形で「海フェスタ」の催しが実施されています。 海フェスタ京都PRポスターのひとつ。 舞鶴特産の万願寺とうがらしをモチーフにしたものです。その内容はといえば、様々な企画展示とともに、セミナーやシンポジウム歴史見学会や映画まつり、コンサート、花火大会など、帆船や海洋船の一般公開もあったりと、本当に盛りだくさんです。行って見ると、会場があまりに多くの人で賑わっていたのには驚きました。そうそう、グルメ対決のコーナーなんかもありましたよ。今回、舞鶴を訪ねたのは、特に「海フェスタ」が目的というわけではなかったのですが、魅力的なイベントがいっぱいで、これは、さぞ楽しいんだろうなと思いながら見ていました。でも、そうした「海フェスタ」の賑わいの中、舞鶴の歴史史跡をめぐることにします。舞鶴といえば、明治以来、軍港として発展してきた町。今も、海上自衛隊がその施設を引き継いでいて、艦隊活動の中心拠点のひとつともなっています。この舞鶴が軍港として発展していく、そのきっかけとなったのは明治34年(1901年)のこと。日本海側に、ぜひ軍事拠点を置きたいと検討を進めていた旧日本海軍は、その最適地として舞鶴を選び、ここに鎮守府という軍事拠点を設置しました。その初代長官には、東郷平八郎を任命。これは日露開戦の、およそ3年前のことであり、ここをロシアに対する戦略拠点として位置づけたいということだったのであろうと思われます。その後、舞鶴には兵器庫・砲台・造船所などの施設が次々と作られていくことになりました。舞鶴には、その当時の建物のいくつかが、今でもそのまま残されていて、中でも、元兵器庫であったレンガ造りの建物群は、特に有名です。平成20年には、そのうちの6棟が、国の重要文化財にも指定されています。さて、次に、海軍の町・舞鶴ならではの、見どころをご紹介しましょう。それは、海上自衛隊が所有している艦船の特別公開で、自衛隊桟橋と呼ばれている岸壁に停泊している軍用艦をすぐ近くで見る事ができ、また、その艦内を見せてもらうこともできるのです。見学をするには、自衛隊桟橋の受付に行って、住所・氏名・年齢などを記入し、許可証をもらうだけ。入場は無料です。岸壁に入っていくと、この日は、護衛艦「まつゆき」、護衛艦「みょうこう」、補給艦「ましゅう」の3隻が停泊していました。すぐ近くまでいくと、さすがにすごい迫力です。また、この日は、護衛艦「みょうこう」の艦内が公開されていました。タラップのような階段を登り艦内へと入っていきます。入っていくと、制服を着た自衛隊員の人が、大きな声のあいさつで出迎えてくれました。軍艦の中に入るのは生まれて初めての体験で、ちょっと緊張です。部屋の中には、もちろん入ることはできませんが、それでも、外から見るだけでその頑丈で精密なメカニックの塊りであることが察せられます。護衛艦というのは、現在の自衛隊における主力艦。その搭載されている兵器というのも、また、すごかったです。目標物を自動的に追跡する機能を持ったミサイル1分間に4500発を発射することができる機関砲潜水艦を攻撃するための魚雷などそれらの実物を、すぐ近くで見れたというのは、またとない機会であったと思います。ところで、舞鶴では、この自衛隊桟橋以外にも色々なところを訪ねました。舞鶴港内、海軍ゆかりの港めぐり。自衛官OBの人が、港内の色々な施設について説明をして下さいました。赤レンガ博物館。レンガを作る窯を再現したコーナーもあったりとか、レンガに特化したその展示内容は充実していました。海軍記念館。自衛隊の施設内にある展示棟。日本海軍の歴史や歴代将軍たちの遺品など、が展示されていました。さきにも、少し触れましたが、この舞鶴というところは、東郷平八郎が、日露戦争の海軍総司令長官として出征する前に過ごしていたという東郷平八郎ゆかりの町。この舞鶴の町の通りの名前というのも特徴的なもので、「三笠」「初瀬」「敷島」「朝日」など、日露戦争当時の主力艦の名前がつけられています。まさに、司馬遼太郎さん「坂の上の雲」の世界。私も、この愛読者だっただけに感慨深いものがあります。舞鶴というところは、明治期の、海軍の歴史を偲ぶには、とても味わい深く、また、レンガ造りに彩られたその町並みは、どこかエキゾチックで、すごく趣きのある町であると、訪ねてみて、そんなことを感じました。
2014年07月22日
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秀吉が城下町を築いていた頃の伏見の町は、政治・経済・商流など、あらゆる面において日本の中心であったようです。徳川氏の時代になってからでも、伏見は政治の中心であり続け、伏見城が破却される江戸時代の始め頃まで、城下町伏見の繁栄は続いていたのだといいます。伏見に城が築かれていた期間というのは、およそ30年くらい。しかし、その間に伏見城は、幾度かの興廃を繰り返し、その度ごとに再建されたという、波乱に満ちた推移を経てきた城でもありました。以下、伏見城の変遷の歴史について、少しまとめてみたいと思います。***********伏見の城の成り立ちは、秀吉の隠居所に始まります。当時、秀吉は、甥である秀次に政権の座を譲り、隠居所を作って、伏見に移ってきていました。この隠居所は、宇治川のほとり、指月と呼ばれる丘陵に築かれました。ところが、謀反の疑いありという嫌疑をかけられ秀次が失脚したことから、秀吉が政権の中枢に復活し、これ以後、秀吉のいる伏見が政治の中心となっていきます。指月の隠居所も、壮麗な城へと再構築され、諸大名が、続々と伏見に移住してきます。ところが、この指月城、文禄5年に京都を襲った大地震により、あえなく倒壊してしまうことになりました。次いで、指月に代わって城が築かれることになったのは、指月の北西に位置する小高い丘陵、木幡山でありました。この城を中心にして、伏見には本格的な城下町が形成されていきます。しかし、そうした中で、秀吉が病没。秀吉亡き後の政権の座をめぐり、やがて、関ヶ原の戦いへと政情が推移していきます。関ケ原の前哨戦となった伏見城の戦い。家康の意を受けた鳥居元忠が、伏見に入城し、頑強な抵抗により、三成側の軍勢を10日以上伏見に釘付けにしました。やがて、激闘の末、元忠が切腹して、城は落城。伏見城は、炎上します。しかし、この後、家康は、再び木幡山に城を築城しました。新たに竣工した伏見城に、入城する家康。家康は、ここで政務を取りはじめます。伏見にあって、天下に指令を出す。このことは、天下の主となったということを、世間に印象付けるという意味があったのでしょうし、それだけの都市基盤が、伏見の町に備わっていたのであろうと思われます。征夷大将軍となり政務をとっている間、家康は、ほとんど伏見城で過ごしていたのだといい、また、秀忠・家光も、征夷大将軍の宣下を、ここで受けています。しかし、徳川政権の体制も確立されてきたということでしょう。元和9年(1623年)、一国一城令が発布され、これにより、伏見城は廃城となり、破却・解体されることとなりました。今は、往時の姿を全く留めない伏見城ではありますが、それでも、その建物は、京都を中心として色々な神社や寺院に移築されていて、わずかではあるものの、その面影を垣間見ることができます。***********御香宮神社を出たあと、桃山御陵にやってきました。桃山御陵というのは、明治天皇とその后である昭憲皇太后が葬られている陵墓なのでありますが、この御陵のある山というのが、木幡山。そうです。ここは元々伏見城があった場所なのです。陵墓に向かう参道には、木々が生い茂り、その敷地は、まるで古代天皇の陵のように広大です。ゆるやかな坂道を、しばらく登っていきます。ここが、元は城であったという雰囲気は、確かにありますね。参道のところどころには、大きな石が並べられていて、「伏見城石垣に使用されていたと思われる石材」という宮内庁の説明板が立てられていました。明治天皇陵に着きました。清々しく、清らかな陵墓ですね。この前に立つと、心が清められるような、そんな雰囲気があります。明治天皇が崩御されたのは、明治45年(1912年)のことでしたが、その年のうち、ここに埋葬されたといいます。墓所を京都に、というのは、明治天皇の意志によるものだったようで、元々ここが宮内庁の管理地であったため、用地として適当であると考えられたのでしょう。明治天皇陵の前は、ちょっとした展望台のような感じになっていて、そこからは、京都近郊の町の景観を見晴らすことができます。ここは、かつて、秀吉が臨終を迎えた場所であり、鳥居元忠が、奮闘切腹をした場所であり、また、家康が将軍として君臨した場所でもありました。そうした数々の歴史ドラマを包み込みながらも、今は、天皇陵として静謐の場になっています。歴史のうつろいの不思議さを感じさせる、そんな異空間であるかのようにも感じられる桃山御陵。多くの緑に包まれた、とてもきれいで、のびやかな御陵でありました。
2014年06月08日
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京都・伏見の京町通。かつて、伏見が城下町だった頃には、本通りであったとされている街道で、今でも、落ち着いた佇まいを感じさせる町並みとなっています。それでも、幕末期には、ここが鳥羽伏見の戦いの戦場となりました。市街戦が繰り広げられ、今でも当時の激しい戦いの様子を伝える弾痕を残した民家が現存しています。さて、今回は、京阪本線の伏見桃山駅から、宇治線の桃山南口駅に向け、いくつかの史跡を訪ねながら歩きます。まずは、鳥羽伏見の戦いに関連した史跡から。「鳥羽伏見」と呼ばれていますが、最初に、その戦端が開かれたのは鳥羽方面(竹田・城南宮の西側)であり、その砲声が伏見に響いてきたことから、やがて伏見方面でも戦闘が始まることになりました。伏見奉行所跡を示す石碑です。ここが伏見方面幕府軍の拠点であり、会津・桑名・新選組などの兵が、ここへ集結していました。伏見奉行所の付近は、伏見の戦いにおける主戦場となったところであります。当時、奉行所の建物は、両櫓が石垣で取り囲まれた堅牢な構造になっていたといい、広大な領域を占めていたそうですが、それも、今は市営団地になっています。当時を偲ぶよすがは、全く残っていなくて、ただ、石碑がポツンと建っているだけです。市営団地から、大手筋通に戻ってきました。次に向かうのは、御香宮神社。大手筋通には、大きな鳥居が建っていて、御香宮神社への参道となっています。御香宮神社。神功皇后を主祭神として祀ってきた古社であり、伏見のこの一帯の産土神でもあります。この御香宮神社、歴史上のポイントとしては、次の3つのことが挙げられると思います。ひとつは、この神社の創建にからんだお話。貞観4年(862年)といいますから、平安中期のこと。当時、疫病が広く流行して、多くの人々が苦しんでいました。ところが、ある日、ここの境内から、良い香りの水が湧き出してきて、この水を飲むと病が治ると、たちまち評判になりました。時の清和天皇もこの話を耳にすることとなり、この水を「御香水」と命名しました。このことが、御香宮神社の名の由来になったのだと、言われています。次に、時代は下って、安土桃山時代。当時、豊臣秀吉は、伏見城の築城を進めていましたが、その城の鬼門を守る守護神が必要であるとして、この御香宮神社を城内に移動させました。ところが、その後、豊臣家が滅亡し、伏見城が再建されるのに伴って、徳川家康は、この神社を元の位置に戻しました。現在の御香宮神社は、この時期に形作られたものであると考えられ、また、その頃の遺構のいくつかも残されています。そのひとつが、この神社の表門。これは、伏見城の大手門を移築したものであるとされていて、「伏見城大手門」と書かれた表札も掲げられています。そして、幕末期。鳥羽伏見の戦いの時、官軍が本陣を置いたのが、この神社でありました。表門の前の通りをへだてた南側には、伏見奉行所があり、ここで激しい銃撃戦・白兵戦が繰り広げられたのだといいます。薩摩を中心とする官軍は、総勢わずか800名。一方、幕府側の軍勢は、15000だったともいい、いずれにせよ、兵力の上では圧倒的に幕府側の方が優位でありました。しかし、結果としては、幕府軍が敗走。伏見奉行所も薩摩軍の砲撃により炎上してしまいます。この頃には、鳥羽方面の幕府軍も敗走してしまっており、官軍が「錦の御旗」を軍前に掲げたことにより、戦いの雌雄は決しました。後世の人からみれば、火力に勝る官軍が勝つべくして勝ったということになるでしょう。しかし、この時の実際の状況というのは、政治的にも財政面でも薩長側が追い詰められていて、その窮状を打破するために、一か八かの戦いを仕掛けたというのが、実態だったのだと思います。いわば、幕末維新の状況を一気に決したのが、この鳥羽伏見の戦いだったと言えると思います。( 鳥羽伏見の戦いについての過去の掲載記事 よければ参照下さい )そんなことを考えながら歩いていると、史跡や寺社を訪ねる時にも、また、違った面白さが感じられますね。伏見のこのあたりも、歴史が幾重にも積み重ねられてきた場所なので、なかなかに興味深いです。このあとは、御香宮神社をあとにして、さらに東へ、次は、桃山御陵を目指します。
2014年05月25日
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自らが選んだテーマに基づき、一年間の研究内容を発表する「特別客員研究員研究成果発表会」。昨日、この研究発表会が行われ、私もここで発表をしてきました。これは、京都検定1級合格者の中から選ばれた「特別客員研究員」が京都某大学のもとで、一年間研究してきた内容を発表するもので、聞きにきた人は、大学の関係者など、約100名の人だったようです。私の発表テーマは「山国隊」。その内容の良し悪しは別として、なんとか無事に発表を終えることができ、まずは、ホッとしているところです。発表する内容のポイントが、最後までなかなか定まらなかったため、締切間際にしか資料を提出できず、担当の先生には、さぞ、ご迷惑をおかけしたことと思います。結局、時間切れでOKして頂いたのだろうと思いますね。それでも、何とかやりきったという達成感がありますし、やっと終わったという安堵感もあります。思えば、研究取材のため、山国へも幾度か行きました。それは、昨年の秋、山国さきがけフェスタという催しがあった時に「山国隊の史料を探している」と、その運営事務局にメールを送ったのがきっかけでありました。・軽トラックで山国を色々と案内して頂き、自宅にまでおじゃまさせて頂いたFさん。・電話でお願いすると、気軽に多くの関連史料を見せてくださった、山国隊軍楽保存会のKさん。・Kさんからの紹介で電話をすると、2時間にもわたって山国隊の話を聞かせてくださった、山国隊士の子孫のTさん。山国の方は、どなたも気さくで、見ず知らずの飛び入り研究員であるにもかかわらず、とても親切に応対をして下さいました。この縁は、ぜひ、大切にしていきたいものだと思いますね。そして、一年間、一緒に研究を続けてきた、研究仲間の皆さん。それぞれの研究内容は、とてもレベルが高く、また興味深くもあり、色々な刺激を受けながら、勉強させて頂きました。懇親会も数度に及び、何となく学生時代に戻ったような、そんな感覚すらありました。とても充実した一年であったと思います。このあと、研究成果を論文として提出すれば、特別客員研究員としての研究は一旦終了。しかし、そのあとも、上席客員研究員として研究を継続することが出来ます。年齢的にも出遅れた研究員ではありますが、今後も続けていきたいな、と、今思っています。写真は、2014年4月27日付の京都新聞。特別客員研究員発表会の様子を報じた記事です。
2014年04月27日
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黒田節というと福岡地方に伝わる民謡というイメージがありますが、その一方、この歌は、昭和初期にレコード化され、大ヒットしたという流行歌としての一面もあります。黒田節が発売されたのは、昭和17年(1942年)のこと。コロンビアレコードから発表されたこの歌は、赤坂小梅という当時の人気芸者がこれを歌い、大ヒットを博したのだといいます。その歌詞はというと、皆さんもご存じの通りの有名なものです。 酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞ真の 黒田武士黒田節は、民謡のイメージと先に書きましたが、音楽のジャンル分けでいうと、今様という古典歌曲に分類されるのだということ。それが、福岡藩の武士の間で長く歌い継がれ、今日まで伝わっているものだといいます。そして、この黒田節の歌詞というのは、福岡藩に伝わる、あるエピソードがもとになったものなのでありました。*------------*---------------*--------------*福岡藩の武将・母里太兵衛は、ある日、主君・黒田長政の使者として福島正則の元へと使いにいきました。太兵衛は、正則の屋敷で福島正則から酒を勧められます。太兵衛も酒が好きで、酒豪でもありますが、今は主君長政の使者という立場上、酒の勧めを固く断ります。しかし、正則は大盃になみなみと酒を注ぎ、「これを飲み干せたならば、好きな褒美をとらす」となおも、太兵衛に酒を勧めます。それでも、頑なにこれを拒み続ける太兵衛。太兵衛の職務に対するあまりの実直さに業を煮やした正則は、「黒田武士は酒に弱いのう、酒に酔えば何の役にも立たないのではないか」と言い、太兵衛を挑発します。この黒田家の名を愚弄するような正則の挑発に腹を決めた太兵衛。酒がなみなみと注がれた大盃を持ち上げて、一気にこれを飲み干します。「好きな褒美をとらす、と先ほどの仰せ。日本号(ひのもとごう)をぜひ頂戴したい。」「日本号」というのは、正則が豊臣秀吉から賜ったという名槍で、元々は皇室の所有物で、朝廷から「正三位」という官位まで賜ったということから「槍に三位の位あり」と謳われた天下の名槍です。正則にとっては、もちろんかけがえのない福島家の家宝。酒の席での売り言葉とはいえ、「武士に二言は無いはず」と太兵衛に迫られ、断りようのなくなった正則は、天下の名槍日本号を太兵衛に与えることとなります。黒田武士の面目を守り、名槍まで手に入れたという母里太兵衛のこの逸話は、福岡藩において、その後も長く語り継がれていったのでありました。*------------*---------------*--------------*今年のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛」。この逸話の主人公・母里太兵衛もドラマの中に登場しています。太兵衛の主君であった黒田長政は、黒田官兵衛の嫡男であり幼名を松寿丸といいました。松寿丸だった頃の長政は、織田信長の人質となり、官兵衛が伊丹の有岡城に幽閉されていた時に、あわや処刑されそうになったところを、竹中半兵衛の機転により助けられたという数奇な体験をした人でもありました。そして、黒田官兵衛。戦国武将の中でも私が最も好きな武将のひとりです。この官兵衛の生涯の中で、最もドラマチックな出来事はといえば、何といっても有岡城幽閉事件でしょう。「軍師官兵衛」の中でも、きっと、クライマックスのひとつになるのだと思います。この事件の詳細については、以前、このブログでも書いたことがあるので、良ければ、一度ご覧ください。 黒田官兵衛と松寿丸「軍師官兵衛」これから、三木城、鳥取城、備中高松城など、城攻めの名場面が色々と出てくるでしょうし、それらも、見どころになってくるのだと思います。そしてまた、「黒田節」のエピソードがドラマの中でどのように描かれるのかということも、楽しみのひとつです。
2014年03月22日
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あけましておめでとうございます。2014年が、始まりましたね。このところ毎年、年の初めには、一年の目標を10項目決めることにしているのですが、そんな中、昨年を振り返ってみると、新しいことに挑戦したり、仕事面で状況の変化があったりと、とても、起伏に富んだ一年であったように思います。まさに、悲喜こもごも。今年こそ、余裕が持てる一年にしたいなとは思いながらも、まだ、当面、4~5月くらいまでは、ハードな状況が続いていきそうな感じです。でも、ブログの方は、たとえ細々とでも、続けていきたいですね。いづれにせよ、今年一年が、充実した濃い中身のある年にしていけたらなというのが、年の初めの願いでもあります。ところで、そんな中、今年の年明けは、京都のホテルで一泊し、家族みんなで、新年を迎えました。京都の色々なところをめぐりながら、年越しができるというのは、ささやかな望みのひとつでもありましたから、こうしたひとときを持てたということ自体が、恵まれているんだなとも実感しました。ししおどしが、庭全体に響いています。石川丈山が作り上げた極上の庭園美、詩仙堂です。日本文化の歴史を感じさせる銀閣寺。ここは、いつ来ても多くの人でいっぱいです。聖徳太子ゆかりの六角堂。かつては町堂と呼ばれ、町衆たちの集まりの場でもありました。年越しは清水で。除夜の鐘が響く中、京都の夜景が素晴らしかったです。初詣は、世界遺産の一つ下鴨神社へ。今年一年のことについて、色々とお願いをしてきました。今年は、素晴らしい年明けを迎えられたと思いますね。皆さまにとっても、今年が良い一年となりますように。本年もよろしく、お願い申し上げます。
2014年01月04日
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そよ吹く風が心地よい。保津川の渓谷に沿って縫うように走る、嵯峨野のトロッコ列車。少し前のことになりますが、嵯峨野から亀岡までトロッコ列車の旅を楽しんできました。始発の駅のホームは休日とあって、家族連れやカップルなどで人がいっぱい。トロッコというだけあって、客車は木調のシンプルなつくりになっていて、それをレトロな感じのディーゼル機関車が牽引していきます。客車に乗り込み、いざ出発です。ガタン、ゴトン列車は、ゆるやかに進んでいきます。眼下に広がるのは、保津峡の雄大な景色。時間帯さえあえば、保津川急流下りの舟と遭遇することもあるのだそうです。この保津川下りの舟というのは、海外でも広く知られているのだそうで、特に、イギリス王室で人気があり、皇族方も幾度か訪れてこられているのだとか、確かに絶景で、渓谷の美しさを満喫することができますね。鉄橋を渡り、やがて、トロッコ保津峡駅に到着しました。これと並行して走っているのが、JR山陰線なのですが、もともとの山陰線というのは、今のトロッコ列車のルートを走っていたものであり、平成元年、新しく線路が敷設され、山陰線の路線が移されたものなのでありました。でも、この旧線をそのまま放置しておくのはもったいないということになり、平成3年、ここがトロッコ観光列車の路線として生まれ変わったのでありました。現在はトロッコ列車が走る線路。この保津川沿いの鉄道を、最初に開通させたのは田中源太郎という人で、明治32年のことでありました。田中源太郎という人は、明治・大正期の京都財界を代表する大実業家で、その設立にかかわった会社は、30を超えるといい、現在の「京都銀行」「京都証券取引所」なども、彼が設立したものであります。政治の世界にも進出し、衆議院議員を3期、貴族院議員も務めました。そんな源太郎が興した事業のひとつが、京都~園部間を結ぶ鉄道の敷設。「京都鉄道株式会社」という会社を立ち上げ、鉄道による地域振興を目指し、建設に取り掛かっていきます。断崖絶壁が続く保津峡に線路を通すのは、かなりの難工事だったようですが、それでも、なんとか開業にこぎつけた源太郎。しかし、それもつかの間、開業8年にして鉄道国有化法が成立して、京都鉄道の路線は全て国に買収されてしまうことになります。大正11年のこと。田中源太郎は、国有化となった山陰線に乗車し、京都へと向かっていました。ところが、この列車が鉄橋を通過したあたりで、突然、脱線します。源太郎は、この事故のあおりで保津峡に転落。コンパートメントから投げ出された源太郎は、帰らぬ人となってしまいました。この大物実業家の突然の死については、当時、様々な憶測が飛び交い、暗殺説などもあって、その真相は、今も、謎に包まれたままです。山あいを走るように、時には逆巻くようにして流れている保津川の急流。往時の転落事故の事など、まるで素知らぬように、今も濤々と流れています。保津峡をめぐるトロッコ列車の旅も、いよいよ終着です。トロッコ亀岡駅に到着しました。30分足らずの時間ではありましたが、雄大な景色とトロッコ列車の旅を満喫することが出来ました。トロッコ亀岡駅の待合いロビーには、「トロッコ列車生みの親」として、田中源太郎の肖像画が掲げられています。自らが建設した鉄道の事故により、命を落とすことになった田中源太郎。彼の存在自体はあまり知られていなくとも、その残した業績は、今も、色々なところで息づいています。亀岡という町は、田中源太郎の出身地。彼が築いた瀟洒な邸宅跡も残されています。今でも、それが、料理旅館「楽々荘」として受け継がれていて、亀岡の観光名所のひとつになっています。
2013年12月20日
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出張で、日本各地の色々なところに行くことがあるとは言うものの、たまには、時間が空いて、その土地の観光ができることもあります。少し前ではありますが、岡山出張の時、少し空き時間ができたので、岡山城と後楽園に行ってきました。岡山は、仕事で行く機会も割と多いのですが、岡山城、後楽園を見学するのは、実は、これが初めてなんです。岡山城というのは、備前の宇喜多氏が、その居城として長年丹精を込めて築いたというお城で、現在の地に、天主を含めた近世城郭を完成させたのは、宇喜多秀家でありました。一面に黒漆が塗られたその外観は、戦国の世の名残を残しているものだといい、陽の光を浴びると、烏の濡れ羽色に見えるということから「烏城」(うじょう)という別名でも呼ばれていました。秀家が、関ヶ原の戦いで敗将となった後は、小早川秀秋が城主となり、小早川家断絶の後は、代々、池田氏が受け継いで、城の改修・拡張が続けられてきました。往時は、その規模や構造において、日本有数の名城であったのだといいます。昭和初期には国宝にも指定されていた岡山城の天主。しかし、第二次大戦で空襲を受け、この天主は炎上してしまうこととなり、今では、当時の遺構として現存しているのは、この「月見櫓」のみとなっています。現在の天主は、昭和41年に再建されたもので、鉄筋コンクリート製。城内は、エレベーターで天主の上階まで行けるようになっています。天主の中では、城主がお出迎え・・・。お殿様・お姫様の装束を着て城主気分が味わえる着付け体験や備前焼の体験工房なども常時行われていて、今では、色々なイベントが行われるスペースともなっています。岡山・後楽園。江戸期の藩主・池田綱政が築かせたもので、日本三名園のひとつとして、良く知られている庭園です。金沢の兼六園、水戸の偕楽園には行ったことがあって、さすがに名園だと感銘を覚えた記憶があるのですが、岡山の後楽園は、写真などで見る限り、ただ芝生が広がっているばかりで、もうひとつ、興趣に乏しい庭なのではないか、と思っていました。ところが、実際に行って見ると、後楽園もなかなか良かったです。何と言っても、背景に聳える岡山城の天主が、その景観にアクセントを与えています。回遊してまわるほどに、安らぎが感じられるような、そんな素晴らしい庭園なんだと感じました。色々な地方へ行くと、それぞれに気風や風土の違いが感じられていいですね。この「謎解きシリーズ」の本は、それぞれの県の特徴がうまくまとめられていて、なかなかに興味深いです。この本によると、岡山県は災害が少なく気候も温暖な住みやすさナンバー1の県であり、また、色々な分野で全国ランキング1位のものが多くある研究熱心な県なのだといいます。岡山へ行って見ると、確かに、そう実感できる部分もあるような・・・。交通や通信などの文明が発達し、また、テレビなどマスコミの広がりもあって、日本全国が画一化されてきている現代。でも、そうした、それぞれの地域性というものは、ぜひ残していって欲しいものだと思いますね。
2013年10月27日
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このところ少し涼しくなってきたとは言うものの、今年の夏の猛暑というのは、いったい、いつまでこれが続くのかと、うんざりしてしまうほどに、暑い熱い日々が続きました。そうした中、私の勤務状況の方も熱を帯びて、いくつも納品物件が重なっていたこともあり、大きなトラブルもあり、これまでにないくらい、超多忙な日々を過ごしておりました。家に帰れないという日も、しばしば・・。それでも、少し山を越えたかな、という感じはしていますが、でも、まだ、数ケ月はハードな状況が続きそうです。そうした中、仕事とは別に取り組んでいることがあります。それは、論文作成を目標とした歴史研究。というのも、この7月より、京都某大学の「特別客員研究員」という資格を得ることになり、本格的に研究をする機会が与えられたためです。これは、京都検定1級合格者の中から客員研究員が選ばれるという制度によるもので、大学図書館や研究室が自由に使え、担当教授からの指導も受けることが出来ます。選んだ研究テーマは「山国隊」。来年4月に研究発表会があり、6月には研究論文を提出しなければなりません。研究ばかりでなく、いっしょに研究員となった仲間との交流会もあるようで、そうした側面も楽しみなところです。とは言っても、なかなか時間が取れないため、せっかくの機会ながら、ほとんど何もできていないというのが現状なのですが・・・。そんな感じで、ブログの方もご無沙汰しておりまして、しばらくは、時折、パラッパラッとくらいしか更新できないと思います。それでも、このブログを続けていきたいと思っておりますので、これからも、変わりませず、おつきあいを頂けますよう、よろしくお願い申し上げます。
2013年09月01日
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明治維新の折、進んで勤王軍に参陣していったという、山村の義勇兵「山国隊」。彼らは、いったい、どのような思いを持って戦線へと出向いていったのか。山国村には、今も、凱旋後の彼らを顕彰した当時の史跡が残されているといい。少しでも、「山国隊」の息吹に触れてみたいという思いから、その史跡の跡を訪ねてみました。山国村を縦断するようにして走っている山国街道(現・国道477号線)。その道沿い、「山国護国神社前」のバス停から歩いて数分のところに、山国隊士の慰霊のために建てられたという、山国護国神社があります。戊辰戦争の激戦を終え、山国隊が村に凱旋してきたのは、明治2年のこと。この時、山国隊の隊士が全員集まり、報告祭が行われたのですが、それと同時に、従軍中に戦死あるいは病死した7名の隊士を弔って、彼らの墓標が建てられました。この招魂の跡が、山国護国神社の前身。その後も、京都府の官費による招魂祭が、毎年、この地で行われ、永らく、ここは、官営の招魂場とされてきた場所でありました。鳥居から続く石段を登っていくと、さほど広くない台地になっていて、そこに、山国隊士の墓碑や、いくつかの顕彰碑が建てられています。戊辰戦争従軍中に戦病死した隊士、7名の墓碑です。山国隊の戦歴の中、宇都宮・安塚の戦いで死亡したもの3名。宇都宮の戦いというのは、幕府軍が、ここを抵抗拠点のひとつとしていたというだけあって、山国隊にとっても最大の激戦となった戦いでありました。敵兵の銃弾を浴びて絶命した高室治兵衛・田中浅太郎。激戦の中、行方知れずとなった新井兼吉。以上の3名。上野・彰義隊との戦いで戦死したもの1名。上野での戦いは市街戦となり、田中伍右衛門は、宿屋の2階から小銃で応戦している中、敵の銃弾が貫通し死亡しました。他に、過酷な戦陣環境の中、病を発し死亡したもの、高室重造、北小路万之輔、仲西市太郎の3名。計7名の墓碑であります。農民義勇兵であった山国隊、政府軍の中においては、鳥取・因幡藩の配下という位置づけでありました。それ故に、山国隊の隊長を務めていたのは、因幡藩の重役であった河田左久馬という人。そうした中、実質上、山国隊の中心となっていたのが、藤野斎という人でありました。藤野は、山国村の名主の家の出身で、山国隊結成時の発起人の一人。漢学の素養があり、医術の心得もあったという、村きっての教養人でありました。山国隊取締という役職で戊辰の遠征に従軍し、隊士の世話役・教育係、因幡藩との交渉から資金のやりくりまで、それらを一手にこなし、隊士からも非常に慕われていた人だったと云います。山国隊を軍としてまとめ上げ、彼らをここまで導いてきたということも、彼の力に負うところが大きかったのだろうと思われます。そんな藤野の墓碑も、大勢の隊士の墓碑の中に、ひっそりと佇んでいました。ちなみに、余談ではありますが、この藤野斎は、日本初の映画監督となり、日本映画の生みの親でもあった牧野省三の父にあたり、牧野は生前、山国隊の映画を一度作ってみたいと、常々語っていたと云います。隊士の墓碑とともに、いくつかの顕彰碑が建てられています。戊辰戦争時の因幡藩主であった池田慶徳。山国隊の隊長・河田左久馬。京都府知事の槇村正直。 等々。これらは、明治期に行われた招魂祭に際して建てられたものなのでしょう。この顕彰碑からは、戊辰戦争後、間もない頃の人々の熱気が伝わってくるような感じがします。山国護国神社を出て、田園の小径を少し歩きました。次に向かうのは、村の人々から五社明神と呼ばれ、古くから、この村の心のよりどころともなっていたという古社・山国神社です。この神社の創建は、奈良時代の末頃。平安京造営の時、用材供出の功によって、和気清麻呂を祭主として本殿が造営されたのだと云います。その後、平安中期には皇室の勅願所とされ、また、足利義満からも奉納を受けるなど、小さいながらも広く信仰を集めてきた神社でありました。山国隊が陣を揃え出陣していったのも、この場所であり、帰郷して、まず、報告に参上したのも、この神社なのでありました。毎年10月に行われている山国神社の秋祭り(還幸祭)。この時には、祭りの御神輿とともに、時代祭の維新勤王隊さながらに、鼓笛隊の行進が行われます。神社に続く橋の欄干に彫られている、山国隊の行進の様子。今でも、年に一度、山国村では、山国隊の勤王マーチが、村いっぱいに響きわたります。このように何げなく、のどかな佇まいを見せている山国村。しかしながら、この村には、独自に背負ってきた、いくつもの歴史がありました。山国街道沿いを再び歩いていると、山国自治会館の建物があり、その前の石碑に、小学校の校歌が刻まれているのを見つけました。この村の小学校、今では京北第二小学校と変わっていますが、以前は山国小学校といっていました。これは、その山国小学校だった頃に歌われていた校歌だということです。 遠き御代より つぎつぎて 雲井の御所に 縁に深く 御杣の民や 主基の御田 又はかしこき 御戦の 御さきとなりて つかえつる 歴史栄えある 我里よこの村が経てきた歴史に対する自覚と誇り。その根源となっているのは、皇室の杣人(きこり)であったということに由来しているのだろうと思います。この校歌には、そうした村人たちの思いが凝縮されているようにも思えます。維新期に、山国隊が見せた無償奉仕の精神というのも、そうした歴史と風土の中から生まれてきたものであると、そんなことが、実感できる山国の旅でありました。
2013年08月11日
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間近に広がる北山杉の山々が美しい・・・。山国村というところは、山あいの川沿いに身を寄せ合うようにして佇んでいる、とても静かな集落でありました。南北朝の頃、光厳天皇が開いたという皇室ゆかりの「常照皇寺」や維新期の義勇兵「山国隊」の史跡を訪ねたいと思い立ち、先日、この京都の山深く、山国村へと行ってきました。京都駅からバスに乗って、高雄・栂尾・北山杉の里などを走り抜け、終着駅の周山まで。そこから、山国行きのバスに乗り換えます。京都駅から約2時間のバスの旅。いくつもの山を越えて、山深くまでやってきたなという感じです。山国村については、以前に少し、このブログで書いたことがありますが、かつては、御所に対し、用材をはじめとする数々の献上品を届けていたという、皇室とのつながりが深かった山里であります。皇室の直轄領であったということから、小さな村ながら、高い格式を持っていた村でもありました。この村の中心を流れているのは、桂川。この川の流れは、嵐山から京都の中心部へとつながっていて、村の主要産業である製材業にとって、材木を京へと運ぶ一大運送路にもなっていました。この川から獲れるものとしては、鮎が有名。禁裏御用達の鮎として、朝廷の食卓には欠かせないということで、毎年、重宝がられていたのだそうです。そんな山国村に残る古刹が、常照皇寺。南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳天皇が開いた寺であり、また、桜の名所としても有名なところであります。「常照皇寺」と記された石柱の建つ入口から、奥へと進んでいきます。なだらかな石段が続く参道を、さらに進んでいくと、寺の山門が見えてきます。この寺を創建したという光厳天皇。その天皇に即位していた時期というのは、後醍醐天皇が倒幕の挙兵に失敗し、隠岐に流されていた間のことでありました。その後、後醍醐天皇が復権してきて建武の新政を始めますが、結局、それがうまくいかず、続いて足利尊氏が反旗を翻したことによって、南北朝の争乱が始まることとなりました。その間、上皇として、北朝側の皇務の中心となっていたのが光厳天皇。しかし、南北朝という時代は、時局がめまぐるしく変転した動乱の時代で、光厳天皇でさえ、いく度か南朝側に捕らえられ、5年にわたって幽閉されていた時期さえありました。そうした点で、光厳天皇という人は、数奇な運命をたどった天皇であったのだといえます。その光厳天皇も、晩年には、出家して僧となり、奈良・京都などを転々とします。そして、その最後の隠棲の場所として選んだのが、この山国の地なのでありました。常照皇寺、貞治元年(1362年)の建立であります。ここの方丈の建物は、周囲が庭に面した作りになっていて、とても開放感があります。天井近くの鴨居の上に、仏壇があるというのも珍しい。そこには、釈迦如来が祀られているのですが、何と、これが、この寺の本尊なのだそうです。方丈の奥には、開山堂の建物が続きます。この中には、寺の開祖である光厳天皇の像が祀られているそうです。方丈と開山堂に囲まれた庭。そこには、何本かの桜の木が植えられています。常照皇寺というところは、いくつもの桜の名木があるということでも、知られたお寺で、桜の時期ともなれば、境内は華やかな桜色に包まれるといいます。国の天然記念物にも指定されている、枝垂桜の巨木「九重の桜」一重の花と八重の花が、同じ樹に咲くという「御車返しの桜」京都御所から株分けされた「左近桜」など。これらの桜を見るためだけに、わざわざここを訪ねる人も多いということで、一度は、桜の咲く時期、ここに来てみたいものだと思います。寺の後方には、ひっそりと御陵がたたずみます。ここに祀られているのは、光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所です。激動の時代の中、翻弄されながらも生き抜いてきた光厳天皇。光厳天皇にとって、この豊かな自然に包まれた山里というのは、終の棲家とするにふさわしい場所であると、きっと、そう思われたことでしょう。常照皇寺には、今でも、その頃の息吹が残されているような・・・そんなたたずまいが感じられる、とても、静かな里のお寺でありました。
2013年07月22日
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御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院 いでて見たまへ 紫の水与謝野晶子には、京都のことを詠んだ歌が多く、そうした歌碑も市内のあちらこちらに残されています。この歌もその一つで、晶子が与謝野鉄幹と一緒に、京都を訪れた時に、詠んだ歌であるとされています。蹴上浄水場の歌碑与謝野晶子は、生まれが大阪の堺で、代々和菓子を商っている老舗の商家で育ちました。幼い頃から古典文学に親しんでいた晶子は、若くして歌にその才を発揮していたといい、そうした中、堺で行われた歌会において、与謝野鉄幹と知り合うことになります。たちまち、鉄幹に恋心を抱く晶子。しかし、鉄幹自身は、妻子を持つ身であり、それに加え、晶子と同じく鉄幹に思いを寄せる、もう一人の女性がいました。それが、新進の女流歌人である山川登美子。やがて、登美子は、歌の道において、さらに、恋においても、晶子のライバルとなっていくことになります。師弟をめぐって続いていく、微妙な三角関係。しかし、そんなある日。鉄幹は、2人を京都へと誘い出しました。泊りがけで、秋の京都へ。鉄幹・晶子・登美子の3人は、紅葉色づく永観堂を訪ね、池の鯉に、椎の実を投げたりして遊びに興じます。才気にあふれ情熱的な晶子と、清楚な風情を持つ登美子、対照的な2人ではありますが、それぞれ、鉄幹に向け想いを寄せていきます。しかし、結局、登美子は、親が勝手に決めてきた縁談を断れなくなったことから、故郷の福井へ、帰らざるを得ないことになってしまいました。そして、その後の晶子は、鉄幹の後を追って上京。鉄幹も前妻と離婚し、鉄幹と晶子は結婚することになります。こうして、恋の勝者となった晶子。歌の方でも、さらなる冴えを見せ始め、「みだれ髪」が大好評を博して、当代を代表する女流歌人となっていきました。八坂神社の歌碑 清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき与謝野鉄幹が、京都で生まれ育った人だったということもあって、晶子は、その後も、鉄幹と一緒に京都を幾度も訪ねています。特に、永観堂には良く行っていたようで、かつて、鉄幹と初めて京都を訪ねた時の思い出も、歌に残しています。永観堂の歌碑 秋を三人 椎の実なげし鯉やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき一方、鞍馬寺には、晶子の書斎だった建物もあります。この書斎は、晶子が50才の誕生日のお祝いとして、弟子からもらったものだったといい、元々は、東京の荻窪にあったものを、ここに移築したのだといいます、鞍馬寺の歌碑 何となく 君にまたるるここちして いでし花野の 夕月夜かな与謝野晶子の歌を、改めて、こうして並べてみると、みな、どことなく、おしゃれで、綺麗な歌が多いですね。それでいて、すごく情感がこもっている。歌づくりについて晶子は、「和歌がうまくなりたければ、恋をしなさい。」と、常々、弟子たちにそう話していたといいます。与謝野晶子は、情熱的な歌人と評されることも多いですが、その一方で、恋する人のみずみずしさが表れているということが、晶子の歌に、より魅力を与えているのでは、と、そんな感じがします。
2013年07月07日
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明治維新から、平安京の創設期へ・・・。時代をさかのぼって行列が繰り広げられていく、京都の時代祭。当時の風俗が忠実に再現された、その壮麗な時代行列は、見るものを、往時の歴史時代へと誘ってくれる、華麗な歴史絵巻でもあります。この時代行列の先頭を進んでいくのが、錦の御旗を掲げ、勤王マーチを奏でて行進する、維新勤王隊列。毎年、時代祭のオープニングを飾るのが、この勇ましい鼓笛隊の進軍なのですが、もともと、これは、維新期に活躍した「山国隊」と呼ばれる一隊が、行進を行っていたものでありました。一方、時代行列の最後尾を務めるのは「弓箭組」と呼ばれる一団。こちらも「山国隊」と同様、維新期、戊辰戦争に参陣し、そこで活躍していた人たちが、行進を行っていました。「山国隊」と「弓箭組」どちらも、京都北方の山村にあって、古くから皇室との関係が深く、また、維新の折には、自発的に兵を組織し、費用も自己負担してまで、戦線に参加したという、同じような経緯を持った農民義勇兵団であります。彼らが、それぞれに、時代祭に参加した、その思いとはどのようなものだったのか。今回は、この2隊のうち「山国隊」についての話をまとめてみたいと思います。(山国村について)山国隊のふるさとは、丹波国桑田郡山国郷という、林業を中心として生計を立ててきた山村。現在は京都市に編入され、右京区京北町となっています。平安京造営の際には、御所に用材を献上したといい、その後も、多種の献上品を届けるなど、皇室の御用達係のような役割を果たしてきました。当時から、皇室の信頼も相当に厚く、物資の調達ばかりでなく、御所の警備まで任されていたのだといいます。南北朝争乱の折には、北朝の光厳天皇が、この地に隠棲していたという歴史もあり、現在も、山国の地には、3天皇の陵墓が残されています。室町期まで、皇室の直轄領。この村の名主たちは、朝廷から官位までもらっていました。ところが、江戸時代になると、村は皇室領・幕府領・門跡寺院領の3つに分割されます。このことは、山国村に多くの問題や不便さを生み出すことになり、皇室領として再び統一したいということが、村の念願となっていました。そうした中、山国村は幕末期を迎えていくことになります。(山国隊について)慶応4年(1869年)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。新政府は、これに勝利するや、すぐに各方面に兵を繰り出して、旧幕勢力を鎮圧しようとしました。丹波~山陰方面を担当することになったのが、山陰道鎮撫総督に任命された西園寺公望。「今回の挙兵は王政復古の戦であり、志ある者は馳せ参ずべし。」公望は、そうした檄文を各地に配ります。そして、この檄文に応じたのが、山国村。山国村では、村内から有志を募り、義勇隊を結成するということが決定されます。古来から続いてきた朝廷への親近感と、村を皇室領として統一するためにも・・・。当初、約90名の隊士が、集められたのだといいます。そして、この軍勢は、西園寺軍に合流する西軍と、御所の警備につく東軍の2軍に分けられます。東軍は、仁和寺宮軍のもとへ加わろうということで大坂へ向かい、西軍は、西園寺軍の後を追って、丹波をさまよいますが、結局、官軍に参加することが出来ませんでした。西園寺軍の鎮圧戦は、どうやら終わっているようだ・・・。そうした状況がわかってくる中、しかし、以前から懇意にしていた因幡藩から、新政府の上層部に働きかけてもらえることになりました。この山国村の義勇兵の話を聞ききつけたのが、岩倉具視。岩倉具視は、この隊を「山国隊」と命名し、因幡藩に付属して、東征軍に加わるようにという、指示を出しました。このようにして、山国隊は、晴れて官軍の一員となることになりました。慶応4年、2月。山国隊は、東山道軍として、因幡藩とともに京都を出発します。大垣から甲州勝沼を経て、江戸に出て、宇都宮の戦闘に参加。江戸に戻ってからは彰義隊と戦い、その後、常陸~相馬~仙台へ、山国隊は、約8か月にわたって各地を転戦しました。その間、特に、宇都宮・安塚の戦いと、上野・彰義隊の戦いは壮絶な激戦となり、戦死者4名、病死3名という大きな犠牲を出しました。「魁」と書かれた陣笠をつけ、また、その名の通り、戦いの各所では、そのさきがけとして、常にその先頭に立ち、山国隊の戦いぶりというのは、諸藩の兵よりも勇敢だったといいます。そうした山国隊の活躍は、大いに評価されることになり、その故もあって、途中からは錦旗を守護する役割まで任されるようになりました。明治元年、11月。山国隊が任務を終え、京都に凱旋してきます。錦旗を掲げ、勤王マーチを奏でて行進する山国隊。そうした農民志願兵たちの雄姿は、人々から喝采をもって迎えられることになりました。こうして華々しく凱旋を果たした山国隊。しかし、その栄光の陰で、そのために払った代償というのは、あまりにも大きなものでありました。村を皇室領として統一したいという当初の願いは、維新により、皇室領であるということの意義自体が変わってしまうことになり、また、その自己負担となった戦費は、莫大な借財として村にのしかかってきました。義勇兵の出征により、残されたものは借金のみ・・・。借財返済のため、村は多くの山林を売却することとなり、その後、山国村は、急速に疲弊していくことになります。(時代祭と山国隊)明治28年(1895年)。京都では、「平安遷都1100年祭」のイベントが行われ、華々しく内国勧業博覧会が開催されるとともに、そのパビリオン跡を活用して、平安神宮が創建されました。そして、この記念事業の一つとして行われたのが第一回目の「時代祭」。「時代祭」というのは、平安講社と呼ばれる京都市民の氏子が主体となり、行われるものなのでありますが、この第一回目の実施にあたっては、広く京都府内からの番外参加を呼びかけました。そして、これに応じ、参加を申し込んだのが、旧山国隊と旧弓箭組なのでありました。以来、山国隊は、時代祭の行列の先頭を務めるようになり、それが今も、維新勤王隊列として受け継がれています。自らの損得を省みることなく勇敢に戦いに挑んでいった、この山国隊を顕彰したい。時代祭の維新勤王隊列には、そうした京都市民の思いが込められているようにも思えます。そして、この山国隊の存在というのは、山国の人々にとって、今なお、誇りある歴史の1ページとして語り継がれているのです。
2013年06月23日
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嵐山の南方、松尾山の麓にある松尾(まつのお)大社は、京都でも、最も古い神社のひとつであると云われています。阪急の松尾駅をおりると、すぐ前に、その大きな鳥居が建っています。鳥居の横に見えているのは、大きな徳利。この神社は、酒造りの神様としても有名な神社なんですね。山が間近かにあるために、鳥のさえずりが絶えず聞こえてきます。とても落ち着ける、雰囲気のある境内です。ここは、京都の神社の中でも、私のお気に入りの場所のひとつとなっています。この神社の本殿は、松尾造(両流造)と呼ばれる珍しい様式のもの。松尾造の本殿を持つ神社というのは、数が少ないようですが、安芸・厳島神社の本殿は、ここと同じ松尾造なのだそうです。松尾大社の歴史について。松尾山の山頂近くに磐座があり、そこでは太古の昔より地元民により祭祀が行われていたようです。やがて、そこへ、大陸より渡ってきた秦氏が、この地に移住してきて、松尾山の神を一族の氏神として崇めるようになりました。この地に社殿を築いたのは、秦忌寸都留(はたのいみきどり)という人。祭神は、大山咋神と中津島姫命の2神です。秦氏は、この地域一帯の開拓をすすめ、農業の新技術を持ち込むとともに、養蚕や酒造りなど新しい産業を興していきました。その後、平安京が造営された時には、賀茂社と並ぶ皇城鎮護の神として位置づけられ、朝廷からも厚い崇敬を集めるようになっていきます。元々、秦氏が、その氏神を祀ったということで発展してきたこの神社。明治までは、代々秦氏がここの神職を継いできていたのだそうです。秦氏により、日本に伝えられたものの一つが、酒造りの技術です。松尾大社は、「日本第一酒造神」と呼ばれたりもしていて、中酉祭という、年1回の大祭の時には、日本全国の酒造業者が、ここに集まってくるのだとか。境内には、「お酒の資料館」という展示室まで、用意されています。この松尾大社、他にも様々な見どころがあり、参拝するだけではなくて、色々と楽しめる神社でもあります。昭和を代表する作庭の大家・重森三玲、最晩年の作であるとされる庭。「曲水の庭」「上古の庭」「即興の庭」「蓬莱の庭」と4つの庭が鑑賞できます。「蓬莱の庭」では、池の鯉に餌をあげられるようになっているのも楽しいです。神像館では、この神社の摂社から発見されたものを含め、全18体の神像が展示されています。中でも、平安初期のものという男神像2体と女神像1体は、日本の神像彫刻の中でも、最古期の一つとされ、国の重要文化財にも、指定されています。境内にある「亀の井」と呼ばれている霊泉。延命長寿・蘇りの水であると伝えられていて、この水を汲んで持ち帰る人も絶えないという、人気の名水です。飲んでみると、確かにまろやか。酒造家の人たちは、この水を酒の元水の中に混ぜているのだそうです。また、この松尾大社、花の名所としても知られています。春のヤマブキ、梅雨の頃のアジサイなど、境内に咲く花々が、季節を華麗に彩ります。嵐山に行く時には、ちょっとだけ足を伸ばして・・・。きっと何かが発見できる、そんな素敵な神社です。
2013年06月16日
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室町期というのは、政情が不安定な状況が長く続いた時代で、特に、応仁の乱以降は、下剋上と呼ばれる社会秩序の大変動が起こり、戦国時代を現出させることになりました。室町幕府とは言っても、足利将軍が絶対的な権力を持っていたというわけでは決してなく、政治は管領を中心とした有力大名の合議制により運営され、中には、足利将軍を上回る権力を持った大名まで現れてくるようになりました。こうした室町幕府を創始したのが、足利尊氏。尊氏は、後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒した中心人物でありましたが、その後、後醍醐天皇に対して反旗を翻し、それにより南北朝の争乱が起こることになりました。尊氏と云えば、天皇に弓を引いた逆賊であり、悪人であるかのような評価をされていた時代もありましたが、実際の尊氏というのは、後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建てるなど、敵に対しても非常に寛容で、恩情に厚い人だったのだといいます。尊氏は、とても気前が良かったという話も有名で、部下に対して恩賞を惜しまず、それ故に、人は尊氏についてきたのだとも言われています。戦いにおいては勇猛、カリスマ性もありましたが、ただ、人柄の良さだけで、部下を統率してきたという面があり、逆の言い方をすれば、人の良いお坊ちゃん。組織の長としては、少し資質に欠けるところがあり、そのことが室町幕府のあり方の素地を作っていたような感じがします。そんな尊氏が建立した寺のひとつが、等持院。室町期を通して足利将軍家の菩提寺であったお寺で、歴代足利将軍の木像が祀られているということでも知られています。尊氏から義昭まで、堂内に15人の将軍の像が並んでいます。尊氏・義満・義政・義昭など、有名な足利将軍たちは、こんな顔をしていたのか、ということも見ることが出来て、なかなかに興味深いです。義満などは、この木像では、少し小太りのおじさんのようになっていました。あまり、馴染みのない将軍たち。足利15代のうち、暗殺された将軍が2名、都を追われて流浪のうちに亡くなった将軍も4名いたといいますから、室町幕府というのが、いかに弱体で、混乱の中にあったのかということが、よくわかります。こうして木像を見ていると、これら将軍たちの多くが、過酷な生涯を送ったであろうことが、偲ばれます。さて、今の等持院の佇まいについて見てみましょう。等持院の中心となっているのが、方丈の建物と、その前に広がっている池泉式の庭園。この庭は、夢窓疎石の作と伝えられているもので、しっとりとした、趣のある良い庭になっています。築山の上に建てられているのが、茶室・清漣亭。足利義政好みと呼ばれる様式のもので、上座のある二畳間が、茶室につながっているということが特徴的です。ここからは、庭の全貌が見渡せるように作られています。庭におりて、池のぐるりを歩いてみました。この池の周囲には、椿、楓、サツキなど、色々な種類の樹木が植えられていて、たっぷりと自然を満喫することが出来ます。池をめぐる散策路には、足利尊氏の墓もありました。庭の中で、ひっそりと佇む石塔。こうして庭を歩いていると、やはり、ここは尊氏の寺であるんだなぁという感じがしてきます。また、この等持院、足利将軍家以外にも、この地にゆかりのある人が、何人かいます。その一人が、日本で初めての映画監督となった牧野省三。牧野は、日本映画の草創期において、時代劇の芝居を映画として撮影するということを始めた人で、その元で阪東妻三郎・片岡千恵蔵など、多くの映画スターが生まれてきました。彼の映画撮影所というのが、かつて、この等持院の境内の中にあったということから、等持院には、牧野省三の銅像が建てられています。大正~昭和にかけて活躍した、日本画家の小野竹喬。岡山県笠岡市から京都に出て、竹内栖鳳門下に入り、西洋画の要素を取り入れた独特の画風により、日本画壇の中心にあった人です。この竹喬が晩年を過ごしたのが、等持院のすぐ近くにあるアトリエ。竹喬は毎日のように等持院を訪ねていて、等持院の木々は、竹喬の絵の素材になっていたのだといいます。等持院、なかなかに見どころの多いお寺なのですが、観光コースから、はずれているためか、訪ねてくる人は、あまり多くありません。でも、それだけに、静かに、ゆったりと見てまわれるお寺でもあります。楓色づく秋の頃は、また良いのでしょうね。もう一度、訪ねてみたい、そう思える寺院のひとつです。
2013年06月02日
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日本各地から、長宗我部ファンが高知に集まってくる。土佐の武将・長宗我部元親の命日と、その初陣の日に因んで行われる、長宗我部初陣祭。この初陣祭には、以前、2度ほど参加したことがあるのですが、久々に参加してみると、この催しも規模がますます大きくなっていて、さらにパワーアップしたイベントとなっていました。今回は、「土佐長宗我部の陣」と銘打って、1日目(5/18(土))は、岡豊城のある高知県立歴史民俗資料館2日目(5/19(日))は、元親初陣像のある長浜を、それぞれ会場にして、2日間にわたり様々なイベントが行われました。グルメ屋台、長宗我部検定クイズや、ゆるキャラも登場。とても、多くの人で賑わっていました。そして、圧巻だったのが、行われる演目の数々。そのいくつかを、紹介しましょう。長宗我部を題材にした舞台「誰ガタメノ剣」の公演を行っている劇団シアターキューブリック出演による出陣式。聴衆も一緒に、ときの声を上げ、盛り上がりました。大分から駆けつけた、豊後大友鉄砲隊の方々による火縄銃の演武。とどろき渡る轟音には、ただただ驚くばかりで、もの凄い迫力でした。これは、550年前に、長宗我部が大友を救援するため九州に兵を送ったという故事に因むもの。秀吉の九州征伐の前哨戦となったこの戦いは、戸次川(へつぎがわ)の戦いと呼ばれるもので、元親の嫡男・信親が戦死を遂げるなど、壮絶な死闘が繰り広げられた戦いでありました。信親の墓は、今も豊後にあって、高知・大分、相互の交流が続けられています。この鉄砲隊の演武は、2日目の長浜会場でも行われました。2日目は、若宮八幡からの武者行列と西条だんじりで幕を開けます。長宗我部の武者行列・大友鉄砲隊、それに続いて、地元小中学生によるちびっこ武者も。元親初陣像前まで、行進を行います。西条だんじりは、江戸時代から続く愛媛・西条まつりで奉納されている勇壮なだんじり。今回からの特別参加ということで、祭りの雰囲気を大いに盛り上げてくれました。元親初陣像の前では、初陣祭の神事と恒例の銅像洗いが行われました。銅像洗いは、四国電力のクレーン車を借りて、元親像の間近かまで近寄り、像を洗うもの。珍しい光景なので、必ずや一見の価値があると思います。18日の夜には、主催者、出演者、観客が一堂に集まって懇親会も行われました。高知を中心とした長宗我部ブームは、着実に盛り上がってきていることを感じます。ゆうママをはじめ、高知の人々とも、久々に会うことが出来て、とても、楽しい2日間でありました。写真は、昼食に食べた「初陣弁当・鬼和子」鬼和子とは、初陣後の勇猛な戦いぶりに対して、そう呼ばれたという元親のあだ名です。
2013年05月24日
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木下長嘯子というのは、江戸時代の初期を代表する歌人。感情や心の動きを奔放に表現した、その歌が、近世初期の歌壇に新境地を開いたと評価され「歌仙」とも称された人です。細川幽斎から歌を学び、その後は、林羅山・春日局・小堀遠州などとも親交を結んで、当時の文芸界において、リーダー的な存在の人だったと言います。しかし、この長嘯子の実際の本業というのは戦国武将。彼は、秀吉の妻・北政所の甥であり、秀吉からも、数少ない血族のひとりとして取り立てられ、いくつかの戦いにも参戦しましたが、武将としての功績は芳しくなく、結局、武将としてではなく、歌人として、その才能を開花させることになりました。今回は、そうした、武将であり、歌人であった、木下長嘯子の生涯について、まとめてみたいと思います。***木下長嘯子は、その名を勝俊といい、1569年(永禄12年)、北政所の兄である木下家定の長男として生まれました。彼には弟が3人いて、すぐ下の弟が、木下家を継承していくことになる利房。一番下の弟には、関ケ原戦での寝返りで知られることになった小早川秀秋がいます。勝俊は、幼い頃から、北政所の血族として、秀吉に取り立てられ、19才の時に龍野城主、26才の時には若狭・小浜城主となり左近衛権少将という官位まで与えられました。秀吉の親族ということで、順風満帆に出世を遂げていき、武将の才としては平凡ながら、それでも小田原の北条攻めや、朝鮮出兵(文禄の役)にも参陣し、それなりに持ち場をこなしていたようです。勝俊が、和歌の世界に親しみ始めたのは、20才を過ぎた頃から。文禄の役で朝鮮に向かう旅日記の中でも、和歌を詠み、次第に和歌の世界に傾倒していったといいます。しかし、そんな勝俊に、やがて、大きな転機が訪れます。それは、ここまで自分を引き立ててくれた秀吉の死。勝俊という人は、秀吉と北政所のことを心から敬愛していた人で、この秀吉の死により受けた悲しみと、その後の時局の変転が、彼をして和歌の道へと向かわせたということのようです。慶長5年(1600年)秀吉亡き後の天下の覇権をめぐり、徳川家康と石田三成が対立。関ケ原の戦いが起こりました。この時、勝俊は、東軍の家康側についていて、伏見城を防衛するようにと命じられ、伏見に入城します。攻め寄せてくる、石田勢。しかし、この時、勝俊は、あろうことか戦いの直前になって伏見城から脱出します。これが、勝俊、謎の敵前逃亡とされる事件で、このことにより、勝俊は、戦後、家康からその罪を問われ、領地を没収されてしまうことになりました。関ケ原の戦いにおいては、勝俊の弟・小早川秀秋をはじめ、裏切り・寝返りをした武将というのも少なくありませんでした。勝俊も同様に、この一件のため裏切り者と決めつけられてしまうことになります。しかし、この事件を起こした勝俊の、その真意は何だったのでしょう。 あらぬ世に 身はふりはてて大空も 袖よりくもる はつしぐれかな勝俊が、伏見城を退去するときに詠んだとされる歌です。この歌の「あらぬ世に」とは、秀吉が亡くなってしまったということを意味していて、その中で生きてきた自分の時代は、もう終わったのだという感慨がこめられています。秀吉という一つの権威が去ると、また争いを繰り返している。勝俊は、そうした人間の強欲さにも嫌悪を抱き、関ヶ原の戦いを境に、武将としては秀吉に殉じ、この後は文人として生きていこうとする、彼の決意が、この歌に表されています。彼にとって、この事件は、決して裏切りではなく、自らの求める道を歩きはじめるための、第一歩だったということなのかも知れません。これを機に、勝俊は長嘯子と号し、東山の霊山に挙白堂という庵を建て、そこに籠るようになります。しかし、それでも周囲は、そのまま彼を文雅の道に安住させてはくれませんでした。慶長13年(1608年)、父である木下家定が死去。この遺領(備中足守藩)を誰が相続するかということで、問題が持ち上がり、結局は、北政所の周旋により、領地は勝俊が受け継ぐということで落着し、勝俊は、足守藩主として、復活することになります。こうして、再び、藩主の地位に就くことになった勝俊。しかし、そこへ、江戸幕府からの横槍が入ります。この遺領は、兄弟で分割すべきものであるのに、勝俊は、何故、領地を独占しているのか、これは、幕命に反するものである・・・。木下家は改易。結局、弟の利房ともども、幕府から、その藩地を没収されてしまうこととなりました。(利房は、この数年後、遺領を回復しています。) よしあしを 人の心にまかせつつ そらうそぶきて わたるよの中 領地を再び失った勝俊が、隠棲生活に入ったときに詠んだ歌です。世の矛盾や不可解さから達観し、自らは文人として生きていこうとする勝俊の姿が、目に浮かんでくるようです。その後の勝俊は、歌人・長嘯子として、その名を世に馳せ、世間から認められていくことになりました。晩年には、出家した西行が、その昔、暮らしたという、洛西の勝持寺という寺に居を移し、風雅の中で、その余生を送ったのだといいます。 露の身の 消えてもきえぬ置き所 草葉のほかに またもありけり 長嘯子・勝俊の、辞世の歌です。勝俊が亡くなったのは、慶安2年(1649年)のこと。享年、80才。こうして見てみると、木下勝俊(長嘯子)の生涯というのは、ある意味、自分の信念を貫き通した、そんな人生であったと云えるのかも知れません。
2013年05月12日
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京都市の北方に、形よく均整のとれた山容を見せる霊峰比叡。山上には延暦寺の伽藍が立ち並ぶ、古えから続く信仰の山でありますが、洛北から見る、その山容は特に素晴らしく、東山三十六峰と呼ばれる山並みの中でも、最北端にあたります。この山の景観は、きっと、古くから京都の町に溶けこんでいたのでしょうね。今回、訪ねたのは、そうした比叡の山容とともに歴史を刻んできたという、いくつかの古刹。西賀茂から岩倉へ、洛北の古寺を探訪します。まず、初めは、西賀茂にある正伝寺というお寺です。この門から入って、山の道を少し登っていきます。正伝寺のあるこの山は、船山と名付けられていて、五山の送り火のひとつである、船形が灯される山としても知られています。この寺の正式な寺名は「正伝護国禅寺」。鎌倉後期に開かれた臨済宗の禅寺なのでありますが、護国という名がつけられているというのは、創建の当時、元寇によって日本が窮地に追い込まれているという時代背景の中、護国を祈願して建てられたという由来によります。その後は、後醍醐天皇の勅願寺となり、また、足利義満からの信任を受けたりということもあって、発展していったのだといいます。この寺の本堂は、桃山時代に聚楽第から移築されたものということで、重要文化財。本堂の中では、狩野山楽の襖絵(重要文化財)を鑑賞することができます。そして、もうひとつ、この寺の見どころといえるのが、何と言っても、小堀遠州の作庭と伝えられる枯山水。きれいに刈り込まれているツツジが、とても印象的で、石がひとつも使われていないというところに、シンプルで整然とした美しさがあります。さらに、その借景として庭園を彩っているのが、悠然と聳える比叡山。庭を眺めていると、ほっとするような、とても落ち着ける、雰囲気のあるお寺です。次は、岩倉にある円通寺というお寺。元々、この地は、後水尾上皇が離宮として開いたという幡枝御所があった場所で、その後、この離宮が受け継がれて、臨済宗の禅宗寺院となりました。円通寺という寺名も、その時に、後水尾上皇より賜ったという「円通」と書かれた勅額に因んだものなのだといいます。この寺の庭園も、国の名勝に指定されているという名庭。比叡山を借景に取り入れた枯山水になっています。あたかも、林の合間から叡山を望むという趣向なのでしょうか、とても風情のある庭でありました。そして最後が、妙満寺というお寺。室町時代からの歴史を持つという日蓮宗の寺院です。この寺は、元々、長い間、二条寺町にあったのですが、昭和になってから、この岩倉の地に移転してきました。それでも、この妙満寺というお寺は、なかなかに見どころの多いお寺なんです。そのひとつが、この安珍清姫の鐘。安珍清姫というのは、紀州・道成寺に伝わる伝説で、安珍に裏切られた清姫が、怒りのあまり蛇に化身して、鐘ごと安珍を焼き殺したというお話。この話は、能や浄瑠璃の演目としても取り上げられているので、ご存じの方も多いかも知れません。その後、この伝説の鐘は、秀吉が紀州征伐の時に、京に持ち帰ったとされていて、それが、ゆえあって、この妙満寺に伝わっているのだといいます。さて、この大きな塔のようなものは、何でしょう。まるで、シルクロードにいるかのような、日本の寺院には、やや不釣合いのような感じもする建物ですが。これは、インド・ブッタガヤの大塔を模して建てられたという仏舎利大塔です。この塔が建てられたのは、昭和48年。建立に際しては、檀家や信徒からの寄進が集められたといい、その内部は、広大な納骨堂になっているのだそうです。この納骨堂には、事情があって墓が建てられないという人の遺骨も、宗派を問わずに、預かっておられるのだとか。妙満寺、本堂からの眺めです。ここの本堂からは、雄大な姿の叡山を見晴らすことができるということで、知る人ぞ知るという感じの、比叡山、絶好のビューポイントとなっています。この場所から見た比叡山。確かに、心が晴れやかになるような、爽快さを感じる素晴らしい景観でありました。比叡山というのは、もちろん、京都市内の中心部からも見ることができるのですが、市内からの角度では、山の稜線が複雑になっているということもあって、やはり、洛北から見る比叡山が美しいのだといいます。「みやこ富士」とも称される、その美しい山容が、洛北の風景を素敵に形づくっている。そんなことが実感できるような、洛北の古刹めぐりでありました。
2013年05月05日
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花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに百人一首にもおさめられている、小野小町の良く知られている歌です。どんなにきれいな花も、いずれ色あせてしまうようにわが身も老いて、あせていってしまう。この歌は、小町が、自らの容色が衰えていってしまうさまを嘆いたものであったといわれています。京都・小野随心院 小野小町の歌碑クレオパトラ、楊貴妃とともに世界三大美女の一人にも数えられ、絶世の美女として有名な小野小町。しかし、実際には、彼女がどのような人であり、どこで、どのように暮らしていたのかということも、よくわかっておらず、全く意外なほど、その生涯が伝説に包まれている人であります。小野小町は、どこで生まれたのか・・。これについても数多くの話が伝わっており、その生誕地は、秋田・福島・神奈川・福井・京都・熊本など、日本全国に出生譚が残されているのだそうです。中でも、秋田県湯沢市は、小町生誕の町として、毎年「小町まつり」が開催されるなど、観光にも力を入れていて、お米の「あきたこまち」や秋田新幹線「こまち」も、この小町出生伝説に因んでネーミングされたものです。出生についてもそうですが、小町はその晩年についても、様々な伝説が残されており、晩年の小町は、落剝して、全国をさすらったのだとされています。そうしたこともあって、小野小町の墓所というのも、日本全国の各地に存在しているのだそうです。これほどまでに、謎につつまれている小町の生涯。しかし、それというのも、絶世の美女と称された小町であるがゆえに、次々と、伝説が生まれていったということなのかも知れません。小野小町の経歴について、ほぼ、確実だといわれているのは、小野妹子の系譜をひく貴族・小野氏の出であるということと、「古今和歌集」「小町集」などに歌が残され、当時の歌人たちと歌のやりとりをしていたということ。「古今和歌集」の選者であった紀貫之は、彼女を六歌仙のひとりに選び、その序文の中で、小町の歌を絶賛していたのだといいます。そうした中、小野小町が住んでいた場所であったと伝えられているのが、京都山科の随心院。この随心院のある、山科区小野というところは、代々小野氏が栄えた土地であり、随心院には、小町の化粧井戸や文塚などが残されています。そうした史跡の他に、もうひとつこの随心院に伝わっているのが「百夜通い」と呼ばれる小町にまつわる伝説。小町への恋慕を遂げようとする、深草少将のこの悲しい恋の物語は、小野小町の恋愛遍歴を象徴するお話として、広く知られていくことになりました。(百夜通い伝説)ふとしたことから、小町を垣間見た深草少将は、たちまち恋のとりことなり、深草から小野まで、何度も、小町のもとに通いました。しかし、それでも、小町の家の門は、一向に開く気配がありません。それでも、熱心に小町のもとに通い続ける深草少将。自分のことをあきらめさせようと思った小町は、「私のもとに、百夜、通ってきたならば、あなたの意のままになりましょう。」と、少将に告げます。それからというもの、深草少将は、雨の日も雪の日も、欠かさず小町のもとを訪ね、その訪ねた証しとして、榧(かや)の実を、一つずつ置いていくようになりました。そうした、ある冬の夜のこと。深草少将は、降り積もる雪の中、熱を発して、途中で、行き倒れてしまいます。そして、少将は、そのまま帰らぬ人に・・・。ちょうど、その日は、小町のもとに通い続けて99日目の日にあたっていました。この時、小町は少将が置いて行った榧の実を集め、館のまわりに、撒いたのだと云われています。随心院には、今も、大きな榧の木が残されています。この「百夜通い」の伝説は、その後、世阿弥によって取り上げられて、「通小町」と題され、能の演目として脚色されていくことになります。そして、ここで、描かれた小町というのが、その後、乞食のように落ちぶれ果て、諸国をさすらうという一人の女性像。人生の栄枯盛衰を経ることにより、哀れな末路をたどることになった、この小町の悲しい物語は、人々の心を強く打つことになり、それによって、さらにその伝説性は深められていくことになりました。美しければ、なおのこと、その散りゆく姿に哀れさが募る。小野小町の伝説というのは、そうした美意識の中、より人の心を打つ物語として、語り継がれてきたということなのかも知れません。
2013年04月21日
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山あいにある緑豊かな当尾の里は、多くの石仏たちにも出会える、のどかな山里です。木津川市の旅。浄瑠璃寺を訪ねたあとは、石仏をいくつか見つけていきながら、あじさい寺としても知られる岩船寺(がんせんじ)を目指して、里の小径を散策しました。昔ながらの山村といった風景が広がっています。空気がきれいで、素朴な感じの里の小径ですね。この当尾という地区は、奈良・平安の頃から寺院が建てられていたところで、南都六宗と呼ばれた奈良仏教からの影響を強く受けてきた地域でありました。また、その一方では、世俗化した奈良仏教に反発した僧たちが、奈良を逃れ、ここに草庵を結んだといい、反奈良仏教の僧侶たちが多く隠棲した地でもあったようです。そうしたことから、この地に寺や修行場が多く建てられ、かつては、ここを行き交う人も多かったということで、そうした人々を迎えるため、あるいは、その道しるべとして、いくつもの石仏が、この地に作られたということのようです。歩いていると、さっそく、石仏に出会いました。「薮の中三尊」と名付けられた石仏です。当尾の石仏というのは、ほとんどが、愛称のような名前が付けられているようですね。薮の中の岩に光背を彫りくぼめ、地蔵・観音両菩薩を形どっています。鎌倉初期のものなのだそうです。「カラスの壺二尊」一つの岩に阿弥陀如来と地蔵菩薩が彫られています。岩の上中央にある礎石の穴のようなものが、唐臼に似ているということから、この名があるようです。鎌倉中期のものということです。岩船寺に向かう坂道の途中に、大きな岩がありました。八帖岩と名付けられています。こんな急斜面にあって、今にも落ちてきそうという感じがするのですが、きっと昔から、ここにある石なのでしょうね。「わらい仏」当尾の石仏群の中で、最も有名なものの一つなのだそうです。鎌倉中期の作であるとのこと。阿弥陀如来と、脇侍しているのが観音・勢至の両菩薩です。笑みをたたえた、その姿は、行き交う人々を優しく見送っていたのでしょうね。私が歩いたのは、1時間ほどの道のりでありましたが、こうした石仏は、当尾の里の広範囲にわたって広がっているといいます。当尾の里、一般には、それほど知られていない地域なのかも知れませんが、こうした石仏を訪ねながら歩くこの道は、ちょっとしたハイキングコースにもなっていて、なかなか素敵ところでありました。岩船寺に着きました。ここは、あじさい寺という異名を持ち、花の寺としても知られた寺なのでありますが、訪れたこの時期は、あいにく時期はずれで、咲き誇る花々には出会えませんでした。しかし、この寺は、奈良時代に創建されたという古くからの年輪を刻んできた古刹なのであります。岩船寺本堂(昭和期の再建)天平元年、霊夢を見た聖武天皇が、行基に命じ阿弥陀堂を建立させたという由来を持つ寺。その後、平安初期、特に嵯峨天皇の信仰が厚かったということがあり、最盛期には、39もの堂舎を有する大寺院であったのだといいます。しかし、その後、たび重なる兵火に見舞われ、すっかり、寺域も小さくなってしまいましたが、それでも、行基作と伝えられる本尊の阿弥陀如来像(重要文化財)など貴重な文化財が残されています。十三重塔(鎌倉期・重要文化財)岩船寺三重塔(室町期の再建・重要文化財)古くからの歴史を伝えてきている、この当尾の里。ここまで行くのに、交通がちょっと不便ということはありますが、浄瑠璃寺・岩船寺などの古刹があり、また、素朴な石仏群も、とても魅力的でありました。木津川市というところは、当尾の里以外にも色々な古刹が残されている地区があるので、また、機会を見つけ、訪ねてみたいと思っています。
2013年04月14日
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横長の本堂の中、九体の阿弥陀像が整然と横に並んでいる。これは、九体阿弥陀と呼ばれているもので、平安時代の後期には、こうした様式の阿弥陀堂が、さかんに作られていたといいます。藤原道長による建立が、この最初のものであったといい、それ以後、これをまねて、京都を中心に30ヶ所ほど、同様のものが作られていたのだといいます。この時代、九体阿弥陀を祀るということが、ちょっとしたブームになっていたのでしょうね。それでも、長い歳月の中、戦乱や火災などにより、これらの諸堂は、次々と焼失してしまいました。しかし、一ヵ所だけ、今も、往時の九体阿弥陀が残されているところがあります。それが、京都・木津川市にある浄瑠璃寺というお寺。先日、この九体阿弥陀を訪ねて、浄瑠璃寺へと行ってきました。浄瑠璃寺は、当尾(とうの)と呼ばれる山里に、ひっそりと佇んでいます。奈良との県境に近く、奈良市からは直通バスも出ていますが、京都市内からは、これといった交通の便がなく、京都府とはいいながら、生活圏としては奈良にあるといったような感じのところです。当尾の里。浄瑠璃寺の周辺には、多くの石仏も点在していて、歩いていると、どこか飛鳥に似ているような、そんな雰囲気があります。浄瑠璃寺の入口まで、やってきました。畑の中にある細い参道を進んでいくと、山門とはいえないほどの小さな門があります。境内の庭は拝観自由。門をくぐると、大きな池が広がります。池を挟んで、左手に三重塔。右手に本堂(九体阿弥陀堂)が建っています。浄瑠璃寺庭園 (史跡・特別名勝)この庭の形式は、浄土式庭園と呼ばれているもの。東に位置する三重塔には薬師如来が、西側の本堂には九体の阿弥陀如来が、それぞれ祀られています。東は此岸(過去)であり、薬師如来が司る東方浄瑠璃浄土を表し、西は彼岸(未来)で、阿弥陀如来が導く、西方極楽浄土を意味しているのだと云います。こうした庭園配置自体、大乗仏教の思想に基づくものなのだそうです。浄土式庭園という様式は、池の前に、お堂が建てられているということが特徴的でありますが、その代表といえるのが、宇治の平等院。この浄瑠璃寺が建立されたのも、平等院とほぼ同じ時代のことで、当時、多くの人が極楽浄土を願っていた、そうした世相が反映されたものであると云えます。この庭園は、往時の浄土庭園のたたずまいを、ほぼそのまま、今に伝えている庭であるといわれていて、平安後期の建物である三重塔や本堂とともに、とても貴重な文化遺産であるのだと思います。浄瑠璃寺三重塔(国宝)本堂・九体阿弥陀堂(国宝)さて、九体阿弥陀が祀られている本堂へと入っていきます。薄暗い中、しかし、ピーンと張りつめたような雰囲気が漂っている堂内です。九体の阿弥陀像と、それを左右から包むように安置されている、いくつかの仏像。それらが、とても素晴らしく、何か引き込まれていくような、そんな迫力がありました。絵はがきの写真から、そのいくつかを紹介しましょう。九体阿弥陀如来像(国宝)九体阿弥陀として現存している唯一のもの。阿弥陀が九体になっているということの意味は、九品往生といって、努力や心掛けにより、往生には九つの段階があると説いた経典に基づくもので、九体の阿弥陀は、その、それぞれの段階を受け持っているのだといいます。どの阿弥陀さまも、皆、柔和な面持ちで、安らぎを与えてくれているような感じがします。持国天像・増長天像(国宝)平安時代・四天王像の代表といわれている仏像。ごく間近で、触れられるくらいの位置から拝めるこの2像は、戦慄を憶えるくらいに、すごい迫力がありました。截金細工を交えた巧みな技、その造形も素晴らしく、とても、感銘を受けました。四天王の他の2像は、国立博物館に寄託中ということです。吉祥天女像(重要文化財)普段は秘仏とされているこの像ですが、訪れたこの日は、たまたま、開帳日にあたっていて、拝観することが叶いました。鎌倉時代のものだということです。そのふくよかな顔立ちは、どこか豊かな心持ちを与えてくれそうですね。実は、以前からずっと、一度、訪ねてみたいと思っていたこの浄瑠璃寺。庭園も、建物も、仏像も、どれもみな、見ごたえ十分で、期待に違わぬ素晴らしさでありました。念願かなった、この浄瑠璃寺探訪というのは、ちょっとした、感動に包まれたひとときでもありました。
2013年03月31日
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「弟子たちよ。私の終わりはすでに近い。しかし、いたずらに悲しんではならない。」死を前にした釈迦が、最後に弟子たちに説いたのは、「怠ることなく、修業に励むように」ということだったのだと言います。***釈迦が亡くなったのは、旧暦の2月15日であったとされ、3月のこの時期、日本各地の寺院では、釈迦を偲ぶ法要・涅槃会が行われています。涅槃会にあわせて、釈迦臨終の時の様子を描いた涅槃図が特別公開されている寺院も多いですが、先日は、そのひとつである京都の真如堂へと行ってきました。一般には、真如堂と呼ばれていますが、正式な寺名は、真正極楽寺といいます。平安中期の創建という千年の歴史を持った古刹で、法然や親鸞も、ここで修行を行ったといい、民衆からの信仰を、ずっと集めてきた寺院だったのだといいます。涅槃図が公開されているのが、この本堂。さっそく、堂内へと入っていきます。大きな涅槃図ですね。思ったよりもカラフルです。タテが6m、ヨコ4mあるのだそうで、江戸時代中期に描かれたものなのだそうです。釈迦臨終の時というのは、沙羅双樹の林の中に身を横たえ、ここで、最後の説話を弟子たちに語りかけたのだといいます。この涅槃図では、菩薩や弟子たちが釈迦の死を惜しみ、花を供えているところが描かれています。さらに、釈迦の死を聞きつけて、象・馬・麒麟など多くの動物たちが駆けつけています。この涅槃図には、120種類の動物が描かれいるということですが、数ある涅槃図の中でも、最も多く動物が描かれているのだそうです。厳かな雰囲気の中、こうした動物たちの姿が描かれているということは、釈迦の与えた徳の高さを示しているようにも思えます。そして、涅槃図と、もうひとつ、この涅槃会で楽しみにしていたのが、涅槃会の参詣者全員に配られる、仏前菓子の「はなくそあられ」。「はなくそ」というのが、とても変わったネーミングではありますが、漢字では「花供曽」と書きます。仏さまに花を供える「花供御」が、その由来なのだということで、とても、有難いお菓子なんですね。本尊に供えていた鏡餅を小さく刻み、それに黒砂糖をからめたもの。これを、食べると無病息災で過ごせるといわれています。これが、また、食べ出したら止まらないほどで、とても味わい深いおいしさでありました。涅槃という悟りの境地とはどんなものなのか・・・。私には想像もつかないことですが、せめて、はなくそあられをほうばりながら、釈迦の生涯に思いをはせていました。
2013年03月24日
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「ハンサムウーマン」というのは、新島八重につけられたニックネームのようなもの。正しいと信じたことには一歩も引かない頑固さを持ち、相手が男であろうが対等に振る舞うといった、八重の男勝りな性格は、男尊女卑が当たり前という世相の中では、相当、型破りのものでありました。それ故に「烈婦」「悪妻」とも評されていた新島八重。しかし、そうした彼女を微笑ましく思い、伴侶として迎え入れたのが新島襄でありました。「彼女は決して美人ではない。しかし、生き方がハンサムなのだ。」というのは、新島襄の言葉。アメリカで長年暮らし、レディーファーストが当たり前という西洋文化を身につけていた襄にとっては、八重こそが、理想の女性であったのだろうと思われます。今回は、この日本人離れしたカップル、新島襄と妻の八重のお話についてまとめてみたいと思います。***新島襄が生まれたのは、江戸末期の天保14年(1843年)。上州安中藩(現在の群馬県安中市)の藩士の子として生まれました。襄というのは、のちの名で、本名は七五三太(しめた)といいます。17才の時、幕府が開設した軍艦操練所に入所し、そこで洋学を学びますが、その中で、聖書の存在を知り、それに魅せられたということが、彼の生涯を決定づけることになりました。キリスト教の学べる国、アメリカに行きたい。そう思い立った襄は、当時、開港地となっていた箱館へと向かい、そこから船で、アメリカに向け、密出国します。元治元年(1864年)のことでありました。上海を経由して、ボストンへ・・・。この船の中で、彼は船員たちから「ジョー」と呼ばれ、このことから、いつしか、ジョーの名を使い始めたといいます。ボストンにつくと大学に入学。やがてキリスト教の洗礼を受けました。ボストン滞在、7年目のこと、アメリカを、明治政府の岩倉使節団が訪れます。この時に知り合ったのが、明治政府の高官であった木戸孝允で、木戸が襄の語学力を大いに評価したということから、襄は、通訳として使節団に参加することとなりました。フランス・スイス・ドイツ・ロシアとヨーロッパ各地をめぐり、見聞を広めた襄は、行程の最後に報告書をまとめ、明治政府に提出しています。その後、再び、アメリカに戻った襄。神学校に入学し、本格的にキリスト教学を学びますが、しかし、この頃には、日本に戻ってキリスト教の精神に基づいた学校を作りたいと考えるようになっていました。明治7年(1874年)神学校を卒業した襄は、10年間暮らしたアメリカを離れ、日本に帰国します。そして、ここから、英学校(のちの同志社大学)の設立に向けて、積極的な活動を始めることになります。まず、英学校をどこに作るかということについて、新島家は、以前から公家の高松宮家と親交があったということから、その屋敷跡を用地として借りることが出来る目途がたち、英学校の設立する場所を、京都と定めます。次いで、資金の融資、官庁からの認可の手続きなど、種々の設立準備に追われる日々。それでも、明治8年(1875年)には、なんとか、同志社英学校を開校させることが出来ました。当初は、教員2名、生徒8名でのスタートであったといいます。一方、そうした中、襄は、京都府知事の槇村正直や顧問であった山本覚馬と懇意な仲になっていきます。そして、訪れた八重との出会い。八重を新島襄に紹介したのは、槇村知事だったということのようですが、その時のエピソードです。襄が、槇村知事のところへ英学校設立についての援助を求めに行った時のこと。どんな女性と結婚したいかという話題になりました。すると襄は、「夫が東を向けと言ったら、3年も東を向いているような女性は嫌です。」と答えます。それなら、ちょうど、うってつけの女性がいると、槇村知事が紹介したのが山本八重。この頃の八重は、女紅場(京都で作られた女学校)の指導教官を務めていて、槇村のところにも、女紅場の補助金を増やして欲しいと、度々直訴に訪れていました。槇村にすれば、自己主張の強い八重に手を焼いていたところでもあり、彼女こそ、襄の望みにぴったりの娘だと思ったのでしょう。その後、襄は覚馬の家を訪ね、八重と再会します。この時の八重は、井戸の戸板の上に腰を掛け、裁縫をしていたのですが、襄は、その大胆な振る舞いに心引かれます。板が折れてしまえば、大ケガをするだろうに・・・。その危うげな姿に魅せられたということなのかも知れません。この翌年、襄と八重は結婚することになります。一方、この頃の、同志社英学校は、キリスト教主義であるということから、京都の仏教界からの激しい反発を受けていました。仏教界は、京都府にも圧力をかけ、これが元で、同志社設立に尽力していた山本覚馬は、槇村知事と対立することになります。これにより、覚馬と八重は、京都府の職を解かれることになるのですが、それでも、覚馬は、同志社への支援を続けました。覚馬は、烏丸今出川に持っていた土地を、同志社に提供。これが、現在の同志社大学本校となり、この時に、生徒の数も35人に増えたのだといいます。覚馬の積極的な支援もあり、その後、同志社は発展を続けていくことになります。今でも、当時のままに近い姿で保存されている「旧新島邸」。ここが、襄と八重が夫婦生活を送った場所でありました。夫のことを、いつも「ジョー」と呼び捨てにし、また、夫をかしずかせていたともいう新島八重。当時は、同乗することすら、はばかられていたという人力車に乗る時も夫より先に乗りこんでいたといい、その姿を見た世間から悪妻と評され、周囲との確執も多かったのだといいます。しかし、襄はそんな八重のことを、優しく諌めながら見守っていたのだそうです。ただ、そんな2人ではあっても、その夫婦仲は至って良かったとのこと。それというのも、八重のそうした振る舞い自体、襄自身が、望んでいたものであったからなのだと思います。新島襄が亡くなったのは、明治23年(1890年)のこと。同志社の系列校を設立していく活動をしているさなかの急逝でありました。享年46才。新島襄亡き後の八重は、社会活動に生涯を捧げました。日本赤十字社に入会し、特に、病院看護の分野において、実績を残していきます。日清・日露の戦争の時には、篤志看護婦として従軍。この時には、看護婦全体の取締責任者として、怪我人の看護にあたり、また、後進の指導や看護婦の地位向上にも努めていたのだといいます。これらの功績が認められ、八重は、国から勲章をもらっていますが、これが、皇族以外の女性として、初めての叙勲となったのでありました。新島八重、昭和7年(1932年)没。享年86才。時代をさきがけていったかのような、この2人は、めげずに貫き通すことの大切さを、今に教えてくれているように思えます。
2013年03月17日
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大河ドラマ「八重の桜」の話の展開の中で、その中心となっているのが、八重の兄である山本覚馬。明治期の覚馬は、当時、積極的に近代化を推し進めようとしていた京都府から、顧問として招かれ、京都で活躍することになります。この時に、覚馬を登用したのが、第2代京都府知事を務めた槇村正直という人。槇村知事が行った京都近代改革というのは、当時において、かなり先進的なものが多く、その内容も多岐にわたり、今でも京都に根付いているものが多いです。山本覚馬は、これら政策の立案・実施に大きく関与したと云われているのですが、今回は、そうした山本覚馬の活躍を中心に、明治初年の京都近代改革についてまとめてみたいと思います。まずは、幕末、最終盤期における覚馬について。慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いが勃発した時、覚馬は京に残り、諸藩との調整にあたっていましたが、やがて、官軍に捕らえられ、薩摩藩邸に幽閉されます。しかし、覚馬は、西郷隆盛など薩摩の有力者とも既知の仲でありました。この時、覚馬は、幽閉中ではありながらも、建白書を口述筆記によりまとめあげ、これを「管見」と題して、新政府に提出します。その内容というのは、三権分立、二院制、郡県制といった政治体制論や、貨幣論、製鉄法といった経済論。あるいは、学校制度、女子教育、太陽暦、西洋医学の採用などと広範囲にわたり、後の明治新政府の政策にもつながるような、これからの日本のあるべき姿を論じたものでありました。この「管見」を読んだ西郷や岩倉具視などは、その先見性に大いに驚き、覚馬に対して敬意を払うようになっていったと言います。明治2年(1869年)、覚馬は、晴れて釈放されることになりました。そして、この頃には、「管見」の内容により、新政府内での覚馬への評価が高まっており、そうした中、覚馬は、京都府からの就任要請を受け、顧問として、京都府に出仕するようになります。ところで、この頃の京都というのは、東京遷都により、天皇・皇族・公家たちが、一斉に東京へ移って行ったことから、灯が消えたようになり、急激な衰退をみせていました。一刻も早く、京都の復興を進めたい。そうした思いは、京都府民ばかりではなく、明治政府においても、懸案のひとつとなっていました。そこで、この時期に、京都府政を取り仕切ることになったのが、長州藩士であった槇村正直という人。木戸孝允からの推薦により、槇村は、京都府大参事という職に就任することになります。(のちに、京都府知事に昇格)まず、槇村が始めたのが人材の登用でありました。外国人科学者を招へいする、その一方、当時、評価が高まっていた山本覚馬を顧問に迎え、改革を遂行する体制を作っていきます。そうして、次々と着手されていった、京都の近代化政策。この槇村が実施した改革の内容というのは、産業の振興と、教育政策が2本柱であったと考えられるのですが、その主なものを、列記してみましょう。【産業の振興に関するもの】・舎密局(せいみきょく)の設置。 舎密局とは、理化学研究所のことで、 ガラス・レンガの製造、陶磁器の釉薬の開発、理化学機器の開発などを行いました。 ここから、後に、現在の島津製作所が生まれていくことになります。・各種モデル工場の設置 製紙工場・鉄製品加工場・皮革工場・牧畜場・栽培試験場などの施設を作り、 稼働させました。・西陣織の復興 ヨーロッパへの留学制度と最新鋭機械の導入により、 京都織物業の近代化を推進しました。・京都博覧会の実施 製品のPRと開発成果発表の場として企画されたもので、 日本で初めて行われた博覧会でありました。 会場は、西本願寺や知恩院、京都御所など。 この時に、余興として行われたのが、祇園の芸舞妓による歌舞の発表会で、 これが「都をどり」となり、今でも、これが受け継がれて、 毎年、春の風物詩になっています。・繁華街「新京極」の開設 今も賑わう「新京極」は、京都にも繁華街を、という構想から、 この時、槇村知事によって作られたものです。 【教育政策】・番組小学校の設置 全国に先駆け、64の小学校が京都市内で開校しました。 明治政府による学制発布は、この数年後のことになるのですが、 京都に作られた、これらの小学校というのは、政府主導の学校とは成り立ちが異なり、 番組と呼ばれる京都の町組が協力し合って、小学校を作り、 それを京都府が支援するという形で進められていきました。 その運営の資金も町組の負担であり、 その一方で、積立金を活用するための小学校会社というものまで、設立されました。・女紅場(にょこうば)の開設 女性も働いていけるために教育の機会を、 ということで開設された、女性のための職業訓練所です。 女学校のはしりとも言うべきもので、市内の各学区に設置されました。・医学校、療病院の設置 ドイツから医師を招いて、医学校・公立病院が作られました。 当初は、青蓮院の境内にあったのだそうです。 現在の京都府立医大の前身にあたります。舎密局址女紅場址こうした、槇村知事の一連の施策の中で、その企画・運営の中心にあったのが、山本覚馬。それは、まさに、彼が「管見」の中で描いた、近代国家のあるべき姿というものを、京都で実現させようとしたものであったと言えるのだと思います。この頃には、妹の八重も、覚馬のあとを追って京都に出てきており、やがて、八重自身も女紅場の教師を務め、また、京都博覧会の時のパンフレット作りにも携わったのだと言います。その後、覚馬は、新島襄と知り合い、同志社大学の設立に関わっていきます。八重も、その縁で、新島襄と出会うことになり、後に、新島襄と結婚することになります。しかし、この同志社大学の設立をめぐっては、京都仏教界からの強い反発が起こり、それをきっかけとして、覚馬と槇村が衝突。このことにより、覚馬も八重も京都府の職を解かれることとなりました。覚馬が手掛けてきた、京都近代改革ではありますが、結局、覚馬は、道半ばにして、京都府の顧問を辞することとなったのです。山本覚馬という人は、当時でもトップクラスの優れた見識と知識を持った人であり、その立場が与えられさえすれば、相当な活躍が出来たはずの人であったのだろうと思います。京都での活躍からも、その片鱗が伺えますね。しかし、その一方、覚馬には、36才頃から視力の衰えがあり、また「管見」を書いた頃には、ほとんど失明に近い状態であったといいます。やがては、足の自由もきかなくなり、そうした中でも、これだけの成果を残せたというのは、やはり、覚馬というのは、すごい人だったのだろうと思います。一方、明治の京都近代改革ということでいえば、槇村知事の時代に、まず、その基盤が作られ、そこで画期的な成果を残しました。しかし、その一方では、事業の途中で頓挫してしまったという部分もあって、改革が完遂するというところまでは、いきませんでした。この後、こうした京都復興に向けての近代化事業は、次期の府知事である北垣国道へと受け継がれていくことになり、やがて、琵琶湖疏水の建設へとつながっていくことになったのでした。
2013年03月10日
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今年のNHK大河ドラマは、幕末の会津が舞台の「八重の桜」。ご覧になっている方、どれくらい、おられるでしょうか。会津籠城戦の折、銃を持って戦ったことから”幕末のジャンヌダルク”と称されたという山本八重が主人公ということで、今回の大河は、かなり異色の題材ですね。敗者の側である会津の話だし、山本八重といっても世間的な知名度はゼロに等しいし、視聴率的にも、盛り上がりに欠けているようではありますが、でも、私は、とても気に入って、毎週、見ています。幕末史、それも幕府側の歴史が好きだからということは、あるのですが、でも、今回の作品は、そのドラマの作りがきっちりしているなということを感じます。最近の大河に多かった、わけのわからん歴史ねつ造も、ほとんどないですし、登場人物が、必要以上に、理想や夢を振りかざすようなところもないですし、ある意味では、淡々と、品良く、きっちりとしたドラマに仕上がっていると思います。その一因としては、山本むつみさんの脚本が良いからということがあるのでしょうね。山本むつみと言えば、「ゲゲゲの女房」の脚本で、一躍、脚光を浴びた方という感じがしていましたが、でも、元々は時代劇が得意な人なのだそうで、彼女のインタビュー記事を読んだりすると、随分、歴史に通じている方であるなぁと感心します。それが、的確な歴史背景の中、しっかりとした作品としてまとまっていることにつながっているのだと思います。「八重の桜」に関連して、何か日記を書いてみたいと思っているのですが、スポットを当てたいところが、いくつもあって、目移りしてしまうほど。それほどまでに、今回の大河は、私にとって興味満載です。男まさりで、型破りな性格ながら、常に進取的なことにチャレンジしていった主人公の山本八重。そうした八重の生涯がどのように描かれるのかというのは、もちろん楽しみなのですが、その一方、八重をとりまく、様々な会津の群像も、とても魅力的です。決して、知名度は高くないですが、この時期の会津は、個性的な人物、近代日本に功績を残した人物を、きら星のように輩出しているのです。その何人かを、ピックアップしてみましょう。(佐川官兵衛)その勇猛な戦いぶりにより、薩長から「鬼の官兵衛」として恐れられたという会津武士。鳥羽伏見の戦いでは、刀折れ、眼を負傷したにも関わらず、平然と指揮をしていたといわれ、また、会津城籠城戦では城外で指揮を取り、少ない兵力で、敵陣を突破するという成果を上げました。人情に厚く、その人柄から、慕われていた人だったといいます。明治後は、多くの会津藩士をひきつれ、警視庁に入庁。その後は、西南戦争に従軍し、阿蘇の山中で戦死しました。(山川大蔵)ロシア訪問なども経験し、世界が見えていたとされる会津藩国家老。会津の籠城戦では総督を務め、「知恵の山川」と称賛された人です。中でも有名なのが、会津戦争における彼岸獅子の逸話。籠城軍に合流しようと会津若松城に向った大蔵ですが、しかし、官軍が城の周囲を包囲しているために入城することが出来ません。そこで、地元の伝統芸能「彼岸獅子」の行列のふりをして、踊りながら入城することに成功したというお話です。(山川健次郎)山川大蔵の弟で、14才の時に白虎隊士として会津戦争を経験。その後、アメリカへの留学が認められ、帰国後、日本初の物理学教授となりました。会津の出身ながら、東京帝国大学(現在の東京大学)の総長を長年務め、東京大学が発展していく過程において、その中心となった人物です。(大山捨松)山川大蔵の妹で、8才の時に会津戦争を体験。11才にして、日本初の女性留学生となり、アメリカへと渡ります。帰国後、西郷隆盛の従弟にして陸軍元帥となった大山巌と結婚。鹿鳴館のトップレディとして、社交界の華となります。愛国婦人会や赤十字看護会を設立するなど、近代における、女子教育、看護婦の養成に先鞭をつけました。(山本覚馬)幼少期から、八重を温かく見守り続けた、八重のお兄ちゃん。八重の人生に多大な影響を与え続けた人物です。江戸に上って、佐久間象山の門下に入り、会津に洋式兵学の導入を提言して、その師範を務めます。卓越した先見性を持っていた人で、鳥羽伏見で薩長軍に捕らえられるも、提出した近代改革の建白書が認められ、釈放後は、京都府の顧問として招へいされます。覚馬は、京都の近代化を推進するとともに、新島襄による同志社大学設立においても、中心的な役割を果たしました。朝敵の汚名をきせられ、しいたげられてきた会津の人たち。しかし、それでも、明治以降、功績を残した人というのは、意外と多いのです。***桜というのは、咲いて散る時が、一番きれい。でも、その散った瞬間から、翌年、咲くための準備を始めるのだと言います。会津の人たちも、激動の中に散るだけではなくて、苦しみを乗り越え、たくましく、そして、しなやかに、再び花を咲かせていきました。「八重の桜」というタイトルは、すべてを失っても、また、次に向けて立ち直っていった、そうした会津の人たちの姿を、桜にたとえているのだといいます。「夢を持って前に進めば、必ず光は見えてくる。」東日本大震災からの復興に向けてのメッセージを込めたという「八重の桜」にこれからも、期待したいと思っています。
2013年03月01日
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露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速の事も 夢のまた夢有名な秀吉辞世の歌でありますが、でも、実際に、秀吉が死を迎えたのは、伏見城の一室においてでありました。死の間際、「返す々々、秀より事、たのみ申候」と遺言を書き残し、五大老・五奉行を集めて、誓書を書かせたといいますから、秀吉が死に際して、思い残すことというのは、やはり、自分が亡き後の豊臣家のことだったのでしょう。当時、朝鮮との戦いが継続中であり、また、秀吉死すということが知れると、不測の事態が起こらぬとも限りません。そのため、秀吉の死は秘匿され、秀吉の亡骸は、人知れず、深夜の内に、伏見城から運び出されることになります。五奉行のひとり前田玄以と僧と人足数名により、秀吉の亡骸は、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰まで運ばれ、ひっそりと、葬られることになりました。華麗な天下人の最期とは思えない、あまりに淋しげな野辺送りでありました。***この秀吉が葬られた場所は、今も、豊国廟として残されています。阿弥陀ヶ峰の山頂近く、先日、そこを訪ねてみました。幾重にもつらなる石段。石段とはいえ、ちょっとした山登りのようであります。豊国廟までは、全部で565段あるそうですが、登りきるのは、やはり、相当きついです。何度も何度も休みながら、黙々と登っていきます。やがて、唐門が見えてきましたが、廟は、まだこの先でした。秀吉の死が公表された後には、この参道近くに豊国神社が建てられ、秀吉は神格化され、豊国大明神として祀られました。創建の当初は、お参りにくる人も多く、このあたりも、人出が絶えなかったということですが、しかし、豊臣家が滅亡してからは、徳川家によって廟も破壊され、この周辺も荒れ果てていたのだといいます。豊国廟が再び整備されたのは、明治時代。現在の豊国廟は、明治期に再建されたものであります。秀吉の墳墓に着きました。墳墓の上には、これぞ稀代の英雄という感じの立派な石塔が建てられていました。墓前で静かに手を合わせ、豊国廟を後にします。豊国廟のあと、方広寺へと向かいました。方広寺というのは、前回の日記にも書きましたが、大仏を建立するため、秀吉により創建されたという寺院。でも、方広寺は、大仏というよりも、大坂の陣が始まるきっかけとなった鐘銘事件の舞台となったということの方が良く知られているのかも知れません。方広寺の本堂です。往時は、この周辺一帯を寺域としていた広大な寺院であったのですが、現在は、本堂と鐘楼が残されているのみ。これが、あの方広寺かと、がっかりしてしまうほど、今では、小さな寺院になってしまっています。関ヶ原の戦いのあと、天下の実権を握った徳川家康。一方の豊臣家はといえば、名目上、主家という形が続いているとはいうものの、実質は、大坂を領するだけの一大名になってしまっていました。それでも、さらに徳川政権を盤石のものにしたい家康は、なんとか、口実をつけ、豊臣家を討伐してしまおうと考えていました。そこへ、家康が持ち出してきたのが、方広寺の鐘銘についての難題です。慶長17年(1612年)方広寺の大仏が完成し、家康の承認を得て、開眼供養の日を待っていたある日のこと。突然、家康から開眼供養を延期するようにという命令が届きます。それは、大仏開眼に合わせ新たに作られた梵鐘の銘文の中に徳川家をおとしめる文言が含まれているというもの。「国家安康」「君臣豊楽」国家安康は、家康の家と康の文字を分断する不吉な語句であり、君臣豊楽は、豊臣を君主とするということを意味している。これは、家康と徳川家を冒瀆するものである。言い掛かりとしか言いようがない、明らかなこじつけではあるのですが、この件を弁明するため、豊臣家家老の片桐且元が家康のもとを訪ね、それが、こじれていったことが、やがて、大坂の陣へとつながっていくことになります。方広寺には、その国家安康の鐘の実物が、今も、残されています。この鐘、国の重要文化財にも指定されています。「国家安康」「君臣豊楽」の箇所には、それとわかるように、色がつけられていました。鐘楼の天井は、花格子になっていて、彩色画が描かれています。きっと、かつての鐘楼内部も、華やかに彩られていたのでしょうね。歴史を動かすことになった、この梵鐘を間近に見ることが出来る、この方広寺は、なかなかに感慨深いものがあります。大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川氏は、豊臣を半ば罪人であるかのように扱い、冷たい処遇を続けました。豊臣家にゆかりの建物、豊国廟や祥雲寺、方広寺なども、破却されたり、あるいは縮小されたりしました。ところが、明治維新後になると、今度は、再び豊臣家が見直されることになります。それは、徳川が逆臣となったことの裏返しでもあるのですが、豊臣は、朝廷に対して幕府を作ることをしなかった忠臣であるとされ、今度は、豊臣家が称揚されるようになっていきます。方広寺に隣接し、建てられている豊国神社。明治13年(1880年)明治政府によって、この地に再建されたものです。豊国神社のシンボルともなっているのが、この華麗な唐門。南禅寺金地院から移設されたものということですが、元は伏見城の唐門だったのだといいます。この欄間や扉の装飾など、細部まで贅を尽くした豪華なもので、国宝にも指定されています。豊臣家の栄華のあとを偲ぶことができる、華麗な造形であると云えますね。秀吉の生涯を振り返ってみると、まさに波乱万丈。乱世の英雄の栄枯盛衰は、常のこととは言うものの、死してもなお、その評価が二転三転したりもします。その栄華のあとを見るにつけ、逆に、はかなさを感じたりもします。秀吉ゆかりの地を、いくつか訪ねてみて、その偉大さと、はかなさと、愚かさと、色々なことを感じた、そんな京の旅でありました。
2013年02月18日
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京都の東山七条付近というのは、秀吉や豊臣家にゆかりのある寺社や史跡が多く残されているところです。今回は、そうした寺社や史跡を訪ねながら、秀吉晩年のことについて振り返ってみたいと思います。***天下統一を成し遂げ、関白太政大臣という極官にまで登りつめた豊臣秀吉。しかし、その晩年、大きな悩みのたねとなっていたのが、自身の後継者問題でありました。そうした中、側室の淀殿に男子が生まれた時の秀吉の喜びようというのは尋常でないほどで、その子を鶴松と名付けて、大坂城を与え、後継者に指名します。しかし、その鶴松が、わずか3才にして夭折してしまいました。これを大いに嘆き悲しんだ秀吉が、その菩提を弔うため建立したのが、祥雲寺というお寺でありました。この祥雲寺というお寺自体、現存はしていないのですが、「智積院」が、その跡を継いだ寺として残されています。東山七条の交差点のところに、大きな寺域を構える智積院。かつての祥雲寺も、かなり大きな寺院であったということですが、特に、その客殿は、当時、日本でも最大規模のものであったのだといいます。しかし、後に家康が、祥雲寺を紀州根来寺の僧に与えたことにより、祥雲寺の建物は再編され、智積院として生まれ変わって今に至っています。それでも、この智積院には、かつて祥雲寺だった頃の痕跡が、いくつか残されています。その一つが、大書院から眺める池泉式の庭園。この庭は、祥雲寺、往時の面影を留めているものであるのだといいます。それと、もうひとつ、この智積院に残されているのが、長谷川等伯・久蔵父子により描かれた有名な障壁画。「桜楓図」は、桃山時代を代表する絵画であるとされていて、国宝にも指定されています。これらの絵画は、かつて祥雲寺の客殿を飾っていたものだったといい、幼くして亡くなった愛児を弔う、秀吉の思いが伝わってくるようでもあります。ところで、秀吉といえば、華麗な建物や大規模な建造物の数々を作らせたということでも知られていますが、その晩年の代表作ともいうべきものが、方広寺の大仏でしょう。奈良の大仏にならい、自らも京都に大仏を造りたいと思い立った秀吉は、方広寺というお寺を建立し、その地に大仏殿と盧舎那大仏の造営を始めました。これが完成したのが、文禄4年(1895年)。高さが19メートルあったというこの大仏は、東大寺の大仏よりも大きいもので、当時、日本一の大仏であったとされています。さらに、また、この時に行われた開眼供養というのも壮大なものだったようで、各宗派から、合計1000人の僧が出仕し、盛大な供養が営まれたといいます。智積院の隣にある妙法院というお寺には、桃山時代の国宝建築物として、庫裏(台所)が残されていますが、この建物は、この時、1000人の僧の食事を用意するための施設として、秀吉により建てられたものなのでありました。日本一の大きさを誇ったという、壮大な方広寺大仏。しかし、それも、結局、一年だけのこととなりました。この開眼供養の翌年、突然、大地震が京都を襲い、何と、この大仏は、あえなく倒壊してしまいます。その後も、引き続き、秀吉の子秀頼により、大仏が再建されるのですが、でも、どうやら、この大仏は、良くない巡りあわせにあったようです。江戸初期に、またもや地震がこの地を襲い、この秀頼の大仏も倒壊。その後、木製の大仏が作られますが、これまた、今度は落雷により焼失します。江戸時代の末になって、有志が集まって資金を出しあい、再び、大仏が作られますが。しかし、これも昭和になってから、火事により焼失してしまいました。この地は、現在「大仏殿緑地公園」として整備されています。秀吉という人は、下賤の身から登りつめていったというだけあって、その間には、えもいわれぬほどの苦労を重ねてきたでしょうし、また、その分、人情の機微が良くわかっていた人だったのだと思います。そうであるからこそ、人は秀吉についてきたのだと思います。それでも、秀吉の晩年は、人格のたがが狂ってしまっていたとしか思えません。秀吉は、私の好きな武将の一人ではあるのですが、それでも、その晩年の愚かな所業には、目を覆いたくなるほどです。中でも、その最大のものが、朝鮮出兵でしょう。方広寺のほど近くに「耳塚」という史跡がありますが、これは、朝鮮で武功を挙げた証として、将兵が持ち帰った敵将の鼻や耳を埋葬した跡です。秀吉は、それらをここに集めて、供養を行ったのだとも云われています。東山七条に、ゆかりの地を訪ねて・・・。次回もこの続きです。秀吉没後の豊臣家にゆかりの史跡をめぐります。
2013年02月11日
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「そうだ 京都、行こう。」というのは、JR東海が行っている京都観光キャンペーン。テレビのCMや駅のポスターなどでも、結構、目にする機会があると思います。このキャンペーンが始められたのは平成5年といいますから、もう20年近く続けられているということになります。春夏秋冬と季節に合わせて年4回。京都の観光地がひとつずつ紹介され、その美しい映像とあいまって、気のきいたキャッチコピーの文言に、京都の魅力がかきたてられます。「そうだ 京都行こう。」のテレビCMを集めたものをYouTubeで見つけたので、一度、ご覧ください。ナレーターは長塚京三で、BGMで流れているのがサウンドオブミュージックの挿入歌であった「私のお気に入り」です。「そうだ 京都、行こう。」テレビCM集このキャンペーンは、取り上げられているロケ地もいいですね。有名な観光名所ばかりでなく、マイナーではありながらも情緒を持った寺院のいくつかもロケ地に選ばれています。その一つが蓮華寺。ここは、私も初めて行った時に、なんて雰囲気のある素敵なお寺なんだろうと感激し、たちまち、お気に入りになった場所なのですが、そのような、小さな目立たないお寺なども、取り上げられたりしていて、そのセレクトの幅の広さにも感心させられます。「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンは、京都の魅力を発信し続けることで、京都観光の盛り上がりの一端を担ってきたように思います。そこで、私も勝手ながら、今まで京都に行った中から、おすすめの場所を、いくつか選んでみることにしました。もちろん、私の独断と偏見が入っていますが、趣きがあると、私が感じた寺社のベスト20です。< gundayuuが選んだ、おすすめの京都ベスト20 > (五十音順、リンクは当ブログ過去の掲載記事です。) 宇治上神社 清水寺 銀閣寺 釘抜地蔵 高台寺 高桐院 古知谷阿弥陀寺 三千院 浄瑠璃寺 神護寺 詩仙堂 清閑寺 醍醐寺と三宝院 東寺 東福寺 平等院 平安神宮と神苑 松尾大社 龍安寺 蓮華寺京都は、本当に見どころにあふれていて、他にも挙げたいところがいっぱいあるのですが、無理やり20におさめたという感じです。1000年以上にわたり、日本の歴史・文化の中心であり続けてきた京都。それだけに、その積み重ねられてきた深さと広がりは尽きることなく、その魅力は、全く今も色あせていないと思います。と・・・、ここまで、私を京都好きにさせてくれたのが、京都検定の存在でした。2級の勉強を始めて以来、約2年半の間、どっぷりと、京都にのめり込ませてくれました。そして、昨年末、受験した京都検定の1級。先日、結果通知が届いて、その結果は、何と合格。成果が実って嬉しいということは、もちろんあるのですが、でも、その反面、これで、京都とお別れなのかという、どこか寂しい気分と、これから、新たな京都とのつきあいが始まるという期待と、今は、複雑な気持ちでもあります。人それぞれ、感じ方や受けとめ方が違うというのは当然のことですが、京都というところは、多様性があるところですし、又、時折々で、異なる顔を見せてもくれます。自分だけの京都を見つけに・・・。また一度、機会があれば、京都を訪ねてみられてはいかがでしょう。
2013年02月03日
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飲食店にしても、駅のホームにしても・・・。最近は、禁煙になっているところがほとんどで、愛煙家にとっては、肩身が狭い昨今です。身体に悪いから、やめた方がよいと、わかってはいても、なかなかやめられないのが、タバコです。タバコというのは、元々、アメリカ大陸から伝わってきたものでありますが、中でも、一番最初に喫煙を始めたのは、マヤの人々であったといわれていて、彼らは、儀式や魔除けという意味あいでタバコを吸っていたのだそうです。大航海時代になると、船乗りの間でタバコが広まっていき、当時、喫煙には様々な薬効があると信じられていたのだといいます。日本にタバコが伝わってきたのは、室町時代。ポルトガルの宣教師により伝えられたといい、その当時の認識も、やはり高価な薬品というものだったようです。それが、手頃な価格に値下がりしてきて、江戸の中期になると、庶民の間にも、喫煙の風習が広まっていくことになりました。ただ、この頃のタバコというのは、今のような紙巻形のタバコではなくて、煙管(キセル)を使って、煙をくゆらせるスタイルのもの。今のような形の紙巻タバコが普及していくのは、明治以降のこととなります。と、以上、タバコの歴史を概観してみましたが、今回、取り上げようとしているのは、明治時代に紙巻タバコの製造販売で大成功し、「煙草王」とも称されたという実業家・村井吉兵衛のこと。タバコの大ヒット銘柄を次々と生み出し、今の日本タバコ産業の原型を築いたともいえる彼の生涯について、以下、まとめてみたいと思います。***村井吉兵衛が生まれたのは、幕末期の文久4年(1864年)、京都で煙草商を営む商家の家に生まれたといいます。とは言っても、家計は貧しかったようで、吉兵衛は、叔父の家に養子に出され、やがて、そこで吉兵衛は、煙草の行商を始めることになります。この吉兵衛。なかなかに商才や、利殖の才があった人のようで、煙草の行商によってお金を蓄え、やがて、煙草の製造をも手掛けていくようになっていきます。当時、明治初年の頃というのは、文明開化の風潮の中、タバコにおいても、紙巻形のものが西洋からもたらされ、これが、その手軽さとともに、ハイカラさの象徴であるとして注目を集め始めていました。この紙巻煙草を製造する会社も、日本で何社か現われてきており、吉兵衛も、これに目をつけます。タバコといえば、今はフィルターがついているのが一般的ですが、この当時は、まだ、フィルターつきのタバコというのは世に現れておらず、吸い口にストローのような巻紙をつけた口付きと呼ばれるものが一般的でした。しかし、吉兵衛はこの口付き式ではなく、端から端まで葉が詰まっている「両切り」というタバコを研究しました。今でも販売されているゴールデンバットのようなものですね。吉兵衛は、これを日本人の嗜好に合うようにということで研究を重ね、製品の開発を進めていきました。こうして生み出されたのが、日本初の両切り紙巻き煙草「サンライス」。さらに、吉兵衛は、これのポスターを作って広告するなどの宣伝にも力を入れ、それにより「サンライス」は、たちまち、大ヒット銘柄となっていきます。その後も、自らアメリカに渡ってタバコの製造方法を研究、その成果を持ち帰って、次に、吉兵衛が開発したのが「ヒーロー」という銘柄でした。この「ヒーロー」は、パリ万博で金賞を受賞するなど、世界的にも認知される銘柄となっていき、その生産量は日本一を記録し続けます。こうして、煙草業界で確固たる地位を築いていくことになった村井吉兵衛。やがて、彼は世間から「煙草王」と称されるようになっていきました。ところで、吉兵衛には、この頃、もう一人、強力なライバルがいました。それが、東京で「天狗煙草」という口付き煙草を販売し、人気を博していた岩谷松平という人物。岩谷は、軍に煙草を納入することで実績を上げ、又、その一方で、派手な宣伝広告を行うことにより、煙草の売上を伸ばしてきていました。この頃には、吉兵衛も販売拠点を東京に広げていましたが、そこで、この両社の熾烈な広告合戦が、繰り広げられます。岩谷のイメージキャラクターは天狗で、シンボルカラーが赤。岩谷は、赤い衣装で赤い馬車に乗り込み、自らを大安売りの大隊長と称して街中をパレードし、「天狗煙草」をPRして回ります。一方の吉兵衛もこれに対抗。吉兵衛のシンボルカラーは白で、白いのぼりを揚げた楽隊を編成し、これに、商品のテーマソングを演奏させて街路を行進しました。さらに、この頃、「ヒーロー」には“たばこカード”をおまけとして添付するなど、当時としては斬新な販促策を打ち出し、こうしたことでも販売効果を上げていたようです。両社の広告合戦はエスカレートし、時には騒動を巻き起こすこともあったようですが、状況としては、アメリカでの見聞を広めていた吉兵衛が、モダンで洗練されたデザインを前面に押し出して、岩谷の「天狗煙草」を凌駕していたようです。しかし、このような販売競争を繰り広げていたタバコ産業に、やがて、大きな転機が訪れることになります。それが、タバコの製造販売に対する国家の介入。当時、財政難に陥っていた明治政府が、こうしたタバコ販売の活況ぶりに、目をつけたのです。まず始めは、日清戦争が始まった頃のこと。新たに煙草税を導入しましたが、ただ、この税制は思ったようには機能せず、結局、税収効果を上げることが出来ませんでした。そうしたうちに、勃発したのが日露戦争。政府は、戦費調達の必要に迫られることとなり、タバコを国家専売制に切り替えることにより、この財源にあてようとしました。これにより、村井吉兵衛も岩谷松平も、煙草業からの撤退を余儀なくされることとなってしまいました。こうして、約30年続いてきたタバコ民営の時代が、終わりを告げることになります。それでも、吉兵衛は、この時、煙草専売制に切り替えるということで、国から莫大な額の補償金を受け取りました。吉兵衛は、その資金を元手に村井銀行を創設し、また、それ以外にも印刷・石鹸製造・カタン糸などと事業を広げていきました。村井財閥の成立です。しかし、それも、それほど長くは続きませんでした。大正15年に、吉兵衛が死去。その翌年には、昭和恐慌により村井銀行は破産し、村井財閥は崩壊してしまうことになります。京都・円山公園の隣に建つ、「長楽館」という西洋風の瀟洒な建物。今は、ホテルとなっていますが、元は、村井吉兵衛が国内外の賓客をもてなす迎賓館が必要だとして、私財を投じて建てたものでありました。レトロな「長楽館」の、その外観からは、かつての煙草王の華やかなりし生活のさまがうかがい知れるようにも思えます。もし、吉兵衛が、そのままタバコ業を続けられていたら・・・。村井吉兵衛の生涯も、そうした意味では、国策により翻弄された人生であったと言えるのだと思います。
2013年01月27日
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江戸時代は、300諸侯とも呼ばれる多くの藩が全国に存在し、その、それぞれが個性的な藩風土を生み出し、また、独自の政策を打ち出したりしていました。幕末期には、それらの諸藩が、討幕か佐幕かという選択を迫られる中、それぞれの諸藩において、いくつものドラマが生まれることになりました。今回取り上げるのは、そうした諸藩の一つ備中松山藩のこと。幕末の備中松山藩を主導したのは、藩主である板倉勝静(かつきよ)と執政を務めた山田方谷の二人であったのですが、この2人が協調して、後には確執を生みながらも、激動の幕末を乗り切っていくことになります。***かつての備中松山藩。その藩領の多くは、現在、岡山県の備中高梁市になっています。ここは、昨年の5月に、ブログのお友だち、楊ぱちさんにご案内頂き、訪れた場所です。訪ねてみると、山あいのとても静かな町で、しっとりと落ち着いた雰囲気のある城下町でありました。さて、まずは、板倉勝静のことです。板倉勝静が、備中松山藩の藩主になったのは、嘉永2年(1849年)のこと。とは言っても、勝静自身は備中の生まれではなくて、徳川の親藩・松平家から養子として備中松山に来た人でありました。父は陸奥白河や伊勢桑名の藩主を務めていた松平定永という人で、備中松山藩に嗣子がないということから、婿養子として備中に入り、その家督を継いで藩主となったのでありました。ところが、勝静が藩主に就任したころの備中松山藩というのが、極度な財政破綻により、危機的な状態に陥っていました。就任早々の勝静は、まず、この問題に直面し、藩立て直しの必要に迫られます。そこで、勝静が藩の財政改革を託すことにしたのが、藩に仕える儒学者・山田方谷という人でした。この方谷の生まれた山田家というのは、元々は武士だったとはいうものの、今は、農業や商いにより何とか生計を立てているという、町人同様の低い身分の家柄でありましたが、方谷自身は、儒学(陽明学)を本格的に学び、学者としてその頭角を現し始めていました。勝静は、そうした彼の能力に注目し、山田方谷を、一躍、藩改革の中心人物として抜擢します。方谷は藩元締・執政という役職に就くこととなり、やがて、藩政全般を取り仕切ることとなりました。ところで、方谷が取り組むことになった藩財政の状況とは・・・。そもそも、備中松山藩というのが、表高が5万石となっていたにも関わらず、実質の石高は2万石でしかなく、そうした中、返すあてもなく、借金を重ねているというような状態でした。そこで、方谷は、まず、藩財政の再建プランを立て、これを商人に見せ、説得することで、借金の棚上げ及び帳消しを依頼していきます。それとともに、地元の産品に備中の名を冠して、ブランド商品として売り出したり、新製品の開発に取り組んだりといった施策を、次々と打ち出していきました。中でも、特に力を入れたのが、「備中鍬」という農機具で、複数の刃を持つことにより、軽く、深く掘れるということから、これが、大ヒット商品となり、全国に普及していきました。これら、方谷の産業振興政策により、備中松山藩の財政状況は、数年のうち、瞬く間に好転していったのでありました。さらに、この頃には、学者・実践者としての方谷の名も高まっていき、越後長岡藩の河井継之助など、彼に教えを乞いたいといって、各地から方谷を訪ねてくるようにも、なっていきました。さて、一方の勝静です。備中松山藩の藩政改革を成功させたということが評価されたということもあり、勝静は幕府から要請を受け、幕政に参画するようになります。寺社奉行から、やがて老中へ。勝静は、やがて、幕閣の中心的な役割を任されるようになっていきます。そうした中、勝静は、方谷を江戸に呼び寄せ、自分の補佐役を務めさせようと考えるようになりました。備中松山から江戸へと、赴任していく方谷。しかし、江戸に出て、黒船来航以後の混乱の様子を見るや、方谷は、もう幕府の滅亡は避けられないところまできている、ということを察しました。方谷は、勝静に対して、幕閣での政務に力を注ぐより、まず、松山の領民のことを考えて欲しい、という旨を諫言します。しかし、それに対し勝静は、あくまでも、今の幕府の行く末のことを案じていました。それというのも、勝静自身、松平定信の孫にあたりまた、8代将軍吉宗の玄孫でもあるという徳川一族の生まれであったため、勝静としては、幕府を見捨てるというわけにはいかなかったのです。結局、方谷は、藩の内政に専念し、内治に関して全面的に責任を負うということを条件に、松山へと帰国していきました。このあたりから、勝静と方谷の目指す方向が、ずれ始めていきます。慶応2年(1866年)徳川慶喜が15代将軍に就任しました。勝静は、この慶喜からの厚い信任を得ることとなり、老中首座と同時に、会計総裁、軍事取扱などの重職を歴任します。文字通り、幕閣の中心となった勝静は、慶応の幕政改革にも取り組み、やがて、慶喜により行われた大政奉還においても、その中心的役割を担っていきます。ところが、鳥羽伏見の戦いに敗れたことで、幕府は崩壊。勝静は、江戸幕府最後の老中ということになってしまいました。その後、江戸城が無血開城されて、幕臣のほとんどが幕府を離れていく中、勝静は、なおも、幕府のために戦いを続けます。東北諸藩で結成された、奥羽越列藩同盟の参謀にも就任し。戊辰戦争の最終盤、箱館の五稜郭まで新政府軍との戦いを続けました。その一方、勝静が東北戦線の幕府軍に加わっているとの情報を得た新政府は備中松山を朝敵とみなし、岡山藩など周辺の大名に対して、備中松山を討伐するようにと命じます。急激な事の成り行きに対し、動揺する備中松山の人々。そうした中、留守を守っていた方谷は、新政府軍と戦うことよりもまず、松山の領民を救わないといけないと考えました。ここで、方谷は松山城を明け渡し、勝静を隠居させるという決断をするのです。・備中松山城を明け渡して開城すること・勝静を隠居させて新しい藩主を立てることこの2か条を新政府に伝えたのでした。それとともに、方谷は、藩士の一人を使者として箱館に向わせました。いまだ、戦いを続けている勝静を、無理やり江戸に連れ戻すためです。使者は、勝静に対し、新政府に降伏するよう迫ります。しかし、すでに、方谷が城を明け渡していて、養子・勝弼を新藩主に迎えているということを、ここで知った勝静は、ついに、やむなく新政府軍に降伏することとなりました。幕末の備中松山藩は、こうした苦渋の決断により、何とか藩を滅亡から回避させることが出来たのでした。維新の後。明治新政府は、方谷の才を高く評価し、新政府への出仕を求め続けました。しかし、領民を戦禍から救うためだったとはいえ、心ならずも独断で降伏をし、主君を隠居にまで追いやった方谷には、再び仕官しようとするつもりはありませんでした。その後の方谷は、新政府からの度重なる出仕要請を受けることなく、松山の地に残り、一民間教育者として閑谷学校を再興するなど、残りの生涯を弟子の育成に捧げることになりました。明治10年(1877年)に死去。享年73才。一方、晩年の勝静は、新政府から赦免されたのちも、上野東照宮の神官を勤めたり、第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立に携わったりと、様々な活動を続けていたそうです。明治22年(1889年)に死去。享年66才。 叶わぬこととは、わかっていながらも、幕府に対する義を貫き通した勝静と、領民のため、藩主を隠居させるという苦渋の決断を選んだ方谷。昨年、備中高梁を訪ねた時にも、様々なところに、勝静や方谷の書が掲げられているのを見て、この2人は、今でも、地元の人たちから愛され、尊敬されているんだなあ、ということを感じました。山田方谷の住居跡。今は、JR伯備線の「方谷駅」の駅舎となり、その駅舎内に住居跡の石碑が残されているのだそうです。この方谷駅という駅名になったのも、方谷のことを慕う地元の住民からの強力な運動があったためだったのだといい、JRの駅の中でも、人名がつけられている数少ない駅のひとつとなっています。
2013年01月06日
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新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。今年の元旦は、家族で京都まで初詣に行ってきました。向かった先は、京都祇園の八坂神社。四条通りは、多くの初詣客が行き交っていて、予想していた通りの、たいへんな人出でした。でも、京都へ初詣というのも、しばらくぶりで、人混みの中にも、やはり、華やぎと活気を感じますね。八坂神社の中も、多くの人でありましたが、参拝するのに、行列を作って順番を待つということはなく、比較的スムーズに拝殿まで進み、参拝を終えることが出来ました。八坂神社といえば、その祭神が素戔嗚命(スサノオノミコト)です。スサノオという神は、荒ぶる神の代表ともいわれるほどの、とても強い神様というのが、その印象。疫病が流行した時、それを押さえるために、八坂神社の神官がスサノオの力に頼り、これを鎮めようとしたことが祇園祭の起源であるとされていて、そうした面では、荒々しい神でありながらも、近しい存在になっているように思います。さらに、スサノオには、もう一つ意外な側面があります。それは、スサノオは歌の神であるということ。スサノオは、始めて和歌を詠んだ、和歌の始祖であると言われていて、和歌の神様でもあるのです。スサノオといえば、ヤマタノオロチを退治したという話が有名ですが、この時、オロチに食ベられそうになっていた少女・櫛名田比売(クシナダヒメ)を助けだし、その後、スサノオはクシナダヒメと結婚をします。この時に、スサノオが詠んだというのが、日本で初めての和歌なのでした。 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を八坂神社では、スサノオのこの故事に因み毎年、1月3日に「かるた始め」の祭典が行われています。八坂神社で参拝の後、その裏手にある円山公園に行きました。元旦は、快晴の天気にも恵まれ、清々しい年明けが迎えられたように思います。この一年が、穏やかな良い年になれば良いですね。 このブログとも、また今年一年、よろしくお付き合い頂けますよう、お願い申し上げます。
2013年01月02日
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「一年の計は元旦にあり」と言いますが、ここ数年、年の初めに、その年の自己目標を立てることにしています。仕事に関すること、家族に関すること、勉強する目標、ブログのこと等。それぞれから、何項目かづつを選んで目標を決め、今年、やりたいことを書き出していきます。目標は、全部で10項目にしています。一年間、それを意識しながら達成できるようにしていきたいと思い、最初のうちは、それで進めていくのですが、でも、最初のうちだけで、これがなかなか長続きしないのが現実です。途中で目標を立てていることすら忘れてしまっていたりとか、成り行きに流されてしまっていたりとか・・・。今年は特にうまくいかなかった年だったように思います。目標というのは、もちろん、立てるだけでは意味がない。そこで、今年は、年の初めの目標を自己採点してみることにしました。◎:達成できた(3点)○:ほぼ達成できた(2点)△:努力したが及ばなかった(1点)×:全くできなかった(0点)10項目ありますから、全部達成できれば30点になるはずですが、その基準で採点してみると、その結果は、なんと11点。目標を立てた時には、ある程度できそうだとか、これはしておかないといけないということで、決めているはずなんですが、やはり、思うようにいかなかった一年であったということが、ここにも表れています。来年は、せめて何とか、20点以上の点数がつけられるよう、頑張りたいな、と思っています。この一年は、皆さんにとって、どんな年だったでしょうか。来る2013年が、皆さんにとって、素晴らしい一年となりますよう、お祈りいたします。
2012年12月29日
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伏見区上鳥羽の浄善寺というお寺には、「恋塚」と呼ばれる石塔が残されています。「恋塚」とは、何ともロマンチックな言葉の響き・・・。この「恋塚」には、遠藤盛遠(後の文覚上人)と袈裟御前の恋物語が伝えられているのですが、しかし、それは、そのロマンチックなネーミングとはうらはらに、悲しくも、そして、残酷でさえある、恋のお話なのでありました。今回は、この「恋塚」にまつわるお話について、まとめてみたいと思います。*****平安時代の末、院の警護にあたる北面の武士に、遠藤盛遠という男がいました。年若く血気盛んな、気性の激しい男でありましたが、ある日、一人の女性を見染めます。その名は、袈裟御前。やがて、盛遠は、その女性が実は自分のいとこであり、しかも、今は、同僚である渡辺渡に嫁いでいるということを知ります。永らく会わないうちに、こんなに美しい女性になって、それが、渡の妻になっているとは・・・。盛遠の袈裟に対する恋慕の思いは、日に日に高まっていきます。そうした中、やがて、盛遠は袈裟の家に乗り込んでいき、袈裟の母に対して刀をつきつけ「渡と縁を切れ」と迫ったりするようにまでなっていきます。盛遠からの強引な求愛に対し、思い悩む袈裟御前。そして、悩んだ末に袈裟は、ついに、ある決断をします。「今夜、寝静まった頃、寝所に押し入って、私の夫を殺してください。」段取りをつけ、夫を寝かせておくようにしておきますから・・・。ついに思いが通じたと、喜ぶ盛遠。袈裟に教えられた通りに、渡の部屋に忍び込んで、ひと思いに刀を振り下ろし、その首をはねます。しかし、その次の瞬間、盛遠は、自分がとんでもない過ちをおかしてしまったことに気づきました。自分がはねたのは、なんと、渡ではなく、愛する袈裟の首。そうです。袈裟は、母と夫を守るため、その身代りとして、渡の寝所に入っていたのでありました。己の罪深さを思い知った盛遠は、強い悔悟の念におそわれ、髪をまるめて、出家することとなりました。*****その後の盛遠は、文覚と名乗り、修行のため全国を行脚してまわりました。やがて、都に戻った文覚は、当時荒廃していた神護寺や東寺などの諸寺を次々に再興。後白河法皇からも信頼されるほどの名僧となっていきます。また、当時、伊豆で流罪生活を送っていた頼朝に対し、挙兵を促したということでも、その名を歴史に残すことになりました。「恋塚」のある浄善寺です。この寺は、寿永元年(1182年)袈裟御前の菩提を弔うため文覚上人により建立されたものと伝えられています。実際に行ってみると、きれいに清められ整えられている、気持ちの良いお寺でありました。袈裟御前の首を埋めたと伝えられている「恋塚」。この五輪塔には、きっと、毎日花が手向けられているのでしょうね。この悲しい物語に対し、多くの人が、これまで袈裟の供養を続けてきているようです。文覚上人の供養の思いも、袈裟には通じているのでしょうか。今も、浄善寺と「恋塚」は、何気ない住宅地の中に、ひっそりと佇んでいます。
2012年12月16日
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一昨年、京都検定(2級)を受験してから、このかた、合間を見ては京都に関する歴史・寺社、様々な事柄を調べています。この数年は、それがあたかもライフワークのようになっている感さえあります。昨年は、受験することが出来なかったのですが、いよいよ今年は1級に挑戦。この受験勉強に専念するため、ブログの方もすっかりサボり気味になっていて、皆さんのところへも、ほとんど訪問できていなくて、申し訳ございません。ところで、この京都検定というのは、京都の歴史、文化、祭り、芸能、生活、など、京都に関する事柄全般が出題対象。京都通であることを認定する試験といったような内容でありますが、その合格者に与えられる特典が魅力で受けているようなものです。 そこでは、どんな問題が出題されるのか。その雰囲気を感じてもらえるような問題を、いくつか選んでみました。3級の過去問ですが、それほど難しくないはず。もし、良ければ挑戦してみて下さい。*****Q1 延暦13年(794年)、桓武天皇は( )から、平安京に新しい都を遷した。 ア)平城京 イ)藤原京 ウ)難波京 エ)長岡京Q2 京町家は間口が狭く奥行きが深いところに特徴があるが、 それを( )の寝床と表現されている。 ア)鰻 イ)鱧 ウ)鰊 エ)鱈Q3 二条城は、( )が征夷大将軍の宣下を受けるために居館として築かれたものである。 ア)前田利家 イ)徳川家康 ウ)豊臣秀吉 エ)織田信長Q4 京都で、祇園祭の時には食べないとされているものは、次のどれか ア)ナス イ)キュウリ ウ)タマネギ エ)トマトQ5 世界最大級の木造建築と云われている建物があるのは、次のどの寺院か ア)清水寺 イ)知恩院 ウ)東本願寺 エ)三十三間堂( 正解は後述 )*****2級・3級は、このような4択問題ですが、1級になると選択式でなく、記述式になります。公式テキスト以外からの出題も多く、内容もかなり高度になりますし、漢字も正確に書けなければいけません。合格ラインは80%以上、150点満点ですから、120点が必要です。しかも、その中には小論文の問題もあって、その配点が30点。ということは、仮に、小論文の採点を全く期待しないとすると、全問正解が必要!?合格率は、毎回、1割前後ということのようですから、かなりの難関です。とても、合格できそうにも思えませんが、こうした勉強をしていること自体が、楽しくもあります。試験日は、12月9日(日)。どんな結果になりますことやら・・・。ちなみに、さっきの問題の正解です。Q1:エ 奈良・平城京からの遷都を決意した桓武天皇は、まず、長岡京に都を遷しましたが、結局うまくいかず、そこから平安京へと、再度、遷都しました。Q2:ア京町屋は、細くて長いという建物の造りから、鰻の寝床と形容されています。Q3:イ二条城を築いた人は、徳川家康です。Q4:イキュウリを切った断面の形が、八坂神社の神紋に似ているということが、その理由のようです。Q5:ウ面積・容積とも最大の木造建築は、東本願寺の御影堂。ちなみに、第2位は東大寺の大仏殿なのだそうです。
2012年11月25日
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畳が一面に敷きつめられた部屋。床の間には、掛け軸や花器などが飾られ、部屋は、障子やふすまにより仕切られている・・・。日本では一般的な、和室の部屋でありますが、こうした居住空間が生まれてきたのは室町時代の頃のこと。この住宅様式は、出現してきた当初、書院造りと呼ばれ、そうした部屋の中から、茶の湯や生け花など、様々な日本の伝統文化が生まれてきました。銀閣寺というお寺は、こうした書院造りの原初の姿を、そのままに、今に伝えている寺院でもあります。京都を代表する観光地として、あまりにも有名な銀閣寺。その正式名称は「慈照寺」といい、平成7年には世界遺産にも登録されています。銀閣寺を代表する建物が、国宝の銀閣。金閣・銀閣と並び称されることが多い、この銀閣ですが、金閣の方は、金箔が一面に貼られていて、絢爛豪華な印象であるのに対し、こちら銀閣は、しっとりとした渋めの建物になっています。この銀閣にも、元々は、銀箔が貼られていたのかというと、そういうわけでもなくて、創建の当初は、一面に黒漆が塗られていたのだそうです。この銀閣の正式名称は「観音殿」。二層のうちの、一階部分は「心空殿」、二階の部分は「潮音閣」と、それぞれの層にも、名前がつけられています。一階は書院造り風の住居、二階は観音像が安置されている仏殿になっているのだそうです。銀閣の前庭には、ちょっと不思議な砂の造形が広がります。帯状の砂紋になっているのが銀沙灘、その後方にある、円錐を切り取ったような形の盛り砂は、向月台といいます。これらは、江戸時代に銀閣寺が改修された時に作られたということなのですが、その作られた経緯や目的などについては、良くわかっていないのだそうです。銀閣寺の庭園もまた素晴らしいです。錦鏡池という池ごしに、銀閣を望みながら、池の周囲の遊歩道を進んでいきます。木々や花々に目をやりながら、さらに小高い丘を登っていくと、そこにも、もう一つの庭があります。山麓にあるこちらの庭園は、昭和になって発掘・再現されたものなのだそうで、室町の頃の面影を残している庭であると言われています。これらの庭園は、国の特別名勝に指定されています。ところで、銀閣寺というのは、元々、室町の8代将軍・足利義政の築いた山荘・東山殿があったところ。義政は、祖父である義満が築いた北山殿(金閣)への思い入れが強く、また、彼自身、政治から離れて隠棲することを望んでいて、そのための、山荘をぜひ造営したいと考えていました。しかし、義政には、嗣子となる男子がいなかったため、後継者を弟の義視に定め、退位する準備を進めていきます。そして、その一方で、庭園や山荘などの設計についても、自らの手により取り掛かろうとしていました。ところが、そうした折、妻の日野富子に男の子(義尚)が生まれます。そこから、こじれ始めたのが義政の後継者問題。結局、この後継者争いは、山名宗全と細川勝元の間の戦いへと発展し、ここから10年にも及ぶ長い戦乱が続いていくことになります。これが、世にいう「応仁の乱」。この戦いにより、政治は大きく混乱し、京都の町は焦土と化しました。義政の念願であった山荘造営の計画も、あえなく頓挫します。しかし、それでも義政は、山荘造営に対する夢をあきらめていませんでした。応仁の乱が鎮静化し始めると、義政は実子・義尚に将軍職を譲り、ついに念願だった退位を果たし、再び、山荘造営にとりかかっていきます。こうして、8年の歳月をかけ、完成したのが東山殿なのでありました。池をめぐる庭園と、12を数える亭舎が山上や庭園内にかけて配置されていたという東山殿。この東山殿には、文化人や公家・禅僧などが集い、いわば、義政の芸術サロンのようなものになっていきました。そして、こうした中から、和室の文化や、日本の伝統文化が生まれてくることになるのです。銀閣寺の堂宇のひとつ、国宝・東求堂です。義政の築いた東山殿。その当時の建物のうちで、今に残っているのが、銀閣(観音殿)とこの東求堂。もともと、この東求堂というのは、義政の持仏堂であり、また、彼の書斎でもあった建物でありました。通常は、非公開なのでありますが、訪れたこの日は、たまたま特別公開の日にあたっていて、その内部を拝観することができました。東求堂の中の一室、「同仁斎」と名付けられている部屋です。義政が書斎として使っていた部屋であり、また、ここに様々な人が集まることにより、義政の芸術サロンともなっていたとされている部屋であります。この「同仁斎」が、現存する最古の書院造りの部屋。今で言う、床の間にあたるものの原初の形が、そのまま残されていて、義政は、ここに美術品・工芸品の数々を飾っていたのだといいます。床板のように見えているのが、実は、これが備え付けの文机。「附書院」と呼ばれているもので、このあたりも原初の床の間という感じがします。この部屋の広さは四畳半。これが四畳半間取りの発祥であるとされていて、この半畳のたたみというのが、ここに、炉を置き、茶をたてるためのスぺ―スとして、義政が工夫したものなのでありました。この部屋を訪れた客人に対して、義政が、茶をたて、花を賞で、香をたてたことが、茶道・華道・香道の源流になっていったとされているのであります。和室の部屋の原初の姿をとどめ、和文化発祥の場所でもあった、この東求堂・同仁斎。これこそ、義政の研ぎ澄まされた美意識から生み出されたものであり、わび・さびといった日本文化が発展していく元になったものなのでありました。義政という人。政治家としては、戦乱と混乱の時代をもたらし、そうした面では、全くの失格者と言わざるをえない人だったわけですが、しかし、その反面、美の求道者、具現者としては、卓越した感性を持った人でありました。今日の日本文化という意味でいえば、大きな影響を後世に残したと人ということが言えるのだと思います。和文化の源流の姿を、今にとどめる、この銀閣寺。とても貴重な文化遺産であると思いますが、しかし、また、そこからは、文化と世俗社会という両面において、その光と影が、垣間見えてくるようにも思えます。
2012年11月10日
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明治の哲学者たちが、思索にふけりながら散策したという哲学の道。清流の音しか聞こえない。往時は、本当に何もない静かな小道で、考え事を深めるには、さぞ、最適の散歩道であったであろうことが偲ばれます。哲学の道の傍らを流れるのは、琵琶湖疏水の支流。海運や発電により、京都の近代化を推し進めた琵琶湖疏水ではありますが、その流れも、このあたりまでくると、実用面よりも、しっとりとした風情を感じさせます。ここが、今のような遊歩道として整備されたのは、昭和45年のこと。日本の道100選にも選ばれているという、代表的な散歩道であり、また、この周辺は、いくつもの名刹や古社が点在している地域でもあります。先日は、この哲学の道に沿い、周辺の寺社のいくつかを訪ねてみました。哲学の道の南の出発点は、若王子橋。ここから、北端の銀閣寺橋へと向けて歩いていきます。この若王子橋のたもとに建っているのが、「熊野若王子神社」。後白河法皇が、紀伊から熊野権現を勧進して建立したという古社であります。歴代の足利将軍からも崇敬を集めた神社であったということで、足利義政は、ここで盛大な花見の会を開いたと伝えられています。その後の応仁の乱で社殿が焼失。現在の社殿は、豊臣秀吉により再建されたものなのだそうです。こちらの神社は、「大豊神社」。平安中期、宇多天皇の病気回復を願って建立されたという由緒を持つ神社です。この大豊神社は、椿や紫陽花の名所としても知られているところですが、何と言っても、ここでの必見は、摂社・大黒社の狛鼠。鼠が大国主命を助けたという故事に因んだもので、狛犬の代わりに狛鼠が祠の両脇に鎮座しています。この境内には、狛鼠の他にも、狛猿や狛鳶などの姿もあり、ここは、色々な狛動物たちが勢ぞろいしているさまが楽しめる神社でもあります。哲学の道に戻ってきました。この哲学の道。元々は、何もなかったはずではありますが、今や、休日の日中ともなると、多くの観光客で賑わいます。道沿いには、飲食店や雑貨屋さんなどの店もあり、かつての思索の道も、今では、すっかり観光の道になっています。哲学の道を離れ、また、寺社めぐりを続けます。こちらは、後水尾天皇の皇女が開いたとされる「霊鑑寺」。代々、皇女が住持を務めていたというお寺で、またの名を「谷の御所」とも呼ばれる尼門跡寺院であります。ただ、この寺院が拝観できるのは、春秋に行われる特別公開の時のみで、訪れたこの日は、拝観することが出来ませんでした。こちらは、浄土宗の名刹「安楽寺」。後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫の哀しい物語が伝わる寺で、「松虫鈴虫寺」とも呼ばれています。この寺も、通常は非公開なのですが、たまたま、この日は公開の時期にあたっていて、内部を拝観することが出来ました。この松虫・鈴虫にまつわる話というのは、鎌倉仏教の歴史において、大きなエポックとなった事件。少し、その概要に触れてみます。***後鳥羽上皇は、松虫・鈴虫という2人の女官を、ことの外、寵愛していましたが、この2人が、いつしか浄土宗の教えに魅せられて、ある日、御所を抜け出し「安楽寺」で行われていた念仏法会に参加します。この法会を主催していたのが、安楽と住蓮という2人の僧。この松虫と鈴虫2人のひたむきさに打たれた安楽と住蓮は、松虫と鈴虫の剃髪を行い、出家を認めます。寵愛する女官が、2人して出家。このことを知った後鳥羽上皇は激怒し、安楽と住蓮の2人を捕えて処刑してしまいました。さらに、それでも怒りがおさまらない上皇は、念仏の停止令を発し、また、2人の師である法然とその主だった弟子たちまでも、僧籍をはく奪し、流刑に処しました。これにより、法然は讃岐国へ、その弟子であった親鸞も越後国へと配流されることとなりました。***法難にもめげず、信仰を貫き通した安楽と住蓮。ここ「安楽寺」は、そうした歴史を伝えている古刹なのであります。一方、こちらも法然上人にゆかりの寺。法然が、念仏道場として開いた「法然院」というお寺です。木々に包まれた境内で、滝からの流れが、池に注ぎ込まれています。深い森の中といった感じがして、とても雰囲気の良いお寺であります。また、ここは、谷崎潤一郎や河上肇など、著名な学者や文人のお墓が多いということでも知られています。さて、「法然院」から再び、哲学の道に戻ってきました。「法然院」へ向かう分岐点の近くにあるのが、哲学の道を象徴する、この石碑です。そこに刻まれているのは、かつて、この道を散策していたとされる明治の哲学者・西田幾多郎の歌。「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」 独立自尊の精神というのは、明治人の特徴なのでしょうか。しかし、ただそれだけではなく、この歌からは、孤高の哲学者が味わっていた、孤独な悲哀のようなものも、感じられるように思います。北の終着点、銀閣寺橋につきました。この哲学の道というのは、1.6kmの距離なのだそうですが、寄り道をしながら歩いたせいもあるのか、とても凝縮された時間であったように感じられました。この後は、銀閣寺へと向かったのですが、続きは、また次回です。
2012年10月28日
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幕末の活動家、清河八郎は、稀代の策士と形容するのがふさわしい。清河八郎という人は、一介の浪士ではありながらも、京における尊王攘夷熱の高まりを演出し、また、新選組が結成される、その基を作った人でもあります。頭脳明晰にして、弁舌に長け、剣術においても一級の達人。当時においても、傑出した才を備えた人物であったであろうと思われます。しかも、彼の特徴的だったところは、何の組織にも頼ろうとせずに、独力で事を成そうとしていたこと。そのために彼は、人脈を駆使し、弁舌をあやつり、策を弄すことによって、目的の実現を図りました。それでも、彼の持つ構想力・企画力には、多くの人をひきつける力があったことから、結局、彼の行動が幕末の一局面を動かしていくことになります。今回のお話は、そうした清河八郎の生涯について。以下で、振り返っていきたいと思います。***清河八郎が生まれたのは、天保元年(1830年)。出羽の国清川村(今の山形県東田川郡)の富豪の家の長男として生まれました。本名は斎藤元司といい、清河八郎という名は、後年、彼が付けたペンネームであります。八郎の家は、地元の名家であったために、文人や知識人などが逗留していくことが多く、中でも、後に天誅組の総裁となる幕末の志士・藤本鉄石からの感化を強く受けて、次第に時勢に目覚めていったといいます。八郎、17才の時。修学のため江戸へと上ります。しかし、この江戸行きというのは、半ば家出同然の離郷でありました。八郎に家督を継がせたいと思っていた父は、この江戸行きには絶対反対で、勘当するとまで言われていたのを振り切って、強引に江戸に出てきたのでありました。江戸では、幕府の学問所であった昌平黌に入学することが叶い、また、剣術についても、当時一流とされていた千葉周作の道場に入門します。この時期、八郎はめきめきと頭角を現しはじめ、塾頭になることを要請されるほどになります。しかし、八郎はこの塾頭就任の依頼を受けようとはせず、自らの塾を立ち上げました。これが神田駿河台の清河塾で、八郎はこの塾で、学問と剣術の両方の教授を始めます。当時、江戸でも、こうした文武の双方を教授する塾というのは、極めて珍しく、おそらく、清河塾が始めてのものだったのだろうと思われます。ところで、この時期、時代が大きく動き始めています。黒船来航によるアメリカの開国要求に始まり、将軍継嗣争い、日米通商条約の締結、そして安政の大獄。そうした情勢の中、八郎も攘夷活動に傾倒し始め、清河塾にも、様々な憂国の士が集まってきて、清河塾も、いつしか尊王攘夷家たちの集会所のようなものに変質していきました。この頃の八郎は、薩摩藩士や水戸藩士の有志などからなる「虎尾の会」という結社を組織し、井伊大老襲撃に合わせて挙兵する計画に加わったり、異人館を焼き打ちする準備を進めたりしています。しかし、やがて、八郎らの動きは幕府の捕吏から目をつけられることとなりました。そうした中、起こったのが、八郎が捕吏を斬り捨てるという事件。これは、相手が捕吏であるとは知らず、酒の席で起こした事件ではありましたが、これにより、八郎は全国に手配され、逃亡生活を余儀なくされることになります。北関東から東北へ、知り合いや、つてを訪ねて潜行を続ける八郎。しかし、そんな八郎が仙台に留まっていた時、耳寄りな情報が八郎の元に入ってきました。それは、同志の一人に、公家の中山大納言と姻戚にあたるという人がいて、中山大納言を紹介してもらえるという話。この話を聞いた八郎の頭の中には、たちまち一つの構想が浮かんできました。この大納言を通じて、朝廷から密書を出してもらい、九州から関東まで、激を飛ばし、義兵を募り、京都で義挙を上げようという計画。八郎は、この計画を同志に語らい、賛同する有志を集めて、さっそく行動に移ります。京都、そして九州へと向かう八郎。九州では、筑前の平野国臣や久留米の真木和泉といった尊攘派の名士たちと会って雄弁をふるい、彼の計画への賛同を取りつけていきました。もう一つ、九州には尊攘派の大藩・薩摩があります。ここで、さらに八郎の元へ、薩摩の藩侯・島津久光が兵を率いて上京してくるという情報が入ってきました。これは絶好の好機と考えた八郎。この島津久光の引兵上京というのは、実は、八郎が目指しているような尊王攘夷実現のための挙兵などではなく、幕府に改革を迫り、薩摩が政局の主導権を握ろうとしていたものなのでありますが、八郎は、この久光の京都入りのことを、尊王攘夷の実を上げるため、ついに薩摩が動いたと、各地に宣伝してまわったのです。この八郎の喧伝活動により、長州から、土佐から、そして薩摩からも。尊王攘夷を唱えるものたちが、続々と京都に集まってきます。あっという間に京の町は、尊王攘夷派に占拠されたような形になっていきました。そして、そうした中、いよいよ久光が京に到着します。しかし、この状況を見た久光は愕然としました。久光という人は、元々、こうした過激な行動というのが嫌いな人で、しかも、その中に、多くの薩摩藩士が入っているということに、久光は激怒します。「あの不逞な輩を処分せよ。」久光は家臣に対して上意討ちを命じ、尊攘派の薩摩藩士が集結している、伏見・寺田屋へと向かわせます。そこで、繰り広げられた薩摩藩士同士の壮絶な闘い。これが世にいう「寺田屋事件」です。これにより、薩摩の有力な攘夷家たちが討死することとなり、久光は、そうした京での粛清を終えたのち、江戸へと向かって行きました。しかし、久光が去ったのちの京の町は、尊王攘夷派の勢いが、さらに盛んになっていきました。「寺田屋事件」は、尊王攘夷派に対して、火に油を注いだような形となり、八郎が企画した行動が、きっかけとなって、時勢が大きく動いて行くことになったのでありました。それから、数年後・・・。八郎は、また、新たな企画を構想し始めていました。それが、「浪士組」の結成です。当時の幕府は、京の尊王攘夷派の画策により、将軍・家茂が京に上洛しないといけないことになっていました。ところが、この頃の京都というのが、尊王攘夷派による天誅や暗殺事件が頻発していて、とても物騒な情勢。そうしたところへ、将軍が出向いて行かないといけないということに、幕府も頭を痛めていました。そこで、八郎が思いついたのが、将軍を警護するための「浪士組」を結成しようということ。八郎は「虎尾の会」の頃に同志であったという関係から、山岡鉄太郎(鉄舟)や松平主税介など、数名の幕臣とも懇意な仲であり、このつてを通じて、「将軍警護のための浪士組結成」の建白書を幕府に提出します。そして、これが幕府に認可されることとなり、広く一般から隊士が募集されることとなりました。募集に応じて、色々な立場の浪人たちが、続々と集まってきます。この中には、多摩の道場をたたんで応募してきた近藤勇・土方歳三たちがおり、水戸藩の浪士・芹沢鴨らがいました。結局、230名を超える数の浪士たちが集められ、将軍上洛の先駆けとして京へと向かうことになります。京都に到着した「浪士組」は、壬生に入り、分かれて分宿することになりました。それにしても、元々、尊王攘夷派であったはずの八郎が、何故、将軍警護のための「浪士組」を結成したのでしょうか。実は、八郎は、これを口実にして隊を結成し、この隊を尊王攘夷を行うための勢力にしようと思っていたのです。京に入った八郎は、壬生の新徳寺に「浪士組」の面々を集め、趣旨説明を行います。「われわれが、将軍上洛の先駆けとして京に来たのは、 将軍が、尊王攘夷の実を貫くということであったからであるが、 幕府からの禄位を受ける気は全くない。 尊攘の大義を尽くすことこそが、われわれの素志である。」八郎は、そう述べて、さらに、朝廷から「攘夷の実効を奏せよ」とする勅書をもらっていることを明らかにします。これを聞いた、幕府の関係者は、びっくり仰天。どのように、これに対応するか、幕府側でも処置を検討しました。その結果、出された命令が、八郎ら「浪士組」は江戸に戻ってくるようにというもの。名目は、生麦事件の後処理が紛糾して、英国が、江戸に軍艦を差し向けると言ってきているので、江戸の方が危ないので戻ってこい、ということでした。八郎も、これには従わざるを得ず、隊をまとめて、渋々、江戸へと戻ります。しかし、この時、「われわれは、将軍上洛の警護をするために、京に来たのであり、江戸に戻らず、このまま任務を全うする。」と主張し、京都に残った一団がありました。それが、多摩から来た近藤勇の一派と、水戸・芹沢鴨の一派であり、このグループが、後に「新選組」へと発展していくことになるのです。***清河八郎という人は、自己を恃むところがあまりにも強く、かなりの自信家でもあり、それだけに、人に頭を下げることを嫌い、いかなる組織にも頼ろうとしませんでした。それでありながらも、権勢を望もうとする時、おのずと策を弄するしか方法がありません。結局、彼は、そうしたことにより、人から警戒心を持って見られ、哀れな末路をたどることになります。江戸、麻布一の橋。藩邸に知り合いを訪ねた帰り道、八郎は、突如、数名の武士に斬りつけられます。八郎を殺害したのは、後に「見廻組」を組織し、坂本龍馬の暗殺にも関与したとされる佐々木只三郎。八郎を危険人物とみなし、これを亡きものにしようとした幕府が送った刺客なのでありました。八郎とて、国を憂い、志を持って、この国難にあたろうとしていた1人であったはず。しかし、その性格ゆえ、そのような生き方しか出来なかった。そうした不幸な生涯だったということなのかも知れません。
2012年10月05日
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庭を流れるせせらぎのほとり。平安貴族の華麗な装束に身を包んだ人たちが集い、順に和歌を読んでいく。「曲水の宴」は、王朝時代の雅な宴の様子を再現した行事で、和歌を詠むのにも、ルールがあって、流れてくる盃が、自分の前を通り過ぎるまでに和歌を詠まなければならず、流れてきた盃の酒を飲み終えたら、次の人へと、盃を流していきます。京都・鳥羽にある「城南宮」は、そうした「曲水の宴」の催しが行われているということでも知られている神社です。「城南宮」があるのは、名神高速・京都南インターのすぐ近く。この一帯は、京都市街への出入口ともなっている交通の要所で、絶えず、多くの車やトラックが行き交っているところです。今は、とても、風情があるとは言えない町並みなのでありますが、しかし、この付近は、平安の昔には白河法皇が「鳥羽離宮」という宮殿を営んでいた場所であり、近くの川沿いには、大坂からの船着き場もあって、かつては、京への入口として繁栄していた地域でもありました。それだけに、このあたりは、度々、歴史の舞台にもなっていて、数々の史跡も残されています。殺伐としているようでいて、歴史のロマンが漂っている・・・。そうしたアンバランスさの中に、不思議な魅力がある「城南宮」の界隈を、先日、歩いてみました。まずは、「城南宮」です。「城南宮」というのは、平安遷都の頃には、既にここにあったといいますから、かなり古くからの由緒を持った神社です。平安遷都の時には、ここが都の南の守護神であると定められたのだといいます。祭神は、国常立尊・八千矛神・神宮皇后の三柱。平安時代末には、白河法皇により、このあたり一帯に「鳥羽離宮」が造営され、「城南宮」は、その祭祀を司る場所として、さらに崇敬されるようになったといいます。流鏑馬や競馬などという神事の場として、曲水の宴のような遊興の場として、この頃の「城南宮」は、様々な宮中の催しの中心になっていました。そうした、平安朝の頃の栄華のあと。でも、今も、この神社に詣でる人は多いようです。元々、ここが、都の南の守護神であったということから方除けの神社として親しまれてきており、また、平安期、さかんに行われていた熊野詣に出掛ける時には、ここでお祓いをしてもらってから出立したという故事が伝えられていることから、旅行・交通安全の神様としても、信仰されているようです。一方、こちらは「安楽寿院」というお寺。「城南宮」から東に、5分ほど歩いたところにあります。ここも、かつては「鳥羽離宮」があったところで、鳥羽法皇により、往時はここに御堂が建立されていたといい、その跡が、今は寺院となっています。「鳥羽離宮」というのは、かつて、白河法皇・鳥羽法皇による院政の舞台となっていたところ。「安楽寿院」の境内には、「院政の地」と刻まれた石碑も建てられていました。「安楽寿院」のある、このあたりには、天皇陵も点在しています。鳥羽上皇が、愛妃・美福門院のために建てたという多宝塔。上皇の死後、近衛天皇がここに改葬され、今は、近衛天皇陵となっています。「安楽寿院」に隣接する静かな御陵、鳥羽天皇陵です。こちらは、白河天皇陵。京阪国道という広い道路に面していて、うっかり見過ごしてしまいそう。あれ、こんなところに天皇陵が、という感じです。一方、「城南宮」の西側の周囲も歩いてみました。そこには、「鳥羽離宮公園」が広がっています。こうして歩いてみると、鳥羽離宮というのが、いかに広大な宮殿だったのか、ということが、よくわかります。この「鳥羽離宮公園」では、現在、色々な発掘調査が進められていて、庭園の跡、礎石、宮殿の縄張りの跡などが見つかっていると、公園内の説明板には、そうしたことが書かれていました。でも、この鳥羽離宮公園。その佇まいは、至って日常的です。全くの市民公園という感じで、この日はここで少年チームが野球の練習をしていました。鳥羽離宮公園の西には、堤があり、川が流れています。この川の流れは、鴨川です。かつては、このあたりに、京と大坂を結ぶ船着き場があり、重要な拠点として、往時は、かなり賑わっていたところだったのだろうと思います。お椀の舟に乗って、京の都にたどりついた・・・という「一寸法師」のお話。このあたりは、そうした「一寸法師」伝説が伝わっている地域でもあります。この川の堤には、もうひとつ、歴史が残されています。写真の橋は、小枝橋という橋で、今では、すっかり近代的な橋になっていますが、幕末の頃には、木で作られた小さな橋でありました。慶応4年、1月3日。徳川家の領地返納を強行採決されたことに、不満を持つ会津・桑名等の幕府勢は、京に向け、兵を進めていました。その幕府軍が、小枝橋を渡ろうとしたところを、薩摩の藩兵がこれを阻止したことから談判となり、そこへ、薩摩軍が大砲を発砲したことにより、戦闘が始まりました。鳥羽伏見の戦いです。進軍してくる幕府軍に備えて、陣を敷き、待ち構えていた官軍勢。この時、薩摩軍は安楽寿院に本営を置き、長州勢は城南宮に陣を張っていたのだといいます。鳥羽伏見の戦いの激戦地であった、この鴨川堤。その戦いの跡を示すものとして、この堤には、「鳥羽伏見の戦い勃発の地」と記された石碑が建てられていました。栄華の跡も、激戦の跡も、様々な歴史を刻み続けてきた、この城南宮の周辺。今では、何もなかったかのように流れる鴨川の流れにさえ、時の移ろいの遠大さが感じられる。ここは、そうした感慨を抱かせる、そんな場所のように思いました。
2012年09月17日
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宇治・黄檗にある萬福寺。隠元禅師が開いた黄檗宗の禅宗寺院であります。隠元禅師という人は、江戸初期に、明末の中国から日本にやってきた中国僧で、明朝風の禅の様式を日本に伝え、当時の仏教に新風を吹き込んだ人であると云われています。禅宗とはいっても、既に日本で根付いていた臨済宗や曹洞宗が、日本化し独自の発展を遂げていたのに対して、この黄檗宗は、純粋な中国風の禅宗をそのまま伝えています。それだけあって、この萬福寺は隅々に至るまで、中国風にしつらえられていて、とてもエキゾチックな寺院になっています。寺の入口が、この総門。「不許葷酒入山門」という石碑が目につきますね。これは、葷酒(酒やくさいにおいを放つ野菜)を寺の中へ持ち込んではならないという意味なのだそうです。これらは修行の妨げになるということなのでしょう。禅宗寺院では、この文字が書かれているのをたまに見かけますね。総門をくぐって、しばらく行くと眼前に大きな門がそびえます。萬福寺の山門です。山門から中に入ると、さすが、ここが黄檗宗の総本山というだけあって、かなり、ゆったりと、広々とした境内が広がっています。正面に建つ、まず最初の建物が天王殿。日本の寺院で、天王殿という建物は見かけることがないですが、これも中国独特のもので、寺院の玄関にあたるもの。中国の寺院では、一般的なものなのだそうです。この天王殿に祀られているのが、萬福寺のトレードマークとも言える布袋の像。布袋さんというのは、弥勒菩薩の化身であるとされているそうですね。でも、そのユーモラスな姿からして、ちょっと意外です。そして、この天王殿の後に、大雄宝殿・法堂といった伽藍が続きます。大雄宝殿という建物が、この寺の本尊である釈迦如来が祀られているところ。日本の寺院でいうところの、本堂にあたります。一方、法堂の建物は、卍くずしという、意匠を凝らした勾欄が印象的です。法堂から望む大雄宝殿です。この眺めも、どことなく絵になりますね。この大雄宝殿の南側、斎堂と呼ばれている、僧侶が食事をするための建物が建てられています。その前に吊るされているのが、木製の大きな魚。これは、開版と呼ばれているもので、時を報せるための法具なのだそうです。これが木魚の原型になった、とも云われているもので、木魚を日本に伝えたのも、隠元禅師だったのだといいます。隠元禅師が日本にもたらしたものというのは、他にもいくつかあるようですね。その代表的なものが、隠元豆。天王殿の入口近くにも、隠元豆が植えられていました。他に、スイカ、レンコン、タケノコなども、隠元禅師により、日本に伝えられたものなのだそうです。もうひとつ、隠元禅師といえば、煎茶道の開祖という側面もあります。煎茶道というのは、煎茶や玉露を飲みながら歓談するということを本旨としている茶道の流派。抹茶を用いた従来の茶道というのが、どうしても作法にとらわれがちであったのに対して、形式にとらわれず、煎茶を飲みながら清談を交わすということに主眼がおかれていて、江戸時代以降、主に文人の間で、人気を集めたのだそうです。隠元禅師が始めた煎茶道は、その後、これも萬福寺の僧侶であった高遊外という人により大成されていくことになり、さらに、広く一般に普及していくこととなりました。萬福寺の境内には、売茶翁と呼ばれた高遊外を記念して、売茶堂という建物も建てられています。萬福寺の佇まい、色々なところが、本当に中国風です。萬福寺山門の傍らに、とある句碑が建てられています。そこに刻まれているのが、江戸後期の女流俳人・菊舎尼という人が詠んだ俳句です。山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄萬福寺を参詣した折に、純中国風の雰囲気の境内から、一歩、山門を出ると、そこからは、茶摘み唄が聞こえてきて、ふと我に返った。ここは日本・・・。そうなんですね。ここは、まさに別世界。萬福寺というところは、えもいわれぬほどに異国情緒があふれている、そんなお寺でありました。
2012年08月26日
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宇治の平等院・鳳凰堂。十円硬貨の図柄になっているということでも、有名ですね。でも、この鳳凰堂、十円硬貨だけではなく、一万円札の図柄としても使われています。裏面に印刷されている鳳凰の姿。これが、鳳凰堂の屋根につけられている鳳凰をデザインしたものなんですね。平等院は、ユネスコの世界遺産にも登録されていますし、鳳凰堂は、もちろん国宝でもあります。まさに、日本を代表する歴史建造物なのだと思います。平等院を訪ねるのは、何年ぶりでしょうか。一度、一人でじっくりと見て回りたいと思い、先日、宇治へと行ってきました。歴史の年輪を感じさせる建物。ひとつひとつが、まさに平安時代と出会えるといった感じがしてきます。この鳳凰堂、中に入ることも出来るんです。鳳凰堂の内部。もちろん、写真撮影は禁止なのですが、本尊の阿弥陀如来とも出会い、空中を舞ういくつもの仏像・雲中供養菩薩にもお会いしてきました。そして、その壁面と天井には、九種類の菩薩来迎図が描かれています。落剝が進んでいるので、その片鱗くらいしかわからないですが、でも、この鳳凰堂の凄いところは、一度も火災や戦禍にあったことがなく、すべてが、平安時代そのままの形で残されているということです。パンフレットの写真から、その様子を少し、ご紹介しましょう。国宝・阿弥陀如来坐像と鳳凰堂の内部です。おだやかな表情ながらも、威厳に満ちた阿弥陀様。平安期仏像の最高峰とも言われている阿弥陀像です。この阿弥陀像を作ったのが、平安時代を代表する仏師といわれている、定朝という人。木を彫って仏像を作る場合には、どうしてもこれほど大きな仏像は作れないのですが、木をつなぎ合わせて、仏像を作ることができれば、大きな仏像を作ることも可能です。この手法が「寄木造」と呼ばれているものですが、この「寄木造」の手法を完成させた人が、定朝であったのだといわれています。その後の仏像彫刻に絶大な影響を残した定朝。この阿弥陀如来坐像は、定朝の作ということが確認できる唯一の作品なのだそうです。そして、壁面にいくつも並んでいるのが「雲中供養菩薩」。全52体からなる様々な菩薩像で、その一つ一つが、国宝に指定されているのだそうです。少し、クローズアップしてみましょう雲に乗った様々な菩薩たち。琴・琵琶・笛・笙・太鼓など楽器を奏でている菩薩。宝珠・幡などを持ち祈っている菩薩。舞っている菩薩、合掌している菩薩。それぞれが、思い思いの姿をみせていてその伸びやかなさまは、とても魅力的です。平等院内にある博物館(鳳翔館)では、そのいくつかが常時展示されていて、そこでは、「雲中供養菩薩」をごく間近で見ることができます。平等院が建立されたのは、平安後期にあたる永承7年(1052年)のこと。時の関白・藤原頼通が、父道長の別荘であった宇治殿を寺院に改め創建したものであります。当時は、優雅な王朝文化が花開いていた時代ではありましたが、しかし、その反面、天災や飢餓などの社会不安が広がり、仏法が廃れ末法の世が訪れると信じられていた時代でもありました。そうした、時代背景の中、広まってきていたのが浄土教信仰。平等院は、極楽浄土を強く願う人々の思いが込められたものであったのだということができます。鳳凰堂の前に池が広がるという配置になっているのも、経典に描かれていた極楽浄土の世界を模したもので、それを、ここに再現しようとして作られたものなのでありました。平安期、浄土教美術の頂点が集約されている、この鳳凰堂。深く刻まれた歴史がそこにあるといった感じが、ひしひしと伝わってきて、内面からも沸き上がってくるような、鳳凰堂にはそんな迫力がありました。この鳳凰堂、来月9月3日より、屋根の葺き替えや塗装など、1年半に及ぶ修理に入るとのこと。しばらくは、その姿が見れなくなるのですが、改装なった鳳凰堂がどんな姿を見せてくれるのか、ぜひ、楽しみにしたいものだと思っています。
2012年08月19日
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小学校の時にローマ字を習ったとは言うものの、中学校に入って英語を習い始めた頃には、ローマ字って意味があるのかなと、疑問に思っていたものでした。日本語をアルファベットに置き換えても、それで外国人に意味が通じるわけでなく、アルファベットに慣れるためというくらいのもの。その頃は、そんな風にも思っていました。ちょっと馬鹿にしていた感のあるローマ字ですが、それが、今では、日常生活の中、毎日のようにローマ字のお世話になっています。パソコンのローマ字入力ですね。実際、日本語で文章を書くより、ローマ字で入力することの方が圧倒的に多い。これも、時代の流れなんでしょうね。さて、今回、取り上げようとしているのが「ヘボン式」という呼び方で知られているローマ字の考案者・ヘボンのこと。彼がローマ字を考案するに至った、そのわけは、和英辞典の作成をしていく中で、必要性に迫られたためということがあるようですが、でも、考えてみれば、外国人が日本の言葉を外国の表記に置き換えようとする時、ローマ字というのは、とても重宝なものだったんだと思います。外国人が、日本語の単語や発音を覚える際に、その仲立をしたのがローマ字だったということで、その果たした役割というのも、実は、大きかったように思います。ところで、ヘボンのことについて。ヘボンという綴りは、Hepburn と書きますが、この発音が日本人には「ヘボン」に聞こえたということで、これを綴りの通りに読むと、「ヘップバーン」になります。かの名女優オードリ・ヘップバーンもこの同姓ですし、キャサリーン・ヘップバーンは、このヘボン博士の縁者にあたるのだそうです。ヘボンという人は、幕末~明治において日本で30年以上暮らしたという、抜群の日本通。世界で初めての和英辞典を作った人であり、又、医療や教育の面においても、日本に大きな功績を残した人でありました。明治学院やフェリス女学院などは、ヘボンがその創立の基となっています。それでは、以下、ヘボンの生涯について、振り返ってみたいと思います。***ヘボンの正式な名前は、James Curtis Hepburnといい、1815年、アメリカ・ペンシルバニア州のミルトンという町で生まれました。父は弁護士、母は牧師の娘ということで、両親ともプロテスタントのクリスチャンであり、また、彼も、その影響を受けて、大学で医学を学ぶ傍ら、聖書に親しみ、キリスト教を心から信じるようになっていきました。そうした中、やがて、クララという敬虔なクリスチャン女性と結婚をします。2人はアメリカで普通の信者として生きるよりも、海外でキリスト教を布教しようということを話し合い、家族や周囲が反対するのも押し切って、2人は布教のために中国へと向かいます。ところが、この中国行きが、正に試練の連続でした。初めて生まれた子どもを流産で亡くし、2人目の子どもも、生後間もなくして死亡。それに続いて、2人ともマラリヤに罹ってしまって、やむなく、中国の地を離れます。結局、5年におよぶ中国の布教活動は、成果を残せないまま、アメリカへと戻ってくることになりました。その後、アメリカで開業医を始めて、これが大成功、生活も安定してきます。そして、そうした中、この2人は、再び、今度は日本へ行って布教しようということを決意するのです。開業医として成功し、名声と富をも手に入れていたヘボンではありましたが、その二つを捨てて、また、蓄えや家財をなげうってまで、布教のために、日本へと向かったのでありました。さて、ヘボン夫妻が、日本に着いたのが1859年。日本の元号でいうと、安政5年のことで、まさに幕末の動乱の真っただ中という頃の日本でありました。すでに、中国を経験してきているヘボンではありましたが、それでも、日本という国はとても個性的な国に映ったようです。裸に近い恰好姿の駕篭かきや人足の姿、昼間から酒を飲んでいる酔っ払いの姿など・・・。これらに驚き、しかし、その反面、彼らが、とても知的な好奇心が強い人々であるとも感じていたのだといいます。日本へ到着したヘボンは神奈川の成仏寺というお寺に住むことになり、その近くの宗興寺という寺を借りて、早速、病気の患者の診察をはじめました。アメリカでは名医として有名だったヘボンのことです。外科手術や眼病治療等、めざましい治療の効果をあげ、しかも、その治療費はとらなかったのだといいます。貧しい人も役人も、ヘボンの診療を受けるため、遠くからやってくる人も多かったといいます。しかし、この診療所は、わずか5ヶ月で閉鎖されることになりました。それは、ヘボンがあまりに目立ち始めたため、攘夷思想をもった浪人に襲われるのではないかと、奉行所が心配して動いたためです。この頃の日本。外国人にとっては、外国人であるということだけで、襲われたり、殺されたりしかねないという、とても危険な国でありました。 ヘボンも、いつ自分が襲われるかもしれないと、さぞ不安な日々を送っていたことでしょう。そして、そうした中で起こった大事件が「生麦事件」でありました。薩摩に帰ろうとする島津久光の大名行列が、生麦村を通りかかった時、そこへ、馬に乗って遠乗りをしていた4人のイギリス人が行列の前を通り過ぎます。行列を乱したとして、イギリス人の一行は、薩摩藩士に斬りつけられました。1人は斬殺されて、2人は重症。この2人の重傷者が、領事館に運び込まれ、そこにヘボンが呼び出されます。この時、深い傷を負っていた2人のイギリス人を治療したのが、ヘボンだったのでありました。さて、ヘボンにとって、命の不安に加え、もう一つの大きな問題が言葉の問題でした。キリスト教を広めるために日本にやってきたヘボンではありましたが、聖書の言葉を伝えるためには、日本の言葉がわからなければ伝えられません。そこで、ヘボンは、まず、日本語の辞書を作ることが必要であると考えました。ヘボンは、日本に来る前の中国暮らしの経験から、漢字についてもそれなりの知識がありましたが、それでも、文章の構造からして中国語とは全く違う日本語には、当初、かなり戸惑ったようです。そうした中、ヘボンは、連日苦労を重ねながら、単語を収集・分類し、2万語を超える見出し語をまとめ上げます。そして、この時に、ヘボンが工夫して作りだしたというのが、後に「ヘボン式」と呼ばれることになるローマ字の体系なのでありました。ローマ字というもの自体は、すでに、16世紀にポルトガル人(イエズス会)によって使われていたといい、その後、鎖国日本の中においても、オランダ式ローマ字というものがありました。しかし、これらは、宣教師や学者の間で限定的に使われていたに過ぎず、また、日本の語句との対応という面でも不十分なものでありました。ヘボンは、これを、仮名とローマ字が一対一になるように工夫し、また、これを見れば、どのように発音すれば良いのかが、わかるように表記しました。彼は、見出し語に逐一ローマ字を併記するという形で、辞書をまとめていきます。こうして7年間の苦労の末できあがったのが、世界初の和英辞書である「和英語林集成」。そして、これにより、ヘボンのローマ字は、飛躍的な普及をみせることになったのでした。さて、辞書が出来上がると、次には聖書の翻訳にとりかかっていきます。ヘボンは宣教師の仲間達と一緒に、まず、新約聖書を翻訳することから始め、新約聖書の翻訳が終わると、続いて、旧約聖書の翻訳にとりかかります。しかし、聖書というのは、新約旧約をあわせると、膨大なボリュームがあるのものです。結局、この聖書の翻訳が完成したのは、それからずっと後の、明治20年のこと。ヘボンが成仏寺において、聖書の翻訳に取り掛かってから、何と20年の歳月がかかったことになります。それと、もう一つ、ヘボンが日本に功績を残したものとして、教育の分野が挙げられます。その端緒となったのが、「ヘボン塾」と呼ばれる、数名の塾生によって始められた英学塾。この私塾を立ち上げるきっかけを作った人が、後の大村益次郎である村田蔵六で、蔵六は、オランダ語はできたものの英語には疎かったため、英語を学ぶ先生としてヘボンを見出したというわけです。当時、幕府の委託学生であった蔵六は、数人の侍たちと共に、ヘボンの塾生になります。しかし、このヘボン塾も、攘夷運動の高まりの中、閉鎖せざるを得なくなりました。その後、少し時代が落ち着いてきてから、今度はヘボンの妻・クララが中心となり、この塾が再開されます。当初は、女子だけを対象にした塾ということで、主にクララが英語を教えていたようです。しかし、やがて、ここに、林薫(後の外務大臣)や高橋是清(後の総理大臣)など男子学生も多く入塾してきました。そうした中、やがて、塾も大所帯になってくるにつれ、女子部を独立させることとなります。この時、女子部を率いて独立していった塾が、後のフェリス女学院であり、また残った男子塾が、後の明治学院へと発展していくことになります。最初は、ヘボンが数名に英語を教えるというような小さな塾だったものが、やがては、時代を切り開く若者教育の機関として、大きな実を結ぶことになっていったのでした。その他にも、ヘボンは、日本初の新聞となった「海外新聞」の創設に参画したり、横浜に「指路教会」という大きな教会堂を建てるなど、様々な活動を続けていきます。そして、この頃には、ヘボンが本来望んでいた、日本でのキリスト教の普及についても、着実に進んでいて、日本にもキリスト教が根付き始めていました。しかし、やがて、そうした中、ヘボンは日本を離れることとなります。それは、年老いてから、ヘボンも妻のクララもリューマチに悩まされるようになっていたため。日本に骨を埋めるつもりで、お墓まで持っていたというヘボンではありましたが、日本の冬の寒さが体にこたえ、温暖なアメリカ・カリフォルニアに移ろうということになったのです。明治25年(1892年)ヘボンが日本に別れを告げる日がやってきます。度重なる送別会が開かれ、ヘボンに対しての感謝の言葉、別れを惜しむ言葉の数々が贈られる中、ヘボン夫妻はアメリカへと旅立っていきました。ヘボンは、この時、77才。結局、ヘボンの日本滞在は、33年の長きにわたっていました。それから19年が経過して・・・。ヘボンの訃報が、日本に伝えられたのは、明治44年(1911年)のことでありました。ヘボン、享年96才。この時、明治学院ではヘボンを偲び、多くの人が祈りを捧げたのだといいます。ローマ字という文化を日本に根付かせ、教育や文化活動において、多くの功績を残していったヘボン。目立たないながらも、日本の近代化を陰から支え続けた、そんな功労者の一人であったのではないかと思います。
2012年08月12日
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京都市と若狭湾との間を結ぶ若狭街道。若狭で獲れた魚を京に運ぶための道として発達し、特に、多く鯖が運ばれていたことから、古くからこの道は、「鯖街道」と呼ばれていました。大原の里をめぐったあとは、この鯖街道に沿って、さらに北へと向かい、「植髪の尊像」と呼ばれる、ちょっと変わった仏像を本尊とする「古知谷阿弥陀寺」というお寺に行ってきました。鯖街道。今では、車やトラックが行きかう国道となっていますが、それでも、この道に沿って、鴨川の上流である高野川のせせらぎが流れ、山間を縫うように続いているこの道は、今でも往時を偲ばせるものがあります。かつては、一昼夜をかけ、歩いて鯖を運んだといい、塩をまぶされた、この鯖が、京に着く頃には、ちょうど良い味になっていたといいます。海から離れた京の都にとって、この道は、貴重な海の幸の調達源になっていたんでしょうね。また、大原からも近い、この付近は、石折地区と呼ばれていて、かつては、火打石の産地として栄えていた地域だったのだそうです。さて、古知谷阿弥陀寺を目指して、この道を歩いていきますが、これが、なかなかの距離です。国道を通る路線バスも、あるにはありますが、一時間に一本程度と便が少なく、結局、大原から40分くらい歩いて、ようやく古知谷のバス停に着きました。中国の寺院を思わせるような山門。ここが、古知谷阿弥陀寺の入口です。しかし、実際のお寺は、まだ、この奥にあります。ここから山中に入り、山道を登っていかなければなりません。山中の参道を、ひたすら登っていきます。参道とは言っても、鬱蒼とした木々の中。しかし、雑踏から離れ、深山に入ってきたという感じがして、こうしたところを歩くのも楽しいものです。聞こえてくるのは、川のせせらぎと鳥のさえずりだけ。おそらく、このあたりは、昔そのままの状態で残っているのでしょうね。この一帯は、紅葉の名所としても知られているところということで、古知谷カエデと呼ばれる名木が数多く群生している場所なのだといいます。訪れた季節は新緑の時期ではありましたが、新緑の紅葉というのも、また、すがすがしさがありますね。山門から15分くらい登ったでしょうか。ようやく、古知谷阿弥陀寺の堂舎が見えてきました。崖に建つ、この建物は、茶室なのだそうです。瑞雲閣と名付けられているもので、訪ねてきた客を、ここでもてなしたのでしょうね。階段を上っていったところに受付、そして、その奥に本堂があります。この寺の創建は、慶長14年(1609年)といいますから、江戸時代初期の頃。弾誓(たんぜい)上人という人が開いた、念仏寺院であります。弾誓上人という人は、尾張の出身で、美濃・佐渡・信濃など諸国を行脚して修行を重ね、最後の修業の場として、この地にやって来たのだといいます。弾誓は、古知谷に入るや、岩穴を住みかとして、念仏三昧の日々を送りました。そうした中で、弾誓は、霊木を刻み、自らが求め続けた理想の人間像を仏像として作り上げます。そこへ、さらに自分の頭髪を植え込み、この像に、自己を投影させたのだと云われています。これが、「植髪の尊像」と呼ばれている仏像です。その後、弾誓は、この阿弥陀寺を建立。この時に、この「植髪の尊像」を本尊として祀りました。さらに、もうひとつ、この弾誓上人という人は、木食の修行を続け、ミイラになったということでも知られています。木食とは、肉や穀物を一切食べず、木の実や草だけを食べて過ごすという修行のこと。弾誓上人は、木食を続けた後、即身仏となることを目指したといい、弾誓の最期というのは、生きながらにして石棺に入り、自らミイラ仏になったのだとされています。山上にあるということもあるためか、なかなか趣きのある良いお寺です。ここの本堂も、少し昔の部屋という雰囲気で、どこか懐かしさすら感じます。この本堂に祀られているのが、この寺の本尊「植髪の尊像」です。弾誓上人、自刻の仏像。自らの頭髪を植え込んでいるということですが、今では、それも、わずか耳のあたりに残っているだけなのだといいます。この寺は、浄土宗に属している寺院ではあるのですが、この一風変わった仏像を本尊にしているということから、浄土宗の中でも「一流本山」という別流を称しているのだそうです。弾誓上人のミイラ仏が祀られているという「石廟」です。木食修行から、即身仏(ミイラ)になるとは、想像をはるかに絶するような、過酷な荒行であったろうと思われます。死後においても、救済を念じ、永遠の命を得るための修行だったということのようですが、それにしても、常人には計り難いものがあります。今でも、念仏を唱えて、救済を念じてくれているのでしょうか。この石棺の中に納められている弾誓上人は、今も端座合掌の姿のままなのだそうです。ここは、静かに思いをめぐらすのには、本当にいいお寺なのだと思いますね。人里から遠く離れた、山深くのお寺。しかし、それでも、この日は連休中ということもあってか、来るだけでも、かなり不便なところであるにも関わらず、私の他にも、いく組かの人がここを訪ねてきておられました。意外と、ここは、知る人ぞ知るという感じの、隠れスポットなのかもしれません。大原の里から、ちょっと足を延ばして、、この古知谷阿弥陀寺というお寺は、独特の雰囲気を持ちながらも、素敵な佇まいにあふれている、そんなお寺でありました。
2012年07月29日
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